3章
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屋敷の門が開くと同時に、懐かしい香りが鼻をくすぐった。
日差しは高く昇り、石畳には夏の光が白々と跳ね返っている。
アルタイルが屋敷へ戻ったのは、本当に久しぶりのことだった。
かつて自分が生まれ育った空間は、どこか少しずつ変わっていて、
けれど柱や階段の手触りは、変わらぬままに彼を迎え入れてくれているように思えた。
だが――
屋敷の中に一歩足を踏み入れた瞬間、アルタイルは軽く目を細めた。
目が、チカチカした。
大広間には――色とりどりのドレス。
華やかな髪飾りや香料の繊細な香り。
知らない声、若い笑い声、小さな気配が、館の空気をいつもと違う響きに染めていた。
―なにが……起きている?
目の前に広がる光景に、状況の把握が追い付かない。
アルタイルはゆっくりと歩を進めながら、彫像のように立ち止まった。
そのとき、背後から元気な声が跳ねてくる。
「お兄様!」
振り向けば、妹――セレナがふわりと駆け寄ってくる。
成長したとはいえ、まだ小さな光沢を纏った瞳は無垢そのものだった。
「皆さん、私たちの新しい家族になる方たちなのよ」
満面の笑顔で、彼女はそう言った。
「……家族……ですか」
目を見開いたアルタイルの声には、戸惑いと、わずかに滲む困惑があった。
視線が巡る――
まるで舞踏会の前ぶれのように並ぶ女たちと、その華やかさ。
『家族』というには、あまりにも賑やかで、あまりにも唐突だった。
そんな彼を見て、そっと歩み寄ったのは、母だった。
「アルタイル」
その声は、変わっていなかった。
どんなに年月が過ぎても、彼に安心を呼び込む、落ち着きと温度を兼ねた声。
ゆっくりとアランが近づいてきて、優しく微笑みながら、
けれどそのまなざしには少しだけうしろめたさも滲んでいる。
「話していなくて、ごめんなさいね」
丁寧に選ばれた言葉だった。
誠実な謝罪と、受け入れてほしいという願いと、
それでも「今」が動いていることを告げるための、どうしようもない説明の始まりだった。
アルタイルは黙ったまま、母の声を聞いていた。
母の傍らで、少女たちは笑っている。
妹も、ごく自然な交わりの中にその身を置いている。
――どうして今まで、何も知らなかったのだろう。
それと同時に、喉の奥に込み上げてきたのは、疎外感というよりも、
遠くなってしまった屋敷の温度に触れたような、名もないさみしさだった。
何も言えないまま、
アルタイルはただ、耳の奥で「家族」という言葉を、静かに反芻していた。
屋敷の廊下は静かだった。
絨毯の上に沈んでいく足音――
無数の花の香り、背筋の伸びた笑い声、品ある微笑み。
すべてが、アルタイルにとっては、まるで異国に迷い込んだような空間だった。
彼の歩く先で、女たちは丁寧に頭を下げた。
控えめで、優雅で、そこにあるのは「敵意」ではない。
けれど、それがまた一層、彼を混乱させた。
ここにいる彼女たちは、皆――父のための女たちだった。
その事実だけが、頭の中でがんがんと響いて離れなかった。
このブラック家の血を紡ぎ、絶やさぬため――
ただそのためだけに召し抱えられた者たち。
一人でも多い跡取りを生むことが、この屋敷に課せられている“理”だというのか。
思考はまとまらず、何度も巡っては砕けていった。
(父は、そんな人だったのか)
シリウスが去ったあと、父は母を――
アランを、ただひたすらに大切にしていたと思っていた。
幾度も言葉少なに見守り、必要な場面では誰よりも支える姿を、幼いなりに尊敬していた。
その父が。
この女たちを「受け入れた」という。
選んだのか?
従ったのか?
それとも――傷つけることなく、すべてをただ抱いたふりをしているのか?
考えが、追い付かない。
頭が割れそうだった。
納得などできるはずがなかった。
けれど何よりも、深く心に刺さったのは――
その中心にいる母、アランの姿だった。
母は、変わらずに穏やかだった。
苛立ちも、悲しみも、嫉妬も見せることはなかった。
むしろその眼差しはどこか慈しみに似ていて、
女たちに対しても、優しく接していた。
名前を呼び、微笑みかけ、
ときにはセレナと一緒に朗らかに笑うことすらあった。
――なぜ、怒らないのですか。
声にはしなかった。
けれどその問いは、心の中で何度も悲鳴になった。
自分が、こんなにも苦しいのに。
許せなくて、理解できなくて、心を裂かれているのに。
なぜあなたは、そうして誰にでも平等に、やさしいのですか?
自分はまだ、そこまで広くはなれない。
母のように、受け入れる器を持てはしない。
だからこそ、自分が正しく立つべき足場が、いまどこにあるのかすらわからなかった。
目の前に広がる、飾られた居場所。
香り、笑い、形を整えられた美しい日々。
そのすべてが、なぜか――
父と母と、自分が知っていた“家族の景色”と、少しずつ違って見えた。
アルタイルは黙って、拳を固く握りしめた。
そして、その静けさの中で、自分の揺らぎと向き合い始めていた。
書斎の灯りは少しだけ暗めに落とされていた。
壁を照らす魔法のランプの揺らぎが、静けさのなかに微かな緊張を滲ませていた。
その部屋に、レギュラスとアルタイルは向かい合って座っていた。
言葉は、最初こそ重く沈黙の底に石のように伏せられていた。
だが、耐えきれずに溢れたのは、息子の静かで深い訴えだった。
「……なぜです、父さん」
その声音には、怒りも涙もなかった。
けれど、それが何よりも重く痛かった。
レギュラスは少しだけ身体を起こすと、息子の名を口にした。
「アルタイル」
その一言にすべてを込めようとしたのだ。
思いを伝えたくて、答えを与えたくて、
けれど――
アルタイルはほんの一瞬だけ瞳を伏せて、それでも顔を上げなかった。
名を呼ばれても、返せなかった。
父を赦すことができなかった。
少しの間の沈黙の中で、アルタイルは思い出していた。
暑かったあの日の午後。
ホグワーツに戻る前に、父にお願いしたことがあった。
「……母に、もう無理をさせないでください」
「まだ、自分が何も守れていないから。母を失いたくないんです」
あのとき、自分の言葉は父に届いたと思っていた。
静かに頷いたあの眼差しに、信じられる何かがあった。
けれど。
帰ってきて見た現実は、
その願いを、父が手のひらで潰すような現実だった。
この屋敷にいる、見知らぬ数多の女たち。
華やぎと柔らかい笑顔のなかで、母が淡々と日常を演じている姿。
その裏にひとつ、ひとつ、レギュラスの決断があったのだ。
――受け止めてなど、くれていなかった。
「……父さんを信じたんです、僕は」
ようやく、声を絞り出すようにして口を開いたアルタイルは、どこか震えていた。
「信じて、託したんです。母のことも……この家のことも」
「父さんなら、僕に足りないものを背負い切ってくれると思った。だから……僕は、まだ子供でも、大丈夫だと……思ってたんです」
目の奥ににじんだ光が、複雑な感情を映していた。
「でも、まるで裏切られたような気持ちなんです。
僕だけじゃ足りなかった。」
声が、かすれた。
いやだと思っていた、無力な自分を自分で責めていた。
何一つ父に選ばせないだけの力が、自分にも、母にも――なかったのだと思い知らされて。
レギュラスは、何も言えなかった。
息子の痛みに、触れることができなかった。
何も間違っていないと思ってきた一つひとつの選択が、
最も守りたかった者を追い詰めていた――
その現実を、眼前に突きつけられた今、この男は静かに崩れていた。
まだ少年であるアルタイルには、それでも見えていた。
父が完璧であろうとする影で、どれほど不器用に傷ついているかが。
けれど、それと自分を赦すこととは、別だった。
灯りの揺らぎがふたりの間に影を落とした。
言葉では埋まらない深く横たわる闇のような誤解と、
傷のような親しさ。
何も終わらなかった。
ただ、静かに崩れ始めていた。
これまで信じていた、家というものの輪郭が。
屋敷の空気は夕暮れの気配を含んで静まり返っていた。
使用人からの報せを受け取ったアランは、廊下をゆっくりと歩いていた。
床を踏むその音さえも気を遣うように響きすぎない速度で、けれど確かな足取り。
レギュラスの書斎に、アルタイルがまだいる—
その情報だけで、アランの胸には静かな確信が降りていた。
息子は、きっと今、不安を抱えている。
そしてそれは、自分のことであろうと、分かっていた。
優しい子だった。
