3章
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アランは静かに息を吸った。
確かに、この数日間――レギュラスは寸時も自分の傍を離れなかった。
熱に浮かされた夜も、薬を飲ませる朝も、ずっとそこにいてくれた。
その献身的な看病は、妻として何より嬉しく、心強いものだった。
けれど同時に、それは家の期待を背負う男としての彼の立場を、一時的に停止させるものでもあったのだ。
「……承知いたしました」
アランの声は静かで、しかし明確だった。
ヴァルブルガの求めに応じることに、迷いはなかった。
それが、この家で生きる者としての自分の役割だと、理解していたから。
「感謝するわ」
ヴァルブルガは深く頷いた。
その表情には、アランへの信頼と、家の未来への安堵が混じり合っていた。
部屋に再び静寂が戻る。
午後の光は少し傾き、影の長さが変わっていた。
アランは手元のカップに視線を落としながら、心の中で静かに準備を始めていた。
今夜にでも、レギュラスにその話をしよう。
彼の優しさに甘えるのではなく、家の一員として、妻として――
正しい道を歩むために。
その決意は、悲しみでも諦めでもなく、
ただ静かな覚悟として、彼女の胸に宿っていた。
夜の静寂が、寝室を静かに包んでいた。
月明かりがカーテンの隙間から薄く差し込み、部屋の輪郭を柔らかく照らしている。
アランは、ベッドの端に腰かけ、髪をゆるやかにほどいたまま、レギュラスの帰りを待っていた。
扉が静かに開き、彼がいつものように足を踏み入れる。
上着を脱ぎ、袖のボタンを外し始める――その日常の仕草が、この部屋には自然に溶け込んでいた。
けれど今夜は、その手が二つ目のボタンに触れかけたとき――
アランの手が、そっとレギュラスの手に重なった。
やわらかく、けれど確かに、その動きを制止するように。
「今日は……あなたをお待ちの方がいるわ」
低く、静かな声だった。
その言葉の意味を、レギュラスは一瞬理解できなかった。
まばたきをして、アランの表情を見つめ返す。
そして――ゆっくりと、その意味が心に沈んでいった。
「……やめてください。そんな気分じゃありませんから」
声には、拒絶と困惑が混じっていた。
手を振りほどこうとするが、アランは静かにその手を包んだまま離さない。
「ヴァルブルガ様が、準備を整えていらっしゃるのよ」
その一言が、レギュラスの胸に鈍い痛みを走らせた。
――嫌だった。
アランから、別の女を抱きに行けと言われることが。
むしろ引き止めてほしかった。
「今夜はここにいて」と、せめて一言でも。
この二人だけの静かな空間で、母の名前を出されることも、
それが持つ重みも、すべてが耐えがたかった。
「……そんな気力が、本当にないんです」
声がかすれた。
それは嘘ではなかった。
確かに一度、エメリンドと最後まで責務を果たしたことはある。
けれどあの時は、バーテミウスから密かに調達してもらった薬があったからこそ可能だった。
心が応じない身体を、一時的に欺くための手段。
それなしには、到底――
「こちらだって、準備があるんです」
その言葉には、男としての複雑な事情が込められていた。
アランは、レギュラスの手をそっと離した。
その眼差しには、理解と、それでも揺るがない静かな意志があった。
「……わかっているわ」
短く呟くと、彼女は立ち上がった。
「でも、それでも……私たちには、果たすべきことがあるの」
月明かりに照らされたアランの横顔は、美しく、そして決然としていた。
愛する夫を別の女のもとへ送り出す妻の顔――
それは、この世で最も過酷な愛のかたちのひとつだった。
レギュラスは、黙ったまま彼女を見つめていた。
胸の奥で、愛と義務が静かに軋み合っていた。
薄曇りの月が、寝室の窓辺に淡く膜のような光を落としていた。
夜の静けさは、窓の向こうからじわじわと染み込んでくるようなものだった。
その中心で、アランは静かにレギュラスの前に立っていた。
一歩だけ、ほんのわずか彼に近づいて、
肩をそろりと落とし、まっすぐに目を合わせる。
「……レギュラス、今日は……お願いします」
その声は震えてはいなかった。
けれど、その言葉の奥に――どれほどの思いを重ねたかは、容易に察することができた。
そして、アランはゆっくりと頭を下げた。
そう、それは――あのアランが、珍しくも、律儀すぎるほど丁寧に頭を下げてきたのだ。
レギュラスの胸に、じくりと熱い痛みが広がっていった。
「……やめてください、アラン」
思わず、吐くような声が出た。
「そんなに必死に頼むのは……あまりにも心外です」
静かだった。
けれどその沈痛な言いぶりには、はっきりとした哀しみと怒りが、にじんでいた。
自分の向ける想い。
触れる手、重ねた時と日々。
すべてが“無力だ”と告げられた気がしてしまう――
まるでこの愛情が、彼女のなかでは何ひとつ意味を持たないかのように、
突き返されているような感覚だった。
アランは、沈黙の中で薄く目を伏せる。
そして小さく、声を重ねた。
「……ヴァルブルガ様に、お願いされてしまったのよ」
その一言で、すべてが腑に落ちる感覚がした。
やはり――
今日のことも、結局は「母」の采配だったのだ。
レギュラスはこめかみに指を当て、長い息を吐いた。
まただ、と心の奥で呟いた。
あの母は、肝心なところで、いつも誰かの心を無視して己の「正しさ」だけで世界を整えようとする。
余計なことばかり。
誰かの痛みや沈黙を、その場しのぎの名誉の下に塗り潰してきた人だった。
それでも、レギュラスは理解していた。
今日、もしも自分がこのままこの場にとどまれば。
明日、母はアランの前で、またあの冷たい目で言うだろう。
「妻として、ご自分で手を打つことはできなかったのですか?」と──
アランは、「私のせいで……」と、自らに責めを落とすだろう。
そして、
あの苦しげに眉を寄せる表情をする。
笑おうとして、声が肺の奥に詰まる、あの儚い目をする――
そんな姿を、レギュラスは誰にも見せたくなかった。
自分も、見たくなかった。
じわりと、指先が強くなる。
愛する人のために、別の女のもとへ行かなければならないなんて。
それが“この家を繋ぐためだ”と、
何度言い聞かせても――
……それでも、
こんなにも、情けない気持ちになるなら。
どれだけ「義務」や「血」が正しくても、
彼女の手一つでなされた祈りのような願いが、
痛みとして胸に残ってしまうというのに。
しばしの沈黙のあと、レギュラスは静かにアランに背を向けた。
何も言わずに、ゆるやかに扉へと歩み出す。
「……すぐ戻ります」
小さな声が、扉を押す直前でこぼれた。
もう、アランは何も答えなかった。
ただ、ベッドサイドに残る花の香りと、
遠ざかっていく足音を、
彼女は静かに聴いていた。
月明かりが、薄いカーテン越しに部屋を照らしていた。
レギュラスは、なんとか――なんとか自分を奮い立たせようと努めていた。
けれど、目の前の少女は身を縮めるようにして、ガチガチに固まっていた。
エセルは震えていた。
小さな肩が微かに揺れ、呼吸も浅く短い。
目を固く閉じて、まるで嵐が過ぎ去るのを待つかのように。
レギュラスは、できる限り素早く終えて、アランの元に戻りたいと思っていた。
けれど――
ここまで恐怖に塗れた少女を前にして、どうしたらいいのかわからなかった。
「……すみません」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
何に対しての詫びなのか、自分でもわからなかった。
この状況に対してなのか。
彼女の恐怖に対してなのか。
それとも――自分自身に対してなのか。
けれど、何となく、そう言わなければならない気がした。
アランが慈しんでいた少女。
「優しく扱って」と微笑みながら頼まれた、この幼い人を。
今夜自分は――抱かねばならない。
その事実だけで、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくようだった。
倫理観。道徳感。
それまで自分の中で確かに存在していたはずの境界線が、
すべて静かに砕け散っていく。
エセルは声も上げなかった。
ただひたすらに、痛みに耐えているようだった。
その姿を見るたび、レギュラスは自分の非道さを責められているような気がした。
彼女の沈黙が、無言の告発のように胸に突き刺さる。
(これが、家のためなのか)
(これが、正しいことなのか)
問いが心の中で渦巻くが、答えはない。
ただ、月の光だけが変わらずに部屋を照らし続け、
時間だけが、重く、静かに過ぎていった。
そしてレギュラスは、この夜のことを――
おそらく一生、忘れることはないだろうと思った。
罪悪感とともに。
絹のような静寂が部屋の隅々に沈殿していた。
灯されたランプの光はもう揺れず、すでに夜の深さを受け入れたように、薄く、淡く、儚く、すべてを包み込んでいた。
ベッドの片隅――
少女は、小さな体をさらに小さくして、丸く、うずくまっていた。
まるで世界というものが怖くて触れられないかのように、
その体は震えながら布の下に沈んでいた。
その姿を見るのが、 どうしようもなく、痛かった。
