4章
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静かな夕暮れ、アランは浴室の前で入浴の準備をしていた。
長い眠りと拷問の痕跡がまだ身体に残る中で、なるべく自分の力で日常の些細なことをこなしたいという強い意志があった。
その時、レギュラスが穏やかな声で介助を申し出た。
「アラン、僕が手伝いましょうか?」
アランは振り向き、少しだけ戸惑いながらも答えた。
「大丈夫よ、自分でできるもの」
身体を人に触れられることへの恥ずかしさが、言葉に込められていた。
使用人がいつも一緒に入って手伝ってくれていたこともあり、
それで十分だと思っていたのだ。
けれども、今日は運悪くレギュラスがそのタイミングで側にいた――それが悔やまれた。
レギュラスは柔らかい微笑みを浮かべながら言った。
「では、一緒に入りましょう。ついでですから」
その言葉に、アランの内心は一瞬で波立った。
とんでもなく恥ずかしい提案に、彼女の顔は火照り、言葉を失った。
「まって、レギュラス……!」
慌てて制止しようとしたが、口をつぐんでしまい、有効な術すら思い浮かばない。
その場の空気は瞬く間に濃密に変わり、互いの距離が近づくことに戸惑いと緊張が交錯した。
レギュラスの目は真剣でありながらも、どこか柔らかく暖かく、
彼女を守りたいという強い意志が見て取れた。
その紳士的な申し出は、アランのプライドと羞恥心を揺さぶったが、同時に深い愛情を感じさせた。
アランは必死で言葉を探しながら、ふたりの間に流れる沈黙を抱きしめた。
戸惑いの中に秘めたる信頼が少しずつ芽生えていく瞬間だった。
浴室の扉越しに、二人だけの柔らかな時間が静かに流れていった。
アランは細い肩を震わせながら、浴室の隅で小さく息をついた。
淡いランプの光が蒸気に溶けて揺れ動く中、彼女は震える声で囁く。
「レギュラス、お願いです……こっちを向かないで……」
その声は耳を塞ぎたくなるほど脆く、消え入りそうだった。
長い眠りの後、ほとんど食事も摂れずに過ごした日々で、身体は貧弱に痩せこけていた。
その痩身を、彼の前に晒すのが何よりも恥ずかしかったのだ。
レギュラスは静かに頷き、少しだけ離れた場所から優しく言った。
「ええ。大丈夫になったら、教えてください」
彼の声には無邪気な安心が含まれていて、アランの困惑と羞恥心はますます深まる。
それでも、その平然とした態度が、彼だけの優しさなのだと感じた。
アランはゆっくりと脱衣し、準備を整えて湯船へと体を沈める。
熱い湯がじんわりと身体を包み込み、凝り固まった筋肉と言いようのない不安を溶かしていく。
「もう、大丈夫です……」
かすかに震える声に、レギュラスはすぐに振り向いた。
湯気の中でも、彼の頬はほんのり赤く染まっていた。
長く湯船に浸かっていたせいか、あるいはただ、彼女の声が嬉しかったのか──。
二人の間に、言葉では語れない雰囲気が静かに漂う。
蒸気の中、わずかに交わった視線は一瞬のやわらかな光を宿し、
恥ずかしさと安心、そして確かな信頼が静かに溶け合っていった。
思えば、二人が夫婦となり、その年月を重ねてきた中で、
一緒に湯船に浸かった記憶はほとんどなかった。
これまで抱えてきた距離と、それぞれの孤独が、静かな壁のように二人の間に横たわっていたのだ。
だが今、目の前で困惑と羞恥に沈むアランの姿が、どうしようもなく弱く、儚く、そして愛おしく胸に迫った。
蒸気の中、レギュラスは静かに距離を詰めながらも、慎重に尋ねた。
「近づいてもいいですか?」
その声には優しさと遠慮が混ざっていて、アランが湯船の中でわざと距離を保っていることを彼は理解していた。
彼女の心にはたくさんの感情が渦巻いているだろう。恐怖や恥じらい、そして少しの戸惑い。
それでも、どうしても触れられる距離にいたかった。
だから、勝手に近づく前に、必ず声を掛けた。
「ええ……」
アランはためらいがちに小さく答えた。
その声は震え、心の葛藤が伝わってくる。
レギュラスはそっと彼女の方に体を寄せ、柔らかく肩を抱きしめた。
細くなり、か弱くなってしまったその肩を包み込む腕に力を込めて、
彼女の首筋へと唇を優しく這わせる。
肌に触れるその熱は、冷え切った身体だけではなく、凍りついた心をも溶かすように感じられた。
アランの目がゆっくりと閉じられ、彼女の身体が少しずつレギュラスの胸に預けられていく。
湯気の中、二人の距離は消え、過去の苦しみも哀しみも、しばし忘れられるようだった。
ただ、静かな温もりと、繋がる鼓動だけがそこにあった。
長く隔たっていたものが、ようやく少しずつ解けていく。
それは言葉にできない繊細な奇跡の瞬間であり、
二人の心をそっと包み込む、柔らかな愛の証だった。
夜の静寂に包まれたバルコニーで、レギュラスはアランの肩にそっと羽織るように薄い上着をかけた。
冷え込み始めた夜風に震える彼女を温めるその優しい仕草には、揺るぎない愛情が宿っていた。
レギュラスはひとりウイスキーのグラスを手にしていたが、アランは控えめにハーブティーをすすっていた。
それぞれの方法で、この二人は夜の時間を抱きしめていた。
レギュラスが穏やかな声で問いかける。
「覚えてますか?あなたがここでワインを飲んでいた日のことを」
あの日、酔いに身を任せたアランと共に、このバルコニーで愛を交わした。
狂おしいほど深く、忘れられない一夜だった。
だが、アランは顔に手を当て、微かに顔を背けながら呟いた。
「やめて……思い出したくないわ」
彼女のその仕草さえも、レギュラスにはたまらなく愛おしく映った。
ふと、あの朝のことを思い出し、アランは微笑みを浮かべた。
体中の痛みに耐えながらも、幸せな疲労感に包まれたこと。
その記憶に思わず笑いが漏れる。
レギュラスもそれに微笑みながら、そっとアランの手に触れた。
「もう少し、あなたの体調が回復したら……また、したいです」
彼の告白は、まるで心の奥底から湧き上がった生理的な欲求のようで、
その恥ずかしさに、レギュラス自身も耳を覆いたくなる思いがした。
だがその一言には純粋な愛情と、未来への希望が込められていた。
アランは静かに頷き、言葉でなくその意思を伝えた。
今はそれだけで十分だった。
そしてレギュラスはそっと唇を重ねる。
ウイスキーの芳醇な味が、もしかしたら彼女にもほんの少し伝わったかもしれない。
夜の闇が二人を包み込み、柔らかな時がゆっくりと流れていく。
思い出の場所で交わされる、この繊細な愛の瞬間は、
二人の絆をさらに深く刻み続けていた。
夜の静寂のなか、アランは静かに己の両手を見つめていた。
蝋燭の淡い灯りが指先に影を落とし、胸に去来する思いが波のように押し寄せる。
――もう、自分は全てを余すことなくレギュラスに捧げたい。
あの日、闇の帝王に跪き、ベラトリックスの容赦なき呪文に貫かれて、自分は確かに死ぬべき運命だった。
冷たい床に横たわり、意識が薄れていく中で、もう二度と目覚めないのだと理解した。
それなのに、いまこうして生きている。
レギュラスが何かとてつもない代償を払い、その命を繋ぎ止めてくれたのだとしか思えなかった。
自分の救われたこの命は、もはやレギュラス・ブラックの命そのもの――
その気持ちに疑いはなかった。
あらゆるもの、すべてを、彼に差し出したいと心から願う。
彼が求めるなら、それに自分は応えたい。
アラン・セシールとして、シリウスに注いだ燃えるような愛の記憶も、
命懸けで託したアリス・ブラックの秘密も、
もう二度とレギュラス以外に隠しごとをしてはいけない。
もう何も――彼らのことでレギュラスに願うことはない。
なぜなら、あの日、アラン・セシールは確かに死んだのだから。
涙があとからあとから溢れ出る。止めようのない慟哭。
本当に、本当に、シリウス・ブラック――あの人は自分の人生そのものだった。
愛していた。たまらなく。狂おしいほど。
彼がくれた日々があったから、愛というものに触れられた。
生きる理由さえ彼が教えてくれたのだ。
だけど、シリウス・ブラックに恋焦がれて、愛を知ったアラン・セシールの命は、あの暗い夜にとうに終わったのだ。
唯一救われて、この世に留められた命を持つのは、
もはやアラン・ブラックとして――
レギュラスの隣で、残りの人生すべてを燃やし尽くすまで、彼を愛し、彼に尽くしたい。
震える唇で涙をぬぐいながら、アランは心の底から思った。
自分の願いはもう一つだけ。
この命の限りレギュラスを愛しぬいて、最後にそっと彼に微笑み返したい。
それだけが、いつか訪れる終わりのときまで、彼女のたった一つの祈りだった。
ホグワーツの静かな午後、シリウスは窓辺で生徒たちを見つめていた。
アルタイルやセレナに課外授業を教えながら、その母―― アランと過ごした、忘れがたい夜の記憶が不意に胸をよぎる。
自分がこんなふうに、教師として責任ある立場でいながら、あの甘やかな感触を思い出してしまうなんて。
それがどれほど良くないことか、シリウスは痛いほど分かっていた。
授業が終わり、アルタイルがぽつりと呟いた。
「僕の縁談が、決まったんです」
まだ若く、頼りない背中のその少年が、少し遠くを見つめながら言う。
どこか影を宿したその声に、シリウスの心臓は微かに鳴った。
「そうか……可愛い子だったか?」
問いながら、彼自身も幼い日々の後悔や不安を思い返していた。
アルタイルは小さく首を振る。
「綺麗な子でした。でも、セレナや母と違って、無口で……冷たい目をした令嬢です」
その言葉には、期待よりも戸惑いの色が濃く滲んでいた。
シリウスは静かに、彼の横顔を見つめた。
アルタイルの瞳は不安に揺れている。
慣れぬ運命の重み、押しつぶされそうな未来の不確かさ――
教師としての自分は、何と声をかければいいのか分からない。
けれど、彼の繊細な心根に、そっと寄り添いたかった。
秋のやさしい光が教室を満たし、
互いの胸の奥に、それぞれの痛みが静かに広がっていくのだった。
シリウスは深いため息をつき、冷えた窓ガラスの向こうに広がる夜空をじっと見つめた。
かつて、自分が愛したアランを、自らの信じる世界に引きずり込むだけの強さもなく、
家のしがらみや伝統という重い鎖の中に置き去りにしてしまった。
その後悔の影は、今、成長し大人へと歩み出そうとするアルタイルのことでも胸を締めつけた。
同じ過ちを繰り返し、彼をどこへも連れ出してやれず、外の世界を知らしめることもできない。
