3章
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午後の日差しがやわらかく差し込む書斎の一角、
アランはひとり静かに背もたれに身を預けていた。
手にしているのは、最新号の魔法界の総合誌。
ページの余白に金箔の装丁が輝き、どこか洗練された上品な作りだった。
最初は、何気なくページを繰っていたのだ。
ほんの数行の見出しが目に入ったその瞬間――
指がふと止まり、目が離せなくなった。
《シリウス・ブラック、その孤高の美学──
純血を超えて、彼が守り続けるもの》
そこには、ページを割いて大きく掲載されたシリウスの写真。
数枚にわたって映されている彼の姿は、
どれも簡単な言葉では形容しがたいほどに魅力的だった。
微かに風に揺れる黒髪。
遠くを睨むような、けれどどこか寂しげな灰色の眼。
鋭く引かれた顎の線。
生まれついての気高さと、意志を貫く強さを併せ持った、不動の美。
それは想像よりずっと「今」の彼で、
離れていた年月を一気に飛び越えてくるような熱があった。
心が、キュッと締めつけられる。
(ああ……なんて――綺麗なひと)
不意に押し寄せたときめきは、
十代の頃の初恋のようだった。
心を吸い取られるように、視線が写真から外れない。
身体中の感覚がざわめき、胸がくすぐったくなる。
この年になって、こんな感情を抱くことがあるとは思わなかった。
ページの下には、簡単なインタビューの抜粋が添えられている。
“なぜ、これほどの人気を集めながら、いまだ独身を貫いているのか?”
そんな問いに、彼はこう答えていた。
「……昔からずっと、心に秘めたひとがいるだけです」
アランは、思わず両手でその紙面をそっと包み、
その一文を指先でなぞった。
「……私だと……思っていいのかしら」
声には出さなかったけれど、
その瞬間、どうしようもなく涙ぐみそうになる。
子どもじみていると自分でも分かっていた。
けれど、この胸の高鳴りだけは、どうしても否定できなかった。
そのとき、背後から声がかかった。
「奥様? こちらで何を…… まぁ、何か素敵なものを読んでいらっしゃるのね」
軽やかでよく通る声――フィロメーヌだった。
アランは思わず背筋を強張らせ、本を閉じそうになる手を慌てて止めた。
「……いえ、ただの……読みものですの」
言葉がうわずる。
どきりとした鼓動を隠すように、微笑を浮かべたが、
フィロメーヌの眼差しは冴えていた。
ちらりとページに目を走らせた彼女は、すぐに気づいた。
「まぁ、シリウス・ブラック様……」
表情を崩さずにその名前を口にすると、
ページに映る写真をひとしきり眺めてから、感嘆するように続けた。
「ほんとうに、かっこいい方ですわね。
こうして見ると、まるで時を纏った騎士のよう。
常識や血筋というしがらみにとらわれず、自由を掴み取った方……。
わたくし、あのような強さには、深く惹かれますの」
その言葉に、アランの肩がわずかに揺れた。
驚きと、じんと胸に広がる何か。
この世界のほとんどの令嬢が
彼のような“血を裏切った者”を名前にすることさえ躊躇うというのに。
なのに、フィロメーヌは――
あっけらかんとして、美しいものを美しいと素直に言った。
それは紛れもなく偏見のない目であり、
それゆえに、アランの胸にぬくもりのような光を灯した。
「……ありがとう」
思わず、声にしていた。
フィロメーヌは小さく首を傾げて微笑んだ。
「……? いえ、わたくしこそ」
けれどその微笑の奥に、
アランの静かな感情に何かを察したような、気遣いがほんの少しだけ滲んでいたように思えた。
心を押しなべるような想いが、静かな重さでアランの胸に残っていた。
それでも、誰かとともにこの過去と今現在を並べていられるということに、
ほんのすこし、救われたような気がした。
彼の名前を愛しいと感じてはいけない世界で――
その想いを否定されず、そっと受けとめられたことが、
今日という穏やかな昼下がりに、かけがえのない音を響かせていた。
柔らかな午後の光が、中庭へと面した回廊の石床に長く影を落としていた。屋敷の静けさのなかを、そっと歩いていたエメリンド・フェリックスは、ふと耳に届いた声に足を止めた。
声の主は、フィロメーヌ。
そして――その隣にはアランがいた。
中庭に面した出窓のそば、丸テーブルを挟むようにしてふたりは腰かけていた。やわらかな陽が差すなか、何かの雑誌を手にして、談笑している。
その声音は穏やかで、どこか愉しげで。
だが――その会話の断片に、エメリンドは息を詰めた。
「……シリウス・ブラック様、ほんとうにかっこいい方ですわよね。ああいう型に嵌らない生き方……とても強い方だと、わたくし思うのです」
その名。
その名を。
この屋敷で、純血が居並ぶこの孤高の一族の空間で、あの名を、こんなにも当たり前のように口にしている二人。
呼吸の仕方を忘れたように、エメリンドの胸が静かに震えた。
フィロメーヌの屈託ないその瞳。
そして、それに応えるアランの表情。
――優しく、どこか懐かしいものを見るような、とても特別な目だった。
(そんな……馬鹿な)
未だに噂の影しか存在し得ない〈裏切り者〉を、
彼女たちは、まるで讃えるように語っていた。
縛られて生きるべきだと教わってきた貴族社会のしきたりが、
この言葉だけでひび割れていくようだった。
エメリンドは、震える指先を胸元へ引き寄せた。
そして次の瞬間、胸の奥に別の感情が燻った。
――(隙がある)
そう、感じてしまった。
その光景だけで、彼女には耐えがたいものがあった。
アランは、レギュラスの正妻。誰もがそう理解している。
しかし彼女が――今も、シリウスの名を見つめるあの目をしているというのなら。
そこに、夫婦としての《絶対》など存在しないのではないか。
いやむしろ、これは好機なのではないかと思えた。
(だって、わたしは――)
アランでも、フィロメーヌでもない。
けれど、自分だけが知っていることが一つだけあった。
レギュラスの肌に、たった一度触れたのは自分だということ。
それは奇跡のような夜だった。
薬の力とはいえ、彼が選んだ――いや、差し出された責務を果たした相手は、自分だった。
彼に抱かれた。
ほんの一夜。
でも、それは確かに、この身だけが知っている秘密であり、記憶であり、誇りだった。
あの夜レギュラスが見せた一瞬の揺らぎ。
恐れと敬意を半々に抱かれながら近づいた、あの温度。
それを繋ぎとめたいという思いが、胸の奥で渇いた光を帯びていた。
この機会に食い込まねば。
そう思った。
正妻が誰を思い、誰に微笑むかは関係ない。
この屋敷の未来に繋がるのは、“子供”であり、“家名”であり――“血”だ。
男児を産んだ暁には、すべてが変わる。
レギュラスに愛されたい。
寵愛を受けたい。
そして、自分の名と一族の名を、この家に刻みたいのだ。
義務ではない。計算でもない。
むしろ、それが欲望だった。
純然たる、女の、妻になりたいという渇望だった。
アランがひそかに誰を想おうと――
自分の中でしか知らない夜が、この家の次代を決める“時”になり得る。
その確信が、エメリンドの背中をひそやかに支え始めていた。
陽に照らされたテラスで笑うふたりの女を背に、
彼女は静かにその場を離れる。
花の影を踏まぬように軽やかに。
けれど、胸には燃え上がる「野心」の炎が、静かに灯っていた。
屋敷の夜は、静かに帳を下ろしていた。
振り返れば、長く穏やかな一日だったように思える──それでも、空気の奥底にさざ波のような棘を残しているのは、誰の心であれ例外ではないのだろう。
それは、エメリンドもまた同じだった。
エメリンド・フェリックスは、その夜、自ら願い出た。
ヴァルブルガに。
この屋敷に招かれた数多の令嬢たちの中で、唯一自分は「選ばれた」ことがあるのだ。
レギュラス・ブラックの手に、確かに触れられた。
ほんの一夜。けれど、境界の向こう側へと足を踏み入れたのは、たった自分一人──
それだけが、彼女の誇りであり、心の中で編まれ続けている未来の出発点だった。
だから、今夜もレギュラスの隣を望んだ。
その願いは、ヴァルブルガの耳に心地よく響いたようだった。
薬指のリングを撫でながら、微笑を浮かべて「ええ、今夜はあなたで良いでしょう」と言ったその声には、ほのかな期待と安堵が含まれていた。
そうしてレギュラスは、エメリンドの部屋へと招かれた。
部屋の前に立ち、深く息をつく。
彼がその扉の前に立っている理由はただひとつ──
母・ヴァルブルガから差し向けられたからだった。
この夜に、誰の部屋へ赴くか。
「指示されて」来たという事実。
それだけを反芻するように胸の奥で繰り返しながらも、指先は自然とノックをしていた。
「……レギュラス様」
開かれた扉の向こう、伏し目がちな微笑をたたえたエメリンドが立っていた。
ドレープのやわらかいガウン。控えめにつけられた香の香り。
芝生の朝露のように、細やかな心遣いがその身にまとわれているのが分かった。
「どうぞ、お入りくださいませ」
ほのかな緊張が宿った顔ではあったが、その奥には炎のような静かな決意があった。
エメリンドにとって、今夜は明確な“機会”だった。
絶対的夫婦として在るアランとレギュラス。
どれだけ堅牢であっても、どんなに彼の心がひとりの妻に向いていようとも。
それでもこの夜だけは、
指示の上にやってきたレギュラスの意志が「アランの元を外れている」という事実──
それだけで、自分が“割って入る”ための足がかりとなると信じていた。
今夜こそ、爪を立ててでも“夫の心”を侵食したい。
愛されたい。
そして、子を授かって、自分こそがこの家の未来の母になるのだと。
この夜に重ねるすべては、その願いに向かって尖っていく。
だが一方、レギュラスの心には、別の波があった。
静かに扉を開きながら、
同時に自分の中の記憶もまた、静かに開き始めていた。
── アランと交わした、あの夜明け前のバルコニー。
月がまだ高く、風のなかで肌を重ね、
まるで自分という人間のすべてを許されたような、あまりにも深いやすらぎ。
燃え上がるような交わり。
その記憶が、喉の奥に貼りついていた。
(……あれを知った男が、どうして、他の女を抱けるだろうか?)
