4章
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アランはその話を、まるで宝物を聞くように目を輝かせ、楽しそうに聴き入っていた。
その仕草はまるで、ホグワーツの若き日のあの頃に二人が戻ったかのようで、空気は甘く穏やかな懐かしさに満ちていた。
ふとした瞬間、視線が互いに揺らめく緑色の翡翠の瞳と絡み合う。
言葉はいらなかった。
自然にふたりの唇がそっと触れ合い、軽やかに寄り添うキスを交わす。
それは触れるだけの、繊細な口づけ。まるで時の流れを一瞬だけ止めるようだった。
シリウスは静かにアランの目を覗き込み、その翡翠の瞳に自らの姿を映し出すのがわかった。
その輝きに胸がじんと熱くなり、彼は深い喜びを噛みしめた。
一度、その柔らかな唇が重なっただけで、もうそれでは足りないと思ってしまった。
まるで失われた年月を一瞬で埋め尽くすように、彼は次のキスを求める。
それは今度は長く、全てを絡めとり、そのまま時間さえも忘れるほど深いものだった。
唇と唇、息と息、体温と体温が溶け合い、ひたすら夢中になってキスを重ねる。
やがてふと、彼女の吐息に混じるほんの少しの涙の味が唇に触れた。
その涙は、悲しみのものではなく、切なさと愛しさが織りなす繊細な感情の証。
ふたりの関係の深さと、離れていた時間の重みを静かに物語っていた。
静かな部屋の中、二人の世界はゆったりと流れ、愛に満ちて輝きを増していった。
その夜、彼らは言葉以上の想いを分かち合い、永遠にも似た時間を紡いだ。
アランは思わず時間の感覚を忘れてしまっていた。
夜になる前に帰れば、レギュラスにはバレない。そう思って屋敷を出てきたはずだった。
けれどシリウスと共に過ごす時間があまりにもあっという間だった。
暖炉の灯りがほのかに揺れる中、アランは深い眠りから突然目を覚ます。
先ほどまでの甘い余韻が肌に残っている一方で、窓の向こうに目をやると、そこにはすっかり闇に包まれた夜の風景が広がっていた。月が中天にかかり、星々が瞬いている。
「え……」
呟きとともに、彼女の身体に電流が走った。ガバッと身を起こすと、隣でシリウスが静かな寝息を立てているのが見えた。あまりにも深い快楽と安らぎに包まれて、いつの間にか眠り込んでしまっていたのだ。
時計を見る必要もなかった。窓の外の暗さが、すべてを物語っている。完全に夜だった。
頭が次第に冴えてくると同時に、胸の奥から冷たい恐怖がじわりと湧き上がってきた。血の気が引き、手足の先まで氷のように冷たくなる。
レギュラスは——もうとっくに帰宅しているかもしれない。
任務から戻った夫が、妻の不在に気づいているかもしれない。使用人たちに問いただし、午後に外出したことを知っているかもしれない。そして、どこへ行ったのかを調べようとすれば、それほど時間はかからないだろう。
エメリンドが情報を提供してくれたこと。
聖マンゴ病院を訪れたこと。
アリスと会ったこと。
そして——シリウスと一緒にいたこと。
すべてが明るみに出てしまう。
アランは震える手で髪をかき上げた。どう取り繕えばいいのか、まったく思い浮かばない。言い訳を考えようとしても、頭の中は真っ白で、何も思い浮かばなかった。
「シリウス……」
か細い声で呼びかけると、彼もゆっくりと目を開けた。アランの青ざめた顔を見て、すぐに事態を理解したようだった。
「時間……」
アランの声は震えていた。幸福な夢から、一気に現実へと突き落とされた気分だった。
シリウスは身を起こし、そっとアランの肩を抱いた。
「落ち着いて。きっと大丈夫だ」
でも、その慰めの言葉も、今のアランには届かなかった。恐怖と不安が胸を支配し、呼吸さえ苦しくなってくる。
レギュラスの顔が頭に浮かんだ。あの静かな怒り、失望、そして悲しみ。想像するだけで、心が張り裂けそうになった。
「私、どうしよう……」
小さく呟きながら、アランは暗闇の向こうにある屋敷のことを思った。今頃、レギュラスは何をしているだろうか。自分を探しているだろうか。それとも、すでにすべてを知ってしまっているのだろうか。
時計の針は容赦なく進み、夜はさらに深くなっていった。甘美な幸福の代償として、彼女は今、耐え難い恐怖と後悔に向き合わなければならなかった。
暗闇の中で、アランは慌てたように身を起こした。床に散らばった衣服を拾い集めながら、手が震えているのを自分でも感じていた。
シルクのブラウスを羽織り、スカートの裾を整える。髪をかき上げ、乱れた髪留めを直そうとするが、指先が上手く動かない。鏡を見る余裕もなく、ただひたすら身支度を急いだ。
「アラン……」
シリウスが心配そうに声をかけたが、彼女はもう甘い余韻に浸っている場合ではないことを痛感していた。
「ごめんなさい、急がないと……」
靴を履きながら、アランの頭の中では必死に言い訳を考えていた。
体調が悪くて近くの薬草店に薬を買いに行った?
いや、それでは時間が説明できない。
友人の見舞いに行っていた?
でも、どの友人と答えればいいのだろう。
アリスの怪我を心配して病院に……?
それは真実だが、その後のことをどう説明すればいいのか。
頭の中で様々な可能性が駆け巡ったが、どれも不完全で、すぐに破綻しそうな嘘ばかりだった。
「シリウス、私……」
振り返ると、彼が心配そうに見つめていた。その優しい瞳を見ていると、また涙が出そうになった。でも、今は泣いている時間もない。
「帰らなくては」
ローブを羽織り、髪を急いでまとめる。鏡がないので、手探りで身だしなみを整えるしかなかった。完璧ではないかもしれないが、これ以上時間をかけるわけにはいかない。
扉の前で一度振り返ると、シリウスが立ち上がろうとしていた。
「送っていこう」
「いえ、大丈夫。姿くらましを使うわ」
馬車でゆっくりと帰宅している悠長さは、もうなかった。一刻も早く屋敷に戻り、レギュラスがまだ帰っていないことを祈るしかない。
「アラン、何かあったら……」
「ありがとう」
最後の言葉を残して、アランは扉を出た。冷たい夜風が頬を打ち、現実の厳しさを改めて突きつけてくる。
石畳の上に立ち、深く息を吸い込む。姿くらましの呪文を唱える前に、もう一度屋敷での言い訳を頭の中で整理しようとした。
でも、やはり完璧な嘘は思い浮かばない。真実の一部を混ぜて、なんとか切り抜けるしかないのだろう。
杖を握りしめ、呪文を唱える。次の瞬間、アランの姿は夜の闇に溶けて消えた。
屋敷の庭先に現れた時、彼女の心臓は激しく鼓動していた。窓の明かりを見上げると、まだいくつかの部屋に灯りがついている。
レギュラスは帰っているのだろうか。
そして、彼女の不在に気づいているのだろうか。
震える手で玄関の扉に向かいながら、アランは最後の祈りを込めて足を進めた。
夜の闇が屋敷を深く覆う頃、アランは扉を押し開け、足音を震わせながら玄関ホールに入った。大理石の床に反響する自分の足音が、これまでになく重く聞こえる。胸の奥で、冷たい恐怖がじわじわと波紋を広げていった。
廊下を進むと、レギュラスは温かな灯りの下で静かに立っていた。深い紺のローブに包まれた姿は、まるで漆黒の影そのもののようで、その瞳はアランをじっと見つめている。
「お帰りなさい、アラン。遅いですね」
その声は形だけの歓迎を告げるものだった。響き渡る言葉に一片のぬくもりもなく、冷え切った金属の刃のように胸を刺す。アランの心臓は凍りつくように縮み上がり、言い訳を探そうとした頭が一瞬で真っ白になった。
「レギュラス……」
声は震え、喉に引っかかる。夜の静寂が、ふたりの間に張りつめた空気をより深く感じさせる。用意してきたはずの言い訳はどこにもない。どの言葉も薄く、砕け散り、逃げ場を失った心だけが暗闇に取り残される。
レギュラスは動かず、ただアランを見つめ続けた。その瞳の奥にあるのは、問いかけるような静かな悲しみと、裏切られた者の冷たい静寂。言葉の代わりに、重く沈む空気が破片となって胸に降り積もった。
アランは背筋を伸ばそうとしたが、全身に力が入らない。まるで見えない鎖が絡みつき、動くことすら許されないかのようだった。レギュラスの言葉は続かない。二人だけに残された夜の廊下で、只一言を待つその沈黙が、最も厳しい非難の声となってアランを責めた。
握りしめた拳からは血の気が引き、冷たい震えを止めることもできなかった。どれほど許しを乞う言葉を紡いでも、この一瞬の重みに比べれば、何も足りないのだと――恐怖が全身を貫く。
廊下に静かに流れる暗闇だけが、そのままの真実を語っていた。
広い屋敷のホールには、蝋燭の炎が静かに揺れていた。宵はすでに深く、時折吹き込む夜風が厚いカーテンをわずかに撫でる。
玄関の扉が控えめな音を立てて開く。
コートの襟元に夜の冷気をまとったアランが、帰ってきた。
柔らかな靴音が床石に響き、ホールの中央まで来たとき――そこに、彼がいた。
レギュラス・ブラックは、階段の踊り場に背を預け、何時間も前からアランの帰りを待っていたのだろう。濃いインディゴのタキシードの裾を丁寧に整え、髪の乱れひとつないその姿が、現実味を帯びて見えた瞬間、アランの鼓動が一拍遅れた。
「ずいぶんと、長い外出でしたね」
その言葉は、まるで夜の闇が人の声を真似たかのように静かだった。
怒声でも苛立ちの舌打ちでもない、けれど明らかに――怒っている。
アランは立ち尽くしたまま、返す言葉を探す。
「……少し、気が晴れなくて。気づいたら時間が……」
言い訳にもなっていない。口に出そうとして瞬時に後悔し、自分の愚かしさに唇を結ぶ。
レギュラスは階段をゆっくりと下りてきた。その動作ひとつひとつが、彼の人間性を削ぎ落とし、まるで無機の精霊のような静謐さを纏っていた。
「気が晴れなかった……なるほど。あなたが癒しを得られるものを、僕は知らない。誰とどこで、過ごしていたのです?」
アランはその一言に、目を伏せた。
沈黙が、水面に落ちた石のように波紋を広げる。
「……誰かと会っていたのですね。言葉にしないのなら、顔が答えています」
声音に責め立てる毒こそなかったが、返ってそれが恐ろしく響いた。
アランの唇が微かに揺れる。反論も、否定も、謝罪も、どれも喉の奥で形を失う。
そして、レギュラスは少し顔を近づけると、囁くように言った。
「あなたはとてもわかりやすい。……まったく、呆れるほどに」
その顔に浮かぶ笑みにも似た表情は、怒りではない。いや、怒りは遥か以前に通り過ぎている。そこにあるのは、所有の冷静さと、誇りを裏切られまいとする静かな防衛だった。
