3章
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屋敷の空が紫色に変わりはじめた夕刻のことだった。
控えめに整えられた大広間には、まだ誰の気配もなかった。
絨毯の上を音もなく歩むエメリンド・フェリックスは、長いスカートの裾を指先でそっと持ち上げながら、レギュラスがいる一角――書斎から食堂へ出る小さな廊下にさしかかった。
レギュラスがちょうど一人で歩いてくるのを見計らったかのように、彼女は軽やかに近づいた。
表情は穏やかで、瞳には控えめな光を抱きながらも、
その手には――一通の封筒があった。
「レギュラス様」
彼が立ち止まると同時に、彼女は柔らかく声をかけた。
レギュラスが振り向いたとき、エメリンドはごく自然に一歩近づき、封筒を差し出す。
「アラン様に…お渡し願えますか? 頼まれていたものですの」
夕暮れの光が封筒の端に透けていた。
中身の存在を仄めかすわけでもなく、しかし重みを持たせすぎるわけでもなく、エメリンドの所作は驚くほど慎重だった。
レギュラスはその申し出に一瞬だけ眉を寄せ、目を細める。
判断に迷う一拍の間。だが、すぐにその紙片を無言で受け取った。
「……ええ、渡しておきますね」
ごく事務的に、当たり障りのない言葉。
だが、エメリンドの目には確信があった。
きっと彼ならば、封を開ける。
―― アランに渡すよりも先に、その中を確認せずにはいられない男だ。
《どうか、覗いて》
そう念じるように、彼女は一礼をしてその場を離れた。
封筒の内に納められているのは――
数枚の写真、どれもよく知られた存在のものだった。
シリウス・ブラック。
予言者日報に掲載された昔の切り抜き。
その一部はホグワーツ時代のものもあれば、血統から外れた後の肖像ですら含まれていた。
片袖をまくって挑発するような笑み。
無精髭と、煙草の匂いが漂いそうな不遜な眼差し。
エメリンドは、夜のあいまにこっそりレギュラスとアランの寝室へと忍び込み、
そのうちの一枚を、アランの枕元にこっそり忍ばせていた。
きちんと、見える位置に。
――“気づかれるように”。
あどけなかったエセルが、すでに彼の手が届いてしまった存在となった今、
前に出なければという焦りは、静かな悪意の熱へと変わっていた。
この封筒一つで、本当に何かが変わるとも思ってはいない。
だが、小さな亀裂さえ与えられればいい。
疑念という名の種を蒔ければ、それで充分。
それがレギュラスの愛する人間であればあるほど、
揺れる心の道筋は、きっと切り裂かれる。
その果てに何があるのかも、何を失うかも知らず――
エメリンドは微かに唇に笑みを湛えて、
ドレスの飾りを整えるように指をすべらせ、
ひとり、食卓へと向かっていった。
午後のひととき、窓から差し込む光は、書斎の奥にある重厚な机の表面に緩やかな影を描いていた。
帳のような静けさが部屋に満ち、レギュラスはその中心で、黙して座っていた。
手元には、先ほどエメリンドから受け取った封筒。
――「アラン様にお渡しください。頼まれていたものですの」と。
控えめに笑いすら浮かべて差し出された白い封筒には、特になんの印も蝋封も施されていなかった。
ただの、一枚の紙に過ぎぬように。
けれどそのさりげなさこそが、妙だった。
痕跡を残さず、開けてほしいとほのめかしているようにすら思えた。
そこに宿る狡猾さに、レギュラスは皮膚の下で冷たく息をするような感触を覚えた。
ほんの一拍、逡巡する。
だが――指先は封を割っていた。
ナイフを走らせる必要もなく、ただそっと、紙が音も立てずに開いた。
中に入っていたのは、数枚の写真。
黒髪の青年。灰色の瞳。
不敵な笑み、乱れた襟元、喫煙の煙の余韻。
そして――その男を今でも知らぬ者などいない。
シリウス・ブラック。
最初の一枚で、思考が止まった。
二枚目、三枚目。
見覚えのある表情、たしかに兄であり、今は裏切り者と呼ばれるその男。
だがそれ以上に、身体の奥で凍りついたのは、その意図だった。
――なぜ、それを、アランに。
瞬間、頭の中で何かがはじけた。
弾けるというより、静かに破れるような感覚。
混血の魔法使いの男が語ったあの記憶――
シリウスがかつてマグル世界でアランと共に過ごした、たった一夜。
「一晩中、愛し合っていた」
あの気持ち悪い囁きが、脳裏にもう一度浮かび上がる。
そして、今この封筒の中身。
あまりにも繋がりすぎていた。
あまりにも、計ったような“重なり”。
アランは――
あの過去を、再び拾い上げようとしているのか。
あの男の写真を、手に入れようと、
エメリンドの家系――予言者日報の記者を通して依頼をしたのか。
あの女が、わざわざ“頼んだ”のか――
怒りは、喉元から突き上げる感情というより、
骨の奥で燃えていくような、静かな焚火だった。
肌の裏側が焼けるように、
胸の奥がきつく締め付けられていく。
あのアランが。
笑って、触れて、欲しがってくれたあの人が。
今も兄の影を探して、
他の女を使い、自分の目を盗んで――
どこまでも愚かな話だった。
滑稽で、惨めで、たまらなく腹立たしかった。
自分がどれほどまっすぐ、真摯に愛を注いでいるか。
そのすべてを――こけにされたような気がした。
見上げた書棚の端に、アランとの結婚写真が飾られている。
その写真に映る彼女は、ほがらかに笑っていた。
けれど今、その写真さえも、何か変わったように見えた。
レギュラスは机に封筒を投げ出すように置いた。
指先がわずかに白くなるほど力が入っていた。
何が本当かなど、もうどうでもいい――
ただ、このくすぶる痛みは、もはや誰にも否定できない事実だった。
そして恐らく、
アランですら、それを癒す術は持ちえないのだと、
レギュラスはどこかで悟っていた。
夕暮れの光が食堂のカーテンを透けさせて、テーブルクロスの上に柔らかな影を描いていた。
調えられた器には温かな料理が湯気を立てていて、銀器や水晶のグラスが控えめに光を返している。
――いつもと同じ、夕食の時間のはずだった。
けれど、レギュラスの内側だけは、決して静かではなかった。
彼の目の前には、アランが座っていた。
まるで、何も変わらないかのように。
彼女の姿は、今夜も美しいとしか言いようがなかった。
レギュラスが好んでいると以前に伝えた、深い色調のドレスが肩から流れるように身を包み、
長い髪は珍しく結ばれておらず、光を含めばそのまま金のように揺れていた。
そんな美しさが“今夜も変わらずに存在している”ことが、彼の中ではひどく皮肉だった。
その瞳、その仕草、その声。
知りすぎるほど知っているはずなのに、
いま、その女の全てが謎に見えて仕方なかった。
レギュラスの視線は、無意識のうちに鋭さを増していた。
気づかれぬように、それでも探るように――
何か、真実を見破ろうとするかのように。
「お父様、全然食べてないわ」
ふいに向けられた可憐な声に、現実へと引き戻される。
セレナが、真っすぐな目をして父を見つめていた。
「ほんとね……どこか具合でも?」
アランもまた、心配するような声で問いかけてくる。
その柔らかい声音にすら、
もう自然に応えることができなかった。
「……いえ。ちょっと、食欲がないだけです」
いつも通りの表情で――けれど、その裏には、
崩れそうな感情が幾重にも積もっていた。
なぜ、と思う。
疑念ばかりが心を満たしている。
混血の魔法使いの証言。
エメリンドが渡してきた封筒。
アランが、兄の写真を求めていたのかもしれないという推測。
全てを考えれば、怒りに支配されてもおかしくない。
言葉ひとつで席を立つことすらできそうだった。
なのに、今なお――
彼女のその翡翠色の瞳に心が奪われてしまう。
まるで何も知らぬように、いつも通りの笑顔で向けられるその目が、
どこまでも無垢に見えてしまう。
それが、癪で、切なくて、
喉の奥で何かが押し込まれているような感覚を生む。
めちゃくちゃにしてやりたい。
問い詰めて、泣かせて、壊してしまいたい衝動すら、確かにそこにある。
なのに――
その目の前の女の、あまりの美しさに、
ただ「壊せない」という事実に、
レギュラスは自分が何より情けなくなっていく。
彼女の微笑みひとつで。
髪をかき上げるしぐさひとつで。
籠る翡翠のまなざしで――
何も言えなくなってしまう自分が、そこにいた。
どんな怒りも、
どんな疑いも、
いまはまだ、彼女の確信のない眼差しによって、
静かに置き去りにされていた。
寝室には静かな夜の気配が満ちていた。
風も止まり、カーテンの裾が揺れることもなく、まるで時間そのものが息をひそめていた。
レギュラスはその沈黙のなか、誰よりも先にベッドへ入っていた。
けれど横たわることはせず、背を高く積まれた枕に預けるかたちで、じっと座っていた。
寝衣の胸元には乱れはなく、けれどその目線の先は、どこへも定まっていなかった。
眼差しの奥、深く伏せられたままの理由。
ひとことでは語れない感情が、澱のように静かに積りつづけている。
アランはドレッサーの前にいた。
毛先までゆっくりと櫛を通す、いつもと変わらない夜の所作。
その手つきは流れるようで、けれどどこか遠慮がちにも見えた。
やがて、鏡越しに彼を見やりながら、柔らかく口を開いた。
「今日は……ここで?」
それだけの問いだった。
責めるでも、探るでもない。
けれどレギュラスの胸に、それは思いがけず刺さった。
まるで——別の女のところに行け
そう言われたような気がしてならなかった。
唇が自然と強ばった。
そして、そのまま吐き出すように応えた。
「……夫が夫婦の寝室にいるのが、不思議ですか?」
思った以上に、言い方が険しく、棘を帯びていた。
すぐ後悔が追いついた。
反射のように出た言葉は、自分でも制御しきれない苛立ちによるものだったと自覚していた。
アランは驚いた様子も見せず、
ただ静かに、優雅にドレッサーの椅子から立ちあがった。
静かな足音を連れて、レギュラスのもとへ歩を進める。
「……そうではなくて」
低く温かな声が、室内に降りてくる。
「オリオン様や、ヴァルブルガ様を……あまり悲しませてはいけませんもの」
その声音には、規律ではなく気遣いがあった。
個人の自由でもなく、義務の強制でもなく、
“家族というもの”を大切にしながら歩こうとする、アランらしいやさしさ。
それが、ますますたまらなかった。
「どうでもいい——そんなこと」
衝動が言葉を生む。
レギュラスは声を飲み込むようにして、彼女の手首をぐっと引いた。
その瞬間だった。
沈んでいた枕が少しずれて、
ベッドの上から、一枚の小さな紙片が音もなく滑り出た。
ふたりの間に落ちたそれは——
写真だった。
ライトの金具に反射して、顔を見せる一枚。
黒髪。灰色の瞳。
笑っているわけでも、怒っているわけでもない、不敵な眼差しのまま。
シリウス・ブラックの写真。
沈黙が、部屋全体を包んだ。
アランはすぐには拾わなかった。
レギュラスも見下ろしたまま言葉を飲み込んだ。
心臓の輪郭が、静かに焼けるようだった。
お互いがその存在に触れぬまま、その名だけが濃く漂いはじめていた。
温もりと、傷と、それぞれの沈黙が、
いっきに同じ寝台の上に交わっていく。
