4章
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屋敷の門をくぐると、使用人が慌てたように近づいてきた。
「奥様がお呼びです。お二人揃ってお越しくださいとのことでございます」
長い一日を終えた疲労が、アランの肩にずっしりと重くのしかかっていた。
レギュラスは、彼女の様子を見て眉をひそめる。
「疲れているので、また明日にしてもらえませんか」
だが、使用人は困ったような表情で首を振った。
「大切なお話とのことで……この家の未来についてのお話だと」
ヴァルブルガの言葉を伝えられ、レギュラスはため息が出そうになった。
一方、アランは疲れを押し隠すように背筋を正し、
「すぐに伺います、とお伝えください」
と、しっかりとした声で答えた。
その返事に、使用人は満足げに頷いて去っていく。
「無理はしなくて結構です。僕だけが行ってきますから」
レギュラスは心配そうにアランを見つめた。
「二人揃ってということですから、そういうわけにはいきませんわ」
アランは小さく微笑んで、彼の腕にそっと手を添えた。
ヴァルブルガの部屋に向かうと、そこにはオリオン・ブラックの姿もあった。
家長の威厳を纏った彼の存在に、レギュラスは自然と背筋が伸びる。
重厚な革張りの椅子に腰を下ろしたヴァルブルガが、ゆっくりと口を開いた。
「アルタイルの縁談を、決めようと思いまして」
その言葉に、レギュラスは内心で小さく頷いた。
なんとなく、そろそろそんな話が来るのではないかと予想していた。
むしろ、遅いくらいだった。
名門ブラック家の跡取りとして、アルタイルもいずれは結婚という責務を負わなければならない。
アランは静かに膝の上で手を組み、ヴァルブルガの言葉を待った。
疲労で頬がやや青白くなっているが、それでも母親としての責任感で姿勢を崩さずにいる。
「どちらの令嬢をお考えでしょうか」
レギュラスが落ち着いた声で問いかけた。
夜の静寂の中、家族の未来を決める重要な話し合いが、静かに始まろうとしていた。
ヴァルブルガが静かに口を開き、縁談に挙げられた名だたる家の令嬢たちが幾人か列挙されていく。
「カウンタック家のサブリナ嬢、レインズフォード家のイザベラ嬢、そしてドレイク家のエリザベス嬢――」
アランはその声を遠くで聞いているようだった。
頭がぼんやりとして、次々と名前が流れていく。
自分が今どこにいるのか、何を聞いているのかがふっと薄らいでしまう。
その瞬間、意識の中に鮮明な記憶が蘇る。
幼い日の自分。
家の決めた婚姻が、自分の意思をも押し流す運命のように立ち塞がっていたあの時代。
子供でありながら、抗いたいという気持ちが確かにあった。
けれど声を上げられず、静かに滝のように流れ去っていくだけの運命。
シリウスでなければならなかった。
それ以外、考えられなかった。
今、その思いが心の奥底から悲鳴をあげるのを感じた。
まるで過去の少女が再び叫んでいるかのように。
レギュラスの顔を見やる。
彼は、冷静に、縁談に並べられた令嬢の名前を噛みしめているかのようにじっと考えていた。
相応しい選択肢を探しているのだろう。
その表情は静かにして厳かで、
どこか遠くの場所を見ているようだった。
そしてふと思う。
「ああ、この人と自分は、根底にある想いが、
深く、まるで違うのだな」
どれだけ長い年月、互いに夫婦として生きてきても。
幾重にも重ねてきた日々を経ても。
重なり合わない断面、語り合わぬ深い溝がここにある。
切なさが、胸の中にひっそりと広がった。
アランはただ佇み、静かに息をついた。
その唇がわずかに震えたが、言葉にはならなかった。
胸の隅に落ちた重い想いを抱きしめるように、
そっと指先を組み合わせながら。
家族という枠の中で生きる者たちの痛みを、
永遠に消せぬ孤独を、
この瞬間にだけは、ひとり静かに感じていた。
ヴァルブルガの部屋に並ぶ名だたる令嬢たちの名前が静かに消える中、アランの表情がふと固まった。
翡翠の瞳には、緊張と責任の色が滲んでいる。
縁談の中心にいるのは、確かにアルタイルだ。
しかしその母として――この家の未来を左右しかねない決定に、
アランの想いは何よりも大きな重みを持つはずだった。
レギュラスは深く息を吸い込み、
穏やかな声だけを選びながら、彼女に問いかけた。
「アラン、あなたは……どう思いますか?」
その一言に、室内の空気が緊張に包まれた。
アランはしばらく黙り込んだ。
まるで内なる声を探しているかのように、目端をそっと伏せる。
やがて口元を引き結び、静かに答えた。
「……お任せいたします」
その声には、従順というより、諦めの色が滲んでいた。
長く共に歩んできた夫の探るような眼差しを受けて、
アランの胸にはきっと言いたいことがいくつもあったのだろう。
けれど、言葉はそこに留まり、静かな揺らぎだけが残された。
レギュラスは微かに眉を寄せた。
互いの呼吸だけが重く混じり合う中で、
彼女の手がかすかに震えるのを、
夫として、そして長年の伴侶として、確かに感じ取っていた。
夜の静寂が寝室を包む中、レギュラスはゆっくりとアランの方へ体を向けた。 月明かりに照らされた彼女の横顔には、まだ問いかけの余韻が浮かんでいる。
「何か思うことがあるなら、教えてください」 そう言って、鋭くも優しい視線を向ける。
アランは一瞬だけ目を閉じ、息を吐いた。 瞳を開けると、その声は短く、冷たく否定にもにた響きを帯びていた。
「ないわ。何も」
その一言に、レギュラスは静かに首を振る。 深い諦観の影が、ほんの一瞬だけ彼の表情を曇らせた。
「婚姻は、当人同士の意志よりも――家の決定が重視されるものです。昔から、当たり前のことですから」
まるで自身に言い聞かせるかのように、レギュラスは淡々と続けた。 確かに、レギュラス自身も、希望どおりにアランとの婚姻を勝ち取れた――その幸福を深く噛みしめていた。 愛し抜ける相手を妻に迎えられたことは、自分の生涯最大の誇りだったから。
「願わくば、アルタイルも――」 父として、息子にも同じ幸運を与えたい。 「――そんな人を伴侶に選べたら」と、密かな思いを胸に抱いているのだと。 けれど、
それが自由に恋愛し、自由に未来を掴むことを許すわけではない。 家の決定が、道筋を定める世界なのだから。
レギュラスは視線をそらし、思いを整理するように肩の力を緩めた。 アランはその様子を静かに見つめ、やがて小さく瞳を伏せた。 息子の婚姻話に、必ずしも意志が反映されないことを―― アラン自身が無念に思っているのを、レギュラスはすでに見抜いていた。
その気持ちを思うと、胸の奥がずしりと重く疼く。 互いの愛情と家の掟が交錯する、この夜の静寂の中で、 二人はそれぞれの思いを、言葉にならぬまま抱きしめていた。
屋敷の扉がゆっくりと開いた。冬の名残を感じさせる冷たい風が廊下をすっと撫でたが、そのあとから暖かな気配が流れ込んできた。アルタイルとセレナが、ホグワーツの制服を身にまとったまま、まっすぐ玄関ホールを歩いてくる。
応接間の奥、窓辺に置かれた深紅の肘掛け椅子に腰掛けていたアランは、小さく息を呑んだ。
子供たちの姿は、まるで冬枯れの庭に差す春の陽光のようだった。
「母さん、戻りました」
ゆったりとした声が空気を震わせた。まだ幼いながらも、堂々たる佇まいで言葉を発するアルタイル。その声に、セレナの緩やかな笑みが添えられた。
アランの唇が、ふと柔らかくほころぶ。
「ええ、おかえりなさい、二人とも」
その一言を紡ぐまでに、心のうちでは幾度も、幾夜も、この場面を繰り返し思い描いていた。それでも、実際に目の前に立つわが子の姿は、想像よりも遥かに鮮やかで、何よりも温かかった。
アランの体調は決して良くなかった。発作の頻度が増え、しばしば寝台から起き上がることすらままならない日もある。それでも、今日だけは、ソファまで這うようにして来た。そして、玄関が開く音を耳にするまでのあいだ、手のひらで胸を押さえて、静かに息を整えていたのだ。
「帰ってきてくれてありがとう」と、アランがそっと続ける。
セレナがすぐに駆け寄ってきた。目に光を浮かべてアランの手をとる。母の手はいつもより細くて冷たい気がした。けれど、そこに確かに感じる脈が、彼女を安心させた。
「本当は駅まで迎えに行きたかったのだけど……ごめんなさいね」
アランの声は少しかすれていたが、その響きには深い愛情があった。
「無理しないで、母さん」
アルタイルが母の手を片方から包み込むように添えた。
「ここに帰ってこられて、嬉しいよ」
屋敷の大きな古時計が、静かに時を告げる。
アランの目には、わずかに涙が浮かんでいた。
でもそれは、悲しみではなかった。
久しぶりに家が賑わっている――。
その事実だけで、吐息のひとつひとつが、随分と楽になっていくような気がした。
そして、何もかもが静かに、確かに、美しく満ちていく。
子らの笑い声が廊下に響いたそのとき、アランはそっと目を閉じた。
春の訪れに似た、安堵の微笑みを浮かべたまま。
夜も更け、屋敷は深い静寂に包まれていた。ひときわ重厚な扉の向こう、書斎の窓辺には銀の月明かりが差し込んでいる。暖炉の炎が時折はぜる音だけが、静寂をゆるやかに満たしている。
レギュラスは、くたびれた背凭れ椅子から身を起こし、デカンタからグラスに琥珀の液体をそそいだ。蒸留香が立つその傍ら、すでに応接椅子に腰かけていたアルタイルが、父の所作を一つ一つ静かに見つめていた。
まだ若いながらも凛としたその姿は、どこかレギュラス自身の若き日の影を思わせた。
「アルタイル、」
レギュラスは低く、だがどこか柔らかい声で口を開いた。
「早いと思うかもしれませんが……お前に、縁談の話が来ています。」
息子の黒曜石のような瞳が、まっすぐに父を見つめた。少しの間をおいて、彼は静かに答えた。
「はい、わかっています。」
その返答に、レギュラスの胸がわずかに締め付けられる。この子は、昔から従順すぎるほどで、反発と呼べるものを一度も見せたことがなかった。けれどそれは、心から従っているのではなく、求められる姿であろうとする努力の現れであることを、レギュラスは知っていた。
「アランが……少し、心配しているようです」
重ねた言葉はどこかぎこちない。
「お前が望まぬ結婚を強いられるのではないかと。」
暖炉の炎をじっと見つめたまま、アルタイルは微かに微笑んだ。
「きっと努力次第で、お相手の方を尊重して、愛していけるようになれるはずです。だから……僕は、どんな令嬢と決まっても、平気です。」
その言葉には、誇張も否定もなかった。ただ淡々と、受け入れる覚悟がにじんでいた。それが返ってレギュラスの胸を深く打った。
この子は、あまりにも早く“息子”ではなく“跡取り”に育ってしまった。
年相応の子供らしさを知る余裕もないまま、家の空気が、責任が、彼を大人にさせたのだろう。
書斎の空気がしんと張り詰めた。
