3章
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ロンドンの地下。
魔法省のさらに奥深く、ひっそりと存在する魔法法廷の審問室には、永く染みついた石の湿り気と、言葉にならぬ重さが垂れこめていた。
今日ここで、レギュラス・ブラックには重要な任務が与えられていた。
裁定委員会の審問官補佐として――先日、バーテミウス・クラウチと共に集めた証拠資料をもとに、ひとりの魔法使いの運命に判断を下す日。
被告は、マグル生まれの魔法使いだった。
詳細に語られた犯罪の状況。
捜査官による報告書、押収された改造魔具、破壊された街角の記録映像。
これらの提出は形式的には公平を装っているが、すべてがその魔法使いの「有罪」を補強するようなものばかりだった。
もっとも、レギュラスには――それすら不要なものだった。
マグル発の血脈であること。
それが、判断に足る最初の鍵。
彼の胸の奥では、すでに議論の余地すらなく、結論は決まっていた。
「――有罪」
形を整える必要があるだけだった。
他の審議員たちが何を求めようと、自分の名前が刻まれるこの判断に、よどみは生まれなかった。
台座に並ぶ審議員席の一角に座りながら、レギュラスの隣ではバーテミウスが防音術の結界の中、退屈そうに小声でつぶやいた。
「機嫌……悪そうだな、君」
レギュラスは視線を前に向けたまま、何の表情も返さなかった。
けれど、その横顔にわずかに曇る影と、硬く閉じられた口元がすべてを語っていた。
バーテミウスが口にしたその一言が、今日の彼の心情を的確に突いているのが、皮肉ともいえる。
昨夜は空虚だった。
まるで機械のように“子孫を残す”ことに成功したはずの夜。
努力の対価としてなすべきことを果たしたはずなのに、
満たされていないのは現在この瞬間も続いていた。
朝のアラン。
あの笑み。
それを引き出した他の者の存在。
それらすべてが思考の隙間に無遠慮に入り込み、レギュラスの心を濁らせていた。
そして今、ここにはマグル出身の魔法使い。
法と印象だけでは判断すべきではない、とする高尚な理念。
――それが、冷めた目で見ると、すべて虚飾にしか感じられないほどレギュラスの感情は固まっていた。
「君さ、このまま“決議”で押し切るつもりかい?」
結界の奥、バーテミウスが小さく呟く。
レギュラスは目を逸らさないまま、ほんの少し首を傾けた。
「……当然です。証拠がある。論理もある。血統も……それに、情状の余地もない」
淡々と返されるその声には感情の起伏がなかった。
けれどその無機的なまでの平静こそが、レギュラスの“機嫌の悪さ”を逆説的にあらわしていた。
理性の剣は抜かれている。
そして、その刃は今、相手を斬るためではなく、自分自身の揺らぎすら否定し、切り捨てるために磨かれていた。
この日、判断の天秤は、最初から片側だけに沈んでいた。
ただレギュラス・ブラックの内なる秩序が、揺らぎを嫌っただけのことだった。
夕闇が魔法法廷の石造りの壁を淡く染めはじめる頃、レギュラスは執務室の大きな窓辺に立っていた。
結界で守られていたにもかかわらず、下階の通路や中庭の向こうでは、魔法新聞の記者たちが集まり、各紙の号外を魔法印刷で次々に吐き出していた。
「“純血主義、裁きを偽る”」
「“感情による一方的な決定、法の倫理とは何か”」
「“マグル出身、再び烙印を押される”」
その活字たちがまるで剣のように空を斬っているようにすら見える。
レギュラスは、それを見下ろしながら、ふっとわずかに息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。
その言葉が心の奥からぽつりと浮かび、何の装飾もなく胸に落ちていった。
それでも、こうしてひとりで窓の外を見つめているということは、何かを感じずにいられなかったのだろう。自分がなした判断。それを自分以外の誰かがどう捉え、どう糾弾するのか――想像するに難くない。
けれど、今それ以上に重く、頭を占めていることがあった。
今日、この重たい空気を引きずって―― アランのもとへ帰る。それが、ただそれだけのことが、今の彼には、ひどく怖かった。
彼女は、きっと今日も誰かと笑っているかもしれない。
あの控えめで、けれど確かな感情を持ったフィロメーヌ。あるいは愛娘のセレナ。
その輪の中で、また「自分の知らないアラン」の姿が増えていくのではないか――
それが、どうしようもなく胸を締めつけていた。
ほんの数年前まで、自分の知っているアランは限られていた。誰よりも聡明で、静かで、控えめで、美しい。
けれど今――彼女の笑い方ひとつが、自分の想像を超える。
こんな声で笑うのか。こんな風に人と話すのか。
気づかぬうちに、自分だけが、彼女の現在から遠ざかっているような気がしていた。
戻ったら、何を顔に出していいかわからない。
自分のした議決の話をするのか。
それとも、昨夜のことをアランがどこかで察しているのか。
あるいは、もう彼女は見ていないふりをして、自分と同じ朝食の席にさえ座らないかもしれない。
そう思うたびに、言葉が重く、息が遠く感じた。
窓の外では、寒い夜風が印刷用紙を舞い上げていた。
活字の束はすでに世に放たれ、名前ごとレギュラスを刻んでゆく。
正しくあろうとした。
法の上で、秩序を守ったつもりだった。
でも、その重みを、帰る家に持ち込む勇気が、今日の彼にはもう残されていなかった。
目を閉じ、レギュラスは静かに自分自身に問いかける。
――彼女の笑顔に、自分はまだ帰ってもいいのだろうか。
瞼の裏に、遠い記憶のようにアランの笑顔が浮かんだ。
それを掴もうとした指先は、何も持たないまま虚空に沈む。
午前の日差しが穏やかに広がる温室の奥。
柔らかな木漏れ日が、ガラス越しに揺れるシダの葉を透かしていた。
空の色さえも、どこか柔らかく感じられる静かな午後だった。
アランは、ひとつの椅子に身を預けながら、
向かいで身振り手振りとともに話すフィロメーヌを、自然と見つめていた。
その表情は明るく、よく通る声のなかに冗談と柔らかな哲学が並んでいた。
育ちの良さが崩れることなく、それでいて肩肘張らない。
彼女の語る言葉は、決して派手ではないけれど、いつも心のどこかに引っかかるような“余白”を残してくれる。
アランはたびたび笑っていた。
声にさえ出して。
――心の底から、屈託なく。
それが、自分でも驚くほどだった。
こんなにも気持ちよく「笑う」という感覚を、
自分がまだ持っていたことに気づかされるのは、何年ぶりのことだっただろう。