奇妙なまでに美しく整えられていた夜が、
ついに綻びを見せる音を立てはじめる、
ほんの小さな紙片の落下だった。
写真が床に滑り落ちた瞬間―― アランの表情が変わった。
それは驚きというより、もっと深い動揺だった。
肩がわずかに震え、唇が半開きのまま固まり、
翡翠の瞳が写真とレギュラスの間を行き来する。
その反応が、レギュラスには――もう限界だった。
握っていた彼女の腕に、じわりと力が込められる。
骨に触れるほどの強さで、確かに彼女を捕らえた。
「……エメリンドに、頼んだのですか?」
声は低く、静かで、しかし鋭かった。
問いというより――糾弾に近い響きがあった。
アランは困惑したように彼を見上げた。
「何のことか分からない」とでも言いたげな、戸惑いの表情。
けれどその目さえも、レギュラスには嘘くさく映った。
信じることができなかった。
「ここは夫婦の寝室です」
淡々とした声に、冷たい怒りが滲んでいた。
「そこに――別の男の写真を持ち込むなんて、正気ですか?」
言葉は整然としていたが、その奥にある感情は嵐のようだった。
静かに、ひたすらに、アランを責め立てる調子。
「違うの、レギュラス……私は、何も――」
アランが口を開きかけたその時、レギュラスは首を振った。
みじめな言い訳など、聞きたくなかった。
今夜は、ひたすらに彼女を責め立てたかった。
苦しめて、詫びさせて、自分の心に溜まった鬱憤を――
すべて彼女にぶつけて晴らしたかった。
混血の魔法使いから聞かされた、あの夜の記憶。
エメリンドが持参した封筒の中身。
そして今、この寝室に隠されていた写真。
すべてが繋がって、レギュラスの理性を蝕んでいた。
「どれだけ……どれだけ愚弄すれば、気が済むんです?」
握る手に、さらに力が入った。
アランの手首に、きっと痣が残るほどに。
けれど彼女の痛みよりも、自分の心の痛みの方が――
今は、遥かに大きかった。
夫婦の寝室で、妻の枕元から見つかった、
別の男の写真。
それが何を意味するのか、考えたくもなかった。
けれど考えずにはいられなかった。
そしてその苦しみを、すべて彼女に返したかった。
夜の静寂の中で、ふたりの影だけが壁に映り、
長く、歪んで揺れていた。
寝室の空気は、緊張に張り詰められていた。
アランの声は、かすかに震えながらも静かに響く。
「何かの手違いで……」
その言葉は、どこか遠い場所から放たれたように感じられた。
けれど、レギュラスの鋭い目は、彼女の眼差しを一切逃さなかった。
「この部屋に入れる者は、限られています」
彼の声は冷たく、重かった。
「掃除を任されている使用人でさえ、決まった者だけです」
アランは言葉に詰まり、唇が震える。
一瞬の沈黙の後、レギュラスは声を荒げるように呟いた。
「では、誰だと思います? 使用人たちを全員拷問して聞き出しますか?」
その言葉にこもる強い意志は揺らぐことなく、
今夜は決して、この問題に一歩も譲る気がないという決断の表れだった。
「レギュラス……信じて」
アランの目が真っすぐに彼を捉えていた。
それは懇願であり、祈りでもあった。
だが、レギュラスの心は揺れていた。
信じたいと思う気持ちは、山のようにあった。
それでも、揃った証拠の重さが、彼の決断を覆さなかった。
彼女を庇うための余地は、
この時、どこにも存在しなかったのだ。
部屋の静寂は、言葉にならない重さを抱えながら流れていった。
苦く、切なく、強い決意がそこに息づいていた。
薄暗い寝室の空気は重く、どこか冷たい緊張に包まれていた。
アランは静かに息を吐き、周囲を見渡すことなく言葉を紡いだ。
「これは、誰かの仕組んだ罠です」
その声は冷静だったが、奥底には複雑な感情が渦巻いているのが伝わった。
レギュラスの怒りの火種となったのは、エメリンドの名が話に出たことによって、彼女への疑念が心中に芽生えたからだった。
しかし、アランの胸にも「なぜ」という思いが渦巻いていた。
それでも今、一番先に考えなければならないのは、どのようにしてレギュラスの怒りをかわすかだった。
どんな言い訳も、どんな弁明も――
今のレギュラスには届かないことを、アランは知っていた。
何を言っても信じてはもらえないだろうという諦観が、声にならぬ声に重くのしかかる。
彼の怒りを解き、許しを得るためには、何を差し出せばいいのか。
彼が望んでいるものは何なのか。
この場での「正解」がわからず、もどかしさが彼女の胸を締めつけた。
「レギュラス……」
アランの声は震えていた。
その一言に、詫びる気持ちが込められているのは明らかだった。
けれど、その詫びは――正解がわからない自分への不甲斐なさの謝罪だった。
思わず顔を伏せて、かすかに震えながら続ける。
「ごめんなさい」
重く沈むような沈黙が流れる。
二人の間には言葉以上の想いが交差し、ただ静かに時だけが過ぎていく。
残されたのは、許しを願う切なさと、
それを手探りで受け止める強さと――
互いの心を推し量る、繊細なひとときだった。
薄暗い夫婦の寝室で、レギュラスの瞳が冷たく光っていた。
月の淡い光がカーテンの隙間から差し込み、静かな部屋の中で二人の間に緊張が漂う。
「シリウスの書斎に、入っていますよね?」
その言葉は静かに、しかし確実にアランの心の奥を突き刺した。
突然の問いかけに、彼女はどきりと息を飲んだ。
あの書斎は誰にも知られず、アランだけの秘密の場所だった。
時折、彼女は独り静かにその部屋に足を運び、過去の記憶と向き合い、シリウスとの日々に浸っていた。
なぜレギュラスがそれを知っているのか。
一体いつから気づいていたのか。
その疑問が、胸の中でざわめき、不安と恐怖に変わる。
今回起きた事は誰かの仕組んだ罠だった。
しかし、シリウスの書斎に入っていたという事実は変わらなかった。
そのことが罠にさらなる信憑性を与え、アランの心をますます重くする。
「それとこれは、違うのよ」と口にしたい気持ちが強くあった。
けれど、レギュラスの視線は鋭く、冷たく、圧倒的だった。
どんな言葉でも跳ね除けられてしまいそうなほどに。
アランはその視線を受け止め、言葉を選びながらも静かに答えた。
その声は震えたが、どこか揺るぎない決意も感じられた。
言葉にできない苦悩がふたりの間に流れ、
夜の静寂がその辛い真実を包み込んでいた。
寝室の空気は、まるで氷のように冷たく張り詰めていた。
月明かりがカーテンの隙間から差し込む中、レギュラスの声が静かに響いた。
「何とか言ったらどうです?」
その言葉は、問いかけというよりも命令に近かった。
アランは何かを言おうとした。必死に。
口を開き、言葉を探し、喉の奥から何かを絞り出そうとしたが――
声が出なかった。
喉が狭くなったような感覚で、息すら苦しかった。
レギュラスは彼女の沈黙を見つめ、さらに冷たい声で続けた。
「どう責任を取るんです?」
その声には、一片の温もりもなかった。
アランを許すつもりはないのだということを、明確に告げているようだった。
アランの心は混乱していた。
どう責任を取ってほしいのか、むしろ彼に言ってほしいとさえ思った。
何がほしいのか、どうしてほしいのか――
それさえ分かれば、言われたものを何でも差し出すつもりだった。
静寂の中で、アランはゆっくりとベッドの上で両膝をついた。
それは、今できる最大限の屈服の証明だった。
頭を下げ、震える手を膝の上に置いて、
彼女は静かに待った。
レギュラスの言葉を、彼の裁きを。
夜の静けさの中で、二人の影がベッドの上に長く伸びていた。
一人は立ち、一人はひざまずく。
その距離は、物理的なものを遥かに超えて、
心の深い溝を表しているようにも見えた。
時間だけが、重く、静かに過ぎていく。
許しを求める者と、それを拒む者との間に横たわる、
深い沈黙が、部屋全体を支配していた。
部屋の空気は、重く、張り詰めていた。
レギュラスの中で収まることのない怒りが渦巻き、
その視線はまるで鋭い矢のようにアランを射抜いていた。
アランは、小さく背中を丸めるようにして、静かに、両膝をついた。
その姿は、まるで全てを自らに引き受けるかのようだった。
声は掠れ、小さく呟いた。
「ごめんなさい……」
レギュラスは無言のまま、彼女の手首を掴んだ。
そして、ゆっくりと顎を持ち上げた。
そのとき、アランの翡翠の瞳が、恐れに揺れるようにこちらを見つめていた。
まっすぐに逸らすことなく、じっと見据える光。
彼の視線の中に込められた意味が、幾重にも折り重なっていることを理解したのだろう。
アランの指先は、震えながら胸元のボタンに触れた。
一つ一つゆっくりと外されていくその動きは――
差し出そうとするのは、アラン自身の「女」である部分だった。
レギュラスの理性は、激しく彼女を責め立てていた。
詰め寄り、問い詰め、幾度も静かな怒りを降りかけたのに。
最終的に辿り着くのは――
彼女が身に纏い続けてきた強さを解き放つ、その真実の姿。
ボタンが一つ、また一つと外されるたびに、
彼女が抱えてきた狡猾さも、情けなささえも、ゆっくりと剥がされていく。
それはただの“脱ぎ捨て”ではなかった。
むしろ、許しに似た、静かな解放だった。
レギュラスは何も言わず、ただその眼差しを強めた。
その視線の中には、激しい怒りと共に、どこか淡い慈しみも含まれていて。
闇夜の中の灯火のように、彼女のほのかな震えを、優しく映し出す。
二人だけの重い沈黙が、微かに切なさを帯びて溶けていくようだった。
部屋の床に落ちる音は、脱がれていく布の柔らかなはらり。
その一枚一枚が、積み重なっていた感情の殻を静かに砕いてゆく。
そして、一瞬の深い呼吸の後、
アランの唇が、震えながら、小さく呟いた。
「……許してください」
寝台は荒れていた。シーツは深く皺を刻み、薄いカーテンが夜風に揺れている。
月明かりだけが、静かに広がる影をふたりに落としていた。
アランは体を横たえることなく、ベッドの中心で、膝を折ったまま座っていた。
レギュラスの手は、その細い肩を何度も支えなおしていた。
崩れそうに、後ろへ倒れていきそうになるたび、その華奢な身体を引き寄せる。
それを何度も、何度でも、くり返した。
ふたりの間には痛みがあった。
それでも唇が離せなかった。
許していない。許すつもりもない――なのに、愛していることだけはもう何の抗いようもない。
怒りに火が入り、激情が燃え込んでいるのに。
アランのなかの、あまりにも繊細で、柔らかで、それでいてすべてを溶かすような“女”の部分が、レギュラスのその激情を、するりと掠め取っていく。
腹立たしくすらあるのに、
それでも、この中にしか、今の自分の居場所はないのだと思ってしまう自分がいた。
甘く、熱く、どうしようもないほどに、彼女に奪われていく。
「どうして……です……」
小さな呻きのような声が、レギュラスの喉の奥から零れた。
誰にも答えられない問いだった。
何度自問しても、何度夜を過ごしても、埋まらないままの疑問だった。
アラン・セシール。
昔から、誰もがその名にため息を漏らした。
ホグワーツでも、社交界でも、貴族の宴の場でも――
そこにいる限り、いつも誰よりも美しかった。
だから惹かれているのだろうか?