ブラック家に生まれた以上、この純血の名を継ぐという重さから逃れることはできない。ましてや、いまや唯一の男子として、アルタイル一人にすべてがかかっている。セレナがどれほど秀でていても、この時代の魔法界がそれを受け容れるには、まだ遠い。
レギュラスはグラスを置き、ゆっくりと手を差し伸べた。アルタイルの肩に静かに置かれた掌には、言葉にならぬ思いが乗っていた。それは感謝でもあり、痛みでもあり、何よりも不器用な父としての愛情だった。
アルタイルはそれを黙って受け入れた。ただ、小さく目を伏せたその横顔が、ほんの少しだけ揺れて見えた。
書斎に、また静寂が戻る。
その夜、父と息子は言葉少なに月を眺めた。
それは、痛みを伴った約束のようなひとときだった。
夜が深くなり、屋敷の灯りもほとんどが落ち、静寂に包まれる。夫婦の寝室には、重く厚いカーテンの隙間からわずかに月光が差し込んでいた。カーテン越しの光が、室内の彫刻や家具の輪郭をやわらかく浮かび上がらせる。
ベッドの端に腰を下ろしたレギュラスは、背後に静かに横たわるアランを見つめていた。本来であれば、子どもたちの帰宅は喜びに満ちた夜となるはずだった。だが、アランの表情は――どこか、その晴れやかさから少しだけ遠ざかっている。
あの人は気づいている。
そう、レギュラスは確信していた。
先ほど書斎で、息子に縁談の話を告げた。何も伝えてはいない。けれど、アランはきっともうすべてを察しているのだろう。この人は、沈黙の奥にあるものをいつも驚くほど鋭く見抜く。
「アラン……」
レギュラスの声は、ふいに落ち着いた夜気を裂いた。
「アルタイルに話しました。――縁談の件を。」
しばらく間があった。
そのあとで、アランはゆっくりと顔を向け、抑えた声でこう言った。
「ええ。」
それは抗いもせず、賛成もしない。ただ、すべてを包み込むような静かな同意だった。その柔らかさが、レギュラスを少しだけ傷つけた。
ベッドの中央に横たわり、肩をそっと布団に沈めるアランは、まるで遠い海辺にいるようだった。体調のせいもあるのだろうが、その表情の奥にある翳りは、ただの疲労とはまた違って見えた。
レギュラスはその距離にふと息を呑んだ。
そっと手を伸ばし、アランの腕を引く。白磁のような肌のなかに、脆くも消えてしまいそうな温かさが残っている。どんなに慎重に触れても、傷つけてしまいそうに思えるほど繊細なその感触に、彼は鼓動を深く打った。
「大丈夫です」
囁くように、そして自分にも言い聞かせるように言葉を続ける。
「アルタイルは……きっと、必ず幸せになります。」
声にこめたのは希望であり、願いであり――そして後悔でもあった。自分たちは何をもって”幸せ”と呼んできたのだろう。その定義に息子を巻き込んでしまっていないか、その問いが、心にわずかなひびを入れる。
しかし、アランは――何も答えなかった。
ただ、長い睫毛の陰に瞳を伏せたまま、レギュラスの手の温もりを黙って受け入れていた。
その沈黙は拒絶ではなかった。けれど許容でもなかった。
深くて、透明で、どこまでも穏やかに哀しかった。
書斎では交わされなかった感情が、ここで初めて開かれているようだった。
互いに触れて、重ねられない想いを知る——そういう夜だった。
そしてその夜、二人のあいだには声よりも深い対話が流れていた。
言葉では近づけないものに、ただ手を伸ばすようにして。
陽の光がやわらかに降りそそぐ午後、庭園の風は心地よく、薔薇の茂みを揺らしていた。芝生の上に立ち、水をふくんだ緑の香りの中で、アランは息子と並んで歩いていた。アルタイルが普段より少しだけ声を潜めて語り出したのは、ちょうど石造りの噴水のそばに立ち止まったときのことだった。
「……シリウスおじさまが、防衛術の課外授業を担当してくれているんですよ」
その名が落とされた瞬間、アランの胸の奥で何かが微かに震えた。けれど、表の顔には何ひとつ変化を浮かべなかった。
アルタイルの声はどこか慎重で、周囲に気遣うような響きを帯びていた。その慎ましさは、何よりも息子の聡さを物語っていた。シリウス・ブラック――この屋敷でその名を気軽に口にすることが、いかに繊細なことか。アルタイルは、その空気を敏感に読み取っている。
アランはふと、晴れた空を見上げるような面持ちで、目を細めた。
かつて燃えるように、命が灼けるように愛した人。その名を、その記憶を、もう長いこと深く、深く胸の奥にしまい込んでいた。
だが、忘れたことなど一度もなかった。
むしろ、心の奥底で反響し続けるその存在に、今もなお静かに身を焦がされていた。
「あの人が……子どもたちを教えてくれているのね……」
言葉に出すことはなかった。だが、その思いは確かに胸の中で揺れていた。
アルタイルは続ける。
「シリウスの授業は……本当に楽しいんです。魔法の使い方だけじゃなくて、もっとこう、世界の見方が変わるような――そんな感じで」
そう語る息子の瞳は、晴れた青空のように澄んでいて、まるでかつてアランが心を奪われたあの人の眼差しと重なるようだった。
その無邪気なまなざしを見つめながら、胸がすっと切なくなる。
それは痛みでもあり、ある種の癒やしでもあった。
アルタイルを初めて腕に抱いたあの日のことが、ふいに蘇る。
温かく、小さく、壊れそうな体を胸に抱きながら、ふと思ったのだ。
――この子を、いつかシリウスが腕に抱いてくれる日は来るのだろうか。
そんなのはきっと、叶わぬ幻想でしかない。けれどその日の自分は、どうしてもその未来をふと思い描かずにはいられなかった。
息子の言葉に微笑みを返しながら、アランはほんの僅かにまぶたを伏せた。
それでも、こうして話せていることに――少しだけ、感謝をした。
すべてを告げる必要はない。ただ静かに知っている、それだけでいい。
アランは穏やかな声で尋ねた。
「その授業で、一番心に残っているのは……どんなことだった?」
アルタイルが目を輝かせて語る声を聞きながら、アランの心にはまた一つ、昔の記憶がそっと降り積もっていく。
風に揺れる木漏れ日のように。言葉にならない想いの名残とともに。
午後の陽が傾き、庭の影が長く伸び始めたころ。アランはテラスの藤のアーチの下に腰を下ろし、編み椅子に身を委ねていた。ゆるやかな風が頬を撫で、遠くでセレナの笑い声がかすかに響く。
その傍らに立つアルタイルは、少し迷いながらも話を切り出した。
「……母さん、実はシリウスおじさまの授業で、学期末前に小さな冒険に駆り出させられて…」
アランがふと顔を上げる。目を細めて、微笑むでも、叱るでもなく、たたえているような表情で。
「森の奥にある古い詠唱の遺跡を探す、っていう内容だったんです。許可の範囲内で、危なくないやつですけど……すごく面白くって。」
気づけば、言葉が自然にこぼれ出ていた。語るうちに、あの時に感じた胸の高鳴り、仲間と駆けた風の匂い、夜明け前の冷たい霧の中に見た魔女の碑文が、生き生きと目の前に蘇ってきた。思い出をなぞるように、アルタイルの声音は少しずつ弾みを帯びる。
アランはそっと頬を緩め、微かにうなずいた。
けれどその眼差しは、どこか遠くを見ているようでもあった。
アルタイルはふと、言えなかった言葉を濁すように声を潜めた。
――実は、母の様子を見て来てほしいと頼まれていたこと。ホグワーツを発つ前、シリウスが、誰にも聞かれぬよう静かにそう言った。
「アランは元気にやっているだろうか……アルタイル、君ならきっと気づいてくれると思って」
その頼みが、胸の中にずっと残っていた。
けれど、今日も。実際に目にした母の姿を見て――やはり「元気」とは言い切れないのかもしれない、そうアルタイルは思った。
吐息を一つ、胸の深くで仕舞い込む。
母は笑ってくれた。話を聞き、うなずき、時に懐かしさを滲ませてくれた。
でも、その笑みに影が混じっていることを、アルタイルは見逃せなかった。
とくにセレナを生んだあとの数年、母の体は少しずつ沈んでゆくようだった。
静かで、哀しいほどにゆっくりと。
まるで音もなく冷たくなる水のように――じわじわと、でも確実に。
それを一度、シリウスに話した日のことを思い出す。
彼は、何も言わず、ただ目を伏せた。
表情に浮かんだのは、寂しさを超えた深い、深い痛みだった。苦悩に満ちた黙考の面差し。
アルタイルには、そこに何か、自分が知らない過去のひと欠片を見た気がした。
「……でもね」
ふと、アランが呟いた。まるで今の思考に応答するかのように。
「あの人が、子どもたちに良い先生でいてくれているなら……嬉しいことよ。ほんとうに。」
アルタイルはそっとうなずいた。
何もかもを語る必要はない。
言葉にしなくても、母はすでに感じ取っていたのかもしれない。
この傷つきやすい、でもたしかな絆の中で――、ただ、昼下がりのやさしい風が二人の沈黙をやわらかく包んでいた。
日が傾き始めたころ、ひとり寝室に戻ったアランは、窓辺の椅子に静かに腰を下ろしていた。
レースのカーテンがわずかに揺れ、柔らかな金の光が頬を撫でて過ぎていった。
庭の方では、セレナの小さな笑い声が風に溶けて遠のいてゆく。
けれど、アランの胸には今、別の音が鳴っていた。
それは、遠い昔に封じたはずの鼓動――シリウスと過ごした、青春の残響だった。
アルタイルが語った、シリウスの授業、冒険、それに満ちた無邪気な喜び。
目を輝かせて語る息子の笑顔を見たとき、胸の奥がじんわりと温かくなった。
……でも、そのあとに訪れたのは、決して隠しきれない、どうしようもない恋しさだった。
かつて愛した人。
命を賭してでも守りたいと思った人。
共に並ぶことを夢見ながら、果たせなかった時間。
思いは確かに胸の奥に綴じてあったはずだった。
子を産み、家族を築き、過去をようやく“過ぎたこと”として遠ざけることができたと思っていた。
なのに――
息子の言葉に、あの声が、眼差しが、笑い方が、まざまざと蘇ってくる。
アランは思わず、胸に手を当てた。
涙が滲みそうになるのを、強くまぶたを閉じて堪える。
——あの部屋に行きたい。
屋敷の奥まった一角、今は使われていないその書斎。
かつてシリウスが滞在していた部屋。
書棚には彼の筆跡が残る日記や書簡、少し傾いた椅子、好んで集めていた古書の香り。
そのすべてが、あの人の“気配”を抱いていた。
行きたい。いま、この想いを静かに抱くために、ただあの場所に佇んでいたい。
けれどアランは首を振った。
レギュラスが言ったのだ。
「もう、あの部屋には入らないでくれ」と。
控えめに、けれど決して揺るがない声音で、淡くもはっきりとそう告げた。
そしてアランは、頷いてしまったのだった。約束してしまった。
レギュラスにはきっと、あの部屋を“過去の封印”にしておきたい想いがあるのだろう。
家を、家族を守り、未来へと向かおうとする人の歩みを、アランは否定できなかった。
だが、理屈ではない。
葉が水を欲するように、胸の奥がどうしても、あの香り、あの空気、あの沈黙に触れたいと疼いてしまう。
