3章
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朝から雲の薄い魔法省の庁舎には、淡い光が大理石の床を這うように落ちていた。
空気そのものに慎重な緊張が漂っていたのは、“ああ、例の件”の処理に各部署が神経を尖らせているからだった。
魔法使いとマグル生まれの魔法使いによる、公共の場での衝突。
政治的にも社会的にも、火種になりやすいこの種の事件を、静かに、かつ適正に処理することは、魔法省にとっては”最も難しく、最も面倒な類の問題”である。
その仲介任務を受けている――レギュラス・ブラックが、朝の応接室で資料を眺めている姿は、ごく控えめに言っても、“正義官僚”のように見えた。
けれど関係者の誰もが知っている。
彼は、マグルという言葉を耳にするだけで表情を曇らせる男だ。
冷静に装ってはいても、その価値観の根底には、根深い純血主義と、反マグル的な思想が染み込んでいる。
事実、レギュラス自身も明確な自覚を持っていた。
「マグル生まれ」と名がついただけで、事情を聞く前に罰してしまいたくなる――
そんな本能的な嫌悪が、自分の中に溶け込んでいることを、彼は誰よりよく知っていた。
それでも、今朝の彼は妙に穏やかだった。
眉間の皺も浅く、癇に障るような無言も少ない。
傍らに立つ秘書官が何か書類を差し出すとき、それを不機嫌に跳ね除けるようなこともなく、ただ軽く頷いて受け取る。
その空気の柔らかさに、長年レギュラスの横で働いている魔法省職員たちでさえ、互いに目配せをするほどだった。
「どうしたんですか」
庁舎内を並んで歩いていたバーテミウス・クラウチJr.が、半ば冗談のように言った。
「君、人が変わっちゃったみたいだ」
その声には皮肉も驚きも込めきれず、まるで“何度目かの恐ろしいもの”を見る目つきだった。
レギュラスはただ斜めにバーテミウスを見やり、肩をひとつすくめた。
「魔法省の手前、決めつけばかりしていては、良くありませんから」
さらりとした声。けれど、言葉の端に、今朝の異変の一因が滲んでいた。
昨夜のこと。
アランの方からそっと自分に寄り添ってきたあの瞬間。
予想も期待も超えて押し寄せてきた幸福と、心の飢えが満たされていく感覚。
それが、今の彼の全てを包む静かな熱として内側に流れていた。
もしかしたらもう一度、あたたかい未来の可能性が生まれるかもしれない――
そんな「光」のような願いが一筋だけ、淡く胸に灯っていた。
そしてそれが、今朝の冷徹な判断力を、ほんの少しだけ緩めていたのだった。
バーテミウスは、まるで見知らぬ存在に出会ったように眉をひそめた。
けれどレギュラスはそれを意に介さず、次の聴取の場に向かって静かに歩き出す。
嫌悪も、判断も、怒りさえも――今は、この心に“満たされたもの”が静かに抑えてくれていた。
ただ、アランの平穏のために。それだけが今の自分の律動だった。
魔法省の廊下を、黒衣のローブが静かに流れていく。
その背中に宿る穏やかな機嫌は、彼自身でさえ手に余るほど稀有で、
“愛されたこと”の余韻が、まだそっと彼の肌の奥に残っていた。
朝の光が、屋敷の大きな窓から差し込んでいた。
食卓には香ばしいバターの香りが満ち、紅茶の湯気がふんわりと漂っている。
その中央にいつものように座る母―― アランは、
アルタイルの好物であるレモンの焼き菓子を手元に丁寧に並べていた。
白いティーナプキンにのせられたそれは、まだほんのりと温かく、
表面にかけられた粉糖が淡い光を反射している。
けれど――
その手元を見つめるアルタイルの目には、別のものが映っていた。
アランの頬は、いつもより少しこけているように見えた。
化粧でうまく整えられているものの、目の下の影が昨日よりも濃い。
それに、動作のひとつひとつが、わずかに緩やかに、重たく見えた。
「母さん……何だか、少しお疲れのように見えますよ」
紅茶をそっと口に運んだあと、アルタイルは静かにそう言った。
その口調には、やさしさと、けれどどこか切実な祈りの影が滲んでいた。
アランは一瞬、ティーカップの底に視線を落とし、
すぐに柔らかな笑みを浮かべて返した。
「そんなこと、ありませんよ。あなたが戻ってきてくれたから、嬉しくてつい調子に乗ってしまって……それだけです」
けれど、その微笑みが薄布のように 脆くて
どこかひどく遠くにあるような気がして、
アルタイルの胸は静かにざわついていた。
朝食の席での父――レギュラスは、近頃にしては珍しいほど上機嫌だった。
新聞を読む手元もいつもより軽やかで、
アランの出した菓子にも素直に満足げな言葉を口にしていた。
その笑顔を見て、アルタイルはすぐに思った。
(たぶん、ふたりの間に……何か、いいことがあったのだ)
機嫌の良さに理由が必要だとは思わない。
けれどそれが“いつもの父”ではないと気づいてしまったとき、
彼の心に自然とひとつの想像が浮かび上がる。
――もしかして、母の中に新しい命が宿ったのでは?
