3章
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廊下には風も通わず、重たい夜の気配だけが漂っていた。
レギュラスは掌をきつく握りしめたまま、足どりも定まらないほどに揺れた身体でアランの部屋の扉を押し開けた。
明かりは灯っていなかった。
カーテン越しに月の薄明かりだけが差し込み、空気は沈黙の色をしていた。
ベッドにはアランの横顔と、彼女の腕に小さく埋もれるセレナの姿があった。
ふたりとも静かに眠っていた。
ついさっきまでの苦しみなど、知らぬ世界のように穏やかな寝息だった。
けれど――レギュラスの胸に今あったのは、限界を超えた激情と、崩壊寸前の痛みだった。
この女は、よくもまあ……。
目の前の妻を見下ろしながら、言葉にならない感情が喉の奥で膨らんでいく。
怒り?
失望?
侮辱?
いや、違う。もはやそれは、燃え落ちた後の――悲しみだった。
手が勝手に動いた。
アランの手首を掴んだ瞬間、それは冷たくも柔らかく、自分の過ちにすら気づけぬほど静かな熱をもっていた。
「―― アラン。起きてください」
低く、荒れた声。
配慮というものは、そこにはもうなかった。
アランはゆっくりと瞼を開けた。
その視線には眠気と不明が混ざり、状況を飲み込めぬまま夫を見上げる。
「レギュラス……? 何……?」
レギュラスはその言葉を待たずに、手首を強く引いた。
ズル――と、小さな擦れる音。
アランの身体は、まるで重力の律から抜け出せずに、ベッドから引きずり落とされた。
「待って、……レギュラス、待って!」
アランの声が室内に割れた。
けれど、その制止の言葉さえ、いまこの男には届かなかった。
あの女が自分のベッドにいたこと。
そこで眠るつもりだったこと。
安らぎのふりをして、すべてを奪うように。
そして何より――
アランがそれを知っていながら何の意思表示もしなかったと思わせたこと。
それが、レギュラスの中で、“もう耐えられない”何かを超えてしまった。
レギュラスは怒りに満ちた呼吸を鼻の奥で抑えこみながら、アランの手を引く。
歩幅を合わせる気もなく、ただ真っ直ぐな衝動に突き動かされていた。
廊下を渡るあいだ、アランは何も言わなかった。
気配で理解したのだろう。いま、まともな言葉が通じる空気ではないと。
扉を開けた先、夫婦の寝室――
そこはつい先ほどまで、他人のぬくもりという名の侮辱がそっと横たわっていた場所。
その場所へ、アランの手首を引いたまま、一歩、二歩。
そしてベッドの側へ来ると、レギュラスは迷いなく彼女の身体を解き放った。
まるで、内側に溜め込んだ怒りの残滓を、それで床に叩きつけているかのように。
アランの身体は軽くしなり、ベッドの端に倒れこむ。
静かに起き上がろうとしながら、彼女はレギュラスを見た。
その視線は、怯えでも恐れでもなかった。
けれど――なぜ自分が責められているのか、深くは理解できていない表情だった。
その“無垢な問い”のようなまなざしが、レギュラスには何よりも苛立ちを呼び起こした。
「……なぜ、こんなことを許したんですか」
唇をかすかに震わせて言う。
感情の芯まで冷えて、それでも、燃えていた。
噛むように、引き絞られた声だった。
アランは小さく眉を寄せる。
そして、ほんの少しだけ顔を伏せたあと、静かに口を開いた。
「ヴァルブルガ様の……決定です」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスの胸の奥で、また何かが軋んで、音を立てた。
「……妻はあなたです」
絞り出す声には、怒りというよりも、悲しみが混ざっていた。
「そしてここは……母の部屋ではない。“僕と、あなた”の部屋です」
まっすぐにアランを見据える眼差しは、
もはや正しさを説くためでも、立場を示すためでもなく――
ただ、自分が破壊されてゆくのを止めてほしいという叫びに近かった。
そのとき、アランがそっと動いた。
掴まれていない方の手を静かに持ち上げ、
レギュラスの拳に、そっと重ねて触れた。
その温度は優しかった。
静かな水音のように、彼の皮膚に触れて――
彼を溶かすのではなく、ただ、その火傷を受け取ろうとする手だった。
「……レギュラス」
アランの声は、夜の深さのように、やわらかかった。
「受け入れてください。……楽になれます」
それは悲しいほど誠実な言葉だった。
いまの彼の苦しみすらも、自分が背負いたいと告げている声だった。
けれど――
まだ言うのか
レギュラスの中で、またひとつ、何かが途切れる音がした。
愛ではなく、諦めではなく、
すべての間に立つ、細く張られた「信じたい気持ち」だけが、
綻びの先で断ち切られていく。
彼の掌は、アランの添えた手のぬくもりを一瞬だけためらい、
それから――そっと、拒むように、自分の手を抜いた。
その手が落ちたその空気に、
それまでふたりの間に張りつめていた、微かな“信頼”の残香が、
静かに消えていった。
夜は、息を潜めるように深く静まり、
屋敷の中のどの灯りも、まだ心を照らすには遠すぎた。
レギュラスの背に纏った怒りと失望は、
重く、冷えた衣のように肌に張り付いていた。
アランを見下ろしたまま、彼はふっと小さな息を吐いた。
それはため息でも、許しでもなかった――ただ、何もかもがどうでもよくなった、その無音の証。
いままで、どれほどアランの身体を気遣ってきたか。
寒そうにすればブランケットを渡し、疲れていれば口を閉ざし、
何より、彼女の穏やかさを壊してはいけないと、触れるときほど慎重になってきた。
だがそのすべてが、一瞬で内部から崩れ落ちていった。
愛していた。
そして、今でも愛しているはずだった。
それなのに――
その思いさえも、いまはもう、燃え尽きて灰のようになって胸の隅に冷たく沈んでいた。
アランの両肩を押し、シーツへと沈めると、
レギュラスはよろよろとその上に重なった。
もう、優しさも、ためらいもない。
求める振りすら、自分への嘘に思えた。
「待って……レギュラス……」
か細い声が潰れた息に混ざり、耳の奥に届く。
だが、それすら耳障りだった。
レギュラスは、何も言わずに顔を伏せ、アランの唇を塞いだ。
やさしさではなかった。
ただ、沈黙を強いた。
その日、レギュラスは初めて、ここまで”何の温度も持たない行為”をした。
愛している人の体を抱きながら、これほど冷えた心になれるなど、自分でも知らなかった。
唇は触れていた。
肌も重なっていた。
温度は確かにあったはずなのに――
何も満たされなかった。
求めるのではなく、奪う形で交わされたぬくもりは、
渇きを潤さず、ただ互いに傷つけるだけ。
奥深くにあった“確かな繋がり”という心の泉からの水は、
もう掘り尽くして、底まで冷たくなっているようだった。
アランの瞳も、何も語らなかった。
抗いながらも、どこか諦めに似た光だけが、ちらと浮かんでいた。
それを見てすら、レギュラスは何も結び返すことができなかった。
最後まで、温度は戻らなかった。
ふたりを満たすものは何もなく、
爪痕だけが荒く刻まれるようにして、夜の底に沈んでいった。
そんな夜の深さだけが、
まだ確かにふたりを包んでいた。
まるで、何も知らないふりをして。
レギュラスは、アランの上に崩れるように倒れこんだまま、微動だにしなかった。
その手からは力が抜けきっていて、肩で息をする音だけが、夜に小さく擦れていた。
アランも、しばらくのあいだ何も言わなかった。
息を整えることすら、怯えるようにためらっていた。
唇はまだ熱の残る静けさのなかで閉じられ、
その瞳の奥には言葉にできない思いが沈んでいた。
レギュラスがようやく身体を離したのは、数分経ってからだった。
けれど、そのわずかな距離は、ふたりの間に落ちた決定的な沈黙を少しも和らげなかった。
ふたりとも、なにも言葉を持たなかった。
それほどまでに、この夜が奪ったものは大きかった。
レギュラスは隣で横になったまま、天井を見つめた。
手は動かない。目線もゆれない。
感情が、もはや流れを失ってどこにも進まない泥のようになっている。
さっきまで、怒りがあった。
苦しみがあった。屈辱があった。
だけど今、何一つ残っていなかった。
ただ――深い空洞だけが、心の中で音もなく拡がっている。
アランはレギュラスの横顔をそっと見やった。
頬に触れることもできなかった。
この体にいつか宿っていたはずの愛も、尊重も、
今は触れた途端に砕けてしまいそうで――手が伸ばせなかった。
「……レギュラス」
ようやく搾り出した声も、
彼の耳に届いたかどうかはわからなかった。
小さな囁きは、ただ虚空に落ちていった。
応えは返らない。けれど彼の眉がかすかに動いた。
その微かな反応が、せめて感情を残してくれている証のようにも見えた。
だけど、その沈黙の重さは決して優しさではなく、
むしろ“傷つけたと知りながらも回復を拒む痛み”のかたちだった。
ふたりの間に、かつて存在していた柔らかなものたちが、
触れる瞬間にすら壊れていく悲しみを、
今夜ほど濃く感じたことはなかった。
アランは目を閉じた。
愛していた。
愛されてきた。
信じていた。
だけど――今夜のぬくもりは、どこまでも「愛のなりそこない」だった。
言葉ひとつなければ、救えないものばかりが、静かに胸の奥で崩れていった。
朝の光はまだ差し込まない。
静寂な寝室には、わずかに揺れるカーテンの音と、かすかな吐息のような呻き声だけが響いていた。
それが、レギュラスの意識を引き戻す。
夢か現かも分からぬ暗がりの中で、それは――あまりにも痛々しい響きだった。
「…… アラン?」
寝返りを打った指先が、隣にいるはずの温もりに触れる。
そして――ものを押し殺すような、小さな、苦しげな声。
それは確かに、アランのものだった。
「アラン……?」
もう一度、今度は鮮明に名を呼ぶ。
けれど返事はなく、あるのは只うずくまり、息を殺すように痛みに耐える妻の肩が微かに震えている姿だけだった。
レギュラスの鼓動が、耳の奥で跳ね上がる。
「アラン……!」
歯を食いしばり、何かに耐えている。唇は白く、目は開ききれず、いつもの静かな気配すらも感じられなかった。
ただ、その顔は、叫びたくても声にならないような苦痛で歪んでいた。
一瞬、時が止まったようだった。
昨夜のことが脳裏をかすめる。
あまりにも冷え切った、あの行為。
気遣いも、優しさも、愛も置き去りにしたまま奪った、自分だけの夜。
その記憶と、いま目の前にいるアランの姿が、繋がってしまった瞬間――
レギュラスの全身から血の気が引いた。
「アラン、ごめん……違う、違うんだ、そんなつもりで……っ」
言葉が追いつかず、ただ震える手でもう一度彼女の身体を覆った。
けれど、どこに触れてよいかわからない。どこも脆く見えて、すべてが痛みのように見えた。
アランのその小さな身体は、かすかに震えていた。
レギュラスは焦りのまま、床に脱ぎ捨てたままだった昨夜のアランの服を拾い上げ、混乱する手で袖を通し、冷える肌を覆うように着せた。
「医者を……医者を呼んできます。アラン……しっかり……しっかりしてください」
彼の声が割れていた。
冷静さはどこにもなく、繰り返す言葉は、掴めない不安の中で必死に投げる祈りのようだった。
アランの呻き声がまたひとつ、弱く、胸を裂くように響いた。
その声が、この世の誰よりも苦しかった。
何が起こっているのか分からない。
けれどこれは、ただの体調不良ではない。
そう直感で理解できるほどに―― アランの身体は、これまでにない叫びを訴えていた。