もうあの場所には行けない。
わかっている。約束したのだから。
でも、それでも――心が求めてしまう。
アランは小さく息を吸った。
そのまま椅子に深くもたれ、窓の外を見つめる。淡く朱に染まった空を、羽ばたく鳥影がかすめていく。
その姿に、心の中の誰かと視線がすれ違うような感覚がした。
シリウス。
あなたを、忘れてなどいない。忘れられるはずなんてない。
けれど私はもう、あなたの部屋に入ることも、あなたの名を呼ぶことすらも、許されてはいないの。
その思いを誰にも打ち明けず、アランはそっと目を伏せた。
柔らかな影が部屋に落ちて、日暮れは静かに、少しずつ、静かに深くなっていった。
晩餐の時間、漆のように黒光りする長い食卓は、灯のやわらかな明滅に照らされていた。天井から垂れる錬鉄のシャンデリアが黄金の光をテーブルに落とし、食器やグラスにきらめきを湖面のように揺らめかせている。
今夜は、屋敷の空気がいつもより少しだけ賑やかだった。
久しぶりにそろった家族の食卓――。
アルタイルとセレナがホグワーツから帰ってきたことで、ふだんは静寂に包まれがちなこの場に、どこか柔らく心地よい喧騒が戻ってきていた。
その沈黙を破るのは、セレナだった。食器を置いた音と同時に、軽やかな声が食卓を跳ねた。
「お兄様、縁談が決まったんですってね?」
その無邪気な響きは、思いがけず空気を柔らげた。
触れぬことが礼儀とされる重たい話題さえ、セレナが口にすると、まるで朝の霧が晴れるみたいに、その重さを忘れてしまいそうになる。
「ええ。まだ、どなたとになるかは分かりませんが」と、アルタイルは静かに答える。
声に迷いはなかった。どこか大人びた落ち着きがあり、その佇まいが客間の令嬢たちの目を自然とひき付けていた。
セレナは、スープを置いたまま、にっと笑った。
「お母様みたいな、綺麗な人だといいわね」
その一言に、空気がふっとあたたかくなる。
アルタイルはまっすぐ母へと視線を向けた。
そしてはっきりと、けれど微かに照れをにじませながら、こう言った。
「……でも、母さんを超える人はいないでしょうね。」
一瞬、テーブルが次の言葉を持たずに静まった。
続いて、周囲に小さな笑い声が広がり、それが夜の空気をまた穏やかに波立たせた。
アランは、ナプキンを一度きゅっと指に巻きつけたまま、戸惑うように息を飲んだ。
けれど、すぐに目を細めて、静かに微笑んだ。
その微笑みには照れも誇らしさも、そしてなにより――慈しみが宿っていた。
「ありがとう、アルタイル」
言葉にはしなかったが、心の中でそう呟いた。
愛されている。
それだけの事実が、胸の奥に柔らかく降りてくる。
その夜の食卓は、金と薔薇と笑いに包まれていた。
そして、何よりも“家族”の温もりに優しく満たされていた。
午後の光が西の窓から差し込む居間。
午後のティーセットの温もりがまだ残る丸机には、ほんのりと花茶の香りが残っていた。
扉がかすかに軋みながら閉まると、部屋には二人だけの沈黙が降りる。
レギュラスは窓の外に視線を向けたまま、意を決したように口を開いた。
「……昼間、アルタイルと、何を話していたんです?」
声は穏やかだった。だが、わずかに低く、どこか探るような響きを帯びていた。
問いそのものはささやかな一言だった。けれど、その奥にある意図を読み取るには、アランには十分すぎるほどの沈黙があった。
アランはカップに口をつけることもせず、手のひらで持ち上げたまま、そのままそっと瞬きをした。
「どんな学校生活を送っているのか、そんな……他愛もないことよ」
返ってきたのは、柔らかくも空気に溶けてしまいそうなほどに軽い答えだった。
中身は空白に近かった。それはきっと、意図的な軽さだった。
その一言に、レギュラスの胸の奥がきりきりと軋む。
白々しい。
そう思ってしまう自分がいた。
けれど、その白々しさを責める資格はない。
自分だって、この問いを投げるまでに、いくつもの“ためらい”と“計算”を心の横に並べていた。
――なぜ、その質問を自分はしたのか?
それは、アルタイルが――『シリウスの話を』、母であるアランに伝えていないわけがないと、どこかで確信していたからだった。
そして、アランがそれを聞いたなら、何か――“懐かしさ以上の、もっと深く複雑な感情”を掬い上げてはいないだろうか。
その恐れに胸がざわめく。
自分の中に残る、どうしようもない劣等感と焦り。
それが“シリウスの名”を引き金にして、容易く蘇ってくることをレギュラスはよくわかっていた。
あの名が絡むと、自分はいつまでも、頼りない陰の役回りに逆戻りしてしまう。
アランの隣にずっといたのは、確かにこの自分なのに――それでも、なお。
「……そうですか」
ようやくの返答は、抑えた声で落とされた。
本当はもっと聞き出したい。
何を思ったのか、何を思い出したのか、本当はそれを知りたい。
けれどそれをひとつひとつ問うには、自分の心根があまりに浅ましすぎるのだ。
問い続ければ、アランの澄んだ眼差しに、自分の醜い感情が映し出されてしまうような気がして。
だから、これ以上何も訊けなかった。
アランはふと、湯気の消えかけたカップを両手で抱くように取り、静かに口元に運んだ。
その仕草は、まるで漂ってくる記憶ごと噛みしめるようだった。
それでも、目は決してレギュラスを見ていなかった。
見つめ合わない時間の間に、言葉にならなかった何かがそっと机の上に横たわっていた。
それは、ほんのりとした香りを残しながら、どちらからともなく数歩ずつ距離を重ねてゆく――
温かく、そしてどうしようもなく遠い、夫婦の間に流れる静かな川のようだった。
陽の柔らかな斜光が、庭を金色に染めていた。樹々の葉の隙間からこぼれる光が揺れ、緑の芝生がそっと輝いている。
アルタイルは、母のすぐそばに立ち、小さなフォーカス調整付きの魔法カメラを手にしていた。
アランはベンチに腰掛けていた。日向の中、漆黒の髪が光をまとって柔らかく揺れ、その横顔はどこか夢のような静けさをまとっていた。
「いきますよ、母さん」
そう告げると、アランはそのままゆっくりとこちらに顔を向け、
――ふっと花のように微笑んだ。
シャッターの魔法が走り、空気が一瞬、静かに波打つ。
撮られた魔法写真はすぐにふわりと浮かび上がり、動き出す。
笑うアラン、まばたきをし、袖口を整え、小さく首を傾けている。
その様子すべてが、アルタイルの心に深く刻まれていった。
――この写真を、シリウスに渡したい。
アルタイルはそう考えていた。母のことを、今も気にかけているそのひとに。
この笑顔を見せてあげられたなら、きっと、どんな言葉よりも多くを伝えられる。
そんな思いを胸に秘め、写真を手のひらに包んで静かに立ち上がろうとした時だった。
「……なんです?それ」
背後から、低く穏やかな、しかし確かな威厳を伴った声が届いた。
レギュラス。
父が、いつからそこに立っていたのか、まったくわからなかった。
その瞬間、心臓が一度大きく跳ねた。
息を吸う間も惜しんで、アルタイルの腕はほとんど反射的に動いていた。写真をきゅっと折りたたんで、ジャケットの内ポケットに滑り込ませる。
たとえば誰かがその様子を見ていたなら、不自然さを感じただろう。
けれど父の気配を前にすれば、本能はとっさに“隠す”と決めていた。
罪悪感があった。
アルタイルは父を――レギュラス・ブラックという男を心から尊敬していた。
いつも静かに、けれど確かにこの家族を守り、母を、誰よりも大切にしてきた人。
けれど、父の愛は、同時に――シリウスという存在との長き対立の道でもあったことを、アルタイルは知っている。
母を中心に巡ってきた過去。
その対立が、どれほど多くの言葉にできぬ感情を招いてきたか。
だから――
この写真を、父の知らぬところでシリウスに届けようとする自分の行為は、親を裏切るような痛みを伴っていた。
「ただ、母さんの写真を……」
そう言いかけて、声が少し揺れた。
なるべく当たり障りのない声音を作ろうとした。
レギュラスはそれ以上何も問わず、しばし息子の顔を静かに見つめていた。
その無言が、むしろ深く刺さる。
やがて、目を逸らすようにして父はそっと背を向けた。庭の向こう、風に揺れる藤棚の影へと。
その背中を見送ったあと、アルタイルは胸のポケットに手を当てた。
あたたかな魔法写真が、じんわりと肌を通して熱を伝えていた。
あの笑顔を、誰かに手渡したい。
それは愛でもあり、祈りにも似ている。
けれど同時に、それが父の心をほんの少し傷つけるものになるかもしれないという事実に、若い心は何とも言えない重さを覚えていた。
――風が吹いた。
木漏れ日がまた揺れ、小さな影を地に刻んでいく。
アルタイルは、遠ざかる父の背にただ静かに頭を垂れた。
その手の奥に、揺れている母の笑顔。
言葉にできない想いを胸に、そっとポケットを押さえたまま。
まだ朝靄の残る早朝の駅前。空気は冷たく澄んでおり、吐く息が白く立ちのぼる。ホグワーツ特急の黒鉄の車体は、まだ微かに霧を纏いながら静かに汽笛を鳴らしていた。
荷物が全て積み込まれ、乗車の刻が近づいている。
アルタイルとセレナは、いつもより少しだけ慎重に、ゆるやかに動いていた。ほんの数日の帰省だった。けれど、家に戻ったことで、家族という織物のあたたかさを深く知った。去ることが、その織物からふたたび糸を引き抜くような痛みに感じられたとしても、行かねばならない――それが、ホグワーツに生きる者の歩みだった。
「母さん、体に気をつけてくださいね」
アルタイルが、静かにそう声をかけると、アランの表情にかすかな波が広がった。
「ええ。あなたも風邪などひかないように」
言葉は穏やかだったけれど、アルタイルにはわかっていた。
その声音に忍ばせた寂しさも、痛ましいほどやさしい自制も。
だからこそ、息子は母の腕の中に、ためらいなく飛び込んだ。
アランの腕がふわりと彼の背に回される。その抱擁は、春先の陽だまりのようだった。
魔法をかけたわけでもないのに、温かく、香りさえ記憶に残る。
「あたたかくして寝ているのよ、ちゃんと」
そんなことはわかっているのに、言わずにはいられない。
「うん」
その一言ですべてに応えた。
横では、セレナが自信たっぷりに言った。
「わたし、また手紙を書くわ」
「僕もちゃんと書きます、きっと」と彼も続ける。
それからふっと視線を動かすと、そこには両親が立っていた。
母の腕を包むようにして、レギュラスがその肩越しにそっと手を添えていた。
その構図が、アルタイルの目には胸を締めつけるほど美しく映った。
まるで時が止まっているかのようだった。
だが同時に、それは確かに“時”を経た姿でもあった。
──父は、母を見つめ続けていた。
決して派手な感情ではない。けれど、何年劣化することもなく、深く静かに、ただひたむきに。
母の最も近くにいて、最も遠くの想いまで抱えてくれている存在。
