3章
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夕方の薄明かりが屋敷の玄関ホールを柔らかく包む中、アランとセレナは買い物から戻ってきた。
けれど、いつもと違う空気がそこにはあった。
玄関から奥の大広間にかけて、若い女性たちの声が幾つも響いている。上品で、よく通る、明らかに教養を積んだ声たち。
その数は一人や二人ではなかった。
アランは使用人に小さく声をかけた。
「あちらの方々は?」
「はい、奥様。オリオン様とヴァルブルガ様がお招きになられました。皆様、名だたる名門一族のご令嬢方でございます」
その返答を聞いた瞬間、アランの胸に静かな理解が落ちた。
オリオンとヴァルブルガの思惑。
前回、オズワルド家の令嬢を一人だけ招いたことがあった。けれど今回は違う。複数の令嬢を一度に。まるで「選択肢を増やすことで、レギュラスに逃げ場を与えない」とでも言いたげに。
アランは静かに息を吸った。
今更、嫉妬やプライドといった感情に囚われるつもりはなかった。そんな段階はとうに過ぎている。
けれど、気がかりなのは——セレナだった。
隣に立つ娘は、案の定、困惑の表情を浮かべていた。
「お母様……なぜ、こんなにもたくさんのお姉様方がいらっしゃるの?」
その純粋な疑問に、アランは穏やかに微笑んでみせた。
「これから、家族になるかもしれないお姉様よ。しっかりとご挨拶をしましょうね、セレナ」
声に一分の動揺も込めず、まるで当然のことを説明するかのように。
ブラック家の正妻として、余裕を見せなければならない。
そう心に決めると、アランは美しく背筋を正した。胸を張り、顎を微かに上げ、髪を優雅になびかせながら大広間へと向かう。
その歩みは、まるで舞踏会の女王のように気品に満ちていた。
大広間では若い令嬢たちがソファに座り、ヴァルブルガと会話を交わしていた。皆それぞれに美しく、教養があり、家柄に相応しい気品を纏っている。
アランは静かに歩み寄ると、完璧な礼儀作法で挨拶をした。
「皆様、ようこそブラック家へ。アラン•ブラックです」
その声は水のように透明で、しかし確かな威厳を帯びていた。
令嬢たちは一瞬、緊張したような表情を見せた。目の前に立つ女性——レギュラス・ブラックの正妻の美しさと品格に、言葉を失ったかのように。
「こちらは娘のセレナです」
セレナもまた、母の姿に倣って丁寧にお辞儀をした。
その瞬間、アランは静かに祈った。
どうか、この屋敷に嵐が訪れませんように。
自分はもう、どんな結果も受け入れる覚悟ができている。けれど、セレナには—まだ幼い娘には、大人の複雑な事情で傷ついてほしくなかった。
ヴァルブルガが満足そうに頷く中、アランは完璧な微笑みを湛えたまま、この困難な夜の幕開けを静かに見守っていた。
その姿は、どこから見ても完璧な貴族の妻——誰よりも美しく、誰よりも気高い、ブラック家の正妻そのものだった。
令嬢たちが談話室で歓談している間、ヴァルブルガはアランを別室へと招いた。
重厚なマホガニーの扉が静かに閉まると、ふたりきりの静寂が降りる。
ヴァルブルガは、いつもより少しだけ表情を和らげて口を開いた。
「あなたには……申し訳ないと思っているのよ」
その声には、珍しく謝罪の響きがあった。
「でも、このブラック家の血筋を、たった一人のアルタイルだけで終わらせてはならないの」
アランは静かに頭を下げた。
「心得ております、奥様」
その返答に一分の迷いもなかった。むしろ、どこか安堵すら感じていた。
それを受け入れることは、まったく問題ないのだ。
いつも心のどこかにシリウスを住まわせている自分——その事実を、少しだけ許されるような気さえした。むしろ、詫びてくれる必要など無かった。
その夜、寝室でセレナの髪をブラシで梳かしながら、アランは娘の率直な疑問を受けることになった。
「お母様は……平気なの?」
鏡越しに見つめるセレナの瞳には、子どもらしい困惑があった。
「お父様が、他のお姉様たちと仲良くするのは……嫌じゃないのですか?」
その問いは、あまりにも率直で、あまりにも純粋だった。
アランは手を止め、鏡の中でセレナと目を合わせた。
「セレナ、よく聞いて」
優しく、けれど確信に満ちた声で語りかける。
「お父様の心は、いつだってアルタイルやセレナと共にあります。だから私は大丈夫なのです」
それは嘘ではなかった。
自分の中には、シリウスを愛した記憶がある。愛された記憶も、確かに残っている。
そして同時に、レギュラスと手を取り合って生きてきた歳月も、紛れもなく真実だった。
だから今更、その間にどんな人間が入ってこようと、その事実は変わらない。
変わらない以上、心は大丈夫だと思えるのだ。
セレナは鏡越しに母を見つめていた。その表情には、まだ完全には理解できないながらも、母の言葉を信じようとする意志があった。
「……お母様が大丈夫なら、私も大丈夫」
小さくそう呟いて、セレナは母の手に自分の手を重ねた。
アランは娘の手の温もりを感じながら、静かに微笑んだ。
愛とは、独占するものではない。分かち合うものでもない。ただ、そこに在り続けるものなのだろう。
シリウスへの想いも、レギュラスとの絆も、そして子どもたちへの愛も——それらすべてが、自分という人間を形作っている。
新しい誰かが加わったとしても、その根幹は揺らがない。
窓の外では星が瞬いている。その光のように、愛もまた、複数あったとしても、それぞれが美しく輝き続けることができるのだから。
アランは娘の髪を最後まで丁寧に梳き、静かに祈った。
この家族の形が、どう変わろうとも、愛だけは失われませんように。
夜の帳が降りた屋敷に、馬車の車輪が砂利を踏む音が響いた。
アランは二階の窓辺でその音を聞き、静かに息を吸った。レギュラスが帰ってきたのだ。
彼女は立ち上がると、足音を忍ばせるようにして階段を降りていく。絹のガウンの裾が石の段を撫で、かすかな衣擦れの音だけが静寂を破った。
玄関ホールでは、既にヴァルブルガがレギュラスを迎えていた。
「おかえりなさい、レギュラス」
ヴァルブルガの声は、いつもより少しだけ特別な響きを帯びていた。
「あなたに……お客様がいらしてるのよ」
その言葉に、レギュラスの足が止まった。
階段の途中で立ち止まったアランと、レギュラスの視線が交錯する。
アランは静かに小さく礼をした。言葉は発さなかったが、その瞳だけで「おかえりなさい」と告げるように、やわらかな光を送った。
レギュラスは一瞬、妻の表情を読み取ろうとした。
いつものアランなら、玄関まで迎えに来てくれるはずだった。コートを受け取り、「お疲れ様でした」と静かに微笑んでくれるはずだった。
けれど今夜は違う。
階段の中程で立ち止まったまま、まるで一線を引くように距離を保っている。その姿には、何かを受け入れた者の静かな覚悟があった。
レギュラスは首を軽く傾げた。怪訝な表情が、その整った顔に浮かぶ。
「お客様……?」
「ええ。客間でお待ちです」
ヴァルブルガは満足そうに頷き、息子の肩に手を置いた。
「さあ、参りましょう」
レギュラスは母の後に続こうとしたが、一度だけ振り返った。
アランは、まだそこに立っていた。追いかけてくることもなく、ただ静かに見送るように。
その姿に、レギュラスの胸に嫌な予感が宿った。
母の特別な様子、妻の距離を置いた佇まい、そして「お客様」という言葉——すべてが、彼にとって歓迎できない何かを予感させた。
ヴァルブルガは軽やかな足取りで廊下を進んでいく。
レギュラスはその後を追いながら、心の奥で小さく舌打ちをした。任務の疲れが、一気に重いものに変わっていく。
客間から聞こえてくる、若い女性たちの笑い声。それが、彼の予感を確信に変えた。
アランは階段に残ったまま、夫の背中が廊下の奥に消えるのを見つめていた。その表情には、諦めでも悲しみでもない——ただ静かな受容があった。
夜の屋敷に、新しい局面が静かに始まろうとしていた。
客間へと続く回廊の奥――
背の高い扉の向こうからは、幾つかの若い女性たちの笑い声や、やや緊張の解けた談笑が漏れていた。
ヴァルブルガに促され、レギュラスは戸惑いを隠しきれないまま歩みを進める。
母の手が扉を押し開くと、そこにはやはり、見慣れない美しい令嬢たちが数人並んでいた。
皆、格式高い服装に身を包み、控えめな仕草にも気品が溢れている。
彼女たちは一斉に立ち上がり、ほんの少し緊張した面持ちでレギュラスを見上げた。
ヴァルブルガは誇らしげに息子の背を押した。
「今夜は、ご覧の通り新しいご縁を――と思いまして。
あなたがこの家の未来のために、最善を選べるように」
その穏やかな宣言の下に、部屋の空気が一瞬だけ凍りついた。
レギュラスは、一歩前に進みつつも、内心では激しい波紋を抑え込んでいた。
(ああ、やはり。母は……)
形ばかりの笑みを浮かべて応じながらも、目は瞬時に部屋の隅々を把握する。
客間の片隅には、妻・アランもセレナも姿はない。
自分を取り巻くのは、名門一族の娘たちと、自慢の両親――
思えば、いつか来るのだと覚悟していた場面だった。
「お集まりいただきありがとうございます」
淡々とした声が、大理石の柱と高い天井にかすかに反響する。
令嬢たちはそれぞれ名を名乗り合い、一人ひとりが簡素かつ丁寧な自己紹介をした。
控えめに、しかし希望と少しの期待が入り混じった眼差しがレギュラスに向けられている。
場違いにも感じるほど、格式ばかりの空気が漂うこの大客間。
ヴァルブルガは満足げに令嬢たちの様子を見渡し、
オリオンもまた背後でうなずいている。
だが、レギュラスの心はどこまでも平坦なままだった。
―ここで何を望まれようと、自分の芯は揺るがない―
そう胸の奥で静かに言い聞かせていた。
一方で、廊下の向こう、階段に立ち尽くすアランの姿がふいに瞳裏をよぎる。
彼女の柔らかな微笑み、何も言わずに送り出した静かな横顔。
それは正妻としての矜持であり、苦しみを呑み込む静けさでもあった。
レギュラスは無言のまま、背筋を正して場に臨む。
今、この屋敷に吹き込んだ新しい風の行方を、
彼自身もまた、疑いと決意の入り混じった目で受け止めようとしていた。
大広間の高い窓には、夜の影がゆっくりと沈み込み始めている。
新たな嵐の気配が、静かに、たしかに膨らんでいたのだった。
重々しい静けさが広がる大広間――
長椅子に丁寧に腰掛ける令嬢たちが談笑を装うその片隅を、レギュラス・ブラックは静かに立ち上がった。
「……今日は任務の疲れがありますので。お先に失礼します」
簡潔に、しかしどこか冷たさを含んだ声。
