4章
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午後の陽が傾きかけた頃、重厚な扉がゆっくりと開かれた。オリオン・ブラックの威厳に満ちた足音が、静寂に包まれた寝室に響く。厚いカーペットがその音を吸い込みながらも、彼の存在感は部屋の空気を一変させた。
ベッドに身を起こそうとするアランを、オリオンは片手で制した。
「こんな姿で申し訳ありません、オリオン様」
アランの声は細く、息継ぎの間に痛みが滲んでいた。白いナイトガウンに身を包んだその姿は、かつて屋敷に初めて足を踏み入れた麗しい令嬢の面影を残しながらも、今はひどく儚げだった。
「いや、構わない。私の方こそ、こんな時に申し訳ない」
オリオンの言葉は丁寧で、気遣うような響きを帯びていた。けれど、その瞳の奥には冷たい計算が宿っていた。まるで既に結論を下し、ただその伝達のためだけにここに来たかのような、遠い眼差し。
窓辺の椅子に腰を下ろしたオリオンは、しばらく沈黙を保った。外からは庭師の鋏の音がゆるやかに聞こえ、秋の午後の静けさが部屋を包んでいる。
彼は心の中で、過去を振り返っていた。
セシール家の麗しい令嬢として屋敷に迎えたアラン。由緒正しい血筋、申し分のない家柄、そして何より美しい容姿。レギュラスが心を奪われたのも無理はなかった。
そして、アルタイルという立派な男児を産んでくれた。ブラック家の血を受け継ぐ、誇らしい世継ぎを。
だが——。
ヴァルブルガは二人の男児を産み落としている。レギュラスとシリウス。それに比べると、アランにはまだ果たしてもらいたい役割があった。ブラック家の血筋をより確実なものにするために。
けれど、もはやそれは不可能だった。
これ以上この女に息子が執着を続けるのは、あまりにも危険だった。家の未来を、一人の女への愛情のために危うくするわけにはいかない。
「アラン」
ようやく口を開いたオリオンの声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
「屋敷を移してはどうだろうか。どこか……ゆっくりと療養できるところへ」
その言葉の響きは優しかった。けれど、アランの胸には氷のような冷たさが流れ込んだ。
彼女にはわかっていた。オリオンが言っている言葉の真意が。
この屋敷にいる限り、自分という存在がレギュラスの障害になる。
彼が家の責務を果たす上で、自分は邪魔な存在でしかない。
それならば——退かねばならない。
アランは静かに目を伏せた。長い睫毛の陰に、諦めにも似た静寂が宿る。
「……おっしゃる通りかもしれません」
か細い声で、そう呟いた。
「レギュラスには、もっと大切な責務があります。私が……私のような者が、それを妨げるようなことがあってはなりませんね」
オリオンは無言で頷いた。その表情には、安堵とも満足ともつかない微かな変化が浮かんでいた。
窓の外で、風が木々を揺らす音がした。葉が舞い散り、季節が移ろいでいく。人の運命もまた、その風に吹かれて変わりゆくものなのかもしれない。
「アルタイルとセレナのことは」
「心配には及ばない」オリオンは静かに言った。
「二人とも立派に育っている。母親がいなくても、ブラック家の子として恥じぬよう育てていこう」
その言葉に、アランの心は深く沈んだ。
愛する子どもたちと離ればなれになる。けれどここまで手を取り合って生きてきた夫の重荷になるくらいなら、自ら身を引く。
それが、彼女にできる最後の愛情だった。
「……わかりました」
最後の一言は、ほとんど息のような音だった。
オリオンは立ち上がり、扉へと向かう。振り返ることなく、静かに部屋を後にした。
残されたアランは、ベッドの中で小さく身を丸めた。涙は流さなかった。ただ、胸の奥で何かが静かに砕けていく音を聞いていた。
夕陽が窓を染め、部屋に長い影を落としている。それは、一つの愛の終わりを告げる、美しく哀しい光だった。
薄暮が屋敷の古びた壁を長く鋭く染める頃、アランは窓辺に立ち、遠くに広がる庭の影を見つめていた。
心の中では、かすかな渇望が膨らんでいた。
「セシール家の屋敷へ戻りたい」――そんな思いが、静かに、しかし確かな温度で胸の奥からわき上がる。
けれど、それは単に懐かしさというだけではなかった。冷ややかな現実も重々しく彼女の思考に降りかかっていた。
もしも本当に戻るなら、社交界に「ブラック家からの追放」と囁かれかねない。
噂が広まれば、セシール家のみならず、自分自身の名誉さえ汚しかねないのだ。
そして何より、このブラック家という家系は、それを許すだろうか。
「ブラック家に嫁いだ女が実家に戻る――」
そのことは禁忌であり、汚点なのだ。
そこにあるのは、深い伝統と誇り、そして融通の効かぬ権威だった。
だからこそ、誰かが静かな別邸を与えてくれるのだろうと思った。
家族から離れ、けれど見捨てられたわけではない、そんな場所。
その場所はどこなのだろう。
そう思い巡らせると、不意に心は遠い記憶へと触れる。
シリウスと過ごしたあのマグルの街の小さなコテージ。
あの自由で素朴な空気、波の音、時折聞こえる鳥のさえずり。
暖炉の火がほのかに灯り、手を取り合いながら語りあった日々。
そんな静かな場所だったらいいと、小さな願いを秘めてしまった。
この屋敷には幾重もの思い出が詰まっている。
シリウスと出会い、恋を覚えた場所。
レギュラスと共に歩んだ年月。
そして、最愛のアルタイルとセレナをこの腕に抱きしめた場所。
そう考えれば、この屋敷は人生そのもののように感じられた。
その屋敷を離れることに、胸が締めつけられ、何よりも寂しさを覚えないわけがなかった。
それでもどこかで、抱えてきた重荷を降ろせる安堵が、深く潜んでいるのを感じていた。
もう、レギュラスへの想いに対して、何か差し出さなければならない義務も期待もない。
自分がようやく「許された自由」を手にしたような気がしていた。
かつて選ぶことも叶わなかった小さな自由たち。
それを手放さねばならず、ただ耐えてきた年月。
今、その一つ一つにもう一度、そっと手を伸ばせるような、そんな気がした。
夕暮れの空が茜色に染まり、風が静かにカーテンを揺らすとき、アランの瞳にはほんのわずかな涙が光っていた。
それは悲しみでも、絶望でもない。
新しい明日への、小さな希望のしるしだった。
ホグワーツの石造りの廊下を通り抜け、午後の陽光が射す窓際の黒板の前――
アルタイルはそっと懐から魔法写真を取り出した。
夕陽が差す教室に響くのは、遠くの生徒たちの笑い声と、書きかけの課題の羽ペンの音。
シリウスがその写真を受け取ると、ほんの一瞬、長い指先が震えた。
写真の中でアランが静かに微笑み、美しい髪がゆるやかに風に揺れている。
シリウスは、目尻をかすかに細めて写真を見つめた。
懐かしさと、切なさと、どこか温かな光がその顔に差した。
そして、ごく自然に呟く。
「……相変わらず、綺麗だ。」
その一言は、まるで大切な宝物を見つけた幼子のような声音だった。
アルタイルは胸の奥が誇らしく、同時に少し照れくさくなった。
「ええ、自慢の母さんですから。」
シリウスは懐かしむように微笑み、視線は遠い過去へとさかのぼった。
「ホグワーツ1だったんだぜ。スリザリンからは、スリザリンの姫ってみんな呼んでた。」
静かに語られるその称号――まるで校舎の石壁にも、今もその記憶が刻まれているようだった。
「……噂で、聞きました。」
アルタイルはそう返す。声ににじんだ誇りとくすぐったさ。その中には、母を称える思いと、今この瞬間にしか得られない幸福が、静かに寄り添っていた。
シリウスが写真を手のひらで包み、大切そうに見つめ続ける。その横顔に浮かぶ優しさを見て、アルタイルの心はそっとあたたかくなった。
その場にただ穏やかな夕暮れが広がる。
母を褒めてくれるこの人のそばで、自分の家族の美しさもまたこうして誰かの心に根を残しているのだと、アルタイルは小さな誇りで胸を満たした。
ひとり静かな夜、窓辺の椅子に座り込み、シリウスは手の中の魔法写真をじっと見つめていた。
アルタイルから譲り受けたあの写真人物は、まるで時を止めたかのように輝きを放ち、そこには変わらないアランの麗しい姿が写っている。
何度その写真を繰り返し見ただろうか。
幾度となく指先でなぞり、ふとした瞬間に溢れ出る涙が頬を伝うこともあった。
「愛している。今も変わらずに。」
胸の奥から溢れ出る情熱は、永遠に色褪せることがない。
ずっと、ずっと愛し続けてきた。
レギュラスとの結婚が決まったときも、最初の子を産んだと聞いた時も、想いは一ミリたりとも霞んだことはなかった。
そして、彼女が命を懸けて守り育てたマグル生まれの少女、アリスのことを思い出す。
今は養子として迎えいれられ、アリス・ブラックとして静かに成長している。
その面倒を見守った記憶はまだ新しいが、時に、まるでアランと共に育ててきたかのような錯覚に陥ることもあった。
それは叶わなかった未来のひと欠片を掴み取ったような、秘かな心の支えであり、力の源だった。
それでも、アルタイルとセレナの姿を見るたび、どうしても胸が締めつけられる思いに囚われる。
彼らは間違いなく、アランとレギュラスとの間に生まれた子供たち。
その血の繋がりが、鮮やかに自分とアランの運命が交わることがなかった証明に思えてしまうのだ。
その事実が、まるで冷たく突きつける刃のように、シリウスの心を深くえぐる。
けれど、その苦しみさえも、込み上げる涙の中で優しく抱きしめられていく。
夜風が窓を優しく揺らし、遠くの森で虫の音が響く。
写真に映るアランの微笑みが、星の光に重なるように、静かに輝きを増していった。
そしてシリウスは、深く息を吸い込み、静かに瞳を閉じてそっと呟く。
「ずっと、愛している」
晩餐の重厚な食卓に、蝋燭の灯りが踊っていた。銀の食器が炎の光を受けて鈍く輝き、部屋には静寂が漂っている。いつもなら家族の会話で和やかになるはずの時間が、今夜は違っていた。
オリオンが静かにナイフを置き、息子の方を向いた。
「レギュラス、アランのことだが……別邸に移すことに決めた」
その一言が、まるで石を投げ込まれた湖面のように、食卓の空気を大きく波立たせた。
レギュラスの手が、グラスを握ったまま止まった。一瞬の沈黙の後、彼の声が低く響く。