そしてレギュラスの胸には、何より重くのしかかる後悔だけが、今さらのように、鋭利な刃となって降りてきていた。
声にならない謝罪を喉の奥に押し込みながら、
彼は部屋を飛び出した。
妻を救うすべての手段を――今度こそ取り返すために。
寝室には、まだ昨夜の名残が微かに漂っていた。
空気は重く沈み、カーテン越しに落ちた朝の光すら、その場の雰囲気を和らげるには力が足りなかった。
シーツは代えられ、空気は換気されている。けれど、レギュラスにははっきりとわかった。――この場所は、まだ“昨日”を引きずっている。
ゆえに、他人をこの部屋に入れることには、強い躊躇があった。
だが、そんなことを言っている場合ではなかった。
ベッドに横たわるアランは、医師が処方した鎮痛と安定剤の影響で、浅く、規則的な呼吸を繰り返している。
その横で、レギュラスはひとことも発せず、医師の丁寧な手元を見つめていた。
淡々と脈を取り、目を照らし、熱を測り、痛みの部位を確認していく医者の動き――それを見届けながら、彼の胸にはただ、圧倒的な後悔が重く蓄積されていた。
巻き戻すことができるなら。
どうにかして、あの夜、ただ彼女に触れようとした瞬間からやり直したい。
無理だと分かっていても、その想いだけが喉の奥に貼りついて、離れなかった。
ふと、かすかな足音が廊下から近づいてくる。
「お母様は……どうしたの?」
セレナの声だった。
小さく不安を帯びた音程と、控えめな響き。
その声に、レギュラスは瞬時に反応し、静かに立ち上がる。
この部屋に、娘を入れるわけにはいかなかった。
特に、今日という日には。
レギュラスはすぐに寝室の扉を開き、小さな影を迎えるように身を屈めた。
「お父さま……お母様――…?」
その背後には、昨日、丁寧に食事を準備してくれたエメリンド・フェリックスの姿もあった。
緑灰の瞳が、心配そうにセレナを見やりながら、そっと視線をレギュラスに向ける。
レギュラスは、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、それから顔を上げて言った。
「すみませんが……妻が体調を崩しています。……セレナを、お願いします」
それは昨夜、威圧と拒絶を以て向き合った女のひとりに向けたには、あまりに低く切実な声だった。
詫びよりも前に口をついたことば。
プライドや立場などが干からびていくのが自分でもわかる。それでも――この一瞬だけは、助けがほしかった。
今この屋敷にいる女たち全員に対して抱えている苛立ちや嫌悪など、一つ一つ数えている暇はなかった。
彼は父だった。夫だった。
そのただ一点を、いまこの場で必死に貫こうとしていた。
エメリンドは何も言わず、ただ一度深くうなずいた。
そして、そっとセレナの肩に手を置く。
「あちらへまいりましょう。少しお外の空気を吸いましょうか」
優しげな声が落ち、セレナは不安げに父を見上げながらも、うなずく。
レギュラスはその小さな背を見送ったまま、ふたたび扉の内へと戻る。
寝室の灯りはまだ暗く、部屋の奥では――
彼が手を放したことの代償が、浅い呼吸の中で静かに眠っていた。
医師の声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。
言葉は整えられ、理知的に選ばれている。
症状の説明、経過の予測、投薬の効果、そして安静の必要性――
そのどれもが冷静で、適切で、そして恐ろしいほど現実的だった。
頭では理解していた。
けれど、胸の奥では、それらがひとつも実感として届いてこなかった。
生きた心地がしなかった。
寝台の上では、アランがまだ静かに眠っていた。
まぶたは薄く閉じたまま、口元も小さく食いしばられていて、
痛み止めの力でようやく眠りに堕ちているということが、この静けさの裏に透けて見える。
どこか呼吸が浅くて、見守っている間もずっと不安で、ただひたすら、“このまま目を覚まさなかったら”という恐怖が頭から離れなかった。
レギュラスはそっとベッドの縁に腰を下ろす。
手は膝上に置かれ、指先が微かに震えていた。
何を言えばいい?
――すまなかった?
――気づけなかった?
――二度と繰り返さない?
そんな言葉に、何の価値がある?
何をどう詫びたところで、それが本当に赦しを乞うということになるのか、もう分からなかった。
そもそも、赦される資格が、自分にあるとは思えなかった。
静まり返った部屋の中、アランの眠る顔だけが、
痛みの記憶と沈黙のあいだで硬く閉じられている。
その輪郭が、ひどく遠く、冷たく見える。
レギュラスは口元を軽く噛んだ。
喉元まで込み上げてきた嗚咽を、なんとか呑み込もうとする。
なのに、胸の内では、怒濤のように声にならない情けなさだけが押し寄せた。
泣きそうだった。
ほんとうに――泣きそうだった。
誰も見ていなくても、たとえ彼女が眠っていても、
どうしようもなく、涙が込み上げる。
恐ろしかった。
このまま彼女の目が覚めなかったら。
彼女の目が開いても、取り返しのつかない何かがそこに残ったままだったら。
後悔。
恐れ。
罪。
愛しているという感情さえ、いまはすべてを傷つける棘にしか思えなかった。
「……」
レギュラスは何も言えず、アランの枕元に視線を落として、
静かに、静かに、指先を彼女の指先の隣に置く。
重ねることも、握ることも――いまは、できない。
けれどそこに居ることでさえ、せめて「償いの最初の一滴」であることを、どうか彼女がいつか知ってくれますようにと、
心の奥で密かに、必死に願っていた。
外の陽は、ゆっくりと、気づかぬままに、伸びていた。
それでもこの部屋の中だけは、時間が止まったように、沈黙に支配されていた。
扉が静かにノックされる音が、重い空気を微かに震わせた。
レギュラスは背筋を起こしたまま、疲れ果てた顔を扉の方に向ける。その表情は、まるで一夜で何年も老いたかのような深い疲労に覆われていた。
「……どうぞ」
かすれた声で応じると、ヴァルブルガが静かに入ってきた。
「どういう状況ですの?」
母の声は冷静だったが、その瞳にはわずかな心配の色が宿っていた。
レギュラスは一瞬、答えを探すように口元を動かした。けれど、言葉が出てこない。
「医者から……色々聞きましたが」
彼は手で額を押さえながら、途切れ途切れに言った。
「すみません。覚えていません。詳しくは……処方箋を」
その様子を見て、ヴァルブルガは深いため息をついた。
「なんとまあ……情けない姿ですこと」
その言葉は厳しかったが、完全な非難ではなかった。むしろ、息子の惨状を目の当たりにした母の、複雑な心境が滲んでいた。
「ええ、本当に」
レギュラスは素直に頷いた。
母の言葉に反発する気力も、弁解する理由も、もはや何も残っていなかった。自分が情けないことは、誰よりも彼自身が痛いほど理解していた。
よろよろと立ち上がり、ベッドの縁に再び腰を下ろす。その動作すら、どこか覚束なかった。
「夕食の時間ですよ」
ヴァルブルガは一歩近づいて言った。
「客人たちが集まっています。降りていらっしゃい」
その声には、いつもの威厳と同時に、息子を立ち直らせようとする意志が込められていた。
けれどレギュラスは、首を横に振った。
「食欲は……ありませんので。結構です」
その答えに、ヴァルブルガは再びため息を漏らした。
部屋には再び静寂が降りた。
ベッドに眠るアランの穏やかな寝息だけが、この重い空気の中で唯一の生命の証だった。
ヴァルブルガは息子の横顔を見つめながら、何か言いたげな表情を浮かべていたが、結局何も言わずに扉へと向かった。
「……お呼びでしたら、いつでも」
それだけを残して、彼女は静かに部屋を後にした。
レギュラスは一人、アランの傍らで再び沈黙に沈んだ。窓の外では夕陽が沈みかけ、部屋を薄暗い橙色に染めていた。
この長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
朝の光が、ゆっくりとカーテンの隙間から射し込んできた。
窓辺の薄布がやさしく揺れ、長く続いた沈黙の時間が、少しずつほどかれていく気配をまとっていた。
その静穏のなか――
かすかな吐息の変化に、レギュラスは目を向けた。
アランの睫毛が、微かに揺れた。
その瞳が、ゆっくりと光に焦点を合わせるように開かれていく。
「…… アラン……」
喉が裂けるほどの想いが、一気に胸に立ち上がったが、レギュラスの唇からは、何ひとつ言葉がこぼれなかった。
ただ、目を見開いたまま彼女を見つめていた。
その驚きと、やがてじわじわと内側から溢れ出していく安堵が、彼を黙らせていた。
まばたきひとつ分の静けさのあと――
アランは、ほんの少し口元を緩めた。
それは笑顔というにはあまりにか細く、それでもあまりに美しい笑みだった。
力の欠片を集めるようにして微笑み、
レギュラスを見つめながら、喉を震わせる。
「おはようございます……で、いいのかしら」
その声を聞いた瞬間、レギュラスの胸に押し込めていた何かが崩れ落ちた。
返事をしようとした瞬間、喉が焼けつくように痛んだ。
言葉が出ない。
感情が声になるより早く、胸の奥でひどく熱いものが込み上げてくる。
代わりに、彼はただアランの肩を抱いた。
眠りから覚めようとする彼女の背を、そっと支えて、胸へ引き寄せた。
「…… アラン……よかった……よかった……」
抑えようとしても、声にならない想いが、
崩れるように涙となって頬をつたう。
アランの肩を、腕を、しっかりと包む。
彼女の向こう側に顔を伏せ、見られないように、
壊れそうなほど静かに、涙をこぼした。
どれほどの後悔を重ねても、きっと消えない夜だった。
けれど、それでも彼女が目を開いた。
その瞳が、自分の姿を映した――
それだけで、世界は、わずかに戻ってきた気がした。
この温もりだけは、もう二度と手放したくない。
そう願って、レギュラスは何も言わずに、
ただアランの肩を、胸の奥で抱きしめ続けた。
病み上がりの静けさが、寝室の空気を優しく包んでいた。
窓のレース越しに淡い光が揺れて、まるで沈黙すらも息をひそめているようだった。
レギュラスは、まだ目覚めきれないような疲弊をまとったまま、ベッドの縁に座っていた。
その隣で、アランが身体を少し起こすと、掠れるような声で言葉を落とした。
「……レギュラス。私も、無神経でした」
その声の柔らかさに、かえって胸が締めつけられる。
彼女が謝るはずじゃなかった。
どんな言葉よりも、その一言が――
レギュラスの中の、触れてはならない感情の奥を、静かに、痛いほど貫いていった。
罪悪感が、波のように胸を洗っていく。
たしかに無理をさせたのは自分だった。
何ひとつ彼女の心を、身体を守らなかったということを、レギュラスは誰よりも理解していた。
「……いえ。僕の方こそ、最低でした」
唇をかむようにして、そうこぼす。
呻くほど痛いその言葉を、ようやく吐き出す声音はかすれ、ひどく濁っていた。
彼女の身体を抱きしめる腕が、わずかに震える。
触れることさえ許されないはずの身体を、今またこうして包んでしまっていることにさえ、許しを乞うような思いが宿っていた。
それでも。
その肌の温もりは、背を向けるどころか――そっと戻ってきてくれていた。
そして、そのときだった。
「……レギュラス。愛しています」
アランの声が、やけに穏やかに響いた。
瞬間、レギュラスの心が凍りつくような錯覚を覚えた。
その言葉が、あまりに突然で、あまりにも無垢で――
一瞬、幻でも聞いたのかと、耳を疑った。
(……今、なんと?)