そう思いながらも、今夜ここにいるのは、自分自身だ。
そして、エメリンドの視線は真っ直ぐに彼を迎え入れる。
やがて、扉が音を立てて閉じられた。
その音は、偶然と運命のあいだで揺れる一夜の始まりを──
静かに告げていた。
エメリンドの部屋は、宵の帳が下りた屋敷の奥で静かに灯っていた。
カーテンの合間から差し込む月明かりが、刺繍の施されたガウンの袖や、床に敷かれた絨毯の縁を優しく照らしている。
空気には、香が微かに漂っていた。
甘すぎず、けれど誘うような柔らかさを帯びた香りが、静寂の中に居心地のよい緊張を生ませていた。
けれど――
レギュラスは、しばらく黙ったまま部屋の中央に立ち続けていた。
その沈黙のなかで、彼女もまた、何かを読み取ろうと息を整えて座っていた。
やがて、低く抑えた声がそっと空気を押した。
「……正直に申し上げます」
レギュラスの声には、どこまでも丁寧な節度があった。
それでも明らかに、言葉そのものに迷いはなかった。
「今夜は……とても、そういう気力がなくて」
エメリンドは、わずかに目を見開いた。
けれど、身体を揺らすことも、顔を背けることもしなかった。
「すみませんが、今夜は適当な時間に戻ります。
母には、何か──うまく、取り繕っていただけると」
視線を外すでもなく、それはまっすぐに差し出された“誠実な否定”だった。
そしてそのひとことが、静かに、エメリンドの胸を冷やした。
切実だった。
自ら願い出た夜だった。
ただの「義務」でも、「指示に従う男」でもなく、
レギュラス・ブラックと向き合える、わずかな《対等の時間》になるかもしれないと――
そう思った夜だった。
だからこそ、その拒絶の明瞭さは、残酷だった。
「……いえ、構いませんわ」
声が出せた自分を褒めたくなるほど、喉はかすれていた。
けれど、表情には崩れも取り乱しも見せなかった。
その代わり、胸の奥で、
あるひとつの切り札が、まばゆく息づいた。
閉じかけた扉の隙間から――
ゆっくりと、言葉の種を差し込むようにして。
「……今朝、アランさまとフィロメーヌさまが中庭でお話をされているのを、偶然見かけましたの」
レギュラスの足が止まる。
彼女はその反応を待っていたように、続けた。
「話題は──少し意外なものでしたわ。
話していたのは、“シリウス・ブラック様”のこと」
沈黙が、部屋の密度を変える。
「おふたりとも、本当に楽しそうに……ええ、とくにアラン様は。
あの方があんな表情をなさるのを、わたくし、初めて拝見しました」
ひとつ、視線を伏せて――エメリンドは言葉をさらに慎重に整える。
「ただお顔立ちの良さを褒めていたのではありません。
違いますの。……もっとこう……愛情や、敬慕のような、深い……言葉にすらしがたい“何か”を」
そのときのアランのまなざしを、エメリンドは正確に思い出せた。
いや、むしろ忘れたことはない。
あれこそ、「妻が夫に見せるべき極致のまなざし」だった。
それが向いていた先が、現在の夫ではない、ということが──
彼女にとって、唯一の《差し込む余地》だった。
レギュラスは何も言わない。
ただ、今はまだ思考と言葉を繋げるための時間が必要だというように、
眉間にうっすらと影を落としていた。
エメリンドは、それ以上多くを語らなかった。
けれど、その沈黙が表した余白こそ、彼女の意図だった。
――“どうか惑ってほしい”
アランという女が、すべてではないのだと。
彼女の心のすべてが、残っていると思い続けていることが、
その実、幻想かもしれないと。
そう揺らいだレギュラスの想いの、その端に手をかけることができたなら──
そこから先は、自分の手で、未来を引き寄せてみせる。
「お水を、ご用意しましょうか?」
平静を装いながら、エメリンドが静かに言った。
それはまるで、この話を今ここまで、という幕引きの合図のようでもあった。
けれど、すでに十分だった。
小さな言葉が一雫確かに落とされ、
それが今、静かに波紋を広げはじめていた。
部屋に漂う香の余韻と、擦りガラス越しの淡い月明かりが、静かに空気を張り詰めさせていた。
エメリンドの言葉が落とされてから数秒。沈黙が、まるで布を切るような鋭さをもって漂う――その中央に、レギュラスはいた。
微かな音ひとつ、吐息ひとつでさえ、刺すような感覚になるほどの緊張を孕んでいた。
彼の胸の奥で、古い傷のような感情が、またゆっくりと呼吸を始めていた。
――嫉妬。
忘れかけていた、いや、封じたはずのそれ。
ここしばらくの平穏は、確かに幸福だった。
アランと交わした、あの朝。
満ち足りた温もり。
何も言葉にせずとも身体の奥から通い合う確かな実感。
心も、身体も、そして記憶さえも、すっかり彼女に埋められていた。
なのに、エメリンドの何気ない一言が、
その中心にひとつ鋭い石を落とすように波紋となり、静けさを裂いてゆく。
シリウス、アラン――
自分の知らぬ笑顔、交わされた理由、そして、残された想い。
落ち着いていたはずの神経が、じりじりと音を立てて揺れていく。
(なぜ今、その名を)
(なぜそれを――あの人は今も、心に抱えているのか)
わかっていた。
アランが彼を忘れていないことなど、とうに知っていた。
だが、日々のぬくもりや、積み重ねた時間が、それを少しずつ遠ざけてくれるはずだったのだ。
それを、今。この夜に。この部屋で。
自分ではない女の唇から知らされるという屈辱。
けれど――
この動揺を、悟られてはならない。
それだけは、誇りが許さなかった。
アランの隣にいる者として。
誰より、彼女の過去を知りながら、現在を選び取ってきた男として。
弱さも、脆さも、見せるわけにはいかなかった。
エメリンドが水の入ったグラスを手に、静かに差し出す。
ゆっくりと鏡面のように澄んだ水面が、彼の表情を映していた。
レギュラスは受け取ることもなく、
ただ、ひとつだけ――最大限、張り詰めた微笑を向けた。
唇だけを整えたそれは、冷たくもなく、優しさでもなく。
ただ、完璧に裏打ちされた「表の顔」だった。
「……いえ、結構です」
言葉は静かに、寸分の揺れもなく落とされた。
「今夜は、もうお休みになってください」
何の未練も、相手への残響も置かぬ声音。
それがまた、エメリンドにとっての知らせとなる。
彼の中で浮かんだ感情の行き先が、決して「自分」には繋がっていないということを。
沈黙が再び返される。
グラスの水がわずかに揺れ、氷の音だけが部屋を満たした。
レギュラスはそっと背を向け、部屋の扉へと向かう。
その背中はまっすぐで、凛としていた。
けれど、足音のひとつひとつには、押し殺された怒りと悔しさが滲んでいるようにも見えた。
こうしてまた、
アランという女の名前で、
この男の心は揺れる。
この夜、誰の肌にも触れ合わぬまま、
ただ過去の名前に支配されるようにして、
彼は静かに部屋を後にしていった。
扉をそっと閉めた音が、静寂の寝室に馴染んでいった。
ランプはすでに落とされていて、月明かりだけがカーテンの隙間から薄く差し込んでいる。
部屋の輪郭はすでに朧げで、それでもレギュラスには、ここが唯一心を置いていける場所だった。
ゆっくりと呼吸を整えながら、彼は足音を忍ばせてベッドに近づいた。
背に向けて眠っていたアランが、わずかに肩を動かす。
衣擦れの音がひとつ、柔らかい毛布の下から響いた。
「……レギュラス?」
まだ眠気を引きずる低い声で、アランが緩やかに身を起こす。
長くほどけた髪が肩に流れ、頬にかかる月の光がその横顔を淡く照らす。
その顔には、はっきりと眠気とやわらかな疑問が浮かんでいた。
「どうしたの?」「何かあったの?」
言葉にならぬ問いが、そのまなざしに宿っていた。
レギュラスは何も言わなかった。口では、言えなかった。
苛立ちでも、怒りでもなく――
ただ、ふがいなさと倦怠と、言葉にならないほどの感情が胸の内に渦を巻いていた。
アランの腕を取るようにして、そっと身体を引き寄せた。
そして、ただ一つの行動にすがるように、彼女の唇に口づけた。
熱を帯びながら、それでいてどこか頼りない、縋るようなキスだった。
アランは驚いたように瞬きをし、
けれど、すぐに何かを悟ったような表情になった。
薄明かりのなかで、彼女の腕が柔らかくレギュラスの背にまわる。
「……エメリンドのところでは?」
問う声音に、咎める色はなく、ただ静かに現実をなぞるだけの優しさがあった。
わずかに間を置いて、レギュラスはキスを解いた唇をそのまま彼女の肩に伏せるようにして――低く囁いた。
「……嫉妬、しました?」
ぽつりとした問いは、冗談のように軽く装っていたが、
そこに込められていたのは、痛みに似た願いだった。
たった一言、
「ええ、嫉妬してしまった」と言ってくれたなら。
それだけで、この夜のすべてが許されるような気がしていた。
けれど。
アランは、ふにゃりと笑った。
その笑みは、ほんとうに可愛らしかった。
子供に向けるようなやさしさと、
どこか戸惑いや拗ねた感情をも包み込むような、
穏やかな、大人の微笑。
「……レギュラス」
ただ一言、彼の名前を呼んだだけで、
それ以上の返事はなかった。
胸の奥が唐突に冷たくなる――というほどではない。
それでも、ほんの少し期待していた分だけ、
何かが不意に手の平から滑り落ちたような、そんな感覚があった。
けれど、アランが笑っている。
その安心にすがるように、レギュラスは彼女の肩へと額を預けた。
この夜だけは、彼女の体温で、
失いかけた均衡をどうにか溶かして眠りたかった。
たとえ、言葉で赦されなくとも――
アランがそこにいて、自分を包んでくれることが、
唯一、確かだった。
朝の食卓には、いつもと同じ整った静けさが広がっていた。
磨かれた銀器、陶磁器に並ぶ控えめな料理、薄紅茶の香り。
一見すれば、変わることのない穏やかな一幕。
けれど、そのなかに座る一人――エメリンド・フェリックスの胸には、薄氷のような緊張が張りつめていた。
彼女は、昨日の夜のことを反芻していた。
淡々と切り出した“あの一言”。
アランとシリウスの話。
アランの心に、いまだ別の男がいるという可能性――
もっとも触れられたくないであろう過去を、彼の前にそっと差し出した。
それは確実に、レギュラス・ブラックという男の静かな心を、揺らしたはずだった。
そう信じていた。 信じていたからこそ、期待していた。
今朝。
ゆっくりとエメリンドは席に着き、他の令嬢たちや使用人に目を配った後、
そっと視線を、テーブルの上座へと向けた。
そこには、レギュラス。
そして――彼の目の前に座っているのは、やはりアランだった。
白い肌に淡く色を差した横顔。
きちんと結い上げた髪。
静かで控えめな彼女の佇まいは、いつもと変わらず、朝の光の中で凛としていた。
そのアランに、ふとレギュラスが声をかける。
「…… アラン、食べてます?」
柔らかい声音だった。
まるで食欲のない伴侶のことを、長年気遣ってきた男の、自然な優しさ。
その声の温度。 目元のわずかなゆるみ。 気づかぬうちに差し伸べられていた、慈しみに満ちたまなざし。
それは、断ち切られるどころか、
昨夕よりもさらに穏やかに深まっているようにさえ感じられた。
それがエメリンドの胸に、小さな火種として――いや、確かな炎として灯った。
(……なぜ?)
