3章
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ホグワーツの寮の書斎部屋、午後の光が斜めに差し込む静かな時間。
アルタイル・ブラックは机の上に広げられた便箋に、何度目かの視線を落としていた。
母からの手紙だった。
穏やかで、よく知った字。けれどどこか、いつもより少し丁寧に書かれているような気がした。
《長期休暇には、また屋敷で待っています。どんな日々を過ごしているのか、アルタイルの口からたくさん聞かせてね。楽しみにしています》
読み終えるたび、胸の中に暖かいものが広がっていく。
母は自分をいつもそっと包み込むように見守ってくれていた。
その温もりは、手紙の行間にも漏れ出ているようだった。
アルタイルは最近、ホグワーツの探検に余念がなかった。
深夜の天文台、霧の朝の湖畔、そして音もなく浮かぶゴーストたちの回廊。
その中で幾人かの幽霊が、ふと懐かしげにこう言った。
「君のお母様をよく覚えているよ。セシール家の麗しい娘。いつも誰かと一緒だったね――ああ、シリウス・ブラックと」
その言葉が、最初は霧のように流れていった。
けれど、あとからじわじわと胸にひっかかるように残って離れなかった。
母の隣に、いつも――シリウス・ブラックがいた?
あの、父がかつて「穢れた血に傾倒した裏切り者」として強く非難していた男が?
アルタイルの手が止まる。便箋の角に指を置いたまま、思考が深く沈んでいく。
父は、シリウス・ブラックの名を口にするたび目を細め、冷えた怒りをあらわにした。
血を裏切り、家を捨てた男だと。
すべてを拒絶した愚か者だと。
“あの男だけは赦せない”――そんな確かな憎しみが、父レギュラスの語調には常に滲んでいた。
その男が、昔は母の隣にいた。
――いったい、どんなふうに?
人づてに耳にする母の若き日の思い出話、
父の語る過去の正義、
ふたつの印象が微かに食い違っていく。
それは、アルタイルの中に“初めて芽生える大人の疑問”だった。
胸に灯る母への誇りと、父への尊敬――
そのどちらにも陰を落とすような曖昧な影が、今日ばかりは消えなかった。
振り返れば、セブン・フロアの廊下の壁に、
母のような輪郭をした肖像画がふと目を細めて微笑んでいる気がした。
その微笑みが、まるで “それでも真実はあなたの中にある” とでも言っているみたいで、
アルタイルは軽く唇を噛んだ。
便箋を丁寧に畳んで、箱にしまう。
母の言葉は、たしかに心に届いていた。
けれど今、彼の中で初めて――
“自分だけの視点でもっと知りたい”と思う気持ちが芽生えていた。
シリウス・ブラックとは誰だったのか。
母の隣で何を感じ、何を交わしていたのか。
父の怒りの源は何で、母の沈黙は何だったのか――
それを知ることが、きっと、自分自身を知る鍵になる気がした。
ホグワーツの空は深い青で満たされていた。
秋の風が長い外套を揺らし、石畳を葉がかすれ合う音だけが静かに響いている。
アルタイル・ブラックは、図書館で写し取った古い新聞の切り抜きを胸に収めながら、ひとり廊下を歩いていた。
向かう先は、母アランがよく通っていたとされる――かつて彼女と、若き日のシリウス・ブラックが並んで座っていたと言われた、塔の張り出し。
天文台の裏手にある、ほとんど誰にも使われていない小さな展望室だった。
そこはただ、小さな石のベンチと、うっすら苔のついた壁があるだけの、何でもない空間。
けれどそこに立つと、不思議なほど空が広く、近く見えた。
ここで母は、シリウスと星を見上げたのだろうか。
何度か、微笑んで。何度か、泣いたのだろうか。
残された幾つもの記憶――幽霊たちの語る断片。教師たちの何気ないひとこと。
「あのふたりは、あの年頃にしては妙に静かで……でも、どこか深い絆があった」
「誰にも壊せない間だったな。実ったかどうかはともかくとして」
耳に残る言葉たちが、じわじわと胸に沁みていった。
それを追いかけながらアルタイルは、きっと母は、シリウス・ブラックを愛していたのだろうと思った。
本人はその言葉を決して口にしなかった。
けれど、誰かが「思い出」という名で残してくれた記憶の中に、それは確かに感じ取れた。
そして――
シリウスもまた、母を守ろうとしていたのだろう。
“家族の外側”に飛び出してでも、彼女を。
“正しさ”ではなく、“大切なもの”を選んだ男だった、たぶん。
それを思いながら、自然と父の顔が浮かんだ。
かつて、レギュラスが兄シリウスをどれほど強く非難していたか。
「裏切り者」
「穢れに染まった男」
「家の面汚し」
そんな言葉をアルタイルは、幾度となく聞いてきた。
けれど――今はその奥に、違う理由が透けて見える気がした。
ただ思想への怒りだけではない。
きっと、母のことがあったのだ。
自分の傍にいる女性が、かつて自分ではない誰かと同じ時間を重ねていたという、その事実。
何かを共有し、何かを残しているという、それだけで抱ききれない感情があったのだろう。
そう考えると、アルタイルの胸には、ひとつの深い理解が降りてきたようだった。
完璧だと思っていた父。
強くて冷静で、揺らがない父。
でもその人も、きっとどこかで嫉妬を抱き、過去に囚われ、
ただの「ひとりの想う人」として、心を乱した時があったのだ。
それは、ただの大人ではない、ひとりの人間だったという証。
アルタイルは空を見上げた。
冷たい風が指のあいだをすり抜けていく。
気がつけば、今、母を理解したいと思うように、父をも理解したくなっていた。
誰よりも正しくあろうとした、愛に不器用すぎた大人を。
それは、子どもの視点では見えなかった景色だった。
でも、いまなら。わかる気が、していた。
彼の中で、父と母と“その名を避けられてきた男”が、
ようやく同じ光の中に、等しく浮かび上がりはじめていた。
それは静かな輪郭を持った、人間の記憶だった。
屋敷の廊下を、淡い午前の光が静かに照らしていた。
風のない午前、カーテンがゆっくりと揺れている。
少し肌寒くなり始めた季節、アランは窓辺の椅子に座り、膝に開いた本のページをめくることもなく、ただ庭先に視線を送っていた。
その目はどこか遠く、けれど確かに“その日”を見つめていた。
もうじき――アルタイルが帰ってくる。
その事実だけが、アランの心を静かに温めていた。
セレナも、兄の帰省を指折り数えていた。
朝起きてすぐ、ティールームのカレンダーを見上げながら、重なった小さな指で印をなぞるのが、ここ最近の日課だった。
「あとね、四つ寝たら、アルタイルが帰ってくるの!」
声に弾む喜びは、あまりにも素直で、小さな家の春のようだった。
アランは紅茶を注ぎながら、「そうね」と微笑み、その笑みにじんわりと胸の奥が温かくなる。
どんな土産話を抱えて帰ってくるのだろう。
どんな声の高さで、ホグワーツの出来事を語ってくれるだろうか。
――その光景を思い描くだけで、目尻がやわらかくなる。
けれどその温もりの裏に、ひとつだけ影のように残っていたものがある。
レギュラスとの――すれ違い。
あの夜、アリスの命を守ってほしいと懇願して以来、
ふたりの間に流れる空気が、どこかゆるやかに冷えていった。
言葉を交わしても、目の奥までは届かない。
すれ違う想いが積み重なり、ふと気づけば「寄り添おうとすること」すら遠慮し合うようになっていた。
アランは思う。
あれほど愛されていたのに。
そして、自分も確かに愛していたのに。
なぜこんなにも、たった一つの懇願から、
ふたりの距離は遠ざかってしまったのだろう。
だからこそ、アルタイルの帰省に、どこか強く期待してしまっている。
息子の帰りが、何かを整えてくれるような気がして。
家族という、かたちの皺をふたたびふくらませてくれるような気がして。
アランはそれを、自分の心の中で祈りのように思っていた。
心から会いたい。
胸を張って「おかえり」と言いたい。
そしてその声に、レギュラスが並んでくれたなら、それだけで十分だった。
風が、庭の柏の葉を揺らした。
ふとアランは立ち上がり、セレナの待つ部屋へと歩き出す。
彼女の指がまた、カレンダーの日付をなぞっているだろう時間。
「あと三つね」と、少し早めの答え合わせをしてやるつもりで。
その声に、ほんの少しでも家全体の空気がやわらぎますようにと、
アランは胸の奥でそっと願った。
今は、それがたった一つの希望だった。
失われかけた場所に、小さな“あたたかさ”をもう一度灯せるように。
キングズ・クロス駅の構内には、ホグワーツ特急を迎えに来た家族連れたちのざわめきが満ちていた。
汽笛の余韻と、真夏の陽射しが混ざるような空気の中――
アランはそっと、手を繋いでいるセレナの様子を横目で見た。
「もう、そろそろ、よね……!」
セレナは興奮を抑えきれずに、つないだ手を上下に揺らしている。
頬は桃色に上気して、その目はホームの先を一点に見つめていた。
レギュラスはアランと言葉少なにうなずき合いながら、反対側の手でセレナの小さな手を握っていた。
冷静な振る舞いを崩さない彼だったが、その手はわずかに熱を帯びていて、感情の高まりを隠しきれていないのがわかる。
そして――
蒸気をあげながら赤い機関車の脇に並んだ乗客の中を、ひときわ長めの脚が力強く地を踏む。
カートを弾くように押しながら、
少し背の伸びた少年がこちらへと歩いてくるのが見えた。
アルタイルだった。
黒に近いマントの裾が風になびき、
日の光を反射してきらめく駅の空気のなかで――
息子は、確かに「一歩、成長して帰ってきた」のだとアランは直感した。
カートの取っ手を片手で押さえ、もう片方の手を軽く上げる。
まっすぐに歩み寄ったその姿が、父親そのままに寡黙で、強く、そしてどこか誇り高かった。
「おかえり、アルタイル」
最初にレギュラスが言葉をかけた。
その声の低さには、まるで言葉以上の感情が宿っていた。
次の瞬間、息子はまるで遠慮のない少年らしさで、父の胸に飛びこんだ。
レギュラスは一瞬だけ硬直したが、すぐに懐深く腕をまわし、しっかりとその背を抱きとめた。
その様子を少し離れて見ていたアランが、目元に滲む涙を隠すように軽くまばたきをしてから、そっと口元を綻ばせて言った。
「……おかえりなさい、アルタイル」
声に微かな震えが混じる。
その瞬間、レギュラスに身を寄せていたアルタイルは身体を離し、母の元へ向かう。
アランは微笑みながらその身体を受けとめ、
ぎゅうと、懐かしさと安堵のすべてを込めてその背を抱いた。
「戻りました。父さん、母さん」
