4章
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大広間の奥深く、漆黒の闇を纏った長机を中心に、無数のローブが並ぶ。
その中心に立つ“闇の帝王”トム・リドルの声が、冷たく響き渡った。
「レギュラス・ブラック、今日はお前に話がある」
その声と共に、ガラス張りの窓外から差し込む月光が一瞬遮られ、
大勢のデスイーターたちの視線が一斉にレギュラスへと注がれた。
ヴォルデモートは無言で、鋭い瞳をレギュラスに据えたまま歩み寄る。
その気配は凍りつくように重く、全身の血液が逆流するような不安が胸に走った。
「お前の――妻はいつだったか、俺様と“破れぬ誓い”を立てたはずだ」
暗い声が低く響く。
レギュラスは僅かに痺れた唇を噛みしめながら、答えた。
「はい、覚えております」
だが、胸の奥では激しい波紋が広がっていた。
アランの名を、あえてこの場で口に出すとは。
――何を企んでいるのか。
重苦しい嫌な予感が全身を駆け巡り、
レギュラスの視界はわずかに揺らめいた。
ヴォルデモートは冷笑を浮かべもせず、
ただその深い黒い瞳でレギュラスを見下ろし続けた。
大広間に張り詰めた緊張は、誰の言葉を待つことなく、
凍えるように重いまま、際限なくこの夜を支配していた。
漆黒の大広間に、冷たい沈黙がずしりと垂れ込めていた。
レギュラスの前に立ったヴォルデモートが、低く、不穏な声を響かせる。
「これが裏切りかどうかは、まだ判断しかねているところだが……」
デスイーターたちの衣擦れの音すら止み、全ての意識がひとつの点に収束する。その重圧の中で、ヴォルデモートはわずかに身を寄せて続けた。
「マグルの女を逃したという証言が、出ている――
お前は、このことを知っているのか?」
アリス・ブラックのことだ。
レギュラスにはすぐに分かった。
誰かが目撃したのだろう。事態の重大さが、一瞬で全身に巡った。
心臓が冷たく締めつけられる。
答えを探そうとするほど、言葉が霧のように逃げていった。
「……聞こえぬか?」
その声は鋼のように鋭かった。
レギュラスは極限まで冷静を装い、
「いえ、妻に限って、マグルを救うなどあり得ません」
と口を動かす。
ヴォルデモートの眼が細められ、不穏な微笑みが宙に漂う。
「俺様も、そう信じたい。――だから、聞こうではないか。
アラン・ブラックを、ここに呼ぶがいい」
全身が硬直する。
それは命令であり、断れば即座に裏切りとみなされるだろう。
だが、呼べば最後だった。間違いなく、アランは殺される。
レギュラスの中に、絶望に似た感情が湧きあがる。
激しい葛藤と恐怖が、骨の髄まで彼を凍えさせる。
唇が震え、呼吸すらままならなかった。
大きな闇の中、ただ運命の残酷さだけが、ひどく鮮烈に存在していた。
レギュラスは、その場に立ち尽くしたまま、まるで自分の肉体が誰か他人のものになったかのように、思うように動けなかった。
この闇の大広間で、ヴォルデモートの命令に従ってアランを連れてくる――
それは、逃げ場などどこにもない死刑台へ、自分の愛する妻を差し出すことに等しい。
この世のどんな理屈を重ねても、選べるはずもない選択だった。
目を上げると、ヴォルデモートの赤い瞳がじっと己を監視している。
冷徹な支配者の眼差しの前では、どんな感情も通用しない。
何かを言おうと唇がわずかに動くが、声は喉の奥で張り付いたまま出てこなかった。
――アリス・ブラックの件は、事実だった。
アランはあの夜、間違いなくマグルの女を見舞っている。
必ず認めざるを得ない。
それは即ち、ヴォルデモートへの露骨な裏切りとして断罪されるだろう。
息が詰まるほど、胸の奥で絶望が渦を巻いた。
その時、闇の帝王はふいに手を掲げ、冷ややかに言い放った。
「ベラトリックス、アラン・ブラックを丁重にお連れしろ」
ベラトリックス・レストレンジの口元に、猛獣のような笑みが広がる。
望んでいた展開であるかのように、満足げに頷いた彼女は、黒いローブを翻しながらその場から消え去った。
静かに、重く、終わりの予感だけを残して――
レギュラスはただ、その場で凍りついたように、目を伏せることしかできなかった。
頭上の大広間のシャンデリアに煌めく燭光が、遠く悲しげに揺れていた。
レギュラスは無意識に歯を噛みしめ、頭を必死に回転させていた。
ここからアランを救い出せる方法があるはずだと、何を差し出せばこの闇の帝王が見逃してくれるのか――
どれほど思考を巡らせても、答えは一向に浮かんでこなかった。
ふいに背後から冷たい気配が迫り、ベラトリックス・レストレンジがアランを連れてやってきた。
乱暴に背中を押すようにして、ヴォルデモートの前へと突き立てる。
アランはすっと膝を床につけ、静かに礼をした。
幽玄なシルエットを描くその姿は、この恐ろしい場の空気に似つかわしくないほど美しく、凛としていた。
レギュラスの胸に、凍りつくような絶望が溢れかえった。
愛する者を差し出さねばならぬ現実と、彼女の毅然とした態度。
その対比は、彼の心を鋭く抉る。
月光が大広間の高窓から零れ、煌めく燭火の影を二人の影に落とす。
その刹那、レギュラスは初めて言葉を失い、ただアランの姿を見詰めるしかなかった。
「久しいな―― アラン・ブラック」
闇の帝王の声が、冷たい大理石の床を這うように広がる。
アランは膝をついたまま、ゆっくりと深く頭を垂れ、その顔を上げようとはしなかった。
ヴォルデモートはその様子に一切構わず、淡々と続ける。
「お前に確認しておきたい事がある」
「……はい」
アランの声は静かだったが、微かな震えを孕んでいる。
その響きは、広い大広間の緊張と孤独に溶けていく。
「マグルを――逃したのは事実か?」
問われて、アランは沈黙した。
唇は微かに動くが、声にならない。
この場で何と応えればよいのか、正解が見つけられないまま。
重苦しい沈黙が広がり、空気が刺すように冷たくなる。
次の瞬間、ベラトリックスが鋭い怒声を放つ。
「答えなアラン! お前は闇の帝王に問われているのよ!」
その叫びが大広間に響く瞬間、アランの肩が小さく震えた。
美しく整えられた姿勢のままでありながら、その背には恐れと覚悟、言葉にはできぬ葛藤の全てが滲み出ている。
彼女の沈黙は、どんな言葉よりも雄弁にすべてを物語っていた。
広がる静寂のなか、レギュラスの心は絶望で満たされ、
運命の刻が無慈悲に迫ってくる音を、胸の奥で聞き続けるしかなかった。
闇の帝王の声が、まるで冷たい刃のようにアランを切り裂いた。
「お前のような、美しい女を失うのは残念だろう」
その言葉は、レギュラスの胸の奥底を正確に射抜くかのように響いた。
まるで彼の心を読むかのような残酷な囁きに、血の気が一気に引いていく。
ベラトリックスは帝王のその一言を待ち構えていたかのように、
魔法の杖を翻し、アランに向かって呪文を放った。
最初の呪文は、拷問の苦痛を与える冷酷な呪い。
アランの体が、床に膝まずいたまま硬直し、
次の瞬間、そのまま崩れ落ちる。
だが拷問はそれだけに終わらない。
ベラトリックスは連続して呪文を浴びせかけ、
アランの悲鳴が大広間の壁にこだまし、
月光をも震わせて響き渡った。
レギュラスの世界は一瞬で崩れ去った。
目の前で、最愛の妻が、アラン・ブラックが、
この世でもっとも苦しい呪文を受け続けている。
胸の奥で何かが砕け、
理性は霧のように消え去り、
ただ痛みと絶望だけが、彼を貫いた。
大理石の床に散った彼女の髪を見つめ、
レギュラスの瞳には、怒りと無力感が同時に燃え上がっていた。
闇の大広間に満ちる冷たい空気の中、ヴォルデモートは冷徹な声で言葉を放った。
「見よ、何と美しい。
マグルの女を拷問した時は、あれほど醜く汚かったが、
純血の女はこんなにも美しい」
その瞳は薄笑いを湛え、まるで珍奇な獲物を眺めるかのようにアランを見下ろしている。
アランは床に倒れたまま、長い黒髪が床に散らばり、儚く広がっていた。
艶やかさと痛みが入り混じったその姿を、ベラトリックスの拷問が容赦なく痛めつけていく。
アランの苦しみの叫びは、重厚な壁にこだまし、闇に覆われた屋敷の中に凍りつくように響いた。
耐え忍ぶアランの意識は薄れ、やがて朦朧としていく。
そのか細い声が、静かに取り残された闇の中で震えた。
ヴォルデモートは冷酷に問いかける。
「お前は命を差し出した。次は何を俺様に差し出せるというのだ?」
空気が凍りついたように重く、反論の余地はなかった。
だが、その問いかけに応えたのはレギュラスだった。
「シリウス・ブラックを必ず討ち取ります」
その声は必死だった。
最愛の妻を救いたい一心から放たれた切実な誓い。
絶望の縁に追い詰められながら、どうにかしてアランを失うことのない未来を掴もうとする叫びだった。
だが、ヴォルデモートの冷ややかな目は一瞬も揺るがなかった。
「それでは足りぬ」
静かな断罪の声に、大広間に引き裂かれたような重苦しい沈黙が落ちる。
絶望の淵に立つレギュラスの胸は裂けんばかりの痛みで満たされていく。
今まさに、目の前で愛する妻が折れ、砕かれるのを見ているのに、
彼はまだ抗い、生き延びさせる希望を必死で掴もうとしていた。
だが、闇の帝王はその希望を無慈悲に握り潰し、
さらなる犠牲を求める。
窓の外では、夜明け前の淡い光が静かに世界を包み始めていた。
それでもこの闇の大広間の中では、終わりの見えぬ狂気と絶望の時だけが、
いまも息を潜めていた。
レギュラスの瞳に浮かぶ熱い涙は、
燃え尽きることのない抗いの炎の証だった。
ベラトリックスは冷たい闇に包まれた大広間の隅で、満足げに微笑んでいた。
この女、アラン・ブラックは必ずいつか綻びを見せると、彼女は確信していたのだ。
過去に何度か耳にした、シリウス・ブラックとの密かな関わりの話。
その情報に目を鋭く光らせ、心の奥底で機会を狙い続けてきた。
そしてついに彼女の予想は的中した。