繊細で、人のわずかな表情の揺らぎひとつに、真剣に痛みを感じるような子。
母の頬の陰りだけで、自分の胸が締めつけられるような少年だった。
きっと、母を苦しめたくないと願いながらも、
どうにもならない現実に対して心を乱しているに違いなかった。
扉の前に立つと、書斎の中には、まだ声の余韻がこもっていた。
中に入る許可を求めるような軽いノックもせず、
アランは、ほんの短い沈黙の後で、そっと扉を開いた。
視線の先に、レギュラス。
そのすぐ対面の椅子には、アルタイルが座っていた。
しかし椅子の背にもたれているというよりは、
前のめりに肩を僅かに震わせ、何かを必死に押し殺しているような姿だった。
その対面にはレギュラス—
彼もまた押し黙っており、ひとつ深く目を伏せたまま、その顔には珍しく、葛藤の色が残っていた。
アランは、刹那で悟った。
この部屋には、いま「父と息子」が存在している。
どちらも互いを想いながら、同じ痛みに名を与えられぬまま、ぶつかり合っていた。
「……母さん」
アルタイルが最初に気づき、ぽつりと彼女の名を呼んだ。
その呼び方は、まるで何かを訴えたいけれど、
それが言葉にならずに滲んでいってしまう、曖昧な声線だった。
アランは何も言わず、ただゆっくりと室内に歩み入った。
帽子を取るでも、手袋を外すでもなく、
自然なままに、アルタイルの隣の椅子に腰を下ろす。
視線は息子にも、夫にも向けなかった。
ただ柔らかな空気のなかで、あくまで自然にそこにいることだけが目的であるかのように。
レギュラスもまた、ちらりと目を上げる。
けれど、アランに対して声を発することはなかった。
彼にもまた、言葉がなかった。
ふたりの間には、あまりにも多くの感情が沈殿しており、
それはまだ混じり合うことができずにいた。
アランは、そっと息を吐いた。
静けさが、より穏やかに部屋を包んでいく。
まるでそれだけで、この部屋の温度が、
ほんのわずか、許しに近づいたような気すらした。
正しさでは届かない心がある。
優しさでも溶けない誤解がある。
だから、アランは何も言わなかった。
けれど、そこに<在ること>だけを選んだ。
その選択が、いまのふたりにとって何より必要な「第三の静けさ」であることを、
母は、誰より深く知っていたからだった。
火が落ちたあとの書斎は、温もりではなく、“余熱”という名の静けさに包まれていた。
壁のランプが静かに揺れて、青いじゅうたんの上にうつる影が長く引き伸ばされている。
その影の中に、アルタイルが立っていた。
背筋は伸ばしているものの、どこか壊れやすい薄翼のような緊張を全身にまとっていた。
「……母さん、僕は、あの人たちを家族だなんて……受け入れられません」
声は掠れていた。
水を求めるような声。叫びというには小さく、しかし胸の奥にしがみつくように真っ直ぐだった。
まだ少年の幼い叫び。
拙く、痛みだけでできた短い一文だった。
アランは、机越しに座る息子の顔を静かに見ていた。
一言も遮らなかった。
責めも、諭しも、せずに——。
彼がこれまでどれほど“守る”側にいようとしてきたかを、
アランは誰よりも見てきた。
それはきっと、優しさが彼の背を押していた半面、
必要以上の“早熟”という代償を伴ってしまった。
だからこそ、
今この瞬間にこぼれた「受け入れられません」という叫びは、
アランにとっては、むしろ安堵をもたらすものだった。
いいのだ、それで。
むしろ、それでこそ。
頑なに否定する息子を見ながら、
アランの胸は、じんわりと温かくなっていた。
これが嘘みたいな話だと、アルタイルはきっと心の奥で思っているのだろう。
まだ「女たち」すらちゃんと知らない。
まだ彼女たちの澄んだ声にも、優しさにも触れていない。
知らぬからこそ、すべてを拒絶せざるを得ない。
それで、よかった。
むりに微笑んで、背伸びして溶け込もうとされるより、
よほど健やかだった。
アランはそっと立ち上がり、
言葉ではなく、小さな歩幅で彼のもとへと近づいた。
そして、何も言わずに
その肩にやわらかな手を置く。
すがるように、その身をひきよせはしなかった。
ただ、重すぎない手で、
“あなたは、あなたでいいのよ”と
伝えるように。
「心は……時間がかかってもいいの」
アランがようやく言った声は、羽のようにどこまでもやさしかった。
「今すぐ“受け入れなさい”なんて、私も思っていないわ」
「きっと、ね。少しずつ、あなたの中に…風が通る日がくる。すこし、あたたかくなる日が」
アルタイルは何も返さなかった。
ただ、視線を床に落としたまま、まぶたを伏せた。
胸のなかでは、さまざまな思いが逆巻いているのがはっきりと伝わってくる。
でもいい。
これで、いい。
感情でぶつかって、自分の言葉を放り出して、
傷ついて、それでも言葉を投げてくる。
それが「歳相応」だった。
あの子が無理に背負ってきた“子供には重すぎる秤”をようやく下ろしているのかもしれなかった。
アランはすこし微笑んだ。
感情的で、どうしようもないけれど、
まぎれもなく、それは——生命の熱だった。
きっと、大丈夫。
いずれこの子は愛を知り、分別を知り、
いま理解できないやさしさにさえ、気づけるようになるだろう。
それを信じることが、
いま母としての、ただひとつの答えだった。
書斎にはゆっくりとした静寂が戻っていた。
扉が閉まり、アルタイルの足音が遠ざかっていくと、微かな余熱のように彼の想いだけが空間に残っていた。
レギュラスは椅子に座ったまま、深く息を吐いた。
目元に疲れが宿り、肩が重く沈んでいる。
戦場での対峙よりも、何倍も答えの見えない戦い。
そして——それが、たった一人の、わが子とのものだったと知ることが、何よりこたえていた。
「……こたえますね」
低く、ぽつりとこぼれる声音。
「アルタイルから……責められました」
目を伏せたままの夫に、アランは隣で静かに微笑んだ。
その笑顔には、微かな安堵と、守るような優しさが滲んでいた。
「いいじゃない。子供らしくて」
声は柔らかく、どこまでも肯定的だった。
レギュラスは、気の抜けたように目を細めて、ほんのわずか笑むでもなく息を吐いた。
「……あの子には、母親がすべてですから」
「……きっと、受け入れ難いのでしょう。こういう……変化は、あの純粋な心には」
アランは頷いた。
「ええ、そうね。でも」
「それでも、きっといつか――ゆっくり、理解していきます」
窓の外に目をやると、まだ高く蒼い空が薄く吹かれるように広がっている。
アランはその空を見つめながら、穏やかに続けた。
「あなたがそうだったように」
レギュラスはわずかに驚いたように、目をアランに向けた。
「最初から、誰も彼もを受け入れられたわけじゃなかった。
でもあなたは、敬意と礼節を選んだ。ちゃんと自分の意思で手を差し伸べてきたでしょう?」
「努力する、って決めたのです。あなたが」
アランの言葉は、決して責めではなかった。
それは、誇りだった。
そして、そばでずっとそれを見届けてきた者の静かな敬意だった。
「……きっと、アルタイルも、できます」
レギュラスは、しばらく黙っていた。
まるでその言葉の意味を、静かに噛みしめるようにして。
そして、椅子の背にもたれ、目を閉じた。
アランはその横顔を、どこまでも静かに見つめていた。
「だって、あの子は——間違いなく、あなたの息子なのですから」
その一言が、胸にゆっくりと沈み、やがてあたたかく広がっていく。
静けさと希望が、書斎の隅に同居していた。
たしかに軋んで揺らいだ親子の間にも、
この場所にはまだ、繋がるための光が――
静かに、確かに、灯っていた。
屋敷の奥、南棟のさらに静かな一角。
陽の角度が傾きはじめた昼下がり、アルタイルはふいに、一本の影が廊下を横切るのを目にした。
それがアランだと気づいたのは、その凛としたたたずまいと、歩くときの静けさだった。
けれど彼女が向かっている部屋に気づいて、アルタイルの胸の奥に、名前のないざわめきが広がった。
――シリウスの書斎。
かつてこの屋敷で最も触れてはならぬとされていた部屋。
誰も立ち入らぬまま年月だけを重ね、空気までもが記憶に包まれたその場所に、
母は、まるでひと息つくような足取りで入っていった。
アルタイルは、無意識にその背を追っていた。
廊下には風がなく、空気は息を呑んだように静かだった。
そっと、音を立てぬように近づき、扉のほんの数センチの隙間に目を寄せる。
重厚な扉の向こう、薄明かりだけが差し込む室内に、ひとりの女性の背中が浮かび上がっている。
