3章
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石畳の路地に春の陽がやわらかく降り注ぐ昼下がり。
アランと一人の令嬢は、街はずれの老舗の花屋を訪れていた。
店先にはラベンダーやリンゴミント、白いアネモネが香りと色合いを重ねて咲き誇り、通りすがる風に花びらがふわりと舞っていた。
アランの隣を歩いていたのは、エセル・グレイシア嬢。
屋敷に迎えられた令嬢たちの中では最も年若く、
その年齢にふさわしい初々しさと凝りすぎない誠実さを身にまとっていた。
小さな籐のバスケットを抱え、遠慮がちに花を選んでいた彼女が、ふと歩みを止め、アランに向き直った。
「……あの、アラン様」
アランが顔を向けると、花束の影から少しだけ紅潮した頬がのぞいていた。
「こんなこと、奥様にお話しするのは本当に失礼だと分かっているのですが……」
言葉を選びながらも、声は震えていた。
それでも途中でやめずに、彼女は続けた。
「私は……誰かを好きになったことがなくて。男の人とそういう関係になるということも、まだ、想像がつかなくて」
「もし、そういうことがあるとしたら……レギュラス様が、私の初めてになるのだと思います」
「だから、少し……怖いんです。緊張してしまって」
語られたその声音の中には、戸惑いや恥じらいというよりも、
もっと無垢で素直な、ほんの少し大人になろうとする少女の心がにじんでいた。
そして一拍の沈黙ののち、エセルは項垂れるようにして口を付け加えた。
「……こんな話を、レギュラス様の奥様であるアラン様にしてしまって、本当に申し訳ありません」
アランはその姿を見つめ、
胸の奥にそっと痛みが広がるのを感じた。
それは怒りではなく、嫉妬でもない。
ただ――締めつけられるような、痛みだった。
けれどすぐに、アランは微笑んだ。
穏やかに、やさしく、彼女の肩に手を添える。
「いいのよ、顔をあげて」
アランの声には、姉のようなあたたかさが宿っていた。
「レギュラスは、とてもとても優しい人なの。
あなたを雑に扱ったりなんて、絶対にしないわ。
だから、安心して」
ほかの誰かに言われるよりも、ずっと重みのある言葉だった。
それはアランだからこそ、伝えられること。
妻として、共に時間を重ねてきた者として――
そして今、この少女の不安に寄り添う、もうひとつの「年上の女性」として。
エセルはゆっくりと顔をあげた。
まぶたに薄く涙がにじんでいたが、それでも彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます…… アラン様」
その声のかすかな震えが、少しだけ希望に変わっていた。
アランは、この少女が今まさに、小さな扉を開こうとしていることを感じていた。
それは愛の扉でも、成長の扉でもあった。
しかしどちらにせよ――その一歩には、どうか“安心”があるべきだと、心から願っていた。
だから、差し出す言葉は祝福で、
その眼差しには、ほんとうの姉のような祈りが宿っていた。
日だまりの街を歩くふたりの影は、寄り添うようにやわらかく伸びて、
花の香りとともに、午後の光に溶けていった。
夜が更けるにつれて、屋敷の空気も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
夫婦の寝室には淡いランプの灯りだけが灯されており、静かな会話だけがその優しい明るさの中に息づいていた。
アランは、ソファに腰かけていたレギュラスのそばにそっと膝をつき、小さな声で語りかけた。
「……エセルさんのことなんだけれど」
レギュラスは彼女の言葉に、すぐには反応しなかった。
「今日は、街で一緒に過ごしたの」
話しながらアランは、柔らかな毛織のブランケットの折り目を指先でなぞっていた。小さなためらいを挟んで、続ける。
「……あの子ね、恋をしたことがないのですって。あの年頃では、珍しくないのかもしれないけれど」
「もし何かがあったら、あなたが“最初”になるのだと……分かっていて、すごく緊張しているみたいで」
レギュラスの手が小さく止まる。読んでいた本を伏せ、わずかに視線を上げた。
「で、僕にどうしろと?」
決して冷たくはない。しかし、その言葉には明らかな戸惑いが滲んでいた。
不意打ちのように届いた“その話”の行間を、どう咀嚼していいかがまるでわからないのだ。
アランは、わずかに目を伏せる。
わかっていた——これはきっと、レギュラスにとって“余計な気遣い”になることだった。
だからこそ口にするのを迷った。けれど、それ以上に、あの少女の不安が胸に残っていた。
「……どう、というか……」
アランはゆっくりとした声で語る。
「気遣って、あげてほしいの。せめて……怖くないように、って……」
その声音には、穏やかさと母のような祈りがほんのり混ざっていた。
あの可憐な少女の「初めて」が、恐れや痛みで塗り潰されてしまうことがないように——
その一心だった。
レギュラスは、黙っていた。
ただ、息をひとつ吸い込む。
気持ちはよくわかる。
けれど、どう対処すべきか……自分自身が“心で抱けない者”に、物理だけを求められたとき、果たしてそれをどう“やさしく”成せるのか。
答えが、出ない。
けれどそれでも。
目の前のアランが、その少女を「ただの花嫁候補」ではなく、ひとりの娘のように守ろうとしていたこと。
そして何より、そうまでして“レギュラス自身にしか救えない領域”があると信じて語ってくれたことに、
応えたくなる思いが、確かに胸の奥に灯っていた。
「……ええ」
短く答えて、目を深く伏せた。
「……そうします」
渋さと、誠意がないまぜになったその返事は、レギュラスの中にまぎれもない“揺らぎ”と“努力”の始まりを告げていた。
その言葉に、アランは何も答えなかった。ただ静かに微笑んで、そっと彼の手に、自分の手を重ねた。
ふたりの間にあった静寂は、もう重たくはなかった。
どこか、未来を少しだけ許せるような、やさしい沈黙だった。
控えめな暖炉の火だけが揺れる静かな客間。
夜は深く、屋敷の他のどの部屋からも気配は遠のいていた。
レギュラスは静かに扉を閉め、振り返る。
そこにいたのは、オルリー・ダリス。
整えられたドレスと、控えめな化粧の下に、幾分か緊張を宿した面差し。
それでも彼女は立ち上がり、丁寧にレギュラスに一礼した。
その姿が、あの夜──夫婦の寝室のシーツの中で見た無遠慮な姿とはまるで違っていた。
「……あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
頭を下げるオルリーの声は、ためらいのない誠実な声だった。
レギュラスは眉をわずかに動かし、口をひらく。
「いえ……あの話は、ほんとうに。もういいんです」
首をゆっくりと横に振ると、その言い方には怒りはなかった。
むしろ、過去に一度もなかったほど冷静だった。
なぜなら、あの夜があったからこそ、アランとの間にあらためて築くことができた絆があった。
自分の愚かさと向き合い、その手を掴みなおせた時間があった。
ならば、もう責める理由などどこにもなかった。
むしろ、ごく皮肉な形ですら、「感謝」していたくらいなのだ。
部屋の間に流れる空気は、緊張というよりも沈黙だった。
けれど、そこにはもはや迷いや疑問はない。
今日という夜。
それがどういう意味を持つかを、レギュラスは理解していた。
そして飲み込んでいた。
目的は明白だ。
世継ぎを得るための、政略的、血筋の維持という名の性行為。
