3章
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月が雲に隠れた夜、レギュラス・ブラックは石造りの回廊を歩いていた。
足音は規則正しく、任務のための黒いローブが足首を撫でて揺れる。
手には今夜の指令書が握られ、冷たい夜風が頬を過ぎていく。
また、任務だった。
セブルス・スネイプからの忠告があった日から、レギュラスは意識的に夜間の任務を増やしていた。断り続けていた危険な調査も、長時間の見張りも、すべて引き受けるようになった。
わかっていた。
セブルスが忠告するほどなのだから、自分の最近の態度は確実に問題視されている。ベラトリックスの冷たい視線も、他のデスイーターたちの疑念も、すべて理解していた。
従うことが正解なのだ。
家族のため、そして何より―― アランを守るため。
それでも。
今すぐにでも、アランのもとに帰りたかった。
指令書を胸に押し当てながら、レギュラスは静かに目を閉じた。
彼女の寝顔が脳裏に浮かぶ。月明かりに照らされた頬の線、静かな寝息、そっと手を伸ばせば触れられる温もり。
できる限り彼女のそばにいる時間を増やしたい――
そう願った矢先のことだった。
皮肉だった。愛する人を守るために、愛する人から離れなければならない。この矛盾が、胸の奥で静かに軋んでいる。
「レギュラス」
背後から声をかけられて振り返ると、同僚のデスイーターが立っていた。
「今夜の任務、ご苦労だった。久しぶりに君が夜通しの仕事を引き受けてくれて助かったよ」
その言葉に、レギュラスは小さく頷いた。
「当然のことです」
表面的には何の感情も込めず答えたが、心の奥では苦い思いが渦巻いている。
「久しぶりに」
その言葉が、自分がどれほど家庭に傾倒していたかを物語っていた。周囲には隠しているつもりでも、すべて見透かされていたのだ。
任務先へ向かう途中、レギュラスは夜空を見上げた。
星が静かに瞬き、遠い光を地上に注いでいる。
アランも、今頃は同じ星空を見ているだろうか。
それとももう眠っているだろうか。
最近は、彼女の体調も良くない日が続いていた。夕食の席でも疲れた様子を見せることが多く、早めに休むことも増えていた。そんなときこそ、そばにいてあげたいのに。
愛することと、守ることの間で引き裂かれる感覚。
それは、レギュラスにとって初めて経験する種類の苦痛だった。
任務地に到着すると、レギュラスは感情を完全に封印した。
デスイーターとしての顔を被り、冷徹に、確実に仕事をこなす。
それが、愛する妻を守る唯一の方法だから。
でも、心の片隅では常に祈っていた。
早く、この夜が終わりますように。
無事に、あの人のもとへ帰れますように。
夜風が頬を撫でるたび、アランの手の温もりを思い出す。
星の光が揺れるたび、彼女の微笑みが脳裏をよぎる。
愛は、時として残酷だった。
守りたいものがあるからこそ、離れなければならない。
大切にしたいからこそ、自分を犠牲にしなければならない。
レギュラス・ブラックは、その矛盾を抱えながら、今夜もまた闇の中を歩き続けた。
愛する人の笑顔を胸に秘めながら、静かに、そして孤独に。
朝の陽は淡く、屋敷の食卓をやさしく照らしていた。
磨かれた銀器が静かに光を返し、香り立つ紅茶の湯気がひそやかに揺れていた。
いつものように、ブラック家の朝は規律と気品に満ちていた。
扉が静かに開き、レギュラス・ブラックが任務から戻ってきた。
肩にはまだ夜の冷気が残っている。
黒のコートが重く引きずるように揺れ、足音が食卓へと近づいてゆく。
「……戻りました」
その声は変わらず穏やかで、少し掠れていた。
けれどその佇まいから、疲労の色がうっすらと滲んでいた。
「おかえりなさい。」
アランの声がふわりと応えた。
瞳だけを向けて、音を張らずに丁寧に迎える声だった。
オリオンとヴァルブルガもそれぞれに視線を上げた。
無言のうちに短くうなずき、迎え入れる――
それが、ブラック家のやり方だった。
アランは静かに椅子を立ち上がった。
白の絹のガウンの裾が床をすべる音がわずかに響く。
「コートを」
彼女がそう言うより早く、自然とレギュラスは歩み寄り、肩から外した外套を手渡した。
そしてその一瞬――
コートが彼女の指先に触れた瞬間に、
レギュラスは、さりげなく、ひどく素早く―― アランの頬へ口づけた。
ほんの一刹那。
誰の目にも届かない角度。
あの広い食卓の陰からなら、後方に座るオリオンやヴァルブルガの視線には、恐らく入っていないはず。
けれど、アランの目は何かを一瞬で悟っていた。
レギュラスの唇が離れると同時に、アランは彼を見上げ、
ほんの少しだけ、きゅうっと眉を寄せて視線を送った。
――それが、言葉のない非難だった。
「なぜ今なの」
「見えていたかもしれない」
そう問いただす代わりに、微笑も言葉も添えず、
ただその目で、彼を静かにとがめていた。
「……朝食はどうする?」
その間を裂くように、食卓の端からオリオンが声をかけた。
レギュラスは視線を戻し、少しだけ首を傾ける。
「……今日は、ちょうど帰ったばかりです。あまり食欲がなくて」
言い訳のようで、淡々とした口調。
けれどその実、アランのたった一つの視線が胸の奥に残っていた。
それは痛みではなくて、
むしろ甘やかさを帯びた悔いだった。
――この家では、言葉よりも、沈黙こそが愛情を刺す。
アランは何も言わなかった。
ただコートをきちんとたたみ、レギュラスの書斎に預けるようにと使用人へそっと手渡す。
その手がすこしだけ名残惜しそうに、布の端を撫でる。
レギュラスはその仕草を見逃さなかった。
小さな叱責ひとつでさえも、彼にとっては、離れすぎないための“繋がり”のように感じられた。
だからこそ、満たされぬまま迎えた朝さえ、
ほんのわずかな喜びが混ざる。
――そしてまた、ふたりだけに知れる「愛の印」がひとつだけ、小さくそこに落ちていた。
書斎の扉を、とん、と小さく叩く音がした。
音もなく開かれたその隙間から、まろやかな紅茶の香りと、微かに温かみのある空気が入り込む。
「失礼します」
アランだった。
白と灰の落ち着いたガウンに身を包み、両手で丸盆を抱えたその姿は、どこまでも慎ましく、静かだった。
盆には薄く切られた二切れのサンドイッチと、湯気の立つ紅茶。
食欲がないはずの朝に、決して押し付けぬよう、けれど決して無関心でもない、ちょうどいい“気遣いの形”。
「少しは、召し上がらないと」
アランはそう言って、そっと机の端にトレイを置いた。
声は柔らかく、必要以上に静かだったが、
その背中から漂う空気に、“心を置いてゆくような温度”が確かにあった。
レギュラスは、しばらく椅子にそのままの姿勢で座っていた。
手元には紛糾する報告書、冷たくなったインク、進むべき任務の図解
けれど彼は、ようやく深く一度だけ息を吐くと、アランの方へゆっくりと顔を向けた。
「ああ……ええ、いただきます」
その返事には、誰にも聞こえぬほどの安堵の響きが忍んでいた。
見られている、気づかれている。