フィロメーヌは、アランが知らない世界の話をよくした。
かつて情熱的に過ごした魔女劇団での滑稽な失敗。
魔法植物学の師匠に間違えて飛ばされた山岳修行。
男装をしてスコフォースの試合にこっそり出ていた過去――。
規律と役割の皮で覆われたブラック家の空気の中で、アランは長年、必要以上には自分の輪郭を見せてこなかった。
柔和で、控えめで、常に正しさの中に身を置き、
「妻」として、「母」として、「義務ある者」として在ると定めていた。
けれどフィロメーヌは、それを誰に誇るでも責めるでもなく、
まるでその皮を撫でるように、外からそっと柔らかく、彼女を笑顔の方へ導いてくれた。
「……フィロメーヌさん、あなたって……ほんとうに不思議な方ね」
アランが言うと、フィロメーヌは首を傾げて笑った。
「え、それは褒め言葉として受け取ってよいのかしら。だとしたら、光栄だわ。私、退屈な大人になってしまうのがとにかく嫌なのよ」
その冗談めいた言葉に、またアランは笑った。
心の奥が、解かれていくようだった。
この人のまとう空気には、冷たい静寂も、静かな支配もなかった。
ただ「今」という時間を、誰かと真っ直ぐ味わおうとする、ある種の祝福のような熱がある。
「新しいものに心を開くって、こんなにあたたかいことかしら」
アランは胸の中でふと、そんな言葉を思った。
どこか長いこと、自分は扉を閉ざしたまま生きてきた。
信じる人だけを信じ、選ばれた時間だけを歩むようにして。
けれど、今少しずつ――
彼女の隣で、世界が広がっていく。
フィロメーヌというひとりの存在が、
アランにとっての“未知への道しるべ”となって、
これまでの重さを、そっと軽くしてくれているようだった。
笑い声が、温室の硝子にふわりと弾けては、ひとつ、またひとつと、
光の粒に変わって消えていった。
久しぶりに足を踏み入れたシリウスの書斎は、まるで時が止まったかのように静かだった。
木の香りはすこし薄れ、窓辺に置かれた観葉植物は誰の世話も受けずに小さく身を縮めていた。
けれどそこに満ちる空気は、いまだに彼の匂いを纏っていた。
本棚の一段、背表紙が擦り切れかけた書物の並びさえ、アランにとっては懐かしい鼓動のようだった。
扉を閉ざした瞬間、ふっと胸の奥から溢れ出してくるものがあった。
言葉にもならず、形にもなれずに、ただ――涙となった。
「……シリウス」
小さく声に出した名前の響きが、書斎の壁を、静かに反響していく。
アランはそっと手を伸ばし、彼がいつも座っていた椅子の背に指を這わせた。
冷えた皮の感触に触れるだけで、そこに彼が今も腰かけている気がして、胸がぎゅっと締めつけられる。
そして、気づかぬうちに頬が濡れていた。
息を呑んでも止まらない涙は、決して悲しみだけではなかった。
それは、今でも彼を想う“想い”そのものだった――
ふいに降る雨のように、まっすぐに、どうしようもないほど降り注いでくる。
もし……シリウスが、今のレギュラスのように
たくさんの妃を迎え、大きな一族の未来を担う存在となっていたのなら。
その時、自分は果たしてどうしていたのだろう――。
考えたくなかった。
受け入れたくなかった。
きっと、醜いほどの嫉妬を抱いていただろう。
正しさも誇りも役目も、すべてを裏切ってでも、
胸の奥でどうしようもなく彼を欲していた自分の激情が、溢れてしまったに違いない。
あの頃の想いは、あまりにも激しく、
そして、美しくさえもあった。
だからこそ、
今なおシリウスの行方に〈誰かと結ばれた〉という噂が流れないことが、
どこかでアランの心を支えていた。
薄氷のようなもので構築された内なる安堵に、罪悪感を覚えながら。
それでも、「まだどこかで彼は自分と同じ時間のなかにいる」と思わせてくれる、その不在の知らせが、唯一の繋がりでもあった。
もう何年も、声も、姿も、触れられていない。
けれど、あの夜々に交わした言葉、熱、目線は、
今でも身体の奥底で薄く灯っている。
アランは書斎の窓を少しだけ開けた。
冷たい風が、あの頃の記憶をちらりと揺り起こしていった。
彼の声が、今にもどこかで呼んでくれるような気がして。
その幻のような感覚に、アランはそっと目を閉じた。
シリウス。
愛していた。
そして今も、どこかで――
その火は、小さく心の中で灯り続けていた。
奪われないまま、名前を告げることもなく、
静かに、けれど確かに、そこに在り続けていた。
午後の庭は、黄金色の陽射しに包まれていた。
風がそっと揺らすラベンダーの花びら、淡く響く噴水の水音。
日々の慌ただしさから、ふたりだけが特別に切り取られたような時間が流れていた。
アランは、腰を下ろした白い鉄のガーデンチェアに背を預け、
その向かいでは、まだあどけなさの残るエセル・グレイシアが、まっすぐにアランを見つめていた。
エセルは屋敷に招かれた令嬢たちの中でもいちばん若く、
その分、声にも仕草にも、どこか少女ならではの無垢さがあった。
「…… アラン様の、初恋って、いつでしたか?」
紅茶のカップ越しに、エセルがほのかに頬を染めて問いかけた。
その声には、照れくささと純粋な好奇心が滲んでいた。
アランは、ふっと小さく笑った。
目を伏せ、唇に柔らかな指を添えながら、自分自身に問いかけるように、静かに息をつく。
初恋……いつだったかしら。
すぐに浮かんだのは、シリウスの姿だった。
あの光のような瞳、声。
手を伸ばせば燃えてしまいそうだった、遠くて近いひと。
けれど、シリウスへの想いは「恋に落ちた」という感覚ではなかった。
最初から、気づけばそこにあった。
空気のように、呼吸のように、自然に心の中心にいた。
そして――今も。
深く静かに、心の奥に封じるようにして隠しているつもりでも、
ほんとうは灯りのように消えることのないものとして、彼への想いはまだ息づいていた。
シリウスは、アランにとってずっと「永遠の恋人」だった。
だからこそ、アランはほんのすこしだけ微笑んで答えた。
「……もう、ずっとずっと昔だわ」
エセルは瞳を輝かせた。
「その恋……叶ったのですか?」
問いかける声音は、ごく控えめでありながらも、憧れがにじむものだった。
それと同時に、少女なりに察したのかもしれなかった。
アランの話す“その恋”が、
今屋敷で共に暮らすレギュラスのことではないと。
それでも、エセルは何も問わなかった。
ただ、いつか訪れるかもしれない自分の恋に、そっと期待を重ねるようにして――憧れる目でアランを見つめていた。
アランは、わずかに柔らかく目を伏せる。
心の中で、シリウスの名も顔も呼ばずに、