そのはずなのに、そんなただの“理由”では語れないものが胸の奥に生まれていた。
どんなに傷つけられても、離れられない。
愛してしまったという事実から、もう抜け出せない。
アランは、膝を折ったまま、少しだけ身を傾け、
どこか遠くを見つめるように、うわごとのように何かを呟いた。
その唇をレギュラスは塞ぐように、深く口づける。
声は遮られ、全ての意味も、言葉も、沈んでいった。
そのくちびるに触れた瞬間、身体の奥を焦がすような興奮が走る。
怒りよりも、糾弾よりも、理屈も、正しさも、
なによりも――ただこの熱に、いまは勝てなかった。
明確な赦しなど、どこにもなかった。
ただ、ひたすらに求め合う肉と心だけがあった。
責めるために始まったはずの行為。
けれど触れた瞬間から、それは赦しにも似た甘い毒に変わってゆく。
苦しさと、哀しさの最中で、
ふたりは指先を、心を、深く結びつけながら、
自分たちが何に呑まれているのかも知らず、
ひたすらに熱を重ねていった。
朝の光は、まだやわらかく揺れていた。
カーテンのすき間から流れ込む白んだ陽が、寝室の天蓋ベッドに淡く影を落とす。
お互いに、一睡もしないままの夜が明けようとしていた。
シーツの湿り気と、絡め合った肌の温もりが、
まだ生々しく身体に残っている。
気怠さはあった。疲労もあった。
それでも――深く満たされていた。
怒りとは、実に儚く崩れやすいものだった。
あれほど鋭く尖っていた感情は溶けるように鈍くなり、
今ではただ、アランのぬくもりに身をあずけたいという静かな満足感の中にいた。
笑えてくるほどだった。
自分は、本当に単純な人間だ。
あんなふうに詰め寄り、責め立て、
決して許すまいと胸を焦がしていたというのに――
今では、その胸の奥に漂うのは熱ではなく、静けさと余韻。
あまりにも簡単に、解かれていった。
隣ではアランが、静かに横たわっていた。
長いまつ毛が頬に影を落とし、白い肩がシーツの上で静かに呼吸を繰り返している。
眠りにはまだ完全に落ちていないが、意識はおぼろげだ。
「……ごめんなさい……」
彼女がかすかに漏らすように呟いた。
その声を聞くだけで、レギュラスの中にまたひとつ熱がこみ上げてくる。
何度も自分の上で乱れ、揺れ、全てをさらけ出してくれたあの姿。
そのすべてが、赦しではなく――
たしかな誓いのように思えた。
その記憶を反芻するたび、
ひとつずつ、自分のなかの尖った部分が削れていくのを感じる。
怒りではなく、触れることでしか伝えられないものたちが、
この距離を埋めていた。
「……今日は、寝ましょう」
レギュラスが声をひそめて言ったとき、
それは疲労の提案ではなかった。
今日という時間を、ふたりだけのまま終わらせたいという、ささやかな願いだった。
もうすぐ一階では朝食の準備が始まるころだろう。
通常であれば屋敷の気配に促されて、使用人の足音が廊下に響きだす時間帯だ。
けれど不思議と――そのすべてが遠かった。
誰にも会う気にはなれなかった。
当たり前の顔でテーブルにつくことも、
義務のようにカップに口をつけることも。
ただこのまま、アランの隣で、静かに眠っていたかった。
ほんの数時間でもいい。
争いの名残を、美しい夢につなげていけるだけでいい。
レギュラスは浅く横になり、
そっとアランの髪に指を触れた。
その指先が眠気とやすらぎを誘うように、
ゆっくりと髪を梳かしていくなか――
アランはもう、夢の境に足を踏み入れていた。
その寝息に呼吸を合わせながら、
レギュラスもまた、目を閉じる。
怒りよりも、責めよりも、
人を赦すということはきっと、
こうして同じ温もりを分け合うことだったのだと、
心のどこかで、そっと思った。
窓から差し込む光は、すでに真昼の色をしていた。
寝室に広がっていた静けさはとっくに消え、屋敷のどこかで灯された灯りと人の気配が、ゆっくりと日常の時間を運んできていた。
目覚めたとき、レギュラスは薄暗い寝室にたった一人だった。
指のあいだには残された体温。
触れていた髪の名残、首筋に残る微かな香り。
夢でない温もりが、シーツの褶や肌の奥にまだ深く染みていた。
それから間もなく。
食堂へと向かう階段を下りた先、セレナがパタパタと音を立てて駆け寄ってきた。
「お父様、お母様……お部屋で仲良く寝てたのねっ!」
無邪気な笑顔。大きく開いた瞳。
一切の計算も含まぬまま放たれたその言葉が、妙な鋭さを持って響いた。
どこまで意味を理解しているのか。
もちろん、それは誰にもわからない。
けれど、まさにそのとおりだった。
互いに一歩も譲らぬ怒りのなか、すれ違いの末に重ねた、夜の終わり。
ひとつの器のように絡まり合って、ようやく届いた和解のような時間。
レギュラスはひそやかに息を継ぎ、目線を和らげて娘に返した。
「ええ、そうです。だから……寝坊してしまいましたね」
肩の力を抜いた声で答えると、セレナはぱあっと顔を明るくして笑った。
それはあまりにも柔らかく、平和な光景だった。
その後ろから――
整えられた髪に、薄桃色の柔らかなローブをふわりとまとったアランが、静かに姿を現した。
顔も髪も完璧に整えていて、けれど額にかかる髪を掬う手が少し慌てている。
「お母様、お父様と……仲良くしてたの?」
セレナは無邪気に、まるで花を摘むかのような声で問いかけた。
その瞬間、アランの表情にわずかな驚きが浮かぶ。
瞳がぱちりと開かれ、頬にほのかな紅が差し、
そしてゆるやかにレギュラスの方へ視線が向けられた。
それは控えめだが、はっきりとした抗議の眼差しだった。
――どうして、そんなふうに答えたのですか?