「なぜ……僕の許可もなく、勝手に決めるのです?」
その声には、明らかに抑えきれない怒りが滲んでいた。
父を尊敬し、従順に生きてきた。家の決定に逆らったことなど、これまで一度もなかった。けれど、これは違った。あまりにも、あまりにも自分という人間の意志を踏み躙った決定だった。
オリオンは息子の怒りを受け止めながら、穏やかに答えた。
「レギュラス、理解してほしい。アランの体調を考えれば——」
「会いに行きたいときに行けばいいわ」
ヴァルブルガが、さも当然のことのように口を挟んだ。その軽やかな口調が、レギュラスの心をさらに逆撫でする。
「そういうことではないのです!」
レギュラスの声が、初めて食卓で荒らげられた。
グラスを勢いよく置いた音が、部屋に鋭く響く。両親が驚いた表情でこちらを見つめる中、レギュラスは立ち上がった。
「……そういうことではないんです」
今度は静かに、しかし確かな痛みを込めて繰り返した。
レギュラスにとって、この屋敷にアランがいる——それだけで救いだった。
朝、目を覚ましたとき、同じ屋根の下に彼女がいること。
夜、眠りにつくとき、彼女の寝息がどこかで聞こえていること。
廊下ですれ違う足音、遠くから聞こえる笑い声、時折香る花の匂い。
それらすべてが、レギュラスの心を支えていた。
もしそれがなくなってしまうなら——。
一体どこで安らぎを得ればいいのか。何を支えに生きていけばいいのか。
「僕には……僕にはアランが必要なんです」
声が震えた。プライドも、体面も、すべてを脇に置いて、ただ心の底からの叫びを吐き出した。
「この家に、この屋敷に、彼女がいてくれるだけで……僕は生きていけるんです」
オリオンとヴァルブルガは、息子の姿に言葉を失った。
いつも冷静で、理性的で、感情を表に出すことのなかった息子が、今、目の前で崩れ落ちそうになっている。
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、長い影を壁に投げかけていた。食卓の上の料理は、すっかり冷めてしまっている。
けれどレギュラスにとって、それはどうでもよいことだった。
大切なのは、愛する人がそばにいること。それ以外に、彼の心を満たすものなど何もなかった。
重い沈黙が食卓を覆う中、レギュラスはただひたすら、両親の理解を願い続けていた。
夜の静けさが寝室を包む中、レギュラスはゆっくりと息を整えながらアランのもとへ足を運んだ。長い一日の疲れを帯びた表情に、どうしても抑えきれない感情が滲んでいた。
「なぜ、何も言わないんです?」
レギュラスの声は震えている。心の奥底にたまった思いが、一気に溢れ出たのだ。
アランは静かに顔を上げ、その瞳でレギュラスを見つめ返した。
まるで「何の話かしら?」と言わんばかりの、その穏やかな横顔には、まだ彼の感情の激しさは届いていないようだった。
「なぜ、あなたは――いつもいつも、全てを勝手に受け入れてしまうんですか」
レギュラスは言葉を絞り出すように続けた。
しかしアランの瞳は揺れず、彼の言葉をただ静かに受け止めているだけだった。
その沈黙が逆に、レギュラスの胸を締めつける。
「レギュラス……」
初めてふたりの間に言葉が降りる。
その声は甘くも切なくもあり、まだ理解の輪郭がぼんやりとしか見えないアランの戸惑いが滲んでいた。
レギュラスの胸の震えは、彼女の軽い呼びかけさえ掻き消すほど大きい。
「あなたがいつも、本当の気持ちを隠してしまうから……僕は、見えなくなりそうだ」
涙をこらえるようにして、彼はその場に立ちすくんだ。
その夜、二人は言葉少なに互いを見つめ、まだ届かぬ想いをそっと抱えあったまま、静かな時間を共有した。
寝室の灯りが消え、月光のみに包まれた空間で、アランはようやく言葉の奥に隠された真意を察したように静かに問いかけた。
「オリオン様に聞かれたのですか?」
その声は、震えを含みながらも穏やかだった。
レギュラスはうなずき、苦い笑みを浮かべる。
「ええ。別邸の話です」
アランはまるで明るい陽光のように、無邪気に応じた。
「悪くない話ですわ。できれば、海の見える小さな屋敷を希望します」
そのあまりにも能天気な言葉が、レギュラスの胸を不意に締めつけた。愛しいはずの笑顔が、遠く感じられてしまう屈辱――それは、思いも寄らぬほど痛かった。
レギュラスは翳りのある声で、一言だけ告げた。
「行かせません」
アランは驚きと困惑の入り混じった瞳をレギュラスに向けた。
「どうしてです?」
その問いに、レギュラスの顔に熱がのぼる。
「なぜ、行かせると思うんです? 僕が。あなたを――」
アランはその言葉の意味を理解できず、一歩踏み込んだ視線でレギュラスを見返す。
「意味がわかりません……」
部屋に流れる沈黙は、二人の心を確かに隔てていた。レギュラスの胸には、アランを失いたくないという切実な思いと、自らの弱さを認められない葛藤が渦巻いている。どれほど愛しているのか、その言葉すら伝えきれずに、ただ見つめ合うしかなかった。
月光が二人を淡く照らし、不器用な想いだけをそっと浮かび上がらせる。
この夜、言葉はすれ違い、想いは静かに交差したまま、寝室には深い余韻だけが残された。
月明かりが薄くカーテン越しに差し込む寝室で、アランは小さく肩をすくめて微笑んだ。
「たまに会いに来てくれたら、十分ですよ」
その声は優しく、けれどどこか遠くを見つめるように響いた。まるで、途切れ途切れの灯りでも充分だと言われているような、切ない響きを帯びている。
レギュラスの胸はぎゅうっと締めつけられた。
一緒にいる必要はない――その一瞬でも満たされるのならいい――
まるで自分の存在が、彼女にとって欠くことのできない灯りではなく、ただのつまらぬ義務のように扱われているかのようだった。
「父には断っておきますから」
レギュラスは震える声で言った。目の前のアランを守るためなら、とふりしぼった言葉だった。
アランはうつむいて、静かに首を振る。
「レギュラス……オリオン様の決定を無碍にしてはいけないわ」
その言葉に、レギュラスの目に怒りと悲しみが同時に燃え上がった。
「では、僕の思いは――感情は、無碍にされていいものということですか?」
息を詰めるように問いかけ、アランを責めるように視線を注いだ。
アランは俯いたまま、長い黒髪が彼の視界をかすめる。言葉を紡ぐ口元は震えていたが、その瞳には深い哀しみと、どこか諦めにも似た覚悟が宿っていた。
部屋には重い静寂だけが残り、二人の間に言葉以上の溝が生まれていた。
どれほど愛し合っても、ここでは想いがすれ違い、一方通行の刃のように心を切り裂いていく――
その夜の寝室には、切なくも美しい刹那の痛みだけがそっと舞い落ちていた。
薄暗い寝室に、互いの息遣いだけが静かに響いていた。
レギュラスの瞳が揺れる中、アランがかすかに口を開く。
「そういう意味ではなくて……」
言葉はまるで、必死の言い訳のようにこぼれ落ちた。
その声が、限りなく切なく響く。
レギュラスは重く息を吐き出し、震える声で答える。
「アラン、お願いです。これ以上、何も言わないでください。」
その言葉は祈りのように、深く、静かに、その場を支配した。
アランは言葉を詰まらせ、黙った。
その沈黙は、彼女の唯一無二の答えだった。
もはや言葉を紡ぐ余地はなく、ただ、黙るしかなかった。
レギュラスはそっと距離を詰め、ふわりとアランの唇へキスを落とす。
その動作は優しく、切実で、まるで祈りをささげるような温かさが宿っていた。
驚きが一瞬アランの瞳にきらめいたものの、やがて静かに身をゆだね、受け入れた。
その刹那、言葉を超えた感情がふたりの内側を満たす。
二人を繋ぐのは、言葉ではない深い想い、そして変わらぬ愛だった。
部屋を包む月光が、揺れるカーテン越しにふんわりと映り、静かな夜の祈りのような時がゆっくりと過ぎていった。
夜の湿った空気が立ち込める中。薄明かりのランプが地面に長い影を落とし、静寂の中に緊張が張りつめていた。レギュラスは衣服の裾を掴みながら、じっとアリス・ブラックを見据えていた。
彼女は身を低くかがめ、腕を前に突き出して混血の魔法使いたちを守る盾となっている。――かつて、シリウスの背後で守られる側にいた少女が、いまは誰かを守る側に立っている。成長した姿を、レギュラスはほんの一瞬だけ認めた。しかし、そんなことは彼の怒りを和らげはしなかった。
「忌々しいマグルの女め……」
レギュラスの声は低く、凍りつくように冷たかった。
アランが逃がし、シリウスに未来を託したその贖罪なき行為を、彼は許せなかった。
恐れ知らずにも“ブラック”の名を背負うその横顔に、憎悪が燃え広がる。
アリスは鋭くレギュラスを睨み返した。胸の内にある覚悟が、その眼差しににじんでいる。
「あなたこそ、何を守るためにここにいるの?」
彼女の声には悲しみと怒りが混じり、しかし恐れはなかった。
刹那、レギュラスは魔杖を構え、呪文を放った。
「ペトリフィカス・トタルス!」
閃光とともに放たれた呪文が、アリスを硬直させようと襲いかかる。だがアリスは懸命に防護の呪文を展開し、氷のように透明な盾を瞬時に立ち上げた。
「プロテゴ!」
盾が光を跳ね返し、呪文をかろうじて受け止める。衝撃でアリスは一歩後退したが、必死に壁を維持した。
レギュラスの瞳はさらに冷酷に凍りつき、次の一撃を狙う。だが、彼の心に微かに、アランの悲しげな横顔がよぎった。それでも、憎悪は収まらない。
「エクスペリアームス!」
レギュラスの呪文が差し込むように翻ると、アリスは盾を解き放ち、魔杖を振り上げて応戦した。
「インセンディオ!」
二人の呪文が夜空に火を散らし、さざ波のようにぶつかり合う。
冷たい大理石の床に照らされる火光が、激しい戦いの痕跡を深く刻んでいった。
やがて、衝撃の余波が止む瞬間、二人は互いの決意を確かめ合うかのように立ち尽くす。
アリスの瞳は震えながらも、揺るがない意志を示し、レギュラスの怒りは化身のように燃え盛っている。
荒れ狂う感情をその胸に秘め、二人は次の一手を準備しながら、夜の静寂を破り続けた。
夜の闇に包まれた戦いの最中、レギュラスは杖を握り締め、炎と氷が混ざり合う激しい魔法の応酬の中に立っていた。瞳には狂おしいまでの憎悪と決意が燃えている。
しかし、突如として背後から冷静な声が響いた。
「レギュラス、引こう。」