それだけで、心が一気にほどける瞬間がある。
言葉を尽くさなくても、自分がここにいることを、
見守る人がいるという「確かさ」。
それはどんな豪奢な衣服や称賛よりも、いまの彼には沁みた。
アランは深く腰掛けることはせず、数歩だけ離れた位置に立ち止まり、小さく息を整えていた。
それが帰る合図なのか、見届けてから部屋を出ていく余白なのかは、彼女自身もわかっていなかった。
でも、レギュラスはその場から視線を落とし、
サンドイッチをひとつ取ると、まるで本当に食事として楽しむように、静かに口に運ぶ。
「ありがとう、アラン」
その言葉が落とされた瞬間、
アランの睫毛が少しだけふるえた。
ふたりの間には、何も派手なやりとりはなかった。
けれどその沈黙の質が、たまらなくやさしいものに変わっていた。
疲れていた。
心も身体も擦り減っていた。
けれど――
ほんの一杯の紅茶と、二切れのサンドイッチが、
音もなく“帰ってきた”という実感をくれた。
レギュラスの視線がやわらかく床を見つめたまま、
明け方のまだ色づかぬ光が、書斎の壁を静かに撫でていく。
愛は、たったふたつの皿で、すべてを伝えることができた。
ソファに座るアランの隣へ、レギュラスは静かに腰を下ろした。
衣擦れのわずかな音。
アランが手にして読んでいた雑誌のページが、ふわりと揺れた。
「……終わったのですか?」
アランの声は低く、静かだった。
問いただすでも、探るでもなく、ただそこに寄り添うような口調。
レギュラスは目を伏せたまま、肩から少し息を抜いた。
「ああ……まあ、いいんです」
それが本当の“終わり”というほどではなかった。
だが、このくらいで、今日はもう充分だ――そう思えるくらいには心が片付いていた。
区切りだった。職務の、思考の、痛みの。
けれど今、彼の心が傾いたのは別の場所。
隣で雑誌を軽く膝に置いたままページをめくるアランの手。
何かの作業をするでもなく、読んでいるというより目を通す程度で。
けれど、それがどこか落ち着いていて、静かで、美しかった。
気負いも、飾りも、この瞬間にはなかった。
ただ彼女がそこにいて、彼が戻ってきただけの、あまりに平凡な夜の時間。
その情景に、胸が満ちてくるのをレギュラスは抑えられなかった。
そっと、アランの手の中の雑誌を抜き取る。
アランは視線を彼に向けるだけで、言葉はなかった。
そのまま、レギュラスは彼女の胸元へと、ゆっくり身を寄せた。
柔らかな感触が、頬を包み込んだ。
香りと微かな鼓動。
それは日常では触れない場所だった。
普段は手に触れるだけ。しかし今だけは、どこか、無言の許しと安らぎの源を求める衝動が勝った。
アランの胸元に顔を預ける。
彼女の身体が、少しだけ呼吸で上下するのがわかる。
そのゆるやかな律動に、レギュラスのまぶたが自然と重たくなった。
押し当てた頬の奥で、心音が跳ねている。
高ぶりでも怯えでもない、ただ生きている熱と音。
そこでは時間が緩やかに流れ、彼を沈ませるように包んでいく。
アランは、何も言わなかった。
指を動かすでも、身体をずらすこともせず、
ただそのあたたかな沈黙の中で、彼を受け止めていた。
レギュラスは目を閉じた。
痛みも、憂いも、焦燥もすべて遠ざかっていく。
彼の頬に触れているのが愛情の輪郭だとしたなら――
この瞬間は、言葉よりずっと深い祈りに似ていた。
アランの静けさが、彼に眠りを許す。
そして、眠気がゆっくりとその意識を飲み込んでいく。
すぐそばで聞こえる心音に、
彼の眠りは、深く、やさしく、落ちていった。
夕暮れの光が、ブラック家の重厚な窓硝子を柔らかく染めていた。
豊かな蔦草が絡む窓辺に立ち、ヴァルブルガ・ブラックは静かに庭先に視線を落としていた。
黄金色に染まる庭―。
その中に、小さな木製のブランコ。その上にはふたりの姿。
レギュラスとアラン。
細身の体をそっと寄せ合い、言葉を交わすこともなく、ただ静かに並んで座っている。
遠目でその光景を見ているだけなら、平穏で微笑ましい一幕に映っただろう。
理想的な貴族の若夫婦。
けれど、ヴァルブルガの表情には、笑みの欠片ひとつなかった。
元をたどれば、アラン・セシールとの縁談は、ヴァルブルガが主導して進めたものだった。
セシール家――相応の家格。確かな血統。
そういった政治的な意味合いもあったけれど、最終的にアランを「息子の妻に」と定めた決め手は、あの美貌にあった。
瑞々しい椿のような肌、淡い黒の髪、そしてなにより静けさのなかに凛とした美しさを保っているところ。
少女時代から、人目に立つ華ではなかったが、まるで磨き立ての銀器のように、どこに出しても恥ずかしくない。
――従順で、美しい。
そういう女こそ、このブラック家の「妻」にふさわしかった。
ならば当然、世継ぎも――
4人、5人と、この家の未来を担う子を産んでくれるだろう。
あのつつましさで、忠義に徹して、役割を果たしてくれるはず。
そう思っていた。心の底から。
だが、実際は――男児を産んだのはアルタイルひとり。
その後の男児の懐妊はなく、度重なる体調不良、
止まらぬ微熱、眠れぬ夜、沈む肌の色。
医者の口から告げられたのは、「次は望めないでしょう」という言葉。
「想定外だったのよ、本当に……」
誰にも聴こえないよう、ヴァルブルガは小さく呟いた。
オリオンと共に描いていた計画のすべてから逸れはじめている。
嫁は役割を果たさず、息子はその嫁に情を深める一方。
妾の話を持ちかける貴族たちの提案にも、レギュラスは頑なに首を縦に振らなかった。
「まるで、どこか違う考えで生きているような……」
そう、忌々しいほど父オリオンに似ない。
レギュラスは昔から物静かで忠実だったが、内に秘めた情の濃さ――
それは、この家にとって“好ましくない歪み”となっていた。
すでに「あとは家が何とかする」と合点していた息子が、
いまだあの女を離そうともしない。
あの脆弱な身体と、もう子も望めぬ女に、何の価値があるのか。
それなのに、あの穏やかなまなざしで、レギュラスは今も彼女を見つめ続けていた。
窓の外、ブランコがゆっくりと揺れていた。
風のない日だったが、あのふたりだけを包む小さな空気の孤島のように、時間が別のリズムを刻んでいるようだった。
ヴァルブルガはそっと視線を伏せた。
心の奥に生まれてしまうのは、怒りとは違う。
どこか、焦燥に似た“毒”のような感情。
このままでいいとは到底思えない。
けれど今、ふたりの間に斬りこめる隙が、どこにも見当たらない。
それが、ヴァルブルガにとって最大の誤算だった。
己の意志で固めた縁が、ある種の「愛」に育ってしまったことこそが――
一族の未来を、いちばん狂わせていた。
そして、その静かな闇が、夕暮れの屋敷に音もなく降り積もってゆく。
夜の闇が戦場を覆い、魔法の光が空を裂いていた。
騎士団とデスイーターの全面衝突――それは避けられぬ宿命の交錯点。
呪文の炸裂音が響き渡る中、シリウス・ブラックは愛弟子アリスを護るように立っていた。だが、彼らを狙う攻撃は異常なほど激しかった。