アランは踵を揃えて立ち直った。逃げないと誓うことが、せめてもの誠意だと思った。
「……ごめんなさい、レギュラス」
レギュラスはその謝罪に反応を示さなかった。代わりに、まるでアランの心を紐解くような目でしばらく黙って見つめていた。
「裏切るのは信頼ではなく、沈黙なのだと……忘れないでください、アラン」
その言葉は、穏やかで、それゆえに鋭かった。
アランの背筋が伸びる。目の奥が熱くなりそうだったが、涙に変えるにはあまりに見苦しかった。
扉の奥、闇の中に吸い込まれていった記憶の残像――それが、あの人の眼差しだったとしても。
今日、自分がここへ戻って来たという選択だけは、曲げてはならないと、心の底で自分に言い聞かせた。
そして、二人の間に沈黙が戻った。
今度は、互いを突き放すためではなく、その中に残されたわずかな温度を、見失わぬために。
静寂が敷き詰められた応接間。マホガニーのキャビネットに飾られた銀のカップの底で、ろうそくの灯りがぼんやり揺れていた。
アランが部屋に入ると、レギュラスはすでに窓辺の椅子に腰かけていた。カーテンの隙間から覗く夜の月光が、彼の黒髪に淡い青を落としている。
「……座ったらどうです?」
低く静かなその言葉は、命令にも誘いにも聞こえない。だが従うより他なかった。アランはそっと向かいの椅子に腰を下ろす。その動作一つにさえ、重い影が差してくる。
沈黙がふたりの間に息を潜める。
やがてレギュラスが、何かを見据えるような鋭いまなざしでアランを見つめた。
「エメリンド嬢から聞きました。アリスブラックのためにあなたは聖マンゴ病院へと行ったそうですね」
その声は酷薄なほど滑らかだった。
アランの指先がかすかに震える。見慣れぬ自分の表情が、窓辺の鏡面に映っている気がした。
「そのために、僕に何も告げず屋敷を抜け出した。……あの女のために」
レギュラスは冷ややかに目を細める。怒声も罵倒もない。しかし、その静けさこそが心臓を凍り付かせる。
アランは視線を落とした。言い訳も釈明も意味を持たないと知っていた。ただ静かに指を組み、答えを探す。
椅子の肘掛けを指先でそっとなぞるレギュラス。
レギュラスのその囁きは祈りのようで、凍る刃のようでもあった。
アランの頬を、一筋だけ涙が伝う。
—その痛みさえも、今は声にできなかった。
ふたりの間に流れる空気が、永遠の夜よりも重たく感じられた。
それでも、アランは黙ってその沈黙を抱きしめるほかなかった。
沈黙の底に沈むまま、互いの誇りと重圧だけを思いやるように——。
──寝室の重厚な扉が静かに閉まると、外の世界のざわめきは遠ざかり、二人だけの夜の帳が降りた。
柔らかなシルクの寝具が白銀の月光に淡く輝く中、レギュラスはベッドの縁に腰を下ろした。身を沈めるたびに襟元のレースがかすかに揺れ、まるで静寂を破るための序章のようだった。
アランは寝巻きの緞子(どんす)をまとい、ベッドサイドのランプの薄明かりに照らされて窓際に立っている。夜風に揺れるカーテンの影が、彼の頬に落ちた。
レギュラスは呼吸を整え、言葉を選ぶように静かに問いかけた。
「……シリウスに会ったんですか?」
それは問いというより、刃を研ぐ仕草のようだった。深い夜の闇に沈むように、アランはゆっくりと首を振る。言葉は出ない。胸の奥で震える気持ちを隠し切れず、まぶたの奥に翳りが漂う。
レギュラスはその沈黙を見据えたまま、額に薄く皺を寄せる。愛を信じたい、でも恐れている。問いの背後にあるのは、不安と独占欲、そして傷つくことへの恐れだった。
「返事を、くれないのですね…」
その声は、ささやきにも近く、揺れ動く。だが冷たい怒りでは決してない。むしろ、愛する者に裏切られたかもしれない痛みが滲んでいた。
アランは苦しげに唇を噛んで、やっと小さな声を漏らした。
「…あの、会ってはいません」
言葉は淡く、か細い。それでも真実を選んだアランの声に、レギュラスの瞳が揺らぐ。
レギュラスは立ち上がり、静かに歩み寄る。アランの肩に手を置くと、その温もりを確かめるように掌を包み込んだ。
「本当ですか?」
まだ確信を得られず、唇は震えた。アランは目を閉じてうなずく。
「本当です…私は、あなた以外の人に会う理由など、もうなくなってしまったから」
その言葉は、夜の静寂を波紋のように揺らし、レギュラスの胸に深く落ちた。怒りはまだくすぶっていたが、その火種はほんのわずかに和らいだ。
レギュラスはそっとアランを抱き寄せ、額を重ねる。二人の鼓動がひとつの旋律を奏でるようだった。
「…わかりました」
声は囁きになり、そして小さく笑みを含んだ。苛立ちの代わりに、信頼の糸が二人の間でそっと結び直される。
その夜、寝室に戻ったのは、ただ二人だけの真実と、重ねた誓いだった。
朝陽が屋敷の窓辺を優しく照らし、白いレースのカーテンが風にそよぐ中、エメリンドは静かにレギュラスに近づいた。
「アラン様にお聞きになられましたか?」
その探るような響きを持つ問いかけに、レギュラスの顔に一瞬だけ影が差した。エメリンドの意図は明白だった。夫婦の間に存在する溝を、さらに深く突こうとしている。その思惑がレギュラスには不快だった。
レギュラスは張り詰めた微笑みを浮かべ、努めて穏やかな声で答えた。
「ええ、僕の代わりに見舞いに行ってくれたそうです」
その微笑みは完璧だったが、眼差しの奥には鋼のような冷たさが宿っていた。エメリンドの思惑どおりに、アランとの間のギクシャクした空気を察されることが何よりも嫌だった。プライドが、そして妻への愛が、それを許さなかった。
朝食の席に着くと、レギュラスは昨夜の出来事がまるで何もなかったかのように振る舞った。本当はまだ何も許していないし、胸の奥の苛立ちも飲み込めずにいるのに、この朝だけは一切それを表に出さなかった。
「アラン、ちゃんと食べてくださいね」
その声はいつもと変わらぬ優しさを湛えていた。紅茶をカップに注ぎながら、まるで昨夜の重い沈黙など存在しなかったかのような自然さで語りかける。
アランは戸惑いを隠せずにいた。あれほど冷たく問い詰められ、沈黙を貫いた昨夜のことが嘘のように、レギュラスはいつもの夫の顔で彼女を見つめている。その変わらぬ振る舞いに、彼女は何と答えていいのかわからなくなった。
「レギュラス……」
小さく呟きかけたが、彼はにこやかに頷くだけだった。
「今日は天気がいいですね」
何気ない日常の会話を紡ぎながら、レギュラスは内心で複雑な感情と戦っていた。愛する妻を失いたくない想い、傷ついたプライド、そして他の誰にも悟られたくない夫婦の秘密——それらすべてを胸に秘めて、彼は完璧な仮面を被り続けた。
エメリンドは少し離れた場所から、その様子を静かに観察していた。表面上は何事もないように見える夫婦の朝の風景に、彼女はかすかな失望を覚えていた。
朝の光が食卓を優しく照らし、静かな時間が流れていく。だが、その穏やかな表面の下では、三人それぞれが異なる思惑を抱えながら、複雑な心の綾を織り続けていた。
エメリンド・フェリックスは、自室の広縁から黒曜石のように輝く夜空を見つめていた。遠くで風に揺れる木々のざわめきが、静かな館内に響いている。心には、薄い蒼い炎のような苛立ちが灯っていた。
彼女が最初にレギュラスの心の揺らぎを感じたのは、あの夜のことだった。シリウス・ブラックとアラン・セシールの関係を匂わせる一言を放ったとき、レギュラスの眉間に小さな陰が走った。冷静を装いながらも、瞳の奥底にわずかに揺れる疼き──その瞬間、「いける」と思った。
しかし、その後──。
黒く重い扉の向こうで、レギュラスとアランは顔を合わせるたびに、互いの思いを静かに確かめ合っていた。深い夜にささやかな言葉を重ね、朝の食卓ではまるで何事もなかったかのように笑う。エメリンドが手を伸ばせば届きそうな隙は、一瞬にして湮滅してしまう。
「この夫婦には、祝福しかないのかもしれないわ」
小さく吐き捨てるように呟く声に、自分でも驚いた。
黒髪を軽く束ね、深紅の絹ローブを翻しながら、彼女はふと、あの夜の記憶を思い返す。初めて共に過ごしたあの一夜──
レギュラスは翌朝、再び訪れてはくれなかった。完璧な逢瀬を約束した指先の温もりは、冷えた朝の残滓となり、二度と戻らぬ幻のように消えた。
「私がここに招かれたのは、血統のため、名誉のため……」
その言葉の響きは、今は空しく廊下にこだました。
彼女は自分の野心を胸に抱えながらも、次第に見失っていく感覚に苛まれていた。誰よりも確かな地位を得るための計算と策略は、あのふたりの純粋な愛の前では無力だった。
淡い月光が高窓から差し込み、エメリンドの影を縦に長く引き伸ばす。彼女の細い指が窓枠を掴み、見下ろす内庭の白い石畳は、まるで悲嘆に沈む心を映すかのように静まり返っていた。
「どうしても──私じゃだめなの?」
艶やかな瞳に、ほんの一瞬、迷いと哀しみが交錯する。だが次の瞬間、エメリンドは顔をそむけ、奥歯を噛んだ。
「まだ、終わったわけじゃない」
胸の内でそっと誓うように呟く。血統と名誉を背負う宿命を果たすため、彼女は再び策略の網を練り直すつもりだった。
それでも、冷たい夜風のなかで心を締めつけるのは、深い嫉妬と切なさだった。
ブラック家の未来を背負った女性の野望は、今宵も静かに夜に溶けていった。
朝の陽光が寝室の窓から差し込み、白いレースのカーテンを通して柔らかな光の帯を作り出していた。アランは震える手でレギュラスのシャツのボタンを留めながら、彼の表情を盗み見ていた。
昨夜のあの重い沈黙と冷たい問いかけが嘘のように、レギュラスは穏やかな微笑みを浮かべている。その自然すぎる振る舞いが、かえってアランの心に暗い影を落としていた。
彼は何を考えているのだろう。
本当に何も気にしていないのだろうか。
それとも——。
カフスボタンを袖に通しながら、アランの指先がわずかに震えた。次にどんな言葉を投げかけられるのか、その恐怖が胸を締めつける。沈黙が続くことの不安に耐えきれず、彼女は自分から口を開いた。
「昨日のことだけど……」
その瞬間、レギュラスの手がそっとアランの手を覆った。温かく、優しく、まるで何の問題もないかのように。
「水に流しましょう、アラン。大丈夫ですから」
その言葉は慈愛に満ちていた。しかし、あまりにも完璧すぎる理解と赦しが、アランには不自然に感じられた。まるで台本を読み上げているかのような、計算された優しさのように思えてならない。
「でも……」
「何も心配することはありません」
レギュラスの声は変わらず穏やかだった。ネクタイを結ぶ手つきも、いつもと同じように丁寧で、迷いがない。
