3章
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夜の空気はしんと静かで、肌に触れる風もやわらかだった。
バルコニーの欄干には、まだ温もりを宿す陽の名残がわずかに残っていて、そこに並んで立つふたりの影を、夜の灯がやさしく縁取っていた。
アランは珍しく、薄く琥珀色に沈んだ酒のグラスを指先で揺らしていた。
レギュラスは今日は遅くなる――そう聞かされていたから、今夜だけはほんの少し、自分に小さなゆるやかさを許してもいい気がしていた。
薄手のショールを肩に羽織ったまま、アランはカロリーナの横に並んで立っていた。
視線の先には夜の庭。月光が葉のあいだを伝って広がっている。
ふたりのグラスが、静かに触れ合う。
「奥様からこんな素敵なお酒をいただけるなんて……光栄ですわ」
カロリーナが言うその声は、程よく酒にほぐれながらも、品を失わない温かみを帯びていた。
グラスの縁を見つめながら彼女は、微笑に似た感謝の眼差しをアランに向けた。
アランもまた、口元をふっと緩めて小さく笑った。
目元には風のような優しさが宿っていた。
「私のほうこそ……娘に、あんなにも丁寧にルーン語を教えてくださって。感謝してもしきれないくらい。ありがとうございます」
その一言には、過不足のない誠意があった。
思えば、こんなふうに自ら手を差し出し、近づこうとしたのは、久しぶり――
いや、もしかすると“初めて”だったかもしれないとアランは思った。
「導かれる役」として、女性たちを受け入れることはできても、
自分から「歩み寄る」ということが、これほど自然に果たせる日が来るとは思っていなかった。
けれど、目の前にいるカロリーナは、
娘セレナに対しても、決して形式ではなく愛情ある接し方を続けてくれていた。
その姿に、心の蓋がそっと開いていたのかもしれない。
風がそっと頬を撫でる。
「セレナがあなたの話をいつも楽しそうに聞いているの。最近は発音まで注意するようになって、私にはもうとても真似できないわ」
「まぁ、あの子は本当に覚えが早いですもの! 何より、学ぼうとする姿勢がまっすぐで、教える側まで背筋が伸びるんですのよ」
声に花が咲くようだった。
笑い合うふたりの間に、もう“夫を共有する関係”というような肩書きはなかった。
そこにあるのは、ただ小さな感謝と、共有されたあたたかい時間だけだった。
アランはグラスのなかの揺れる琥珀をひと口、静かに味わう。
心だけでなく、身体の奥までじんわりと広がるぬくもり。
月明かりの下でふわりと笑った自分の表情が、こんなにも自然で、穏やかでいられることが、なにより奇跡のようでもあった。
「変わったのね、私……」
内側でそっとそう呟いた。
長い時間を重ねてなお、自分の中にまだこうして“優しさを分ける手”があるとは思わなかった。
けれどその気づきが、どこか静かな誇りのように胸の奥に灯っていた。
夜の風がまたひとつ、そっとふたりの髪を揺らした。
沈黙は静かで心地よく、
その場にあったのは、ただ美しく、穏やかな夜の記憶だった。
夜風がぬるく湿りはじめる頃、バルコニーには月の光とランプの煌めきがやわらかに重なっていた。
冷え切ることのない初夏の風のなか、アランは椅子に深く身を預けていた。
指先には、残りわずかになったワインのグラス。
軽やかに笑っていたつもりが、ふと頬を熱く感じる。
胸の奥から立ちのぼるゆるやかな酩酊——
夕食をろくに取らなかったからだろう。
だから、この身体の奥まで染みていく熱も、自分では少し持て余していた。
その空気を破ったのは、ふいの足音だった。
想像よりもずっと早く届いたその音に、カロリーナが先に気づいた。
自ら口に含んでいた最後の一滴をそっとテーブルに置くと、彼女は慌てて立ち上がる。
「ご主人様……お帰りなさいませ。」
白い袖が小さく揺れながら、礼儀正しく一礼されるその視線の先には、レギュラスの姿。
暗がりの廊下から現れ、バルコニーの枠内へ足を踏み入れる彼の表情は、読めないほど静かだった。
その気配に、アランもようやく肩越しにゆるやかに振り返った。
視線を合わせるでも、すぐに言葉を返すでもなく、
ただ少しだけ首を傾けて、酔ったままの微笑を口元に浮かべる。
目元は柔らかく、焦点の揺らぎがわずかに見えた。
レギュラスは立ち止まり、重たくない問いをひとつだけ投げる。
「……飲んでるんですか?」
言葉の奥に詰問の響きはなかった。
ただ、意外そうな気配と、どこか確かに滲む興味。
それでもアランは、それに真っ直ぐには応えない。
「……ふふ」
肩を小さく揺らして、ただ口角だけをすこしだけ高く引いた。
返事にならない返事。
けれどその様子から、レギュラスにも答えはすぐに伝わった。
月明かりが、アランの髪を淡く照らす。
ほつれた前髪が頬にかかるのを気にもせず、彼女は静かに空を見上げていた。
レギュラスは何も言わず、その様子を一瞬だけ見つめてから、
小さく息を吐くように歩を進める。
テーブルに残されたワインのグラスと、飲み干されたアラン側の空のグラス。
そして風にさらさらと揺れているアランのショール。
全てが、どこか夢の中に落ちかけているような光景だった。
夜は深くなり、
まだ何も始まっていないのに、
そこに在る空気だけが、とても静かに熱を帯び始めていた。
月が高く昇り、空気がうっすらと金の粉をまいたように澄んでいた。
レギュラスが屋敷へ戻ったのは、思いのほか早い時間だった。
今日に限って進捗が順調で、任務が延びることはなかった。
誰かに知らせるでもなく、いつもの足取りで屋敷に入ると、使用人の誰もがどこか驚いたような顔をしていた。
それだけ、自分の早い帰宅は珍しかった。
バルコニーへと続く廊下の静けさに、ふと、違和を覚えた。
誰かの微かな笑い声。
耳をすませば、水のようにゆらぐ声色が重なっている。
そして、ランプの光に少し透けたカーテンの奥からは、
アランのシルエットが見えた。
バルコニーに足を踏み入れた瞬間、鼻をくすぐるのは、淡く辛口の赤ワインの香り。
その香りが、ここにふたり分以上の色濃さを纏っていることに、すぐ気づいた。
グラスの一つは、すでに空に近く。
瓶の中には、あとほんの一滴、というほどしか残っていなかった。
視線を向けた先のアランは、緩やかに口角を上げて――
けれど普段とは違う、わずかに火照った頬と、下がった目尻が、その酩酊の証をやさしく物語っていた。
彼女は、滅多に自分から飲まない人だった。
誰かの隣に寄り添って、一緒に軽く口をつける程度の人。
なのに今ここにいるアランは、明らかに“酔っていた”。
隣にいたのは、ルーン語をよく語るあの令嬢――カロリーナだった。
足音に気づいた彼女は、すぐに立ち上がり、緊張と焦りの間で姿勢を正した。
グラスを持ったままでは失礼かと、一瞬迷いを宿した手付き。
羞じるように視線を伏せ、あたたかな気遣いがそのまま動作に出ている。
そんな彼女に対し、レギュラスはゆっくりと視線を向けたあと、
ごく短く、けれど丁寧に言葉を下ろした。
「……すみません」
声はやわらかかった。
怒りも苛立ちも込められてはいなかった。
それは責めでも謝罪でもなく、ただ、
“こんな時間まで無理をさせてしまった”という大人としての礼節、
そしてひとりの男として――
「この場に立ち会ってしまったこと」への微かな想いを含んでいた。
カロリーナは何も言わず、深く頭を下げた。
そのまま控えめにグラスを置き、静かに場を辞した。
残されたのは、レギュラスと、
あたたかく微笑むだけのアランだった。
けれどその笑みには、はっきりとした理屈などなかった。
ただ、酔いにやさしく溶けて、
静かに風の中でまどろんでいるような――
久方ぶりに、何かからゆるされている表情だった。
戸惑いと安堵の間、レギュラスはただ、
その姿を見つめることしかできなかった。
グラスの音も沈黙も、
今夜だけは、どこか温かく許された夜風に、滲んで消えていった。
バルコニーには夜の香りが濃く漂っていた。
遠く星の瞬きすら霞むほどに、空は深く、藍に沈み込んでいる。
風は緩やかに葉を揺らし、ランプにともされたオイルの火が静かに灯っていた。
その柔らかな黄金の光の下、椅子にもたれて微笑むアランは、いつになく――いや、かつて見たことがないほどに、美しかった。
酒の紅が、彼女の頬にほのかに赤みをにじませ、
その影が目元や首筋、晒けた鎖骨へと、静かに影を落としている。
ひとつひとつの仕草が、酔いに柔らかく解かれて。
グラスに触れる指先の水気すらも瑞々しく、
口元の弧が、いつもより深く綻んでいて。
その微笑みがまとう艶やかさに、レギュラスの感覚ごと静かに鋭くなった。
――まるで、その酔いに自分までもが侵されているようだった。
心より先に、身体が惹き寄せられてゆく。
理性が追いつくよりも早く、彼はそっとその唇を奪った。
口づけの奥に広がったのは、熟れた赤ワインの香り。
酔いと熱を含んだその味が、アランの唇からわずかに溶け出していた。
余韻を探るようにして、レギュラスはアランの口角に指を添え、親指の腹で、なぞる。
思いがけず、それにアランはふわりと笑い――
次の瞬間、その親指に、軽やかに歯を立てた。
その小さな反応が、まるで火種だった。
脳裏に焼きつく、吐息の深さと、熱。
ただそれだけで、全身の理性という理性が崩れ落ちていった。
「……よりにもよって、なんで……こんなところで……」
愚痴のような声が、熱の合間に吐かれた。
けれど、怒りではなかった。
責めたくなるくせに、どうしようもなく彼女に抗えない――そんな苦々しくも幸福な苛立ちだった。
整えられたランタンも小さなサイドテーブルも、このバルコニーには、安らぐための美しさしかない。
なのに今となっては、それら全てが、“彼女と交わってしまうには不便すぎる”と、笑えるほど不都合だった。
けれど、もう止まることはなかった。
背を支えるのもやっとな椅子の上で、アランの背中がきしりと軋む。
「痛いわ……背中……」
うっすらとかすれた抗議。
けれど声に怒りはなく、言葉ごとじんわりと甘かった。
酔っているせいだと分かっていても、それが、どこまでも素直で――
どこまでも可愛かった。
アランは、与えられるもの全てを、何一つ拒まず受け取った。
惜しまず、隠さず、身も心も――
その指先すら、レギュラスを拒まないばかりか、絡めるように引き寄せる。
耳元でこぼれる浅く潤んだ声、
蕩けそうな目の奥に映るのは自分だけ。
揺れる睫毛さえ、光沢を帯びていた。
視線で悦びを伝え、指先で答え、
声で、鼓動で、全ての感覚で―― アランはレギュラスを満たしてくれた。
こんなふうに、誰かひとりのために存在してくれる人間が、この世に本当にいるのだと。
彼女のあらゆる部分が、ただ“自分だけ”を悦ばせるためにあるようだった。
夜の風が頬をかすめるたび、ひとつまたひとつと、残った理性の破片が彼方に消える。
そして、ふたりきりの影を夜がやさしく抱え込んでいった。
バルコニーの狭ささえ、このときばかりはただの愛の舞台だった。
彼女の髪がほどけ、空に浮かぶ星のひとつが、
ゆっくりとその上を横切っていったのを、レギュラスは見た。
ただ一瞬、永遠に似た、火花のような夜だった。
薄曇りの朝が、静かに世界を照らし始めていた。
バルコニーの欄干を濡らす朝露が、葉の先で丸く光を弾き、
そのひとつひとつが、まるで夢からの覚め際を告げるための儀式のように、やさしく揺れている。
アランは、微かな鳥の声と共にうっすらと目を覚ました。
頬をなぞる冷たい風が、寝ぼけた意識にゆっくりと現実を引き戻す。
……冷たい?