織られていた記憶を、ひそやかに抱きしめるようにして――そっと答えた。
「ええ。叶いましたよ。……幸せでした」
その言葉は、まぎれもなく真実だった。
幾つもの絶望やすれ違いの中で、それでも一瞬だけでも通い合った想いがあった。
それは今なお、アランの中で「叶った恋」として、確かに在り続けている。
失ったからこそ、清らかで、
過ぎ去ったからこそ、永遠だった。
エセルがにこりと微笑む。
まるで祝福を受けた子供のような純粋な表情だった。
アランはその笑顔を見つめながら、
“恋に憧れる”という、そんな柔らかな感性を
なんて美しく、愛おしいものなのだろうと、思った。
「……いつか、エセルにも素敵な恋が訪れるといいわね」
そう言うと、エセルは恥ずかしそうに笑いながら、どこか嬉しげに一礼を返した。
その姿が、まるで春が訪れる朝のつぼみのように、まっすぐだった。
空に薄雲が流れていた。
アランの胸の内には、切なさと温かさがやわらかく溶け合って漂っていた。
もう戻らない過去に涙することなく、
けれど、確かにあったその恋の記憶を、
静かに今日という日と並べて、微笑みながら見つめることができる自分に――少しだけ、誇らしさを感じていた。
夕暮れどき、長く影を落とす屋敷の廊下に、レギュラスの帰宅を知らせる音が響いた。
玄関で控える執事の声が、食堂の扉越しに伝えられた瞬間。
アランは自然と背筋を正し、手元のスープ皿に目を落とした。
彼が帰ってきた。それだけで、胸のどこかがひそかに波打つのを隠せなかった。
その夜の食卓。アランは長いテーブルの端に座っていた。
隣にいるのはエセル・グレイシア。
パールの髪飾りをつけたその幼げな横顔は、どこかまだ少女の名残を残し、皿の上の料理に目を輝かせながら話を小さく弾ませていた。
けれど、レギュラスの姿が食堂の入り口に現れた瞬間――
空気が一変した。
ほんのわずかな隙に、アランはちらりと彼の顔を見た。
その顔に、わかる人だけが気づく“不機嫌”の影が、確かに差していた。
眉間のわずかな皺、口元に浮かぶ無言の緊張。
声もかけずに現れたその姿に、アランはほんの一瞬、息を止めた。
その理由は、明らかだった。
夕刊。
届いたばかりの号外の中央に載せられた見出し。
「闇の魔法使いが次々と極刑に——
マグル出自の魔法使いを冷然と裁いた裁定委員会」
――まるで法の在り方を問うというよりも、
その指針を決したレギュラス個人を、狙い撃ちにしているかのような文面だった。
冷たい正義。
記号のように並べられた判断。
彼の名が、そのまま「非情」と書き立てられていた。
アランは胸の奥で、静かに思う。
(きっと、今夜の彼は誰の言葉にも耳を貸さない。
その冷静さの内側で、ひどく傷ついて……平静を装っている)
根がまっすぐな人だ。
だからこそ、秩序を守ろうとしたその決断が「冷酷」だと見なされることに、
誰よりも傷つけられているはずだった。
視線を戻したとき、隣のエセルが柔らかくスープをすくっていた。
彼女はまだ何も気づいていなかった。
むしろ、レギュラスが運んでくる余波を感じぬほど、あどけなく笑っていた。
アランはふと、思った。
(――今日は、彼女の隣にいてほしくない)
あの冷たい沈黙の隣には、
この少女の澄んだ心は、まだ置くには早すぎる。
どんな言葉を選べば伝わるだろう。どう導けば自然に遠ざけられるだろう。
アランの視線は食卓の上をそっと渡り、
そのなかで、誰よりも穏やかさと距離感を持ち合わせたレギュラスの“次の席”に目を落とす。
彼女の胸には、ごく母性めいた祈りがあった。
レギュラスのこの孤独な夜を、
誰も無理に慰めず、誰の無垢も傷つけず、
ただ、静かに通り過ぎさせることができますように――と。
屋敷の空気は、昼をとうに過ぎたにもかかわらず、妙に重たく、薄曇りの天気のように頭のどこかを鈍く締めつけるような静けさがあった。
ヴァルブルガは、朝からじっと帳面を眺めていた。
娘たちそれぞれの学問や才覚、過ごしてきた日の空気、レギュラスとの距離感……
どの娘であれば、今夜彼の傍に置くに値するか。
「この家の未来のために」――その言葉を何度も胸のなかで繰り返しながら、机に指を添えて思案していた。
そこへ、扉の向こうから足音が聞こえ、アランがそっと部屋に入ってくる。
控えめに礼をし、しかしはっきりとした声で告げたのは、ただ一言。
「……今日は、機嫌が悪そうですわ」
それだけでは伝わらないかもしれない。だが、アランは知っていた。
夫のその空気には敏感だった。今朝の、ほんのわずかな視線の揺れ、沈黙の質感。
それらが積もれば、十分に“近づかないほうがいい夜”だと判断できる。
ヴァルブルガはしばしアランを見ると、深く頷いた。
それ以上、今日誰を差し向けるべきかという話題には触れなかった。
夜、夫婦の寝室。
ふたりは互いに向かい合うことなく、片手でランプを落とすようにして過ごしていた。
レギュラスは着替えの所作すら必要最低限で、ひとつひとつの動きに言葉を添えなかった。
静かな怒気というより、疲弊が壁に染みているような空気。
アランはそれを感じ取っていた。
けれど、問いかけることも、慰めることも、今日はしなかった。
彼の沈黙の内側には、聞かれたくない何かがあるのだと、彼の息遣いひとつでわかっていたから。
だからこそ、アランもまた、沈黙で彼に寄り添った。
ソファに座るでもなく、ベッドの端に腰を下ろすでもなく。
ただ、そっとカーテンの隙間を撫でる月明かりを見つめるだけ。
言葉を持たぬまま、痛ましい静けさだけがこの部屋を流れていた。
けれどそれも、アランにとっては「わかり合えている時間」だった。
口にしなくても。触れなくても。
彼の怒りや疲労に、無理に寄り添おうともしない――そんな“遠さ”が、いまはむしろ必要な静謐だった。
夫は、それでも隣のこの場所に戻ってきた。
それだけでよい。
いつか言葉になるまで、この夜はただそっと背中を向け合いながら、互いの輪郭を確認するように――静かに、過ごしていた。
屋敷の一日は、いつでも使用人の報告から始まる。
この朝もまた、クリーチャーの低くくぐもった声が、レギュラスの傍らで粛々と情報を告げていた。
「……それから、奥様が、シリウス様の書斎へ――最近、何度か通われているようでございます」
その一言が落ちた瞬間、時間がわずかに止まったようだった。
鼻先を抜けていく春の風も、銀製のプレートに置かれたカップの縁も、音を失う。
そして、次の瞬間――胸の奥から、じわじわと熱が這い上がってきた。
静かな怒りが、血管の内側に火をともす。