アランは彼の胸元でネクタイを整えながら、心の奥で震えていた。この不自然なほどの寛容さが、かえってアランを追い詰めていく。本当の感情を隠しているレギュラスの心の奥が見えず、それが何よりも恐ろしかった。
「ありがとう……」
小さく呟く声は、感謝というよりも謝罪に近かった。
レギュラスは優しく微笑み、アランの頬にそっと手を添えた。
「僕たちは夫婦です。お互いを信じ合いましょう」
その言葉の響きは美しく、しかし氷のように冷たかった。表面的な和解の下に隠された真の感情が、アランにはわからない。
アランはただ頷くことしかできなかった。レギュラスの完璧すぎる演技の前で、自分の罪悪感がますます重くのしかかってくるのを感じながら。
朝の光が二人を包んでいたが、その輝きは、どこか冷たく感じられた。
魔法省の重厚な扉を押し開けると、冷たい石造りの廊下に足音が響いた。レギュラスは黒い革の鞄を片手に、大臣執務室へと向かう。その足取りは普段と変わらず落ち着いているが、胸の奥では激しい感情の嵐が渦巻いていた。
何もかもがイライラした。
朝のあの完璧な芝居——慈愛に満ちた夫を演じ、妻の過ちを水に流すふりをした自分。アランの震える手を包み込み、優しい言葉をかけた時、心の中では別の感情が燃えていた。
愛している。失いたくない。
その想いを盾にされたような気がしてならなかった。アランは自分の愛を知っているからこそ、最終的には許されることを理解している。そして、その計算が正しいことも、レギュラス自身がよくわかっていた。
アランへの想いを断ち切れない限り、折れるべきはいつだって自分だった。
執務室の扉をノックし、中へ入ると、魔法大臣が重々しく頷いた。
「ブラック卿、例の件で」
「ええ。マグルの魔法使いの検挙書類です」
レギュラスは鞄から厚い書類の束を取り出し、机の上に置いた。本来なら一件一件を慎重に審査し、情状酌量の余地があるものは別途検討するのが常だった。だが今日は違った。
書類をめくりながら、彼の目に映るのは名前と罪状だけ。マグルボーンの魔法使い、純血でない者たち——それだけで十分だった。
アリス・ブラック。
その名前が頭をよぎる。シリウスが養子に迎えた忌々しいマグルの女。アランがわざわざ見舞いに行った相手。
判を押す手に、わずかな力が込められた。
「この件については、厳正に処理していただきたい」
「承知いたしました」
大臣の声が遠くに聞こえる。レギュラスの心は、もはや一つ一つの事案を丁寧に解いて審議する余裕を失っていた。公正な判断を下すべき立場にありながら、私情に支配された彼は、ただ機械的に判を押し続けた。
マグルの魔法使いというだけで、それは処罰に値する。
窓の外では午後の陽が傾き始めていたが、レギュラスの心に差し込む光はなかった。愛と憎しみ、嫉妬と絶望——すべてが混じり合った感情の渦の中で、彼は職務を遂行し続けた。
帰宅すれば、またあの完璧な夫を演じなければならない。アランを愛しているからこそ、彼女を失いたくないからこそ、自分の感情を押し殺し続けなければならない。
そして今夜もまた、静かな微笑みを浮かべて「お帰りなさい」と迎えることになるのだろう。
書類の最後のページに判を押すと、レギュラスは深く息を吐いた。職務は終わったが、心の重荷は少しも軽くならなかった。
秋の午後、屋敷のサロンに漂う薄い霧のような静寂の中で、
アランは静かに茶器を手に取りながら、胸の奥で渦巻く疑念と向き合っていた。
エメリンド・フェリックスがアリス・ブラックの居場所を教えてくれたあの夜。
それまでアランは、その行動を純粋な善意だと信じて疑わなかった。
けれど今、違う見方が心の中で形になりつつあった。
あの夜、自分の外出先をレギュラスに告げたのは――エメリンドだった。
そのことが、夫婦の間に深い溝を刻んだのだとすれば。
もしかすると、それこそが彼女の狙いだったのかもしれない。
「エメリンド嬢」
アランは穏やかな声で彼女を呼び出した。
エメリンドは淑やかな微笑みを浮かべながら、サロンに姿を現す。
「先日は、助かりました」
アランの言葉は表面的には感謝に満ちていたが、その瞳の奥には複雑な光が宿っていた。
「奥様のお役に立てて、なによりですわ」
エメリンドの返答もまた、完璧に上品で、隙のない微笑みを伴っていた。
アランは静かに茶を注ぎながら、心の中で一つの決断を下していた。
エメリンドがレギュラスに抱いている感情――それが恋慕であるなら、
せめてもの礼として、彼女にレギュラスとの時間を用意することを約束しよう。
それは諦めでもあり、同時に一種の贖罪でもあった。
自分が気づかぬうちに巻き込んでしまった、この複雑な感情の糸を、
少しでも整理するために。
「エメリンド嬢」
アランは優雅にカップを置きながら、静かに口を開いた。
夕陽がサロンの窓から斜めに差し込み、
二人の女性の間に、言葉にならない理解と、
それぞれの想いが静かに交錯していた。
アランは静かな夕闇の中、深い思索に沈んでいた。
屋敷の片隅、廊下の灯が優しく揺れる先で、彼女は意を決してヴァルブルガの部屋へと足を運ぶ。
ヴァルブルガの視線はいつも厳しく、しかし家の未来を見据えた意志の強さがあった。
アランはその硬い表情の奥に、一縷の希望を託すかのように静かに口を開いた。
「今夜の伽を、エメリンド嬢と整えていただけますか」
その言葉は決意に満ちていて、家の未来を守るための戦略でもあった。
もしエメリンドがレギュラスとの間に男児を産んでくれたなら、
彼女は確固たる立場を築き、余計な思惑や波風を立てさせることなく、屋敷での居場所を確保できる。
アランの胸中には、静かな覚悟があった。
「欲しいものは先に与える」という、現実的な理性が淡々と働いている。
ヴァルブルガはその申し出を軽やかに受け入れた。
彼女の鋭い瞳が一瞬だけ、微かな沈黙の色を帯びる。
「わかりました。家の未来のため、大切な夜となりますわね」
その声は、冷徹ながらもどこか慈愛に満ちていて、家族の絆を複雑に絡み合わせる音色を孕んでいた。
アランは深く息を吐き、わずかに肩の力を抜いた。
長い戦いの片隅で静かに芽吹く希望。
家族の未来を守り抜こうとする強さが、沈黙のうちに満ちていた。
静かな夜が屋敷を包み込んでいた。
アランは久しぶりに調合台に向かい、細心の注意を払って魔法薬を調合していた。
それは夜の男女のために使われる薬――
まさか自分がこんなものを作る日が来るとは、思いもよらぬことだった。
滴る水銀のように光る薬液を慎重に瓶に詰め終えると、満足げに息をついた。
耐え忍んだ日々の中で、今夜この薬が果たす役割に、複雑な思いを抱えながらも、彼女は確かな覚悟を感じていた。
レギュラスが帰宅する前に、すべてを用意し終えたアラン。
ヴァルブルガはレギュラスにエメリンドが待っていると告げたが、彼は応える気はないとそっけなく告げたという。
レギュラスはそのままアランのもとへ向かった――
彼のその態度は、アランの想定の範囲内だった。
アランは静かに紅茶を淹れ、その中に先ほど調合した薬を数滴垂らしていた。
湯気がゆらめき、優しい香りが部屋に満ちている。
わずかな緊張と期待が胸の内を満たすなか、扉の軋む音が響く。
レギュラスが帰ってきたのだ。
「おかえりなさい、レギュラス」
アランの声は穏やかで落ち着いていた。
しかしその奥には揺るぎない決意が秘められている。
レギュラスは一瞬、彼女の姿を見つめ、深い思考に沈むようにゆっくりと歩み寄る。
夜の静けさの中、ふたりの息づかいだけがわずかに響く。
このひとときが、いつまでも続くことを願うように。
期待と不安。愛と諦念。
すべてが交錯する夜の中で、
変わらずに続く何かを、二人は静かに感じていた。
夜の静寂が屋敷を包む中、アランは何も変わらぬ日常を装うように、温かく湯気の立つカップをレギュラスに差し出した。
「今入れたばかりなの。どうぞ」
その声は柔らかく、いつもと変わらない優しさを湛えていた。
表面的には何の変哲もない、ただの夫婦の夜の時間。
「ありがとうございます」
レギュラスは素直にカップを受け取り、静かに紅茶を飲み干していく。
アランが調合した薬は即効性のあるものにしていた。
飲み干された今、時間はもうなかった。
「ヴァルブルガ様が、エメリンド嬢のところへと仰ってませんでした?」
アランは何気ない口調で切り出した。
その瞳には、静かな期待が宿っている。
「ええ、断りました」
レギュラスの返答は素っ気なく、迷いのないものだった。
「行くだけ行ってください。女性は準備して待っているものなんですから」
アランの声には、わずかに説得するような響きが混じる。
「その気もないのに訪れるのも、失礼にあたるでしょう」
レギュラスは首を振り、頑なな態度を崩さない。
アランの胸中に、じりじりとした焦りが募っていく。
薬の効果が現れる前に、彼をエメリンドのもとへ向かわせなければならない。
しかし、レギュラスの意志は固く、簡単には揺らぎそうになかった。
時間だけが、静かに過ぎていく。
夜の闇が、二人の間に微妙な緊張を織り成していた。
夜の静寂の中、アランが差し出したカップから紅茶を飲み干したレギュラスに、静かな変化が始まっていた。
「それならば、自分の口でそう言いに行ってください。ずっと待たされるのは酷ですわ」
アランの声には、わずかに焦りの色が混じっていた。
レギュラスは鋭い目でアランを見つめ、その口調の変化を見逃さなかった。
「そこまでして今日、僕をエメリンドのところにやりたい理由は何です?」
その問いかけは的确で、アランの胸を突いた。
レギュラスは鋭かった。
そして同時に、彼は自分の体に起こっている変化に気づき始めていた。
やけに暑く感じる肌。
心臓の鼓動が早くなっていく感覚。
やけに無理やり生理的な興奮を煽られているような、不自然な熱が体の奥から湧き上がってくる。
アランは息を詰めて、夫の表情を見守った。
薬の効果が現れるのは時間の問題だった。
けれど、レギュラスの鋭い洞察力は、彼女が思っていた以上だった。
「アラン……」
レギュラスの声が、わずかに掠れていた。
体の中を駆け巡る不自然な熱に、彼は眉をひそめる。
この感覚は何かがおかしい。
紅茶を飲んだ直後から、明らかに体調が変わっていく。
部屋の空気が重くなり、二人の間に緊張が走った。
アランの心臓は激しく鼓動し、レギュラスの疑念の眼差しが彼女を見つめていた。
夜の静寂の中で、夫婦の間に横たわる複雑な感情と、今まさに始まろうとしている出来事の重みが、静かに部屋を満たしていた。
「アラン……何をしたんです?」
