4章
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九月の朝、雲ひとつない青空がホグワーツの湖面に清らかに映り込んでいた。
新学期がはじまり、城内には希望と緊張のざわめきが響いている。
その年、アルタイル・ブラックは進級の節目を迎えた。
寮の色をよく映す深緑のローブが、彼の背を引き締めていた。
そしてようやく――
待ちわびていた日が巡ってきた。
妹、セレナ・ブラックが、今年ホグワーツに入学してきたのだった。
大広間の組み分け帽子が、彼女の髪の上にそっと載せられると、わずかに口元が動いた。
「……スリザリン!」
その瞬間、緑と銀の卓に拍手と歓声が広がった。
誰かが手を叩き、誰かが軽く立ち上がってセレナの名を呼ぶ。
そのなかで、セレナは躊躇うことなく兄のもとへ駆け寄ってきた。
「お兄様っ!」
小さく背伸びをして、彼の肩に胸を当てるようにして喜びをはね返す。
誇らしげな笑顔。肩越しに跳ねる声。
アルタイルは静かに微笑みながらも、胸の奥で込み上げる感慨をきゅっと押しとどめた。
妹の眩しい制服姿が、何よりも年月の早さを物語っていた。
それから数日後、防衛術の授業初日。
担当教授の変更が正式に知らされた。
リーマス・ルーピン――
騎士団メンバーのひとりであり、伝説を語られる中の確かな存在感を持つ魔法使いだ。
アルタイルは、その名前を聞いた瞬間、胸の内側がふわりと温かくなった。
あの日から、待っていた。
本物の、過去を知っている大人が、自分たちの前に立つ日を。
ルーピンの授業は、静かだった。
だが、その芯には確かな実力が感じられた。
言葉はやさしく、端整に選ばれているのに、
その穏やかな口調の裏に潜む強さ――それを敏感に察した生徒たちは自然と尊敬の眼差しを向けるようになっていた。
アルタイルもまた、密かにその授業を楽しみにしていたひとりだった。
特に防衛術では、彼の描く魔法の軌跡や、理論の鮮明さが際立っている。
将来的に飛躍したいと夢見る少年たちにとって、それは教科以上の意味を持つ。
そしてある日、ルーピンが課外授業の案内を言い渡した。
「――特別講師として、ある人物をお招きする予定です」
教室にかすかなざわめきが生まれた。
そのあとに続いた名前で、それは一気に歓声へと変わる。
「シリウス・ブラック」
一瞬で教室がざわめいた。
伝説の男――最強の決闘者、王族をも守った不屈の騎士団の誇り、
そして、己の血統をも乗り越えた“自由”を象徴する名。
少女の甘いため息、小声の感嘆、
少年たちの目には興奮と期待に満ちた光が宿っていた。
アルタイルは、そのすべてを受け止めながら、
自分自身の高鳴りを微笑んで飲み込んだ。
自分もまた、その“伝説”を胸に焦がす少年の一人だ。
かつて自分の家でひそやかに語られた名。
父が寡黙に、けれど確かな敬意と痛みと共に話した男の名。
母が決して口には出さず、それでも一枚の写真のなかで柔らかく笑みを浮かべる彼に、目を留め続けていた優しさ。
アルタイルの中で、それはずっと、どこか夢のような存在だった。
その人が、今――このホグワーツに、来る。
自分のためではない。
けれど、それでも構わなかった。
多くの生徒と同じように、
どこにでもある興奮のなかで、胸を躍らせて待ちたいと思った。
自分もまた――そんな、ありふれた少年のひとり。
そう思えることが、
なぜだか少し、誇らしいような気がしていた。
秋の終わりの風が、ホグワーツの広い中庭に金の葉を舞わせていた。
薄曇りの空の下、石畳の一角に特別な緊張と熱気が集まっている。
その中心に立っていたのが、シリウス・ブラックだった。
高く張った背筋、滑るような所作、
黒髪の長い束が風に揺れて、灰色の瞳が鋭く空気を斬る。
ただそこに佇むだけで、伝説の名が現実となったような存在だった。
初めてシリウス・ブラックを見たとき、
胸がときめいた――などと言ってしまうのは、少し違うような気がした。
けれど。
心が跳ね上がるように踊った。
それが偽らざる感覚だった。
同じ“男”として見ているはずなのに、
その輪郭が、理屈を越えて心の中にずしりと刻まれていくのを感じた。
シリウスの背後には、リーマス・ルーピンの姿があった。
穏やかな瞳で説明を挟みながら、その進行を見守っている。
防衛術の実践課外授業としてふたりが並び立つその光景は、
まるで戦場に咲く伝説そのものだった。
シリウスの杖さばき。
踏み出す足の運び。
誰もが夢中で見入っているなか、アルタイルもまた、目を逸らすことができなかった。
シリウスは、父と似ている。
けれど根本のところで“違う”。
父、レギュラス・ブラックはいつも静かで、規律に整った人だった。
正しさを背中で語るような人――怒ると静かになることが、一番の恐怖だったりする。
シリウスは違う。
その沈黙の代わりに、よく燃える火を抱えている。
寡黙さの奥で何かを押し殺すのではなく、感情を纏って逆風の中を真っ直ぐに立ち続ける、そんな雰囲気があった。
その姿は、ただ“父の兄”という言葉では分類しきれなかった。
男だった。
大きく、強く、そしてなぜか少し哀しい影を背負っていた。
この人が――シリウス・ブラック。
そう思うたび、胸の奥で何かが波立つ。
父が、あれほど嫌っていた男。
けれど、母が――いまもきっと、心の奥底で愛しているであろう男。
堂々と彼を語ることのない母の静けさ、
写真を見つめるときのあのやわらかな表情。
それらの積み重ねが、アルタイルの中の“シリウス像”を長年ゆっくりと形づくっていた。
そして今、それが目の前にいる。
本当に、存在している。
「――君がアルタイルか」
練習の合間にふと、シリウスが目線をこちらに向けた。
灰色の瞳が、少年の名前を呼んだその瞬間、時が止まったように思えた。
アルタイルは、頷くのがやっとだった。
言葉にならない想いが、喉の奥で波打っていた。
この人は、母を今どう思っているのだろうか。
そして――父と母のあいだに生まれた自分のことを、どう見ているだろうか。
簡単には訊けない問いばかりが、胸に膨れていく。
けれどそれでも。
いまこの距離で、その目を見ているだけで、何かが確かに伝わる気がした。
自分は、この人を知りたい。
彼の人生を、彼の“戦った過去”を、彼が母をどう想い、父とどれだけ異なる世界を選んできたかを。
そして、いつかきっと、
この胸に浮かんだ敬愛の正体が、言葉になる日が来ると、静かに願っていた。
授業が終わって、生徒たちは笑い声を立てながら次の教室へと移動していった。
ホグワーツの石造りの中庭には、スリザリンの緑やレイヴンクローの青が風に揺れている。
だが、その流れにアルタイル・ブラックの姿はなかった。
彼は、ただひとり、教室の出口に立ち尽くしていた。
背筋を伸ばし、動く理由もなく、ただ前方の気配を見つめている。
ほんの少しだけでいい。
あの人と話がしたかった。
ほんの一言でも、目に留まりたかった。
胸が、ずっと高鳴っていた。
「アルタイル……だったな」
その低く響く声が、自分の名を呼んだとわかったとき、背筋にひやりとした風が走った。
振り向けばそこに――シリウス・ブラックがいた。
少し顔をほころばせた彼が、無造作に近づいてくる。
堂々としながらも、少年の目線に合うまで少し屈むようにして、優しく訊いた。
「はい……アルタイル・ブラックです」
アルタイルの声は思ったより掠れていたが、それを気にする間もなく、
シリウスの手が彼の髪に触れた。
くしゃり、と音も立てずに髪を撫で、指先でゆるやかに揉むように梳かれた。
親が子に触れるような、思い出すような、温かな手。
驚きで固まっているアルタイルに、シリウスはやさしく笑った。
「……レギュラスそっくりだな」
その一言で、心の奥に針のようなものが落ちた。
確かに、自分は父に似ている。
髪の質、骨格の輪郭、真面目すぎるところまでも、母によく言われる。
そのことは誇りだった。
けれど、シリウスと父は敵対している。
彼の声に敵意があったわけではない。けれど――
そう言われて、ひどくこわかった。
この手が、どこにも属せぬ気がしたのだ。
過去の確執と、偶然の遺伝が、ほんの一瞬、
アルタイルの中で継ぎ目のない痛みになって広がった。
そのとき、弱く咳払いをしながらやってきたのは、授業の片付けをしていたリーマス・ルーピンだった。
棚にしまわれていた防衛用の教材を手にしながら、軽く笑って言う。
「アランは元気かい? このひと、シリウスったら、そればっかり気にしてるんだ」
にこやかに茶化すような声。
その言葉に、シリウスが肩をすくめた。
「……やめろ、リーマス」
低く、けれどどこか困ったように苦笑して。
リーマスは片目だけまばたきしながら、気を利かせたように去っていく。
そしてアルタイルは、息もできずに立っていた。
その会話だけで――胸がいっぱいになった。
母が一人で抱えていたと思っていた想い。
誰にも言わずに、記憶の奥にしまっていた感情。
それが、きっと相手の中でも同じように在り続けていたということ。
あの人も、忘れていなかった。
母を。
きっと一度たりとも――。
何も言葉にならなかった。
けれど、嬉しかった。
ただそう思えた、その事実だけで、胸が熱くなった。
シリウスは何も言わず、それ以上髪に触れもせず。
ただ、リーマスのいる方へ歩き出す。
けれどアルタイルが見つめるその背中には、決して消えることのない光が確かにあった。
母に抱かれた初恋のように、
少年の胸にそのまま刻みつけられていく。
――それが、初めて本当に出会った、自分と伝説との距離だった。
それから何度か、シリウス・ブラックの課外授業が行われた。
風に音を立てて揺れる湖のそば、野外に設けられた円形の訓練場。
そこに立ち並ぶ生徒たちの目は、初回の興奮こそやわらいだものの、
いまだ彼に向けられる視線には、目に見えない期待が光っていた。
アルタイル・ブラックもまた、その一人だった。
「――いいぞ、アルタイル」
その声は、どこまでも軽やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
「さすがだな」
「これは腕がいい。お前の構えには芯がある」
笑顔交じりに語られるその言葉は、天体の名を持つ少年の心を、