わずかに顔を持ち上げる。
彼女を見る。
その瞳には、曇りひとつなく、深くやわらかい光が灯っていた。
アランは、まっすぐだった。
もう一度、迷わぬ声で言う。
「愛しています。レギュラス」
レギュラスは息を飲んだ。
その言葉を、今の自分に向けられる資格などないという思いが、胸を叩いた。
それでも――その声音は、背を向けた自分を責めるでもなく、
どこまでも優しく、赦すためだけに存在しているようだった。
腕のなかにあるアランの身体が、あたたかかった。
そして、その重みこそが、彼の心をやっと地に戻す。
「…… アラン……」
ようやく絞り出した名は、涙に濡れていた。
触れる額のすべてが震えていた。
赦されるなどと思っていたわけではなかった。
けれど、愛してくれる人が、まだ傍にいてくれるという事実が――
ひとつの命のように、レギュラスの胸の奥で静かに灯っていた。
もう二度と手放さない。
そう思いながら、彼はアランを、そっと、静かに強く抱きしめた。
静かだった。
機械のように淡々と刻まれていた薬に沈む眠りの波が、ゆるやかに引いていく。
重力が戻ってくるような感覚のなかで、アランはまぶたの裏に微かな光の気配を感じ取っていた。
まだ目は開けない。
けれど意識は確かに浮上しはじめていて、その陶酔の縁で、ひとつの記憶に触れていた。
──身体が深く沈んでいく前、
まだぎりぎり判断が効く、その瞬間に決めていたこと。
次に目覚めるとき、もしも――
まだ命が続いていたとすれば。
そのときこそ、レギュラスが望む言葉を紡ごうと決めていた。
「愛している」
そのひとこと。
あまりに簡単で、あまりに深い——
そして、いちばん、アランが遠ざけていた言葉。
本当は、もうずっと前からわかっていた。
彼がそれを求めていることを。
心のどこかでずっと、確かに“それ”を待っていることを。
けれどそれでも。
アランはその言葉を決して言わなかった。
それは、ほんとうに心から言えなかったからではなく——
言ってしまうことで、閉じ込めてきた“何か”が壊れる気がしていたから。
愛している。
その言葉は、あの日、シリウスに告げた最後の言葉だった。
正しくは、彼に与えた“最期”の呪文のようなもの。
それを守るように、アランはずっと心のなかに
ひとつの閉じられた場所を持ち続けていた。
そこには、誰も触れさせなかった。
何があっても、夫であるレギュラスですら踏み込ませなかった。
純血一族に課された名の下に、
多くのものを手放してきた——
けれどたったひとつ、その愛の記憶だけは放棄しなかった。
アランはそれを心の中で“絶対的な領域”として抱いていた。
あのときの「愛している」は、シリウスとの過去の中で永遠になっていたのだ。
それでも今。
目を閉じたまま、まだ混濁した意識のなかで、
アランははっきりと思っていた。
――もう、言葉を渡そう。
だって、この十数年。
共に生き、共に耐え、子を育て、家を守ってくれたレギュラスのことを思えば、
もはや“愛”という言葉を与えることを躊躇う理由はなかった。
いや、違う。
それはきっと――もう、理由など必要なかったのだ。
今あるこのかすかな呼吸が、
まだ繋がれた手の温もりが、
すでに彼を選び続けてきた証そのものであったのだから。
アランは知った。
「愛している」という言葉だけが “愛”ではなく、
ともに耐えて手を重ねた時間そのものが、
別のかたちの愛の名であったということも。
そして今、レギュラスが求めているそれが、
名指しされた愛なのであれば――
それならば、差し出してもいいと思った。
怖れと記憶と、かつての贖罪と、矛盾と、つじつまの合わない選択の全て。
それらをすべて抱えたまま、それでも今この瞬間、やっと言える。
目が覚めたとき、アランは、
ゆっくりとレギュラスを見あげ、そして言うのだろう。
揺れながら、それでもまっすぐに、澄んだ声で。
「……愛しています」
それは、かつてシリウスに向けたそれとは決定的に違う。
過去を否定しないまま、今を受け入れようとする、もうひとつの深い愛の始まりだった。
目を開いてからまだ間もないというのに、アランの声は芯から澄んでいた。
揺れていない。震えていない。
それだけで、彼女がどれだけの決意と覚悟をあの長い眠りの向こう側で固めてきたのか、レギュラスには痛いほど伝わった。
「愛しています」
重ねられたその言葉が、まるで聖句のように部屋の空気をゆっくり震わせた。
レギュラスは、信じきれない思いで彼女の表情を見つめた。
目の奥を覗いても、そこには作られた優しさも、義務も、見当たらなかった。
ただ、まっすぐな意思と、長い沈黙の果ての光だけが揺れていた。
思わず、呼吸を忘れていた。
言葉に縋ってきた自分にとって、それがどれほどの重さを持つかを語るには、自分自身が一番よく知っている。
一度も強いられたことのないその言葉。
どこまでも慎重に選び、長く封じてきたその響き。
手放してしまえば壊れてしまうものとして、アランのなかに大切にしまわれていたものを――
彼女自身が自ら差し出してくれたのだ。
レギュラスの目に、再び涙がにじんだ。
ただ今度は、“償いの涙”ではなかった。
“祈りのような感情”だった。
胸の奥に灯った火を、抱きしめるように静かに守ろうとする、やわらかな願いそのものだった。
「……ずっと、ほしかったんです」
やっと声が出た。
押し殺した声。濁った声。けれど、確かな声。
「どんなにあなたが黙っていても、どんなに語らなくても……」
「それでも、あなたがここにいてくれるだけで、それで十分だって思ってきた。
でも……ほんとうに、ほんとうに、聞ける日が来るなんて……」
涙を見せまいと、レギュラスはうつむいて、アランの手を両手で包みこむ。
そこにある細く繊細な指を、まるで初めて触れたように大事に撫でながら、震える指先を重ねていく。
アランは静かにそのぬくもりを受け取っていた。
「ありがとう、レギュラス」
その言葉は、彼女の口から自然とこぼれた。
「言えてよかった」と言う代わりの、彼女なりの形。
そして、彼はそっとアランの額に額を寄せた。
額と額が触れるだけで、胸がいっぱいになった。
この瞬間だけを生涯何度でも思い返せるだろう。
かけ違えてきたたくさんの日々も、遠回りも、
そのすべてがこの“ひとつの言葉”に辿り着くためにあったのだと――
ようやく、静かにそう思うことができた。
愛しています――
それは断絶ではなく、「これから」を繋ぐ道だった。
アランとレギュラスは、今その入り口に、初めて同じ足並みで立ったのだった。
窓の外には、春のはじまりの気配が濃く漂っていた。
庭の木々は新芽を帯びはじめ、朝の光は淡く柔らかく、部屋全体に穏やかな温度を落としていた。
寝室の片隅、陽に染まる白いソファで、アランとレギュラスは並んでいた。
いつもより静かな朝だった。言葉を交わさず過ごしても、気まずくは感じない——そんなふたりなりの空気に、ようやく戻りつつあった。
アランは窓の方を向いたまま、ふいに声を落とした。
「……レギュラス。あなたが誰と、何をして過ごそうが——私たちが、これまで過ごしてきた日々が、変わるわけではありません」
その声音には、責めも執着も滲んでいなかった。
「だから……そのことで罪悪感を抱かないでください」
レギュラスはその言葉を聞いて、肩の奥で小さく息を止めた。
アランの言いたいことは、よく分かっていた。
そして、彼女のそのやさしさが、どれほど考えた末のものかも。
けれど——
分かっていても。
受け入れようとしても。
どこか、身体の奥底でどうしても、拒否反応のようなものが残っていた。
綺麗に着飾り、頭を下げて自分に微笑む少女たち。
そのなかに真心や努力があると知っていても、
「違う」と反射的に思ってしまう自分が、情けなくて苦しかった。
そして視界の端で、アランがこちらに顔を向けた。
「……努力はします」
沈黙ののち、レギュラスは搾り出すように言った。
渋るような声。じぶんに言い聞かせるような口調。
「ええ」
アランはすぐに返した。
けれど、その返答には咎めも苛立ちもなくて――
むしろ、少し笑うような柔らかさがあった。
「そうしてください。みなさん、盛大に見送られてきた令嬢ばかりなのですから」
その穏やかな声が続く。
「私たちが、セレナを宝物のように育てているようにね……今ここにいる令嬢たちも、どなたかにとっては“かけがえのない存在”なのです。私たちのセレナと同じように」
その言葉が、静かに胸に降りてくる。
レギュラスは、言葉もなくそっと視線を落とした。
ずっと反発してきた。
名前も覚えぬまま冷たく拒んだ者もいた。
彼女たちがどんな思いでブラック家の門をくぐってきたかを、知ろうとさえしなかった。
けれど今なら理解できる。
彼女らも、遠いどこかの家族にとっては、大切に、大切に育てられてきた娘なのだ。
セレナを思えばそれが分かる。
あの娘の目を曇らせるものには、絶対になりたくないと願ったように、きっと誰かが、あの子たちにも。
ならばせめて——
そこに節度を。尊厳を。礼を。
たとえ心が動かなくとも、人としての接し方だけは、最も大事な形で守ることができるはずだ。
「…… アラン」
レギュラスがふと名を呼ぶ。
彼女がそっと顔を向ける。
そこで初めて、はっきりと理解した。
昨日、彼女が明確な愛を口にしてくれたあの瞬間から、
世界の色が、ゆっくりと温かみを取り戻しているのだと。
アランの存在が、
彼女の静かな赦しが、
一つひとつ、自分の頑なさをほどいてくれていた。