それを想った瞬間から、胸の奥で小さな動悸が止まらなかった。
喜ばしいことのはずだった。
けれど、アルタイルの心を大きく揺らしたのは、“言葉にできない不安”だった。
母は、弱っている。
あまりに静かに、あまりに美しく、
それでいて、どこか壊れもののように心細い。
セレナが生まれてからの月日は、アルタイルの目に
“母を変えてしまった時間”として、痛みと共に記憶されている。
肩で息をしていた夜。
食事の席に姿を見せなかった朝。
かすれた声で笑う日。
そして、ときおり誰もいない窓際で、沈んだ表情を浮かべていた日。
全部、目に焼きついていた。
本当は――まだ甘えたかった。
まだ「母さん」と呼びたかった。
でも、それができなかった。
できるわけがないと思っていた。
(もし……その“いいこと”が、母さんの命を脅かすようなことなら)
アルタイルは、心の奥でそっと拳を握った。
自分は強くなりたいと願ってきた。
母を守れる人間になりたいと。
けれど、考えたくもない現実がもし起こったとき――
「母」という存在そのものを失ってしまうことだけは、
どんな強さでも耐えきれる気がしなかった。
笑顔を浮かべるアランの横顔が、朝の光に透けて美しい。
その姿が、今この瞬間しか見られないような気がして、
アルタイルはじっと見つめたまま、黙って焼き菓子に手を伸ばした。
「……ありがとう、母さん」
アランは、その言葉に穏やかな目を細めて答えた。
「どういたしまして。元気をつけて、また一緒に庭に出られたら嬉しいわ」
アルタイルは、小さく頷いた。
まだ、言葉にはしない。
ただその背中に、この心のすべてを静かに預けながら。
母のために、自分ができることを見つけなければならない――
そう決意を新たにする朝だった。
夜の屋敷はひどく静かで、どこか時間そのものが緩やかに薄まっていくような空気に包まれていた。
廊下の灯りを一つずつ切って、最後に戻ってきたのはレギュラスだった。任務明けにもかかわらず凛とした姿は崩れず、けれど足取りには幾ばくかの疲労の影がにじんでいた。
アルタイルは階下を上がってくる父の気配を聞き分け、待っていたように声をかけた。
「……父さん」
レギュラスが立ち止まり、ふと眉を動かす。
「もう休んでいると思っていたけれど?」
「少しだけ、話せますか?」
息子の声音が、どこか迷いを含んだ真剣な調子だった。気兼ねのない話ではないのだと、レギュラスはすぐに悟った。
勉強机の前、小さな書斎のように整えられた空間にふたりは入った。扉が閉まる音は静かで、けれどその直後には、かすかに胸を打つような沈黙が落ちる。
「父さん……母さんの、体のことが心配で仕方がないんです」
アルタイルの言葉は、ゆっくりと、息を選ぶように紡がれた。
レギュラスはしばらく返事をしなかった。
「……そうですか」
それだけをひとまず返したあと、軽く肘をつくようにして椅子に腰をおろした。
「アランは、たしかに以前よりは回復してきていますよ。
季節の移ろいに合わせて体調を崩しがちだったが、今は比較的、落ちついています」
その口ぶりは理性的で、淡々としていた。だが、アルタイルには分かった。
――それは、“事実”を語っているだけだった。
彼はそっと目を伏せ、椅子の肘に手のひらを預けながら、ひとこと。
「……それでも、やっぱり不安です」
父からだけでは、聞きたくない。
「だいぶ回復した」などという安堵の言葉では、安心しきれなかった。
母は強く見せる人だ。きっと誰より賢くて、誰より献身的で、そのぶん、誰より深く、静かに痛む人だ。そういう母をこれまでずっと見てきた。
心の中にはずっと、名を与えられない痛みが渦を巻いていた。
それがようやく言葉になった瞬間、アルタイルの声はかすかに震えていた。
レギュラスは、息子の横顔をじっと見つめた。
そこには「少年」と「男」の狭間で揺れながらも、大切な人を真剣に守ろうとする意志があった。
レギュラスにとってアランは、愛であり、祈りであり、過去と未来のすべてだった。妻のあの夜の行動が意味するものも、彼なりに察していた。
だけど、その代償が大きすぎることもまた、わかっている。
だからレギュラスは、穏やかな声でこう言った。
「無理は……させないようにしましょうね」
その答えは決して明確な約束ではなかった。
けれど、その“やわらかさ”には、父として、ひとりの夫として、戸惑いと葛藤、そして強く願うものが折り重なっていた。
アルタイルは目を伏せたまま小さく頷いた。
父がどこまで分かってくれているのか、それはわからなかった。
でも、自分の言葉が今夜、確かに父の胸に届いた。それだけは感じ取れた。
――「少し回復した」くらいで、また母にすべて背負わせるようなことは、あってはならない。
そう思う気持ちは、父と同じはずだと信じたかった。
夜が静かにふたりの間を包んでいた。
世代も立場も違えど、愛する人を守りたいという祈りだけは、
たしかに、父と息子の間に同じ色で灯っていた。
それが終わりのない痛みであっても、
せめて、この屋敷のどこかに、ほんの一滴でも“やさしい灯”がともってほしい。
アルタイルにとって、今夜その一滴をこぼす先が、
こうして向き合ってくれた父だったことが、
いまは、少しだけ救いだった気がした。
キングズ・クロスの駅が遠ざかっていく中、馬車の中にはゆるやかな沈黙が漂っていた。
アルタイルを見送ったばかりの家族の間には、言葉にしづらい名残惜しさが空気ごと漂っている。
レギュラスは静かに窓の外を見つめ、オリオンとヴァルブルガは特に何も言わず、ただ静かに背筋を伸ばして座っていた。
その中で、セレナだけが明らかに寂しげなまなざしで窓の方を見ていた。
「……早く、私もホグワーツに入りたいなぁ」
小さくぽつりと言ったその声が、アランの胸をすこしだけ鋭く突いた。
兄が去ることの寂しさ。
その気持ちの中に隠れていた、“自分も、何かを始めたい”という小さな意志。
セレナは、今この家で最も自由に伸びやかに育っている。
ヴァルブルガの厳しい教育こそあるが、それでも彼女は、アルタイルのように「家の期待」の中心には立たされていない。
だからこそ、その分だけ、この屋敷の空気にも束縛されず――自由だった。
けれどアランは、ふと胸の奥がざらつくような感覚を覚えていた。
ときおり、セレナの瞳には少年時代のシリウスを思い起こさせる光がある。
好奇心の強さ、型に嵌らない直感、息苦しい言葉をさらりとすり抜ける聡明さ。
自由そのものを恐れず、それを自然と選び取るような在り方は――
かつてのシリウスに、とてもよく似ていた。
(もし……セレナが、あの人と同じ道を選んだら?)