その口調は、まだ幼さの残る少年のものだったが、
思いの詰まった声の温度が、アランの胸に深く沁み渡った。
家族がひとつのかたちに満ちる瞬間。
その肩越しにアランがふと視線を移し――静かに見つめたのは、レギュラスの顔だった。
ここ最近では見たことのないほど、彼の表情はやわらかく、光の粒子を反射していた。
まるで、その厳しさも嫉妬も誇りも、すべてを一瞬だけ手放したような――“ただ、父”でしかない顔。
その輝きに、アランはそっと胸を撫で下ろす。
時が流れ、人が変わりゆく中でも、
ほんの一瞬、確かに“正しい愛のかたち”に触れた気がした。
ホームの喧騒はもう耳に届かず、
ただ静かに、帰る者と待つ者の間に、ぬくもりだけが満ちていた。
午後の陽射しが、絵画のようにやわらかく庭を包んでいた。
空気は澄んでいて、魔法の粒すら光を抱いて揺れているようだった。
アランは、屋敷の窓越しに穏やかなまなざしを向けていた。
視線の先、庭の芝を踏みしめているのはレギュラスとアルタイル。
父と子は向かい合い、杖を交えていた。
「エクスぺリアームス!」
風が小さくざわめき、呪文が軽やかに走る。
それをレギュラスが即座に受け流すと、アルタイルは悔しそうに眉を吊り上げた。
「いいぞ、アルタイル」
低く落ち着いた父の声が響いた瞬間、
少年の顔にははじけるような笑顔が浮かんだ。
誇らしさが杖を握る手にまで満ちていて、体全体から得意げな熱気が立ちのぼる。
その光景に、アランの胸は自然とあたたかく満たされていった。
彼らを包む午後の光が、ふたりを小さな結界に閉じ込めて見せてくれる。
そこには恐れも争いもなく、とても静かで、平和な時間が流れていた。
ああ、願わくば――。
このまま、この“遊び”のように笑い合える練習のままで、
杖が誰かを守るために振るわれるままであってほしい。
アランは、そう胸のなかで呟いた。
アルタイルはその手の中に受け継がれた杖を持っている。
それは誇りであり、力の象徴であり、そして――ときに、傷つける術ともなり得る。
けれど、今目の前で汗を光らせながら立つ息子は、
まだそのすべての意味を知らぬまま、ただ「父に褒められたい」という一心で杖を掲げている。
そしてレギュラスは、数歩さがりながら笑う。
「もう一度、構え直してみろ」
そのまなざしには、かつてアランがかつて共に探した少年の、
少し不器用で、まっすぐなやさしさがまだ残っていた。
窓辺のアランは、温かい紅茶が冷めてゆくのにも気づかないまま、
いつまでもその光景に目を奪われていた。
そして願っていた。
どうか。
どうか、あなたたちの手にあるその杖が、
未来の誰かを痛めるためではなく、
支えるためにだけ使われるように。
ふたりの距離が、決して戦いの線になることがありませんように。
その祈りは声にされることなく、
ただ、そっと胸の奥にしまわれたまま、もうしばらく陽の光の中に揺れていた。
オレンジ色の光が木々の葉を透かし、地面に柔らかな影を落としていた。
レギュラスとアルタイルは、火照った体を風で冷ますように、木陰のベンチに並んで座っていた。
先ほどまでふたりは決闘の練習をしていて、額にはまだ汗が残っている。
父に褒められることは、アルタイルにとって格別にうれしいことだった。
完璧で、隙がなくて、誰もが一目置く“レギュラス・ブラック”。
“なんでもそつなくこなしていた”と、ホグワーツでも家庭でも、父はいつだってそう語られる。
だからこそ、アルタイルはいつも思っていた。
――自分は、ほんとうに父と肩を並べることができているのだろうか。
――父がいた場所まで、ちゃんと到達できるだろうか。
不安は常に、名もない影のように背後にこびりついていた。
けれど今日、魔法の一閃が決まった瞬間、父の口からこぼれた「いいぞ」というひとことは、
そのすべてをふっと吹き飛ばしてくれるほど誇らしかったのだ。
しばらく黙って座っていたあと、アルタイルがふと声を上げた。
「……父さんは、いつから母さんを好きだったの?」
急だった。けれど、問いに宿った音は静かで、澄んでいた。
その言葉の裏には、ある種の“知りたさ”が潜んでいた。
父のシリウス・ブラックへの冷たい憎しみ。
あの感情が一体、いつから始まったのか――
それを知る鍵は、たぶん“アラン”にあるのだと、最近のアルタイルには分かりはじめていた。
すると、レギュラスは一瞬だけ視線を庭に流し、
照れくさそうに片手で額の汗を拭った。
「……いつでしょうね。ホグワーツに上がる、ずっと前からでしたよ」
そう言って、小さな笑みすら隠そうともせずに言葉を継いだ。
「ええ、もう……ずっと前から。僕は母さんしか見てませんでしたから」
その素直な告白に、アルタイルは率直に目を丸くした。
「そんなに前から……?」
驚きが滲んだけれど、それと同じくらい、少し微かに胸が詰まるような気持ちもあった。
いま父は、当たり前のように母を抱きしめ、家族として隣にいる。
けれどそれが、何年も何年も前から望んだことだったのだと知ると、
その尊さと、切なさとが、一緒くたになって胸に押し寄せてくる。
その時ふと、アルタイルの心に、ひとつの感覚がよぎった。
つまり、母がシリウスと日々を分かち合っていたホグワーツの頃――
父はもう、ずっと彼女を愛していて、
そしてそのそばにいるシリウスを、焦がれるほどに、嫉妬と悔しさで見つめていたのだろう。
思えば、父のシリウスに対する非難は、家の裏切りや理念だけには思えなかった。
それ以上に、どこか“個人的すぎる情熱”が混ざっていた。
父の瞳が、遠く過去を見るようにわずかに和らいでいた。
でも、その奥に宿るのは確かに“燃え尽きなかった感情”の光だと、アルタイルは気づいた。
憧れ、背負い、交わらなかった青春。
そのすべてを胸に閉じ込めて、
いま――母を選び、母ともに生きている。
アルタイルは、夕暮れに染まる空を見上げた。
その背丈の伸びた影が、父と並んで同じ長さになっていることに、ふと気づく。
父とは違う道を歩くだろう。
けれど、父の痛みや不器用さをこうして知ることができたこと――
それはきっと、アルタイルの中でなにかを強くしてくれる。
大人になるということは、
愛した人の矛盾も、静かに受け止めていくことなのかもしれない――。
そう思った。
黄昏が屋敷をやさしく包みはじめるころ、書斎にひとり残ったレギュラスは、少し開かれた窓に身を寄せて落ちる光を眺めていた。庭の先、木々の合間からゆったりと夜が訪れてくる。その深まりに合わせるように、胸の奥もゆっくりと降り積もってゆく――ある想いが、静かに。
_
朝、アルタイルに尋ねられたひとこと。
「父さんは、いつから母さんを好きだったの?」
その純粋すぎる問いかけが、こんなにも余韻を引いて残るとは思っていなかった。
だから、答えた。
素直に、嘘なく――照れくさくなるほどに率直に。
「ホグワーツに上がるずっと前からでしたよ」
そう告げたとき、少年は目を見開き、心から驚いてみせた。
その様子に少し口元が緩んだ。だが、思えば言葉にしてみて、改めて自分でも気がついたことがある。
それは、本当に長い時間を、アランと共に生きてきたのだなという実感だった。
アランへの想いは、もはや「気持ち」と呼べるものではなかった。
情熱というには静かすぎ、執着というには美しすぎた。
一種の“根”のように自分の内に絡みつき、自我を育む土台になっていた。
思考の端にアランがいる。
決断も、微かな苛立ちも、夜の沈黙も、どこか彼女を基点にして動いていた。
愛というだけでは、もはや語れない。
それは「人生」そのものだった。
だが――
そのすべてが、幸福だったとは言い難い。
いや、むしろ、苦しみのほうがずっと多かった。
何度も、心は嫉妬に染まった。
シリウスの存在。彼の横に並ぶアランの記憶。
微笑み。沈黙。気配。
そのどれを取っても、レギュラスのなかでは埋めようのない深い溝となっていた。
今も、アランの中にはきっと残っているだろう。
あの日のふたりの熱や、重ねられた過去。それを感じるから、苦しくてしかたがない。
どれほどの年月が経っても、見えない影は追い払えなかった。
焦がれて、焦がれるほど、自分は何を得たのだろう。
支配でも、安らぎでもないこの想いの果てに、
ただ自分だけが消耗し続けているのではないか――そんな疑念にさいなまれることさえある。
_
ふと――
レギュラスは、アルタイルの後ろ姿を思い浮かべた。
ホグワーツで過ごす日々のなかで、あの少年は間違いなく父と母の足跡を少しずつ辿りはじめている。
そして、おそらく、比べる日も来るだろう。若き日の母を、若き日のシリウスを……あるいは自分を。
それでも――願った。
どうか、アルタイルにはここまで苦しい想いを知ってほしくない。
_
愛という名の執着を、抱えることがないように。
その強さが美しく語られることがあったとしても、真実は、こんなにも心を喰むものなのだと、本人には決して表せないから。
「愛しすぎないことが、穏やかさを守る術だと……」
声には出さず、風の音にかき消された呟きが胸の内を満たした。
_
夕陽が入り込む書斎に、静かに影が落ちる。
レギュラスは目を閉じた。
その深い内側にある痛みさえも、
ひとつの光のかたちに変わる日が来るのだろうかと、
そんなことを、きっと誰にも見せないまま、ひとり静かに考えていた。
夕食の席には、暖かなランプの明かりが落ち着いた光を投げかけていた。
純白のリネンクロスが敷かれたテーブルに、家族五人が揃って座る。久しぶりの光景だった。
オリオンは新聞に軽く目を通しながら、ヴァルブルガは上品にナイフを動かしながら、それぞれが穏やかな表情を浮かべている。そんな中、アルタイルは少し緊張した面持ちで、ホグワーツでの出来事を語り始めた。
「図書館で、古い魔法史の本を見つけました。とても興味深くて……」
声は控えめだったが、その奥には確かな熱があった。
アランは手を膝に重ね、微笑みながらじっと息子の話に耳を傾けている。その表情は温かく、まるで宝物を見つめるように優しかった。
レギュラスもまた、フォークを置いて息子の方を向いている。いつもの厳格な表情とは違い、どこか誇らしげな光が瞳に宿っていた。
けれど、アルタイルの胸の内には、口にできない記憶がいくつも渦巻いていた。
母とシリウス・ブラックについて、ホグワーツで見聞きしたこと。
ゴーストたちが語った、ふたりの親密な関係。
図書館で見つけた古い写真に写っていた、並んで座る二人の姿。