表情は変えていないつもりだった。
だが、己の顔にじわりと滲む熱に、レギュラス自身が気づいていた。
指先がわずかに震えている。
ナプキンを畳んだ手のひらに、力が入りすぎていた。
かつて、シリウスが館を去ったその日から、
彼の書斎は手つかずのまま、置かれ続けていた。
あの空間に触れることは、ある種の禁忌だった。
ヴァルブルガですら片付けを命じず、クリーチャーもまたそれを理解していた。
この屋敷には、部屋などいくらでもある。
それこそ、ドレスルームも応接間も、暮らし方次第で人ひとりの空間ぐらいすぐに準備できる。
なのに、アランが“あの部屋”を選ぶ理由は、どこにあるのか。
レギュラスは、昨日一日中を苛立ちの中で過ごしていた。
言葉にならぬ不機嫌さのままベッドに入り、眠ることだけを選んだ自分を何とか保っていた。
けれど――
朝陽が差すこの時刻に、また新たな炎が焚きつけられるとは、想像もしなかった。
胸の中で、自嘲のような思いがよぎる。
――もっと早く、あの部屋を壊しておけばよかったのだ
記憶ごと、家具ごと。
あの人の存在ごと、すべてこの屋敷から消してしまえばよかったのかもしれない。
それが「過ぎてしまったこと」だと、何度も言い聞かせてきた。
年月という積み重ねのなかで、アランと築いた人生の方が、ずっと長く深く――確かなものだと。
それなのに。
それでもなお、彼女の心が、安らぎとして足を運んだのは、シリウスの部屋だった。
それが、レギュラスには許せなかった。
いや――許せないというよりも、怖かった。
自分はまだ「勝てていない」のか。
冷静さをまといながらも、心の深いところで、そんな呟きがこだました。
アランがシリウスに告げていた愛の深さを、完全には知らない。
そのすべてを知ることが、そもそも不可能であることも分かっている。
けれど、レギュラスはずっと抱いてきたのだ。
この夫婦の時間が、やがてすべてを上書きしていくだろうと。
甘い希望。
そして、今朝、それがわずかな細い線で切られた――
それだけで、体内の均衡が崩れていった。
「……ご苦労だった」
クリーチャーの報告を遮るように、低く告げる。
それ以上、何も言わせなかった。
使用人が去ったあと、レギュラスは書類にも、机にも目をやらず、
ただ拳を、そっとデスクの天板に置いた。
ほんのわずかの行動すら、自分の心を持て余していた。
その手の下で、微かに軋む木の音――
怒りと混じって、そこには寂しさのようなものが沈んでいた。
あの部屋を、ずっと壊せなかった自分が、
いまは――一番、壊れそうだった。
薄曇りの朝──
まだ誰の声も届かない食卓の間は、静かな落ち着きに包まれていた。
窓辺から柔らかく差す光が、白いテーブルクロスを淡く照らしている。
その端に、アランはひとり、姿勢正しく腰かけていた。
指先で淡水のグラスを持ち上げ、ごく静かに口をつける。
その所作は、まるで朝の空気に寄り添うように、しなやかで、凜としていた。
ふと視線を上げたアランが、入り口に気づく。
「……早いのね」
わずかに目尻を和ませて、ふわりと笑った。
その言葉も、時刻も、ごく当たり前の挨拶のはずだった。
けれど、 レギュラスの心は、その一瞬で軋んだ。
胸が、ずんと鳴った。
着替えの途中から、腹立たしさがくすぶっていた。
クリーチャーの報告は苛立ちを引きずらせ、今日こそはその感情を誰にも隠さず押し切ってやろうと、どこか投げやりに思っていた。
だが、朝という日にふさわしく穏やかなアランの笑顔は、
その予兆を音もなく崩していった。
誰にぶつけるでもなく積もっていた怒りは、
その瞬間、まるで春の風にとかされる雪のように
姿も、意味もなくなってしまった。
歩み寄り、アランの椅子のそばで静かに膝を折る。
何の前触れもなく、手を伸ばして、
ふいにその唇に口づけた。
アランは驚いたようにほんのわずか身体を引いた。
水の残る唇がわずかに震える。
「……急に、どうして?」
声に出さずに問いかけているような、
驚きと戸惑いの混ざったまなざし。
レギュラスは黙ったまま、何も言葉にできなかった。
説明しようにも、感情が言語を追い越していた。
答えにたどり着けず――
ただ、もう一度、そっと、少しだけ長くキスをした。
アランはそれを拒まなかった。
目を少し閉じ、受け止めてくれていた。
それは赦しでも、謝罪でもなかった。
ただひとつ、今そこにいる人の―― 存在そのものに縋るようなキスだった。
そしてその熱は、朝の静けさの中で、たしかにふたりをつないでいた。
朝の光はまだやわらかく、白く整えられたテーブルクロスにもほんのり金の縁を染めていた。
窓辺から透ける陽が室内に注ぎ、静かでささやかな幸福の景色がそこにはあった。
椅子に腰かけていたアランの身に纏うブラウスの裾が、何かの拍子にふわりと持ち上がった。
動作のなかの、ほんの目立たない小さな隙。
その舞い上がった一瞬に、レギュラスの視線が奪われた。
何も考える間もなく――
手が自然に伸びていた。
白い布の下に、そっと指先を添わせる。
アランの呼吸に反応するように、布越しに受け入れる温度が伝わってきた。
制されなかった。
止められない。
だから、それは“否”ではないのだろうと、レギュラスは判断を下す。
指先が、やわらかく温かな膨らみに届く。
ほんの一瞬、鼓動がふたりのあいだに高鳴りを生み、
その感覚だけで、空気はふと緊張を孕んだ――
そのときだった。
「……食卓だわ」
アランが低く、しかしはっきりと囁く。
静かな制止の言葉。
怒りでも苛立ちでもない。けれど明瞭な“今ここではない”という区切り。
レギュラスはわずかに視線を落としながら、問い返す。
「……2階に上がります?」
探るような、けれどどこか真面目な声音。
まるでルールを交渉し直すように。
アランは小さく肩をすくめ、いつものような静けさをそのまま声にのせた。
「朝よ。今は朝」
言葉の意味は即答であり、そしてまた曖昧さも含んでいた。
けれどレギュラスは逃さない。
「……じゃあ、夜ならいいんですか?」
少しだけ唇を緩めてそう問いかけた。
声にはいたずらのような色を帯びながらも、仕返しのようでもあり、
アランの揺らぎを探ろうとする、少年めいた意地が潜んでいた。
アランは一瞬だけ言葉を探すように目を伏せたあと、軽く笑った。
はっきりと「駄目」とは言わなかったその声が、
この小さな攻防戦に意味のある余白を残していく。
テーブルのうえの銀のスプーンが、朝の光にわずかにきらりと反射している。
何事もなかったように朝は続いていく――けれど、