静かに責めるような瞳。けれど刺すことはしない。
ただ、彼女らしく、律した余白の中で軽く問いかけるだけ。
レギュラスは目を伏せ、少し肩を緩めて一歩進み、
まるで何かをかき混ぜるように、娘の頭をそっと撫でた。
「仲良くしていたかは……さて、どうでしょうね」
そんなふうに、やや曖昧な冗談交じりでささやく。
その響きに、アランの口元がわずかにほころんだ。
ほんの少しだけ、微笑みの影が戻ってくる。
剥がれそうになった信頼は、まだ完全に戻ったわけではないけれど。
この朝の光のなかでは、かろうじて、やわらかく寄り添っていた。
午前の陽射しが、屋敷の石造りの廊下にやわらかく差し込んでいた。
けれど、そのやさしい光とは裏腹に、レギュラス・ブラックの歩みに宿る気配は硬く、まっすぐだった。
彼の行き先は決まっていた。
——エメリンド・フェリックスの部屋。
あの女は、何かを企んでいる。
それは、疑惑ではなく……確信だった。
アランに手渡された封筒の中身。
わざとらしいほど封がなされていなかった——
容易に開けられ、痕跡の残らないそれは、 「中を見てください」と言わんばかりだった。
そして、その後に見つかった、寝室に置かれていた一枚の写真——シリウス・ブラック。
あまりにも……すべてが、できすぎていた。
封筒、写真、そしてアランへの疑惑。
ピースの一つひとつは小さい。
けれどそれらが意味を成すには十分なだけの悪意の連なりとなっていた。
確証はない。
けれど、あの女には動機があった。
かつてアランとシリウスの過去について、自分に言及してきたのはエメリンドだった。
そして、それを語るときの彼女の目には、 ただの《興味》だけでは済まされない色を灯していた。
ならば、今この一連の出来事の背景に、彼女の手があると疑うには十分だった。
レギュラスは、小さくノックをした。
「……エメリンド嬢。少し、お時間をいただけますか?」
やや低めの声に、扉の向こうで衣擦れの音がしたあと、 彼女はほどなく扉を開けた。
「レギュラス様……ええ、もちろんですわ」
微笑を浮かべたまま、エメリンドは頭を下げた。
彼女の視線は澄んでいるようでいて、どこか臆することなく品をまとっていた。
まるで、すべてを予期していたかのような穏やかさ。
それがかえって、レギュラスの疑念を深くした。
短く礼を交わした後、二人は人目のない話し部屋へと移動した。
厚いカーテンが引かれたその小部屋は、昼の光をわずかに遮り、蝋燭の光が滲んでいた。
卓に敷かれた薄いレース、片隅に置かれた一輪の花。
穏やかな空間のなかで、レギュラスは扉を閉めると、そのままゆっくりと彼女の方へ振り向いた。
表情は落ち着いていたが、瞳の奥に宿るものは明らかだった。
——これは、問いただすための時間。
始まりの言葉は、慎重に選ばれる。
だが、その芯には決して揺るがぬ意志が灯っていた。
レギュラス・ブラックは、今や真実を問う人間の顔をしていた。
レースのかかった小卓を隔てて、二人は向かい合っていた。
エメリンドは姿勢を崩すことなく、あくまで穏やかな表情を保って座る。
けれど、その張り詰めた沈黙のなかで、レギュラスの眼差しは一点の曇りもなく、彼女を見据えていた。
その瞳は問いかけなどではない。――明確な「警告」を孕んでいた。
レギュラスは、膝の上で組んだ指を一度解き、卓の縁に静かに手を置いた。
指先の動きひとつも無駄がなく、緩やかながら圧を纏っている。
「……先日、私に封筒を渡されましたね。アラン宛だと。頼まれていた、と仰いました」
口調は穏やかだった。
だが、発される言葉には冷え切った意志がある。
エメリンドは、レギュラスの静かな声の温度にふと睫毛を伏せた。
「ええ。たしかに、そう申し上げました」
「その封筒は、封がされていませんでした。蝋すらも、使われていなかった」
わずかな間。
光が蝋燭の灯に照らされて、エメリンドの睫毛の影が机に鋭く落ちる。
返答を急ぐでもなく、彼女はゆっくりと目を上げた。
「不要だと思ったのです。内容はただの切り抜き写真ですから、例えば新聞……」
「――兄の写真でした」
レギュラスの声が、その場の空気をわずかに揺るがせた。
「過去のもの。過去の誰か。だが、なぜそれを、わざわざ私の妻に手渡さなければならなかったのです?」
エメリンドの表情はわずかに揺れた。
だが笑みを浮かべるでも、取り繕うでもなく――静かに、真っ直ぐ彼の視線を受け止めた。
「……シリウス・ブラックは、あなた方の家にとって“過去”でも、アラン様にとっては……そうではないように、見えましたわ」
まるで、それが罪でもなければ、悪意でもない――そんな風を装った声音だった。
だが、レギュラスの眉はほんのわずかに動いた。
鋭いものが光の奥からゆっくりと立ち上がる。
「“そうではないように見えた”と。……では、あなたは、何のために、それを渡したのです? 何のつもりで」
エメリンドはわずかに肩を引き、そしてしっとりと笑った。
「わたくしの一存では手に余るお話ですが、レギュラス様……」
「事実というものは、いつか見てしまうより先に、“確かめる”べきなのだと思うのです」
その「確かめる」という言葉に、どこか挑むような熱が混じった。
レギュラスは、目を逸らさず静かに息を吐いた。掌の奥に、感情が鈍くうねる。
これは恐らく――計算された動きだ。
あの女は、意図的にアランの“過去”を揺らがせ、いま自分たちの関係に裂け目を作ろうとしている。
「……今後、私の寝室に、勝手に何かを残すようなことがあれば――それは“無礼”では済ましません」
小さく告げた言葉に、エメリンドは静かに睫毛を伏せ、
まるで“今のところは了解しました”とでも言うような、極めて上品な頷きを返した。
しかし彼女の横顔には、落胆も、畏怖も、ほとんど浮かんでいない。
その奥には、まだ手を隠している者の、次の打ち手への沈黙があった。
小部屋の空気はひときわ静かになった。
沈黙は、勝敗よりも深い“余白”を意味していた。
レギュラスはもう一度、冷たく視線を落とす。
――沈黙で終えるのが、今のところ一番の答えだ。
彼は淡く吐息を漏らしたあと、椅子を押し、扉に向かって歩みだした。
背を見せながらも、いつでも振り返れるように――ゆっくりと、音を絶つように。
部屋の扉が静かに閉まる音が、後方に淡く響いた。
レギュラスは廊下に出ても、すぐには歩き出さなかった。
取ってつけたような礼儀も、追いかけてくる足音もなく――
背後の静けさは、そのままエメリンドとの会話が“決着などついていない”ことを知らせていた。
扉の奥にはまだ、仕掛けた者の微笑みが、冷たく残っている。
彼女の言葉は、どこまでも“誤解を促すもの”だった。
善意にも、心配にも、最小限の驚きにも成りすませるよう、きちんと整えられていた。
けれどその根底にあったものは、悪意だった――間違いなく。
見た目では柔らかく、約束してしまいそうになるほどに礼儀正しかったその顔の裏で、
アランと自分の間にある“見えない傷”を引き裂こうとしていた。
試したのだ。
この夫婦の強度を。
どこまでなら揺らぐか。どこまでなら壊せるのか、そのきわを見極めている。
レギュラスは歩き出した。
静かに、だが迷いなく。
アランのところへ向かっていた。
廊下を抜け、階段をのぼりながら、
無意識のうちに、背中や袖に絡まるあの女の声を、払い落としたくなった。
あれは靄のように、冷えた悪意だけを忍ばせていた。
「シリウス・ブラックは、アラン様にとっては過去ではないのでしょう」
――あの一言が、何よりも彼の怒りを刺激した。
なら、何だというのか。
自分の傍にいるのは誰か。
夜ごと眠り、娘と過ごす日々を分かち合い、同じ屋敷で息をしているのは――誰なのか。
それを曖昧にさせるような誰かの判断や道具や誘導が、
レギュラスの本能を、あからさまに冷やしていた。
廊下の角を曲がると、部屋の前にさしかかる。
いつもの、変わらない扉。
けれど、それを開ける前にレギュラスは一度立ち止まった。
いまこの瞬間、問いただすべきか――
それとも黙って、あのぬくもりにもう一度触れるべきか。
思いが、ほんの少しだけ、軋んだ。
自分はアランを、信じたい。
ここで“あの写真”にあらためて言及することが、
どれほど彼女の心を塞ぐかも分かっている。
けれど、それでも。
あの言葉と、あの視線と、偽りめいた沈黙の奥で何が育っているかを――
見過ごすわけにもいかない。
レギュラスは、ノックをしなかった。
静かに扉を押し開ける。
その先にいる者が、どうか自分に気づいて、目を上げてくれることを願いながら。
静かな午後の光が、部屋に差し込んでいた。
風も煙もないはずなのに――なぜか、ほんのわずか空気が揺れていた。
レースのカーテン越しに差し込む光が、午後のやわらかな色をつくっていた。
寝室には深い静けさがあり、息づくように寄り添うふたりだけの時間が静かに流れていた。
ふと、レギュラスが低く彼女の名を呼んだ。
「…… アラン」
その声音には、呼ぶというよりも、寄りかかるような柔らかさがあった。
アランはベッドの縁に腰を下ろしながら、ゆるやかにこちらを見て微笑む。
「なぁに、レギュラス」
それはまるで、何度も繰り返された日常のやりとりのようでいて、
どこか、たった今、はじめて交わすような、はにかむ呼吸だった。
レギュラスは、彼女の頬に流れかかった髪を指先で掬った。
はらり、と落ちる。
また掬う。
そしてまた、細い影を辿る指が、そっと流れた髪を持ち上げる。
言葉にならない想いが、そのしぐさに混じっているようだった。
何かを確かめるように、何かを取り戻すように。
その手が動かなくなったとき、彼は小さく息をつきながら呟いた。
「……情けないくらいに、あなたのことになると、感情的になります」
どこまでも冷静で、判断を誤らない男だった。
けれどアランに対してだけ――彼はそうではなくなる。
アランは、彼の手の動きを止めずに、目を細めた。
何も言わなかった。
けれどその沈黙には、痛んだような優しさが潜んでいた。
――そうさせてしまったのは、自分だ。
曇りのないはずの判断に揺らぎを与えたのは、
冷静な彼をこんなにも迷わせてしまったのは――
この、自分という女だ。
苦しさが、やわらかな布のように胸の奥でかさなり合っていく。
その想いを見透かしたかのように、レギュラスはぽつりと続きを呟いた。
「……愛してるんです。ほんとうに」
その告白は、言葉よりずっと深くて、
痛みよりもまっすぐで。
それを受け止めたアランの眼差しが、ゆっくりとほころぶ。
「……ええ。伝わっています」
その声には誓いも、赦しもあった。
この瞬間のすべてを、余すことなく受け取りたい――
そんな静かな覚悟のようなものが、アランのまとう空気に溶けていた。
レギュラスの手が、やっとその髪から離れたとき、
その手は彼女の頬をゆっくりと撫でた。
そしてそれに続く声は、たった一つの願いだった。
「何があっても……僕の隣には、あなたがいてほしい」
アランは、ためらいなく頷いた。
まなざしをそらさぬまま、それが揺るぎない意志であると示すように。
「ええ……約束します」
そう返したその声が、
肌を撫でる風のように、部屋じゅうをやさしく包んだ。