自分の不甲斐なさに、ただただ胸が苦しかった。
アルタイルと婚姻が決まった少女のことを思う。
彼女がまだ冷たく閉じた瞳の奥に、一筋の光を秘めていることを願った。
二人の間に真実の愛情が芽生え、温かな絆が結ばれるように、遠くから祈る事しかできなかった。
シリウスは自分の無力さを痛感しながらも、心の奥底ではひそかな希望を抱いていた。
「どうか、二人が幸せになれますように……」
その願いは静かな夜の闇に溶けて、星屑のように煌めいていた。
彼の胸に抱えた痛みと共に、新たな未来へのわずかな光が、
じっと、しかし確かに灯っているようだった。
薄曇りの朝、任務の合間にバーテミウスが静かに声をかけてきた。
「君、一体帝王とどんな取引をしたんだい?」
その問いは意識して逸らしたかった記憶に鋭く触れる。
バーテミウスだけでなく、多くのデスイーターたちも、なぜレギュラス・ブラックだけが妻を救い出すことができたのか、不思議でたまらないのだ。
「さぞ大きな取引をしたに違いない」
そんな噂が、屋敷の闇を漂い、さながら粘つく霧のようにまつわりついている。
「知らなくていいです。」
レギュラスは静かに、しかし確固たる調子で答えた。
自分が何を差し出したのか、決して語れるはずはなかった。
分霊箱――闇の帝王が求め続けた不死の禁呪。
その裂き方、魂の真の引き裂き方を自らの口で教えてしまったことを。
大人よりも、幼い子供の命こそが魂の傷を深くするなどと、決して明かせやしない。
純血であるかマグルであるかなどという次元を遥かに超え、
人として犯してはならない領域だ、とレギュラス自身が一番よく分かっていた。
だからこの秘密は、墓場まで持っていくしかない。
何者にも明かさず、己の胸の奥で静かに凍らせておくしかなかった。
バーテミウスは眉をひそめ、それ以上は何も問わなかった。
足取りも反響も灰色の朝霧に飲み込まれ、レギュラスの心にはなお重い影が沈み続けていた。
罪の重さと沈黙を背負い、彼は静かに歩みを進めるだけだった。
闇の帝王の屋敷に足を踏み入れるたび、レギュラスの胸は裂けるような痛みに襲われていた。
重厚な扉がひっそりと閉じる音、ひんやりとした廊下の空気――
その全てが、記憶の奥深くに刻まれた恐怖を鮮明に呼び覚ます。
この床の上に、かつてアランは倒れていた。
ベラトリックスが容赦なく呪文を放ち、彼女の苦しむ叫びが石壁に反響したあの夜。
アランの長い髪が床に広がり、やがて動かなくなったとき――
自分は永遠に彼女を失うかもしれない、その絶望が全身を貫いた。
その時の冷たさや恐怖は今も骨の髄まで染みついていて、
何度来ても拭い去ることができない。
ヴォルデモートの前でレギュラスは簡潔に報告した。
「問題を起こしたマグルの魔法使いは、速やかに処分いたしました。」
「ご苦労だった、レギュラス」
闇の帝王の声は相変わらず底冷えするような低さで、部屋の重苦しさを一層際立たせた。
帰り際、廊下ですれ違ったベラトリックスは、
獲物を見定めるような視線でレギュラスを一瞥した。
その目の奥には、かつてアランを痛めつけたときの昂揚がいまだ燻っているようにさえ思えた。
何も言わず、ただ互いの影だけが冷たい石の床に伸びていく。
レギュラスは静かに顔を背け、足早に屋敷を離れた。
この場所がもたらす闇と痛みを振り切るように――
愛する人を守るために自分が背負ったすべての罪を、
静かに胸に秘めていた。
重厚な扉を押し開けると、アランがベッドで起き上がって待っていた。
その気配を感じた瞬間、レギュラスの全身から張り詰めていた緊張がすっと解け、まるで疲れなど一切なかったかのように心地よい緩みが広がった。
「寝ていても構わなかったんですよ」
レギュラスは微笑みながら、羽織っていたローブを脱いでアランに手渡す。
アランはそれをそっと受け取り、二人は静かに寝室へと戻った。
部屋に入ると、レギュラスはネクタイを緩める仕草を見せた。
その動作は普段よりも幾分だけ慎重で、しかしどこか無防備に見えた。
「どうしました?」
何気ない問いに、アランは首を振る。
「いえ、何も……」
だが、その表情には不安が宿っていた。
胸の奥がざわつくような視線を受け、レギュラスはゆっくりと動きを止め、ベッドの横に歩み寄る。
「何か、あるのでしょう?」
アランは深呼吸をひとつしてから、静かに口を開いた。
「今日、魔法省の役人がいらっしゃいました。
マグルの孤児院が襲撃され、全ての子供たちが――息絶えた事件があったと。
情報提供を要請されました」
その言葉が、室内の空気を一瞬で凍りつかせた。
アランの瞳には、レギュラスがこの惨事にどこまで関わっているのかを探るような鋭い光が浮かんでいる。
レギュラスは重い胸の内を悟られまいと、静かに視線を落とし、低く答えた。
「心配はいりません。きちんと対処しておきます」
その声には確固たる決意があった。
けれどアランが抱える不安は簡単には払拭されないことを、レギュラス自身も感じていた。
窓外の月明かりが二人を優しく照らす中、互いの運命が再び静かに交差していった。
昼下がりの応接間で、魔法省の役人たちは淡々と、けれどどこか鋭利な視線でアランを見つめていた。
彼らは、マグルの子供たちが殺されたあの痛ましい孤児院の事件について、レギュラス・ブラックが事件に関与しているとほとんど断言するような口ぶりだった。
「何か証拠があるのでしょうか」とアランが恐る恐る尋ねると、
役人の一人が静かに頷いた。
「近辺に“後消し”の呪文痕が残っていました。通常の痕跡とは異なり、慎重に隠蔽作業がなされていた。しかし、その魔力の残滓から持ち主を特定できました。……レギュラス・ブラックの杖です」
呪文は遠方から微かに放たれていたため軌道を辿るのは難しいが、魔法省の最新の捜査魔法によって、発信源としてレギュラスの魔力が確かに検知できたのだと役人は説明した。
アランの心臓は、危うい鼓動を打っていた。
まさか、レギュラスが。
どれほどマグルに複雑な感情を持っていたとしても、
あの穏やかな人が、何の罪もない魔法界とも関係のないマグルの子供たちに手をかけるなんて。
信じられない、信じたくない――
それでも証拠は無慈悲な現実として突きつけられる。
アランはただ黙って、冷え切った手を膝に置くだけだった。
静寂が部屋を満たし、不安と疑念だけが淡く滲む光の中に残されていた。
静かな屋敷の一室で、アランは震える声で意を決して告げた。
「魔法省の役人が、来ていました」
その言葉が空気を震わせると同時に、レギュラスの顔に微かな動揺が走った。
普段は冷静で冷徹な彼の目に、一瞬の迷いと苦悩が浮かんだのを、アランは見逃さなかった。
その動揺は、言葉にならないほど雄弁にすべてを物語っていた。
胸を締めつけられるような悲しみと、計り知れない苦しみが彼の内側に渦巻いているようだった。
「レギュラス、話してくれませんか?」
アランは静かに訊ねる。
彼の心にある暗い影を、共有しようとしたのだ。
しかし、レギュラスは穏やかな声で答えた。
「気にしなくて大丈夫です」
その言葉には確かな決意とともに、どこか拒絶の響きも混ざっていた。
互いの想いはすれ違い、言葉は平行線をたどるばかりだった。
口に出せない秘密と罪の重さが二人の距離を隔て、心を締め付けていた。
その沈黙のなか、静かに時間だけが過ぎていった。
相容れぬ想いを抱えながらも、互いを思う気持ちは確かにそこにあった。
それが、何よりも切なく、そして繊細な絆だった。
事件の真相を追い続けていたのは、魔法省だけではなかった。
ジェームズとシリウスもまた、騎士団の一員としてこの痛ましいマグル孤児院襲撃の捜査に全力を注いでいた。
現場に残されたのは、意図的に痕跡を消そうとした“後消し”の呪文――
その魔力の残滓を細かく紐解けば、レギュラス・ブラックの杖から放たれたものであったことが明らかとなった。
すぐさま「レギュラス・ブラックを公式に召喚すべきではないか」という声が上がった。
だが、ブラック家の名は魔法界でも重く、
その権勢から――少なくとも、決定的な証拠が出揃うまでは、魔法法廷への強制的な召喚までは踏み込めない。
そうした現実が、捜査の進展に影を落とす。
けれど今度こそ、レギュラス・ブラックをあの座から引きずり下ろせる。
積年の苛立ちや疑念を抱えてきた騎士団の面々は、
そのわずかな手がかりに躍起になっていた。
誰もが薄氷の上で慎重に、しかし執拗に歩みを進める。
真実が明るみに出る日を、息を潜めて待ち続けていた。
薄曇りの午後、ブラック家の重厚な門前に次々と人影が訪れ始めた。
魔法省の役人や騎士団のメンバーが、こぞってレギュラス・ブラックの当時の動向を探ろうと足を運んでいる。
その度に、屋敷の廊下はさざめくような気配に満ち、アランの胸は不安で張り裂けんばかりだった。
――もし、レギュラスが魔法界の外でマグルの孤児院襲撃に関わっていたとしたら。
その記憶が、あの日自分の命を繋ぎ止めるために彼が払った犠牲と重なって、
震える胸に深い痛みを刻みつける。
それがもし事実であれば、彼の罪は、むしろ自分の罪なのだとアランは悟っていた。
愛する人が一つの命を代償に、自分を抱きしめてくれたのだとしたら――
それを責めることなど、自分にはできなかった。
その日、ブラック家を訪れたのはジェームズとシリウスだった。
久しく途絶えていた旧友の訪問。
けれど玄関先に立つふたりの顔は、かつての明るさをわずかも残してはいなかった。
アランは静かに応接間に案内し、お茶の準備をしながらも手が震えるのを止められなかった。
重たい空気をまとって応接間の扉が開かれた。
レギュラスは毅然と真っ直ぐに立ち、出迎えるその佇まいには一分の隙もなかった。
「よくもまぁ、出ていった家にのこのこと戻って来れましたね。感心しますよ」
わざと軽く投げられた皮肉。
けれど、その余裕の裏に、痛みと誇り、試される覚悟の色がにじんでいた。
シリウスはすぐさま歩み寄り、怒りを隠さずに声を上げた。
「テメェを尋問しに来たんだよ!」
その眼差しは鋼のように鋭く、決して迷いがなかった。
「落ち着いてくれ、シリウス」
すぐ隣でジェームズが静かに嗜める。
だが、アランはシリウスの顔をどうしても見ることができなかった。
かつて誰よりも愛した人。
すべての記憶を胸の奥底に沈めることを選んだその人が、
今こうして確固たる信念と正義を宿して、レギュラスの罪を暴こうとしている――
その姿が、アランには恐ろしくて仕方なかった。