それが母だと、瞬時にわかった。
しかし、知っている母とは――すこし違って見えた。
窓からの光に縁どられて立つ彼女は、
まるで時を越えてその場に静かに佇む肖像画のようで、
気品と哀しみ、その両方が輪郭に溶けていた。
アルタイルの胸が、ひとつ鳴った。
「ああ……」と思った。
美しい、と思った。
どきりと心が跳ねるほどに。
ルームメイトが何気なく囃していた言葉――
“お前の母君はホグワーツで一番の姫だったらしいぞ”
“美貌なら、歴代のどの家系にも引けを取らない”
そんな軽口を、声に出して嗤うふりをしながらも、
どこか信じたくないような誇らしいような気持ちで聞いていたのを、いま唐突に思い出した。
だけど今ここにいるのは、「美しい母」などという簡単な言葉では括れなかった。
その横顔には、確かに涙があった。
目を伏せ、何かをそっと見つめながら――
静かに、音も立てずに、涙だけが頬をすべっている。
視線の先、彼女の手の中には、何かがあった。
紙の束だろうか。写真のようにも見えた。
きっと、それはシリウスのものだった。
アルタイルは息を飲んだまま、身動きが取れなくなっていた。
何かを見てはいけない気がして、
けれど見ずにはいられなかった。
これは、触れてはいけない記憶なのだ。
母の中にいまも生きている、守られたままの名前なのだ。
踏み込んではいけない。
けれど、どうしようもなく知ってしまった。
美しくて、哀しくて、遠くて、愛おしい。
そのすべてが混ざった、いまの母アランを。
扉の向こうで、アランはゆっくりと目を閉じ、
まるで“それ”と静かに語らうように、ひとつ深く息を吐いた。
アルタイルは、長く残る淡い花の香りに押されるように、
そっと背を向けて、歩き出した。
その胸には、自分ではまだ名づけることの叶わない何かが、
静かに、確かに灯りはじめていた。
アルタイルは、そっと背を向けた。
扉の隙間から見えていた、あまりにも美しく、あまりにも静かな母の横顔――
あの涙の意味に、言葉はいらなかった。
そう直感するだけの静けさが、胸に深く染み込んでいた。
靴音を消すように廊下を歩きながら、
彼の中で何かが、音もなくほどけていった。
なぜ、母は他の女たちに優しいのか。
なぜ、微笑みを絶やさず、礼儀正しく、温かくいられるのか。
幼い心は疑問だった。
だが、いまなら少しわかる。
――母は、シリウスを愛しているのだ。
今も、変わることなく。
心の最も深く、誰にも手の届かない場所で――
ずっと、ずっと、一途に。
だからこそ、揺らがない。
焦りもしない。
父を「誰かに奪われる」という漠然とした恐怖も、不安も、母にはないのだ。
心が、離れていないから。
かけがえのないものを、既に一度、胸に抱きしめた人だから。
それが奪えぬものだという真実を、もう誰よりも強く知っている人だから。
アルタイルの中に、点と点が、静かに線を描きはじめる。
ホグワーツで何気なく耳にした、亡霊たちの噂。
ポルターガイストが放る、いたずら半分の昔話。
教授の目がやや敬意を伴って冷たくなる、その名を聞いた時の一瞬の沈黙。
すべてが、繋がった。
シリウス・ブラックと、アラン・セシール。
時代が変わっても、なお残る、そのふたりの名前。
母は、あの人を選んだ。
そして、いまも大切に胸の中で「生かし続けて」いる。
レギュラスという父のそばで、
家族として屋敷を守りながら、
それでも、心の深いところでは、ずっと一人の「恋人」であり続けている。
すこし前まで、理解できなかった。
耐える人だと思っていた。受け入れる人だと。
でも、そうじゃなかった。
母は、ただ「満たされている」のだ。
思いを失っていないから、何にも奪われない。
だから、優しくいられる――そんな気がした。
風が廊下を抜けていく。
アルタイルの制服の裾が、ふわりと揺れた。
彼は立ち止まり、何も言わずに窓の外を見上げた。
遠い空の下で、かつて誰よりも自由だったというシリウスと、
その隣にいつも静かに寄り添っていたという母アランの姿が、
胸の中で、ひとつの物語として結ばれてゆくようだった。
音もなく、確かに。
優しく、痛いように、美しく。
長い一日の終わり、夕暮れの薄明かりが大広間の窓から差し込んでいた。
光はもう銀色に近く、食卓をやわらかに包み、夜の気配と静けさを連れてきていた。
食卓に並ぶ皿には、季節のスープと数種類の料理がほどよく湯気を立て、
控えめな煌きのあるカトラリーが、日常の豊かさを思わせる。
その夜、アルタイルは母・アランの横に座っていた。
対面には、父・レギュラスが静かに椅子に深く腰をかけている。
いつになく穏やかで、居心地の良い空間だった。
アランは、湯気をたてるキッシュにナイフを入れると、
よく焼けた角の部分をそっとアルタイルの皿に移した。
「少し食べて、疲れがとれるわよ」
楽しげにそう言って、またスプーンをスープの鍋へと滑らせた。
「……母さん、そんなに食べられないってば」
苦笑しながらもフォークを手にする息子に、
アランはくすっと目元を和ませて返した。
「しっかり食べて、大きくならないと」
それはよく聞く言葉だったが、
なぜか今夜は、ほんの少し息をつまらせるようなあたたかさも帯びていた。
アルタイルは、頬が少しだけ熱くなるのを感じながら、
(……そういうところが好きなんだよ)と思った。
何も大それた言葉ではないけれど、
その何気ないやさしさが、
いつも胸の奥まで残る言葉だった。
レギュラスが小さく咳払いをして、
「明日はホグワーツに戻るんでしたね」と話すと、
そこから自然と、親子3人の会話があたたかく広がっていった。
授業の話、書斎の本のこと、セレナのいたずら。
特に重大な事件などない、ただの晩餐。
けれどそれが、まるで宝石のように大切な時間だった。
アランは、ふと嬉しそうに微笑みながら息子を見る。
「今夜は……久しぶりに、本を読み聞かせましょうか?」
その一言に、アルタイルはわずかに目を見開いたあと、
照れくさそうに視線を逸らして、口を尖らせる。
「……そんなにもう、子供じゃないですよ」
そう言いながらも声に濁りはなく、
実はどこか、期待してしまうような小さな揺らぎがあった。
“それでもまだ、自分は母の子でいられる。”
そうアランに思わせてもらえること。
その“場所”が、絶対に失われていないことが、
どれほど尊く、どれほど幸せかを、心の奥でアルタイルは静かに感じていた。
誰も何も言わなくなった瞬間、小さな時間の揺れが、
三人のあいだに流れるように満ちていった。
ランプの光がゆらゆらと皿を照らし、
食卓は、まるで守られた古い絵のように、静かに温かく続いていた。
何も起こらない、けれど何もかもが満たされていた、
そんな夜だった。
夜の静けさが、部屋の輪郭をやわらかく溶かしていた。
カーテン越しに差し込む月の光が、天井をゆるやかに揺らし、
アルタイルの寝室は、その呼吸までもが聞こえそうなほど、そっと時を止めていた。
ベッドのシーツには細かな皺が重なり、
その上で仰向けに横たわったアルタイルの傍らには、アランが穏やかに寄り添っていた。
母と子がこうして肩を並べて眠るのは、
もう何年ぶりにもなるだろう。
けれど、その夜は不思議と、自然にそこにアランがいた。
どちらからともなく始まったその沈黙に、アルタイルは迷っていた。
胸に仕舞っていた問いを、言葉にすべきかどうか。
子どものままでいたい自分と、大人になりかけている自分が、胸の内で静かにせめぎあっていた。
けれど、隣にいる母の呼吸が穏やかで、
そのやわらかな存在を感じることで、ようやく一言だけ、喉の奥から出すことができた。
「……母さんは、シリウス・ブラックが……好きだったんでしょう?」
それは、ずっと胸にあった問いだった。
ずっと感じていたあの沈黙の理由。
ホグワーツで耳にはさんだ断片的な噂。
母がときおり見せる、誰にも見せない影の理由。
どうして父と結婚したのか、なんて、分かりきっている。
でも――母の“しあわせ”がどこにあったのか、それは知りたかった。
シリウスを手放して、愛を失って――そのあとに何を得て、生きてきたのか。
それが、ただ知りたかった。
アランは驚いた様子もなく微笑し、
ベッドの上で横になったまま、そっとアルタイルの身体を自分の方に抱き寄せた。
そして、やわらかな声で答えた。
「ええ。大好きでした」
優しさだけで綴られた言葉だった。
「……私の初恋だったの。
あの人はね、太陽のような人でした、アルタイル。
どこにいても輝いていて、いつも誰かを照らしていたのよ」