それらはすべて、この食卓で語るべきものではなかった。
父に対して、なんだか悪い気がした。
あれほど純粋に母を愛している父に、かつて母が別の男性と深い絆を結んでいたことを告げるなど、あまりにも残酷だった。
そして母にとっても、秘めておきたいことのはず。
過去の恋は、今の家族の幸せを脅かすかもしれない。ましてや、オリオンやヴァルブルガの前でそんな話が明るみに出れば——想像するだけで、アルタイルは胸が締め付けられた。
だから、選んだのは他愛もない話ばかりだった。
「それから、天文台の望遠鏡で木星を観察しました。環がとても美しくて」
「ホグワーツの湖には、人魚が住んでいるんです。一度だけ、遠くから姿を見ることができました」
「寮の仲間たちとは、よく魔法史の勉強をしています。皆、とても優秀で刺激を受けます」
どれも嘘ではない。けれど、彼の心を最も占めていた発見については、一言も触れなかった。
アランは息子の話を聞きながら、その慎重な選択に気づいていた。
アルタイルが語る内容は確かに興味深いものだったが、どこか表面的で、本当に彼の心を動かしたであろう出来事については触れられていない。
それでも、彼女は何も問いただそうとはしなかった。息子なりの配慮があることを、母として理解していたから。
「素晴らしいですね、アルタイル。あなたがそうして学んでいる姿を想像するだけで、とても嬉しいわ」
その言葉に、アルタイルの表情がほころんだ。
レギュラスもまた、息子の成長を静かに誇りに思っていた。
話し方は慎重だが、内容は確実に深みを増している。きっと多くのことを学び、多くのことを考えているのだろう。
「あなたが真剣に学んでいることがよく分かります。誇らしく思いますよ、アルタイル」
父からの言葉に、アルタイルの胸は温かく満たされた。
それがとても嬉しかった。
たとえすべてを語れなくても、両親が自分を誇りに思ってくれている。その事実だけで、彼の心は十分に満たされた。
食事は和やかに続いた。
オリオンとヴァルブルガも時折質問を投げかけ、アルタイルは丁寧に答えていく。
その光景を見つめながら、アランは静かに思った。息子が何を知り、何を感じているのか——いつか、ふたりだけの時間に、彼の方から話してくれる日が来るかもしれない。
今は、この平和な時間を大切にしよう。そして、息子が自分なりに考え、自分なりの答えを見つけていくことを、静かに見守ろう。
ランプの光が、温かく家族を包み込んでいた。
夜が深まり、屋敷全体が静寂に包まれていた。
寝室の薄明かりが、ベッドサイドテーブルの上で小さく揺れている。
アランとレギュラスは並んでベッドに座っていた。いつもなら緊張を孕んでいた夜の空気が、今夜は不思議なほど穏やかだった。
レギュラスの表情には、ここ最近では珍しい和らぎがあった。硬く結ばれがちだった口元も、わずかに緩んでいる。
これも全て、アルタイルのおかげなのだろう。
アランは心の中でそう思った。自慢の息子との久しぶりの再会が、きっと彼の中の様々な感情に落ち着きをもたらしているのだ。
アリスの件で始まった静かな対立も、息子の帰還という大きな喜びの前では、一時的にせよ影を潜めているように見えた。
「アルタイルは……成長していますね」
アランが静かに口を開いた。その声には、母としての深い愛情と、少しの寂しさが混じっていた。
レギュラスは振り返ると、珍しく表情を和らげて頷いた。
「ええ、誇らしいですよ。本当に」
その言葉には、偽りのない父親としての誇りが込められていた。今夜の夕食での息子の話しぶり、庭での決闘練習での成長ぶり——すべてが、レギュラスの心を満たしていた。
「あの子の話を聞いていると」
アランは手を膝の上で重ねながら続けた。
「私たちが知らない世界で、しっかりと自分の足で歩いているのだなと感じます」
「そうですね」
レギュラスも同意した。
「慎重で、思慮深い。でも同時に、確固たる意志も感じられる」
ふたりの間に、久しぶりに穏やかな沈黙が流れた。それは対立でも緊張でもない、ただ息子への愛情を共有する、暖かな静寂だった。
月明かりが窓から差し込み、部屋を淡く照らしている。その光の中で、アランはレギュラスの横顔を見つめた。
最近、彼の表情はどこか疲れて見えることが多かった。アリスの件、任務の重圧、そして自分との関係の複雑さ——それらすべてが、彼の肩に重くのしかかっていることを、アランは理解していた。
でも今夜は違う。息子の存在が、彼に安らぎを与えているのが分かる。
この平和な時間が、少しでも長く続いてくれればいいのに。
アランはそう願いながら、静かに目を閉じた。
アルタイルという光が、一時的にせよ、この家に温かさを取り戻してくれている。そのことに、心から感謝していた。
外では風が木々を揺らし、屋敷を静かに包んでいる。この穏やかな夜が、ずっと続くことを祈りながら、アランは眠りの淵へと向かっていった。
レギュラスもまた、久しぶりに安らかな表情で、妻の隣で静かに目を閉じた。
朝の光が、緑いっぱいの庭に穏やかに差し込んでいた。
屋敷の正面玄関では、レギュラスが任務へと出発するところだった。
ブーツの音が石畳を打ち、クロークに身を包んだ彼の背には、いつもながらの静けさと誇りの影が落ちている。
けれど今朝は、その風景が少しだけ違っていた。
久しぶりに――家族が全員揃って、彼を見送っていたのだ。
アランは体に触れぬよう薄手のガウンを羽織り、
アルタイルは姿勢を正し、凛とした横顔で父を見送る。
セレナはその傍らで、手を振りながら小さな声で「行ってらっしゃい」と何度も告げていた。
レギュラスは一度その手を止め、セレナの頭を軽く撫でてから、
アランとアルタイルにさりげなく目を合わせ、静かに頷いてから背を向けた。
そして馬車のドアがひとつ、ゆっくりと閉じられる音が屋敷に残った。
扉が閉まるのとほぼ同時に、セレナが小さな身をくるりと振り向いた。
「ねえ、アルタイルお兄さま、今日は遊んでくれるんでしょう?」
曇りのない声とまなざしに、アルタイルは優しく眉を下ろしながらうなずいた。
「うん。今日は庭でふたりで遊ぼう。しっかりつきあうからね」
「やったあ!」
セレナは両手を高く上げて、文字通り声を上げて跳ね上がった。
その無邪気な姿を、アランは縁側から穏やかに見つめながらひとこと――
「……暑いわよ、セレナ。今日はとくに」
その声に、アルタイルがすぐに母を振り返る。
その視線のなかには、もう子どもではない、大人の気づかいが滲んでいた。
「母さんは部屋の中にいてください。……セレナもはしゃぎすぎないように、ちゃんと注意して見ておきますから」
その言葉の柔らかさに、アランは思わず微笑んだ。
本当によく、育ってくれた。
かつては小さな体で自分についてまわり、一言も見逃さぬように耳を澄ませていた息子。
それが今では、妹の手を引き、母を気遣う男の子に育っている。
でも――
その成長の陰にある理由を、アランは知っていた。
セレナを産んでからというもの、体調の波はどうしても避けられなかった。
特に季節の変わり目は、横になる時間が多くなる。
母としてやるべきことを、思い通りに果たせない夜も、悔しさに沈む日も少なくなかった。
でも、その度に――
アルタイルは自然と、横に立ってくれていた。
きっと誰に言われたわけでもなく、
母のまなざしだけを敏感に読み取って、
その手を、セレナや家の未来へと差し伸べていたのだ。
「ほんとうに……ありがとう、ね」
アランは声には出さなかった。
けれどその想いは、彼女の柔らかな微笑の中に、確かに宿っていた。
アルタイルとセレナのふたりの背が、やがて庭の芝へと走っていく。
風が揺らす草の音に混ざって、明るい笑い声がかすかに屋内へ届く。
その音を耳に入れながら、アランはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
子どもたちの声が響く庭は、今日も、平和な命のかたちで満たされている。
それだけで、今日のなかばは許された気がした。
胸の内にあふれる静かな幸せを抱きながら、アランは、そっと両手を重ねたまま目を閉じた。
午後の陽が、薄く白いレース越しに差し込み、ティーセットの縁を金色に撫でていた。
サロンの一角、アランはヴァルブルガと向かい合うかたちでテーブルにつき、ティーカップを静かに両手で包んでいた。
けれど指先には、わずかに緊張が滲んでいる。
カップの紅茶は香り高く、器に揺らぎもない――それでも、喉を通るそれは、妙に詰まる気がした。
「アルタイルは……立派ね」
ヴァルブルガが、陶器を置く音とともに言った。
淡々と、けれどその声音には隠しようのない誇りがこもっている。
アランは、間髪を入れずに返した。
「ええ……本当に、レギュラスによく似ています」
口元だけ微笑む。それがやっとだった。
「私が育てたのですから。当然ですよ」
ヴァルブルガはやや顎を持ち上げながら、ふっと鼻先で言葉を削った。
その言葉には、余計な照れや謙遜は一切ない。
あの子の血統も智慧も全て、私たちブラック家のもの――その当然の“証明”として、アルタイルの成長がここにあるのだ、とでも言いたげだった。
の指が、カップの取っ手からほんの一瞬だけ外れた。
ヴァルブルガの言葉を否定する理由はなかった。
たしかに彼女は、レギュラスに、アルタイルに、熱心に目をかけてきた。
けれど――
の胸には、言葉にしきれない重さが宿っていく。
その期待が、アルタイルという子どもに、静かに押しつけられているのではないかと。
そして、それに気づいてしまったセレナが、無意識にでも“疎外”を感じてしまうのではないかと。
そんな不安が頭から離れなかった。
セレナは昨日、兄と楽しそうに庭を走っていた。
けれど、その笑顔の中に、微かに何かを押し隠しているような影を、ふと見た気がしてならなかった。
「……セレナも、お兄さまが帰ってきたことを本当に喜んでいます。毎朝、あの子なりに、お茶の用意を手伝おうとしてくれて」
言い添えた言葉は、本心からだった。
けれどそれに、ヴァルブルガは興味を示さなかった。
紅茶を口に含みながら、小さく微笑んだまま視線は窓の外に移っていた。
そして――会話は、再びアルタイルのことへと戻ってゆく。
その話題の流れに、アランはうなずきながら徐々に胸を押しつけられていくような感覚を覚えていた。
セレナの名は、そこには呼ばれない。
まるで“彼女には未来がない”と無言で選別されているような錯覚すら与えられる。
もちろんヴァルブルガは、そんなことを悪意でしているわけではない。