口元には微笑の形を保ちながらも、瞳の奥には明らかな疲労――そして、苛立ちの色が滲んでいた。
彼を引き留めようとする空気もあったが、レギュラスはそれを一切受け付ける隙を見せぬまま、背を向けて大広間をあとにした。
長い廊下。ヴェルベットの絨毯が靴音を柔らかく吸い込みながらも、彼の歩みにはどこか剣のような硬度があった。
そのとき、背後から低く重たい声が追ってきた。
「レギュラス」
――オリオンの声だった。
「そろそろ……折れてくれても良いんじゃないか」
父の言葉は、命令ではなかった。冷静に装った音色の下に、あからさまな“誘導”があった。
レギュラスは一定の歩みをしてから、ゆっくりと振り返る。
その表情は淡白に整っていたが、目元だけが鋭かった。
「――セシール家に顔向けできませんよ。そんな真似をするなら」
その声には、かすかに凍るものがあった。
アランを、家を、娘を――守るべきものへのわずかながらの奮い。
まだ言葉にされるには遠い想いが、そこに宿っていた。
だが、今度は後方の扉の前から別の声が重なった。
「そのセシール家から……“申し訳ありません”と手紙をいただいていますわよ」
ヴァルブルガだった。
いつのまにか立ち上がって廊下の接点まで出てきていた彼女は、まるで勝利を軽く告げるような声で言った。
その声音には、“諦めは当然”という色があった。
セシール家の名誉が傷つくより先に、アランの役割は終わったと――
その前提で事を進めようとする意志が、はっきりとそこに込められていた。
レギュラスは、目を細くした。
喉が乾くほどの静寂が、あたりを包んだ。
「……ほんとうに、ああいえばこう言う、ですね」
静かに吐き捨てるように言った一言。
それは苛立ちを隠そうとして隠しきれなかった声音。
誰が聞いても皮肉として受け取れるそれが、彼の制御の限界だった。
「今夜は失礼します」
それだけを短く残し、レギュラスは回廊をくぐって消えた。
その背に、もう振り返る色はなかった。
彼の足音が遠ざかるなか、背後に残されたオリオンとヴァルブルガの間には言葉がなかった。
それでも崩れることのない冷静と、思惑の奥で微かに軋むものが、
この屋敷の静けさの中にしんと響き続けていた。
日もすっかり暮れ、屋敷の灯が静かに落ち着きを取り戻した頃——
レギュラス・ブラックは足音ひとつ立てず、アランのいる部屋へと向かっていた。
扉をノックすることもなく、そっと開けると、部屋の奥ではアランがランプの灯りのもとで読書をしていた。柔らかな灯の下で、彼女はふと顔を上げる。
「おかえりなさい」
アランはいつも通りの声色でそう言って、ゆっくりと微笑んだ。
けれど、レギュラスは一言も返さず、ただ斜めの角度で視線を落とすようにうなずいただけだった。
そして黙ったまま、部屋の隅にあるソファに腰を下ろす。
重たく沈むように座ったその仕草が、彼の心の内を語っていた。
アランは数秒の間をおき、静かに本を閉じる。
緩やかに立ち上がり、レギュラスの隣へと腰を落とした。
「……早かったですね」
やさしく問いかける声は、まるで空気のようにそっと隣に置かれた。それでも、レギュラスは答えなかった。瞳すら動かさなかった。
ただその沈黙が、何よりも雄弁に、何かを物語っていた。
やり場のない感情が、胸の奥でくすぶっていた。
オリオン。ヴァルブルガ。
そして、あの客間にいた女たち——。
名家の娘たちが並んでいたあの光景を思い出すだけで、レギュラスの内側には、黒く熱を帯びた怒りが膨れ上がっていく。
彼女たちは笑顔をたたえながら、一部の疑念も羞恥も持たずにこの家に招かれてきた。
セシール家の女が正式にこの屋敷に立っているというのに、
その事実の重さも、今も変わらずアランがこの家で「妻」として在り続けていることの意味も、まるで空気のように透明視している。
あきれるほどに、堂々と。
その様子を思い出すたびに、レギュラスは奥歯をかみしめたくなった。
彼女たちに罪がないと分かっていても、すべてが癪に障る。
そして、さらに苛立たせるのは、今隣にいるこの人——
アランでさえ、何も言わず、すべてを許容しているように見えること。
誰よりも静かにこの家を守り、誰よりも思慮深く苦しみを呑み込んできた彼女。
でも今夜ばかりは、その“聡明な沈黙”に、どうしようもなく腹が立った。
なぜだ。
なぜ笑っていられる。
なぜ拒んでくれない。
なぜ怒ってくれないのか。
感情が荒れていた。
自分でも理解できないほど、浅ましいような独占欲が暴れていた。
レギュラスはうつむいたまま、言葉を飲み込む。
アランは何も問わなかった。
ただ隣で、そっと目を伏せ、その沈黙を抱きしめるように寄り添っていた。
――まるで、怒りさえも赦すかのように。
それが愛だと分かってしまうから、
それすらも哀しくて、どうしようもなかった。
夜の静けさが、ひとつの苦しみに蓋をするように、部屋を包み込んでいく。
それでも、ふたりのあいだに言葉はまだなかった。
怒りも、孤独も、愛しさも、すべてが沈黙の中で燻っていた。
静寂の中で、ふたりの間には重い空気が流れていた。
そして、その沈黙を破ったのは—— アランだった。
「レギュラス……受け入れてください」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、レギュラスの身体が硬直した。
まるで氷の刃が胸の奥を貫いたような鋭い痛み。
彼が望んでいた言葉とは、正反対の響きがそこにはあった。
「拒んでほしい」「嫌だと言ってほしい」「私だけを選んでほしい」——
そんな言葉を、心のどこかで求めていたのかもしれない。
けれど、出てきたのは無慈悲な宣告だった。
しばらくの沈黙が続いた。
レギュラスは言葉を探していた。理性で、感情で、すべてを駆使して。
そして、やっと絞り出したのは——
「なぜです?」
声が自然と荒らげてしまった。
「アルタイルと、セレナに……なんと説明するつもりです?」
その問いには、父としての責任感と、夫としての困惑が入り混じっていた。
アランは静かに答えた。
「家族ですから。当然、受け入れます」
その瞳に偽りはなかった。真っ直ぐにレギュラスを見つめ、微塵の迷いも見せない。
違うのだ。
レギュラスの心の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
欲しい言葉は、そんなものではない。
オリオンやヴァルブルガから強制されるのとは違う。彼らの圧力なら、まだ反発することもできた。憤りを感じることもできた。
けれど、愛する妻から—— アランから、そう言われると、何よりも心が壊れそうになる。
彼女の言葉には、諦めがあった。受容があった。そして、彼への配慮すらあった。
それが愛から生まれたものだと分かるからこそ、反論することもできない。怒ることも、拒むこともできない。
「……家族、ですか」
レギュラスの声は、かすれていた。
アランの真っ直ぐな瞳を見つめながら、彼は思った。
この人は、どこまで自分を犠牲にするつもりなのだろう。
そして同時に、恐ろしいほどに気づいてしまった。
自分は、彼女のその優しさに甘えて、ここまで来てしまったのだと。
部屋の静寂が、ふたりを包み込んでいく。
愛しているからこそ苦しい。愛されているからこそ辛い。
そんな矛盾した感情が、夜の闇の中で静かに燃え続けていた。
朝の光がガラス越しに降り注ぎ、ブラック家の朝食の間にはいつもより賑やかな空気が満ちていた。
長いテーブルには、ずらりと女たちが並んでいる。名門一族の令嬢たち――いずれ誰かが「選ばれるため」にこの屋敷に招かれていることを、言葉にしなくても皆が理解していた。
燦々と並ぶ銀器、磨かれた食器の音、丁寧な仕草、計算された笑顔。そのどれもが、この場にいるべき“淑女”としての振る舞いだった。
ただ一人、テーブルの上を冷たい目線で滑らせている男を除いては。
レギュラス・ブラックはその日、朝から頭を抱えたくなるほどの気鬱に満ちていた。
客人たちのあまりにも整った笑顔と声色。
そうしたものを正面から受け止められるほど、今の彼には余裕がなかった。
「レギュラス様……」
数人のうちの一人が、言葉をかけてきた。
だが、その声は耳に入りかけた程度で、内容まではまるで届いてこなかった。瞬間的に、脳が拒絶したのかもしれない。あるいは、ただ「今さら何を話しかけられても」という思いが先にあっただけか。
聞き返す気力もない。気遣うほどの興味もない。
ただ、無言でコーヒーに唇をつけるだけで、沈黙がレギュラスを覆っていた。
「お父様」
突如、場に異なる色を差し込んできたのは、まだ幼い声――セレナだった。
「お姉様が、お呼びですわよ」
その言葉は、客人の誰かがかけた言葉をわざわざ代弁するかたちだった。
テーブルのあちこちから、かすかな息を飲む音が響いた。
客人たちの顔が、微妙な緊張の中に張り詰める。
そして、レギュラス自身は――まるで内心を覗かれたようなその無遠慮な言葉に、かすかに口角を引き攣らせるしかなかった。
視線を落としながら、仕方なく微笑に似たものを浮かべてみせる。
「……なんでしょう」
声は低く、あくまで礼儀正しかったが、内に満ちた憂鬱は隠しきれなかった。
目だけが、あの令嬢に向けられた。けれど、それは行儀としての関与でしかなかった。
場の空気は張り詰めていたけれど、アランは沈黙を守っていた。
その表情は乱れることなく、ただティーカップを持つ指がほんのわずかに固くなっていた。
彼女は見ていた――
夫の身にまとう淡い苛立ちと、幼すぎる娘の無邪気な一撃が、彼の鎧のような沈黙にどう揺さぶりをかけたのかを。
少女の言葉も、令嬢の視線も、大理石の床すら、今朝はどこか冷たく響いていた。
レギュラスはそのすべてを前に、やっとはじまりを迎えたこの朝の一日を、
何よりも早く終わってほしい、と心の奥深くで願うしかなかった。
レギュラスは令嬢の方に形式的な視線を向けたまま、返事を待つ。
テーブルの空気は張り詰め、令嬢の誰もが“目立ちすぎないように”“それでいて印象を残すように”と、ぎこちない均衡の上に座っている。
目の端で、セレナが少しいたずらっぽくこちらを見ているのがわかった。彼女にとっては客人の女性たちへの気遣いよりも、朝の空気に退屈した兄のいない寂しさの方がずっと大きいのだろう。
「レギュラス様――本日は、私たちをお招きくださり、ありがたく存じます」
一人の令嬢が、おそるおそる、けれど丁寧に言葉を選びながらそう口にした。
「……ええ、どうぞごゆっくり」
レギュラスは礼だけ返し、それ以上の会話を余所余所しいまでに避けていた。