他の騎士団メンバーへの攻撃が散発的なのに対し、アリス・ブラックには集中砲火が浴びせられている。まるで彼女ひとりを殲滅することが、この戦いの最優先事項であるかのように。
そして、その攻撃を指揮しているのは――レギュラス・ブラックだった。
「アバダ・ケダブラ!」
緑の光が闇を裂き、アリスの頭上を掠めていく。
レギュラスの杖から放たれた死の呪文は、一切の容赦がなかった。
兄弟の瞳が、暗闇の中で交錯する。
シリウスの灰色の瞳には怒りが、レギュラスの黒い瞳には冷徹な殺意が宿っていた。
「セクタムセンプラ!」
「プロテゴ・マキシマ!」
呪文が激しく飛び交う。レギュラスの配下たちも、明らかに「アリス・ブラック」を最優先目標として動いている。
まるで、その名前自体が彼らにとって許しがたい冒涜であるかのように。
「てめぇの相手は俺だ!」
シリウスが吠えるように叫び、レギュラスとの間に立ち塞がった。
兄弟対決――それは長年にわたって燻り続けてきた憎悪の、ついに爆発する瞬間。
「クルーシオ!」
「エクスペリアームス!」
容赦のない呪文が次々と交わされる。
兄弟は互いの急所を知り尽くしていた。だからこそ、その攻撃は他の誰との戦いよりも苛烈だった。
レギュラスの顔には、普段の冷静さとは別種の感情が滲んでいた。
それは、理性を超えた怒りと屈辱だった。
アリス・ブラック。
その名前が、レギュラスの心を掻き毟っている。
マグルの血を引く少女が、神聖なブラック家の名を名乗ること。
シリウスが養子として迎え入れたこと。
そして何より――
その少女が、アランによって命を救われた子であること。
あの夜、アランが自らの命を賭けて敵陣から逃がした少女。
そしてその後をシリウスに託した少女。
まるで、シリウスとアランの間に生まれた子であるかのように。
愛の結実であるかのように。
その事実が、レギュラスには耐えがたい屈辱だった。
シリウスは、弟の心の奥底を見透かしていた。
なぜレギュラスがここまでアリスを憎むのか。
なぜ「アリス・ブラック」という名前が、彼をこれほどまでに狂わせるのか。
それは愛ゆえの嫉妬だった。
アランへの、そしてかつて彼女が自分に向けた愛への、激しい嫉妬。
「レギュラス!」
シリウスが叫んだ時、一瞬だけ戦場に静寂が訪れた。
「お前が憎んでいるのは、アリスじゃない。俺だ。そして――」
言葉が途切れる。
そして、アランを愛し続けている自分自身だ。
その真実を口にすることはできなかった。
それは、両者にとってあまりにも深い傷だから。
再び呪文が飛び交い始める。
兄弟の戦いは、まだ終わらない。
アリス・ブラックは、その名前ゆえに標的となり続ける。
それが、愛と憎悪が織り成す運命の皮肉だった。
夜の闇の中で、三つの運命が激しく交錯していた。
過去の愛と、現在の憎悪と、未来への願いが――
呪文の光に照らされながら、静かに、そして激しく燃え続けていた。
アリスは息を切らしながらシリウスの背に隠れた。
頬にかすかに当たった熱が、死の呪文の放たれた軌跡だったと理解するには、ほんの一拍の間しか要らなかった。
「……何なの、レギュラス……」
自身の腕に火傷のような痺れが残るまま、アリスはかすれた声をこぼした。
敵意。殺意。迷いの一切ない、研がれた刃のような呪文。
その焦点に自分ひとりが定められているという事実が、何より彼女を震えさせていた。
それでも、戦場で足を止めるわけにはいかなかった。
目を伏せれば、仲間が倒れる。背を向ければ、命を落とす。
ここは、ただ戦う場所。
個人的な意味はあってはならないはずだった。――けれど。
目の前の男は間違いなく「個人的な怒り」をぶつけていた。
そしてそれがどれだけ深く、根を張ったものかを、シリウスだけはわかっていた。
「まだ分からねぇのかよ!」
シリウスが声を上げ、再びレギュラスに正面から向き直る。
「アリスがアランに命を救われたからって。俺がブラックの名を与えたからって。だから何だ!」
地面が焦げ、木々を焼く炎が辺りを包む中、ふたりの男の距離がじりじりと縮まっていく。
レギュラスの黒いローブが風に揺れた。
その指先に握られた杖に、再び淡く緑の光が踊る。
「だから、“そこに子が生まれなかった”とでも思えるのか?」
静かに絞り出されたレギュラスの言葉には、どんな呪文よりも重い響きがあった。
それは、最も口にしてはならなかった感情――
幻想であり、痛みであり、誰にとっても届かない問い。
アリスが、アランとシリウスの間に生れ落ちるべきだった子のように見える。
前に座っていたあの夜のふたりの光、その続きを見ているように。
いや、レギュラスの目には、そうとしか映らなかった。
アリスは、そういう過去の残響。
美しすぎる置き去りの“可能性”。
それが今、自分の目の前で「ブラック」の名を名乗り、
シリウスによって守られて生き延びている。
それが、耐えられなかった。
「レギュラス……あたしを殺したいならそれでいい」
アリスは、シリウスを静かに押しのけてレギュラスの前に出た。
声も、瞳も震えていなかった。
褒められるような勇敢さとは違う、もっと根源的な“意思”がそこにあった。
「でも、わたしが憎いのは――きっと、ただの代弁でしょう?」
しばらくの間、レギュラスは何も言わなかった。
ただじっと、冷たい瞳で目の前の少女を見ていた。
亡霊のように残るアランの心、
口にはしない兄への嫉妬、
そして、どこにも行き場のない愛。
その全てが、アリスという存在によって具現化してしまった。
だから――どうしても、その存在をこの世から消したかった。
だが。
レギュラスの指先が、最後の呪文を放とうと動くより速く。
空から、真新しい光線が奔った。
戦況が崩れ、別の配置から騎士団の増援が現れたのだ。
バッと風が切れる。
アリスは咄嗟にシリウスに手を取られ、距離を割かされる。
そして、レギュラスもまた――引き際を察したのか、再び闇へと姿を溶かした。
立ち尽くすアリスの左腕には、さっき掠めた死呪文の火傷跡が残っていた。
けれど、それ以上に焼きついたのは、レギュラスの目だった。
どうして、あの人はあんなに――悲しい顔をしていたのだろう。
戦場の残響が、夜の静寂に吸い込まれていく。
胸の鼓動だけが、なおもそこに残っていた。
戦場にはようやく小さな静寂が戻っていた。
アリスは肩で息を継ぎながら、裂かれたままの袖口に目を落とす。
肌に焼けついた呪文の痕――傷口は浅いはずなのに、なぜか痛みが深く染み込んでくるようだった。
けれど、それとは別に、まだ胸の奥で疼いてやまないものがある。
レギュラスの瞳。
あれは、憎しみだけじゃなかった。
殺意という名の仮面の奥に、はっきりと影のような何かがあった。
「……すまない」
シリウスの声が背後から低く落ちてくる。
アリスはゆっくり振り向いた。
彼の髪は乱れ、外套には傷が増えている。
そのまなざしの奥にも、戦闘とは別の沈殿した感情があった。
「……謝るのは、あなたじゃない」
アリスの声はかすれていたが、はっきりしていた。