それに気づけたことすら、自分にとっては救いだった。
レギュラスは微かに笑った。
「……努力します。本当に」
体の奥から、ようやく出てきた、真っ直ぐな言葉だった。
アランも、少しだけ目を細めて、微笑を返した。
部屋にはまた静けさが戻ったが、それはもう、冷たさではなかった。
赦しと歩み寄りが同居する、やさしい未来の沈黙だった。
中庭の陽射しが傾き始める午後。
アランは東棟のサロンで、一人の若い令嬢と並んで腰掛けていた。
窓辺には春風にたなびくレースのカーテン。やわらかな光が、二人の間にだけ小さな舞台のように差し込んでいた。
令嬢の名は――フィロメーヌ・クラリッサ・モンターニュ。
モンターニュ家の三女に生まれながら、彼女はまるで自分が特別な家柄であることなど忘れているかのように振る舞った。
仰々しい語り口も、気取った外聞もなく、話すことといえば、
かつて馬車の車輪が泥の中で外れて村人に助けられた話だとか、
魔法省の階段で転び、上司にスカートの裾を踏まれた話だとか――
貴族の令嬢らしからぬ、それでいて不思議に、
気持ちのいいほど自由で気取らない物語ばかりだった。
「あなたって、本当に…面白いのね」
アランは笑った。声を少し弾ませながら、ほんとうに楽しそうに。
それは遠い昔、シリウスと笑いあっていた頃の自分のようでもあった。
彼女の仕草や言葉のリズム、何より“自分らしく話し、自分らしく笑う”自然体――
どこかで、若き日のシリウスを思わせた。
ナイフのように鋭くも、美しく自由だったあの人の姿が、
ふいにこの若い女性に重なる。
それは懐かしさだけでなく、どこかアラン自身の“再生”のきっかけのようでもあった。
話の内容は、決して大それたものではなかった。
けれど彼女の口から語られれば、なぜだか何もかもが劇の一場面のように生き生きとしていて、
アランは一日中でも、その話を聞いていられるような気持ちになっていた。
笑って、くすっと喉を鳴らして、時には両手で口元を覆いながら肩を揺らす。
――その姿を、遠くから見ていた誰かがいた。
「お母様、すごく楽しそうなの」
そう言ったのは、セレナだった。
薄暮の食堂前、レギュラスが戸口で立っていると、セレナがまっすぐに父の元に駆け寄って告げた。
言葉は悪意なく、ただ純粋な観察と報告。
「フィロメーヌお姉様といる時、声を上げて笑ってるの。こんなお母様、初めて見たくらい」
レギュラスは一瞬、何も返せなかった。
胸のなかに生まれたのは、認めたくない――けれど間違いなく“嫉妬”だった。
妻が“声をあげて笑う”という光景。
それは、自分にすら見せてくれたことのない、ごく稀な表情のはずだった。
本来ならば、歓ぶべきことなのかもしれない。
アランが癒され、楽しんでいるのなら、
フィロメーヌという女性に感謝こそあれ、疑いや敵対など必要ないはず。
でも、その笑顔をあの子が引き出していると考えると、
どうしようもなく胸の奥で痛むものがあった。
ただ――それは、
愛しているからこその、幼さを帯びた嫉妬だった。
「……そうか」
ようやくレギュラスは、そっとそう呟いた。
本心では、見てみたいと思った。
あの声を上げて笑うアランを、自分の目でも――見てみたかったのだ。
その微かな願いを胸に、いつか自分もまた、彼女を笑わせられる日が来たらと、
ほんの少し、そんなことを思いながら、セレナの髪を優しく撫でた。
静かな嫉妬のなかにも、確かにあたたかいものが、ひとつだけ灯っていた。
客間の大きな時計の針が、ゆっくりと30分の位置に差し掛かろうとしていた。
壁の時計が鳴ることもなく、室内のあたたかな沈黙がただ淡く伸びている。
向かいに座るカロリーナは、紅茶の最後の一口を穏やかに口に運び、静かにカップをソーサーに戻した。
薄く張られた笑みと、少しだけ緊張を解いたような姿勢――どこにも不機嫌も不快もなかった。
それなのに、レギュラスの胸の奥には、どうにも言葉にならない“行き止まり”のようなものだけが残っていた。
彼女の目をきちんと見て、話を交わした。
セレナの話題も、ルーン語のことも、それにまつわる日常の小さな笑い話さえ口にできた。
それだけで自分としては、十分すぎるほどの「努力」をしていると思っていた。
そして――礼儀も、節度も、破らずに過ごした。
手を差し出すタイミングすら、「正しくあるため」に選んでいた。
けれど、それでも。
どうしても、その先に踏み出せなかった。
優しさは感じる。敬意もある。
そして何より彼女は、自分の妻や娘を慈しみ、大切に接してくれる人だった。
だからこそ、何一つ欠点などないとすら言えた。
けれど、だからこそ。
なぜ、こんなに胸が冷たいのだろう。
なぜ、今すぐにでもこの場を離れたいと思ってしまうのか。
レギュラスはグラスに触れたまま、まぶたの裏にアランの笑顔を思い浮かべた。
彼女がこの女性について語っていたときの、あの静かに細められた目。
セレナが嬉しそうに報告していた、ある種の「安心感」。
ああ、こんなに好意的に迎え入れられている人を、
どうして自分は抱けないのだろう。
理由がないことが、苦しかった。
レギュラスはひとつ、息を吐いた。
不意に時計を見上げる。
まだ客人のもとで過ごすには少し早すぎる時間だった。
何も起こしてはいない。けれど、それゆえに。
(……このまま部屋を出たら、アランに詮索されるかもしれない)
情けない。自分で自分がたまらなく嫌になる。
慈しみを向けられるのがつらい。
許されてしまうと、怯えてしまう。
そしてほんとうの拒絶もできずに、ただ部屋を出ることしか考えられない。
レギュラスはそっと立ち上がった。
「本日は……ご丁寧なお時間を、ありがとうございました」
静かに細く声を出す。
カロリーナは少し驚いたように視線を上げたが、にこやかに頷いた。
「こちらこそ。セレナ様のお話、とても嬉しかったです」
白い手がカップの取っ手に添えられ、頭を軽く垂れる。
レギュラスはその所作にきちんと会釈を返し、
けれど、背中の奥では痛いほどの不甲斐なさを抱えたまま扉に向かった。
こういう時、自分はまったくどうしたらいいかわからないのだ。
何が正しくて、何が誠実で、誰をどんなふうに傷つけているのか。
すべてわかっているつもりで、何ひとつ選べないまま立ち尽くす。
心の真ん中に冷たい重みを抱えて、
レギュラスは静かにドアノブを回し、扉の陰に吸い込まれるようにして部屋を出た。
その背中は、どこまでも静かで――
けれど、自分でもまだ知らない後悔の影を、ゆっくりと長く引いていた。
廊下を足早に抜けていく間、レギュラスはどこか胸の奥が冷えているのを感じていた。
客間の空気がまだほんのわずか衣服に残っていて、それを一刻も早く脱ぎ捨てたくて仕方がなかった。
扉の前で短く息を整え、ノックはせずにそっと中へ入る。
長くても甘くもない、ただまっすぐに帰ってくる場所—— アランの部屋へ。
そこに彼女はいた。
窓際の椅子に軽く腰かけ、本を閉じた指先を膝に置きながら、レギュラスの姿に気づくと目を細めた。
「……おかえりなさい、レギュラス」
その一言。その笑顔。
それだけで、胸の奥に張り詰めていた緊張の糸が、音もなくほどけていった。
言葉も、ためらいもいらなかった。
まるで無意識に触れたくなるように、レギュラスは彼女を抱きしめた。
腕の中に収まる細い身体は、何よりもあたたかかった。
そして目を閉じながら、静かに唇を重ねる。
焦燥でも、慰めでもない。ごく自然に、感情が指先を通って形になった。
アランは驚くこともなく、静かに彼の抱擁を受け止めてくれる。
軽く触れた髪に、彼はゆっくりと顔を埋めた。
まるで迷子の子供が、ようやく家に帰ってきたようだった。
「癒してほしい」——そんな言葉を、声にはしなかった。
けれどレギュラスの頼る仕草が、何よりはっきりとそれを意味していた。
アランは、彼の背をそっと撫でながら言う。
「……どうしたんです? あなたらしくない」
やわらかな調子だった。からかうわけでもなく、ただ不思議そうに。
けれど、レギュラスは何も答えなかった。
首を横に振るでもなく、説明するでもなく、ただアランの胸元に顔を押し当てたまま、隠れるようにして息を吐いた。
(説明なんて、要らない)
何を言われてもいい。
理由も、正しさも、もうどうでもよかった。
ここでは、好きなように振る舞っていられる。
掴まれたままの袖も、思わず押し当てた肩のぬくもりも、
何一つ拒まれず、ただ静かにそこにあってくれる。
「ねえ、レギュラス?」
アランがかすかに問いかけると、彼はほんの少しだけ頷いた。
それ以上、言葉は交わされなかった。
けれど――その沈黙が、レギュラスには十分だった。
愛されたまま、許されるという安心が、
こんなにも痛みの輪郭を溶かしていくのだと、改めて知った。
アランという名の場所に帰れる幸福を、
彼は今しずかに、胸いっぱいに吸い込んでいた。
レギュラスは掌をきつく握りしめたまま、足どりも定まらないほどに揺れた身体でアランの部屋の扉を押し開けた。
明かりは灯っていなかった。
カーテン越しに月の薄明かりだけが差し込み、空気は沈黙の色をしていた。
ベッドにはアランの横顔と、彼女の腕に小さく埋もれるセレナの姿があった。
ふたりとも静かに眠っていた。
ついさっきまでの苦しみなど、知らぬ世界のように穏やかな寝息だった。
けれど――レギュラスの胸に今あったのは、限界を超えた激情と、崩壊寸前の痛みだった。
この女は、よくもまあ……。
目の前の妻を見下ろしながら、言葉にならない感情が喉の奥で膨らんでいく。
怒り?