アルタイルの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
太陽――
それはあまりにも明るく、強く、温かくて、
何者にも代えがたいものに向けられる比喩。
それが母の口から語られるとき、それが父・レギュラスに向けられていないことなど、誰にでも分かった。
父には、きっと似合わない言葉だと思った。
レギュラスは、太陽ではなかった。
彼を何にたとえようとしても、あんな眩しさを持っていたことは、たぶんなかった。
けれど――だからこそ、問いの続きを待つでもなく、アランは語り始めた。
「でもね、アルタイル」
彼女の声には、一切の迷いがなかった。
「私はあなたのお父様に……レギュラスに、愛されたのよ。
愛されたまま、穏やかに、この十数年をこの家で生きてきました」
「あなたと、セレナと出会って――」
「そう、あなたたちにね。私は、人生を信じてもいいって教えてもらった」
「どこかで止まっていた私のちっぽけな時間を……
あなたたちは、これでもかってくらいに……輝かせてくれたの。今はあなたたちが、私の太陽なのよ」
そう言ったあと、アランは手をのばして、アルタイルの前髪をかきあげるように撫でた。
その仕草が、あまりにも昔のままで――
アルタイルは黙って目を伏せた。
自分は母の過去を知ろうとして、
その中に「父の居場所はなかったのかもしれない」と、
勝手に寂しく不安になっただけだった。
けれどそれでも、母のそばにいたのは、父で。
母を愛し続けたのも、父だった。
過去は過去。
でも、それを失ったあとを、愛するということも、確かにあるのだと。
母はそのすべてを、赦しでも妥協でもなく、本当の「愛」だと信じて語った。
「……母さん」
声にならぬ声でそう呼ぶと、
アランは「なぁに」と囁き、アルタイルに額を寄せた。
そのまま、眠るまでの時間は、もうどこにも揺れなかった。
母の腕の温もりだけが、深く、静かに夜を守っていた。
石畳の入口で、朝の空気がまだ冷たい陽ざしを纏っていた。
霍格沃茨への帰路につく馬車が、屋敷の前庭で控えている。
扉のあたりには、アランとレギュラス、そしてセレナの姿。
季節が変わり始めたばかりの風が、スコートの裾やパーティングマントの端をやわらかく揺らしている。
アルタイルはゆっくりと荷を手渡しながら、気づかぬふりをしてちらりと視線を向けた。
その先で、父が、母の手を握っていた。
何かを語るでもなく、ただ自然に。
その手が、まるでそこにあるべき位置であるように、静かに結ばれていた。
レギュラスの横顔は相変わらず不器用な緊張を抱えていたが、
そこにある感情だけは、ごまかしようがなかった。
ひとつ、ただひとつの方向へと向けられた心のかたちが、厚く伝わっていた。
そして、アランはそれを慧く見つめながら、やわらかく受け止めていた。
問いを投げかけることもなく、
証明を求めることもなく、
満ち足りた水面のように、そこにただ静かに立っていた。
セレナは、その横で、くるくると母のマントの端を指に巻きながら、兄を見上げている。
明るく、けれどどこかしがみつきたいような目で。
アルタイルは、ゆっくりと手を上げてセレナの頭に手を置いた。
「またすぐ帰ってくるよ」
セレナがにこっと笑って頷く。
アランが、ひとことも言葉を交わさずに、
でもその表情だけで千の祝福を伝えるような目をして、アルタイルを見つめていた。
レギュラスもまた、力強く頷いた。
もう多くは語らなくてもよかった。
その構図。
父が母の手を握り、それを母が受け止めていて、
その姿に妹が隣にいて――
それさえ変わらなければいい。
世界のどこに求められようと、
注がれる愛がどれほど分散されようと、
このひとつの風景さえ続いていてくれれば。
自分はまた、ここに帰ってこられる。
安心して、遠くを目指せる。
そう信じられるだけの「確かな何か」が、今そこにあった。
馬車の戸が閉まり、窓の外で三人の姿が小さくなっていく。
それでもずっと見送ってくれていた。
父の手はまだ母の手を握ったままだった。
アルタイルは、胸の奥が小さく鳴るのを感じながら、
そっと目を閉じた。
この家は、まだ“深く、正しい愛”を知っている。
それだけで、十分だった。
春の風が薄紅に染まる庭を抜けてゆく昼下がり。
温室の外には若芽が芽吹き、花壇には令嬢たちの柔らかな談笑が満ちていた。
屋敷は今、活気に満ちていた。
笑い声、慣れない足取りのグラスの音、遠慮がちに弾かれるピアノ。
それらが、かつてのブラック邸では想像もつかないほどに空気をやわらかくしていた。
来年の秋には、セレナもホグワーツに入る。
――本当に、レギュラスと自分と、ふたりきりになってしまうと思っていた。
数ヶ月前までは、急にその未来に耐えられる気がしなかった。
長い時間のなかで、自分の役目も、存在の重みも締めつけるように静かになっていくのだと思っていた。
けれど今、屋敷は不思議な穏やかさと色彩を帯びていた。
彼女たちがいる。
あの小さな胸に無垢な夢を抱いて、家の未来を遠く考える令嬢たち。
彼女たちはこの家の空気を知らずに来て、そして少しずつ家族のように馴染んでくれた。
アランにとって、それが――密かな、救いだった。
アルタイルに、シリウスのことを聞かれた。
その夜の光は、あたたかくて、けれど逃げられなかった。
彼の眼差しはまっすぐで、揺らぎも恐れも隠さないものだった。
(……いつか、こんな日が来る)
ずっと、心のどこかで思ってきたことだった。
けれどその時が、こんなにも静かで、
そしてこんなにも愛しい夜だとは想像していなかった。
アランはすべてを覚悟していた。
隠しきれるものではなかった。
歪めるには、想いがあまりにも本物だった。
だから、正直に話した。
嘘はひとつもなかった。
息子が、それをどう受け止めたのかは分からない。
あの夜、何も返ってこなかった。
けれど、アランには、彼の呼吸が伝わっていた。
彼の胸が微かに揺れていた。
まだ、きっと答えの出ぬままに、それでも彼なりに何かを抱え始めたと――確かに、そう感じた。
それで、よかった。
すぐに理解されようとは思っていなかった。
すぐに赦されたくもなかった。
ただ、自分の心に嘘をつかずに
アランの人生を、まるごと伝えたかった。
シリウスへの想いを手放したことが、
すべて“失う”という形だったとは思っていない。
あれは、自分にとっての初恋で、最後のときめきのようなものだった。
でも愛はひとつのかたちだけじゃない。
レギュラスとの日々――静けさのなかで、ふと笑った顔や、
疲れて帰ってきて黙って肩を預ける背中や、
言葉にならない思いやりの全体が、日常の隙間にいつも満ちていた。
それが愛じゃないなんて、誰に言えるだろう。
レギュラスがくれた尊敬と、
ずっとアランという名を見つめてくれた眼差し。
子を授かり、育て、守り合った日々。
どれもが、ゆっくりと積み重なって、
もう一つの、強く静かな愛になっていった。
そしてその時間の中に、アルタイルとセレナがいた。
手放せない、命のかけらたちが。
この子たちを授けてもらえた。
そして、共に育てる日々を守ってくれた。
それがアランとレギュラスの間に確かに育った、かたちのちがう愛。
今、アルタイルがこの家の未来に何を思い、
自分と父への想いをどう重ねるかは、まだ分からない。
けれど、
彼が真っ直ぐに母へと問うてきたその姿勢。
真剣に“誰かの愛”というかたちと向き合おうとしたその姿勢は、
きっと――
きっと彼が、優しく、強く、大人になっていく証だ。
アランはそっと椅子にもたれ、窓の外を見つめながら
「どんなふうに伝わっていたかしら……」と、
微笑を浮かべたまま、胸の奥でだけ静かに呟いた。
ひとつの時代が、また夜の中で少しだけ進んでいく。
静かで確かな歩幅だった。
そして、尊い記憶のすべてを載せたまま。
日差しは高く昇り、石畳には夏の光が白々と跳ね返っている。
アルタイルが屋敷へ戻ったのは、本当に久しぶりのことだった。
かつて自分が生まれ育った空間は、どこか少しずつ変わっていて、
けれど柱や階段の手触りは、変わらぬままに彼を迎え入れてくれているように思えた。
だが――
屋敷の中に一歩足を踏み入れた瞬間、アルタイルは軽く目を細めた。
目が、チカチカした。
大広間には――色とりどりのドレス。
華やかな髪飾りや香料の繊細な香り。
知らない声、若い笑い声、小さな気配が、館の空気をいつもと違う響きに染めていた。
―なにが……起きている?