昨日、自分は間違いなく一手を放った。
あの言葉は届いていた。
その表情、その静けさを、彼女は確かに見ていたはずだった。
それなのに。
今ここにいるレギュラスは、何も変わっていない。
確かに心を揺らしたはずの水面は、
アランの前では見事なほどに凪いでいる。
まるで、何もなかったかのように。
それが、――悔しかった。
信じたくなかった。
心に入れた爪が、たった一夜で閉じられてしまったかのようなこの感覚。
この男の中で、アランという存在は、どこまでも深く根を張っているという事実。
それでも、エメリンドの胸には強く差し出される思いがあった。
──ならば、もう一手。 たとえ何度かき乱しても、この身ひとつで何かを得なければ意味がない。
彼に触れられた誇り。 唯一という記憶。 たった一夜の、その濃密な痕跡。
それをもっと確かなものに変えていくために。
エメリンドは静かに口元に微笑を浮かべた。
そして、何もなかったように、紅茶をひとくち含んだ。
けれどその指先には、次なる一手を握る者の、微かな戦慄が確かに宿っていた。
未来は、まだ終わっていない。
少なくとも、彼女の中では。
彼女の指先が静かに紅茶のカップの縁をなぞっている。
唇には微かな笑み。けれどその瞳の奥には、明確な意志の影が差していた。
エメリンド・フェリックスは、柔らかく微笑みながら、次の手を考えていた。
この屋敷で流れる穏やかな朝の時間のなかで、誰に気取られることもなく。
けれど、内心では熱が渦巻いている。
静寂を保ってはいたものの、彼女にとって、今朝のこの空気は決して“穏やか”ではない。
レギュラスの隣に座るアランが、何の傷も持たぬまま平然としている。
そして、レギュラスのすべての心が、やはりとどまらず彼女に戻っているという事実。
――あれだけの言葉を彼に伝えた。 それなのに、何ひとつ崩れなかった。
だとすれば、崩すべきは“外”からではない。
“中”に入り、揺らがせていかなければ。
アランのもとに返るその心の動きを、少しずつ別の方角に傾かせていくには、
もっと丁寧に、もっと確かな温度で、寄り添っていくしかない。
その時――レギュラスがふと、席を立ちかけた。
アランがそれに視線を合わせ、小さく頷く。
まるで、ふたりのあいだには些細な会話も不要だといったような静かな連携。
エメリンドの心に、じく、とまた熱が走る。
それでも、表情は崩さなかった。
口元に指を添え、ふわりと吐息を重ねるように笑んでみせる。
可憐で、静かに可愛らしく――だが、戦う者の確信を内に込めて。
このままでは終われない。
あの人の〈妻〉の座が、たまたま“早かった”というだけなら、
これから先、心を揺らすのが“この自分”であっても、何ひとつおかしくはないはず。
アランは目を落とし、パンにジャムを薄く塗っていた。
その仕草一つが、レギュラスの目を惹いていることに、エメリンドも気づいている。
けれど、そこに陰はある。
過去という名の影を、動かせない想いを、残している。
ならば、自分だけが灯りになる日が、必ずやって来る。
エメリンドは、カップをそっと受け皿に戻し、
邪魔をしないように、けれど決して埋もれないようにと、
その姿勢をあらためて、背筋を伸ばした。
戦いは、まだ幕が上がったばかりだった。
屋敷はいつの季節よりも静かだった。
それは、壁の厚さで遮られているせいでも、使用人の物音が抑えられているせいでもなかった。
静けさの理由は、エメリンドの耳が――意識のほうが、極めて研ぎ澄まされてしまっていたから。
アラン・セシール=ブラック。
あの女の全てを見逃すまいと、神経を張り詰めていた。
散歩の歩数、視線の揺れ、呼吸の深さ、娘に向ける声の調子。
はじめは敵意しかなかったこの感情が、次第に観察と変わり、確信の場所へと自らを導いてゆく。
そして、あるとき。
その瞬間は、あまりにも静かに訪れた。
窓越しに見てしまったのだ。
誰もが忌避し、触れようとしない“あの部屋”へ、そっと足を踏み入れていくアランの姿を。
かつてシリウス・ブラックが使っていた書斎。
屋敷を去ったその日から、時間の針を止めたかのように手つかずのまま残された、記憶の場所。
アランは、そこに――訪れていた。
ローブの裾を指先で軽く持ち上げながら、
躊躇うでもなく、怯えるでもなく。
まるで“そこに戻ること”が、彼女にとっては自然のように。
その時、エメリンドの中で曖昧だったものが、確信へと形を変えた。
─ あの人は、やはり。
シリウスを、愛しているのだ。
それからの日々、アランを“注意深く探る”目は、
思った以上の発見を運んできた。
自分も含め、いくつもの令嬢が送り込まれ、
一人また一人と運命をその手に預けようとしているこの屋敷の中で――
正妻であるアランは、それに眉ひとつ動かすことがない。
慈しげな目で見守り、
ときには笑みとともに声をかけ、
娘には公平ですとでも言うような優しい気配で接していた。
だがそこにあったのは、慈愛でも寛容でもなく、きっと――
焦りのなさだった。
(どうして、あんなことが出来るの?)
そう何度も思った。
もし自分がアランの立場なら、
これほど多くの女が屋敷に集められた時点で、妬み、苛立ち、絶望に支配されてもおかしくないのだ。
― 屈辱。
― 怒り。
― 傷つけられた女の誇り。
それにもかかわらず。
アランは、美しかった。
その在り方があまりに異質で、
エメリンドはずっとその理由を探していた。
けれど今――そのすべてが線になり、結ばれていった。
“レギュラス・ブラックではないのだ。
アランが心を与えているのは。”
どこかで“愛していない”からこそ、
レギュラスがいくら他の女に手を伸ばそうと、女の部分は平気でいられる。
失くしていないのだ。
――ほんとうに、自分が望んだものを。
想いは、どこか遠くの人に向けられたまま――
今も静かに燃えている。
それは未来を求めるものではないかもしれないけれど、
アランの全てを静かに温めていた。
(だから、崩れなかったのね)
レギュラスの手が他の誰を包もうと、
夜を共有しようと、
声を知らなくても、唇を知らなくとも――
アランという女の魂は、もう別の場所に還っていた。
悟った瞬間。
エメリンドは息を吸った。
そして、ごく正確に、舐めるようにアランを見つめた。
その優雅さ、揺るぎなさ、かすかに瞼を伏せる仕草さえも、
すべてが“遠くに焦がれつづける女”だからこそ生まれるものなのだと、今なら分かった。
ようやく、ほんとうの意味で。
あの女に勝てない理由も、勝つための道も、輪郭を持って見えてくる。
そしてそれは、エメリンド自身にとって――
また別の、かすかな熱となって芽を出した。
屋敷の空気が、ほんのわずかに湿っていた。雨が降ったわけではない。けれどどこか、空気の重たさが肌にまとわりつく朝だった。
エメリンド・フェリックスは、静けさに包まれた大広間の隅で一人立ち尽くしていた。視線の先には、階段の踊り場をあわただしく駆け抜けていく数人の使用人たちの背。白いエプロンの裾が揺れ、緊張の気配だけが廊下に残される。
その気配の中心にあるのは―― アラン・ブラック。
「昨夜から、急に熱を出されたそうですわ」
「一晩中、執務室どころか寝室にもつかずに付き添っておられて……」
囁かれる声。気遣うふりをした令嬢たちの会話の端々に、アランの名がやわらかく跳ねた。
そしてそのすべてに、“レギュラス”の気配がついてまわる。
彼女は体調を崩した――ただそれだけの「偶然」。
けれどその偶然が、エメリンドにとってはあまりにも無慈悲な“出来事”だった。
彼女は機をうかがっていた。冷静に、慎重に。
あの夜、レギュラスの心が揺らいだ手応えは、たしかにあった。
静かな眼差しの奥に、アランへの疑念と怒りが、微かに走ったのを見たからこそ。
その心を揺さぶる決定打になるはずだった――
アランが、シリウス・ブラックの書斎に入っていた、という事実。
誰にも忌避されてきた、過去の影に自ら足を踏み入れたあの女。
それを、レギュラスに届けるつもりだった。
タイミングさえ見誤らなければ。
彼の心はもう少し、こちらに傾く可能性があった。
けれど。
今、レギュラスはただアランのそばにいる。
夜通し看病し、朝になってもまだ心配を隠せない表情のまま、屋敷中の空気を支配している。
使用人の手元の薬瓶に、淡く揺れるランプの光。
アランの寝室の前に置かれた、熱を図ったあとの魔法計。
そしてレギュラスの、「それ以外は何も見えないほどの気迫」。
“こんなことで”──
心の中で、エメリンドは何度もそう呟いていた。
言葉にはできない。けれど、それは確かに〈嫉妬〉だった。
「体調を崩す」たったそれだけのことで、
あの男の目はまた、アランへと向き直ってしまった。
今、彼女は床に伏して、レギュラスの心配という名の光を独り占めしている。
その視線の隙間に、自分が入り込む余白は、どこにもなかった。
エメリンドは、手のひらをスカートにそっと当て、自分の爪がかすかに布をつかむのを感じた。
こんなことで、せっかく訪れた機会が霞んでゆくなんて。
咲き始めたばかりの花に、朝露のかわりに、冷たい霧が降りかかったようだった。
けれど深い息をひとつ吐くと、その悔しさに微かに火を灯すように、唇の端をわずかに引いた。
――まだ終わってはいない。
その確信だけは、絶やさず胸にとどめていた。
夕暮れ前の光は淡く、屋敷の高窓から差し込んでくる明るさも、どこか控えめに感じられた。
広間の隅、羽織っていたカーディガンの袖を指先で摘んだまま、セレナはひとり静かに立っていた。
辿るようにそっと視線を落とす先には、アランの姿ではなく――その不在が、空気に滲んでいた。
「……お母様、大丈夫かしら」
か細い囁きは、それでも真っ直ぐで、幼い胸に凝縮された不安をそのまま息のように吐き出したものだった。
その声に気づいたレギュラスは、夢のように静かにセレナに歩み寄る。
ふいに顔を上げた彼女の頬に、影も温もりもまるごと包むように、腕をそっと回した。
「……ええ。心配いりませんよ」
囁くような低い声は、深い夜のはじまりを告げる風のようだった。
揺らぐ心に灯を取り戻すようにして、セレナの小さな背を、優しく抱きしめる。
――不安。
けれど似ている。
レギュラスのなかにも、そんな言葉が深く根を張っていた。
このところ幾分か体調が安定していたアラン。
笑顔も、ささやき声も、まるで以前と変わらず、日常のなかに居た。
あまりにも穏やかで、優しくて、饒舌ではないけれど穏やかに人を照らすような日々。
まるで、彼女がどこも痛まず、穏やかに過ごしていた“かつての日々”がそのまま戻ってきたかのようだった。
──戻ったと、思い込んでしまっていた。
だからこそ、突然伏せるようにして寝込んだ彼女の不調は、
胸を打たれるよりも先に、心を裂くような衝撃として降りかかってきた。
任務中も、部下の報告の声がまるで遠雷のようにしか聞こえてこない。
魔法規律の条文も、押捺された文書の整然たる文体すら意味をなさず。
五感のすべてが、館の一室に横たわる”あの人”の体温に引き寄せられていた。
そして、留守を任されたこの小さな娘が、
どれほど不安に塗れていたかと想像するたび――胸が張り裂けそうだった。
セレナは、レギュラスの胸元にそっと小さな手を添える。
その動きになんの語りもないけれど、手の温かさがすべてを伝えていた。
彼女がこの状況を、子どもなりにどれだけ理解しようとしているかを。
レギュラスはそっと目を閉じた。
「もうすぐ良くなります。あなたのお母様は、強くてとても優しい方だから」
その言葉を、自分に向けての祈りのようにも感じながら、
小さな背をしばし抱きしめたまま、肩にそっと頬を寄せた。
ぬくもりの先にいるふたりの「想いの中心」。
その人がもう一度笑ってくれる時間のために、
この夜は、言葉少なに静かに過ぎていった。
ホグワーツの図書室の窓辺――
午後の光が、静かに頁を照らしていた。
陽のあたる長机には数冊の教本と、魔法薬学の試験用紙。
名前の横に朱色の筆跡が大きく円を描いていた。
100点
その数字を見たとき、アルタイルの胸は驚くほど軽く、誇らしかった。
「お前……これは本気ですごいって!」
「教授も採点で手が止まったらしいよ、アラン・セシール以来だって――!」
周りの友人たちが次々と囃し立てる。
肩をたたかれ、声をかけられるそのすべてが誇りとなって胸に積もっていく。
誰よりも….