失望?
侮辱?
いや、違う。もはやそれは、燃え落ちた後の――悲しみだった。
手が勝手に動いた。
アランの手首を掴んだ瞬間、それは冷たくも柔らかく、自分の過ちにすら気づけぬほど静かな熱をもっていた。
「―― アラン。起きてください」
低く、荒れた声。
配慮というものは、そこにはもうなかった。
アランはゆっくりと瞼を開けた。
その視線には眠気と不明が混ざり、状況を飲み込めぬまま夫を見上げる。
「レギュラス……? 何……?」
レギュラスはその言葉を待たずに、手首を強く引いた。
ズル――と、小さな擦れる音。
アランの身体は、まるで重力の律から抜け出せずに、ベッドから引きずり落とされた。
「待って、……レギュラス、待って!」
アランの声が室内に割れた。
けれど、その制止の言葉さえ、いまこの男には届かなかった。
あの女が自分のベッドにいたこと。
そこで眠るつもりだったこと。
安らぎのふりをして、すべてを奪うように。
そして何より――
アランがそれを知っていながら何の意思表示もしなかったと思わせたこと。
それが、レギュラスの中で、“もう耐えられない”何かを超えてしまった。
レギュラスは怒りに満ちた呼吸を鼻の奥で抑えこみながら、アランの手を引く。
歩幅を合わせる気もなく、ただ真っ直ぐな衝動に突き動かされていた。
廊下を渡るあいだ、アランは何も言わなかった。
気配で理解したのだろう。いま、まともな言葉が通じる空気ではないと。
扉を開けた先、夫婦の寝室――
そこはつい先ほどまで、他人のぬくもりという名の侮辱がそっと横たわっていた場所。
その場所へ、アランの手首を引いたまま、一歩、二歩。
そしてベッドの側へ来ると、レギュラスは迷いなく彼女の身体を解き放った。
まるで、内側に溜め込んだ怒りの残滓を、それで床に叩きつけているかのように。
アランの身体は軽くしなり、ベッドの端に倒れこむ。
静かに起き上がろうとしながら、彼女はレギュラスを見た。
その視線は、怯えでも恐れでもなかった。
けれど――なぜ自分が責められているのか、深くは理解できていない表情だった。
その“無垢な問い”のようなまなざしが、レギュラスには何よりも苛立ちを呼び起こした。
「……なぜ、こんなことを許したんですか」
唇をかすかに震わせて言う。
感情の芯まで冷えて、それでも、燃えていた。
噛むように、引き絞られた声だった。
アランは小さく眉を寄せる。
そして、ほんの少しだけ顔を伏せたあと、静かに口を開いた。
「ヴァルブルガ様の……決定です」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスの胸の奥で、また何かが軋んで、音を立てた。
「……妻はあなたです」
絞り出す声には、怒りというよりも、悲しみが混ざっていた。
「そしてここは……母の部屋ではない。“僕と、あなた”の部屋です」
まっすぐにアランを見据える眼差しは、
もはや正しさを説くためでも、立場を示すためでもなく――
ただ、自分が破壊されてゆくのを止めてほしいという叫びに近かった。
そのとき、アランがそっと動いた。
掴まれていない方の手を静かに持ち上げ、
レギュラスの拳に、そっと重ねて触れた。
その温度は優しかった。
静かな水音のように、彼の皮膚に触れて――
彼を溶かすのではなく、ただ、その火傷を受け取ろうとする手だった。
「……レギュラス」
アランの声は、夜の深さのように、やわらかかった。
「受け入れてください。……楽になれます」
それは悲しいほど誠実な言葉だった。
いまの彼の苦しみすらも、自分が背負いたいと告げている声だった。
けれど――
まだ言うのか
レギュラスの中で、またひとつ、何かが途切れる音がした。
愛ではなく、諦めではなく、
すべての間に立つ、細く張られた「信じたい気持ち」だけが、
綻びの先で断ち切られていく。
彼の掌は、アランの添えた手のぬくもりを一瞬だけためらい、
それから――そっと、拒むように、自分の手を抜いた。
その手が落ちたその空気に、
それまでふたりの間に張りつめていた、微かな“信頼”の残香が、
静かに消えていった。
夜は、息を潜めるように深く静まり、
屋敷の中のどの灯りも、まだ心を照らすには遠すぎた。
レギュラスの背に纏った怒りと失望は、
重く、冷えた衣のように肌に張り付いていた。
アランを見下ろしたまま、彼はふっと小さな息を吐いた。
それはため息でも、許しでもなかった――ただ、何もかもがどうでもよくなった、その無音の証。
いままで、どれほどアランの身体を気遣ってきたか。
寒そうにすればブランケットを渡し、疲れていれば口を閉ざし、
何より、彼女の穏やかさを壊してはいけないと、触れるときほど慎重になってきた。
だがそのすべてが、一瞬で内部から崩れ落ちていった。
愛していた。
そして、今でも愛しているはずだった。
それなのに――
その思いさえも、いまはもう、燃え尽きて灰のようになって胸の隅に冷たく沈んでいた。
アランの両肩を押し、シーツへと沈めると、
レギュラスはよろよろとその上に重なった。
もう、優しさも、ためらいもない。
求める振りすら、自分への嘘に思えた。
「待って……レギュラス……」
か細い声が潰れた息に混ざり、耳の奥に届く。
だが、それすら耳障りだった。
レギュラスは、何も言わずに顔を伏せ、アランの唇を塞いだ。
やさしさではなかった。
ただ、沈黙を強いた。
その日、レギュラスは初めて、ここまで”何の温度も持たない行為”をした。
愛している人の体を抱きながら、これほど冷えた心になれるなど、自分でも知らなかった。
唇は触れていた。
肌も重なっていた。
温度は確かにあったはずなのに――
何も満たされなかった。
求めるのではなく、奪う形で交わされたぬくもりは、
渇きを潤さず、ただ互いに傷つけるだけ。
奥深くにあった“確かな繋がり”という心の泉からの水は、
もう掘り尽くして、底まで冷たくなっているようだった。
アランの瞳も、何も語らなかった。
抗いながらも、どこか諦めに似た光だけが、ちらと浮かんでいた。
それを見てすら、レギュラスは何も結び返すことができなかった。
最後まで、温度は戻らなかった。
ふたりを満たすものは何もなく、
爪痕だけが荒く刻まれるようにして、夜の底に沈んでいった。
そんな夜の深さだけが、
まだ確かにふたりを包んでいた。
まるで、何も知らないふりをして。
レギュラスは、アランの上に崩れるように倒れこんだまま、微動だにしなかった。
その手からは力が抜けきっていて、肩で息をする音だけが、夜に小さく擦れていた。
アランも、しばらくのあいだ何も言わなかった。
息を整えることすら、怯えるようにためらっていた。
唇はまだ熱の残る静けさのなかで閉じられ、
その瞳の奥には言葉にできない思いが沈んでいた。
レギュラスがようやく身体を離したのは、数分経ってからだった。
けれど、そのわずかな距離は、ふたりの間に落ちた決定的な沈黙を少しも和らげなかった。
ふたりとも、なにも言葉を持たなかった。
それほどまでに、この夜が奪ったものは大きかった。
レギュラスは隣で横になったまま、天井を見つめた。
手は動かない。目線もゆれない。
感情が、もはや流れを失ってどこにも進まない泥のようになっている。
さっきまで、怒りがあった。
苦しみがあった。屈辱があった。
だけど今、何一つ残っていなかった。
ただ――深い空洞だけが、心の中で音もなく拡がっている。
アランはレギュラスの横顔をそっと見やった。
頬に触れることもできなかった。
この体にいつか宿っていたはずの愛も、尊重も、
今は触れた途端に砕けてしまいそうで――手が伸ばせなかった。
「……レギュラス」
ようやく搾り出した声も、
彼の耳に届いたかどうかはわからなかった。
小さな囁きは、ただ虚空に落ちていった。
応えは返らない。けれど彼の眉がかすかに動いた。
その微かな反応が、せめて感情を残してくれている証のようにも見えた。
だけど、その沈黙の重さは決して優しさではなく、
むしろ“傷つけたと知りながらも回復を拒む痛み”のかたちだった。
ふたりの間に、かつて存在していた柔らかなものたちが、
触れる瞬間にすら壊れていく悲しみを、
今夜ほど濃く感じたことはなかった。
アランは目を閉じた。
愛していた。
愛されてきた。
信じていた。
だけど――今夜のぬくもりは、どこまでも「愛のなりそこない」だった。
言葉ひとつなければ、救えないものばかりが、静かに胸の奥で崩れていった。
朝の光はまだ差し込まない。
静寂な寝室には、わずかに揺れるカーテンの音と、かすかな吐息のような呻き声だけが響いていた。
それが、レギュラスの意識を引き戻す。
夢か現かも分からぬ暗がりの中で、それは――あまりにも痛々しい響きだった。
「…… アラン?」
寝返りを打った指先が、隣にいるはずの温もりに触れる。
そして――ものを押し殺すような、小さな、苦しげな声。
それは確かに、アランのものだった。
「アラン……?」
もう一度、今度は鮮明に名を呼ぶ。
けれど返事はなく、あるのは只うずくまり、息を殺すように痛みに耐える妻の肩が微かに震えている姿だけだった。
レギュラスの鼓動が、耳の奥で跳ね上がる。
「アラン……!」
歯を食いしばり、何かに耐えている。唇は白く、目は開ききれず、いつもの静かな気配すらも感じられなかった。
ただ、その顔は、叫びたくても声にならないような苦痛で歪んでいた。
一瞬、時が止まったようだった。
昨夜のことが脳裏をかすめる。
あまりにも冷え切った、あの行為。
気遣いも、優しさも、愛も置き去りにしたまま奪った、自分だけの夜。
その記憶と、いま目の前にいるアランの姿が、繋がってしまった瞬間――
レギュラスの全身から血の気が引いた。
「アラン、ごめん……違う、違うんだ、そんなつもりで……っ」
言葉が追いつかず、ただ震える手でもう一度彼女の身体を覆った。
けれど、どこに触れてよいかわからない。どこも脆く見えて、すべてが痛みのように見えた。
アランのその小さな身体は、かすかに震えていた。
レギュラスは焦りのまま、床に脱ぎ捨てたままだった昨夜のアランの服を拾い上げ、混乱する手で袖を通し、冷える肌を覆うように着せた。
「医者を……医者を呼んできます。アラン……しっかり……しっかりしてください」
彼の声が割れていた。
冷静さはどこにもなく、繰り返す言葉は、掴めない不安の中で必死に投げる祈りのようだった。
アランの呻き声がまたひとつ、弱く、胸を裂くように響いた。
その声が、この世の誰よりも苦しかった。
何が起こっているのか分からない。
けれどこれは、ただの体調不良ではない。
そう直感で理解できるほどに―― アランの身体は、これまでにない叫びを訴えていた。
そしてレギュラスの胸には、何より重くのしかかる後悔だけが、今さらのように、鋭利な刃となって降りてきていた。
声にならない謝罪を喉の奥に押し込みながら、
彼は部屋を飛び出した。
妻を救うすべての手段を――今度こそ取り返すために。
寝室には、まだ昨夜の名残が微かに漂っていた。
空気は重く沈み、カーテン越しに落ちた朝の光すら、その場の雰囲気を和らげるには力が足りなかった。