その問いが、アランの胸に小さく落ちた。鋭くもなく、けれど、じわじわと冷たく沁みていくように。
思えば、アラン自身も、若い頃はシリウスの自由が羨ましかった。
家に背を向け、周囲の価値観を打ち破って、自らの意思ひとつで道を選ぶ勇気。
それを傍らで見ていて、どれほど憧れたか分からない。
“あんなふうに生きていいのなら”
“私も、もっと違う人生を……好きに歩めたのかもしれない”
――そう願った夜は、一度や二度ではなかった。
でも、知ってしまったのだ。
自由は、代償を抱えていることを。
それも、あまりにも大きすぎる代償が。
親を、家族を、信頼を、時には帰る場所さえも失って、
それでもなお、自由が幸福に繋がるとは限らないということを。
シリウスが残していった孤独の影も、
戦いの日々も、あの人の選択も――
アランはきっと、誰よりも近くで見届けた。
だからこそ、今こうして思う。
この甘やかされて育ってきたセレナが――
もし、何か大切なものと引き換えに自由を選ぶ日が来たとしたら。
その時、どうやって娘を守ればいい?
この子は、どこまで強くなれるのだろう。
選べなかった過去を、後悔しないでいられるだろうか。
そして、自分はどれだけの痛みを肩代わりしてやれるだろうか。
アランはセレナの手をそっと取って、自分の膝の上に引き寄せた。
セレナは驚いたようにキョトンとしていたが、すぐに嬉しそうに身を委ねてきた。
「セレナは、どんな寮に入りたいの?」
「んー、分からないけど、お兄さまと一緒がいいなあ。でも、帽子が決めるんでしょ?」
アランは穏やかに笑った。
その笑みは、切なさを含んでいた。まるで、確かな現在を手で掬いながら、すでに来る未来の影を懐に抱いているような。
「ええ、帽子が決めてくれるわ。でも、大丈夫。セレナは、どんな場所に行ってもきっと、たくさんの人から愛されるわよ」
セレナは屈託なく笑う。
その笑顔を見つめながら、アランは一つ深く静かな祈りを抱いた。
できることなら――
この子の選ぶ未来に、何も失われるものがありませんように。
自由とは、こんなにも代償がともなうと知ってしまったからこそ。
アランは、あの頃の自分にはなかった祈りを、
ひとりの母として、初めて本当に知ったような気がした。
朝の光が大理石の床にやわらかく伸び、銀のカトラリーにそっと反射していた。
けれどその光は、今朝の食卓をほんの少しだけ色褪せて見せていた。
アルタイルがホグワーツへと戻ってから、まだ二日しか経っていない。
それなのに――食卓には、季節をひとつ飛び越えたような静けさが流れていた。
オリオンは新聞を広げたまま、一行も読まずにページをめくり、
ヴァルブルガは紅茶に口をつけながらも、器を見つめるばかりだった。
誰も言葉に出そうとはしないけれど、アルタイルの不在が、
この屋敷から風通しごと抜き取ってしまったようだった。
その空気を吹き払うように、セレナの明るい声が響く。
「もう、お兄様がいなくなったとたん、みんな暗い顔しすぎだわ!」
口を尖らせながらも、その調子はあくまで軽やかで、
手元のスコーンにジャムを塗る指先さえも楽しげですらある。
アランはその様子を見て、思わず――微笑んだ。
どうしてだろう。
この娘は、いつだって空気を見逃さない。
けれど、それを沈黙のまま受け取って沈まない。
自分の言葉と色で、柔らかく包んで返してくれる。
その無邪気さが、時にとても危うく、時にとても救いだった。
「セレナは、明るいわね」
アランがそう言うと、セレナはぱくっと一口スコーンをかじって、
「だって、お兄様はもうすぐまた帰ってくるもの。寂しがってたら、損じゃない?」
上目遣いで、紅茶をひとくち。
ヴァルブルガがふ、とその瞳を持ち上げた。
久しぶりに、口角がほんのわずか動くような気配があった。
オリオンも新聞のページをめくる手を止め、静かにひとつだけ、頷いた。
アランはセレナの横顔を見つめた。
窓辺から差す朝の光が、淡く髪を縁取り、そのまぶしさに少女の横顔が透けて見えそうだった。
(こんなにも、小さな背中なのに)
でも、この娘の明るさは、たしかに今日の大人たちを一歩ずつ救っている。
「ありがとう、セレナ」
声に出さずに、アランはそっと、胸の奥で呟いた。
焼きたてのパンの香りに包まれた小さな朝。
ほんのひとときの静けさの中に――
確かに、温もりだけはまだ息づいていた。
ホグワーツの寮に戻ると、アルタイルの日常が静かに再開された。
窓辺には雨が細い線を描き、寮の掲示板には相変わらず生徒たちのおしゃべりが溢れていたが、その片隅に置かれた新聞を手に取った瞬間、アルタイルは小さく息を止めた。
紙面の一面には、騎士団の活動の痕跡――そして、その中にひときわ目を引く名前があった。
アリス・ブラック。
記事には、彼女が“マグル出身”でありながらも、かつてシリウス・ブラックに師事し、養子として迎えられたこと。そのため自分と同じ、「ブラック」の姓を名乗っているのだと書かれている。
アルタイルはその記事を指でなぞりながら、ふと自分の内側から湧いてきた複雑な感情に戸惑った。
「……父さん、これを知ったら、どんな顔をするだろう」
想像するまでもない。
父レギュラス・ブラックは、家名に人一倍の誇りを抱き、何よりも“純血”にこだわって生きてきた。
マグル出身の魔女が「ブラック」の名を名乗ること――
父が、その事実をすんなり受け入れる姿は、どう考えても思い浮かばなかった。
実際にその当時どうだったのか、アルタイル自身は詳しく知らない。
けれど、直感で分かる。「こんなこと、父が許すはずがない」と。