感情や心を求めてはならない。
だからこそ。
最低限の礼節が保たれているのなら。
互いが理解しているのなら。
あとは、淡々と“務め”として進める以外に、きっと選びようがない。
それでも、胸が静かに高鳴るのが自分でも分かった。
ソファからゆっくりと立ち上がると、オルリーの視線が、ひそやかに上がった。
察したように、彼女は身服の帯をほどく準備を始めていた。
白く、幼さの残る肩が月灯りに沈み、空気が少しだけ震えた。
レギュラスの足音は極めて静かだった。
彼女の前に立っても、しばらく手は動かなかった。
ほんの一歩の距離。
けれど、その一歩先に踏み出すことだけが、
今夜、かつてなかったほど重たかった。
彼の手が、オルリーの肩にそっと添えられる。
その指先は、自分でも情けなくなるほどわずかに震えていた。
自分の心のどこかから、まだ微かな罪悪感が音もなく漏れているのを感じる。
冷たいとも、温かいとも言い切れない空気のなか、
ふたりの身体は静かに近づいていった。
それは決して激情でも、愛情でもなかった。
ただ、「未来を紡ぐため」に選ばれた今夜という“務め”に、
ふたりが黙って応じようとしているだけだった。
灯りの下で、影が重なってゆく。
レギュラスは、まだどこか遠くの場所で、アランの笑顔を思い出していた。
その余韻だけを、今夜自分の中に小さく灯して──
静かに、誰にも知られないように、その夜を始めた。
部屋に流れていた静寂が、決壊するようにして崩れたのは、
レギュラスが「すみません」と小さく、それでも確かな声で告げた、その瞬間だった。
その言葉は的確で、潔くて、そしてあまりにも切なかった。
彼の視界のなかで、オルリー・ダリスは胸元を押さえながら、ゆっくりと瞳を伏せていた。
眉の線がかすかに下がっている。
――その仕草ひとつとっても、彼女が何かを「言われる前に理解してしまった」のだということが、よく分かった。
レギュラスは言葉を続けなかった。
すでに、その場にこれ以上の説明の余地はなかった。
衣服に手をかけた。
そこまでは進めた。
けれど、それ以上先に――どうしても、進めなかった。
身体が、心が、どこかで鈍く拒んでいた。
用意もあった。理屈も、覚悟も持っていた。
それでも動けなかった。
なぜなのか、もうレギュラス本人にも分からなかった。
それがアランへの想いによるものか、
それとも単なる「本能的な拒絶」だったのか。
もはや問いすら立てられないほど、心は混乱していた。
黙って俯くオルリーの姿が、
「責めていない」と言葉にする間も与えずに、
彼の胸の奥に鈍く罪悪感だけを落としていく。
何も語らない優しさが、時に何より重いことを、
レギュラスは誰よりも知っていた。
己自身のこの不器用な拒絶が、
無垢に整えられた彼女の自尊心を、間違ったかたちで傷つけてしまったのではないかとも思った。
――そして、何よりも。
いま、自分が強く確信してしまっていたのは、
言葉にせずとも、
アランの元へ帰りたいのだという渇望だった。
「ごめんなさい」も、「ありがとう」も言えなかった。
礼節のすべてが、どこか虚しく響く空気だった。
淡い香水の残り香と、触れきれなかったぬくもりの気配だけが、
客間に薄く、長く漂っていた。
レギュラスは、部屋を出た。
扉を静かに閉めたあと、ほんの数秒その場から動けなかった。
けれどすぐに、心の奥にある唯一の明瞭な願いが、彼の背を押した。
―― アランの部屋へ行きたい。
その腕に触れたい。
息づかいを感じたい。
そして、今夜完了できなかったすべてを、アランと共に紡ぎなおしたい。
温かく、真実のままで交わるために。
すでに時刻は深く、廊下はしんと静まり返っていた。
それでも、その先にある淡い光を頼りにして、
レギュラスはアランのもとへ、まるで帰還するように歩き出した。
その足取りには、いつになくはっきりとした意思が宿っていた。
任務に向かう山道の途中、小さな谷間の陰に身を潜めながら、レギュラスとバーテミウスは低い声で会話を交わしていた。あたり一帯に配された監視魔法に反応しないよう、空気は張り詰めていたが、本題とはまったく別のところで、場の緊張が砕ける音がした。
「……それで、昨夜のことなんですが」
レギュラスが言葉を選びながらも切り出した瞬間、バーテミウスの片眉が動いた。
普段、冷静すぎるこの男が「私事の話題」を持ち出すことなどそうそうない。
だからこそ、その続きが気になった。
そして事実が口から零れると同時に――
「……はっ!」
谷間に響いたのは、ついには堪えきれなかったバーテミウスの爆笑だった。
「最後まで!? ――まさか、できなかった!?」
声を殺すどころか、腹を抱えて声を絞り出すような笑い方。
隠密行動中の静寂が、一瞬にして吹き飛ぶほどだった。
「……静かにしていただけますか」
抑えた声とともに、レギュラスの手から音消しの呪文が勢いよく飛んだ。
途端に、バーテミウスの笑い声が周囲から波紋のように消える。
それでも彼の肩が震えているのは、レギュラスの目にもしっかり入っていた。
「……任務中ですよ。あまりにも軽率すぎます」
ぴしゃりとレギュラスが言い放っても、バーテミウスは口の端を引きつらせながら笑いを噛み殺していた。
「いや、いやすまない……でも、僕らの歳で“最後まで無理でした”って、そんなこと……普通ある?」
「……思っていました。あなたに話さなければよかったと」
低く落とされた声には、わずかな苛立ちと後悔が滲んでいた。真剣な心の重さを吐露したはずなのに、返ってきたのは呆れるほど陽気な笑い声。自分でもなぜ話したのか、理解に苦しみ始めていた。
バーテミウスはようやく息を整えながら、精悍な顔に名残の笑みを残しつつも、少しだけ真顔を取り戻した。
湿った森の中、任務地への戻り道を歩きながら、レギュラスとバーテミウスは再びいつもの低い声で言葉を交わしていた。枯葉を踏んでゆく足音と、遠く鳥の啼く音だけが、ひっそりした空気の中で溶け合っていた。
そんななか、バーテミウスは肩をすくめ、軽口とも真剣とも取れる調子で口を開いた。
「気持ちが高まる薬でも使えばいいんじゃないのかい? ……ほら、年寄りが拝借するようなやつ」
それを聞いた瞬間、レギュラスの頬がほんのわずかひきつる。
笑うでも怒るでもなく、ただ数秒、微妙な間が空いた。
「……馬鹿にされています?」
低く、一拍遅れて返されたその声は、乾いていた。
けれど、どこか認めたような、皮肉まじりの感情も混ざっていた。
(的が外れてもいない)
昨夜感じたあまりにも情けない“揺らぎ”は、もはや自分一人だけで制御しきれるものではないかもしれない。
静かに、真顔のまま問う。
「……手に入りますか」
唐突とも思えるその問いに、バーテミウスは肩を揺らし、片眉を上げた。
「セシール嬢がいただろう? 魔法薬は得意だった。あの人なら、頼まれれば一滴で効くような代物を作ってくれるんじゃないかな」
その時だった。
レギュラスは歩みを止め、無言のまま、杖を抜いた。
先端はバーテミウスの胸元へ――けれど殺気は一切なかった。ただ、やるせないほどの「無言の意思」が込められていた。
(なぜ、アランに、それを頼めるというのです)
その視線に、言葉はいらなかった。
バーテミウスは、数秒の沈黙の後、「ああ……」と、ゆっくり溜息を吐き出したように呟いた。
「……そうだったな。それだけは、君のプライドが許さないか」
「違う」
レギュラスが静かに口を開く。声音は低く、けれど震えていない。
「……彼女は、そういうふうに巻き込む存在ではないんです。少なくとも、僕の“弱さ”の道具にするようなことは」