シーツは代えられ、空気は換気されている。けれど、レギュラスにははっきりとわかった。――この場所は、まだ“昨日”を引きずっている。
ゆえに、他人をこの部屋に入れることには、強い躊躇があった。
だが、そんなことを言っている場合ではなかった。
ベッドに横たわるアランは、医師が処方した鎮痛と安定剤の影響で、浅く、規則的な呼吸を繰り返している。
その横で、レギュラスはひとことも発せず、医師の丁寧な手元を見つめていた。
淡々と脈を取り、目を照らし、熱を測り、痛みの部位を確認していく医者の動き――それを見届けながら、彼の胸にはただ、圧倒的な後悔が重く蓄積されていた。
巻き戻すことができるなら。
どうにかして、あの夜、ただ彼女に触れようとした瞬間からやり直したい。
無理だと分かっていても、その想いだけが喉の奥に貼りついて、離れなかった。
ふと、かすかな足音が廊下から近づいてくる。
「お母様は……どうしたの?」
セレナの声だった。
小さく不安を帯びた音程と、控えめな響き。
その声に、レギュラスは瞬時に反応し、静かに立ち上がる。
この部屋に、娘を入れるわけにはいかなかった。
特に、今日という日には。
レギュラスはすぐに寝室の扉を開き、小さな影を迎えるように身を屈めた。
「お父さま……お母様――…?」
その背後には、昨日、丁寧に食事を準備してくれたエメリンド・フェリックスの姿もあった。
緑灰の瞳が、心配そうにセレナを見やりながら、そっと視線をレギュラスに向ける。
レギュラスは、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、それから顔を上げて言った。
「すみませんが……妻が体調を崩しています。……セレナを、お願いします」
それは昨夜、威圧と拒絶を以て向き合った女のひとりに向けたには、あまりに低く切実な声だった。
詫びよりも前に口をついたことば。
プライドや立場などが干からびていくのが自分でもわかる。それでも――この一瞬だけは、助けがほしかった。
今この屋敷にいる女たち全員に対して抱えている苛立ちや嫌悪など、一つ一つ数えている暇はなかった。
彼は父だった。夫だった。
そのただ一点を、いまこの場で必死に貫こうとしていた。
エメリンドは何も言わず、ただ一度深くうなずいた。
そして、そっとセレナの肩に手を置く。
「あちらへまいりましょう。少しお外の空気を吸いましょうか」
優しげな声が落ち、セレナは不安げに父を見上げながらも、うなずく。
レギュラスはその小さな背を見送ったまま、ふたたび扉の内へと戻る。
寝室の灯りはまだ暗く、部屋の奥では――
彼が手を放したことの代償が、浅い呼吸の中で静かに眠っていた。
医師の声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。
言葉は整えられ、理知的に選ばれている。
症状の説明、経過の予測、投薬の効果、そして安静の必要性――
そのどれもが冷静で、適切で、そして恐ろしいほど現実的だった。
頭では理解していた。
けれど、胸の奥では、それらがひとつも実感として届いてこなかった。
生きた心地がしなかった。
寝台の上では、アランがまだ静かに眠っていた。
まぶたは薄く閉じたまま、口元も小さく食いしばられていて、
痛み止めの力でようやく眠りに堕ちているということが、この静けさの裏に透けて見える。
どこか呼吸が浅くて、見守っている間もずっと不安で、ただひたすら、“このまま目を覚まさなかったら”という恐怖が頭から離れなかった。
レギュラスはそっとベッドの縁に腰を下ろす。
手は膝上に置かれ、指先が微かに震えていた。
何を言えばいい?
――すまなかった?
――気づけなかった?
――二度と繰り返さない?
そんな言葉に、何の価値がある?
何をどう詫びたところで、それが本当に赦しを乞うということになるのか、もう分からなかった。
そもそも、赦される資格が、自分にあるとは思えなかった。
静まり返った部屋の中、アランの眠る顔だけが、
痛みの記憶と沈黙のあいだで硬く閉じられている。
その輪郭が、ひどく遠く、冷たく見える。
レギュラスは口元を軽く噛んだ。
喉元まで込み上げてきた嗚咽を、なんとか呑み込もうとする。
なのに、胸の内では、怒濤のように声にならない情けなさだけが押し寄せた。
泣きそうだった。
ほんとうに――泣きそうだった。
誰も見ていなくても、たとえ彼女が眠っていても、
どうしようもなく、涙が込み上げる。
恐ろしかった。
このまま彼女の目が覚めなかったら。
彼女の目が開いても、取り返しのつかない何かがそこに残ったままだったら。
後悔。
恐れ。
罪。
愛しているという感情さえ、いまはすべてを傷つける棘にしか思えなかった。
「……」
レギュラスは何も言えず、アランの枕元に視線を落として、
静かに、静かに、指先を彼女の指先の隣に置く。
重ねることも、握ることも――いまは、できない。
けれどそこに居ることでさえ、せめて「償いの最初の一滴」であることを、どうか彼女がいつか知ってくれますようにと、
心の奥で密かに、必死に願っていた。
外の陽は、ゆっくりと、気づかぬままに、伸びていた。
それでもこの部屋の中だけは、時間が止まったように、沈黙に支配されていた。
扉が静かにノックされる音が、重い空気を微かに震わせた。
レギュラスは背筋を起こしたまま、疲れ果てた顔を扉の方に向ける。その表情は、まるで一夜で何年も老いたかのような深い疲労に覆われていた。
「……どうぞ」
かすれた声で応じると、ヴァルブルガが静かに入ってきた。
「どういう状況ですの?」
母の声は冷静だったが、その瞳にはわずかな心配の色が宿っていた。
レギュラスは一瞬、答えを探すように口元を動かした。けれど、言葉が出てこない。
「医者から……色々聞きましたが」
彼は手で額を押さえながら、途切れ途切れに言った。
「すみません。覚えていません。詳しくは……処方箋を」
その様子を見て、ヴァルブルガは深いため息をついた。
「なんとまあ……情けない姿ですこと」
その言葉は厳しかったが、完全な非難ではなかった。むしろ、息子の惨状を目の当たりにした母の、複雑な心境が滲んでいた。
「ええ、本当に」
レギュラスは素直に頷いた。
母の言葉に反発する気力も、弁解する理由も、もはや何も残っていなかった。自分が情けないことは、誰よりも彼自身が痛いほど理解していた。
よろよろと立ち上がり、ベッドの縁に再び腰を下ろす。その動作すら、どこか覚束なかった。
「夕食の時間ですよ」
ヴァルブルガは一歩近づいて言った。
「客人たちが集まっています。降りていらっしゃい」
その声には、いつもの威厳と同時に、息子を立ち直らせようとする意志が込められていた。
けれどレギュラスは、首を横に振った。
「食欲は……ありませんので。結構です」
その答えに、ヴァルブルガは再びため息を漏らした。
部屋には再び静寂が降りた。
ベッドに眠るアランの穏やかな寝息だけが、この重い空気の中で唯一の生命の証だった。
ヴァルブルガは息子の横顔を見つめながら、何か言いたげな表情を浮かべていたが、結局何も言わずに扉へと向かった。
「……お呼びでしたら、いつでも」
それだけを残して、彼女は静かに部屋を後にした。
レギュラスは一人、アランの傍らで再び沈黙に沈んだ。窓の外では夕陽が沈みかけ、部屋を薄暗い橙色に染めていた。
この長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
朝の光が、ゆっくりとカーテンの隙間から射し込んできた。
窓辺の薄布がやさしく揺れ、長く続いた沈黙の時間が、少しずつほどかれていく気配をまとっていた。
その静穏のなか――
かすかな吐息の変化に、レギュラスは目を向けた。
アランの睫毛が、微かに揺れた。
その瞳が、ゆっくりと光に焦点を合わせるように開かれていく。
「…… アラン……」
喉が裂けるほどの想いが、一気に胸に立ち上がったが、レギュラスの唇からは、何ひとつ言葉がこぼれなかった。
ただ、目を見開いたまま彼女を見つめていた。
その驚きと、やがてじわじわと内側から溢れ出していく安堵が、彼を黙らせていた。
まばたきひとつ分の静けさのあと――
アランは、ほんの少し口元を緩めた。
それは笑顔というにはあまりにか細く、それでもあまりに美しい笑みだった。
力の欠片を集めるようにして微笑み、
レギュラスを見つめながら、喉を震わせる。
「おはようございます……で、いいのかしら」
その声を聞いた瞬間、レギュラスの胸に押し込めていた何かが崩れ落ちた。
返事をしようとした瞬間、喉が焼けつくように痛んだ。
言葉が出ない。
感情が声になるより早く、胸の奥でひどく熱いものが込み上げてくる。
代わりに、彼はただアランの肩を抱いた。
眠りから覚めようとする彼女の背を、そっと支えて、胸へ引き寄せた。
「…… アラン……よかった……よかった……」
抑えようとしても、声にならない想いが、
崩れるように涙となって頬をつたう。
アランの肩を、腕を、しっかりと包む。
彼女の向こう側に顔を伏せ、見られないように、
壊れそうなほど静かに、涙をこぼした。
どれほどの後悔を重ねても、きっと消えない夜だった。
けれど、それでも彼女が目を開いた。
その瞳が、自分の姿を映した――
それだけで、世界は、わずかに戻ってきた気がした。
この温もりだけは、もう二度と手放したくない。
そう願って、レギュラスは何も言わずに、
ただアランの肩を、胸の奥で抱きしめ続けた。
病み上がりの静けさが、寝室の空気を優しく包んでいた。
窓のレース越しに淡い光が揺れて、まるで沈黙すらも息をひそめているようだった。
レギュラスは、まだ目覚めきれないような疲弊をまとったまま、ベッドの縁に座っていた。
その隣で、アランが身体を少し起こすと、掠れるような声で言葉を落とした。
「……レギュラス。私も、無神経でした」
その声の柔らかさに、かえって胸が締めつけられる。
彼女が謝るはずじゃなかった。
どんな言葉よりも、その一言が――
レギュラスの中の、触れてはならない感情の奥を、静かに、痛いほど貫いていった。
罪悪感が、波のように胸を洗っていく。
たしかに無理をさせたのは自分だった。
何ひとつ彼女の心を、身体を守らなかったということを、レギュラスは誰よりも理解していた。
「……いえ。僕の方こそ、最低でした」
唇をかむようにして、そうこぼす。
呻くほど痛いその言葉を、ようやく吐き出す声音はかすれ、ひどく濁っていた。
彼女の身体を抱きしめる腕が、わずかに震える。
触れることさえ許されないはずの身体を、今またこうして包んでしまっていることにさえ、許しを乞うような思いが宿っていた。
それでも。
その肌の温もりは、背を向けるどころか――そっと戻ってきてくれていた。
そして、そのときだった。
「……レギュラス。愛しています」
アランの声が、やけに穏やかに響いた。
瞬間、レギュラスの心が凍りつくような錯覚を覚えた。
その言葉が、あまりに突然で、あまりにも無垢で――
一瞬、幻でも聞いたのかと、耳を疑った。
(……今、なんと?)