アルタイルは自分が差別的な目で物事を見たいとは、決して思っていなかった。
けれど、どこかで「棲み分け」というものは必要なのではないかという考えがあった。
魔法界が長い歴史の中で用意してきた枠組み――それが混ざり合うことで生じる軋轢や困難も、実際にこの家の中で何度も見てきた。
もちろん、マグルの魔法使いの中にも、純血に負けないほど才能ある者はいるだろう。
逆に、純血だからといって必ずしも立派とは限らない。
けれど、「ブラック」という名は、ただの名前以上の重みを持っていた。
「マグル出身の魔女がブラックの名を名乗るなんて――」
そう思う一方で、「違う」と感じる自分もいた。
優劣を線引きすることと、無思慮な差別は同じではない。
けれど、だからこそ、どこかで線を引かなければいけないのではないか――
それが今のアルタイル自身の、未成熟で揺らぐ思索だった。
新聞を閉じ、アルタイルは窓の外を見つめた。
「たぶんこの世界には、絶対的な正解なんてないのだろう」
けれど、そうやって心のなかで一つずつ問いを持つことでしか、自分の答えに辿り着けない。
今の彼ができるのは、与えられた名前と生まれ落ちた家の意味を、静かに、誇りと共に考え続けることだった。
この問いの意味を、いずれ自分の生き方で証明できるように――。
アルタイルは新しい一日へと、小さく息を吸い込んだ。
ホグワーツに戻ったばかりの寄宿舎――スリザリンの石造りの談話室にも、夏の名残をはらんだ涼しい空気が流れていた。
アルタイルが窓辺に腰掛けていると、ルームメイトたちが賑やかに集まってきた。彼らの手には、色褪せた新聞の切り抜きや、磨き上げられたトロフィーがいくつも抱えられている。
「見てよ、これ。レギュラス・ブラック。スリザリン最後の黄金時代って言われてる試合、写真まで残ってるんだ。」
「本物の伝説さ。ここに掲げられてる飛行杯もそうだし。」
誇らしげに語るその声を、アルタイルは少し照れくさそうに聞いていた。
屋敷にいた頃、父の飛行訓練は時折教えてもらったことがあった。でも、本気で箒を駆る姿は、その速さも美しさも、実はじかに見たことはなかった。
それでも、ルームメイトたちが目を輝かせて語る「レギュラスの箒捌き」「伝説のキャッチ」「決勝のあの一瞬」は、まるで自分までその輝きをまとっているかのような――
誇らしさと、不思議なくすぐったさを同時に味わわせた。
そして、話題はやがて母に移る。
「君の母さんって―― アラン・セシール。知ってる?ホグワーツ一の美少女って言われてたんだよ。スリザリンの姫って。」
「本当に?あの肖像画、いま見ても綺麗だもんね」
その言葉に、アルタイルは自然と微笑みが浮かぶ。
母が誰よりも静かに、けれど毅然と美しかった日の記憶が、ありありと胸の奥に広がっていく。
今でもそのたおやかさは、家の中の光になっている。
そして、そんな女性を婚約者に迎えた父は――きっと、ものすごく誇らしかったに違いない。
少年らしい素朴な嫉妬と憧れが、混ざり合う。
「すごい家族だよなあ、アルタイル」
皆がトロフィーの名前をなぞりながら、口々にそう言う。
アルタイルは、あまり得意ではない目立つ話題をかわすように、そっと視線を落とし、にこりと微笑んだ。
でも、その胸のどこかで、小さく温かい炎がゆっくり灯る。
伝説も、美しさも、誰かに語られるほどのものが、自分という存在を支えている。その事実が、誇らしくて、どこか照れて、そして少しだけ今の自分を強くしてくれる気がしていた。
談話室の緑の光のなか――アルタイルは、父と母から受け継いだものの意味を、また静かに心に刻むのだった。
屋敷の空気がすうっと穏やかに沈む午後、アランはひとり、静かに奥の扉を開けた。
重たく装飾の施された木扉。その先にある部屋――そこは、かつてのシリウスの書斎だった。
誰も使わなくなって久しいはずの部屋には、それでもなお、確かに人の気配のようなものが残っていた。
それは埃の匂いでも、古い紙の香りでもない。
もっと繊細で、もっと親しい――懐かしさという名の匂いだった。
ゆっくりと一歩足を踏み入れると、床がきしむ音がした。
暦の止まった世界の中に、ほんのひと筋だけ風のようにアランが差し込んでいく。
視線の先には本棚、机、そして色褪せた革張りの椅子。
そこにはもうシリウスはいないのに、「彼が今もここにいる」と錯覚するほど、部屋全体には記憶が沈殿していた。
壁には剥がれかけたポスター、乱雑に並んだ見慣れた背表紙。
アランはそっと指先をのばし、一冊の背表紙の文字をなぞった。
――Quidditch Through the Ages
それは、少年だったシリウスが夢中になって読んでいた本。
(懐かしいわね)
思わず心のなかでつぶやいた言葉が、胸の奥に染みていく。
ここで、昔よく3人で遊んだ。
幼かった。自分も、レギュラスも、シリウスも。
屋敷をまるごと使ってのかくれんぼ。
シリウスとふたりしてこの書斎の奥に忍び込んでは、「絶対見つからない場所だ」と得意げに笑い合った。
自分が笑えば、シリウスも笑った。
自分が怖がれば、彼は必ず守るような言葉を口にした。
あのままずっと――この太陽みたいな人の隣を歩いていけるものだと、信じて疑わなかった。
気づけば指先が、開かれたままの一冊のノートに触れていた。
インクの染みに混じって、少し歪んだ筆跡がある。
そこには何も語られていないはずなのに、
確かに彼の息づかいが、言葉の隙間に宿っているような気がした。
小さく声を落とすようにして、心のなかで囁く。
「……シリウス。今でも、あなたは私のことを――愛してる?」
返事なんてあるはずないとわかっていた。