ふたりはただ静かに、
ようやくほどけて戻った距離をもう一度、そっと結びなおす。
誰にも邪魔されない時間のなかで、言葉と沈黙が等しくあたたかかった。
控えめに整えられた大広間には、まだ誰の気配もなかった。
絨毯の上を音もなく歩むエメリンド・フェリックスは、長いスカートの裾を指先でそっと持ち上げながら、レギュラスがいる一角――書斎から食堂へ出る小さな廊下にさしかかった。
レギュラスがちょうど一人で歩いてくるのを見計らったかのように、彼女は軽やかに近づいた。
表情は穏やかで、瞳には控えめな光を抱きながらも、
その手には――一通の封筒があった。
「レギュラス様」
彼が立ち止まると同時に、彼女は柔らかく声をかけた。
レギュラスが振り向いたとき、エメリンドはごく自然に一歩近づき、封筒を差し出す。
「アラン様に…お渡し願えますか? 頼まれていたものですの」
夕暮れの光が封筒の端に透けていた。
中身の存在を仄めかすわけでもなく、しかし重みを持たせすぎるわけでもなく、エメリンドの所作は驚くほど慎重だった。
レギュラスはその申し出に一瞬だけ眉を寄せ、目を細める。
判断に迷う一拍の間。だが、すぐにその紙片を無言で受け取った。
「……ええ、渡しておきますね」
ごく事務的に、当たり障りのない言葉。
だが、エメリンドの目には確信があった。
きっと彼ならば、封を開ける。
―― アランに渡すよりも先に、その中を確認せずにはいられない男だ。
《どうか、覗いて》
そう念じるように、彼女は一礼をしてその場を離れた。
封筒の内に納められているのは――
数枚の写真、どれもよく知られた存在のものだった。
シリウス・ブラック。
予言者日報に掲載された昔の切り抜き。
その一部はホグワーツ時代のものもあれば、血統から外れた後の肖像ですら含まれていた。
片袖をまくって挑発するような笑み。
無精髭と、煙草の匂いが漂いそうな不遜な眼差し。
エメリンドは、夜のあいまにこっそりレギュラスとアランの寝室へと忍び込み、
そのうちの一枚を、アランの枕元にこっそり忍ばせていた。
きちんと、見える位置に。
――“気づかれるように”。
あどけなかったエセルが、すでに彼の手が届いてしまった存在となった今、
前に出なければという焦りは、静かな悪意の熱へと変わっていた。
この封筒一つで、本当に何かが変わるとも思ってはいない。
だが、小さな亀裂さえ与えられればいい。
疑念という名の種を蒔ければ、それで充分。
それがレギュラスの愛する人間であればあるほど、
揺れる心の道筋は、きっと切り裂かれる。
その果てに何があるのかも、何を失うかも知らず――
エメリンドは微かに唇に笑みを湛えて、
ドレスの飾りを整えるように指をすべらせ、
ひとり、食卓へと向かっていった。
午後のひととき、窓から差し込む光は、書斎の奥にある重厚な机の表面に緩やかな影を描いていた。
帳のような静けさが部屋に満ち、レギュラスはその中心で、黙して座っていた。
手元には、先ほどエメリンドから受け取った封筒。
――「アラン様にお渡しください。頼まれていたものですの」と。
控えめに笑いすら浮かべて差し出された白い封筒には、特になんの印も蝋封も施されていなかった。
ただの、一枚の紙に過ぎぬように。
けれどそのさりげなさこそが、妙だった。
痕跡を残さず、開けてほしいとほのめかしているようにすら思えた。
そこに宿る狡猾さに、レギュラスは皮膚の下で冷たく息をするような感触を覚えた。
ほんの一拍、逡巡する。
だが――指先は封を割っていた。
ナイフを走らせる必要もなく、ただそっと、紙が音も立てずに開いた。
中に入っていたのは、数枚の写真。
黒髪の青年。灰色の瞳。
不敵な笑み、乱れた襟元、喫煙の煙の余韻。
そして――その男を今でも知らぬ者などいない。
シリウス・ブラック。
最初の一枚で、思考が止まった。
二枚目、三枚目。
見覚えのある表情、たしかに兄であり、今は裏切り者と呼ばれるその男。
だがそれ以上に、身体の奥で凍りついたのは、その意図だった。
――なぜ、それを、アランに。
瞬間、頭の中で何かがはじけた。
弾けるというより、静かに破れるような感覚。
混血の魔法使いの男が語ったあの記憶――
シリウスがかつてマグル世界でアランと共に過ごした、たった一夜。
「一晩中、愛し合っていた」
あの気持ち悪い囁きが、脳裏にもう一度浮かび上がる。
そして、今この封筒の中身。
あまりにも繋がりすぎていた。
あまりにも、計ったような“重なり”。
アランは――
あの過去を、再び拾い上げようとしているのか。
あの男の写真を、手に入れようと、
エメリンドの家系――予言者日報の記者を通して依頼をしたのか。
あの女が、わざわざ“頼んだ”のか――
怒りは、喉元から突き上げる感情というより、
骨の奥で燃えていくような、静かな焚火だった。
肌の裏側が焼けるように、
胸の奥がきつく締め付けられていく。
あのアランが。
笑って、触れて、欲しがってくれたあの人が。
今も兄の影を探して、
他の女を使い、自分の目を盗んで――
どこまでも愚かな話だった。
滑稽で、惨めで、たまらなく腹立たしかった。
自分がどれほどまっすぐ、真摯に愛を注いでいるか。
そのすべてを――こけにされたような気がした。
見上げた書棚の端に、アランとの結婚写真が飾られている。
その写真に映る彼女は、ほがらかに笑っていた。
けれど今、その写真さえも、何か変わったように見えた。
レギュラスは机に封筒を投げ出すように置いた。
指先がわずかに白くなるほど力が入っていた。
何が本当かなど、もうどうでもいい――
ただ、このくすぶる痛みは、もはや誰にも否定できない事実だった。
そして恐らく、
アランですら、それを癒す術は持ちえないのだと、
レギュラスはどこかで悟っていた。
夕暮れの光が食堂のカーテンを透けさせて、テーブルクロスの上に柔らかな影を描いていた。
調えられた器には温かな料理が湯気を立てていて、銀器や水晶のグラスが控えめに光を返している。
――いつもと同じ、夕食の時間のはずだった。
けれど、レギュラスの内側だけは、決して静かではなかった。
彼の目の前には、アランが座っていた。
まるで、何も変わらないかのように。
彼女の姿は、今夜も美しいとしか言いようがなかった。
レギュラスが好んでいると以前に伝えた、深い色調のドレスが肩から流れるように身を包み、
長い髪は珍しく結ばれておらず、光を含めばそのまま金のように揺れていた。
そんな美しさが“今夜も変わらずに存在している”ことが、彼の中ではひどく皮肉だった。
その瞳、その仕草、その声。
知りすぎるほど知っているはずなのに、
いま、その女の全てが謎に見えて仕方なかった。
レギュラスの視線は、無意識のうちに鋭さを増していた。
気づかれぬように、それでも探るように――
何か、真実を見破ろうとするかのように。
「お父様、全然食べてないわ」
ふいに向けられた可憐な声に、現実へと引き戻される。
セレナが、真っすぐな目をして父を見つめていた。
「ほんとね……どこか具合でも?」
アランもまた、心配するような声で問いかけてくる。
その柔らかい声音にすら、
もう自然に応えることができなかった。
「……いえ。ちょっと、食欲がないだけです」
いつも通りの表情で――けれど、その裏には、
崩れそうな感情が幾重にも積もっていた。
なぜ、と思う。
疑念ばかりが心を満たしている。
混血の魔法使いの証言。
エメリンドが渡してきた封筒。
アランが、兄の写真を求めていたのかもしれないという推測。
全てを考えれば、怒りに支配されてもおかしくない。
言葉ひとつで席を立つことすらできそうだった。
なのに、今なお――
彼女のその翡翠色の瞳に心が奪われてしまう。
まるで何も知らぬように、いつも通りの笑顔で向けられるその目が、
どこまでも無垢に見えてしまう。
それが、癪で、切なくて、
喉の奥で何かが押し込まれているような感覚を生む。
めちゃくちゃにしてやりたい。
問い詰めて、泣かせて、壊してしまいたい衝動すら、確かにそこにある。
なのに――
その目の前の女の、あまりの美しさに、
ただ「壊せない」という事実に、
レギュラスは自分が何より情けなくなっていく。
彼女の微笑みひとつで。
髪をかき上げるしぐさひとつで。
籠る翡翠のまなざしで――
何も言えなくなってしまう自分が、そこにいた。
どんな怒りも、
どんな疑いも、
いまはまだ、彼女の確信のない眼差しによって、
静かに置き去りにされていた。
寝室には静かな夜の気配が満ちていた。
風も止まり、カーテンの裾が揺れることもなく、まるで時間そのものが息をひそめていた。
レギュラスはその沈黙のなか、誰よりも先にベッドへ入っていた。
けれど横たわることはせず、背を高く積まれた枕に預けるかたちで、じっと座っていた。
寝衣の胸元には乱れはなく、けれどその目線の先は、どこへも定まっていなかった。
眼差しの奥、深く伏せられたままの理由。
ひとことでは語れない感情が、澱のように静かに積りつづけている。
アランはドレッサーの前にいた。
毛先までゆっくりと櫛を通す、いつもと変わらない夜の所作。
その手つきは流れるようで、けれどどこか遠慮がちにも見えた。
やがて、鏡越しに彼を見やりながら、柔らかく口を開いた。
「今日は……ここで?」
それだけの問いだった。
責めるでも、探るでもない。
けれどレギュラスの胸に、それは思いがけず刺さった。
まるで——別の女のところに行け
そう言われたような気がしてならなかった。
唇が自然と強ばった。
そして、そのまま吐き出すように応えた。
「……夫が夫婦の寝室にいるのが、不思議ですか?」
思った以上に、言い方が険しく、棘を帯びていた。
すぐ後悔が追いついた。
反射のように出た言葉は、自分でも制御しきれない苛立ちによるものだったと自覚していた。
アランは驚いた様子も見せず、
ただ静かに、優雅にドレッサーの椅子から立ちあがった。
静かな足音を連れて、レギュラスのもとへ歩を進める。
「……そうではなくて」
低く温かな声が、室内に降りてくる。
「オリオン様や、ヴァルブルガ様を……あまり悲しませてはいけませんもの」
その声音には、規律ではなく気遣いがあった。
個人の自由でもなく、義務の強制でもなく、
“家族というもの”を大切にしながら歩こうとする、アランらしいやさしさ。
それが、ますますたまらなかった。
「どうでもいい——そんなこと」
衝動が言葉を生む。
レギュラスは声を飲み込むようにして、彼女の手首をぐっと引いた。
その瞬間だった。
沈んでいた枕が少しずれて、
ベッドの上から、一枚の小さな紙片が音もなく滑り出た。
ふたりの間に落ちたそれは——
写真だった。
ライトの金具に反射して、顔を見せる一枚。
黒髪。灰色の瞳。
笑っているわけでも、怒っているわけでもない、不敵な眼差しのまま。
シリウス・ブラックの写真。
沈黙が、部屋全体を包んだ。
アランはすぐには拾わなかった。
レギュラスも見下ろしたまま言葉を飲み込んだ。
心臓の輪郭が、静かに焼けるようだった。
お互いがその存在に触れぬまま、その名だけが濃く漂いはじめていた。
温もりと、傷と、それぞれの沈黙が、
いっきに同じ寝台の上に交わっていく。