その言葉には、ただの潔癖や思い込みではない、静かで深い敬意が宿っていた。
アランを、ひとりの女性として守りたい。
恋でも義務でもなく、ただその生き方を尊重したいという心。
それが、“薬を作ってくれ”というような一言すら、許さない。
バーテミウスは苦笑を浮かべ、手のひらを上げて見せた。
「わかったよ。……じゃあ、僕がクスリ屋でも探してやるさ。合法ぎりぎりの線で」
レギュラスはゆっくりと杖を下ろす。
笑いはない。ただ静かなため息が、口の端からこぼれただけだった。
森の風がやさしく枝を揺らし、小さな影がふたりの足元に揺れ落ちる。
どんな手を使ってでも乗り越えなくてはならない夜が、
彼にはまだ、数多く待っているような気がしていた。
午後の陽が傾きはじめ、庭の植栽の影がゆっくりと伸びる頃。
アランとレギュラスは、久しぶりにふたりきりで、何の用事もなく、静かな日中のひとときを共にしていた。
窓際のアームチェアに並んで腰を掛け、お互いの気配だけを感じるように、本を読むでもなく言葉を交わすでもなく。
ただ、穏やかな時間がそこに流れていた。
レギュラスは以前に比べて、明らかに柔らかくなっていた。
かつて、屋敷に招かれる令嬢たちに向けていた無関心や冷ややかさ、苛立ちの面影はもうない。
彼なりに節度を保ち、その誰に対しても最低限の誠意を忘れず、優しく接するようになっていた。
アランはその変化を、静かに――けれど深く、胸の中で喜んでいた。
それは、努力だったのだろう。
アランの言葉や、セレナの存在や、そこに重ねられてきた日々の中で生まれた、小さな“歩み寄り”だった。
それが、彼のやり方で選んだ「変化」なら、
アランは、ただそっとそれを見守りたかった。
「昨日は――流星群でしたよ」
ふいに、レギュラスが窓の外をぼんやり眺めながら言った。
その声には、どこか子供のような無邪気さが宿っていた。
「任務中でね、森の中だったんですが……空を見上げた時、ちょうど星が流れていて」
アランは、その横顔をやわらかく見つめながら応えた。
「ええ、知ってました。少しだけ夜更かしして、見ましたもの。……だから」
微笑を含んだ声で、視線を遠くにやる。
「お願いごとをしましたよ」
レギュラスは、小さく眉を動かした。
「どんなことを?」
問いかけた声には、軽さと、ほんの少しの興味が混ざっていた。
けれど、アランはふわりと首を横に振った。
「……内緒です。教えてしまったら、願い事、叶わなくなってしまいそうでしょう?」
言葉の奥には、ひらかれていない包みのような静けさがあった。
けれどその眼差しには、あまりに明瞭なあたたかさが宿っていた。
願ったのは、皆が健やかであること。
そして――この家に、新しい命が芽吹くような奇跡。
そのすべてを、“ アラン自身ではない誰か”に託すという、
静かな祈りだった。
アランは、果たすべき役目を、自分ではなく「次」に託そうとしていた。
もう、自らにその運命を課すことはしない。
それは、諦めではなく――何度も痛みと希望を繰り返してたどり着いた、一種のやさしいけじめだった。
けれど、だからこそ願う。
誰かが、その奇跡を抱えてくれる未来を。
レギュラスのそばに、それが在ってくれる未来を。
それが叶えば、自分の役目は終わる。
そう思っていた。
部屋に沈む午後の光は、金に近いあたたかさで二人を包み込んでいた。
どこにも焦りはなく、決して涙もなく。
ただ、穏やかで誠実な愛と、
手の届かない願いが、そっとこの部屋の空気に溶けてゆくようだった。
夜は深く、屋敷の空気は張りつめていた。
レギュラスは書斎の奥、誰にも見られぬように慎重に包を開け、掌に置いた小瓶を見つめていた。
バーテミウスが冗談交じりに用意し、ふざけた笑いとともに「お守りみたいなものだ」と手渡してきたそれ。
琥珀色の液体は、暗がりの中でかすかに灯るように揺れていた。
――本当に、こんなものが効果を出すのか。
疑いはあった。
けれど、疑いながらも彼は迷いなく服用した。
「努力」という言葉では括れないほどの重たい決意が、
もう後戻りを許さないところまで来ていたのを、彼自身がいちばんよくわかっていたからだった。
その夜の客間でレギュラスと共にいたのは、エメリンド・フェリックス。
静かな敬意を忘れず、控えめでありながら誇りを纏うような女性。
初めてふたりきりの時間が、ただの形式を越えた意味を持つ夜。
レギュラスは、もう逃げなかった。
息を整えながら、過剰な会話は避け、ごく自然な空気で距離を縮めていった。
目が合えば、彼女は恥じらいを含んだやさしい微笑みを返してくれた。
拒まれるような要素は、どこにもなかった。
そして、レギュラスは――彼女を抱いた。
今までで、たぶん一番「自分を奮い立たせた」。
事務的にならないように。
礼儀も、敬意も、温度も損なわないように。
そのために心を総動員させた。
気まずさが滲まぬよう、体温を乱さぬよう、すべての所作に気を配った。
けれど――
キスは、どうしてもできなかった。
唇に触れそうになるたび、
自分の中のどこか深い箇所が、静かに、けれどはっきりと抗った。
それは本能だった。
「唇はアランとしか交わさない」――
そんな考えを明文化するまでもなく、体が拒絶していた。
終わったあと、視線は重なったが、言葉は交わさなかった。
エメリンドは静かに整えた髪を撫で、さりげなく礼を口にした。
レギュラスはただ、静かに、扉の方へと向かった。
その背には、説明しようのない虚無がついてまわった。
ようやく、ようやく一人と“最後まで”行為を終えることができた。
身体としては確かに“できた”。
だが、達成感より先に来たのは――深く、底のない虚しさだった。
「……何をしているんだ、僕は」
思わず廊下で呟いたその声は、誰にも届かず消えた。
誇ってもいいのだ。
期待に応えたのだ。
跡取りを生むという役割を、ようやく果たせたのだから。
けれど、その隙間を埋めてくれるのは、アランのぬくもりだけだった。
抱いたときの指先も、耳元の髪も、肌の間を流れる空気も――
どこかで「違う」と訴えていた。
愛しいとすら思えた。けれど、それは、「アランではない」という確かな事実を消してはくれなかった。
この夜が何かの義務を果たした夜であったことに、間違いはない。
けれど、それ以上ではなかった。
そして、これから先も――
自分にとって本物の「愛」は、
恐らくもうひとつしか持ち得ないのだろうと、静かに、深く思い知らされた夜だった。
レギュラスは、陽の昇らぬ夜の廊下を歩きながら、
ただ、アランの笑顔を思い出していた。
それだけが、心を冷えさせずに立っていられる、たったひとつの光だった。
朝露がまだ芝に残る時間、屋敷の中は静謐に満ちていた。
その朝、アランはレギュラスよりも早く目覚めていた。寝所の空気がまだ淡く涼しく、胸の奥に沈んだ閉塞感から逃げるように、一番にティーポットの湯気に手を伸ばした。
応接間の小さなテーブルで茶菓子を挟み、膝下まで届くスカートの裾を整えるようにして微笑み合っていたのは、フィロメーヌ・モンターニュとアランのふたりだった。
「それでね……最終的に背後から現れたのは、使用人に化けた彼女のお父様だったというわけ」
フィロメーヌの朗らかな声とともに、アランは思わず息を詰めて笑った。
ごく軽やかな仕草で両手を口元に添え、肩を揺らすようにして――控えめな貴婦人らしい笑いではなかった。
それは、素に近い――心からほどけた笑いだった。
その声はすぐには消えず、室内の光と一緒に静かに残り続けていた。