けれどその問いが、こぼれてしまうほどに、心に絡みついていた。
幼い日々のあたたかな残光。
すれ違ったまま戻らなかった季節。
過ちでも決断でもない、“ただ離れていった時間”が、幾重にも折り重なって切なさを編んでいた。
そして、返事のないその空間に、涙がするすると頬をつたった。
ひとしずく、そしてまたひとしずく。
背を丸めるようにして、アランはその涙を拭おうともしなかった。
誰にも見せられない、誰にも言えない想いがまだここにある。
時がどれほど流れても、
家族の形が変わっても、
名前が変わっても――
心の奥には、幼い日々に愛したままの記憶が、変わらず息づいている。
シリウスの書斎。
そこは、小さな少女の名残と、初めて知った愛と、
そして消えることのない想い出の棲む、静かな祈りの場所だった。
空気そのものに慎重な緊張が漂っていたのは、“ああ、例の件”の処理に各部署が神経を尖らせているからだった。
魔法使いとマグル生まれの魔法使いによる、公共の場での衝突。
政治的にも社会的にも、火種になりやすいこの種の事件を、静かに、かつ適正に処理することは、魔法省にとっては”最も難しく、最も面倒な類の問題”である。
その仲介任務を受けている――レギュラス・ブラックが、朝の応接室で資料を眺めている姿は、ごく控えめに言っても、“正義官僚”のように見えた。
けれど関係者の誰もが知っている。
彼は、マグルという言葉を耳にするだけで表情を曇らせる男だ。
冷静に装ってはいても、その価値観の根底には、根深い純血主義と、反マグル的な思想が染み込んでいる。
事実、レギュラス自身も明確な自覚を持っていた。
「マグル生まれ」と名がついただけで、事情を聞く前に罰してしまいたくなる――
そんな本能的な嫌悪が、自分の中に溶け込んでいることを、彼は誰よりよく知っていた。
それでも、今朝の彼は妙に穏やかだった。
眉間の皺も浅く、癇に障るような無言も少ない。
傍らに立つ秘書官が何か書類を差し出すとき、それを不機嫌に跳ね除けるようなこともなく、ただ軽く頷いて受け取る。
その空気の柔らかさに、長年レギュラスの横で働いている魔法省職員たちでさえ、互いに目配せをするほどだった。
「どうしたんですか」
庁舎内を並んで歩いていたバーテミウス・クラウチJr.が、半ば冗談のように言った。
「君、人が変わっちゃったみたいだ」
その声には皮肉も驚きも込めきれず、まるで“何度目かの恐ろしいもの”を見る目つきだった。
レギュラスはただ斜めにバーテミウスを見やり、肩をひとつすくめた。
「魔法省の手前、決めつけばかりしていては、良くありませんから」
さらりとした声。けれど、言葉の端に、今朝の異変の一因が滲んでいた。
昨夜のこと。
アランの方からそっと自分に寄り添ってきたあの瞬間。
予想も期待も超えて押し寄せてきた幸福と、心の飢えが満たされていく感覚。
それが、今の彼の全てを包む静かな熱として内側に流れていた。
もしかしたらもう一度、あたたかい未来の可能性が生まれるかもしれない――
そんな「光」のような願いが一筋だけ、淡く胸に灯っていた。
そしてそれが、今朝の冷徹な判断力を、ほんの少しだけ緩めていたのだった。
バーテミウスは、まるで見知らぬ存在に出会ったように眉をひそめた。
けれどレギュラスはそれを意に介さず、次の聴取の場に向かって静かに歩き出す。
嫌悪も、判断も、怒りさえも――今は、この心に“満たされたもの”が静かに抑えてくれていた。
ただ、アランの平穏のために。それだけが今の自分の律動だった。
魔法省の廊下を、黒衣のローブが静かに流れていく。
その背中に宿る穏やかな機嫌は、彼自身でさえ手に余るほど稀有で、
“愛されたこと”の余韻が、まだそっと彼の肌の奥に残っていた。
朝の光が、屋敷の大きな窓から差し込んでいた。
食卓には香ばしいバターの香りが満ち、紅茶の湯気がふんわりと漂っている。
その中央にいつものように座る母―― アランは、
アルタイルの好物であるレモンの焼き菓子を手元に丁寧に並べていた。
白いティーナプキンにのせられたそれは、まだほんのりと温かく、
表面にかけられた粉糖が淡い光を反射している。
けれど――
その手元を見つめるアルタイルの目には、別のものが映っていた。
アランの頬は、いつもより少しこけているように見えた。
化粧でうまく整えられているものの、目の下の影が昨日よりも濃い。
それに、動作のひとつひとつが、わずかに緩やかに、重たく見えた。
「母さん……何だか、少しお疲れのように見えますよ」
紅茶をそっと口に運んだあと、アルタイルは静かにそう言った。
その口調には、やさしさと、けれどどこか切実な祈りの影が滲んでいた。
アランは一瞬、ティーカップの底に視線を落とし、
すぐに柔らかな笑みを浮かべて返した。
「そんなこと、ありませんよ。あなたが戻ってきてくれたから、嬉しくてつい調子に乗ってしまって……それだけです」
けれど、その微笑みが薄布のように 脆くて
どこかひどく遠くにあるような気がして、
アルタイルの胸は静かにざわついていた。
朝食の席での父――レギュラスは、近頃にしては珍しいほど上機嫌だった。
新聞を読む手元もいつもより軽やかで、
アランの出した菓子にも素直に満足げな言葉を口にしていた。
その笑顔を見て、アルタイルはすぐに思った。
(たぶん、ふたりの間に……何か、いいことがあったのだ)
機嫌の良さに理由が必要だとは思わない。
けれどそれが“いつもの父”ではないと気づいてしまったとき、
彼の心に自然とひとつの想像が浮かび上がる。
――もしかして、母の中に新しい命が宿ったのでは?