レギュラスは声をかけるべきか、動くべきか、それすら分からずに、数秒だけその場に立ち尽くしていた。
ようやく、重い沈黙を破るように、
それでも指先ほどの優しさしか持たない声をかける。
「……大丈夫ですか」
それ以外の言葉が、何ひとつ出てこなかった。
「……はい。平気です」
小さな声だった。
かぼそく、揺れていて、消えてしまいそうな音。
顔は見えなかった。
背をこちらに向けたままのその姿――
けれど、見えていなくとも、彼女が泣いていることだけは分かった。
肌に触れたとき、冷たく濡れていた頬。
喉の奥でかすかに詰まっていた呼吸。
そのすべてが、無理に押し殺された涙の証だった。
レギュラスは、どうしてあげればよかったのだろうと、
その瞬間、まるで何も知らぬ少年のように問い続けていた。
アランでない以上、
この少女をどう慰めてよいのか、まったく分からない。
彼女の名を、これまでの人生で何度愛しそうに呼んだか数えきれない相手と、
たった今、名前しか知らない少女との距離。
思いやりの手の差し伸べ方さえ自分は知らないのだと、
無力という名の言葉が、胸のなかでぽつりと呟かれた。
恋だの、愛だの。温もりや帰る場所。
知ったのは、すべて―― アランとの間で。
だからこそ、他の何かに教えてやれるものなんて持ち合わせてはいない。
伝える優しさも、触れる勇気も、微笑みに変える技も――どれひとつ、持ってはいなかった。
そうだ。
泣きたいのは―― むしろ自分のほうだった。
その場に座り込み、顔を伏せて、
すべてを投げ出して、 「自分も壊れているのだ」と 声をあげて叫びたかった。
少女の沈黙に、責める声がなくとも、 その姿こそが、自分にとっては最も鋭い報いだった。
レギュラスは、目を閉じた。
微かな音も立てず、
ゆっくりと立ち上がる。
何も言わず、
何も伝えず、
ただ、静かにその場を去る準備を――
それだけが、許される唯一の行動だった。
月明かりのなかで、
かすかに軋んだ床の音だけが、夜の深さを語っていた。
扉を閉めた瞬間、レギュラスは深く息を吸い込んだ。
空気が、あたたかい。
ほんのさっきまでいた部屋とは違う。
さっきまで、誰かの沈黙と涙と冷たさに晒された場所とは――まるで別の世界だった。
ここは、アランがいる場所だ。
あの人の息づく、たしかな帰る場所。
ベッドサイドに重ねられた毛布の端が、かすかに膨らんでいた。
アランは、すでに眠っている。
枕元に横顔を見せ、手を胸に置いたまま、
彼女は静かに、穏やかな寝息をたてていた。
崩れるようにして、
その隣にレギュラスは身を滑り込ませた。
喉が焼けるように苦しくて、
何かを、声にもできずに、ベッドの上で膝を立てたまま俯いた。
〈起きていて欲しかった〉
ほんの一瞬、そんな子どもめいた感情が胸をかすめた。
「すぐ戻る」
そう言ったはずだったのに。
この苦しみに気づいていてほしかった。
待っていてもらいたかった。
でも―― アランは安らかに眠っていた。
それは彼女にしかたどり着けない場所で、
無理に起こしては壊れてしまうような静けさだった。
レギュラスはそっと、手を伸ばした。
アランの肩に指を置き、やわらかく揺らして――でも、それは彼女を起こすためではなかった。
ただ。
そのぬくもりに触れたかった。
そして、手を導くようにして、
彼女の腕のすき間をもう一度そっと広げ、
静かに、その胸元に頭をもぐらせる。
額が、胸元のやわらかさに触れた瞬間、
鼓動が、肌越しにふわりと伝わってきた。
とても静かで、小さくて。
けれど、世界中の音よりも、深く染み込むように優しかった。
そこに、愛があった。
ゆるしがあった。
壊れそうだった――
心が、きしむように、割れてしまいそうだった。
非道なことをしてしまった。
望みたくなかった誰かの手を取り、笑顔ひとつ知らぬまま、傷を与えた。
欲しかったものは、こんな夜じゃない。
見たかったものは、涙じゃない。
自分の手が望んでいたのは、
この胸で眠る許しだった、と――ようやく気づいた。
まるで子どもが母親の腕を求めるように、
レギュラスはそっと目を閉じた。
目頭が熱かった。
それでも、涙は落とさなかった。
ただ、アランの鼓動に身を預けることで、
押し寄せてくる罪の輪郭を、静かにぬぐいたかった。
足先が毛布のなかで絡み、
薄い香水と寝息が呼吸をつつむ。
彼女が何も知らずにいることで、今夜だけは自分がここにいてもいいような気がした。
どうか、この仕草を、
黙って許してほしい――
そう祈りながら、レギュラスは、愛に似たぬくもりにそっと眠りを落としていった。
朝の光は、ほんのりと乳白色で、
寝室のカーテン越しにうっすら差し込んでいた。
どこか曖昧な明るさは、夜と朝の境をまだくっきり分けきれずにいた。
レギュラス・ブラックは、ゆるやかに目を覚ました――が、
最初に気づいたのは、隣にあるはずの温もりが、
もうそこにはなかったことだった。
伸ばしかけた腕の先に触れるのは、冷えた毛布。
ただそれだけ。
昨夜、自らの身を置いたその確かだったはずの場所に、
いまアランはいなかった。
きっと、もう起きて支度を済ませたのだろう。
きっと、何気ない顔で階下の静寂へと滑り込んで、
食卓の準備の進み具合でも気にしているか、
あるいはセレナの部屋をそっと覗いているかもしれない。
ただ、それだけのことだった。 それだけの、いつも通りの朝。
なのに、
胸の奥には、ひどく濃い憂鬱が沈殿していた。
――昨日。
彼女が、静かに頼んだ言葉。
「今日は、お願いします」と。
あれは命令ではなかった。
懇願じみた重たさもなかった。
それでも―― あの人のために行かなければならないと、
あの人が誰にも笑われず、責められずいるために、
自分は、意地を押し殺し、
心を削りながら、 エセルの部屋へと赴いた。
用意された静けさ。
恐れに凍った身体。
その少女の、言葉にできない沈黙の痛み。
レギュラスが、ほんとうに壊れそうだったのは、 その部屋を出たあとだった。
だからせめて、明け方の今日だけは。
アランの手が肩に添えられていてほしかった。
そっと起こして「おはよう」と、声をかけられていたかった。
何も訊かれなくていい。
何も知られずともいい。
けれど――
何かを、感じていてくれる温もりが、
そこにいてくれるだけで、救われたはずだった。
けれど――
彼女はもう、いない。
ひどく、遠い。
レギュラスは、枕に顔を押しつけたまま、仰ぐように息を吐いた。
起き上がるのすら、億劫だった。
腕を伸ばせば世界の温度に触れてしまう気がして、
まだ、何かをまとうようにして毛布の内側に体を丸めた。
ほんとうに慰めて欲しかったのは、あの夜ではなく、
――今だった。
けれどそれを口にすれば、
あまりにも子供じみていて、苦しくて。
誰にも言えないまま、空白のぬくもりだけが、
惜しむようにシーツの上でひんやりと残っていた。
階段を下りる足音が、屋敷の静けさに響いていた。
朝の陽ざしが大広間の床に長い影を落とし、いつもの穏やかな朝の始まりを告げていた。
けれどレギュラスは、まず最初に―― アランの姿を探していた。
食卓には、まだ彼女はいなかった。
代わりに並んでいるのは、屋敷に招かれた令嬢たちの静かな笑顔。
「おはようございます、レギュラス様」
「お早い朝ですのね」
次々とかけられる挨拶に、レギュラスは軽く頷いて返した。
けれど、その視線は一人ひとりの顔に留まることなく、
どこか別の場所を――彼女のいる場所を探し続けていた。
そして、見つけた。
バルコニーの向こう――
朝の光に包まれて、フィロメーヌと向かい合って座るアランの姿。
フィロメーヌは、いつものように屈託のない笑顔を浮かべていた。
そして、アランもまた――
肩を小刻みに震わせて、楽しそうに笑っている。
時折、アランがフィロメーヌの耳元に何かを囁く仕草も見えた。
親密で、秘密めいた、二人だけの時間。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
今日という朝に――
こんな、自分の知らないアランを見たくはなかった。
昨夜、心を削りながら別の女のもとへ向かった自分。
そして今朝、隣で目覚めることを願っていた自分。
そのどちらも知らぬまま、
彼女は他の誰かと笑い合っている。
何より――
そのバルコニーは、あの夜の場所だった。
燃え上がるように愛し合った記憶。
ワインに酔い、理性を失くして、
互いの全てを知り尽くしたあの夜明け前。
朝露に濡れながら、羞恥と充足に震えたあの場所。
そんな特別な場所で――
フィロメーヌと親しげに語らうアランが、
ひどく遠く思えて、悲しかった。
「…… アラン」
声が、思わず出た。
まるで二人の会話を強制的に終わらせ、
アランを自分のもとへ引き戻すかのような――
そんな響きを込めて、彼女の名を呼んだ。
アランが振り返る。
フィロメーヌも慌てたように立ち上がり、
丁寧に礼をしてきた。
「おはようございます、レギュラス様」
その声に、レギュラスは軽く頷いて応えた。
会釈程度の、形式的な挨拶。
けれど彼の視線は、すでにアランだけに向けられていた。
昨夜の記憶と今朝の寂しさを背負いながら――
彼女だけを見つめていた。
朝の光の中で、三人の距離が微妙に揺れていた。
朝の食卓――