「私はあの人にとって、何かを踏みにじったみたいだわ。でもそれが何なのか、もう知ってる」
シリウスは、言葉を返せなかった。
目を逸らすこともなく、ただその表情が苦しげに固まっている。
かつて自分自身が壊した過去。
アランとの記憶、すれ違いと赦しの痕。
その延長戦にアリスという存在がいて――
彼女が、その“名”を背負ったことの意味を、レギュラスがどう抱えていたのか。
「お前は悪くないよ」
ようやく絞り出すように言葉にした声には、
どこか、自分自身にすら信じさせようとする響きがあった。
アリスはふっと目を閉じた。
「わかってる。……でも、きっと」
再び目を開けたその瞳には、涙の一粒も見えなかった。
そのかわりに、どこか固く、そして強く結ばれた決意のような影が宿っていた。
「まだ終わらない。あの人は、私を“そういう存在”としてしか見ない。
だったら、これから何を選んでも、私はもう、レギュラスにとって “存在自体が罪” になるのね」
夜風が吹き抜ける。
辺りには戦いが残した土と硝煙の匂い。
その中で、ふたりはただ、立っていた。
名を与えた父と――
存在そのものが敵意を招いた娘。
それでも、ブラックの名のもとに繋がれた揺れ動く絆だけは、
簡単には消えそうにない跡となって刻まれていた。
暗雲の底で、次の戦いの兆しだけが静かに息を潜めていた。
月は雲に包まれ、屋敷の外は妙に静まり返っていた。
その静寂に反するように、レギュラス・ブラックの足音が硬く廊下に響く。
ローブの裾が翻るたびに、空気が鋭く震えていた。
執務室に入ると、彼は躊躇なく杖を机に叩きつけた。金属のように固い音が響き、細波のような魔素が空間に揺れた。
苛立ちが胸に渦巻いていた。
疲労はあった──確かに、あった。
けれどそれは肉体よりもずっと深いところ、感情の底に根を張ったものだった。
今夜、アリス・ブラックを仕留め損ねた。
ただの失敗ではない。
最も確実に対峙できた好機だった。
それを、あの騎士団の増援によって断たれた。
すぐ近くにいた。もう指のひと差しで届くところまでいたはずなのに。
──取り逃がした。
悔しさが喉の奥で錆のように突き刺さる。
火も灯していない執務机の前に、レギュラスは沈み込むように腰を下ろした。
握り拳に力が入りすぎて、微かに震えている。
「……連れて出るな、あんな奴を」
唇の端から、噛み潰すような低い声が漏れた。
あの女は決して一人で戦場に出ない。
いつだって誰かの陰にいる。
いつだって、シリウスが──あの男が、隣にいる。
その姿を見るたびに、皮膚の下に潜む血がざわついた。
あのふたりが並んでいるだけで、頭の奥が刺すように痛む。
それがいかに「実りを持たぬ関係」であると分かっていても。
それでもアリス・ブラックという存在が、“ふたりの延長”にしか見えない自分が、
何より──堪えがたかった。
それが幻想だと分かっていても、なお、その子供を名乗らせたという事実に、どうしても膝を折って従う気にはなれなかった。
「……あの名に、ふさわしくない」
低く唸るような呟きが室内に沈んだ。
名誉でも、正義でもない。
血筋でも、血統でもない。
“アリス・ブラック”は、ただひとつの罪から生まれた結果だと、
彼の心は固く拒んでいた。
外の風が、屋敷の窓を細く震わせる。
レギュラスはその音に、ふと顔を上げた。
机の端には、出がけに運ばれたまま手もつけていないお茶が冷えたままになっていた。
並べられた報告書の上に、アランが書き置いた簡素なメモがあった。
《お疲れのはずです。深く、眠れますように》
そこに広がるのは、自分を縛るものではない――ただの、やさしさだった。
それにすら、今夜のレギュラスは応えられなかった。
アランのぬくもりすら、目の前の苛立ちが霞ませてしまう。
目を伏せ、深く息を吸った。そして吐き出した。
悔しさは冷えを帯び、怒りは形を失いながらも確実に心をかき乱していく。
「……次こそは」
そのひとことだけを、小さく、深く、彼は呟いた。
目を閉じれば、また現れる。
戦場に黒く立ち、愛しいもの全てを踏みにじるかのように存在していた、あの「亡霊」――
アリス・ブラック。
その名を、次こそ必ず沈黙させる。
それが、彼の中でまたひとつ、強い輪郭を持って焼き付けられていた。
朝の光が静かに食卓を包む中、アランは新聞を手に取った。
いつものように整えられた銀の食器が、陽光を反射してきらめいている。
けれど今朝は、その美しい光景も彼女の目には入ってこなかった。
一面に踊る見出しが、すべてを物語っていた。
「騎士団とデスイーター、激しい戦闘」
「アリス・ブラック負傷、命に別状なし」
アランの指が、新聞の縁で小さく震えた。
文字を追う目が、一度、二度と同じ行を辿る。負傷。アリス・ブラック。その名前から、どうしても視線を逸らすことができなかった。
シリウスが守ってくれるはず――そう信じていた。
あの人なら、どんな危険からもアリスを護り抜いてくれると。まるで自分の命よりも大切な何かを守るように、彼女のそばにいてくれると。
それなのに、アリスは傷ついた。
記事には詳細は書かれていない。けれど「負傷」という文字が、アランの胸を静かに締め付けていく。どれほど恐ろしい呪文を浴びせられたのだろう。どれほど怖い思いをしたのだろう。
今すぐにでも、あの子を抱きしめてやりたい。
そんな衝動が、胸の奥で静かに燃えていた。
向かいの席では、レギュラスが無言で紅茶を口にしている。
朝からどことなく機嫌が悪そうで、いつもよりも口数が少なかった。
アランは、新聞を見つめたまま思った。
直感で分かる。レギュラスが、昨夜の戦いに参加していたのだと。
任務から帰ってきたときの様子、今朝の沈黙、そして何より――この記事を見ても何の反応も示さないその態度。
すべてが、彼女の推測を裏付けていた。
きっと彼は、アリスと対峙したのだろう。そして――
「アリスを負傷させるだけで、仕留められなかった」
その事実に、苛立ちを覚えているのだろう。
アランは静かに新聞を畳んだ。
レギュラスの横顔を見つめながら、複雑な感情が胸を駆け巡る。愛する夫。けれど同時に、あの子を傷つけた人でもある。
どちらも、大切な存在。
どちらも、守りたい人。
その矛盾が、アランの心を静かに引き裂いていく。
「今朝の新聞には、興味深い記事がありますね」
そう言って、アランはレギュラスの反応を窺った。けれど彼は、ただ黙って紅茶を飲み続けるだけだった。
その沈黙が、すべてを語っていた。
窓の外では鳥が鳴いている。平和な朝の光景。けれど、この屋敷の中では、誰もが言葉にできない重いものを抱えていた。
アランは手を膝の上で重ね、静かに目を閉じた。
あの子が、無事でいてくれますように。
そして、この複雑な愛憎が、いつか終わりを迎えますように。
そんな祈りを、胸の奥深くに刻み込みながら。
朝の静寂は、ただ重く、長く続いていた。
朝食が終わると、レギュラスは無言で書斎へと向かった。
その背中には、近寄りがたい空気が漂っている。