その空気を、アルタイルは、小さく深く心に刻んだ。
どうしても、今、あの人に母の写真を渡したいと思った。
母を愛し続けてきた父と、かつて母に焦がれたあの人と――
それぞれの愛が交わらぬものでありながら、どこかで静かに繋がっているような、不思議な巡り。
――シリウスに見せたい。
母さんが、生きて笑っている写真を。
そして、その向こうにいる家族の今を。
汽笛が、もう一度鳴った。
別れの時だ。
制服の裾を風が揺らし、重ねた言葉がもう一度だけ繰り返される。
「母さん、ありがとう」
アランはただ笑って頷いた。
その笑顔の内側に、どれほどの感情が潜んでいたかを、息子はあえて読み取らなかった。
そして静かに列車へと歩き始めた。
妹と並んで、ホームを後にしながら、ジャケットの内ポケットに添えた手の平にそっと力を込める。
その中には、一つの想いと、一枚の光があった。
やがてそれが、長い時間を越えて、また誰かの心を動かすことを、願うように。
夜は屋敷の窓を冷たく叩いていた。秋の初めの風が石壁にしみ込むように吹きつけ、一層インクのように濃い静寂が広間に降りていた。
けれど、その静けさを真っ先に裂いたのは、ヴァルブルガ・ブラックの鋭い声だった。
「レギュラス、一体何を考えているのです」
まっすぐ立っているというのに、その声にはもはや誇りよりも、苛立ちと焦りが滲んでいた。
燃えるようなシルクのドレスは完璧な態度を守っていても、その目の奥には揺らぎがあった。
石造りの暖炉の前、レギュラスはただ静かに佇んでいた。
背筋は伸びていても、目元にはぬぐいきれない疲労の色。
「屋敷に招いた娘たち……あの令嬢たちは、なんのために存在していると思って?」
答えはない。
ヴァルブルガは自らの問いを遮るように、苛烈な舌調で続ける。
「あの女たち、エメリンドとエセルは、どちらも身分も能力も申し分ない血筋。あなたも……一応、試みたのでしょう?」
「一応、とは」
ようやく、レギュラスが言葉を返した。
その声音は冷えていて、けれどどこか壊れやすい薄氷のようでもあった。
「二人とも、一度きり……。それだけでは、どうにもならないでしょう。数ヶ月も経って、兆しひとつないではありませんか」
その言葉にうつむくことなく、レギュラスは目を伏せた。
苛立ち、焦燥、そして滲む非難。
それらすべてがまとわりつくようだった。
アルタイルは、まだ子をなすには幼い。
セレナは、女であるという時点で、この家の”血統”という論理から外されている。
――ならば、誰が血を継いでいくのか。
そう問われたとき、答えはただ一つ。
自分しかいない。
「あなたは、ブラック家の血統を背負う者。父がそうであったように、祖父がそうであったように」
「母さん……」
ようやくそう呼びかけて、レギュラスは一歩、ためらいがちに近寄る。
「わかっています。ただ……」
声が震えそうになるのを、ぎりぎりのところで押しとどめる。
「……僕はもう…… アラン以外を見ることができないのです」
その言葉は、石と炎の間にゆっくりと落ちた。
気持ちの問題ではない、そう思ってきた。
義務であるなら、果たそうと努めた。
エメリンドの髪に触れた夜、エセルの肩を抱いた夜――心を奮い立たせ、自分をどこかに閉じ込めることで身体だけは動かした。
だが、やはり。
それを”務め”としてしか行えないことの苦しさに、彼はとうに限界を感じていた。
アランの隣で笑う時間にさえ、どこか罪悪感が滲む。
それでもアランの指を握るだけで、「これでいい」と体が思ってしまう。
それが、どれだけの矛盾なのか、レギュラスには冷たいほど分かっていた。
「……母さんが言うことは、正しい。けれど……」
風のような声で続ける。
「どんな姿で子を増やしても、それが僕の足元を崩していくのなら、僕は家ではなく、ただ空虚を残してしまうだけです」
ヴァルブルガはその場に立ち尽くした。
表情はほとんど揺れなかったが、目に浮かぶ影はかすかな痛みをはらんでいた。
この息子は、誰よりも忠実に育った。
冷静で、計算に長け、魔法の才にも恵まれ、姓に恥じぬ者となった。けれど……
アランにだけは、不器用なほどまっすぐすぎた。
それが母として、ブラック家の主の妻として、許容できないという気持ちと、痛ましく理解できてしまうという気持ちが交錯する。
言葉はもう降りてこない。
代わりに、静寂だけが長く部屋に満ちていく。
レギュラスは、その場から視線をそらすように、ゆっくりと暖炉の前に背を向けた。
その背中が、どこか痛ましく、けれど凛としていた。
母の想い、家の命脈、過去の因縁、すべてを背負いながら、ただアランへの愛に抗えぬ男の姿が、燻んだ火光に照らされて静かに揺れていた。
夜の帳が寝室をやわらかく包み込んでいた。
ランプの灯りだけが、重たい絹張りの壁紙に細い金の影を描いていた。
窓は閉ざされ、外からの音も届かない。屋敷の眠りが始まるなかで、その部屋だけはまだ目を閉じていなかった。
レギュラスが扉を開けると、そこにアランがいた。
燭台の光に包まれ、ベッドの縁に静かに腰掛けて、手元の本を閉じるところだった。
その姿を目にしただけで、レギュラスの胸の中に波打っていた荒れ狂う感情が、少しずつ静かに洗い流されていくのを感じた。
あの激しい口論――母ヴァルブルガとの対峙のあとで、全身がくすぶるように疲弊していた。
血の義務、名の重圧、家の命脈。
正しさという名の鉄鎖に、自らを繋いでいたに等しい。
でも。
扉の向こうにアランがいる。それだけで、魂はまだ、落ちていないと感じられる。
「おかえりなさい、レギュラス」
それは、何でもない一言だったはずなのに、けれど、深く深く胸に染みた。
幾度聞いたかわからない声。
それでも、レギュラスはその言葉を聞くたびに心の底まで救われるような気がした。
彼はゆっくりと歩み寄り、アランの傍らに膝をつく。
手を取って、指先を重ねる。その指が今夜はひどく細く思えた。冷たいのではなく、光を透かすほどに繊細だった。
「…… アラン」
言い淀んだあと、ようやく絞り出すように続ける。
「考えたのですが……屋敷へ来ている令嬢たちを、全員、帰してしまおうかと……そう思っています」
沈黙が落ちた。
けれどアランは驚いた様子も見せずに、ただ静かに頷いた。
それが、返事だった。
血を繋がねばならない。
家の命を絶やしてはならない。
その理屈は痛いほどわかっていた。それがブラック家の宿命であり、王道だったから。
けれど、他の女の寝室に向かうたび、
アランが引き止めようとしないその沈黙が、むしろ一層、胸を裂いた。
泣かない、責めない、何も言わない――
その優しさが、ときに刃物のように鋭く、冷たく自らを刻んできた。
アランは何一つ拒まない。
拒まず、ただ受け入れてしまう。
だから遠く感じてしまう。だから壊したくなるほど、自分は惨めなのだ。
「……努力は、したつもりでした」
そう吐き出すように言って、思わず額をアランの膝へ伏せる。
「けれど、情けないくらいに、心がもう限界だったんです」
絹のような布地に顔を押しつけたまま、深く息を吐いた。涙ではない。
ただ、心の底が音も立てずにひどく痛んだ。
「母にも、説明は……できないでしょう。どうせ納得もされないでしょう……でももう、本当に苦しくて。息をしているだけで引き裂かれるようで……」
アランの手が、静かにレギュラスの髪に触れた。
告白でも懺悔でもなく、ただ疲れ果てた一人の男の声が、ようやく地に落ちた。
「アルタイルが――きっといつか、この家の血を継いでくれることを、ただ信じたいです。それだけで……責務から、心から……解放されるような気がして」
アランは何も言わなかった。
けれど、レギュラスの髪に添えた指先が、ほんの少しだけ震えていた。
目を閉じた彼の胸の奥で、薄い誓いのようなものが火種のように灯った。
誰の期待にも、歴史にも、未来にも従えない心が、いま、ただこの人のために痛みを訴えている。
そしてその夜、レギュラスは眠るまでアランの傍を離れなかった。
家のことも、血のことも、母の言葉も、すべてを遠くに置いて――ただ目を閉じた。
それはほんの短い静寂だったが、彼にとっては、息ができる唯一の夜だった。
薄紫の朝靄が屋敷の窓を覆っていた。秋の日差しはまだ弱く、寝室の重いカーテンの隙間からわずかに差し込む光も、どこか力を失っているようだった。
ベッドの中央で、アランは静かに横たわっていた。呼吸は浅く、時折苦しそうに眉をひそめる。頬は蝋のように白く、唇も血の気を失っていた。昨夜から続く発作は、彼女の細い体をさらに弱々しくさせていた。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、妻のそばで静かに見守っていた。手には、母ヴァルブルガから届いた手紙が握られている。開封もしないまま、しわになった紙片を握りしめ続けていた。
その手紙には、きっと同じことが書かれているのだろう。
屋敷にいる令嬢たちのこと。血筋を継ぐこと。家の未来のこと。
数日前レギュラスは母に向かって言おうとしていた。「屋敷にいる令嬢たちを、全員帰してほしい」と。
あの言葉を、喉元まで出かかっていた。エメリンドもエセルも、他の誰も――もう、この重荷から自分を解放してほしいと。
けれど、その時にアランが倒れた。
突然の発作に、レギュラスの心は全てを忘れた。医師を呼び、薬草師を呼び、何人もの治療師に診てもらった。誰もが同じことを言った。
「体力が著しく低下している。これ以上の妊娠は、命に関わる」
その宣告を聞いたとき、レギュラスの胸に冷たい現実が流れ込んだ。もう、アランが子を産むことはない。セレナの出産があれほど困難だったことを思えば、それは当然の結論だった。
手紙の中身を見なくても、オリオンとヴァルブルガの声が聞こえるようだった。
「弱った女を、いつまでそばに置き続けるつもりか」
「世継ぎを産む可能性もない妻に、何の意味がある」
「ブラック家の血筋を絶やすつもりか」
正論だった。魔法界の純血家系において、子を産めない妻を手放すことは珍しくない。むしろ、それは家を存続させるための冷徹な判断として称賛されることさえある。
でも、レギュラスにとって、アランは「世継ぎのための妻」ではなかった。
彼女の笑顔、彼女の涙、彼女の寝息、彼女の指先の温もり――それらすべてが、レギュラスの生きる理由そのものだった。
愛している。
その感情が、すべての理屈を超えて彼の心を支配していた。
窓の外で、庭師が落ち葉を掃いている音が聞こえた。秋は確実に深まり、やがて冬が来る。季節は巡り、時は過ぎていく。
ブラック家の血筋も、いつかは途絶える時が来るのかもしれない。先祖代々が命をかけて守り抜いてきた高貴な血統を、「愛」という名の感情のために絶やしてしまう――それは、許されざる背信行為なのかもしれない。
レギュラスは自問した。
自分は愚かなのか?
家族を、血統を、伝統を裏切っているのか?