マグルの女を見舞うという愚かな行為を重ね、ブラック家の名誉を地に落とそうとしたアランの無謀さに。
大理石の床に跪き、苦痛に耐えきれず震えるその姿は、かつて美しく囃し立てられた女の面影など遠い昔のものに感じられた。
ベラトリックスが放つ呪文の冷たさに、息も絶え絶えで必死に耐えるアラン。
それはまるで、自身が織り成した虚飾の仮面が、ひとつずつ剥がされていくようだった。
「このまま、貴様はくたばるがいい」
彼女の声には冷酷で残忍な喜びが満ちている。
痛みに喘ぐアランの姿が、何よりもベラトリックスの心を満たした。
あの華やかな時代の記憶は遠く霞み、密やかな悲鳴だけがこの重苦しい空間を支配する。
ベラトリックスはゆっくりと魔法の杖を翳し、次の呪文の言葉を紡いだ。
その一言一言が、アランの体と魂をさらなる苦悶へと引きずり込む。
容赦なき拷問の中に、冷酷な勝利の味を噛み締める彼女の瞳は、暗闇の中で一層鋭く輝いていた。
この女の崩壊と、ブラック家の凋落に、
ベラトリックスは疑いようのない快感を覚えていたのだ。
その夜、大広間は悲鳴と嘆きで満ちる一方、
一切の同情や憐れみなど存在しなかった。
ただ冷徹な闇の支配があっただけだった。
拷問の苦痛が身体を焼き尽くす中、アランの意識は遠のきかけていた。
それでも心の奥ではひとつの問いが絶えず反響していた。
「私は、何を差し出せるのだろうか?」
その問いに浮かぶ答えはいつも同じだった。
もうこの身で差し出せるものは何も残っていない――
あまりにも非力な自分という存在を痛感するばかりだった。
魔法の才もなければ、戦の先陣を切る器も持たず。
ただの、名門純血の一族に生まれた普通の女に過ぎないのだと。
その時、辛うじて意識を保つ視界の隅に、レギュラスの姿が映った。
苦痛に顔を歪ませているように見えたが、それでも彼の存在が彼女の中に温かな光を灯す。
「そんな顔をしないで」
心の中でそっと願う。
この人には、凛とした誇り高い姿が似合うのだから。
驚くほどに、今この瞬間に頭をよぎるのは、シリウスのことでも、アリスのことでもなかった。
ただただ、レギュラス・ブラックへの想いだけだった。
愛していたのだと――きっと。
シリウスへの愛し方とは違ったけれど、レギュラスを愛したことは真実だった。
彼に感謝し、そして詫びたい気持ちが胸を締め付ける。
生きている間に言えなかった言葉が、痛みの中で静かに溢れだす。
彼女は弱りながらも、その小さな胸に抱いた愛と後悔を、誰にも見せることなく、息を潜めて守り続けた。
薄闇の中、彼女の心は揺れ動きながらも確かに輝いていた。
追い詰められた絶望の中で、レギュラスは最後の賭けに出た。
「分霊箱について、お話があります」
その言葉が口を離れた瞬間、ヴォルデモートの表情が一変した。
冷酷な微笑みは瞬時に消え去り、赤い瞳に鋭い警戒の色が宿る。
まるで最も触れられたくない秘密を暴かれたかのように。
「皆、出ろ」
ヴォルデモートの声は低く、しかし絶対的な権威を帯びていた。
デスイーターたちは戸惑いながらも、一人また一人と大広間から姿を消していく。
「ベラトリックス、お前もだ」
最も信頼する部下であるベラトリックスでさえ例外ではなかった。
彼女は不満げな表情を浮かべながらも、主の命令に従わざるを得ない。
そして、まだかろうじて意識を保っているアランに向けて、ヴォルデモートは静かに杖を向けた。
失神の呪文が放たれる。
その瞬間、アランの身体から力が抜け、床に崩れ落ちた。
美しい瞼がゆっくりと閉じられ、苦痛に歪んでいた表情が穏やかになる。
まだ死んではいない――頭では理解していても、動かなくなった妻の姿を見つめるレギュラスの心は氷のように冷え切った。
静寂に包まれた大広間。
床に倒れるアランの傍らで、レギュラスとヴォルデモートだけが向き合っていた。
瀕死の愛する人を前にして、それしか方法はなかった。
禁忌とされる分霊箱の秘密を暴くことで、アランの命を救う――
それは悪魔との取引に等しい、危険極まりない賭けだった。
レギュラスの胸には、愛する妻への想いと、闇の帝王への恐怖が渦巻いていた。
だが今、彼にできることはただ一つ。
この最後の切り札を使って、アランを守り抜くことだけだった。
月光が差し込む窓辺で、二人の男の運命的な対話が始まろうとしていた。
ヴォルデモートは冷たく鋭い瞳でレギュラスを見据え、低い声で静かに言葉を紡いだ。
「分霊箱の話か。面白い。だが、それを持ち出すとは覚悟があるようだな」
周囲は人影が消え去り、二人だけがその重苦しい空間に立ち尽くしている。
ヴォルデモートの口元に僅かな笑みが浮かぶが、その眼差しは一切の容赦を忘れていなかった。
「何を望む、レギュラス・ブラック?」
その問いに、レギュラスは微かに震える手で言葉を紡ぐ。
「アランの命を」
胸に押し込めた痛みが声に乗り、揺れる瞳は真実の涙を湛えていた。
どんな危険を背負っても、彼女を救いたい――それだけが彼の全てだった。
ヴォルデモートは一瞬思案するように目を閉じた。
その逡巡の時間は、永遠にも短すぎるほどあっという間だった。
そしてゆっくりと言い放った。
「分霊箱の秘密を全て明かすのだな。よかろう。だが、その代価は大きいぞ」
言葉の余韻が満ちると、彼の姿により一層の威圧感が宿った。
レギュラスは覚悟を新たにし、重い呼吸をついた。
「全てを話します。何なりとお望みのままに」
闇の静寂のなかで、運命の歯車が動き出した。
生と死の瀬戸際で交わされる取引は、やがて周囲の運命をも左右することになるだろう。
レギュラスは、アランを救うために禁忌の扉を開く。
その決断が、二人の家族と、闇の世界の未来をどう変えていくのか、まだ誰も知らなかった。
月明かりが大広間を薄く照らし、静かな緊張が空気を満たしていた。
レギュラス・ブラックは、目の前の闇の帝王の奥底に潜む焦燥を読み取っていた。
ヴォルデモートがすでにいくつもの分霊箱を作り出したことも知っている。
だが、それでもまだ「足りない」と感じ、さらにその数を増やそうと執着していることを、レギュラスは理解していた。
不死を希求するあまり、いくら殺人を重ねても、
それだけで魂がきれいに分かたれるわけではないのだ。
特に――回数を重ね、繰り返し「罪」を刻んだ魂は、
ただ一つや二つの殺人で砕け散るほど単純なものでは決してなかった。
魂の裂け目は、段々と均質ではなくなり、
細分化された闇の欠片を無理やり閉じ込めようとすればするほど、
その成就からは遠ざかる。
レギュラスは、ヴォルデモートがその点で必ず躓いているはずだと確信していた。
今、自分が語ろうとしていることは、まさしく賭けだった。
自分は、闇の帝王に「彼が最も知りたいこと」を与えなければならない――
見返りに、大切な人の命を得ようとしている。
この瞬間、レギュラスは、自らがどれほど残酷な罪を抱えようとしているか分かっていた。
それでも、アランの姿、あの苦しむ身体、閉じられる瞳の光景が脳裏から離れなかった。
これ以外に、アランを救う方法は――どこにもない。
沈黙が長く降りた大広間。
床に倒れた妻の傍らで、レギュラスはゆっくりと口を開く。
「あなたは、既に多くの分霊箱を作りましたね。でもそれは、決して完全なものにはなり得ません。魂は数だけでなく、裂き方――その方法、強さ、罪の重さも関係しているのです」
ヴォルデモートの瞳が鋭く細まり、その視線の重みがレギュラスの全身に突き刺さる。
レギュラスはそれでも声を震わせないよう努め、淡々と続きを語った。
「魂は、単純な連続殺人による破壊では、いずれ裂けなくなります。
分霊箱を増やそうとするたびに、それはあなた自身の心を削り取る――
その境界を超えれば、あなたが求める“完全な不死”は永遠に手に入りません」
言葉を紡ぎながら、レギュラスの胸には引き裂かれる痛みが残った。
この話は、ヴォルデモートにとっても、自分にとっても危険すぎる。
自分がこれから与える「知恵」は、魔法界だけでなく人類への、おそらく最大の裏切りに等しい。
けれど、アランを救うためには、最も残酷で冷たい選択肢に身を投じるしかなかった。
床に横たわるアランの抜け殻のような姿を横目に、
レギュラスはすべてを賭けて、ただひとつ残った光を守ろうとしていた。
己の罪は、きっと未来に消えぬ傷として刻まれていく。
それでも――失いたくない。
彼女だけは。
それが、全てを差し出してまで手に入れたかった、
レギュラス・ブラックのささやかな幸福の形だった。
レギュラスは蒼白な顔で、床に倒れたアランを一瞬だけ見つめた。
痛みと自己嫌悪に胸を引き裂かれながらも、彼は静かに闇の帝王と向き合い、その声を抑えた。
「――どうすれば、より確実に分霊箱を増やせるのか。その方法をお知りになりたいのでしょう」
ヴォルデモートの目が細くなり、期待と警戒の光を湛える。
レギュラスはその強大な魔力の前でも、震える心を必死に抑えたまま話し続ける。
「魂は……どれほど殺しても、ただ大人を、ただ知らぬ者を仕留め続けていても、回数を重ねるほどに、もはや簡単には引き裂けなくなります」
「だが――」レギュラスは喉元を震わせ、言葉を絞り出す。「まだ幼く純粋な魂……無垢な子供――その命を奪ったとき、魂はより強く、深く引き裂かれるという例が、過去の闇の歴史に実際、複数記録されています」
「あまりにも罪深く、恐ろしい行為です。回数以上に重要なのは、“何を奪うか”“どんな魂で魂を引き裂くか”――その重さなのです」
ヴォルデモートの顔に、醜悪なほどの興味の色が浮かぶ。
「子供の魂……。純粋な者ほど、強くか」
レギュラスはただ必死に続ける。
「はい。子供は大人よりもずっと強く――魂の均衡を破壊します。分霊箱の器たる魔法も、裂け目も、より鋭く深くつくられる。
……けれど、その代償は、常に自分に還ります。自分の魂もまた、深く壊れていく」