アランは一瞬躊躇したが、静かに後を追った。
扉の前で立ち止まり、小さくノックをする。返事を待たずに、そっと中に入った。
レギュラスは窓際の椅子に座り、外を見つめていた。振り返ることもしない。
「……アリスを、殺そうとしたのですか?」
アランの声は静かだったが、確信に満ちていた。
その瞬間、レギュラスの肩がわずかに強張った。ゆっくりと振り返った彼の目は細められ、まるでアランに敵意を向けるかのような鋭い光を宿していた。
「レギュラス……お願い」
アランは一歩前に出た。
「アリスを、傷つけないで」
その懇願に、レギュラスの唇が皮肉な笑みを形作った。
「あなたの渾身の願いなら」
椅子からゆっくりと立ち上がり、アランに近づく。
「あの日、聞き入れたはずですが?」
その声には、氷のような冷たさがあった。
「この屋敷に忍び込んで、メイドが死傷した件で」
レギュラスの足音が、静かにアランとの距離を縮めていく。
「アリスとシリウスを、アズカバンに入れてやるつもりでした。けれど――」
彼の目が、アランの顔を見据える。
「あなたが懇願してきたから。僕は全てを赦して、見逃しました」
その口調には、明らかに非難が込められていた。あの時の屈辱は忘れていない――そう告げるように。
「それは……」
アランの声が途切れた。
あの夜のことが、鮮やかに蘇る。
レギュラスの愛情を逆手に取って、「愛しているなら二人を助けて」と懇願した夜。
「助けてくれないのなら、この場で死んでやる」と突きつけた夜。
あの夜、自分は最も卑怯な方法を選んだ。
レギュラスの気持ちを踏みにじり、彼の誇りを傷つけた。愛する人の名において脅迫し、彼を屈服させた。
それがどれほど残酷なことだったか、今なら痛いほど分かる。
だからこそ、あの日以来――
できる限りレギュラスに尽くすようにして生きてきた。
彼の傷ついた心を癒したくて、償いたくて。
「分かっています」
アランは目を伏せた。
「あの時、私は……最低なことをしました」
レギュラスは、アランの目の前で立ち止まった。
その顔には、複雑な感情が入り混じっている。
怒り、悲しみ、そして――愛情。
「それでも」
アランは顔を上げた。
「お願いします。アリスを……」
「まだ言うのですか」
レギュラスの声が、静かに震えた。
「まだ、あの子のために僕に頼むのですか」
その言葉に、アランは息を呑んだ。
彼の瞳に宿る痛み。それは怒りを超えて、もっと深い場所から湧き上がる苦しみだった。
愛している人から、また同じことを求められる辛さ。
自分の気持ちよりも、他の誰かを優先される悲しみ。
「レギュラス……」
アランの手が、震えながら彼の頬に触れようとした。けれどその手は、空中で止まった。
触れる資格があるのだろうか。
慰める権利があるのだろうか。
傷つけたのは、他でもない自分なのに。
書斎の静寂が、ふたりを包み込んでいた。
愛と罪悪感が絡み合った、重く深い沈黙が。
書斎の静寂が、ふたりの間に重く横たわっていた。
アランの唇が震え、次の言葉を紡ごうとしていた。そして――
「もし、あの子に何かあれば……私、生きていけません」
その声と共に、アランはその場に座り込むように膝をついた。
レギュラスを見上げる瞳には、必死の色があった。
そして、言葉にした瞬間、気づいた。
これは、あの夜と同じだった。
「愛しているのなら、二人を赦してくれ」と懇願したあの夜。
自らの胸に杖を当てて、レギュラスの愛を試したあの夜と――
やり方が、まったく同じだった。
また彼の愛情を利用している。
また彼の心を踏みにじろうとしている。
「アラン……いい加減にしてください」
レギュラスの声は静かだったが、その奥に深い疲労が滲んでいた。
怒りを通り越した、諦めにも似た響き。それがかえってアランの胸を刺した。
「お願い、レギュラス」
膝をついたまま、アランは必死に言葉を重ねた。
「あなたの望むものを、全て差し出すわ」
その声は震えていた。
「もう一度……男児を産んでみせます」
差し出せるものは、なんでもあげられる。
むしろ、むしり取っていってくれたって構わない。
そのくらいの思いだった。
自分の身体が、もう子を宿すことなど不可能に近いと分かっていても。
それでも、彼のためなら――アリスのためなら、何でも約束した。
レギュラスは、膝をつく妻を見下ろしていた。
その表情には、言葉にできない複雑な感情が渦巻いている。
「どこまで……」
彼の声が、かすれた。
「どこまで惨めにさせてくるつもりですか」
それは、アランに向けた言葉でもあり、同時に自分自身への問いでもあった。
愛する女性に、こんな風に頼まれること。
自分の感情よりも、他の誰かを優先されること。
そして、それでも彼女を拒めない自分の弱さ。
すべてが、惨めだった。
「お願い、レギュラス……お願い……」
アランの声が、繰り返し響く。
その必死さが、かえってレギュラスの心を締め付けた。
書斎の空気が、重く沈んでいく。
愛する人から愛を利用される苦しみ。
愛するからこそ、拒むことができない弱さ。
そして、同じことを繰り返してしまう残酷さ。
ふたりの間には、愛という名の深い溝が横たわっていた。
それは、どちらも傷つける鋭い刃のように、静かに光っていた。
レギュラスの手が、わずかに震えている。
アランの頬に涙が、一筋流れ落ちた。
愛しているからこそ、こんなにも苦しい。
その真実だけが、静寂の中に重く沈んでいた。
書斎の扉が、静かに軋む音を立てた。
ふたりの間に重苦しい沈黙が横たわるそのとき――
小さな影が、淡い光の中からそっと顔を覗かせた。
それは、セレナだった。
白いナイティの裾を引きながら、まだ幼さの残る瞳に、戸惑いと不安をたたえて、
彼女は一歩、そしてまた一歩と、躊躇うように書斎へと入ってきた。
セレナの視線が、部屋の奥に注がれる。
そして、瞬間――驚きと混乱が、その小さな顔を覆った。
母が父の前で跪いている。
その光景は、五つになったばかりのセレナにとっても、どこか異常で、見てはならないものに映った。
ふわりと揺れる髪の向こうに見えたのは、震える母の肩。
頬には、まだ拭いきれていない涙の痕。
そしてその前に立つ父、レギュラスの硬い横顔――
セレナは、しばし言葉を失って立ち尽くしていた。
「……セレナ」
アランが、声音をやわらげて呼びかけた。
慌てて頬を袖で拭い、泣き顔など見せてはならぬと、ぎこちない動きで姿勢を整える。
「どうしたの?」
優しく微笑みながら、両手を広げる。
その仕草は、日常のそれと変わらぬものだったけれど、
セレナはその“抱きしめられる空間”にすぐに飛び込めなかった。
けれどやがて、絹の裾に包まれながら、小さな足音を忍ばせるようにして近づいてくる。
アランはそっと彼女を腕に抱き上げ、胸元へ迎え入れた。
セレナは母の肩に顔を伏せながら、父――レギュラスを見上げた。
その瞳は、まだ言葉をつくるには幼すぎたけれど、
それゆえに、感情を濁さずに映し出していた。
非難。疑問。戸惑い。そして、小さな怒り。
“お母さまを、泣かせたの……?”