銀器の触れ合う音も、湯気の立つポットの香りも、どこか抑えめに揺れていた。
列席する令嬢たちの装いはきちんと整えられ、誰もが礼儀を外さない。
けれど、そこに――エセルの姿はなかった。
その事実は、大声で語られることもなく、
ただ、空席という形で確かに存在していた。
レギュラスは、口に運んだ紅茶の味さえ覚えていなかった。
胸の奥に重く残るのは、罪悪感とも違う――けれど
まるで引きずられるような感触だった。
悪いことをしたわけではない。
家の責務を、文字どおり“果たした”にすぎない。
けれど、その部屋に残る静けさと、
今朝のこのテーブルの空白が、
じわじわと胸に罰のような感覚を植えつけていく。
「……エセルさん、どうしたのかしら」
ぱたりと音を立てずにフォークを置き、
アランが、穏やかに問いかけてくる。
その声に、レギュラスは無意識に肩が揺れた。
なぜ、そんなことを自分に問うのか――
喉元まで、反論がせりあがった。
(どうして、君がそれを俺に聞くんだ)
(愛しているなら、そこだけは、黙っていてほしかった)
喉の奥で言葉がつかえ、
それでも出てきたのは、無表情に絞った短い返事だった。
「……さあ」
吐き捨てたわけではない。
けれど吐息のようなその声には、突き放す冷たさの代わりに、自己防衛の痛みが滲んでいた。
アランは、慎重な間を置いて立ち上がる。
「様子を見てきますね」
その一言に、思考が過敏に反応した。
――そこまでするのか。
レギュラスは、立ちかけた彼女の背に視線を絡めた。
たしかにアランは、令嬢たちをよく気遣っていた。
とくにエセルに対しては、娘のように優しかった。
そういった“優しさ”がアランの美徳であり、魅力だった。
だが、それとこれとは違う。
ほんの数時間前、あの部屋には自分がいた。
肌を重ね、感情を持たずに、ただ責務として行為を終えた。
それは事実だった――記憶すらも濁らせないほどに照り返す、生々しい現実。
そんな部屋に。 まだ彼女の匂いが残っているかもしれないその部屋に。
アランが“心配だから”という理由で立ち入ろうとすることが、
身体の奥で生理的に耐え難かった。
レギュラスは、立ち上がろうとした彼女の手に、自然と手を重ねていた。
「……疲れているのではないですか? 今日は、休ませておきましょう」
声はやさしく抑えていた。
けれどその言葉の奥には、どうしようもなく必死なものがあった。
どうか、“そこへは行かないでほしい”。
中を見ないでほしい。
触れないでほしい――
何より、自分が行ったことに触れてほしくない。
アランは、その言葉に少しだけ目を細めた。
そこに気づきがあったのか、なかったのか。
ただ、無理に歩み出さず、静かに椅子へ戻った。
紙のように整ったその所作に、
レギュラスは――今度こそ黙って、コーヒーをひとくち飲んだ。
喉を通る液体は、苦かった。
それでも、彼の胸に広がるのは、わずかばかりの安堵だった。
「ありがとう」とすら言えない小さな赦しのように、
この朝もまた、幾層にも静かに過ぎていく。
朝食のあとの食堂はすっかり静まり返り、召使いたちの片づけの音だけが、食器の微かな響きとして残っていた。
レギュラスはわずかに遅れてキッチンに入った。
視線の先。
アランが、パンを数切れ――丁寧にナプキンに包んでいる。
その指先の動きは、何も語らずとも“誰か”に向けた慈しみを溢れさせていた。
何も聞かなくても、分かった。
それは、エセルへのものだ。
伏したまま朝食にも出てこなかった少女。
誰もその名を口にしなかったこの朝の沈黙のなかで、なお忘れ去られることのない彼女のために、
アランは今もこうして、静かに心を寄せている。
その優しさが、レギュラスには――
この上なく、腹立たしかった。
さっき、あれほど言ったはずだった。
もう行くな。あの部屋には行かないでくれ。
昨日の余熱が、あの空間にまだ残っているかもしれないというのに。
なのに今、また“パンを届ける”という名目で、彼女は足を向けようとしている。
油断も隙もあったものではない。
まるで、どれだけ言葉を重ねたところで、彼女の気づかいの矛先を止めることなどできないかのようだった。
「……エセルのところ、ですか?」
レギュラスは、一歩踏み出してアランの手元に手を伸ばす。
包まれたナプキンを、あまりにも自然な動作で取り上げた。
「僕が、届けておきます」
たったそれだけの言葉に、アランはぱっと顔を上げ、
それはそれは美しい笑顔で、柔らかく微笑んだ。
「……ええ。お願いしますね」
まるで、“ありがたい申し出”を受け取ったかのように。
その微笑が――
また送り出されたような気がした。
胸の底が、ぽつりと音を立てて沈んでいく。
なんだ、この感じは。
また、何かを譲り渡されたような。
あの夜、自分はレギュラスブラックであることを捨てるようにして、あの部屋の扉を開けた。
今朝は、その呻くような感情を飲み込んで、アランを止めた。
……それでも。 今また、彼女は笑って――軽やかに送り出す。
何もかもが、気に入らなかった。
一度も引き止められない。
一度も「行かないで」とは言われない。
“あなたの代わりに”という顔で、美しく立ち止まるその姿が、
いつも、なぜか自分の背中を押していく。
そしてそのたびに、彼女の手から離されるものが増えていく気がして。
ナプキンに包まれた温もり――
それは、アランそのものの優しさだった。
けれどそれを抱えて向かう先が、
昨夜の残響に満ちた部屋であることが、
今はただひたすらに、皮肉だった。
レギュラスはナプキンを持ったまま背を向け、重たく歩き出す。
まるで、再び指先からこぼれ落ちていくためだけの愛を、
手に抱えて歩いているかのように思いながら。
暖かな陽が差し込む前の朝、屋敷の空気はまだひんやりとした静寂を抱いていた。
レギュラスは書斎の窓辺に立ち、片手にアランの包んだナプキンを持っていた。
それはほんの数切れのパンにすぎなかった。
けれど、その軽さとは裏腹に、手にしているだけで胸のうちがじわじわと重りのように沈んでいく感覚があった。
彼はふっと目を伏せ、ナプキンの布の柔らかさを少しだけ握りしめた後、重たげに口を開いた。
「……クリーチャー」
小さな音に反応して現れた古い屋敷しもべ妖精が、どこか恐る恐るといった雰囲気で現れた。
「これを、エセルの部屋まで届けてくれ」
言葉も短く、視線すら与えずに手を差し出す。
まるで焼けつくものを扱うかのように指先はそっと離れた。
本当なら、たったそれだけの指示だったはずだ。
それで終わりにするつもりだった――
だが、声がふいに、もう一言を要した。
「……様子に変わったところがあれば、母上に申し上げてくれ」
クリーチャーは「はい」と低く答え、包みを大事に抱えて去っていった。
部屋にひとりとなったレギュラスは、重く息を吐いた。
本当は、様子など知りたくなかった。
たとえ “伏せっている” などと報告を受けたところで、自分になにができるというのか。
それを知って、どうしろというのだ。
優しく声をかけることもできず、
何が正しかったのかを探す暇もなく、ただ責務として彼女を抱いた。
――仕方がなかった。
彼はそう言い聞かせようとした。
ずっと、そう言い続けてきた。
この地位、この家、この血の都合のなかで。
ましてや、彼女はそれを知らずに屋敷に招かれたわけではない。
“そのため”の令嬢だ。
役目を知って、立ち位置を知って、名のある家から送り込まれたのだ。
そこに――罪悪感など、抱くはずがない。
だというのに、
記憶のなかで痛みに眉を寄せ、身体を縮めていた少女の姿がこびりついて、離れない。
泣き声もあげず、うずくまりながら小さな声で「平気です」と答えた彼女の、“それでも言葉を選んだ”その態度が、
今も律のように胸を打っていた。
煩わしいと思った。
理屈では正しいのに、
感情がその正しさに逆らってくるのが鬱陶しかった。
自分はただ、愛する人が恥じをかかないために動いたのだ。
あの人のために、抱きたくない相手を抱いただけだ。
なのに、
なぜこんなにも、心がぐちゃぐちゃにされなければならないのか。
レギュラスは拳をそっと額に当てた。
しんとした書斎に、かすかに革張りの椅子の軋む音がした。
他の誰にも届かないその密やかな痛みの奥で、
彼はただ、アランの指が触れたナプキンの温もりを、
手のひらから去らせたばかりの虚しさに、
じっと、黙して立ち尽くしていた。
魔法省の秘密捜査部隊が踏み込んだのは、ロンドン郊外の古い工場跡地だった。
煉瓦造りの建物は外見上は廃墟に見えるが、魔法的な痕跡検出器が激しく反応を示していた。混血の魔法使いが無許可でマグルをこの魔法保護区域に侵入させ、違法な魔法実験を行っているという通報があったのだ。
建物内部は迷路のように入り組んでおり、階段の途中には強力な隠蔽呪文が張り巡らされていた。地下に降りるにつれて魔力の濃度が増し、不穏な紫色の光が廊下の奥から漏れ出している。証拠隠滅を図る音――書類を燃やす炎の音、液体をこぼす音が聞こえてきた。
レギュラスとバーテミウス・クラウチは、息を殺して奥の実験室へと向かっていた。扉の向こうから聞こえる慌ただしい足音と、マグルの困惑した声。まさに現行犯逮捕の瞬間だった。
任務完了後、二人は近くの酒場で一息ついていた。