バーテミウスの命令は鋭く、誰の意志も揺るがせる力を持っていた。
レギュラスは一瞬ためらった。その手にはまだ呪文の余韻が残り、あと少しで決着をつけそうだった。しかし、バーテミウスの声には揺るぎない意志が宿っており、必要なものは手に入れたのだからこれ以上ここにとどまる必要はないことを告げていた。
彼がこの場に長く居続けているのは、もはや個人的な私情だけだった。
アランがアリスを通じてシリウスとの未来を見ていたのを、彼は感じ取っていたからこそ、このマグルの少女を消し去りたい衝動を抑えきれなかった。
アランの選択が無駄だったことを証明したい、そんな暗い願いがレギュラスの胸を締めつけていた。
「あと少しで、やれそうだった……」
呟きは薄くも強い決意の断片だったが、バーテミウスは無情にも彼の呪文の発動を強制的に打ち切る。瞬間、レギュラスは呪文の連鎖から切り離され、光の中に姿を消していった。
静寂が戻る中、バーテミウスは軽く溜息をつき、闇の中でレギュラスの幻影を見つめた。
「君らしくないな」
言葉は優しいながらも、どこか呆れ混じりだった。
その返事に、レギュラスの影は鋭く反応した。
「余計なお世話です」
その声は短く切り、彼の孤独な戦いを強調していた。
夜の闇に吸い込まれ、彼の影は次の瞬間、風のようにその場から消え去った。
残されたのは、闘いの余韻と、無言の祈りだけだった。
任務から戻った深夜、レギュラスは書斎で苛立ちを募らせていた。デカンタから琥珀色の液体をグラスに注ぎながら、手に微かな震えがあった。必要な情報は確かに手に入れた——それが今夜の目的だったはずなのに、胸の奥がざらついて仕方がない。
アリスブラック。
あの忌々しいマグル生まれの女を、仕留め損ねた。
バーテミウスが椅子に深く腰を下ろし、レギュラスの表情を静かに観察している。
「殺気立っているようだね」
バーテミウスの声は淡々としていたが、どこか面白がるような響きが混じっていた。
レギュラスはグラスを机に置き、鋭い視線を向けた。
「次回、アリス・ブラックに対峙したら、何より優先して彼女を仕留めてください」
その言葉には、個人的な怒りが込められていた。任務よりも、組織の目的よりも、彼女の存在そのものを消し去りたいという強烈な意志が滲んでいる。
バーテミウスは眉をひそめ、興味深そうに首を傾けた。
「君がそこまで執着するなんて、珍しい」
「執着」という言葉が、レギュラスの神経を逆撫でした。グラスを握る手に力が入り、琥珀色の液体が小さく波立つ。
それは執着などという軽い言葉で片付けられるものではなかった。
アランが命をかけて守ったあの女。
シリウスが養子として迎え入れた、ブラックの名を汚すマグル。
アランの心の奥に、今も生き続けているであろうシリウスへの想いの象徴。
その全てが、レギュラスの胸を鋭利な刃のように切り裂いていた。
「……個人的な感情ではありません」
レギュラスは低い声で否定した。しかし、その声には隠しきれない怒りが宿っている。
「あの女は、我々の理念に反する存在です。純血の誇りを汚す、許されざる存在なのです」
言葉では組織の論理を語りながらも、レギュラスの心には別の感情が渦巻いていた。
アランがあの女を逃した夜。
自分ではなく、シリウスとの未来を夢見て、命がけで逃がした夜。
その記憶が、彼の心を今も苛み続けている。
バーテミウスは静かに頷いたが、その瞳には理解と同時に、一抹の憐れみのようなものが浮かんでいた。
「わかった。機会があれば、そうしよう」
短い約束の言葉が、夜の静寂に吸い込まれていく。
レギュラスはグラスを手に取り、中身を一気に飲み干した。液体が喉を焼く痛みさえ、心の痛みに比べれば些細なものだった。
窓の外では、冬の風が木々を揺らしている。その音が、レギュラスの孤独な戦いを静かに見守っているようだった。
深夜の闇が屋敷を覆い尽くす頃、レギュラスは疲れ切った体を引きずるようにして玄関の扉をくぐった。冷たい夜風が彼の肩を震わせ、顔に張りつく汗と疲労の影を撫で去ったが、胸に渦巻く苛立ちまでは拭い去ることができなかった。
アリス・ブラックとの対峙は、彼の心の奥底に棘を植え付けたままだった。情報を持ち帰るという任務は果たしたものの、あの女を仕留めそこねた事実は、何度思い返しても許されなかった。だがその思いは、眠りに落ちた妻の寝息が聞こえる寝室の扉を開けた瞬間に、ひとまず置き去りにされた。
室内はほのかな月光に包まれ、柔らかな静寂が横たわる。白いシルクの寝具に横たわるアランの顔は穏やかで、疲れを癒す夢の中にいるようだった。レギュラスは一歩ずつ、そっと静かに妻のそばへと近づく。
彼の気配に、アランはうっすらと目を覚ました。薄く開いた瞳がぼんやりと彼を見つめる。眠りの延長線上にいるような、そのまどろみの中で彼女はまだ事の深刻さを理解していない。
レギュラスは動きを遮るように、そっと彼女を抱きしめ、柔らかな唇で唇を塞いだ。そこには言葉も、拒みもなく、ただ静かな深淵のような絆だけが流れていた。
彼の求めは、苛立ちや重圧、今日一日の激しい疲労を浄化したいという切なる願いだった。慰めと癒やしを求めるように、レギュラスは深くアランを求め、彼女もそのまま受け入れた。
アランの反応はほとんどなかった。眠気と静けさの中で及ぶ身体の行為は、一方的に思えるほどだった。それでもレギュラスには充分だった。
ただそばにいること。静かに交わること。それだけで、狂おしい感情は少しずつ解けていく。
夜の空気に溶け込む二人の呼吸。
交わる唇と指の温もり。
刻まれる心のぬくもり。
そして、満ちていく静かな愛の時間。
レギュラスは深穏の中で、小さな幸福を噛みしめていた。
苛立ちも痛みも、やがてこの静寂とともにゆっくりと癒されていくだろうと願いながら。
薄紫の朝靄が屋敷を包む中、アランは重いまぶたをこすりながら寝台から這い上がった。昨夜の夫との静かな交わりの余韻とともに、身体のあちこちに疲れが残っている。
食堂に向かい、温かなスープの香りが漂うテーブルにつくと、彼女の目は無意識に新聞に吸い寄せられた。手に取って開くと、一面の記事見出しがふと目に飛び込んできた。
「マグルの少女、アリス・ブラック負傷――治療中」
その一瞬、胸を鋭く突き刺されるような痛みが走った。まるで自分の大切なものを傷つけられたかのような、理屈を超えた痛みだった。シリウスが慈しみ、大事に育ててきたあの少女。彼の深い愛情が注がれたアリスが、負傷したという事実が、アランの胸を締めつける。
指先が震え、記事の文字が揺れて読めなくなりそうになる。隣でレギュラスが静かにパンを切る音だけが、重く響いた。問いかけたい――あの傷が、夫の手によるものなのかどうかを。けれど、口を開く勇気は出ず、ただ縮こまったまま新聞を抱え込んだ。
甘い残り香のように昨夜の静かな夜がよぎる一方で、今朝の冷たい現実が鋭く迫る。アリスの名が胸に刻まれたまま、アランはそっと新聞をテーブルに伏せた。赤い文字が、痛みだけを静かに残して。
朝の陽光が寝室のレースカーテンを透かし、静かな光の帯が床に映っていた。アランはレギュラスの身支度を手伝いながら、心は遠くにあった。
彼のシャツのボタンを留める指先は、いつもより少しぎこちない。カフリンクスを袖に通すときも、視線が定まらずにいた。頭の中には、新聞に載っていたあの記事が何度も蘇る。
アリス・ブラック負傷
シリウスが慈しんで育てたあの少女。まるで自分の分身のように大切に思ってきた存在が、今、傷を負っている。その事実が胸の奥で疼き続けていた。
レギュラスのネクタイを結びながら、アランの手が微かに震えた。聞きたいことがある。でも聞けない。もしも夫が関わっているとしたら、その答えを聞くことで、何かが決定的に変わってしまうような気がした。
「……」
沈黙が部屋を満たす。アランの様子を鏡越しに見つめていたレギュラスは、妻の心の動揺を敏感に察していた。同じ新聞を読んだのだから、どの記事が彼女をこんな状態にしているのか、見当はついていた。
「何か、聞きたいことがあるんですか?」
レギュラスの声は静かで、どこか探るような響きを帯びていた。鏡に映る彼の瞳が、アランの顔を見つめている。
アランの手が止まった。ネクタイを結ぶ手が宙に浮いたまま、彼女は小さく息を呑んだ。心臓の鼓動が早くなる。
「いえ……何も」
か細い声で答えながら、アランは視線を下に落とした。嘘だった。聞きたいことは山ほどある。でも、その答えを知ることで失うものの方が大きいような気がして、どうしても言葉が出てこない。
レギュラスは鏡の中で、妻の震える指先を見つめていた。その小さな震えが、彼女の心の内を雄弁に語っている。
朝の光が二人の間に差し込み、言葉にならない想いを優しく包み込んでいた。
玄関の扉が静かに閉まる音とともに、レギュラスの足音が遠ざかっていく。アランは窓辺に立ち、夫の後ろ姿が屋敷の門を出るまで見送っていた。けれど心は、新聞に載っていたあの記事から離れることができずにいた。
広間に戻ると、朝の光が差し込む窓際で、アランは再び新聞を手に取った。記事の文字を何度も読み返しながら、胸の奥がきりきりと痛む。
アリス・ブラック負傷
最後にアリスを見たのは、あのクィディッチの試合だった。空高く舞い上がる彼女の姿は、まるで太陽のように輝いていた。あの時のアリスは、もう守られる存在ではなかった。自由に、勇敢に空を駆け巡り、誰よりも生き生きとしていた。
かつて自分の腕の中で震えていた、あのちっぽけな少女が――。
本当に立派に育ったと、嬉しくて切なくて、シリウスへの感謝で胸がいっぱいになったことを覚えている。それなのに、その彼女が今、傷を負っている。
新聞を握る手が震えた。記事の上で視線が止まったまま、身動きが取れずにいる。
そんなアランの様子を、少し離れた場所から静かに観察している人影があった。エメリンド・フェリックス。屋敷に招かれている令嬢の一人で、レギュラスとの間に世継ぎをもうけることを期待されている女性だった。
エメリンドの両親は新聞記者だった。魔法界のあらゆる情報を手に入れる術を知っており、娘である彼女もその恩恵を受けていた。アリス・ブラックがどこで治療を受けているのか、突き止めることなど造作もない。
そして、その情報をアランに渡せば――この女は間違いなく、そこへ向かうだろう。