そう言っているかのように、まっすぐに、じっとレギュラスを見つめていた。
アランの腕の中でぬくもりを確かめながら、セレナの小さな身体は、まるで母を庇うように寄り添っていた。
その視線を受けて、レギュラスの胸に、鋭い痛みが走った。
先ほどまでの激しい激情も、氷のような怒りも――
今、この娘の視線の前では、どこかへすり減って消えていくようだった。
愛しているからこそ、守ろうとした言葉。
守りたかったからこそ、ぶつけてしまった言葉。
すべてが、セレナの無言の瞳に、“間違っている”と突きつけられているようだった。
「……すまない」
レギュラスは硬く結ばれた喉の奥から、やっとのことでその言葉を押し出した。
まっすぐに向けられた娘の無垢なまなざしに、
彼はほんのわずか、目を逸らさずにはいられなかった。
繊細な沈黙が、また書斎の空気に広がっていく。
だが、今は――先ほどまでの断絶とは違っていた。
母の腕のぬくもりに包まれて、
父と娘が交わす初めての「あの日の空白」。
その隙間に、小さな光のような赦しが、そっと灯り始めていた。
書斎の扉が音もなく閉まった。
セレナを抱きかかえたアランの後ろ姿が廊下の奥へと消えていったあと、
その静寂を満たすように、レギュラスの吐く息だけが広間に残された。
娘の視線が、胸の奥深くを貫いていた。
——あんな瞳で見られたのは、初めてだった。
小さな非難。小さな傷つき。
それなのに、まるで刺さり込むような重さだった。
あれほど純粋に、まっすぐに向けられた「父としての失望」は、
レギュラスの冷えた理性すらも、ゆっくりと削っていく。
額に手を当てて、目を閉じた。
静かに、ひとつ、深く息を吐き出す。
視界の奥に、さっきのアランの涙と、セレナの大きな瞳が何度も浮かんでは消えていく。
それでも。
今回は——折れるつもりはなかった。
折れることはできなかった。
アリスを生かしておくことが、己の誇り、そして心の安定を蝕んでいた。
それはたぶん、「嫉妬」と呼ぶのだろうと、どこかで理解している。
「憎しみ」に隠された過去の亡霊。「許し」に裏切られた記憶。
愛する者の願いを聞いたはずの自分が、
何重にも縛られて、いまだ解けぬままでいること。
それでも、自分の中で最初に譲ってしまったあの夜の記憶を、
レギュラスは繰り返すことができなかった。
――もう、戻るわけにはいかなかった。
今またアリスを見逃せば、
これまで自分が何を守ってきたのか、見失ってしまう。
怒りだけじゃない。誇りだけでもない。
それは、「愛する」という言葉で濁してきた、
もっと複雑で繊細な、男としての矛盾そのものだった。
レギュラスはゆっくりと椅子に腰を下ろし、
肘を膝に乗せ、額を手に埋めた。
静けさの中で、苦さだけが舌に残っていた。
けれどその苦さが、自分を保つ唯一の輪郭にも思えた。
娘の瞳が、妻の涙が、胸のどこかに残って痛んだとしても——
今回は、それでも踏みとどまるしかなかった。
愛には、折れてはならぬ一線がある。
それは、守るためでなく、自分が壊れてしまわぬための線だった。
足音は規則正しく、任務のための黒いローブが足首を撫でて揺れる。
手には今夜の指令書が握られ、冷たい夜風が頬を過ぎていく。
また、任務だった。
セブルス・スネイプからの忠告があった日から、レギュラスは意識的に夜間の任務を増やしていた。断り続けていた危険な調査も、長時間の見張りも、すべて引き受けるようになった。
わかっていた。
セブルスが忠告するほどなのだから、自分の最近の態度は確実に問題視されている。ベラトリックスの冷たい視線も、他のデスイーターたちの疑念も、すべて理解していた。
従うことが正解なのだ。
家族のため、そして何より―― アランを守るため。
それでも。
今すぐにでも、アランのもとに帰りたかった。
指令書を胸に押し当てながら、レギュラスは静かに目を閉じた。
彼女の寝顔が脳裏に浮かぶ。月明かりに照らされた頬の線、静かな寝息、そっと手を伸ばせば触れられる温もり。
できる限り彼女のそばにいる時間を増やしたい――
そう願った矢先のことだった。
皮肉だった。愛する人を守るために、愛する人から離れなければならない。この矛盾が、胸の奥で静かに軋んでいる。
「レギュラス」
背後から声をかけられて振り返ると、同僚のデスイーターが立っていた。
「今夜の任務、ご苦労だった。久しぶりに君が夜通しの仕事を引き受けてくれて助かったよ」
その言葉に、レギュラスは小さく頷いた。
「当然のことです」
表面的には何の感情も込めず答えたが、心の奥では苦い思いが渦巻いている。
「久しぶりに」
その言葉が、自分がどれほど家庭に傾倒していたかを物語っていた。周囲には隠しているつもりでも、すべて見透かされていたのだ。
任務先へ向かう途中、レギュラスは夜空を見上げた。
星が静かに瞬き、遠い光を地上に注いでいる。
アランも、今頃は同じ星空を見ているだろうか。
それとももう眠っているだろうか。
最近は、彼女の体調も良くない日が続いていた。夕食の席でも疲れた様子を見せることが多く、早めに休むことも増えていた。そんなときこそ、そばにいてあげたいのに。
愛することと、守ることの間で引き裂かれる感覚。
それは、レギュラスにとって初めて経験する種類の苦痛だった。
任務地に到着すると、レギュラスは感情を完全に封印した。
デスイーターとしての顔を被り、冷徹に、確実に仕事をこなす。
それが、愛する妻を守る唯一の方法だから。
でも、心の片隅では常に祈っていた。
早く、この夜が終わりますように。
無事に、あの人のもとへ帰れますように。
夜風が頬を撫でるたび、アランの手の温もりを思い出す。
星の光が揺れるたび、彼女の微笑みが脳裏をよぎる。
愛は、時として残酷だった。
守りたいものがあるからこそ、離れなければならない。
大切にしたいからこそ、自分を犠牲にしなければならない。
レギュラス・ブラックは、その矛盾を抱えながら、今夜もまた闇の中を歩き続けた。
愛する人の笑顔を胸に秘めながら、静かに、そして孤独に。
朝の陽は淡く、屋敷の食卓をやさしく照らしていた。
磨かれた銀器が静かに光を返し、香り立つ紅茶の湯気がひそやかに揺れていた。
いつものように、ブラック家の朝は規律と気品に満ちていた。
扉が静かに開き、レギュラス・ブラックが任務から戻ってきた。
肩にはまだ夜の冷気が残っている。
黒のコートが重く引きずるように揺れ、足音が食卓へと近づいてゆく。
「……戻りました」
その声は変わらず穏やかで、少し掠れていた。
けれどその佇まいから、疲労の色がうっすらと滲んでいた。
「おかえりなさい。」
アランの声がふわりと応えた。
瞳だけを向けて、音を張らずに丁寧に迎える声だった。
オリオンとヴァルブルガもそれぞれに視線を上げた。
無言のうちに短くうなずき、迎え入れる――
それが、ブラック家のやり方だった。
アランは静かに椅子を立ち上がった。
白の絹のガウンの裾が床をすべる音がわずかに響く。
「コートを」
彼女がそう言うより早く、自然とレギュラスは歩み寄り、肩から外した外套を手渡した。
そしてその一瞬――
コートが彼女の指先に触れた瞬間に、
レギュラスは、さりげなく、ひどく素早く―― アランの頬へ口づけた。
ほんの一刹那。
誰の目にも届かない角度。
あの広い食卓の陰からなら、後方に座るオリオンやヴァルブルガの視線には、恐らく入っていないはず。
けれど、アランの目は何かを一瞬で悟っていた。
レギュラスの唇が離れると同時に、アランは彼を見上げ、
ほんの少しだけ、きゅうっと眉を寄せて視線を送った。
――それが、言葉のない非難だった。
「なぜ今なの」
「見えていたかもしれない」
そう問いただす代わりに、微笑も言葉も添えず、
ただその目で、彼を静かにとがめていた。
「……朝食はどうする?」
その間を裂くように、食卓の端からオリオンが声をかけた。
レギュラスは視線を戻し、少しだけ首を傾ける。
「……今日は、ちょうど帰ったばかりです。あまり食欲がなくて」
言い訳のようで、淡々とした口調。