目の前に広がる光景に、状況の把握が追い付かない。
アルタイルはゆっくりと歩を進めながら、彫像のように立ち止まった。
そのとき、背後から元気な声が跳ねてくる。
「お兄様!」
振り向けば、妹――セレナがふわりと駆け寄ってくる。
成長したとはいえ、まだ小さな光沢を纏った瞳は無垢そのものだった。
「皆さん、私たちの新しい家族になる方たちなのよ」
満面の笑顔で、彼女はそう言った。
「……家族……ですか」
目を見開いたアルタイルの声には、戸惑いと、わずかに滲む困惑があった。
視線が巡る――
まるで舞踏会の前ぶれのように並ぶ女たちと、その華やかさ。
『家族』というには、あまりにも賑やかで、あまりにも唐突だった。
そんな彼を見て、そっと歩み寄ったのは、母だった。
「アルタイル」
その声は、変わっていなかった。
どんなに年月が過ぎても、彼に安心を呼び込む、落ち着きと温度を兼ねた声。
ゆっくりとアランが近づいてきて、優しく微笑みながら、
けれどそのまなざしには少しだけうしろめたさも滲んでいる。
「話していなくて、ごめんなさいね」
丁寧に選ばれた言葉だった。
誠実な謝罪と、受け入れてほしいという願いと、
それでも「今」が動いていることを告げるための、どうしようもない説明の始まりだった。
アルタイルは黙ったまま、母の声を聞いていた。
母の傍らで、少女たちは笑っている。
妹も、ごく自然な交わりの中にその身を置いている。
――どうして今まで、何も知らなかったのだろう。
それと同時に、喉の奥に込み上げてきたのは、疎外感というよりも、
遠くなってしまった屋敷の温度に触れたような、名もないさみしさだった。
何も言えないまま、
アルタイルはただ、耳の奥で「家族」という言葉を、静かに反芻していた。
屋敷の廊下は静かだった。
絨毯の上に沈んでいく足音――
無数の花の香り、背筋の伸びた笑い声、品ある微笑み。
すべてが、アルタイルにとっては、まるで異国に迷い込んだような空間だった。
彼の歩く先で、女たちは丁寧に頭を下げた。
控えめで、優雅で、そこにあるのは「敵意」ではない。
けれど、それがまた一層、彼を混乱させた。
ここにいる彼女たちは、皆――父のための女たちだった。
その事実だけが、頭の中でがんがんと響いて離れなかった。
このブラック家の血を紡ぎ、絶やさぬため――
ただそのためだけに召し抱えられた者たち。
一人でも多い跡取りを生むことが、この屋敷に課せられている“理”だというのか。
思考はまとまらず、何度も巡っては砕けていった。
(父は、そんな人だったのか)
シリウスが去ったあと、父は母を――
アランを、ただひたすらに大切にしていたと思っていた。
幾度も言葉少なに見守り、必要な場面では誰よりも支える姿を、幼いなりに尊敬していた。
その父が。
この女たちを「受け入れた」という。
選んだのか?
従ったのか?
それとも――傷つけることなく、すべてをただ抱いたふりをしているのか?
考えが、追い付かない。
頭が割れそうだった。
納得などできるはずがなかった。
けれど何よりも、深く心に刺さったのは――
その中心にいる母、アランの姿だった。
母は、変わらずに穏やかだった。
苛立ちも、悲しみも、嫉妬も見せることはなかった。
むしろその眼差しはどこか慈しみに似ていて、
女たちに対しても、優しく接していた。
名前を呼び、微笑みかけ、
ときにはセレナと一緒に朗らかに笑うことすらあった。
――なぜ、怒らないのですか。
声にはしなかった。
けれどその問いは、心の中で何度も悲鳴になった。
自分が、こんなにも苦しいのに。
許せなくて、理解できなくて、心を裂かれているのに。
なぜあなたは、そうして誰にでも平等に、やさしいのですか?
自分はまだ、そこまで広くはなれない。
母のように、受け入れる器を持てはしない。
だからこそ、自分が正しく立つべき足場が、いまどこにあるのかすらわからなかった。
目の前に広がる、飾られた居場所。
香り、笑い、形を整えられた美しい日々。
そのすべてが、なぜか――
父と母と、自分が知っていた“家族の景色”と、少しずつ違って見えた。
アルタイルは黙って、拳を固く握りしめた。
そして、その静けさの中で、自分の揺らぎと向き合い始めていた。
書斎の灯りは少しだけ暗めに落とされていた。
壁を照らす魔法のランプの揺らぎが、静けさのなかに微かな緊張を滲ませていた。
その部屋に、レギュラスとアルタイルは向かい合って座っていた。
言葉は、最初こそ重く沈黙の底に石のように伏せられていた。
だが、耐えきれずに溢れたのは、息子の静かで深い訴えだった。
「……なぜです、父さん」
その声音には、怒りも涙もなかった。
けれど、それが何よりも重く痛かった。
レギュラスは少しだけ身体を起こすと、息子の名を口にした。
「アルタイル」
その一言にすべてを込めようとしたのだ。
思いを伝えたくて、答えを与えたくて、
けれど――
アルタイルはほんの一瞬だけ瞳を伏せて、それでも顔を上げなかった。
名を呼ばれても、返せなかった。
父を赦すことができなかった。
少しの間の沈黙の中で、アルタイルは思い出していた。
暑かったあの日の午後。
ホグワーツに戻る前に、父にお願いしたことがあった。
「……母に、もう無理をさせないでください」
「まだ、自分が何も守れていないから。母を失いたくないんです」
あのとき、自分の言葉は父に届いたと思っていた。
静かに頷いたあの眼差しに、信じられる何かがあった。
けれど。
帰ってきて見た現実は、
その願いを、父が手のひらで潰すような現実だった。
この屋敷にいる、見知らぬ数多の女たち。
華やぎと柔らかい笑顔のなかで、母が淡々と日常を演じている姿。
その裏にひとつ、ひとつ、レギュラスの決断があったのだ。
――受け止めてなど、くれていなかった。
「……父さんを信じたんです、僕は」
ようやく、声を絞り出すようにして口を開いたアルタイルは、どこか震えていた。
「信じて、託したんです。母のことも……この家のことも」
「父さんなら、僕に足りないものを背負い切ってくれると思った。だから……僕は、まだ子供でも、大丈夫だと……思ってたんです」
目の奥ににじんだ光が、複雑な感情を映していた。
「でも、まるで裏切られたような気持ちなんです。
僕だけじゃ足りなかった。」
声が、かすれた。
いやだと思っていた、無力な自分を自分で責めていた。
何一つ父に選ばせないだけの力が、自分にも、母にも――なかったのだと思い知らされて。
レギュラスは、何も言えなかった。
息子の痛みに、触れることができなかった。
何も間違っていないと思ってきた一つひとつの選択が、
最も守りたかった者を追い詰めていた――
その現実を、眼前に突きつけられた今、この男は静かに崩れていた。
まだ少年であるアルタイルには、それでも見えていた。
父が完璧であろうとする影で、どれほど不器用に傷ついているかが。
けれど、それと自分を赦すこととは、別だった。
灯りの揺らぎがふたりの間に影を落とした。
言葉では埋まらない深く横たわる闇のような誤解と、
傷のような親しさ。
何も終わらなかった。
ただ、静かに崩れ始めていた。
これまで信じていた、家というものの輪郭が。
屋敷の空気は夕暮れの気配を含んで静まり返っていた。
使用人からの報せを受け取ったアランは、廊下をゆっくりと歩いていた。
床を踏むその音さえも気を遣うように響きすぎない速度で、けれど確かな足取り。
レギュラスの書斎に、アルタイルがまだいる—
その情報だけで、アランの胸には静かな確信が降りていた。
息子は、きっと今、不安を抱えている。
そしてそれは、自分のことであろうと、分かっていた。
優しい子だった。
繊細で、人のわずかな表情の揺らぎひとつに、真剣に痛みを感じるような子。
母の頬の陰りだけで、自分の胸が締めつけられるような少年だった。
きっと、母を苦しめたくないと願いながらも、
どうにもならない現実に対して心を乱しているに違いなかった。
扉の前に立つと、書斎の中には、まだ声の余韻がこもっていた。
中に入る許可を求めるような軽いノックもせず、
アランは、ほんの短い沈黙の後で、そっと扉を開いた。