シリウスはいつだって真っ直ぐだった。幼い頃から変わらぬその目。
その無垢な正しさと激情が、今は何よりも怖い。
きっと彼の正義は、このままずっと直進して、何もかもを貫いてしまう。
それが、レギュラスの心を、家族の形すらも壊してしまうのではないかと胸が締め付けられた。
長い沈黙が三人の間に落とされ、その間もシリウスの瞳は決して逸らされることがなかった。
正義の名の下に掲げられる彼の剣先が、
今にもレギュラスに届きそうで――
アランの両手は膝の上でこわばって震えていた。
応接間に張り詰めた気配の中、ジェームズが静かに問いかけた。
「君は、一体何を隠そうとしたんだい?」
その問いは責める口調ではなく、ただ純粋に知りたいという響きを帯びていた。
その優しい問い掛けが、アランの胸を深く刺した。
レギュラスは背筋を伸ばし、微動だにせず毅然とした声で答える。
「隠すものなんて、何もありませんよ。暴いてからいらしていただけますか?」
彼の言葉には、自信と覚悟が宿っていた。
そしてレギュラスは続けた。
「後消し呪文が私の杖から放たれたのは事実です。しかし、それは近隣で発生したマグルの魔法使いの事件に対して、魔法界とマグル界の狭間で起きた混乱を収めるために、強力な後消し呪文をかけた結果に過ぎません。それが偶然、孤児院にまで及んでしまっただけのことです」
その説明は論理的で冷静だったが、同時にどこか悲しげな響きを含んでいた。
ジェームズは黙って頷き、シリウスもまた複雑な表情で視線を落とす。
アランは、レギュラスの言葉を胸に刻みながらも、まだ消えない不安の影を感じていた。
応接間の緊張が少し和らいだのを感じると、ジェームズが明るく口を開いた。
「じゃあ、帰ろうか」
その言葉に、シリウスはすぐさま抗議の声を上げる。
「な、ジェームズ!」
しかしジェームズは冷静に微笑みを浮かべ、優しいけれど確固たる口調で言った。
「レギュラスの言う通りだ。次に来る時はしっかりと確実な証拠を掴んでからにしよう」
その言葉は室内の空気を一変させた。
シリウスの感情的な追及よりも、静かで淡々としたジェームズの態度のほうが、
アランの心には遥かに重く、恐ろしく響いた。
まるで、彼らは必ず確かな証拠を掴むつもりでいるのだと宣言されたかのように感じた。
ジェームズはふと微笑み、昔のことを思い出すように口を開いた。
「久しぶりに君に会えてよかったよ、セシール嬢。昔はそう呼んでいたから、その癖がなかなか抜けないけど。今でも君はスリザリンの姫だね」
その言葉はまるで気軽な挨拶のようだったが、アランには遠い昔の記憶と、張り詰めた緊張の狭間で浮遊するように感じられた。
彼女は微笑み返すことができなかった。
その微笑みが、どこか遠く翳っていることを自分でも感じていたから。
静けさが応接間に戻り、
アランの胸には複雑な感情と恐れが静かに渦巻いていた。
アランは、扉の向こうへと去ろうとするシリウスに駆け寄った。
ジェームズもすぐ隣を歩いている。冷えた石畳の廊下に、三人の足音が微かに響く。
「アラン、待ってろ! 今度こそ、俺が絶対に救い出すから!」
シリウスの声は揺るがず、しかし胸の奥には熱い焦燥が灯っていた。
アランは肩を震わせながら、かすれた声で呼び止める。
「シリウス、お願い……」
シリウスは真っ直ぐに彼女の瞳を見つめる。
ジェームズも足を止め、静かに見守っていた。
アランは息を詰め、言葉を選ぶように続けた。
「彼が、どこまで関与しているのか、私は本当に知らない……。
だけどお願い、もし――もし、本当にあの人がこの事件を起こしたのだとしたら、その時は、どうか、この罪を、私に着せて欲しいの」
そのあまりにも切実な願いに、シリウスは息を飲んだ。
ジェームズの眉がぴくりと動き、二人は言葉を失う。
冷気が三人を包む中、アランの小さな声が、凍りついた時間を溶かすように震えた。
「どうか……私を信じて……」
シリウスの手が、無言のままそっとアランの肩に重なる。
その重みが、言葉以上に深い約束を告げていた。
アランの言葉は、まるで静かな衝撃のようにシリウスの胸に響いた。
彼の心は疑念と戸惑いで揺れ動く。
間違いなく、あの言葉はレギュラスを庇い、守ろうとする彼女自身の真実の声だった。
誰かに強制されたわけでもなく、アラン本人が選び、口にした言葉――
それが、胸に深く刺さった。
なぜ、あんな男のために――
その疑問は尽きず、霧のように彼の思考を覆う。
長くあの家にいるうちに、かつて輝いていたアランの中の光が、少しずつ消え失せ、
いつのまにか闇に染まってしまったのではないか。
そんな恐ろしい考えが心の奥底から顔をもたげた。
ジェームズは沈黙のまま、シリウスの葛藤を静かに見つめていた。
彼の胸中には、別の疑念がいつも根を張っている。
「もしかすると、本当はアランの方こそ、何かを隠しているのではないか――」
そんな気持ちが日に日に強くなっていた。
レギュラスを調べる前に、まずアランの心と秘密に向き合わねばならないのではないか。
そう思うのに、親友シリウスには口にできなかった。
なぜなら――彼はずっと隣で、アランへの深い愛情と献身を見続けていたから。
その愛はまるで、自分の人生の一部のように、彼の存在すべてを包み込んでいた。
その大切な想いを傷つけたくない。
彼の信じる者を否定するような言葉は、言ってはならないと思い、ジェームズは心の中で慎重に言葉を選んだ。
沈黙が静かに広がるなか、二人の目には言えぬ憂いが宿り、
それぞれの胸に抱えた真実と願いが交錯していた。
それはまだ、言葉にならないままの、
繊細で深い人間の感情の交差点だった。
応接間の静寂の中、レギュラスはまだ椅子に深く座ったまま、アランの方を振り返ることもなく、冷静な声で問いかけた。
「何を話したんです、シリウスと?」
アランはその言葉にふと息を飲み、胸の奥で言葉を選び始めた。
どうすれば、レギュラスの誇りを傷つけずに伝えられるのか。
どうすれば、誤解されずに、真実を届けられるのか。
慎重に、ひとつひとつ言葉を積み重ねるように自分の心と相談した。
しかし、そんな彼女の葛藤を察したのか、レギュラスは穏やかに重ねる。
「いいですよ、言わなくて」
その響きにはわずかな寂しさと、あきらめが混じっていた。
アランはゆっくりと肩を落とし、震える声で切り出した。
「違うのよ、レギュラス」
彼の心がどこかで誤解しようとしていることを、彼女は感じ取っていた。
だから、決してそんな風に思わないでほしいと願った。
アランのその言葉は静かに、しかし強く響いた。
胸の奥で渦巻く複雑な感情を、ただひたすら誠実に伝えようとする意志の表れだった。
沈黙が二人のあいだに降り積もる。
その空間は柔らかくも鋭く、まるで繊細な糸で結ばれたように張り詰めていた。
アランはゆっくりとレギュラスの顔を見つめ、真実の深さを共有する覚悟を秘めていた。
言葉に詰まることも恐れず、ただただ伝えたい想いが胸に満ちていく。
その時、二人の間に漂うのは、
言葉を超えた静かな理解と、まだ見ぬ未来への微かな光だった。
夜の静けさが深まる中、レギュラスの胸は抑えきれぬ苛立ちで揺れていた。
昼間に見たシリウスとジェームズの顔、その言葉のひとつひとつがレギュラスの心に鋭い棘となって突き刺さる。
アランがふとした瞬間にシリウスに視線を向けているような気がして、
胸の奥から嫉妬が何度も顔をのぞかせ、じっとしていられなかった。
だが、その動揺を一瞬たりとも相手に悟られてはならないと必死に振る舞った。
その醜い自分、こんなに取り繕う自分が、情けなくもあり、悔しくもあった。
レギュラスは己の弱さに苛立ちながらも、それを隠し通そうと必死だった。
そして、シリウスとジェームズを見送ると言って追いかけたアランが何を語ったのか、
結局その詳細を掴めぬまま、もやもやとした不安と疑念だけがこの胸に鬱積した。
募る怒りの矛先を見つけられず、心はもがき苦しんだ。
どうしようもなく、嵐のような感情を抱えてアランに向き直る。
その夜、レギュラスはその苛立ちを張り裂けんばかりの愛情に変え、
必死にアランの体を求めた。
体温が触れ合う瞬間、胸に渦巻く不安も嫉妬も、一瞬だけ溶けて消えた。
二人の息遣いが重なり合い、部屋に静かな波紋を広げる。
繊細で刹那的なその時間の中で、
レギュラスは自分自身と葛藤しながらも、ただひたすらに彼女を愛した。
夜の闇が深まり、部屋は二人の吐息と柔らかな月光に包まれていた。
身体は激しい快楽に身を震わせながらも、レギュラスの胸の奥には止めどなく不安が湧き上がってくる。
――求められるから応じているだけで、本当は心の中にシリウスがいるのではないか。
――抱かれながらも、シリウスを思い浮かべているのではないか。
その忌まわしい疑念は、痛みとなって心の奥深くを締めつけた。
どれほど時が経とうとも、あの男の存在はまるで見えない鎖のように彼を縛り、苦しめ続けている。
ひとしきり身体を重ねた後、レギュラスは熱を帯びたままの視線でアランを見つめた。
だが心の隙間には、まだ深い痛みの影が残っている。
その時、アランは震える声で囁いた。
「レギュラス……愛してるから……」
その言葉は、張り裂けそうなほどに切なく、しかし救いの光のように彼の胸に届いた。
快楽に溺れる身体の奥底で、痛みと不安が一瞬だけ凪ぎ、静かな安堵が広がる。
レギュラスはそっとアランの頬に触れ、そっと額を寄せた。
二人の鼓動がゆっくりと重なり合い、夜の静寂の中で確かな温もりを共有する。
その瞬間だけは、過去の影も未来の不安も、すべて遠くへと消えていった。
屋敷の窓辺に落ちる夕暮れの光が、部屋の空気をほのかに琥珀色に染めていた。
アランは薄く唇を噛みながら、背筋を伸ばしたレギュラスの後ろ姿を見つめていた。
最近、彼が任務に出る頻度は明らかに増えている。
それが魔法省や騎士団からの圧力をかわすためであり、ブラック家に向けられた懐疑の目をそらすための動きであることに、アランは気づいていた。
堂々と受け止めているように見える彼の背中。
疲れも焦燥も一切見せず、ただ静かに戦い続けているその姿が、痛々しいほどに輝いて見えた。
ふと、アランが声を震わせながら囁く。
「レギュラス……無理をしないでほしいわ」
彼は振り向く。
いつものように穏やかで、隙のない微笑みを浮かべながら。
「大丈夫です」
一拍おいて、彼の手がそっとアランの頬に触れた。
その手のひらは少し冷たく、けれど確かな温もりを湛えていた。
アランは、その手に自分の手を重ねる。