ふわりと浮かせる風のように優しく揺らした。
そのときのシリウスは、生徒としてではなく――
まるで、ひとりの若者として彼を見ていた。
子供扱いではなく、*真正面からの評価*。
それが、どれほど誇らしく、くすぐったく、そして何より嬉しかったか。
剣先をまっすぐ前に向けながら、アルタイルの声なき胸の奥では、黙っている誇りが熱く燃えていた。
父に褒められること。
それはいつも冷静な口調だった。
母に微笑まれること。
それは手のひらの温もりのようだった。
けれど――今の自分には、この人からのひと言が、
何よりも嬉しかった。
その事実に気づいたとき、自分の中のどこかが、小さくはにかんだ。
「すごいですね」と誰かが言ったとき、
「うん」とだけ、簡潔に答えた。
それ以上は何も言わなかったけれど、胸の中は満たされていた。
評価されただけではない。
彼の言葉には、重ねてきた日々の記憶が宿っていた。
自分という存在が、そこに何層にも折り重なって見られていると感じられた。
そして、シリウスの瞳の奥に浮かぶ浅い笑みの中には、
どこかで知っている誰かの面影を大切にしている光があって――
その光の中に、自分が含まれていることが、
ただ、嬉しかった。
言葉にするには青すぎる、けれど確かにそこにあった想い。
アルタイルはその日の夜、星が出ているのを見上げながら、
ただ静かに、この気持ちが消えずに残っていくことを願っていた。
初めてアルタイル・ブラックという少年を目にしたとき、
シリウス・ブラックは、何も訊ねるまでもなく彼が誰の子かを悟った。
その立ち姿、目元の鋭さ。
言葉を発する前から、彼にはレギュラス・ブラックの線が色濃く流れていた。
背筋の通り方や腕の構え、何より無駄のない沈黙の扱い方――
それらすべてが、若き日の弟を思い起こさせた。
けれど、どこかで思ってしまった。
「もうすこし、アランの要素が入っていれば」と。
だが、声を交わしてみればすぐわかった。
その中に、たしかにアラン・セシールが生きていることを。
話すときの柔らかな呼吸と言葉との間。
必要以上に目を見ないところや、敬語の選び方にすら、
彼女らしい慎ましさがあった。
過剰な自信を見せず、けれど黙って屈さずに、前を見据える静けさ。
ああ――この子は、たしかにふたりの間に生まれたのだと、そう思った。
いつかこの子を、腕に抱く日が来るのだろうか。
そんなことを、かつて夢のように想像していた自分がいた。
それが叶わないと気づいたあとも、時折ふと、その空想が胸に戻ってくることがあった。
だが現実は何の前触れもなく、時間を跳躍していた。
いつのまにかこの少年は、もう抱き上げるには大きすぎた。
背は肩まで届こうとし、杖を握る手つきには迷いがなく、
声は低く変わりつつあった。
――こんなにも、年月が経ったのか。
ただ、そのことだけが胸にじんわりと染み込んでいた。
沈む夕日を背に、ふたりが言葉を交わすのは、授業のあと。
荷を降ろした生徒たちが去っていった後の緩やかな時間。
焚かれたひとつの炎が中庭でまだぬるく揺れている。
「アランは……元気かい?」
その問いは、軽いものではなかった。
それを知ることに長い間躊躇いがありすぎて、
ようやく口にできたのはこんなにも歳月を越えてからだった。
アルタイルは少し黙って、きちんとレギュラスに似た話し方で答えた。
「……母は、妹を産んでから、病に伏せることが増えました」
たったそれだけの短い報告に、
シリウスの胸に、重い痛みが落ちた。
言葉を出す前に、深く息が呑まれていく。
アランが病に――その言葉だけで、
どれほどの日々が、彼女の静けさの中に沈んでいたのかを想像してしまう。
涙ではなく、喉の奥に詰まるような苦しさだった。
もう会うことはないのかもしれない。
もう、その細い肩に触れることもできないのだと…。
それなのに、この目の前にいる少年には、彼女の気配が生き続けているという事実だけが、
あまりにも切なかった。
「……そうか」
それ以上、言葉はなかった。
でもアルタイルは、黙ったままの大人が何を思っているか、
少しだけ察したように、視線を夕空へと向けていた。
燃えるような赤が空を染めていた。
それはやがて夜に変わる色ではあったけれど、
誰かを想うには、十分すぎるほど優しい光だった。
ある日の午後、緩やかな風が緑の芝をなでていた。
講義と講義の合間の一刻――シリウスが中庭の石畳を歩いていると、
遠くから馴染みある足音が聞こえてきた。
「……シリウス」
その可愛らしい声に振り向くと、アルタイルが誰かの手を引いて近づいてくる。
スリザリンのローブが風を孕み、小さな足取りが元気よく芝を駆けていた。
振り向いたシリウスの目の前に立ったのは、身なりを綺麗に整えた少女。
「セレナ・ブラック、妹です」
そう紹介して、アルタイルがわずかに口元を引き結ぶ。
例によって礼儀を忘れない厳格さが滲んでいた。
だが、シリウスの目はすぐに、その“妹”へと向かっていた。
……驚くほどに、レギュラスに似ていた。
顔の輪郭。
瞳のかたち。
ほんの少しだけ強情そうな口許までも。
あまりのそっくりさに、思わず口が緩んでしまう。
ふっと笑ってしまいそうになると、“その子”の眼差しが鋭く跳ねた。
「今、笑ったわね?」
表情豊かにそう言って、眉を上げてにらむようにシリウスを見上げる。
……随分と砕けた物言いだ。
その鋭ささえ可愛らしく、シリウスは口元を覆って笑いをこらえた。
「セレナ、やめなさい、ご無礼です」
隣のアルタイルが即座に身を引き、苦い顔で言う。
「すみません……セレナは、少々お転婆で……」
そう謝る口調には、兄としての責任感がきちんと漂っていた。
その姿はじつにレギュラスらしい。
けれど、シリウスはむしろ微笑を深め、それを手振りで制する。
「いや、いい。楽しくて、いいな」
そしてセレナの方を見やりながら、目を細めて言った。
「セレナ、今度一緒にホグワーツを冒険しようか。じっくり案内するよ」
少女の瞳が、ぱっと花のように開いた。
「えっ……本当に?」
「もちろん」
「ステキ! 絶対よっ!? 約束だからね?」
目を輝かせて何度も頷くその姿に、
シリウスは胸の奥に微かなあたたかさが灯るのを感じた。
ほんの一瞬だけだったが――
そのはしゃいだ笑顔のかたちの中に、若かりし頃のアラン・セシールの姿が、はっきりと映った気がした。
庭の陽に透ける漆黒の髪。
愛らしくも芯のある物言い。
我が道をいながら周囲を惹きつけるその空気。
あの頃、何もかもがこれからだった少女が、
どこかで静かに今も息づいているのだと思うと、
時を越えて、胸の奥が優しく締めつけられた。
「アルタイル」
シリウスはふと顔を上げ、少年に目を向ける。
「いいね、君の妹。かわいくて、元気で」
アルタイルは少し照れたように頷いた。
「……ありがとうございます」
そんな兄と妹の姿に、シリウスは思った。
生きていたんだな。
かつて諦めた人。
もう二度と触れられないと思っていた風景。
それがこんな風に、血のつながりの先で、笑って息をしている。
この時間が、奇跡のように愛おしかった。
ホグワーツの夜は、本来であれば静けさに包まれていたはずだった。
けれどその夜はちがった。
シリウス・ブラックに連れられて巡る“冒険”は、すべてが型破りだった。
秘密の通路、誰も知らない塔の上、夜の湖畔──
行く先々どこも、校則を片手でひょいと超えていくような場所ばかり。
けれど、それが信じられないほど楽しかった。
まるで、眠らない夜の中に入り込んだようだった。
時の針が意味を持たず、しょっちゅう何かを破って笑って、
逃げるように走って、また違う道からスッと潜り込む。
夢中になるって、こういうことか。
アルタイルは本当に初めて、時間を忘れて笑っていた。
「ほら、セレナ。女の子にはこりゃ飛び越えられないだろ。……よし、こい」
目の前の古びた石橋は、たしかに少女の足では無理そうな高さだった。
そう言ってシリウスは屈みながら、
まるで自然な動作として、セレナを軽々と抱き上げる。
啞然としながらも嬉しそうに笑うセレナが、
ふわりと空を越えて、彼の肩を超えた。
豪快さの中にも、どこまでも優しい気遣いがあった。
その仕草が、アルタイルにはずっと心に残った。
自分の大事な妹を、ちゃんと見てくれる。
守ってくれる、雑に扱わない。
それがこんなにも胸に沁みるとは思っていなかった。
「……アルタイル」
小さく、名前が呼ばれる。
その声音は、夜風のなかでもはっきりしていて、優しさと弾みがあった。
次が待ってる、という顔で、シリウスが扉の影で振り返る。
「行くぞ」
その一言に、アルタイルは迷うことなく頷いた。
不安はなかった。
ただその背中を追いかければ、何かがきっと変わる。
踏み越えていい境界線を、教えてくれる気がした。
この人は、後ろを振り返って待っていてくれる人だ。
けれど、先に立って歩いてくれる人でもある。
「はい」
そう返して足を踏み出す。
暗がりの中に、小さな足音が跳ねた。
空には星が瞬いていて、
夜の静寂が決して“閉じ込めるもの”ではないことを、
教えてくれているようだった。
シリウスの背中に差し込む月の光が、段差のたびにかすかに揺れる。
そこにある希望のようなものが、やさしく、確かだった。
そしてアルタイルは思った。
この夜も、たぶん一生、心から離れない。
塔を抜け、渡り廊下を越えた先――
満月が湖面に柔らかな光を落とす場所に、三人の影がひっそりと揃って立っていた。
シリウス・ブラックは少しだけ前を歩きながら、
ときおり振り返ってアルタイルとセレナを待っていた。
夜のホグワーツはひっそりと、淡い魔法の気配を漂わせている。
その静けさの中で、小さく足音が続く。
「こんなところがあるなんて、知らなかったです」
アルタイルがそう口にしたとき、声には素直な驚きが混じっていた。
湖に面した古い回廊。
生徒のほとんどが気づかないこの場所は、夜風と石の香りが混ざる、どこか懐かしい静寂を抱いていた。
「ああ……」
シリウスは低く、けれど確かに笑って頷いた。
「お前たちの母さんと、よく来ていたよ」
視線は夜の湖に向いていた。
でもその言葉は、しんとした夜気に吸い込まれるように、過去へと落ちていく。
アランと過ごした夜。
屋上で語り合った夢。
書棚の影で指先が触れ合ったときの胸の鼓動。