屋敷に響くあたたかな笑い声。一日の初めに訪れるには、あまりにも柔らかすぎる喜び。
自分でも、昔の自分のようだなと微かに感じながら、アランはフィロメーヌの話に頷いていた。
“社交”や“振る舞い”ではない、純粋にともに笑える存在というものを――今さらながらひとつ手に入れていた。
階上では、レギュラスが目を覚ましていた。
昨夜の重さが体中に残っていた。
肉体は果たしたかもしれない。けれど、魂は遠く置き去りにされたような虚しさが、まだ肩に影のように残っていた。
ボタンを留める手はどこか鈍く、階段を下りる足取りは今にも崩れそうなほど重たかった。
そして降りた先、
最初に聞こえたのが「アランの笑い声」だった。
耳に届いたそれは、かつて自分が知っているようで知らなかった音――
装われた貴婦人の仮面ではなく、ただの“ アラン”として音を立てて笑っていた。
その対面の相手には、フィロメーヌ。
自分がまといきれなかった空気を、どこか自然に手にして姑息な手段もなく、
柔らかく引き出してしまった存在。
そんな彼女の横顔に、アランは真正面から心を向けていた。
胸の奥に、ひどく冷たいものが流れ込んできた。
それが嫉妬だと気づくまで、一瞬しか要さなかった。
まるで無関係のように、ひとことで遮る。
「……楽しそうですね、お二人とも」
低く、余計な抑揚と冷たさがわずかに混ざったその声だけが、部屋を静かに打った。
アランが思わず手を止める。
フィロメーヌも、上品な笑みを浮かべたまま礼を示すように軽く頭を下げた。
けれどレギュラスには、その微笑がすら、とがめて見えてしまった。
どうして、自分はエメリンドを抱き、その翌朝、
アランの笑い声に嫉妬などしているのか。
理由など、誰にも説明できない。
ただ、心が求めているのはアラン 1人だけだという事実を、改めて痛感させられただけだった。
それなのに――届かない。何も、届かなくなっている気さえしていた。
ひどく、ひどく遠く感じた朝だった。
朝の食卓には、磨かれた銀器のさざ波のような音と、焼きたてのパンの香り、湯気を立てる紅茶の香ばしさが、ごく穏やかに漂っていた。
けれど、静けさの奥には別の、誰にも言葉にされていない緊張がわずかにくすぶっていた。
その日、アランはいつもより数分だけ遅れて朝食の席に現れた。
そのまま自然にレギュラスの正面に座るかと思えば——彼女はフィロメーヌと視線を交わし、やわらかく頷いてから、そのままテーブルの一番端へと歩いていった。
ふたりは、並んで腰を下ろす。
距離はあるのに、どこか「背中で会話をしている」ような親密さを感じさせる空気だった。
レギュラスの掌に握られたナプキンが、ほんのわずか強く皺を作った。
本来であれば、そこに座るのはアランだった。
自分の正面で微笑み、たまに注意深く紅茶を注いでくれる、小さな気遣いを交わすべき存在。
今朝はそれがない。
そして遠くの席で何やら小声で何かを囁き合っているアランとフィロメーヌは、目元と言葉の端に笑みを忍ばせていた。
声は控えめで、まわりには届かないほどに節度はある。
けれど、アランが笑いを堪えるように唇を押さえるその仕草——
それがレギュラスには、見たことのない横顔だった。
まるで屋敷の緊張や格式のしがらみに縛られていない、
もっとずっと“若い頃のアラン”がそこに戻ってきているような、自然な笑い。
その笑顔を引き出しているのが隣にいるフィロメーヌだと思うと、
レギュラスの胸の奥に、焦げるような嫉妬が残響のように静かに広がっていった。
彼が昨夜、どれほど冷たいベッドで、どれほど空虚な“役割”を果たしていたか。
それに比べて、今のアランは、生きる梢そのもののように軽やかだった。
「お母様ったら、楽しそう。いいなぁ」
その声に、思考が引き戻される。
セレナだった。
口元にバターをつけたまま、パンをかじりながら、眩しいほど素直な声でそう言った。
その視線の先には、もちろんアランがいた。
レギュラスは目を伏せ、小さく息を吸った。
セレナのその無垢な感性が、羨ましかった。
誰に遠慮するでもなく、素直に「いいなぁ」と口にできるその在り方を、愛しく思う反面、自分には到底できないと感じたからだった。
心の中で複雑に絡まる嫉妬と後悔と、微かな喪失感。
そのすべてを、銀のスプーンの音にまぎれさせながら、
レギュラスは黙って料理を口に運んだ。
それは、あたたかいはずの朝に吹き込んできた、見えない冷たい風のようだった。
朝食どきの空気に、あたたかい紅茶の香りと、控えめな笑い声の名残がまだ漂っていた。
テーブルの一番端。アランとフィロメーヌの間に、ひょこりと入り込んできたのは、セレナだった。
「お母様、私も混ぜて」
そう言うなり、特に椅子を引くこともせず、アランの膝の上に無理やり乗ってくるようにして身体を押しあててくる。
「セレナ、ちょっと……ふふ、もう」
小さくたしなめるように言いながら、アランは娘の軽やかな身体を自然に支える。
その姿は可笑しくも微笑ましく、まさしく“母娘”だった。
片腕でセレナを支えながら、もう片方の手でティーカップを持つアランの仕草には自然な優しさが滲んでいた。
セレナは満足気にアランの肩にもたれかかりながら、話に混ざるタイミングを探していた。
その姿を、レギュラスは遥か席の端からただ、静かに見つめていた。
ああ、と胸の奥で声にならぬ声がこぼれる。
その素直さが、羨ましいほどだった。
喉から手が出るほど欲しかったもの。
遠慮も、配慮も、探るような視線すら持たない、まっすぐで、柔らかい“入り込み”。
自分がどれほど手繰り寄せようとしても、届かないもの。
レギュラスは静かに席を立つ。
目立たぬようにしたその動きを、アランはすぐに察知した。
「……あら、ごめんなさい、ちょっとだけ」
フィロメーヌにそう一言添えてから、アランも静かに立ち上がる。
レギュラスの歩みに数歩遅れて、彼に声をかけた。
「今日は……遅くなりますか?」
その声音は落ち着いていたが、どこかほんの少し――
気づかれないくらいに、何かを探るような音色だった。
「状況次第です」
レギュラスは簡潔に返す。
その距離感、言葉の切り口。
ほんの少しの沈黙すら、お互いの感情を詰め込むには充分すぎた。
そのあいだに、別の令嬢がスッと現れた。
手にはレギュラスの外套。
「奥様は、お座りいただいていて大丈夫ですわ」
礼儀正しい。声も穏やかだった。
けれどその丁寧さが、なおさらレギュラスの胸を刺した。
アランは一瞬レギュラスの方を見て、わずかに口角を上げただけで、
「それでは、失礼いたしますね」
そう言って、またフィロメーヌとセレナのもとへ、さっきまでいた席へと戻って行った。
背中を向けるその瞬間、レギュラスは思わず声を止めかけた。
否、言葉ではなかった。
心の奥深くから、叫びたくなる衝動に駆られたのだ。
――違う。
待っていてほしかったのは、この令嬢ではない。
外套を手にして見送る役なんて、誰でもできる。
自分が望んでいたのは。
彼女のまなざしと、
朝の別れ際にだけ訪れる、あの静かな祈りをこめたような「いってらっしゃい――」の仕草だった。
努力すると言った。
形にしてみせると決めた。
それでも――
全てが、腹立たしかった。
正しく立ち振る舞ってさえいれば、結果はついてくると思っていた。
けれど、温度と形は、まったく別の場所にあって。
すべてが整っているはずなのに、ただ渇いていく。
それをアランに悟らせまいと、外套をようやく肩まで整えながら、レギュラスは胸の奥に、まだ冷めやらぬ思いを閉じ込めた。