自然と重なる掌と掌。
けれど、その優しさの奥にあるものは、どうしても読めなかった。
この人は、いったい何を――
何を、ひた隠しにしようとしているのだろう。
問い詰めることもできず、ただじっと、灰色の瞳を見つめる。
淡く光を反射するその瞳は、琥珀色の光を溶かしながらも、心の奥を決して映し出してくれなかった。
もしも、この瞳の奥にあるものを知ってしまえば――
もう、二人では戻れない場所に行ってしまう。
そんな気がしてならなかった。
風が微かにカーテンを揺らす。
それはまるで、何かを告げたいけれど言葉を持たない誰かのため息のようだった。
アランは静かに瞬きをし、そのまま、何も言わずにそっとレギュラスの手を握りしめた。
言葉では届かない想いが、皮膚と鼓動を通して彼の心に触れることを、ひたすら祈るように。
薄明かりの溶け込む午後、レギュラスが任務で不在の静かな屋敷に、アランの足音だけがそっと響いた。
彼の書斎の扉の前に立ち、躊躇いがちにノブへ手を伸ばす。触れるだけで、罪悪感が微かに胸を刺す。けれど、それ以上に抑えられない胸騒ぎが、理性を越えてアランを突き動かしていた。
――彼が何かを隠している。
そう感じたのは一度や二度ではない。だからこそ、今この機会を逃してはならないと思った。
書斎に足を踏み入れると、重たい空気と本の匂いが肌を包む。
無数の本が整然と棚に収められ、揃えられた羽根ペンや封蝋、整った手紙の束がデスクを静かに彩っていた。
一見、何もおかしなところはなかった。
アランは一つ一つ、丁寧に引き出しを開け、手帳の余白をめくり、本棚の背表紙に指を滑らせる。けれど、核心に迫るようなものはなかなか見つからなかった。
疑念だけが、ますます濃くなっていく。
そして――
古びた手帳の影に、一枚の小さなメモが挟まれているのを見つけた。
それは、まるで雑に走り書きされたような筆跡だった。
だが、その内容は、恐ろしいほど冷静に“それ”の本質を記していた。
分霊箱
魂を引き裂くことで、永遠の命に至る方法。
裂けた魂はそのまま容器に宿る。完全なる不死ではないが、死は逃れられる。
魂を裂くためには命の犠牲が必要――できる限り無垢なものを。
その一文を読み終えた瞬間、アランの指先からその紙片が零れ落ちた。
床に舞い落ちるその白い紙を、ひどく遠くに感じる。
足元から身体が崩れていくように力が抜け、アランはその場にしゃがみ込んだ。
言葉にならない恐怖が喉をふるわせる。叫びを上げる代わりに、震える手で口を覆い、せき止めた。
――まさか。
レギュラスが、あのレギュラスが……このような魔法に関与していたなんて。
今見たものが嘘であるようにと、強く願った。
だが、メモの筆跡は紛れもなく彼のものだった。
丁寧で端正に揃えられたあの文字が、あまりにもはっきりと、“それ”について語っていた。
アランの瞳に涙が溜まる。
小さく、震えるように首をふる。
どうして――そんなものに、彼が触れてしまったの?
やがて、身を折ったまま膝の上で手を組み、息を詰めるようにしてただ静かに震えていた。
静まり返った書斎。
この部屋にあふれていた理知と秩序の隙間に、今は凍るような闇が潜んでいた。
その闇の正体に触れてしまったアランは、戻るべき現実も、信じてきた愛も、一時的に全てを見失っていた。
夕暮れが差し込む静かな書斎の扉をそっと閉じたあとも、アランの心には深い影が残っていた。
足元がふわりと浮いたような感覚に囚われながら、廊下を歩く。目の奥が痛む。
さっきまで読んだこと、触れたこと——すべてがまだ胸の奥で大きく渦を巻いている。
彼女は悩んでいた。
このことを、レギュラスに伝えるべきなのか。
いま、自分の中に抱えてしまったこの『秘密』を、彼に差し出すことが正しいのかどうか。
けれど、思えばきっと彼は、この事を隠し通すつもりだったのだろう。
いや、隠すというより――自分一人の中へと封じ込めてしまいたかったのだ。
誰にも、決して触れさせることのないように。
ならば、自分も知らないふりを貫いたほうがいいのだ。
穏やかな日常のまま、そっと寄り添い、何事もなかったように笑って見せるべきなのだ、と。
だとしても――だからといって、レギュラス一人にすべてを背負わせていいはずがなかった。
アランの胸には、どうしようもない葛藤が込み上げてくる。
重荷を知ってしまった今、静かに黙って寄り添うことはできても、
決して傍観者ではいられないのだ、と痛感した。
彼が背負ったその選択が、あまりにも大きな代償であったことを、
今ようやく知った。
気が遠くなるような禁忌――分霊箱。
それはただ命を奪うことではない。魂を切り裂き、魔法にすら触れてはならぬ闇の深部に踏み込むこと。
あの夜、闇の帝王の床に倒れた自分を、レギュラスはその恐るべき代償と引き換えに連れ戻してくれたのだ。
彼が何を差し出したのか、アランには想像もつかなかった。
だが分かる――それは命の重さ以上の、魂の破片をえぐり取るような痛みだったに違いない。
書斎の扉の奥で、秘密は今も眠る。
けれどアランの中では、確かに目を覚ましていた。
この先どこまで、彼を支えていけるのだろう。
絶望にも似た魔法の影を抱えたまま、笑顔の奥で痛みを隠して生きる彼を、
自分は本当に――最後まで、守れるのだろうか。
不安の波が、静かに心に広がっていく。
それでもアランは、唇を震わせながらも胸に言い聞かせた。
「もう、レギュラスを独りにはしない――」
その想いが、震えながらも確かに胸に灯った、小さくも強い誓いだった。
夜の冷たい雨が、まるでアリスの胸に降り注いでいるようだった。
重く沈む空の下、彼女はひとり書類の束を抱えながら、魔法省の一角にある薄暗い閲覧室の窓際に立っていた。
指先は震えていた。怒りからか、悔しさからか、それとも――どうしようもない無力感からか。
彼女の瞳は逸らすことなく一点を見据え、浅く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
レギュラス・ブラック。
あの男を、今度こそ追い詰められるはずだった。
後消し呪文――明らかにレギュラスの魔力で放たれた痕跡。
それは確かな証拠に成り得た。魔法界が公に認める正義の道具となり得るものだった。
それなのに、奴は冷静に、そしてあまりにも鮮やかに――逃げおおせた。
自身の魔力反応があったことを否定せず、むしろそれを別件の任務によるものであると語り、孤児院は「巻き込まれただけ」と言い放った。
あくまで冷静に、誤魔化すのではなく「論理的に」かわしたのだ。
アリスの拳が知らず、静かに震えていた。
悔しかった。あまりに悔しかった。
「アランを……あんな場所に閉じ込めておいて。あの人の、光を――また闇に縛りつけて……!」
心から願っていたのだ。
レギュラスをアズカバンに送り込み、ようやくアランをその影から解放できると。
あの人がシリウスの隣にいなくても、それでいい。
ただ――もうこれ以上、闇に魂を削られるような男のそばに、いてほしくなかった。
以前のアランの瞳には、確かに澄んだものがあった。
純粋で、どこか壊れそうで、それでもまっすぐな光を放っていた。
だが今は――あの人の中の光が、静かに陰っていくように思える。
アリスは、怖かった。
レギュラスが何をしたか。何を知っているのか。
そして、アランがそれでも彼を選び続けていることが――怖くてたまらなかった。
静かな、決意に似たものが胸に宿り始める。
――まだ終わってはいない。
どれだけ巧妙で、計算されつくした仮面に守られていようと、
闇はいつか、自らの重さに潰れてゆく。
だから私は、諦めない。
あなたを、あの人を、闇から救うために。
たとえそれが、私にとって報われない願いだとしても――。
窓に映る自分の瞳が、深く、静かに燃えていた。
それは希望にも似た悲しみ。そして、誰にも言えないほど純粋な祈りの色だった。
アリスは、廊下でジェームズとシリウスを見つけるや否や足早に近づいた。
彼女の声は震えていた。怒りと焦り、そして焦燥が喉の奥に積もって、抑えきれない気持ちがにじみ出ていた。
「どうして……どうして、もっとレギュラスを追い詰めようとしないの?
ブラック家まで行ったんでしょう?それなら、何か聞き出せなかったの?」
その言葉に、ジェームズとシリウスはお互いに一瞬だけ視線を交わした。
どちらの顔にも、はっきりとした苦い色が浮かんでいた。
シリウスは何も言わず、そのまま言葉を飲み込むように顔を伏せ、静かに自室へと姿を消していく。
その背を見送りながら、アリスの胸には、ぞっとするような不安が沸き上がってきた――
正義を何より信じるあのシリウスが、なぜ黙ってしまうのか。
どうして、あのレギュラスの前で何も突きつけてこなかったのか。
「アリス……」
隣に残ったジェームズが、低く静かな声で切り出す。
「君には酷なことかもしれない。でも、伝えなければならないと思う」
アリスは眉をひそめる。
「なに……?どういうことなの?」
ジェームズは慎重に言葉を選びながら、まるで氷を踏むように静かに言った。
「…… アランが、レギュラスを……庇っているように見えた。
少なくとも、君の思っているより、ずっとはっきりとした意思を持って――何かを、隠していた」
その言葉を聞いた瞬間、アリスの鼓動が耳の奥で荒々しく鳴り響いた。
思わず数歩、下がった。
「そんな……うそ……」
唇が震えた。言葉が形にならない。
アランが?
光の中を歩く人だったはずの、あの人が――
自分を、命を賭して救ってくれた、あの優しさを持つ人が……
レギュラスを庇っている?
闇に踏み込んでしまった男を、理解し、受け入れようとしていると?
そんなの、馬鹿げてる……。
違う、違うはず。
「脅されてるのよ……レギュラスに。きっとそう。縛られてるの……そうに決まってる……」
言いながら、自分がそれを願ってしまっていることに気づいた。
そうでなければならない、と。
だってそうでなければ――あの人は、自分の光を……自ら手放してしまったということになる。
アリスはその場に立ち尽くし、遠ざかっていったシリウスの扉をじっと見つめていた。
彼もまた、何かを知っているのだ――それが彼の“沈黙”という重さになっていた。
胸の奥が締めつけられる。怒りでも絶望でもない、言葉にできない哀しみだった。
アラン、どうして。
どうしてあなたは、そんなにも静かに、あの男を守るの?
それほどに深く、闇を見つめられる目を、いつの間に持ってしまったの?