けれど彼女の意識の中にある「後継ぎ」「家の名」「期待」というものは、
いつでも血統と、家柄と、男児であることを軸に据えていた。
だからこそ今、アルタイルが帰ってきたことは、
彼女にとっては「すべてが秩序通りに整った」という証だったのだろう。
けれど――
アランにとっての「家族」は、もっと不完全で、もっと混ざり合っていて、
ときに、あいまいで、けれどあたたかいものだった。
アルタイルを誇ることと、セレナを慈しむことは、
決して“天秤にかける”ようなものではないはずだ。
それをうまく伝えられないまま、
アランは半分冷めかけた紅茶を口に運び、
誰にも気づかれないよう、そっとまぶたを伏せた。
この家では、まだ。
そうした想いを「言葉にして叶える」には、もう少しだけ時間が必要なのだろう。
だからこそ、今日はまだ――
ただ静かにうなずいて、微笑むだけに留めた。
胸の奥で静かに、セレナの笑顔だけを灯すように。
紅茶の湯気が白く立ち上がる中、アランの手がわずかに止まった。
ヴァルブルガの次の言葉が、予想していた通りに響いてきたからだった。
「……もう、このブラック家に、アルタイルのような優秀な血が望めないことは、とても残念ですわ」
その声は静かだったが、その奥には明確な失望が込められていた。
アランは、カップを唇に当てたまま固まった。
毎回この話になると、どこか消えてしまいたくなる。
心臓の鼓動が早くなる。頬が熱くなる。けれど、表情には出さないよう必死に自制していた。
なんと答えればいいのだろう。
何が正解なのだろう。
「そうですね、私の体では……」と自分を責めるべきなのか。
それとも、「どこか外から純血貴族の令嬢でも迎えたらいかがでしょう」とでも口にすれば良いのか。
アランの脳裏に、あの夜のことが蘇った。
オズワルド家の令嬢を屋敷に招いた、あの出来事。
彼女は美しく、品があり、家柄も申し分なかった。けれど、レギュラスは手をつけなかった。一夜を過ごすこともなく、丁重に帰らせた。
その事実が、オリオンやヴァルブルガの中で、アランがレギュラスを縛っているからという印象を強めているのだろう。
「私が……」
アランが口を開きかけて、止まった。
何を言おうとしていたのか、自分でもわからなくなった。謝罪なのか、弁解なのか、それとも諦めの言葉なのか。
ヴァルブルガは、アランの沈黙を見つめていた。その視線には、同情と、どこかしら冷たい分析の光が混じっている。
「あなたを責めているわけではありませんのよ、アラン」
けれど、その言葉の響きには、明らかに「責めている」という感情が滲んでいた。
「ただ……家の将来を考えると、どうしても……」
アランは静かに紅茶を飲み干した。
その液体は、もう温かくもなんともなかった。ただ苦いだけの、冷めた現実のような味がした。
胸の奥で、小さく何かが軋む音がした。
それは自尊心なのか、それとも愛情なのか。
あるいは、ただの疲労なのか。
「……はい」
結局、それだけしか言えなかった。
自分は、この家にとって何なのだろう。
愛される妻なのか、それとも期待に応えられなかった重荷なのか。
その答えを見つけるには、あまりにも複雑すぎる現実が、ティーカップの底に沈んでいた。
庭で遊ぶセレナの笑い声が遠く響く中、アルタイルは屋敷の二階の窓辺に立っていた。
下を見下ろすと、母アランがヴァルブルガと向かい合って座っているのが見える。その光景を、彼は静かに見つめていた。
母の肩が、わずかに縮こまっているのがわかる。
ティーカップを持つ手も、いつもより硬い。
また、あの話をされているのだろう。
アルタイルには、すべてがわかっていた。
母の体が、もう昔ほどではないこと。
セレナが生まれてから、それは嫌というほど理解した。
熱を出して寝込む日が増えた。食事の席に現れない朝があった。笑顔の奥に、疲れの影が宿るようになった。
本当は、まだまだ母に甘えていたかった。
膝の上に座って、本を読んでもらいたかった。
困ったときには「お母さん」と呼んで、すぐに駆け寄ってもらいたかった。
けれど、目に見えて弱っていく母の前で、ワガママはいつの間にか言えなくなった。
そして、アルタイルは知っている。
オリオンとヴァルブルガが、母にもう一人の息子——弟を期待していることも。
その期待に応えられない母が、どれほど心を痛めているかということも。
アランはもう、弟を産み落としてくれるほどの気力はないだろう。
それは、誰の目にも明らかだった。
だからこそ、祖父母の落胆も深い。そして、その重圧のすべてが、静かに母の肩にのしかかっている。
けれど、これ以上母を責めないでほしい。
アルタイルの胸に、静かな怒りが宿った。
母は誰よりも優しくて、慈愛に満ちた人だ。
きっと色々なことを飲み込んで、たくさんのものを諦めて、この家にあり続けてくれているはずだ。
自分の幸せよりも、家族の平和を選んで。
自分の体調よりも、家の期待に応えようとして。
そんな母を見ていると、胸が締め付けられる。
だから、思う。
自分だけでも、しっかりとこのブラック家を継いでいけることを証明したい。
オリオンとヴァルブルガを安心させることができれば、母への圧力も少しは和らぐかもしれない。
ホグワーツでの成績を上げること。
魔法の技術を磨くこと。
品格のある振る舞いを身につけること。
すべてを完璧にこなして、「アルタイル一人で十分だ」と思ってもらえるように。
窓の下で、母がヴァルブルガに静かに頭を下げるのが見えた。
その姿に、アルタイルの決意はより一層固くなった。
母を守りたい。
母に安らぎを与えたい。
そのためなら、どんなに重い期待でも背負ってみせる。
どんなに完璧を求められても、それに応えてみせる。
少年の瞳に、静かな炎が宿っていた。それは愛する人を守るための、誰にも消すことのできない光だった。
庭からセレナの声が聞こえてくる。母を呼ぶ、無邪気な声。
その声に、アルタイルは静かに微笑んだ。
この平和を守るために、自分がすべきことがある。
窓辺を離れ、彼は自分の部屋へと向かった。勉強すべき本が、机の上で彼を待っている。
夜が深まった寝室は、静寂に包まれていた。
月の光が薄いカーテン越しに差し込み、ベッドサイドテーブルの上の水差しを淡く照らしている。
アランは、ベッドの端に座ったまま、膝の上で手を重ねていた。
胸の奥で、ヴァルブルガとの会話が何度も反芻されている。
もう一度、この家に男児を産めたら——
その想いが、今夜は特に強く胸を占めていた。
ヴァルブルガとの話がきっかけではあったが、本当はずっと昔から思っていたことだった。
セレナを愛していないわけではない。あの子は自分の宝物だった。けれど、この家では——ブラック家では、やはり男児が望まれてしまう。それは否定しようのない現実だった。
家を継ぐもの。名を残すもの。血筋を繋ぐもの。
すべてが男児にかかっている。そして、アルタイル一人では、あまりにも重荷が大きすぎる。
けれど——
アランの手が、自分の腹部にそっと触れた。
万が一のことがあれば、まだ幼いセレナを、学び途中のアルタイルを遺していかなければならない。
その恐怖が、どうしても踏み切れない要因だった。体調の不安定さは、日に日に増している。もうあの頃ほど若くもない。出産という大きな負担に、今の身体が耐えられるのだろうか。
でも——
奇跡は起こるかもしれない。
医者は難しいと言った。けれど、絶対に不可能だとは言わなかった。もしかしたら、もしかしたら——
その小さな希望に、すがりたい気持ちがあった。
隣では、レギュラスが静かに本を読んでいた。
集中している横顔は、いつものように穏やかで美しい。
アランは、静かに身体を動かした。
そっと、レギュラスの方へ寄り添うように。
彼の肩に頬を寄せ、腕に自分の手を重ねる。その温もりが、不安に震える心を少しだけ落ち着かせてくれた。
レギュラスは本から目を離し、アランを見下ろした。
「どうかしましたか?」
その声は優しかった。いつものように、彼女を大切にしようとする気持ちが込められている。
「……何でもありません」
アランは小さく微笑んで答えた。
でも、心の奥では静かに祈っていた。
もう一度、この愛の証を形にできますように。
この家に、新しい光をもたらせますように。
そして——その挑戦が、家族を失う結果にならないように。
レギュラスの腕の中で、アランは目を閉じた。
明日への小さな希望を胸に抱きながら、静かに彼の鼓動に耳を澄ませていた。
奇跡を信じたい。そんな気持ちが、月明かりの中で静かに燃えていた。
夜はさらに深まり、寝室の空気は肌に触れるのも惜しまれるほど静けさに満ちていた。
月光はカーテン越しに滲んで、揺れる影を壁に映す。
その中で、レギュラスはアランの身体をそっと腕の内に引き寄せていた。
彼女のやわらかな気配、呼吸、手のひらのぬくもり。
それらがすべて、今夜は言葉以上のものを語っている。
たしかに。――理由があるのはわかっていた。
アランが自分からこちらを誘うような仕草を見せたとき、
その背後に何かしらの「強い意志」があることを、レギュラスは本能で察していた。
医師の診断など、とうに出ていた。
もう難しい――
それはレギュラス自身も、アランの弱っていく身体を見て、とうに理解していた現実だった。
だからこそ、かつては思った。
これ以上、彼女を傷つけることがあってはならない。
命を先の未来と引き換えにはできない、と。
なのに――今夜。
アランがそっと寄ってきたその瞬間。
すべての理性が、一瞬で吹き飛んだ。
――触れたい。
そう思ったときには、すでに手が彼女の背を撫でていた。
燃えるような衝動とあたたかな懐かしさが、いっぺんに押し寄せる。
心臓の鼓動が跳ね上がったまま収まらない。
頬に触れる髪の感触、喉元へ落とした口づけ。
アランが静かに息を吸えば、それが自分をひどく揺らす。
もう、そのときには────
彼女が「どうして」誘ってきたのか、なんてことは、どうでも良くなっていた。
思考はすでに霞み、残されたのはただ――愛しさだった。
アランに本気で触れるとき、レギュラスは必ず、傷つけないようにと、
極端に手を緩めるクセがあった。
けれど今夜だけは、どこかで堰が崩れていた。
彼女がそれを望んでいると感じてしまったから。
彼女の方から受け入れにきたということが、それほどまでに、自分にとって幸福で、狂おしいほどの喜びだったのだ。
もし万が一、アランがまた身籠ったとしたら。
自分はどうするべきだろう?