エメリンドは冷静に計算していた。アランとレギュラスの間には、確実に割って入る隙間があるはずだと。以前、シリウス・ブラックがアランにとって特別な意味を持つことを知り、その件でレギュラスを揺さぶったことがあった。あの時は思ったような効果は得られなかったが、今回の件と重なれば、レギュラスはアランに対して決定的な不信感を抱くかもしれない。
それこそが、エメリンドの狙いだった。
「アラン様……」
エメリンドは上品な微笑みを浮かべながら、そっと近づいた。
「気になるのですか? その『アリス・ブラック』という娘が」
アランははっと顔を上げ、エメリンドの視線と重なった。その瞳には、隠しきれない不安と痛みが宿っている。
「私……」
言葉が続かない。エメリンドは優しく頷いた。
「もしよろしければ、彼女の居場所をお調べしましょうか? 私の家のルートを使えば、すぐに分かりますわ」
その申し出は、まるで救いの手のように思えた。アランの瞳に、かすかな希望の光が宿る。
エメリンドは内心で微笑んだ。これで計画は動き出す。アランがアリスのもとへ向かえば、レギュラスは必ず気づく。そして、妻への不信と怒りが芽生えるだろう。
夫婦の間に深い亀裂を作ること――それが、エメリンドの真の目的だった。
朝の光が二人を照らす中、静かな策略が静寂の奥で動き始めていた。
エメリンドからの情報は、思いのほか早く届いた。午後の陽がまだ高い位置にある頃、彼女は静かにアランのもとへ近づき、小さな紙片を手渡した。
「聖マンゴ魔法疾患傷害病院の第三病棟、個室です」
その文字を見つめながら、アランの胸は激しく鼓動した。ついに、アリスの居場所が分かった。あとは向かうだけ――。
時計を見上げる。まだ陽は高く、夜までには十分に時間がある。レギュラスが任務から戻るのは夕刻過ぎ。それまでに帰ってくれば、気づかれることはないだろう。
「少しだけ……様子を見るだけでいい」
心の中でそう呟きながら、アランは決意を固めた。あの子に会いたい。ほんの少しでもいいから、アリスの無事を確かめたい。その想いが、すべての躊躇を押し流していた。
「アラン様」
エメリンドが優しく声をかける。
「レギュラス様には、黙っておきますわ」
その言葉に、アランは深く頭を下げた。
「ありがとう、エメリンド。本当に……感謝しています」
アランの声には、心からの感謝が込められていた。彼女の善意に、こんなにも助けられるとは思わなかった。エメリンドという人は、思っていた以上に心優しい女性なのだと、アランは素直にそう思った。
寝室に戻り、アランは急いで身支度を整えた。あまり目立たない、落ち着いた色のローブを選び、髪をまとめて簡素な帽子をかぶる。鏡に映る自分の顔は、少し青ざめているが、瞳には確かな決意が宿っていた。
玄関へ向かう足音が、静寂の屋敷に響く。扉の前で一度振り返ると、エメリンドが廊下の奥から静かに見送ってくれていた。
「気をつけて」
エメリンドの唇が、そう形作っているのが見えた。アランは小さく頷き、扉を開けた。
外の空気は涼しく、頬を撫でる風が心地よい。馬車の用意はできている。御者が丁寧に扉を開けてくれると、アランは深く息を吸い込んでから車内に足を踏み入れた。
「聖マンゴ魔法疾患傷害病院まで」
御者が頷き、馬車がゆっくりと動き出した。屋敷が遠ざかっていく中、窓から見えるエメリンドの姿が小さくなっていく。彼女は最後まで、静かに手を振って見送ってくれていた。
アランは座席に深く腰を下ろし、胸に手を当てた。心臓の鼓動が早い。不安と期待が入り混じった複雑な感情が、胸の奥で渦巻いている。
アリス……
馬車が石畳を進む音に合わせて、彼女の名前を心の中で繰り返した。もうすぐ会える。あの輝くような笑顔を、もう一度見ることができる。
屋敷の庭を抜け、門を出て、馬車は病院への道を急いだ。後ろを振り返ることなく、アランは愛しい少女のもとへと向かっていった。
一方、屋敷に残ったエメリンドは、馬車が完全に見えなくなるまで窓辺に立っていた。その唇に浮かぶのは、満足そうな微笑み。
「さあ、どうなることやら」
静かな呟きが、午後の静寂に溶けていった。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院の廊下には、薬草の香りと静寂が漂っていた。アランは第三病棟へと続く階段を上りながら、胸の鼓動が次第に激しくなるのを感じていた。個室の扉の前で一度深呼吸をし、そっとノックをする。
「どうぞ」
聞き慣れた、でも以前より少し大人びた声が中から響いた。扉を開けると、白いベッドの上に腰を上げたアリスの姿があった。
「アランさん……」
アリスの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、涙がほろほろと頬を伝い始めた。アランもまた、胸がいっぱいになって言葉が出てこない。
「アリス……」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。あの小さかった少女が、こんなにも美しく、気高く成長している。包帯が巻かれた腕を見ると胸が痛んだが、それでも彼女が生きて、こうして微笑んでくれていることに、心の底から安堵した。
「よかったわ、本当に……」
アランはベッドサイドの椅子に腰を下ろし、アリスの手をそっと握った。その手は以前より大きく、しっかりとしていたが、温もりは変わらずにそこにあった。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」アリスが小さく呟く。「でも、アランさんに会えて……本当に嬉しいです」
二人は暫くの間、ただ手を握り合ったまま、再会の喜びを静かに味わっていた。時が止まったような、穏やかな時間が流れる。
その時、扉がもう一度、軽くノックされた。
「入るぞ」
聞き慣れた、けれど長い間聞くことのなかった声が響いた。アランの心臓が一瞬止まりそうになる。扉が開くと、そこにはシリウス・ブラックが立っていた。
彼もまた、病室にアランがいることに驚いたようだった。一瞬、時が止まる。
「アラン……」
シリウスの声は、昔と変わらず温かく、そして少し震えていた。
アランは立ち上がることもできずに、ただその場に座り込んだまま、愛した人の顔を見つめていた。胸が大きく跳ね、涙が一気に溢れ出した。
まさか会えるなんて。
思いもしなかった。
長い年月が一瞬で巻き戻されるような感覚に襲われ、アランの身体は震えていた。シリウスもまた、扉の傍に立ったまま動けずにいる。
「お二人とも……」
アリスが静かに口を開いた。
「久しぶりの再会ですものね」
その言葉で、ようやく空気が動いた。シリウスがゆっくりと歩を進め、もう一つの椅子に腰を下ろす。小さな個室に、三人の静かな呼吸だけが響いていた。
「元気だったか」シリウスが最初に口を開いた。
「ええ……おかげさまで」アランは涙を拭いながら答えた。
言葉が続かない。言いたいことは山ほどあるのに、どこから話していいのか分からなかった。
アリスが二人の様子を見守りながら、そっと微笑んだ。
「アランさんは、私のことをとても心配してくださって。新聞を見て、すぐに会いに来てくださったんです」
「そうだったのか」
シリウスの瞳に、温かな光が宿った。
「ありがとう、アラン」
その感謝の言葉に、アランの胸はまた新たな涙で満たされた。
「当然のことよ。あなたが……あなたが大切に育ててくれた子だもの」
小さな個室の中で、過去と現在が静かに交差していた。言葉にできない想いが空気を満たし、三人はそれぞれの記憶の中を泳いでいた。
窓から差し込む午後の光が、ベッドサイドを優しく照らしている。時間がゆっくりと流れ、この瞬間が永遠に続けばいいのにと、アランは心の底から願った。
愛した人がそこにいる。彼が守り育てた少女が元気でいる。
それだけで、今この瞬間は完璧だった。
病院の個室でアリスの無事を確認し、短い会話を交わした後、シリウスは静かにアランに声をかけた。
「少し外の空気を吸わないか?」
アリスは理解するように微笑み、
「どうぞ、お二人でゆっくりと」と優しく促した。
病室を出た二人は、自然と病院の外へ足を向けた。
「実は、近くに安全な場所があるんだ」シリウスが振り返る。
アランは迷わず頷いた。
きっとお互いに心の奥で、二人だけの時間を切望していた。
石造りの古い建物の奥まった一室。暖炉の炎が壁に柔らかな光を投げかけ、外の喧騒を遮る静寂が二人を包んでいた。シリウスは扉を閉めると、深く息を吐いた。
「アラン……」
彼の声には、長い間抑え込んできた感情が滲んでいた。アルタイルから聞いていた話が頭をよぎる。セレナを産んでから体調を崩し、以前にも増して弱々しくなったという母の姿。それがどれほど彼を心配させていたか。
目の前にいるアランは、確かに以前より細くなっていた。頬の線も少し鋭く、どこか儚げな印象を受ける。それでも、その美しさは少しも損なわれていない。むしろ、離れていた時間の分だけ、愛しさが一層強く込み上げてくる。
「会いたかったんだ、アラン」
シリウスが一歩近づくと、アランの瞳に涙が浮かんだ。
「私も……ずっと、ずっと会いたかった」
その声は震えていた。積もり積もった想いが、一気に溢れ出そうとしている。シリウスはそっと彼女の手を取り、自分の胸に引き寄せた。
アランの涙がほろほろと頬を伝い落ちる。それは悲しみの涙ではなく、長い間我慢してきた想いが解放される安堵の涙だった。暖炉の光に照らされたその涙粒は、まるで真珠のように美しく輝いて見えた。
「泣くなよ」シリウスが優しく彼女の涙を拭う。
「おまえが泣くと、おれまで……」
「ごめんなさい。でも、嬉しくて……こうしてあなたに会えて、本当に嬉しくて」
アランは小さく笑いながら、さらに涙を流した。その表情には、痛みと喜びが複雑に入り混じっている。
シリウスは彼女の髪にそっと触れ、額に軽くキスを落とした。
「俺もだよ、アラン。君に会えて……こうして触れられて……夢のようだ」
二人は暖炉の前で静かに抱き合い、長い間失われていた時間を取り戻すように、ただその温もりを確かめ合った。
外では風が木々を揺らし、遠くで鐘の音が響いている。しかし、この小さな部屋の中では、時が止まったような静寂と愛だけが存在していた。