……硬い?
ゆっくりと顔をあげて、自分がまだバルコニーにいることに気づいた瞬間、
アランの身体は本能的に浅く震えた。
薄手のショールが肩からずり落ち、夜の余熱に任せたまま眠ってしまった自分の姿がそこにある。
足元には乱れた裾、首元には開いた襟、腕には軽く擦れた跡まで。
ありえないほど――はしたない。
「……っ……」
口元を手でおさえながら、アランは身を起こした。
その動きすら、この場で自分が置かれている状況を引き写していくようで、
羞恥が全身を包むのに、数秒も要らなかった。
隣の椅子では、レギュラスがぐったりと身を預けて眠っている。
手にはかろうじて羽織られた、しわくちゃのローブ。
首のボタンは開いたままで、露わな襟元からは肌が覗いていた。
目の下に淡く影を宿して、それでも安らかな息をしているその姿は、
たしかに昨夜、アランがこの世界で最も深く沈み込んだ相手だった。
昨夜――
記憶が、波のように蘇ってくる。
触れられた肌の熱。
こぼれた声。
絡まった髪と手と指先。
なぜこんな場所で。
どうして、自分は。
息が詰まる。
思い出すたび、耐え切れないほどの羞恥に打ち震えた。
…………外だった。
屋内ではない。
天井ではなく空の下。
ランタンだけを灯した、夜のバルコニー――しかも、二人分の声があれほど長く交わされていた。
“消えてしまいたい……”と、小さく心のなかで呟いた。
それほどまでに、アランの中の羞恥は深く、
とても、他者に顔を向けられる状態ではなかった。
快楽の記憶は確かに甘やかだった。
けれどいまのアランにとっては、それがむしろ刃のように胸に突き刺さっていた。
あんなにも深く、無防備な自分を、
ああ――レギュラスは、一晩中、隣で見ていたのだ。
それを思っただけで、顔から火が出そうだった。
アランはそっとショールを胸に引き寄せ、身体を丸める。
それでも風は髪を撫で、露のきらめきが夜のあとを飾るようにして残っている。
目を伏せて、少しだけ、涙に似た熱が瞼の奥に滲んだ。
羞恥、名残、狂おしいほどの快楽と、
それでも変わらずに訪れる朝。
すべてを受け入れなければならないのなら――
まずは、この身の火照りを、ゆっくりと鎮めるしかなかった。
息を、吸う。
夜明けの空気の冷たさが、痛いほどによく心に染みた。
朝の光がしんと冷えている。
夜が確かに過ぎ去ったことを、光の硬さと静けさが教えてくれる。
まだ誰も起きていない――そう信じたくなるほど、屋敷は確かに静かだった。
アランはバルコニーでそっと立ち上がった。
木の床がほんの少し軋む。その音が、この上なく大きく響く気がして息を止める。
膝に絡まるショールを静かに落とし、ぐしゃぐしゃになった髪を耳にかけると、
風の中に残る夜の匂いがふと鼻をかすめた。
それがあまりにも記憶を引っ張り込んでくるので、思わず目を逸らした。
――もう、考えない。
今は、考えたくない。
このことを、誰にも察されたくないと思った。
あの令嬢たちにも。
オリオンやヴァルブルガに、ましてや実の息子や娘になど、絶対に。
この家の誰の視線にも触れさせたくなかった。
こんな“行為の痕跡”が、自分にあるなど知られてはいけないと思った。
(年甲斐もなく……私は……)
本心から、そう呟いていた。
思い返せば昨夜の自分は、愚かしくも真っ赤に燃え上がった魔法石のようだった。
抑えられない衝動と快楽の渦に、何度も巻き込まれた。
まるで――未成年の魔法使いが、はじめて愛の行為の真髄を知ったかのような、
そんな大胆で、はしたなくて、理性のかけらもない時間だった。
そして目の前には。
レギュラスがいる。
椅子にもたれかかり、はだけたシャツとしわくちゃのローブに身を包んだまま、ぐっすりと寝息を立てていた。
この男が。
自分を。
あんなにも――何度も、高みに連れていったのだ。
とても、“抱かれた”というだけでは済まない。
すべてを、侵されたようだった。
そして今のこの静けさの中で、なにひとつ責任を負わずに眠っているその姿に、
アランは抗議したくなるほどの怒りを感じていた。
けれど、それ以上に――悔しかった。
こんなにも感じて、求めて、応えて、乱れて。
終わったあとになって、自分だけが打ちのめされたような後悔と羞恥に包まれて、
相手はその記憶すら温かいまま抱いて眠っているなんて。
(……恥ずかしい思いでもしたらいいのに)
アランはふいに、そんなことを思った。
誰かにバルコニーで発見されて、しどけない姿を見られたらいい。
恥ずかしくて顔を上げられないような思いを、せめて一度くらい味わってほしい。
そうでもなければ――
自分が目覚めた瞬間に飲み込まれたこの羞恥と衝撃と後悔と……
その釣り合いがあまりに取れない気がした。
アランは、ひとつ深呼吸をして立ち上がった。
ゆっくりと、音を立てずにバルコニーを抜け、
薄布のカーテンを滑るようにくぐり抜ける。
廊下を歩きながら一度も振り返らなかった。
自室に戻ると、召使いはまだ誰ひとり起きていなかった。
その間隙に、アランは淡々と衣を脱ぎ、湯を使い、髪を結い直した。
着ていた寝間着は、もう取り戻せない記憶のように静かに片づけられていく。
そして、選んだ衣装は――
いつにも増して華やかなものだった。
深いブルーに銀糸の刺繍がほどこされた、端正で美しいルームドレス。
昼日中に着るにはわずかに主張のある装い。
だが、それでよかった。
昨日の夜など、なかったように。
今この朝の自分は、何事も知らず隠しとおせるように。
レギュラス・ブラックに、完膚なきまで奪われた女などではなく。
毅然と、日常の中に立つ、“奥方”としての顔へと、アランは自らを戻していった。
鏡のなかの自分に、そっと眉を引いて微笑んだ。
そして、言葉なく静かな足音で、階下へと歩き出した。
東の空にはすでに陽が昇り始めていて、朝の光がゆるやかにバルコニーの隅から差し込んでいた。
柔らかな風がカーテンを揺らし、冷えた空気と共に屋敷の目覚めを告げている。
遠く、使用人たちの食器を触る音が聞こえた。
銀のナイフが皿に当たる微かな音、その間を縫うように漂う焼きたてのパンや薄紅茶の香り。
――レギュラスは、ふっと目を開いた。
意識がまだ完全には戻らず、薄さの中を彷徨いながら、身体を少し動かす。
背にもたれた椅子の固さがじわりと伝わったとき、脳裏は一気に昨夜の記憶へと引き戻された。
昨夜――
あの激しさ。
あの熱。
そして、アランの声――。
信じられないほど、満たされていた。
レギュラスは、ため息のような息を吐いた。
あれほどまでに彼女から「求められた」夜は、かつてなかった。
いつもどこか遠慮深く、指先で測るようにしか己を委ねない彼女が、
あの夜はまるで抑えをなくしたかのようにしがみついて、
声をあげ、指を入り組ませ、自分の存在に溶けこんでくれた。
――酒、という道具がその心をほどいたのなら。
“飲まれるな”と言われるその魔法の液体に、
今夜だけは感謝してもいいと思った。
世界でいちばん幸せな男になったんだ――そんな気さえした。
けれど、その甘やかな記憶をふわふわと思い返すうちに、
背中に走る鈍い痛みが、現実を容赦なく呼び戻した。
(……イテ……)
動くと腰が悲鳴を上げる。
足をひきずるようにして椅子から立ち上がった瞬間、
思わず呻き声が漏れそうになるのを咄嗟に喉の奥で噛み殺した。
バルコニー用の椅子で眠るなど、そもそも正気ではなかった。
だがその正気を吹き飛ばしたのは、紛れもなく昨夜のアランだった。
体の節々が痛む。
けれど――心地よい後悔だった。
……少なくとも、バルコニーを出るまでは。
バルコニーの扉を開けて、そのままヨロヨロと室内へと足を踏み入れる。
カーペットの上に降ろした足音が鈍く響く。
使用人たちが朝食の支度を進めていた。数人の若い女と、一人の年配の男が手を止めて、
“信じられないものでも見たかのような静けさ”でレギュラスの姿を見た。
はだけたシャツ。
しわくちゃのローブが片方だけに落ちかけ、
ズボンは……ファスナーが開いたまま。
――完璧にやってしまっていた。
その視線が、痛い。
耐えられないほど、痛い。
「……そんなにジロジロ見ないでもらっていいですか」
喉は掠れ、声は出さなかったが、
心中ではそこにいた全員に苛立ちと恥じらいが混ざった怒鳴り声を投げていた。
逃げるようにして廊下へと向かう足が不安定になりながらも、
振り返ることは決してできなかった。
――さっきまで、あれほど誇らしく“世界で一番幸せな男”だったというのに。
一転して、消えてしまいたいほどの屈辱。
ほんの数時間で、暖色の夢は現実に踏み砕かれる。
けれどそれすら、どこかアランらしい。
今朝のアランに、
きっと怒りさえ抱く余裕すらなかったのだろう――その静けさに、
レギュラスは痛みと愛おしさの間に立たされることになる。
しっかり閉ざされた寝室の扉が、
今はどれだけ重く感じられることかと思いつつ、
レギュラスはふらつく足で階段の影へと消えていった。
まるで“朝の勝者”が自分ではなかったことを、
痛感するように。
朝の食卓には、陽が高く上らぬうちから整えられた白いクロスと、銀の食器。
ほんのり温められた紅茶、焼きたてのパンの香ばしさが広がっている。
けれどその空間にいつもあるはずの“穏やかさ”には、どこか微かな緊張のような線が走っていた。
いつもならレギュラスの正面に座るはずのアランは、
今朝に限って、テーブルの端――なるべく遠く、まるで会話の届かない距離にそっと坐していた。
朝の光を受けてきらりと反射する彼女のドレスは、驚くほど華やいでいて、
まるで午前の控えめな時間のなかに、ひときわ強い彩りを添えていた。
深い藍に微細な銀糸の刺繍が流れ、すでに真昼の顔をしていた。
化粧も、あまりに整いすぎていた。
目元は涼しく、唇はきっちりと艶を差され、髪は首元できゅっと結いあげられ――
そこにいる彼女は“夜を忘れようとしている”と、誰よりもはっきりと語っていた。
レギュラスは、それを見ても歯痒さや苛立ちを覚えることは、不思議とまるでなかった。
むしろ――
内心、笑いそうになるのを飲み込んでいた。
(そんなに着飾って、どうしました?)