アリスの瞳に、光がにじんだ。
それは涙ではなかった――
けれど、確かにその一滴手前にある、最も繊細な哀しみの輝きだった。
長い眠りと拷問の痕跡がまだ身体に残る中で、なるべく自分の力で日常の些細なことをこなしたいという強い意志があった。
その時、レギュラスが穏やかな声で介助を申し出た。
「アラン、僕が手伝いましょうか?」
アランは振り向き、少しだけ戸惑いながらも答えた。
「大丈夫よ、自分でできるもの」
身体を人に触れられることへの恥ずかしさが、言葉に込められていた。
使用人がいつも一緒に入って手伝ってくれていたこともあり、
それで十分だと思っていたのだ。
けれども、今日は運悪くレギュラスがそのタイミングで側にいた――それが悔やまれた。
レギュラスは柔らかい微笑みを浮かべながら言った。
「では、一緒に入りましょう。ついでですから」
その言葉に、アランの内心は一瞬で波立った。
とんでもなく恥ずかしい提案に、彼女の顔は火照り、言葉を失った。
「まって、レギュラス……!」
慌てて制止しようとしたが、口をつぐんでしまい、有効な術すら思い浮かばない。
その場の空気は瞬く間に濃密に変わり、互いの距離が近づくことに戸惑いと緊張が交錯した。
レギュラスの目は真剣でありながらも、どこか柔らかく暖かく、
彼女を守りたいという強い意志が見て取れた。
その紳士的な申し出は、アランのプライドと羞恥心を揺さぶったが、同時に深い愛情を感じさせた。
アランは必死で言葉を探しながら、ふたりの間に流れる沈黙を抱きしめた。
戸惑いの中に秘めたる信頼が少しずつ芽生えていく瞬間だった。
浴室の扉越しに、二人だけの柔らかな時間が静かに流れていった。
アランは細い肩を震わせながら、浴室の隅で小さく息をついた。
淡いランプの光が蒸気に溶けて揺れ動く中、彼女は震える声で囁く。
「レギュラス、お願いです……こっちを向かないで……」
その声は耳を塞ぎたくなるほど脆く、消え入りそうだった。
長い眠りの後、ほとんど食事も摂れずに過ごした日々で、身体は貧弱に痩せこけていた。
その痩身を、彼の前に晒すのが何よりも恥ずかしかったのだ。
レギュラスは静かに頷き、少しだけ離れた場所から優しく言った。
「ええ。大丈夫になったら、教えてください」
彼の声には無邪気な安心が含まれていて、アランの困惑と羞恥心はますます深まる。
それでも、その平然とした態度が、彼だけの優しさなのだと感じた。
アランはゆっくりと脱衣し、準備を整えて湯船へと体を沈める。
熱い湯がじんわりと身体を包み込み、凝り固まった筋肉と言いようのない不安を溶かしていく。
「もう、大丈夫です……」
かすかに震える声に、レギュラスはすぐに振り向いた。
湯気の中でも、彼の頬はほんのり赤く染まっていた。
長く湯船に浸かっていたせいか、あるいはただ、彼女の声が嬉しかったのか──。
二人の間に、言葉では語れない雰囲気が静かに漂う。
蒸気の中、わずかに交わった視線は一瞬のやわらかな光を宿し、
恥ずかしさと安心、そして確かな信頼が静かに溶け合っていった。
思えば、二人が夫婦となり、その年月を重ねてきた中で、
一緒に湯船に浸かった記憶はほとんどなかった。
これまで抱えてきた距離と、それぞれの孤独が、静かな壁のように二人の間に横たわっていたのだ。
だが今、目の前で困惑と羞恥に沈むアランの姿が、どうしようもなく弱く、儚く、そして愛おしく胸に迫った。
蒸気の中、レギュラスは静かに距離を詰めながらも、慎重に尋ねた。
「近づいてもいいですか?」
その声には優しさと遠慮が混ざっていて、アランが湯船の中でわざと距離を保っていることを彼は理解していた。
彼女の心にはたくさんの感情が渦巻いているだろう。恐怖や恥じらい、そして少しの戸惑い。
それでも、どうしても触れられる距離にいたかった。
だから、勝手に近づく前に、必ず声を掛けた。
「ええ……」
アランはためらいがちに小さく答えた。
その声は震え、心の葛藤が伝わってくる。
レギュラスはそっと彼女の方に体を寄せ、柔らかく肩を抱きしめた。
細くなり、か弱くなってしまったその肩を包み込む腕に力を込めて、
彼女の首筋へと唇を優しく這わせる。
肌に触れるその熱は、冷え切った身体だけではなく、凍りついた心をも溶かすように感じられた。
アランの目がゆっくりと閉じられ、彼女の身体が少しずつレギュラスの胸に預けられていく。
湯気の中、二人の距離は消え、過去の苦しみも哀しみも、しばし忘れられるようだった。
ただ、静かな温もりと、繋がる鼓動だけがそこにあった。
長く隔たっていたものが、ようやく少しずつ解けていく。
それは言葉にできない繊細な奇跡の瞬間であり、
二人の心をそっと包み込む、柔らかな愛の証だった。
夜の静寂に包まれたバルコニーで、レギュラスはアランの肩にそっと羽織るように薄い上着をかけた。
冷え込み始めた夜風に震える彼女を温めるその優しい仕草には、揺るぎない愛情が宿っていた。
レギュラスはひとりウイスキーのグラスを手にしていたが、アランは控えめにハーブティーをすすっていた。
それぞれの方法で、この二人は夜の時間を抱きしめていた。
レギュラスが穏やかな声で問いかける。
「覚えてますか?あなたがここでワインを飲んでいた日のことを」
あの日、酔いに身を任せたアランと共に、このバルコニーで愛を交わした。
狂おしいほど深く、忘れられない一夜だった。
だが、アランは顔に手を当て、微かに顔を背けながら呟いた。
「やめて……思い出したくないわ」
彼女のその仕草さえも、レギュラスにはたまらなく愛おしく映った。
ふと、あの朝のことを思い出し、アランは微笑みを浮かべた。
体中の痛みに耐えながらも、幸せな疲労感に包まれたこと。
その記憶に思わず笑いが漏れる。
レギュラスもそれに微笑みながら、そっとアランの手に触れた。
「もう少し、あなたの体調が回復したら……また、したいです」
彼の告白は、まるで心の奥底から湧き上がった生理的な欲求のようで、
その恥ずかしさに、レギュラス自身も耳を覆いたくなる思いがした。
だがその一言には純粋な愛情と、未来への希望が込められていた。
アランは静かに頷き、言葉でなくその意思を伝えた。
今はそれだけで十分だった。
そしてレギュラスはそっと唇を重ねる。
ウイスキーの芳醇な味が、もしかしたら彼女にもほんの少し伝わったかもしれない。
夜の闇が二人を包み込み、柔らかな時がゆっくりと流れていく。
思い出の場所で交わされる、この繊細な愛の瞬間は、
二人の絆をさらに深く刻み続けていた。
夜の静寂のなか、アランは静かに己の両手を見つめていた。
蝋燭の淡い灯りが指先に影を落とし、胸に去来する思いが波のように押し寄せる。
――もう、自分は全てを余すことなくレギュラスに捧げたい。
あの日、闇の帝王に跪き、ベラトリックスの容赦なき呪文に貫かれて、自分は確かに死ぬべき運命だった。
冷たい床に横たわり、意識が薄れていく中で、もう二度と目覚めないのだと理解した。
それなのに、いまこうして生きている。
レギュラスが何かとてつもない代償を払い、その命を繋ぎ止めてくれたのだとしか思えなかった。
自分の救われたこの命は、もはやレギュラス・ブラックの命そのもの――
その気持ちに疑いはなかった。
あらゆるもの、すべてを、彼に差し出したいと心から願う。
彼が求めるなら、それに自分は応えたい。
アラン・セシールとして、シリウスに注いだ燃えるような愛の記憶も、
命懸けで託したアリス・ブラックの秘密も、
もう二度とレギュラス以外に隠しごとをしてはいけない。
もう何も――彼らのことでレギュラスに願うことはない。
なぜなら、あの日、アラン・セシールは確かに死んだのだから。
涙があとからあとから溢れ出る。止めようのない慟哭。
本当に、本当に、シリウス・ブラック――あの人は自分の人生そのものだった。
愛していた。たまらなく。狂おしいほど。
彼がくれた日々があったから、愛というものに触れられた。
生きる理由さえ彼が教えてくれたのだ。
だけど、シリウス・ブラックに恋焦がれて、愛を知ったアラン・セシールの命は、あの暗い夜にとうに終わったのだ。
唯一救われて、この世に留められた命を持つのは、
もはやアラン・ブラックとして――
レギュラスの隣で、残りの人生すべてを燃やし尽くすまで、彼を愛し、彼に尽くしたい。
震える唇で涙をぬぐいながら、アランは心の底から思った。
自分の願いはもう一つだけ。
この命の限りレギュラスを愛しぬいて、最後にそっと彼に微笑み返したい。
それだけが、いつか訪れる終わりのときまで、彼女のたった一つの祈りだった。
ホグワーツの静かな午後、シリウスは窓辺で生徒たちを見つめていた。
アルタイルやセレナに課外授業を教えながら、その母―― アランと過ごした、忘れがたい夜の記憶が不意に胸をよぎる。
自分がこんなふうに、教師として責任ある立場でいながら、あの甘やかな感触を思い出してしまうなんて。
それがどれほど良くないことか、シリウスは痛いほど分かっていた。
授業が終わり、アルタイルがぽつりと呟いた。
「僕の縁談が、決まったんです」
まだ若く、頼りない背中のその少年が、少し遠くを見つめながら言う。
どこか影を宿したその声に、シリウスの心臓は微かに鳴った。
「そうか……可愛い子だったか?」
問いながら、彼自身も幼い日々の後悔や不安を思い返していた。
アルタイルは小さく首を振る。
「綺麗な子でした。でも、セレナや母と違って、無口で……冷たい目をした令嬢です」
その言葉には、期待よりも戸惑いの色が濃く滲んでいた。
シリウスは静かに、彼の横顔を見つめた。
アルタイルの瞳は不安に揺れている。
慣れぬ運命の重み、押しつぶされそうな未来の不確かさ――
教師としての自分は、何と声をかければいいのか分からない。
けれど、彼の繊細な心根に、そっと寄り添いたかった。
秋のやさしい光が教室を満たし、
互いの胸の奥に、それぞれの痛みが静かに広がっていくのだった。
シリウスは深いため息をつき、冷えた窓ガラスの向こうに広がる夜空をじっと見つめた。
かつて、自分が愛したアランを、自らの信じる世界に引きずり込むだけの強さもなく、
家のしがらみや伝統という重い鎖の中に置き去りにしてしまった。
その後悔の影は、今、成長し大人へと歩み出そうとするアルタイルのことでも胸を締めつけた。
同じ過ちを繰り返し、彼をどこへも連れ出してやれず、外の世界を知らしめることもできない。
自分の不甲斐なさに、ただただ胸が苦しかった。
アルタイルと婚姻が決まった少女のことを思う。