だが、答えは出なかった。
アランの寝息が、小さく部屋に響く。その音だけが、レギュラスにとってのすべてだった。
彼は手紙を机の上に置き、そっとアランの手を取った。冷たくなった指先を、自分の掌で包み込む。
もしこれが愚かさなら、愚かでもいい。
もしこれが罪なら、罪を背負って生きよう。
そう心に決めながら、レギュラスは妻の回復を静かに祈り続けた。
屋敷の時計が、重く鐘を鳴らす。その音は、ブラック家の長い歴史を物語るようでもあり、同時に、一つの愛の終わりを告げるようでもあった。
秋の光が、ゆっくりと部屋から消えていく。残されたのは、一人の男と、一人の女と、そして言葉にできない深い愛だけだった。
「奥様がお呼びです。お二人揃ってお越しくださいとのことでございます」
長い一日を終えた疲労が、アランの肩にずっしりと重くのしかかっていた。
レギュラスは、彼女の様子を見て眉をひそめる。
「疲れているので、また明日にしてもらえませんか」
だが、使用人は困ったような表情で首を振った。
「大切なお話とのことで……この家の未来についてのお話だと」
ヴァルブルガの言葉を伝えられ、レギュラスはため息が出そうになった。
一方、アランは疲れを押し隠すように背筋を正し、
「すぐに伺います、とお伝えください」
と、しっかりとした声で答えた。
その返事に、使用人は満足げに頷いて去っていく。
「無理はしなくて結構です。僕だけが行ってきますから」
レギュラスは心配そうにアランを見つめた。
「二人揃ってということですから、そういうわけにはいきませんわ」
アランは小さく微笑んで、彼の腕にそっと手を添えた。
ヴァルブルガの部屋に向かうと、そこにはオリオン・ブラックの姿もあった。
家長の威厳を纏った彼の存在に、レギュラスは自然と背筋が伸びる。
重厚な革張りの椅子に腰を下ろしたヴァルブルガが、ゆっくりと口を開いた。
「アルタイルの縁談を、決めようと思いまして」
その言葉に、レギュラスは内心で小さく頷いた。
なんとなく、そろそろそんな話が来るのではないかと予想していた。
むしろ、遅いくらいだった。
名門ブラック家の跡取りとして、アルタイルもいずれは結婚という責務を負わなければならない。
アランは静かに膝の上で手を組み、ヴァルブルガの言葉を待った。
疲労で頬がやや青白くなっているが、それでも母親としての責任感で姿勢を崩さずにいる。
「どちらの令嬢をお考えでしょうか」
レギュラスが落ち着いた声で問いかけた。
夜の静寂の中、家族の未来を決める重要な話し合いが、静かに始まろうとしていた。
ヴァルブルガが静かに口を開き、縁談に挙げられた名だたる家の令嬢たちが幾人か列挙されていく。
「カウンタック家のサブリナ嬢、レインズフォード家のイザベラ嬢、そしてドレイク家のエリザベス嬢――」
アランはその声を遠くで聞いているようだった。
頭がぼんやりとして、次々と名前が流れていく。
自分が今どこにいるのか、何を聞いているのかがふっと薄らいでしまう。
その瞬間、意識の中に鮮明な記憶が蘇る。
幼い日の自分。
家の決めた婚姻が、自分の意思をも押し流す運命のように立ち塞がっていたあの時代。
子供でありながら、抗いたいという気持ちが確かにあった。
けれど声を上げられず、静かに滝のように流れ去っていくだけの運命。
シリウスでなければならなかった。
それ以外、考えられなかった。
今、その思いが心の奥底から悲鳴をあげるのを感じた。
まるで過去の少女が再び叫んでいるかのように。
レギュラスの顔を見やる。
彼は、冷静に、縁談に並べられた令嬢の名前を噛みしめているかのようにじっと考えていた。
相応しい選択肢を探しているのだろう。
その表情は静かにして厳かで、
どこか遠くの場所を見ているようだった。
そしてふと思う。
「ああ、この人と自分は、根底にある想いが、
深く、まるで違うのだな」
どれだけ長い年月、互いに夫婦として生きてきても。
幾重にも重ねてきた日々を経ても。
重なり合わない断面、語り合わぬ深い溝がここにある。
切なさが、胸の中にひっそりと広がった。
アランはただ佇み、静かに息をついた。
その唇がわずかに震えたが、言葉にはならなかった。
胸の隅に落ちた重い想いを抱きしめるように、
そっと指先を組み合わせながら。
家族という枠の中で生きる者たちの痛みを、
永遠に消せぬ孤独を、
この瞬間にだけは、ひとり静かに感じていた。
ヴァルブルガの部屋に並ぶ名だたる令嬢たちの名前が静かに消える中、アランの表情がふと固まった。
翡翠の瞳には、緊張と責任の色が滲んでいる。
縁談の中心にいるのは、確かにアルタイルだ。
しかしその母として――この家の未来を左右しかねない決定に、
アランの想いは何よりも大きな重みを持つはずだった。
レギュラスは深く息を吸い込み、
穏やかな声だけを選びながら、彼女に問いかけた。
「アラン、あなたは……どう思いますか?」
その一言に、室内の空気が緊張に包まれた。
アランはしばらく黙り込んだ。
まるで内なる声を探しているかのように、目端をそっと伏せる。
やがて口元を引き結び、静かに答えた。
「……お任せいたします」
その声には、従順というより、諦めの色が滲んでいた。
長く共に歩んできた夫の探るような眼差しを受けて、
アランの胸にはきっと言いたいことがいくつもあったのだろう。
けれど、言葉はそこに留まり、静かな揺らぎだけが残された。
レギュラスは微かに眉を寄せた。
互いの呼吸だけが重く混じり合う中で、
彼女の手がかすかに震えるのを、
夫として、そして長年の伴侶として、確かに感じ取っていた。
夜の静寂が寝室を包む中、レギュラスはゆっくりとアランの方へ体を向けた。 月明かりに照らされた彼女の横顔には、まだ問いかけの余韻が浮かんでいる。
「何か思うことがあるなら、教えてください」 そう言って、鋭くも優しい視線を向ける。
アランは一瞬だけ目を閉じ、息を吐いた。 瞳を開けると、その声は短く、冷たく否定にもにた響きを帯びていた。
「ないわ。何も」
その一言に、レギュラスは静かに首を振る。 深い諦観の影が、ほんの一瞬だけ彼の表情を曇らせた。
「婚姻は、当人同士の意志よりも――家の決定が重視されるものです。昔から、当たり前のことですから」
まるで自身に言い聞かせるかのように、レギュラスは淡々と続けた。 確かに、レギュラス自身も、希望どおりにアランとの婚姻を勝ち取れた――その幸福を深く噛みしめていた。 愛し抜ける相手を妻に迎えられたことは、自分の生涯最大の誇りだったから。
「願わくば、アルタイルも――」 父として、息子にも同じ幸運を与えたい。 「――そんな人を伴侶に選べたら」と、密かな思いを胸に抱いているのだと。 けれど、
それが自由に恋愛し、自由に未来を掴むことを許すわけではない。 家の決定が、道筋を定める世界なのだから。
レギュラスは視線をそらし、思いを整理するように肩の力を緩めた。 アランはその様子を静かに見つめ、やがて小さく瞳を伏せた。 息子の婚姻話に、必ずしも意志が反映されないことを―― アラン自身が無念に思っているのを、レギュラスはすでに見抜いていた。
その気持ちを思うと、胸の奥がずしりと重く疼く。 互いの愛情と家の掟が交錯する、この夜の静寂の中で、 二人はそれぞれの思いを、言葉にならぬまま抱きしめていた。
屋敷の扉がゆっくりと開いた。冬の名残を感じさせる冷たい風が廊下をすっと撫でたが、そのあとから暖かな気配が流れ込んできた。アルタイルとセレナが、ホグワーツの制服を身にまとったまま、まっすぐ玄関ホールを歩いてくる。
応接間の奥、窓辺に置かれた深紅の肘掛け椅子に腰掛けていたアランは、小さく息を呑んだ。
子供たちの姿は、まるで冬枯れの庭に差す春の陽光のようだった。
「母さん、戻りました」
ゆったりとした声が空気を震わせた。まだ幼いながらも、堂々たる佇まいで言葉を発するアルタイル。その声に、セレナの緩やかな笑みが添えられた。
アランの唇が、ふと柔らかくほころぶ。
「ええ、おかえりなさい、二人とも」
その一言を紡ぐまでに、心のうちでは幾度も、幾夜も、この場面を繰り返し思い描いていた。それでも、実際に目の前に立つわが子の姿は、想像よりも遥かに鮮やかで、何よりも温かかった。
アランの体調は決して良くなかった。発作の頻度が増え、しばしば寝台から起き上がることすらままならない日もある。それでも、今日だけは、ソファまで這うようにして来た。そして、玄関が開く音を耳にするまでのあいだ、手のひらで胸を押さえて、静かに息を整えていたのだ。
「帰ってきてくれてありがとう」と、アランがそっと続ける。
セレナがすぐに駆け寄ってきた。目に光を浮かべてアランの手をとる。母の手はいつもより細くて冷たい気がした。けれど、そこに確かに感じる脈が、彼女を安心させた。
「本当は駅まで迎えに行きたかったのだけど……ごめんなさいね」
アランの声は少しかすれていたが、その響きには深い愛情があった。
「無理しないで、母さん」
アルタイルが母の手を片方から包み込むように添えた。
「ここに帰ってこられて、嬉しいよ」
屋敷の大きな古時計が、静かに時を告げる。
アランの目には、わずかに涙が浮かんでいた。
でもそれは、悲しみではなかった。
久しぶりに家が賑わっている――。
その事実だけで、吐息のひとつひとつが、随分と楽になっていくような気がした。
そして、何もかもが静かに、確かに、美しく満ちていく。
子らの笑い声が廊下に響いたそのとき、アランはそっと目を閉じた。
春の訪れに似た、安堵の微笑みを浮かべたまま。
夜も更け、屋敷は深い静寂に包まれていた。ひときわ重厚な扉の向こう、書斎の窓辺には銀の月明かりが差し込んでいる。暖炉の炎が時折はぜる音だけが、静寂をゆるやかに満たしている。
レギュラスは、くたびれた背凭れ椅子から身を起こし、デカンタからグラスに琥珀の液体をそそいだ。蒸留香が立つその傍ら、すでに応接椅子に腰かけていたアルタイルが、父の所作を一つ一つ静かに見つめていた。
まだ若いながらも凛としたその姿は、どこかレギュラス自身の若き日の影を思わせた。
「アルタイル、」
レギュラスは低く、だがどこか柔らかい声で口を開いた。
「早いと思うかもしれませんが……お前に、縁談の話が来ています。」
息子の黒曜石のような瞳が、まっすぐに父を見つめた。少しの間をおいて、彼は静かに答えた。
「はい、わかっています。」
その返答に、レギュラスの胸がわずかに締め付けられる。この子は、昔から従順すぎるほどで、反発と呼べるものを一度も見せたことがなかった。けれどそれは、心から従っているのではなく、求められる姿であろうとする努力の現れであることを、レギュラスは知っていた。
「アランが……少し、心配しているようです」
重ねた言葉はどこかぎこちない。
「お前が望まぬ結婚を強いられるのではないかと。」
暖炉の炎をじっと見つめたまま、アルタイルは微かに微笑んだ。
「きっと努力次第で、お相手の方を尊重して、愛していけるようになれるはずです。だから……僕は、どんな令嬢と決まっても、平気です。」
その言葉には、誇張も否定もなかった。ただ淡々と、受け入れる覚悟がにじんでいた。それが返ってレギュラスの胸を深く打った。