レギュラスの声は震えていた。
視界がかすみ、体の中を駆け巡る不自然な熱に、彼の理性が蝕まれていく。
アランが調合した薬は、思った以上に強力だった。
「ごめんなさい、レギュラス。媚薬を使いました」
アランの告白は、静かで、しかし明確だった。
「このまま、エメリンド嬢の部屋へ行ってください」
その瞬間、レギュラスの頭を殴られたような衝撃が走った。
何のために――
疑問が心の中で渦巻くが、あまりの衝撃に言葉にならない。
愛する妻が、自分を他の女のもとへ送り出すために、薬まで使ったという現実。
どこまで自分の愛は軽んじられ、踏みつけられるのだろう。
どこまで彼女にとって自分という存在は、取るに足らないものなのだろう。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
これまでアランから向けられていた愛情――
あの優しい微笑みも、労わりの言葉も、寄り添う温もりも。
それらすべてが偽善だったのではないか。
いや、むしろ初めから愛情など存在せず、
自分がそこにあると思いたかっただけなのかもしれない。
「……そうですか」
レギュラスの声は、驚くほど静かだった。
薬の効果で朦朧とする意識の中でも、彼の心は冷え切っていた。
これ以上ここにいても、傷つくだけだ。
妻の望み通りにしてやろう。
立ち上がろうとするレギュラスの足は、薬の影響でふらついた。
それでも彼は、最後の尊厳を保つように背筋を伸ばし、扉に向かって歩き始める。
アランは、夫の後ろ姿を見つめていた。
その背中に漂う絶望の色を、彼女もまた感じ取っていた。
だが、もう引き返すことはできない。
この選択が正しかったのかどうか――
それを知るのは、まだ遠い未来のことだった。
夜の静寂の中、二人の間に横たわる溝は、これまで以上に深く、暗いものとなっていた。
死ぬほど惨めだった。
エメリンドの部屋の扉が開かれた瞬間、彼女が嬉しそうに迎え入れる表情を目にして、レギュラスの胸に殺意にも似た激情が沸き起こった。薬に支配された身体とは裏腹に、心は氷のように冷え切っている。
この女が――
夫婦の溝を深めることを狙って、シリウス・ブラックの写真をわざわざ差し出し、アランにアリス・ブラックの居場所を教えて画策したことを、彼は知っていた。すべては計算された悪意だった。
そして今、まさにその狙い通りになってやるのが癪で、レギュラスは感情を押し殺すように振る舞った。自分たち夫婦の間には何の軋轢もないのだと装いながら。
けれど結果は、笑ってしまうほどに一方通行の愛情だった。
すべてがこの女の思い通り。
こんな取るに足らない女の手のひらで踊らされている。
誇りも何もかもを傷つけられた気がした。
この激しい怒りが、目の前のエメリンドに向けられているのか、それとも自分を送り出したアランに向けられているのか、もうわからなかった。憎悪と絶望が入り混じって、胸の奥で渦巻いている。
義務を果たすだけの行為は、何もかもが虚無だった。
エメリンドの口から漏らされる声があまりに不愉快で、レギュラスは思わず手で彼女の口を覆った。その仕草は愛とは程遠い、ただの嫌悪の表れだった。
アランは魔法薬が得意だった。
それならばもっと、心も燃え上がれるような薬を作ってほしかった。
中途半端に身体的な興奮だけを呼び出して、心は完全に冷え切ったまま。
そのギャップで胸が張り裂けそうなほど苦しかった。
月明かりが薄く差し込む部屋で、レギュラスは機械的に動作を続けた。薬に支配された肉体と、絶望に沈んだ魂との間で、彼はただ時が過ぎるのを待っていた。
愛する妻に送り出された夜。
それは彼にとって、最も屈辱的で最も虚しい時間となった。
暗闇の中で、レギュラス・ブラックの誇りは静かに砕け散り、彼の心に深い傷を刻んでいった。
翌朝の陽ざしは柔らかく窓辺から差し込み、カーテンを静かに揺らしていた。
だが、レギュラスはベッドの中で体のだるさに身を横たえ、まるで重い枷に縛られたかのように動けずにいた。
額や首筋に、アランの手のぬくもりが静かに触れるのを感じる。
けれど、その優しさに心からの感謝は湧かず、逆に冷めた感情が胸の奥からじわじわと込み上げてきた。
「心配などしていないくせに」
鋭く内側でつぶやく言葉は、小さな絶望と共に彼の心を曇らせる。
程なくして、静かな足音とともにアランが朝食を携えて部屋へ入ってきた。
彼女の声は柔らかで、しかしどこか控えめに問いかけた。
「食べられますか?」
疲れ切ったレギュラスには答える力もなく、ただ静かに視線を落としただけだった。
アランは僅かに息を呑みながら、そのトレイをそっとサイドテーブルに置く。
彼女はベッドの端に腰掛ける。
長い沈黙が部屋を満たし、互いの気配だけが静かに漂っていた。
レギュラスは無理に部屋に留まろうとするアランの姿を内心で嘲笑う。
薄ら寒く、白々しく、わざとらしい。
「出て行きたいのなら、出て行けばよいものを」
冷え切った心でそう思いながらも、声に出す気力すらなかった。
朝の光は優しいのに、二人の間に横たわる距離は縮まらず、
沈黙の厚い壁が静かに高くそびえていた。
体の痛みと心の重さが絡み合いながら、窓の外の世界は何事もなかったかのように刻々と動き続ける。
アランのやわらかな手が、レギュラスの冷えた掌にそっと重ねられた。
だが、レギュラスは反射的にその手を払いのけた。
それは、彼がアランに向けた初めての、明確な拒絶だった。
昨日、他の女のもとへ送り出された自分を労わるかのように、
アランはどんな顔で、どんな声で愛を真似た行為をし、愛と名のつく言葉を囁くだろう――
レギュラスの胸には、もはや何ひとつ信じるものは残っていなかった。
アランは一瞬、払いのけられた手を見つめたまま止まっていたが、
やがてゆっくりとその手を元へ戻した。
そして静かに立ち上がり、部屋の扉へと向かおうとした。
その姿に――やはり、彼女が出て行くのは嫌だった。
レギュラスは思わずベッドから起き上がり、慌ててアランの腕を掴んだ。
「どうしました?」
アランの声は穏やかだったが、どこか戸惑いも混じっていた。
言葉は見つからず、レギュラスはしばし沈黙した。
けれど、胸の奥底から湧き上がるのは、ただひとつの素直な想いだった。
――行ってほしくない。
それだけで充分だった。
激しく揺れ動く感情を胸に、
二人は言葉にならないまま、互いの眼差しを交わしていた。
レギュラスの指先がアランの腕を包む力は、決して強くはなかった。
それでも、その小さな抵抗の中に、彼の内に秘める不安と切望が滲み出ていた。
アランはその握りを逃さず、静かに彼の瞳を見つめ返す。
言葉を交わすことはなかったが、二人の間に漂う沈黙は、
むしろ何よりも雄弁に、深い感情を語っていた。
「……」
かすかな吐息が漏れる。
時間がゆっくりと流れていく。
外からは遠くで鳥の囀りが聞こえ、窓の向こうには秋の穏やかな陽光が降り注いでいる。
けれど、部屋の中にある空気は重く、何かが押し潰されそうなほどの張り詰めた緊張で満ちていた。
レギュラスは深く息を吸い込み、少しだけ肩の力を抜く。
そして、冷たさを帯びた瞳の奥に、ほんの僅かな温もりが灯った。
「アラン……」
重い声だが、その響きには懸命な駆け引きや誤魔化しは一切ない。
純粋に、ただ彼女を求める叫びのようだった。
アランは微笑みを浮かべるわけでもなく、涙を流すわけでもなく、
ただ静かにそっと手を伸ばし、レギュラスの手を取り直した。
その瞬間、二人の間にあった見えない壁がきしむように崩れ始めた。
終わりの見えない迷路の中で、それは小さな希望の光だった。
薄明かりに照らされて、
二人はただ寄り添い、互いの温もりを確かめ合うように時間を重ねていった。
重く沈んだ曇り空の下、レギュラスは任務でルシウスと肩を並べて歩いていた。
「聞いているぞ、レギュラス。魔法省が屋敷に来たそうじゃないか」
ルシウスが小さく嗤うように言う。その耳の早さに、レギュラスはため息混じりに応じた。
「本当に……耳が早いですね、あなたという人は」
魔法界の上流には、いつだって噂が渦巻いている。
レギュラス・ブラックに容疑が向けられている――その話題は格好の餌食となり、あちこちで好奇の視線が向けられる。
日々、その無遠慮な視線にさらされることの煩わしさを、レギュラスは嫌というほど味わっていた。
けれど、その狭間で一つだけ確かなことがあった。
この事件が、間違いなく闇の帝王自身の手によるものであると、誰一人として辿り着くことができていないこと。
ヴォルデモートの真意もその責任も、きれいに闇に葬られていた。
皮肉な安堵が、レギュラスの胸をひそかに満たしていた。
ふと、ルシウスが声を低めて言う。
「闇の帝王がお前を買っているようだな」
その言葉の裏には、羨望にも嫉妬にも似た感情がさざ波のように透けている。
レギュラスは淡々と微笑みを返すのみだった。
薄闇のなか、互いの思惑は静かに交錯しながら、
魔法界の深い闇に二人の影だけが静かに溶け込んでいった。
孤児院事件にまつわる余計な噂がはびこったせいで、ブラック家の名に深刻なヒビが入りかけていた。
しかし、それ以上にレギュラスが日々の任務で積み重ねてきた功績もまた、魔法界では賞賛とともに語り継がれていた。
混血の魔法使いやマグル生まれの魔法使いが、純血の魔法使いに向けて憎悪の杖を振りかざそうとする時――
そこには必ずレギュラス・ブラックが颯爽と立ちはだかり、冷静沈着にその場を収めてきたのだ。
魔法省の役人たちがこぞってブラック家に調査の手を伸ばし始めた頃から、レギュラスは意図的にこうした危険な任務を数多く引き受けるようになった。
そうすることで世間の関心と評価を別の方向へと導き、疑いの目を効果的に逸らすことができるからだった。
薄暗い魔法省の廊下で、バーテミウスとすれ違いざまに交わした会話。
「噂というものは、他のもので上書きしておかないといけませんからね」
レギュラスの口調は穏やかだったが、その言葉の裏には冷徹な計算が隠されていた。
バーテミウスは感心したように眉を上げ、小さく笑った。
「なかなかに計算高いね、君は。まるで政治家のようだ」
「生き残るためには必要なことです」
レギュラスの返答は簡潔だったが、その瞳の奥には深い疲労の影が宿っていた。
夕闇が迫る中、レギュラスは一人静かに屋敷への道を歩いていた。
愛する人を守るために築き上げた虚構の重みが、彼の肩にずっしりとのしかかっている。
魔法界の表舞台で繰り広げられる、この静かで繊細な欺瞞の舞踏。
それは彼が背負い続ける十字架であり、同時に愛の証でもあった。