その下で、ふたりの間には、たしかに一片の火花が踊っていた。
魔法省のさらに奥深く、ひっそりと存在する魔法法廷の審問室には、永く染みついた石の湿り気と、言葉にならぬ重さが垂れこめていた。
今日ここで、レギュラス・ブラックには重要な任務が与えられていた。
裁定委員会の審問官補佐として――先日、バーテミウス・クラウチと共に集めた証拠資料をもとに、ひとりの魔法使いの運命に判断を下す日。
被告は、マグル生まれの魔法使いだった。
詳細に語られた犯罪の状況。
捜査官による報告書、押収された改造魔具、破壊された街角の記録映像。
これらの提出は形式的には公平を装っているが、すべてがその魔法使いの「有罪」を補強するようなものばかりだった。
もっとも、レギュラスには――それすら不要なものだった。
マグル発の血脈であること。
それが、判断に足る最初の鍵。
彼の胸の奥では、すでに議論の余地すらなく、結論は決まっていた。
「――有罪」
形を整える必要があるだけだった。
他の審議員たちが何を求めようと、自分の名前が刻まれるこの判断に、よどみは生まれなかった。
台座に並ぶ審議員席の一角に座りながら、レギュラスの隣ではバーテミウスが防音術の結界の中、退屈そうに小声でつぶやいた。
「機嫌……悪そうだな、君」
レギュラスは視線を前に向けたまま、何の表情も返さなかった。
けれど、その横顔にわずかに曇る影と、硬く閉じられた口元がすべてを語っていた。
バーテミウスが口にしたその一言が、今日の彼の心情を的確に突いているのが、皮肉ともいえる。
昨夜は空虚だった。
まるで機械のように“子孫を残す”ことに成功したはずの夜。
努力の対価としてなすべきことを果たしたはずなのに、
満たされていないのは現在この瞬間も続いていた。
朝のアラン。
あの笑み。
それを引き出した他の者の存在。
それらすべてが思考の隙間に無遠慮に入り込み、レギュラスの心を濁らせていた。
そして今、ここにはマグル出身の魔法使い。
法と印象だけでは判断すべきではない、とする高尚な理念。
――それが、冷めた目で見ると、すべて虚飾にしか感じられないほどレギュラスの感情は固まっていた。
「君さ、このまま“決議”で押し切るつもりかい?」
結界の奥、バーテミウスが小さく呟く。
レギュラスは目を逸らさないまま、ほんの少し首を傾けた。
「……当然です。証拠がある。論理もある。血統も……それに、情状の余地もない」
淡々と返されるその声には感情の起伏がなかった。
けれどその無機的なまでの平静こそが、レギュラスの“機嫌の悪さ”を逆説的にあらわしていた。
理性の剣は抜かれている。
そして、その刃は今、相手を斬るためではなく、自分自身の揺らぎすら否定し、切り捨てるために磨かれていた。
この日、判断の天秤は、最初から片側だけに沈んでいた。
ただレギュラス・ブラックの内なる秩序が、揺らぎを嫌っただけのことだった。
夕闇が魔法法廷の石造りの壁を淡く染めはじめる頃、レギュラスは執務室の大きな窓辺に立っていた。
結界で守られていたにもかかわらず、下階の通路や中庭の向こうでは、魔法新聞の記者たちが集まり、各紙の号外を魔法印刷で次々に吐き出していた。
「“純血主義、裁きを偽る”」
「“感情による一方的な決定、法の倫理とは何か”」
「“マグル出身、再び烙印を押される”」
その活字たちがまるで剣のように空を斬っているようにすら見える。
レギュラスは、それを見下ろしながら、ふっとわずかに息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。
その言葉が心の奥からぽつりと浮かび、何の装飾もなく胸に落ちていった。
それでも、こうしてひとりで窓の外を見つめているということは、何かを感じずにいられなかったのだろう。自分がなした判断。それを自分以外の誰かがどう捉え、どう糾弾するのか――想像するに難くない。
けれど、今それ以上に重く、頭を占めていることがあった。
今日、この重たい空気を引きずって―― アランのもとへ帰る。それが、ただそれだけのことが、今の彼には、ひどく怖かった。
彼女は、きっと今日も誰かと笑っているかもしれない。
あの控えめで、けれど確かな感情を持ったフィロメーヌ。あるいは愛娘のセレナ。
その輪の中で、また「自分の知らないアラン」の姿が増えていくのではないか――
それが、どうしようもなく胸を締めつけていた。
ほんの数年前まで、自分の知っているアランは限られていた。誰よりも聡明で、静かで、控えめで、美しい。
けれど今――彼女の笑い方ひとつが、自分の想像を超える。
こんな声で笑うのか。こんな風に人と話すのか。
気づかぬうちに、自分だけが、彼女の現在から遠ざかっているような気がしていた。
戻ったら、何を顔に出していいかわからない。
自分のした議決の話をするのか。
それとも、昨夜のことをアランがどこかで察しているのか。
あるいは、もう彼女は見ていないふりをして、自分と同じ朝食の席にさえ座らないかもしれない。
そう思うたびに、言葉が重く、息が遠く感じた。
窓の外では、寒い夜風が印刷用紙を舞い上げていた。
活字の束はすでに世に放たれ、名前ごとレギュラスを刻んでゆく。
正しくあろうとした。
法の上で、秩序を守ったつもりだった。
でも、その重みを、帰る家に持ち込む勇気が、今日の彼にはもう残されていなかった。
目を閉じ、レギュラスは静かに自分自身に問いかける。
――彼女の笑顔に、自分はまだ帰ってもいいのだろうか。
瞼の裏に、遠い記憶のようにアランの笑顔が浮かんだ。
それを掴もうとした指先は、何も持たないまま虚空に沈む。
午前の日差しが穏やかに広がる温室の奥。
柔らかな木漏れ日が、ガラス越しに揺れるシダの葉を透かしていた。
空の色さえも、どこか柔らかく感じられる静かな午後だった。
アランは、ひとつの椅子に身を預けながら、
向かいで身振り手振りとともに話すフィロメーヌを、自然と見つめていた。
その表情は明るく、よく通る声のなかに冗談と柔らかな哲学が並んでいた。
育ちの良さが崩れることなく、それでいて肩肘張らない。
彼女の語る言葉は、決して派手ではないけれど、いつも心のどこかに引っかかるような“余白”を残してくれる。
アランはたびたび笑っていた。
声にさえ出して。
――心の底から、屈託なく。
それが、自分でも驚くほどだった。
こんなにも気持ちよく「笑う」という感覚を、
自分がまだ持っていたことに気づかされるのは、何年ぶりのことだっただろう。
フィロメーヌは、アランが知らない世界の話をよくした。