まずは、父と母に知らせたいと思った。
あのふたりの誇らしき名前に、今日の自分の成果が繋がったことを。
本当に嬉しかったのだ。
寮の部屋に戻るとすぐに筆を取った。
便箋の上に、慎重につづる言葉を並べながら、ふと窓の向こうにフクロウの気配を感じた。
小さく爪の音を響かせて、
一羽の灰色のフクロウが、静かに枝に降り立つ。
脚に巻かれていたのは――妹、セレナからの手紙だった。
そこで時計の針が、止まったように感じた。
── 母上が 体調を崩されました
高熱が下がらず、いまは寝室に横になっています
お父様がずっとそばについています
字はしっかりしていた。
けれど読み進めるたびに、アルタイルの手元から力が抜けていった。
嬉しかった気持ちが、一瞬で地の底へと落ちてゆく。
波のように強く押し寄せた充足感が、
今は逆流して、胸の奥を締めつける痛みに変わっていた。
―― 母が。
あの大切な人が。
自分が幼い頃からずっと憧れで、
決して触れたくない弱さを見せまいとしていた、静かで強い人が……いま、伏せっている。
怖かった。
このまま――
自分がいない間に、
あの人がどんどんと遠くなっていくのではないか。
気づけば、温もりがもぬけの殻のように残された家のなかで、
名前だけを呼び続けることになってしまうのではないか。
アルタイルはその想像に、筆を持ったまま肩を震わせた。
さっきまで文字にしたかったのは、「誇り」だった。
けれど今、書きたくてたまらない言葉は、ただ── 「会いたい」だった。
今すぐ戻りたかった。
ホグワーツの塔を超えて、空を裂いてでも、母のもとへと。
何も話さなくていい。
ただ、母の腕の中に戻って。
「大丈夫だよ」って、今度は自分が言いたかった。
けれど、ホールの扉は動かず、
自分を取り巻くのは静かな部屋の温度だけだった。
アルタイルはそっと便箋の角を折り、
守るように胸に押し当てた。
ひとりこぼれた感情だけが、
静かに肩から崩れていくように、
夜の帳の影に沈んでいった。
朝の光がふんわりとカーテン越しに差し込んでいた。
その柔らかな光を背に、ベッドの上でアランはゆっくりと背を起こした。
まだ少し身体の芯が重たい。けれど、それでももう、横たわっていたいとは思わなかった。
ほんの数日――たった数日、部屋に篭っていただけなのに。
まるで世界が終わったかのように、彼は騒ぎ立てた。
「……大袈裟だわ、本当に」
アランは、手元に置かれた湯ざましのカップに触れながら、ふと微笑む。
鈍く疲れた身体の奥に、それでもふわりと温まるような静かな愛情があった。
それに応えるように、部屋の隅で背を預けていたレギュラスが、膝に置いた新聞から視線を上げる。
「……心配させておいて、何を言うんです」
あの男にしては、珍しくすねたような声音だった。
アランはその声にくすっと笑いながら目を伏せ、羽織っていた軽いガウンの紐をほどいた。
「起き上がれるようになったのだから。まずはセレナに顔を見せて、安心させてあげないと」
その言葉には、母としての決意が滲んでいた。
この数日、傍らに感じなかった小さな手。怯えたようなまなざし。
セレナは、まだ幼くとも、人の気配の崩れに誰よりも敏感なのだ。
「服を手に取ってくださる?」
そう頼んだアランの目は、すでに立ち上がることを前提としていた。
レギュラスはため息をつきながらも、黙って箪笥へ歩み寄り、
手慣れた様子で緑と銀の刺繍の入った軽やかなドレスを取り出した。
その背を見つめながら、アランもまたそっと立ち上がる。
身体にはまだ少しだけ病の名残が絡みついている――けれど、それでもこの心には、もう戻る場所があった。
それは、遠くにある過去ではなく、いまここに宿る小さな温もり。
支度を終え、身なりを整えたアランは、扉の近くで立ち止まり、
ふと振り返る。
そこには、真剣なまなざしで髪を整える彼――レギュラスがいた。
「……心配かけて、悪かったわ」
ごく短く、けれど手渡すようにその言葉を置くと、
アランは静かに、けれど心からの微笑みを浮かべ、
いつものやわらかな調子で言った。
「いってくるわ、セレナに会いに」
その横顔は、病という翳りを静かに超えて、
家族という灯のもとへ向かう女の顔だった。
朝の食卓には、ひとつ季節が移ったような静かな幸福が漂っていた。
白く陽を帯びたテーブルクロスの上、湯気の立つ茶碗、彩りの美しい果物、香ばしく焼かれたパン。
控えめながらぬくもりに満ちた空間に、セレナの弾ける声がひときわ明るく響いていた。
「お母様が元気になってくれて、とっても嬉しいわ!」
「わたくし、頑張ってお勉強してたの! 昨日もルーン語の練習、ちゃんとしてたのよ」
「今日のお母様、とっても綺麗だわ」
数日ぶりにアランの隣に座ることのできた甘い安堵が、言葉の隙間から何層にも溢れていく。
娘が喋る間も惜しんで詰め込むように、矢継ぎ早に繰り出される言葉のひとつひとつが、アランの胸に静かに染みこんでいった。
その頬に、自然と浮かぶ──やわらかな笑み。
「まぁ……ありがとう、セレナ」
「でも、ほんの少しだけゆっくり喋ってくれると、嬉しいわ」
そう宥める声も、かすかに笑いを含んでいる。
その声に反応するように、向かいに座ったレギュラスも、僅かに肩を揺らして口元で静かに笑んだ。
いつの間にか消えていた、長い数日の影。
ベッドの中で額に浮かべていた熱のような痛みのかわりに、いまここにあるのは、ほんのりと香るパンの匂いと、娘の声。
それだけで、十分だった。
気の置けない朝。
ごくささやかな、それでも満ちる朝。
だが――
その光の端に微かに影を落とすまなざしが、食卓の隅にひとつあった。
エメリンド・フェリックス。
彼女は、焼きたてのブレッドに手を伸ばすふりをしながら、心の奥で――いや、表情の硬さにすでに滲むほど、噛みしめていた。
完璧。
あの三人はあまりにも“よくできすぎている”。
妻と夫と娘。
甘く寄り添いながらも凛とした余白を持ち合わせて、
まるで誰にも壊されることなどないかのような、堅牢な絵のようだ。
けれど、エメリンドは知っている。
この家のなかに走る細い亀裂を。
アランの心のなかに眠る名前を。
レギュラスの視界をふと暗く染めた、かつてのゆらぎを。
「……少し突けば、きっと壊れるくせに」
心の中で、静かに呟く。
淡いオレンジのドレスを纏ったアランが、娘の手を取って微笑みかけている。
レギュラスはそれを見つめながら紅茶のカップを持ち上げている。
どちらの眼差しにも、疲れもわずらわしさもない。
ただ、静かに――美しい。
それが腹立たしかった。
何より、それが“強さのように”見えることが悔しかった。
温もりの顔をした防壁に、何ひとつ届いていないことが、胸にひたひたと積もっていく。
けれどエメリンドは、微笑を崩さなかった。
あくまで一人の令嬢として、完璧な所作で席に留まる。
――たとえその笑みの奥で、
いずれ来る「ほんのひと突きの機会」を確かに待っていたとしても。
午後の陽が静かに差し込む応接室で、アランはヴァルブルガと向かい合って座っていた。
部屋の空気は重厚で、壁に飾られた肖像画たちが無言で見下ろしている。
テーブルの上には細工の美しい銀のティーセットが置かれ、湯気が薄く立ち上っていた。
「体調が戻ったようで、安心したわ」
ヴァルブルガの声は、いつもの威厳を保ちながらも、どこかほっとした安堵を含んでいた。
その眼差しには、義理の娘への気遣いが――表面的ではない、確かな心配が宿っていた。
「ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
アランは深く頭を下げた。
声には素直な謝意があり、その仕草もまた自然で美しかった。
しばしの沈黙の後、ヴァルブルガはカップを受け皿に置き、視線をアランに向けた。
「……実は、あなたにお願いがあるのです」
その言葉の調子に、アランは僅かに背筋を正した。
「この数日間、レギュラスはずっとあなたのそばにいたわ。
それは当然のことで、夫として正しい行いです」
ヴァルブルガの言葉は慎重に選ばれていた。
「けれど……その間、彼は本来果たすべき責務を、一時的に後回しにしていたことにもなります」
アランの表情が、わずかに曇った。
言葉にされなくても、その「責務」が何を指しているかは明らかだった。
屋敷に招かれた娘たち。
家の血筋を絶やさぬための、静かな努め。
「そろそろ……レギュラスに、娘たちとの時間を作るよう、あなたの方から促してくれないかしら」
ヴァルブルガの声は、命令ではなく、依頼の形を取っていた。
けれどそこには、断ることの許されない重みがあった。
アランはひとり静かに背もたれに身を預けていた。
手にしているのは、最新号の魔法界の総合誌。
ページの余白に金箔の装丁が輝き、どこか洗練された上品な作りだった。
最初は、何気なくページを繰っていたのだ。
ほんの数行の見出しが目に入ったその瞬間――
指がふと止まり、目が離せなくなった。
《シリウス・ブラック、その孤高の美学──
純血を超えて、彼が守り続けるもの》
そこには、ページを割いて大きく掲載されたシリウスの写真。
数枚にわたって映されている彼の姿は、
どれも簡単な言葉では形容しがたいほどに魅力的だった。
微かに風に揺れる黒髪。
遠くを睨むような、けれどどこか寂しげな灰色の眼。
鋭く引かれた顎の線。
生まれついての気高さと、意志を貫く強さを併せ持った、不動の美。
それは想像よりずっと「今」の彼で、
離れていた年月を一気に飛び越えてくるような熱があった。
心が、キュッと締めつけられる。
(ああ……なんて――綺麗なひと)
不意に押し寄せたときめきは、
十代の頃の初恋のようだった。
心を吸い取られるように、視線が写真から外れない。
身体中の感覚がざわめき、胸がくすぐったくなる。
この年になって、こんな感情を抱くことがあるとは思わなかった。
ページの下には、簡単なインタビューの抜粋が添えられている。
“なぜ、これほどの人気を集めながら、いまだ独身を貫いているのか?”