街灯の薄明かりが石畳を照らす中、レギュラスの影だけが長く、孤独に伸びていった。
その仕草はまるで、ホグワーツの若き日のあの頃に二人が戻ったかのようで、空気は甘く穏やかな懐かしさに満ちていた。
ふとした瞬間、視線が互いに揺らめく緑色の翡翠の瞳と絡み合う。
言葉はいらなかった。
自然にふたりの唇がそっと触れ合い、軽やかに寄り添うキスを交わす。
それは触れるだけの、繊細な口づけ。まるで時の流れを一瞬だけ止めるようだった。
シリウスは静かにアランの目を覗き込み、その翡翠の瞳に自らの姿を映し出すのがわかった。
その輝きに胸がじんと熱くなり、彼は深い喜びを噛みしめた。
一度、その柔らかな唇が重なっただけで、もうそれでは足りないと思ってしまった。
まるで失われた年月を一瞬で埋め尽くすように、彼は次のキスを求める。
それは今度は長く、全てを絡めとり、そのまま時間さえも忘れるほど深いものだった。
唇と唇、息と息、体温と体温が溶け合い、ひたすら夢中になってキスを重ねる。
やがてふと、彼女の吐息に混じるほんの少しの涙の味が唇に触れた。
その涙は、悲しみのものではなく、切なさと愛しさが織りなす繊細な感情の証。
ふたりの関係の深さと、離れていた時間の重みを静かに物語っていた。
静かな部屋の中、二人の世界はゆったりと流れ、愛に満ちて輝きを増していった。
その夜、彼らは言葉以上の想いを分かち合い、永遠にも似た時間を紡いだ。
アランは思わず時間の感覚を忘れてしまっていた。
夜になる前に帰れば、レギュラスにはバレない。そう思って屋敷を出てきたはずだった。
けれどシリウスと共に過ごす時間があまりにもあっという間だった。
暖炉の灯りがほのかに揺れる中、アランは深い眠りから突然目を覚ます。
先ほどまでの甘い余韻が肌に残っている一方で、窓の向こうに目をやると、そこにはすっかり闇に包まれた夜の風景が広がっていた。月が中天にかかり、星々が瞬いている。
「え……」
呟きとともに、彼女の身体に電流が走った。ガバッと身を起こすと、隣でシリウスが静かな寝息を立てているのが見えた。あまりにも深い快楽と安らぎに包まれて、いつの間にか眠り込んでしまっていたのだ。
時計を見る必要もなかった。窓の外の暗さが、すべてを物語っている。完全に夜だった。
頭が次第に冴えてくると同時に、胸の奥から冷たい恐怖がじわりと湧き上がってきた。血の気が引き、手足の先まで氷のように冷たくなる。
レギュラスは——もうとっくに帰宅しているかもしれない。
任務から戻った夫が、妻の不在に気づいているかもしれない。使用人たちに問いただし、午後に外出したことを知っているかもしれない。そして、どこへ行ったのかを調べようとすれば、それほど時間はかからないだろう。
エメリンドが情報を提供してくれたこと。
聖マンゴ病院を訪れたこと。
アリスと会ったこと。
そして——シリウスと一緒にいたこと。
すべてが明るみに出てしまう。
アランは震える手で髪をかき上げた。どう取り繕えばいいのか、まったく思い浮かばない。言い訳を考えようとしても、頭の中は真っ白で、何も思い浮かばなかった。
「シリウス……」
か細い声で呼びかけると、彼もゆっくりと目を開けた。アランの青ざめた顔を見て、すぐに事態を理解したようだった。
「時間……」
アランの声は震えていた。幸福な夢から、一気に現実へと突き落とされた気分だった。
シリウスは身を起こし、そっとアランの肩を抱いた。
「落ち着いて。きっと大丈夫だ」
でも、その慰めの言葉も、今のアランには届かなかった。恐怖と不安が胸を支配し、呼吸さえ苦しくなってくる。
レギュラスの顔が頭に浮かんだ。あの静かな怒り、失望、そして悲しみ。想像するだけで、心が張り裂けそうになった。
「私、どうしよう……」
小さく呟きながら、アランは暗闇の向こうにある屋敷のことを思った。今頃、レギュラスは何をしているだろうか。自分を探しているだろうか。それとも、すでにすべてを知ってしまっているのだろうか。
時計の針は容赦なく進み、夜はさらに深くなっていった。甘美な幸福の代償として、彼女は今、耐え難い恐怖と後悔に向き合わなければならなかった。
暗闇の中で、アランは慌てたように身を起こした。床に散らばった衣服を拾い集めながら、手が震えているのを自分でも感じていた。
シルクのブラウスを羽織り、スカートの裾を整える。髪をかき上げ、乱れた髪留めを直そうとするが、指先が上手く動かない。鏡を見る余裕もなく、ただひたすら身支度を急いだ。
「アラン……」
シリウスが心配そうに声をかけたが、彼女はもう甘い余韻に浸っている場合ではないことを痛感していた。
「ごめんなさい、急がないと……」
靴を履きながら、アランの頭の中では必死に言い訳を考えていた。
体調が悪くて近くの薬草店に薬を買いに行った?
いや、それでは時間が説明できない。
友人の見舞いに行っていた?
でも、どの友人と答えればいいのだろう。
アリスの怪我を心配して病院に……?
それは真実だが、その後のことをどう説明すればいいのか。
頭の中で様々な可能性が駆け巡ったが、どれも不完全で、すぐに破綻しそうな嘘ばかりだった。
「シリウス、私……」
振り返ると、彼が心配そうに見つめていた。その優しい瞳を見ていると、また涙が出そうになった。でも、今は泣いている時間もない。
「帰らなくては」
ローブを羽織り、髪を急いでまとめる。鏡がないので、手探りで身だしなみを整えるしかなかった。完璧ではないかもしれないが、これ以上時間をかけるわけにはいかない。
扉の前で一度振り返ると、シリウスが立ち上がろうとしていた。
「送っていこう」
「いえ、大丈夫。姿くらましを使うわ」
馬車でゆっくりと帰宅している悠長さは、もうなかった。一刻も早く屋敷に戻り、レギュラスがまだ帰っていないことを祈るしかない。
「アラン、何かあったら……」
「ありがとう」
最後の言葉を残して、アランは扉を出た。冷たい夜風が頬を打ち、現実の厳しさを改めて突きつけてくる。
石畳の上に立ち、深く息を吸い込む。姿くらましの呪文を唱える前に、もう一度屋敷での言い訳を頭の中で整理しようとした。
でも、やはり完璧な嘘は思い浮かばない。真実の一部を混ぜて、なんとか切り抜けるしかないのだろう。
杖を握りしめ、呪文を唱える。次の瞬間、アランの姿は夜の闇に溶けて消えた。
屋敷の庭先に現れた時、彼女の心臓は激しく鼓動していた。窓の明かりを見上げると、まだいくつかの部屋に灯りがついている。
レギュラスは帰っているのだろうか。
そして、彼女の不在に気づいているのだろうか。
震える手で玄関の扉に向かいながら、アランは最後の祈りを込めて足を進めた。
夜の闇が屋敷を深く覆う頃、アランは扉を押し開け、足音を震わせながら玄関ホールに入った。大理石の床に反響する自分の足音が、これまでになく重く聞こえる。胸の奥で、冷たい恐怖がじわじわと波紋を広げていった。
廊下を進むと、レギュラスは温かな灯りの下で静かに立っていた。深い紺のローブに包まれた姿は、まるで漆黒の影そのもののようで、その瞳はアランをじっと見つめている。
「お帰りなさい、アラン。遅いですね」
その声は形だけの歓迎を告げるものだった。響き渡る言葉に一片のぬくもりもなく、冷え切った金属の刃のように胸を刺す。アランの心臓は凍りつくように縮み上がり、言い訳を探そうとした頭が一瞬で真っ白になった。
「レギュラス……」
声は震え、喉に引っかかる。夜の静寂が、ふたりの間に張りつめた空気をより深く感じさせる。用意してきたはずの言い訳はどこにもない。どの言葉も薄く、砕け散り、逃げ場を失った心だけが暗闇に取り残される。
レギュラスは動かず、ただアランを見つめ続けた。その瞳の奥にあるのは、問いかけるような静かな悲しみと、裏切られた者の冷たい静寂。言葉の代わりに、重く沈む空気が破片となって胸に降り積もった。
アランは背筋を伸ばそうとしたが、全身に力が入らない。まるで見えない鎖が絡みつき、動くことすら許されないかのようだった。レギュラスの言葉は続かない。二人だけに残された夜の廊下で、只一言を待つその沈黙が、最も厳しい非難の声となってアランを責めた。
握りしめた拳からは血の気が引き、冷たい震えを止めることもできなかった。どれほど許しを乞う言葉を紡いでも、この一瞬の重みに比べれば、何も足りないのだと――恐怖が全身を貫く。
廊下に静かに流れる暗闇だけが、そのままの真実を語っていた。
広い屋敷のホールには、蝋燭の炎が静かに揺れていた。宵はすでに深く、時折吹き込む夜風が厚いカーテンをわずかに撫でる。
玄関の扉が控えめな音を立てて開く。
コートの襟元に夜の冷気をまとったアランが、帰ってきた。
柔らかな靴音が床石に響き、ホールの中央まで来たとき――そこに、彼がいた。
レギュラス・ブラックは、階段の踊り場に背を預け、何時間も前からアランの帰りを待っていたのだろう。濃いインディゴのタキシードの裾を丁寧に整え、髪の乱れひとつないその姿が、現実味を帯びて見えた瞬間、アランの鼓動が一拍遅れた。
「ずいぶんと、長い外出でしたね」
その言葉は、まるで夜の闇が人の声を真似たかのように静かだった。
怒声でも苛立ちの舌打ちでもない、けれど明らかに――怒っている。
アランは立ち尽くしたまま、返す言葉を探す。
「……少し、気が晴れなくて。気づいたら時間が……」
言い訳にもなっていない。口に出そうとして瞬時に後悔し、自分の愚かしさに唇を結ぶ。
レギュラスは階段をゆっくりと下りてきた。その動作ひとつひとつが、彼の人間性を削ぎ落とし、まるで無機の精霊のような静謐さを纏っていた。
「気が晴れなかった……なるほど。あなたが癒しを得られるものを、僕は知らない。誰とどこで、過ごしていたのです?」
アランはその一言に、目を伏せた。
沈黙が、水面に落ちた石のように波紋を広げる。
「……誰かと会っていたのですね。言葉にしないのなら、顔が答えています」
声音に責め立てる毒こそなかったが、返ってそれが恐ろしく響いた。
アランの唇が微かに揺れる。反論も、否定も、謝罪も、どれも喉の奥で形を失う。
そして、レギュラスは少し顔を近づけると、囁くように言った。
「あなたはとてもわかりやすい。……まったく、呆れるほどに」
その顔に浮かぶ笑みにも似た表情は、怒りではない。いや、怒りは遥か以前に通り過ぎている。そこにあるのは、所有の冷静さと、誇りを裏切られまいとする静かな防衛だった。
アランは踵を揃えて立ち直った。逃げないと誓うことが、せめてもの誠意だと思った。
「……ごめんなさい、レギュラス」