暖炉の灯がふたりの影を壁に踊らせる隠れ家の小室で、シリウスは静かに語り始めた。
会えなかった日々のこと、取り戻せなかった時間のこと、胸に秘めていた想いをひとつひとつ言葉にして紡いでいく。
ベッドに身を起こそうとするアランを、オリオンは片手で制した。
「こんな姿で申し訳ありません、オリオン様」
アランの声は細く、息継ぎの間に痛みが滲んでいた。白いナイトガウンに身を包んだその姿は、かつて屋敷に初めて足を踏み入れた麗しい令嬢の面影を残しながらも、今はひどく儚げだった。
「いや、構わない。私の方こそ、こんな時に申し訳ない」
オリオンの言葉は丁寧で、気遣うような響きを帯びていた。けれど、その瞳の奥には冷たい計算が宿っていた。まるで既に結論を下し、ただその伝達のためだけにここに来たかのような、遠い眼差し。
窓辺の椅子に腰を下ろしたオリオンは、しばらく沈黙を保った。外からは庭師の鋏の音がゆるやかに聞こえ、秋の午後の静けさが部屋を包んでいる。
彼は心の中で、過去を振り返っていた。
セシール家の麗しい令嬢として屋敷に迎えたアラン。由緒正しい血筋、申し分のない家柄、そして何より美しい容姿。レギュラスが心を奪われたのも無理はなかった。
そして、アルタイルという立派な男児を産んでくれた。ブラック家の血を受け継ぐ、誇らしい世継ぎを。
だが——。
ヴァルブルガは二人の男児を産み落としている。レギュラスとシリウス。それに比べると、アランにはまだ果たしてもらいたい役割があった。ブラック家の血筋をより確実なものにするために。
けれど、もはやそれは不可能だった。
これ以上この女に息子が執着を続けるのは、あまりにも危険だった。家の未来を、一人の女への愛情のために危うくするわけにはいかない。
「アラン」
ようやく口を開いたオリオンの声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
「屋敷を移してはどうだろうか。どこか……ゆっくりと療養できるところへ」
その言葉の響きは優しかった。けれど、アランの胸には氷のような冷たさが流れ込んだ。
彼女にはわかっていた。オリオンが言っている言葉の真意が。
この屋敷にいる限り、自分という存在がレギュラスの障害になる。
彼が家の責務を果たす上で、自分は邪魔な存在でしかない。
それならば——退かねばならない。
アランは静かに目を伏せた。長い睫毛の陰に、諦めにも似た静寂が宿る。
「……おっしゃる通りかもしれません」
か細い声で、そう呟いた。
「レギュラスには、もっと大切な責務があります。私が……私のような者が、それを妨げるようなことがあってはなりませんね」
オリオンは無言で頷いた。その表情には、安堵とも満足ともつかない微かな変化が浮かんでいた。
窓の外で、風が木々を揺らす音がした。葉が舞い散り、季節が移ろいでいく。人の運命もまた、その風に吹かれて変わりゆくものなのかもしれない。
「アルタイルとセレナのことは」
「心配には及ばない」オリオンは静かに言った。
「二人とも立派に育っている。母親がいなくても、ブラック家の子として恥じぬよう育てていこう」
その言葉に、アランの心は深く沈んだ。
愛する子どもたちと離ればなれになる。けれどここまで手を取り合って生きてきた夫の重荷になるくらいなら、自ら身を引く。
それが、彼女にできる最後の愛情だった。
「……わかりました」
最後の一言は、ほとんど息のような音だった。
オリオンは立ち上がり、扉へと向かう。振り返ることなく、静かに部屋を後にした。
残されたアランは、ベッドの中で小さく身を丸めた。涙は流さなかった。ただ、胸の奥で何かが静かに砕けていく音を聞いていた。
夕陽が窓を染め、部屋に長い影を落としている。それは、一つの愛の終わりを告げる、美しく哀しい光だった。
薄暮が屋敷の古びた壁を長く鋭く染める頃、アランは窓辺に立ち、遠くに広がる庭の影を見つめていた。
心の中では、かすかな渇望が膨らんでいた。
「セシール家の屋敷へ戻りたい」――そんな思いが、静かに、しかし確かな温度で胸の奥からわき上がる。
けれど、それは単に懐かしさというだけではなかった。冷ややかな現実も重々しく彼女の思考に降りかかっていた。
もしも本当に戻るなら、社交界に「ブラック家からの追放」と囁かれかねない。
噂が広まれば、セシール家のみならず、自分自身の名誉さえ汚しかねないのだ。
そして何より、このブラック家という家系は、それを許すだろうか。
「ブラック家に嫁いだ女が実家に戻る――」
そのことは禁忌であり、汚点なのだ。
そこにあるのは、深い伝統と誇り、そして融通の効かぬ権威だった。
だからこそ、誰かが静かな別邸を与えてくれるのだろうと思った。
家族から離れ、けれど見捨てられたわけではない、そんな場所。
その場所はどこなのだろう。
そう思い巡らせると、不意に心は遠い記憶へと触れる。
シリウスと過ごしたあのマグルの街の小さなコテージ。
あの自由で素朴な空気、波の音、時折聞こえる鳥のさえずり。
暖炉の火がほのかに灯り、手を取り合いながら語りあった日々。
そんな静かな場所だったらいいと、小さな願いを秘めてしまった。
この屋敷には幾重もの思い出が詰まっている。
シリウスと出会い、恋を覚えた場所。
レギュラスと共に歩んだ年月。
そして、最愛のアルタイルとセレナをこの腕に抱きしめた場所。
そう考えれば、この屋敷は人生そのもののように感じられた。
その屋敷を離れることに、胸が締めつけられ、何よりも寂しさを覚えないわけがなかった。
それでもどこかで、抱えてきた重荷を降ろせる安堵が、深く潜んでいるのを感じていた。
もう、レギュラスへの想いに対して、何か差し出さなければならない義務も期待もない。
自分がようやく「許された自由」を手にしたような気がしていた。
かつて選ぶことも叶わなかった小さな自由たち。
それを手放さねばならず、ただ耐えてきた年月。
今、その一つ一つにもう一度、そっと手を伸ばせるような、そんな気がした。
夕暮れの空が茜色に染まり、風が静かにカーテンを揺らすとき、アランの瞳にはほんのわずかな涙が光っていた。
それは悲しみでも、絶望でもない。
新しい明日への、小さな希望のしるしだった。
ホグワーツの石造りの廊下を通り抜け、午後の陽光が射す窓際の黒板の前――
アルタイルはそっと懐から魔法写真を取り出した。
夕陽が差す教室に響くのは、遠くの生徒たちの笑い声と、書きかけの課題の羽ペンの音。
シリウスがその写真を受け取ると、ほんの一瞬、長い指先が震えた。
写真の中でアランが静かに微笑み、美しい髪がゆるやかに風に揺れている。
シリウスは、目尻をかすかに細めて写真を見つめた。
懐かしさと、切なさと、どこか温かな光がその顔に差した。
そして、ごく自然に呟く。
「……相変わらず、綺麗だ。」
その一言は、まるで大切な宝物を見つけた幼子のような声音だった。
アルタイルは胸の奥が誇らしく、同時に少し照れくさくなった。
「ええ、自慢の母さんですから。」
シリウスは懐かしむように微笑み、視線は遠い過去へとさかのぼった。
「ホグワーツ1だったんだぜ。スリザリンからは、スリザリンの姫ってみんな呼んでた。」
静かに語られるその称号――まるで校舎の石壁にも、今もその記憶が刻まれているようだった。
「……噂で、聞きました。」
アルタイルはそう返す。声ににじんだ誇りとくすぐったさ。その中には、母を称える思いと、今この瞬間にしか得られない幸福が、静かに寄り添っていた。
シリウスが写真を手のひらで包み、大切そうに見つめ続ける。その横顔に浮かぶ優しさを見て、アルタイルの心はそっとあたたかくなった。
その場にただ穏やかな夕暮れが広がる。
母を褒めてくれるこの人のそばで、自分の家族の美しさもまたこうして誰かの心に根を残しているのだと、アルタイルは小さな誇りで胸を満たした。
ひとり静かな夜、窓辺の椅子に座り込み、シリウスは手の中の魔法写真をじっと見つめていた。
アルタイルから譲り受けたあの写真人物は、まるで時を止めたかのように輝きを放ち、そこには変わらないアランの麗しい姿が写っている。
何度その写真を繰り返し見ただろうか。
幾度となく指先でなぞり、ふとした瞬間に溢れ出る涙が頬を伝うこともあった。
「愛している。今も変わらずに。」
胸の奥から溢れ出る情熱は、永遠に色褪せることがない。
ずっと、ずっと愛し続けてきた。
レギュラスとの結婚が決まったときも、最初の子を産んだと聞いた時も、想いは一ミリたりとも霞んだことはなかった。
そして、彼女が命を懸けて守り育てたマグル生まれの少女、アリスのことを思い出す。
今は養子として迎えいれられ、アリス・ブラックとして静かに成長している。
その面倒を見守った記憶はまだ新しいが、時に、まるでアランと共に育ててきたかのような錯覚に陥ることもあった。
それは叶わなかった未来のひと欠片を掴み取ったような、秘かな心の支えであり、力の源だった。
それでも、アルタイルとセレナの姿を見るたび、どうしても胸が締めつけられる思いに囚われる。
彼らは間違いなく、アランとレギュラスとの間に生まれた子供たち。
その血の繋がりが、鮮やかに自分とアランの運命が交わることがなかった証明に思えてしまうのだ。
その事実が、まるで冷たく突きつける刃のように、シリウスの心を深くえぐる。
けれど、その苦しみさえも、込み上げる涙の中で優しく抱きしめられていく。
夜風が窓を優しく揺らし、遠くの森で虫の音が響く。
写真に映るアランの微笑みが、星の光に重なるように、静かに輝きを増していった。
そしてシリウスは、深く息を吸い込み、静かに瞳を閉じてそっと呟く。
「ずっと、愛している」
晩餐の重厚な食卓に、蝋燭の灯りが踊っていた。銀の食器が炎の光を受けて鈍く輝き、部屋には静寂が漂っている。いつもなら家族の会話で和やかになるはずの時間が、今夜は違っていた。
オリオンが静かにナイフを置き、息子の方を向いた。
「レギュラス、アランのことだが……別邸に移すことに決めた」
その一言が、まるで石を投げ込まれた湖面のように、食卓の空気を大きく波立たせた。
レギュラスの手が、グラスを握ったまま止まった。一瞬の沈黙の後、彼の声が低く響く。
「なぜ……僕の許可もなく、勝手に決めるのです?」
その声には、明らかに抑えきれない怒りが滲んでいた。