それは誰にも気づかれることなく、朝の光のなかでゆっくりと息をひそめていった。
アランと一人の令嬢は、街はずれの老舗の花屋を訪れていた。
店先にはラベンダーやリンゴミント、白いアネモネが香りと色合いを重ねて咲き誇り、通りすがる風に花びらがふわりと舞っていた。
アランの隣を歩いていたのは、エセル・グレイシア嬢。
屋敷に迎えられた令嬢たちの中では最も年若く、
その年齢にふさわしい初々しさと凝りすぎない誠実さを身にまとっていた。
小さな籐のバスケットを抱え、遠慮がちに花を選んでいた彼女が、ふと歩みを止め、アランに向き直った。
「……あの、アラン様」
アランが顔を向けると、花束の影から少しだけ紅潮した頬がのぞいていた。
「こんなこと、奥様にお話しするのは本当に失礼だと分かっているのですが……」
言葉を選びながらも、声は震えていた。
それでも途中でやめずに、彼女は続けた。
「私は……誰かを好きになったことがなくて。男の人とそういう関係になるということも、まだ、想像がつかなくて」
「もし、そういうことがあるとしたら……レギュラス様が、私の初めてになるのだと思います」
「だから、少し……怖いんです。緊張してしまって」
語られたその声音の中には、戸惑いや恥じらいというよりも、
もっと無垢で素直な、ほんの少し大人になろうとする少女の心がにじんでいた。
そして一拍の沈黙ののち、エセルは項垂れるようにして口を付け加えた。
「……こんな話を、レギュラス様の奥様であるアラン様にしてしまって、本当に申し訳ありません」
アランはその姿を見つめ、
胸の奥にそっと痛みが広がるのを感じた。
それは怒りではなく、嫉妬でもない。
ただ――締めつけられるような、痛みだった。
けれどすぐに、アランは微笑んだ。
穏やかに、やさしく、彼女の肩に手を添える。
「いいのよ、顔をあげて」
アランの声には、姉のようなあたたかさが宿っていた。
「レギュラスは、とてもとても優しい人なの。
あなたを雑に扱ったりなんて、絶対にしないわ。
だから、安心して」
ほかの誰かに言われるよりも、ずっと重みのある言葉だった。
それはアランだからこそ、伝えられること。
妻として、共に時間を重ねてきた者として――
そして今、この少女の不安に寄り添う、もうひとつの「年上の女性」として。
エセルはゆっくりと顔をあげた。
まぶたに薄く涙がにじんでいたが、それでも彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます…… アラン様」
その声のかすかな震えが、少しだけ希望に変わっていた。
アランは、この少女が今まさに、小さな扉を開こうとしていることを感じていた。
それは愛の扉でも、成長の扉でもあった。
しかしどちらにせよ――その一歩には、どうか“安心”があるべきだと、心から願っていた。
だから、差し出す言葉は祝福で、
その眼差しには、ほんとうの姉のような祈りが宿っていた。
日だまりの街を歩くふたりの影は、寄り添うようにやわらかく伸びて、
花の香りとともに、午後の光に溶けていった。
夜が更けるにつれて、屋敷の空気も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
夫婦の寝室には淡いランプの灯りだけが灯されており、静かな会話だけがその優しい明るさの中に息づいていた。
アランは、ソファに腰かけていたレギュラスのそばにそっと膝をつき、小さな声で語りかけた。
「……エセルさんのことなんだけれど」
レギュラスは彼女の言葉に、すぐには反応しなかった。
「今日は、街で一緒に過ごしたの」
話しながらアランは、柔らかな毛織のブランケットの折り目を指先でなぞっていた。小さなためらいを挟んで、続ける。
「……あの子ね、恋をしたことがないのですって。あの年頃では、珍しくないのかもしれないけれど」
「もし何かがあったら、あなたが“最初”になるのだと……分かっていて、すごく緊張しているみたいで」
レギュラスの手が小さく止まる。読んでいた本を伏せ、わずかに視線を上げた。
「で、僕にどうしろと?」
決して冷たくはない。しかし、その言葉には明らかな戸惑いが滲んでいた。
不意打ちのように届いた“その話”の行間を、どう咀嚼していいかがまるでわからないのだ。
アランは、わずかに目を伏せる。
わかっていた——これはきっと、レギュラスにとって“余計な気遣い”になることだった。
だからこそ口にするのを迷った。けれど、それ以上に、あの少女の不安が胸に残っていた。
「……どう、というか……」
アランはゆっくりとした声で語る。
「気遣って、あげてほしいの。せめて……怖くないように、って……」
その声音には、穏やかさと母のような祈りがほんのり混ざっていた。
あの可憐な少女の「初めて」が、恐れや痛みで塗り潰されてしまうことがないように——
その一心だった。
レギュラスは、黙っていた。
ただ、息をひとつ吸い込む。
気持ちはよくわかる。
けれど、どう対処すべきか……自分自身が“心で抱けない者”に、物理だけを求められたとき、果たしてそれをどう“やさしく”成せるのか。
答えが、出ない。
けれどそれでも。
目の前のアランが、その少女を「ただの花嫁候補」ではなく、ひとりの娘のように守ろうとしていたこと。
そして何より、そうまでして“レギュラス自身にしか救えない領域”があると信じて語ってくれたことに、
応えたくなる思いが、確かに胸の奥に灯っていた。
「……ええ」
短く答えて、目を深く伏せた。
「……そうします」
渋さと、誠意がないまぜになったその返事は、レギュラスの中にまぎれもない“揺らぎ”と“努力”の始まりを告げていた。
その言葉に、アランは何も答えなかった。ただ静かに微笑んで、そっと彼の手に、自分の手を重ねた。
ふたりの間にあった静寂は、もう重たくはなかった。
どこか、未来を少しだけ許せるような、やさしい沈黙だった。
控えめな暖炉の火だけが揺れる静かな客間。
夜は深く、屋敷の他のどの部屋からも気配は遠のいていた。
レギュラスは静かに扉を閉め、振り返る。
そこにいたのは、オルリー・ダリス。
整えられたドレスと、控えめな化粧の下に、幾分か緊張を宿した面差し。
それでも彼女は立ち上がり、丁寧にレギュラスに一礼した。
その姿が、あの夜──夫婦の寝室のシーツの中で見た無遠慮な姿とはまるで違っていた。
「……あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
頭を下げるオルリーの声は、ためらいのない誠実な声だった。
レギュラスは眉をわずかに動かし、口をひらく。
「いえ……あの話は、ほんとうに。もういいんです」
首をゆっくりと横に振ると、その言い方には怒りはなかった。
むしろ、過去に一度もなかったほど冷静だった。
なぜなら、あの夜があったからこそ、アランとの間にあらためて築くことができた絆があった。
自分の愚かさと向き合い、その手を掴みなおせた時間があった。
ならば、もう責める理由などどこにもなかった。
むしろ、ごく皮肉な形ですら、「感謝」していたくらいなのだ。
部屋の間に流れる空気は、緊張というよりも沈黙だった。
けれど、そこにはもはや迷いや疑問はない。
今日という夜。
それがどういう意味を持つかを、レギュラスは理解していた。
そして飲み込んでいた。
目的は明白だ。
世継ぎを得るための、政略的、血筋の維持という名の性行為。
感情や心を求めてはならない。
だからこそ。
最低限の礼節が保たれているのなら。