そんな問いに、彼はこう答えていた。
「……昔からずっと、心に秘めたひとがいるだけです」
アランは、思わず両手でその紙面をそっと包み、
その一文を指先でなぞった。
「……私だと……思っていいのかしら」
声には出さなかったけれど、
その瞬間、どうしようもなく涙ぐみそうになる。
子どもじみていると自分でも分かっていた。
けれど、この胸の高鳴りだけは、どうしても否定できなかった。
そのとき、背後から声がかかった。
「奥様? こちらで何を…… まぁ、何か素敵なものを読んでいらっしゃるのね」
軽やかでよく通る声――フィロメーヌだった。
アランは思わず背筋を強張らせ、本を閉じそうになる手を慌てて止めた。
「……いえ、ただの……読みものですの」
言葉がうわずる。
どきりとした鼓動を隠すように、微笑を浮かべたが、
フィロメーヌの眼差しは冴えていた。
ちらりとページに目を走らせた彼女は、すぐに気づいた。
「まぁ、シリウス・ブラック様……」
表情を崩さずにその名前を口にすると、
ページに映る写真をひとしきり眺めてから、感嘆するように続けた。
「ほんとうに、かっこいい方ですわね。
こうして見ると、まるで時を纏った騎士のよう。
常識や血筋というしがらみにとらわれず、自由を掴み取った方……。
わたくし、あのような強さには、深く惹かれますの」
その言葉に、アランの肩がわずかに揺れた。
驚きと、じんと胸に広がる何か。
この世界のほとんどの令嬢が
彼のような“血を裏切った者”を名前にすることさえ躊躇うというのに。
なのに、フィロメーヌは――
あっけらかんとして、美しいものを美しいと素直に言った。
それは紛れもなく偏見のない目であり、
それゆえに、アランの胸にぬくもりのような光を灯した。
「……ありがとう」
思わず、声にしていた。
フィロメーヌは小さく首を傾げて微笑んだ。
「……? いえ、わたくしこそ」
けれどその微笑の奥に、
アランの静かな感情に何かを察したような、気遣いがほんの少しだけ滲んでいたように思えた。
心を押しなべるような想いが、静かな重さでアランの胸に残っていた。
それでも、誰かとともにこの過去と今現在を並べていられるということに、
ほんのすこし、救われたような気がした。
彼の名前を愛しいと感じてはいけない世界で――
その想いを否定されず、そっと受けとめられたことが、
今日という穏やかな昼下がりに、かけがえのない音を響かせていた。
柔らかな午後の光が、中庭へと面した回廊の石床に長く影を落としていた。屋敷の静けさのなかを、そっと歩いていたエメリンド・フェリックスは、ふと耳に届いた声に足を止めた。
声の主は、フィロメーヌ。
そして――その隣にはアランがいた。
中庭に面した出窓のそば、丸テーブルを挟むようにしてふたりは腰かけていた。やわらかな陽が差すなか、何かの雑誌を手にして、談笑している。
その声音は穏やかで、どこか愉しげで。
だが――その会話の断片に、エメリンドは息を詰めた。
「……シリウス・ブラック様、ほんとうにかっこいい方ですわよね。ああいう型に嵌らない生き方……とても強い方だと、わたくし思うのです」
その名。
その名を。
この屋敷で、純血が居並ぶこの孤高の一族の空間で、あの名を、こんなにも当たり前のように口にしている二人。
呼吸の仕方を忘れたように、エメリンドの胸が静かに震えた。
フィロメーヌの屈託ないその瞳。
そして、それに応えるアランの表情。
――優しく、どこか懐かしいものを見るような、とても特別な目だった。
(そんな……馬鹿な)
未だに噂の影しか存在し得ない〈裏切り者〉を、
彼女たちは、まるで讃えるように語っていた。
縛られて生きるべきだと教わってきた貴族社会のしきたりが、
この言葉だけでひび割れていくようだった。
エメリンドは、震える指先を胸元へ引き寄せた。
そして次の瞬間、胸の奥に別の感情が燻った。
――(隙がある)
そう、感じてしまった。
その光景だけで、彼女には耐えがたいものがあった。
アランは、レギュラスの正妻。誰もがそう理解している。
しかし彼女が――今も、シリウスの名を見つめるあの目をしているというのなら。
そこに、夫婦としての《絶対》など存在しないのではないか。
いやむしろ、これは好機なのではないかと思えた。
(だって、わたしは――)
アランでも、フィロメーヌでもない。
けれど、自分だけが知っていることが一つだけあった。
レギュラスの肌に、たった一度触れたのは自分だということ。
それは奇跡のような夜だった。
薬の力とはいえ、彼が選んだ――いや、差し出された責務を果たした相手は、自分だった。
彼に抱かれた。
ほんの一夜。
でも、それは確かに、この身だけが知っている秘密であり、記憶であり、誇りだった。
あの夜レギュラスが見せた一瞬の揺らぎ。
恐れと敬意を半々に抱かれながら近づいた、あの温度。
それを繋ぎとめたいという思いが、胸の奥で渇いた光を帯びていた。
この機会に食い込まねば。
そう思った。
正妻が誰を思い、誰に微笑むかは関係ない。
この屋敷の未来に繋がるのは、“子供”であり、“家名”であり――“血”だ。
男児を産んだ暁には、すべてが変わる。
レギュラスに愛されたい。
寵愛を受けたい。
そして、自分の名と一族の名を、この家に刻みたいのだ。
義務ではない。計算でもない。
むしろ、それが欲望だった。
純然たる、女の、妻になりたいという渇望だった。
アランがひそかに誰を想おうと――
自分の中でしか知らない夜が、この家の次代を決める“時”になり得る。
その確信が、エメリンドの背中をひそやかに支え始めていた。
陽に照らされたテラスで笑うふたりの女を背に、
彼女は静かにその場を離れる。
花の影を踏まぬように軽やかに。
けれど、胸には燃え上がる「野心」の炎が、静かに灯っていた。
屋敷の夜は、静かに帳を下ろしていた。
振り返れば、長く穏やかな一日だったように思える──それでも、空気の奥底にさざ波のような棘を残しているのは、誰の心であれ例外ではないのだろう。
それは、エメリンドもまた同じだった。
エメリンド・フェリックスは、その夜、自ら願い出た。
ヴァルブルガに。
この屋敷に招かれた数多の令嬢たちの中で、唯一自分は「選ばれた」ことがあるのだ。
レギュラス・ブラックの手に、確かに触れられた。
ほんの一夜。けれど、境界の向こう側へと足を踏み入れたのは、たった自分一人──
それだけが、彼女の誇りであり、心の中で編まれ続けている未来の出発点だった。
だから、今夜もレギュラスの隣を望んだ。
その願いは、ヴァルブルガの耳に心地よく響いたようだった。
薬指のリングを撫でながら、微笑を浮かべて「ええ、今夜はあなたで良いでしょう」と言ったその声には、ほのかな期待と安堵が含まれていた。
そうしてレギュラスは、エメリンドの部屋へと招かれた。
部屋の前に立ち、深く息をつく。
彼がその扉の前に立っている理由はただひとつ──
母・ヴァルブルガから差し向けられたからだった。
この夜に、誰の部屋へ赴くか。
「指示されて」来たという事実。
それだけを反芻するように胸の奥で繰り返しながらも、指先は自然とノックをしていた。
「……レギュラス様」
開かれた扉の向こう、伏し目がちな微笑をたたえたエメリンドが立っていた。
ドレープのやわらかいガウン。控えめにつけられた香の香り。
芝生の朝露のように、細やかな心遣いがその身にまとわれているのが分かった。
「どうぞ、お入りくださいませ」
ほのかな緊張が宿った顔ではあったが、その奥には炎のような静かな決意があった。
エメリンドにとって、今夜は明確な“機会”だった。
絶対的夫婦として在るアランとレギュラス。
どれだけ堅牢であっても、どんなに彼の心がひとりの妻に向いていようとも。
それでもこの夜だけは、
指示の上にやってきたレギュラスの意志が「アランの元を外れている」という事実──
それだけで、自分が“割って入る”ための足がかりとなると信じていた。
今夜こそ、爪を立ててでも“夫の心”を侵食したい。
愛されたい。
そして、子を授かって、自分こそがこの家の未来の母になるのだと。
この夜に重ねるすべては、その願いに向かって尖っていく。
だが一方、レギュラスの心には、別の波があった。
静かに扉を開きながら、
同時に自分の中の記憶もまた、静かに開き始めていた。
── アランと交わした、あの夜明け前のバルコニー。
月がまだ高く、風のなかで肌を重ね、
まるで自分という人間のすべてを許されたような、あまりにも深いやすらぎ。
燃え上がるような交わり。
その記憶が、喉の奥に貼りついていた。
(……あれを知った男が、どうして、他の女を抱けるだろうか?)