そんな疑問が、ほんの一瞬、脳裏をかすめた。
けれど、それすらもすぐに掻き消された。
そんな未来のことは、その時に考えればいい。
今はただ、目の前にある命を、愛する。
この腕の中にいてくれる奇跡を、ひたすらに刻みつける。
それだけで、世界はふたたび意味を持った。
アランがゆっくりと目を閉じた。
手が彼の肩にまわり、呼吸がひとつ重なる。
レギュラスは、まるで少年のようにそのすべてに夢中だった。
若き日にこの世でもっとも美しいと感じた存在が、
今もこうして自分の腕の中にいるという、たった一点の事実に救われていた。
彼女の温もりは、確かにレギュラスの心も、欲も、祈りも、全部を満たしてくれる。
それ以外のことは、もう何も要らなかった。
今夜の彼は、ただそれだけで――十分すぎるほど幸福だった。
アルタイル・ブラックは机の上に広げられた便箋に、何度目かの視線を落としていた。
母からの手紙だった。
穏やかで、よく知った字。けれどどこか、いつもより少し丁寧に書かれているような気がした。
《長期休暇には、また屋敷で待っています。どんな日々を過ごしているのか、アルタイルの口からたくさん聞かせてね。楽しみにしています》
読み終えるたび、胸の中に暖かいものが広がっていく。
母は自分をいつもそっと包み込むように見守ってくれていた。
その温もりは、手紙の行間にも漏れ出ているようだった。
アルタイルは最近、ホグワーツの探検に余念がなかった。
深夜の天文台、霧の朝の湖畔、そして音もなく浮かぶゴーストたちの回廊。
その中で幾人かの幽霊が、ふと懐かしげにこう言った。
「君のお母様をよく覚えているよ。セシール家の麗しい娘。いつも誰かと一緒だったね――ああ、シリウス・ブラックと」
その言葉が、最初は霧のように流れていった。
けれど、あとからじわじわと胸にひっかかるように残って離れなかった。
母の隣に、いつも――シリウス・ブラックがいた?
あの、父がかつて「穢れた血に傾倒した裏切り者」として強く非難していた男が?
アルタイルの手が止まる。便箋の角に指を置いたまま、思考が深く沈んでいく。
父は、シリウス・ブラックの名を口にするたび目を細め、冷えた怒りをあらわにした。
血を裏切り、家を捨てた男だと。
すべてを拒絶した愚か者だと。
“あの男だけは赦せない”――そんな確かな憎しみが、父レギュラスの語調には常に滲んでいた。
その男が、昔は母の隣にいた。
――いったい、どんなふうに?
人づてに耳にする母の若き日の思い出話、
父の語る過去の正義、
ふたつの印象が微かに食い違っていく。
それは、アルタイルの中に“初めて芽生える大人の疑問”だった。
胸に灯る母への誇りと、父への尊敬――
そのどちらにも陰を落とすような曖昧な影が、今日ばかりは消えなかった。
振り返れば、セブン・フロアの廊下の壁に、
母のような輪郭をした肖像画がふと目を細めて微笑んでいる気がした。
その微笑みが、まるで “それでも真実はあなたの中にある” とでも言っているみたいで、
アルタイルは軽く唇を噛んだ。
便箋を丁寧に畳んで、箱にしまう。
母の言葉は、たしかに心に届いていた。
けれど今、彼の中で初めて――
“自分だけの視点でもっと知りたい”と思う気持ちが芽生えていた。
シリウス・ブラックとは誰だったのか。
母の隣で何を感じ、何を交わしていたのか。
父の怒りの源は何で、母の沈黙は何だったのか――
それを知ることが、きっと、自分自身を知る鍵になる気がした。
ホグワーツの空は深い青で満たされていた。
秋の風が長い外套を揺らし、石畳を葉がかすれ合う音だけが静かに響いている。
アルタイル・ブラックは、図書館で写し取った古い新聞の切り抜きを胸に収めながら、ひとり廊下を歩いていた。
向かう先は、母アランがよく通っていたとされる――かつて彼女と、若き日のシリウス・ブラックが並んで座っていたと言われた、塔の張り出し。
天文台の裏手にある、ほとんど誰にも使われていない小さな展望室だった。
そこはただ、小さな石のベンチと、うっすら苔のついた壁があるだけの、何でもない空間。
けれどそこに立つと、不思議なほど空が広く、近く見えた。
ここで母は、シリウスと星を見上げたのだろうか。
何度か、微笑んで。何度か、泣いたのだろうか。
残された幾つもの記憶――幽霊たちの語る断片。教師たちの何気ないひとこと。
「あのふたりは、あの年頃にしては妙に静かで……でも、どこか深い絆があった」
「誰にも壊せない間だったな。実ったかどうかはともかくとして」
耳に残る言葉たちが、じわじわと胸に沁みていった。
それを追いかけながらアルタイルは、きっと母は、シリウス・ブラックを愛していたのだろうと思った。
本人はその言葉を決して口にしなかった。
けれど、誰かが「思い出」という名で残してくれた記憶の中に、それは確かに感じ取れた。
そして――
シリウスもまた、母を守ろうとしていたのだろう。
“家族の外側”に飛び出してでも、彼女を。
“正しさ”ではなく、“大切なもの”を選んだ男だった、たぶん。
それを思いながら、自然と父の顔が浮かんだ。
かつて、レギュラスが兄シリウスをどれほど強く非難していたか。
「裏切り者」
「穢れに染まった男」
「家の面汚し」
そんな言葉をアルタイルは、幾度となく聞いてきた。
けれど――今はその奥に、違う理由が透けて見える気がした。
ただ思想への怒りだけではない。
きっと、母のことがあったのだ。
自分の傍にいる女性が、かつて自分ではない誰かと同じ時間を重ねていたという、その事実。
何かを共有し、何かを残しているという、それだけで抱ききれない感情があったのだろう。
そう考えると、アルタイルの胸には、ひとつの深い理解が降りてきたようだった。
完璧だと思っていた父。
強くて冷静で、揺らがない父。
でもその人も、きっとどこかで嫉妬を抱き、過去に囚われ、
ただの「ひとりの想う人」として、心を乱した時があったのだ。
それは、ただの大人ではない、ひとりの人間だったという証。
アルタイルは空を見上げた。
冷たい風が指のあいだをすり抜けていく。
気がつけば、今、母を理解したいと思うように、父をも理解したくなっていた。
誰よりも正しくあろうとした、愛に不器用すぎた大人を。
それは、子どもの視点では見えなかった景色だった。
でも、いまなら。わかる気が、していた。
彼の中で、父と母と“その名を避けられてきた男”が、
ようやく同じ光の中に、等しく浮かび上がりはじめていた。
それは静かな輪郭を持った、人間の記憶だった。
屋敷の廊下を、淡い午前の光が静かに照らしていた。
風のない午前、カーテンがゆっくりと揺れている。
少し肌寒くなり始めた季節、アランは窓辺の椅子に座り、膝に開いた本のページをめくることもなく、ただ庭先に視線を送っていた。
その目はどこか遠く、けれど確かに“その日”を見つめていた。
もうじき――アルタイルが帰ってくる。
その事実だけが、アランの心を静かに温めていた。
セレナも、兄の帰省を指折り数えていた。
朝起きてすぐ、ティールームのカレンダーを見上げながら、重なった小さな指で印をなぞるのが、ここ最近の日課だった。
「あとね、四つ寝たら、アルタイルが帰ってくるの!」
声に弾む喜びは、あまりにも素直で、小さな家の春のようだった。
アランは紅茶を注ぎながら、「そうね」と微笑み、その笑みにじんわりと胸の奥が温かくなる。
どんな土産話を抱えて帰ってくるのだろう。
どんな声の高さで、ホグワーツの出来事を語ってくれるだろうか。
――その光景を思い描くだけで、目尻がやわらかくなる。
けれどその温もりの裏に、ひとつだけ影のように残っていたものがある。
レギュラスとの――すれ違い。
あの夜、アリスの命を守ってほしいと懇願して以来、
ふたりの間に流れる空気が、どこかゆるやかに冷えていった。
言葉を交わしても、目の奥までは届かない。
すれ違う想いが積み重なり、ふと気づけば「寄り添おうとすること」すら遠慮し合うようになっていた。
アランは思う。
あれほど愛されていたのに。
そして、自分も確かに愛していたのに。
なぜこんなにも、たった一つの懇願から、
ふたりの距離は遠ざかってしまったのだろう。
だからこそ、アルタイルの帰省に、どこか強く期待してしまっている。
息子の帰りが、何かを整えてくれるような気がして。
家族という、かたちの皺をふたたびふくらませてくれるような気がして。
アランはそれを、自分の心の中で祈りのように思っていた。
心から会いたい。
胸を張って「おかえり」と言いたい。
そしてその声に、レギュラスが並んでくれたなら、それだけで十分だった。
風が、庭の柏の葉を揺らした。
ふとアランは立ち上がり、セレナの待つ部屋へと歩き出す。
彼女の指がまた、カレンダーの日付をなぞっているだろう時間。
「あと三つね」と、少し早めの答え合わせをしてやるつもりで。
その声に、ほんの少しでも家全体の空気がやわらぎますようにと、
アランは胸の奥でそっと願った。
今は、それがたった一つの希望だった。
失われかけた場所に、小さな“あたたかさ”をもう一度灯せるように。
キングズ・クロス駅の構内には、ホグワーツ特急を迎えに来た家族連れたちのざわめきが満ちていた。
汽笛の余韻と、真夏の陽射しが混ざるような空気の中――
アランはそっと、手を繋いでいるセレナの様子を横目で見た。
「もう、そろそろ、よね……!」
セレナは興奮を抑えきれずに、つないだ手を上下に揺らしている。
頬は桃色に上気して、その目はホームの先を一点に見つめていた。
レギュラスはアランと言葉少なにうなずき合いながら、反対側の手でセレナの小さな手を握っていた。
冷静な振る舞いを崩さない彼だったが、その手はわずかに熱を帯びていて、感情の高まりを隠しきれていないのがわかる。
そして――
蒸気をあげながら赤い機関車の脇に並んだ乗客の中を、ひときわ長めの脚が力強く地を踏む。
カートを弾くように押しながら、
少し背の伸びた少年がこちらへと歩いてくるのが見えた。
アルタイルだった。
黒に近いマントの裾が風になびき、
日の光を反射してきらめく駅の空気のなかで――
息子は、確かに「一歩、成長して帰ってきた」のだとアランは直感した。
カートの取っ手を片手で押さえ、もう片方の手を軽く上げる。
まっすぐに歩み寄ったその姿が、父親そのままに寡黙で、強く、そしてどこか誇り高かった。
「おかえり、アルタイル」
最初にレギュラスが言葉をかけた。
その声の低さには、まるで言葉以上の感情が宿っていた。
次の瞬間、息子はまるで遠慮のない少年らしさで、父の胸に飛びこんだ。
レギュラスは一瞬だけ硬直したが、すぐに懐深く腕をまわし、しっかりとその背を抱きとめた。
その様子を少し離れて見ていたアランが、目元に滲む涙を隠すように軽くまばたきをしてから、そっと口元を綻ばせて言った。
「……おかえりなさい、アルタイル」