わずかに顔を持ち上げる。
彼女を見る。
その瞳には、曇りひとつなく、深くやわらかい光が灯っていた。
アランは、まっすぐだった。
もう一度、迷わぬ声で言う。
「愛しています。レギュラス」
レギュラスは息を飲んだ。
その言葉を、今の自分に向けられる資格などないという思いが、胸を叩いた。
それでも――その声音は、背を向けた自分を責めるでもなく、
どこまでも優しく、赦すためだけに存在しているようだった。
腕のなかにあるアランの身体が、あたたかかった。
そして、その重みこそが、彼の心をやっと地に戻す。
「…… アラン……」
ようやく絞り出した名は、涙に濡れていた。
触れる額のすべてが震えていた。
赦されるなどと思っていたわけではなかった。
けれど、愛してくれる人が、まだ傍にいてくれるという事実が――
ひとつの命のように、レギュラスの胸の奥で静かに灯っていた。
もう二度と手放さない。
そう思いながら、彼はアランを、そっと、静かに強く抱きしめた。
静かだった。
機械のように淡々と刻まれていた薬に沈む眠りの波が、ゆるやかに引いていく。
重力が戻ってくるような感覚のなかで、アランはまぶたの裏に微かな光の気配を感じ取っていた。
まだ目は開けない。
けれど意識は確かに浮上しはじめていて、その陶酔の縁で、ひとつの記憶に触れていた。
──身体が深く沈んでいく前、
まだぎりぎり判断が効く、その瞬間に決めていたこと。
次に目覚めるとき、もしも――
まだ命が続いていたとすれば。
そのときこそ、レギュラスが望む言葉を紡ごうと決めていた。
「愛している」
そのひとこと。
あまりに簡単で、あまりに深い——
そして、いちばん、アランが遠ざけていた言葉。
本当は、もうずっと前からわかっていた。
彼がそれを求めていることを。
心のどこかでずっと、確かに“それ”を待っていることを。
けれどそれでも。
アランはその言葉を決して言わなかった。
それは、ほんとうに心から言えなかったからではなく——
言ってしまうことで、閉じ込めてきた“何か”が壊れる気がしていたから。
愛している。
その言葉は、あの日、シリウスに告げた最後の言葉だった。
正しくは、彼に与えた“最期”の呪文のようなもの。
それを守るように、アランはずっと心のなかに
ひとつの閉じられた場所を持ち続けていた。
そこには、誰も触れさせなかった。
何があっても、夫であるレギュラスですら踏み込ませなかった。
純血一族に課された名の下に、
多くのものを手放してきた——
けれどたったひとつ、その愛の記憶だけは放棄しなかった。
アランはそれを心の中で“絶対的な領域”として抱いていた。
あのときの「愛している」は、シリウスとの過去の中で永遠になっていたのだ。
それでも今。
目を閉じたまま、まだ混濁した意識のなかで、
アランははっきりと思っていた。
――もう、言葉を渡そう。
だって、この十数年。
共に生き、共に耐え、子を育て、家を守ってくれたレギュラスのことを思えば、
もはや“愛”という言葉を与えることを躊躇う理由はなかった。
いや、違う。
それはきっと――もう、理由など必要なかったのだ。
今あるこのかすかな呼吸が、
まだ繋がれた手の温もりが、
すでに彼を選び続けてきた証そのものであったのだから。
アランは知った。
「愛している」という言葉だけが “愛”ではなく、
ともに耐えて手を重ねた時間そのものが、
別のかたちの愛の名であったということも。
そして今、レギュラスが求めているそれが、
名指しされた愛なのであれば――
それならば、差し出してもいいと思った。
怖れと記憶と、かつての贖罪と、矛盾と、つじつまの合わない選択の全て。
それらをすべて抱えたまま、それでも今この瞬間、やっと言える。
目が覚めたとき、アランは、
ゆっくりとレギュラスを見あげ、そして言うのだろう。
揺れながら、それでもまっすぐに、澄んだ声で。
「……愛しています」
それは、かつてシリウスに向けたそれとは決定的に違う。
過去を否定しないまま、今を受け入れようとする、もうひとつの深い愛の始まりだった。
目を開いてからまだ間もないというのに、アランの声は芯から澄んでいた。
揺れていない。震えていない。
それだけで、彼女がどれだけの決意と覚悟をあの長い眠りの向こう側で固めてきたのか、レギュラスには痛いほど伝わった。
「愛しています」
重ねられたその言葉が、まるで聖句のように部屋の空気をゆっくり震わせた。
レギュラスは、信じきれない思いで彼女の表情を見つめた。
目の奥を覗いても、そこには作られた優しさも、義務も、見当たらなかった。
ただ、まっすぐな意思と、長い沈黙の果ての光だけが揺れていた。
思わず、呼吸を忘れていた。
言葉に縋ってきた自分にとって、それがどれほどの重さを持つかを語るには、自分自身が一番よく知っている。
一度も強いられたことのないその言葉。
どこまでも慎重に選び、長く封じてきたその響き。
手放してしまえば壊れてしまうものとして、アランのなかに大切にしまわれていたものを――
彼女自身が自ら差し出してくれたのだ。
レギュラスの目に、再び涙がにじんだ。
ただ今度は、“償いの涙”ではなかった。
“祈りのような感情”だった。
胸の奥に灯った火を、抱きしめるように静かに守ろうとする、やわらかな願いそのものだった。
「……ずっと、ほしかったんです」
やっと声が出た。
押し殺した声。濁った声。けれど、確かな声。
「どんなにあなたが黙っていても、どんなに語らなくても……」
「それでも、あなたがここにいてくれるだけで、それで十分だって思ってきた。
でも……ほんとうに、ほんとうに、聞ける日が来るなんて……」
涙を見せまいと、レギュラスはうつむいて、アランの手を両手で包みこむ。
そこにある細く繊細な指を、まるで初めて触れたように大事に撫でながら、震える指先を重ねていく。
アランは静かにそのぬくもりを受け取っていた。
「ありがとう、レギュラス」
その言葉は、彼女の口から自然とこぼれた。
「言えてよかった」と言う代わりの、彼女なりの形。
そして、彼はそっとアランの額に額を寄せた。
額と額が触れるだけで、胸がいっぱいになった。
この瞬間だけを生涯何度でも思い返せるだろう。
かけ違えてきたたくさんの日々も、遠回りも、
そのすべてがこの“ひとつの言葉”に辿り着くためにあったのだと――
ようやく、静かにそう思うことができた。
愛しています――
それは断絶ではなく、「これから」を繋ぐ道だった。
アランとレギュラスは、今その入り口に、初めて同じ足並みで立ったのだった。
窓の外には、春のはじまりの気配が濃く漂っていた。
庭の木々は新芽を帯びはじめ、朝の光は淡く柔らかく、部屋全体に穏やかな温度を落としていた。
寝室の片隅、陽に染まる白いソファで、アランとレギュラスは並んでいた。
いつもより静かな朝だった。言葉を交わさず過ごしても、気まずくは感じない——そんなふたりなりの空気に、ようやく戻りつつあった。
アランは窓の方を向いたまま、ふいに声を落とした。
「……レギュラス。あなたが誰と、何をして過ごそうが——私たちが、これまで過ごしてきた日々が、変わるわけではありません」
その声音には、責めも執着も滲んでいなかった。
「だから……そのことで罪悪感を抱かないでください」
レギュラスはその言葉を聞いて、肩の奥で小さく息を止めた。
アランの言いたいことは、よく分かっていた。
そして、彼女のそのやさしさが、どれほど考えた末のものかも。
けれど——
分かっていても。
受け入れようとしても。
どこか、身体の奥底でどうしても、拒否反応のようなものが残っていた。
綺麗に着飾り、頭を下げて自分に微笑む少女たち。
そのなかに真心や努力があると知っていても、
「違う」と反射的に思ってしまう自分が、情けなくて苦しかった。
そして視界の端で、アランがこちらに顔を向けた。
「……努力はします」
沈黙ののち、レギュラスは搾り出すように言った。
渋るような声。じぶんに言い聞かせるような口調。
「ええ」
アランはすぐに返した。
けれど、その返答には咎めも苛立ちもなくて――
むしろ、少し笑うような柔らかさがあった。
「そうしてください。みなさん、盛大に見送られてきた令嬢ばかりなのですから」
その穏やかな声が続く。
「私たちが、セレナを宝物のように育てているようにね……今ここにいる令嬢たちも、どなたかにとっては“かけがえのない存在”なのです。私たちのセレナと同じように」
その言葉が、静かに胸に降りてくる。
レギュラスは、言葉もなくそっと視線を落とした。
ずっと反発してきた。
名前も覚えぬまま冷たく拒んだ者もいた。
彼女たちがどんな思いでブラック家の門をくぐってきたかを、知ろうとさえしなかった。
けれど今なら理解できる。
彼女らも、遠いどこかの家族にとっては、大切に、大切に育てられてきた娘なのだ。
セレナを思えばそれが分かる。
あの娘の目を曇らせるものには、絶対になりたくないと願ったように、きっと誰かが、あの子たちにも。
ならばせめて——
そこに節度を。尊厳を。礼を。
たとえ心が動かなくとも、人としての接し方だけは、最も大事な形で守ることができるはずだ。
「…… アラン」