レギュラスはその謝罪に反応を示さなかった。代わりに、まるでアランの心を紐解くような目でしばらく黙って見つめていた。
「裏切るのは信頼ではなく、沈黙なのだと……忘れないでください、アラン」
その言葉は、穏やかで、それゆえに鋭かった。
アランの背筋が伸びる。目の奥が熱くなりそうだったが、涙に変えるにはあまりに見苦しかった。
扉の奥、闇の中に吸い込まれていった記憶の残像――それが、あの人の眼差しだったとしても。
今日、自分がここへ戻って来たという選択だけは、曲げてはならないと、心の底で自分に言い聞かせた。
そして、二人の間に沈黙が戻った。
今度は、互いを突き放すためではなく、その中に残されたわずかな温度を、見失わぬために。
静寂が敷き詰められた応接間。マホガニーのキャビネットに飾られた銀のカップの底で、ろうそくの灯りがぼんやり揺れていた。
アランが部屋に入ると、レギュラスはすでに窓辺の椅子に腰かけていた。カーテンの隙間から覗く夜の月光が、彼の黒髪に淡い青を落としている。
「……座ったらどうです?」
低く静かなその言葉は、命令にも誘いにも聞こえない。だが従うより他なかった。アランはそっと向かいの椅子に腰を下ろす。その動作一つにさえ、重い影が差してくる。
沈黙がふたりの間に息を潜める。
やがてレギュラスが、何かを見据えるような鋭いまなざしでアランを見つめた。
「エメリンド嬢から聞きました。アリスブラックのためにあなたは聖マンゴ病院へと行ったそうですね」
その声は酷薄なほど滑らかだった。
アランの指先がかすかに震える。見慣れぬ自分の表情が、窓辺の鏡面に映っている気がした。
「そのために、僕に何も告げず屋敷を抜け出した。……あの女のために」
レギュラスは冷ややかに目を細める。怒声も罵倒もない。しかし、その静けさこそが心臓を凍り付かせる。
アランは視線を落とした。言い訳も釈明も意味を持たないと知っていた。ただ静かに指を組み、答えを探す。
椅子の肘掛けを指先でそっとなぞるレギュラス。
レギュラスのその囁きは祈りのようで、凍る刃のようでもあった。
アランの頬を、一筋だけ涙が伝う。
—その痛みさえも、今は声にできなかった。
ふたりの間に流れる空気が、永遠の夜よりも重たく感じられた。
それでも、アランは黙ってその沈黙を抱きしめるほかなかった。
沈黙の底に沈むまま、互いの誇りと重圧だけを思いやるように——。
──寝室の重厚な扉が静かに閉まると、外の世界のざわめきは遠ざかり、二人だけの夜の帳が降りた。
柔らかなシルクの寝具が白銀の月光に淡く輝く中、レギュラスはベッドの縁に腰を下ろした。身を沈めるたびに襟元のレースがかすかに揺れ、まるで静寂を破るための序章のようだった。
アランは寝巻きの緞子(どんす)をまとい、ベッドサイドのランプの薄明かりに照らされて窓際に立っている。夜風に揺れるカーテンの影が、彼の頬に落ちた。
レギュラスは呼吸を整え、言葉を選ぶように静かに問いかけた。
「……シリウスに会ったんですか?」
それは問いというより、刃を研ぐ仕草のようだった。深い夜の闇に沈むように、アランはゆっくりと首を振る。言葉は出ない。胸の奥で震える気持ちを隠し切れず、まぶたの奥に翳りが漂う。
レギュラスはその沈黙を見据えたまま、額に薄く皺を寄せる。愛を信じたい、でも恐れている。問いの背後にあるのは、不安と独占欲、そして傷つくことへの恐れだった。
「返事を、くれないのですね…」
その声は、ささやきにも近く、揺れ動く。だが冷たい怒りでは決してない。むしろ、愛する者に裏切られたかもしれない痛みが滲んでいた。
アランは苦しげに唇を噛んで、やっと小さな声を漏らした。
「…あの、会ってはいません」
言葉は淡く、か細い。それでも真実を選んだアランの声に、レギュラスの瞳が揺らぐ。
レギュラスは立ち上がり、静かに歩み寄る。アランの肩に手を置くと、その温もりを確かめるように掌を包み込んだ。
「本当ですか?」
まだ確信を得られず、唇は震えた。アランは目を閉じてうなずく。
「本当です…私は、あなた以外の人に会う理由など、もうなくなってしまったから」
その言葉は、夜の静寂を波紋のように揺らし、レギュラスの胸に深く落ちた。怒りはまだくすぶっていたが、その火種はほんのわずかに和らいだ。
レギュラスはそっとアランを抱き寄せ、額を重ねる。二人の鼓動がひとつの旋律を奏でるようだった。
「…わかりました」
声は囁きになり、そして小さく笑みを含んだ。苛立ちの代わりに、信頼の糸が二人の間でそっと結び直される。
その夜、寝室に戻ったのは、ただ二人だけの真実と、重ねた誓いだった。
朝陽が屋敷の窓辺を優しく照らし、白いレースのカーテンが風にそよぐ中、エメリンドは静かにレギュラスに近づいた。
「アラン様にお聞きになられましたか?」
その探るような響きを持つ問いかけに、レギュラスの顔に一瞬だけ影が差した。エメリンドの意図は明白だった。夫婦の間に存在する溝を、さらに深く突こうとしている。その思惑がレギュラスには不快だった。
レギュラスは張り詰めた微笑みを浮かべ、努めて穏やかな声で答えた。
「ええ、僕の代わりに見舞いに行ってくれたそうです」
その微笑みは完璧だったが、眼差しの奥には鋼のような冷たさが宿っていた。エメリンドの思惑どおりに、アランとの間のギクシャクした空気を察されることが何よりも嫌だった。プライドが、そして妻への愛が、それを許さなかった。
朝食の席に着くと、レギュラスは昨夜の出来事がまるで何もなかったかのように振る舞った。本当はまだ何も許していないし、胸の奥の苛立ちも飲み込めずにいるのに、この朝だけは一切それを表に出さなかった。
「アラン、ちゃんと食べてくださいね」
その声はいつもと変わらぬ優しさを湛えていた。紅茶をカップに注ぎながら、まるで昨夜の重い沈黙など存在しなかったかのような自然さで語りかける。
アランは戸惑いを隠せずにいた。あれほど冷たく問い詰められ、沈黙を貫いた昨夜のことが嘘のように、レギュラスはいつもの夫の顔で彼女を見つめている。その変わらぬ振る舞いに、彼女は何と答えていいのかわからなくなった。
「レギュラス……」
小さく呟きかけたが、彼はにこやかに頷くだけだった。
「今日は天気がいいですね」
何気ない日常の会話を紡ぎながら、レギュラスは内心で複雑な感情と戦っていた。愛する妻を失いたくない想い、傷ついたプライド、そして他の誰にも悟られたくない夫婦の秘密——それらすべてを胸に秘めて、彼は完璧な仮面を被り続けた。
エメリンドは少し離れた場所から、その様子を静かに観察していた。表面上は何事もないように見える夫婦の朝の風景に、彼女はかすかな失望を覚えていた。
朝の光が食卓を優しく照らし、静かな時間が流れていく。だが、その穏やかな表面の下では、三人それぞれが異なる思惑を抱えながら、複雑な心の綾を織り続けていた。
エメリンド・フェリックスは、自室の広縁から黒曜石のように輝く夜空を見つめていた。遠くで風に揺れる木々のざわめきが、静かな館内に響いている。心には、薄い蒼い炎のような苛立ちが灯っていた。
彼女が最初にレギュラスの心の揺らぎを感じたのは、あの夜のことだった。シリウス・ブラックとアラン・セシールの関係を匂わせる一言を放ったとき、レギュラスの眉間に小さな陰が走った。冷静を装いながらも、瞳の奥底にわずかに揺れる疼き──その瞬間、「いける」と思った。
しかし、その後──。
黒く重い扉の向こうで、レギュラスとアランは顔を合わせるたびに、互いの思いを静かに確かめ合っていた。深い夜にささやかな言葉を重ね、朝の食卓ではまるで何事もなかったかのように笑う。エメリンドが手を伸ばせば届きそうな隙は、一瞬にして湮滅してしまう。
「この夫婦には、祝福しかないのかもしれないわ」
小さく吐き捨てるように呟く声に、自分でも驚いた。
黒髪を軽く束ね、深紅の絹ローブを翻しながら、彼女はふと、あの夜の記憶を思い返す。初めて共に過ごしたあの一夜──
レギュラスは翌朝、再び訪れてはくれなかった。完璧な逢瀬を約束した指先の温もりは、冷えた朝の残滓となり、二度と戻らぬ幻のように消えた。
「私がここに招かれたのは、血統のため、名誉のため……」
その言葉の響きは、今は空しく廊下にこだました。
彼女は自分の野心を胸に抱えながらも、次第に見失っていく感覚に苛まれていた。誰よりも確かな地位を得るための計算と策略は、あのふたりの純粋な愛の前では無力だった。
淡い月光が高窓から差し込み、エメリンドの影を縦に長く引き伸ばす。彼女の細い指が窓枠を掴み、見下ろす内庭の白い石畳は、まるで悲嘆に沈む心を映すかのように静まり返っていた。
「どうしても──私じゃだめなの?」
艶やかな瞳に、ほんの一瞬、迷いと哀しみが交錯する。だが次の瞬間、エメリンドは顔をそむけ、奥歯を噛んだ。
「まだ、終わったわけじゃない」
胸の内でそっと誓うように呟く。血統と名誉を背負う宿命を果たすため、彼女は再び策略の網を練り直すつもりだった。
それでも、冷たい夜風のなかで心を締めつけるのは、深い嫉妬と切なさだった。
ブラック家の未来を背負った女性の野望は、今宵も静かに夜に溶けていった。
朝の陽光が寝室の窓から差し込み、白いレースのカーテンを通して柔らかな光の帯を作り出していた。アランは震える手でレギュラスのシャツのボタンを留めながら、彼の表情を盗み見ていた。
昨夜のあの重い沈黙と冷たい問いかけが嘘のように、レギュラスは穏やかな微笑みを浮かべている。その自然すぎる振る舞いが、かえってアランの心に暗い影を落としていた。
彼は何を考えているのだろう。
本当に何も気にしていないのだろうか。
それとも——。
カフスボタンを袖に通しながら、アランの指先がわずかに震えた。次にどんな言葉を投げかけられるのか、その恐怖が胸を締めつける。沈黙が続くことの不安に耐えきれず、彼女は自分から口を開いた。
「昨日のことだけど……」
その瞬間、レギュラスの手がそっとアランの手を覆った。温かく、優しく、まるで何の問題もないかのように。
「水に流しましょう、アラン。大丈夫ですから」
その言葉は慈愛に満ちていた。しかし、あまりにも完璧すぎる理解と赦しが、アランには不自然に感じられた。まるで台本を読み上げているかのような、計算された優しさのように思えてならない。
「でも……」
「何も心配することはありません」
レギュラスの声は変わらず穏やかだった。ネクタイを結ぶ手つきも、いつもと同じように丁寧で、迷いがない。
アランは彼の胸元でネクタイを整えながら、心の奥で震えていた。この不自然なほどの寛容さが、かえってアランを追い詰めていく。本当の感情を隠しているレギュラスの心の奥が見えず、それが何よりも恐ろしかった。