けれどその実、アランのたった一つの視線が胸の奥に残っていた。
それは痛みではなくて、
むしろ甘やかさを帯びた悔いだった。
――この家では、言葉よりも、沈黙こそが愛情を刺す。
アランは何も言わなかった。
ただコートをきちんとたたみ、レギュラスの書斎に預けるようにと使用人へそっと手渡す。
その手がすこしだけ名残惜しそうに、布の端を撫でる。
レギュラスはその仕草を見逃さなかった。
小さな叱責ひとつでさえも、彼にとっては、離れすぎないための“繋がり”のように感じられた。
だからこそ、満たされぬまま迎えた朝さえ、
ほんのわずかな喜びが混ざる。
――そしてまた、ふたりだけに知れる「愛の印」がひとつだけ、小さくそこに落ちていた。
書斎の扉を、とん、と小さく叩く音がした。
音もなく開かれたその隙間から、まろやかな紅茶の香りと、微かに温かみのある空気が入り込む。
「失礼します」
アランだった。
白と灰の落ち着いたガウンに身を包み、両手で丸盆を抱えたその姿は、どこまでも慎ましく、静かだった。
盆には薄く切られた二切れのサンドイッチと、湯気の立つ紅茶。
食欲がないはずの朝に、決して押し付けぬよう、けれど決して無関心でもない、ちょうどいい“気遣いの形”。
「少しは、召し上がらないと」
アランはそう言って、そっと机の端にトレイを置いた。
声は柔らかく、必要以上に静かだったが、
その背中から漂う空気に、“心を置いてゆくような温度”が確かにあった。
レギュラスは、しばらく椅子にそのままの姿勢で座っていた。
手元には紛糾する報告書、冷たくなったインク、進むべき任務の図解
けれど彼は、ようやく深く一度だけ息を吐くと、アランの方へゆっくりと顔を向けた。
「ああ……ええ、いただきます」
その返事には、誰にも聞こえぬほどの安堵の響きが忍んでいた。
見られている、気づかれている。
それだけで、心が一気にほどける瞬間がある。
言葉を尽くさなくても、自分がここにいることを、
見守る人がいるという「確かさ」。
それはどんな豪奢な衣服や称賛よりも、いまの彼には沁みた。
アランは深く腰掛けることはせず、数歩だけ離れた位置に立ち止まり、小さく息を整えていた。
それが帰る合図なのか、見届けてから部屋を出ていく余白なのかは、彼女自身もわかっていなかった。
でも、レギュラスはその場から視線を落とし、
サンドイッチをひとつ取ると、まるで本当に食事として楽しむように、静かに口に運ぶ。
「ありがとう、アラン」
その言葉が落とされた瞬間、
アランの睫毛が少しだけふるえた。
ふたりの間には、何も派手なやりとりはなかった。
けれどその沈黙の質が、たまらなくやさしいものに変わっていた。
疲れていた。
心も身体も擦り減っていた。
けれど――
ほんの一杯の紅茶と、二切れのサンドイッチが、
音もなく“帰ってきた”という実感をくれた。
レギュラスの視線がやわらかく床を見つめたまま、
明け方のまだ色づかぬ光が、書斎の壁を静かに撫でていく。
愛は、たったふたつの皿で、すべてを伝えることができた。
ソファに座るアランの隣へ、レギュラスは静かに腰を下ろした。
衣擦れのわずかな音。
アランが手にして読んでいた雑誌のページが、ふわりと揺れた。
「……終わったのですか?」
アランの声は低く、静かだった。
問いただすでも、探るでもなく、ただそこに寄り添うような口調。
レギュラスは目を伏せたまま、肩から少し息を抜いた。
「ああ……まあ、いいんです」
それが本当の“終わり”というほどではなかった。
だが、このくらいで、今日はもう充分だ――そう思えるくらいには心が片付いていた。
区切りだった。職務の、思考の、痛みの。
けれど今、彼の心が傾いたのは別の場所。
隣で雑誌を軽く膝に置いたままページをめくるアランの手。
何かの作業をするでもなく、読んでいるというより目を通す程度で。
けれど、それがどこか落ち着いていて、静かで、美しかった。
気負いも、飾りも、この瞬間にはなかった。
ただ彼女がそこにいて、彼が戻ってきただけの、あまりに平凡な夜の時間。
その情景に、胸が満ちてくるのをレギュラスは抑えられなかった。
そっと、アランの手の中の雑誌を抜き取る。
アランは視線を彼に向けるだけで、言葉はなかった。
そのまま、レギュラスは彼女の胸元へと、ゆっくり身を寄せた。
柔らかな感触が、頬を包み込んだ。
香りと微かな鼓動。
それは日常では触れない場所だった。
普段は手に触れるだけ。しかし今だけは、どこか、無言の許しと安らぎの源を求める衝動が勝った。
アランの胸元に顔を預ける。
彼女の身体が、少しだけ呼吸で上下するのがわかる。
そのゆるやかな律動に、レギュラスのまぶたが自然と重たくなった。
押し当てた頬の奥で、心音が跳ねている。
高ぶりでも怯えでもない、ただ生きている熱と音。
そこでは時間が緩やかに流れ、彼を沈ませるように包んでいく。
アランは、何も言わなかった。
指を動かすでも、身体をずらすこともせず、
ただそのあたたかな沈黙の中で、彼を受け止めていた。
レギュラスは目を閉じた。
痛みも、憂いも、焦燥もすべて遠ざかっていく。
彼の頬に触れているのが愛情の輪郭だとしたなら――
この瞬間は、言葉よりずっと深い祈りに似ていた。
アランの静けさが、彼に眠りを許す。
そして、眠気がゆっくりとその意識を飲み込んでいく。
すぐそばで聞こえる心音に、
彼の眠りは、深く、やさしく、落ちていった。
夕暮れの光が、ブラック家の重厚な窓硝子を柔らかく染めていた。
豊かな蔦草が絡む窓辺に立ち、ヴァルブルガ・ブラックは静かに庭先に視線を落としていた。
黄金色に染まる庭―。
その中に、小さな木製のブランコ。その上にはふたりの姿。
レギュラスとアラン。
細身の体をそっと寄せ合い、言葉を交わすこともなく、ただ静かに並んで座っている。
遠目でその光景を見ているだけなら、平穏で微笑ましい一幕に映っただろう。
理想的な貴族の若夫婦。
けれど、ヴァルブルガの表情には、笑みの欠片ひとつなかった。
元をたどれば、アラン・セシールとの縁談は、ヴァルブルガが主導して進めたものだった。
セシール家――相応の家格。確かな血統。
そういった政治的な意味合いもあったけれど、最終的にアランを「息子の妻に」と定めた決め手は、あの美貌にあった。
瑞々しい椿のような肌、淡い黒の髪、そしてなにより静けさのなかに凛とした美しさを保っているところ。
少女時代から、人目に立つ華ではなかったが、まるで磨き立ての銀器のように、どこに出しても恥ずかしくない。
――従順で、美しい。
そういう女こそ、このブラック家の「妻」にふさわしかった。
ならば当然、世継ぎも――
4人、5人と、この家の未来を担う子を産んでくれるだろう。
あのつつましさで、忠義に徹して、役割を果たしてくれるはず。
そう思っていた。心の底から。
だが、実際は――男児を産んだのはアルタイルひとり。
その後の男児の懐妊はなく、度重なる体調不良、
止まらぬ微熱、眠れぬ夜、沈む肌の色。
医者の口から告げられたのは、「次は望めないでしょう」という言葉。
「想定外だったのよ、本当に……」
誰にも聴こえないよう、ヴァルブルガは小さく呟いた。
オリオンと共に描いていた計画のすべてから逸れはじめている。
嫁は役割を果たさず、息子はその嫁に情を深める一方。
妾の話を持ちかける貴族たちの提案にも、レギュラスは頑なに首を縦に振らなかった。
「まるで、どこか違う考えで生きているような……」
そう、忌々しいほど父オリオンに似ない。
レギュラスは昔から物静かで忠実だったが、内に秘めた情の濃さ――
それは、この家にとって“好ましくない歪み”となっていた。
すでに「あとは家が何とかする」と合点していた息子が、
いまだあの女を離そうともしない。
あの脆弱な身体と、もう子も望めぬ女に、何の価値があるのか。
それなのに、あの穏やかなまなざしで、レギュラスは今も彼女を見つめ続けていた。
窓の外、ブランコがゆっくりと揺れていた。
風のない日だったが、あのふたりだけを包む小さな空気の孤島のように、時間が別のリズムを刻んでいるようだった。