彼女がまだ冷たく閉じた瞳の奥に、一筋の光を秘めていることを願った。
二人の間に真実の愛情が芽生え、温かな絆が結ばれるように、遠くから祈る事しかできなかった。
シリウスは自分の無力さを痛感しながらも、心の奥底ではひそかな希望を抱いていた。
「どうか、二人が幸せになれますように……」
その願いは静かな夜の闇に溶けて、星屑のように煌めいていた。
彼の胸に抱えた痛みと共に、新たな未来へのわずかな光が、
じっと、しかし確かに灯っているようだった。
薄曇りの朝、任務の合間にバーテミウスが静かに声をかけてきた。
「君、一体帝王とどんな取引をしたんだい?」
その問いは意識して逸らしたかった記憶に鋭く触れる。
バーテミウスだけでなく、多くのデスイーターたちも、なぜレギュラス・ブラックだけが妻を救い出すことができたのか、不思議でたまらないのだ。
「さぞ大きな取引をしたに違いない」
そんな噂が、屋敷の闇を漂い、さながら粘つく霧のようにまつわりついている。
「知らなくていいです。」
レギュラスは静かに、しかし確固たる調子で答えた。
自分が何を差し出したのか、決して語れるはずはなかった。
分霊箱――闇の帝王が求め続けた不死の禁呪。
その裂き方、魂の真の引き裂き方を自らの口で教えてしまったことを。
大人よりも、幼い子供の命こそが魂の傷を深くするなどと、決して明かせやしない。
純血であるかマグルであるかなどという次元を遥かに超え、
人として犯してはならない領域だ、とレギュラス自身が一番よく分かっていた。
だからこの秘密は、墓場まで持っていくしかない。
何者にも明かさず、己の胸の奥で静かに凍らせておくしかなかった。
バーテミウスは眉をひそめ、それ以上は何も問わなかった。
足取りも反響も灰色の朝霧に飲み込まれ、レギュラスの心にはなお重い影が沈み続けていた。
罪の重さと沈黙を背負い、彼は静かに歩みを進めるだけだった。
闇の帝王の屋敷に足を踏み入れるたび、レギュラスの胸は裂けるような痛みに襲われていた。
重厚な扉がひっそりと閉じる音、ひんやりとした廊下の空気――
その全てが、記憶の奥深くに刻まれた恐怖を鮮明に呼び覚ます。
この床の上に、かつてアランは倒れていた。
ベラトリックスが容赦なく呪文を放ち、彼女の苦しむ叫びが石壁に反響したあの夜。
アランの長い髪が床に広がり、やがて動かなくなったとき――
自分は永遠に彼女を失うかもしれない、その絶望が全身を貫いた。
その時の冷たさや恐怖は今も骨の髄まで染みついていて、
何度来ても拭い去ることができない。
ヴォルデモートの前でレギュラスは簡潔に報告した。
「問題を起こしたマグルの魔法使いは、速やかに処分いたしました。」
「ご苦労だった、レギュラス」
闇の帝王の声は相変わらず底冷えするような低さで、部屋の重苦しさを一層際立たせた。
帰り際、廊下ですれ違ったベラトリックスは、
獲物を見定めるような視線でレギュラスを一瞥した。
その目の奥には、かつてアランを痛めつけたときの昂揚がいまだ燻っているようにさえ思えた。
何も言わず、ただ互いの影だけが冷たい石の床に伸びていく。
レギュラスは静かに顔を背け、足早に屋敷を離れた。
この場所がもたらす闇と痛みを振り切るように――
愛する人を守るために自分が背負ったすべての罪を、
静かに胸に秘めていた。
重厚な扉を押し開けると、アランがベッドで起き上がって待っていた。
その気配を感じた瞬間、レギュラスの全身から張り詰めていた緊張がすっと解け、まるで疲れなど一切なかったかのように心地よい緩みが広がった。
「寝ていても構わなかったんですよ」
レギュラスは微笑みながら、羽織っていたローブを脱いでアランに手渡す。
アランはそれをそっと受け取り、二人は静かに寝室へと戻った。
部屋に入ると、レギュラスはネクタイを緩める仕草を見せた。
その動作は普段よりも幾分だけ慎重で、しかしどこか無防備に見えた。
「どうしました?」
何気ない問いに、アランは首を振る。
「いえ、何も……」
だが、その表情には不安が宿っていた。
胸の奥がざわつくような視線を受け、レギュラスはゆっくりと動きを止め、ベッドの横に歩み寄る。
「何か、あるのでしょう?」
アランは深呼吸をひとつしてから、静かに口を開いた。
「今日、魔法省の役人がいらっしゃいました。
マグルの孤児院が襲撃され、全ての子供たちが――息絶えた事件があったと。
情報提供を要請されました」
その言葉が、室内の空気を一瞬で凍りつかせた。
アランの瞳には、レギュラスがこの惨事にどこまで関わっているのかを探るような鋭い光が浮かんでいる。
レギュラスは重い胸の内を悟られまいと、静かに視線を落とし、低く答えた。
「心配はいりません。きちんと対処しておきます」
その声には確固たる決意があった。
けれどアランが抱える不安は簡単には払拭されないことを、レギュラス自身も感じていた。
窓外の月明かりが二人を優しく照らす中、互いの運命が再び静かに交差していった。
昼下がりの応接間で、魔法省の役人たちは淡々と、けれどどこか鋭利な視線でアランを見つめていた。
彼らは、マグルの子供たちが殺されたあの痛ましい孤児院の事件について、レギュラス・ブラックが事件に関与しているとほとんど断言するような口ぶりだった。
「何か証拠があるのでしょうか」とアランが恐る恐る尋ねると、
役人の一人が静かに頷いた。
「近辺に“後消し”の呪文痕が残っていました。通常の痕跡とは異なり、慎重に隠蔽作業がなされていた。しかし、その魔力の残滓から持ち主を特定できました。……レギュラス・ブラックの杖です」
呪文は遠方から微かに放たれていたため軌道を辿るのは難しいが、魔法省の最新の捜査魔法によって、発信源としてレギュラスの魔力が確かに検知できたのだと役人は説明した。
アランの心臓は、危うい鼓動を打っていた。
まさか、レギュラスが。
どれほどマグルに複雑な感情を持っていたとしても、
あの穏やかな人が、何の罪もない魔法界とも関係のないマグルの子供たちに手をかけるなんて。
信じられない、信じたくない――
それでも証拠は無慈悲な現実として突きつけられる。
アランはただ黙って、冷え切った手を膝に置くだけだった。
静寂が部屋を満たし、不安と疑念だけが淡く滲む光の中に残されていた。
静かな屋敷の一室で、アランは震える声で意を決して告げた。
「魔法省の役人が、来ていました」
その言葉が空気を震わせると同時に、レギュラスの顔に微かな動揺が走った。
普段は冷静で冷徹な彼の目に、一瞬の迷いと苦悩が浮かんだのを、アランは見逃さなかった。
その動揺は、言葉にならないほど雄弁にすべてを物語っていた。
胸を締めつけられるような悲しみと、計り知れない苦しみが彼の内側に渦巻いているようだった。
「レギュラス、話してくれませんか?」
アランは静かに訊ねる。
彼の心にある暗い影を、共有しようとしたのだ。
しかし、レギュラスは穏やかな声で答えた。
「気にしなくて大丈夫です」
その言葉には確かな決意とともに、どこか拒絶の響きも混ざっていた。
互いの想いはすれ違い、言葉は平行線をたどるばかりだった。
口に出せない秘密と罪の重さが二人の距離を隔て、心を締め付けていた。
その沈黙のなか、静かに時間だけが過ぎていった。
相容れぬ想いを抱えながらも、互いを思う気持ちは確かにそこにあった。
それが、何よりも切なく、そして繊細な絆だった。
事件の真相を追い続けていたのは、魔法省だけではなかった。
ジェームズとシリウスもまた、騎士団の一員としてこの痛ましいマグル孤児院襲撃の捜査に全力を注いでいた。
現場に残されたのは、意図的に痕跡を消そうとした“後消し”の呪文――
その魔力の残滓を細かく紐解けば、レギュラス・ブラックの杖から放たれたものであったことが明らかとなった。
すぐさま「レギュラス・ブラックを公式に召喚すべきではないか」という声が上がった。
だが、ブラック家の名は魔法界でも重く、
その権勢から――少なくとも、決定的な証拠が出揃うまでは、魔法法廷への強制的な召喚までは踏み込めない。
そうした現実が、捜査の進展に影を落とす。
けれど今度こそ、レギュラス・ブラックをあの座から引きずり下ろせる。
積年の苛立ちや疑念を抱えてきた騎士団の面々は、
そのわずかな手がかりに躍起になっていた。
誰もが薄氷の上で慎重に、しかし執拗に歩みを進める。
真実が明るみに出る日を、息を潜めて待ち続けていた。
薄曇りの午後、ブラック家の重厚な門前に次々と人影が訪れ始めた。
魔法省の役人や騎士団のメンバーが、こぞってレギュラス・ブラックの当時の動向を探ろうと足を運んでいる。
その度に、屋敷の廊下はさざめくような気配に満ち、アランの胸は不安で張り裂けんばかりだった。
――もし、レギュラスが魔法界の外でマグルの孤児院襲撃に関わっていたとしたら。
その記憶が、あの日自分の命を繋ぎ止めるために彼が払った犠牲と重なって、
震える胸に深い痛みを刻みつける。
それがもし事実であれば、彼の罪は、むしろ自分の罪なのだとアランは悟っていた。
愛する人が一つの命を代償に、自分を抱きしめてくれたのだとしたら――
それを責めることなど、自分にはできなかった。
その日、ブラック家を訪れたのはジェームズとシリウスだった。
久しく途絶えていた旧友の訪問。
けれど玄関先に立つふたりの顔は、かつての明るさをわずかも残してはいなかった。
アランは静かに応接間に案内し、お茶の準備をしながらも手が震えるのを止められなかった。
重たい空気をまとって応接間の扉が開かれた。
レギュラスは毅然と真っ直ぐに立ち、出迎えるその佇まいには一分の隙もなかった。
「よくもまぁ、出ていった家にのこのこと戻って来れましたね。感心しますよ」
わざと軽く投げられた皮肉。
けれど、その余裕の裏に、痛みと誇り、試される覚悟の色がにじんでいた。
シリウスはすぐさま歩み寄り、怒りを隠さずに声を上げた。
「テメェを尋問しに来たんだよ!」
その眼差しは鋼のように鋭く、決して迷いがなかった。
「落ち着いてくれ、シリウス」
すぐ隣でジェームズが静かに嗜める。
だが、アランはシリウスの顔をどうしても見ることができなかった。
かつて誰よりも愛した人。
すべての記憶を胸の奥底に沈めることを選んだその人が、
今こうして確固たる信念と正義を宿して、レギュラスの罪を暴こうとしている――
その姿が、アランには恐ろしくて仕方なかった。
シリウスはいつだって真っ直ぐだった。幼い頃から変わらぬその目。
その無垢な正しさと激情が、今は何よりも怖い。