互いが理解しているのなら。
あとは、淡々と“務め”として進める以外に、きっと選びようがない。
それでも、胸が静かに高鳴るのが自分でも分かった。
ソファからゆっくりと立ち上がると、オルリーの視線が、ひそやかに上がった。
察したように、彼女は身服の帯をほどく準備を始めていた。
白く、幼さの残る肩が月灯りに沈み、空気が少しだけ震えた。
レギュラスの足音は極めて静かだった。
彼女の前に立っても、しばらく手は動かなかった。
ほんの一歩の距離。
けれど、その一歩先に踏み出すことだけが、
今夜、かつてなかったほど重たかった。
彼の手が、オルリーの肩にそっと添えられる。
その指先は、自分でも情けなくなるほどわずかに震えていた。
自分の心のどこかから、まだ微かな罪悪感が音もなく漏れているのを感じる。
冷たいとも、温かいとも言い切れない空気のなか、
ふたりの身体は静かに近づいていった。
それは決して激情でも、愛情でもなかった。
ただ、「未来を紡ぐため」に選ばれた今夜という“務め”に、
ふたりが黙って応じようとしているだけだった。
灯りの下で、影が重なってゆく。
レギュラスは、まだどこか遠くの場所で、アランの笑顔を思い出していた。
その余韻だけを、今夜自分の中に小さく灯して──
静かに、誰にも知られないように、その夜を始めた。
部屋に流れていた静寂が、決壊するようにして崩れたのは、
レギュラスが「すみません」と小さく、それでも確かな声で告げた、その瞬間だった。
その言葉は的確で、潔くて、そしてあまりにも切なかった。
彼の視界のなかで、オルリー・ダリスは胸元を押さえながら、ゆっくりと瞳を伏せていた。
眉の線がかすかに下がっている。
――その仕草ひとつとっても、彼女が何かを「言われる前に理解してしまった」のだということが、よく分かった。
レギュラスは言葉を続けなかった。
すでに、その場にこれ以上の説明の余地はなかった。
衣服に手をかけた。
そこまでは進めた。
けれど、それ以上先に――どうしても、進めなかった。
身体が、心が、どこかで鈍く拒んでいた。
用意もあった。理屈も、覚悟も持っていた。
それでも動けなかった。
なぜなのか、もうレギュラス本人にも分からなかった。
それがアランへの想いによるものか、
それとも単なる「本能的な拒絶」だったのか。
もはや問いすら立てられないほど、心は混乱していた。
黙って俯くオルリーの姿が、
「責めていない」と言葉にする間も与えずに、
彼の胸の奥に鈍く罪悪感だけを落としていく。
何も語らない優しさが、時に何より重いことを、
レギュラスは誰よりも知っていた。
己自身のこの不器用な拒絶が、
無垢に整えられた彼女の自尊心を、間違ったかたちで傷つけてしまったのではないかとも思った。
――そして、何よりも。
いま、自分が強く確信してしまっていたのは、
言葉にせずとも、
アランの元へ帰りたいのだという渇望だった。
「ごめんなさい」も、「ありがとう」も言えなかった。
礼節のすべてが、どこか虚しく響く空気だった。
淡い香水の残り香と、触れきれなかったぬくもりの気配だけが、
客間に薄く、長く漂っていた。
レギュラスは、部屋を出た。
扉を静かに閉めたあと、ほんの数秒その場から動けなかった。
けれどすぐに、心の奥にある唯一の明瞭な願いが、彼の背を押した。
―― アランの部屋へ行きたい。
その腕に触れたい。
息づかいを感じたい。
そして、今夜完了できなかったすべてを、アランと共に紡ぎなおしたい。
温かく、真実のままで交わるために。
すでに時刻は深く、廊下はしんと静まり返っていた。
それでも、その先にある淡い光を頼りにして、
レギュラスはアランのもとへ、まるで帰還するように歩き出した。
その足取りには、いつになくはっきりとした意思が宿っていた。
任務に向かう山道の途中、小さな谷間の陰に身を潜めながら、レギュラスとバーテミウスは低い声で会話を交わしていた。あたり一帯に配された監視魔法に反応しないよう、空気は張り詰めていたが、本題とはまったく別のところで、場の緊張が砕ける音がした。
「……それで、昨夜のことなんですが」
レギュラスが言葉を選びながらも切り出した瞬間、バーテミウスの片眉が動いた。
普段、冷静すぎるこの男が「私事の話題」を持ち出すことなどそうそうない。
だからこそ、その続きが気になった。
そして事実が口から零れると同時に――
「……はっ!」
谷間に響いたのは、ついには堪えきれなかったバーテミウスの爆笑だった。
「最後まで!? ――まさか、できなかった!?」
声を殺すどころか、腹を抱えて声を絞り出すような笑い方。
隠密行動中の静寂が、一瞬にして吹き飛ぶほどだった。
「……静かにしていただけますか」
抑えた声とともに、レギュラスの手から音消しの呪文が勢いよく飛んだ。
途端に、バーテミウスの笑い声が周囲から波紋のように消える。
それでも彼の肩が震えているのは、レギュラスの目にもしっかり入っていた。
「……任務中ですよ。あまりにも軽率すぎます」
ぴしゃりとレギュラスが言い放っても、バーテミウスは口の端を引きつらせながら笑いを噛み殺していた。
「いや、いやすまない……でも、僕らの歳で“最後まで無理でした”って、そんなこと……普通ある?」
「……思っていました。あなたに話さなければよかったと」
低く落とされた声には、わずかな苛立ちと後悔が滲んでいた。真剣な心の重さを吐露したはずなのに、返ってきたのは呆れるほど陽気な笑い声。自分でもなぜ話したのか、理解に苦しみ始めていた。
バーテミウスはようやく息を整えながら、精悍な顔に名残の笑みを残しつつも、少しだけ真顔を取り戻した。
湿った森の中、任務地への戻り道を歩きながら、レギュラスとバーテミウスは再びいつもの低い声で言葉を交わしていた。枯葉を踏んでゆく足音と、遠く鳥の啼く音だけが、ひっそりした空気の中で溶け合っていた。
そんななか、バーテミウスは肩をすくめ、軽口とも真剣とも取れる調子で口を開いた。
「気持ちが高まる薬でも使えばいいんじゃないのかい? ……ほら、年寄りが拝借するようなやつ」
それを聞いた瞬間、レギュラスの頬がほんのわずかひきつる。
笑うでも怒るでもなく、ただ数秒、微妙な間が空いた。
「……馬鹿にされています?」
低く、一拍遅れて返されたその声は、乾いていた。
けれど、どこか認めたような、皮肉まじりの感情も混ざっていた。
(的が外れてもいない)
昨夜感じたあまりにも情けない“揺らぎ”は、もはや自分一人だけで制御しきれるものではないかもしれない。
静かに、真顔のまま問う。
「……手に入りますか」
唐突とも思えるその問いに、バーテミウスは肩を揺らし、片眉を上げた。
「セシール嬢がいただろう? 魔法薬は得意だった。あの人なら、頼まれれば一滴で効くような代物を作ってくれるんじゃないかな」
その時だった。
レギュラスは歩みを止め、無言のまま、杖を抜いた。
先端はバーテミウスの胸元へ――けれど殺気は一切なかった。ただ、やるせないほどの「無言の意思」が込められていた。
(なぜ、アランに、それを頼めるというのです)
その視線に、言葉はいらなかった。
バーテミウスは、数秒の沈黙の後、「ああ……」と、ゆっくり溜息を吐き出したように呟いた。
「……そうだったな。それだけは、君のプライドが許さないか」
「違う」
レギュラスが静かに口を開く。声音は低く、けれど震えていない。
「……彼女は、そういうふうに巻き込む存在ではないんです。少なくとも、僕の“弱さ”の道具にするようなことは」
その言葉には、ただの潔癖や思い込みではない、静かで深い敬意が宿っていた。