寮へ戻らず、星を見上げながらふたりで未来を想像したこともあった。
どこまでも甘くて、どこまでも切ない。
叶わなかった未来。
それでも誰よりも心に残り続けた女の面影。
それが今、目の前のふたりの子供たちを通して、
形を変えて、再び自分の時間の中に立ち現れていた。
アルタイルの真面目すぎる口調。
慎重に選ばれた短い言葉。
セレナの大きな瞳と、無邪気に跳ね回る明るさ。
あのふたりにあった全てを、柔らかに混ぜ合わせたような存在。
隣で軽石を蹴っていたセレナは、シリウスの言葉を一瞬だけ不思議そうに振り返る。
けれど、すぐに鳥の声に気を取られて、何も言わなかった。
――まだ、その言葉が持つ意味を完全に理解できる年齢ではない。
けれど、アルタイルのほうは黙っていた。
少しだけ瞳を伏せるように、夜風に髪をなびかせている。
心の中で、その言葉の温度だけは、確かに受け止めていた。
これがどういう人だったのか。
母にとってどんな存在だったのか。
そしていま、自分たちに向けられている視線に、
どれほどの感傷と、祈りが滲んでいるのか。
まっすぐに言葉にはできない。
けれど、目の前の「静けさ」の中に、それが在ることを感じていた。
「ここは、夜が終わる前に立ち寄るのに一番いい場所なんだ」
シリウスがふと、ひとりごとのように言った。
その声が、月の色と混じってやさしく広がった。
この時間は、ふたりの少年少女にとって冒険の続きかもしれない。
けれどシリウスにとっては――
叶わぬ過去をなぞるようでもあり、
けれどほんの少し、和らげるような救いでもあった。
失ったものは戻らない。
でも、次の世代の足元に、そっと灯せる灯があるなら。
その背中を照らす火として、
彼はそこで、静かに佇んでいた。
シリウス・ブラックと過ごした夜のあと、アルタイル・ブラックは、
母へ宛てた手紙の便箋を前に、長いこと筆を取れずにいた。
淡くインクの匂いがたちのぼる机の上に、書きかけの一文を伏せる。
その真上から、緩やかな午後の陽が差し込んでいた。
伝えたい気持ちは、確かにあった。
でも、伝えてはいけないことのようにも思えた。
シリウスとのことを、手紙に書くかどうか――長く悩んでいた。
けれど最後には、そっと首を振った。
やめたほうがいい、と。
父が一緒に見るかもしれない。
そう思った途端、胸の奥にある確かなものが、するりと影に入った。
セレナにも、それとなく伝えていた。
「お母様に出す手紙には、シリウスおじさまのことはあまり書かないで」と。
どこまでわかっているのか、セレナの表情は曇らず、返事も軽かったが、それでよいと思った。
このことは――ふたりきりになったときに、そっと伝えるくらいでよい。
それがきっと、大人になることなのだと感じていた。
まるで、恋を秘めておくような気持ちだった。
言葉にすることでこぼれてしまいそうな何かを、胸の奥深くに大切に沈めておく。
シリウスの目を見て思った。
母は、きっとこの瞳をずっと見てきたのだ。
言葉で伝えられないときも、微笑みながら黙って隣にいるときも。
彼の灰色の目は、底なしに優しくて、強かった。
ただそばにいて、受け止めてくれる。そういう人だった。
そうか。
母は、こんな人に愛されていたのだと思った。
しかも、本気で。
分かる気がした。
なぜ父がこんなにもシリウスを憎むのか。
母を巡る少年たちだったことも、もちろんある。
けれど、それだけではない。
父とシリウスは――あまりにも対照的だった。
片方にあるものが、片方にはなかった。
シリウスには破天荒な自由があった。
父には揺るぎない誠実さがあった。
愛のかたちも、沈黙の意味も、二人はきっとすれ違ったままだった。
そして、その狭間で、選ばれたも、選んだのも、母だった。
ふしぎな偶然。
不思議な必然。
同じ少女が、ふたりの男に愛された。
それが、互いの胸に悲しみの影を落としながらも、
優しく、どこか静かな物語の一枚として残っていることが、
何だか切なくて――美しかった。
アルタイルは、柔らかく目を閉じた。
一瞬、瞼の裏に浮かんだシリウスの笑顔と、
母が窓辺に座っていたときの横顔が、重なって見えた。
書斎の扉が静かに開かれ、差し込む夕方の光が乱れた室内を照らしていた。
机の上に置かれていた書類、ペン立て、インク壺――それらすべてが床に散らばり、
重厚な絨毯の上に無造作に転がっている。
レギュラス・ブラックは、その惨状の中央に立ち尽くしていた。
肩で息をし、拳を強く握りしめたまま。
シリウス・ブラックがホグワーツで教鞭を取っている――
その事実を知った瞬間、理性という名の綱が音を立てて切れた。
誇り高き自分の子供たちが、
あの忌々しい男に教わるなど――
この家の誇りが、絶対に許さない。
怒りは溢れかえり、抑えることができなかった。
机上のものを片端から払い落とし、それでもまだ収まらない激情が胸を焼いていた。
「レギュラス……入るわよ?」
扉の向こうから、アランの心配そうな声が聞こえた。
大きな物音に驚いて、様子を見に来たのだろう。
彼女が部屋に入ったとき、その翡翠の瞳は荒れ果てた室内を見て、驚きに見開かれた。
いつも整然としていた書斎が、まるで嵐が通り過ぎたかのような有様になっている。
「……シリウス・ブラックが、ホグワーツで教鞭を取っているそうですよ」
レギュラスの声は低く、抑制を効かせているようでいて、その奥に激しい怒りが燻っていた。
アランの表情が、一瞬で変わった。
目を見開き、唇がわずかに開かれる。
それは純粋な驚きの表情だった。
だが、そこに嫌悪は一切浮かんでいなかった。
ただの驚き――それ以上でも、それ以下でもない反応。
その事実が、レギュラスには腹立たしかった。
もしかして――本当は知っていたのではないか?
子供たちから何か聞いていたのではないか?
そんな疑惑が、胸の奥で黒い煙のように立ち上がってくる。
「……知ってましたか?」
その問いは、静かだったが鋭い刃を含んでいた。
アランは、小さく、けれどはっきりと首を振った。
その仕草には嘘偽りがないように見えたが――
レギュラスの心は、もはや疑念の渦に囚われていた。
夕陽が窓から斜めに差し込み、
散らばった書類の上に長い影を落としている。
二人の間に横たわる沈黙は、重く、息苦しかった。
過去の影が、またしても彼らの現在に暗い翳を落としていた。
書斎の惨状を後目に、レギュラス・ブラックは立ち上がった。
足早にクローゼットへ向かい、黒いコートを手に取る。
その動きには迷いがなく、明確な意志が込められていた。
「どこに行こうとしているの?」
アランの声が、彼の背中に向けられた。
心配と困惑が混じった、静かな問いかけ。
「ダンブルドアに抗議を」
レギュラスは振り返ることなく、簡潔に答えた。
コートの袖に腕を通しながら、その表情は石のように硬い。
「待って、レギュラス――」
アランが一歩前に出る。
その翡翠の瞳には、切実な光が宿っていた。
「子供たちが、居づらくなるわ」
その言葉に、レギュラスの手が一瞬止まった。
親が学校に乗り込んで、教師を変えろと抗議する――
もし子供たちがそれを知ったら、どれほど恥ずかしい思いをするだろうか。
どれほど居心地の悪い思いをするだろうか。
学校は家とは違う。
長い時間を友人と共に過ごす、第二の家となるところ。
子供たちにとってそこは、守られるべき聖域であり、
親が土足で踏み入っていい場所ではないはず――
アランの心の奥には、そんな想いがあった。
だが、レギュラスは振り返った。
その目には、冷たい怒りが燃えていた。
「なんです? 今度はシリウスを守ってくれとでも言うつもりですか?」
その言葉は、刃のように鋭く、アランの胸を突いた。
「そうじゃないわ――」
アランは首を振り、必死に訴えかける。
「子供たちのことを考えて」
夫婦の意見は、あまりにも対照的だった。
レギュラスは、家の誇りと怒りに駆られていた。
シリウス・ブラックという存在を、自分の子供たちから遠ざけたい一心で。
アランは、子供たちの立場を案じていた。
学校という彼らの居場所を、大人の感情で乱したくない一心で。
どちらも愛から発している想い。
けれど、その愛の向け方が、まったく異なっていた。
書斎に漂う夕陽の光が、二人の間に横たわる溝を照らしていた。
散らばった書類が、まるで彼らの心の乱れを表しているかのように、
床に無造作に転がっている。
沈黙が流れる中、レギュラスの手はまだコートの襟を握りしめていた。
アランの瞳には、静かな哀しみが宿っていた。
同じものを愛しているはずなのに――
なぜこんなにも、すれ違ってしまうのだろうか。
レギュラス・ブラックは、アランに背を向けたまま書斎を出ていった。
彼女の必死な声も、心配の込もった表情も、もはや彼の決意を揺るがすことはできなかった。
「待って、レギュラス――」
アランが慌てて後を追う。
足音が廊下に響き、彼女のドレスの裾が床を掃いていく。
廊下の先には、偶然にもフィロメーヌの姿があった。
彼女は窓辺で読書をしていたようで、突然の足音に顔を上げる。
「ちょうどよかったです、フィロメーヌ嬢」
レギュラスは立ち止まると、彼女に向けて冷静に声をかけた。
「妻の話し相手をしていてくれませんか」
その言葉と同時に、レギュラスは背後に杖を向けた。
振り返ることなく、静かに呪文を唱える。
「インペディメンタ・ムルティプレックス」
複数の阻害呪文が廊下に張り巡らされ、目に見えない魔法の網がアランの進路を塞いだ。
さらに「コンフンダス・パッシブ」の呪文が重ねられ、足元が不安定になる感覚に襲わせる。
アランは突然、身体が思うように動かなくなった。
まるで見えない壁に阻まれたかのように、前に進むことができない。
足元がふらつき、バランスを崩しそうになる。
その隙に、レギュラスは姿くらましの魔法を使った。
空気が微かに揺れ、彼の姿は跡形もなく消え去った。
「レギュラス!」
アランの声が空しく廊下に響いたが、もう彼の姿はどこにもなかった。
「フィロメーヌ!」
アランは振り返ると、困惑している彼女に声をかけた。
「杖を貸してちょうだい――お願い」
フィロメーヌは状況を理解できずにいたが、アランの切迫した様子に杖を差し出した。
「フィニート・インカンタートゥム」
アランは借りた杖で魔法の解除を試みる。