この子は、あまりにも早く“息子”ではなく“跡取り”に育ってしまった。
年相応の子供らしさを知る余裕もないまま、家の空気が、責任が、彼を大人にさせたのだろう。
書斎の空気がしんと張り詰めた。
ブラック家に生まれた以上、この純血の名を継ぐという重さから逃れることはできない。ましてや、いまや唯一の男子として、アルタイル一人にすべてがかかっている。セレナがどれほど秀でていても、この時代の魔法界がそれを受け容れるには、まだ遠い。
レギュラスはグラスを置き、ゆっくりと手を差し伸べた。アルタイルの肩に静かに置かれた掌には、言葉にならぬ思いが乗っていた。それは感謝でもあり、痛みでもあり、何よりも不器用な父としての愛情だった。
アルタイルはそれを黙って受け入れた。ただ、小さく目を伏せたその横顔が、ほんの少しだけ揺れて見えた。
書斎に、また静寂が戻る。
その夜、父と息子は言葉少なに月を眺めた。
それは、痛みを伴った約束のようなひとときだった。
夜が深くなり、屋敷の灯りもほとんどが落ち、静寂に包まれる。夫婦の寝室には、重く厚いカーテンの隙間からわずかに月光が差し込んでいた。カーテン越しの光が、室内の彫刻や家具の輪郭をやわらかく浮かび上がらせる。
ベッドの端に腰を下ろしたレギュラスは、背後に静かに横たわるアランを見つめていた。本来であれば、子どもたちの帰宅は喜びに満ちた夜となるはずだった。だが、アランの表情は――どこか、その晴れやかさから少しだけ遠ざかっている。
あの人は気づいている。
そう、レギュラスは確信していた。
先ほど書斎で、息子に縁談の話を告げた。何も伝えてはいない。けれど、アランはきっともうすべてを察しているのだろう。この人は、沈黙の奥にあるものをいつも驚くほど鋭く見抜く。
「アラン……」
レギュラスの声は、ふいに落ち着いた夜気を裂いた。
「アルタイルに話しました。――縁談の件を。」
しばらく間があった。
そのあとで、アランはゆっくりと顔を向け、抑えた声でこう言った。
「ええ。」
それは抗いもせず、賛成もしない。ただ、すべてを包み込むような静かな同意だった。その柔らかさが、レギュラスを少しだけ傷つけた。
ベッドの中央に横たわり、肩をそっと布団に沈めるアランは、まるで遠い海辺にいるようだった。体調のせいもあるのだろうが、その表情の奥にある翳りは、ただの疲労とはまた違って見えた。
レギュラスはその距離にふと息を呑んだ。
そっと手を伸ばし、アランの腕を引く。白磁のような肌のなかに、脆くも消えてしまいそうな温かさが残っている。どんなに慎重に触れても、傷つけてしまいそうに思えるほど繊細なその感触に、彼は鼓動を深く打った。
「大丈夫です」
囁くように、そして自分にも言い聞かせるように言葉を続ける。
「アルタイルは……きっと、必ず幸せになります。」
声にこめたのは希望であり、願いであり――そして後悔でもあった。自分たちは何をもって”幸せ”と呼んできたのだろう。その定義に息子を巻き込んでしまっていないか、その問いが、心にわずかなひびを入れる。
しかし、アランは――何も答えなかった。
ただ、長い睫毛の陰に瞳を伏せたまま、レギュラスの手の温もりを黙って受け入れていた。
その沈黙は拒絶ではなかった。けれど許容でもなかった。
深くて、透明で、どこまでも穏やかに哀しかった。
書斎では交わされなかった感情が、ここで初めて開かれているようだった。
互いに触れて、重ねられない想いを知る——そういう夜だった。
そしてその夜、二人のあいだには声よりも深い対話が流れていた。
言葉では近づけないものに、ただ手を伸ばすようにして。
陽の光がやわらかに降りそそぐ午後、庭園の風は心地よく、薔薇の茂みを揺らしていた。芝生の上に立ち、水をふくんだ緑の香りの中で、アランは息子と並んで歩いていた。アルタイルが普段より少しだけ声を潜めて語り出したのは、ちょうど石造りの噴水のそばに立ち止まったときのことだった。
「……シリウスおじさまが、防衛術の課外授業を担当してくれているんですよ」
その名が落とされた瞬間、アランの胸の奥で何かが微かに震えた。けれど、表の顔には何ひとつ変化を浮かべなかった。
アルタイルの声はどこか慎重で、周囲に気遣うような響きを帯びていた。その慎ましさは、何よりも息子の聡さを物語っていた。シリウス・ブラック――この屋敷でその名を気軽に口にすることが、いかに繊細なことか。アルタイルは、その空気を敏感に読み取っている。
アランはふと、晴れた空を見上げるような面持ちで、目を細めた。
かつて燃えるように、命が灼けるように愛した人。その名を、その記憶を、もう長いこと深く、深く胸の奥にしまい込んでいた。
だが、忘れたことなど一度もなかった。
むしろ、心の奥底で反響し続けるその存在に、今もなお静かに身を焦がされていた。
「あの人が……子どもたちを教えてくれているのね……」
言葉に出すことはなかった。だが、その思いは確かに胸の中で揺れていた。
アルタイルは続ける。
「シリウスの授業は……本当に楽しいんです。魔法の使い方だけじゃなくて、もっとこう、世界の見方が変わるような――そんな感じで」
そう語る息子の瞳は、晴れた青空のように澄んでいて、まるでかつてアランが心を奪われたあの人の眼差しと重なるようだった。
その無邪気なまなざしを見つめながら、胸がすっと切なくなる。
それは痛みでもあり、ある種の癒やしでもあった。
アルタイルを初めて腕に抱いたあの日のことが、ふいに蘇る。
温かく、小さく、壊れそうな体を胸に抱きながら、ふと思ったのだ。
――この子を、いつかシリウスが腕に抱いてくれる日は来るのだろうか。
そんなのはきっと、叶わぬ幻想でしかない。けれどその日の自分は、どうしてもその未来をふと思い描かずにはいられなかった。
息子の言葉に微笑みを返しながら、アランはほんの僅かにまぶたを伏せた。
それでも、こうして話せていることに――少しだけ、感謝をした。
すべてを告げる必要はない。ただ静かに知っている、それだけでいい。
アランは穏やかな声で尋ねた。
「その授業で、一番心に残っているのは……どんなことだった?」
アルタイルが目を輝かせて語る声を聞きながら、アランの心にはまた一つ、昔の記憶がそっと降り積もっていく。
風に揺れる木漏れ日のように。言葉にならない想いの名残とともに。
午後の陽が傾き、庭の影が長く伸び始めたころ。アランはテラスの藤のアーチの下に腰を下ろし、編み椅子に身を委ねていた。ゆるやかな風が頬を撫で、遠くでセレナの笑い声がかすかに響く。
その傍らに立つアルタイルは、少し迷いながらも話を切り出した。
「……母さん、実はシリウスおじさまの授業で、学期末前に小さな冒険に駆り出させられて…」
アランがふと顔を上げる。目を細めて、微笑むでも、叱るでもなく、たたえているような表情で。
「森の奥にある古い詠唱の遺跡を探す、っていう内容だったんです。許可の範囲内で、危なくないやつですけど……すごく面白くって。」
気づけば、言葉が自然にこぼれ出ていた。語るうちに、あの時に感じた胸の高鳴り、仲間と駆けた風の匂い、夜明け前の冷たい霧の中に見た魔女の碑文が、生き生きと目の前に蘇ってきた。思い出をなぞるように、アルタイルの声音は少しずつ弾みを帯びる。
アランはそっと頬を緩め、微かにうなずいた。
けれどその眼差しは、どこか遠くを見ているようでもあった。
アルタイルはふと、言えなかった言葉を濁すように声を潜めた。
――実は、母の様子を見て来てほしいと頼まれていたこと。ホグワーツを発つ前、シリウスが、誰にも聞かれぬよう静かにそう言った。
「アランは元気にやっているだろうか……アルタイル、君ならきっと気づいてくれると思って」
その頼みが、胸の中にずっと残っていた。
けれど、今日も。実際に目にした母の姿を見て――やはり「元気」とは言い切れないのかもしれない、そうアルタイルは思った。
吐息を一つ、胸の深くで仕舞い込む。
母は笑ってくれた。話を聞き、うなずき、時に懐かしさを滲ませてくれた。
でも、その笑みに影が混じっていることを、アルタイルは見逃せなかった。
とくにセレナを生んだあとの数年、母の体は少しずつ沈んでゆくようだった。
静かで、哀しいほどにゆっくりと。
まるで音もなく冷たくなる水のように――じわじわと、でも確実に。
それを一度、シリウスに話した日のことを思い出す。
彼は、何も言わず、ただ目を伏せた。
表情に浮かんだのは、寂しさを超えた深い、深い痛みだった。苦悩に満ちた黙考の面差し。
アルタイルには、そこに何か、自分が知らない過去のひと欠片を見た気がした。
「……でもね」
ふと、アランが呟いた。まるで今の思考に応答するかのように。
「あの人が、子どもたちに良い先生でいてくれているなら……嬉しいことよ。ほんとうに。」
アルタイルはそっとうなずいた。
何もかもを語る必要はない。
言葉にしなくても、母はすでに感じ取っていたのかもしれない。
この傷つきやすい、でもたしかな絆の中で――、ただ、昼下がりのやさしい風が二人の沈黙をやわらかく包んでいた。
日が傾き始めたころ、ひとり寝室に戻ったアランは、窓辺の椅子に静かに腰を下ろしていた。
レースのカーテンがわずかに揺れ、柔らかな金の光が頬を撫でて過ぎていった。
庭の方では、セレナの小さな笑い声が風に溶けて遠のいてゆく。
けれど、アランの胸には今、別の音が鳴っていた。
それは、遠い昔に封じたはずの鼓動――シリウスと過ごした、青春の残響だった。
アルタイルが語った、シリウスの授業、冒険、それに満ちた無邪気な喜び。
目を輝かせて語る息子の笑顔を見たとき、胸の奥がじんわりと温かくなった。
……でも、そのあとに訪れたのは、決して隠しきれない、どうしようもない恋しさだった。
かつて愛した人。
命を賭してでも守りたいと思った人。
共に並ぶことを夢見ながら、果たせなかった時間。
思いは確かに胸の奥に綴じてあったはずだった。
子を産み、家族を築き、過去をようやく“過ぎたこと”として遠ざけることができたと思っていた。
なのに――
息子の言葉に、あの声が、眼差しが、笑い方が、まざまざと蘇ってくる。
アランは思わず、胸に手を当てた。
涙が滲みそうになるのを、強くまぶたを閉じて堪える。
——あの部屋に行きたい。
屋敷の奥まった一角、今は使われていないその書斎。
かつてシリウスが滞在していた部屋。
書棚には彼の筆跡が残る日記や書簡、少し傾いた椅子、好んで集めていた古書の香り。
そのすべてが、あの人の“気配”を抱いていた。
行きたい。いま、この想いを静かに抱くために、ただあの場所に佇んでいたい。
けれどアランは首を振った。
レギュラスが言ったのだ。
「もう、あの部屋には入らないでくれ」と。
控えめに、けれど決して揺るがない声音で、淡くもはっきりとそう告げた。
そしてアランは、頷いてしまったのだった。約束してしまった。
レギュラスにはきっと、あの部屋を“過去の封印”にしておきたい想いがあるのだろう。
家を、家族を守り、未来へと向かおうとする人の歩みを、アランは否定できなかった。
だが、理屈ではない。
葉が水を欲するように、胸の奥がどうしても、あの香り、あの空気、あの沈黙に触れたいと疼いてしまう。
もうあの場所には行けない。
わかっている。約束したのだから。