心のなかでは、苛立ちと疲労が交錯している。この者たちはブラック家の“未来”に必要とされている駒――そして自分はそれを演じる“役割”なのだと、痛々しいほど自覚していた。
隣では、アランはただ静かにコーヒーカップを傾けていた。
セレナはちらちらと父の表情を観察しつつ、客人の一人と目が合うと無垢な笑みを浮かべた。
令嬢たちの作る、緊張と下心が入り混じった空気。その中を、セレナの明るさとアランの静謐さが、ほんのわずかに和らげているようにも見えた。
だがレギュラスには、それが余計に苦しかった。
今、この食卓にいる誰も、“本当の家族の幸福”を語れはしない。
自分の居場所ですら、しばしば他人事のように遠く思える朝だった。
窓の外から射す光は澄んでいたが、その光の下に居る男女の心は、あまりにも遠く、あまりにも複雑だった。
レギュラスは、食卓の果てしなさ――その孤独の中で、静かに次の一手だけを考えていた。
朝の淡い陽が、屋敷の石畳をやさしく照らしていた。
玄関先に風がすれ違い、窓辺のカーテンが小さくはためく。
それは、いつもと変わらぬ朝のように見えた――たった一箇所を除いては。
レギュラス・ブラックは玄関に立ち、黒のクロークを整えると、ドアの向こうに控えた馬車に目を向けた。
だが――視界の隅に映るふたりの姿に、その動きがふいに止まる。
「いってらっしゃいませ、お父さま」
明るく澄んだ声が背中に届く。セレナの声だった。
小さな娘は花飾りのついた薄いケープをまとい、いつものように父へと微笑んでいた。
けれど、その隣に立つべき“いつもの姿”が、今朝はなかった。
―― アランが、いない。
レギュラスの視線は無意識に、その隣へと向かう。
そこに立っていたのは、あの――名門の若い令嬢の一人だった。
華奢で柔らかく巻かれた髪、気取った身のこなし、革張りの手袋を挟んだ指先、どれも淑女として完璧に仕上げられた佇まい。
けれど、そこに“温もり”はなかった。
なのに、その女が言う。
「いってらっしゃいませ、レギュラス様」
笑顔を浮かべ、まるでそこに立つことを当然とするような声だった。
言葉は完璧だった。声色も、距離のとりかたも、ふさわしく整っていた。
けれど、レギュラスの胸に湧き上がったのは、ただひとつの苛立ちだった。
なぜ、アランがいない。
なぜ、見送るのが“あの人”ではないのだ。
なぜ、セレナは“違う女性の隣”に立っている。
それだけで何かがねじれ、心のなかで爆ぜそうになっていた。
「……ごゆっくりどうぞ」
低い声が漏れるように出た。
ほんの一拍の間を置いてレギュラスは言葉を投げた。
それは「ありがとうございます」にも「いってきます」にもならない、感情を覆い隠すための仮面のような言葉だった。
令嬢は満足げに頷き、セレナは小さく手を振った。
ドアが重々しく閉まり、馬車の車輪が石を滑るように進みだした。
屋敷の中に戻るその瞬間まで、レギュラスの胸に残っていたのは、
「妻を呼べ」と叫びたいほどの焦燥と、
間違った絵が描かれてしまったような強烈な違和感だった。
朝の空気が、冷たく、どこかひどく居心地が悪かった。
あの玄関にアランが立っていない、それだけで、
世界が少しだけ歪んで感じた。
愛とは、声ではなく、その場にいてくれる気配のことだったのだ。
そう気づくには――その不在が、あまりにも深く、鋭く胸に刺さった。
魔法省の地下、薄暗い廊下を歩きながら、レギュラスは隣を行くバーテミウス・クラウチJr.に向かって、まるで堰を切ったように口を開いた。
「……屋敷にいるのに、気が休まりません」
その声には、普段の冷静さの欠片もなかった。むしろ、誰かに聞いてほしいとでも言わんばかりの切迫感があった。
バーテミウスは眉を上げて、レギュラスの横顔を見やった。
「君がそこまでかりかりするなんて……相当なんだろうね」
「全員殺しそうです」
レギュラスの返答は、あまりにも率直で、あまりにも物騒だった。
バーテミウスは思わず声を上げて笑った。
「本気でやりそうだ」
その笑い声を聞きながら、レギュラスは内心で苦々しく思った。
人事だからこそ、こんなに笑っていられるのだろう。
純血の名家ともなれば、正妻に加えて複数人の側室や妾がいることは、それほど珍しいことではない。むしろ、それが当然とされる世界だった。
ヴァルブルガに関しては、男児を二人産んだからこそ、オリオンは他の女性を屋敷に迎える必要がなかった。それだけの話だった。
でも今は違う。
シリウスが破門され、ブラック家を継がなかった以上、正当な跡取りは長らく自分だけだった。そして今、その血筋を受け継ぐのはアルタイル一人。
そのことが、オリオンとヴァルブルガの中で焦りとなっているのだろう。
だからこそ、アルタイル一人では気が休まらない。もう一人、二人と男児が必要だと考えている。
「家督のプレッシャーというやつか」
バーテミウスが、幾分同情的な口調で言った。
「まあ、君の立場なら仕方ないとも言える。純血の家系を絶やすわけにはいかないからな」
レギュラスは無言で頷いた。
理屈では分かっている。家の存続、血筋の継承、それらすべてが自分の肩にかかっていることも。
でも——
「理解していても、受け入れられるかは別です」
その呟きは、ほとんど独り言のようだった。
バーテミウスは少し表情を和らげて、レギュラスの肩を軽く叩いた。
「まあ、頑張れよ。君らしくない愚痴を聞かせてもらったが……きっと何とかなる」
その言葉に、レギュラスは苦笑いを浮かべた。
何とかなる——そう簡単に言えるのは、当事者ではないからだ。
任務の重圧よりも、家庭の複雑さの方がよほど彼を消耗させていた。その皮肉な現実を、レギュラスは静かに受け入れるしかなかった。
午後の陽が屋敷のサンルームに穏やかに差し込む中、アランは客人の一人——エメリンド・フェリックス嬢と向かい合って座っていた。
エメリンドは品のある美しい女性で、話し方も所作も洗練されている。彼女が恥ずかしそうに、けれど真剣な表情でアランに問いかけた。
「あの……レギュラス様の、お好みのものを教えていただけますでしょうか」
その問いに、アランは穏やかに微笑んだ。
「ワインでしたら、こちらのボルドーを特に好まれます。ウィスキーなら、このスコッチがお気に入りですね」
アランは丁寧に、レギュラスの嗜好を説明していく。まるで長年連れ添った妻として当然のように、彼の好みを熟知していることを示しながら。
そこへ、セレナが軽やかな足音で近づいてきた。
「何のお話?」
好奇心いっぱいの瞳で、二人の会話に加わる。
「セレナ様」エメリンドが丁寧に挨拶すると、セレナは無邪気に笑った。
「お父さまのお話でしょう?パンなら、これがお好きよ」
セレナは指を折りながら、父の好物を次々と挙げていく。
「あと、これも!朝食にはこのジャムを必ずつけるの。それから——」
その無垢な様子に、エメリンドは感動したような表情を浮かべた。
「ありがとうございます、若奥様、セレナ様」
深々と頭を下げる彼女に、アランは優しく答えた。
「今夜、用意されるとよろしいわ。きっと印象に残りますから」
「そうね、お父様きっと喜ぶわ」
セレナも無邪気に同意した。
その光景を見つめながら、アランは意外な安らぎを感じていた。
こういう関係も、むしろ息が詰まるような屋敷を明るくしてくれるような気がした。
エメリンドの素直な質問、セレナの屈託のない明るさ、そして自分自身の落ち着いた対応——それらすべてが、この複雑な状況に一筋の光を与えているようだった。
争いや嫉妬ではなく、むしろ協力的な雰囲気。これならば、この家にとっても悪いことではないかもしれない。
少なくとも、セレナにとっては新しい「お姉様」たちとの交流が、良い刺激になっているように見えた。
アランは静かに微笑みながら、この予想外の心地よさを受け入れていた。
愛とは、時に分かち合うことで、より豊かになるものなのかもしれない——そんな思いを、胸の奥で静かに育てながら。
日が傾き始めた午後のサロン。
ステンドグラス越しの光がカーペットに淡い模様を描く中で、ひときわ澄んだ声が響いていた。
小さなテーブルを挟んで向かい合っていたのは、セレナと、客人の令嬢――カトリーナ・ロズティエ嬢。
鮮やかな琥珀色の髪を編みこんだカトリーナは、控えめながらも温かいまなざしでセレナを見つめ、ルーン石のひとつをテーブルの上に置いた。
「これは ‘fehu’。富や始まりを意味しますの。さぁ、セレナ様もご一緒に」
セレナは目を輝かせながら、そっと指先で記号をなぞった。
「フェ……フー、ですよね?」
「ご名答ですわ」
カトリーナは笑みを浮かべて頷く。その表情は教師のそれというよりも、本当に、人懐こい年の離れた姉のようだった。
アランは少し離れたサロンの椅子に腰掛けながら、紅茶を冷ましもせず、ただこの光景を見守っていた。
読み書きには少し気分の波がある娘だが——
こうして、自ら学ぼうとする表情のなんと愛らしいことか。
「セレナ様……さすがはレギュラス様と若奥様のお姫様ですわね。とても覚えが早くていらっしゃる」
カトリーナがそう言って笑うと、セレナは照れたように小さくうつむく。
「……えへへ、ホグワーツに行って困らないように、先に覚えておこうと思って」
その姿がまたたまらなく愛おしい。
アランは思わず笑みをこぼし、そっとカップに口をつけた。
静かで満ち足りた時間だった。
いつもなら、家庭教師の厳しい口調が一語一句正確さを強いてくるものだが、
カトリーナの柔らかな話し方は、言葉以上の何かをセレナに届けていた。
「ルーン語って、絵みたいで面白いの。読むより描くほうが好きかも」
そう言うセレナには恐れも戸惑いもなかった。
アランの胸にじんわりとあたたかい思いが広がっていく。
ヴァルブルガが用意する品格と精度に溢れた教育も必要。
けれどそれだけでは、娘の中にある「学ぼうとする芽」までは光を受けきれないこともある。
カトリーナのように、同じ目線で、同じ歩幅で娘に寄り添い、笑いながら導いてくれる存在がそばにあること。
それがどれ程、大切なことなのかをこの日、深く実感した。
アランは紅茶のカップを静かにソーサーに戻しながら、心の奥で感謝をつぶやく。
――ありがとう。
どうかいつか、セレナの中で、このやわらかな時間が
学びと、そして人とのつながりの“最初の美しい記憶”として残ってくれますように。
窓辺には秋の金色の光が差し込み、サロンには穏やかで繊細な喜びの影が落ちていた。
午後の日差しが斜めに傾き始めた頃、アランは書斎奥の小広間でひとり本を読んでいた。
外にはかすかに鳥のさえずりが聞こえ、屋敷の中は、どこか静けさで満ちていた。
そんななか、部屋の扉が控えめにノックされる。