肩越しに聞いてやろうか。わざわざ聞こえるような声で。
冗談じみた表情を浮かべて、からかうように。
それくらい思うくらいには、しまいこんでいたはずの記憶が、まだ昨夜の余熱のように生々しく胸に香っていた。
だが、言葉にはしなかった。
少しうつむいて紅茶の縁に視線を落とすアランは、
完璧な微笑の奥に、たしかに「動揺」と「抵抗」と、そして“羞恥”を抱いていた。
それが分かってしまうからこそ、レギュラスは自制していた。
敗北を知ったのは、自分の方だ。
あの夜の記憶は、今朝の痛みや羞恥と引き替えにしてなお、たしかに誇れるものだった。
彼女のあらゆる感覚を、確かにこの手で震わすことができた。
けれど、朝になってもまだ屈辱を引きずっているのが自分であることが、なんとも言えず滑稽だった。
アランは、あれほど抱かれた側であるというのに、
朝のこのバランスを、凛と華やかに取り戻そうとしている。
その姿が、困ったことに――たまらなく、美しく見えた。
ふとアランが、遠くから視線に気付いたのか、目を上げた。
ほんの一瞬だけ、視線が交わる。
けれど、すぐに意識的に逸らされる。
その仕草すら愛しくて。
すべてがこっけいで、すべてが愛おしい朝だった。
レギュラスはナイフを手に取り、無言で皿に手を伸ばした。
言葉も挑発も、今日は要らない。
どうせ、仕返しの一手は――
そう遠くないうちに、また夜がやってくるのだから。
朝食が終わり、食器の音が次第に軽やかな片づけの音へと移り変わるころ、
セレナはふわりと背筋を伸ばして椅子から立ち上がった。
そのまま迷いのない足取りで父のもとへと傍らに寄り、
手をそっと耳もとに添えて――
小声で、けれど誇らしげに囁いた。
「お母様、今日すごく綺麗ね」
それは、称賛というよりも“発見”に近い声音だった。
少女らしい、満ち足りた感嘆がそこにはあった。
レギュラスは一瞬だけ視線をアランに向けた。
その姿は確かに――見事だった。
昼下がりの装いとしては過剰とも思える一着なのに、
その華やかさすら自然に着こなしてしまう、アランという人。
首元にかけた控えめな宝石すら、存在の一部に見えるほどだった。
「……ええ、本当にね」
レギュラスは微笑みながら小さく頷いた。
「さすがは“セレナ姫”のお母様だ」
娘の頬が紅潮し、くすぐったそうに笑う。
けれどレギュラスの中を通り抜けた感情は、それだけではなかった。
彼女は確かに美しい。
誰から見てもそうだろう。
けれど――
その美しさが自分の手でどこまでも崩れていく瞬間を知っている、
それをたった一人、知っているということが、信じがたいほどに満たされるのだった。
すっと肩が伸びるような、“誇り”と“所有”にもにた感覚。
どれだけ気高く着飾っても。
その端正な口元が、夜にはどこまでも柔らかく緩んでいくことを、
背を反らし、声を高く、無防備に求めてくれる存在になることを、
誰よりも深く知っている――
その記憶が静かに自信として滲み出し、うっすらと微笑みに変わっていった。
レギュラスは、わざとらしいほどに調子を変えて、声を上げた。
「アラン。今日は……いつもに増して美しいですね」
言葉の行儀は整っていても、
その声の奥に含まれた皮肉と余韻は、確かに昨夜の名残を思わせるものだった。
アランは、スプーンを一度皿の上に置いて、そっとレギュラスを見返した。
目元にわずかな艶、とがめる代わりに、
優雅に仕返すようなほほえみ。
そして、ごく控えめな声で返す。
「あなたも」
その一言に、食卓の空気が一瞬だけ瑞々しく弾けた。
ふたりの視線が絡み、それぞれほんの一秒だけ笑みを堪えるように唇を引いた。
誰も知らない会話。
誰にも見せない温度。
冷えた日に炉を囲むような、
静かで、けれど確かに交わされた“確認”でもあった。
朝という時間が、こうして優雅に微笑むふたりの手の中に収まっていく。
そこに娘がいて、
家族の気配が流れている。
全てが、美しく整いすぎるほどの朝だった。
けれどそこには確かに、
愛と、記憶と、約束が染み込んでいた。
ブラック邸では、夜明けを知らせる鐘の音が静かに響いていた。
けれど、誰よりも長くその名の響きを聞いてきた男にとって、
その響きは冷たい記憶のように胸の奥を叩くだけだった。
――シリウス・ブラック。
ずっと遠ざけたはずの家。
名を捨てたくせに、結局、心のどこかでまだ踏み入れていた時間。
彼は、闇夜のようなコートに身を包み、馬具を手に庭先の柵へ凭れかかったまま、
一通の報せを握りしめていた。
邸に戻った探りの男たちが報せてきた。
今のブラック邸には、複数の令嬢たちが妃候補として日々過ごしていると。
仄かに笑うしかなかった。
そんな家に、アランがいる。
彼女が“誰か大勢の一人”として、屋敷のなかに居並べられていると、
そう思うだけで胃の奥がずしりと重く、荒んだ吐息が抜けていった。
あの人は―― アラン・セシール。
ただ“美しい”だの、“佇まいが優れている”だの、
そんな平凡な言葉では到底括れない人だった。
気高さは刃のようだった。
人の目を伏せさせるような凛とした在り方。
何よりも、彼女は“誇り高くある”ということが、自然に備わった人物だった。
そんな女が、
男に選ばれる「ただの一人」に成り下がっている、などと思いたくなかった。
あのレギュラスのもとで――
あんなにもあやうく、人の心に見ることを恐れ続けた少年の延長が、
果たして彼女に、ふさわしい男であれるのか。
その問いが止まらなかった。
「…… アラン、」
小さく漏れた名は、乾いた夜風に呑まれていった。
その姿を思い出すたび、心はざわついた。
美しく微笑む光景を想像しても、
その隣に別の女たちの気配があるという事実が上書きされてしまう。
(あの人は、選ばれる側にはいない。絶対に)
いつの日も、アランは、唯一でなければならなかった。
声が届かなくとも、姿が見えずとも。
あの人こそ、誰にも代え難い「たったひとつ」だった。
――自分が、あの家にいたなら。
それは、切なくもはっきりとした想像だった。
もしあの運命を自分が背負っていたなら。
父の残した名も、責務も、ぜんぶその胸に抱え込むべきだったのだと。
過去が、選び直せるのならとさえ、思ってしまう。
アラン以外の誰かを、迎えたりはしなかった。
彼女だけを、あの中に立たせていたはずだった。
それが“欲”でしかないと、頭ではわかっている。
今さら悔いても意味はない。
それでも心は、鋭く、ささくれのような悔しさに染まった。
憤りというには静かすぎて、
失望というには愛が深すぎて。
ただ、やるせなさだけが胸に満ちていく。
コートの襟を立てたシリウスの、
影とまなざしだけが夜に長く、伸びていた。
風が静かに、夏の終わりを告げるように吹いていた。
馬車の車窓から遠く連なる山を眺めながら、シリウスは、指先で無意識に窓枠の縁をなぞっていた。
目に映る景色は移ろい、雲が淡くかかる空がまるで遠い夢のようだった。
彼の胸を占めていたのは、ひとつの名前―― アラン。
その名を声に出すことはない。
けれど、心が彼女の名を呼ぶたびに、
胸の奥がきしんだ。
会いたかった。
ただ、その一点に尽きた。
どうしているのか。
ブラック家のなかで、彼女はどんな顔をして立っているのか。
気高く、美しく、凛として――
かつて共に過ごした日のように、あの瞳はまだ澄んでいるのか。
それを確かめずにはいられなかった。
届いてくる噂は、あまりにも淡白なものばかりだった。
第二子を出産してからというもの、社交界にはほとんど姿を見せていない。
彼女がどれほど社交の場で名を馳せていたかを知るシリウスからすれば、
それは静かな異変だった。
想像してしまう――
閉ざされたあの屋敷で、重く冷たい格式のなかに彼女が小さくうずくまっていないかと。
あの眩しさを内に閉じ込めたまま、灯が消えるように、生きてはいないかと。
《こんなにも美しさを知っているのに、目を閉じたまま、声を上げることさえ忘れていくなら……》
ふと、胸の奥がじく、と痛んだ。
かつて確かに、愛を交わした。
その日々のぬくもりの方が、いまの沈黙よりも遥かに短かったのに――
それでも、想いはなお消えていなかった。
年月が流れて、眼差しや声の響きをざらつかせたとしても、
それでも、心の奥にあるアランの姿だけは、何一つ霞まず生きていた。
だからこそ怖かったのだ。
知らないうちに――愛した人が、
自分の記憶に置いてきたその姿から、静かに遠ざかっていくことが。
誰にも見えないところで、
何も語らないまま、小さくなって消えてしまうかもしれない。
そうなってしまったら、
自分は、本当の意味で、彼女を失ってしまう。
窓に手を添える。
その奥――遠い屋敷のどこかに彼女はいる。
息をして、目を開き、おそらく同じ空の下にいる。
それだけを頼りに想いをつないでいくことが、
こんなにも苦しいとは、あの頃知らなかった。
だから今、夢中で会いたいと思った。
この感情が、たとえ遅すぎたのだとしても。
それでも彼女に、もう一度だけ、
陽の下でまっすぐ向き合える日が来ると信じたかった。
――たとえ、その目がすでに泣き疲れていたとしても。
月はまだ昇りきらず、窓際から落ちてくる光は、帳のように淡く伸びていた。
広い応接室のなか、壁にはめ込まれた肖像画たちも今夜ばかりは黙していた。
ヴァルブルガ・ブラックは、無音のまま暖炉前の長椅子に身を沈めていた。
手にしていた古い洋書はすでに開かれて久しいが、視線はその意味をもう読み解いてはいなかった。
指先はページの縁をそっとなぞる。
季節外れの冷え込みでもないのに、胸の奥がじく、と冷えているようだった。
――なぜこの子は、こうも極端なのかしら。
そう、幾度も己の中で繰り返している。
全てを削ぎ落とし、ただアランという女へとまっすぐに向かっていく――その熱と粘り気と頑なさ。
それが“レギュラスの特異な誠意”なのだと理解はしているつもりだった。
けれど、「あの場に招き入れた女たち」の存在が、
最初からなかったことのように扱われているのを見るにつれ、
ヴァルブルガの胸には、名もなき《不安》がゆっくりと積もっていった。
最初の夜。
レギュラスは確かに一人の娘を迎え、ひとつの勤めを果たした。
それだけでも希望だったのだ。
けれど、それっきりだった。
畳まれたままのリネン。
手入れされた香水の小瓶。
それらが、次に使われることがないまま、時間だけが滑っていく。
女を愛するなど、百も承知だった。
正妻として、心の頂きに存在し続けることすら、覚悟していた。
ただ、他に誰も近づく隙を許さないその心根の頑なさが――