父を尊敬し、従順に生きてきた。家の決定に逆らったことなど、これまで一度もなかった。けれど、これは違った。あまりにも、あまりにも自分という人間の意志を踏み躙った決定だった。
オリオンは息子の怒りを受け止めながら、穏やかに答えた。
「レギュラス、理解してほしい。アランの体調を考えれば——」
「会いに行きたいときに行けばいいわ」
ヴァルブルガが、さも当然のことのように口を挟んだ。その軽やかな口調が、レギュラスの心をさらに逆撫でする。
「そういうことではないのです!」
レギュラスの声が、初めて食卓で荒らげられた。
グラスを勢いよく置いた音が、部屋に鋭く響く。両親が驚いた表情でこちらを見つめる中、レギュラスは立ち上がった。
「……そういうことではないんです」
今度は静かに、しかし確かな痛みを込めて繰り返した。
レギュラスにとって、この屋敷にアランがいる——それだけで救いだった。
朝、目を覚ましたとき、同じ屋根の下に彼女がいること。
夜、眠りにつくとき、彼女の寝息がどこかで聞こえていること。
廊下ですれ違う足音、遠くから聞こえる笑い声、時折香る花の匂い。
それらすべてが、レギュラスの心を支えていた。
もしそれがなくなってしまうなら——。
一体どこで安らぎを得ればいいのか。何を支えに生きていけばいいのか。
「僕には……僕にはアランが必要なんです」
声が震えた。プライドも、体面も、すべてを脇に置いて、ただ心の底からの叫びを吐き出した。
「この家に、この屋敷に、彼女がいてくれるだけで……僕は生きていけるんです」
オリオンとヴァルブルガは、息子の姿に言葉を失った。
いつも冷静で、理性的で、感情を表に出すことのなかった息子が、今、目の前で崩れ落ちそうになっている。
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、長い影を壁に投げかけていた。食卓の上の料理は、すっかり冷めてしまっている。
けれどレギュラスにとって、それはどうでもよいことだった。
大切なのは、愛する人がそばにいること。それ以外に、彼の心を満たすものなど何もなかった。
重い沈黙が食卓を覆う中、レギュラスはただひたすら、両親の理解を願い続けていた。
夜の静けさが寝室を包む中、レギュラスはゆっくりと息を整えながらアランのもとへ足を運んだ。長い一日の疲れを帯びた表情に、どうしても抑えきれない感情が滲んでいた。
「なぜ、何も言わないんです?」
レギュラスの声は震えている。心の奥底にたまった思いが、一気に溢れ出たのだ。
アランは静かに顔を上げ、その瞳でレギュラスを見つめ返した。
まるで「何の話かしら?」と言わんばかりの、その穏やかな横顔には、まだ彼の感情の激しさは届いていないようだった。
「なぜ、あなたは――いつもいつも、全てを勝手に受け入れてしまうんですか」
レギュラスは言葉を絞り出すように続けた。
しかしアランの瞳は揺れず、彼の言葉をただ静かに受け止めているだけだった。
その沈黙が逆に、レギュラスの胸を締めつける。
「レギュラス……」
初めてふたりの間に言葉が降りる。
その声は甘くも切なくもあり、まだ理解の輪郭がぼんやりとしか見えないアランの戸惑いが滲んでいた。
レギュラスの胸の震えは、彼女の軽い呼びかけさえ掻き消すほど大きい。
「あなたがいつも、本当の気持ちを隠してしまうから……僕は、見えなくなりそうだ」
涙をこらえるようにして、彼はその場に立ちすくんだ。
その夜、二人は言葉少なに互いを見つめ、まだ届かぬ想いをそっと抱えあったまま、静かな時間を共有した。
寝室の灯りが消え、月光のみに包まれた空間で、アランはようやく言葉の奥に隠された真意を察したように静かに問いかけた。
「オリオン様に聞かれたのですか?」
その声は、震えを含みながらも穏やかだった。
レギュラスはうなずき、苦い笑みを浮かべる。
「ええ。別邸の話です」
アランはまるで明るい陽光のように、無邪気に応じた。
「悪くない話ですわ。できれば、海の見える小さな屋敷を希望します」
そのあまりにも能天気な言葉が、レギュラスの胸を不意に締めつけた。愛しいはずの笑顔が、遠く感じられてしまう屈辱――それは、思いも寄らぬほど痛かった。
レギュラスは翳りのある声で、一言だけ告げた。
「行かせません」
アランは驚きと困惑の入り混じった瞳をレギュラスに向けた。
「どうしてです?」
その問いに、レギュラスの顔に熱がのぼる。
「なぜ、行かせると思うんです? 僕が。あなたを――」
アランはその言葉の意味を理解できず、一歩踏み込んだ視線でレギュラスを見返す。
「意味がわかりません……」
部屋に流れる沈黙は、二人の心を確かに隔てていた。レギュラスの胸には、アランを失いたくないという切実な思いと、自らの弱さを認められない葛藤が渦巻いている。どれほど愛しているのか、その言葉すら伝えきれずに、ただ見つめ合うしかなかった。
月光が二人を淡く照らし、不器用な想いだけをそっと浮かび上がらせる。
この夜、言葉はすれ違い、想いは静かに交差したまま、寝室には深い余韻だけが残された。
月明かりが薄くカーテン越しに差し込む寝室で、アランは小さく肩をすくめて微笑んだ。
「たまに会いに来てくれたら、十分ですよ」
その声は優しく、けれどどこか遠くを見つめるように響いた。まるで、途切れ途切れの灯りでも充分だと言われているような、切ない響きを帯びている。
レギュラスの胸はぎゅうっと締めつけられた。
一緒にいる必要はない――その一瞬でも満たされるのならいい――
まるで自分の存在が、彼女にとって欠くことのできない灯りではなく、ただのつまらぬ義務のように扱われているかのようだった。
「父には断っておきますから」
レギュラスは震える声で言った。目の前のアランを守るためなら、とふりしぼった言葉だった。
アランはうつむいて、静かに首を振る。
「レギュラス……オリオン様の決定を無碍にしてはいけないわ」
その言葉に、レギュラスの目に怒りと悲しみが同時に燃え上がった。
「では、僕の思いは――感情は、無碍にされていいものということですか?」
息を詰めるように問いかけ、アランを責めるように視線を注いだ。
アランは俯いたまま、長い黒髪が彼の視界をかすめる。言葉を紡ぐ口元は震えていたが、その瞳には深い哀しみと、どこか諦めにも似た覚悟が宿っていた。
部屋には重い静寂だけが残り、二人の間に言葉以上の溝が生まれていた。
どれほど愛し合っても、ここでは想いがすれ違い、一方通行の刃のように心を切り裂いていく――
その夜の寝室には、切なくも美しい刹那の痛みだけがそっと舞い落ちていた。
薄暗い寝室に、互いの息遣いだけが静かに響いていた。
レギュラスの瞳が揺れる中、アランがかすかに口を開く。
「そういう意味ではなくて……」
言葉はまるで、必死の言い訳のようにこぼれ落ちた。
その声が、限りなく切なく響く。
レギュラスは重く息を吐き出し、震える声で答える。
「アラン、お願いです。これ以上、何も言わないでください。」
その言葉は祈りのように、深く、静かに、その場を支配した。
アランは言葉を詰まらせ、黙った。
その沈黙は、彼女の唯一無二の答えだった。
もはや言葉を紡ぐ余地はなく、ただ、黙るしかなかった。
レギュラスはそっと距離を詰め、ふわりとアランの唇へキスを落とす。
その動作は優しく、切実で、まるで祈りをささげるような温かさが宿っていた。
驚きが一瞬アランの瞳にきらめいたものの、やがて静かに身をゆだね、受け入れた。
その刹那、言葉を超えた感情がふたりの内側を満たす。
二人を繋ぐのは、言葉ではない深い想い、そして変わらぬ愛だった。
部屋を包む月光が、揺れるカーテン越しにふんわりと映り、静かな夜の祈りのような時がゆっくりと過ぎていった。
夜の湿った空気が立ち込める中。薄明かりのランプが地面に長い影を落とし、静寂の中に緊張が張りつめていた。レギュラスは衣服の裾を掴みながら、じっとアリス・ブラックを見据えていた。
彼女は身を低くかがめ、腕を前に突き出して混血の魔法使いたちを守る盾となっている。――かつて、シリウスの背後で守られる側にいた少女が、いまは誰かを守る側に立っている。成長した姿を、レギュラスはほんの一瞬だけ認めた。しかし、そんなことは彼の怒りを和らげはしなかった。
「忌々しいマグルの女め……」
レギュラスの声は低く、凍りつくように冷たかった。
アランが逃がし、シリウスに未来を託したその贖罪なき行為を、彼は許せなかった。
恐れ知らずにも“ブラック”の名を背負うその横顔に、憎悪が燃え広がる。
アリスは鋭くレギュラスを睨み返した。胸の内にある覚悟が、その眼差しににじんでいる。
「あなたこそ、何を守るためにここにいるの?」
彼女の声には悲しみと怒りが混じり、しかし恐れはなかった。
刹那、レギュラスは魔杖を構え、呪文を放った。
「ペトリフィカス・トタルス!」
閃光とともに放たれた呪文が、アリスを硬直させようと襲いかかる。だがアリスは懸命に防護の呪文を展開し、氷のように透明な盾を瞬時に立ち上げた。
「プロテゴ!」
盾が光を跳ね返し、呪文をかろうじて受け止める。衝撃でアリスは一歩後退したが、必死に壁を維持した。
レギュラスの瞳はさらに冷酷に凍りつき、次の一撃を狙う。だが、彼の心に微かに、アランの悲しげな横顔がよぎった。それでも、憎悪は収まらない。
「エクスペリアームス!」
レギュラスの呪文が差し込むように翻ると、アリスは盾を解き放ち、魔杖を振り上げて応戦した。
「インセンディオ!」
二人の呪文が夜空に火を散らし、さざ波のようにぶつかり合う。
冷たい大理石の床に照らされる火光が、激しい戦いの痕跡を深く刻んでいった。
やがて、衝撃の余波が止む瞬間、二人は互いの決意を確かめ合うかのように立ち尽くす。
アリスの瞳は震えながらも、揺るがない意志を示し、レギュラスの怒りは化身のように燃え盛っている。
荒れ狂う感情をその胸に秘め、二人は次の一手を準備しながら、夜の静寂を破り続けた。
夜の闇に包まれた戦いの最中、レギュラスは杖を握り締め、炎と氷が混ざり合う激しい魔法の応酬の中に立っていた。瞳には狂おしいまでの憎悪と決意が燃えている。
しかし、突如として背後から冷静な声が響いた。
「レギュラス、引こう。」
バーテミウスの命令は鋭く、誰の意志も揺るがせる力を持っていた。