アランを、ひとりの女性として守りたい。
恋でも義務でもなく、ただその生き方を尊重したいという心。
それが、“薬を作ってくれ”というような一言すら、許さない。
バーテミウスは苦笑を浮かべ、手のひらを上げて見せた。
「わかったよ。……じゃあ、僕がクスリ屋でも探してやるさ。合法ぎりぎりの線で」
レギュラスはゆっくりと杖を下ろす。
笑いはない。ただ静かなため息が、口の端からこぼれただけだった。
森の風がやさしく枝を揺らし、小さな影がふたりの足元に揺れ落ちる。
どんな手を使ってでも乗り越えなくてはならない夜が、
彼にはまだ、数多く待っているような気がしていた。
午後の陽が傾きはじめ、庭の植栽の影がゆっくりと伸びる頃。
アランとレギュラスは、久しぶりにふたりきりで、何の用事もなく、静かな日中のひとときを共にしていた。
窓際のアームチェアに並んで腰を掛け、お互いの気配だけを感じるように、本を読むでもなく言葉を交わすでもなく。
ただ、穏やかな時間がそこに流れていた。
レギュラスは以前に比べて、明らかに柔らかくなっていた。
かつて、屋敷に招かれる令嬢たちに向けていた無関心や冷ややかさ、苛立ちの面影はもうない。
彼なりに節度を保ち、その誰に対しても最低限の誠意を忘れず、優しく接するようになっていた。
アランはその変化を、静かに――けれど深く、胸の中で喜んでいた。
それは、努力だったのだろう。
アランの言葉や、セレナの存在や、そこに重ねられてきた日々の中で生まれた、小さな“歩み寄り”だった。
それが、彼のやり方で選んだ「変化」なら、
アランは、ただそっとそれを見守りたかった。
「昨日は――流星群でしたよ」
ふいに、レギュラスが窓の外をぼんやり眺めながら言った。
その声には、どこか子供のような無邪気さが宿っていた。
「任務中でね、森の中だったんですが……空を見上げた時、ちょうど星が流れていて」
アランは、その横顔をやわらかく見つめながら応えた。
「ええ、知ってました。少しだけ夜更かしして、見ましたもの。……だから」
微笑を含んだ声で、視線を遠くにやる。
「お願いごとをしましたよ」
レギュラスは、小さく眉を動かした。
「どんなことを?」
問いかけた声には、軽さと、ほんの少しの興味が混ざっていた。
けれど、アランはふわりと首を横に振った。
「……内緒です。教えてしまったら、願い事、叶わなくなってしまいそうでしょう?」
言葉の奥には、ひらかれていない包みのような静けさがあった。
けれどその眼差しには、あまりに明瞭なあたたかさが宿っていた。
願ったのは、皆が健やかであること。
そして――この家に、新しい命が芽吹くような奇跡。
そのすべてを、“ アラン自身ではない誰か”に託すという、
静かな祈りだった。
アランは、果たすべき役目を、自分ではなく「次」に託そうとしていた。
もう、自らにその運命を課すことはしない。
それは、諦めではなく――何度も痛みと希望を繰り返してたどり着いた、一種のやさしいけじめだった。
けれど、だからこそ願う。
誰かが、その奇跡を抱えてくれる未来を。
レギュラスのそばに、それが在ってくれる未来を。
それが叶えば、自分の役目は終わる。
そう思っていた。
部屋に沈む午後の光は、金に近いあたたかさで二人を包み込んでいた。
どこにも焦りはなく、決して涙もなく。
ただ、穏やかで誠実な愛と、
手の届かない願いが、そっとこの部屋の空気に溶けてゆくようだった。
夜は深く、屋敷の空気は張りつめていた。
レギュラスは書斎の奥、誰にも見られぬように慎重に包を開け、掌に置いた小瓶を見つめていた。
バーテミウスが冗談交じりに用意し、ふざけた笑いとともに「お守りみたいなものだ」と手渡してきたそれ。
琥珀色の液体は、暗がりの中でかすかに灯るように揺れていた。
――本当に、こんなものが効果を出すのか。
疑いはあった。
けれど、疑いながらも彼は迷いなく服用した。
「努力」という言葉では括れないほどの重たい決意が、
もう後戻りを許さないところまで来ていたのを、彼自身がいちばんよくわかっていたからだった。
その夜の客間でレギュラスと共にいたのは、エメリンド・フェリックス。
静かな敬意を忘れず、控えめでありながら誇りを纏うような女性。
初めてふたりきりの時間が、ただの形式を越えた意味を持つ夜。
レギュラスは、もう逃げなかった。
息を整えながら、過剰な会話は避け、ごく自然な空気で距離を縮めていった。
目が合えば、彼女は恥じらいを含んだやさしい微笑みを返してくれた。
拒まれるような要素は、どこにもなかった。
そして、レギュラスは――彼女を抱いた。
今までで、たぶん一番「自分を奮い立たせた」。
事務的にならないように。
礼儀も、敬意も、温度も損なわないように。
そのために心を総動員させた。
気まずさが滲まぬよう、体温を乱さぬよう、すべての所作に気を配った。
けれど――
キスは、どうしてもできなかった。
唇に触れそうになるたび、
自分の中のどこか深い箇所が、静かに、けれどはっきりと抗った。
それは本能だった。
「唇はアランとしか交わさない」――
そんな考えを明文化するまでもなく、体が拒絶していた。
終わったあと、視線は重なったが、言葉は交わさなかった。
エメリンドは静かに整えた髪を撫で、さりげなく礼を口にした。
レギュラスはただ、静かに、扉の方へと向かった。
その背には、説明しようのない虚無がついてまわった。
ようやく、ようやく一人と“最後まで”行為を終えることができた。
身体としては確かに“できた”。
だが、達成感より先に来たのは――深く、底のない虚しさだった。
「……何をしているんだ、僕は」
思わず廊下で呟いたその声は、誰にも届かず消えた。
誇ってもいいのだ。
期待に応えたのだ。
跡取りを生むという役割を、ようやく果たせたのだから。
けれど、その隙間を埋めてくれるのは、アランのぬくもりだけだった。
抱いたときの指先も、耳元の髪も、肌の間を流れる空気も――
どこかで「違う」と訴えていた。
愛しいとすら思えた。けれど、それは、「アランではない」という確かな事実を消してはくれなかった。
この夜が何かの義務を果たした夜であったことに、間違いはない。
けれど、それ以上ではなかった。
そして、これから先も――
自分にとって本物の「愛」は、
恐らくもうひとつしか持ち得ないのだろうと、静かに、深く思い知らされた夜だった。
レギュラスは、陽の昇らぬ夜の廊下を歩きながら、
ただ、アランの笑顔を思い出していた。
それだけが、心を冷えさせずに立っていられる、たったひとつの光だった。
朝露がまだ芝に残る時間、屋敷の中は静謐に満ちていた。
その朝、アランはレギュラスよりも早く目覚めていた。寝所の空気がまだ淡く涼しく、胸の奥に沈んだ閉塞感から逃げるように、一番にティーポットの湯気に手を伸ばした。
応接間の小さなテーブルで茶菓子を挟み、膝下まで届くスカートの裾を整えるようにして微笑み合っていたのは、フィロメーヌ・モンターニュとアランのふたりだった。
「それでね……最終的に背後から現れたのは、使用人に化けた彼女のお父様だったというわけ」
フィロメーヌの朗らかな声とともに、アランは思わず息を詰めて笑った。
ごく軽やかな仕草で両手を口元に添え、肩を揺らすようにして――控えめな貴婦人らしい笑いではなかった。
それは、素に近い――心からほどけた笑いだった。
その声はすぐには消えず、室内の光と一緒に静かに残り続けていた。
屋敷に響くあたたかな笑い声。一日の初めに訪れるには、あまりにも柔らかすぎる喜び。