そう思いながらも、今夜ここにいるのは、自分自身だ。
そして、エメリンドの視線は真っ直ぐに彼を迎え入れる。
やがて、扉が音を立てて閉じられた。
その音は、偶然と運命のあいだで揺れる一夜の始まりを──
静かに告げていた。
エメリンドの部屋は、宵の帳が下りた屋敷の奥で静かに灯っていた。
カーテンの合間から差し込む月明かりが、刺繍の施されたガウンの袖や、床に敷かれた絨毯の縁を優しく照らしている。
空気には、香が微かに漂っていた。
甘すぎず、けれど誘うような柔らかさを帯びた香りが、静寂の中に居心地のよい緊張を生ませていた。
けれど――
レギュラスは、しばらく黙ったまま部屋の中央に立ち続けていた。
その沈黙のなかで、彼女もまた、何かを読み取ろうと息を整えて座っていた。
やがて、低く抑えた声がそっと空気を押した。
「……正直に申し上げます」
レギュラスの声には、どこまでも丁寧な節度があった。
それでも明らかに、言葉そのものに迷いはなかった。
「今夜は……とても、そういう気力がなくて」
エメリンドは、わずかに目を見開いた。
けれど、身体を揺らすことも、顔を背けることもしなかった。
「すみませんが、今夜は適当な時間に戻ります。
母には、何か──うまく、取り繕っていただけると」
視線を外すでもなく、それはまっすぐに差し出された“誠実な否定”だった。
そしてそのひとことが、静かに、エメリンドの胸を冷やした。
切実だった。
自ら願い出た夜だった。
ただの「義務」でも、「指示に従う男」でもなく、
レギュラス・ブラックと向き合える、わずかな《対等の時間》になるかもしれないと――
そう思った夜だった。
だからこそ、その拒絶の明瞭さは、残酷だった。
「……いえ、構いませんわ」
声が出せた自分を褒めたくなるほど、喉はかすれていた。
けれど、表情には崩れも取り乱しも見せなかった。
その代わり、胸の奥で、
あるひとつの切り札が、まばゆく息づいた。
閉じかけた扉の隙間から――
ゆっくりと、言葉の種を差し込むようにして。
「……今朝、アランさまとフィロメーヌさまが中庭でお話をされているのを、偶然見かけましたの」
レギュラスの足が止まる。
彼女はその反応を待っていたように、続けた。
「話題は──少し意外なものでしたわ。
話していたのは、“シリウス・ブラック様”のこと」
沈黙が、部屋の密度を変える。
「おふたりとも、本当に楽しそうに……ええ、とくにアラン様は。
あの方があんな表情をなさるのを、わたくし、初めて拝見しました」
ひとつ、視線を伏せて――エメリンドは言葉をさらに慎重に整える。
「ただお顔立ちの良さを褒めていたのではありません。
違いますの。……もっとこう……愛情や、敬慕のような、深い……言葉にすらしがたい“何か”を」
そのときのアランのまなざしを、エメリンドは正確に思い出せた。
いや、むしろ忘れたことはない。
あれこそ、「妻が夫に見せるべき極致のまなざし」だった。
それが向いていた先が、現在の夫ではない、ということが──
彼女にとって、唯一の《差し込む余地》だった。
レギュラスは何も言わない。
ただ、今はまだ思考と言葉を繋げるための時間が必要だというように、
眉間にうっすらと影を落としていた。
エメリンドは、それ以上多くを語らなかった。
けれど、その沈黙が表した余白こそ、彼女の意図だった。
――“どうか惑ってほしい”
アランという女が、すべてではないのだと。
彼女の心のすべてが、残っていると思い続けていることが、
その実、幻想かもしれないと。
そう揺らいだレギュラスの想いの、その端に手をかけることができたなら──
そこから先は、自分の手で、未来を引き寄せてみせる。
「お水を、ご用意しましょうか?」
平静を装いながら、エメリンドが静かに言った。
それはまるで、この話を今ここまで、という幕引きの合図のようでもあった。
けれど、すでに十分だった。
小さな言葉が一雫確かに落とされ、
それが今、静かに波紋を広げはじめていた。
部屋に漂う香の余韻と、擦りガラス越しの淡い月明かりが、静かに空気を張り詰めさせていた。
エメリンドの言葉が落とされてから数秒。沈黙が、まるで布を切るような鋭さをもって漂う――その中央に、レギュラスはいた。
微かな音ひとつ、吐息ひとつでさえ、刺すような感覚になるほどの緊張を孕んでいた。
彼の胸の奥で、古い傷のような感情が、またゆっくりと呼吸を始めていた。
――嫉妬。
忘れかけていた、いや、封じたはずのそれ。
ここしばらくの平穏は、確かに幸福だった。
アランと交わした、あの朝。
満ち足りた温もり。
何も言葉にせずとも身体の奥から通い合う確かな実感。
心も、身体も、そして記憶さえも、すっかり彼女に埋められていた。
なのに、エメリンドの何気ない一言が、
その中心にひとつ鋭い石を落とすように波紋となり、静けさを裂いてゆく。
シリウス、アラン――
自分の知らぬ笑顔、交わされた理由、そして、残された想い。
落ち着いていたはずの神経が、じりじりと音を立てて揺れていく。
(なぜ今、その名を)
(なぜそれを――あの人は今も、心に抱えているのか)
わかっていた。
アランが彼を忘れていないことなど、とうに知っていた。
だが、日々のぬくもりや、積み重ねた時間が、それを少しずつ遠ざけてくれるはずだったのだ。
それを、今。この夜に。この部屋で。
自分ではない女の唇から知らされるという屈辱。
けれど――
この動揺を、悟られてはならない。
それだけは、誇りが許さなかった。
アランの隣にいる者として。
誰より、彼女の過去を知りながら、現在を選び取ってきた男として。
弱さも、脆さも、見せるわけにはいかなかった。
エメリンドが水の入ったグラスを手に、静かに差し出す。
ゆっくりと鏡面のように澄んだ水面が、彼の表情を映していた。
レギュラスは受け取ることもなく、
ただ、ひとつだけ――最大限、張り詰めた微笑を向けた。
唇だけを整えたそれは、冷たくもなく、優しさでもなく。
ただ、完璧に裏打ちされた「表の顔」だった。
「……いえ、結構です」
言葉は静かに、寸分の揺れもなく落とされた。
「今夜は、もうお休みになってください」
何の未練も、相手への残響も置かぬ声音。
それがまた、エメリンドにとっての知らせとなる。
彼の中で浮かんだ感情の行き先が、決して「自分」には繋がっていないということを。
沈黙が再び返される。
グラスの水がわずかに揺れ、氷の音だけが部屋を満たした。
レギュラスはそっと背を向け、部屋の扉へと向かう。
その背中はまっすぐで、凛としていた。
けれど、足音のひとつひとつには、押し殺された怒りと悔しさが滲んでいるようにも見えた。
こうしてまた、
アランという女の名前で、
この男の心は揺れる。
この夜、誰の肌にも触れ合わぬまま、
ただ過去の名前に支配されるようにして、
彼は静かに部屋を後にしていった。
扉をそっと閉めた音が、静寂の寝室に馴染んでいった。
ランプはすでに落とされていて、月明かりだけがカーテンの隙間から薄く差し込んでいる。
部屋の輪郭はすでに朧げで、それでもレギュラスには、ここが唯一心を置いていける場所だった。
ゆっくりと呼吸を整えながら、彼は足音を忍ばせてベッドに近づいた。
背に向けて眠っていたアランが、わずかに肩を動かす。
衣擦れの音がひとつ、柔らかい毛布の下から響いた。
「……レギュラス?」
まだ眠気を引きずる低い声で、アランが緩やかに身を起こす。
長くほどけた髪が肩に流れ、頬にかかる月の光がその横顔を淡く照らす。
その顔には、はっきりと眠気とやわらかな疑問が浮かんでいた。
「どうしたの?」「何かあったの?」
言葉にならぬ問いが、そのまなざしに宿っていた。
レギュラスは何も言わなかった。口では、言えなかった。
苛立ちでも、怒りでもなく――
ただ、ふがいなさと倦怠と、言葉にならないほどの感情が胸の内に渦を巻いていた。
アランの腕を取るようにして、そっと身体を引き寄せた。
そして、ただ一つの行動にすがるように、彼女の唇に口づけた。
熱を帯びながら、それでいてどこか頼りない、縋るようなキスだった。
アランは驚いたように瞬きをし、
けれど、すぐに何かを悟ったような表情になった。
薄明かりのなかで、彼女の腕が柔らかくレギュラスの背にまわる。
「……エメリンドのところでは?」
問う声音に、咎める色はなく、ただ静かに現実をなぞるだけの優しさがあった。
わずかに間を置いて、レギュラスはキスを解いた唇をそのまま彼女の肩に伏せるようにして――低く囁いた。
「……嫉妬、しました?」
ぽつりとした問いは、冗談のように軽く装っていたが、
そこに込められていたのは、痛みに似た願いだった。
たった一言、
「ええ、嫉妬してしまった」と言ってくれたなら。
それだけで、この夜のすべてが許されるような気がしていた。
けれど。
アランは、ふにゃりと笑った。
その笑みは、ほんとうに可愛らしかった。
子供に向けるようなやさしさと、
どこか戸惑いや拗ねた感情をも包み込むような、
穏やかな、大人の微笑。
「……レギュラス」
ただ一言、彼の名前を呼んだだけで、
それ以上の返事はなかった。
胸の奥が唐突に冷たくなる――というほどではない。
それでも、ほんの少し期待していた分だけ、
何かが不意に手の平から滑り落ちたような、そんな感覚があった。
けれど、アランが笑っている。
その安心にすがるように、レギュラスは彼女の肩へと額を預けた。
この夜だけは、彼女の体温で、
失いかけた均衡をどうにか溶かして眠りたかった。
たとえ、言葉で赦されなくとも――
アランがそこにいて、自分を包んでくれることが、
唯一、確かだった。
朝の食卓には、いつもと同じ整った静けさが広がっていた。
磨かれた銀器、陶磁器に並ぶ控えめな料理、薄紅茶の香り。
一見すれば、変わることのない穏やかな一幕。
けれど、そのなかに座る一人――エメリンド・フェリックスの胸には、薄氷のような緊張が張りつめていた。
彼女は、昨日の夜のことを反芻していた。
淡々と切り出した“あの一言”。
アランとシリウスの話。
アランの心に、いまだ別の男がいるという可能性――
もっとも触れられたくないであろう過去を、彼の前にそっと差し出した。
それは確実に、レギュラス・ブラックという男の静かな心を、揺らしたはずだった。
そう信じていた。 信じていたからこそ、期待していた。
今朝。
ゆっくりとエメリンドは席に着き、他の令嬢たちや使用人に目を配った後、
そっと視線を、テーブルの上座へと向けた。
そこには、レギュラス。
そして――彼の目の前に座っているのは、やはりアランだった。
白い肌に淡く色を差した横顔。
きちんと結い上げた髪。
静かで控えめな彼女の佇まいは、いつもと変わらず、朝の光の中で凛としていた。
そのアランに、ふとレギュラスが声をかける。
「…… アラン、食べてます?」
柔らかい声音だった。
まるで食欲のない伴侶のことを、長年気遣ってきた男の、自然な優しさ。
その声の温度。 目元のわずかなゆるみ。 気づかぬうちに差し伸べられていた、慈しみに満ちたまなざし。
それは、断ち切られるどころか、
昨夕よりもさらに穏やかに深まっているようにさえ感じられた。
それがエメリンドの胸に、小さな火種として――いや、確かな炎として灯った。
(……なぜ?)