それを想った瞬間から、胸の奥で小さな動悸が止まらなかった。
喜ばしいことのはずだった。
けれど、アルタイルの心を大きく揺らしたのは、“言葉にできない不安”だった。
母は、弱っている。
あまりに静かに、あまりに美しく、
それでいて、どこか壊れもののように心細い。
セレナが生まれてからの月日は、アルタイルの目に
“母を変えてしまった時間”として、痛みと共に記憶されている。
肩で息をしていた夜。
食事の席に姿を見せなかった朝。
かすれた声で笑う日。
そして、ときおり誰もいない窓際で、沈んだ表情を浮かべていた日。
全部、目に焼きついていた。
本当は――まだ甘えたかった。
まだ「母さん」と呼びたかった。
でも、それができなかった。
できるわけがないと思っていた。
(もし……その“いいこと”が、母さんの命を脅かすようなことなら)
アルタイルは、心の奥でそっと拳を握った。
自分は強くなりたいと願ってきた。
母を守れる人間になりたいと。
けれど、考えたくもない現実がもし起こったとき――
「母」という存在そのものを失ってしまうことだけは、
どんな強さでも耐えきれる気がしなかった。
笑顔を浮かべるアランの横顔が、朝の光に透けて美しい。
その姿が、今この瞬間しか見られないような気がして、
アルタイルはじっと見つめたまま、黙って焼き菓子に手を伸ばした。
「……ありがとう、母さん」
アランは、その言葉に穏やかな目を細めて答えた。
「どういたしまして。元気をつけて、また一緒に庭に出られたら嬉しいわ」
アルタイルは、小さく頷いた。
まだ、言葉にはしない。
ただその背中に、この心のすべてを静かに預けながら。
母のために、自分ができることを見つけなければならない――
そう決意を新たにする朝だった。
夜の屋敷はひどく静かで、どこか時間そのものが緩やかに薄まっていくような空気に包まれていた。
廊下の灯りを一つずつ切って、最後に戻ってきたのはレギュラスだった。任務明けにもかかわらず凛とした姿は崩れず、けれど足取りには幾ばくかの疲労の影がにじんでいた。
アルタイルは階下を上がってくる父の気配を聞き分け、待っていたように声をかけた。
「……父さん」
レギュラスが立ち止まり、ふと眉を動かす。
「もう休んでいると思っていたけれど?」
「少しだけ、話せますか?」
息子の声音が、どこか迷いを含んだ真剣な調子だった。気兼ねのない話ではないのだと、レギュラスはすぐに悟った。
勉強机の前、小さな書斎のように整えられた空間にふたりは入った。扉が閉まる音は静かで、けれどその直後には、かすかに胸を打つような沈黙が落ちる。
「父さん……母さんの、体のことが心配で仕方がないんです」
アルタイルの言葉は、ゆっくりと、息を選ぶように紡がれた。
レギュラスはしばらく返事をしなかった。
「……そうですか」
それだけをひとまず返したあと、軽く肘をつくようにして椅子に腰をおろした。
「アランは、たしかに以前よりは回復してきていますよ。
季節の移ろいに合わせて体調を崩しがちだったが、今は比較的、落ちついています」
その口ぶりは理性的で、淡々としていた。だが、アルタイルには分かった。
――それは、“事実”を語っているだけだった。
彼はそっと目を伏せ、椅子の肘に手のひらを預けながら、ひとこと。
「……それでも、やっぱり不安です」
父からだけでは、聞きたくない。
「だいぶ回復した」などという安堵の言葉では、安心しきれなかった。
母は強く見せる人だ。きっと誰より賢くて、誰より献身的で、そのぶん、誰より深く、静かに痛む人だ。そういう母をこれまでずっと見てきた。
心の中にはずっと、名を与えられない痛みが渦を巻いていた。
それがようやく言葉になった瞬間、アルタイルの声はかすかに震えていた。
レギュラスは、息子の横顔をじっと見つめた。
そこには「少年」と「男」の狭間で揺れながらも、大切な人を真剣に守ろうとする意志があった。
レギュラスにとってアランは、愛であり、祈りであり、過去と未来のすべてだった。妻のあの夜の行動が意味するものも、彼なりに察していた。
だけど、その代償が大きすぎることもまた、わかっている。
だからレギュラスは、穏やかな声でこう言った。
「無理は……させないようにしましょうね」
その答えは決して明確な約束ではなかった。
けれど、その“やわらかさ”には、父として、ひとりの夫として、戸惑いと葛藤、そして強く願うものが折り重なっていた。
アルタイルは目を伏せたまま小さく頷いた。
父がどこまで分かってくれているのか、それはわからなかった。
でも、自分の言葉が今夜、確かに父の胸に届いた。それだけは感じ取れた。
――「少し回復した」くらいで、また母にすべて背負わせるようなことは、あってはならない。
そう思う気持ちは、父と同じはずだと信じたかった。
夜が静かにふたりの間を包んでいた。
世代も立場も違えど、愛する人を守りたいという祈りだけは、
たしかに、父と息子の間に同じ色で灯っていた。
それが終わりのない痛みであっても、
せめて、この屋敷のどこかに、ほんの一滴でも“やさしい灯”がともってほしい。
アルタイルにとって、今夜その一滴をこぼす先が、
こうして向き合ってくれた父だったことが、
いまは、少しだけ救いだった気がした。
キングズ・クロスの駅が遠ざかっていく中、馬車の中にはゆるやかな沈黙が漂っていた。
アルタイルを見送ったばかりの家族の間には、言葉にしづらい名残惜しさが空気ごと漂っている。
レギュラスは静かに窓の外を見つめ、オリオンとヴァルブルガは特に何も言わず、ただ静かに背筋を伸ばして座っていた。
その中で、セレナだけが明らかに寂しげなまなざしで窓の方を見ていた。
「……早く、私もホグワーツに入りたいなぁ」
小さくぽつりと言ったその声が、アランの胸をすこしだけ鋭く突いた。
兄が去ることの寂しさ。
その気持ちの中に隠れていた、“自分も、何かを始めたい”という小さな意志。
セレナは、今この家で最も自由に伸びやかに育っている。
ヴァルブルガの厳しい教育こそあるが、それでも彼女は、アルタイルのように「家の期待」の中心には立たされていない。
だからこそ、その分だけ、この屋敷の空気にも束縛されず――自由だった。
けれどアランは、ふと胸の奥がざらつくような感覚を覚えていた。
ときおり、セレナの瞳には少年時代のシリウスを思い起こさせる光がある。
好奇心の強さ、型に嵌らない直感、息苦しい言葉をさらりとすり抜ける聡明さ。
自由そのものを恐れず、それを自然と選び取るような在り方は――
かつてのシリウスに、とてもよく似ていた。
(もし……セレナが、あの人と同じ道を選んだら?)