きっと彼の正義は、このままずっと直進して、何もかもを貫いてしまう。
それが、レギュラスの心を、家族の形すらも壊してしまうのではないかと胸が締め付けられた。
長い沈黙が三人の間に落とされ、その間もシリウスの瞳は決して逸らされることがなかった。
正義の名の下に掲げられる彼の剣先が、
今にもレギュラスに届きそうで――
アランの両手は膝の上でこわばって震えていた。
応接間に張り詰めた気配の中、ジェームズが静かに問いかけた。
「君は、一体何を隠そうとしたんだい?」
その問いは責める口調ではなく、ただ純粋に知りたいという響きを帯びていた。
その優しい問い掛けが、アランの胸を深く刺した。
レギュラスは背筋を伸ばし、微動だにせず毅然とした声で答える。
「隠すものなんて、何もありませんよ。暴いてからいらしていただけますか?」
彼の言葉には、自信と覚悟が宿っていた。
そしてレギュラスは続けた。
「後消し呪文が私の杖から放たれたのは事実です。しかし、それは近隣で発生したマグルの魔法使いの事件に対して、魔法界とマグル界の狭間で起きた混乱を収めるために、強力な後消し呪文をかけた結果に過ぎません。それが偶然、孤児院にまで及んでしまっただけのことです」
その説明は論理的で冷静だったが、同時にどこか悲しげな響きを含んでいた。
ジェームズは黙って頷き、シリウスもまた複雑な表情で視線を落とす。
アランは、レギュラスの言葉を胸に刻みながらも、まだ消えない不安の影を感じていた。
応接間の緊張が少し和らいだのを感じると、ジェームズが明るく口を開いた。
「じゃあ、帰ろうか」
その言葉に、シリウスはすぐさま抗議の声を上げる。
「な、ジェームズ!」
しかしジェームズは冷静に微笑みを浮かべ、優しいけれど確固たる口調で言った。
「レギュラスの言う通りだ。次に来る時はしっかりと確実な証拠を掴んでからにしよう」
その言葉は室内の空気を一変させた。
シリウスの感情的な追及よりも、静かで淡々としたジェームズの態度のほうが、
アランの心には遥かに重く、恐ろしく響いた。
まるで、彼らは必ず確かな証拠を掴むつもりでいるのだと宣言されたかのように感じた。
ジェームズはふと微笑み、昔のことを思い出すように口を開いた。
「久しぶりに君に会えてよかったよ、セシール嬢。昔はそう呼んでいたから、その癖がなかなか抜けないけど。今でも君はスリザリンの姫だね」
その言葉はまるで気軽な挨拶のようだったが、アランには遠い昔の記憶と、張り詰めた緊張の狭間で浮遊するように感じられた。
彼女は微笑み返すことができなかった。
その微笑みが、どこか遠く翳っていることを自分でも感じていたから。
静けさが応接間に戻り、
アランの胸には複雑な感情と恐れが静かに渦巻いていた。
アランは、扉の向こうへと去ろうとするシリウスに駆け寄った。
ジェームズもすぐ隣を歩いている。冷えた石畳の廊下に、三人の足音が微かに響く。
「アラン、待ってろ! 今度こそ、俺が絶対に救い出すから!」
シリウスの声は揺るがず、しかし胸の奥には熱い焦燥が灯っていた。
アランは肩を震わせながら、かすれた声で呼び止める。
「シリウス、お願い……」
シリウスは真っ直ぐに彼女の瞳を見つめる。
ジェームズも足を止め、静かに見守っていた。
アランは息を詰め、言葉を選ぶように続けた。
「彼が、どこまで関与しているのか、私は本当に知らない……。
だけどお願い、もし――もし、本当にあの人がこの事件を起こしたのだとしたら、その時は、どうか、この罪を、私に着せて欲しいの」
そのあまりにも切実な願いに、シリウスは息を飲んだ。
ジェームズの眉がぴくりと動き、二人は言葉を失う。
冷気が三人を包む中、アランの小さな声が、凍りついた時間を溶かすように震えた。
「どうか……私を信じて……」
シリウスの手が、無言のままそっとアランの肩に重なる。
その重みが、言葉以上に深い約束を告げていた。
アランの言葉は、まるで静かな衝撃のようにシリウスの胸に響いた。
彼の心は疑念と戸惑いで揺れ動く。
間違いなく、あの言葉はレギュラスを庇い、守ろうとする彼女自身の真実の声だった。
誰かに強制されたわけでもなく、アラン本人が選び、口にした言葉――
それが、胸に深く刺さった。
なぜ、あんな男のために――
その疑問は尽きず、霧のように彼の思考を覆う。
長くあの家にいるうちに、かつて輝いていたアランの中の光が、少しずつ消え失せ、
いつのまにか闇に染まってしまったのではないか。
そんな恐ろしい考えが心の奥底から顔をもたげた。
ジェームズは沈黙のまま、シリウスの葛藤を静かに見つめていた。
彼の胸中には、別の疑念がいつも根を張っている。
「もしかすると、本当はアランの方こそ、何かを隠しているのではないか――」
そんな気持ちが日に日に強くなっていた。
レギュラスを調べる前に、まずアランの心と秘密に向き合わねばならないのではないか。
そう思うのに、親友シリウスには口にできなかった。
なぜなら――彼はずっと隣で、アランへの深い愛情と献身を見続けていたから。
その愛はまるで、自分の人生の一部のように、彼の存在すべてを包み込んでいた。
その大切な想いを傷つけたくない。
彼の信じる者を否定するような言葉は、言ってはならないと思い、ジェームズは心の中で慎重に言葉を選んだ。
沈黙が静かに広がるなか、二人の目には言えぬ憂いが宿り、
それぞれの胸に抱えた真実と願いが交錯していた。
それはまだ、言葉にならないままの、
繊細で深い人間の感情の交差点だった。
応接間の静寂の中、レギュラスはまだ椅子に深く座ったまま、アランの方を振り返ることもなく、冷静な声で問いかけた。
「何を話したんです、シリウスと?」
アランはその言葉にふと息を飲み、胸の奥で言葉を選び始めた。
どうすれば、レギュラスの誇りを傷つけずに伝えられるのか。
どうすれば、誤解されずに、真実を届けられるのか。
慎重に、ひとつひとつ言葉を積み重ねるように自分の心と相談した。
しかし、そんな彼女の葛藤を察したのか、レギュラスは穏やかに重ねる。
「いいですよ、言わなくて」
その響きにはわずかな寂しさと、あきらめが混じっていた。
アランはゆっくりと肩を落とし、震える声で切り出した。
「違うのよ、レギュラス」
彼の心がどこかで誤解しようとしていることを、彼女は感じ取っていた。
だから、決してそんな風に思わないでほしいと願った。
アランのその言葉は静かに、しかし強く響いた。
胸の奥で渦巻く複雑な感情を、ただひたすら誠実に伝えようとする意志の表れだった。
沈黙が二人のあいだに降り積もる。
その空間は柔らかくも鋭く、まるで繊細な糸で結ばれたように張り詰めていた。
アランはゆっくりとレギュラスの顔を見つめ、真実の深さを共有する覚悟を秘めていた。
言葉に詰まることも恐れず、ただただ伝えたい想いが胸に満ちていく。
その時、二人の間に漂うのは、
言葉を超えた静かな理解と、まだ見ぬ未来への微かな光だった。
夜の静けさが深まる中、レギュラスの胸は抑えきれぬ苛立ちで揺れていた。
昼間に見たシリウスとジェームズの顔、その言葉のひとつひとつがレギュラスの心に鋭い棘となって突き刺さる。
アランがふとした瞬間にシリウスに視線を向けているような気がして、
胸の奥から嫉妬が何度も顔をのぞかせ、じっとしていられなかった。
だが、その動揺を一瞬たりとも相手に悟られてはならないと必死に振る舞った。
その醜い自分、こんなに取り繕う自分が、情けなくもあり、悔しくもあった。
レギュラスは己の弱さに苛立ちながらも、それを隠し通そうと必死だった。
そして、シリウスとジェームズを見送ると言って追いかけたアランが何を語ったのか、
結局その詳細を掴めぬまま、もやもやとした不安と疑念だけがこの胸に鬱積した。
募る怒りの矛先を見つけられず、心はもがき苦しんだ。
どうしようもなく、嵐のような感情を抱えてアランに向き直る。
その夜、レギュラスはその苛立ちを張り裂けんばかりの愛情に変え、
必死にアランの体を求めた。
体温が触れ合う瞬間、胸に渦巻く不安も嫉妬も、一瞬だけ溶けて消えた。
二人の息遣いが重なり合い、部屋に静かな波紋を広げる。
繊細で刹那的なその時間の中で、
レギュラスは自分自身と葛藤しながらも、ただひたすらに彼女を愛した。
夜の闇が深まり、部屋は二人の吐息と柔らかな月光に包まれていた。
身体は激しい快楽に身を震わせながらも、レギュラスの胸の奥には止めどなく不安が湧き上がってくる。
――求められるから応じているだけで、本当は心の中にシリウスがいるのではないか。
――抱かれながらも、シリウスを思い浮かべているのではないか。
その忌まわしい疑念は、痛みとなって心の奥深くを締めつけた。
どれほど時が経とうとも、あの男の存在はまるで見えない鎖のように彼を縛り、苦しめ続けている。
ひとしきり身体を重ねた後、レギュラスは熱を帯びたままの視線でアランを見つめた。
だが心の隙間には、まだ深い痛みの影が残っている。
その時、アランは震える声で囁いた。
「レギュラス……愛してるから……」
その言葉は、張り裂けそうなほどに切なく、しかし救いの光のように彼の胸に届いた。
快楽に溺れる身体の奥底で、痛みと不安が一瞬だけ凪ぎ、静かな安堵が広がる。
レギュラスはそっとアランの頬に触れ、そっと額を寄せた。
二人の鼓動がゆっくりと重なり合い、夜の静寂の中で確かな温もりを共有する。
その瞬間だけは、過去の影も未来の不安も、すべて遠くへと消えていった。
屋敷の窓辺に落ちる夕暮れの光が、部屋の空気をほのかに琥珀色に染めていた。
アランは薄く唇を噛みながら、背筋を伸ばしたレギュラスの後ろ姿を見つめていた。
最近、彼が任務に出る頻度は明らかに増えている。
それが魔法省や騎士団からの圧力をかわすためであり、ブラック家に向けられた懐疑の目をそらすための動きであることに、アランは気づいていた。
堂々と受け止めているように見える彼の背中。
疲れも焦燥も一切見せず、ただ静かに戦い続けているその姿が、痛々しいほどに輝いて見えた。
ふと、アランが声を震わせながら囁く。
「レギュラス……無理をしないでほしいわ」
彼は振り向く。
いつものように穏やかで、隙のない微笑みを浮かべながら。
「大丈夫です」
一拍おいて、彼の手がそっとアランの頬に触れた。
その手のひらは少し冷たく、けれど確かな温もりを湛えていた。
アランは、その手に自分の手を重ねる。
自然と重なる掌と掌。
けれど、その優しさの奥にあるものは、どうしても読めなかった。