かつて情熱的に過ごした魔女劇団での滑稽な失敗。
魔法植物学の師匠に間違えて飛ばされた山岳修行。
男装をしてスコフォースの試合にこっそり出ていた過去――。
規律と役割の皮で覆われたブラック家の空気の中で、アランは長年、必要以上には自分の輪郭を見せてこなかった。
柔和で、控えめで、常に正しさの中に身を置き、
「妻」として、「母」として、「義務ある者」として在ると定めていた。
けれどフィロメーヌは、それを誰に誇るでも責めるでもなく、
まるでその皮を撫でるように、外からそっと柔らかく、彼女を笑顔の方へ導いてくれた。
「……フィロメーヌさん、あなたって……ほんとうに不思議な方ね」
アランが言うと、フィロメーヌは首を傾げて笑った。
「え、それは褒め言葉として受け取ってよいのかしら。だとしたら、光栄だわ。私、退屈な大人になってしまうのがとにかく嫌なのよ」
その冗談めいた言葉に、またアランは笑った。
心の奥が、解かれていくようだった。
この人のまとう空気には、冷たい静寂も、静かな支配もなかった。
ただ「今」という時間を、誰かと真っ直ぐ味わおうとする、ある種の祝福のような熱がある。
「新しいものに心を開くって、こんなにあたたかいことかしら」
アランは胸の中でふと、そんな言葉を思った。
どこか長いこと、自分は扉を閉ざしたまま生きてきた。
信じる人だけを信じ、選ばれた時間だけを歩むようにして。
けれど、今少しずつ――
彼女の隣で、世界が広がっていく。
フィロメーヌというひとりの存在が、
アランにとっての“未知への道しるべ”となって、
これまでの重さを、そっと軽くしてくれているようだった。
笑い声が、温室の硝子にふわりと弾けては、ひとつ、またひとつと、
光の粒に変わって消えていった。
久しぶりに足を踏み入れたシリウスの書斎は、まるで時が止まったかのように静かだった。
木の香りはすこし薄れ、窓辺に置かれた観葉植物は誰の世話も受けずに小さく身を縮めていた。
けれどそこに満ちる空気は、いまだに彼の匂いを纏っていた。
本棚の一段、背表紙が擦り切れかけた書物の並びさえ、アランにとっては懐かしい鼓動のようだった。
扉を閉ざした瞬間、ふっと胸の奥から溢れ出してくるものがあった。
言葉にもならず、形にもなれずに、ただ――涙となった。
「……シリウス」
小さく声に出した名前の響きが、書斎の壁を、静かに反響していく。
アランはそっと手を伸ばし、彼がいつも座っていた椅子の背に指を這わせた。
冷えた皮の感触に触れるだけで、そこに彼が今も腰かけている気がして、胸がぎゅっと締めつけられる。
そして、気づかぬうちに頬が濡れていた。
息を呑んでも止まらない涙は、決して悲しみだけではなかった。
それは、今でも彼を想う“想い”そのものだった――
ふいに降る雨のように、まっすぐに、どうしようもないほど降り注いでくる。
もし……シリウスが、今のレギュラスのように
たくさんの妃を迎え、大きな一族の未来を担う存在となっていたのなら。
その時、自分は果たしてどうしていたのだろう――。
考えたくなかった。
受け入れたくなかった。
きっと、醜いほどの嫉妬を抱いていただろう。
正しさも誇りも役目も、すべてを裏切ってでも、
胸の奥でどうしようもなく彼を欲していた自分の激情が、溢れてしまったに違いない。
あの頃の想いは、あまりにも激しく、
そして、美しくさえもあった。
だからこそ、
今なおシリウスの行方に〈誰かと結ばれた〉という噂が流れないことが、
どこかでアランの心を支えていた。
薄氷のようなもので構築された内なる安堵に、罪悪感を覚えながら。
それでも、「まだどこかで彼は自分と同じ時間のなかにいる」と思わせてくれる、その不在の知らせが、唯一の繋がりでもあった。
もう何年も、声も、姿も、触れられていない。
けれど、あの夜々に交わした言葉、熱、目線は、
今でも身体の奥底で薄く灯っている。
アランは書斎の窓を少しだけ開けた。
冷たい風が、あの頃の記憶をちらりと揺り起こしていった。
彼の声が、今にもどこかで呼んでくれるような気がして。
その幻のような感覚に、アランはそっと目を閉じた。
シリウス。
愛していた。
そして今も、どこかで――
その火は、小さく心の中で灯り続けていた。
奪われないまま、名前を告げることもなく、
静かに、けれど確かに、そこに在り続けていた。
午後の庭は、黄金色の陽射しに包まれていた。
風がそっと揺らすラベンダーの花びら、淡く響く噴水の水音。
日々の慌ただしさから、ふたりだけが特別に切り取られたような時間が流れていた。
アランは、腰を下ろした白い鉄のガーデンチェアに背を預け、
その向かいでは、まだあどけなさの残るエセル・グレイシアが、まっすぐにアランを見つめていた。
エセルは屋敷に招かれた令嬢たちの中でもいちばん若く、
その分、声にも仕草にも、どこか少女ならではの無垢さがあった。
「…… アラン様の、初恋って、いつでしたか?」
紅茶のカップ越しに、エセルがほのかに頬を染めて問いかけた。
その声には、照れくささと純粋な好奇心が滲んでいた。
アランは、ふっと小さく笑った。
目を伏せ、唇に柔らかな指を添えながら、自分自身に問いかけるように、静かに息をつく。
初恋……いつだったかしら。
すぐに浮かんだのは、シリウスの姿だった。
あの光のような瞳、声。
手を伸ばせば燃えてしまいそうだった、遠くて近いひと。
けれど、シリウスへの想いは「恋に落ちた」という感覚ではなかった。
最初から、気づけばそこにあった。
空気のように、呼吸のように、自然に心の中心にいた。
そして――今も。
深く静かに、心の奥に封じるようにして隠しているつもりでも、
ほんとうは灯りのように消えることのないものとして、彼への想いはまだ息づいていた。
シリウスは、アランにとってずっと「永遠の恋人」だった。
だからこそ、アランはほんのすこしだけ微笑んで答えた。
「……もう、ずっとずっと昔だわ」
エセルは瞳を輝かせた。
「その恋……叶ったのですか?」
問いかける声音は、ごく控えめでありながらも、憧れがにじむものだった。
それと同時に、少女なりに察したのかもしれなかった。
アランの話す“その恋”が、
今屋敷で共に暮らすレギュラスのことではないと。
それでも、エセルは何も問わなかった。
ただ、いつか訪れるかもしれない自分の恋に、そっと期待を重ねるようにして――憧れる目でアランを見つめていた。
アランは、わずかに柔らかく目を伏せる。
心の中で、シリウスの名も顔も呼ばずに、
織られていた記憶を、ひそやかに抱きしめるようにして――そっと答えた。