しかし、レギュラスが張り巡らせた呪文は幾重にも重なっており、
一つ解除してもまた別の呪文が現れる。
「アロホモーラ・リベラーレ」
「ディスペル・バリエーラ」
次々と解除呪文を唱えるが、それは時間のかかる作業だった。
レギュラスは用意周到に、様々な種類の阻害呪文を組み合わせていたのだ。
汗が額に浮かぶ頃、ようやく最後の呪文が解けた。
だが、その時にはもう手遅れだった。
レギュラスはとっくに屋敷を出て、ホグワーツへ向かっているだろう。
アランは廊下に膝をつき、フィロメーヌの杖を返しながら、
深いため息をついた。
夫の怒りを止めることができなかった。
子供たちを守ることができるだろうか――
そんな不安が、彼女の胸を重く圧迫していた。
それでもここに留まってはいられなかった。
日が落ち切って門が閉められてしまう前に、ホグワーツに向かわなければ。
アランは自室へ急いだ。
ドレッサーの引き出しから自分の杖を取り出し、深く息を吸い込む。
体調を崩しているわけではなかった――けれど、長らく使っていなかった姿くらましの魔法は、身体への負担が大きいことを覚悟していた。
「ディスアパレーション」
瞬間、世界が歪んだ。
身体中が引き裂かれるような感覚、内臓がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような苦しさ。
息が詰まり、視界が暗転しそうになる。
それでも――着地した時、アランはホグワーツの敷地内にいた。
石造りの城が夕闇の中に聳え立っている。
かつて自分も、レギュラスも、そしてシリウスも過ごした場所。
無数の思い出が詰まった、神聖な学舎。
こんな場所が、大人の都合で歪められてはいけない。
どちらかに偏った意見で「正される」なんて、あってはならないはず。
子供たちの居場所を、大人の感情で汚してはいけない。
息を整えながら、アランは校長室へ向かった。
螺旋階段を上り、重厚な扉の前に立つ。
中から声が聞こえてくる――レギュラスの声だった。
やはり、ここにいた。
扉をそっと押し開けると、そこには予想通りレギュラスの姿があった。
ダンブルドア校長の前で、何かを熱弁している最中。
レギュラスはアランの姿を見るなり、深いため息をついた。
「……よく、あれだけの防御を掻い潜りましたね」
その声には、諦めと苛立ちが混じっていた。
自分が張り巡らせた複数の呪文を、よくも解除してきたものだという意味が込められている。
ダンブルドアは、この夫婦のやり取りを穏やかな目で見守っていた。
その蒼い瞳には、理解と慈愛が宿っている。
「アラン、久しいのぉ」
校長の声は温かく、争いを鎮めるような響きがあった。
「二人ともここへ来るのは卒業以来じゃの」
アランは静かに頷き、レギュラスの隣に立った。
夫の肩が微かに緊張しているのを感じながら、彼女は校長に向き直る。
「申し訳ございません、校長先生。主人が……」
「いやいや、心配には及ばん」
ダンブルドアは手を上げて制した。
「親が子供の教育環境を気にかけるのは自然なことじゃ」
その言葉の中に、この状況を穏やかに収めようとする意図が感じられた。
夕陽が校長室の窓から差し込み、三人の影を長く伸ばしていた。
校長室の重く古びた扉の向こう側で、レギュラス・ブラックは握りしめた杖の先を震わせながら、声を荒げた。
その声には抑えきれない苛立ちと、深い怒りが込められていた。
「シリウス・ブラックが教壇に立つことなど、教師として許されるはずがありません」
その言葉は、厳しく、揺るがぬ決意が燻っていた。
一瞬、アランは小さく息を呑み、視線を落とした。
目の前に浮かんでは消える、シリウスを慕う生徒たちの笑顔が胸を痛ませていたのだ。
窓から差し込む夕陽が、静かに校長室を照らす中、
アルバス・ダンブルドアは穏やかに眉を上げた。
蒼い瞳がゆっくりとレギュラスに返される。
「そうかのう。彼を慕う生徒は、とても多いのだがな」
その穏やかな声音の裏に、秘められた重みが室内の空気を一瞬沈黙させた。
だが、レギュラスは一歩も引かなかった。
「ええ、ブラック家にマグルの少女アリス・ブラックと共に忍び込んだ事件をお忘れですか。
使用人まで命を落としたのです。
あの件は、私どもが取り下げたからこそ、あの男がアズカバン送りを免れているに過ぎません。
そんな人物が、教鞭を執るなど、到底許されるはずがありません!」
その言葉の一つ一つに凄味があり、
一瞬だけダンブルドアが目を伏せたのは、過去の影が重くのしかかったからだろう。
しかし、すぐに彼は静かに顔を上げて言った。
「――それは、もう過ぎたことじゃ」
「過ぎたこととして目をつぶって差し上げているのは、こちらの側なのですよ」
レギュラスは短く、鋭く返す。
譲るつもりがない硬い決意がその声に滲んでいた。
アランには、その姿が苦しげに映った。
「レギュラス……お願い、もうやめて」
彼女は小さく呟いた。
そして彼の腕にそっと触れるが、レギュラスは振り払うようにその手を振り解いた。
杖を構えたまま、冷徹な目で校長へ詰め寄る。
その険しい輪郭は、ただの怒りではなかった。
愛する者を守りたいという強い思いの裏に、
父として、夫として、交錯する怒りと不安、そして深い苦しみが見え隠れしていた。
しんと静まった校長室に、ふたりの声だけが重く響いた。
言葉と沈黙が交錯するその空間で、
それぞれの胸に抱えた矛盾と葛藤が、暗い影のように漂っていた。
ダンブルドアとの話し合いは、結局どこまでも平行線を辿った。
校長の口から紡がれた言葉は揺るがず、穏やかに響いていた。
「子供たちが何を学び、何を得るかは、その子供たち次第じゃ」
「親がどんなに導こうとしても、親元を離れ学ぶ以上、選ぶ権利は彼ら自身にある」
その姿勢は毅然として揺るがなかったが、レギュラスの胸に沸き起こる激しい感情はどうにも収まらなかった。
帰り道、闇が少しずつ街並みに降りてきていた。
レギュラスは、いつになく険しい表情で石畳を踏みしめていた。
その背中には、苛立ちが不器用に滲んでいた。
「お先に帰ってくれて構わないわ」
アランは声をかけた。
彼女は静かに歩きながら、疲れた様子を隠そうとしていたが、
レギュラスにはその疲労がはっきりと見えていた。
「姿くらましで屋敷に戻ってくれて構わないわ」
アランの提案だった。
しかし今の自分の体調を振り返り、その魔法は正直難しいと思っている。
さっき一度使っただけで、心臓がバクバクと高鳴って、
まるで身体の中がかき混ぜられたような不快感がずっと続いているのだ。
だから、アランはレギュラスが先に帰るのを気にしなかった。
彼女の疲労を察したのだろう。
レギュラスは小さくため息をつき、足を止めた。
「なぜ、無茶を?」
その言葉には、責めるよりも深い気遣いが宿っていた。
は何も答えずに俯いた。
冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。
一瞬、寂しさのようなものがそこに立ち込める。
けれど、確かに互いを思いやる気持ちが、言葉以上の存在として横たわっていた。
大人になっても、
疲れても、
すれ違っても、
大事なものがまだそこにある―
そう静かに確かめ合うように。
アランの体調を考慮すれば、ゆっくりと帰路につくしか選択肢はなかった。
特急列車のホームに立つと、蒸気と汽笛の音が夜の空気に響いていた。
久しぶりに乗る列車――おそらく学生時代以来だろう。
あの頃は、希望に満ちた若い心で故郷とホグワーツを行き来していた。
今は状況がまるで違っていたが、その懐かしい感覚が胸をかすめた。
レギュラスは、窓際の席にアランを座らせた。
彼女の顔には疲労の色が濃く現れ、体調の辛さを隠しきれずにいた。
それでも、必死に何でもないようなふりをしている姿が――
レギュラスには、見ていて苦しかった。
列車がゆっくりと動き出すと、窓の外に夜の風景が流れていく。
アランは頬杖をつきながら、その景色をぼんやりと眺めていた。
「どうありますか?家に着いたら医者を呼びましょう」
レギュラスの声には、心配が滲んでいた。
隣の席から、彼女の様子を注意深く見守っている。
「大丈夫です……一晩寝たら平気になります」
アランは微笑みを浮かべて答えたが、その声は少しかすれていた。
またしても、レギュラスからため息が漏れる。
車内は静かで、他の乗客の話し声が遠くで響いていた。
二人の間には、言葉にならない気遣いと心配が漂っている。
レギュラスは、アランの手にそっと自分の手を重ねた。
その手は冷たく、細い指が震えているのを感じた。
「無理をしないでください」
そう呟きながら、彼は彼女の手を温めるように包み込んだ。
窓の外では、星が静かに瞬いていた。
長い一日が終わろうとしている中で、
二人は静かに寄り添いながら、家路を辿っていた。
特急列車のゆらぎが、夜の静寂を細かく刻むように、二人の座席を揺らしていた。
レギュラスは窓外の流れる闇に目を向けながら、隣のアランをそっと見た。
彼女は必死に体調の不調を悟らせまいと、俯いて手元を整えている。
それでも、吐息の切れ間に揺れる肩の動きからは、今にも崩れ落ちそうなほどの疲労が透けて見えた。
――あんなことをしてしまった。
アランに向けて杖を振ったあの瞬間が、頭の中で何度も反芻される。
足止めのための呪文だったとはいえ、愛する人に杖を向けるなど、あまりにも最低だった。
無言の糾弾を浴びせられているように感じてしまうのは、彼女の瞳が自分を責めているからだろうか。
心の深いところで、後悔がひりひりと疼く。
シリウスの名が絡むと、わずかに年を重ねても激情を抑えられない自分がいる。
理性を取り戻そうと必死に歯を噛んでも、その感情はどうしようもなく暴れ出す。
情けないくらいに、心が揺さぶられてしまうのだ。
隣で小さく震えるアランの手を、レギュラスはそっと包み込んだ。
その指先に触れる温もりが、沈黙を少しだけ和らげる。
「――すみません」
言葉にならないほど胸が苦しくて、レギュラスはかすれた声で呟く。
アランは一瞬だけ顔を上げ、その翡翠の瞳で彼を見つめた。
そこには、責めではなく、まっすぐに寄り添う慈しみがあった。
「大丈夫です、レギュラス」
彼女の小さな返答は、何より深い赦しの証だった。