昨日、自分は間違いなく一手を放った。
あの言葉は届いていた。
その表情、その静けさを、彼女は確かに見ていたはずだった。
それなのに。
今ここにいるレギュラスは、何も変わっていない。
確かに心を揺らしたはずの水面は、
アランの前では見事なほどに凪いでいる。
まるで、何もなかったかのように。
それが、――悔しかった。
信じたくなかった。
心に入れた爪が、たった一夜で閉じられてしまったかのようなこの感覚。
この男の中で、アランという存在は、どこまでも深く根を張っているという事実。
それでも、エメリンドの胸には強く差し出される思いがあった。
──ならば、もう一手。 たとえ何度かき乱しても、この身ひとつで何かを得なければ意味がない。
彼に触れられた誇り。 唯一という記憶。 たった一夜の、その濃密な痕跡。
それをもっと確かなものに変えていくために。
エメリンドは静かに口元に微笑を浮かべた。
そして、何もなかったように、紅茶をひとくち含んだ。
けれどその指先には、次なる一手を握る者の、微かな戦慄が確かに宿っていた。
未来は、まだ終わっていない。
少なくとも、彼女の中では。
彼女の指先が静かに紅茶のカップの縁をなぞっている。
唇には微かな笑み。けれどその瞳の奥には、明確な意志の影が差していた。
エメリンド・フェリックスは、柔らかく微笑みながら、次の手を考えていた。
この屋敷で流れる穏やかな朝の時間のなかで、誰に気取られることもなく。
けれど、内心では熱が渦巻いている。
静寂を保ってはいたものの、彼女にとって、今朝のこの空気は決して“穏やか”ではない。
レギュラスの隣に座るアランが、何の傷も持たぬまま平然としている。
そして、レギュラスのすべての心が、やはりとどまらず彼女に戻っているという事実。
――あれだけの言葉を彼に伝えた。 それなのに、何ひとつ崩れなかった。
だとすれば、崩すべきは“外”からではない。
“中”に入り、揺らがせていかなければ。
アランのもとに返るその心の動きを、少しずつ別の方角に傾かせていくには、
もっと丁寧に、もっと確かな温度で、寄り添っていくしかない。
その時――レギュラスがふと、席を立ちかけた。
アランがそれに視線を合わせ、小さく頷く。
まるで、ふたりのあいだには些細な会話も不要だといったような静かな連携。
エメリンドの心に、じく、とまた熱が走る。
それでも、表情は崩さなかった。
口元に指を添え、ふわりと吐息を重ねるように笑んでみせる。
可憐で、静かに可愛らしく――だが、戦う者の確信を内に込めて。
このままでは終われない。
あの人の〈妻〉の座が、たまたま“早かった”というだけなら、
これから先、心を揺らすのが“この自分”であっても、何ひとつおかしくはないはず。
アランは目を落とし、パンにジャムを薄く塗っていた。
その仕草一つが、レギュラスの目を惹いていることに、エメリンドも気づいている。
けれど、そこに陰はある。
過去という名の影を、動かせない想いを、残している。
ならば、自分だけが灯りになる日が、必ずやって来る。
エメリンドは、カップをそっと受け皿に戻し、
邪魔をしないように、けれど決して埋もれないようにと、
その姿勢をあらためて、背筋を伸ばした。
戦いは、まだ幕が上がったばかりだった。
屋敷はいつの季節よりも静かだった。
それは、壁の厚さで遮られているせいでも、使用人の物音が抑えられているせいでもなかった。
静けさの理由は、エメリンドの耳が――意識のほうが、極めて研ぎ澄まされてしまっていたから。
アラン・セシール=ブラック。
あの女の全てを見逃すまいと、神経を張り詰めていた。
散歩の歩数、視線の揺れ、呼吸の深さ、娘に向ける声の調子。
はじめは敵意しかなかったこの感情が、次第に観察と変わり、確信の場所へと自らを導いてゆく。
そして、あるとき。
その瞬間は、あまりにも静かに訪れた。
窓越しに見てしまったのだ。
誰もが忌避し、触れようとしない“あの部屋”へ、そっと足を踏み入れていくアランの姿を。
かつてシリウス・ブラックが使っていた書斎。
屋敷を去ったその日から、時間の針を止めたかのように手つかずのまま残された、記憶の場所。
アランは、そこに――訪れていた。
ローブの裾を指先で軽く持ち上げながら、
躊躇うでもなく、怯えるでもなく。
まるで“そこに戻ること”が、彼女にとっては自然のように。
その時、エメリンドの中で曖昧だったものが、確信へと形を変えた。
─ あの人は、やはり。
シリウスを、愛しているのだ。
それからの日々、アランを“注意深く探る”目は、
思った以上の発見を運んできた。
自分も含め、いくつもの令嬢が送り込まれ、
一人また一人と運命をその手に預けようとしているこの屋敷の中で――
正妻であるアランは、それに眉ひとつ動かすことがない。
慈しげな目で見守り、
ときには笑みとともに声をかけ、
娘には公平ですとでも言うような優しい気配で接していた。
だがそこにあったのは、慈愛でも寛容でもなく、きっと――
焦りのなさだった。
(どうして、あんなことが出来るの?)
そう何度も思った。
もし自分がアランの立場なら、
これほど多くの女が屋敷に集められた時点で、妬み、苛立ち、絶望に支配されてもおかしくないのだ。
― 屈辱。
― 怒り。
― 傷つけられた女の誇り。
それにもかかわらず。
アランは、美しかった。
その在り方があまりに異質で、
エメリンドはずっとその理由を探していた。
けれど今――そのすべてが線になり、結ばれていった。
“レギュラス・ブラックではないのだ。
アランが心を与えているのは。”
どこかで“愛していない”からこそ、
レギュラスがいくら他の女に手を伸ばそうと、女の部分は平気でいられる。
失くしていないのだ。
――ほんとうに、自分が望んだものを。
想いは、どこか遠くの人に向けられたまま――
今も静かに燃えている。
それは未来を求めるものではないかもしれないけれど、
アランの全てを静かに温めていた。
(だから、崩れなかったのね)
レギュラスの手が他の誰を包もうと、
夜を共有しようと、
声を知らなくても、唇を知らなくとも――
アランという女の魂は、もう別の場所に還っていた。
悟った瞬間。
エメリンドは息を吸った。
そして、ごく正確に、舐めるようにアランを見つめた。
その優雅さ、揺るぎなさ、かすかに瞼を伏せる仕草さえも、
すべてが“遠くに焦がれつづける女”だからこそ生まれるものなのだと、今なら分かった。
ようやく、ほんとうの意味で。
あの女に勝てない理由も、勝つための道も、輪郭を持って見えてくる。
そしてそれは、エメリンド自身にとって――
また別の、かすかな熱となって芽を出した。
屋敷の空気が、ほんのわずかに湿っていた。雨が降ったわけではない。けれどどこか、空気の重たさが肌にまとわりつく朝だった。
エメリンド・フェリックスは、静けさに包まれた大広間の隅で一人立ち尽くしていた。視線の先には、階段の踊り場をあわただしく駆け抜けていく数人の使用人たちの背。白いエプロンの裾が揺れ、緊張の気配だけが廊下に残される。
その気配の中心にあるのは―― アラン・ブラック。
「昨夜から、急に熱を出されたそうですわ」
「一晩中、執務室どころか寝室にもつかずに付き添っておられて……」
囁かれる声。気遣うふりをした令嬢たちの会話の端々に、アランの名がやわらかく跳ねた。
そしてそのすべてに、“レギュラス”の気配がついてまわる。
彼女は体調を崩した――ただそれだけの「偶然」。
けれどその偶然が、エメリンドにとってはあまりにも無慈悲な“出来事”だった。
彼女は機をうかがっていた。冷静に、慎重に。
あの夜、レギュラスの心が揺らいだ手応えは、たしかにあった。
静かな眼差しの奥に、アランへの疑念と怒りが、微かに走ったのを見たからこそ。
その心を揺さぶる決定打になるはずだった――
アランが、シリウス・ブラックの書斎に入っていた、という事実。
誰にも忌避されてきた、過去の影に自ら足を踏み入れたあの女。
それを、レギュラスに届けるつもりだった。
タイミングさえ見誤らなければ。
彼の心はもう少し、こちらに傾く可能性があった。
けれど。
今、レギュラスはただアランのそばにいる。
夜通し看病し、朝になってもまだ心配を隠せない表情のまま、屋敷中の空気を支配している。
使用人の手元の薬瓶に、淡く揺れるランプの光。
アランの寝室の前に置かれた、熱を図ったあとの魔法計。
そしてレギュラスの、「それ以外は何も見えないほどの気迫」。
“こんなことで”──
心の中で、エメリンドは何度もそう呟いていた。
言葉にはできない。けれど、それは確かに〈嫉妬〉だった。
「体調を崩す」たったそれだけのことで、
あの男の目はまた、アランへと向き直ってしまった。
今、彼女は床に伏して、レギュラスの心配という名の光を独り占めしている。
その視線の隙間に、自分が入り込む余白は、どこにもなかった。
エメリンドは、手のひらをスカートにそっと当て、自分の爪がかすかに布をつかむのを感じた。
こんなことで、せっかく訪れた機会が霞んでゆくなんて。
咲き始めたばかりの花に、朝露のかわりに、冷たい霧が降りかかったようだった。
けれど深い息をひとつ吐くと、その悔しさに微かに火を灯すように、唇の端をわずかに引いた。
――まだ終わってはいない。
その確信だけは、絶やさず胸にとどめていた。
夕暮れ前の光は淡く、屋敷の高窓から差し込んでくる明るさも、どこか控えめに感じられた。
広間の隅、羽織っていたカーディガンの袖を指先で摘んだまま、セレナはひとり静かに立っていた。
辿るようにそっと視線を落とす先には、アランの姿ではなく――その不在が、空気に滲んでいた。
「……お母様、大丈夫かしら」
か細い囁きは、それでも真っ直ぐで、幼い胸に凝縮された不安をそのまま息のように吐き出したものだった。
その声に気づいたレギュラスは、夢のように静かにセレナに歩み寄る。
ふいに顔を上げた彼女の頬に、影も温もりもまるごと包むように、腕をそっと回した。
「……ええ。心配いりませんよ」
囁くような低い声は、深い夜のはじまりを告げる風のようだった。
揺らぐ心に灯を取り戻すようにして、セレナの小さな背を、優しく抱きしめる。
――不安。
けれど似ている。
レギュラスのなかにも、そんな言葉が深く根を張っていた。
このところ幾分か体調が安定していたアラン。
笑顔も、ささやき声も、まるで以前と変わらず、日常のなかに居た。
あまりにも穏やかで、優しくて、饒舌ではないけれど穏やかに人を照らすような日々。
まるで、彼女がどこも痛まず、穏やかに過ごしていた“かつての日々”がそのまま戻ってきたかのようだった。
──戻ったと、思い込んでしまっていた。
だからこそ、突然伏せるようにして寝込んだ彼女の不調は、
胸を打たれるよりも先に、心を裂くような衝撃として降りかかってきた。
任務中も、部下の報告の声がまるで遠雷のようにしか聞こえてこない。
魔法規律の条文も、押捺された文書の整然たる文体すら意味をなさず。
五感のすべてが、館の一室に横たわる”あの人”の体温に引き寄せられていた。
そして、留守を任されたこの小さな娘が、
どれほど不安に塗れていたかと想像するたび――胸が張り裂けそうだった。
セレナは、レギュラスの胸元にそっと小さな手を添える。
その動きになんの語りもないけれど、手の温かさがすべてを伝えていた。
彼女がこの状況を、子どもなりにどれだけ理解しようとしているかを。
レギュラスはそっと目を閉じた。
「もうすぐ良くなります。あなたのお母様は、強くてとても優しい方だから」
その言葉を、自分に向けての祈りのようにも感じながら、
小さな背をしばし抱きしめたまま、肩にそっと頬を寄せた。
ぬくもりの先にいるふたりの「想いの中心」。
その人がもう一度笑ってくれる時間のために、
この夜は、言葉少なに静かに過ぎていった。
ホグワーツの図書室の窓辺――
午後の光が、静かに頁を照らしていた。
陽のあたる長机には数冊の教本と、魔法薬学の試験用紙。
名前の横に朱色の筆跡が大きく円を描いていた。
100点
その数字を見たとき、アルタイルの胸は驚くほど軽く、誇らしかった。
「お前……これは本気ですごいって!」
「教授も採点で手が止まったらしいよ、アラン・セシール以来だって――!」
周りの友人たちが次々と囃し立てる。
肩をたたかれ、声をかけられるそのすべてが誇りとなって胸に積もっていく。
誰よりも….