「……失礼いたします」
そっと顔をのぞかせたのは、客人のひとり――エリオノーラ・デヴラン嬢だった。淡いクリーム色のドレスに身を包み、両手には温かな湯気が立ち昇る銀の小盆を抱えている。
「あら、エリオノーラさん」
アランが驚いたように声を上げると、令嬢は少しだけ頬を紅潮させ、一歩中へ進んできた。
「……奥様、お身体の具合があまり芳しくないと伺いまして。ささやかではありますが、ハーブティーをお淹れしました。私の家で調合して長く用いているものですの」
そう差し出されたティーカップからは、やさしく澄んだ香りが立ちのぼっていた。
ラベンダーとレモンバーム、ほんのりと甘いエルダーフラワーの調和。
味覚よりもまず、心を落ち着かせてくれる香りだった。
アランの瞳に、ふと淡い光のゆらめきが差す。
「……ありがとう。嬉しいわ。こうしてハーブティーを差し出してもらうなんて……セシール家で過ごした日々以来だわ」
手を添えて受け取ったカップは掌にすっとなじみ、驚くほど自然に、違和感なく、温もりが染み込んでくるようだった。
家のために、静かに、自ら剥がれていくようにして耐え続けてきたこの屋敷の日々――
誰からも声をかけられることなく、ただ「堪えること」が当然とされてきた静寂の年月。
もちろん、レギュラスは気にかけてくれている。
けれどそれに対しては、自分もまた“報いなければ”という感情がついてまわる。
差し出された優しさには、等しく何かで返さねばという焦りがいつも寄り添っていた。
でも、この笑顔と共にもたらされたやわらかな気遣いには、そんな負い目がなかった。
気を遣わせぬようにと細心の遠慮を重ね、それでも真心だけが残っていた。
アランは、ほっと息を吐いた。
まるで、曲げた背筋がほぐされていくようだった。
エリオノーラは小さく微笑みながら、そっと言う。
「奥様がお望みでしたら、いつでもお待ちしております。ハーブの調合でしたら、お好みに合わせて差し上げますわ」
その声が、アランのなかの“忘れていた柔らかさ”に、静かに触れた。
誰かの好意を、何も考えずに受け入れることが、
こんなにも心を撫でてくれるものだったなんて――。
アランは目を細め、小さく微笑み返す。
「……それは、贅沢な時間ね。ありがとう。ほんとうに」
カップの縁から、またひとつ香りが立ち上る。
彼女の頬に、やわらかな紅が差す。
それはただのハーブティーではなく、
この屋敷の中で、音もなく満ちていった「心を向ける人間関係」の最初の一滴だった。
夜はすでに深く、屋敷の廊下には月光が長く伸びていた。
気配ひとつない静寂のなか、不意に玄関扉の音が微かに響く。
任務から戻ったレギュラス・ブラックは、いつもの通り無言で屋敷に足を踏み入れた。
けれど今夜は、いつもと違う “迎え” があった。
「おかえりなさいませ、レギュラス様」
そう深く頭を下げて礼を示したのは、エメリンド・フェリックス。
そのすぐ隣で、アランが静かに立っていた。
レギュラスのまなざしが一瞬、どこか曖昧な空白を宿した。
アランと、エメリンド。
その”並び”が、なぜか体温の伝わらない何かのように胸を掠める。
それでも彼は言葉を発さずに、わずかに頷いて玄関を抜けた。
少し後、食卓に案内されたレギュラスは、
整えられたテーブルの上に並ぶ品々を見て、思わず足を止める。
上質なボルドーの赤ワイン。
穏やかな酸味のパンと、繊細なハーブマリネ。
香ばしい焼き菓子が温かなまま供されていた。
どれも、自分の好みにぴたりと合っていた。
(…… アランが伝えたのだな)
そう、すぐに察した。
先に席を立とうとするアランを横目に見て、
レギュラスは口を開こうとした。呼び止めたかった。
けれど——
その刹那。
「レギュラス様、このワイン、アラン様が“お好きだと”おっしゃっていましたの」
エメリンドが、嬉しそうに隣で言葉を添えた。
「セレナ様もパンの種類まで細かく教えてくださって。だから今夜は、少しでもご気分が和らげばと思って」
柔らかな声。尽力のつもりだった。
たしかに、何一つ間違っていない。
けれど。
テーブルに並ぶ一皿一皿に対して、
レギュラスの中に、どうしようもない苛立ちが広がっていた。
これらは、たしかに“好きなもの”だった。
だが、アランと共にある時間の中で好きになったものだった。
その記憶を、好意ではあれ、
“他者の手を通して”目の前に並べられることが、なぜかたまらなく耐えがたかった。
(……違う。これは、違う)
おかしいのだ。
向かいに座っているのは、エメリンドであって、アランではない。
食後に交わすはずの沈黙の温もりも、
そっと差し出されるべき笑みも、すべて錯綜している。
この食卓そのものが、間違った絵の上に重ねられた風景のように、彼には映った。
レギュラスの目の奥に、冷たい色が宿る。
手元のワインが、まるで毒にさえ思えた。
好物だと知って準備されたこの饗応すら、
ほんのわずかな音を立てて床に打ち捨ててしまいたくなる。
「……申し訳ありません。少々疲れが出まして」
レギュラスは一礼すると、箸にも手を付けぬまま椅子を引いた。
エメリンドの驚いたような顔が、ある種の無垢としてそこにあったが、
彼の心はひとつの結論にしか向かっていなかった。
これらの食卓も、この空気感も、
彼の中で“ アランのいない場所”として、必要のないものだった。
夜は静かに、更けていた。
やがて、月の光だけが、残された食卓を物言わず照らしていた。
部屋の扉が静かに閉まる音がした。
それだけで、レギュラスの胸に重く張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
長身の身体を椅子へと預けると、革張りの肘掛けがわずかに軋み、彼の肩がゆっくりと沈んでいった。
この部屋だけが、誰にもしられずに怒りを溶かせる場所だった。
棚の奥、埃一つない木箱から取り出したのは、黒檀色の瓶に入った古いウィスキーだった。
穏やかな琥珀色の液体が、グラスの底にしんと注がれる。
静かだった。
滴り落ちる音すら、苛立ちに寄り添うように、しくしくと胸の奥に沁み込んでくる。
そして思う。
――今夜のエメリンドの振る舞いについて。
申し分なかった。
用意された食事も、差し出される言葉も、所作も、礼節も、すべて温度と角度を計ったように完璧だった。
本来ならば、食後に礼のひとつも告げるべきだったと、理性では分かっている。
それでも。
それでも、冷たく凍りついた自分の理性の内側で、どうしようもなく疼く感情が、彼を裂いていた。
もし許されるなら。ほんとうに許されるのなら。
――殺してやりたいとさえ、思ってしまった。
その存在が、呼吸そのものが、
あの食卓に「アランではない何か」が座っていたことが、 吐き気がするほどに「生理的に無理」だったのだ。
レギュラスはグラスを持ち上げ、喉を潤すように一口、ウィスキーを口に含む。
香りが、初めは甘く鼻に立ったが、
すぐに火に炙られるような熱が喉から胸を裂いた。
それが心地よかった。
感情の尖った破片を、酒がゆっくりと流して行く。
焼けるような刺激が、憎しみや悔しさに似て、自分の毒と共鳴する。
アランでなければ嫌だと思ってしまう自分。
正気のようで狂っている。
狂っているようで、あまりにも正直だった。
またひと口――重たく味わうように、グラスを空ける。
琥珀色がグラスの底で揺れ、やがて、空虚な曲線だけを残して静かに落ちついた。
レギュラスはしばらく何も考えず、
空になったグラスを見つめるだけだった。
どうして自分は、受け入れられないのか。
声をかけてくれる人がいて、支えようとする人がいて、
それでも、世界がすべて「彼女でない」と知った時点で、
どれだけ優しくされても、心の内側が拒絶してしまう。
それは愛というより――ただの執着だったのかもしれない。
静かに息を吐いた。
けれど、それすらも、夜の静けさに呑まれてゆく。
グラスを机の上に戻すと、レギュラスは瞼を閉じた。
ひとりきりの夜、
癒されることのない炎が、胸の奥で静かに燃え続けていた。
夜はひどく静かで、屋敷そのものが眠りに沈んでいるようだった。
レギュラスは酒の残滓を胸に抱えながら、ようやく寝室の扉へと歩を進めた。
怒りは収まっている。
ボトルの底まで掬ってなお燻るものがあったとしても、それを燃やし切る場所はもうない。
ただ今は、静かに眠りたかった。
――できることなら、隣にアランという存在のぬくもりを感じながら。
だからこそ、扉を開けるのは極めて慎重だった。
明かりは灯さず、音も立てず、ただ己の気配すら吸い込むようにしてベッドに近づく。
シーツの柔らかさに手を添え、静かに身体をすべらせる。
目を閉じたあとで、そっと右へ顔を向け――
……ふと、違和感を覚えた。
匂い。そのぬくもり。
――違う。
アランのものでは、ない。
次の瞬間、レギュラスは反射的に杖を握った。
鋭く短く、ひと振り。
魔法がはじけ、部屋に灯が落ちる。
重い沈黙のなかで布団を跳ね上げると、そこにいたのは眠りかけの女――
茶髪の房がほつれるように広がり、驚いた瞳とともに顔をもたげたのは、令嬢の一人、オルリー・ダリスだった。
彼女はとっさに両肘をついて、ベッドの上で頭を下げた。
「……レギュラス様、お、おかえりなさいませ」
震える声が空気を割った。
レギュラスの身体は静かだったが、顔には明確な怒りの色が滲んでいた。
喉の奥に押し殺した吐息と共に、低く冷えきった声が落ちる。
「……何をしにここへ?」
シーツには確かに自分の手が触れた。
自分は、それをアランだと思って――
安息に沈みこもうとし、…唇さえ寄せようとしていたのだ。
それを、一瞬で嘲笑うように壊された。
怒りというより、羞恥だった。
この空間が冒されたこと。自分が引き裂かれたこと。
そして、アランがここにいなかったという現実。
「ヴァ、ヴァルブルガ様が……今夜は、ここで、寝てよいと……っ」
女はうろたえる声でそう答えたが、その弁明は、レギュラスには火に油だった。
「――ここは、夫婦の寝室です」
背筋の底から絞り出された、静かな怒声。
怒鳴りはしない。ただ、低く、氷のようにきっぱりと切り捨てる言葉。
オルリーは思わず身体を縮め、さらに布団の上で身を小さくした。
レギュラスは見下ろす視線すら向けず、肩の奥に怒りを押し込めるようにひとつ息を吐く。
そして杖を再び振ると、部屋の扉が押し開かれた。
「出ていってください」
音が消えた部屋に、そのひとことだけが静かに落ちて、
灯りがまた淡く揺れた。
女が出ていったのを確認せず、
レギュラスは空にされた布団の端に深く腰を下ろした。