声に微かな震えが混じる。
その瞬間、レギュラスに身を寄せていたアルタイルは身体を離し、母の元へ向かう。
アランは微笑みながらその身体を受けとめ、
ぎゅうと、懐かしさと安堵のすべてを込めてその背を抱いた。
「戻りました。父さん、母さん」
その口調は、まだ幼さの残る少年のものだったが、
思いの詰まった声の温度が、アランの胸に深く沁み渡った。
家族がひとつのかたちに満ちる瞬間。
その肩越しにアランがふと視線を移し――静かに見つめたのは、レギュラスの顔だった。
ここ最近では見たことのないほど、彼の表情はやわらかく、光の粒子を反射していた。
まるで、その厳しさも嫉妬も誇りも、すべてを一瞬だけ手放したような――“ただ、父”でしかない顔。
その輝きに、アランはそっと胸を撫で下ろす。
時が流れ、人が変わりゆく中でも、
ほんの一瞬、確かに“正しい愛のかたち”に触れた気がした。
ホームの喧騒はもう耳に届かず、
ただ静かに、帰る者と待つ者の間に、ぬくもりだけが満ちていた。
午後の陽射しが、絵画のようにやわらかく庭を包んでいた。
空気は澄んでいて、魔法の粒すら光を抱いて揺れているようだった。
アランは、屋敷の窓越しに穏やかなまなざしを向けていた。
視線の先、庭の芝を踏みしめているのはレギュラスとアルタイル。
父と子は向かい合い、杖を交えていた。
「エクスぺリアームス!」
風が小さくざわめき、呪文が軽やかに走る。
それをレギュラスが即座に受け流すと、アルタイルは悔しそうに眉を吊り上げた。
「いいぞ、アルタイル」
低く落ち着いた父の声が響いた瞬間、
少年の顔にははじけるような笑顔が浮かんだ。
誇らしさが杖を握る手にまで満ちていて、体全体から得意げな熱気が立ちのぼる。
その光景に、アランの胸は自然とあたたかく満たされていった。
彼らを包む午後の光が、ふたりを小さな結界に閉じ込めて見せてくれる。
そこには恐れも争いもなく、とても静かで、平和な時間が流れていた。
ああ、願わくば――。
このまま、この“遊び”のように笑い合える練習のままで、
杖が誰かを守るために振るわれるままであってほしい。
アランは、そう胸のなかで呟いた。
アルタイルはその手の中に受け継がれた杖を持っている。
それは誇りであり、力の象徴であり、そして――ときに、傷つける術ともなり得る。
けれど、今目の前で汗を光らせながら立つ息子は、
まだそのすべての意味を知らぬまま、ただ「父に褒められたい」という一心で杖を掲げている。
そしてレギュラスは、数歩さがりながら笑う。
「もう一度、構え直してみろ」
そのまなざしには、かつてアランがかつて共に探した少年の、
少し不器用で、まっすぐなやさしさがまだ残っていた。
窓辺のアランは、温かい紅茶が冷めてゆくのにも気づかないまま、
いつまでもその光景に目を奪われていた。
そして願っていた。
どうか。
どうか、あなたたちの手にあるその杖が、
未来の誰かを痛めるためではなく、
支えるためにだけ使われるように。
ふたりの距離が、決して戦いの線になることがありませんように。
その祈りは声にされることなく、
ただ、そっと胸の奥にしまわれたまま、もうしばらく陽の光の中に揺れていた。
オレンジ色の光が木々の葉を透かし、地面に柔らかな影を落としていた。
レギュラスとアルタイルは、火照った体を風で冷ますように、木陰のベンチに並んで座っていた。
先ほどまでふたりは決闘の練習をしていて、額にはまだ汗が残っている。
父に褒められることは、アルタイルにとって格別にうれしいことだった。
完璧で、隙がなくて、誰もが一目置く“レギュラス・ブラック”。
“なんでもそつなくこなしていた”と、ホグワーツでも家庭でも、父はいつだってそう語られる。
だからこそ、アルタイルはいつも思っていた。
――自分は、ほんとうに父と肩を並べることができているのだろうか。
――父がいた場所まで、ちゃんと到達できるだろうか。
不安は常に、名もない影のように背後にこびりついていた。
けれど今日、魔法の一閃が決まった瞬間、父の口からこぼれた「いいぞ」というひとことは、
そのすべてをふっと吹き飛ばしてくれるほど誇らしかったのだ。
しばらく黙って座っていたあと、アルタイルがふと声を上げた。
「……父さんは、いつから母さんを好きだったの?」
急だった。けれど、問いに宿った音は静かで、澄んでいた。
その言葉の裏には、ある種の“知りたさ”が潜んでいた。
父のシリウス・ブラックへの冷たい憎しみ。
あの感情が一体、いつから始まったのか――
それを知る鍵は、たぶん“アラン”にあるのだと、最近のアルタイルには分かりはじめていた。
すると、レギュラスは一瞬だけ視線を庭に流し、
照れくさそうに片手で額の汗を拭った。
「……いつでしょうね。ホグワーツに上がる、ずっと前からでしたよ」
そう言って、小さな笑みすら隠そうともせずに言葉を継いだ。
「ええ、もう……ずっと前から。僕は母さんしか見てませんでしたから」
その素直な告白に、アルタイルは率直に目を丸くした。
「そんなに前から……?」
驚きが滲んだけれど、それと同じくらい、少し微かに胸が詰まるような気持ちもあった。
いま父は、当たり前のように母を抱きしめ、家族として隣にいる。
けれどそれが、何年も何年も前から望んだことだったのだと知ると、
その尊さと、切なさとが、一緒くたになって胸に押し寄せてくる。
その時ふと、アルタイルの心に、ひとつの感覚がよぎった。
つまり、母がシリウスと日々を分かち合っていたホグワーツの頃――
父はもう、ずっと彼女を愛していて、
そしてそのそばにいるシリウスを、焦がれるほどに、嫉妬と悔しさで見つめていたのだろう。
思えば、父のシリウスに対する非難は、家の裏切りや理念だけには思えなかった。
それ以上に、どこか“個人的すぎる情熱”が混ざっていた。
父の瞳が、遠く過去を見るようにわずかに和らいでいた。
でも、その奥に宿るのは確かに“燃え尽きなかった感情”の光だと、アルタイルは気づいた。
憧れ、背負い、交わらなかった青春。
そのすべてを胸に閉じ込めて、
いま――母を選び、母ともに生きている。
アルタイルは、夕暮れに染まる空を見上げた。
その背丈の伸びた影が、父と並んで同じ長さになっていることに、ふと気づく。
父とは違う道を歩くだろう。
けれど、父の痛みや不器用さをこうして知ることができたこと――
それはきっと、アルタイルの中でなにかを強くしてくれる。
大人になるということは、
愛した人の矛盾も、静かに受け止めていくことなのかもしれない――。
そう思った。
黄昏が屋敷をやさしく包みはじめるころ、書斎にひとり残ったレギュラスは、少し開かれた窓に身を寄せて落ちる光を眺めていた。庭の先、木々の合間からゆったりと夜が訪れてくる。その深まりに合わせるように、胸の奥もゆっくりと降り積もってゆく――ある想いが、静かに。
_
朝、アルタイルに尋ねられたひとこと。
「父さんは、いつから母さんを好きだったの?」
その純粋すぎる問いかけが、こんなにも余韻を引いて残るとは思っていなかった。
だから、答えた。
素直に、嘘なく――照れくさくなるほどに率直に。
「ホグワーツに上がるずっと前からでしたよ」
そう告げたとき、少年は目を見開き、心から驚いてみせた。
その様子に少し口元が緩んだ。だが、思えば言葉にしてみて、改めて自分でも気がついたことがある。
それは、本当に長い時間を、アランと共に生きてきたのだなという実感だった。
アランへの想いは、もはや「気持ち」と呼べるものではなかった。
情熱というには静かすぎ、執着というには美しすぎた。
一種の“根”のように自分の内に絡みつき、自我を育む土台になっていた。
思考の端にアランがいる。
決断も、微かな苛立ちも、夜の沈黙も、どこか彼女を基点にして動いていた。
愛というだけでは、もはや語れない。
それは「人生」そのものだった。
だが――
そのすべてが、幸福だったとは言い難い。
いや、むしろ、苦しみのほうがずっと多かった。
何度も、心は嫉妬に染まった。
シリウスの存在。彼の横に並ぶアランの記憶。
微笑み。沈黙。気配。
そのどれを取っても、レギュラスのなかでは埋めようのない深い溝となっていた。
今も、アランの中にはきっと残っているだろう。
あの日のふたりの熱や、重ねられた過去。それを感じるから、苦しくてしかたがない。
どれほどの年月が経っても、見えない影は追い払えなかった。
焦がれて、焦がれるほど、自分は何を得たのだろう。
支配でも、安らぎでもないこの想いの果てに、
ただ自分だけが消耗し続けているのではないか――そんな疑念にさいなまれることさえある。
_
ふと――
レギュラスは、アルタイルの後ろ姿を思い浮かべた。
ホグワーツで過ごす日々のなかで、あの少年は間違いなく父と母の足跡を少しずつ辿りはじめている。
そして、おそらく、比べる日も来るだろう。若き日の母を、若き日のシリウスを……あるいは自分を。
それでも――願った。
どうか、アルタイルにはここまで苦しい想いを知ってほしくない。
_
愛という名の執着を、抱えることがないように。
その強さが美しく語られることがあったとしても、真実は、こんなにも心を喰むものなのだと、本人には決して表せないから。
「愛しすぎないことが、穏やかさを守る術だと……」
声には出さず、風の音にかき消された呟きが胸の内を満たした。
_
夕陽が入り込む書斎に、静かに影が落ちる。
レギュラスは目を閉じた。
その深い内側にある痛みさえも、
ひとつの光のかたちに変わる日が来るのだろうかと、
そんなことを、きっと誰にも見せないまま、ひとり静かに考えていた。
夕食の席には、暖かなランプの明かりが落ち着いた光を投げかけていた。
純白のリネンクロスが敷かれたテーブルに、家族五人が揃って座る。久しぶりの光景だった。
オリオンは新聞に軽く目を通しながら、ヴァルブルガは上品にナイフを動かしながら、それぞれが穏やかな表情を浮かべている。そんな中、アルタイルは少し緊張した面持ちで、ホグワーツでの出来事を語り始めた。
「図書館で、古い魔法史の本を見つけました。とても興味深くて……」
声は控えめだったが、その奥には確かな熱があった。
アランは手を膝に重ね、微笑みながらじっと息子の話に耳を傾けている。その表情は温かく、まるで宝物を見つめるように優しかった。
レギュラスもまた、フォークを置いて息子の方を向いている。いつもの厳格な表情とは違い、どこか誇らしげな光が瞳に宿っていた。
けれど、アルタイルの胸の内には、口にできない記憶がいくつも渦巻いていた。
母とシリウス・ブラックについて、ホグワーツで見聞きしたこと。
ゴーストたちが語った、ふたりの親密な関係。
図書館で見つけた古い写真に写っていた、並んで座る二人の姿。
それらはすべて、この食卓で語るべきものではなかった。
父に対して、なんだか悪い気がした。