奇妙なまでに美しく整えられていた夜が、
ついに綻びを見せる音を立てはじめる、
ほんの小さな紙片の落下だった。
写真が床に滑り落ちた瞬間―― アランの表情が変わった。
それは驚きというより、もっと深い動揺だった。
肩がわずかに震え、唇が半開きのまま固まり、
翡翠の瞳が写真とレギュラスの間を行き来する。
その反応が、レギュラスには――もう限界だった。
握っていた彼女の腕に、じわりと力が込められる。
骨に触れるほどの強さで、確かに彼女を捕らえた。
「……エメリンドに、頼んだのですか?」
声は低く、静かで、しかし鋭かった。
問いというより――糾弾に近い響きがあった。
アランは困惑したように彼を見上げた。
「何のことか分からない」とでも言いたげな、戸惑いの表情。
けれどその目さえも、レギュラスには嘘くさく映った。
信じることができなかった。
「ここは夫婦の寝室です」
淡々とした声に、冷たい怒りが滲んでいた。
「そこに――別の男の写真を持ち込むなんて、正気ですか?」
言葉は整然としていたが、その奥にある感情は嵐のようだった。
静かに、ひたすらに、アランを責め立てる調子。
「違うの、レギュラス……私は、何も――」
アランが口を開きかけたその時、レギュラスは首を振った。
みじめな言い訳など、聞きたくなかった。
今夜は、ひたすらに彼女を責め立てたかった。
苦しめて、詫びさせて、自分の心に溜まった鬱憤を――
すべて彼女にぶつけて晴らしたかった。
混血の魔法使いから聞かされた、あの夜の記憶。
エメリンドが持参した封筒の中身。
そして今、この寝室に隠されていた写真。
すべてが繋がって、レギュラスの理性を蝕んでいた。
「どれだけ……どれだけ愚弄すれば、気が済むんです?」
握る手に、さらに力が入った。
アランの手首に、きっと痣が残るほどに。
けれど彼女の痛みよりも、自分の心の痛みの方が――
今は、遥かに大きかった。
夫婦の寝室で、妻の枕元から見つかった、
別の男の写真。
それが何を意味するのか、考えたくもなかった。
けれど考えずにはいられなかった。
そしてその苦しみを、すべて彼女に返したかった。
夜の静寂の中で、ふたりの影だけが壁に映り、
長く、歪んで揺れていた。
寝室の空気は、緊張に張り詰められていた。
アランの声は、かすかに震えながらも静かに響く。
「何かの手違いで……」
その言葉は、どこか遠い場所から放たれたように感じられた。
けれど、レギュラスの鋭い目は、彼女の眼差しを一切逃さなかった。
「この部屋に入れる者は、限られています」
彼の声は冷たく、重かった。
「掃除を任されている使用人でさえ、決まった者だけです」
アランは言葉に詰まり、唇が震える。
一瞬の沈黙の後、レギュラスは声を荒げるように呟いた。
「では、誰だと思います? 使用人たちを全員拷問して聞き出しますか?」
その言葉にこもる強い意志は揺らぐことなく、
今夜は決して、この問題に一歩も譲る気がないという決断の表れだった。
「レギュラス……信じて」
アランの目が真っすぐに彼を捉えていた。
それは懇願であり、祈りでもあった。
だが、レギュラスの心は揺れていた。
信じたいと思う気持ちは、山のようにあった。
それでも、揃った証拠の重さが、彼の決断を覆さなかった。
彼女を庇うための余地は、
この時、どこにも存在しなかったのだ。
部屋の静寂は、言葉にならない重さを抱えながら流れていった。
苦く、切なく、強い決意がそこに息づいていた。
薄暗い寝室の空気は重く、どこか冷たい緊張に包まれていた。
アランは静かに息を吐き、周囲を見渡すことなく言葉を紡いだ。
「これは、誰かの仕組んだ罠です」
その声は冷静だったが、奥底には複雑な感情が渦巻いているのが伝わった。
レギュラスの怒りの火種となったのは、エメリンドの名が話に出たことによって、彼女への疑念が心中に芽生えたからだった。
しかし、アランの胸にも「なぜ」という思いが渦巻いていた。
それでも今、一番先に考えなければならないのは、どのようにしてレギュラスの怒りをかわすかだった。
どんな言い訳も、どんな弁明も――
今のレギュラスには届かないことを、アランは知っていた。
何を言っても信じてはもらえないだろうという諦観が、声にならぬ声に重くのしかかる。
彼の怒りを解き、許しを得るためには、何を差し出せばいいのか。
彼が望んでいるものは何なのか。
この場での「正解」がわからず、もどかしさが彼女の胸を締めつけた。
「レギュラス……」
アランの声は震えていた。
その一言に、詫びる気持ちが込められているのは明らかだった。
けれど、その詫びは――正解がわからない自分への不甲斐なさの謝罪だった。
思わず顔を伏せて、かすかに震えながら続ける。
「ごめんなさい」
重く沈むような沈黙が流れる。
二人の間には言葉以上の想いが交差し、ただ静かに時だけが過ぎていく。
残されたのは、許しを願う切なさと、
それを手探りで受け止める強さと――
互いの心を推し量る、繊細なひとときだった。
薄暗い夫婦の寝室で、レギュラスの瞳が冷たく光っていた。
月の淡い光がカーテンの隙間から差し込み、静かな部屋の中で二人の間に緊張が漂う。
「シリウスの書斎に、入っていますよね?」
その言葉は静かに、しかし確実にアランの心の奥を突き刺した。
突然の問いかけに、彼女はどきりと息を飲んだ。
あの書斎は誰にも知られず、アランだけの秘密の場所だった。
時折、彼女は独り静かにその部屋に足を運び、過去の記憶と向き合い、シリウスとの日々に浸っていた。
なぜレギュラスがそれを知っているのか。
一体いつから気づいていたのか。
その疑問が、胸の中でざわめき、不安と恐怖に変わる。
今回起きた事は誰かの仕組んだ罠だった。
しかし、シリウスの書斎に入っていたという事実は変わらなかった。
そのことが罠にさらなる信憑性を与え、アランの心をますます重くする。
「それとこれは、違うのよ」と口にしたい気持ちが強くあった。
けれど、レギュラスの視線は鋭く、冷たく、圧倒的だった。
どんな言葉でも跳ね除けられてしまいそうなほどに。
アランはその視線を受け止め、言葉を選びながらも静かに答えた。
その声は震えたが、どこか揺るぎない決意も感じられた。
言葉にできない苦悩がふたりの間に流れ、
夜の静寂がその辛い真実を包み込んでいた。
寝室の空気は、まるで氷のように冷たく張り詰めていた。
月明かりがカーテンの隙間から差し込む中、レギュラスの声が静かに響いた。
「何とか言ったらどうです?」
その言葉は、問いかけというよりも命令に近かった。
アランは何かを言おうとした。必死に。
口を開き、言葉を探し、喉の奥から何かを絞り出そうとしたが――
声が出なかった。
喉が狭くなったような感覚で、息すら苦しかった。
レギュラスは彼女の沈黙を見つめ、さらに冷たい声で続けた。
「どう責任を取るんです?」
その声には、一片の温もりもなかった。
アランを許すつもりはないのだということを、明確に告げているようだった。
アランの心は混乱していた。
どう責任を取ってほしいのか、むしろ彼に言ってほしいとさえ思った。
何がほしいのか、どうしてほしいのか――
それさえ分かれば、言われたものを何でも差し出すつもりだった。
静寂の中で、アランはゆっくりとベッドの上で両膝をついた。
それは、今できる最大限の屈服の証明だった。
頭を下げ、震える手を膝の上に置いて、
彼女は静かに待った。
レギュラスの言葉を、彼の裁きを。
夜の静けさの中で、二人の影がベッドの上に長く伸びていた。
一人は立ち、一人はひざまずく。
その距離は、物理的なものを遥かに超えて、
心の深い溝を表しているようにも見えた。
時間だけが、重く、静かに過ぎていく。
許しを求める者と、それを拒む者との間に横たわる、
深い沈黙が、部屋全体を支配していた。
部屋の空気は、重く、張り詰めていた。
レギュラスの中で収まることのない怒りが渦巻き、
その視線はまるで鋭い矢のようにアランを射抜いていた。
アランは、小さく背中を丸めるようにして、静かに、両膝をついた。
その姿は、まるで全てを自らに引き受けるかのようだった。
声は掠れ、小さく呟いた。
「ごめんなさい……」
レギュラスは無言のまま、彼女の手首を掴んだ。
そして、ゆっくりと顎を持ち上げた。
そのとき、アランの翡翠の瞳が、恐れに揺れるようにこちらを見つめていた。
まっすぐに逸らすことなく、じっと見据える光。
彼の視線の中に込められた意味が、幾重にも折り重なっていることを理解したのだろう。
アランの指先は、震えながら胸元のボタンに触れた。
一つ一つゆっくりと外されていくその動きは――
差し出そうとするのは、アラン自身の「女」である部分だった。
レギュラスの理性は、激しく彼女を責め立てていた。
詰め寄り、問い詰め、幾度も静かな怒りを降りかけたのに。
最終的に辿り着くのは――
彼女が身に纏い続けてきた強さを解き放つ、その真実の姿。
ボタンが一つ、また一つと外されるたびに、
彼女が抱えてきた狡猾さも、情けなささえも、ゆっくりと剥がされていく。
それはただの“脱ぎ捨て”ではなかった。
むしろ、許しに似た、静かな解放だった。
レギュラスは何も言わず、ただその眼差しを強めた。
その視線の中には、激しい怒りと共に、どこか淡い慈しみも含まれていて。
闇夜の中の灯火のように、彼女のほのかな震えを、優しく映し出す。
二人だけの重い沈黙が、微かに切なさを帯びて溶けていくようだった。
部屋の床に落ちる音は、脱がれていく布の柔らかなはらり。
その一枚一枚が、積み重なっていた感情の殻を静かに砕いてゆく。
そして、一瞬の深い呼吸の後、
アランの唇が、震えながら、小さく呟いた。
「……許してください」
寝台は荒れていた。シーツは深く皺を刻み、薄いカーテンが夜風に揺れている。
月明かりだけが、静かに広がる影をふたりに落としていた。
アランは体を横たえることなく、ベッドの中心で、膝を折ったまま座っていた。
レギュラスの手は、その細い肩を何度も支えなおしていた。
崩れそうに、後ろへ倒れていきそうになるたび、その華奢な身体を引き寄せる。
それを何度も、何度でも、くり返した。
ふたりの間には痛みがあった。
それでも唇が離せなかった。
許していない。許すつもりもない――なのに、愛していることだけはもう何の抗いようもない。
怒りに火が入り、激情が燃え込んでいるのに。
アランのなかの、あまりにも繊細で、柔らかで、それでいてすべてを溶かすような“女”の部分が、レギュラスのその激情を、するりと掠め取っていく。
腹立たしくすらあるのに、
それでも、この中にしか、今の自分の居場所はないのだと思ってしまう自分がいた。
甘く、熱く、どうしようもないほどに、彼女に奪われていく。
「どうして……です……」
小さな呻きのような声が、レギュラスの喉の奥から零れた。
誰にも答えられない問いだった。
何度自問しても、何度夜を過ごしても、埋まらないままの疑問だった。
アラン・セシール。
昔から、誰もがその名にため息を漏らした。
ホグワーツでも、社交界でも、貴族の宴の場でも――
そこにいる限り、いつも誰よりも美しかった。
だから惹かれているのだろうか?