視線の先に、レギュラス。
そのすぐ対面の椅子には、アルタイルが座っていた。
しかし椅子の背にもたれているというよりは、
前のめりに肩を僅かに震わせ、何かを必死に押し殺しているような姿だった。
その対面にはレギュラス—
彼もまた押し黙っており、ひとつ深く目を伏せたまま、その顔には珍しく、葛藤の色が残っていた。
アランは、刹那で悟った。
この部屋には、いま「父と息子」が存在している。
どちらも互いを想いながら、同じ痛みに名を与えられぬまま、ぶつかり合っていた。
「……母さん」
アルタイルが最初に気づき、ぽつりと彼女の名を呼んだ。
その呼び方は、まるで何かを訴えたいけれど、
それが言葉にならずに滲んでいってしまう、曖昧な声線だった。
アランは何も言わず、ただゆっくりと室内に歩み入った。
帽子を取るでも、手袋を外すでもなく、
自然なままに、アルタイルの隣の椅子に腰を下ろす。
視線は息子にも、夫にも向けなかった。
ただ柔らかな空気のなかで、あくまで自然にそこにいることだけが目的であるかのように。
レギュラスもまた、ちらりと目を上げる。
けれど、アランに対して声を発することはなかった。
彼にもまた、言葉がなかった。
ふたりの間には、あまりにも多くの感情が沈殿しており、
それはまだ混じり合うことができずにいた。
アランは、そっと息を吐いた。
静けさが、より穏やかに部屋を包んでいく。
まるでそれだけで、この部屋の温度が、
ほんのわずか、許しに近づいたような気すらした。
正しさでは届かない心がある。
優しさでも溶けない誤解がある。
だから、アランは何も言わなかった。
けれど、そこに<在ること>だけを選んだ。
その選択が、いまのふたりにとって何より必要な「第三の静けさ」であることを、
母は、誰より深く知っていたからだった。
火が落ちたあとの書斎は、温もりではなく、“余熱”という名の静けさに包まれていた。
壁のランプが静かに揺れて、青いじゅうたんの上にうつる影が長く引き伸ばされている。
その影の中に、アルタイルが立っていた。
背筋は伸ばしているものの、どこか壊れやすい薄翼のような緊張を全身にまとっていた。
「……母さん、僕は、あの人たちを家族だなんて……受け入れられません」
声は掠れていた。
水を求めるような声。叫びというには小さく、しかし胸の奥にしがみつくように真っ直ぐだった。
まだ少年の幼い叫び。
拙く、痛みだけでできた短い一文だった。
アランは、机越しに座る息子の顔を静かに見ていた。
一言も遮らなかった。
責めも、諭しも、せずに——。
彼がこれまでどれほど“守る”側にいようとしてきたかを、
アランは誰よりも見てきた。
それはきっと、優しさが彼の背を押していた半面、
必要以上の“早熟”という代償を伴ってしまった。
だからこそ、
今この瞬間にこぼれた「受け入れられません」という叫びは、
アランにとっては、むしろ安堵をもたらすものだった。
いいのだ、それで。
むしろ、それでこそ。
頑なに否定する息子を見ながら、
アランの胸は、じんわりと温かくなっていた。
これが嘘みたいな話だと、アルタイルはきっと心の奥で思っているのだろう。
まだ「女たち」すらちゃんと知らない。
まだ彼女たちの澄んだ声にも、優しさにも触れていない。
知らぬからこそ、すべてを拒絶せざるを得ない。
それで、よかった。
むりに微笑んで、背伸びして溶け込もうとされるより、
よほど健やかだった。
アランはそっと立ち上がり、
言葉ではなく、小さな歩幅で彼のもとへと近づいた。
そして、何も言わずに
その肩にやわらかな手を置く。
すがるように、その身をひきよせはしなかった。
ただ、重すぎない手で、
“あなたは、あなたでいいのよ”と
伝えるように。
「心は……時間がかかってもいいの」
アランがようやく言った声は、羽のようにどこまでもやさしかった。
「今すぐ“受け入れなさい”なんて、私も思っていないわ」
「きっと、ね。少しずつ、あなたの中に…風が通る日がくる。すこし、あたたかくなる日が」
アルタイルは何も返さなかった。
ただ、視線を床に落としたまま、まぶたを伏せた。
胸のなかでは、さまざまな思いが逆巻いているのがはっきりと伝わってくる。
でもいい。
これで、いい。
感情でぶつかって、自分の言葉を放り出して、
傷ついて、それでも言葉を投げてくる。
それが「歳相応」だった。
あの子が無理に背負ってきた“子供には重すぎる秤”をようやく下ろしているのかもしれなかった。
アランはすこし微笑んだ。
感情的で、どうしようもないけれど、
まぎれもなく、それは——生命の熱だった。
きっと、大丈夫。
いずれこの子は愛を知り、分別を知り、
いま理解できないやさしさにさえ、気づけるようになるだろう。
それを信じることが、
いま母としての、ただひとつの答えだった。
書斎にはゆっくりとした静寂が戻っていた。
扉が閉まり、アルタイルの足音が遠ざかっていくと、微かな余熱のように彼の想いだけが空間に残っていた。
レギュラスは椅子に座ったまま、深く息を吐いた。
目元に疲れが宿り、肩が重く沈んでいる。
戦場での対峙よりも、何倍も答えの見えない戦い。
そして——それが、たった一人の、わが子とのものだったと知ることが、何よりこたえていた。
「……こたえますね」
低く、ぽつりとこぼれる声音。
「アルタイルから……責められました」
目を伏せたままの夫に、アランは隣で静かに微笑んだ。
その笑顔には、微かな安堵と、守るような優しさが滲んでいた。
「いいじゃない。子供らしくて」
声は柔らかく、どこまでも肯定的だった。
レギュラスは、気の抜けたように目を細めて、ほんのわずか笑むでもなく息を吐いた。
「……あの子には、母親がすべてですから」
「……きっと、受け入れ難いのでしょう。こういう……変化は、あの純粋な心には」
アランは頷いた。
「ええ、そうね。でも」
「それでも、きっといつか――ゆっくり、理解していきます」
窓の外に目をやると、まだ高く蒼い空が薄く吹かれるように広がっている。
アランはその空を見つめながら、穏やかに続けた。
「あなたがそうだったように」
レギュラスはわずかに驚いたように、目をアランに向けた。
「最初から、誰も彼もを受け入れられたわけじゃなかった。
でもあなたは、敬意と礼節を選んだ。ちゃんと自分の意思で手を差し伸べてきたでしょう?」
「努力する、って決めたのです。あなたが」
アランの言葉は、決して責めではなかった。
それは、誇りだった。
そして、そばでずっとそれを見届けてきた者の静かな敬意だった。
「……きっと、アルタイルも、できます」
レギュラスは、しばらく黙っていた。
まるでその言葉の意味を、静かに噛みしめるようにして。
そして、椅子の背にもたれ、目を閉じた。
アランはその横顔を、どこまでも静かに見つめていた。
「だって、あの子は——間違いなく、あなたの息子なのですから」
その一言が、胸にゆっくりと沈み、やがてあたたかく広がっていく。
静けさと希望が、書斎の隅に同居していた。
たしかに軋んで揺らいだ親子の間にも、
この場所にはまだ、繋がるための光が――
静かに、確かに、灯っていた。
屋敷の奥、南棟のさらに静かな一角。
陽の角度が傾きはじめた昼下がり、アルタイルはふいに、一本の影が廊下を横切るのを目にした。
それがアランだと気づいたのは、その凛としたたたずまいと、歩くときの静けさだった。
けれど彼女が向かっている部屋に気づいて、アルタイルの胸の奥に、名前のないざわめきが広がった。
――シリウスの書斎。
かつてこの屋敷で最も触れてはならぬとされていた部屋。
誰も立ち入らぬまま年月だけを重ね、空気までもが記憶に包まれたその場所に、
母は、まるでひと息つくような足取りで入っていった。
アルタイルは、無意識にその背を追っていた。
廊下には風がなく、空気は息を呑んだように静かだった。
そっと、音を立てぬように近づき、扉のほんの数センチの隙間に目を寄せる。
重厚な扉の向こう、薄明かりだけが差し込む室内に、ひとりの女性の背中が浮かび上がっている。
それが母だと、瞬時にわかった。
しかし、知っている母とは――すこし違って見えた。