その問いが、アランの胸に小さく落ちた。鋭くもなく、けれど、じわじわと冷たく沁みていくように。
思えば、アラン自身も、若い頃はシリウスの自由が羨ましかった。
家に背を向け、周囲の価値観を打ち破って、自らの意思ひとつで道を選ぶ勇気。
それを傍らで見ていて、どれほど憧れたか分からない。
“あんなふうに生きていいのなら”
“私も、もっと違う人生を……好きに歩めたのかもしれない”
――そう願った夜は、一度や二度ではなかった。
でも、知ってしまったのだ。
自由は、代償を抱えていることを。
それも、あまりにも大きすぎる代償が。
親を、家族を、信頼を、時には帰る場所さえも失って、
それでもなお、自由が幸福に繋がるとは限らないということを。
シリウスが残していった孤独の影も、
戦いの日々も、あの人の選択も――
アランはきっと、誰よりも近くで見届けた。
だからこそ、今こうして思う。
この甘やかされて育ってきたセレナが――
もし、何か大切なものと引き換えに自由を選ぶ日が来たとしたら。
その時、どうやって娘を守ればいい?
この子は、どこまで強くなれるのだろう。
選べなかった過去を、後悔しないでいられるだろうか。
そして、自分はどれだけの痛みを肩代わりしてやれるだろうか。
アランはセレナの手をそっと取って、自分の膝の上に引き寄せた。
セレナは驚いたようにキョトンとしていたが、すぐに嬉しそうに身を委ねてきた。
「セレナは、どんな寮に入りたいの?」
「んー、分からないけど、お兄さまと一緒がいいなあ。でも、帽子が決めるんでしょ?」
アランは穏やかに笑った。
その笑みは、切なさを含んでいた。まるで、確かな現在を手で掬いながら、すでに来る未来の影を懐に抱いているような。
「ええ、帽子が決めてくれるわ。でも、大丈夫。セレナは、どんな場所に行ってもきっと、たくさんの人から愛されるわよ」
セレナは屈託なく笑う。
その笑顔を見つめながら、アランは一つ深く静かな祈りを抱いた。
できることなら――
この子の選ぶ未来に、何も失われるものがありませんように。
自由とは、こんなにも代償がともなうと知ってしまったからこそ。
アランは、あの頃の自分にはなかった祈りを、
ひとりの母として、初めて本当に知ったような気がした。
朝の光が大理石の床にやわらかく伸び、銀のカトラリーにそっと反射していた。
けれどその光は、今朝の食卓をほんの少しだけ色褪せて見せていた。
アルタイルがホグワーツへと戻ってから、まだ二日しか経っていない。
それなのに――食卓には、季節をひとつ飛び越えたような静けさが流れていた。
オリオンは新聞を広げたまま、一行も読まずにページをめくり、
ヴァルブルガは紅茶に口をつけながらも、器を見つめるばかりだった。
誰も言葉に出そうとはしないけれど、アルタイルの不在が、
この屋敷から風通しごと抜き取ってしまったようだった。
その空気を吹き払うように、セレナの明るい声が響く。
「もう、お兄様がいなくなったとたん、みんな暗い顔しすぎだわ!」
口を尖らせながらも、その調子はあくまで軽やかで、
手元のスコーンにジャムを塗る指先さえも楽しげですらある。
アランはその様子を見て、思わず――微笑んだ。
どうしてだろう。
この娘は、いつだって空気を見逃さない。
けれど、それを沈黙のまま受け取って沈まない。
自分の言葉と色で、柔らかく包んで返してくれる。
その無邪気さが、時にとても危うく、時にとても救いだった。
「セレナは、明るいわね」
アランがそう言うと、セレナはぱくっと一口スコーンをかじって、
「だって、お兄様はもうすぐまた帰ってくるもの。寂しがってたら、損じゃない?」
上目遣いで、紅茶をひとくち。
ヴァルブルガがふ、とその瞳を持ち上げた。
久しぶりに、口角がほんのわずか動くような気配があった。
オリオンも新聞のページをめくる手を止め、静かにひとつだけ、頷いた。
アランはセレナの横顔を見つめた。
窓辺から差す朝の光が、淡く髪を縁取り、そのまぶしさに少女の横顔が透けて見えそうだった。
(こんなにも、小さな背中なのに)
でも、この娘の明るさは、たしかに今日の大人たちを一歩ずつ救っている。
「ありがとう、セレナ」
声に出さずに、アランはそっと、胸の奥で呟いた。
焼きたてのパンの香りに包まれた小さな朝。
ほんのひとときの静けさの中に――
確かに、温もりだけはまだ息づいていた。
ホグワーツの寮に戻ると、アルタイルの日常が静かに再開された。
窓辺には雨が細い線を描き、寮の掲示板には相変わらず生徒たちのおしゃべりが溢れていたが、その片隅に置かれた新聞を手に取った瞬間、アルタイルは小さく息を止めた。
紙面の一面には、騎士団の活動の痕跡――そして、その中にひときわ目を引く名前があった。
アリス・ブラック。
記事には、彼女が“マグル出身”でありながらも、かつてシリウス・ブラックに師事し、養子として迎えられたこと。そのため自分と同じ、「ブラック」の姓を名乗っているのだと書かれている。
アルタイルはその記事を指でなぞりながら、ふと自分の内側から湧いてきた複雑な感情に戸惑った。
「……父さん、これを知ったら、どんな顔をするだろう」
想像するまでもない。
父レギュラス・ブラックは、家名に人一倍の誇りを抱き、何よりも“純血”にこだわって生きてきた。
マグル出身の魔女が「ブラック」の名を名乗ること――
父が、その事実をすんなり受け入れる姿は、どう考えても思い浮かばなかった。
実際にその当時どうだったのか、アルタイル自身は詳しく知らない。
けれど、直感で分かる。「こんなこと、父が許すはずがない」と。
アルタイルは自分が差別的な目で物事を見たいとは、決して思っていなかった。
けれど、どこかで「棲み分け」というものは必要なのではないかという考えがあった。
魔法界が長い歴史の中で用意してきた枠組み――それが混ざり合うことで生じる軋轢や困難も、実際にこの家の中で何度も見てきた。
もちろん、マグルの魔法使いの中にも、純血に負けないほど才能ある者はいるだろう。