「ええ。叶いましたよ。……幸せでした」
その言葉は、まぎれもなく真実だった。
幾つもの絶望やすれ違いの中で、それでも一瞬だけでも通い合った想いがあった。
それは今なお、アランの中で「叶った恋」として、確かに在り続けている。
失ったからこそ、清らかで、
過ぎ去ったからこそ、永遠だった。
エセルがにこりと微笑む。
まるで祝福を受けた子供のような純粋な表情だった。
アランはその笑顔を見つめながら、
“恋に憧れる”という、そんな柔らかな感性を
なんて美しく、愛おしいものなのだろうと、思った。
「……いつか、エセルにも素敵な恋が訪れるといいわね」
そう言うと、エセルは恥ずかしそうに笑いながら、どこか嬉しげに一礼を返した。
その姿が、まるで春が訪れる朝のつぼみのように、まっすぐだった。
空に薄雲が流れていた。
アランの胸の内には、切なさと温かさがやわらかく溶け合って漂っていた。
もう戻らない過去に涙することなく、
けれど、確かにあったその恋の記憶を、
静かに今日という日と並べて、微笑みながら見つめることができる自分に――少しだけ、誇らしさを感じていた。
夕暮れどき、長く影を落とす屋敷の廊下に、レギュラスの帰宅を知らせる音が響いた。
玄関で控える執事の声が、食堂の扉越しに伝えられた瞬間。
アランは自然と背筋を正し、手元のスープ皿に目を落とした。
彼が帰ってきた。それだけで、胸のどこかがひそかに波打つのを隠せなかった。
その夜の食卓。アランは長いテーブルの端に座っていた。
隣にいるのはエセル・グレイシア。
パールの髪飾りをつけたその幼げな横顔は、どこかまだ少女の名残を残し、皿の上の料理に目を輝かせながら話を小さく弾ませていた。
けれど、レギュラスの姿が食堂の入り口に現れた瞬間――
空気が一変した。
ほんのわずかな隙に、アランはちらりと彼の顔を見た。
その顔に、わかる人だけが気づく“不機嫌”の影が、確かに差していた。
眉間のわずかな皺、口元に浮かぶ無言の緊張。
声もかけずに現れたその姿に、アランはほんの一瞬、息を止めた。
その理由は、明らかだった。
夕刊。
届いたばかりの号外の中央に載せられた見出し。
「闇の魔法使いが次々と極刑に——
マグル出自の魔法使いを冷然と裁いた裁定委員会」
――まるで法の在り方を問うというよりも、
その指針を決したレギュラス個人を、狙い撃ちにしているかのような文面だった。
冷たい正義。
記号のように並べられた判断。
彼の名が、そのまま「非情」と書き立てられていた。
アランは胸の奥で、静かに思う。
(きっと、今夜の彼は誰の言葉にも耳を貸さない。
その冷静さの内側で、ひどく傷ついて……平静を装っている)
根がまっすぐな人だ。
だからこそ、秩序を守ろうとしたその決断が「冷酷」だと見なされることに、
誰よりも傷つけられているはずだった。
視線を戻したとき、隣のエセルが柔らかくスープをすくっていた。
彼女はまだ何も気づいていなかった。
むしろ、レギュラスが運んでくる余波を感じぬほど、あどけなく笑っていた。
アランはふと、思った。
(――今日は、彼女の隣にいてほしくない)
あの冷たい沈黙の隣には、
この少女の澄んだ心は、まだ置くには早すぎる。
どんな言葉を選べば伝わるだろう。どう導けば自然に遠ざけられるだろう。
アランの視線は食卓の上をそっと渡り、
そのなかで、誰よりも穏やかさと距離感を持ち合わせたレギュラスの“次の席”に目を落とす。
彼女の胸には、ごく母性めいた祈りがあった。
レギュラスのこの孤独な夜を、
誰も無理に慰めず、誰の無垢も傷つけず、
ただ、静かに通り過ぎさせることができますように――と。
屋敷の空気は、昼をとうに過ぎたにもかかわらず、妙に重たく、薄曇りの天気のように頭のどこかを鈍く締めつけるような静けさがあった。
ヴァルブルガは、朝からじっと帳面を眺めていた。
娘たちそれぞれの学問や才覚、過ごしてきた日の空気、レギュラスとの距離感……
どの娘であれば、今夜彼の傍に置くに値するか。
「この家の未来のために」――その言葉を何度も胸のなかで繰り返しながら、机に指を添えて思案していた。
そこへ、扉の向こうから足音が聞こえ、アランがそっと部屋に入ってくる。
控えめに礼をし、しかしはっきりとした声で告げたのは、ただ一言。
「……今日は、機嫌が悪そうですわ」
それだけでは伝わらないかもしれない。だが、アランは知っていた。
夫のその空気には敏感だった。今朝の、ほんのわずかな視線の揺れ、沈黙の質感。
それらが積もれば、十分に“近づかないほうがいい夜”だと判断できる。
ヴァルブルガはしばしアランを見ると、深く頷いた。
それ以上、今日誰を差し向けるべきかという話題には触れなかった。
夜、夫婦の寝室。
ふたりは互いに向かい合うことなく、片手でランプを落とすようにして過ごしていた。
レギュラスは着替えの所作すら必要最低限で、ひとつひとつの動きに言葉を添えなかった。
静かな怒気というより、疲弊が壁に染みているような空気。
アランはそれを感じ取っていた。
けれど、問いかけることも、慰めることも、今日はしなかった。
彼の沈黙の内側には、聞かれたくない何かがあるのだと、彼の息遣いひとつでわかっていたから。
だからこそ、アランもまた、沈黙で彼に寄り添った。
ソファに座るでもなく、ベッドの端に腰を下ろすでもなく。
ただ、そっとカーテンの隙間を撫でる月明かりを見つめるだけ。
言葉を持たぬまま、痛ましい静けさだけがこの部屋を流れていた。
けれどそれも、アランにとっては「わかり合えている時間」だった。
口にしなくても。触れなくても。
彼の怒りや疲労に、無理に寄り添おうともしない――そんな“遠さ”が、いまはむしろ必要な静謐だった。
夫は、それでも隣のこの場所に戻ってきた。
それだけでよい。
いつか言葉になるまで、この夜はただそっと背中を向け合いながら、互いの輪郭を確認するように――静かに、過ごしていた。
屋敷の一日は、いつでも使用人の報告から始まる。
この朝もまた、クリーチャーの低くくぐもった声が、レギュラスの傍らで粛々と情報を告げていた。
「……それから、奥様が、シリウス様の書斎へ――最近、何度か通われているようでございます」
その一言が落ちた瞬間、時間がわずかに止まったようだった。
鼻先を抜けていく春の風も、銀製のプレートに置かれたカップの縁も、音を失う。
そして、次の瞬間――胸の奥から、じわじわと熱が這い上がってきた。
静かな怒りが、血管の内側に火をともす。
表情は変えていないつもりだった。