ヴァルブルガの予想を、そっと、そして確かに裏切っていた。
確かに自分たちの選んだ女は、申し分のない家柄だった。
セシール家の娘。
気品、知性、たおやかさ。
どれを取っても非の打ち所のない“純血貴族の、理想的な伴侶”。
その選びに、後悔はない。
誇りもある。
けれど……だからといって、あの程度の小さな体に、
レギュラスの心のすべてを持たせ続けるには、あまりにも、脆すぎやしないか。
子を成すためには、確率が必要なのだ。
愛ではなく、継続が。
美しさではなく、数が。
一度だけの子種で、宿るなど甘い奇跡。
それでもう種が成せるなどと、女であれば、誰より分かっている。
アラン――
あの女の瞳を、ヴァルブルガは飽きるほど見てきた。
控えめに笑い、何も言わず、従うように見せて、
鋼のように屈しないまま、あの家の“奥”に居座り続ける女。
強い、と思っていた。
怯まぬ、と思っていた。
けれど――
いまはそれが、恐怖に変わっていた。
レギュラスが、恋するように、妻を見る。
妻である女が、何もかもを差し出さず、ただじっと黙ってそれを受け止める。
静かに、深く、強く。
その均衡から誰も踏み入ることができず、
令嬢たちは、花に触れられぬまま、ただ香りを残しているだけ。
それで、子が宿らなければどうするのか。
この一族は絶えるかもしれぬというのに。
ヴァルブルガは、そっと手にしていた本を伏せる。
レギュラスを恐れたことはない。
けれど、「あの女」に執着する彼の未来を恐れる夜が、今は確かにある。
その静かな恐れが、小さな冷たい針のように、
今日もまた、彼女の胸の奥を刺し続けていた。
ヴァルブルガは重々しくレギュラスを呼び出した。
あの夜の静謐な応接間とは違う、言い逃れのきかない場所だった。
彼女の視線は厳しく、帳面に丁寧に並んだ娘たちの名の上を指先でなぞっている。
「そろそろ、責任を果たすべき時期ではありませんか」
鋭い声音が落とされる。
屋敷に招かれた女たち――彼女たちの思いも、時間も、家の期待も。
全てが今この一言に込められていた。
レギュラスは母の意図をよく理解していた。
最初から、いずれこの話題に切り込まれると覚悟していた。
「たったひとりだけ。
その娘にしか“務め”を果たしていない。
このままでは何も始まらないでしょう?」
ヴァルブルガの言葉と視線は、家の存続と“正しさ”を担う者としての重みがあった。
だが、レギュラスの心にふと、あの朝のバルコニーが蘇る。
澄んだ風、まだ誰もいない夜明け。
そして、アラン。
ワインに酔い、形も崩れ、羞じらいと歓びを全身で受け止めてくれた――
燃え上がるような交わり。
何もまとわぬ、そのすべて。
あの夜以降、自分の中で世界そのものの“基準”が一変していた。
“ただ身体を重ねればいい”“家のために努めればいい”
そんな仕草や論理だけでは、何一つ心が応じなくなってしまった。
あんなにも、心から求められ、
あんなにも、誰の目も届かない場所で、
満ち足りた高みに囚われてしまった自分。
(母上の言いたいことはよく分かる。
でも――
あれほどのものを知った後で、
どうして他の誰かを抱けるだろうか)
レギュラスは、ほんのわずか俯いて黙した。
言いたい言葉すべてを飲み込むかわりに、
指先は無意識に、ポケットの布を握りしめていた。
目の奥には、昨夜のアラン――
その髪、肌、声、すべてを思い出していた。
部屋に微かな静寂が流れる。
ヴァルブルガは、それでも言葉を重ねた。
「繰り返すことが、家の未来を繋ぎます。
個人の情にあまり囚われぬように――それが“長”の務めです」
レギュラスは一歩も動かず、
ただ静かに、けれど抗えぬほど深い熱を胸の内側に抱え直した。
分かっている。
分かっていても、
「アラン」という名を抱いた自分は――
もはや、母の正論を完璧に受け入れる男ではなかった。
自分の欠落も、弱さも、
全て包み込むような炎の一夜を知ってしまったから。
外の窓から、朝のひかりが長く伸びていた。
レギュラスは何も答えず、心の深くで微かな渇きを噛み締めていた。
誰にも語れぬまま――
ただ一人の女への、燃え上がる思いだけが、語らずともそこに在り続けていた。
薄曇りの朝――
屋敷の食堂にはまだ誰の気配もなく、白いクロスと磨かれた銀器が整然と並んでいた。
レギュラスは、ただ喉を潤すために、水差しのあるテーブルへ向かっていた。
日の上がりきらぬ時間、誰とも顔を合わせずに運ばれる数分の静寂が、思いのほか貴重だったから。
だが。
「……レギュラス様」
背後から控えめな声がかかる――
振り返ると、エセル・グレイシア嬢がいた。
ふわりと薄手のローブを羽織り、髪はまだ緩くまとめられたまま。
寝起きの名残のある瞳で、けれど礼儀正しく、微かに会釈をしていた。
レギュラスもまた、無言で軽く頭を下げた。
屋敷でこうして、他人と予期せず顔を合わせることに、未だ馴染めない自分がいる。
ここは“家”としてくつろげるはずの場所で、それが屋敷としての唯一の価値でもある。
それなのに、思いがけず他人と空間を共有させられると、
ふいに居心地が悪くなることがあった。
エセルとの沈黙は、数秒だけ続いた。
「こちら……お使いになりますか?」
エセルが、お盆のうえで揺れたグラスを、そっと差し出してきた。
小ぶりなグラスには澄んだ水が半ばまで注がれていて、
ほんの一口、彼女が飲むにはまだ触れていないもの。
「あ……いえ、ご自分のものでしょう」
レギュラスは一歩視線を外しかけたが――
その瞬間、ふと、アランの言葉を思い出していた。
“その子はね、まだ誰かを好きになったことがないのですって。恋さえも、まだ知らないの。”
そう。
あの子は、この中でいちばん若い。
令嬢たちのなかでも最も幼く、最も無垢で、
そして――心を誰かにまるごと預けるような経験がない少女。
それが、今、自分の前で。
ほんの少しだけそれを“練習”するかのように、グラスを差し出している。
そんな素振りにすら、透けて見える純粋さがあった。
けれど――
果たして自分が、何を教えてやれるのだろうか。
恋。
愛。
言葉にはすべてあるように見えて、その実、自分が知っているのはただひとつ。
アランという女に対してのみ抱いた、
長く、深く、いびつで、燃え尽きそうなくらい強いそれだけ。
他の誰かに向ける心など、自分には持ち合わせがない。
だから――
目の前のこの少女が本当に欲しているものを、
自分は与えてやれる気がしなかった。
けれど。
エセルは、ただそっとグラスを差し出し、微笑む。
それは媚でもなく、期待でもなく、
ほんのわずかな「親しみの入口」にすぎなかった。
多分、彼女はまだ「好意」を知らない。
ただ、昨日より一手ふみだしてみようとしただけ。
レギュラスは黙ってその手からグラスを受け取った。
指が少しだけ触れ合った。
彼女の小さな指先が、ひどく冷たくて、くすぐったかった。
一口、静かに水を喉に流す。
まるで曖昧に、接点をすべて洗い流すかのように。
「……ありがとう」
言葉だけは、きちんと返した。
けれど目を合わせることはなかった。
そして、まるでそれで満足したかのように、エセルもまた小さく頭を下げて、
静かに席へと戻っていった。
残された水の余韻だけが、舌の奥に透明に残っていた。
愛を教えるには、まだ遠い。
けれど――その手前にある、この素直さ。
踏み込みかけた無垢な感情を、
つい、守ってやりたくなるのは事実だった。
たとえそれが、自分では叶えられないものだったとしても。
水を飲みに降りた食堂からの帰り道。
階段をゆるやかに上ってゆく足取りは、今日に限って際立って鈍かった。
静けさを求めたはずのこの家は、
今やどこを歩いても、人の気配に満ちている。
使用人の足音、娘たちの談笑、庭のどこかで響くピアノの音――
まるで屋敷そのものが、誰かの息遣いで常にざわついているようだった。
あと数段で踊り場に差し掛かろうというとき、
階段の反対側から、人影が現れた。
フィロメーヌ・モンターニュ――。
ぱたりと、一瞬空気がずれる。
「レギュラス様」
屈託のない、それでいて控えめに抑えた声。
鮮やかなカーネーション色のローブに身を包み、整った姿勢で、フィロメーヌは深く礼をした。
その表情に笑みはあったが、
あくまで“礼節”の域を越えぬところにとどまっている。
にこやかではあるが、意図的に揺らぎのない微笑み。
レギュラスも、それに倣うようにほんのわずか顎を引いて会釈を返した。
形式的な動作。感情の波を映さない、整った動きだった。
それ以上、言葉は続かなかった。
その隣に、アランがよくいたことを思い出す。
テラスで、廊下で、あるいは応接の一角で。
レギュラスの知らない、アランの笑い声があの女の傍にあった。
遠慮も、抑制もない、柔らかく吹きこぼれるような笑い声。
自分といるときには見せたことのないような、自由に近い表情だった。
それが、どこかひどく、ひっかかる。
一言では語りきれぬ感情が、うっすらと胸の奥をかき乱す。
それを“嫉妬”だと名付けるには、あまりに情けない。
けれど、それ以外の言葉で置き換えようのない、ざらつきがそこにあった。
本来であれば、この屋敷はもっと静かであるはずだった。
望んでそう築いてきたはずだった。
なのに、気づけば誰かの笑い声や匂いや、気配に満ちていて――
落ち着けるはずの場所が、なぜか、どこにも見当たらない。
ため息が喉の奥まで上ってきたが、
レギュラスはそれを飲み込んだ。
「お身体にお気をつけて」
そう言って、フィロメーヌがすっと道を譲る。
「……どうも」
短く返し、レギュラスは黙ってすれ違った。
軽やかな足音が階下へと遠ざかっていく間、
レギュラスは一度も振り返らなかった。
けれど耳の奥では、まだアランの“知らぬ笑い声”が、
風のように残っていた。
バルコニーの欄干には、まだ温もりを宿す陽の名残がわずかに残っていて、そこに並んで立つふたりの影を、夜の灯がやさしく縁取っていた。
アランは珍しく、薄く琥珀色に沈んだ酒のグラスを指先で揺らしていた。
レギュラスは今日は遅くなる――そう聞かされていたから、今夜だけはほんの少し、自分に小さなゆるやかさを許してもいい気がしていた。
薄手のショールを肩に羽織ったまま、アランはカロリーナの横に並んで立っていた。
視線の先には夜の庭。月光が葉のあいだを伝って広がっている。
ふたりのグラスが、静かに触れ合う。
「奥様からこんな素敵なお酒をいただけるなんて……光栄ですわ」
カロリーナが言うその声は、程よく酒にほぐれながらも、品を失わない温かみを帯びていた。
グラスの縁を見つめながら彼女は、微笑に似た感謝の眼差しをアランに向けた。