「ありがとう……」
小さく呟く声は、感謝というよりも謝罪に近かった。
レギュラスは優しく微笑み、アランの頬にそっと手を添えた。
「僕たちは夫婦です。お互いを信じ合いましょう」
その言葉の響きは美しく、しかし氷のように冷たかった。表面的な和解の下に隠された真の感情が、アランにはわからない。
アランはただ頷くことしかできなかった。レギュラスの完璧すぎる演技の前で、自分の罪悪感がますます重くのしかかってくるのを感じながら。
朝の光が二人を包んでいたが、その輝きは、どこか冷たく感じられた。
魔法省の重厚な扉を押し開けると、冷たい石造りの廊下に足音が響いた。レギュラスは黒い革の鞄を片手に、大臣執務室へと向かう。その足取りは普段と変わらず落ち着いているが、胸の奥では激しい感情の嵐が渦巻いていた。
何もかもがイライラした。
朝のあの完璧な芝居——慈愛に満ちた夫を演じ、妻の過ちを水に流すふりをした自分。アランの震える手を包み込み、優しい言葉をかけた時、心の中では別の感情が燃えていた。
愛している。失いたくない。
その想いを盾にされたような気がしてならなかった。アランは自分の愛を知っているからこそ、最終的には許されることを理解している。そして、その計算が正しいことも、レギュラス自身がよくわかっていた。
アランへの想いを断ち切れない限り、折れるべきはいつだって自分だった。
執務室の扉をノックし、中へ入ると、魔法大臣が重々しく頷いた。
「ブラック卿、例の件で」
「ええ。マグルの魔法使いの検挙書類です」
レギュラスは鞄から厚い書類の束を取り出し、机の上に置いた。本来なら一件一件を慎重に審査し、情状酌量の余地があるものは別途検討するのが常だった。だが今日は違った。
書類をめくりながら、彼の目に映るのは名前と罪状だけ。マグルボーンの魔法使い、純血でない者たち——それだけで十分だった。
アリス・ブラック。
その名前が頭をよぎる。シリウスが養子に迎えた忌々しいマグルの女。アランがわざわざ見舞いに行った相手。
判を押す手に、わずかな力が込められた。
「この件については、厳正に処理していただきたい」
「承知いたしました」
大臣の声が遠くに聞こえる。レギュラスの心は、もはや一つ一つの事案を丁寧に解いて審議する余裕を失っていた。公正な判断を下すべき立場にありながら、私情に支配された彼は、ただ機械的に判を押し続けた。
マグルの魔法使いというだけで、それは処罰に値する。
窓の外では午後の陽が傾き始めていたが、レギュラスの心に差し込む光はなかった。愛と憎しみ、嫉妬と絶望——すべてが混じり合った感情の渦の中で、彼は職務を遂行し続けた。
帰宅すれば、またあの完璧な夫を演じなければならない。アランを愛しているからこそ、彼女を失いたくないからこそ、自分の感情を押し殺し続けなければならない。
そして今夜もまた、静かな微笑みを浮かべて「お帰りなさい」と迎えることになるのだろう。
書類の最後のページに判を押すと、レギュラスは深く息を吐いた。職務は終わったが、心の重荷は少しも軽くならなかった。
秋の午後、屋敷のサロンに漂う薄い霧のような静寂の中で、
アランは静かに茶器を手に取りながら、胸の奥で渦巻く疑念と向き合っていた。
エメリンド・フェリックスがアリス・ブラックの居場所を教えてくれたあの夜。
それまでアランは、その行動を純粋な善意だと信じて疑わなかった。
けれど今、違う見方が心の中で形になりつつあった。
あの夜、自分の外出先をレギュラスに告げたのは――エメリンドだった。
そのことが、夫婦の間に深い溝を刻んだのだとすれば。
もしかすると、それこそが彼女の狙いだったのかもしれない。
「エメリンド嬢」
アランは穏やかな声で彼女を呼び出した。
エメリンドは淑やかな微笑みを浮かべながら、サロンに姿を現す。
「先日は、助かりました」
アランの言葉は表面的には感謝に満ちていたが、その瞳の奥には複雑な光が宿っていた。
「奥様のお役に立てて、なによりですわ」
エメリンドの返答もまた、完璧に上品で、隙のない微笑みを伴っていた。
アランは静かに茶を注ぎながら、心の中で一つの決断を下していた。
エメリンドがレギュラスに抱いている感情――それが恋慕であるなら、
せめてもの礼として、彼女にレギュラスとの時間を用意することを約束しよう。
それは諦めでもあり、同時に一種の贖罪でもあった。
自分が気づかぬうちに巻き込んでしまった、この複雑な感情の糸を、
少しでも整理するために。
「エメリンド嬢」
アランは優雅にカップを置きながら、静かに口を開いた。
夕陽がサロンの窓から斜めに差し込み、
二人の女性の間に、言葉にならない理解と、
それぞれの想いが静かに交錯していた。
アランは静かな夕闇の中、深い思索に沈んでいた。
屋敷の片隅、廊下の灯が優しく揺れる先で、彼女は意を決してヴァルブルガの部屋へと足を運ぶ。
ヴァルブルガの視線はいつも厳しく、しかし家の未来を見据えた意志の強さがあった。
アランはその硬い表情の奥に、一縷の希望を託すかのように静かに口を開いた。
「今夜の伽を、エメリンド嬢と整えていただけますか」
その言葉は決意に満ちていて、家の未来を守るための戦略でもあった。
もしエメリンドがレギュラスとの間に男児を産んでくれたなら、
彼女は確固たる立場を築き、余計な思惑や波風を立てさせることなく、屋敷での居場所を確保できる。
アランの胸中には、静かな覚悟があった。
「欲しいものは先に与える」という、現実的な理性が淡々と働いている。
ヴァルブルガはその申し出を軽やかに受け入れた。
彼女の鋭い瞳が一瞬だけ、微かな沈黙の色を帯びる。
「わかりました。家の未来のため、大切な夜となりますわね」
その声は、冷徹ながらもどこか慈愛に満ちていて、家族の絆を複雑に絡み合わせる音色を孕んでいた。
アランは深く息を吐き、わずかに肩の力を抜いた。
長い戦いの片隅で静かに芽吹く希望。
家族の未来を守り抜こうとする強さが、沈黙のうちに満ちていた。
静かな夜が屋敷を包み込んでいた。
アランは久しぶりに調合台に向かい、細心の注意を払って魔法薬を調合していた。
それは夜の男女のために使われる薬――
まさか自分がこんなものを作る日が来るとは、思いもよらぬことだった。
滴る水銀のように光る薬液を慎重に瓶に詰め終えると、満足げに息をついた。
耐え忍んだ日々の中で、今夜この薬が果たす役割に、複雑な思いを抱えながらも、彼女は確かな覚悟を感じていた。
レギュラスが帰宅する前に、すべてを用意し終えたアラン。
ヴァルブルガはレギュラスにエメリンドが待っていると告げたが、彼は応える気はないとそっけなく告げたという。
レギュラスはそのままアランのもとへ向かった――
彼のその態度は、アランの想定の範囲内だった。
アランは静かに紅茶を淹れ、その中に先ほど調合した薬を数滴垂らしていた。
湯気がゆらめき、優しい香りが部屋に満ちている。
わずかな緊張と期待が胸の内を満たすなか、扉の軋む音が響く。
レギュラスが帰ってきたのだ。
「おかえりなさい、レギュラス」
アランの声は穏やかで落ち着いていた。
しかしその奥には揺るぎない決意が秘められている。
レギュラスは一瞬、彼女の姿を見つめ、深い思考に沈むようにゆっくりと歩み寄る。
夜の静けさの中、ふたりの息づかいだけがわずかに響く。
このひとときが、いつまでも続くことを願うように。
期待と不安。愛と諦念。
すべてが交錯する夜の中で、
変わらずに続く何かを、二人は静かに感じていた。
夜の静寂が屋敷を包む中、アランは何も変わらぬ日常を装うように、温かく湯気の立つカップをレギュラスに差し出した。
「今入れたばかりなの。どうぞ」
その声は柔らかく、いつもと変わらない優しさを湛えていた。
表面的には何の変哲もない、ただの夫婦の夜の時間。
「ありがとうございます」
レギュラスは素直にカップを受け取り、静かに紅茶を飲み干していく。
アランが調合した薬は即効性のあるものにしていた。
飲み干された今、時間はもうなかった。
「ヴァルブルガ様が、エメリンド嬢のところへと仰ってませんでした?」
アランは何気ない口調で切り出した。
その瞳には、静かな期待が宿っている。
「ええ、断りました」
レギュラスの返答は素っ気なく、迷いのないものだった。
「行くだけ行ってください。女性は準備して待っているものなんですから」
アランの声には、わずかに説得するような響きが混じる。
「その気もないのに訪れるのも、失礼にあたるでしょう」
レギュラスは首を振り、頑なな態度を崩さない。
アランの胸中に、じりじりとした焦りが募っていく。
薬の効果が現れる前に、彼をエメリンドのもとへ向かわせなければならない。
しかし、レギュラスの意志は固く、簡単には揺らぎそうになかった。
時間だけが、静かに過ぎていく。
夜の闇が、二人の間に微妙な緊張を織り成していた。
夜の静寂の中、アランが差し出したカップから紅茶を飲み干したレギュラスに、静かな変化が始まっていた。
「それならば、自分の口でそう言いに行ってください。ずっと待たされるのは酷ですわ」
アランの声には、わずかに焦りの色が混じっていた。
レギュラスは鋭い目でアランを見つめ、その口調の変化を見逃さなかった。
「そこまでして今日、僕をエメリンドのところにやりたい理由は何です?」
その問いかけは的确で、アランの胸を突いた。
レギュラスは鋭かった。
そして同時に、彼は自分の体に起こっている変化に気づき始めていた。
やけに暑く感じる肌。
心臓の鼓動が早くなっていく感覚。
やけに無理やり生理的な興奮を煽られているような、不自然な熱が体の奥から湧き上がってくる。
アランは息を詰めて、夫の表情を見守った。
薬の効果が現れるのは時間の問題だった。
けれど、レギュラスの鋭い洞察力は、彼女が思っていた以上だった。
「アラン……」
レギュラスの声が、わずかに掠れていた。
体の中を駆け巡る不自然な熱に、彼は眉をひそめる。
この感覚は何かがおかしい。
紅茶を飲んだ直後から、明らかに体調が変わっていく。
部屋の空気が重くなり、二人の間に緊張が走った。
アランの心臓は激しく鼓動し、レギュラスの疑念の眼差しが彼女を見つめていた。
夜の静寂の中で、夫婦の間に横たわる複雑な感情と、今まさに始まろうとしている出来事の重みが、静かに部屋を満たしていた。
「アラン……何をしたんです?」
レギュラスの声は震えていた。
視界がかすみ、体の中を駆け巡る不自然な熱に、彼の理性が蝕まれていく。