だが、己の顔にじわりと滲む熱に、レギュラス自身が気づいていた。
指先がわずかに震えている。
ナプキンを畳んだ手のひらに、力が入りすぎていた。
かつて、シリウスが館を去ったその日から、
彼の書斎は手つかずのまま、置かれ続けていた。
あの空間に触れることは、ある種の禁忌だった。
ヴァルブルガですら片付けを命じず、クリーチャーもまたそれを理解していた。
この屋敷には、部屋などいくらでもある。
それこそ、ドレスルームも応接間も、暮らし方次第で人ひとりの空間ぐらいすぐに準備できる。
なのに、アランが“あの部屋”を選ぶ理由は、どこにあるのか。
レギュラスは、昨日一日中を苛立ちの中で過ごしていた。
言葉にならぬ不機嫌さのままベッドに入り、眠ることだけを選んだ自分を何とか保っていた。
けれど――
朝陽が差すこの時刻に、また新たな炎が焚きつけられるとは、想像もしなかった。
胸の中で、自嘲のような思いがよぎる。
――もっと早く、あの部屋を壊しておけばよかったのだ
記憶ごと、家具ごと。
あの人の存在ごと、すべてこの屋敷から消してしまえばよかったのかもしれない。
それが「過ぎてしまったこと」だと、何度も言い聞かせてきた。
年月という積み重ねのなかで、アランと築いた人生の方が、ずっと長く深く――確かなものだと。
それなのに。
それでもなお、彼女の心が、安らぎとして足を運んだのは、シリウスの部屋だった。
それが、レギュラスには許せなかった。
いや――許せないというよりも、怖かった。
自分はまだ「勝てていない」のか。
冷静さをまといながらも、心の深いところで、そんな呟きがこだました。
アランがシリウスに告げていた愛の深さを、完全には知らない。
そのすべてを知ることが、そもそも不可能であることも分かっている。
けれど、レギュラスはずっと抱いてきたのだ。
この夫婦の時間が、やがてすべてを上書きしていくだろうと。
甘い希望。
そして、今朝、それがわずかな細い線で切られた――
それだけで、体内の均衡が崩れていった。
「……ご苦労だった」
クリーチャーの報告を遮るように、低く告げる。
それ以上、何も言わせなかった。
使用人が去ったあと、レギュラスは書類にも、机にも目をやらず、
ただ拳を、そっとデスクの天板に置いた。
ほんのわずかの行動すら、自分の心を持て余していた。
その手の下で、微かに軋む木の音――
怒りと混じって、そこには寂しさのようなものが沈んでいた。
あの部屋を、ずっと壊せなかった自分が、
いまは――一番、壊れそうだった。
薄曇りの朝──
まだ誰の声も届かない食卓の間は、静かな落ち着きに包まれていた。
窓辺から柔らかく差す光が、白いテーブルクロスを淡く照らしている。
その端に、アランはひとり、姿勢正しく腰かけていた。
指先で淡水のグラスを持ち上げ、ごく静かに口をつける。
その所作は、まるで朝の空気に寄り添うように、しなやかで、凜としていた。
ふと視線を上げたアランが、入り口に気づく。
「……早いのね」
わずかに目尻を和ませて、ふわりと笑った。
その言葉も、時刻も、ごく当たり前の挨拶のはずだった。
けれど、 レギュラスの心は、その一瞬で軋んだ。
胸が、ずんと鳴った。
着替えの途中から、腹立たしさがくすぶっていた。
クリーチャーの報告は苛立ちを引きずらせ、今日こそはその感情を誰にも隠さず押し切ってやろうと、どこか投げやりに思っていた。
だが、朝という日にふさわしく穏やかなアランの笑顔は、
その予兆を音もなく崩していった。
誰にぶつけるでもなく積もっていた怒りは、
その瞬間、まるで春の風にとかされる雪のように
姿も、意味もなくなってしまった。
歩み寄り、アランの椅子のそばで静かに膝を折る。
何の前触れもなく、手を伸ばして、
ふいにその唇に口づけた。
アランは驚いたようにほんのわずか身体を引いた。
水の残る唇がわずかに震える。
「……急に、どうして?」
声に出さずに問いかけているような、
驚きと戸惑いの混ざったまなざし。
レギュラスは黙ったまま、何も言葉にできなかった。
説明しようにも、感情が言語を追い越していた。
答えにたどり着けず――
ただ、もう一度、そっと、少しだけ長くキスをした。
アランはそれを拒まなかった。
目を少し閉じ、受け止めてくれていた。
それは赦しでも、謝罪でもなかった。
ただひとつ、今そこにいる人の―― 存在そのものに縋るようなキスだった。
そしてその熱は、朝の静けさの中で、たしかにふたりをつないでいた。
朝の光はまだやわらかく、白く整えられたテーブルクロスにもほんのり金の縁を染めていた。
窓辺から透ける陽が室内に注ぎ、静かでささやかな幸福の景色がそこにはあった。
椅子に腰かけていたアランの身に纏うブラウスの裾が、何かの拍子にふわりと持ち上がった。
動作のなかの、ほんの目立たない小さな隙。
その舞い上がった一瞬に、レギュラスの視線が奪われた。
何も考える間もなく――
手が自然に伸びていた。
白い布の下に、そっと指先を添わせる。
アランの呼吸に反応するように、布越しに受け入れる温度が伝わってきた。
制されなかった。
止められない。
だから、それは“否”ではないのだろうと、レギュラスは判断を下す。
指先が、やわらかく温かな膨らみに届く。
ほんの一瞬、鼓動がふたりのあいだに高鳴りを生み、
その感覚だけで、空気はふと緊張を孕んだ――
そのときだった。
「……食卓だわ」
アランが低く、しかしはっきりと囁く。
静かな制止の言葉。
怒りでも苛立ちでもない。けれど明瞭な“今ここではない”という区切り。
レギュラスはわずかに視線を落としながら、問い返す。
「……2階に上がります?」
探るような、けれどどこか真面目な声音。
まるでルールを交渉し直すように。
アランは小さく肩をすくめ、いつものような静けさをそのまま声にのせた。
「朝よ。今は朝」
言葉の意味は即答であり、そしてまた曖昧さも含んでいた。
けれどレギュラスは逃さない。
「……じゃあ、夜ならいいんですか?」
少しだけ唇を緩めてそう問いかけた。
声にはいたずらのような色を帯びながらも、仕返しのようでもあり、
アランの揺らぎを探ろうとする、少年めいた意地が潜んでいた。
アランは一瞬だけ言葉を探すように目を伏せたあと、軽く笑った。
はっきりと「駄目」とは言わなかったその声が、
この小さな攻防戦に意味のある余白を残していく。
テーブルのうえの銀のスプーンが、朝の光にわずかにきらりと反射している。
何事もなかったように朝は続いていく――けれど、
その下で、ふたりの間には、たしかに一片の火花が踊っていた。