逆に、純血だからといって必ずしも立派とは限らない。
けれど、「ブラック」という名は、ただの名前以上の重みを持っていた。
「マグル出身の魔女がブラックの名を名乗るなんて――」
そう思う一方で、「違う」と感じる自分もいた。
優劣を線引きすることと、無思慮な差別は同じではない。
けれど、だからこそ、どこかで線を引かなければいけないのではないか――
それが今のアルタイル自身の、未成熟で揺らぐ思索だった。
新聞を閉じ、アルタイルは窓の外を見つめた。
「たぶんこの世界には、絶対的な正解なんてないのだろう」
けれど、そうやって心のなかで一つずつ問いを持つことでしか、自分の答えに辿り着けない。
今の彼ができるのは、与えられた名前と生まれ落ちた家の意味を、静かに、誇りと共に考え続けることだった。
この問いの意味を、いずれ自分の生き方で証明できるように――。
アルタイルは新しい一日へと、小さく息を吸い込んだ。
ホグワーツに戻ったばかりの寄宿舎――スリザリンの石造りの談話室にも、夏の名残をはらんだ涼しい空気が流れていた。
アルタイルが窓辺に腰掛けていると、ルームメイトたちが賑やかに集まってきた。彼らの手には、色褪せた新聞の切り抜きや、磨き上げられたトロフィーがいくつも抱えられている。
「見てよ、これ。レギュラス・ブラック。スリザリン最後の黄金時代って言われてる試合、写真まで残ってるんだ。」
「本物の伝説さ。ここに掲げられてる飛行杯もそうだし。」
誇らしげに語るその声を、アルタイルは少し照れくさそうに聞いていた。
屋敷にいた頃、父の飛行訓練は時折教えてもらったことがあった。でも、本気で箒を駆る姿は、その速さも美しさも、実はじかに見たことはなかった。
それでも、ルームメイトたちが目を輝かせて語る「レギュラスの箒捌き」「伝説のキャッチ」「決勝のあの一瞬」は、まるで自分までその輝きをまとっているかのような――
誇らしさと、不思議なくすぐったさを同時に味わわせた。
そして、話題はやがて母に移る。
「君の母さんって―― アラン・セシール。知ってる?ホグワーツ一の美少女って言われてたんだよ。スリザリンの姫って。」
「本当に?あの肖像画、いま見ても綺麗だもんね」
その言葉に、アルタイルは自然と微笑みが浮かぶ。
母が誰よりも静かに、けれど毅然と美しかった日の記憶が、ありありと胸の奥に広がっていく。
今でもそのたおやかさは、家の中の光になっている。
そして、そんな女性を婚約者に迎えた父は――きっと、ものすごく誇らしかったに違いない。
少年らしい素朴な嫉妬と憧れが、混ざり合う。
「すごい家族だよなあ、アルタイル」
皆がトロフィーの名前をなぞりながら、口々にそう言う。
アルタイルは、あまり得意ではない目立つ話題をかわすように、そっと視線を落とし、にこりと微笑んだ。
でも、その胸のどこかで、小さく温かい炎がゆっくり灯る。
伝説も、美しさも、誰かに語られるほどのものが、自分という存在を支えている。その事実が、誇らしくて、どこか照れて、そして少しだけ今の自分を強くしてくれる気がしていた。
談話室の緑の光のなか――アルタイルは、父と母から受け継いだものの意味を、また静かに心に刻むのだった。
屋敷の空気がすうっと穏やかに沈む午後、アランはひとり、静かに奥の扉を開けた。
重たく装飾の施された木扉。その先にある部屋――そこは、かつてのシリウスの書斎だった。
誰も使わなくなって久しいはずの部屋には、それでもなお、確かに人の気配のようなものが残っていた。
それは埃の匂いでも、古い紙の香りでもない。
もっと繊細で、もっと親しい――懐かしさという名の匂いだった。
ゆっくりと一歩足を踏み入れると、床がきしむ音がした。
暦の止まった世界の中に、ほんのひと筋だけ風のようにアランが差し込んでいく。
視線の先には本棚、机、そして色褪せた革張りの椅子。
そこにはもうシリウスはいないのに、「彼が今もここにいる」と錯覚するほど、部屋全体には記憶が沈殿していた。
壁には剥がれかけたポスター、乱雑に並んだ見慣れた背表紙。
アランはそっと指先をのばし、一冊の背表紙の文字をなぞった。
――Quidditch Through the Ages
それは、少年だったシリウスが夢中になって読んでいた本。
(懐かしいわね)
思わず心のなかでつぶやいた言葉が、胸の奥に染みていく。
ここで、昔よく3人で遊んだ。
幼かった。自分も、レギュラスも、シリウスも。
屋敷をまるごと使ってのかくれんぼ。
シリウスとふたりしてこの書斎の奥に忍び込んでは、「絶対見つからない場所だ」と得意げに笑い合った。
自分が笑えば、シリウスも笑った。
自分が怖がれば、彼は必ず守るような言葉を口にした。
あのままずっと――この太陽みたいな人の隣を歩いていけるものだと、信じて疑わなかった。
気づけば指先が、開かれたままの一冊のノートに触れていた。
インクの染みに混じって、少し歪んだ筆跡がある。
そこには何も語られていないはずなのに、
確かに彼の息づかいが、言葉の隙間に宿っているような気がした。
小さく声を落とすようにして、心のなかで囁く。
「……シリウス。今でも、あなたは私のことを――愛してる?」
返事なんてあるはずないとわかっていた。
けれどその問いが、こぼれてしまうほどに、心に絡みついていた。
幼い日々のあたたかな残光。
すれ違ったまま戻らなかった季節。
過ちでも決断でもない、“ただ離れていった時間”が、幾重にも折り重なって切なさを編んでいた。
そして、返事のないその空間に、涙がするすると頬をつたった。
ひとしずく、そしてまたひとしずく。
背を丸めるようにして、アランはその涙を拭おうともしなかった。
誰にも見せられない、誰にも言えない想いがまだここにある。
時がどれほど流れても、
家族の形が変わっても、
名前が変わっても――
心の奥には、幼い日々に愛したままの記憶が、変わらず息づいている。
シリウスの書斎。
そこは、小さな少女の名残と、初めて知った愛と、
そして消えることのない想い出の棲む、静かな祈りの場所だった。