手のひらにはまだ、アランのぬくもりを求めて伸ばした感触が残っていた。
それが砂のようになって崩れ、心を静かに切り裂いていた。
けれど、いつもと違う空気がそこにはあった。
玄関から奥の大広間にかけて、若い女性たちの声が幾つも響いている。上品で、よく通る、明らかに教養を積んだ声たち。
その数は一人や二人ではなかった。
アランは使用人に小さく声をかけた。
「あちらの方々は?」
「はい、奥様。オリオン様とヴァルブルガ様がお招きになられました。皆様、名だたる名門一族のご令嬢方でございます」
その返答を聞いた瞬間、アランの胸に静かな理解が落ちた。
オリオンとヴァルブルガの思惑。
前回、オズワルド家の令嬢を一人だけ招いたことがあった。けれど今回は違う。複数の令嬢を一度に。まるで「選択肢を増やすことで、レギュラスに逃げ場を与えない」とでも言いたげに。
アランは静かに息を吸った。
今更、嫉妬やプライドといった感情に囚われるつもりはなかった。そんな段階はとうに過ぎている。
けれど、気がかりなのは——セレナだった。
隣に立つ娘は、案の定、困惑の表情を浮かべていた。
「お母様……なぜ、こんなにもたくさんのお姉様方がいらっしゃるの?」
その純粋な疑問に、アランは穏やかに微笑んでみせた。
「これから、家族になるかもしれないお姉様よ。しっかりとご挨拶をしましょうね、セレナ」
声に一分の動揺も込めず、まるで当然のことを説明するかのように。
ブラック家の正妻として、余裕を見せなければならない。
そう心に決めると、アランは美しく背筋を正した。胸を張り、顎を微かに上げ、髪を優雅になびかせながら大広間へと向かう。
その歩みは、まるで舞踏会の女王のように気品に満ちていた。
大広間では若い令嬢たちがソファに座り、ヴァルブルガと会話を交わしていた。皆それぞれに美しく、教養があり、家柄に相応しい気品を纏っている。
アランは静かに歩み寄ると、完璧な礼儀作法で挨拶をした。
「皆様、ようこそブラック家へ。アラン•ブラックです」
その声は水のように透明で、しかし確かな威厳を帯びていた。
令嬢たちは一瞬、緊張したような表情を見せた。目の前に立つ女性——レギュラス・ブラックの正妻の美しさと品格に、言葉を失ったかのように。
「こちらは娘のセレナです」
セレナもまた、母の姿に倣って丁寧にお辞儀をした。
その瞬間、アランは静かに祈った。
どうか、この屋敷に嵐が訪れませんように。
自分はもう、どんな結果も受け入れる覚悟ができている。けれど、セレナには—まだ幼い娘には、大人の複雑な事情で傷ついてほしくなかった。
ヴァルブルガが満足そうに頷く中、アランは完璧な微笑みを湛えたまま、この困難な夜の幕開けを静かに見守っていた。
その姿は、どこから見ても完璧な貴族の妻——誰よりも美しく、誰よりも気高い、ブラック家の正妻そのものだった。
令嬢たちが談話室で歓談している間、ヴァルブルガはアランを別室へと招いた。
重厚なマホガニーの扉が静かに閉まると、ふたりきりの静寂が降りる。
ヴァルブルガは、いつもより少しだけ表情を和らげて口を開いた。
「あなたには……申し訳ないと思っているのよ」
その声には、珍しく謝罪の響きがあった。
「でも、このブラック家の血筋を、たった一人のアルタイルだけで終わらせてはならないの」
アランは静かに頭を下げた。
「心得ております、奥様」
その返答に一分の迷いもなかった。むしろ、どこか安堵すら感じていた。
それを受け入れることは、まったく問題ないのだ。
いつも心のどこかにシリウスを住まわせている自分——その事実を、少しだけ許されるような気さえした。むしろ、詫びてくれる必要など無かった。
その夜、寝室でセレナの髪をブラシで梳かしながら、アランは娘の率直な疑問を受けることになった。
「お母様は……平気なの?」
鏡越しに見つめるセレナの瞳には、子どもらしい困惑があった。
「お父様が、他のお姉様たちと仲良くするのは……嫌じゃないのですか?」
その問いは、あまりにも率直で、あまりにも純粋だった。
アランは手を止め、鏡の中でセレナと目を合わせた。
「セレナ、よく聞いて」
優しく、けれど確信に満ちた声で語りかける。
「お父様の心は、いつだってアルタイルやセレナと共にあります。だから私は大丈夫なのです」
それは嘘ではなかった。
自分の中には、シリウスを愛した記憶がある。愛された記憶も、確かに残っている。
そして同時に、レギュラスと手を取り合って生きてきた歳月も、紛れもなく真実だった。
だから今更、その間にどんな人間が入ってこようと、その事実は変わらない。
変わらない以上、心は大丈夫だと思えるのだ。
セレナは鏡越しに母を見つめていた。その表情には、まだ完全には理解できないながらも、母の言葉を信じようとする意志があった。
「……お母様が大丈夫なら、私も大丈夫」
小さくそう呟いて、セレナは母の手に自分の手を重ねた。
アランは娘の手の温もりを感じながら、静かに微笑んだ。
愛とは、独占するものではない。分かち合うものでもない。ただ、そこに在り続けるものなのだろう。
シリウスへの想いも、レギュラスとの絆も、そして子どもたちへの愛も——それらすべてが、自分という人間を形作っている。
新しい誰かが加わったとしても、その根幹は揺らがない。
窓の外では星が瞬いている。その光のように、愛もまた、複数あったとしても、それぞれが美しく輝き続けることができるのだから。
アランは娘の髪を最後まで丁寧に梳き、静かに祈った。
この家族の形が、どう変わろうとも、愛だけは失われませんように。
夜の帳が降りた屋敷に、馬車の車輪が砂利を踏む音が響いた。
アランは二階の窓辺でその音を聞き、静かに息を吸った。レギュラスが帰ってきたのだ。
彼女は立ち上がると、足音を忍ばせるようにして階段を降りていく。絹のガウンの裾が石の段を撫で、かすかな衣擦れの音だけが静寂を破った。
玄関ホールでは、既にヴァルブルガがレギュラスを迎えていた。
「おかえりなさい、レギュラス」
ヴァルブルガの声は、いつもより少しだけ特別な響きを帯びていた。
「あなたに……お客様がいらしてるのよ」
その言葉に、レギュラスの足が止まった。
階段の途中で立ち止まったアランと、レギュラスの視線が交錯する。
アランは静かに小さく礼をした。言葉は発さなかったが、その瞳だけで「おかえりなさい」と告げるように、やわらかな光を送った。
レギュラスは一瞬、妻の表情を読み取ろうとした。
いつものアランなら、玄関まで迎えに来てくれるはずだった。コートを受け取り、「お疲れ様でした」と静かに微笑んでくれるはずだった。
けれど今夜は違う。
階段の中程で立ち止まったまま、まるで一線を引くように距離を保っている。その姿には、何かを受け入れた者の静かな覚悟があった。
レギュラスは首を軽く傾げた。怪訝な表情が、その整った顔に浮かぶ。
「お客様……?」
「ええ。客間でお待ちです」
ヴァルブルガは満足そうに頷き、息子の肩に手を置いた。
「さあ、参りましょう」
レギュラスは母の後に続こうとしたが、一度だけ振り返った。
アランは、まだそこに立っていた。追いかけてくることもなく、ただ静かに見送るように。
その姿に、レギュラスの胸に嫌な予感が宿った。
母の特別な様子、妻の距離を置いた佇まい、そして「お客様」という言葉——すべてが、彼にとって歓迎できない何かを予感させた。
ヴァルブルガは軽やかな足取りで廊下を進んでいく。
レギュラスはその後を追いながら、心の奥で小さく舌打ちをした。任務の疲れが、一気に重いものに変わっていく。
客間から聞こえてくる、若い女性たちの笑い声。それが、彼の予感を確信に変えた。
アランは階段に残ったまま、夫の背中が廊下の奥に消えるのを見つめていた。その表情には、諦めでも悲しみでもない——ただ静かな受容があった。
夜の屋敷に、新しい局面が静かに始まろうとしていた。
客間へと続く回廊の奥――
背の高い扉の向こうからは、幾つかの若い女性たちの笑い声や、やや緊張の解けた談笑が漏れていた。
ヴァルブルガに促され、レギュラスは戸惑いを隠しきれないまま歩みを進める。
母の手が扉を押し開くと、そこにはやはり、見慣れない美しい令嬢たちが数人並んでいた。
皆、格式高い服装に身を包み、控えめな仕草にも気品が溢れている。
彼女たちは一斉に立ち上がり、ほんの少し緊張した面持ちでレギュラスを見上げた。
ヴァルブルガは誇らしげに息子の背を押した。
「今夜は、ご覧の通り新しいご縁を――と思いまして。
あなたがこの家の未来のために、最善を選べるように」
その穏やかな宣言の下に、部屋の空気が一瞬だけ凍りついた。
レギュラスは、一歩前に進みつつも、内心では激しい波紋を抑え込んでいた。
(ああ、やはり。母は……)
形ばかりの笑みを浮かべて応じながらも、目は瞬時に部屋の隅々を把握する。
客間の片隅には、妻・アランもセレナも姿はない。
自分を取り巻くのは、名門一族の娘たちと、自慢の両親――
思えば、いつか来るのだと覚悟していた場面だった。
「お集まりいただきありがとうございます」
淡々とした声が、大理石の柱と高い天井にかすかに反響する。
令嬢たちはそれぞれ名を名乗り合い、一人ひとりが簡素かつ丁寧な自己紹介をした。
控えめに、しかし希望と少しの期待が入り混じった眼差しがレギュラスに向けられている。
場違いにも感じるほど、格式ばかりの空気が漂うこの大客間。
ヴァルブルガは満足げに令嬢たちの様子を見渡し、
オリオンもまた背後でうなずいている。
だが、レギュラスの心はどこまでも平坦なままだった。
―ここで何を望まれようと、自分の芯は揺るがない―
そう胸の奥で静かに言い聞かせていた。
一方で、廊下の向こう、階段に立ち尽くすアランの姿がふいに瞳裏をよぎる。
彼女の柔らかな微笑み、何も言わずに送り出した静かな横顔。
それは正妻としての矜持であり、苦しみを呑み込む静けさでもあった。
レギュラスは無言のまま、背筋を正して場に臨む。
今、この屋敷に吹き込んだ新しい風の行方を、
彼自身もまた、疑いと決意の入り混じった目で受け止めようとしていた。
大広間の高い窓には、夜の影がゆっくりと沈み込み始めている。
新たな嵐の気配が、静かに、たしかに膨らんでいたのだった。
重々しい静けさが広がる大広間――
長椅子に丁寧に腰掛ける令嬢たちが談笑を装うその片隅を、レギュラス・ブラックは静かに立ち上がった。
「……今日は任務の疲れがありますので。お先に失礼します」
簡潔に、しかしどこか冷たさを含んだ声。
口元には微笑の形を保ちながらも、瞳の奥には明らかな疲労――そして、苛立ちの色が滲んでいた。