薄暗い店内で、バーテミウスがグラスを傾けながら何気なく口を開いた。
「それで、令嬢たちとはどうなんだい?」
その問いに、レギュラスは疲れ切ったような表情でため息をついた。
「昨日こそ……処女の女を抱かなきゃいけませんでしたよ」
自分で口にしていて、情けなくなった。まるで義務のように語る自分の声が、どこか他人事のように聞こえた。
「丁寧にしました?」
バーテミウスの声には、明らかに揶揄うような響きがあった。レギュラスは視線をグラスに落としたまま、淡々と答えた。
「早く終わらせることに、徹しました」
丁寧に、だなんて――できるわけがなかった。そこに感情がないのだから。どう寄り添ってやればいいのかも分からないのだ。
そういえば、バーテミウスのところも一人、世継ぎのために側室として女を迎えていたはずだった。彼はそれを「楽しいこと」だと受け入れているところがあり、レギュラスには理解不能だった。
「むしろ、正妻の女よりも、時には愛せる瞬間があるんだよ」
バーテミウスはそう言って笑った。
全くもって、レギュラスにはその考えが分からなかった。アランに勝る女は、この世にはいない。これだけは普遍だった。だから他のどんな女も、アランの隣では霞むのだ。
「妻には話せなくても、別の女には話せるってことあるじゃないか」
バーテミウスが続けた言葉も、レギュラスには響かなかった。
「……いえ、そもそも話をしないので」
短く答えると、バーテミウスは肩をすくめて笑った。
レギュラスにとって、それらの女性たちとの時間は、ただ果たすべき責務でしかなかった。会話も、感情も、何もない――ただの義務。
そのことを改めて言葉にした瞬間、胸の奥に重い虚しさが沈んでいくのを感じていた。
アズカバン送致が決まった混血の魔法使いは、すでに魔力抑制の呪文をかけられ、身動き一つ取れないよう拘束されていた。
金属の枷が軋み、その隙間からかすかに灯る魔力の残滓が、彼のかすれた息に混じる。
書類に魔法署名を添え、淡々と処理を進めていたレギュラスは、目の前の男からふと言葉が漏れたときも、すぐには顔を上げなかった。
「……レギュラス・ブラック」
囚人のくぐもった声。
その名を口にしたその声音に、レギュラスはわずかに眉をひそめたまま視線だけを送る。
目は動いたが、顔は振り向かない。
応じる義理はない、という無言の意志がその眼差しに濃く現れていた。
「シリウス・ブラックと…… アラン・セシールのこと、俺は知ってるぞ」
にやりと口角を上げた男の声は、まるで地下室に落ちる染みのように粘着質だった。
その二人の名前が、同時に吐き出された瞬間――
レギュラスの中で、冷たいものがざうっと広がった。
声に出さずとも、確かに身体の中で何かが静かに剥がれてゆくのを感じた。
胸の奥に仕舞っていた記憶の枠に、ひびが入る。
「……10数年前だったかな」
男は続けた。
「マグルの街の、海の近くだった。寂れたコテージ。
シリウス・ブラックがおれに一日だけ貸せと頼んできた。信じられなかったがな。あの冷ややかな貴族の若様が、わざわざ手を払ってまで小銭を出すなんて」
「でも、来たんだよ。現れた。女を連れてな」
そして――
「それがアランだった。アラン・セシール」
レギュラスは沈黙のまま男を見つめていた。
「肌も、声も、笑い声までも。忘れようがなかったよ」
男はその目を細めた。
「あの夜中じゅう、愛し合っていたさ。朝方、雨が降ってきたのを覚えてる。いやなほど静かな雨だった」
語られている記憶は、自分のものではなかった。
けれど――目の前の“誰かにとっての事実”が、
鋭利な刃のように、レギュラスの胸に刺さる。
10数年前――
時系列はたしかだった。
兄がまだ家を捨てたばかり。
アランは、卒業を目前に控えていた頃。
恐らくあの頃には既に、何もかも始まっていたのだと。
骨の奥で冷気が滲む。
それは喪失ではなく――後戻りの利かない理解だった。
けれどレギュラスは、顔色ひとつ変えなかった。
怒りも嫉妬も、表出しない。
代わりに理性という鎧で冷たく表情を整え、
鉄格子越しに、男の目をしんと見下ろした。
そして――小さく、冷たく言った。
「……悪趣味ですね」
それだけ。
言葉は短くて、けれど切れ味があった。
男は暫く歪んだ笑みを保っていたが、やがて空気が静かに凍るのを感じて目を逸らした。
レギュラスはその気配を、一切追わなかった。
ただ、もうこれ以上この空間に置く価値もないというように、手に持っていた書類を魔法の刻印と共に封じた。
真実が痛みを伴っても、
それは“昔の話”でしかなかった。
今――自分の隣にいるものを守るために、
この手を突き出せるかどうかが、すべてだった。
だからレギュラスは背を向けた。
静かに、優雅に、
記憶という名の傷を、目を閉じるように押し隠して。
アズカバンの拘置室をあとにして、レギュラスは人気のない長い廊下をゆっくりと歩いていた。
分厚い石の壁に囲まれた灰色の空間は、きしむ足音さえ吸い込むように静かだった。
手は拳に、背筋は伸ばしたまま。
けれど、その内側は、静かでない。
鼓動が耳の奥で重たく響いていた。
──シリウスとアランのことなど、とうの昔から知っていた。
あの名を、彼女の人生において避けて通れるものではないと知った日から、
ずっと、胸の奥になにかをしまいこむようにして生きてきた。
決して触れない。
決してなぞらない。
それが、彼女と築くふたりの平立に必要なバランスだと思っていた。
けれど、それでも。
自分は勝ち取ったのだ―― アランという存在を。
兄、シリウス・ブラックから。
その事実が、救いであり、誇りだった。
なのに、今。
いったい、これは──なんなのだ。
胸の奥で巨大な何かが、じわじわと冷たい熱を広げている。
嫉妬、か?
いや……そんな単語では覆いきれない。
苦しさ、怒り、屈辱、そして嫌悪。
“あの夜”のふたりのことを、他人の口から語られた。
ふたりのその行為を見ていた者がいる。
アランの顔を。
表情を。
声を。
裸の肌を。
──シリウスだけでなく、その場にいた“誰か”が、それを知っている。
それが、殺してやりたいほどに――気持ち悪かった。
鳥肌すら立ちかけた。
彼女があれほど繊細に守ろうとしていた過去を、
自分でさえ立ち入らなかった記憶を、
“あの男”は、踏みにじるような口ぶりで、笑って語った。
獣のようだった。
不浄の目で、ふたりの愛を盗み見るなかで、
その記憶をずっと持ち続けていたというのか。
それを、今になって口に出したその姿が、
脳裏の奥で赤黒い炎のように焼き付いて、脈打ち続けていた。
(あの夜の記憶を、自分以外の“他人”が抱えているだなんて……)
たったそれだけのことが、
彼の誇りと、信念と、愛に、亀裂を作るには十分だった。
それは“兄への嫉妬”ではなかった。
むしろ、それとは違う痛みだった。
シリウスがアランに触れた過去は、もう織り込み済みだったはずだ。
けれど、それを“見ていた者がいた”という、それだけで──
いまこの瞬間、自らを支えていた沈黙すら、崩れ落ちそうになる。
踊り場で立ち止まり、レギュラスは肩で呼吸をした。
人の気配も灯りもない廊下の向こう、
ただ冷たい石壁が並ぶ。
拳を、そっと開いた。
爪が掌に食い込んで、白く跡が残っていた。
息を吐いて、その手を胸に当てた。
アランは、何も知らない。
知られずともいい。
絶対に、この憤りや醜さを持ちこみたくはなかった。
けれど。
この怒りだけは、
誰にも渡せない重さとして、
静かに胸の中に燃え続けた。
陽の角度が傾き始めた午後、屋敷の門が静かに開かれる音が響いた。
そこに現れたのはレギュラス・ブラックだった。
外出先から戻ったばかりの彼の足取りは重く、
肩には明らかな疲労が漂っていた。
けれど、正装の襟元まで乱れぬその身なりには、彼特有の威圧感と静寂が漂っている。
ただ、それ以上に彼の顔に刻まれていたのは――何か深い疲れと険しさ。
その姿を見て、エメリンド・フェリックスの胸が高鳴った。
まるで野生の気配に気づいた獣のように、
彼女は瞬時に方向を変え、
まっすぐにレギュラスへと駆け寄った。
「レギュラス様!」
その声は甘く硬質で、意図的な高まりを帯びていた。
目には潤いが浮かび、笑顔は礼儀を装いながらもどこか媚びるような丁寧さを含んでいる。
彼はその呼びかけに顔を向けることすら惜しむように、
ただ、軽く顎を傾けて視線だけを彼女に向けた。
エメリンドにはそれが、何よりも冷たい鉄のように感じられた。
「一つ……ご提案がございますの、レギュラス様」
言葉を選びながらも、声の奥には明確な策略とも呼べる熱意があった。
彼の疲労を拭う“奉仕”を――この手で今、与えたいのだと。
だが、彼は瞬時に遮る。
「……後にしていただけますか?」
その声は平坦で、余計な感情も抑揚もなかった。
ただ“聞く気はない”と、明確に線を引いている。
エメリンドの身体は、微かに揺れた。
それでも彼女は微笑を崩さなかった。
ここで、めげるわけにはいかない。
彼女の胸には、どうしようもない焦りが広がっていた。
自分はレギュラスに、唯一手を触れられた女だった。
それが、たった一つの誇りであり、アイデンティティだった。
けれど――エセル。
あの小娘のような女にまで、ついに彼の手が届いた。
どうして?