その忠告が、どれだけヴォルデモートに響くのか、レギュラスには分からない。
だがここで、アランを救うために“最大限の知識”を差し出すしかなかった。
床に倒れ、昏睡したアランの気配はかすかに温もりを残している。
レギュラスの声に少しだけ哀願がにじむ。
「これ以上は何も申しません。どうか、アランの命だけは……」
沈黙が大広間を包む。
その重さは、これから二人に、そして世界に与えられるであろう罪までも包み込んでいるようだった。
ヴォルデモートがゆっくりとうなずく。
その表情には嗜虐的な満足と、暗黒の探究心が絡み合っていた。
レギュラスの胸に走る冷たい痛みと、祈りにも似た想い。
それは、罪と愛、生への渇望が交わる、境界線上の一瞬だった。
遥かな沈黙のあと、ヴォルデモートは鋭い眼差しをレギュラスに向け、口を開いた。
「よかろう。その情報と引き換えに、アラン・ブラックの命は奪わずにおいてやろう」
その言葉に、レギュラスは胸の奥が急速に緩んでいくのを感じた。張り詰めた糸が切れるのも忘れ、安堵のあまり今にもその場に崩れ落ちそうになった――
だが、最後の力でかろうじて立っている。
床に横たわるアランのもとへ駆け寄る。
彼女の髪は淡い光を吸い込むように床に散らばり、その表情には静かな苦しみの影が残っていた。
レギュラスは震える腕でアランをそっと抱き上げ、その体をしっかりと胸に引き寄せた。
大広間の扉を押し開けて外に出ると、廊下の向こうでベラトリックスがじっとこちらを見つめていた。
その顔にはどうしても理解できないという混乱が刻まれている。
――なぜ、帝王があの女を許したのか。
どんな取引をしたら、かつてない慈悲を引き出せるのか。
ベラトリックスにはその答えがどうしても分からない。
彼女の瞳には不満と猜疑が渦巻いていた。
レギュラスは彼女の視線を無視し、しっかりとアランの身体を抱えて廊下を歩いた。
すべてが恐ろしい賭けだった――
罪の重さがいずれ己を押し潰すだろうと知りながら、
ただ今は、愛する人の命を自分の腕の中で感じることだけが唯一の救いだった。
息を詰めるような夜の屋敷、薄暗い廊下を進みながら、
レギュラスの心は傷つきながらも、安堵と、深い静けさに包まれていた。
アランの微かな体温と、腕の重み。
それが、すべてを差し出した末に守り抜かれた、たったひとつの希望だった。
背後ではベラトリックスの疑念と屈辱が、静かな炎のように燻っていた。
だがレギュラスはもう振り返らなかった。
彼にとって、救い出した妻の重みだけがこの夜の現実だったのだ。
屋敷の静寂は、まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。
アランは、長きにわたる拷問の呪文を浴び、その身体は無力に床に横たわっていた。
その深い眠りは、まるで死の淵と生の境界をさまよう霧のなかにあるようだった。
だが、どんなに長く意識が遠のいても、彼女の重く閉じた瞼の裏には、わずかにあの温かな繋がりの記憶がちらつく。
レギュラスは彼女の傍らに膝をつき、静かに手を取った。
その手の冷たさに胸は締めつけられ、不安が膨れ上がった。
「アラン……目を覚ましてください」
声は震え、小さな呟きに変わる。
だが部屋の空気は重く、彼女の身体は動かない。
何度も何度も、名前を呼ぶたびに、その静寂に胸が切り裂かれるようだった。
過酷な拷問の痕跡が彼女の顔に残る。
細い頬には儚い青白さが宿り、呼吸は浅く、脈打つ音だけがかすかに響いていた。
レギュラスは目を細めて見守りながら、心の中で祈った。
「どうか……無事でいてほしい。あなたがこの苦しみから目覚めるまで、僕は待ちます」
その願いは言葉にすることもためらいながら、深い愛情に染まっていた。
時はゆっくりと流れ、屋敷の片隅に差し込む朝の光が鈍い輝きを放っていた。
その光は、今はまだ冷たい部屋をほのかに温めるだけだったが、
レギュラスはその一筋の光を、彼女が完全に戻る日の兆しとして確信していた。
今はただ、アランの傷ついた身体の側にひっそりと寄り添い、静かな時を共に過ごすしかなかった。
重く沈む瞼がゆっくりと動き出し、彼女の魂がこの世へと戻ってくるその日まで。
レギュラスの胸の中は、不安と愛しさと祈りで満ちていた。
そのすべてが織り成す繊細な感情は、言葉では到底伝えきれない、生きる強さの証だった。
程なくして、外の世界に忌まわしいニュースが流れた。
マグルの子供たちが大量に虐殺されたという凄惨な事件。
その手口は闇の帝王ヴォルデモートが関与しているのだろうと、誰の目にも明らかだった。
その知らせを耳にしたとき、レギュラスの胸に複雑な感情が渦巻いた。
被害者が純血の魔法使いでなく、マグルであるという事実に、どこかほっとする自分の心を感じ、愕然とした。
その汚れた心の在り様に、自らが耐えられないほどの嫌悪を覚えつつも、否定できなかった。
分霊箱の作成は、果たして成功したのだろうか。
しばらく経ってもヴォルデモートから何の言葉も届かないことに、レギュラスは表面的には平静を装っていたが、内心は不安で満ちていた。
それでも、この沈黙は帝王の満足の証と信じようとしていた。
もし結果が不満足であれば、それはすぐに、何らかの形で彼の怒りが示されるはずだった。
心のどこかで、救われたと感じていた。
命を賭けて差し出した情報が功を奏し、愛するアランの命が救われたという確かな事実。
震えそうな心を無理に押し込め、冷静を装う。
誰にも知られぬよう、蓋をするように。
「アランのために、仕方がなかったのだ」と。
だが、その心の奥底には後悔と葛藤が静かに沈殿し続けていた。
許されることのない罪の自覚と、愛する人を守るために選んだ道の残酷さ。
やがて夜が明け、屋敷に降り注ぐ淡い朝の光が、静かにレギュラスの顔を照らした。
彼の瞳はまだ曇っていたが、胸に秘めた祈りと決意は揺るがなかった。
未来に何が待ち受けていようと、
ただひたむきに、彼はアランを護り続けることを誓っていた。
季節は静かに移ろい、屋敷の中に新たな風が吹き込んできた。
アランは未だに深い眠りの中にあり、目を覚ますことはなかった。
子供たちが久しぶりに帰宅した日、アルタイルとセレナはその静かな寝室の扉を開けた。
長い眠りについた母の姿を前に、それぞれの顔には驚愕と深い悲しみの色が浮かんでいた。
アルタイルの瞳は母の無垢な寝顔をじっと見つめ、わずかに震えながら尋ねる。
「母さんは、いつから目を覚まさないんですか?」
レギュラスはその言葉を受け止めながらも、声を穏やかに保ち、ごまかすように言った。
「大丈夫です、そのうちきっと目覚めます」
しかし、心の奥は言葉とは違う。
──この子たちには決して知られたくなかった。
母の命と引き換えに、ヴォルデモートへ差し出した恐ろしい魔法の情報を。
もし真実が漏れたら、彼らの無垢な心もまた、痛みで裂かれてしまうのだろう。
それだけは、どうしても避けたかった。
「アルタイル」
レギュラスはふと顔を上げ、息子の瞳を見つめた。
その目の中に映る幼い不安を、静かに抱きしめるように。
「母さんは……今はまだ、旅の途中にいるんです」
答えになっていない返答だと、レギュラス自身もわかっていた。
しかし、多くを語れば、確実に知らぬ者すらも巻き込む何かが露呈してしまう。
それが彼の持つ恐怖だった。
セレナはゆっくりと母の手を取り、冷たくなったその指先にそっと自分の温もりを重ねた。
小さな手が震え、それでも母への祈りを込めるように。
レギュラスはその様子を見つめながら、胸の奥で葛藤と痛みを噛み締めていた。
愛する妻の命を救うために選んだ道は、確かに正しかったのか。
けれど、その代償はあまりにも重く、子供たちの未来さえも恐ろしく不透明にしてしまった。
窓の外、季節の風が静かに揺れる。
屋敷の静寂の中で、家族はそれぞれの想いを胸に抱き、
やがて訪れるであろう光のための小さな希望を探し続けていた。
屋敷の重厚な扉が一つ、また一つと閉ざされ、最後の余燼のように残っていた女たちはすべて引き上げさせられた。
レギュラス・ブラックは静かに、その光景を見届けていた。
かつて命じられ、ほんの数度だけ義務を果たしたその夜は、淡い灯の下で冷たく終わった。
誰一人、この家の跡取りとなる命を宿してはくれなかった。
女たちの責任ではない。むしろ、回数を重ねることを怠った結果だったと、――レギュラス自身が深く理解していた。
闇をはらうように決意が胸を満たす。
二度と、他人がこの屋敷に上がることは許さない。
アラン以外の腕に抱くことは、もう二度とないのだと。
その意思は揺るがず、たとえオリオンやヴァルブルガからの非難を浴びても変わることはなかった。
「家の存続を考えれば、跡継ぎの確保は最優先のはずだ」との声が飛んできたが、レギュラスは静かに首を振るだけだった。
彼の瞳には、初めて見るほどの強い決意が宿っていた。
代わりに――彼はアルタイルの未来を急いで整えた。
息子がこの家の名を継ぎ、揺るぎない絆で結ばれるよう、婚約を急がせたのだ。
夜の書斎で、一冊の婚約契約書を前に、アルタイルは父の眼差しを見上げた。
その瞳には、期待と戸惑いが入り混じる。
「これが、家族を守るための道なのだ」とレギュラスは穏やかに言い聞かせる。
「お前の未来には、誇りと責任が待っている」
外では、冬の冷たい風が屋敷を吹き抜ける。
だがその中で、レギュラスの胸に灯った炎は――
深い後悔と失われたものへの愛惜を抱えながらも、どこまでも静かに燃え続けていた。
顔合わせの儀が行われた日、アランは依然として深い眠りの中にあった。
そのまま母は覚めることなく、儀式は静かに、しかし冷たく進められていった。
婚約相手の少女は、アルタイルの記憶どおり、表情をほとんど変えることなく、薄く礼儀正しさだけを保っていた。
ニコリともせず、感情をほとんど表に出さないその様子に、アルタイルは戸惑いを隠せなかった。