アランもまた、口元をふっと緩めて小さく笑った。
目元には風のような優しさが宿っていた。
「私のほうこそ……娘に、あんなにも丁寧にルーン語を教えてくださって。感謝してもしきれないくらい。ありがとうございます」
その一言には、過不足のない誠意があった。
思えば、こんなふうに自ら手を差し出し、近づこうとしたのは、久しぶり――
いや、もしかすると“初めて”だったかもしれないとアランは思った。
「導かれる役」として、女性たちを受け入れることはできても、
自分から「歩み寄る」ということが、これほど自然に果たせる日が来るとは思っていなかった。
けれど、目の前にいるカロリーナは、
娘セレナに対しても、決して形式ではなく愛情ある接し方を続けてくれていた。
その姿に、心の蓋がそっと開いていたのかもしれない。
風がそっと頬を撫でる。
「セレナがあなたの話をいつも楽しそうに聞いているの。最近は発音まで注意するようになって、私にはもうとても真似できないわ」
「まぁ、あの子は本当に覚えが早いですもの! 何より、学ぼうとする姿勢がまっすぐで、教える側まで背筋が伸びるんですのよ」
声に花が咲くようだった。
笑い合うふたりの間に、もう“夫を共有する関係”というような肩書きはなかった。
そこにあるのは、ただ小さな感謝と、共有されたあたたかい時間だけだった。
アランはグラスのなかの揺れる琥珀をひと口、静かに味わう。
心だけでなく、身体の奥までじんわりと広がるぬくもり。
月明かりの下でふわりと笑った自分の表情が、こんなにも自然で、穏やかでいられることが、なにより奇跡のようでもあった。
「変わったのね、私……」
内側でそっとそう呟いた。
長い時間を重ねてなお、自分の中にまだこうして“優しさを分ける手”があるとは思わなかった。
けれどその気づきが、どこか静かな誇りのように胸の奥に灯っていた。
夜の風がまたひとつ、そっとふたりの髪を揺らした。
沈黙は静かで心地よく、
その場にあったのは、ただ美しく、穏やかな夜の記憶だった。
夜風がぬるく湿りはじめる頃、バルコニーには月の光とランプの煌めきがやわらかに重なっていた。
冷え切ることのない初夏の風のなか、アランは椅子に深く身を預けていた。
指先には、残りわずかになったワインのグラス。
軽やかに笑っていたつもりが、ふと頬を熱く感じる。
胸の奥から立ちのぼるゆるやかな酩酊——
夕食をろくに取らなかったからだろう。
だから、この身体の奥まで染みていく熱も、自分では少し持て余していた。
その空気を破ったのは、ふいの足音だった。
想像よりもずっと早く届いたその音に、カロリーナが先に気づいた。
自ら口に含んでいた最後の一滴をそっとテーブルに置くと、彼女は慌てて立ち上がる。
「ご主人様……お帰りなさいませ。」
白い袖が小さく揺れながら、礼儀正しく一礼されるその視線の先には、レギュラスの姿。
暗がりの廊下から現れ、バルコニーの枠内へ足を踏み入れる彼の表情は、読めないほど静かだった。
その気配に、アランもようやく肩越しにゆるやかに振り返った。
視線を合わせるでも、すぐに言葉を返すでもなく、
ただ少しだけ首を傾けて、酔ったままの微笑を口元に浮かべる。
目元は柔らかく、焦点の揺らぎがわずかに見えた。
レギュラスは立ち止まり、重たくない問いをひとつだけ投げる。
「……飲んでるんですか?」
言葉の奥に詰問の響きはなかった。
ただ、意外そうな気配と、どこか確かに滲む興味。
それでもアランは、それに真っ直ぐには応えない。
「……ふふ」
肩を小さく揺らして、ただ口角だけをすこしだけ高く引いた。
返事にならない返事。
けれどその様子から、レギュラスにも答えはすぐに伝わった。
月明かりが、アランの髪を淡く照らす。
ほつれた前髪が頬にかかるのを気にもせず、彼女は静かに空を見上げていた。
レギュラスは何も言わず、その様子を一瞬だけ見つめてから、
小さく息を吐くように歩を進める。
テーブルに残されたワインのグラスと、飲み干されたアラン側の空のグラス。
そして風にさらさらと揺れているアランのショール。
全てが、どこか夢の中に落ちかけているような光景だった。
夜は深くなり、
まだ何も始まっていないのに、
そこに在る空気だけが、とても静かに熱を帯び始めていた。
月が高く昇り、空気がうっすらと金の粉をまいたように澄んでいた。
レギュラスが屋敷へ戻ったのは、思いのほか早い時間だった。
今日に限って進捗が順調で、任務が延びることはなかった。
誰かに知らせるでもなく、いつもの足取りで屋敷に入ると、使用人の誰もがどこか驚いたような顔をしていた。
それだけ、自分の早い帰宅は珍しかった。
バルコニーへと続く廊下の静けさに、ふと、違和を覚えた。
誰かの微かな笑い声。
耳をすませば、水のようにゆらぐ声色が重なっている。
そして、ランプの光に少し透けたカーテンの奥からは、
アランのシルエットが見えた。
バルコニーに足を踏み入れた瞬間、鼻をくすぐるのは、淡く辛口の赤ワインの香り。
その香りが、ここにふたり分以上の色濃さを纏っていることに、すぐ気づいた。
グラスの一つは、すでに空に近く。
瓶の中には、あとほんの一滴、というほどしか残っていなかった。
視線を向けた先のアランは、緩やかに口角を上げて――
けれど普段とは違う、わずかに火照った頬と、下がった目尻が、その酩酊の証をやさしく物語っていた。
彼女は、滅多に自分から飲まない人だった。
誰かの隣に寄り添って、一緒に軽く口をつける程度の人。
なのに今ここにいるアランは、明らかに“酔っていた”。
隣にいたのは、ルーン語をよく語るあの令嬢――カロリーナだった。
足音に気づいた彼女は、すぐに立ち上がり、緊張と焦りの間で姿勢を正した。
グラスを持ったままでは失礼かと、一瞬迷いを宿した手付き。
羞じるように視線を伏せ、あたたかな気遣いがそのまま動作に出ている。
そんな彼女に対し、レギュラスはゆっくりと視線を向けたあと、
ごく短く、けれど丁寧に言葉を下ろした。
「……すみません」
声はやわらかかった。
怒りも苛立ちも込められてはいなかった。
それは責めでも謝罪でもなく、ただ、
“こんな時間まで無理をさせてしまった”という大人としての礼節、
そしてひとりの男として――
「この場に立ち会ってしまったこと」への微かな想いを含んでいた。
カロリーナは何も言わず、深く頭を下げた。
そのまま控えめにグラスを置き、静かに場を辞した。
残されたのは、レギュラスと、
あたたかく微笑むだけのアランだった。
けれどその笑みには、はっきりとした理屈などなかった。
ただ、酔いにやさしく溶けて、
静かに風の中でまどろんでいるような――
久方ぶりに、何かからゆるされている表情だった。
戸惑いと安堵の間、レギュラスはただ、
その姿を見つめることしかできなかった。
グラスの音も沈黙も、
今夜だけは、どこか温かく許された夜風に、滲んで消えていった。
バルコニーには夜の香りが濃く漂っていた。
遠く星の瞬きすら霞むほどに、空は深く、藍に沈み込んでいる。
風は緩やかに葉を揺らし、ランプにともされたオイルの火が静かに灯っていた。
その柔らかな黄金の光の下、椅子にもたれて微笑むアランは、いつになく――いや、かつて見たことがないほどに、美しかった。
酒の紅が、彼女の頬にほのかに赤みをにじませ、
その影が目元や首筋、晒けた鎖骨へと、静かに影を落としている。
ひとつひとつの仕草が、酔いに柔らかく解かれて。
グラスに触れる指先の水気すらも瑞々しく、
口元の弧が、いつもより深く綻んでいて。
その微笑みがまとう艶やかさに、レギュラスの感覚ごと静かに鋭くなった。
――まるで、その酔いに自分までもが侵されているようだった。
心より先に、身体が惹き寄せられてゆく。
理性が追いつくよりも早く、彼はそっとその唇を奪った。
口づけの奥に広がったのは、熟れた赤ワインの香り。
酔いと熱を含んだその味が、アランの唇からわずかに溶け出していた。
余韻を探るようにして、レギュラスはアランの口角に指を添え、親指の腹で、なぞる。
思いがけず、それにアランはふわりと笑い――
次の瞬間、その親指に、軽やかに歯を立てた。
その小さな反応が、まるで火種だった。
脳裏に焼きつく、吐息の深さと、熱。
ただそれだけで、全身の理性という理性が崩れ落ちていった。
「……よりにもよって、なんで……こんなところで……」
愚痴のような声が、熱の合間に吐かれた。
けれど、怒りではなかった。
責めたくなるくせに、どうしようもなく彼女に抗えない――そんな苦々しくも幸福な苛立ちだった。
整えられたランタンも小さなサイドテーブルも、このバルコニーには、安らぐための美しさしかない。
なのに今となっては、それら全てが、“彼女と交わってしまうには不便すぎる”と、笑えるほど不都合だった。
けれど、もう止まることはなかった。
背を支えるのもやっとな椅子の上で、アランの背中がきしりと軋む。
「痛いわ……背中……」
うっすらとかすれた抗議。
けれど声に怒りはなく、言葉ごとじんわりと甘かった。
酔っているせいだと分かっていても、それが、どこまでも素直で――
どこまでも可愛かった。
アランは、与えられるもの全てを、何一つ拒まず受け取った。
惜しまず、隠さず、身も心も――
その指先すら、レギュラスを拒まないばかりか、絡めるように引き寄せる。
耳元でこぼれる浅く潤んだ声、
蕩けそうな目の奥に映るのは自分だけ。
揺れる睫毛さえ、光沢を帯びていた。
視線で悦びを伝え、指先で答え、
声で、鼓動で、全ての感覚で―― アランはレギュラスを満たしてくれた。
こんなふうに、誰かひとりのために存在してくれる人間が、この世に本当にいるのだと。
彼女のあらゆる部分が、ただ“自分だけ”を悦ばせるためにあるようだった。
夜の風が頬をかすめるたび、ひとつまたひとつと、残った理性の破片が彼方に消える。
そして、ふたりきりの影を夜がやさしく抱え込んでいった。
バルコニーの狭ささえ、このときばかりはただの愛の舞台だった。
彼女の髪がほどけ、空に浮かぶ星のひとつが、
ゆっくりとその上を横切っていったのを、レギュラスは見た。
ただ一瞬、永遠に似た、火花のような夜だった。
薄曇りの朝が、静かに世界を照らし始めていた。
バルコニーの欄干を濡らす朝露が、葉の先で丸く光を弾き、
そのひとつひとつが、まるで夢からの覚め際を告げるための儀式のように、やさしく揺れている。
アランは、微かな鳥の声と共にうっすらと目を覚ました。
頬をなぞる冷たい風が、寝ぼけた意識にゆっくりと現実を引き戻す。
……冷たい?