あれほど幼く、清らかな女に。
自分と同じように“選ばれた”という事実が、
エメリンドには耐え難い焼けつくような嫉妬だった。
焦りと敵意――
それが、胸の奥の火薬のように膨張してゆく。
彼女の中で唯一無二だった「抱かれた女」という価値が、今、怪しく揺らいでいた。
このまま手をこまねいていれば、レギュラスの記憶のなかで自分がただの一人に並ぶ日が来てしまう。
それだけは、絶対に避けなければ。
「……では、また夜に」
エメリンドは、笑顔を装ったまま深く一礼した。
けれど、その目元にはかすかな緊張と憤りが滲んでいた。
沈みかけた陽の光が、その頬をほのかに染めながら、
予期された“夜”へと、静かに計略を運んでいる。
――今度こそ。
あなたに、わたくしの価値を再確認させてみせる。
その決意は、絹のような声の奥で、
静かに炎のように揺れていた。
確かに、この数日間――レギュラスは寸時も自分の傍を離れなかった。
熱に浮かされた夜も、薬を飲ませる朝も、ずっとそこにいてくれた。
その献身的な看病は、妻として何より嬉しく、心強いものだった。
けれど同時に、それは家の期待を背負う男としての彼の立場を、一時的に停止させるものでもあったのだ。
「……承知いたしました」
アランの声は静かで、しかし明確だった。
ヴァルブルガの求めに応じることに、迷いはなかった。
それが、この家で生きる者としての自分の役割だと、理解していたから。
「感謝するわ」
ヴァルブルガは深く頷いた。
その表情には、アランへの信頼と、家の未来への安堵が混じり合っていた。
部屋に再び静寂が戻る。
午後の光は少し傾き、影の長さが変わっていた。
アランは手元のカップに視線を落としながら、心の中で静かに準備を始めていた。
今夜にでも、レギュラスにその話をしよう。
彼の優しさに甘えるのではなく、家の一員として、妻として――
正しい道を歩むために。
その決意は、悲しみでも諦めでもなく、
ただ静かな覚悟として、彼女の胸に宿っていた。
夜の静寂が、寝室を静かに包んでいた。
月明かりがカーテンの隙間から薄く差し込み、部屋の輪郭を柔らかく照らしている。
アランは、ベッドの端に腰かけ、髪をゆるやかにほどいたまま、レギュラスの帰りを待っていた。
扉が静かに開き、彼がいつものように足を踏み入れる。
上着を脱ぎ、袖のボタンを外し始める――その日常の仕草が、この部屋には自然に溶け込んでいた。
けれど今夜は、その手が二つ目のボタンに触れかけたとき――
アランの手が、そっとレギュラスの手に重なった。
やわらかく、けれど確かに、その動きを制止するように。
「今日は……あなたをお待ちの方がいるわ」
低く、静かな声だった。
その言葉の意味を、レギュラスは一瞬理解できなかった。
まばたきをして、アランの表情を見つめ返す。
そして――ゆっくりと、その意味が心に沈んでいった。
「……やめてください。そんな気分じゃありませんから」
声には、拒絶と困惑が混じっていた。
手を振りほどこうとするが、アランは静かにその手を包んだまま離さない。
「ヴァルブルガ様が、準備を整えていらっしゃるのよ」
その一言が、レギュラスの胸に鈍い痛みを走らせた。
――嫌だった。
アランから、別の女を抱きに行けと言われることが。
むしろ引き止めてほしかった。
「今夜はここにいて」と、せめて一言でも。
この二人だけの静かな空間で、母の名前を出されることも、
それが持つ重みも、すべてが耐えがたかった。
「……そんな気力が、本当にないんです」
声がかすれた。
それは嘘ではなかった。
確かに一度、エメリンドと最後まで責務を果たしたことはある。
けれどあの時は、バーテミウスから密かに調達してもらった薬があったからこそ可能だった。
心が応じない身体を、一時的に欺くための手段。
それなしには、到底――
「こちらだって、準備があるんです」
その言葉には、男としての複雑な事情が込められていた。
アランは、レギュラスの手をそっと離した。
その眼差しには、理解と、それでも揺るがない静かな意志があった。
「……わかっているわ」
短く呟くと、彼女は立ち上がった。
「でも、それでも……私たちには、果たすべきことがあるの」
月明かりに照らされたアランの横顔は、美しく、そして決然としていた。
愛する夫を別の女のもとへ送り出す妻の顔――
それは、この世で最も過酷な愛のかたちのひとつだった。
レギュラスは、黙ったまま彼女を見つめていた。
胸の奥で、愛と義務が静かに軋み合っていた。
薄曇りの月が、寝室の窓辺に淡く膜のような光を落としていた。
夜の静けさは、窓の向こうからじわじわと染み込んでくるようなものだった。
その中心で、アランは静かにレギュラスの前に立っていた。
一歩だけ、ほんのわずか彼に近づいて、
肩をそろりと落とし、まっすぐに目を合わせる。
「……レギュラス、今日は……お願いします」
その声は震えてはいなかった。
けれど、その言葉の奥に――どれほどの思いを重ねたかは、容易に察することができた。
そして、アランはゆっくりと頭を下げた。
そう、それは――あのアランが、珍しくも、律儀すぎるほど丁寧に頭を下げてきたのだ。
レギュラスの胸に、じくりと熱い痛みが広がっていった。
「……やめてください、アラン」
思わず、吐くような声が出た。
「そんなに必死に頼むのは……あまりにも心外です」
静かだった。
けれどその沈痛な言いぶりには、はっきりとした哀しみと怒りが、にじんでいた。
自分の向ける想い。
触れる手、重ねた時と日々。
すべてが“無力だ”と告げられた気がしてしまう――
まるでこの愛情が、彼女のなかでは何ひとつ意味を持たないかのように、
突き返されているような感覚だった。
アランは、沈黙の中で薄く目を伏せる。
そして小さく、声を重ねた。
「……ヴァルブルガ様に、お願いされてしまったのよ」
その一言で、すべてが腑に落ちる感覚がした。
やはり――
今日のことも、結局は「母」の采配だったのだ。
レギュラスはこめかみに指を当て、長い息を吐いた。
まただ、と心の奥で呟いた。
あの母は、肝心なところで、いつも誰かの心を無視して己の「正しさ」だけで世界を整えようとする。
余計なことばかり。
誰かの痛みや沈黙を、その場しのぎの名誉の下に塗り潰してきた人だった。
それでも、レギュラスは理解していた。
今日、もしも自分がこのままこの場にとどまれば。
明日、母はアランの前で、またあの冷たい目で言うだろう。
「妻として、ご自分で手を打つことはできなかったのですか?」と──
アランは、「私のせいで……」と、自らに責めを落とすだろう。
そして、
あの苦しげに眉を寄せる表情をする。
笑おうとして、声が肺の奥に詰まる、あの儚い目をする――
そんな姿を、レギュラスは誰にも見せたくなかった。
自分も、見たくなかった。
じわりと、指先が強くなる。
愛する人のために、別の女のもとへ行かなければならないなんて。
それが“この家を繋ぐためだ”と、
何度言い聞かせても――
……それでも、
こんなにも、情けない気持ちになるなら。
どれだけ「義務」や「血」が正しくても、
彼女の手一つでなされた祈りのような願いが、
痛みとして胸に残ってしまうというのに。
しばしの沈黙のあと、レギュラスは静かにアランに背を向けた。
何も言わずに、ゆるやかに扉へと歩み出す。
「……すぐ戻ります」
小さな声が、扉を押す直前でこぼれた。
もう、アランは何も答えなかった。
ただ、ベッドサイドに残る花の香りと、
遠ざかっていく足音を、
彼女は静かに聴いていた。
月明かりが、薄いカーテン越しに部屋を照らしていた。
レギュラスは、なんとか――なんとか自分を奮い立たせようと努めていた。
けれど、目の前の少女は身を縮めるようにして、ガチガチに固まっていた。
エセルは震えていた。
小さな肩が微かに揺れ、呼吸も浅く短い。
目を固く閉じて、まるで嵐が過ぎ去るのを待つかのように。
レギュラスは、できる限り素早く終えて、アランの元に戻りたいと思っていた。
けれど――
ここまで恐怖に塗れた少女を前にして、どうしたらいいのかわからなかった。
「……すみません」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
何に対しての詫びなのか、自分でもわからなかった。
この状況に対してなのか。
彼女の恐怖に対してなのか。
それとも――自分自身に対してなのか。
けれど、何となく、そう言わなければならない気がした。
アランが慈しんでいた少女。
「優しく扱って」と微笑みながら頼まれた、この幼い人を。
今夜自分は――抱かねばならない。
その事実だけで、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくようだった。
倫理観。道徳感。
それまで自分の中で確かに存在していたはずの境界線が、
すべて静かに砕け散っていく。
エセルは声も上げなかった。
ただひたすらに、痛みに耐えているようだった。
その姿を見るたび、レギュラスは自分の非道さを責められているような気がした。
彼女の沈黙が、無言の告発のように胸に突き刺さる。
(これが、家のためなのか)
(これが、正しいことなのか)
問いが心の中で渦巻くが、答えはない。
ただ、月の光だけが変わらずに部屋を照らし続け、
時間だけが、重く、静かに過ぎていった。
そしてレギュラスは、この夜のことを――
おそらく一生、忘れることはないだろうと思った。
罪悪感とともに。
絹のような静寂が部屋の隅々に沈殿していた。
灯されたランプの光はもう揺れず、すでに夜の深さを受け入れたように、薄く、淡く、儚く、すべてを包み込んでいた。