この人は、いったい何を――
何を、ひた隠しにしようとしているのだろう。
問い詰めることもできず、ただじっと、灰色の瞳を見つめる。
淡く光を反射するその瞳は、琥珀色の光を溶かしながらも、心の奥を決して映し出してくれなかった。
もしも、この瞳の奥にあるものを知ってしまえば――
もう、二人では戻れない場所に行ってしまう。
そんな気がしてならなかった。
風が微かにカーテンを揺らす。
それはまるで、何かを告げたいけれど言葉を持たない誰かのため息のようだった。
アランは静かに瞬きをし、そのまま、何も言わずにそっとレギュラスの手を握りしめた。
言葉では届かない想いが、皮膚と鼓動を通して彼の心に触れることを、ひたすら祈るように。
薄明かりの溶け込む午後、レギュラスが任務で不在の静かな屋敷に、アランの足音だけがそっと響いた。
彼の書斎の扉の前に立ち、躊躇いがちにノブへ手を伸ばす。触れるだけで、罪悪感が微かに胸を刺す。けれど、それ以上に抑えられない胸騒ぎが、理性を越えてアランを突き動かしていた。
――彼が何かを隠している。
そう感じたのは一度や二度ではない。だからこそ、今この機会を逃してはならないと思った。
書斎に足を踏み入れると、重たい空気と本の匂いが肌を包む。
無数の本が整然と棚に収められ、揃えられた羽根ペンや封蝋、整った手紙の束がデスクを静かに彩っていた。
一見、何もおかしなところはなかった。
アランは一つ一つ、丁寧に引き出しを開け、手帳の余白をめくり、本棚の背表紙に指を滑らせる。けれど、核心に迫るようなものはなかなか見つからなかった。
疑念だけが、ますます濃くなっていく。
そして――
古びた手帳の影に、一枚の小さなメモが挟まれているのを見つけた。
それは、まるで雑に走り書きされたような筆跡だった。
だが、その内容は、恐ろしいほど冷静に“それ”の本質を記していた。
分霊箱
魂を引き裂くことで、永遠の命に至る方法。
裂けた魂はそのまま容器に宿る。完全なる不死ではないが、死は逃れられる。
魂を裂くためには命の犠牲が必要――できる限り無垢なものを。
その一文を読み終えた瞬間、アランの指先からその紙片が零れ落ちた。
床に舞い落ちるその白い紙を、ひどく遠くに感じる。
足元から身体が崩れていくように力が抜け、アランはその場にしゃがみ込んだ。
言葉にならない恐怖が喉をふるわせる。叫びを上げる代わりに、震える手で口を覆い、せき止めた。
――まさか。
レギュラスが、あのレギュラスが……このような魔法に関与していたなんて。
今見たものが嘘であるようにと、強く願った。
だが、メモの筆跡は紛れもなく彼のものだった。
丁寧で端正に揃えられたあの文字が、あまりにもはっきりと、“それ”について語っていた。
アランの瞳に涙が溜まる。
小さく、震えるように首をふる。
どうして――そんなものに、彼が触れてしまったの?
やがて、身を折ったまま膝の上で手を組み、息を詰めるようにしてただ静かに震えていた。
静まり返った書斎。
この部屋にあふれていた理知と秩序の隙間に、今は凍るような闇が潜んでいた。
その闇の正体に触れてしまったアランは、戻るべき現実も、信じてきた愛も、一時的に全てを見失っていた。
夕暮れが差し込む静かな書斎の扉をそっと閉じたあとも、アランの心には深い影が残っていた。
足元がふわりと浮いたような感覚に囚われながら、廊下を歩く。目の奥が痛む。
さっきまで読んだこと、触れたこと——すべてがまだ胸の奥で大きく渦を巻いている。
彼女は悩んでいた。
このことを、レギュラスに伝えるべきなのか。
いま、自分の中に抱えてしまったこの『秘密』を、彼に差し出すことが正しいのかどうか。
けれど、思えばきっと彼は、この事を隠し通すつもりだったのだろう。
いや、隠すというより――自分一人の中へと封じ込めてしまいたかったのだ。
誰にも、決して触れさせることのないように。
ならば、自分も知らないふりを貫いたほうがいいのだ。
穏やかな日常のまま、そっと寄り添い、何事もなかったように笑って見せるべきなのだ、と。
だとしても――だからといって、レギュラス一人にすべてを背負わせていいはずがなかった。
アランの胸には、どうしようもない葛藤が込み上げてくる。
重荷を知ってしまった今、静かに黙って寄り添うことはできても、
決して傍観者ではいられないのだ、と痛感した。
彼が背負ったその選択が、あまりにも大きな代償であったことを、
今ようやく知った。
気が遠くなるような禁忌――分霊箱。
それはただ命を奪うことではない。魂を切り裂き、魔法にすら触れてはならぬ闇の深部に踏み込むこと。
あの夜、闇の帝王の床に倒れた自分を、レギュラスはその恐るべき代償と引き換えに連れ戻してくれたのだ。
彼が何を差し出したのか、アランには想像もつかなかった。
だが分かる――それは命の重さ以上の、魂の破片をえぐり取るような痛みだったに違いない。
書斎の扉の奥で、秘密は今も眠る。
けれどアランの中では、確かに目を覚ましていた。
この先どこまで、彼を支えていけるのだろう。
絶望にも似た魔法の影を抱えたまま、笑顔の奥で痛みを隠して生きる彼を、
自分は本当に――最後まで、守れるのだろうか。
不安の波が、静かに心に広がっていく。
それでもアランは、唇を震わせながらも胸に言い聞かせた。
「もう、レギュラスを独りにはしない――」
その想いが、震えながらも確かに胸に灯った、小さくも強い誓いだった。
夜の冷たい雨が、まるでアリスの胸に降り注いでいるようだった。
重く沈む空の下、彼女はひとり書類の束を抱えながら、魔法省の一角にある薄暗い閲覧室の窓際に立っていた。
指先は震えていた。怒りからか、悔しさからか、それとも――どうしようもない無力感からか。
彼女の瞳は逸らすことなく一点を見据え、浅く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
レギュラス・ブラック。
あの男を、今度こそ追い詰められるはずだった。
後消し呪文――明らかにレギュラスの魔力で放たれた痕跡。
それは確かな証拠に成り得た。魔法界が公に認める正義の道具となり得るものだった。
それなのに、奴は冷静に、そしてあまりにも鮮やかに――逃げおおせた。
自身の魔力反応があったことを否定せず、むしろそれを別件の任務によるものであると語り、孤児院は「巻き込まれただけ」と言い放った。
あくまで冷静に、誤魔化すのではなく「論理的に」かわしたのだ。
アリスの拳が知らず、静かに震えていた。
悔しかった。あまりに悔しかった。
「アランを……あんな場所に閉じ込めておいて。あの人の、光を――また闇に縛りつけて……!」
心から願っていたのだ。
レギュラスをアズカバンに送り込み、ようやくアランをその影から解放できると。
あの人がシリウスの隣にいなくても、それでいい。
ただ――もうこれ以上、闇に魂を削られるような男のそばに、いてほしくなかった。
以前のアランの瞳には、確かに澄んだものがあった。
純粋で、どこか壊れそうで、それでもまっすぐな光を放っていた。
だが今は――あの人の中の光が、静かに陰っていくように思える。
アリスは、怖かった。
レギュラスが何をしたか。何を知っているのか。
そして、アランがそれでも彼を選び続けていることが――怖くてたまらなかった。
静かな、決意に似たものが胸に宿り始める。
――まだ終わってはいない。
どれだけ巧妙で、計算されつくした仮面に守られていようと、
闇はいつか、自らの重さに潰れてゆく。
だから私は、諦めない。
あなたを、あの人を、闇から救うために。
たとえそれが、私にとって報われない願いだとしても――。
窓に映る自分の瞳が、深く、静かに燃えていた。
それは希望にも似た悲しみ。そして、誰にも言えないほど純粋な祈りの色だった。
アリスは、廊下でジェームズとシリウスを見つけるや否や足早に近づいた。
彼女の声は震えていた。怒りと焦り、そして焦燥が喉の奥に積もって、抑えきれない気持ちがにじみ出ていた。
「どうして……どうして、もっとレギュラスを追い詰めようとしないの?
ブラック家まで行ったんでしょう?それなら、何か聞き出せなかったの?」
その言葉に、ジェームズとシリウスはお互いに一瞬だけ視線を交わした。
どちらの顔にも、はっきりとした苦い色が浮かんでいた。
シリウスは何も言わず、そのまま言葉を飲み込むように顔を伏せ、静かに自室へと姿を消していく。
その背を見送りながら、アリスの胸には、ぞっとするような不安が沸き上がってきた――
正義を何より信じるあのシリウスが、なぜ黙ってしまうのか。
どうして、あのレギュラスの前で何も突きつけてこなかったのか。
「アリス……」
隣に残ったジェームズが、低く静かな声で切り出す。
「君には酷なことかもしれない。でも、伝えなければならないと思う」
アリスは眉をひそめる。
「なに……?どういうことなの?」
ジェームズは慎重に言葉を選びながら、まるで氷を踏むように静かに言った。
「…… アランが、レギュラスを……庇っているように見えた。
少なくとも、君の思っているより、ずっとはっきりとした意思を持って――何かを、隠していた」
その言葉を聞いた瞬間、アリスの鼓動が耳の奥で荒々しく鳴り響いた。
思わず数歩、下がった。
「そんな……うそ……」
唇が震えた。言葉が形にならない。
アランが?
光の中を歩く人だったはずの、あの人が――
自分を、命を賭して救ってくれた、あの優しさを持つ人が……
レギュラスを庇っている?
闇に踏み込んでしまった男を、理解し、受け入れようとしていると?
そんなの、馬鹿げてる……。
違う、違うはず。
「脅されてるのよ……レギュラスに。きっとそう。縛られてるの……そうに決まってる……」
言いながら、自分がそれを願ってしまっていることに気づいた。
そうでなければならない、と。
だってそうでなければ――あの人は、自分の光を……自ら手放してしまったということになる。
アリスはその場に立ち尽くし、遠ざかっていったシリウスの扉をじっと見つめていた。
彼もまた、何かを知っているのだ――それが彼の“沈黙”という重さになっていた。
胸の奥が締めつけられる。怒りでも絶望でもない、言葉にできない哀しみだった。
アラン、どうして。
どうしてあなたは、そんなにも静かに、あの男を守るの?
それほどに深く、闇を見つめられる目を、いつの間に持ってしまったの?
アリスの瞳に、光がにじんだ。
それは涙ではなかった――
けれど、確かにその一滴手前にある、最も繊細な哀しみの輝きだった。