そのはずなのに、そんなただの“理由”では語れないものが胸の奥に生まれていた。
どんなに傷つけられても、離れられない。
愛してしまったという事実から、もう抜け出せない。
アランは、膝を折ったまま、少しだけ身を傾け、
どこか遠くを見つめるように、うわごとのように何かを呟いた。
その唇をレギュラスは塞ぐように、深く口づける。
声は遮られ、全ての意味も、言葉も、沈んでいった。
そのくちびるに触れた瞬間、身体の奥を焦がすような興奮が走る。
怒りよりも、糾弾よりも、理屈も、正しさも、
なによりも――ただこの熱に、いまは勝てなかった。
明確な赦しなど、どこにもなかった。
ただ、ひたすらに求め合う肉と心だけがあった。
責めるために始まったはずの行為。
けれど触れた瞬間から、それは赦しにも似た甘い毒に変わってゆく。
苦しさと、哀しさの最中で、
ふたりは指先を、心を、深く結びつけながら、
自分たちが何に呑まれているのかも知らず、
ひたすらに熱を重ねていった。
朝の光は、まだやわらかく揺れていた。
カーテンのすき間から流れ込む白んだ陽が、寝室の天蓋ベッドに淡く影を落とす。
お互いに、一睡もしないままの夜が明けようとしていた。
シーツの湿り気と、絡め合った肌の温もりが、
まだ生々しく身体に残っている。
気怠さはあった。疲労もあった。
それでも――深く満たされていた。
怒りとは、実に儚く崩れやすいものだった。
あれほど鋭く尖っていた感情は溶けるように鈍くなり、
今ではただ、アランのぬくもりに身をあずけたいという静かな満足感の中にいた。
笑えてくるほどだった。
自分は、本当に単純な人間だ。
あんなふうに詰め寄り、責め立て、
決して許すまいと胸を焦がしていたというのに――
今では、その胸の奥に漂うのは熱ではなく、静けさと余韻。
あまりにも簡単に、解かれていった。
隣ではアランが、静かに横たわっていた。
長いまつ毛が頬に影を落とし、白い肩がシーツの上で静かに呼吸を繰り返している。
眠りにはまだ完全に落ちていないが、意識はおぼろげだ。
「……ごめんなさい……」
彼女がかすかに漏らすように呟いた。
その声を聞くだけで、レギュラスの中にまたひとつ熱がこみ上げてくる。
何度も自分の上で乱れ、揺れ、全てをさらけ出してくれたあの姿。
そのすべてが、赦しではなく――
たしかな誓いのように思えた。
その記憶を反芻するたび、
ひとつずつ、自分のなかの尖った部分が削れていくのを感じる。
怒りではなく、触れることでしか伝えられないものたちが、
この距離を埋めていた。
「……今日は、寝ましょう」
レギュラスが声をひそめて言ったとき、
それは疲労の提案ではなかった。
今日という時間を、ふたりだけのまま終わらせたいという、ささやかな願いだった。
もうすぐ一階では朝食の準備が始まるころだろう。
通常であれば屋敷の気配に促されて、使用人の足音が廊下に響きだす時間帯だ。
けれど不思議と――そのすべてが遠かった。
誰にも会う気にはなれなかった。
当たり前の顔でテーブルにつくことも、
義務のようにカップに口をつけることも。
ただこのまま、アランの隣で、静かに眠っていたかった。
ほんの数時間でもいい。
争いの名残を、美しい夢につなげていけるだけでいい。
レギュラスは浅く横になり、
そっとアランの髪に指を触れた。
その指先が眠気とやすらぎを誘うように、
ゆっくりと髪を梳かしていくなか――
アランはもう、夢の境に足を踏み入れていた。
その寝息に呼吸を合わせながら、
レギュラスもまた、目を閉じる。
怒りよりも、責めよりも、
人を赦すということはきっと、
こうして同じ温もりを分け合うことだったのだと、
心のどこかで、そっと思った。
窓から差し込む光は、すでに真昼の色をしていた。
寝室に広がっていた静けさはとっくに消え、屋敷のどこかで灯された灯りと人の気配が、ゆっくりと日常の時間を運んできていた。
目覚めたとき、レギュラスは薄暗い寝室にたった一人だった。
指のあいだには残された体温。
触れていた髪の名残、首筋に残る微かな香り。
夢でない温もりが、シーツの褶や肌の奥にまだ深く染みていた。
それから間もなく。
食堂へと向かう階段を下りた先、セレナがパタパタと音を立てて駆け寄ってきた。
「お父様、お母様……お部屋で仲良く寝てたのねっ!」
無邪気な笑顔。大きく開いた瞳。
一切の計算も含まぬまま放たれたその言葉が、妙な鋭さを持って響いた。
どこまで意味を理解しているのか。
もちろん、それは誰にもわからない。
けれど、まさにそのとおりだった。
互いに一歩も譲らぬ怒りのなか、すれ違いの末に重ねた、夜の終わり。
ひとつの器のように絡まり合って、ようやく届いた和解のような時間。
レギュラスはひそやかに息を継ぎ、目線を和らげて娘に返した。
「ええ、そうです。だから……寝坊してしまいましたね」
肩の力を抜いた声で答えると、セレナはぱあっと顔を明るくして笑った。
それはあまりにも柔らかく、平和な光景だった。
その後ろから――
整えられた髪に、薄桃色の柔らかなローブをふわりとまとったアランが、静かに姿を現した。
顔も髪も完璧に整えていて、けれど額にかかる髪を掬う手が少し慌てている。
「お母様、お父様と……仲良くしてたの?」
セレナは無邪気に、まるで花を摘むかのような声で問いかけた。
その瞬間、アランの表情にわずかな驚きが浮かぶ。
瞳がぱちりと開かれ、頬にほのかな紅が差し、
そしてゆるやかにレギュラスの方へ視線が向けられた。
それは控えめだが、はっきりとした抗議の眼差しだった。
――どうして、そんなふうに答えたのですか?