あれほど純粋に母を愛している父に、かつて母が別の男性と深い絆を結んでいたことを告げるなど、あまりにも残酷だった。
そして母にとっても、秘めておきたいことのはず。
過去の恋は、今の家族の幸せを脅かすかもしれない。ましてや、オリオンやヴァルブルガの前でそんな話が明るみに出れば——想像するだけで、アルタイルは胸が締め付けられた。
だから、選んだのは他愛もない話ばかりだった。
「それから、天文台の望遠鏡で木星を観察しました。環がとても美しくて」
「ホグワーツの湖には、人魚が住んでいるんです。一度だけ、遠くから姿を見ることができました」
「寮の仲間たちとは、よく魔法史の勉強をしています。皆、とても優秀で刺激を受けます」
どれも嘘ではない。けれど、彼の心を最も占めていた発見については、一言も触れなかった。
アランは息子の話を聞きながら、その慎重な選択に気づいていた。
アルタイルが語る内容は確かに興味深いものだったが、どこか表面的で、本当に彼の心を動かしたであろう出来事については触れられていない。
それでも、彼女は何も問いただそうとはしなかった。息子なりの配慮があることを、母として理解していたから。
「素晴らしいですね、アルタイル。あなたがそうして学んでいる姿を想像するだけで、とても嬉しいわ」
その言葉に、アルタイルの表情がほころんだ。
レギュラスもまた、息子の成長を静かに誇りに思っていた。
話し方は慎重だが、内容は確実に深みを増している。きっと多くのことを学び、多くのことを考えているのだろう。
「あなたが真剣に学んでいることがよく分かります。誇らしく思いますよ、アルタイル」
父からの言葉に、アルタイルの胸は温かく満たされた。
それがとても嬉しかった。
たとえすべてを語れなくても、両親が自分を誇りに思ってくれている。その事実だけで、彼の心は十分に満たされた。
食事は和やかに続いた。
オリオンとヴァルブルガも時折質問を投げかけ、アルタイルは丁寧に答えていく。
その光景を見つめながら、アランは静かに思った。息子が何を知り、何を感じているのか——いつか、ふたりだけの時間に、彼の方から話してくれる日が来るかもしれない。
今は、この平和な時間を大切にしよう。そして、息子が自分なりに考え、自分なりの答えを見つけていくことを、静かに見守ろう。
ランプの光が、温かく家族を包み込んでいた。
夜が深まり、屋敷全体が静寂に包まれていた。
寝室の薄明かりが、ベッドサイドテーブルの上で小さく揺れている。
アランとレギュラスは並んでベッドに座っていた。いつもなら緊張を孕んでいた夜の空気が、今夜は不思議なほど穏やかだった。
レギュラスの表情には、ここ最近では珍しい和らぎがあった。硬く結ばれがちだった口元も、わずかに緩んでいる。
これも全て、アルタイルのおかげなのだろう。
アランは心の中でそう思った。自慢の息子との久しぶりの再会が、きっと彼の中の様々な感情に落ち着きをもたらしているのだ。
アリスの件で始まった静かな対立も、息子の帰還という大きな喜びの前では、一時的にせよ影を潜めているように見えた。
「アルタイルは……成長していますね」
アランが静かに口を開いた。その声には、母としての深い愛情と、少しの寂しさが混じっていた。
レギュラスは振り返ると、珍しく表情を和らげて頷いた。
「ええ、誇らしいですよ。本当に」
その言葉には、偽りのない父親としての誇りが込められていた。今夜の夕食での息子の話しぶり、庭での決闘練習での成長ぶり——すべてが、レギュラスの心を満たしていた。
「あの子の話を聞いていると」
アランは手を膝の上で重ねながら続けた。
「私たちが知らない世界で、しっかりと自分の足で歩いているのだなと感じます」
「そうですね」
レギュラスも同意した。
「慎重で、思慮深い。でも同時に、確固たる意志も感じられる」
ふたりの間に、久しぶりに穏やかな沈黙が流れた。それは対立でも緊張でもない、ただ息子への愛情を共有する、暖かな静寂だった。
月明かりが窓から差し込み、部屋を淡く照らしている。その光の中で、アランはレギュラスの横顔を見つめた。
最近、彼の表情はどこか疲れて見えることが多かった。アリスの件、任務の重圧、そして自分との関係の複雑さ——それらすべてが、彼の肩に重くのしかかっていることを、アランは理解していた。
でも今夜は違う。息子の存在が、彼に安らぎを与えているのが分かる。
この平和な時間が、少しでも長く続いてくれればいいのに。
アランはそう願いながら、静かに目を閉じた。
アルタイルという光が、一時的にせよ、この家に温かさを取り戻してくれている。そのことに、心から感謝していた。
外では風が木々を揺らし、屋敷を静かに包んでいる。この穏やかな夜が、ずっと続くことを祈りながら、アランは眠りの淵へと向かっていった。
レギュラスもまた、久しぶりに安らかな表情で、妻の隣で静かに目を閉じた。
朝の光が、緑いっぱいの庭に穏やかに差し込んでいた。
屋敷の正面玄関では、レギュラスが任務へと出発するところだった。
ブーツの音が石畳を打ち、クロークに身を包んだ彼の背には、いつもながらの静けさと誇りの影が落ちている。
けれど今朝は、その風景が少しだけ違っていた。
久しぶりに――家族が全員揃って、彼を見送っていたのだ。
アランは体に触れぬよう薄手のガウンを羽織り、
アルタイルは姿勢を正し、凛とした横顔で父を見送る。
セレナはその傍らで、手を振りながら小さな声で「行ってらっしゃい」と何度も告げていた。
レギュラスは一度その手を止め、セレナの頭を軽く撫でてから、
アランとアルタイルにさりげなく目を合わせ、静かに頷いてから背を向けた。
そして馬車のドアがひとつ、ゆっくりと閉じられる音が屋敷に残った。
扉が閉まるのとほぼ同時に、セレナが小さな身をくるりと振り向いた。
「ねえ、アルタイルお兄さま、今日は遊んでくれるんでしょう?」
曇りのない声とまなざしに、アルタイルは優しく眉を下ろしながらうなずいた。
「うん。今日は庭でふたりで遊ぼう。しっかりつきあうからね」
「やったあ!」
セレナは両手を高く上げて、文字通り声を上げて跳ね上がった。
その無邪気な姿を、アランは縁側から穏やかに見つめながらひとこと――
「……暑いわよ、セレナ。今日はとくに」
その声に、アルタイルがすぐに母を振り返る。
その視線のなかには、もう子どもではない、大人の気づかいが滲んでいた。
「母さんは部屋の中にいてください。……セレナもはしゃぎすぎないように、ちゃんと注意して見ておきますから」
その言葉の柔らかさに、アランは思わず微笑んだ。
本当によく、育ってくれた。
かつては小さな体で自分についてまわり、一言も見逃さぬように耳を澄ませていた息子。
それが今では、妹の手を引き、母を気遣う男の子に育っている。
でも――
その成長の陰にある理由を、アランは知っていた。
セレナを産んでからというもの、体調の波はどうしても避けられなかった。
特に季節の変わり目は、横になる時間が多くなる。
母としてやるべきことを、思い通りに果たせない夜も、悔しさに沈む日も少なくなかった。
でも、その度に――
アルタイルは自然と、横に立ってくれていた。
きっと誰に言われたわけでもなく、
母のまなざしだけを敏感に読み取って、
その手を、セレナや家の未来へと差し伸べていたのだ。
「ほんとうに……ありがとう、ね」
アランは声には出さなかった。
けれどその想いは、彼女の柔らかな微笑の中に、確かに宿っていた。
アルタイルとセレナのふたりの背が、やがて庭の芝へと走っていく。
風が揺らす草の音に混ざって、明るい笑い声がかすかに屋内へ届く。
その音を耳に入れながら、アランはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
子どもたちの声が響く庭は、今日も、平和な命のかたちで満たされている。
それだけで、今日のなかばは許された気がした。
胸の内にあふれる静かな幸せを抱きながら、アランは、そっと両手を重ねたまま目を閉じた。
午後の陽が、薄く白いレース越しに差し込み、ティーセットの縁を金色に撫でていた。
サロンの一角、アランはヴァルブルガと向かい合うかたちでテーブルにつき、ティーカップを静かに両手で包んでいた。
けれど指先には、わずかに緊張が滲んでいる。
カップの紅茶は香り高く、器に揺らぎもない――それでも、喉を通るそれは、妙に詰まる気がした。
「アルタイルは……立派ね」
ヴァルブルガが、陶器を置く音とともに言った。
淡々と、けれどその声音には隠しようのない誇りがこもっている。
アランは、間髪を入れずに返した。
「ええ……本当に、レギュラスによく似ています」
口元だけ微笑む。それがやっとだった。
「私が育てたのですから。当然ですよ」
ヴァルブルガはやや顎を持ち上げながら、ふっと鼻先で言葉を削った。
その言葉には、余計な照れや謙遜は一切ない。
あの子の血統も智慧も全て、私たちブラック家のもの――その当然の“証明”として、アルタイルの成長がここにあるのだ、とでも言いたげだった。
の指が、カップの取っ手からほんの一瞬だけ外れた。
ヴァルブルガの言葉を否定する理由はなかった。
たしかに彼女は、レギュラスに、アルタイルに、熱心に目をかけてきた。
けれど――
の胸には、言葉にしきれない重さが宿っていく。
その期待が、アルタイルという子どもに、静かに押しつけられているのではないかと。
そして、それに気づいてしまったセレナが、無意識にでも“疎外”を感じてしまうのではないかと。
そんな不安が頭から離れなかった。
セレナは昨日、兄と楽しそうに庭を走っていた。
けれど、その笑顔の中に、微かに何かを押し隠しているような影を、ふと見た気がしてならなかった。
「……セレナも、お兄さまが帰ってきたことを本当に喜んでいます。毎朝、あの子なりに、お茶の用意を手伝おうとしてくれて」
言い添えた言葉は、本心からだった。
けれどそれに、ヴァルブルガは興味を示さなかった。
紅茶を口に含みながら、小さく微笑んだまま視線は窓の外に移っていた。
そして――会話は、再びアルタイルのことへと戻ってゆく。
その話題の流れに、アランはうなずきながら徐々に胸を押しつけられていくような感覚を覚えていた。
セレナの名は、そこには呼ばれない。
まるで“彼女には未来がない”と無言で選別されているような錯覚すら与えられる。
もちろんヴァルブルガは、そんなことを悪意でしているわけではない。
けれど彼女の意識の中にある「後継ぎ」「家の名」「期待」というものは、
いつでも血統と、家柄と、男児であることを軸に据えていた。
だからこそ今、アルタイルが帰ってきたことは、
彼女にとっては「すべてが秩序通りに整った」という証だったのだろう。
けれど――
アランにとっての「家族」は、もっと不完全で、もっと混ざり合っていて、
ときに、あいまいで、けれどあたたかいものだった。