彼もまた、礼儀を尽くし、冷たい空気の中で精一杯の敬意を示そうとした。
明るくて無邪気な妹のセレナ、そしていつも穏やかで優しい母のもとで育ったアルタイルにとって、
こんな冷たく閉ざされた目で見つめる少女は初めてだったのだ。
どう接してよいのか、その態度の読み取り方すらわからず、彼の胸には不安が重くのしかかった。
儀式の後、レギュラスと並んで歩きながら、アルタイルは静かに口を開いた。
「父さん、あの子、母さんとは全然違いましたね」
「そうですね。あの子はクールな子でしたね」とレギュラスは短く応えた。
父の刹那的なその表現の仕方に、アルタイルは心の中で感心した。
だが、続けてぽつりと呟く。
「僕、果たしてあの子を愛せるでしょうか……」
彼の声は弱々しく、未来への不安が透けていた。
「大丈夫ですよ」
レギュラスは落ち着いた声でそう答えた。
しかし、父の「大丈夫」に、アルタイルの心は全く響かなかった。
なぜならレギュラスには、初めからアランを深く愛した過去があり、
どんな困難があっても、その愛を胸に婚約へと辿り着いた事実があるからだ。
アルタイルの置かれる状況はまったく違う。
幼い頃から明るく愛情に満ちた日々と共に育ち、
いきなり冷たい知らぬ世界に踏み込む彼にとって、父の無邪気な楽観は、到底励ましにはならなかった。
そのギャップに、胸は締めつけられ、将来への重い責任がのしかかる。
恋愛も知らず、慣れない冷たい視線を受け止めなければならない自分の幸せが、信じられなかったのだ。
長い夜が静かに更けていくなか、アルタイルはひとり深い思索に沈み、
新たな人生への戸惑いと、薄明かりのような希望を胸に抱きながら、静かに目を閉じた。
ある穏やかな午後、奇跡は静かに訪れた。
アランの瞼がゆっくりと震え、長い眠りから覚めるように、その瞳がそっと開かれた。
レギュラスは、その瞬間を見逃さなかった。
彼はすぐさま駆け寄り、震える手でアランを抱きしめた。
その腕の中に収まる彼女の温もりを確かめるように、強く、優しく。
「よかった……よかった……」
何度も何度も、その言葉だけが口から零れ落ちる。
声は震え、安堵が全身から滲み出ていた。
これまで胸に抱え続けてきた不安と恐怖が、一瞬にして霧散していく。
アランの瞳がゆっくりとレギュラスを捉える。
まだ朦朧とした意識の中でも、彼女の唇が微かに動く。
「レギュラス……」
かすれた声だったが、それは彼にとって天使の歌声にも等しかった。
「僕はここにいます。もう大丈夫です」
レギュラスは彼女の頬に手を添え、涙が頬を伝うのも構わずに微笑んだ。
この瞬間、彼の心に浮かぶのは深い満足感だった。
大きな犠牲を払ったことも、禁忌の情報を闇の帝王に渡したことも、
すべてがこの幸福の前では霞んで見えた。
アランが生きて目を覚ましてくれた――
それだけで、すべてが正しい選択だったのだと確信できた。
彼女の命を救えたのなら、どんな代償も意味があったのだと。
「子供たちは……?」
アランの弱々しい声に、レギュラスは優しく答える。
「みんな元気です。アルタイルも、セレナも。あなたが目覚めるのを待っていました」
その言葉に、アランの瞳に安堵の色が宿る。
窓から差し込む午後の光が、二人を柔らかく包んでいた。
長い闇の後に訪れた光明は、何にも代え難い贈り物だった。
レギュラスにとって、アランの目覚めは全てにおいての正義であり、
絶対的な幸福だった。
彼女の生きる息遣いを感じながら、彼は静かに涙を流し続けた。
すべての苦悩と犠牲が、この一瞬の奇跡によって報われたのだと――
心の底から信じることができたのだった。
アランが目を覚ました瞬間、彼女の心には確信に近い直感が走った。
あれほど絶望的で、死の淵に立たされた状況から、こうして生きて戻ることができたのは――
きっとレギュラスが、とんでもない代償を払ったからに違いない。
彼女の記憶には、ベラトリックスの拷問と、ヴォルデモートの冷酷な眼差しが鮮明に残っていた。
あの場で助かるなど、普通ならばあり得ないことだった。
だからこそ、レギュラスが何を犠牲にしたのか――その答えが怖くて仕方がなかった。
「どんなことを……」
言いかけて、アランは言葉を飲み込んだ。
知りたい気持ちと、知るのが恐ろしい気持ちが胸の中で激しく葛藤する。
もしかすると、取り返しのつかない何かを、彼に背負わせてしまったのではないか。
その可能性に、彼女の心は締め付けられた。
静かな沈黙が流れる中、アランは震える声で呟いた。
「ごめんなさい、レギュラス……」
その言葉には、深い後悔と申し訳なさが込められていた。
何か大きなもの、取り返しのつかないものを背負わせてしまったことへの詫びだった。
レギュラスは優しくアランの手を握り、穏やかに答える。
「いいんです。何もかも、いいんです」
その声には、確固たる決意と愛情が宿っていた。
どんな代償を払おうとも、彼女が生きていてくれることが何よりも大切だという想いが。
アランの瞳には涙が滲み、彼女は自分の無力さを痛感していた。
愛する人に重い負担をかけてしまった事実を受け止めきれずにいる。
「私のために……あなたは……」
「何も考えなくていいんです」
レギュラスは彼女の頬に手を添え、優しく微笑んだ。
「あなたが生きていてくれる。それだけで十分です」
二人の間に流れる静寂は、言葉では表現できない深い愛情で満ちていた。
代償の重さを感じながらも、互いを思いやる心が、その重荷を少しずつ和らげていく。
窓の外では鳥たちが囀り、新しい一日が静かに始まろうとしていた。
過去の傷跡を抱えながらも、二人は再び歩み始める準備を整えていた。
アランは寝室の片隅で、そっと立ち上がる練習を始めていた。
長い眠りの後、足に力が入らず、まともに歩くことすらできなかった。
何歩かよろめくように進んだところで、ばたりと床に倒れ込んでしまう。
手すりのある階段まで行くことができれば、そこを支えにして歩けるかもしれない――
そんな希望を胸に、彼女は床を這うようにして、懸命に前へ進もうとした。
「アラン、何をしているんですか。呼んでください」
背後からレギュラスの慌てた声が聞こえる。
彼は急いで駆け寄り、床に這うアランの身体をそっと支え上げた。
「練習をしないと……と思って」
アランの声は弱々しく、それでも意志の強さが滲んでいた。
「無理はやめてください」
レギュラスは優しくも厳しい口調で彼女を諭す。
その腕の中で、アランの身体は羽根のように軽く、儚げだった。
アランの心には、早く自分の足でしっかりと立たなければという焦りがあった。
使用人から聞かされた話が、彼女の胸に重くのしかかっていたからだ。
レギュラスが屋敷にいた令嬢たちを、一人残らず帰らせたという事実。
それは、ブラック家の跡継ぎ問題を放棄するに等しい決断だった。
オリオンとヴァルブルガが、それを快く思うはずがない。
目を覚まさない女のために、こんな重大な決断をするなど、
あまりにもこの家の在り方からかけ離れていた。
「私が……私がもっと早く目を覚ましていれば……」
アランの瞳に涙が滲む。
自分の無力さと、愛する人に与えてしまった負担の重さに押し潰されそうになる。
「そんなことは考えなくていいんです」
レギュラスは彼女を抱き起こしながら、穏やかに言い聞かせる。
「僕の決断です。後悔はありません」
だが、アランは知っていた。
この屋敷で生きるということの厳しさを。
家族の期待と重圧の中で、どれほど孤独な戦いを強いられるかを。
レギュラスが払った代償は、きっと自分が想像する以上に大きいのだろう。
その事実に向き合うのが怖くて、それでも現実と向き合わなければならない複雑さに、
彼女の心は揺れ続けていた。
窓の外では夕日が静かに沈み、長い影が部屋を包んでいた。
二人の愛は深く、美しいものだったが、
同時に重い運命の鎖に縛られた、儚い光でもあった。
アランが目を覚ましてから、レギュラスの献身ぶりは異常なほどだった。
歩こうとすれば、すぐさま彼女の身体を支え、
食事の時間になれば、ナイフで丁寧に料理を切り分けてやり、
些細なことまで気にかけて世話を焼く。
その姿は、まるで壊れやすい陶器を扱うかのように慎重で、
愛おしさに満ちていた。
アランは、その過度な優しさにひたすら困惑していた。
何が、これほどまでにレギュラスを駆り立てているのだろうか。
彼の瞳に宿る深い愛情と、時おり見せる安堵の表情。
それらすべてが、彼女には理解できなかった。
記憶を辿ると、最後にしっかりと話した時のことが蘇る。
あの時のレギュラスの瞳は、自分に対して絶望的なほど冷たかった。
媚薬を飲ませて、エメリンドの部屋へと向かわせた夜。
「この家の未来のために、務めを果たすべきです」
そう言って彼を突き放したのは、他でもない自分だった。
重ねた手を払いのけられた時の、あの痛々しい表情も忘れられない。
レギュラスがどれほど深く傷ついたか、アランは痛いほど理解していた。
それなのに――
目覚めてからの彼は、まるであの夜のことなど何もなかったかのように、
穏やかで、献身的すぎるほど優しかった。
「レギュラス……」
アランは彼の手を見つめながら、静かに呟く。
「あなたは、なぜそんなに……」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
何かを問い詰めるのが怖かった。
この優しさの裏に隠された真実を知るのが、恐ろしかった。
レギュラスは微笑みながら、彼女の頬に手を添える。
「何も考えなくていいんです。ただ、元気になってください」
その声は穏やかだったが、どこか必死さも含んでいた。
まるで、彼女を失うことを何よりも恐れているかのように。
アランの胸には、言いようのない不安が渦巻いていた。
この異常なまでの優しさが、何かとてつもない犠牲の上に成り立っているのではないか――
そんな予感が、彼女の心を重く押し潰していた。