窓からの光に縁どられて立つ彼女は、
まるで時を越えてその場に静かに佇む肖像画のようで、
気品と哀しみ、その両方が輪郭に溶けていた。
アルタイルの胸が、ひとつ鳴った。
「ああ……」と思った。
美しい、と思った。
どきりと心が跳ねるほどに。
ルームメイトが何気なく囃していた言葉――
“お前の母君はホグワーツで一番の姫だったらしいぞ”
“美貌なら、歴代のどの家系にも引けを取らない”
そんな軽口を、声に出して嗤うふりをしながらも、
どこか信じたくないような誇らしいような気持ちで聞いていたのを、いま唐突に思い出した。
だけど今ここにいるのは、「美しい母」などという簡単な言葉では括れなかった。
その横顔には、確かに涙があった。
目を伏せ、何かをそっと見つめながら――
静かに、音も立てずに、涙だけが頬をすべっている。
視線の先、彼女の手の中には、何かがあった。
紙の束だろうか。写真のようにも見えた。
きっと、それはシリウスのものだった。
アルタイルは息を飲んだまま、身動きが取れなくなっていた。
何かを見てはいけない気がして、
けれど見ずにはいられなかった。
これは、触れてはいけない記憶なのだ。
母の中にいまも生きている、守られたままの名前なのだ。
踏み込んではいけない。
けれど、どうしようもなく知ってしまった。
美しくて、哀しくて、遠くて、愛おしい。
そのすべてが混ざった、いまの母アランを。
扉の向こうで、アランはゆっくりと目を閉じ、
まるで“それ”と静かに語らうように、ひとつ深く息を吐いた。
アルタイルは、長く残る淡い花の香りに押されるように、
そっと背を向けて、歩き出した。
その胸には、自分ではまだ名づけることの叶わない何かが、
静かに、確かに灯りはじめていた。
アルタイルは、そっと背を向けた。
扉の隙間から見えていた、あまりにも美しく、あまりにも静かな母の横顔――
あの涙の意味に、言葉はいらなかった。
そう直感するだけの静けさが、胸に深く染み込んでいた。
靴音を消すように廊下を歩きながら、
彼の中で何かが、音もなくほどけていった。
なぜ、母は他の女たちに優しいのか。
なぜ、微笑みを絶やさず、礼儀正しく、温かくいられるのか。
幼い心は疑問だった。
だが、いまなら少しわかる。
――母は、シリウスを愛しているのだ。
今も、変わることなく。
心の最も深く、誰にも手の届かない場所で――
ずっと、ずっと、一途に。
だからこそ、揺らがない。
焦りもしない。
父を「誰かに奪われる」という漠然とした恐怖も、不安も、母にはないのだ。
心が、離れていないから。
かけがえのないものを、既に一度、胸に抱きしめた人だから。
それが奪えぬものだという真実を、もう誰よりも強く知っている人だから。
アルタイルの中に、点と点が、静かに線を描きはじめる。
ホグワーツで何気なく耳にした、亡霊たちの噂。
ポルターガイストが放る、いたずら半分の昔話。
教授の目がやや敬意を伴って冷たくなる、その名を聞いた時の一瞬の沈黙。
すべてが、繋がった。
シリウス・ブラックと、アラン・セシール。
時代が変わっても、なお残る、そのふたりの名前。
母は、あの人を選んだ。
そして、いまも大切に胸の中で「生かし続けて」いる。
レギュラスという父のそばで、
家族として屋敷を守りながら、
それでも、心の深いところでは、ずっと一人の「恋人」であり続けている。
すこし前まで、理解できなかった。
耐える人だと思っていた。受け入れる人だと。
でも、そうじゃなかった。
母は、ただ「満たされている」のだ。
思いを失っていないから、何にも奪われない。
だから、優しくいられる――そんな気がした。
風が廊下を抜けていく。
アルタイルの制服の裾が、ふわりと揺れた。
彼は立ち止まり、何も言わずに窓の外を見上げた。
遠い空の下で、かつて誰よりも自由だったというシリウスと、
その隣にいつも静かに寄り添っていたという母アランの姿が、
胸の中で、ひとつの物語として結ばれてゆくようだった。
音もなく、確かに。
優しく、痛いように、美しく。
長い一日の終わり、夕暮れの薄明かりが大広間の窓から差し込んでいた。
光はもう銀色に近く、食卓をやわらかに包み、夜の気配と静けさを連れてきていた。
食卓に並ぶ皿には、季節のスープと数種類の料理がほどよく湯気を立て、
控えめな煌きのあるカトラリーが、日常の豊かさを思わせる。
その夜、アルタイルは母・アランの横に座っていた。
対面には、父・レギュラスが静かに椅子に深く腰をかけている。
いつになく穏やかで、居心地の良い空間だった。
アランは、湯気をたてるキッシュにナイフを入れると、
よく焼けた角の部分をそっとアルタイルの皿に移した。
「少し食べて、疲れがとれるわよ」
楽しげにそう言って、またスプーンをスープの鍋へと滑らせた。
「……母さん、そんなに食べられないってば」
苦笑しながらもフォークを手にする息子に、
アランはくすっと目元を和ませて返した。
「しっかり食べて、大きくならないと」
それはよく聞く言葉だったが、
なぜか今夜は、ほんの少し息をつまらせるようなあたたかさも帯びていた。
アルタイルは、頬が少しだけ熱くなるのを感じながら、
(……そういうところが好きなんだよ)と思った。
何も大それた言葉ではないけれど、
その何気ないやさしさが、
いつも胸の奥まで残る言葉だった。
レギュラスが小さく咳払いをして、
「明日はホグワーツに戻るんでしたね」と話すと、
そこから自然と、親子3人の会話があたたかく広がっていった。
授業の話、書斎の本のこと、セレナのいたずら。
特に重大な事件などない、ただの晩餐。
けれどそれが、まるで宝石のように大切な時間だった。
アランは、ふと嬉しそうに微笑みながら息子を見る。
「今夜は……久しぶりに、本を読み聞かせましょうか?」
その一言に、アルタイルはわずかに目を見開いたあと、
照れくさそうに視線を逸らして、口を尖らせる。
「……そんなにもう、子供じゃないですよ」
そう言いながらも声に濁りはなく、
実はどこか、期待してしまうような小さな揺らぎがあった。
“それでもまだ、自分は母の子でいられる。”
そうアランに思わせてもらえること。
その“場所”が、絶対に失われていないことが、
どれほど尊く、どれほど幸せかを、心の奥でアルタイルは静かに感じていた。
誰も何も言わなくなった瞬間、小さな時間の揺れが、
三人のあいだに流れるように満ちていった。
ランプの光がゆらゆらと皿を照らし、
食卓は、まるで守られた古い絵のように、静かに温かく続いていた。
何も起こらない、けれど何もかもが満たされていた、
そんな夜だった。
夜の静けさが、部屋の輪郭をやわらかく溶かしていた。
カーテン越しに差し込む月の光が、天井をゆるやかに揺らし、
アルタイルの寝室は、その呼吸までもが聞こえそうなほど、そっと時を止めていた。
ベッドのシーツには細かな皺が重なり、
その上で仰向けに横たわったアルタイルの傍らには、アランが穏やかに寄り添っていた。
母と子がこうして肩を並べて眠るのは、
もう何年ぶりにもなるだろう。
けれど、その夜は不思議と、自然にそこにアランがいた。
どちらからともなく始まったその沈黙に、アルタイルは迷っていた。
胸に仕舞っていた問いを、言葉にすべきかどうか。
子どものままでいたい自分と、大人になりかけている自分が、胸の内で静かにせめぎあっていた。
けれど、隣にいる母の呼吸が穏やかで、
そのやわらかな存在を感じることで、ようやく一言だけ、喉の奥から出すことができた。
「……母さんは、シリウス・ブラックが……好きだったんでしょう?」
それは、ずっと胸にあった問いだった。
ずっと感じていたあの沈黙の理由。
ホグワーツで耳にはさんだ断片的な噂。
母がときおり見せる、誰にも見せない影の理由。
どうして父と結婚したのか、なんて、分かりきっている。
でも――母の“しあわせ”がどこにあったのか、それは知りたかった。
シリウスを手放して、愛を失って――そのあとに何を得て、生きてきたのか。
それが、ただ知りたかった。
アランは驚いた様子もなく微笑し、
ベッドの上で横になったまま、そっとアルタイルの身体を自分の方に抱き寄せた。