けれど、シリウスの影が胸に引き金を引くかぎり、
この激情を完全に抑え込むことは――
まだ、難しいのだと思った。
新学期がはじまり、城内には希望と緊張のざわめきが響いている。
その年、アルタイル・ブラックは進級の節目を迎えた。
寮の色をよく映す深緑のローブが、彼の背を引き締めていた。
そしてようやく――
待ちわびていた日が巡ってきた。
妹、セレナ・ブラックが、今年ホグワーツに入学してきたのだった。
大広間の組み分け帽子が、彼女の髪の上にそっと載せられると、わずかに口元が動いた。
「……スリザリン!」
その瞬間、緑と銀の卓に拍手と歓声が広がった。
誰かが手を叩き、誰かが軽く立ち上がってセレナの名を呼ぶ。
そのなかで、セレナは躊躇うことなく兄のもとへ駆け寄ってきた。
「お兄様っ!」
小さく背伸びをして、彼の肩に胸を当てるようにして喜びをはね返す。
誇らしげな笑顔。肩越しに跳ねる声。
アルタイルは静かに微笑みながらも、胸の奥で込み上げる感慨をきゅっと押しとどめた。
妹の眩しい制服姿が、何よりも年月の早さを物語っていた。
それから数日後、防衛術の授業初日。
担当教授の変更が正式に知らされた。
リーマス・ルーピン――
騎士団メンバーのひとりであり、伝説を語られる中の確かな存在感を持つ魔法使いだ。
アルタイルは、その名前を聞いた瞬間、胸の内側がふわりと温かくなった。
あの日から、待っていた。
本物の、過去を知っている大人が、自分たちの前に立つ日を。
ルーピンの授業は、静かだった。
だが、その芯には確かな実力が感じられた。
言葉はやさしく、端整に選ばれているのに、
その穏やかな口調の裏に潜む強さ――それを敏感に察した生徒たちは自然と尊敬の眼差しを向けるようになっていた。
アルタイルもまた、密かにその授業を楽しみにしていたひとりだった。
特に防衛術では、彼の描く魔法の軌跡や、理論の鮮明さが際立っている。
将来的に飛躍したいと夢見る少年たちにとって、それは教科以上の意味を持つ。
そしてある日、ルーピンが課外授業の案内を言い渡した。
「――特別講師として、ある人物をお招きする予定です」
教室にかすかなざわめきが生まれた。
そのあとに続いた名前で、それは一気に歓声へと変わる。
「シリウス・ブラック」
一瞬で教室がざわめいた。
伝説の男――最強の決闘者、王族をも守った不屈の騎士団の誇り、
そして、己の血統をも乗り越えた“自由”を象徴する名。
少女の甘いため息、小声の感嘆、
少年たちの目には興奮と期待に満ちた光が宿っていた。
アルタイルは、そのすべてを受け止めながら、
自分自身の高鳴りを微笑んで飲み込んだ。
自分もまた、その“伝説”を胸に焦がす少年の一人だ。
かつて自分の家でひそやかに語られた名。
父が寡黙に、けれど確かな敬意と痛みと共に話した男の名。
母が決して口には出さず、それでも一枚の写真のなかで柔らかく笑みを浮かべる彼に、目を留め続けていた優しさ。
アルタイルの中で、それはずっと、どこか夢のような存在だった。
その人が、今――このホグワーツに、来る。
自分のためではない。
けれど、それでも構わなかった。
多くの生徒と同じように、
どこにでもある興奮のなかで、胸を躍らせて待ちたいと思った。
自分もまた――そんな、ありふれた少年のひとり。
そう思えることが、
なぜだか少し、誇らしいような気がしていた。
秋の終わりの風が、ホグワーツの広い中庭に金の葉を舞わせていた。
薄曇りの空の下、石畳の一角に特別な緊張と熱気が集まっている。
その中心に立っていたのが、シリウス・ブラックだった。
高く張った背筋、滑るような所作、
黒髪の長い束が風に揺れて、灰色の瞳が鋭く空気を斬る。
ただそこに佇むだけで、伝説の名が現実となったような存在だった。
初めてシリウス・ブラックを見たとき、
胸がときめいた――などと言ってしまうのは、少し違うような気がした。
けれど。
心が跳ね上がるように踊った。
それが偽らざる感覚だった。
同じ“男”として見ているはずなのに、
その輪郭が、理屈を越えて心の中にずしりと刻まれていくのを感じた。
シリウスの背後には、リーマス・ルーピンの姿があった。
穏やかな瞳で説明を挟みながら、その進行を見守っている。
防衛術の実践課外授業としてふたりが並び立つその光景は、
まるで戦場に咲く伝説そのものだった。
シリウスの杖さばき。
踏み出す足の運び。
誰もが夢中で見入っているなか、アルタイルもまた、目を逸らすことができなかった。
シリウスは、父と似ている。
けれど根本のところで“違う”。
父、レギュラス・ブラックはいつも静かで、規律に整った人だった。
正しさを背中で語るような人――怒ると静かになることが、一番の恐怖だったりする。
シリウスは違う。
その沈黙の代わりに、よく燃える火を抱えている。
寡黙さの奥で何かを押し殺すのではなく、感情を纏って逆風の中を真っ直ぐに立ち続ける、そんな雰囲気があった。
その姿は、ただ“父の兄”という言葉では分類しきれなかった。
男だった。
大きく、強く、そしてなぜか少し哀しい影を背負っていた。
この人が――シリウス・ブラック。
そう思うたび、胸の奥で何かが波立つ。
父が、あれほど嫌っていた男。
けれど、母が――いまもきっと、心の奥底で愛しているであろう男。
堂々と彼を語ることのない母の静けさ、
写真を見つめるときのあのやわらかな表情。
それらの積み重ねが、アルタイルの中の“シリウス像”を長年ゆっくりと形づくっていた。
そして今、それが目の前にいる。
本当に、存在している。
「――君がアルタイルか」
練習の合間にふと、シリウスが目線をこちらに向けた。
灰色の瞳が、少年の名前を呼んだその瞬間、時が止まったように思えた。
アルタイルは、頷くのがやっとだった。
言葉にならない想いが、喉の奥で波打っていた。
この人は、母を今どう思っているのだろうか。
そして――父と母のあいだに生まれた自分のことを、どう見ているだろうか。
簡単には訊けない問いばかりが、胸に膨れていく。
けれどそれでも。
いまこの距離で、その目を見ているだけで、何かが確かに伝わる気がした。
自分は、この人を知りたい。
彼の人生を、彼の“戦った過去”を、彼が母をどう想い、父とどれだけ異なる世界を選んできたかを。
そして、いつかきっと、
この胸に浮かんだ敬愛の正体が、言葉になる日が来ると、静かに願っていた。
授業が終わって、生徒たちは笑い声を立てながら次の教室へと移動していった。
ホグワーツの石造りの中庭には、スリザリンの緑やレイヴンクローの青が風に揺れている。
だが、その流れにアルタイル・ブラックの姿はなかった。
彼は、ただひとり、教室の出口に立ち尽くしていた。
背筋を伸ばし、動く理由もなく、ただ前方の気配を見つめている。
ほんの少しだけでいい。
あの人と話がしたかった。
ほんの一言でも、目に留まりたかった。
胸が、ずっと高鳴っていた。
「アルタイル……だったな」
その低く響く声が、自分の名を呼んだとわかったとき、背筋にひやりとした風が走った。
振り向けばそこに――シリウス・ブラックがいた。
少し顔をほころばせた彼が、無造作に近づいてくる。
堂々としながらも、少年の目線に合うまで少し屈むようにして、優しく訊いた。
「はい……アルタイル・ブラックです」
アルタイルの声は思ったより掠れていたが、それを気にする間もなく、
シリウスの手が彼の髪に触れた。
くしゃり、と音も立てずに髪を撫で、指先でゆるやかに揉むように梳かれた。
親が子に触れるような、思い出すような、温かな手。
驚きで固まっているアルタイルに、シリウスはやさしく笑った。
「……レギュラスそっくりだな」
その一言で、心の奥に針のようなものが落ちた。
確かに、自分は父に似ている。
髪の質、骨格の輪郭、真面目すぎるところまでも、母によく言われる。
そのことは誇りだった。
けれど、シリウスと父は敵対している。
彼の声に敵意があったわけではない。けれど――
そう言われて、ひどくこわかった。
この手が、どこにも属せぬ気がしたのだ。
過去の確執と、偶然の遺伝が、ほんの一瞬、
アルタイルの中で継ぎ目のない痛みになって広がった。
そのとき、弱く咳払いをしながらやってきたのは、授業の片付けをしていたリーマス・ルーピンだった。
棚にしまわれていた防衛用の教材を手にしながら、軽く笑って言う。
「アランは元気かい? このひと、シリウスったら、そればっかり気にしてるんだ」
にこやかに茶化すような声。
その言葉に、シリウスが肩をすくめた。
「……やめろ、リーマス」
低く、けれどどこか困ったように苦笑して。
リーマスは片目だけまばたきしながら、気を利かせたように去っていく。
そしてアルタイルは、息もできずに立っていた。
その会話だけで――胸がいっぱいになった。
母が一人で抱えていたと思っていた想い。
誰にも言わずに、記憶の奥にしまっていた感情。
それが、きっと相手の中でも同じように在り続けていたということ。
あの人も、忘れていなかった。
母を。
きっと一度たりとも――。
何も言葉にならなかった。
けれど、嬉しかった。
ただそう思えた、その事実だけで、胸が熱くなった。
シリウスは何も言わず、それ以上髪に触れもせず。
ただ、リーマスのいる方へ歩き出す。
けれどアルタイルが見つめるその背中には、決して消えることのない光が確かにあった。
母に抱かれた初恋のように、
少年の胸にそのまま刻みつけられていく。
――それが、初めて本当に出会った、自分と伝説との距離だった。
それから何度か、シリウス・ブラックの課外授業が行われた。
風に音を立てて揺れる湖のそば、野外に設けられた円形の訓練場。
そこに立ち並ぶ生徒たちの目は、初回の興奮こそやわらいだものの、
いまだ彼に向けられる視線には、目に見えない期待が光っていた。
アルタイル・ブラックもまた、その一人だった。
「――いいぞ、アルタイル」
その声は、どこまでも軽やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
「さすがだな」
「これは腕がいい。お前の構えには芯がある」
笑顔交じりに語られるその言葉は、天体の名を持つ少年の心を、
ふわりと浮かせる風のように優しく揺らした。
そのときのシリウスは、生徒としてではなく――