……硬い?
ゆっくりと顔をあげて、自分がまだバルコニーにいることに気づいた瞬間、
アランの身体は本能的に浅く震えた。
薄手のショールが肩からずり落ち、夜の余熱に任せたまま眠ってしまった自分の姿がそこにある。
足元には乱れた裾、首元には開いた襟、腕には軽く擦れた跡まで。
ありえないほど――はしたない。
「……っ……」
口元を手でおさえながら、アランは身を起こした。
その動きすら、この場で自分が置かれている状況を引き写していくようで、
羞恥が全身を包むのに、数秒も要らなかった。
隣の椅子では、レギュラスがぐったりと身を預けて眠っている。
手にはかろうじて羽織られた、しわくちゃのローブ。
首のボタンは開いたままで、露わな襟元からは肌が覗いていた。
目の下に淡く影を宿して、それでも安らかな息をしているその姿は、
たしかに昨夜、アランがこの世界で最も深く沈み込んだ相手だった。
昨夜――
記憶が、波のように蘇ってくる。
触れられた肌の熱。
こぼれた声。
絡まった髪と手と指先。
なぜこんな場所で。
どうして、自分は。
息が詰まる。
思い出すたび、耐え切れないほどの羞恥に打ち震えた。
…………外だった。
屋内ではない。
天井ではなく空の下。
ランタンだけを灯した、夜のバルコニー――しかも、二人分の声があれほど長く交わされていた。
“消えてしまいたい……”と、小さく心のなかで呟いた。
それほどまでに、アランの中の羞恥は深く、
とても、他者に顔を向けられる状態ではなかった。
快楽の記憶は確かに甘やかだった。
けれどいまのアランにとっては、それがむしろ刃のように胸に突き刺さっていた。
あんなにも深く、無防備な自分を、
ああ――レギュラスは、一晩中、隣で見ていたのだ。
それを思っただけで、顔から火が出そうだった。
アランはそっとショールを胸に引き寄せ、身体を丸める。
それでも風は髪を撫で、露のきらめきが夜のあとを飾るようにして残っている。
目を伏せて、少しだけ、涙に似た熱が瞼の奥に滲んだ。
羞恥、名残、狂おしいほどの快楽と、
それでも変わらずに訪れる朝。
すべてを受け入れなければならないのなら――
まずは、この身の火照りを、ゆっくりと鎮めるしかなかった。
息を、吸う。
夜明けの空気の冷たさが、痛いほどによく心に染みた。
朝の光がしんと冷えている。
夜が確かに過ぎ去ったことを、光の硬さと静けさが教えてくれる。
まだ誰も起きていない――そう信じたくなるほど、屋敷は確かに静かだった。
アランはバルコニーでそっと立ち上がった。
木の床がほんの少し軋む。その音が、この上なく大きく響く気がして息を止める。
膝に絡まるショールを静かに落とし、ぐしゃぐしゃになった髪を耳にかけると、
風の中に残る夜の匂いがふと鼻をかすめた。
それがあまりにも記憶を引っ張り込んでくるので、思わず目を逸らした。
――もう、考えない。
今は、考えたくない。
このことを、誰にも察されたくないと思った。
あの令嬢たちにも。
オリオンやヴァルブルガに、ましてや実の息子や娘になど、絶対に。
この家の誰の視線にも触れさせたくなかった。
こんな“行為の痕跡”が、自分にあるなど知られてはいけないと思った。
(年甲斐もなく……私は……)
本心から、そう呟いていた。
思い返せば昨夜の自分は、愚かしくも真っ赤に燃え上がった魔法石のようだった。
抑えられない衝動と快楽の渦に、何度も巻き込まれた。
まるで――未成年の魔法使いが、はじめて愛の行為の真髄を知ったかのような、
そんな大胆で、はしたなくて、理性のかけらもない時間だった。
そして目の前には。
レギュラスがいる。
椅子にもたれかかり、はだけたシャツとしわくちゃのローブに身を包んだまま、ぐっすりと寝息を立てていた。
この男が。
自分を。
あんなにも――何度も、高みに連れていったのだ。
とても、“抱かれた”というだけでは済まない。
すべてを、侵されたようだった。
そして今のこの静けさの中で、なにひとつ責任を負わずに眠っているその姿に、
アランは抗議したくなるほどの怒りを感じていた。
けれど、それ以上に――悔しかった。
こんなにも感じて、求めて、応えて、乱れて。
終わったあとになって、自分だけが打ちのめされたような後悔と羞恥に包まれて、
相手はその記憶すら温かいまま抱いて眠っているなんて。
(……恥ずかしい思いでもしたらいいのに)
アランはふいに、そんなことを思った。
誰かにバルコニーで発見されて、しどけない姿を見られたらいい。
恥ずかしくて顔を上げられないような思いを、せめて一度くらい味わってほしい。
そうでもなければ――
自分が目覚めた瞬間に飲み込まれたこの羞恥と衝撃と後悔と……
その釣り合いがあまりに取れない気がした。
アランは、ひとつ深呼吸をして立ち上がった。
ゆっくりと、音を立てずにバルコニーを抜け、
薄布のカーテンを滑るようにくぐり抜ける。
廊下を歩きながら一度も振り返らなかった。
自室に戻ると、召使いはまだ誰ひとり起きていなかった。
その間隙に、アランは淡々と衣を脱ぎ、湯を使い、髪を結い直した。
着ていた寝間着は、もう取り戻せない記憶のように静かに片づけられていく。
そして、選んだ衣装は――
いつにも増して華やかなものだった。
深いブルーに銀糸の刺繍がほどこされた、端正で美しいルームドレス。
昼日中に着るにはわずかに主張のある装い。
だが、それでよかった。
昨日の夜など、なかったように。
今この朝の自分は、何事も知らず隠しとおせるように。
レギュラス・ブラックに、完膚なきまで奪われた女などではなく。
毅然と、日常の中に立つ、“奥方”としての顔へと、アランは自らを戻していった。
鏡のなかの自分に、そっと眉を引いて微笑んだ。
そして、言葉なく静かな足音で、階下へと歩き出した。
東の空にはすでに陽が昇り始めていて、朝の光がゆるやかにバルコニーの隅から差し込んでいた。
柔らかな風がカーテンを揺らし、冷えた空気と共に屋敷の目覚めを告げている。
遠く、使用人たちの食器を触る音が聞こえた。
銀のナイフが皿に当たる微かな音、その間を縫うように漂う焼きたてのパンや薄紅茶の香り。
――レギュラスは、ふっと目を開いた。
意識がまだ完全には戻らず、薄さの中を彷徨いながら、身体を少し動かす。
背にもたれた椅子の固さがじわりと伝わったとき、脳裏は一気に昨夜の記憶へと引き戻された。
昨夜――
あの激しさ。
あの熱。
そして、アランの声――。
信じられないほど、満たされていた。
レギュラスは、ため息のような息を吐いた。
あれほどまでに彼女から「求められた」夜は、かつてなかった。
いつもどこか遠慮深く、指先で測るようにしか己を委ねない彼女が、
あの夜はまるで抑えをなくしたかのようにしがみついて、
声をあげ、指を入り組ませ、自分の存在に溶けこんでくれた。
――酒、という道具がその心をほどいたのなら。
“飲まれるな”と言われるその魔法の液体に、
今夜だけは感謝してもいいと思った。
世界でいちばん幸せな男になったんだ――そんな気さえした。
けれど、その甘やかな記憶をふわふわと思い返すうちに、
背中に走る鈍い痛みが、現実を容赦なく呼び戻した。
(……イテ……)
動くと腰が悲鳴を上げる。
足をひきずるようにして椅子から立ち上がった瞬間、
思わず呻き声が漏れそうになるのを咄嗟に喉の奥で噛み殺した。
バルコニー用の椅子で眠るなど、そもそも正気ではなかった。
だがその正気を吹き飛ばしたのは、紛れもなく昨夜のアランだった。
体の節々が痛む。
けれど――心地よい後悔だった。
……少なくとも、バルコニーを出るまでは。
バルコニーの扉を開けて、そのままヨロヨロと室内へと足を踏み入れる。
カーペットの上に降ろした足音が鈍く響く。
使用人たちが朝食の支度を進めていた。数人の若い女と、一人の年配の男が手を止めて、
“信じられないものでも見たかのような静けさ”でレギュラスの姿を見た。
はだけたシャツ。
しわくちゃのローブが片方だけに落ちかけ、
ズボンは……ファスナーが開いたまま。
――完璧にやってしまっていた。
その視線が、痛い。
耐えられないほど、痛い。
「……そんなにジロジロ見ないでもらっていいですか」
喉は掠れ、声は出さなかったが、
心中ではそこにいた全員に苛立ちと恥じらいが混ざった怒鳴り声を投げていた。
逃げるようにして廊下へと向かう足が不安定になりながらも、
振り返ることは決してできなかった。
――さっきまで、あれほど誇らしく“世界で一番幸せな男”だったというのに。
一転して、消えてしまいたいほどの屈辱。
ほんの数時間で、暖色の夢は現実に踏み砕かれる。
けれどそれすら、どこかアランらしい。
今朝のアランに、
きっと怒りさえ抱く余裕すらなかったのだろう――その静けさに、
レギュラスは痛みと愛おしさの間に立たされることになる。
しっかり閉ざされた寝室の扉が、
今はどれだけ重く感じられることかと思いつつ、
レギュラスはふらつく足で階段の影へと消えていった。
まるで“朝の勝者”が自分ではなかったことを、
痛感するように。
朝の食卓には、陽が高く上らぬうちから整えられた白いクロスと、銀の食器。
ほんのり温められた紅茶、焼きたてのパンの香ばしさが広がっている。
けれどその空間にいつもあるはずの“穏やかさ”には、どこか微かな緊張のような線が走っていた。
いつもならレギュラスの正面に座るはずのアランは、
今朝に限って、テーブルの端――なるべく遠く、まるで会話の届かない距離にそっと坐していた。
朝の光を受けてきらりと反射する彼女のドレスは、驚くほど華やいでいて、
まるで午前の控えめな時間のなかに、ひときわ強い彩りを添えていた。
深い藍に微細な銀糸の刺繍が流れ、すでに真昼の顔をしていた。
化粧も、あまりに整いすぎていた。
目元は涼しく、唇はきっちりと艶を差され、髪は首元できゅっと結いあげられ――
そこにいる彼女は“夜を忘れようとしている”と、誰よりもはっきりと語っていた。
レギュラスは、それを見ても歯痒さや苛立ちを覚えることは、不思議とまるでなかった。
むしろ――
内心、笑いそうになるのを飲み込んでいた。
(そんなに着飾って、どうしました?)