ベッドの片隅――
少女は、小さな体をさらに小さくして、丸く、うずくまっていた。
まるで世界というものが怖くて触れられないかのように、
その体は震えながら布の下に沈んでいた。
その姿を見るのが、 どうしようもなく、痛かった。
レギュラスは声をかけるべきか、動くべきか、それすら分からずに、数秒だけその場に立ち尽くしていた。
ようやく、重い沈黙を破るように、
それでも指先ほどの優しさしか持たない声をかける。
「……大丈夫ですか」
それ以外の言葉が、何ひとつ出てこなかった。
「……はい。平気です」
小さな声だった。
かぼそく、揺れていて、消えてしまいそうな音。
顔は見えなかった。
背をこちらに向けたままのその姿――
けれど、見えていなくとも、彼女が泣いていることだけは分かった。
肌に触れたとき、冷たく濡れていた頬。
喉の奥でかすかに詰まっていた呼吸。
そのすべてが、無理に押し殺された涙の証だった。
レギュラスは、どうしてあげればよかったのだろうと、
その瞬間、まるで何も知らぬ少年のように問い続けていた。
アランでない以上、
この少女をどう慰めてよいのか、まったく分からない。
彼女の名を、これまでの人生で何度愛しそうに呼んだか数えきれない相手と、
たった今、名前しか知らない少女との距離。
思いやりの手の差し伸べ方さえ自分は知らないのだと、
無力という名の言葉が、胸のなかでぽつりと呟かれた。
恋だの、愛だの。温もりや帰る場所。
知ったのは、すべて―― アランとの間で。
だからこそ、他の何かに教えてやれるものなんて持ち合わせてはいない。
伝える優しさも、触れる勇気も、微笑みに変える技も――どれひとつ、持ってはいなかった。
そうだ。
泣きたいのは―― むしろ自分のほうだった。
その場に座り込み、顔を伏せて、
すべてを投げ出して、 「自分も壊れているのだ」と 声をあげて叫びたかった。
少女の沈黙に、責める声がなくとも、 その姿こそが、自分にとっては最も鋭い報いだった。
レギュラスは、目を閉じた。
微かな音も立てず、
ゆっくりと立ち上がる。
何も言わず、
何も伝えず、
ただ、静かにその場を去る準備を――
それだけが、許される唯一の行動だった。
月明かりのなかで、
かすかに軋んだ床の音だけが、夜の深さを語っていた。
扉を閉めた瞬間、レギュラスは深く息を吸い込んだ。
空気が、あたたかい。
ほんのさっきまでいた部屋とは違う。
さっきまで、誰かの沈黙と涙と冷たさに晒された場所とは――まるで別の世界だった。
ここは、アランがいる場所だ。
あの人の息づく、たしかな帰る場所。
ベッドサイドに重ねられた毛布の端が、かすかに膨らんでいた。
アランは、すでに眠っている。
枕元に横顔を見せ、手を胸に置いたまま、
彼女は静かに、穏やかな寝息をたてていた。
崩れるようにして、
その隣にレギュラスは身を滑り込ませた。
喉が焼けるように苦しくて、
何かを、声にもできずに、ベッドの上で膝を立てたまま俯いた。
〈起きていて欲しかった〉
ほんの一瞬、そんな子どもめいた感情が胸をかすめた。
「すぐ戻る」
そう言ったはずだったのに。
この苦しみに気づいていてほしかった。
待っていてもらいたかった。
でも―― アランは安らかに眠っていた。
それは彼女にしかたどり着けない場所で、
無理に起こしては壊れてしまうような静けさだった。
レギュラスはそっと、手を伸ばした。
アランの肩に指を置き、やわらかく揺らして――でも、それは彼女を起こすためではなかった。
ただ。
そのぬくもりに触れたかった。
そして、手を導くようにして、
彼女の腕のすき間をもう一度そっと広げ、
静かに、その胸元に頭をもぐらせる。
額が、胸元のやわらかさに触れた瞬間、
鼓動が、肌越しにふわりと伝わってきた。
とても静かで、小さくて。
けれど、世界中の音よりも、深く染み込むように優しかった。
そこに、愛があった。
ゆるしがあった。
壊れそうだった――
心が、きしむように、割れてしまいそうだった。
非道なことをしてしまった。
望みたくなかった誰かの手を取り、笑顔ひとつ知らぬまま、傷を与えた。
欲しかったものは、こんな夜じゃない。
見たかったものは、涙じゃない。
自分の手が望んでいたのは、
この胸で眠る許しだった、と――ようやく気づいた。
まるで子どもが母親の腕を求めるように、
レギュラスはそっと目を閉じた。
目頭が熱かった。
それでも、涙は落とさなかった。
ただ、アランの鼓動に身を預けることで、
押し寄せてくる罪の輪郭を、静かにぬぐいたかった。
足先が毛布のなかで絡み、
薄い香水と寝息が呼吸をつつむ。
彼女が何も知らずにいることで、今夜だけは自分がここにいてもいいような気がした。
どうか、この仕草を、
黙って許してほしい――
そう祈りながら、レギュラスは、愛に似たぬくもりにそっと眠りを落としていった。
朝の光は、ほんのりと乳白色で、
寝室のカーテン越しにうっすら差し込んでいた。
どこか曖昧な明るさは、夜と朝の境をまだくっきり分けきれずにいた。
レギュラス・ブラックは、ゆるやかに目を覚ました――が、
最初に気づいたのは、隣にあるはずの温もりが、
もうそこにはなかったことだった。
伸ばしかけた腕の先に触れるのは、冷えた毛布。
ただそれだけ。
昨夜、自らの身を置いたその確かだったはずの場所に、
いまアランはいなかった。
きっと、もう起きて支度を済ませたのだろう。
きっと、何気ない顔で階下の静寂へと滑り込んで、
食卓の準備の進み具合でも気にしているか、
あるいはセレナの部屋をそっと覗いているかもしれない。
ただ、それだけのことだった。 それだけの、いつも通りの朝。
なのに、
胸の奥には、ひどく濃い憂鬱が沈殿していた。
――昨日。
彼女が、静かに頼んだ言葉。
「今日は、お願いします」と。
あれは命令ではなかった。
懇願じみた重たさもなかった。
それでも―― あの人のために行かなければならないと、
あの人が誰にも笑われず、責められずいるために、
自分は、意地を押し殺し、
心を削りながら、 エセルの部屋へと赴いた。
用意された静けさ。
恐れに凍った身体。
その少女の、言葉にできない沈黙の痛み。
レギュラスが、ほんとうに壊れそうだったのは、 その部屋を出たあとだった。
だからせめて、明け方の今日だけは。
アランの手が肩に添えられていてほしかった。
そっと起こして「おはよう」と、声をかけられていたかった。
何も訊かれなくていい。
何も知られずともいい。
けれど――
何かを、感じていてくれる温もりが、
そこにいてくれるだけで、救われたはずだった。
けれど――
彼女はもう、いない。
ひどく、遠い。
レギュラスは、枕に顔を押しつけたまま、仰ぐように息を吐いた。
起き上がるのすら、億劫だった。
腕を伸ばせば世界の温度に触れてしまう気がして、
まだ、何かをまとうようにして毛布の内側に体を丸めた。
ほんとうに慰めて欲しかったのは、あの夜ではなく、
――今だった。
けれどそれを口にすれば、
あまりにも子供じみていて、苦しくて。
誰にも言えないまま、空白のぬくもりだけが、
惜しむようにシーツの上でひんやりと残っていた。
階段を下りる足音が、屋敷の静けさに響いていた。
朝の陽ざしが大広間の床に長い影を落とし、いつもの穏やかな朝の始まりを告げていた。
けれどレギュラスは、まず最初に―― アランの姿を探していた。
食卓には、まだ彼女はいなかった。
代わりに並んでいるのは、屋敷に招かれた令嬢たちの静かな笑顔。
「おはようございます、レギュラス様」
「お早い朝ですのね」
次々とかけられる挨拶に、レギュラスは軽く頷いて返した。
けれど、その視線は一人ひとりの顔に留まることなく、
どこか別の場所を――彼女のいる場所を探し続けていた。
そして、見つけた。
バルコニーの向こう――
朝の光に包まれて、フィロメーヌと向かい合って座るアランの姿。
フィロメーヌは、いつものように屈託のない笑顔を浮かべていた。
そして、アランもまた――
肩を小刻みに震わせて、楽しそうに笑っている。
時折、アランがフィロメーヌの耳元に何かを囁く仕草も見えた。
親密で、秘密めいた、二人だけの時間。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
今日という朝に――
こんな、自分の知らないアランを見たくはなかった。
昨夜、心を削りながら別の女のもとへ向かった自分。
そして今朝、隣で目覚めることを願っていた自分。
そのどちらも知らぬまま、
彼女は他の誰かと笑い合っている。
何より――
そのバルコニーは、あの夜の場所だった。
燃え上がるように愛し合った記憶。
ワインに酔い、理性を失くして、
互いの全てを知り尽くしたあの夜明け前。
朝露に濡れながら、羞恥と充足に震えたあの場所。
そんな特別な場所で――
フィロメーヌと親しげに語らうアランが、
ひどく遠く思えて、悲しかった。
「…… アラン」
声が、思わず出た。
まるで二人の会話を強制的に終わらせ、
アランを自分のもとへ引き戻すかのような――
そんな響きを込めて、彼女の名を呼んだ。
アランが振り返る。
フィロメーヌも慌てたように立ち上がり、
丁寧に礼をしてきた。
「おはようございます、レギュラス様」
その声に、レギュラスは軽く頷いて応えた。
会釈程度の、形式的な挨拶。
けれど彼の視線は、すでにアランだけに向けられていた。
昨夜の記憶と今朝の寂しさを背負いながら――
彼女だけを見つめていた。
朝の光の中で、三人の距離が微妙に揺れていた。
朝の食卓――
銀器の触れ合う音も、湯気の立つポットの香りも、どこか抑えめに揺れていた。