でも、それでも――心が求めてしまう。
アランは小さく息を吸った。
そのまま椅子に深くもたれ、窓の外を見つめる。淡く朱に染まった空を、羽ばたく鳥影がかすめていく。
その姿に、心の中の誰かと視線がすれ違うような感覚がした。
シリウス。
あなたを、忘れてなどいない。忘れられるはずなんてない。
けれど私はもう、あなたの部屋に入ることも、あなたの名を呼ぶことすらも、許されてはいないの。
その思いを誰にも打ち明けず、アランはそっと目を伏せた。
柔らかな影が部屋に落ちて、日暮れは静かに、少しずつ、静かに深くなっていった。
晩餐の時間、漆のように黒光りする長い食卓は、灯のやわらかな明滅に照らされていた。天井から垂れる錬鉄のシャンデリアが黄金の光をテーブルに落とし、食器やグラスにきらめきを湖面のように揺らめかせている。
今夜は、屋敷の空気がいつもより少しだけ賑やかだった。
久しぶりにそろった家族の食卓――。
アルタイルとセレナがホグワーツから帰ってきたことで、ふだんは静寂に包まれがちなこの場に、どこか柔らく心地よい喧騒が戻ってきていた。
その沈黙を破るのは、セレナだった。食器を置いた音と同時に、軽やかな声が食卓を跳ねた。
「お兄様、縁談が決まったんですってね?」
その無邪気な響きは、思いがけず空気を柔らげた。
触れぬことが礼儀とされる重たい話題さえ、セレナが口にすると、まるで朝の霧が晴れるみたいに、その重さを忘れてしまいそうになる。
「ええ。まだ、どなたとになるかは分かりませんが」と、アルタイルは静かに答える。
声に迷いはなかった。どこか大人びた落ち着きがあり、その佇まいが客間の令嬢たちの目を自然とひき付けていた。
セレナは、スープを置いたまま、にっと笑った。
「お母様みたいな、綺麗な人だといいわね」
その一言に、空気がふっとあたたかくなる。
アルタイルはまっすぐ母へと視線を向けた。
そしてはっきりと、けれど微かに照れをにじませながら、こう言った。
「……でも、母さんを超える人はいないでしょうね。」
一瞬、テーブルが次の言葉を持たずに静まった。
続いて、周囲に小さな笑い声が広がり、それが夜の空気をまた穏やかに波立たせた。
アランは、ナプキンを一度きゅっと指に巻きつけたまま、戸惑うように息を飲んだ。
けれど、すぐに目を細めて、静かに微笑んだ。
その微笑みには照れも誇らしさも、そしてなにより――慈しみが宿っていた。
「ありがとう、アルタイル」
言葉にはしなかったが、心の中でそう呟いた。
愛されている。
それだけの事実が、胸の奥に柔らかく降りてくる。
その夜の食卓は、金と薔薇と笑いに包まれていた。
そして、何よりも“家族”の温もりに優しく満たされていた。
午後の光が西の窓から差し込む居間。
午後のティーセットの温もりがまだ残る丸机には、ほんのりと花茶の香りが残っていた。
扉がかすかに軋みながら閉まると、部屋には二人だけの沈黙が降りる。
レギュラスは窓の外に視線を向けたまま、意を決したように口を開いた。
「……昼間、アルタイルと、何を話していたんです?」
声は穏やかだった。だが、わずかに低く、どこか探るような響きを帯びていた。
問いそのものはささやかな一言だった。けれど、その奥にある意図を読み取るには、アランには十分すぎるほどの沈黙があった。
アランはカップに口をつけることもせず、手のひらで持ち上げたまま、そのままそっと瞬きをした。
「どんな学校生活を送っているのか、そんな……他愛もないことよ」
返ってきたのは、柔らかくも空気に溶けてしまいそうなほどに軽い答えだった。
中身は空白に近かった。それはきっと、意図的な軽さだった。
その一言に、レギュラスの胸の奥がきりきりと軋む。
白々しい。
そう思ってしまう自分がいた。
けれど、その白々しさを責める資格はない。
自分だって、この問いを投げるまでに、いくつもの“ためらい”と“計算”を心の横に並べていた。
――なぜ、その質問を自分はしたのか?
それは、アルタイルが――『シリウスの話を』、母であるアランに伝えていないわけがないと、どこかで確信していたからだった。
そして、アランがそれを聞いたなら、何か――“懐かしさ以上の、もっと深く複雑な感情”を掬い上げてはいないだろうか。
その恐れに胸がざわめく。
自分の中に残る、どうしようもない劣等感と焦り。
それが“シリウスの名”を引き金にして、容易く蘇ってくることをレギュラスはよくわかっていた。
あの名が絡むと、自分はいつまでも、頼りない陰の役回りに逆戻りしてしまう。
アランの隣にずっといたのは、確かにこの自分なのに――それでも、なお。
「……そうですか」
ようやくの返答は、抑えた声で落とされた。
本当はもっと聞き出したい。
何を思ったのか、何を思い出したのか、本当はそれを知りたい。
けれどそれをひとつひとつ問うには、自分の心根があまりに浅ましすぎるのだ。
問い続ければ、アランの澄んだ眼差しに、自分の醜い感情が映し出されてしまうような気がして。
だから、これ以上何も訊けなかった。
アランはふと、湯気の消えかけたカップを両手で抱くように取り、静かに口元に運んだ。
その仕草は、まるで漂ってくる記憶ごと噛みしめるようだった。
それでも、目は決してレギュラスを見ていなかった。
見つめ合わない時間の間に、言葉にならなかった何かがそっと机の上に横たわっていた。
それは、ほんのりとした香りを残しながら、どちらからともなく数歩ずつ距離を重ねてゆく――
温かく、そしてどうしようもなく遠い、夫婦の間に流れる静かな川のようだった。
陽の柔らかな斜光が、庭を金色に染めていた。樹々の葉の隙間からこぼれる光が揺れ、緑の芝生がそっと輝いている。
アルタイルは、母のすぐそばに立ち、小さなフォーカス調整付きの魔法カメラを手にしていた。
アランはベンチに腰掛けていた。日向の中、漆黒の髪が光をまとって柔らかく揺れ、その横顔はどこか夢のような静けさをまとっていた。
「いきますよ、母さん」
そう告げると、アランはそのままゆっくりとこちらに顔を向け、
――ふっと花のように微笑んだ。
シャッターの魔法が走り、空気が一瞬、静かに波打つ。
撮られた魔法写真はすぐにふわりと浮かび上がり、動き出す。
笑うアラン、まばたきをし、袖口を整え、小さく首を傾けている。
その様子すべてが、アルタイルの心に深く刻まれていった。
――この写真を、シリウスに渡したい。
アルタイルはそう考えていた。母のことを、今も気にかけているそのひとに。
この笑顔を見せてあげられたなら、きっと、どんな言葉よりも多くを伝えられる。
そんな思いを胸に秘め、写真を手のひらに包んで静かに立ち上がろうとした時だった。
「……なんです?それ」
背後から、低く穏やかな、しかし確かな威厳を伴った声が届いた。
レギュラス。
父が、いつからそこに立っていたのか、まったくわからなかった。
その瞬間、心臓が一度大きく跳ねた。
息を吸う間も惜しんで、アルタイルの腕はほとんど反射的に動いていた。写真をきゅっと折りたたんで、ジャケットの内ポケットに滑り込ませる。
たとえば誰かがその様子を見ていたなら、不自然さを感じただろう。
けれど父の気配を前にすれば、本能はとっさに“隠す”と決めていた。
罪悪感があった。
アルタイルは父を――レギュラス・ブラックという男を心から尊敬していた。
いつも静かに、けれど確かにこの家族を守り、母を、誰よりも大切にしてきた人。
けれど、父の愛は、同時に――シリウスという存在との長き対立の道でもあったことを、アルタイルは知っている。
母を中心に巡ってきた過去。
その対立が、どれほど多くの言葉にできぬ感情を招いてきたか。
だから――
この写真を、父の知らぬところでシリウスに届けようとする自分の行為は、親を裏切るような痛みを伴っていた。
「ただ、母さんの写真を……」
そう言いかけて、声が少し揺れた。
なるべく当たり障りのない声音を作ろうとした。
レギュラスはそれ以上何も問わず、しばし息子の顔を静かに見つめていた。
その無言が、むしろ深く刺さる。
やがて、目を逸らすようにして父はそっと背を向けた。庭の向こう、風に揺れる藤棚の影へと。
その背中を見送ったあと、アルタイルは胸のポケットに手を当てた。
あたたかな魔法写真が、じんわりと肌を通して熱を伝えていた。
あの笑顔を、誰かに手渡したい。
それは愛でもあり、祈りにも似ている。
けれど同時に、それが父の心をほんの少し傷つけるものになるかもしれないという事実に、若い心は何とも言えない重さを覚えていた。
――風が吹いた。
木漏れ日がまた揺れ、小さな影を地に刻んでいく。
アルタイルは、遠ざかる父の背にただ静かに頭を垂れた。
その手の奥に、揺れている母の笑顔。
言葉にできない想いを胸に、そっとポケットを押さえたまま。
まだ朝靄の残る早朝の駅前。空気は冷たく澄んでおり、吐く息が白く立ちのぼる。ホグワーツ特急の黒鉄の車体は、まだ微かに霧を纏いながら静かに汽笛を鳴らしていた。
荷物が全て積み込まれ、乗車の刻が近づいている。
アルタイルとセレナは、いつもより少しだけ慎重に、ゆるやかに動いていた。ほんの数日の帰省だった。けれど、家に戻ったことで、家族という織物のあたたかさを深く知った。去ることが、その織物からふたたび糸を引き抜くような痛みに感じられたとしても、行かねばならない――それが、ホグワーツに生きる者の歩みだった。
「母さん、体に気をつけてくださいね」
アルタイルが、静かにそう声をかけると、アランの表情にかすかな波が広がった。
「ええ。あなたも風邪などひかないように」
言葉は穏やかだったけれど、アルタイルにはわかっていた。
その声音に忍ばせた寂しさも、痛ましいほどやさしい自制も。
だからこそ、息子は母の腕の中に、ためらいなく飛び込んだ。
アランの腕がふわりと彼の背に回される。その抱擁は、春先の陽だまりのようだった。
魔法をかけたわけでもないのに、温かく、香りさえ記憶に残る。
「あたたかくして寝ているのよ、ちゃんと」
そんなことはわかっているのに、言わずにはいられない。
「うん」
その一言ですべてに応えた。
横では、セレナが自信たっぷりに言った。
「わたし、また手紙を書くわ」
「僕もちゃんと書きます、きっと」と彼も続ける。
それからふっと視線を動かすと、そこには両親が立っていた。
母の腕を包むようにして、レギュラスがその肩越しにそっと手を添えていた。
その構図が、アルタイルの目には胸を締めつけるほど美しく映った。
まるで時が止まっているかのようだった。
だが同時に、それは確かに“時”を経た姿でもあった。
──父は、母を見つめ続けていた。
決して派手な感情ではない。けれど、何年劣化することもなく、深く静かに、ただひたむきに。
母の最も近くにいて、最も遠くの想いまで抱えてくれている存在。
その空気を、アルタイルは、小さく深く心に刻んだ。
どうしても、今、あの人に母の写真を渡したいと思った。
母を愛し続けてきた父と、かつて母に焦がれたあの人と――
それぞれの愛が交わらぬものでありながら、どこかで静かに繋がっているような、不思議な巡り。
――シリウスに見せたい。
母さんが、生きて笑っている写真を。
そして、その向こうにいる家族の今を。