彼を引き留めようとする空気もあったが、レギュラスはそれを一切受け付ける隙を見せぬまま、背を向けて大広間をあとにした。
長い廊下。ヴェルベットの絨毯が靴音を柔らかく吸い込みながらも、彼の歩みにはどこか剣のような硬度があった。
そのとき、背後から低く重たい声が追ってきた。
「レギュラス」
――オリオンの声だった。
「そろそろ……折れてくれても良いんじゃないか」
父の言葉は、命令ではなかった。冷静に装った音色の下に、あからさまな“誘導”があった。
レギュラスは一定の歩みをしてから、ゆっくりと振り返る。
その表情は淡白に整っていたが、目元だけが鋭かった。
「――セシール家に顔向けできませんよ。そんな真似をするなら」
その声には、かすかに凍るものがあった。
アランを、家を、娘を――守るべきものへのわずかながらの奮い。
まだ言葉にされるには遠い想いが、そこに宿っていた。
だが、今度は後方の扉の前から別の声が重なった。
「そのセシール家から……“申し訳ありません”と手紙をいただいていますわよ」
ヴァルブルガだった。
いつのまにか立ち上がって廊下の接点まで出てきていた彼女は、まるで勝利を軽く告げるような声で言った。
その声音には、“諦めは当然”という色があった。
セシール家の名誉が傷つくより先に、アランの役割は終わったと――
その前提で事を進めようとする意志が、はっきりとそこに込められていた。
レギュラスは、目を細くした。
喉が乾くほどの静寂が、あたりを包んだ。
「……ほんとうに、ああいえばこう言う、ですね」
静かに吐き捨てるように言った一言。
それは苛立ちを隠そうとして隠しきれなかった声音。
誰が聞いても皮肉として受け取れるそれが、彼の制御の限界だった。
「今夜は失礼します」
それだけを短く残し、レギュラスは回廊をくぐって消えた。
その背に、もう振り返る色はなかった。
彼の足音が遠ざかるなか、背後に残されたオリオンとヴァルブルガの間には言葉がなかった。
それでも崩れることのない冷静と、思惑の奥で微かに軋むものが、
この屋敷の静けさの中にしんと響き続けていた。
日もすっかり暮れ、屋敷の灯が静かに落ち着きを取り戻した頃——
レギュラス・ブラックは足音ひとつ立てず、アランのいる部屋へと向かっていた。
扉をノックすることもなく、そっと開けると、部屋の奥ではアランがランプの灯りのもとで読書をしていた。柔らかな灯の下で、彼女はふと顔を上げる。
「おかえりなさい」
アランはいつも通りの声色でそう言って、ゆっくりと微笑んだ。
けれど、レギュラスは一言も返さず、ただ斜めの角度で視線を落とすようにうなずいただけだった。
そして黙ったまま、部屋の隅にあるソファに腰を下ろす。
重たく沈むように座ったその仕草が、彼の心の内を語っていた。
アランは数秒の間をおき、静かに本を閉じる。
緩やかに立ち上がり、レギュラスの隣へと腰を落とした。
「……早かったですね」
やさしく問いかける声は、まるで空気のようにそっと隣に置かれた。それでも、レギュラスは答えなかった。瞳すら動かさなかった。
ただその沈黙が、何よりも雄弁に、何かを物語っていた。
やり場のない感情が、胸の奥でくすぶっていた。
オリオン。ヴァルブルガ。
そして、あの客間にいた女たち——。
名家の娘たちが並んでいたあの光景を思い出すだけで、レギュラスの内側には、黒く熱を帯びた怒りが膨れ上がっていく。
彼女たちは笑顔をたたえながら、一部の疑念も羞恥も持たずにこの家に招かれてきた。
セシール家の女が正式にこの屋敷に立っているというのに、
その事実の重さも、今も変わらずアランがこの家で「妻」として在り続けていることの意味も、まるで空気のように透明視している。
あきれるほどに、堂々と。
その様子を思い出すたびに、レギュラスは奥歯をかみしめたくなった。
彼女たちに罪がないと分かっていても、すべてが癪に障る。
そして、さらに苛立たせるのは、今隣にいるこの人——
アランでさえ、何も言わず、すべてを許容しているように見えること。
誰よりも静かにこの家を守り、誰よりも思慮深く苦しみを呑み込んできた彼女。
でも今夜ばかりは、その“聡明な沈黙”に、どうしようもなく腹が立った。
なぜだ。
なぜ笑っていられる。
なぜ拒んでくれない。
なぜ怒ってくれないのか。
感情が荒れていた。
自分でも理解できないほど、浅ましいような独占欲が暴れていた。
レギュラスはうつむいたまま、言葉を飲み込む。
アランは何も問わなかった。
ただ隣で、そっと目を伏せ、その沈黙を抱きしめるように寄り添っていた。
――まるで、怒りさえも赦すかのように。
それが愛だと分かってしまうから、
それすらも哀しくて、どうしようもなかった。
夜の静けさが、ひとつの苦しみに蓋をするように、部屋を包み込んでいく。
それでも、ふたりのあいだに言葉はまだなかった。
怒りも、孤独も、愛しさも、すべてが沈黙の中で燻っていた。
静寂の中で、ふたりの間には重い空気が流れていた。
そして、その沈黙を破ったのは—— アランだった。
「レギュラス……受け入れてください」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、レギュラスの身体が硬直した。
まるで氷の刃が胸の奥を貫いたような鋭い痛み。
彼が望んでいた言葉とは、正反対の響きがそこにはあった。
「拒んでほしい」「嫌だと言ってほしい」「私だけを選んでほしい」——
そんな言葉を、心のどこかで求めていたのかもしれない。
けれど、出てきたのは無慈悲な宣告だった。
しばらくの沈黙が続いた。
レギュラスは言葉を探していた。理性で、感情で、すべてを駆使して。
そして、やっと絞り出したのは——
「なぜです?」
声が自然と荒らげてしまった。
「アルタイルと、セレナに……なんと説明するつもりです?」
その問いには、父としての責任感と、夫としての困惑が入り混じっていた。
アランは静かに答えた。
「家族ですから。当然、受け入れます」
その瞳に偽りはなかった。真っ直ぐにレギュラスを見つめ、微塵の迷いも見せない。
違うのだ。
レギュラスの心の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
欲しい言葉は、そんなものではない。
オリオンやヴァルブルガから強制されるのとは違う。彼らの圧力なら、まだ反発することもできた。憤りを感じることもできた。
けれど、愛する妻から—— アランから、そう言われると、何よりも心が壊れそうになる。
彼女の言葉には、諦めがあった。受容があった。そして、彼への配慮すらあった。
それが愛から生まれたものだと分かるからこそ、反論することもできない。怒ることも、拒むこともできない。
「……家族、ですか」
レギュラスの声は、かすれていた。
アランの真っ直ぐな瞳を見つめながら、彼は思った。
この人は、どこまで自分を犠牲にするつもりなのだろう。
そして同時に、恐ろしいほどに気づいてしまった。
自分は、彼女のその優しさに甘えて、ここまで来てしまったのだと。
部屋の静寂が、ふたりを包み込んでいく。
愛しているからこそ苦しい。愛されているからこそ辛い。
そんな矛盾した感情が、夜の闇の中で静かに燃え続けていた。
朝の光がガラス越しに降り注ぎ、ブラック家の朝食の間にはいつもより賑やかな空気が満ちていた。
長いテーブルには、ずらりと女たちが並んでいる。名門一族の令嬢たち――いずれ誰かが「選ばれるため」にこの屋敷に招かれていることを、言葉にしなくても皆が理解していた。
燦々と並ぶ銀器、磨かれた食器の音、丁寧な仕草、計算された笑顔。そのどれもが、この場にいるべき“淑女”としての振る舞いだった。
ただ一人、テーブルの上を冷たい目線で滑らせている男を除いては。
レギュラス・ブラックはその日、朝から頭を抱えたくなるほどの気鬱に満ちていた。
客人たちのあまりにも整った笑顔と声色。
そうしたものを正面から受け止められるほど、今の彼には余裕がなかった。
「レギュラス様……」
数人のうちの一人が、言葉をかけてきた。
だが、その声は耳に入りかけた程度で、内容まではまるで届いてこなかった。瞬間的に、脳が拒絶したのかもしれない。あるいは、ただ「今さら何を話しかけられても」という思いが先にあっただけか。
聞き返す気力もない。気遣うほどの興味もない。
ただ、無言でコーヒーに唇をつけるだけで、沈黙がレギュラスを覆っていた。
「お父様」
突如、場に異なる色を差し込んできたのは、まだ幼い声――セレナだった。
「お姉様が、お呼びですわよ」
その言葉は、客人の誰かがかけた言葉をわざわざ代弁するかたちだった。
テーブルのあちこちから、かすかな息を飲む音が響いた。
客人たちの顔が、微妙な緊張の中に張り詰める。
そして、レギュラス自身は――まるで内心を覗かれたようなその無遠慮な言葉に、かすかに口角を引き攣らせるしかなかった。
視線を落としながら、仕方なく微笑に似たものを浮かべてみせる。
「……なんでしょう」
声は低く、あくまで礼儀正しかったが、内に満ちた憂鬱は隠しきれなかった。
目だけが、あの令嬢に向けられた。けれど、それは行儀としての関与でしかなかった。
場の空気は張り詰めていたけれど、アランは沈黙を守っていた。
その表情は乱れることなく、ただティーカップを持つ指がほんのわずかに固くなっていた。
彼女は見ていた――
夫の身にまとう淡い苛立ちと、幼すぎる娘の無邪気な一撃が、彼の鎧のような沈黙にどう揺さぶりをかけたのかを。
少女の言葉も、令嬢の視線も、大理石の床すら、今朝はどこか冷たく響いていた。
レギュラスはそのすべてを前に、やっとはじまりを迎えたこの朝の一日を、
何よりも早く終わってほしい、と心の奥深くで願うしかなかった。
レギュラスは令嬢の方に形式的な視線を向けたまま、返事を待つ。
テーブルの空気は張り詰め、令嬢の誰もが“目立ちすぎないように”“それでいて印象を残すように”と、ぎこちない均衡の上に座っている。
目の端で、セレナが少しいたずらっぽくこちらを見ているのがわかった。彼女にとっては客人の女性たちへの気遣いよりも、朝の空気に退屈した兄のいない寂しさの方がずっと大きいのだろう。
「レギュラス様――本日は、私たちをお招きくださり、ありがたく存じます」
一人の令嬢が、おそるおそる、けれど丁寧に言葉を選びながらそう口にした。
「……ええ、どうぞごゆっくり」
レギュラスは礼だけ返し、それ以上の会話を余所余所しいまでに避けていた。
心のなかでは、苛立ちと疲労が交錯している。この者たちはブラック家の“未来”に必要とされている駒――そして自分はそれを演じる“役割”なのだと、痛々しいほど自覚していた。