列席する令嬢たちの装いはきちんと整えられ、誰もが礼儀を外さない。
けれど、そこに――エセルの姿はなかった。
その事実は、大声で語られることもなく、
ただ、空席という形で確かに存在していた。
レギュラスは、口に運んだ紅茶の味さえ覚えていなかった。
胸の奥に重く残るのは、罪悪感とも違う――けれど
まるで引きずられるような感触だった。
悪いことをしたわけではない。
家の責務を、文字どおり“果たした”にすぎない。
けれど、その部屋に残る静けさと、
今朝のこのテーブルの空白が、
じわじわと胸に罰のような感覚を植えつけていく。
「……エセルさん、どうしたのかしら」
ぱたりと音を立てずにフォークを置き、
アランが、穏やかに問いかけてくる。
その声に、レギュラスは無意識に肩が揺れた。
なぜ、そんなことを自分に問うのか――
喉元まで、反論がせりあがった。
(どうして、君がそれを俺に聞くんだ)
(愛しているなら、そこだけは、黙っていてほしかった)
喉の奥で言葉がつかえ、
それでも出てきたのは、無表情に絞った短い返事だった。
「……さあ」
吐き捨てたわけではない。
けれど吐息のようなその声には、突き放す冷たさの代わりに、自己防衛の痛みが滲んでいた。
アランは、慎重な間を置いて立ち上がる。
「様子を見てきますね」
その一言に、思考が過敏に反応した。
――そこまでするのか。
レギュラスは、立ちかけた彼女の背に視線を絡めた。
たしかにアランは、令嬢たちをよく気遣っていた。
とくにエセルに対しては、娘のように優しかった。
そういった“優しさ”がアランの美徳であり、魅力だった。
だが、それとこれとは違う。
ほんの数時間前、あの部屋には自分がいた。
肌を重ね、感情を持たずに、ただ責務として行為を終えた。
それは事実だった――記憶すらも濁らせないほどに照り返す、生々しい現実。
そんな部屋に。 まだ彼女の匂いが残っているかもしれないその部屋に。
アランが“心配だから”という理由で立ち入ろうとすることが、
身体の奥で生理的に耐え難かった。
レギュラスは、立ち上がろうとした彼女の手に、自然と手を重ねていた。
「……疲れているのではないですか? 今日は、休ませておきましょう」
声はやさしく抑えていた。
けれどその言葉の奥には、どうしようもなく必死なものがあった。
どうか、“そこへは行かないでほしい”。
中を見ないでほしい。
触れないでほしい――
何より、自分が行ったことに触れてほしくない。
アランは、その言葉に少しだけ目を細めた。
そこに気づきがあったのか、なかったのか。
ただ、無理に歩み出さず、静かに椅子へ戻った。
紙のように整ったその所作に、
レギュラスは――今度こそ黙って、コーヒーをひとくち飲んだ。
喉を通る液体は、苦かった。
それでも、彼の胸に広がるのは、わずかばかりの安堵だった。
「ありがとう」とすら言えない小さな赦しのように、
この朝もまた、幾層にも静かに過ぎていく。
朝食のあとの食堂はすっかり静まり返り、召使いたちの片づけの音だけが、食器の微かな響きとして残っていた。
レギュラスはわずかに遅れてキッチンに入った。
視線の先。
アランが、パンを数切れ――丁寧にナプキンに包んでいる。
その指先の動きは、何も語らずとも“誰か”に向けた慈しみを溢れさせていた。
何も聞かなくても、分かった。
それは、エセルへのものだ。
伏したまま朝食にも出てこなかった少女。
誰もその名を口にしなかったこの朝の沈黙のなかで、なお忘れ去られることのない彼女のために、
アランは今もこうして、静かに心を寄せている。
その優しさが、レギュラスには――
この上なく、腹立たしかった。
さっき、あれほど言ったはずだった。
もう行くな。あの部屋には行かないでくれ。
昨日の余熱が、あの空間にまだ残っているかもしれないというのに。
なのに今、また“パンを届ける”という名目で、彼女は足を向けようとしている。
油断も隙もあったものではない。
まるで、どれだけ言葉を重ねたところで、彼女の気づかいの矛先を止めることなどできないかのようだった。
「……エセルのところ、ですか?」
レギュラスは、一歩踏み出してアランの手元に手を伸ばす。
包まれたナプキンを、あまりにも自然な動作で取り上げた。
「僕が、届けておきます」
たったそれだけの言葉に、アランはぱっと顔を上げ、
それはそれは美しい笑顔で、柔らかく微笑んだ。
「……ええ。お願いしますね」
まるで、“ありがたい申し出”を受け取ったかのように。
その微笑が――
また送り出されたような気がした。
胸の底が、ぽつりと音を立てて沈んでいく。
なんだ、この感じは。
また、何かを譲り渡されたような。
あの夜、自分はレギュラスブラックであることを捨てるようにして、あの部屋の扉を開けた。
今朝は、その呻くような感情を飲み込んで、アランを止めた。
……それでも。 今また、彼女は笑って――軽やかに送り出す。
何もかもが、気に入らなかった。
一度も引き止められない。
一度も「行かないで」とは言われない。
“あなたの代わりに”という顔で、美しく立ち止まるその姿が、
いつも、なぜか自分の背中を押していく。
そしてそのたびに、彼女の手から離されるものが増えていく気がして。
ナプキンに包まれた温もり――
それは、アランそのものの優しさだった。
けれどそれを抱えて向かう先が、
昨夜の残響に満ちた部屋であることが、
今はただひたすらに、皮肉だった。
レギュラスはナプキンを持ったまま背を向け、重たく歩き出す。
まるで、再び指先からこぼれ落ちていくためだけの愛を、
手に抱えて歩いているかのように思いながら。
暖かな陽が差し込む前の朝、屋敷の空気はまだひんやりとした静寂を抱いていた。
レギュラスは書斎の窓辺に立ち、片手にアランの包んだナプキンを持っていた。
それはほんの数切れのパンにすぎなかった。
けれど、その軽さとは裏腹に、手にしているだけで胸のうちがじわじわと重りのように沈んでいく感覚があった。
彼はふっと目を伏せ、ナプキンの布の柔らかさを少しだけ握りしめた後、重たげに口を開いた。
「……クリーチャー」
小さな音に反応して現れた古い屋敷しもべ妖精が、どこか恐る恐るといった雰囲気で現れた。
「これを、エセルの部屋まで届けてくれ」
言葉も短く、視線すら与えずに手を差し出す。
まるで焼けつくものを扱うかのように指先はそっと離れた。
本当なら、たったそれだけの指示だったはずだ。
それで終わりにするつもりだった――
だが、声がふいに、もう一言を要した。
「……様子に変わったところがあれば、母上に申し上げてくれ」
クリーチャーは「はい」と低く答え、包みを大事に抱えて去っていった。
部屋にひとりとなったレギュラスは、重く息を吐いた。
本当は、様子など知りたくなかった。
たとえ “伏せっている” などと報告を受けたところで、自分になにができるというのか。
それを知って、どうしろというのだ。
優しく声をかけることもできず、
何が正しかったのかを探す暇もなく、ただ責務として彼女を抱いた。
――仕方がなかった。
彼はそう言い聞かせようとした。
ずっと、そう言い続けてきた。
この地位、この家、この血の都合のなかで。
ましてや、彼女はそれを知らずに屋敷に招かれたわけではない。
“そのため”の令嬢だ。
役目を知って、立ち位置を知って、名のある家から送り込まれたのだ。
そこに――罪悪感など、抱くはずがない。
だというのに、
記憶のなかで痛みに眉を寄せ、身体を縮めていた少女の姿がこびりついて、離れない。
泣き声もあげず、うずくまりながら小さな声で「平気です」と答えた彼女の、“それでも言葉を選んだ”その態度が、
今も律のように胸を打っていた。
煩わしいと思った。
理屈では正しいのに、
感情がその正しさに逆らってくるのが鬱陶しかった。
自分はただ、愛する人が恥じをかかないために動いたのだ。
あの人のために、抱きたくない相手を抱いただけだ。
なのに、
なぜこんなにも、心がぐちゃぐちゃにされなければならないのか。
レギュラスは拳をそっと額に当てた。
しんとした書斎に、かすかに革張りの椅子の軋む音がした。
他の誰にも届かないその密やかな痛みの奥で、
彼はただ、アランの指が触れたナプキンの温もりを、
手のひらから去らせたばかりの虚しさに、
じっと、黙して立ち尽くしていた。
魔法省の秘密捜査部隊が踏み込んだのは、ロンドン郊外の古い工場跡地だった。
煉瓦造りの建物は外見上は廃墟に見えるが、魔法的な痕跡検出器が激しく反応を示していた。混血の魔法使いが無許可でマグルをこの魔法保護区域に侵入させ、違法な魔法実験を行っているという通報があったのだ。
建物内部は迷路のように入り組んでおり、階段の途中には強力な隠蔽呪文が張り巡らされていた。地下に降りるにつれて魔力の濃度が増し、不穏な紫色の光が廊下の奥から漏れ出している。証拠隠滅を図る音――書類を燃やす炎の音、液体をこぼす音が聞こえてきた。
レギュラスとバーテミウス・クラウチは、息を殺して奥の実験室へと向かっていた。扉の向こうから聞こえる慌ただしい足音と、マグルの困惑した声。まさに現行犯逮捕の瞬間だった。
任務完了後、二人は近くの酒場で一息ついていた。
薄暗い店内で、バーテミウスがグラスを傾けながら何気なく口を開いた。
「それで、令嬢たちとはどうなんだい?」
その問いに、レギュラスは疲れ切ったような表情でため息をついた。
「昨日こそ……処女の女を抱かなきゃいけませんでしたよ」
自分で口にしていて、情けなくなった。まるで義務のように語る自分の声が、どこか他人事のように聞こえた。
「丁寧にしました?」
バーテミウスの声には、明らかに揶揄うような響きがあった。レギュラスは視線をグラスに落としたまま、淡々と答えた。