夕暮れの光が部屋を染める中、
二人の間には深い愛情と同時に、
言葉にできない秘密の影が横たわっていた。
その中心に立つ“闇の帝王”トム・リドルの声が、冷たく響き渡った。
「レギュラス・ブラック、今日はお前に話がある」
その声と共に、ガラス張りの窓外から差し込む月光が一瞬遮られ、
大勢のデスイーターたちの視線が一斉にレギュラスへと注がれた。
ヴォルデモートは無言で、鋭い瞳をレギュラスに据えたまま歩み寄る。
その気配は凍りつくように重く、全身の血液が逆流するような不安が胸に走った。
「お前の――妻はいつだったか、俺様と“破れぬ誓い”を立てたはずだ」
暗い声が低く響く。
レギュラスは僅かに痺れた唇を噛みしめながら、答えた。
「はい、覚えております」
だが、胸の奥では激しい波紋が広がっていた。
アランの名を、あえてこの場で口に出すとは。
――何を企んでいるのか。
重苦しい嫌な予感が全身を駆け巡り、
レギュラスの視界はわずかに揺らめいた。
ヴォルデモートは冷笑を浮かべもせず、
ただその深い黒い瞳でレギュラスを見下ろし続けた。
大広間に張り詰めた緊張は、誰の言葉を待つことなく、
凍えるように重いまま、際限なくこの夜を支配していた。
漆黒の大広間に、冷たい沈黙がずしりと垂れ込めていた。
レギュラスの前に立ったヴォルデモートが、低く、不穏な声を響かせる。
「これが裏切りかどうかは、まだ判断しかねているところだが……」
デスイーターたちの衣擦れの音すら止み、全ての意識がひとつの点に収束する。その重圧の中で、ヴォルデモートはわずかに身を寄せて続けた。
「マグルの女を逃したという証言が、出ている――
お前は、このことを知っているのか?」
アリス・ブラックのことだ。
レギュラスにはすぐに分かった。
誰かが目撃したのだろう。事態の重大さが、一瞬で全身に巡った。
心臓が冷たく締めつけられる。
答えを探そうとするほど、言葉が霧のように逃げていった。
「……聞こえぬか?」
その声は鋼のように鋭かった。
レギュラスは極限まで冷静を装い、
「いえ、妻に限って、マグルを救うなどあり得ません」
と口を動かす。
ヴォルデモートの眼が細められ、不穏な微笑みが宙に漂う。
「俺様も、そう信じたい。――だから、聞こうではないか。
アラン・ブラックを、ここに呼ぶがいい」
全身が硬直する。
それは命令であり、断れば即座に裏切りとみなされるだろう。
だが、呼べば最後だった。間違いなく、アランは殺される。
レギュラスの中に、絶望に似た感情が湧きあがる。
激しい葛藤と恐怖が、骨の髄まで彼を凍えさせる。
唇が震え、呼吸すらままならなかった。
大きな闇の中、ただ運命の残酷さだけが、ひどく鮮烈に存在していた。
レギュラスは、その場に立ち尽くしたまま、まるで自分の肉体が誰か他人のものになったかのように、思うように動けなかった。
この闇の大広間で、ヴォルデモートの命令に従ってアランを連れてくる――
それは、逃げ場などどこにもない死刑台へ、自分の愛する妻を差し出すことに等しい。
この世のどんな理屈を重ねても、選べるはずもない選択だった。
目を上げると、ヴォルデモートの赤い瞳がじっと己を監視している。
冷徹な支配者の眼差しの前では、どんな感情も通用しない。
何かを言おうと唇がわずかに動くが、声は喉の奥で張り付いたまま出てこなかった。
――アリス・ブラックの件は、事実だった。
アランはあの夜、間違いなくマグルの女を見舞っている。
必ず認めざるを得ない。
それは即ち、ヴォルデモートへの露骨な裏切りとして断罪されるだろう。
息が詰まるほど、胸の奥で絶望が渦を巻いた。
その時、闇の帝王はふいに手を掲げ、冷ややかに言い放った。
「ベラトリックス、アラン・ブラックを丁重にお連れしろ」
ベラトリックス・レストレンジの口元に、猛獣のような笑みが広がる。
望んでいた展開であるかのように、満足げに頷いた彼女は、黒いローブを翻しながらその場から消え去った。
静かに、重く、終わりの予感だけを残して――
レギュラスはただ、その場で凍りついたように、目を伏せることしかできなかった。
頭上の大広間のシャンデリアに煌めく燭光が、遠く悲しげに揺れていた。
レギュラスは無意識に歯を噛みしめ、頭を必死に回転させていた。
ここからアランを救い出せる方法があるはずだと、何を差し出せばこの闇の帝王が見逃してくれるのか――
どれほど思考を巡らせても、答えは一向に浮かんでこなかった。
ふいに背後から冷たい気配が迫り、ベラトリックス・レストレンジがアランを連れてやってきた。
乱暴に背中を押すようにして、ヴォルデモートの前へと突き立てる。
アランはすっと膝を床につけ、静かに礼をした。
幽玄なシルエットを描くその姿は、この恐ろしい場の空気に似つかわしくないほど美しく、凛としていた。
レギュラスの胸に、凍りつくような絶望が溢れかえった。
愛する者を差し出さねばならぬ現実と、彼女の毅然とした態度。
その対比は、彼の心を鋭く抉る。
月光が大広間の高窓から零れ、煌めく燭火の影を二人の影に落とす。
その刹那、レギュラスは初めて言葉を失い、ただアランの姿を見詰めるしかなかった。
「久しいな―― アラン・ブラック」
闇の帝王の声が、冷たい大理石の床を這うように広がる。
アランは膝をついたまま、ゆっくりと深く頭を垂れ、その顔を上げようとはしなかった。
ヴォルデモートはその様子に一切構わず、淡々と続ける。
「お前に確認しておきたい事がある」
「……はい」
アランの声は静かだったが、微かな震えを孕んでいる。
その響きは、広い大広間の緊張と孤独に溶けていく。
「マグルを――逃したのは事実か?」
問われて、アランは沈黙した。
唇は微かに動くが、声にならない。
この場で何と応えればよいのか、正解が見つけられないまま。
重苦しい沈黙が広がり、空気が刺すように冷たくなる。
次の瞬間、ベラトリックスが鋭い怒声を放つ。
「答えなアラン! お前は闇の帝王に問われているのよ!」
その叫びが大広間に響く瞬間、アランの肩が小さく震えた。
美しく整えられた姿勢のままでありながら、その背には恐れと覚悟、言葉にはできぬ葛藤の全てが滲み出ている。
彼女の沈黙は、どんな言葉よりも雄弁にすべてを物語っていた。
広がる静寂のなか、レギュラスの心は絶望で満たされ、
運命の刻が無慈悲に迫ってくる音を、胸の奥で聞き続けるしかなかった。
闇の帝王の声が、まるで冷たい刃のようにアランを切り裂いた。
「お前のような、美しい女を失うのは残念だろう」
その言葉は、レギュラスの胸の奥底を正確に射抜くかのように響いた。
まるで彼の心を読むかのような残酷な囁きに、血の気が一気に引いていく。
ベラトリックスは帝王のその一言を待ち構えていたかのように、
魔法の杖を翻し、アランに向かって呪文を放った。
最初の呪文は、拷問の苦痛を与える冷酷な呪い。
アランの体が、床に膝まずいたまま硬直し、
次の瞬間、そのまま崩れ落ちる。
だが拷問はそれだけに終わらない。
ベラトリックスは連続して呪文を浴びせかけ、
アランの悲鳴が大広間の壁にこだまし、
月光をも震わせて響き渡った。
レギュラスの世界は一瞬で崩れ去った。
目の前で、最愛の妻が、アラン・ブラックが、
この世でもっとも苦しい呪文を受け続けている。
胸の奥で何かが砕け、
理性は霧のように消え去り、
ただ痛みと絶望だけが、彼を貫いた。
大理石の床に散った彼女の髪を見つめ、
レギュラスの瞳には、怒りと無力感が同時に燃え上がっていた。
闇の大広間に満ちる冷たい空気の中、ヴォルデモートは冷徹な声で言葉を放った。
「見よ、何と美しい。
マグルの女を拷問した時は、あれほど醜く汚かったが、
純血の女はこんなにも美しい」
その瞳は薄笑いを湛え、まるで珍奇な獲物を眺めるかのようにアランを見下ろしている。
アランは床に倒れたまま、長い黒髪が床に散らばり、儚く広がっていた。
艶やかさと痛みが入り混じったその姿を、ベラトリックスの拷問が容赦なく痛めつけていく。
アランの苦しみの叫びは、重厚な壁にこだまし、闇に覆われた屋敷の中に凍りつくように響いた。
耐え忍ぶアランの意識は薄れ、やがて朦朧としていく。
そのか細い声が、静かに取り残された闇の中で震えた。
ヴォルデモートは冷酷に問いかける。
「お前は命を差し出した。次は何を俺様に差し出せるというのだ?」
空気が凍りついたように重く、反論の余地はなかった。
だが、その問いかけに応えたのはレギュラスだった。
「シリウス・ブラックを必ず討ち取ります」
その声は必死だった。
最愛の妻を救いたい一心から放たれた切実な誓い。
絶望の縁に追い詰められながら、どうにかしてアランを失うことのない未来を掴もうとする叫びだった。
だが、ヴォルデモートの冷ややかな目は一瞬も揺るがなかった。
「それでは足りぬ」
静かな断罪の声に、大広間に引き裂かれたような重苦しい沈黙が落ちる。
絶望の淵に立つレギュラスの胸は裂けんばかりの痛みで満たされていく。
今まさに、目の前で愛する妻が折れ、砕かれるのを見ているのに、
彼はまだ抗い、生き延びさせる希望を必死で掴もうとしていた。
だが、闇の帝王はその希望を無慈悲に握り潰し、
さらなる犠牲を求める。
窓の外では、夜明け前の淡い光が静かに世界を包み始めていた。
それでもこの闇の大広間の中では、終わりの見えぬ狂気と絶望の時だけが、
いまも息を潜めていた。
レギュラスの瞳に浮かぶ熱い涙は、
燃え尽きることのない抗いの炎の証だった。
ベラトリックスは冷たい闇に包まれた大広間の隅で、満足げに微笑んでいた。
この女、アラン・ブラックは必ずいつか綻びを見せると、彼女は確信していたのだ。
過去に何度か耳にした、シリウス・ブラックとの密かな関わりの話。
その情報に目を鋭く光らせ、心の奥底で機会を狙い続けてきた。
そしてついに彼女の予想は的中した。
マグルの女を見舞うという愚かな行為を重ね、ブラック家の名誉を地に落とそうとしたアランの無謀さに。