隣では、アランはただ静かにコーヒーカップを傾けていた。
セレナはちらちらと父の表情を観察しつつ、客人の一人と目が合うと無垢な笑みを浮かべた。
令嬢たちの作る、緊張と下心が入り混じった空気。その中を、セレナの明るさとアランの静謐さが、ほんのわずかに和らげているようにも見えた。
だがレギュラスには、それが余計に苦しかった。
今、この食卓にいる誰も、“本当の家族の幸福”を語れはしない。
自分の居場所ですら、しばしば他人事のように遠く思える朝だった。
窓の外から射す光は澄んでいたが、その光の下に居る男女の心は、あまりにも遠く、あまりにも複雑だった。
レギュラスは、食卓の果てしなさ――その孤独の中で、静かに次の一手だけを考えていた。
朝の淡い陽が、屋敷の石畳をやさしく照らしていた。
玄関先に風がすれ違い、窓辺のカーテンが小さくはためく。
それは、いつもと変わらぬ朝のように見えた――たった一箇所を除いては。
レギュラス・ブラックは玄関に立ち、黒のクロークを整えると、ドアの向こうに控えた馬車に目を向けた。
だが――視界の隅に映るふたりの姿に、その動きがふいに止まる。
「いってらっしゃいませ、お父さま」
明るく澄んだ声が背中に届く。セレナの声だった。
小さな娘は花飾りのついた薄いケープをまとい、いつものように父へと微笑んでいた。
けれど、その隣に立つべき“いつもの姿”が、今朝はなかった。
―― アランが、いない。
レギュラスの視線は無意識に、その隣へと向かう。
そこに立っていたのは、あの――名門の若い令嬢の一人だった。
華奢で柔らかく巻かれた髪、気取った身のこなし、革張りの手袋を挟んだ指先、どれも淑女として完璧に仕上げられた佇まい。
けれど、そこに“温もり”はなかった。
なのに、その女が言う。
「いってらっしゃいませ、レギュラス様」
笑顔を浮かべ、まるでそこに立つことを当然とするような声だった。
言葉は完璧だった。声色も、距離のとりかたも、ふさわしく整っていた。
けれど、レギュラスの胸に湧き上がったのは、ただひとつの苛立ちだった。
なぜ、アランがいない。
なぜ、見送るのが“あの人”ではないのだ。
なぜ、セレナは“違う女性の隣”に立っている。
それだけで何かがねじれ、心のなかで爆ぜそうになっていた。
「……ごゆっくりどうぞ」
低い声が漏れるように出た。
ほんの一拍の間を置いてレギュラスは言葉を投げた。
それは「ありがとうございます」にも「いってきます」にもならない、感情を覆い隠すための仮面のような言葉だった。
令嬢は満足げに頷き、セレナは小さく手を振った。
ドアが重々しく閉まり、馬車の車輪が石を滑るように進みだした。
屋敷の中に戻るその瞬間まで、レギュラスの胸に残っていたのは、
「妻を呼べ」と叫びたいほどの焦燥と、
間違った絵が描かれてしまったような強烈な違和感だった。
朝の空気が、冷たく、どこかひどく居心地が悪かった。
あの玄関にアランが立っていない、それだけで、
世界が少しだけ歪んで感じた。
愛とは、声ではなく、その場にいてくれる気配のことだったのだ。
そう気づくには――その不在が、あまりにも深く、鋭く胸に刺さった。
魔法省の地下、薄暗い廊下を歩きながら、レギュラスは隣を行くバーテミウス・クラウチJr.に向かって、まるで堰を切ったように口を開いた。
「……屋敷にいるのに、気が休まりません」
その声には、普段の冷静さの欠片もなかった。むしろ、誰かに聞いてほしいとでも言わんばかりの切迫感があった。
バーテミウスは眉を上げて、レギュラスの横顔を見やった。
「君がそこまでかりかりするなんて……相当なんだろうね」
「全員殺しそうです」
レギュラスの返答は、あまりにも率直で、あまりにも物騒だった。
バーテミウスは思わず声を上げて笑った。
「本気でやりそうだ」
その笑い声を聞きながら、レギュラスは内心で苦々しく思った。
人事だからこそ、こんなに笑っていられるのだろう。
純血の名家ともなれば、正妻に加えて複数人の側室や妾がいることは、それほど珍しいことではない。むしろ、それが当然とされる世界だった。
ヴァルブルガに関しては、男児を二人産んだからこそ、オリオンは他の女性を屋敷に迎える必要がなかった。それだけの話だった。
でも今は違う。
シリウスが破門され、ブラック家を継がなかった以上、正当な跡取りは長らく自分だけだった。そして今、その血筋を受け継ぐのはアルタイル一人。
そのことが、オリオンとヴァルブルガの中で焦りとなっているのだろう。
だからこそ、アルタイル一人では気が休まらない。もう一人、二人と男児が必要だと考えている。
「家督のプレッシャーというやつか」
バーテミウスが、幾分同情的な口調で言った。
「まあ、君の立場なら仕方ないとも言える。純血の家系を絶やすわけにはいかないからな」
レギュラスは無言で頷いた。
理屈では分かっている。家の存続、血筋の継承、それらすべてが自分の肩にかかっていることも。
でも——
「理解していても、受け入れられるかは別です」
その呟きは、ほとんど独り言のようだった。
バーテミウスは少し表情を和らげて、レギュラスの肩を軽く叩いた。
「まあ、頑張れよ。君らしくない愚痴を聞かせてもらったが……きっと何とかなる」
その言葉に、レギュラスは苦笑いを浮かべた。
何とかなる——そう簡単に言えるのは、当事者ではないからだ。
任務の重圧よりも、家庭の複雑さの方がよほど彼を消耗させていた。その皮肉な現実を、レギュラスは静かに受け入れるしかなかった。
午後の陽が屋敷のサンルームに穏やかに差し込む中、アランは客人の一人——エメリンド・フェリックス嬢と向かい合って座っていた。
エメリンドは品のある美しい女性で、話し方も所作も洗練されている。彼女が恥ずかしそうに、けれど真剣な表情でアランに問いかけた。
「あの……レギュラス様の、お好みのものを教えていただけますでしょうか」
その問いに、アランは穏やかに微笑んだ。
「ワインでしたら、こちらのボルドーを特に好まれます。ウィスキーなら、このスコッチがお気に入りですね」
アランは丁寧に、レギュラスの嗜好を説明していく。まるで長年連れ添った妻として当然のように、彼の好みを熟知していることを示しながら。
そこへ、セレナが軽やかな足音で近づいてきた。
「何のお話?」
好奇心いっぱいの瞳で、二人の会話に加わる。
「セレナ様」エメリンドが丁寧に挨拶すると、セレナは無邪気に笑った。
「お父さまのお話でしょう?パンなら、これがお好きよ」
セレナは指を折りながら、父の好物を次々と挙げていく。
「あと、これも!朝食にはこのジャムを必ずつけるの。それから——」
その無垢な様子に、エメリンドは感動したような表情を浮かべた。
「ありがとうございます、若奥様、セレナ様」
深々と頭を下げる彼女に、アランは優しく答えた。
「今夜、用意されるとよろしいわ。きっと印象に残りますから」
「そうね、お父様きっと喜ぶわ」
セレナも無邪気に同意した。
その光景を見つめながら、アランは意外な安らぎを感じていた。
こういう関係も、むしろ息が詰まるような屋敷を明るくしてくれるような気がした。
エメリンドの素直な質問、セレナの屈託のない明るさ、そして自分自身の落ち着いた対応——それらすべてが、この複雑な状況に一筋の光を与えているようだった。
争いや嫉妬ではなく、むしろ協力的な雰囲気。これならば、この家にとっても悪いことではないかもしれない。
少なくとも、セレナにとっては新しい「お姉様」たちとの交流が、良い刺激になっているように見えた。
アランは静かに微笑みながら、この予想外の心地よさを受け入れていた。
愛とは、時に分かち合うことで、より豊かになるものなのかもしれない——そんな思いを、胸の奥で静かに育てながら。
日が傾き始めた午後のサロン。
ステンドグラス越しの光がカーペットに淡い模様を描く中で、ひときわ澄んだ声が響いていた。
小さなテーブルを挟んで向かい合っていたのは、セレナと、客人の令嬢――カトリーナ・ロズティエ嬢。
鮮やかな琥珀色の髪を編みこんだカトリーナは、控えめながらも温かいまなざしでセレナを見つめ、ルーン石のひとつをテーブルの上に置いた。
「これは ‘fehu’。富や始まりを意味しますの。さぁ、セレナ様もご一緒に」
セレナは目を輝かせながら、そっと指先で記号をなぞった。
「フェ……フー、ですよね?」
「ご名答ですわ」
カトリーナは笑みを浮かべて頷く。その表情は教師のそれというよりも、本当に、人懐こい年の離れた姉のようだった。
アランは少し離れたサロンの椅子に腰掛けながら、紅茶を冷ましもせず、ただこの光景を見守っていた。
読み書きには少し気分の波がある娘だが——
こうして、自ら学ぼうとする表情のなんと愛らしいことか。
「セレナ様……さすがはレギュラス様と若奥様のお姫様ですわね。とても覚えが早くていらっしゃる」
カトリーナがそう言って笑うと、セレナは照れたように小さくうつむく。
「……えへへ、ホグワーツに行って困らないように、先に覚えておこうと思って」
その姿がまたたまらなく愛おしい。
アランは思わず笑みをこぼし、そっとカップに口をつけた。
静かで満ち足りた時間だった。
いつもなら、家庭教師の厳しい口調が一語一句正確さを強いてくるものだが、
カトリーナの柔らかな話し方は、言葉以上の何かをセレナに届けていた。
「ルーン語って、絵みたいで面白いの。読むより描くほうが好きかも」
そう言うセレナには恐れも戸惑いもなかった。
アランの胸にじんわりとあたたかい思いが広がっていく。
ヴァルブルガが用意する品格と精度に溢れた教育も必要。
けれどそれだけでは、娘の中にある「学ぼうとする芽」までは光を受けきれないこともある。
カトリーナのように、同じ目線で、同じ歩幅で娘に寄り添い、笑いながら導いてくれる存在がそばにあること。
それがどれ程、大切なことなのかをこの日、深く実感した。
アランは紅茶のカップを静かにソーサーに戻しながら、心の奥で感謝をつぶやく。
――ありがとう。
どうかいつか、セレナの中で、このやわらかな時間が
学びと、そして人とのつながりの“最初の美しい記憶”として残ってくれますように。
窓辺には秋の金色の光が差し込み、サロンには穏やかで繊細な喜びの影が落ちていた。
午後の日差しが斜めに傾き始めた頃、アランは書斎奥の小広間でひとり本を読んでいた。
外にはかすかに鳥のさえずりが聞こえ、屋敷の中は、どこか静けさで満ちていた。
そんななか、部屋の扉が控えめにノックされる。
「……失礼いたします」