静かに責めるような瞳。けれど刺すことはしない。
ただ、彼女らしく、律した余白の中で軽く問いかけるだけ。
レギュラスは目を伏せ、少し肩を緩めて一歩進み、
まるで何かをかき混ぜるように、娘の頭をそっと撫でた。
「仲良くしていたかは……さて、どうでしょうね」
そんなふうに、やや曖昧な冗談交じりでささやく。
その響きに、アランの口元がわずかにほころんだ。
ほんの少しだけ、微笑みの影が戻ってくる。
剥がれそうになった信頼は、まだ完全に戻ったわけではないけれど。
この朝の光のなかでは、かろうじて、やわらかく寄り添っていた。
午前の陽射しが、屋敷の石造りの廊下にやわらかく差し込んでいた。
けれど、そのやさしい光とは裏腹に、レギュラス・ブラックの歩みに宿る気配は硬く、まっすぐだった。
彼の行き先は決まっていた。
——エメリンド・フェリックスの部屋。
あの女は、何かを企んでいる。
それは、疑惑ではなく……確信だった。
アランに手渡された封筒の中身。
わざとらしいほど封がなされていなかった——
容易に開けられ、痕跡の残らないそれは、 「中を見てください」と言わんばかりだった。
そして、その後に見つかった、寝室に置かれていた一枚の写真——シリウス・ブラック。
あまりにも……すべてが、できすぎていた。
封筒、写真、そしてアランへの疑惑。
ピースの一つひとつは小さい。
けれどそれらが意味を成すには十分なだけの悪意の連なりとなっていた。
確証はない。
けれど、あの女には動機があった。
かつてアランとシリウスの過去について、自分に言及してきたのはエメリンドだった。
そして、それを語るときの彼女の目には、 ただの《興味》だけでは済まされない色を灯していた。
ならば、今この一連の出来事の背景に、彼女の手があると疑うには十分だった。
レギュラスは、小さくノックをした。
「……エメリンド嬢。少し、お時間をいただけますか?」
やや低めの声に、扉の向こうで衣擦れの音がしたあと、 彼女はほどなく扉を開けた。
「レギュラス様……ええ、もちろんですわ」
微笑を浮かべたまま、エメリンドは頭を下げた。
彼女の視線は澄んでいるようでいて、どこか臆することなく品をまとっていた。
まるで、すべてを予期していたかのような穏やかさ。
それがかえって、レギュラスの疑念を深くした。
短く礼を交わした後、二人は人目のない話し部屋へと移動した。
厚いカーテンが引かれたその小部屋は、昼の光をわずかに遮り、蝋燭の光が滲んでいた。
卓に敷かれた薄いレース、片隅に置かれた一輪の花。
穏やかな空間のなかで、レギュラスは扉を閉めると、そのままゆっくりと彼女の方へ振り向いた。
表情は落ち着いていたが、瞳の奥に宿るものは明らかだった。
——これは、問いただすための時間。
始まりの言葉は、慎重に選ばれる。
だが、その芯には決して揺るがぬ意志が灯っていた。
レギュラス・ブラックは、今や真実を問う人間の顔をしていた。
レースのかかった小卓を隔てて、二人は向かい合っていた。
エメリンドは姿勢を崩すことなく、あくまで穏やかな表情を保って座る。
けれど、その張り詰めた沈黙のなかで、レギュラスの眼差しは一点の曇りもなく、彼女を見据えていた。
その瞳は問いかけなどではない。――明確な「警告」を孕んでいた。
レギュラスは、膝の上で組んだ指を一度解き、卓の縁に静かに手を置いた。
指先の動きひとつも無駄がなく、緩やかながら圧を纏っている。
「……先日、私に封筒を渡されましたね。アラン宛だと。頼まれていた、と仰いました」
口調は穏やかだった。
だが、発される言葉には冷え切った意志がある。
エメリンドは、レギュラスの静かな声の温度にふと睫毛を伏せた。
「ええ。たしかに、そう申し上げました」
「その封筒は、封がされていませんでした。蝋すらも、使われていなかった」
わずかな間。
光が蝋燭の灯に照らされて、エメリンドの睫毛の影が机に鋭く落ちる。
返答を急ぐでもなく、彼女はゆっくりと目を上げた。
「不要だと思ったのです。内容はただの切り抜き写真ですから、例えば新聞……」
「――兄の写真でした」
レギュラスの声が、その場の空気をわずかに揺るがせた。
「過去のもの。過去の誰か。だが、なぜそれを、わざわざ私の妻に手渡さなければならなかったのです?」
エメリンドの表情はわずかに揺れた。
だが笑みを浮かべるでも、取り繕うでもなく――静かに、真っ直ぐ彼の視線を受け止めた。
「……シリウス・ブラックは、あなた方の家にとって“過去”でも、アラン様にとっては……そうではないように、見えましたわ」
まるで、それが罪でもなければ、悪意でもない――そんな風を装った声音だった。
だが、レギュラスの眉はほんのわずかに動いた。
鋭いものが光の奥からゆっくりと立ち上がる。
「“そうではないように見えた”と。……では、あなたは、何のために、それを渡したのです? 何のつもりで」
エメリンドはわずかに肩を引き、そしてしっとりと笑った。
「わたくしの一存では手に余るお話ですが、レギュラス様……」
「事実というものは、いつか見てしまうより先に、“確かめる”べきなのだと思うのです」
その「確かめる」という言葉に、どこか挑むような熱が混じった。
レギュラスは、目を逸らさず静かに息を吐いた。掌の奥に、感情が鈍くうねる。
これは恐らく――計算された動きだ。
あの女は、意図的にアランの“過去”を揺らがせ、いま自分たちの関係に裂け目を作ろうとしている。
「……今後、私の寝室に、勝手に何かを残すようなことがあれば――それは“無礼”では済ましません」
小さく告げた言葉に、エメリンドは静かに睫毛を伏せ、
まるで“今のところは了解しました”とでも言うような、極めて上品な頷きを返した。
しかし彼女の横顔には、落胆も、畏怖も、ほとんど浮かんでいない。
その奥には、まだ手を隠している者の、次の打ち手への沈黙があった。
小部屋の空気はひときわ静かになった。
沈黙は、勝敗よりも深い“余白”を意味していた。
レギュラスはもう一度、冷たく視線を落とす。
――沈黙で終えるのが、今のところ一番の答えだ。
彼は淡く吐息を漏らしたあと、椅子を押し、扉に向かって歩みだした。
背を見せながらも、いつでも振り返れるように――ゆっくりと、音を絶つように。
部屋の扉が静かに閉まる音が、後方に淡く響いた。
レギュラスは廊下に出ても、すぐには歩き出さなかった。
取ってつけたような礼儀も、追いかけてくる足音もなく――
背後の静けさは、そのままエメリンドとの会話が“決着などついていない”ことを知らせていた。
扉の奥にはまだ、仕掛けた者の微笑みが、冷たく残っている。
彼女の言葉は、どこまでも“誤解を促すもの”だった。
善意にも、心配にも、最小限の驚きにも成りすませるよう、きちんと整えられていた。
けれどその根底にあったものは、悪意だった――間違いなく。
見た目では柔らかく、約束してしまいそうになるほどに礼儀正しかったその顔の裏で、
アランと自分の間にある“見えない傷”を引き裂こうとしていた。
試したのだ。
この夫婦の強度を。
どこまでなら揺らぐか。どこまでなら壊せるのか、そのきわを見極めている。
レギュラスは歩き出した。
静かに、だが迷いなく。
アランのところへ向かっていた。
廊下を抜け、階段をのぼりながら、
無意識のうちに、背中や袖に絡まるあの女の声を、払い落としたくなった。
あれは靄のように、冷えた悪意だけを忍ばせていた。
「シリウス・ブラックは、アラン様にとっては過去ではないのでしょう」
――あの一言が、何よりも彼の怒りを刺激した。
なら、何だというのか。
自分の傍にいるのは誰か。
夜ごと眠り、娘と過ごす日々を分かち合い、同じ屋敷で息をしているのは――誰なのか。
それを曖昧にさせるような誰かの判断や道具や誘導が、
レギュラスの本能を、あからさまに冷やしていた。
廊下の角を曲がると、部屋の前にさしかかる。
いつもの、変わらない扉。
けれど、それを開ける前にレギュラスは一度立ち止まった。
いまこの瞬間、問いただすべきか――
それとも黙って、あのぬくもりにもう一度触れるべきか。
思いが、ほんの少しだけ、軋んだ。
自分はアランを、信じたい。
ここで“あの写真”にあらためて言及することが、
どれほど彼女の心を塞ぐかも分かっている。
けれど、それでも。
あの言葉と、あの視線と、偽りめいた沈黙の奥で何が育っているかを――
見過ごすわけにもいかない。
レギュラスは、ノックをしなかった。
静かに扉を押し開ける。
その先にいる者が、どうか自分に気づいて、目を上げてくれることを願いながら。
静かな午後の光が、部屋に差し込んでいた。
風も煙もないはずなのに――なぜか、ほんのわずか空気が揺れていた。
レースのカーテン越しに差し込む光が、午後のやわらかな色をつくっていた。
寝室には深い静けさがあり、息づくように寄り添うふたりだけの時間が静かに流れていた。
ふと、レギュラスが低く彼女の名を呼んだ。
「…… アラン」
その声音には、呼ぶというよりも、寄りかかるような柔らかさがあった。
アランはベッドの縁に腰を下ろしながら、ゆるやかにこちらを見て微笑む。
「なぁに、レギュラス」
それはまるで、何度も繰り返された日常のやりとりのようでいて、
どこか、たった今、はじめて交わすような、はにかむ呼吸だった。
レギュラスは、彼女の頬に流れかかった髪を指先で掬った。
はらり、と落ちる。
また掬う。
そしてまた、細い影を辿る指が、そっと流れた髪を持ち上げる。
言葉にならない想いが、そのしぐさに混じっているようだった。
何かを確かめるように、何かを取り戻すように。
その手が動かなくなったとき、彼は小さく息をつきながら呟いた。
「……情けないくらいに、あなたのことになると、感情的になります」
どこまでも冷静で、判断を誤らない男だった。
けれどアランに対してだけ――彼はそうではなくなる。
アランは、彼の手の動きを止めずに、目を細めた。
何も言わなかった。
けれどその沈黙には、痛んだような優しさが潜んでいた。
――そうさせてしまったのは、自分だ。
曇りのないはずの判断に揺らぎを与えたのは、
冷静な彼をこんなにも迷わせてしまったのは――
この、自分という女だ。
苦しさが、やわらかな布のように胸の奥でかさなり合っていく。
その想いを見透かしたかのように、レギュラスはぽつりと続きを呟いた。
「……愛してるんです。ほんとうに」
その告白は、言葉よりずっと深くて、
痛みよりもまっすぐで。
それを受け止めたアランの眼差しが、ゆっくりとほころぶ。
「……ええ。伝わっています」
その声には誓いも、赦しもあった。
この瞬間のすべてを、余すことなく受け取りたい――
そんな静かな覚悟のようなものが、アランのまとう空気に溶けていた。
レギュラスの手が、やっとその髪から離れたとき、
その手は彼女の頬をゆっくりと撫でた。
そしてそれに続く声は、たった一つの願いだった。
「何があっても……僕の隣には、あなたがいてほしい」
アランは、ためらいなく頷いた。
まなざしをそらさぬまま、それが揺るぎない意志であると示すように。
「ええ……約束します」
そう返したその声が、
肌を撫でる風のように、部屋じゅうをやさしく包んだ。
ふたりはただ静かに、
ようやくほどけて戻った距離をもう一度、そっと結びなおす。
誰にも邪魔されない時間のなかで、言葉と沈黙が等しくあたたかかった。