大理石の床に跪き、苦痛に耐えきれず震えるその姿は、かつて美しく囃し立てられた女の面影など遠い昔のものに感じられた。
ベラトリックスが放つ呪文の冷たさに、息も絶え絶えで必死に耐えるアラン。
それはまるで、自身が織り成した虚飾の仮面が、ひとつずつ剥がされていくようだった。
「このまま、貴様はくたばるがいい」
彼女の声には冷酷で残忍な喜びが満ちている。
痛みに喘ぐアランの姿が、何よりもベラトリックスの心を満たした。
あの華やかな時代の記憶は遠く霞み、密やかな悲鳴だけがこの重苦しい空間を支配する。
ベラトリックスはゆっくりと魔法の杖を翳し、次の呪文の言葉を紡いだ。
その一言一言が、アランの体と魂をさらなる苦悶へと引きずり込む。
容赦なき拷問の中に、冷酷な勝利の味を噛み締める彼女の瞳は、暗闇の中で一層鋭く輝いていた。
この女の崩壊と、ブラック家の凋落に、
ベラトリックスは疑いようのない快感を覚えていたのだ。
その夜、大広間は悲鳴と嘆きで満ちる一方、
一切の同情や憐れみなど存在しなかった。
ただ冷徹な闇の支配があっただけだった。
拷問の苦痛が身体を焼き尽くす中、アランの意識は遠のきかけていた。
それでも心の奥ではひとつの問いが絶えず反響していた。
「私は、何を差し出せるのだろうか?」
その問いに浮かぶ答えはいつも同じだった。
もうこの身で差し出せるものは何も残っていない――
あまりにも非力な自分という存在を痛感するばかりだった。
魔法の才もなければ、戦の先陣を切る器も持たず。
ただの、名門純血の一族に生まれた普通の女に過ぎないのだと。
その時、辛うじて意識を保つ視界の隅に、レギュラスの姿が映った。
苦痛に顔を歪ませているように見えたが、それでも彼の存在が彼女の中に温かな光を灯す。
「そんな顔をしないで」
心の中でそっと願う。
この人には、凛とした誇り高い姿が似合うのだから。
驚くほどに、今この瞬間に頭をよぎるのは、シリウスのことでも、アリスのことでもなかった。
ただただ、レギュラス・ブラックへの想いだけだった。
愛していたのだと――きっと。
シリウスへの愛し方とは違ったけれど、レギュラスを愛したことは真実だった。
彼に感謝し、そして詫びたい気持ちが胸を締め付ける。
生きている間に言えなかった言葉が、痛みの中で静かに溢れだす。
彼女は弱りながらも、その小さな胸に抱いた愛と後悔を、誰にも見せることなく、息を潜めて守り続けた。
薄闇の中、彼女の心は揺れ動きながらも確かに輝いていた。
追い詰められた絶望の中で、レギュラスは最後の賭けに出た。
「分霊箱について、お話があります」
その言葉が口を離れた瞬間、ヴォルデモートの表情が一変した。
冷酷な微笑みは瞬時に消え去り、赤い瞳に鋭い警戒の色が宿る。
まるで最も触れられたくない秘密を暴かれたかのように。
「皆、出ろ」
ヴォルデモートの声は低く、しかし絶対的な権威を帯びていた。
デスイーターたちは戸惑いながらも、一人また一人と大広間から姿を消していく。
「ベラトリックス、お前もだ」
最も信頼する部下であるベラトリックスでさえ例外ではなかった。
彼女は不満げな表情を浮かべながらも、主の命令に従わざるを得ない。
そして、まだかろうじて意識を保っているアランに向けて、ヴォルデモートは静かに杖を向けた。
失神の呪文が放たれる。
その瞬間、アランの身体から力が抜け、床に崩れ落ちた。
美しい瞼がゆっくりと閉じられ、苦痛に歪んでいた表情が穏やかになる。
まだ死んではいない――頭では理解していても、動かなくなった妻の姿を見つめるレギュラスの心は氷のように冷え切った。
静寂に包まれた大広間。
床に倒れるアランの傍らで、レギュラスとヴォルデモートだけが向き合っていた。
瀕死の愛する人を前にして、それしか方法はなかった。
禁忌とされる分霊箱の秘密を暴くことで、アランの命を救う――
それは悪魔との取引に等しい、危険極まりない賭けだった。
レギュラスの胸には、愛する妻への想いと、闇の帝王への恐怖が渦巻いていた。
だが今、彼にできることはただ一つ。
この最後の切り札を使って、アランを守り抜くことだけだった。
月光が差し込む窓辺で、二人の男の運命的な対話が始まろうとしていた。
ヴォルデモートは冷たく鋭い瞳でレギュラスを見据え、低い声で静かに言葉を紡いだ。
「分霊箱の話か。面白い。だが、それを持ち出すとは覚悟があるようだな」
周囲は人影が消え去り、二人だけがその重苦しい空間に立ち尽くしている。
ヴォルデモートの口元に僅かな笑みが浮かぶが、その眼差しは一切の容赦を忘れていなかった。
「何を望む、レギュラス・ブラック?」
その問いに、レギュラスは微かに震える手で言葉を紡ぐ。
「アランの命を」
胸に押し込めた痛みが声に乗り、揺れる瞳は真実の涙を湛えていた。
どんな危険を背負っても、彼女を救いたい――それだけが彼の全てだった。
ヴォルデモートは一瞬思案するように目を閉じた。
その逡巡の時間は、永遠にも短すぎるほどあっという間だった。
そしてゆっくりと言い放った。
「分霊箱の秘密を全て明かすのだな。よかろう。だが、その代価は大きいぞ」
言葉の余韻が満ちると、彼の姿により一層の威圧感が宿った。
レギュラスは覚悟を新たにし、重い呼吸をついた。
「全てを話します。何なりとお望みのままに」
闇の静寂のなかで、運命の歯車が動き出した。
生と死の瀬戸際で交わされる取引は、やがて周囲の運命をも左右することになるだろう。
レギュラスは、アランを救うために禁忌の扉を開く。
その決断が、二人の家族と、闇の世界の未来をどう変えていくのか、まだ誰も知らなかった。
月明かりが大広間を薄く照らし、静かな緊張が空気を満たしていた。
レギュラス・ブラックは、目の前の闇の帝王の奥底に潜む焦燥を読み取っていた。
ヴォルデモートがすでにいくつもの分霊箱を作り出したことも知っている。
だが、それでもまだ「足りない」と感じ、さらにその数を増やそうと執着していることを、レギュラスは理解していた。
不死を希求するあまり、いくら殺人を重ねても、
それだけで魂がきれいに分かたれるわけではないのだ。
特に――回数を重ね、繰り返し「罪」を刻んだ魂は、
ただ一つや二つの殺人で砕け散るほど単純なものでは決してなかった。
魂の裂け目は、段々と均質ではなくなり、
細分化された闇の欠片を無理やり閉じ込めようとすればするほど、
その成就からは遠ざかる。
レギュラスは、ヴォルデモートがその点で必ず躓いているはずだと確信していた。
今、自分が語ろうとしていることは、まさしく賭けだった。
自分は、闇の帝王に「彼が最も知りたいこと」を与えなければならない――
見返りに、大切な人の命を得ようとしている。
この瞬間、レギュラスは、自らがどれほど残酷な罪を抱えようとしているか分かっていた。
それでも、アランの姿、あの苦しむ身体、閉じられる瞳の光景が脳裏から離れなかった。
これ以外に、アランを救う方法は――どこにもない。
沈黙が長く降りた大広間。
床に倒れた妻の傍らで、レギュラスはゆっくりと口を開く。
「あなたは、既に多くの分霊箱を作りましたね。でもそれは、決して完全なものにはなり得ません。魂は数だけでなく、裂き方――その方法、強さ、罪の重さも関係しているのです」
ヴォルデモートの瞳が鋭く細まり、その視線の重みがレギュラスの全身に突き刺さる。
レギュラスはそれでも声を震わせないよう努め、淡々と続きを語った。
「魂は、単純な連続殺人による破壊では、いずれ裂けなくなります。
分霊箱を増やそうとするたびに、それはあなた自身の心を削り取る――
その境界を超えれば、あなたが求める“完全な不死”は永遠に手に入りません」
言葉を紡ぎながら、レギュラスの胸には引き裂かれる痛みが残った。
この話は、ヴォルデモートにとっても、自分にとっても危険すぎる。
自分がこれから与える「知恵」は、魔法界だけでなく人類への、おそらく最大の裏切りに等しい。
けれど、アランを救うためには、最も残酷で冷たい選択肢に身を投じるしかなかった。
床に横たわるアランの抜け殻のような姿を横目に、
レギュラスはすべてを賭けて、ただひとつ残った光を守ろうとしていた。
己の罪は、きっと未来に消えぬ傷として刻まれていく。
それでも――失いたくない。
彼女だけは。
それが、全てを差し出してまで手に入れたかった、
レギュラス・ブラックのささやかな幸福の形だった。
レギュラスは蒼白な顔で、床に倒れたアランを一瞬だけ見つめた。
痛みと自己嫌悪に胸を引き裂かれながらも、彼は静かに闇の帝王と向き合い、その声を抑えた。
「――どうすれば、より確実に分霊箱を増やせるのか。その方法をお知りになりたいのでしょう」
ヴォルデモートの目が細くなり、期待と警戒の光を湛える。
レギュラスはその強大な魔力の前でも、震える心を必死に抑えたまま話し続ける。
「魂は……どれほど殺しても、ただ大人を、ただ知らぬ者を仕留め続けていても、回数を重ねるほどに、もはや簡単には引き裂けなくなります」
「だが――」レギュラスは喉元を震わせ、言葉を絞り出す。「まだ幼く純粋な魂……無垢な子供――その命を奪ったとき、魂はより強く、深く引き裂かれるという例が、過去の闇の歴史に実際、複数記録されています」
「あまりにも罪深く、恐ろしい行為です。回数以上に重要なのは、“何を奪うか”“どんな魂で魂を引き裂くか”――その重さなのです」
ヴォルデモートの顔に、醜悪なほどの興味の色が浮かぶ。
「子供の魂……。純粋な者ほど、強くか」
レギュラスはただ必死に続ける。
「はい。子供は大人よりもずっと強く――魂の均衡を破壊します。分霊箱の器たる魔法も、裂け目も、より鋭く深くつくられる。
……けれど、その代償は、常に自分に還ります。自分の魂もまた、深く壊れていく」
その忠告が、どれだけヴォルデモートに響くのか、レギュラスには分からない。
だがここで、アランを救うために“最大限の知識”を差し出すしかなかった。