まずは、父と母に知らせたいと思った。
あのふたりの誇らしき名前に、今日の自分の成果が繋がったことを。
本当に嬉しかったのだ。
寮の部屋に戻るとすぐに筆を取った。
便箋の上に、慎重につづる言葉を並べながら、ふと窓の向こうにフクロウの気配を感じた。
小さく爪の音を響かせて、
一羽の灰色のフクロウが、静かに枝に降り立つ。
脚に巻かれていたのは――妹、セレナからの手紙だった。
そこで時計の針が、止まったように感じた。
── 母上が 体調を崩されました
高熱が下がらず、いまは寝室に横になっています
お父様がずっとそばについています
字はしっかりしていた。
けれど読み進めるたびに、アルタイルの手元から力が抜けていった。
嬉しかった気持ちが、一瞬で地の底へと落ちてゆく。
波のように強く押し寄せた充足感が、
今は逆流して、胸の奥を締めつける痛みに変わっていた。
―― 母が。
あの大切な人が。
自分が幼い頃からずっと憧れで、
決して触れたくない弱さを見せまいとしていた、静かで強い人が……いま、伏せっている。
怖かった。
このまま――
自分がいない間に、
あの人がどんどんと遠くなっていくのではないか。
気づけば、温もりがもぬけの殻のように残された家のなかで、
名前だけを呼び続けることになってしまうのではないか。
アルタイルはその想像に、筆を持ったまま肩を震わせた。
さっきまで文字にしたかったのは、「誇り」だった。
けれど今、書きたくてたまらない言葉は、ただ── 「会いたい」だった。
今すぐ戻りたかった。
ホグワーツの塔を超えて、空を裂いてでも、母のもとへと。
何も話さなくていい。
ただ、母の腕の中に戻って。
「大丈夫だよ」って、今度は自分が言いたかった。
けれど、ホールの扉は動かず、
自分を取り巻くのは静かな部屋の温度だけだった。
アルタイルはそっと便箋の角を折り、
守るように胸に押し当てた。
ひとりこぼれた感情だけが、
静かに肩から崩れていくように、
夜の帳の影に沈んでいった。
朝の光がふんわりとカーテン越しに差し込んでいた。
その柔らかな光を背に、ベッドの上でアランはゆっくりと背を起こした。
まだ少し身体の芯が重たい。けれど、それでももう、横たわっていたいとは思わなかった。
ほんの数日――たった数日、部屋に篭っていただけなのに。
まるで世界が終わったかのように、彼は騒ぎ立てた。
「……大袈裟だわ、本当に」
アランは、手元に置かれた湯ざましのカップに触れながら、ふと微笑む。
鈍く疲れた身体の奥に、それでもふわりと温まるような静かな愛情があった。
それに応えるように、部屋の隅で背を預けていたレギュラスが、膝に置いた新聞から視線を上げる。
「……心配させておいて、何を言うんです」
あの男にしては、珍しくすねたような声音だった。
アランはその声にくすっと笑いながら目を伏せ、羽織っていた軽いガウンの紐をほどいた。
「起き上がれるようになったのだから。まずはセレナに顔を見せて、安心させてあげないと」
その言葉には、母としての決意が滲んでいた。
この数日、傍らに感じなかった小さな手。怯えたようなまなざし。
セレナは、まだ幼くとも、人の気配の崩れに誰よりも敏感なのだ。
「服を手に取ってくださる?」
そう頼んだアランの目は、すでに立ち上がることを前提としていた。
レギュラスはため息をつきながらも、黙って箪笥へ歩み寄り、
手慣れた様子で緑と銀の刺繍の入った軽やかなドレスを取り出した。
その背を見つめながら、アランもまたそっと立ち上がる。
身体にはまだ少しだけ病の名残が絡みついている――けれど、それでもこの心には、もう戻る場所があった。
それは、遠くにある過去ではなく、いまここに宿る小さな温もり。
支度を終え、身なりを整えたアランは、扉の近くで立ち止まり、
ふと振り返る。
そこには、真剣なまなざしで髪を整える彼――レギュラスがいた。
「……心配かけて、悪かったわ」
ごく短く、けれど手渡すようにその言葉を置くと、
アランは静かに、けれど心からの微笑みを浮かべ、
いつものやわらかな調子で言った。
「いってくるわ、セレナに会いに」
その横顔は、病という翳りを静かに超えて、
家族という灯のもとへ向かう女の顔だった。
朝の食卓には、ひとつ季節が移ったような静かな幸福が漂っていた。
白く陽を帯びたテーブルクロスの上、湯気の立つ茶碗、彩りの美しい果物、香ばしく焼かれたパン。
控えめながらぬくもりに満ちた空間に、セレナの弾ける声がひときわ明るく響いていた。
「お母様が元気になってくれて、とっても嬉しいわ!」
「わたくし、頑張ってお勉強してたの! 昨日もルーン語の練習、ちゃんとしてたのよ」
「今日のお母様、とっても綺麗だわ」
数日ぶりにアランの隣に座ることのできた甘い安堵が、言葉の隙間から何層にも溢れていく。
娘が喋る間も惜しんで詰め込むように、矢継ぎ早に繰り出される言葉のひとつひとつが、アランの胸に静かに染みこんでいった。
その頬に、自然と浮かぶ──やわらかな笑み。
「まぁ……ありがとう、セレナ」
「でも、ほんの少しだけゆっくり喋ってくれると、嬉しいわ」
そう宥める声も、かすかに笑いを含んでいる。
その声に反応するように、向かいに座ったレギュラスも、僅かに肩を揺らして口元で静かに笑んだ。
いつの間にか消えていた、長い数日の影。
ベッドの中で額に浮かべていた熱のような痛みのかわりに、いまここにあるのは、ほんのりと香るパンの匂いと、娘の声。
それだけで、十分だった。
気の置けない朝。
ごくささやかな、それでも満ちる朝。
だが――
その光の端に微かに影を落とすまなざしが、食卓の隅にひとつあった。
エメリンド・フェリックス。
彼女は、焼きたてのブレッドに手を伸ばすふりをしながら、心の奥で――いや、表情の硬さにすでに滲むほど、噛みしめていた。
完璧。
あの三人はあまりにも“よくできすぎている”。
妻と夫と娘。
甘く寄り添いながらも凛とした余白を持ち合わせて、
まるで誰にも壊されることなどないかのような、堅牢な絵のようだ。
けれど、エメリンドは知っている。
この家のなかに走る細い亀裂を。
アランの心のなかに眠る名前を。
レギュラスの視界をふと暗く染めた、かつてのゆらぎを。
「……少し突けば、きっと壊れるくせに」
心の中で、静かに呟く。
淡いオレンジのドレスを纏ったアランが、娘の手を取って微笑みかけている。
レギュラスはそれを見つめながら紅茶のカップを持ち上げている。
どちらの眼差しにも、疲れもわずらわしさもない。
ただ、静かに――美しい。
それが腹立たしかった。
何より、それが“強さのように”見えることが悔しかった。
温もりの顔をした防壁に、何ひとつ届いていないことが、胸にひたひたと積もっていく。
けれどエメリンドは、微笑を崩さなかった。
あくまで一人の令嬢として、完璧な所作で席に留まる。
――たとえその笑みの奥で、
いずれ来る「ほんのひと突きの機会」を確かに待っていたとしても。
午後の陽が静かに差し込む応接室で、アランはヴァルブルガと向かい合って座っていた。
部屋の空気は重厚で、壁に飾られた肖像画たちが無言で見下ろしている。
テーブルの上には細工の美しい銀のティーセットが置かれ、湯気が薄く立ち上っていた。
「体調が戻ったようで、安心したわ」
ヴァルブルガの声は、いつもの威厳を保ちながらも、どこかほっとした安堵を含んでいた。
その眼差しには、義理の娘への気遣いが――表面的ではない、確かな心配が宿っていた。
「ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
アランは深く頭を下げた。
声には素直な謝意があり、その仕草もまた自然で美しかった。
しばしの沈黙の後、ヴァルブルガはカップを受け皿に置き、視線をアランに向けた。
「……実は、あなたにお願いがあるのです」
その言葉の調子に、アランは僅かに背筋を正した。
「この数日間、レギュラスはずっとあなたのそばにいたわ。
それは当然のことで、夫として正しい行いです」
ヴァルブルガの言葉は慎重に選ばれていた。
「けれど……その間、彼は本来果たすべき責務を、一時的に後回しにしていたことにもなります」
アランの表情が、わずかに曇った。
言葉にされなくても、その「責務」が何を指しているかは明らかだった。
屋敷に招かれた娘たち。
家の血筋を絶やさぬための、静かな努め。
「そろそろ……レギュラスに、娘たちとの時間を作るよう、あなたの方から促してくれないかしら」
ヴァルブルガの声は、命令ではなく、依頼の形を取っていた。
けれどそこには、断ることの許されない重みがあった。