レギュラスは一瞬ためらった。その手にはまだ呪文の余韻が残り、あと少しで決着をつけそうだった。しかし、バーテミウスの声には揺るぎない意志が宿っており、必要なものは手に入れたのだからこれ以上ここにとどまる必要はないことを告げていた。
彼がこの場に長く居続けているのは、もはや個人的な私情だけだった。
アランがアリスを通じてシリウスとの未来を見ていたのを、彼は感じ取っていたからこそ、このマグルの少女を消し去りたい衝動を抑えきれなかった。
アランの選択が無駄だったことを証明したい、そんな暗い願いがレギュラスの胸を締めつけていた。
「あと少しで、やれそうだった……」
呟きは薄くも強い決意の断片だったが、バーテミウスは無情にも彼の呪文の発動を強制的に打ち切る。瞬間、レギュラスは呪文の連鎖から切り離され、光の中に姿を消していった。
静寂が戻る中、バーテミウスは軽く溜息をつき、闇の中でレギュラスの幻影を見つめた。
「君らしくないな」
言葉は優しいながらも、どこか呆れ混じりだった。
その返事に、レギュラスの影は鋭く反応した。
「余計なお世話です」
その声は短く切り、彼の孤独な戦いを強調していた。
夜の闇に吸い込まれ、彼の影は次の瞬間、風のようにその場から消え去った。
残されたのは、闘いの余韻と、無言の祈りだけだった。
任務から戻った深夜、レギュラスは書斎で苛立ちを募らせていた。デカンタから琥珀色の液体をグラスに注ぎながら、手に微かな震えがあった。必要な情報は確かに手に入れた——それが今夜の目的だったはずなのに、胸の奥がざらついて仕方がない。
アリスブラック。
あの忌々しいマグル生まれの女を、仕留め損ねた。
バーテミウスが椅子に深く腰を下ろし、レギュラスの表情を静かに観察している。
「殺気立っているようだね」
バーテミウスの声は淡々としていたが、どこか面白がるような響きが混じっていた。
レギュラスはグラスを机に置き、鋭い視線を向けた。
「次回、アリス・ブラックに対峙したら、何より優先して彼女を仕留めてください」
その言葉には、個人的な怒りが込められていた。任務よりも、組織の目的よりも、彼女の存在そのものを消し去りたいという強烈な意志が滲んでいる。
バーテミウスは眉をひそめ、興味深そうに首を傾けた。
「君がそこまで執着するなんて、珍しい」
「執着」という言葉が、レギュラスの神経を逆撫でした。グラスを握る手に力が入り、琥珀色の液体が小さく波立つ。
それは執着などという軽い言葉で片付けられるものではなかった。
アランが命をかけて守ったあの女。
シリウスが養子として迎え入れた、ブラックの名を汚すマグル。
アランの心の奥に、今も生き続けているであろうシリウスへの想いの象徴。
その全てが、レギュラスの胸を鋭利な刃のように切り裂いていた。
「……個人的な感情ではありません」
レギュラスは低い声で否定した。しかし、その声には隠しきれない怒りが宿っている。
「あの女は、我々の理念に反する存在です。純血の誇りを汚す、許されざる存在なのです」
言葉では組織の論理を語りながらも、レギュラスの心には別の感情が渦巻いていた。
アランがあの女を逃した夜。
自分ではなく、シリウスとの未来を夢見て、命がけで逃がした夜。
その記憶が、彼の心を今も苛み続けている。
バーテミウスは静かに頷いたが、その瞳には理解と同時に、一抹の憐れみのようなものが浮かんでいた。
「わかった。機会があれば、そうしよう」
短い約束の言葉が、夜の静寂に吸い込まれていく。
レギュラスはグラスを手に取り、中身を一気に飲み干した。液体が喉を焼く痛みさえ、心の痛みに比べれば些細なものだった。
窓の外では、冬の風が木々を揺らしている。その音が、レギュラスの孤独な戦いを静かに見守っているようだった。
深夜の闇が屋敷を覆い尽くす頃、レギュラスは疲れ切った体を引きずるようにして玄関の扉をくぐった。冷たい夜風が彼の肩を震わせ、顔に張りつく汗と疲労の影を撫で去ったが、胸に渦巻く苛立ちまでは拭い去ることができなかった。
アリス・ブラックとの対峙は、彼の心の奥底に棘を植え付けたままだった。情報を持ち帰るという任務は果たしたものの、あの女を仕留めそこねた事実は、何度思い返しても許されなかった。だがその思いは、眠りに落ちた妻の寝息が聞こえる寝室の扉を開けた瞬間に、ひとまず置き去りにされた。
室内はほのかな月光に包まれ、柔らかな静寂が横たわる。白いシルクの寝具に横たわるアランの顔は穏やかで、疲れを癒す夢の中にいるようだった。レギュラスは一歩ずつ、そっと静かに妻のそばへと近づく。
彼の気配に、アランはうっすらと目を覚ました。薄く開いた瞳がぼんやりと彼を見つめる。眠りの延長線上にいるような、そのまどろみの中で彼女はまだ事の深刻さを理解していない。
レギュラスは動きを遮るように、そっと彼女を抱きしめ、柔らかな唇で唇を塞いだ。そこには言葉も、拒みもなく、ただ静かな深淵のような絆だけが流れていた。
彼の求めは、苛立ちや重圧、今日一日の激しい疲労を浄化したいという切なる願いだった。慰めと癒やしを求めるように、レギュラスは深くアランを求め、彼女もそのまま受け入れた。
アランの反応はほとんどなかった。眠気と静けさの中で及ぶ身体の行為は、一方的に思えるほどだった。それでもレギュラスには充分だった。
ただそばにいること。静かに交わること。それだけで、狂おしい感情は少しずつ解けていく。
夜の空気に溶け込む二人の呼吸。
交わる唇と指の温もり。
刻まれる心のぬくもり。
そして、満ちていく静かな愛の時間。
レギュラスは深穏の中で、小さな幸福を噛みしめていた。
苛立ちも痛みも、やがてこの静寂とともにゆっくりと癒されていくだろうと願いながら。
薄紫の朝靄が屋敷を包む中、アランは重いまぶたをこすりながら寝台から這い上がった。昨夜の夫との静かな交わりの余韻とともに、身体のあちこちに疲れが残っている。
食堂に向かい、温かなスープの香りが漂うテーブルにつくと、彼女の目は無意識に新聞に吸い寄せられた。手に取って開くと、一面の記事見出しがふと目に飛び込んできた。
「マグルの少女、アリス・ブラック負傷――治療中」
その一瞬、胸を鋭く突き刺されるような痛みが走った。まるで自分の大切なものを傷つけられたかのような、理屈を超えた痛みだった。シリウスが慈しみ、大事に育ててきたあの少女。彼の深い愛情が注がれたアリスが、負傷したという事実が、アランの胸を締めつける。
指先が震え、記事の文字が揺れて読めなくなりそうになる。隣でレギュラスが静かにパンを切る音だけが、重く響いた。問いかけたい――あの傷が、夫の手によるものなのかどうかを。けれど、口を開く勇気は出ず、ただ縮こまったまま新聞を抱え込んだ。
甘い残り香のように昨夜の静かな夜がよぎる一方で、今朝の冷たい現実が鋭く迫る。アリスの名が胸に刻まれたまま、アランはそっと新聞をテーブルに伏せた。赤い文字が、痛みだけを静かに残して。
朝の陽光が寝室のレースカーテンを透かし、静かな光の帯が床に映っていた。アランはレギュラスの身支度を手伝いながら、心は遠くにあった。
彼のシャツのボタンを留める指先は、いつもより少しぎこちない。カフリンクスを袖に通すときも、視線が定まらずにいた。頭の中には、新聞に載っていたあの記事が何度も蘇る。
アリス・ブラック負傷
シリウスが慈しんで育てたあの少女。まるで自分の分身のように大切に思ってきた存在が、今、傷を負っている。その事実が胸の奥で疼き続けていた。
レギュラスのネクタイを結びながら、アランの手が微かに震えた。聞きたいことがある。でも聞けない。もしも夫が関わっているとしたら、その答えを聞くことで、何かが決定的に変わってしまうような気がした。
「……」
沈黙が部屋を満たす。アランの様子を鏡越しに見つめていたレギュラスは、妻の心の動揺を敏感に察していた。同じ新聞を読んだのだから、どの記事が彼女をこんな状態にしているのか、見当はついていた。
「何か、聞きたいことがあるんですか?」
レギュラスの声は静かで、どこか探るような響きを帯びていた。鏡に映る彼の瞳が、アランの顔を見つめている。
アランの手が止まった。ネクタイを結ぶ手が宙に浮いたまま、彼女は小さく息を呑んだ。心臓の鼓動が早くなる。
「いえ……何も」
か細い声で答えながら、アランは視線を下に落とした。嘘だった。聞きたいことは山ほどある。でも、その答えを知ることで失うものの方が大きいような気がして、どうしても言葉が出てこない。
レギュラスは鏡の中で、妻の震える指先を見つめていた。その小さな震えが、彼女の心の内を雄弁に語っている。
朝の光が二人の間に差し込み、言葉にならない想いを優しく包み込んでいた。
玄関の扉が静かに閉まる音とともに、レギュラスの足音が遠ざかっていく。アランは窓辺に立ち、夫の後ろ姿が屋敷の門を出るまで見送っていた。けれど心は、新聞に載っていたあの記事から離れることができずにいた。
広間に戻ると、朝の光が差し込む窓際で、アランは再び新聞を手に取った。記事の文字を何度も読み返しながら、胸の奥がきりきりと痛む。
アリス・ブラック負傷
最後にアリスを見たのは、あのクィディッチの試合だった。空高く舞い上がる彼女の姿は、まるで太陽のように輝いていた。あの時のアリスは、もう守られる存在ではなかった。自由に、勇敢に空を駆け巡り、誰よりも生き生きとしていた。
かつて自分の腕の中で震えていた、あのちっぽけな少女が――。
本当に立派に育ったと、嬉しくて切なくて、シリウスへの感謝で胸がいっぱいになったことを覚えている。それなのに、その彼女が今、傷を負っている。
新聞を握る手が震えた。記事の上で視線が止まったまま、身動きが取れずにいる。
そんなアランの様子を、少し離れた場所から静かに観察している人影があった。エメリンド・フェリックス。屋敷に招かれている令嬢の一人で、レギュラスとの間に世継ぎをもうけることを期待されている女性だった。
エメリンドの両親は新聞記者だった。魔法界のあらゆる情報を手に入れる術を知っており、娘である彼女もその恩恵を受けていた。アリス・ブラックがどこで治療を受けているのか、突き止めることなど造作もない。
そして、その情報をアランに渡せば――この女は間違いなく、そこへ向かうだろう。