肩越しに聞いてやろうか。わざわざ聞こえるような声で。
冗談じみた表情を浮かべて、からかうように。
それくらい思うくらいには、しまいこんでいたはずの記憶が、まだ昨夜の余熱のように生々しく胸に香っていた。
だが、言葉にはしなかった。
少しうつむいて紅茶の縁に視線を落とすアランは、
完璧な微笑の奥に、たしかに「動揺」と「抵抗」と、そして“羞恥”を抱いていた。
それが分かってしまうからこそ、レギュラスは自制していた。
敗北を知ったのは、自分の方だ。
あの夜の記憶は、今朝の痛みや羞恥と引き替えにしてなお、たしかに誇れるものだった。
彼女のあらゆる感覚を、確かにこの手で震わすことができた。
けれど、朝になってもまだ屈辱を引きずっているのが自分であることが、なんとも言えず滑稽だった。
アランは、あれほど抱かれた側であるというのに、
朝のこのバランスを、凛と華やかに取り戻そうとしている。
その姿が、困ったことに――たまらなく、美しく見えた。
ふとアランが、遠くから視線に気付いたのか、目を上げた。
ほんの一瞬だけ、視線が交わる。
けれど、すぐに意識的に逸らされる。
その仕草すら愛しくて。
すべてがこっけいで、すべてが愛おしい朝だった。
レギュラスはナイフを手に取り、無言で皿に手を伸ばした。
言葉も挑発も、今日は要らない。
どうせ、仕返しの一手は――
そう遠くないうちに、また夜がやってくるのだから。
朝食が終わり、食器の音が次第に軽やかな片づけの音へと移り変わるころ、
セレナはふわりと背筋を伸ばして椅子から立ち上がった。
そのまま迷いのない足取りで父のもとへと傍らに寄り、
手をそっと耳もとに添えて――
小声で、けれど誇らしげに囁いた。
「お母様、今日すごく綺麗ね」
それは、称賛というよりも“発見”に近い声音だった。
少女らしい、満ち足りた感嘆がそこにはあった。
レギュラスは一瞬だけ視線をアランに向けた。
その姿は確かに――見事だった。
昼下がりの装いとしては過剰とも思える一着なのに、
その華やかさすら自然に着こなしてしまう、アランという人。
首元にかけた控えめな宝石すら、存在の一部に見えるほどだった。
「……ええ、本当にね」
レギュラスは微笑みながら小さく頷いた。
「さすがは“セレナ姫”のお母様だ」
娘の頬が紅潮し、くすぐったそうに笑う。
けれどレギュラスの中を通り抜けた感情は、それだけではなかった。
彼女は確かに美しい。
誰から見てもそうだろう。
けれど――
その美しさが自分の手でどこまでも崩れていく瞬間を知っている、
それをたった一人、知っているということが、信じがたいほどに満たされるのだった。
すっと肩が伸びるような、“誇り”と“所有”にもにた感覚。
どれだけ気高く着飾っても。
その端正な口元が、夜にはどこまでも柔らかく緩んでいくことを、
背を反らし、声を高く、無防備に求めてくれる存在になることを、
誰よりも深く知っている――
その記憶が静かに自信として滲み出し、うっすらと微笑みに変わっていった。
レギュラスは、わざとらしいほどに調子を変えて、声を上げた。
「アラン。今日は……いつもに増して美しいですね」
言葉の行儀は整っていても、
その声の奥に含まれた皮肉と余韻は、確かに昨夜の名残を思わせるものだった。
アランは、スプーンを一度皿の上に置いて、そっとレギュラスを見返した。
目元にわずかな艶、とがめる代わりに、
優雅に仕返すようなほほえみ。
そして、ごく控えめな声で返す。
「あなたも」
その一言に、食卓の空気が一瞬だけ瑞々しく弾けた。
ふたりの視線が絡み、それぞれほんの一秒だけ笑みを堪えるように唇を引いた。
誰も知らない会話。
誰にも見せない温度。
冷えた日に炉を囲むような、
静かで、けれど確かに交わされた“確認”でもあった。
朝という時間が、こうして優雅に微笑むふたりの手の中に収まっていく。
そこに娘がいて、
家族の気配が流れている。
全てが、美しく整いすぎるほどの朝だった。
けれどそこには確かに、
愛と、記憶と、約束が染み込んでいた。
ブラック邸では、夜明けを知らせる鐘の音が静かに響いていた。
けれど、誰よりも長くその名の響きを聞いてきた男にとって、
その響きは冷たい記憶のように胸の奥を叩くだけだった。
――シリウス・ブラック。
ずっと遠ざけたはずの家。
名を捨てたくせに、結局、心のどこかでまだ踏み入れていた時間。
彼は、闇夜のようなコートに身を包み、馬具を手に庭先の柵へ凭れかかったまま、
一通の報せを握りしめていた。
邸に戻った探りの男たちが報せてきた。
今のブラック邸には、複数の令嬢たちが妃候補として日々過ごしていると。
仄かに笑うしかなかった。
そんな家に、アランがいる。
彼女が“誰か大勢の一人”として、屋敷のなかに居並べられていると、
そう思うだけで胃の奥がずしりと重く、荒んだ吐息が抜けていった。
あの人は―― アラン・セシール。
ただ“美しい”だの、“佇まいが優れている”だの、
そんな平凡な言葉では到底括れない人だった。
気高さは刃のようだった。
人の目を伏せさせるような凛とした在り方。
何よりも、彼女は“誇り高くある”ということが、自然に備わった人物だった。
そんな女が、
男に選ばれる「ただの一人」に成り下がっている、などと思いたくなかった。
あのレギュラスのもとで――
あんなにもあやうく、人の心に見ることを恐れ続けた少年の延長が、
果たして彼女に、ふさわしい男であれるのか。
その問いが止まらなかった。
「…… アラン、」
小さく漏れた名は、乾いた夜風に呑まれていった。
その姿を思い出すたび、心はざわついた。
美しく微笑む光景を想像しても、
その隣に別の女たちの気配があるという事実が上書きされてしまう。
(あの人は、選ばれる側にはいない。絶対に)
いつの日も、アランは、唯一でなければならなかった。
声が届かなくとも、姿が見えずとも。
あの人こそ、誰にも代え難い「たったひとつ」だった。
――自分が、あの家にいたなら。
それは、切なくもはっきりとした想像だった。
もしあの運命を自分が背負っていたなら。
父の残した名も、責務も、ぜんぶその胸に抱え込むべきだったのだと。
過去が、選び直せるのならとさえ、思ってしまう。
アラン以外の誰かを、迎えたりはしなかった。
彼女だけを、あの中に立たせていたはずだった。
それが“欲”でしかないと、頭ではわかっている。
今さら悔いても意味はない。
それでも心は、鋭く、ささくれのような悔しさに染まった。
憤りというには静かすぎて、
失望というには愛が深すぎて。
ただ、やるせなさだけが胸に満ちていく。
コートの襟を立てたシリウスの、
影とまなざしだけが夜に長く、伸びていた。
風が静かに、夏の終わりを告げるように吹いていた。
馬車の車窓から遠く連なる山を眺めながら、シリウスは、指先で無意識に窓枠の縁をなぞっていた。
目に映る景色は移ろい、雲が淡くかかる空がまるで遠い夢のようだった。
彼の胸を占めていたのは、ひとつの名前―― アラン。
その名を声に出すことはない。
けれど、心が彼女の名を呼ぶたびに、
胸の奥がきしんだ。
会いたかった。
ただ、その一点に尽きた。
どうしているのか。
ブラック家のなかで、彼女はどんな顔をして立っているのか。
気高く、美しく、凛として――
かつて共に過ごした日のように、あの瞳はまだ澄んでいるのか。
それを確かめずにはいられなかった。
届いてくる噂は、あまりにも淡白なものばかりだった。
第二子を出産してからというもの、社交界にはほとんど姿を見せていない。
彼女がどれほど社交の場で名を馳せていたかを知るシリウスからすれば、
それは静かな異変だった。
想像してしまう――
閉ざされたあの屋敷で、重く冷たい格式のなかに彼女が小さくうずくまっていないかと。
あの眩しさを内に閉じ込めたまま、灯が消えるように、生きてはいないかと。
《こんなにも美しさを知っているのに、目を閉じたまま、声を上げることさえ忘れていくなら……》
ふと、胸の奥がじく、と痛んだ。
かつて確かに、愛を交わした。
その日々のぬくもりの方が、いまの沈黙よりも遥かに短かったのに――
それでも、想いはなお消えていなかった。
年月が流れて、眼差しや声の響きをざらつかせたとしても、
それでも、心の奥にあるアランの姿だけは、何一つ霞まず生きていた。
だからこそ怖かったのだ。
知らないうちに――愛した人が、
自分の記憶に置いてきたその姿から、静かに遠ざかっていくことが。
誰にも見えないところで、
何も語らないまま、小さくなって消えてしまうかもしれない。
そうなってしまったら、
自分は、本当の意味で、彼女を失ってしまう。
窓に手を添える。
その奥――遠い屋敷のどこかに彼女はいる。
息をして、目を開き、おそらく同じ空の下にいる。
それだけを頼りに想いをつないでいくことが、
こんなにも苦しいとは、あの頃知らなかった。
だから今、夢中で会いたいと思った。
この感情が、たとえ遅すぎたのだとしても。
それでも彼女に、もう一度だけ、
陽の下でまっすぐ向き合える日が来ると信じたかった。
――たとえ、その目がすでに泣き疲れていたとしても。
月はまだ昇りきらず、窓際から落ちてくる光は、帳のように淡く伸びていた。
広い応接室のなか、壁にはめ込まれた肖像画たちも今夜ばかりは黙していた。
ヴァルブルガ・ブラックは、無音のまま暖炉前の長椅子に身を沈めていた。
手にしていた古い洋書はすでに開かれて久しいが、視線はその意味をもう読み解いてはいなかった。
指先はページの縁をそっとなぞる。
季節外れの冷え込みでもないのに、胸の奥がじく、と冷えているようだった。
――なぜこの子は、こうも極端なのかしら。
そう、幾度も己の中で繰り返している。
全てを削ぎ落とし、ただアランという女へとまっすぐに向かっていく――その熱と粘り気と頑なさ。
それが“レギュラスの特異な誠意”なのだと理解はしているつもりだった。
けれど、「あの場に招き入れた女たち」の存在が、
最初からなかったことのように扱われているのを見るにつれ、
ヴァルブルガの胸には、名もなき《不安》がゆっくりと積もっていった。
最初の夜。
レギュラスは確かに一人の娘を迎え、ひとつの勤めを果たした。