床に倒れ、昏睡したアランの気配はかすかに温もりを残している。
レギュラスの声に少しだけ哀願がにじむ。
「これ以上は何も申しません。どうか、アランの命だけは……」
沈黙が大広間を包む。
その重さは、これから二人に、そして世界に与えられるであろう罪までも包み込んでいるようだった。
ヴォルデモートがゆっくりとうなずく。
その表情には嗜虐的な満足と、暗黒の探究心が絡み合っていた。
レギュラスの胸に走る冷たい痛みと、祈りにも似た想い。
それは、罪と愛、生への渇望が交わる、境界線上の一瞬だった。
遥かな沈黙のあと、ヴォルデモートは鋭い眼差しをレギュラスに向け、口を開いた。
「よかろう。その情報と引き換えに、アラン・ブラックの命は奪わずにおいてやろう」
その言葉に、レギュラスは胸の奥が急速に緩んでいくのを感じた。張り詰めた糸が切れるのも忘れ、安堵のあまり今にもその場に崩れ落ちそうになった――
だが、最後の力でかろうじて立っている。
床に横たわるアランのもとへ駆け寄る。
彼女の髪は淡い光を吸い込むように床に散らばり、その表情には静かな苦しみの影が残っていた。
レギュラスは震える腕でアランをそっと抱き上げ、その体をしっかりと胸に引き寄せた。
大広間の扉を押し開けて外に出ると、廊下の向こうでベラトリックスがじっとこちらを見つめていた。
その顔にはどうしても理解できないという混乱が刻まれている。
――なぜ、帝王があの女を許したのか。
どんな取引をしたら、かつてない慈悲を引き出せるのか。
ベラトリックスにはその答えがどうしても分からない。
彼女の瞳には不満と猜疑が渦巻いていた。
レギュラスは彼女の視線を無視し、しっかりとアランの身体を抱えて廊下を歩いた。
すべてが恐ろしい賭けだった――
罪の重さがいずれ己を押し潰すだろうと知りながら、
ただ今は、愛する人の命を自分の腕の中で感じることだけが唯一の救いだった。
息を詰めるような夜の屋敷、薄暗い廊下を進みながら、
レギュラスの心は傷つきながらも、安堵と、深い静けさに包まれていた。
アランの微かな体温と、腕の重み。
それが、すべてを差し出した末に守り抜かれた、たったひとつの希望だった。
背後ではベラトリックスの疑念と屈辱が、静かな炎のように燻っていた。
だがレギュラスはもう振り返らなかった。
彼にとって、救い出した妻の重みだけがこの夜の現実だったのだ。
屋敷の静寂は、まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。
アランは、長きにわたる拷問の呪文を浴び、その身体は無力に床に横たわっていた。
その深い眠りは、まるで死の淵と生の境界をさまよう霧のなかにあるようだった。
だが、どんなに長く意識が遠のいても、彼女の重く閉じた瞼の裏には、わずかにあの温かな繋がりの記憶がちらつく。
レギュラスは彼女の傍らに膝をつき、静かに手を取った。
その手の冷たさに胸は締めつけられ、不安が膨れ上がった。
「アラン……目を覚ましてください」
声は震え、小さな呟きに変わる。
だが部屋の空気は重く、彼女の身体は動かない。
何度も何度も、名前を呼ぶたびに、その静寂に胸が切り裂かれるようだった。
過酷な拷問の痕跡が彼女の顔に残る。
細い頬には儚い青白さが宿り、呼吸は浅く、脈打つ音だけがかすかに響いていた。
レギュラスは目を細めて見守りながら、心の中で祈った。
「どうか……無事でいてほしい。あなたがこの苦しみから目覚めるまで、僕は待ちます」
その願いは言葉にすることもためらいながら、深い愛情に染まっていた。
時はゆっくりと流れ、屋敷の片隅に差し込む朝の光が鈍い輝きを放っていた。
その光は、今はまだ冷たい部屋をほのかに温めるだけだったが、
レギュラスはその一筋の光を、彼女が完全に戻る日の兆しとして確信していた。
今はただ、アランの傷ついた身体の側にひっそりと寄り添い、静かな時を共に過ごすしかなかった。
重く沈む瞼がゆっくりと動き出し、彼女の魂がこの世へと戻ってくるその日まで。
レギュラスの胸の中は、不安と愛しさと祈りで満ちていた。
そのすべてが織り成す繊細な感情は、言葉では到底伝えきれない、生きる強さの証だった。
程なくして、外の世界に忌まわしいニュースが流れた。
マグルの子供たちが大量に虐殺されたという凄惨な事件。
その手口は闇の帝王ヴォルデモートが関与しているのだろうと、誰の目にも明らかだった。
その知らせを耳にしたとき、レギュラスの胸に複雑な感情が渦巻いた。
被害者が純血の魔法使いでなく、マグルであるという事実に、どこかほっとする自分の心を感じ、愕然とした。
その汚れた心の在り様に、自らが耐えられないほどの嫌悪を覚えつつも、否定できなかった。
分霊箱の作成は、果たして成功したのだろうか。
しばらく経ってもヴォルデモートから何の言葉も届かないことに、レギュラスは表面的には平静を装っていたが、内心は不安で満ちていた。
それでも、この沈黙は帝王の満足の証と信じようとしていた。
もし結果が不満足であれば、それはすぐに、何らかの形で彼の怒りが示されるはずだった。
心のどこかで、救われたと感じていた。
命を賭けて差し出した情報が功を奏し、愛するアランの命が救われたという確かな事実。
震えそうな心を無理に押し込め、冷静を装う。
誰にも知られぬよう、蓋をするように。
「アランのために、仕方がなかったのだ」と。
だが、その心の奥底には後悔と葛藤が静かに沈殿し続けていた。
許されることのない罪の自覚と、愛する人を守るために選んだ道の残酷さ。
やがて夜が明け、屋敷に降り注ぐ淡い朝の光が、静かにレギュラスの顔を照らした。
彼の瞳はまだ曇っていたが、胸に秘めた祈りと決意は揺るがなかった。
未来に何が待ち受けていようと、
ただひたむきに、彼はアランを護り続けることを誓っていた。
季節は静かに移ろい、屋敷の中に新たな風が吹き込んできた。
アランは未だに深い眠りの中にあり、目を覚ますことはなかった。
子供たちが久しぶりに帰宅した日、アルタイルとセレナはその静かな寝室の扉を開けた。
長い眠りについた母の姿を前に、それぞれの顔には驚愕と深い悲しみの色が浮かんでいた。
アルタイルの瞳は母の無垢な寝顔をじっと見つめ、わずかに震えながら尋ねる。
「母さんは、いつから目を覚まさないんですか?」
レギュラスはその言葉を受け止めながらも、声を穏やかに保ち、ごまかすように言った。
「大丈夫です、そのうちきっと目覚めます」
しかし、心の奥は言葉とは違う。
──この子たちには決して知られたくなかった。
母の命と引き換えに、ヴォルデモートへ差し出した恐ろしい魔法の情報を。
もし真実が漏れたら、彼らの無垢な心もまた、痛みで裂かれてしまうのだろう。
それだけは、どうしても避けたかった。
「アルタイル」
レギュラスはふと顔を上げ、息子の瞳を見つめた。
その目の中に映る幼い不安を、静かに抱きしめるように。
「母さんは……今はまだ、旅の途中にいるんです」
答えになっていない返答だと、レギュラス自身もわかっていた。
しかし、多くを語れば、確実に知らぬ者すらも巻き込む何かが露呈してしまう。
それが彼の持つ恐怖だった。
セレナはゆっくりと母の手を取り、冷たくなったその指先にそっと自分の温もりを重ねた。
小さな手が震え、それでも母への祈りを込めるように。
レギュラスはその様子を見つめながら、胸の奥で葛藤と痛みを噛み締めていた。
愛する妻の命を救うために選んだ道は、確かに正しかったのか。
けれど、その代償はあまりにも重く、子供たちの未来さえも恐ろしく不透明にしてしまった。
窓の外、季節の風が静かに揺れる。
屋敷の静寂の中で、家族はそれぞれの想いを胸に抱き、
やがて訪れるであろう光のための小さな希望を探し続けていた。
屋敷の重厚な扉が一つ、また一つと閉ざされ、最後の余燼のように残っていた女たちはすべて引き上げさせられた。
レギュラス・ブラックは静かに、その光景を見届けていた。
かつて命じられ、ほんの数度だけ義務を果たしたその夜は、淡い灯の下で冷たく終わった。
誰一人、この家の跡取りとなる命を宿してはくれなかった。
女たちの責任ではない。むしろ、回数を重ねることを怠った結果だったと、――レギュラス自身が深く理解していた。
闇をはらうように決意が胸を満たす。
二度と、他人がこの屋敷に上がることは許さない。
アラン以外の腕に抱くことは、もう二度とないのだと。
その意思は揺るがず、たとえオリオンやヴァルブルガからの非難を浴びても変わることはなかった。
「家の存続を考えれば、跡継ぎの確保は最優先のはずだ」との声が飛んできたが、レギュラスは静かに首を振るだけだった。
彼の瞳には、初めて見るほどの強い決意が宿っていた。
代わりに――彼はアルタイルの未来を急いで整えた。
息子がこの家の名を継ぎ、揺るぎない絆で結ばれるよう、婚約を急がせたのだ。
夜の書斎で、一冊の婚約契約書を前に、アルタイルは父の眼差しを見上げた。
その瞳には、期待と戸惑いが入り混じる。
「これが、家族を守るための道なのだ」とレギュラスは穏やかに言い聞かせる。
「お前の未来には、誇りと責任が待っている」
外では、冬の冷たい風が屋敷を吹き抜ける。
だがその中で、レギュラスの胸に灯った炎は――
深い後悔と失われたものへの愛惜を抱えながらも、どこまでも静かに燃え続けていた。
顔合わせの儀が行われた日、アランは依然として深い眠りの中にあった。
そのまま母は覚めることなく、儀式は静かに、しかし冷たく進められていった。
婚約相手の少女は、アルタイルの記憶どおり、表情をほとんど変えることなく、薄く礼儀正しさだけを保っていた。
ニコリともせず、感情をほとんど表に出さないその様子に、アルタイルは戸惑いを隠せなかった。
彼もまた、礼儀を尽くし、冷たい空気の中で精一杯の敬意を示そうとした。