アランが調合した薬は、思った以上に強力だった。
「ごめんなさい、レギュラス。媚薬を使いました」
アランの告白は、静かで、しかし明確だった。
「このまま、エメリンド嬢の部屋へ行ってください」
その瞬間、レギュラスの頭を殴られたような衝撃が走った。
何のために――
疑問が心の中で渦巻くが、あまりの衝撃に言葉にならない。
愛する妻が、自分を他の女のもとへ送り出すために、薬まで使ったという現実。
どこまで自分の愛は軽んじられ、踏みつけられるのだろう。
どこまで彼女にとって自分という存在は、取るに足らないものなのだろう。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
これまでアランから向けられていた愛情――
あの優しい微笑みも、労わりの言葉も、寄り添う温もりも。
それらすべてが偽善だったのではないか。
いや、むしろ初めから愛情など存在せず、
自分がそこにあると思いたかっただけなのかもしれない。
「……そうですか」
レギュラスの声は、驚くほど静かだった。
薬の効果で朦朧とする意識の中でも、彼の心は冷え切っていた。
これ以上ここにいても、傷つくだけだ。
妻の望み通りにしてやろう。
立ち上がろうとするレギュラスの足は、薬の影響でふらついた。
それでも彼は、最後の尊厳を保つように背筋を伸ばし、扉に向かって歩き始める。
アランは、夫の後ろ姿を見つめていた。
その背中に漂う絶望の色を、彼女もまた感じ取っていた。
だが、もう引き返すことはできない。
この選択が正しかったのかどうか――
それを知るのは、まだ遠い未来のことだった。
夜の静寂の中、二人の間に横たわる溝は、これまで以上に深く、暗いものとなっていた。
死ぬほど惨めだった。
エメリンドの部屋の扉が開かれた瞬間、彼女が嬉しそうに迎え入れる表情を目にして、レギュラスの胸に殺意にも似た激情が沸き起こった。薬に支配された身体とは裏腹に、心は氷のように冷え切っている。
この女が――
夫婦の溝を深めることを狙って、シリウス・ブラックの写真をわざわざ差し出し、アランにアリス・ブラックの居場所を教えて画策したことを、彼は知っていた。すべては計算された悪意だった。
そして今、まさにその狙い通りになってやるのが癪で、レギュラスは感情を押し殺すように振る舞った。自分たち夫婦の間には何の軋轢もないのだと装いながら。
けれど結果は、笑ってしまうほどに一方通行の愛情だった。
すべてがこの女の思い通り。
こんな取るに足らない女の手のひらで踊らされている。
誇りも何もかもを傷つけられた気がした。
この激しい怒りが、目の前のエメリンドに向けられているのか、それとも自分を送り出したアランに向けられているのか、もうわからなかった。憎悪と絶望が入り混じって、胸の奥で渦巻いている。
義務を果たすだけの行為は、何もかもが虚無だった。
エメリンドの口から漏らされる声があまりに不愉快で、レギュラスは思わず手で彼女の口を覆った。その仕草は愛とは程遠い、ただの嫌悪の表れだった。
アランは魔法薬が得意だった。
それならばもっと、心も燃え上がれるような薬を作ってほしかった。
中途半端に身体的な興奮だけを呼び出して、心は完全に冷え切ったまま。
そのギャップで胸が張り裂けそうなほど苦しかった。
月明かりが薄く差し込む部屋で、レギュラスは機械的に動作を続けた。薬に支配された肉体と、絶望に沈んだ魂との間で、彼はただ時が過ぎるのを待っていた。
愛する妻に送り出された夜。
それは彼にとって、最も屈辱的で最も虚しい時間となった。
暗闇の中で、レギュラス・ブラックの誇りは静かに砕け散り、彼の心に深い傷を刻んでいった。
翌朝の陽ざしは柔らかく窓辺から差し込み、カーテンを静かに揺らしていた。
だが、レギュラスはベッドの中で体のだるさに身を横たえ、まるで重い枷に縛られたかのように動けずにいた。
額や首筋に、アランの手のぬくもりが静かに触れるのを感じる。
けれど、その優しさに心からの感謝は湧かず、逆に冷めた感情が胸の奥からじわじわと込み上げてきた。
「心配などしていないくせに」
鋭く内側でつぶやく言葉は、小さな絶望と共に彼の心を曇らせる。
程なくして、静かな足音とともにアランが朝食を携えて部屋へ入ってきた。
彼女の声は柔らかで、しかしどこか控えめに問いかけた。
「食べられますか?」
疲れ切ったレギュラスには答える力もなく、ただ静かに視線を落としただけだった。
アランは僅かに息を呑みながら、そのトレイをそっとサイドテーブルに置く。
彼女はベッドの端に腰掛ける。
長い沈黙が部屋を満たし、互いの気配だけが静かに漂っていた。
レギュラスは無理に部屋に留まろうとするアランの姿を内心で嘲笑う。
薄ら寒く、白々しく、わざとらしい。
「出て行きたいのなら、出て行けばよいものを」
冷え切った心でそう思いながらも、声に出す気力すらなかった。
朝の光は優しいのに、二人の間に横たわる距離は縮まらず、
沈黙の厚い壁が静かに高くそびえていた。
体の痛みと心の重さが絡み合いながら、窓の外の世界は何事もなかったかのように刻々と動き続ける。
アランのやわらかな手が、レギュラスの冷えた掌にそっと重ねられた。
だが、レギュラスは反射的にその手を払いのけた。
それは、彼がアランに向けた初めての、明確な拒絶だった。
昨日、他の女のもとへ送り出された自分を労わるかのように、
アランはどんな顔で、どんな声で愛を真似た行為をし、愛と名のつく言葉を囁くだろう――
レギュラスの胸には、もはや何ひとつ信じるものは残っていなかった。
アランは一瞬、払いのけられた手を見つめたまま止まっていたが、
やがてゆっくりとその手を元へ戻した。
そして静かに立ち上がり、部屋の扉へと向かおうとした。
その姿に――やはり、彼女が出て行くのは嫌だった。
レギュラスは思わずベッドから起き上がり、慌ててアランの腕を掴んだ。
「どうしました?」
アランの声は穏やかだったが、どこか戸惑いも混じっていた。
言葉は見つからず、レギュラスはしばし沈黙した。
けれど、胸の奥底から湧き上がるのは、ただひとつの素直な想いだった。
――行ってほしくない。
それだけで充分だった。
激しく揺れ動く感情を胸に、
二人は言葉にならないまま、互いの眼差しを交わしていた。
レギュラスの指先がアランの腕を包む力は、決して強くはなかった。
それでも、その小さな抵抗の中に、彼の内に秘める不安と切望が滲み出ていた。
アランはその握りを逃さず、静かに彼の瞳を見つめ返す。
言葉を交わすことはなかったが、二人の間に漂う沈黙は、
むしろ何よりも雄弁に、深い感情を語っていた。
「……」
かすかな吐息が漏れる。
時間がゆっくりと流れていく。
外からは遠くで鳥の囀りが聞こえ、窓の向こうには秋の穏やかな陽光が降り注いでいる。
けれど、部屋の中にある空気は重く、何かが押し潰されそうなほどの張り詰めた緊張で満ちていた。
レギュラスは深く息を吸い込み、少しだけ肩の力を抜く。
そして、冷たさを帯びた瞳の奥に、ほんの僅かな温もりが灯った。
「アラン……」
重い声だが、その響きには懸命な駆け引きや誤魔化しは一切ない。
純粋に、ただ彼女を求める叫びのようだった。
アランは微笑みを浮かべるわけでもなく、涙を流すわけでもなく、
ただ静かにそっと手を伸ばし、レギュラスの手を取り直した。
その瞬間、二人の間にあった見えない壁がきしむように崩れ始めた。
終わりの見えない迷路の中で、それは小さな希望の光だった。
薄明かりに照らされて、
二人はただ寄り添い、互いの温もりを確かめ合うように時間を重ねていった。
重く沈んだ曇り空の下、レギュラスは任務でルシウスと肩を並べて歩いていた。
「聞いているぞ、レギュラス。魔法省が屋敷に来たそうじゃないか」
ルシウスが小さく嗤うように言う。その耳の早さに、レギュラスはため息混じりに応じた。
「本当に……耳が早いですね、あなたという人は」
魔法界の上流には、いつだって噂が渦巻いている。
レギュラス・ブラックに容疑が向けられている――その話題は格好の餌食となり、あちこちで好奇の視線が向けられる。
日々、その無遠慮な視線にさらされることの煩わしさを、レギュラスは嫌というほど味わっていた。
けれど、その狭間で一つだけ確かなことがあった。
この事件が、間違いなく闇の帝王自身の手によるものであると、誰一人として辿り着くことができていないこと。
ヴォルデモートの真意もその責任も、きれいに闇に葬られていた。
皮肉な安堵が、レギュラスの胸をひそかに満たしていた。
ふと、ルシウスが声を低めて言う。
「闇の帝王がお前を買っているようだな」
その言葉の裏には、羨望にも嫉妬にも似た感情がさざ波のように透けている。
レギュラスは淡々と微笑みを返すのみだった。
薄闇のなか、互いの思惑は静かに交錯しながら、
魔法界の深い闇に二人の影だけが静かに溶け込んでいった。
孤児院事件にまつわる余計な噂がはびこったせいで、ブラック家の名に深刻なヒビが入りかけていた。
しかし、それ以上にレギュラスが日々の任務で積み重ねてきた功績もまた、魔法界では賞賛とともに語り継がれていた。
混血の魔法使いやマグル生まれの魔法使いが、純血の魔法使いに向けて憎悪の杖を振りかざそうとする時――
そこには必ずレギュラス・ブラックが颯爽と立ちはだかり、冷静沈着にその場を収めてきたのだ。
魔法省の役人たちがこぞってブラック家に調査の手を伸ばし始めた頃から、レギュラスは意図的にこうした危険な任務を数多く引き受けるようになった。
そうすることで世間の関心と評価を別の方向へと導き、疑いの目を効果的に逸らすことができるからだった。
薄暗い魔法省の廊下で、バーテミウスとすれ違いざまに交わした会話。
「噂というものは、他のもので上書きしておかないといけませんからね」
レギュラスの口調は穏やかだったが、その言葉の裏には冷徹な計算が隠されていた。
バーテミウスは感心したように眉を上げ、小さく笑った。
「なかなかに計算高いね、君は。まるで政治家のようだ」
「生き残るためには必要なことです」
レギュラスの返答は簡潔だったが、その瞳の奥には深い疲労の影が宿っていた。
夕闇が迫る中、レギュラスは一人静かに屋敷への道を歩いていた。
愛する人を守るために築き上げた虚構の重みが、彼の肩にずっしりとのしかかっている。
魔法界の表舞台で繰り広げられる、この静かで繊細な欺瞞の舞踏。
それは彼が背負い続ける十字架であり、同時に愛の証でもあった。
街灯の薄明かりが石畳を照らす中、レギュラスの影だけが長く、孤独に伸びていった。