レギュラスがふと名を呼ぶ。
彼女がそっと顔を向ける。
そこで初めて、はっきりと理解した。
昨日、彼女が明確な愛を口にしてくれたあの瞬間から、
世界の色が、ゆっくりと温かみを取り戻しているのだと。
アランの存在が、
彼女の静かな赦しが、
一つひとつ、自分の頑なさをほどいてくれていた。
それに気づけたことすら、自分にとっては救いだった。
レギュラスは微かに笑った。
「……努力します。本当に」
体の奥から、ようやく出てきた、真っ直ぐな言葉だった。
アランも、少しだけ目を細めて、微笑を返した。
部屋にはまた静けさが戻ったが、それはもう、冷たさではなかった。
赦しと歩み寄りが同居する、やさしい未来の沈黙だった。
中庭の陽射しが傾き始める午後。
アランは東棟のサロンで、一人の若い令嬢と並んで腰掛けていた。
窓辺には春風にたなびくレースのカーテン。やわらかな光が、二人の間にだけ小さな舞台のように差し込んでいた。
令嬢の名は――フィロメーヌ・クラリッサ・モンターニュ。
モンターニュ家の三女に生まれながら、彼女はまるで自分が特別な家柄であることなど忘れているかのように振る舞った。
仰々しい語り口も、気取った外聞もなく、話すことといえば、
かつて馬車の車輪が泥の中で外れて村人に助けられた話だとか、
魔法省の階段で転び、上司にスカートの裾を踏まれた話だとか――
貴族の令嬢らしからぬ、それでいて不思議に、
気持ちのいいほど自由で気取らない物語ばかりだった。
「あなたって、本当に…面白いのね」
アランは笑った。声を少し弾ませながら、ほんとうに楽しそうに。
それは遠い昔、シリウスと笑いあっていた頃の自分のようでもあった。
彼女の仕草や言葉のリズム、何より“自分らしく話し、自分らしく笑う”自然体――
どこかで、若き日のシリウスを思わせた。
ナイフのように鋭くも、美しく自由だったあの人の姿が、
ふいにこの若い女性に重なる。
それは懐かしさだけでなく、どこかアラン自身の“再生”のきっかけのようでもあった。
話の内容は、決して大それたものではなかった。
けれど彼女の口から語られれば、なぜだか何もかもが劇の一場面のように生き生きとしていて、
アランは一日中でも、その話を聞いていられるような気持ちになっていた。
笑って、くすっと喉を鳴らして、時には両手で口元を覆いながら肩を揺らす。
――その姿を、遠くから見ていた誰かがいた。
「お母様、すごく楽しそうなの」
そう言ったのは、セレナだった。
薄暮の食堂前、レギュラスが戸口で立っていると、セレナがまっすぐに父の元に駆け寄って告げた。
言葉は悪意なく、ただ純粋な観察と報告。
「フィロメーヌお姉様といる時、声を上げて笑ってるの。こんなお母様、初めて見たくらい」
レギュラスは一瞬、何も返せなかった。
胸のなかに生まれたのは、認めたくない――けれど間違いなく“嫉妬”だった。
妻が“声をあげて笑う”という光景。
それは、自分にすら見せてくれたことのない、ごく稀な表情のはずだった。
本来ならば、歓ぶべきことなのかもしれない。
アランが癒され、楽しんでいるのなら、
フィロメーヌという女性に感謝こそあれ、疑いや敵対など必要ないはず。
でも、その笑顔をあの子が引き出していると考えると、
どうしようもなく胸の奥で痛むものがあった。
ただ――それは、
愛しているからこその、幼さを帯びた嫉妬だった。
「……そうか」
ようやくレギュラスは、そっとそう呟いた。
本心では、見てみたいと思った。
あの声を上げて笑うアランを、自分の目でも――見てみたかったのだ。
その微かな願いを胸に、いつか自分もまた、彼女を笑わせられる日が来たらと、
ほんの少し、そんなことを思いながら、セレナの髪を優しく撫でた。
静かな嫉妬のなかにも、確かにあたたかいものが、ひとつだけ灯っていた。
客間の大きな時計の針が、ゆっくりと30分の位置に差し掛かろうとしていた。
壁の時計が鳴ることもなく、室内のあたたかな沈黙がただ淡く伸びている。
向かいに座るカロリーナは、紅茶の最後の一口を穏やかに口に運び、静かにカップをソーサーに戻した。
薄く張られた笑みと、少しだけ緊張を解いたような姿勢――どこにも不機嫌も不快もなかった。
それなのに、レギュラスの胸の奥には、どうにも言葉にならない“行き止まり”のようなものだけが残っていた。
彼女の目をきちんと見て、話を交わした。
セレナの話題も、ルーン語のことも、それにまつわる日常の小さな笑い話さえ口にできた。
それだけで自分としては、十分すぎるほどの「努力」をしていると思っていた。
そして――礼儀も、節度も、破らずに過ごした。
手を差し出すタイミングすら、「正しくあるため」に選んでいた。
けれど、それでも。
どうしても、その先に踏み出せなかった。
優しさは感じる。敬意もある。
そして何より彼女は、自分の妻や娘を慈しみ、大切に接してくれる人だった。
だからこそ、何一つ欠点などないとすら言えた。
けれど、だからこそ。
なぜ、こんなに胸が冷たいのだろう。
なぜ、今すぐにでもこの場を離れたいと思ってしまうのか。
レギュラスはグラスに触れたまま、まぶたの裏にアランの笑顔を思い浮かべた。
彼女がこの女性について語っていたときの、あの静かに細められた目。
セレナが嬉しそうに報告していた、ある種の「安心感」。
ああ、こんなに好意的に迎え入れられている人を、
どうして自分は抱けないのだろう。
理由がないことが、苦しかった。
レギュラスはひとつ、息を吐いた。
不意に時計を見上げる。
まだ客人のもとで過ごすには少し早すぎる時間だった。
何も起こしてはいない。けれど、それゆえに。
(……このまま部屋を出たら、アランに詮索されるかもしれない)
情けない。自分で自分がたまらなく嫌になる。
慈しみを向けられるのがつらい。
許されてしまうと、怯えてしまう。
そしてほんとうの拒絶もできずに、ただ部屋を出ることしか考えられない。
レギュラスはそっと立ち上がった。
「本日は……ご丁寧なお時間を、ありがとうございました」
静かに細く声を出す。
カロリーナは少し驚いたように視線を上げたが、にこやかに頷いた。
「こちらこそ。セレナ様のお話、とても嬉しかったです」
白い手がカップの取っ手に添えられ、頭を軽く垂れる。
レギュラスはその所作にきちんと会釈を返し、
けれど、背中の奥では痛いほどの不甲斐なさを抱えたまま扉に向かった。
こういう時、自分はまったくどうしたらいいかわからないのだ。
何が正しくて、何が誠実で、誰をどんなふうに傷つけているのか。
すべてわかっているつもりで、何ひとつ選べないまま立ち尽くす。
心の真ん中に冷たい重みを抱えて、
レギュラスは静かにドアノブを回し、扉の陰に吸い込まれるようにして部屋を出た。
その背中は、どこまでも静かで――
けれど、自分でもまだ知らない後悔の影を、ゆっくりと長く引いていた。
廊下を足早に抜けていく間、レギュラスはどこか胸の奥が冷えているのを感じていた。
客間の空気がまだほんのわずか衣服に残っていて、それを一刻も早く脱ぎ捨てたくて仕方がなかった。
扉の前で短く息を整え、ノックはせずにそっと中へ入る。
長くても甘くもない、ただまっすぐに帰ってくる場所—— アランの部屋へ。
そこに彼女はいた。
窓際の椅子に軽く腰かけ、本を閉じた指先を膝に置きながら、レギュラスの姿に気づくと目を細めた。
「……おかえりなさい、レギュラス」
その一言。その笑顔。
それだけで、胸の奥に張り詰めていた緊張の糸が、音もなくほどけていった。
言葉も、ためらいもいらなかった。
まるで無意識に触れたくなるように、レギュラスは彼女を抱きしめた。
腕の中に収まる細い身体は、何よりもあたたかかった。
そして目を閉じながら、静かに唇を重ねる。
焦燥でも、慰めでもない。ごく自然に、感情が指先を通って形になった。
アランは驚くこともなく、静かに彼の抱擁を受け止めてくれる。
軽く触れた髪に、彼はゆっくりと顔を埋めた。
まるで迷子の子供が、ようやく家に帰ってきたようだった。
「癒してほしい」——そんな言葉を、声にはしなかった。
けれどレギュラスの頼る仕草が、何よりはっきりとそれを意味していた。
アランは、彼の背をそっと撫でながら言う。
「……どうしたんです? あなたらしくない」
やわらかな調子だった。からかうわけでもなく、ただ不思議そうに。
けれど、レギュラスは何も答えなかった。
首を横に振るでもなく、説明するでもなく、ただアランの胸元に顔を押し当てたまま、隠れるようにして息を吐いた。
(説明なんて、要らない)
何を言われてもいい。
理由も、正しさも、もうどうでもよかった。
ここでは、好きなように振る舞っていられる。
掴まれたままの袖も、思わず押し当てた肩のぬくもりも、
何一つ拒まれず、ただ静かにそこにあってくれる。
「ねえ、レギュラス?」
アランがかすかに問いかけると、彼はほんの少しだけ頷いた。
それ以上、言葉は交わされなかった。
けれど――その沈黙が、レギュラスには十分だった。
愛されたまま、許されるという安心が、
こんなにも痛みの輪郭を溶かしていくのだと、改めて知った。
アランという名の場所に帰れる幸福を、
彼は今しずかに、胸いっぱいに吸い込んでいた。