明るくて無邪気な妹のセレナ、そしていつも穏やかで優しい母のもとで育ったアルタイルにとって、
こんな冷たく閉ざされた目で見つめる少女は初めてだったのだ。
どう接してよいのか、その態度の読み取り方すらわからず、彼の胸には不安が重くのしかかった。
儀式の後、レギュラスと並んで歩きながら、アルタイルは静かに口を開いた。
「父さん、あの子、母さんとは全然違いましたね」
「そうですね。あの子はクールな子でしたね」とレギュラスは短く応えた。
父の刹那的なその表現の仕方に、アルタイルは心の中で感心した。
だが、続けてぽつりと呟く。
「僕、果たしてあの子を愛せるでしょうか……」
彼の声は弱々しく、未来への不安が透けていた。
「大丈夫ですよ」
レギュラスは落ち着いた声でそう答えた。
しかし、父の「大丈夫」に、アルタイルの心は全く響かなかった。
なぜならレギュラスには、初めからアランを深く愛した過去があり、
どんな困難があっても、その愛を胸に婚約へと辿り着いた事実があるからだ。
アルタイルの置かれる状況はまったく違う。
幼い頃から明るく愛情に満ちた日々と共に育ち、
いきなり冷たい知らぬ世界に踏み込む彼にとって、父の無邪気な楽観は、到底励ましにはならなかった。
そのギャップに、胸は締めつけられ、将来への重い責任がのしかかる。
恋愛も知らず、慣れない冷たい視線を受け止めなければならない自分の幸せが、信じられなかったのだ。
長い夜が静かに更けていくなか、アルタイルはひとり深い思索に沈み、
新たな人生への戸惑いと、薄明かりのような希望を胸に抱きながら、静かに目を閉じた。
ある穏やかな午後、奇跡は静かに訪れた。
アランの瞼がゆっくりと震え、長い眠りから覚めるように、その瞳がそっと開かれた。
レギュラスは、その瞬間を見逃さなかった。
彼はすぐさま駆け寄り、震える手でアランを抱きしめた。
その腕の中に収まる彼女の温もりを確かめるように、強く、優しく。
「よかった……よかった……」
何度も何度も、その言葉だけが口から零れ落ちる。
声は震え、安堵が全身から滲み出ていた。
これまで胸に抱え続けてきた不安と恐怖が、一瞬にして霧散していく。
アランの瞳がゆっくりとレギュラスを捉える。
まだ朦朧とした意識の中でも、彼女の唇が微かに動く。
「レギュラス……」
かすれた声だったが、それは彼にとって天使の歌声にも等しかった。
「僕はここにいます。もう大丈夫です」
レギュラスは彼女の頬に手を添え、涙が頬を伝うのも構わずに微笑んだ。
この瞬間、彼の心に浮かぶのは深い満足感だった。
大きな犠牲を払ったことも、禁忌の情報を闇の帝王に渡したことも、
すべてがこの幸福の前では霞んで見えた。
アランが生きて目を覚ましてくれた――
それだけで、すべてが正しい選択だったのだと確信できた。
彼女の命を救えたのなら、どんな代償も意味があったのだと。
「子供たちは……?」
アランの弱々しい声に、レギュラスは優しく答える。
「みんな元気です。アルタイルも、セレナも。あなたが目覚めるのを待っていました」
その言葉に、アランの瞳に安堵の色が宿る。
窓から差し込む午後の光が、二人を柔らかく包んでいた。
長い闇の後に訪れた光明は、何にも代え難い贈り物だった。
レギュラスにとって、アランの目覚めは全てにおいての正義であり、
絶対的な幸福だった。
彼女の生きる息遣いを感じながら、彼は静かに涙を流し続けた。
すべての苦悩と犠牲が、この一瞬の奇跡によって報われたのだと――
心の底から信じることができたのだった。
アランが目を覚ました瞬間、彼女の心には確信に近い直感が走った。
あれほど絶望的で、死の淵に立たされた状況から、こうして生きて戻ることができたのは――
きっとレギュラスが、とんでもない代償を払ったからに違いない。
彼女の記憶には、ベラトリックスの拷問と、ヴォルデモートの冷酷な眼差しが鮮明に残っていた。
あの場で助かるなど、普通ならばあり得ないことだった。
だからこそ、レギュラスが何を犠牲にしたのか――その答えが怖くて仕方がなかった。
「どんなことを……」
言いかけて、アランは言葉を飲み込んだ。
知りたい気持ちと、知るのが恐ろしい気持ちが胸の中で激しく葛藤する。
もしかすると、取り返しのつかない何かを、彼に背負わせてしまったのではないか。
その可能性に、彼女の心は締め付けられた。
静かな沈黙が流れる中、アランは震える声で呟いた。
「ごめんなさい、レギュラス……」
その言葉には、深い後悔と申し訳なさが込められていた。
何か大きなもの、取り返しのつかないものを背負わせてしまったことへの詫びだった。
レギュラスは優しくアランの手を握り、穏やかに答える。
「いいんです。何もかも、いいんです」
その声には、確固たる決意と愛情が宿っていた。
どんな代償を払おうとも、彼女が生きていてくれることが何よりも大切だという想いが。
アランの瞳には涙が滲み、彼女は自分の無力さを痛感していた。
愛する人に重い負担をかけてしまった事実を受け止めきれずにいる。
「私のために……あなたは……」
「何も考えなくていいんです」
レギュラスは彼女の頬に手を添え、優しく微笑んだ。
「あなたが生きていてくれる。それだけで十分です」
二人の間に流れる静寂は、言葉では表現できない深い愛情で満ちていた。
代償の重さを感じながらも、互いを思いやる心が、その重荷を少しずつ和らげていく。
窓の外では鳥たちが囀り、新しい一日が静かに始まろうとしていた。
過去の傷跡を抱えながらも、二人は再び歩み始める準備を整えていた。
アランは寝室の片隅で、そっと立ち上がる練習を始めていた。
長い眠りの後、足に力が入らず、まともに歩くことすらできなかった。
何歩かよろめくように進んだところで、ばたりと床に倒れ込んでしまう。
手すりのある階段まで行くことができれば、そこを支えにして歩けるかもしれない――
そんな希望を胸に、彼女は床を這うようにして、懸命に前へ進もうとした。
「アラン、何をしているんですか。呼んでください」
背後からレギュラスの慌てた声が聞こえる。
彼は急いで駆け寄り、床に這うアランの身体をそっと支え上げた。
「練習をしないと……と思って」
アランの声は弱々しく、それでも意志の強さが滲んでいた。
「無理はやめてください」
レギュラスは優しくも厳しい口調で彼女を諭す。
その腕の中で、アランの身体は羽根のように軽く、儚げだった。
アランの心には、早く自分の足でしっかりと立たなければという焦りがあった。
使用人から聞かされた話が、彼女の胸に重くのしかかっていたからだ。
レギュラスが屋敷にいた令嬢たちを、一人残らず帰らせたという事実。
それは、ブラック家の跡継ぎ問題を放棄するに等しい決断だった。
オリオンとヴァルブルガが、それを快く思うはずがない。
目を覚まさない女のために、こんな重大な決断をするなど、
あまりにもこの家の在り方からかけ離れていた。
「私が……私がもっと早く目を覚ましていれば……」
アランの瞳に涙が滲む。
自分の無力さと、愛する人に与えてしまった負担の重さに押し潰されそうになる。
「そんなことは考えなくていいんです」
レギュラスは彼女を抱き起こしながら、穏やかに言い聞かせる。
「僕の決断です。後悔はありません」
だが、アランは知っていた。
この屋敷で生きるということの厳しさを。
家族の期待と重圧の中で、どれほど孤独な戦いを強いられるかを。
レギュラスが払った代償は、きっと自分が想像する以上に大きいのだろう。
その事実に向き合うのが怖くて、それでも現実と向き合わなければならない複雑さに、
彼女の心は揺れ続けていた。
窓の外では夕日が静かに沈み、長い影が部屋を包んでいた。
二人の愛は深く、美しいものだったが、
同時に重い運命の鎖に縛られた、儚い光でもあった。
アランが目を覚ましてから、レギュラスの献身ぶりは異常なほどだった。
歩こうとすれば、すぐさま彼女の身体を支え、
食事の時間になれば、ナイフで丁寧に料理を切り分けてやり、
些細なことまで気にかけて世話を焼く。
その姿は、まるで壊れやすい陶器を扱うかのように慎重で、
愛おしさに満ちていた。
アランは、その過度な優しさにひたすら困惑していた。
何が、これほどまでにレギュラスを駆り立てているのだろうか。
彼の瞳に宿る深い愛情と、時おり見せる安堵の表情。
それらすべてが、彼女には理解できなかった。
記憶を辿ると、最後にしっかりと話した時のことが蘇る。
あの時のレギュラスの瞳は、自分に対して絶望的なほど冷たかった。
媚薬を飲ませて、エメリンドの部屋へと向かわせた夜。
「この家の未来のために、務めを果たすべきです」
そう言って彼を突き放したのは、他でもない自分だった。
重ねた手を払いのけられた時の、あの痛々しい表情も忘れられない。
レギュラスがどれほど深く傷ついたか、アランは痛いほど理解していた。
それなのに――
目覚めてからの彼は、まるであの夜のことなど何もなかったかのように、
穏やかで、献身的すぎるほど優しかった。
「レギュラス……」
アランは彼の手を見つめながら、静かに呟く。
「あなたは、なぜそんなに……」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
何かを問い詰めるのが怖かった。
この優しさの裏に隠された真実を知るのが、恐ろしかった。
レギュラスは微笑みながら、彼女の頬に手を添える。
「何も考えなくていいんです。ただ、元気になってください」
その声は穏やかだったが、どこか必死さも含んでいた。
まるで、彼女を失うことを何よりも恐れているかのように。
アランの胸には、言いようのない不安が渦巻いていた。
この異常なまでの優しさが、何かとてつもない犠牲の上に成り立っているのではないか――
そんな予感が、彼女の心を重く押し潰していた。
夕暮れの光が部屋を染める中、
二人の間には深い愛情と同時に、
言葉にできない秘密の影が横たわっていた。