それだけでも希望だったのだ。
けれど、それっきりだった。
畳まれたままのリネン。
手入れされた香水の小瓶。
それらが、次に使われることがないまま、時間だけが滑っていく。
女を愛するなど、百も承知だった。
正妻として、心の頂きに存在し続けることすら、覚悟していた。
ただ、他に誰も近づく隙を許さないその心根の頑なさが――
ヴァルブルガの予想を、そっと、そして確かに裏切っていた。
確かに自分たちの選んだ女は、申し分のない家柄だった。
セシール家の娘。
気品、知性、たおやかさ。
どれを取っても非の打ち所のない“純血貴族の、理想的な伴侶”。
その選びに、後悔はない。
誇りもある。
けれど……だからといって、あの程度の小さな体に、
レギュラスの心のすべてを持たせ続けるには、あまりにも、脆すぎやしないか。
子を成すためには、確率が必要なのだ。
愛ではなく、継続が。
美しさではなく、数が。
一度だけの子種で、宿るなど甘い奇跡。
それでもう種が成せるなどと、女であれば、誰より分かっている。
アラン――
あの女の瞳を、ヴァルブルガは飽きるほど見てきた。
控えめに笑い、何も言わず、従うように見せて、
鋼のように屈しないまま、あの家の“奥”に居座り続ける女。
強い、と思っていた。
怯まぬ、と思っていた。
けれど――
いまはそれが、恐怖に変わっていた。
レギュラスが、恋するように、妻を見る。
妻である女が、何もかもを差し出さず、ただじっと黙ってそれを受け止める。
静かに、深く、強く。
その均衡から誰も踏み入ることができず、
令嬢たちは、花に触れられぬまま、ただ香りを残しているだけ。
それで、子が宿らなければどうするのか。
この一族は絶えるかもしれぬというのに。
ヴァルブルガは、そっと手にしていた本を伏せる。
レギュラスを恐れたことはない。
けれど、「あの女」に執着する彼の未来を恐れる夜が、今は確かにある。
その静かな恐れが、小さな冷たい針のように、
今日もまた、彼女の胸の奥を刺し続けていた。
ヴァルブルガは重々しくレギュラスを呼び出した。
あの夜の静謐な応接間とは違う、言い逃れのきかない場所だった。
彼女の視線は厳しく、帳面に丁寧に並んだ娘たちの名の上を指先でなぞっている。
「そろそろ、責任を果たすべき時期ではありませんか」
鋭い声音が落とされる。
屋敷に招かれた女たち――彼女たちの思いも、時間も、家の期待も。
全てが今この一言に込められていた。
レギュラスは母の意図をよく理解していた。
最初から、いずれこの話題に切り込まれると覚悟していた。
「たったひとりだけ。
その娘にしか“務め”を果たしていない。
このままでは何も始まらないでしょう?」
ヴァルブルガの言葉と視線は、家の存続と“正しさ”を担う者としての重みがあった。
だが、レギュラスの心にふと、あの朝のバルコニーが蘇る。
澄んだ風、まだ誰もいない夜明け。
そして、アラン。
ワインに酔い、形も崩れ、羞じらいと歓びを全身で受け止めてくれた――
燃え上がるような交わり。
何もまとわぬ、そのすべて。
あの夜以降、自分の中で世界そのものの“基準”が一変していた。
“ただ身体を重ねればいい”“家のために努めればいい”
そんな仕草や論理だけでは、何一つ心が応じなくなってしまった。
あんなにも、心から求められ、
あんなにも、誰の目も届かない場所で、
満ち足りた高みに囚われてしまった自分。
(母上の言いたいことはよく分かる。
でも――
あれほどのものを知った後で、
どうして他の誰かを抱けるだろうか)
レギュラスは、ほんのわずか俯いて黙した。
言いたい言葉すべてを飲み込むかわりに、
指先は無意識に、ポケットの布を握りしめていた。
目の奥には、昨夜のアラン――
その髪、肌、声、すべてを思い出していた。
部屋に微かな静寂が流れる。
ヴァルブルガは、それでも言葉を重ねた。
「繰り返すことが、家の未来を繋ぎます。
個人の情にあまり囚われぬように――それが“長”の務めです」
レギュラスは一歩も動かず、
ただ静かに、けれど抗えぬほど深い熱を胸の内側に抱え直した。
分かっている。
分かっていても、
「アラン」という名を抱いた自分は――
もはや、母の正論を完璧に受け入れる男ではなかった。
自分の欠落も、弱さも、
全て包み込むような炎の一夜を知ってしまったから。
外の窓から、朝のひかりが長く伸びていた。
レギュラスは何も答えず、心の深くで微かな渇きを噛み締めていた。
誰にも語れぬまま――
ただ一人の女への、燃え上がる思いだけが、語らずともそこに在り続けていた。
薄曇りの朝――
屋敷の食堂にはまだ誰の気配もなく、白いクロスと磨かれた銀器が整然と並んでいた。
レギュラスは、ただ喉を潤すために、水差しのあるテーブルへ向かっていた。
日の上がりきらぬ時間、誰とも顔を合わせずに運ばれる数分の静寂が、思いのほか貴重だったから。
だが。
「……レギュラス様」
背後から控えめな声がかかる――
振り返ると、エセル・グレイシア嬢がいた。
ふわりと薄手のローブを羽織り、髪はまだ緩くまとめられたまま。
寝起きの名残のある瞳で、けれど礼儀正しく、微かに会釈をしていた。
レギュラスもまた、無言で軽く頭を下げた。
屋敷でこうして、他人と予期せず顔を合わせることに、未だ馴染めない自分がいる。
ここは“家”としてくつろげるはずの場所で、それが屋敷としての唯一の価値でもある。
それなのに、思いがけず他人と空間を共有させられると、
ふいに居心地が悪くなることがあった。
エセルとの沈黙は、数秒だけ続いた。
「こちら……お使いになりますか?」
エセルが、お盆のうえで揺れたグラスを、そっと差し出してきた。
小ぶりなグラスには澄んだ水が半ばまで注がれていて、
ほんの一口、彼女が飲むにはまだ触れていないもの。
「あ……いえ、ご自分のものでしょう」
レギュラスは一歩視線を外しかけたが――
その瞬間、ふと、アランの言葉を思い出していた。
“その子はね、まだ誰かを好きになったことがないのですって。恋さえも、まだ知らないの。”
そう。
あの子は、この中でいちばん若い。
令嬢たちのなかでも最も幼く、最も無垢で、
そして――心を誰かにまるごと預けるような経験がない少女。
それが、今、自分の前で。
ほんの少しだけそれを“練習”するかのように、グラスを差し出している。
そんな素振りにすら、透けて見える純粋さがあった。
けれど――
果たして自分が、何を教えてやれるのだろうか。
恋。
愛。
言葉にはすべてあるように見えて、その実、自分が知っているのはただひとつ。
アランという女に対してのみ抱いた、
長く、深く、いびつで、燃え尽きそうなくらい強いそれだけ。
他の誰かに向ける心など、自分には持ち合わせがない。
だから――
目の前のこの少女が本当に欲しているものを、
自分は与えてやれる気がしなかった。
けれど。
エセルは、ただそっとグラスを差し出し、微笑む。
それは媚でもなく、期待でもなく、
ほんのわずかな「親しみの入口」にすぎなかった。
多分、彼女はまだ「好意」を知らない。
ただ、昨日より一手ふみだしてみようとしただけ。
レギュラスは黙ってその手からグラスを受け取った。
指が少しだけ触れ合った。
彼女の小さな指先が、ひどく冷たくて、くすぐったかった。
一口、静かに水を喉に流す。
まるで曖昧に、接点をすべて洗い流すかのように。
「……ありがとう」
言葉だけは、きちんと返した。
けれど目を合わせることはなかった。
そして、まるでそれで満足したかのように、エセルもまた小さく頭を下げて、
静かに席へと戻っていった。
残された水の余韻だけが、舌の奥に透明に残っていた。
愛を教えるには、まだ遠い。
けれど――その手前にある、この素直さ。
踏み込みかけた無垢な感情を、
つい、守ってやりたくなるのは事実だった。
たとえそれが、自分では叶えられないものだったとしても。
水を飲みに降りた食堂からの帰り道。
階段をゆるやかに上ってゆく足取りは、今日に限って際立って鈍かった。
静けさを求めたはずのこの家は、
今やどこを歩いても、人の気配に満ちている。
使用人の足音、娘たちの談笑、庭のどこかで響くピアノの音――
まるで屋敷そのものが、誰かの息遣いで常にざわついているようだった。
あと数段で踊り場に差し掛かろうというとき、
階段の反対側から、人影が現れた。
フィロメーヌ・モンターニュ――。
ぱたりと、一瞬空気がずれる。
「レギュラス様」
屈託のない、それでいて控えめに抑えた声。
鮮やかなカーネーション色のローブに身を包み、整った姿勢で、フィロメーヌは深く礼をした。
その表情に笑みはあったが、
あくまで“礼節”の域を越えぬところにとどまっている。
にこやかではあるが、意図的に揺らぎのない微笑み。
レギュラスも、それに倣うようにほんのわずか顎を引いて会釈を返した。
形式的な動作。感情の波を映さない、整った動きだった。
それ以上、言葉は続かなかった。
その隣に、アランがよくいたことを思い出す。
テラスで、廊下で、あるいは応接の一角で。
レギュラスの知らない、アランの笑い声があの女の傍にあった。
遠慮も、抑制もない、柔らかく吹きこぼれるような笑い声。
自分といるときには見せたことのないような、自由に近い表情だった。
それが、どこかひどく、ひっかかる。
一言では語りきれぬ感情が、うっすらと胸の奥をかき乱す。
それを“嫉妬”だと名付けるには、あまりに情けない。
けれど、それ以外の言葉で置き換えようのない、ざらつきがそこにあった。
本来であれば、この屋敷はもっと静かであるはずだった。
望んでそう築いてきたはずだった。
なのに、気づけば誰かの笑い声や匂いや、気配に満ちていて――
落ち着けるはずの場所が、なぜか、どこにも見当たらない。
ため息が喉の奥まで上ってきたが、
レギュラスはそれを飲み込んだ。
「お身体にお気をつけて」
そう言って、フィロメーヌがすっと道を譲る。
「……どうも」
短く返し、レギュラスは黙ってすれ違った。
軽やかな足音が階下へと遠ざかっていく間、
レギュラスは一度も振り返らなかった。
けれど耳の奥では、まだアランの“知らぬ笑い声”が、
風のように残っていた。