まるで、ひとりの若者として彼を見ていた。
子供扱いではなく、*真正面からの評価*。
それが、どれほど誇らしく、くすぐったく、そして何より嬉しかったか。
剣先をまっすぐ前に向けながら、アルタイルの声なき胸の奥では、黙っている誇りが熱く燃えていた。
父に褒められること。
それはいつも冷静な口調だった。
母に微笑まれること。
それは手のひらの温もりのようだった。
けれど――今の自分には、この人からのひと言が、
何よりも嬉しかった。
その事実に気づいたとき、自分の中のどこかが、小さくはにかんだ。
「すごいですね」と誰かが言ったとき、
「うん」とだけ、簡潔に答えた。
それ以上は何も言わなかったけれど、胸の中は満たされていた。
評価されただけではない。
彼の言葉には、重ねてきた日々の記憶が宿っていた。
自分という存在が、そこに何層にも折り重なって見られていると感じられた。
そして、シリウスの瞳の奥に浮かぶ浅い笑みの中には、
どこかで知っている誰かの面影を大切にしている光があって――
その光の中に、自分が含まれていることが、
ただ、嬉しかった。
言葉にするには青すぎる、けれど確かにそこにあった想い。
アルタイルはその日の夜、星が出ているのを見上げながら、
ただ静かに、この気持ちが消えずに残っていくことを願っていた。
初めてアルタイル・ブラックという少年を目にしたとき、
シリウス・ブラックは、何も訊ねるまでもなく彼が誰の子かを悟った。
その立ち姿、目元の鋭さ。
言葉を発する前から、彼にはレギュラス・ブラックの線が色濃く流れていた。
背筋の通り方や腕の構え、何より無駄のない沈黙の扱い方――
それらすべてが、若き日の弟を思い起こさせた。
けれど、どこかで思ってしまった。
「もうすこし、アランの要素が入っていれば」と。
だが、声を交わしてみればすぐわかった。
その中に、たしかにアラン・セシールが生きていることを。
話すときの柔らかな呼吸と言葉との間。
必要以上に目を見ないところや、敬語の選び方にすら、
彼女らしい慎ましさがあった。
過剰な自信を見せず、けれど黙って屈さずに、前を見据える静けさ。
ああ――この子は、たしかにふたりの間に生まれたのだと、そう思った。
いつかこの子を、腕に抱く日が来るのだろうか。
そんなことを、かつて夢のように想像していた自分がいた。
それが叶わないと気づいたあとも、時折ふと、その空想が胸に戻ってくることがあった。
だが現実は何の前触れもなく、時間を跳躍していた。
いつのまにかこの少年は、もう抱き上げるには大きすぎた。
背は肩まで届こうとし、杖を握る手つきには迷いがなく、
声は低く変わりつつあった。
――こんなにも、年月が経ったのか。
ただ、そのことだけが胸にじんわりと染み込んでいた。
沈む夕日を背に、ふたりが言葉を交わすのは、授業のあと。
荷を降ろした生徒たちが去っていった後の緩やかな時間。
焚かれたひとつの炎が中庭でまだぬるく揺れている。
「アランは……元気かい?」
その問いは、軽いものではなかった。
それを知ることに長い間躊躇いがありすぎて、
ようやく口にできたのはこんなにも歳月を越えてからだった。
アルタイルは少し黙って、きちんとレギュラスに似た話し方で答えた。
「……母は、妹を産んでから、病に伏せることが増えました」
たったそれだけの短い報告に、
シリウスの胸に、重い痛みが落ちた。
言葉を出す前に、深く息が呑まれていく。
アランが病に――その言葉だけで、
どれほどの日々が、彼女の静けさの中に沈んでいたのかを想像してしまう。
涙ではなく、喉の奥に詰まるような苦しさだった。
もう会うことはないのかもしれない。
もう、その細い肩に触れることもできないのだと…。
それなのに、この目の前にいる少年には、彼女の気配が生き続けているという事実だけが、
あまりにも切なかった。
「……そうか」
それ以上、言葉はなかった。
でもアルタイルは、黙ったままの大人が何を思っているか、
少しだけ察したように、視線を夕空へと向けていた。
燃えるような赤が空を染めていた。
それはやがて夜に変わる色ではあったけれど、
誰かを想うには、十分すぎるほど優しい光だった。
ある日の午後、緩やかな風が緑の芝をなでていた。
講義と講義の合間の一刻――シリウスが中庭の石畳を歩いていると、
遠くから馴染みある足音が聞こえてきた。
「……シリウス」
その可愛らしい声に振り向くと、アルタイルが誰かの手を引いて近づいてくる。
スリザリンのローブが風を孕み、小さな足取りが元気よく芝を駆けていた。
振り向いたシリウスの目の前に立ったのは、身なりを綺麗に整えた少女。
「セレナ・ブラック、妹です」
そう紹介して、アルタイルがわずかに口元を引き結ぶ。
例によって礼儀を忘れない厳格さが滲んでいた。
だが、シリウスの目はすぐに、その“妹”へと向かっていた。
……驚くほどに、レギュラスに似ていた。
顔の輪郭。
瞳のかたち。
ほんの少しだけ強情そうな口許までも。
あまりのそっくりさに、思わず口が緩んでしまう。
ふっと笑ってしまいそうになると、“その子”の眼差しが鋭く跳ねた。
「今、笑ったわね?」
表情豊かにそう言って、眉を上げてにらむようにシリウスを見上げる。
……随分と砕けた物言いだ。
その鋭ささえ可愛らしく、シリウスは口元を覆って笑いをこらえた。
「セレナ、やめなさい、ご無礼です」
隣のアルタイルが即座に身を引き、苦い顔で言う。
「すみません……セレナは、少々お転婆で……」
そう謝る口調には、兄としての責任感がきちんと漂っていた。
その姿はじつにレギュラスらしい。
けれど、シリウスはむしろ微笑を深め、それを手振りで制する。
「いや、いい。楽しくて、いいな」
そしてセレナの方を見やりながら、目を細めて言った。
「セレナ、今度一緒にホグワーツを冒険しようか。じっくり案内するよ」
少女の瞳が、ぱっと花のように開いた。
「えっ……本当に?」
「もちろん」
「ステキ! 絶対よっ!? 約束だからね?」
目を輝かせて何度も頷くその姿に、
シリウスは胸の奥に微かなあたたかさが灯るのを感じた。
ほんの一瞬だけだったが――
そのはしゃいだ笑顔のかたちの中に、若かりし頃のアラン・セシールの姿が、はっきりと映った気がした。
庭の陽に透ける漆黒の髪。
愛らしくも芯のある物言い。
我が道をいながら周囲を惹きつけるその空気。
あの頃、何もかもがこれからだった少女が、
どこかで静かに今も息づいているのだと思うと、
時を越えて、胸の奥が優しく締めつけられた。
「アルタイル」
シリウスはふと顔を上げ、少年に目を向ける。
「いいね、君の妹。かわいくて、元気で」
アルタイルは少し照れたように頷いた。
「……ありがとうございます」
そんな兄と妹の姿に、シリウスは思った。
生きていたんだな。
かつて諦めた人。
もう二度と触れられないと思っていた風景。
それがこんな風に、血のつながりの先で、笑って息をしている。
この時間が、奇跡のように愛おしかった。
ホグワーツの夜は、本来であれば静けさに包まれていたはずだった。
けれどその夜はちがった。
シリウス・ブラックに連れられて巡る“冒険”は、すべてが型破りだった。
秘密の通路、誰も知らない塔の上、夜の湖畔──
行く先々どこも、校則を片手でひょいと超えていくような場所ばかり。
けれど、それが信じられないほど楽しかった。
まるで、眠らない夜の中に入り込んだようだった。
時の針が意味を持たず、しょっちゅう何かを破って笑って、
逃げるように走って、また違う道からスッと潜り込む。
夢中になるって、こういうことか。
アルタイルは本当に初めて、時間を忘れて笑っていた。
「ほら、セレナ。女の子にはこりゃ飛び越えられないだろ。……よし、こい」
目の前の古びた石橋は、たしかに少女の足では無理そうな高さだった。
そう言ってシリウスは屈みながら、
まるで自然な動作として、セレナを軽々と抱き上げる。
啞然としながらも嬉しそうに笑うセレナが、
ふわりと空を越えて、彼の肩を超えた。
豪快さの中にも、どこまでも優しい気遣いがあった。
その仕草が、アルタイルにはずっと心に残った。
自分の大事な妹を、ちゃんと見てくれる。
守ってくれる、雑に扱わない。
それがこんなにも胸に沁みるとは思っていなかった。
「……アルタイル」
小さく、名前が呼ばれる。
その声音は、夜風のなかでもはっきりしていて、優しさと弾みがあった。
次が待ってる、という顔で、シリウスが扉の影で振り返る。
「行くぞ」
その一言に、アルタイルは迷うことなく頷いた。
不安はなかった。
ただその背中を追いかければ、何かがきっと変わる。
踏み越えていい境界線を、教えてくれる気がした。
この人は、後ろを振り返って待っていてくれる人だ。
けれど、先に立って歩いてくれる人でもある。
「はい」
そう返して足を踏み出す。
暗がりの中に、小さな足音が跳ねた。
空には星が瞬いていて、
夜の静寂が決して“閉じ込めるもの”ではないことを、
教えてくれているようだった。
シリウスの背中に差し込む月の光が、段差のたびにかすかに揺れる。
そこにある希望のようなものが、やさしく、確かだった。
そしてアルタイルは思った。
この夜も、たぶん一生、心から離れない。
塔を抜け、渡り廊下を越えた先――
満月が湖面に柔らかな光を落とす場所に、三人の影がひっそりと揃って立っていた。
シリウス・ブラックは少しだけ前を歩きながら、
ときおり振り返ってアルタイルとセレナを待っていた。
夜のホグワーツはひっそりと、淡い魔法の気配を漂わせている。
その静けさの中で、小さく足音が続く。
「こんなところがあるなんて、知らなかったです」
アルタイルがそう口にしたとき、声には素直な驚きが混じっていた。
湖に面した古い回廊。
生徒のほとんどが気づかないこの場所は、夜風と石の香りが混ざる、どこか懐かしい静寂を抱いていた。
「ああ……」
シリウスは低く、けれど確かに笑って頷いた。
「お前たちの母さんと、よく来ていたよ」
視線は夜の湖に向いていた。
でもその言葉は、しんとした夜気に吸い込まれるように、過去へと落ちていく。
アランと過ごした夜。
屋上で語り合った夢。
書棚の影で指先が触れ合ったときの胸の鼓動。
寮へ戻らず、星を見上げながらふたりで未来を想像したこともあった。
どこまでも甘くて、どこまでも切ない。