自分でも、昔の自分のようだなと微かに感じながら、アランはフィロメーヌの話に頷いていた。
“社交”や“振る舞い”ではない、純粋にともに笑える存在というものを――今さらながらひとつ手に入れていた。
階上では、レギュラスが目を覚ましていた。
昨夜の重さが体中に残っていた。
肉体は果たしたかもしれない。けれど、魂は遠く置き去りにされたような虚しさが、まだ肩に影のように残っていた。
ボタンを留める手はどこか鈍く、階段を下りる足取りは今にも崩れそうなほど重たかった。
そして降りた先、
最初に聞こえたのが「アランの笑い声」だった。
耳に届いたそれは、かつて自分が知っているようで知らなかった音――
装われた貴婦人の仮面ではなく、ただの“ アラン”として音を立てて笑っていた。
その対面の相手には、フィロメーヌ。
自分がまといきれなかった空気を、どこか自然に手にして姑息な手段もなく、
柔らかく引き出してしまった存在。
そんな彼女の横顔に、アランは真正面から心を向けていた。
胸の奥に、ひどく冷たいものが流れ込んできた。
それが嫉妬だと気づくまで、一瞬しか要さなかった。
まるで無関係のように、ひとことで遮る。
「……楽しそうですね、お二人とも」
低く、余計な抑揚と冷たさがわずかに混ざったその声だけが、部屋を静かに打った。
アランが思わず手を止める。
フィロメーヌも、上品な笑みを浮かべたまま礼を示すように軽く頭を下げた。
けれどレギュラスには、その微笑がすら、とがめて見えてしまった。
どうして、自分はエメリンドを抱き、その翌朝、
アランの笑い声に嫉妬などしているのか。
理由など、誰にも説明できない。
ただ、心が求めているのはアラン 1人だけだという事実を、改めて痛感させられただけだった。
それなのに――届かない。何も、届かなくなっている気さえしていた。
ひどく、ひどく遠く感じた朝だった。
朝の食卓には、磨かれた銀器のさざ波のような音と、焼きたてのパンの香り、湯気を立てる紅茶の香ばしさが、ごく穏やかに漂っていた。
けれど、静けさの奥には別の、誰にも言葉にされていない緊張がわずかにくすぶっていた。
その日、アランはいつもより数分だけ遅れて朝食の席に現れた。
そのまま自然にレギュラスの正面に座るかと思えば——彼女はフィロメーヌと視線を交わし、やわらかく頷いてから、そのままテーブルの一番端へと歩いていった。
ふたりは、並んで腰を下ろす。
距離はあるのに、どこか「背中で会話をしている」ような親密さを感じさせる空気だった。
レギュラスの掌に握られたナプキンが、ほんのわずか強く皺を作った。
本来であれば、そこに座るのはアランだった。
自分の正面で微笑み、たまに注意深く紅茶を注いでくれる、小さな気遣いを交わすべき存在。
今朝はそれがない。
そして遠くの席で何やら小声で何かを囁き合っているアランとフィロメーヌは、目元と言葉の端に笑みを忍ばせていた。
声は控えめで、まわりには届かないほどに節度はある。
けれど、アランが笑いを堪えるように唇を押さえるその仕草——
それがレギュラスには、見たことのない横顔だった。
まるで屋敷の緊張や格式のしがらみに縛られていない、
もっとずっと“若い頃のアラン”がそこに戻ってきているような、自然な笑い。
その笑顔を引き出しているのが隣にいるフィロメーヌだと思うと、
レギュラスの胸の奥に、焦げるような嫉妬が残響のように静かに広がっていった。
彼が昨夜、どれほど冷たいベッドで、どれほど空虚な“役割”を果たしていたか。
それに比べて、今のアランは、生きる梢そのもののように軽やかだった。
「お母様ったら、楽しそう。いいなぁ」
その声に、思考が引き戻される。
セレナだった。
口元にバターをつけたまま、パンをかじりながら、眩しいほど素直な声でそう言った。
その視線の先には、もちろんアランがいた。
レギュラスは目を伏せ、小さく息を吸った。
セレナのその無垢な感性が、羨ましかった。
誰に遠慮するでもなく、素直に「いいなぁ」と口にできるその在り方を、愛しく思う反面、自分には到底できないと感じたからだった。
心の中で複雑に絡まる嫉妬と後悔と、微かな喪失感。
そのすべてを、銀のスプーンの音にまぎれさせながら、
レギュラスは黙って料理を口に運んだ。
それは、あたたかいはずの朝に吹き込んできた、見えない冷たい風のようだった。
朝食どきの空気に、あたたかい紅茶の香りと、控えめな笑い声の名残がまだ漂っていた。
テーブルの一番端。アランとフィロメーヌの間に、ひょこりと入り込んできたのは、セレナだった。
「お母様、私も混ぜて」
そう言うなり、特に椅子を引くこともせず、アランの膝の上に無理やり乗ってくるようにして身体を押しあててくる。
「セレナ、ちょっと……ふふ、もう」
小さくたしなめるように言いながら、アランは娘の軽やかな身体を自然に支える。
その姿は可笑しくも微笑ましく、まさしく“母娘”だった。
片腕でセレナを支えながら、もう片方の手でティーカップを持つアランの仕草には自然な優しさが滲んでいた。
セレナは満足気にアランの肩にもたれかかりながら、話に混ざるタイミングを探していた。
その姿を、レギュラスは遥か席の端からただ、静かに見つめていた。
ああ、と胸の奥で声にならぬ声がこぼれる。
その素直さが、羨ましいほどだった。
喉から手が出るほど欲しかったもの。
遠慮も、配慮も、探るような視線すら持たない、まっすぐで、柔らかい“入り込み”。
自分がどれほど手繰り寄せようとしても、届かないもの。
レギュラスは静かに席を立つ。
目立たぬようにしたその動きを、アランはすぐに察知した。
「……あら、ごめんなさい、ちょっとだけ」
フィロメーヌにそう一言添えてから、アランも静かに立ち上がる。
レギュラスの歩みに数歩遅れて、彼に声をかけた。
「今日は……遅くなりますか?」
その声音は落ち着いていたが、どこかほんの少し――
気づかれないくらいに、何かを探るような音色だった。
「状況次第です」
レギュラスは簡潔に返す。
その距離感、言葉の切り口。
ほんの少しの沈黙すら、お互いの感情を詰め込むには充分すぎた。
そのあいだに、別の令嬢がスッと現れた。
手にはレギュラスの外套。
「奥様は、お座りいただいていて大丈夫ですわ」
礼儀正しい。声も穏やかだった。
けれどその丁寧さが、なおさらレギュラスの胸を刺した。
アランは一瞬レギュラスの方を見て、わずかに口角を上げただけで、
「それでは、失礼いたしますね」
そう言って、またフィロメーヌとセレナのもとへ、さっきまでいた席へと戻って行った。
背中を向けるその瞬間、レギュラスは思わず声を止めかけた。
否、言葉ではなかった。
心の奥深くから、叫びたくなる衝動に駆られたのだ。
――違う。
待っていてほしかったのは、この令嬢ではない。
外套を手にして見送る役なんて、誰でもできる。
自分が望んでいたのは。
彼女のまなざしと、
朝の別れ際にだけ訪れる、あの静かな祈りをこめたような「いってらっしゃい――」の仕草だった。
努力すると言った。
形にしてみせると決めた。
それでも――
全てが、腹立たしかった。
正しく立ち振る舞ってさえいれば、結果はついてくると思っていた。
けれど、温度と形は、まったく別の場所にあって。
すべてが整っているはずなのに、ただ渇いていく。
それをアランに悟らせまいと、外套をようやく肩まで整えながら、レギュラスは胸の奥に、まだ冷めやらぬ思いを閉じ込めた。
それは誰にも気づかれることなく、朝の光のなかでゆっくりと息をひそめていった。