「早く終わらせることに、徹しました」
丁寧に、だなんて――できるわけがなかった。そこに感情がないのだから。どう寄り添ってやればいいのかも分からないのだ。
そういえば、バーテミウスのところも一人、世継ぎのために側室として女を迎えていたはずだった。彼はそれを「楽しいこと」だと受け入れているところがあり、レギュラスには理解不能だった。
「むしろ、正妻の女よりも、時には愛せる瞬間があるんだよ」
バーテミウスはそう言って笑った。
全くもって、レギュラスにはその考えが分からなかった。アランに勝る女は、この世にはいない。これだけは普遍だった。だから他のどんな女も、アランの隣では霞むのだ。
「妻には話せなくても、別の女には話せるってことあるじゃないか」
バーテミウスが続けた言葉も、レギュラスには響かなかった。
「……いえ、そもそも話をしないので」
短く答えると、バーテミウスは肩をすくめて笑った。
レギュラスにとって、それらの女性たちとの時間は、ただ果たすべき責務でしかなかった。会話も、感情も、何もない――ただの義務。
そのことを改めて言葉にした瞬間、胸の奥に重い虚しさが沈んでいくのを感じていた。
アズカバン送致が決まった混血の魔法使いは、すでに魔力抑制の呪文をかけられ、身動き一つ取れないよう拘束されていた。
金属の枷が軋み、その隙間からかすかに灯る魔力の残滓が、彼のかすれた息に混じる。
書類に魔法署名を添え、淡々と処理を進めていたレギュラスは、目の前の男からふと言葉が漏れたときも、すぐには顔を上げなかった。
「……レギュラス・ブラック」
囚人のくぐもった声。
その名を口にしたその声音に、レギュラスはわずかに眉をひそめたまま視線だけを送る。
目は動いたが、顔は振り向かない。
応じる義理はない、という無言の意志がその眼差しに濃く現れていた。
「シリウス・ブラックと…… アラン・セシールのこと、俺は知ってるぞ」
にやりと口角を上げた男の声は、まるで地下室に落ちる染みのように粘着質だった。
その二人の名前が、同時に吐き出された瞬間――
レギュラスの中で、冷たいものがざうっと広がった。
声に出さずとも、確かに身体の中で何かが静かに剥がれてゆくのを感じた。
胸の奥に仕舞っていた記憶の枠に、ひびが入る。
「……10数年前だったかな」
男は続けた。
「マグルの街の、海の近くだった。寂れたコテージ。
シリウス・ブラックがおれに一日だけ貸せと頼んできた。信じられなかったがな。あの冷ややかな貴族の若様が、わざわざ手を払ってまで小銭を出すなんて」
「でも、来たんだよ。現れた。女を連れてな」
そして――
「それがアランだった。アラン・セシール」
レギュラスは沈黙のまま男を見つめていた。
「肌も、声も、笑い声までも。忘れようがなかったよ」
男はその目を細めた。
「あの夜中じゅう、愛し合っていたさ。朝方、雨が降ってきたのを覚えてる。いやなほど静かな雨だった」
語られている記憶は、自分のものではなかった。
けれど――目の前の“誰かにとっての事実”が、
鋭利な刃のように、レギュラスの胸に刺さる。
10数年前――
時系列はたしかだった。
兄がまだ家を捨てたばかり。
アランは、卒業を目前に控えていた頃。
恐らくあの頃には既に、何もかも始まっていたのだと。
骨の奥で冷気が滲む。
それは喪失ではなく――後戻りの利かない理解だった。
けれどレギュラスは、顔色ひとつ変えなかった。
怒りも嫉妬も、表出しない。
代わりに理性という鎧で冷たく表情を整え、
鉄格子越しに、男の目をしんと見下ろした。
そして――小さく、冷たく言った。
「……悪趣味ですね」
それだけ。
言葉は短くて、けれど切れ味があった。
男は暫く歪んだ笑みを保っていたが、やがて空気が静かに凍るのを感じて目を逸らした。
レギュラスはその気配を、一切追わなかった。
ただ、もうこれ以上この空間に置く価値もないというように、手に持っていた書類を魔法の刻印と共に封じた。
真実が痛みを伴っても、
それは“昔の話”でしかなかった。
今――自分の隣にいるものを守るために、
この手を突き出せるかどうかが、すべてだった。
だからレギュラスは背を向けた。
静かに、優雅に、
記憶という名の傷を、目を閉じるように押し隠して。
アズカバンの拘置室をあとにして、レギュラスは人気のない長い廊下をゆっくりと歩いていた。
分厚い石の壁に囲まれた灰色の空間は、きしむ足音さえ吸い込むように静かだった。
手は拳に、背筋は伸ばしたまま。
けれど、その内側は、静かでない。
鼓動が耳の奥で重たく響いていた。
──シリウスとアランのことなど、とうの昔から知っていた。
あの名を、彼女の人生において避けて通れるものではないと知った日から、
ずっと、胸の奥になにかをしまいこむようにして生きてきた。
決して触れない。
決してなぞらない。
それが、彼女と築くふたりの平立に必要なバランスだと思っていた。
けれど、それでも。
自分は勝ち取ったのだ―― アランという存在を。
兄、シリウス・ブラックから。
その事実が、救いであり、誇りだった。
なのに、今。
いったい、これは──なんなのだ。
胸の奥で巨大な何かが、じわじわと冷たい熱を広げている。
嫉妬、か?
いや……そんな単語では覆いきれない。
苦しさ、怒り、屈辱、そして嫌悪。
“あの夜”のふたりのことを、他人の口から語られた。
ふたりのその行為を見ていた者がいる。
アランの顔を。
表情を。
声を。
裸の肌を。
──シリウスだけでなく、その場にいた“誰か”が、それを知っている。
それが、殺してやりたいほどに――気持ち悪かった。
鳥肌すら立ちかけた。
彼女があれほど繊細に守ろうとしていた過去を、
自分でさえ立ち入らなかった記憶を、
“あの男”は、踏みにじるような口ぶりで、笑って語った。
獣のようだった。
不浄の目で、ふたりの愛を盗み見るなかで、
その記憶をずっと持ち続けていたというのか。
それを、今になって口に出したその姿が、
脳裏の奥で赤黒い炎のように焼き付いて、脈打ち続けていた。
(あの夜の記憶を、自分以外の“他人”が抱えているだなんて……)
たったそれだけのことが、
彼の誇りと、信念と、愛に、亀裂を作るには十分だった。
それは“兄への嫉妬”ではなかった。
むしろ、それとは違う痛みだった。
シリウスがアランに触れた過去は、もう織り込み済みだったはずだ。
けれど、それを“見ていた者がいた”という、それだけで──
いまこの瞬間、自らを支えていた沈黙すら、崩れ落ちそうになる。
踊り場で立ち止まり、レギュラスは肩で呼吸をした。
人の気配も灯りもない廊下の向こう、
ただ冷たい石壁が並ぶ。
拳を、そっと開いた。
爪が掌に食い込んで、白く跡が残っていた。
息を吐いて、その手を胸に当てた。
アランは、何も知らない。
知られずともいい。
絶対に、この憤りや醜さを持ちこみたくはなかった。
けれど。
この怒りだけは、
誰にも渡せない重さとして、
静かに胸の中に燃え続けた。
陽の角度が傾き始めた午後、屋敷の門が静かに開かれる音が響いた。
そこに現れたのはレギュラス・ブラックだった。
外出先から戻ったばかりの彼の足取りは重く、
肩には明らかな疲労が漂っていた。
けれど、正装の襟元まで乱れぬその身なりには、彼特有の威圧感と静寂が漂っている。
ただ、それ以上に彼の顔に刻まれていたのは――何か深い疲れと険しさ。
その姿を見て、エメリンド・フェリックスの胸が高鳴った。
まるで野生の気配に気づいた獣のように、
彼女は瞬時に方向を変え、
まっすぐにレギュラスへと駆け寄った。
「レギュラス様!」
その声は甘く硬質で、意図的な高まりを帯びていた。
目には潤いが浮かび、笑顔は礼儀を装いながらもどこか媚びるような丁寧さを含んでいる。
彼はその呼びかけに顔を向けることすら惜しむように、
ただ、軽く顎を傾けて視線だけを彼女に向けた。
エメリンドにはそれが、何よりも冷たい鉄のように感じられた。
「一つ……ご提案がございますの、レギュラス様」
言葉を選びながらも、声の奥には明確な策略とも呼べる熱意があった。
彼の疲労を拭う“奉仕”を――この手で今、与えたいのだと。
だが、彼は瞬時に遮る。
「……後にしていただけますか?」
その声は平坦で、余計な感情も抑揚もなかった。
ただ“聞く気はない”と、明確に線を引いている。
エメリンドの身体は、微かに揺れた。
それでも彼女は微笑を崩さなかった。
ここで、めげるわけにはいかない。
彼女の胸には、どうしようもない焦りが広がっていた。
自分はレギュラスに、唯一手を触れられた女だった。
それが、たった一つの誇りであり、アイデンティティだった。
けれど――エセル。
あの小娘のような女にまで、ついに彼の手が届いた。
どうして?
あれほど幼く、清らかな女に。
自分と同じように“選ばれた”という事実が、
エメリンドには耐え難い焼けつくような嫉妬だった。
焦りと敵意――
それが、胸の奥の火薬のように膨張してゆく。
彼女の中で唯一無二だった「抱かれた女」という価値が、今、怪しく揺らいでいた。
このまま手をこまねいていれば、レギュラスの記憶のなかで自分がただの一人に並ぶ日が来てしまう。
それだけは、絶対に避けなければ。
「……では、また夜に」
エメリンドは、笑顔を装ったまま深く一礼した。
けれど、その目元にはかすかな緊張と憤りが滲んでいた。
沈みかけた陽の光が、その頬をほのかに染めながら、
予期された“夜”へと、静かに計略を運んでいる。
――今度こそ。
あなたに、わたくしの価値を再確認させてみせる。
その決意は、絹のような声の奥で、
静かに炎のように揺れていた。