そして、やわらかな声で答えた。
「ええ。大好きでした」
優しさだけで綴られた言葉だった。
「……私の初恋だったの。
あの人はね、太陽のような人でした、アルタイル。
どこにいても輝いていて、いつも誰かを照らしていたのよ」
アルタイルの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
太陽――
それはあまりにも明るく、強く、温かくて、
何者にも代えがたいものに向けられる比喩。
それが母の口から語られるとき、それが父・レギュラスに向けられていないことなど、誰にでも分かった。
父には、きっと似合わない言葉だと思った。
レギュラスは、太陽ではなかった。
彼を何にたとえようとしても、あんな眩しさを持っていたことは、たぶんなかった。
けれど――だからこそ、問いの続きを待つでもなく、アランは語り始めた。
「でもね、アルタイル」
彼女の声には、一切の迷いがなかった。
「私はあなたのお父様に……レギュラスに、愛されたのよ。
愛されたまま、穏やかに、この十数年をこの家で生きてきました」
「あなたと、セレナと出会って――」
「そう、あなたたちにね。私は、人生を信じてもいいって教えてもらった」
「どこかで止まっていた私のちっぽけな時間を……
あなたたちは、これでもかってくらいに……輝かせてくれたの。今はあなたたちが、私の太陽なのよ」
そう言ったあと、アランは手をのばして、アルタイルの前髪をかきあげるように撫でた。
その仕草が、あまりにも昔のままで――
アルタイルは黙って目を伏せた。
自分は母の過去を知ろうとして、
その中に「父の居場所はなかったのかもしれない」と、
勝手に寂しく不安になっただけだった。
けれどそれでも、母のそばにいたのは、父で。
母を愛し続けたのも、父だった。
過去は過去。
でも、それを失ったあとを、愛するということも、確かにあるのだと。
母はそのすべてを、赦しでも妥協でもなく、本当の「愛」だと信じて語った。
「……母さん」
声にならぬ声でそう呼ぶと、
アランは「なぁに」と囁き、アルタイルに額を寄せた。
そのまま、眠るまでの時間は、もうどこにも揺れなかった。
母の腕の温もりだけが、深く、静かに夜を守っていた。
石畳の入口で、朝の空気がまだ冷たい陽ざしを纏っていた。
霍格沃茨への帰路につく馬車が、屋敷の前庭で控えている。
扉のあたりには、アランとレギュラス、そしてセレナの姿。
季節が変わり始めたばかりの風が、スコートの裾やパーティングマントの端をやわらかく揺らしている。
アルタイルはゆっくりと荷を手渡しながら、気づかぬふりをしてちらりと視線を向けた。
その先で、父が、母の手を握っていた。
何かを語るでもなく、ただ自然に。
その手が、まるでそこにあるべき位置であるように、静かに結ばれていた。
レギュラスの横顔は相変わらず不器用な緊張を抱えていたが、
そこにある感情だけは、ごまかしようがなかった。
ひとつ、ただひとつの方向へと向けられた心のかたちが、厚く伝わっていた。
そして、アランはそれを慧く見つめながら、やわらかく受け止めていた。
問いを投げかけることもなく、
証明を求めることもなく、
満ち足りた水面のように、そこにただ静かに立っていた。
セレナは、その横で、くるくると母のマントの端を指に巻きながら、兄を見上げている。
明るく、けれどどこかしがみつきたいような目で。
アルタイルは、ゆっくりと手を上げてセレナの頭に手を置いた。
「またすぐ帰ってくるよ」
セレナがにこっと笑って頷く。
アランが、ひとことも言葉を交わさずに、
でもその表情だけで千の祝福を伝えるような目をして、アルタイルを見つめていた。
レギュラスもまた、力強く頷いた。
もう多くは語らなくてもよかった。
その構図。
父が母の手を握り、それを母が受け止めていて、
その姿に妹が隣にいて――
それさえ変わらなければいい。
世界のどこに求められようと、
注がれる愛がどれほど分散されようと、
このひとつの風景さえ続いていてくれれば。
自分はまた、ここに帰ってこられる。
安心して、遠くを目指せる。
そう信じられるだけの「確かな何か」が、今そこにあった。
馬車の戸が閉まり、窓の外で三人の姿が小さくなっていく。
それでもずっと見送ってくれていた。
父の手はまだ母の手を握ったままだった。
アルタイルは、胸の奥が小さく鳴るのを感じながら、
そっと目を閉じた。
この家は、まだ“深く、正しい愛”を知っている。
それだけで、十分だった。
春の風が薄紅に染まる庭を抜けてゆく昼下がり。
温室の外には若芽が芽吹き、花壇には令嬢たちの柔らかな談笑が満ちていた。
屋敷は今、活気に満ちていた。
笑い声、慣れない足取りのグラスの音、遠慮がちに弾かれるピアノ。
それらが、かつてのブラック邸では想像もつかないほどに空気をやわらかくしていた。
来年の秋には、セレナもホグワーツに入る。
――本当に、レギュラスと自分と、ふたりきりになってしまうと思っていた。
数ヶ月前までは、急にその未来に耐えられる気がしなかった。
長い時間のなかで、自分の役目も、存在の重みも締めつけるように静かになっていくのだと思っていた。
けれど今、屋敷は不思議な穏やかさと色彩を帯びていた。
彼女たちがいる。
あの小さな胸に無垢な夢を抱いて、家の未来を遠く考える令嬢たち。
彼女たちはこの家の空気を知らずに来て、そして少しずつ家族のように馴染んでくれた。
アランにとって、それが――密かな、救いだった。
アルタイルに、シリウスのことを聞かれた。
その夜の光は、あたたかくて、けれど逃げられなかった。
彼の眼差しはまっすぐで、揺らぎも恐れも隠さないものだった。
(……いつか、こんな日が来る)
ずっと、心のどこかで思ってきたことだった。
けれどその時が、こんなにも静かで、
そしてこんなにも愛しい夜だとは想像していなかった。
アランはすべてを覚悟していた。
隠しきれるものではなかった。
歪めるには、想いがあまりにも本物だった。
だから、正直に話した。
嘘はひとつもなかった。
息子が、それをどう受け止めたのかは分からない。
あの夜、何も返ってこなかった。
けれど、アランには、彼の呼吸が伝わっていた。
彼の胸が微かに揺れていた。
まだ、きっと答えの出ぬままに、それでも彼なりに何かを抱え始めたと――確かに、そう感じた。
それで、よかった。
すぐに理解されようとは思っていなかった。
すぐに赦されたくもなかった。
ただ、自分の心に嘘をつかずに
アランの人生を、まるごと伝えたかった。
シリウスへの想いを手放したことが、
すべて“失う”という形だったとは思っていない。
あれは、自分にとっての初恋で、最後のときめきのようなものだった。
でも愛はひとつのかたちだけじゃない。
レギュラスとの日々――静けさのなかで、ふと笑った顔や、
疲れて帰ってきて黙って肩を預ける背中や、
言葉にならない思いやりの全体が、日常の隙間にいつも満ちていた。
それが愛じゃないなんて、誰に言えるだろう。
レギュラスがくれた尊敬と、
ずっとアランという名を見つめてくれた眼差し。
子を授かり、育て、守り合った日々。
どれもが、ゆっくりと積み重なって、
もう一つの、強く静かな愛になっていった。
そしてその時間の中に、アルタイルとセレナがいた。
手放せない、命のかけらたちが。
この子たちを授けてもらえた。
そして、共に育てる日々を守ってくれた。
それがアランとレギュラスの間に確かに育った、かたちのちがう愛。
今、アルタイルがこの家の未来に何を思い、
自分と父への想いをどう重ねるかは、まだ分からない。
けれど、
彼が真っ直ぐに母へと問うてきたその姿勢。
真剣に“誰かの愛”というかたちと向き合おうとしたその姿勢は、
きっと――
きっと彼が、優しく、強く、大人になっていく証だ。
アランはそっと椅子にもたれ、窓の外を見つめながら
「どんなふうに伝わっていたかしら……」と、
微笑を浮かべたまま、胸の奥でだけ静かに呟いた。
ひとつの時代が、また夜の中で少しだけ進んでいく。
静かで確かな歩幅だった。
そして、尊い記憶のすべてを載せたまま。