エメリンドは冷静に計算していた。アランとレギュラスの間には、確実に割って入る隙間があるはずだと。以前、シリウス・ブラックがアランにとって特別な意味を持つことを知り、その件でレギュラスを揺さぶったことがあった。あの時は思ったような効果は得られなかったが、今回の件と重なれば、レギュラスはアランに対して決定的な不信感を抱くかもしれない。
それこそが、エメリンドの狙いだった。
「アラン様……」
エメリンドは上品な微笑みを浮かべながら、そっと近づいた。
「気になるのですか? その『アリス・ブラック』という娘が」
アランははっと顔を上げ、エメリンドの視線と重なった。その瞳には、隠しきれない不安と痛みが宿っている。
「私……」
言葉が続かない。エメリンドは優しく頷いた。
「もしよろしければ、彼女の居場所をお調べしましょうか? 私の家のルートを使えば、すぐに分かりますわ」
その申し出は、まるで救いの手のように思えた。アランの瞳に、かすかな希望の光が宿る。
エメリンドは内心で微笑んだ。これで計画は動き出す。アランがアリスのもとへ向かえば、レギュラスは必ず気づく。そして、妻への不信と怒りが芽生えるだろう。
夫婦の間に深い亀裂を作ること――それが、エメリンドの真の目的だった。
朝の光が二人を照らす中、静かな策略が静寂の奥で動き始めていた。
エメリンドからの情報は、思いのほか早く届いた。午後の陽がまだ高い位置にある頃、彼女は静かにアランのもとへ近づき、小さな紙片を手渡した。
「聖マンゴ魔法疾患傷害病院の第三病棟、個室です」
その文字を見つめながら、アランの胸は激しく鼓動した。ついに、アリスの居場所が分かった。あとは向かうだけ――。
時計を見上げる。まだ陽は高く、夜までには十分に時間がある。レギュラスが任務から戻るのは夕刻過ぎ。それまでに帰ってくれば、気づかれることはないだろう。
「少しだけ……様子を見るだけでいい」
心の中でそう呟きながら、アランは決意を固めた。あの子に会いたい。ほんの少しでもいいから、アリスの無事を確かめたい。その想いが、すべての躊躇を押し流していた。
「アラン様」
エメリンドが優しく声をかける。
「レギュラス様には、黙っておきますわ」
その言葉に、アランは深く頭を下げた。
「ありがとう、エメリンド。本当に……感謝しています」
アランの声には、心からの感謝が込められていた。彼女の善意に、こんなにも助けられるとは思わなかった。エメリンドという人は、思っていた以上に心優しい女性なのだと、アランは素直にそう思った。
寝室に戻り、アランは急いで身支度を整えた。あまり目立たない、落ち着いた色のローブを選び、髪をまとめて簡素な帽子をかぶる。鏡に映る自分の顔は、少し青ざめているが、瞳には確かな決意が宿っていた。
玄関へ向かう足音が、静寂の屋敷に響く。扉の前で一度振り返ると、エメリンドが廊下の奥から静かに見送ってくれていた。
「気をつけて」
エメリンドの唇が、そう形作っているのが見えた。アランは小さく頷き、扉を開けた。
外の空気は涼しく、頬を撫でる風が心地よい。馬車の用意はできている。御者が丁寧に扉を開けてくれると、アランは深く息を吸い込んでから車内に足を踏み入れた。
「聖マンゴ魔法疾患傷害病院まで」
御者が頷き、馬車がゆっくりと動き出した。屋敷が遠ざかっていく中、窓から見えるエメリンドの姿が小さくなっていく。彼女は最後まで、静かに手を振って見送ってくれていた。
アランは座席に深く腰を下ろし、胸に手を当てた。心臓の鼓動が早い。不安と期待が入り混じった複雑な感情が、胸の奥で渦巻いている。
アリス……
馬車が石畳を進む音に合わせて、彼女の名前を心の中で繰り返した。もうすぐ会える。あの輝くような笑顔を、もう一度見ることができる。
屋敷の庭を抜け、門を出て、馬車は病院への道を急いだ。後ろを振り返ることなく、アランは愛しい少女のもとへと向かっていった。
一方、屋敷に残ったエメリンドは、馬車が完全に見えなくなるまで窓辺に立っていた。その唇に浮かぶのは、満足そうな微笑み。
「さあ、どうなることやら」
静かな呟きが、午後の静寂に溶けていった。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院の廊下には、薬草の香りと静寂が漂っていた。アランは第三病棟へと続く階段を上りながら、胸の鼓動が次第に激しくなるのを感じていた。個室の扉の前で一度深呼吸をし、そっとノックをする。
「どうぞ」
聞き慣れた、でも以前より少し大人びた声が中から響いた。扉を開けると、白いベッドの上に腰を上げたアリスの姿があった。
「アランさん……」
アリスの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、涙がほろほろと頬を伝い始めた。アランもまた、胸がいっぱいになって言葉が出てこない。
「アリス……」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。あの小さかった少女が、こんなにも美しく、気高く成長している。包帯が巻かれた腕を見ると胸が痛んだが、それでも彼女が生きて、こうして微笑んでくれていることに、心の底から安堵した。
「よかったわ、本当に……」
アランはベッドサイドの椅子に腰を下ろし、アリスの手をそっと握った。その手は以前より大きく、しっかりとしていたが、温もりは変わらずにそこにあった。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」アリスが小さく呟く。「でも、アランさんに会えて……本当に嬉しいです」
二人は暫くの間、ただ手を握り合ったまま、再会の喜びを静かに味わっていた。時が止まったような、穏やかな時間が流れる。
その時、扉がもう一度、軽くノックされた。
「入るぞ」
聞き慣れた、けれど長い間聞くことのなかった声が響いた。アランの心臓が一瞬止まりそうになる。扉が開くと、そこにはシリウス・ブラックが立っていた。
彼もまた、病室にアランがいることに驚いたようだった。一瞬、時が止まる。
「アラン……」
シリウスの声は、昔と変わらず温かく、そして少し震えていた。
アランは立ち上がることもできずに、ただその場に座り込んだまま、愛した人の顔を見つめていた。胸が大きく跳ね、涙が一気に溢れ出した。
まさか会えるなんて。
思いもしなかった。
長い年月が一瞬で巻き戻されるような感覚に襲われ、アランの身体は震えていた。シリウスもまた、扉の傍に立ったまま動けずにいる。
「お二人とも……」
アリスが静かに口を開いた。
「久しぶりの再会ですものね」
その言葉で、ようやく空気が動いた。シリウスがゆっくりと歩を進め、もう一つの椅子に腰を下ろす。小さな個室に、三人の静かな呼吸だけが響いていた。
「元気だったか」シリウスが最初に口を開いた。
「ええ……おかげさまで」アランは涙を拭いながら答えた。
言葉が続かない。言いたいことは山ほどあるのに、どこから話していいのか分からなかった。
アリスが二人の様子を見守りながら、そっと微笑んだ。
「アランさんは、私のことをとても心配してくださって。新聞を見て、すぐに会いに来てくださったんです」
「そうだったのか」
シリウスの瞳に、温かな光が宿った。
「ありがとう、アラン」
その感謝の言葉に、アランの胸はまた新たな涙で満たされた。
「当然のことよ。あなたが……あなたが大切に育ててくれた子だもの」
小さな個室の中で、過去と現在が静かに交差していた。言葉にできない想いが空気を満たし、三人はそれぞれの記憶の中を泳いでいた。
窓から差し込む午後の光が、ベッドサイドを優しく照らしている。時間がゆっくりと流れ、この瞬間が永遠に続けばいいのにと、アランは心の底から願った。
愛した人がそこにいる。彼が守り育てた少女が元気でいる。
それだけで、今この瞬間は完璧だった。
病院の個室でアリスの無事を確認し、短い会話を交わした後、シリウスは静かにアランに声をかけた。
「少し外の空気を吸わないか?」
アリスは理解するように微笑み、
「どうぞ、お二人でゆっくりと」と優しく促した。
病室を出た二人は、自然と病院の外へ足を向けた。
「実は、近くに安全な場所があるんだ」シリウスが振り返る。
アランは迷わず頷いた。
きっとお互いに心の奥で、二人だけの時間を切望していた。
石造りの古い建物の奥まった一室。暖炉の炎が壁に柔らかな光を投げかけ、外の喧騒を遮る静寂が二人を包んでいた。シリウスは扉を閉めると、深く息を吐いた。
「アラン……」
彼の声には、長い間抑え込んできた感情が滲んでいた。アルタイルから聞いていた話が頭をよぎる。セレナを産んでから体調を崩し、以前にも増して弱々しくなったという母の姿。それがどれほど彼を心配させていたか。
目の前にいるアランは、確かに以前より細くなっていた。頬の線も少し鋭く、どこか儚げな印象を受ける。それでも、その美しさは少しも損なわれていない。むしろ、離れていた時間の分だけ、愛しさが一層強く込み上げてくる。
「会いたかったんだ、アラン」
シリウスが一歩近づくと、アランの瞳に涙が浮かんだ。
「私も……ずっと、ずっと会いたかった」
その声は震えていた。積もり積もった想いが、一気に溢れ出そうとしている。シリウスはそっと彼女の手を取り、自分の胸に引き寄せた。
アランの涙がほろほろと頬を伝い落ちる。それは悲しみの涙ではなく、長い間我慢してきた想いが解放される安堵の涙だった。暖炉の光に照らされたその涙粒は、まるで真珠のように美しく輝いて見えた。
「泣くなよ」シリウスが優しく彼女の涙を拭う。
「おまえが泣くと、おれまで……」
「ごめんなさい。でも、嬉しくて……こうしてあなたに会えて、本当に嬉しくて」
アランは小さく笑いながら、さらに涙を流した。その表情には、痛みと喜びが複雑に入り混じっている。
シリウスは彼女の髪にそっと触れ、額に軽くキスを落とした。
「俺もだよ、アラン。君に会えて……こうして触れられて……夢のようだ」
二人は暖炉の前で静かに抱き合い、長い間失われていた時間を取り戻すように、ただその温もりを確かめ合った。
外では風が木々を揺らし、遠くで鐘の音が響いている。しかし、この小さな部屋の中では、時が止まったような静寂と愛だけが存在していた。
暖炉の灯がふたりの影を壁に踊らせる隠れ家の小室で、シリウスは静かに語り始めた。
会えなかった日々のこと、取り戻せなかった時間のこと、胸に秘めていた想いをひとつひとつ言葉にして紡いでいく。