叶わなかった未来。
それでも誰よりも心に残り続けた女の面影。
それが今、目の前のふたりの子供たちを通して、
形を変えて、再び自分の時間の中に立ち現れていた。
アルタイルの真面目すぎる口調。
慎重に選ばれた短い言葉。
セレナの大きな瞳と、無邪気に跳ね回る明るさ。
あのふたりにあった全てを、柔らかに混ぜ合わせたような存在。
隣で軽石を蹴っていたセレナは、シリウスの言葉を一瞬だけ不思議そうに振り返る。
けれど、すぐに鳥の声に気を取られて、何も言わなかった。
――まだ、その言葉が持つ意味を完全に理解できる年齢ではない。
けれど、アルタイルのほうは黙っていた。
少しだけ瞳を伏せるように、夜風に髪をなびかせている。
心の中で、その言葉の温度だけは、確かに受け止めていた。
これがどういう人だったのか。
母にとってどんな存在だったのか。
そしていま、自分たちに向けられている視線に、
どれほどの感傷と、祈りが滲んでいるのか。
まっすぐに言葉にはできない。
けれど、目の前の「静けさ」の中に、それが在ることを感じていた。
「ここは、夜が終わる前に立ち寄るのに一番いい場所なんだ」
シリウスがふと、ひとりごとのように言った。
その声が、月の色と混じってやさしく広がった。
この時間は、ふたりの少年少女にとって冒険の続きかもしれない。
けれどシリウスにとっては――
叶わぬ過去をなぞるようでもあり、
けれどほんの少し、和らげるような救いでもあった。
失ったものは戻らない。
でも、次の世代の足元に、そっと灯せる灯があるなら。
その背中を照らす火として、
彼はそこで、静かに佇んでいた。
シリウス・ブラックと過ごした夜のあと、アルタイル・ブラックは、
母へ宛てた手紙の便箋を前に、長いこと筆を取れずにいた。
淡くインクの匂いがたちのぼる机の上に、書きかけの一文を伏せる。
その真上から、緩やかな午後の陽が差し込んでいた。
伝えたい気持ちは、確かにあった。
でも、伝えてはいけないことのようにも思えた。
シリウスとのことを、手紙に書くかどうか――長く悩んでいた。
けれど最後には、そっと首を振った。
やめたほうがいい、と。
父が一緒に見るかもしれない。
そう思った途端、胸の奥にある確かなものが、するりと影に入った。
セレナにも、それとなく伝えていた。
「お母様に出す手紙には、シリウスおじさまのことはあまり書かないで」と。
どこまでわかっているのか、セレナの表情は曇らず、返事も軽かったが、それでよいと思った。
このことは――ふたりきりになったときに、そっと伝えるくらいでよい。
それがきっと、大人になることなのだと感じていた。
まるで、恋を秘めておくような気持ちだった。
言葉にすることでこぼれてしまいそうな何かを、胸の奥深くに大切に沈めておく。
シリウスの目を見て思った。
母は、きっとこの瞳をずっと見てきたのだ。
言葉で伝えられないときも、微笑みながら黙って隣にいるときも。
彼の灰色の目は、底なしに優しくて、強かった。
ただそばにいて、受け止めてくれる。そういう人だった。
そうか。
母は、こんな人に愛されていたのだと思った。
しかも、本気で。
分かる気がした。
なぜ父がこんなにもシリウスを憎むのか。
母を巡る少年たちだったことも、もちろんある。
けれど、それだけではない。
父とシリウスは――あまりにも対照的だった。
片方にあるものが、片方にはなかった。
シリウスには破天荒な自由があった。
父には揺るぎない誠実さがあった。
愛のかたちも、沈黙の意味も、二人はきっとすれ違ったままだった。
そして、その狭間で、選ばれたも、選んだのも、母だった。
ふしぎな偶然。
不思議な必然。
同じ少女が、ふたりの男に愛された。
それが、互いの胸に悲しみの影を落としながらも、
優しく、どこか静かな物語の一枚として残っていることが、
何だか切なくて――美しかった。
アルタイルは、柔らかく目を閉じた。
一瞬、瞼の裏に浮かんだシリウスの笑顔と、
母が窓辺に座っていたときの横顔が、重なって見えた。
書斎の扉が静かに開かれ、差し込む夕方の光が乱れた室内を照らしていた。
机の上に置かれていた書類、ペン立て、インク壺――それらすべてが床に散らばり、
重厚な絨毯の上に無造作に転がっている。
レギュラス・ブラックは、その惨状の中央に立ち尽くしていた。
肩で息をし、拳を強く握りしめたまま。
シリウス・ブラックがホグワーツで教鞭を取っている――
その事実を知った瞬間、理性という名の綱が音を立てて切れた。
誇り高き自分の子供たちが、
あの忌々しい男に教わるなど――
この家の誇りが、絶対に許さない。
怒りは溢れかえり、抑えることができなかった。
机上のものを片端から払い落とし、それでもまだ収まらない激情が胸を焼いていた。
「レギュラス……入るわよ?」
扉の向こうから、アランの心配そうな声が聞こえた。
大きな物音に驚いて、様子を見に来たのだろう。
彼女が部屋に入ったとき、その翡翠の瞳は荒れ果てた室内を見て、驚きに見開かれた。
いつも整然としていた書斎が、まるで嵐が通り過ぎたかのような有様になっている。
「……シリウス・ブラックが、ホグワーツで教鞭を取っているそうですよ」
レギュラスの声は低く、抑制を効かせているようでいて、その奥に激しい怒りが燻っていた。
アランの表情が、一瞬で変わった。
目を見開き、唇がわずかに開かれる。
それは純粋な驚きの表情だった。
だが、そこに嫌悪は一切浮かんでいなかった。
ただの驚き――それ以上でも、それ以下でもない反応。
その事実が、レギュラスには腹立たしかった。
もしかして――本当は知っていたのではないか?
子供たちから何か聞いていたのではないか?
そんな疑惑が、胸の奥で黒い煙のように立ち上がってくる。
「……知ってましたか?」
その問いは、静かだったが鋭い刃を含んでいた。
アランは、小さく、けれどはっきりと首を振った。
その仕草には嘘偽りがないように見えたが――
レギュラスの心は、もはや疑念の渦に囚われていた。
夕陽が窓から斜めに差し込み、
散らばった書類の上に長い影を落としている。
二人の間に横たわる沈黙は、重く、息苦しかった。
過去の影が、またしても彼らの現在に暗い翳を落としていた。
書斎の惨状を後目に、レギュラス・ブラックは立ち上がった。
足早にクローゼットへ向かい、黒いコートを手に取る。
その動きには迷いがなく、明確な意志が込められていた。
「どこに行こうとしているの?」
アランの声が、彼の背中に向けられた。
心配と困惑が混じった、静かな問いかけ。
「ダンブルドアに抗議を」
レギュラスは振り返ることなく、簡潔に答えた。
コートの袖に腕を通しながら、その表情は石のように硬い。
「待って、レギュラス――」
アランが一歩前に出る。
その翡翠の瞳には、切実な光が宿っていた。
「子供たちが、居づらくなるわ」
その言葉に、レギュラスの手が一瞬止まった。
親が学校に乗り込んで、教師を変えろと抗議する――
もし子供たちがそれを知ったら、どれほど恥ずかしい思いをするだろうか。
どれほど居心地の悪い思いをするだろうか。
学校は家とは違う。
長い時間を友人と共に過ごす、第二の家となるところ。
子供たちにとってそこは、守られるべき聖域であり、
親が土足で踏み入っていい場所ではないはず――
アランの心の奥には、そんな想いがあった。
だが、レギュラスは振り返った。
その目には、冷たい怒りが燃えていた。
「なんです? 今度はシリウスを守ってくれとでも言うつもりですか?」
その言葉は、刃のように鋭く、アランの胸を突いた。
「そうじゃないわ――」
アランは首を振り、必死に訴えかける。
「子供たちのことを考えて」
夫婦の意見は、あまりにも対照的だった。
レギュラスは、家の誇りと怒りに駆られていた。
シリウス・ブラックという存在を、自分の子供たちから遠ざけたい一心で。
アランは、子供たちの立場を案じていた。
学校という彼らの居場所を、大人の感情で乱したくない一心で。
どちらも愛から発している想い。
けれど、その愛の向け方が、まったく異なっていた。
書斎に漂う夕陽の光が、二人の間に横たわる溝を照らしていた。
散らばった書類が、まるで彼らの心の乱れを表しているかのように、
床に無造作に転がっている。
沈黙が流れる中、レギュラスの手はまだコートの襟を握りしめていた。
アランの瞳には、静かな哀しみが宿っていた。
同じものを愛しているはずなのに――
なぜこんなにも、すれ違ってしまうのだろうか。
レギュラス・ブラックは、アランに背を向けたまま書斎を出ていった。
彼女の必死な声も、心配の込もった表情も、もはや彼の決意を揺るがすことはできなかった。
「待って、レギュラス――」
アランが慌てて後を追う。
足音が廊下に響き、彼女のドレスの裾が床を掃いていく。
廊下の先には、偶然にもフィロメーヌの姿があった。
彼女は窓辺で読書をしていたようで、突然の足音に顔を上げる。
「ちょうどよかったです、フィロメーヌ嬢」
レギュラスは立ち止まると、彼女に向けて冷静に声をかけた。
「妻の話し相手をしていてくれませんか」
その言葉と同時に、レギュラスは背後に杖を向けた。
振り返ることなく、静かに呪文を唱える。
「インペディメンタ・ムルティプレックス」
複数の阻害呪文が廊下に張り巡らされ、目に見えない魔法の網がアランの進路を塞いだ。
さらに「コンフンダス・パッシブ」の呪文が重ねられ、足元が不安定になる感覚に襲わせる。
アランは突然、身体が思うように動かなくなった。
まるで見えない壁に阻まれたかのように、前に進むことができない。
足元がふらつき、バランスを崩しそうになる。
その隙に、レギュラスは姿くらましの魔法を使った。
空気が微かに揺れ、彼の姿は跡形もなく消え去った。
「レギュラス!」
アランの声が空しく廊下に響いたが、もう彼の姿はどこにもなかった。
「フィロメーヌ!」
アランは振り返ると、困惑している彼女に声をかけた。
「杖を貸してちょうだい――お願い」
フィロメーヌは状況を理解できずにいたが、アランの切迫した様子に杖を差し出した。
「フィニート・インカンタートゥム」
アランは借りた杖で魔法の解除を試みる。
しかし、レギュラスが張り巡らせた呪文は幾重にも重なっており、
一つ解除してもまた別の呪文が現れる。