汽笛が、もう一度鳴った。
別れの時だ。
制服の裾を風が揺らし、重ねた言葉がもう一度だけ繰り返される。
「母さん、ありがとう」
アランはただ笑って頷いた。
その笑顔の内側に、どれほどの感情が潜んでいたかを、息子はあえて読み取らなかった。
そして静かに列車へと歩き始めた。
妹と並んで、ホームを後にしながら、ジャケットの内ポケットに添えた手の平にそっと力を込める。
その中には、一つの想いと、一枚の光があった。
やがてそれが、長い時間を越えて、また誰かの心を動かすことを、願うように。
夜は屋敷の窓を冷たく叩いていた。秋の初めの風が石壁にしみ込むように吹きつけ、一層インクのように濃い静寂が広間に降りていた。
けれど、その静けさを真っ先に裂いたのは、ヴァルブルガ・ブラックの鋭い声だった。
「レギュラス、一体何を考えているのです」
まっすぐ立っているというのに、その声にはもはや誇りよりも、苛立ちと焦りが滲んでいた。
燃えるようなシルクのドレスは完璧な態度を守っていても、その目の奥には揺らぎがあった。
石造りの暖炉の前、レギュラスはただ静かに佇んでいた。
背筋は伸びていても、目元にはぬぐいきれない疲労の色。
「屋敷に招いた娘たち……あの令嬢たちは、なんのために存在していると思って?」
答えはない。
ヴァルブルガは自らの問いを遮るように、苛烈な舌調で続ける。
「あの女たち、エメリンドとエセルは、どちらも身分も能力も申し分ない血筋。あなたも……一応、試みたのでしょう?」
「一応、とは」
ようやく、レギュラスが言葉を返した。
その声音は冷えていて、けれどどこか壊れやすい薄氷のようでもあった。
「二人とも、一度きり……。それだけでは、どうにもならないでしょう。数ヶ月も経って、兆しひとつないではありませんか」
その言葉にうつむくことなく、レギュラスは目を伏せた。
苛立ち、焦燥、そして滲む非難。
それらすべてがまとわりつくようだった。
アルタイルは、まだ子をなすには幼い。
セレナは、女であるという時点で、この家の”血統”という論理から外されている。
――ならば、誰が血を継いでいくのか。
そう問われたとき、答えはただ一つ。
自分しかいない。
「あなたは、ブラック家の血統を背負う者。父がそうであったように、祖父がそうであったように」
「母さん……」
ようやくそう呼びかけて、レギュラスは一歩、ためらいがちに近寄る。
「わかっています。ただ……」
声が震えそうになるのを、ぎりぎりのところで押しとどめる。
「……僕はもう…… アラン以外を見ることができないのです」
その言葉は、石と炎の間にゆっくりと落ちた。
気持ちの問題ではない、そう思ってきた。
義務であるなら、果たそうと努めた。
エメリンドの髪に触れた夜、エセルの肩を抱いた夜――心を奮い立たせ、自分をどこかに閉じ込めることで身体だけは動かした。
だが、やはり。
それを”務め”としてしか行えないことの苦しさに、彼はとうに限界を感じていた。
アランの隣で笑う時間にさえ、どこか罪悪感が滲む。
それでもアランの指を握るだけで、「これでいい」と体が思ってしまう。
それが、どれだけの矛盾なのか、レギュラスには冷たいほど分かっていた。
「……母さんが言うことは、正しい。けれど……」
風のような声で続ける。
「どんな姿で子を増やしても、それが僕の足元を崩していくのなら、僕は家ではなく、ただ空虚を残してしまうだけです」
ヴァルブルガはその場に立ち尽くした。
表情はほとんど揺れなかったが、目に浮かぶ影はかすかな痛みをはらんでいた。
この息子は、誰よりも忠実に育った。
冷静で、計算に長け、魔法の才にも恵まれ、姓に恥じぬ者となった。けれど……
アランにだけは、不器用なほどまっすぐすぎた。
それが母として、ブラック家の主の妻として、許容できないという気持ちと、痛ましく理解できてしまうという気持ちが交錯する。
言葉はもう降りてこない。
代わりに、静寂だけが長く部屋に満ちていく。
レギュラスは、その場から視線をそらすように、ゆっくりと暖炉の前に背を向けた。
その背中が、どこか痛ましく、けれど凛としていた。
母の想い、家の命脈、過去の因縁、すべてを背負いながら、ただアランへの愛に抗えぬ男の姿が、燻んだ火光に照らされて静かに揺れていた。
夜の帳が寝室をやわらかく包み込んでいた。
ランプの灯りだけが、重たい絹張りの壁紙に細い金の影を描いていた。
窓は閉ざされ、外からの音も届かない。屋敷の眠りが始まるなかで、その部屋だけはまだ目を閉じていなかった。
レギュラスが扉を開けると、そこにアランがいた。
燭台の光に包まれ、ベッドの縁に静かに腰掛けて、手元の本を閉じるところだった。
その姿を目にしただけで、レギュラスの胸の中に波打っていた荒れ狂う感情が、少しずつ静かに洗い流されていくのを感じた。
あの激しい口論――母ヴァルブルガとの対峙のあとで、全身がくすぶるように疲弊していた。
血の義務、名の重圧、家の命脈。
正しさという名の鉄鎖に、自らを繋いでいたに等しい。
でも。
扉の向こうにアランがいる。それだけで、魂はまだ、落ちていないと感じられる。
「おかえりなさい、レギュラス」
それは、何でもない一言だったはずなのに、けれど、深く深く胸に染みた。
幾度聞いたかわからない声。
それでも、レギュラスはその言葉を聞くたびに心の底まで救われるような気がした。
彼はゆっくりと歩み寄り、アランの傍らに膝をつく。
手を取って、指先を重ねる。その指が今夜はひどく細く思えた。冷たいのではなく、光を透かすほどに繊細だった。
「…… アラン」
言い淀んだあと、ようやく絞り出すように続ける。
「考えたのですが……屋敷へ来ている令嬢たちを、全員、帰してしまおうかと……そう思っています」
沈黙が落ちた。
けれどアランは驚いた様子も見せずに、ただ静かに頷いた。
それが、返事だった。
血を繋がねばならない。
家の命を絶やしてはならない。
その理屈は痛いほどわかっていた。それがブラック家の宿命であり、王道だったから。
けれど、他の女の寝室に向かうたび、
アランが引き止めようとしないその沈黙が、むしろ一層、胸を裂いた。
泣かない、責めない、何も言わない――
その優しさが、ときに刃物のように鋭く、冷たく自らを刻んできた。
アランは何一つ拒まない。
拒まず、ただ受け入れてしまう。
だから遠く感じてしまう。だから壊したくなるほど、自分は惨めなのだ。
「……努力は、したつもりでした」
そう吐き出すように言って、思わず額をアランの膝へ伏せる。
「けれど、情けないくらいに、心がもう限界だったんです」
絹のような布地に顔を押しつけたまま、深く息を吐いた。涙ではない。
ただ、心の底が音も立てずにひどく痛んだ。
「母にも、説明は……できないでしょう。どうせ納得もされないでしょう……でももう、本当に苦しくて。息をしているだけで引き裂かれるようで……」
アランの手が、静かにレギュラスの髪に触れた。
告白でも懺悔でもなく、ただ疲れ果てた一人の男の声が、ようやく地に落ちた。
「アルタイルが――きっといつか、この家の血を継いでくれることを、ただ信じたいです。それだけで……責務から、心から……解放されるような気がして」
アランは何も言わなかった。
けれど、レギュラスの髪に添えた指先が、ほんの少しだけ震えていた。
目を閉じた彼の胸の奥で、薄い誓いのようなものが火種のように灯った。
誰の期待にも、歴史にも、未来にも従えない心が、いま、ただこの人のために痛みを訴えている。
そしてその夜、レギュラスは眠るまでアランの傍を離れなかった。
家のことも、血のことも、母の言葉も、すべてを遠くに置いて――ただ目を閉じた。
それはほんの短い静寂だったが、彼にとっては、息ができる唯一の夜だった。
薄紫の朝靄が屋敷の窓を覆っていた。秋の日差しはまだ弱く、寝室の重いカーテンの隙間からわずかに差し込む光も、どこか力を失っているようだった。
ベッドの中央で、アランは静かに横たわっていた。呼吸は浅く、時折苦しそうに眉をひそめる。頬は蝋のように白く、唇も血の気を失っていた。昨夜から続く発作は、彼女の細い体をさらに弱々しくさせていた。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、妻のそばで静かに見守っていた。手には、母ヴァルブルガから届いた手紙が握られている。開封もしないまま、しわになった紙片を握りしめ続けていた。
その手紙には、きっと同じことが書かれているのだろう。
屋敷にいる令嬢たちのこと。血筋を継ぐこと。家の未来のこと。
数日前レギュラスは母に向かって言おうとしていた。「屋敷にいる令嬢たちを、全員帰してほしい」と。
あの言葉を、喉元まで出かかっていた。エメリンドもエセルも、他の誰も――もう、この重荷から自分を解放してほしいと。
けれど、その時にアランが倒れた。
突然の発作に、レギュラスの心は全てを忘れた。医師を呼び、薬草師を呼び、何人もの治療師に診てもらった。誰もが同じことを言った。
「体力が著しく低下している。これ以上の妊娠は、命に関わる」
その宣告を聞いたとき、レギュラスの胸に冷たい現実が流れ込んだ。もう、アランが子を産むことはない。セレナの出産があれほど困難だったことを思えば、それは当然の結論だった。
手紙の中身を見なくても、オリオンとヴァルブルガの声が聞こえるようだった。
「弱った女を、いつまでそばに置き続けるつもりか」
「世継ぎを産む可能性もない妻に、何の意味がある」
「ブラック家の血筋を絶やすつもりか」
正論だった。魔法界の純血家系において、子を産めない妻を手放すことは珍しくない。むしろ、それは家を存続させるための冷徹な判断として称賛されることさえある。
でも、レギュラスにとって、アランは「世継ぎのための妻」ではなかった。
彼女の笑顔、彼女の涙、彼女の寝息、彼女の指先の温もり――それらすべてが、レギュラスの生きる理由そのものだった。
愛している。
その感情が、すべての理屈を超えて彼の心を支配していた。
窓の外で、庭師が落ち葉を掃いている音が聞こえた。秋は確実に深まり、やがて冬が来る。季節は巡り、時は過ぎていく。
ブラック家の血筋も、いつかは途絶える時が来るのかもしれない。先祖代々が命をかけて守り抜いてきた高貴な血統を、「愛」という名の感情のために絶やしてしまう――それは、許されざる背信行為なのかもしれない。
レギュラスは自問した。
自分は愚かなのか?
家族を、血統を、伝統を裏切っているのか?
だが、答えは出なかった。
アランの寝息が、小さく部屋に響く。その音だけが、レギュラスにとってのすべてだった。
彼は手紙を机の上に置き、そっとアランの手を取った。冷たくなった指先を、自分の掌で包み込む。
もしこれが愚かさなら、愚かでもいい。
もしこれが罪なら、罪を背負って生きよう。
そう心に決めながら、レギュラスは妻の回復を静かに祈り続けた。
屋敷の時計が、重く鐘を鳴らす。その音は、ブラック家の長い歴史を物語るようでもあり、同時に、一つの愛の終わりを告げるようでもあった。
秋の光が、ゆっくりと部屋から消えていく。残されたのは、一人の男と、一人の女と、そして言葉にできない深い愛だけだった。