アルタイルを誇ることと、セレナを慈しむことは、
決して“天秤にかける”ようなものではないはずだ。
それをうまく伝えられないまま、
アランは半分冷めかけた紅茶を口に運び、
誰にも気づかれないよう、そっとまぶたを伏せた。
この家では、まだ。
そうした想いを「言葉にして叶える」には、もう少しだけ時間が必要なのだろう。
だからこそ、今日はまだ――
ただ静かにうなずいて、微笑むだけに留めた。
胸の奥で静かに、セレナの笑顔だけを灯すように。
紅茶の湯気が白く立ち上がる中、アランの手がわずかに止まった。
ヴァルブルガの次の言葉が、予想していた通りに響いてきたからだった。
「……もう、このブラック家に、アルタイルのような優秀な血が望めないことは、とても残念ですわ」
その声は静かだったが、その奥には明確な失望が込められていた。
アランは、カップを唇に当てたまま固まった。
毎回この話になると、どこか消えてしまいたくなる。
心臓の鼓動が早くなる。頬が熱くなる。けれど、表情には出さないよう必死に自制していた。
なんと答えればいいのだろう。
何が正解なのだろう。
「そうですね、私の体では……」と自分を責めるべきなのか。
それとも、「どこか外から純血貴族の令嬢でも迎えたらいかがでしょう」とでも口にすれば良いのか。
アランの脳裏に、あの夜のことが蘇った。
オズワルド家の令嬢を屋敷に招いた、あの出来事。
彼女は美しく、品があり、家柄も申し分なかった。けれど、レギュラスは手をつけなかった。一夜を過ごすこともなく、丁重に帰らせた。
その事実が、オリオンやヴァルブルガの中で、アランがレギュラスを縛っているからという印象を強めているのだろう。
「私が……」
アランが口を開きかけて、止まった。
何を言おうとしていたのか、自分でもわからなくなった。謝罪なのか、弁解なのか、それとも諦めの言葉なのか。
ヴァルブルガは、アランの沈黙を見つめていた。その視線には、同情と、どこかしら冷たい分析の光が混じっている。
「あなたを責めているわけではありませんのよ、アラン」
けれど、その言葉の響きには、明らかに「責めている」という感情が滲んでいた。
「ただ……家の将来を考えると、どうしても……」
アランは静かに紅茶を飲み干した。
その液体は、もう温かくもなんともなかった。ただ苦いだけの、冷めた現実のような味がした。
胸の奥で、小さく何かが軋む音がした。
それは自尊心なのか、それとも愛情なのか。
あるいは、ただの疲労なのか。
「……はい」
結局、それだけしか言えなかった。
自分は、この家にとって何なのだろう。
愛される妻なのか、それとも期待に応えられなかった重荷なのか。
その答えを見つけるには、あまりにも複雑すぎる現実が、ティーカップの底に沈んでいた。
庭で遊ぶセレナの笑い声が遠く響く中、アルタイルは屋敷の二階の窓辺に立っていた。
下を見下ろすと、母アランがヴァルブルガと向かい合って座っているのが見える。その光景を、彼は静かに見つめていた。
母の肩が、わずかに縮こまっているのがわかる。
ティーカップを持つ手も、いつもより硬い。
また、あの話をされているのだろう。
アルタイルには、すべてがわかっていた。
母の体が、もう昔ほどではないこと。
セレナが生まれてから、それは嫌というほど理解した。
熱を出して寝込む日が増えた。食事の席に現れない朝があった。笑顔の奥に、疲れの影が宿るようになった。
本当は、まだまだ母に甘えていたかった。
膝の上に座って、本を読んでもらいたかった。
困ったときには「お母さん」と呼んで、すぐに駆け寄ってもらいたかった。
けれど、目に見えて弱っていく母の前で、ワガママはいつの間にか言えなくなった。
そして、アルタイルは知っている。
オリオンとヴァルブルガが、母にもう一人の息子——弟を期待していることも。
その期待に応えられない母が、どれほど心を痛めているかということも。
アランはもう、弟を産み落としてくれるほどの気力はないだろう。
それは、誰の目にも明らかだった。
だからこそ、祖父母の落胆も深い。そして、その重圧のすべてが、静かに母の肩にのしかかっている。
けれど、これ以上母を責めないでほしい。
アルタイルの胸に、静かな怒りが宿った。
母は誰よりも優しくて、慈愛に満ちた人だ。
きっと色々なことを飲み込んで、たくさんのものを諦めて、この家にあり続けてくれているはずだ。
自分の幸せよりも、家族の平和を選んで。
自分の体調よりも、家の期待に応えようとして。
そんな母を見ていると、胸が締め付けられる。
だから、思う。
自分だけでも、しっかりとこのブラック家を継いでいけることを証明したい。
オリオンとヴァルブルガを安心させることができれば、母への圧力も少しは和らぐかもしれない。
ホグワーツでの成績を上げること。
魔法の技術を磨くこと。
品格のある振る舞いを身につけること。
すべてを完璧にこなして、「アルタイル一人で十分だ」と思ってもらえるように。
窓の下で、母がヴァルブルガに静かに頭を下げるのが見えた。
その姿に、アルタイルの決意はより一層固くなった。
母を守りたい。
母に安らぎを与えたい。
そのためなら、どんなに重い期待でも背負ってみせる。
どんなに完璧を求められても、それに応えてみせる。
少年の瞳に、静かな炎が宿っていた。それは愛する人を守るための、誰にも消すことのできない光だった。
庭からセレナの声が聞こえてくる。母を呼ぶ、無邪気な声。
その声に、アルタイルは静かに微笑んだ。
この平和を守るために、自分がすべきことがある。
窓辺を離れ、彼は自分の部屋へと向かった。勉強すべき本が、机の上で彼を待っている。
夜が深まった寝室は、静寂に包まれていた。
月の光が薄いカーテン越しに差し込み、ベッドサイドテーブルの上の水差しを淡く照らしている。
アランは、ベッドの端に座ったまま、膝の上で手を重ねていた。
胸の奥で、ヴァルブルガとの会話が何度も反芻されている。
もう一度、この家に男児を産めたら——
その想いが、今夜は特に強く胸を占めていた。
ヴァルブルガとの話がきっかけではあったが、本当はずっと昔から思っていたことだった。
セレナを愛していないわけではない。あの子は自分の宝物だった。けれど、この家では——ブラック家では、やはり男児が望まれてしまう。それは否定しようのない現実だった。
家を継ぐもの。名を残すもの。血筋を繋ぐもの。
すべてが男児にかかっている。そして、アルタイル一人では、あまりにも重荷が大きすぎる。
けれど——
アランの手が、自分の腹部にそっと触れた。
万が一のことがあれば、まだ幼いセレナを、学び途中のアルタイルを遺していかなければならない。
その恐怖が、どうしても踏み切れない要因だった。体調の不安定さは、日に日に増している。もうあの頃ほど若くもない。出産という大きな負担に、今の身体が耐えられるのだろうか。
でも——
奇跡は起こるかもしれない。
医者は難しいと言った。けれど、絶対に不可能だとは言わなかった。もしかしたら、もしかしたら——
その小さな希望に、すがりたい気持ちがあった。
隣では、レギュラスが静かに本を読んでいた。
集中している横顔は、いつものように穏やかで美しい。
アランは、静かに身体を動かした。
そっと、レギュラスの方へ寄り添うように。
彼の肩に頬を寄せ、腕に自分の手を重ねる。その温もりが、不安に震える心を少しだけ落ち着かせてくれた。
レギュラスは本から目を離し、アランを見下ろした。
「どうかしましたか?」
その声は優しかった。いつものように、彼女を大切にしようとする気持ちが込められている。
「……何でもありません」
アランは小さく微笑んで答えた。
でも、心の奥では静かに祈っていた。
もう一度、この愛の証を形にできますように。
この家に、新しい光をもたらせますように。
そして——その挑戦が、家族を失う結果にならないように。
レギュラスの腕の中で、アランは目を閉じた。
明日への小さな希望を胸に抱きながら、静かに彼の鼓動に耳を澄ませていた。
奇跡を信じたい。そんな気持ちが、月明かりの中で静かに燃えていた。
夜はさらに深まり、寝室の空気は肌に触れるのも惜しまれるほど静けさに満ちていた。
月光はカーテン越しに滲んで、揺れる影を壁に映す。
その中で、レギュラスはアランの身体をそっと腕の内に引き寄せていた。
彼女のやわらかな気配、呼吸、手のひらのぬくもり。
それらがすべて、今夜は言葉以上のものを語っている。
たしかに。――理由があるのはわかっていた。
アランが自分からこちらを誘うような仕草を見せたとき、
その背後に何かしらの「強い意志」があることを、レギュラスは本能で察していた。
医師の診断など、とうに出ていた。
もう難しい――
それはレギュラス自身も、アランの弱っていく身体を見て、とうに理解していた現実だった。
だからこそ、かつては思った。
これ以上、彼女を傷つけることがあってはならない。
命を先の未来と引き換えにはできない、と。
なのに――今夜。
アランがそっと寄ってきたその瞬間。
すべての理性が、一瞬で吹き飛んだ。
――触れたい。
そう思ったときには、すでに手が彼女の背を撫でていた。
燃えるような衝動とあたたかな懐かしさが、いっぺんに押し寄せる。
心臓の鼓動が跳ね上がったまま収まらない。
頬に触れる髪の感触、喉元へ落とした口づけ。
アランが静かに息を吸えば、それが自分をひどく揺らす。
もう、そのときには────
彼女が「どうして」誘ってきたのか、なんてことは、どうでも良くなっていた。
思考はすでに霞み、残されたのはただ――愛しさだった。
アランに本気で触れるとき、レギュラスは必ず、傷つけないようにと、
極端に手を緩めるクセがあった。
けれど今夜だけは、どこかで堰が崩れていた。
彼女がそれを望んでいると感じてしまったから。
彼女の方から受け入れにきたということが、それほどまでに、自分にとって幸福で、狂おしいほどの喜びだったのだ。
もし万が一、アランがまた身籠ったとしたら。
自分はどうするべきだろう?
そんな疑問が、ほんの一瞬、脳裏をかすめた。
けれど、それすらもすぐに掻き消された。
そんな未来のことは、その時に考えればいい。
今はただ、目の前にある命を、愛する。
この腕の中にいてくれる奇跡を、ひたすらに刻みつける。
それだけで、世界はふたたび意味を持った。
アランがゆっくりと目を閉じた。
手が彼の肩にまわり、呼吸がひとつ重なる。
レギュラスは、まるで少年のようにそのすべてに夢中だった。
若き日にこの世でもっとも美しいと感じた存在が、
今もこうして自分の腕の中にいるという、たった一点の事実に救われていた。
彼女の温もりは、確かにレギュラスの心も、欲も、祈りも、全部を満たしてくれる。
それ以外のことは、もう何も要らなかった。
今夜の彼は、ただそれだけで――十分すぎるほど幸福だった。