そっと顔をのぞかせたのは、客人のひとり――エリオノーラ・デヴラン嬢だった。淡いクリーム色のドレスに身を包み、両手には温かな湯気が立ち昇る銀の小盆を抱えている。
「あら、エリオノーラさん」
アランが驚いたように声を上げると、令嬢は少しだけ頬を紅潮させ、一歩中へ進んできた。
「……奥様、お身体の具合があまり芳しくないと伺いまして。ささやかではありますが、ハーブティーをお淹れしました。私の家で調合して長く用いているものですの」
そう差し出されたティーカップからは、やさしく澄んだ香りが立ちのぼっていた。
ラベンダーとレモンバーム、ほんのりと甘いエルダーフラワーの調和。
味覚よりもまず、心を落ち着かせてくれる香りだった。
アランの瞳に、ふと淡い光のゆらめきが差す。
「……ありがとう。嬉しいわ。こうしてハーブティーを差し出してもらうなんて……セシール家で過ごした日々以来だわ」
手を添えて受け取ったカップは掌にすっとなじみ、驚くほど自然に、違和感なく、温もりが染み込んでくるようだった。
家のために、静かに、自ら剥がれていくようにして耐え続けてきたこの屋敷の日々――
誰からも声をかけられることなく、ただ「堪えること」が当然とされてきた静寂の年月。
もちろん、レギュラスは気にかけてくれている。
けれどそれに対しては、自分もまた“報いなければ”という感情がついてまわる。
差し出された優しさには、等しく何かで返さねばという焦りがいつも寄り添っていた。
でも、この笑顔と共にもたらされたやわらかな気遣いには、そんな負い目がなかった。
気を遣わせぬようにと細心の遠慮を重ね、それでも真心だけが残っていた。
アランは、ほっと息を吐いた。
まるで、曲げた背筋がほぐされていくようだった。
エリオノーラは小さく微笑みながら、そっと言う。
「奥様がお望みでしたら、いつでもお待ちしております。ハーブの調合でしたら、お好みに合わせて差し上げますわ」
その声が、アランのなかの“忘れていた柔らかさ”に、静かに触れた。
誰かの好意を、何も考えずに受け入れることが、
こんなにも心を撫でてくれるものだったなんて――。
アランは目を細め、小さく微笑み返す。
「……それは、贅沢な時間ね。ありがとう。ほんとうに」
カップの縁から、またひとつ香りが立ち上る。
彼女の頬に、やわらかな紅が差す。
それはただのハーブティーではなく、
この屋敷の中で、音もなく満ちていった「心を向ける人間関係」の最初の一滴だった。
夜はすでに深く、屋敷の廊下には月光が長く伸びていた。
気配ひとつない静寂のなか、不意に玄関扉の音が微かに響く。
任務から戻ったレギュラス・ブラックは、いつもの通り無言で屋敷に足を踏み入れた。
けれど今夜は、いつもと違う “迎え” があった。
「おかえりなさいませ、レギュラス様」
そう深く頭を下げて礼を示したのは、エメリンド・フェリックス。
そのすぐ隣で、アランが静かに立っていた。
レギュラスのまなざしが一瞬、どこか曖昧な空白を宿した。
アランと、エメリンド。
その”並び”が、なぜか体温の伝わらない何かのように胸を掠める。
それでも彼は言葉を発さずに、わずかに頷いて玄関を抜けた。
少し後、食卓に案内されたレギュラスは、
整えられたテーブルの上に並ぶ品々を見て、思わず足を止める。
上質なボルドーの赤ワイン。
穏やかな酸味のパンと、繊細なハーブマリネ。
香ばしい焼き菓子が温かなまま供されていた。
どれも、自分の好みにぴたりと合っていた。
(…… アランが伝えたのだな)
そう、すぐに察した。
先に席を立とうとするアランを横目に見て、
レギュラスは口を開こうとした。呼び止めたかった。
けれど——
その刹那。
「レギュラス様、このワイン、アラン様が“お好きだと”おっしゃっていましたの」
エメリンドが、嬉しそうに隣で言葉を添えた。
「セレナ様もパンの種類まで細かく教えてくださって。だから今夜は、少しでもご気分が和らげばと思って」
柔らかな声。尽力のつもりだった。
たしかに、何一つ間違っていない。
けれど。
テーブルに並ぶ一皿一皿に対して、
レギュラスの中に、どうしようもない苛立ちが広がっていた。
これらは、たしかに“好きなもの”だった。
だが、アランと共にある時間の中で好きになったものだった。
その記憶を、好意ではあれ、
“他者の手を通して”目の前に並べられることが、なぜかたまらなく耐えがたかった。
(……違う。これは、違う)
おかしいのだ。
向かいに座っているのは、エメリンドであって、アランではない。
食後に交わすはずの沈黙の温もりも、
そっと差し出されるべき笑みも、すべて錯綜している。
この食卓そのものが、間違った絵の上に重ねられた風景のように、彼には映った。
レギュラスの目の奥に、冷たい色が宿る。
手元のワインが、まるで毒にさえ思えた。
好物だと知って準備されたこの饗応すら、
ほんのわずかな音を立てて床に打ち捨ててしまいたくなる。
「……申し訳ありません。少々疲れが出まして」
レギュラスは一礼すると、箸にも手を付けぬまま椅子を引いた。
エメリンドの驚いたような顔が、ある種の無垢としてそこにあったが、
彼の心はひとつの結論にしか向かっていなかった。
これらの食卓も、この空気感も、
彼の中で“ アランのいない場所”として、必要のないものだった。
夜は静かに、更けていた。
やがて、月の光だけが、残された食卓を物言わず照らしていた。
部屋の扉が静かに閉まる音がした。
それだけで、レギュラスの胸に重く張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
長身の身体を椅子へと預けると、革張りの肘掛けがわずかに軋み、彼の肩がゆっくりと沈んでいった。
この部屋だけが、誰にもしられずに怒りを溶かせる場所だった。
棚の奥、埃一つない木箱から取り出したのは、黒檀色の瓶に入った古いウィスキーだった。
穏やかな琥珀色の液体が、グラスの底にしんと注がれる。
静かだった。
滴り落ちる音すら、苛立ちに寄り添うように、しくしくと胸の奥に沁み込んでくる。
そして思う。
――今夜のエメリンドの振る舞いについて。
申し分なかった。
用意された食事も、差し出される言葉も、所作も、礼節も、すべて温度と角度を計ったように完璧だった。
本来ならば、食後に礼のひとつも告げるべきだったと、理性では分かっている。
それでも。
それでも、冷たく凍りついた自分の理性の内側で、どうしようもなく疼く感情が、彼を裂いていた。
もし許されるなら。ほんとうに許されるのなら。
――殺してやりたいとさえ、思ってしまった。
その存在が、呼吸そのものが、
あの食卓に「アランではない何か」が座っていたことが、 吐き気がするほどに「生理的に無理」だったのだ。
レギュラスはグラスを持ち上げ、喉を潤すように一口、ウィスキーを口に含む。
香りが、初めは甘く鼻に立ったが、
すぐに火に炙られるような熱が喉から胸を裂いた。
それが心地よかった。
感情の尖った破片を、酒がゆっくりと流して行く。
焼けるような刺激が、憎しみや悔しさに似て、自分の毒と共鳴する。
アランでなければ嫌だと思ってしまう自分。
正気のようで狂っている。
狂っているようで、あまりにも正直だった。
またひと口――重たく味わうように、グラスを空ける。
琥珀色がグラスの底で揺れ、やがて、空虚な曲線だけを残して静かに落ちついた。
レギュラスはしばらく何も考えず、
空になったグラスを見つめるだけだった。
どうして自分は、受け入れられないのか。
声をかけてくれる人がいて、支えようとする人がいて、
それでも、世界がすべて「彼女でない」と知った時点で、
どれだけ優しくされても、心の内側が拒絶してしまう。
それは愛というより――ただの執着だったのかもしれない。
静かに息を吐いた。
けれど、それすらも、夜の静けさに呑まれてゆく。
グラスを机の上に戻すと、レギュラスは瞼を閉じた。
ひとりきりの夜、
癒されることのない炎が、胸の奥で静かに燃え続けていた。
夜はひどく静かで、屋敷そのものが眠りに沈んでいるようだった。
レギュラスは酒の残滓を胸に抱えながら、ようやく寝室の扉へと歩を進めた。
怒りは収まっている。
ボトルの底まで掬ってなお燻るものがあったとしても、それを燃やし切る場所はもうない。
ただ今は、静かに眠りたかった。
――できることなら、隣にアランという存在のぬくもりを感じながら。
だからこそ、扉を開けるのは極めて慎重だった。
明かりは灯さず、音も立てず、ただ己の気配すら吸い込むようにしてベッドに近づく。
シーツの柔らかさに手を添え、静かに身体をすべらせる。
目を閉じたあとで、そっと右へ顔を向け――
……ふと、違和感を覚えた。
匂い。そのぬくもり。
――違う。
アランのものでは、ない。
次の瞬間、レギュラスは反射的に杖を握った。
鋭く短く、ひと振り。
魔法がはじけ、部屋に灯が落ちる。
重い沈黙のなかで布団を跳ね上げると、そこにいたのは眠りかけの女――
茶髪の房がほつれるように広がり、驚いた瞳とともに顔をもたげたのは、令嬢の一人、オルリー・ダリスだった。
彼女はとっさに両肘をついて、ベッドの上で頭を下げた。
「……レギュラス様、お、おかえりなさいませ」
震える声が空気を割った。
レギュラスの身体は静かだったが、顔には明確な怒りの色が滲んでいた。
喉の奥に押し殺した吐息と共に、低く冷えきった声が落ちる。
「……何をしにここへ?」
シーツには確かに自分の手が触れた。
自分は、それをアランだと思って――
安息に沈みこもうとし、…唇さえ寄せようとしていたのだ。
それを、一瞬で嘲笑うように壊された。
怒りというより、羞恥だった。
この空間が冒されたこと。自分が引き裂かれたこと。
そして、アランがここにいなかったという現実。
「ヴァ、ヴァルブルガ様が……今夜は、ここで、寝てよいと……っ」
女はうろたえる声でそう答えたが、その弁明は、レギュラスには火に油だった。
「――ここは、夫婦の寝室です」
背筋の底から絞り出された、静かな怒声。
怒鳴りはしない。ただ、低く、氷のようにきっぱりと切り捨てる言葉。
オルリーは思わず身体を縮め、さらに布団の上で身を小さくした。
レギュラスは見下ろす視線すら向けず、肩の奥に怒りを押し込めるようにひとつ息を吐く。
そして杖を再び振ると、部屋の扉が押し開かれた。
「出ていってください」
音が消えた部屋に、そのひとことだけが静かに落ちて、
灯りがまた淡く揺れた。
女が出ていったのを確認せず、
レギュラスは空にされた布団の端に深く腰を下ろした。
手のひらにはまだ、アランのぬくもりを求めて伸ばした感触が残っていた。
それが砂のようになって崩れ、心を静かに切り裂いていた。