「アロホモーラ・リベラーレ」
「ディスペル・バリエーラ」
次々と解除呪文を唱えるが、それは時間のかかる作業だった。
レギュラスは用意周到に、様々な種類の阻害呪文を組み合わせていたのだ。
汗が額に浮かぶ頃、ようやく最後の呪文が解けた。
だが、その時にはもう手遅れだった。
レギュラスはとっくに屋敷を出て、ホグワーツへ向かっているだろう。
アランは廊下に膝をつき、フィロメーヌの杖を返しながら、
深いため息をついた。
夫の怒りを止めることができなかった。
子供たちを守ることができるだろうか――
そんな不安が、彼女の胸を重く圧迫していた。
それでもここに留まってはいられなかった。
日が落ち切って門が閉められてしまう前に、ホグワーツに向かわなければ。
アランは自室へ急いだ。
ドレッサーの引き出しから自分の杖を取り出し、深く息を吸い込む。
体調を崩しているわけではなかった――けれど、長らく使っていなかった姿くらましの魔法は、身体への負担が大きいことを覚悟していた。
「ディスアパレーション」
瞬間、世界が歪んだ。
身体中が引き裂かれるような感覚、内臓がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような苦しさ。
息が詰まり、視界が暗転しそうになる。
それでも――着地した時、アランはホグワーツの敷地内にいた。
石造りの城が夕闇の中に聳え立っている。
かつて自分も、レギュラスも、そしてシリウスも過ごした場所。
無数の思い出が詰まった、神聖な学舎。
こんな場所が、大人の都合で歪められてはいけない。
どちらかに偏った意見で「正される」なんて、あってはならないはず。
子供たちの居場所を、大人の感情で汚してはいけない。
息を整えながら、アランは校長室へ向かった。
螺旋階段を上り、重厚な扉の前に立つ。
中から声が聞こえてくる――レギュラスの声だった。
やはり、ここにいた。
扉をそっと押し開けると、そこには予想通りレギュラスの姿があった。
ダンブルドア校長の前で、何かを熱弁している最中。
レギュラスはアランの姿を見るなり、深いため息をついた。
「……よく、あれだけの防御を掻い潜りましたね」
その声には、諦めと苛立ちが混じっていた。
自分が張り巡らせた複数の呪文を、よくも解除してきたものだという意味が込められている。
ダンブルドアは、この夫婦のやり取りを穏やかな目で見守っていた。
その蒼い瞳には、理解と慈愛が宿っている。
「アラン、久しいのぉ」
校長の声は温かく、争いを鎮めるような響きがあった。
「二人ともここへ来るのは卒業以来じゃの」
アランは静かに頷き、レギュラスの隣に立った。
夫の肩が微かに緊張しているのを感じながら、彼女は校長に向き直る。
「申し訳ございません、校長先生。主人が……」
「いやいや、心配には及ばん」
ダンブルドアは手を上げて制した。
「親が子供の教育環境を気にかけるのは自然なことじゃ」
その言葉の中に、この状況を穏やかに収めようとする意図が感じられた。
夕陽が校長室の窓から差し込み、三人の影を長く伸ばしていた。
校長室の重く古びた扉の向こう側で、レギュラス・ブラックは握りしめた杖の先を震わせながら、声を荒げた。
その声には抑えきれない苛立ちと、深い怒りが込められていた。
「シリウス・ブラックが教壇に立つことなど、教師として許されるはずがありません」
その言葉は、厳しく、揺るがぬ決意が燻っていた。
一瞬、アランは小さく息を呑み、視線を落とした。
目の前に浮かんでは消える、シリウスを慕う生徒たちの笑顔が胸を痛ませていたのだ。
窓から差し込む夕陽が、静かに校長室を照らす中、
アルバス・ダンブルドアは穏やかに眉を上げた。
蒼い瞳がゆっくりとレギュラスに返される。
「そうかのう。彼を慕う生徒は、とても多いのだがな」
その穏やかな声音の裏に、秘められた重みが室内の空気を一瞬沈黙させた。
だが、レギュラスは一歩も引かなかった。
「ええ、ブラック家にマグルの少女アリス・ブラックと共に忍び込んだ事件をお忘れですか。
使用人まで命を落としたのです。
あの件は、私どもが取り下げたからこそ、あの男がアズカバン送りを免れているに過ぎません。
そんな人物が、教鞭を執るなど、到底許されるはずがありません!」
その言葉の一つ一つに凄味があり、
一瞬だけダンブルドアが目を伏せたのは、過去の影が重くのしかかったからだろう。
しかし、すぐに彼は静かに顔を上げて言った。
「――それは、もう過ぎたことじゃ」
「過ぎたこととして目をつぶって差し上げているのは、こちらの側なのですよ」
レギュラスは短く、鋭く返す。
譲るつもりがない硬い決意がその声に滲んでいた。
アランには、その姿が苦しげに映った。
「レギュラス……お願い、もうやめて」
彼女は小さく呟いた。
そして彼の腕にそっと触れるが、レギュラスは振り払うようにその手を振り解いた。
杖を構えたまま、冷徹な目で校長へ詰め寄る。
その険しい輪郭は、ただの怒りではなかった。
愛する者を守りたいという強い思いの裏に、
父として、夫として、交錯する怒りと不安、そして深い苦しみが見え隠れしていた。
しんと静まった校長室に、ふたりの声だけが重く響いた。
言葉と沈黙が交錯するその空間で、
それぞれの胸に抱えた矛盾と葛藤が、暗い影のように漂っていた。
ダンブルドアとの話し合いは、結局どこまでも平行線を辿った。
校長の口から紡がれた言葉は揺るがず、穏やかに響いていた。
「子供たちが何を学び、何を得るかは、その子供たち次第じゃ」
「親がどんなに導こうとしても、親元を離れ学ぶ以上、選ぶ権利は彼ら自身にある」
その姿勢は毅然として揺るがなかったが、レギュラスの胸に沸き起こる激しい感情はどうにも収まらなかった。
帰り道、闇が少しずつ街並みに降りてきていた。
レギュラスは、いつになく険しい表情で石畳を踏みしめていた。
その背中には、苛立ちが不器用に滲んでいた。
「お先に帰ってくれて構わないわ」
アランは声をかけた。
彼女は静かに歩きながら、疲れた様子を隠そうとしていたが、
レギュラスにはその疲労がはっきりと見えていた。
「姿くらましで屋敷に戻ってくれて構わないわ」
アランの提案だった。
しかし今の自分の体調を振り返り、その魔法は正直難しいと思っている。
さっき一度使っただけで、心臓がバクバクと高鳴って、
まるで身体の中がかき混ぜられたような不快感がずっと続いているのだ。
だから、アランはレギュラスが先に帰るのを気にしなかった。
彼女の疲労を察したのだろう。
レギュラスは小さくため息をつき、足を止めた。
「なぜ、無茶を?」
その言葉には、責めるよりも深い気遣いが宿っていた。
は何も答えずに俯いた。
冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。
一瞬、寂しさのようなものがそこに立ち込める。
けれど、確かに互いを思いやる気持ちが、言葉以上の存在として横たわっていた。
大人になっても、
疲れても、
すれ違っても、
大事なものがまだそこにある―
そう静かに確かめ合うように。
アランの体調を考慮すれば、ゆっくりと帰路につくしか選択肢はなかった。
特急列車のホームに立つと、蒸気と汽笛の音が夜の空気に響いていた。
久しぶりに乗る列車――おそらく学生時代以来だろう。
あの頃は、希望に満ちた若い心で故郷とホグワーツを行き来していた。
今は状況がまるで違っていたが、その懐かしい感覚が胸をかすめた。
レギュラスは、窓際の席にアランを座らせた。
彼女の顔には疲労の色が濃く現れ、体調の辛さを隠しきれずにいた。
それでも、必死に何でもないようなふりをしている姿が――
レギュラスには、見ていて苦しかった。
列車がゆっくりと動き出すと、窓の外に夜の風景が流れていく。
アランは頬杖をつきながら、その景色をぼんやりと眺めていた。
「どうありますか?家に着いたら医者を呼びましょう」
レギュラスの声には、心配が滲んでいた。
隣の席から、彼女の様子を注意深く見守っている。
「大丈夫です……一晩寝たら平気になります」
アランは微笑みを浮かべて答えたが、その声は少しかすれていた。
またしても、レギュラスからため息が漏れる。
車内は静かで、他の乗客の話し声が遠くで響いていた。
二人の間には、言葉にならない気遣いと心配が漂っている。
レギュラスは、アランの手にそっと自分の手を重ねた。
その手は冷たく、細い指が震えているのを感じた。
「無理をしないでください」
そう呟きながら、彼は彼女の手を温めるように包み込んだ。
窓の外では、星が静かに瞬いていた。
長い一日が終わろうとしている中で、
二人は静かに寄り添いながら、家路を辿っていた。
特急列車のゆらぎが、夜の静寂を細かく刻むように、二人の座席を揺らしていた。
レギュラスは窓外の流れる闇に目を向けながら、隣のアランをそっと見た。
彼女は必死に体調の不調を悟らせまいと、俯いて手元を整えている。
それでも、吐息の切れ間に揺れる肩の動きからは、今にも崩れ落ちそうなほどの疲労が透けて見えた。
――あんなことをしてしまった。
アランに向けて杖を振ったあの瞬間が、頭の中で何度も反芻される。
足止めのための呪文だったとはいえ、愛する人に杖を向けるなど、あまりにも最低だった。
無言の糾弾を浴びせられているように感じてしまうのは、彼女の瞳が自分を責めているからだろうか。
心の深いところで、後悔がひりひりと疼く。
シリウスの名が絡むと、わずかに年を重ねても激情を抑えられない自分がいる。
理性を取り戻そうと必死に歯を噛んでも、その感情はどうしようもなく暴れ出す。
情けないくらいに、心が揺さぶられてしまうのだ。
隣で小さく震えるアランの手を、レギュラスはそっと包み込んだ。
その指先に触れる温もりが、沈黙を少しだけ和らげる。
「――すみません」
言葉にならないほど胸が苦しくて、レギュラスはかすれた声で呟く。
アランは一瞬だけ顔を上げ、その翡翠の瞳で彼を見つめた。
そこには、責めではなく、まっすぐに寄り添う慈しみがあった。
「大丈夫です、レギュラス」
彼女の小さな返答は、何より深い赦しの証だった。
けれど、シリウスの影が胸に引き金を引くかぎり、
この激情を完全に抑え込むことは――
まだ、難しいのだと思った。