ヴァルブルガはそっと視線を伏せた。
心の奥に生まれてしまうのは、怒りとは違う。
どこか、焦燥に似た“毒”のような感情。
このままでいいとは到底思えない。
けれど今、ふたりの間に斬りこめる隙が、どこにも見当たらない。
それが、ヴァルブルガにとって最大の誤算だった。
己の意志で固めた縁が、ある種の「愛」に育ってしまったことこそが――
一族の未来を、いちばん狂わせていた。
そして、その静かな闇が、夕暮れの屋敷に音もなく降り積もってゆく。
夜の闇が戦場を覆い、魔法の光が空を裂いていた。
騎士団とデスイーターの全面衝突――それは避けられぬ宿命の交錯点。
呪文の炸裂音が響き渡る中、シリウス・ブラックは愛弟子アリスを護るように立っていた。だが、彼らを狙う攻撃は異常なほど激しかった。
他の騎士団メンバーへの攻撃が散発的なのに対し、アリス・ブラックには集中砲火が浴びせられている。まるで彼女ひとりを殲滅することが、この戦いの最優先事項であるかのように。
そして、その攻撃を指揮しているのは――レギュラス・ブラックだった。
「アバダ・ケダブラ!」
緑の光が闇を裂き、アリスの頭上を掠めていく。
レギュラスの杖から放たれた死の呪文は、一切の容赦がなかった。
兄弟の瞳が、暗闇の中で交錯する。
シリウスの灰色の瞳には怒りが、レギュラスの黒い瞳には冷徹な殺意が宿っていた。
「セクタムセンプラ!」
「プロテゴ・マキシマ!」
呪文が激しく飛び交う。レギュラスの配下たちも、明らかに「アリス・ブラック」を最優先目標として動いている。
まるで、その名前自体が彼らにとって許しがたい冒涜であるかのように。
「てめぇの相手は俺だ!」
シリウスが吠えるように叫び、レギュラスとの間に立ち塞がった。
兄弟対決――それは長年にわたって燻り続けてきた憎悪の、ついに爆発する瞬間。
「クルーシオ!」
「エクスペリアームス!」
容赦のない呪文が次々と交わされる。
兄弟は互いの急所を知り尽くしていた。だからこそ、その攻撃は他の誰との戦いよりも苛烈だった。
レギュラスの顔には、普段の冷静さとは別種の感情が滲んでいた。
それは、理性を超えた怒りと屈辱だった。
アリス・ブラック。
その名前が、レギュラスの心を掻き毟っている。
マグルの血を引く少女が、神聖なブラック家の名を名乗ること。
シリウスが養子として迎え入れたこと。
そして何より――
その少女が、アランによって命を救われた子であること。
あの夜、アランが自らの命を賭けて敵陣から逃がした少女。
そしてその後をシリウスに託した少女。
まるで、シリウスとアランの間に生まれた子であるかのように。
愛の結実であるかのように。
その事実が、レギュラスには耐えがたい屈辱だった。
シリウスは、弟の心の奥底を見透かしていた。
なぜレギュラスがここまでアリスを憎むのか。
なぜ「アリス・ブラック」という名前が、彼をこれほどまでに狂わせるのか。
それは愛ゆえの嫉妬だった。
アランへの、そしてかつて彼女が自分に向けた愛への、激しい嫉妬。
「レギュラス!」
シリウスが叫んだ時、一瞬だけ戦場に静寂が訪れた。
「お前が憎んでいるのは、アリスじゃない。俺だ。そして――」
言葉が途切れる。
そして、アランを愛し続けている自分自身だ。
その真実を口にすることはできなかった。
それは、両者にとってあまりにも深い傷だから。
再び呪文が飛び交い始める。
兄弟の戦いは、まだ終わらない。
アリス・ブラックは、その名前ゆえに標的となり続ける。
それが、愛と憎悪が織り成す運命の皮肉だった。
夜の闇の中で、三つの運命が激しく交錯していた。
過去の愛と、現在の憎悪と、未来への願いが――
呪文の光に照らされながら、静かに、そして激しく燃え続けていた。
アリスは息を切らしながらシリウスの背に隠れた。
頬にかすかに当たった熱が、死の呪文の放たれた軌跡だったと理解するには、ほんの一拍の間しか要らなかった。
「……何なの、レギュラス……」
自身の腕に火傷のような痺れが残るまま、アリスはかすれた声をこぼした。
敵意。殺意。迷いの一切ない、研がれた刃のような呪文。
その焦点に自分ひとりが定められているという事実が、何より彼女を震えさせていた。
それでも、戦場で足を止めるわけにはいかなかった。
目を伏せれば、仲間が倒れる。背を向ければ、命を落とす。
ここは、ただ戦う場所。
個人的な意味はあってはならないはずだった。――けれど。
目の前の男は間違いなく「個人的な怒り」をぶつけていた。
そしてそれがどれだけ深く、根を張ったものかを、シリウスだけはわかっていた。
「まだ分からねぇのかよ!」
シリウスが声を上げ、再びレギュラスに正面から向き直る。
「アリスがアランに命を救われたからって。俺がブラックの名を与えたからって。だから何だ!」
地面が焦げ、木々を焼く炎が辺りを包む中、ふたりの男の距離がじりじりと縮まっていく。
レギュラスの黒いローブが風に揺れた。
その指先に握られた杖に、再び淡く緑の光が踊る。
「だから、“そこに子が生まれなかった”とでも思えるのか?」
静かに絞り出されたレギュラスの言葉には、どんな呪文よりも重い響きがあった。
それは、最も口にしてはならなかった感情――
幻想であり、痛みであり、誰にとっても届かない問い。
アリスが、アランとシリウスの間に生れ落ちるべきだった子のように見える。
前に座っていたあの夜のふたりの光、その続きを見ているように。
いや、レギュラスの目には、そうとしか映らなかった。
アリスは、そういう過去の残響。
美しすぎる置き去りの“可能性”。
それが今、自分の目の前で「ブラック」の名を名乗り、
シリウスによって守られて生き延びている。
それが、耐えられなかった。
「レギュラス……あたしを殺したいならそれでいい」
アリスは、シリウスを静かに押しのけてレギュラスの前に出た。
声も、瞳も震えていなかった。
褒められるような勇敢さとは違う、もっと根源的な“意思”がそこにあった。
「でも、わたしが憎いのは――きっと、ただの代弁でしょう?」
しばらくの間、レギュラスは何も言わなかった。
ただじっと、冷たい瞳で目の前の少女を見ていた。
亡霊のように残るアランの心、
口にはしない兄への嫉妬、
そして、どこにも行き場のない愛。
その全てが、アリスという存在によって具現化してしまった。
だから――どうしても、その存在をこの世から消したかった。
だが。
レギュラスの指先が、最後の呪文を放とうと動くより速く。
空から、真新しい光線が奔った。
戦況が崩れ、別の配置から騎士団の増援が現れたのだ。
バッと風が切れる。
アリスは咄嗟にシリウスに手を取られ、距離を割かされる。
そして、レギュラスもまた――引き際を察したのか、再び闇へと姿を溶かした。
立ち尽くすアリスの左腕には、さっき掠めた死呪文の火傷跡が残っていた。
けれど、それ以上に焼きついたのは、レギュラスの目だった。
どうして、あの人はあんなに――悲しい顔をしていたのだろう。
戦場の残響が、夜の静寂に吸い込まれていく。
胸の鼓動だけが、なおもそこに残っていた。
戦場にはようやく小さな静寂が戻っていた。
アリスは肩で息を継ぎながら、裂かれたままの袖口に目を落とす。
肌に焼けついた呪文の痕――傷口は浅いはずなのに、なぜか痛みが深く染み込んでくるようだった。
けれど、それとは別に、まだ胸の奥で疼いてやまないものがある。
レギュラスの瞳。
あれは、憎しみだけじゃなかった。
殺意という名の仮面の奥に、はっきりと影のような何かがあった。
「……すまない」
シリウスの声が背後から低く落ちてくる。
アリスはゆっくり振り向いた。
彼の髪は乱れ、外套には傷が増えている。
そのまなざしの奥にも、戦闘とは別の沈殿した感情があった。
「……謝るのは、あなたじゃない」
アリスの声はかすれていたが、はっきりしていた。
「私はあの人にとって、何かを踏みにじったみたいだわ。でもそれが何なのか、もう知ってる」
シリウスは、言葉を返せなかった。
目を逸らすこともなく、ただその表情が苦しげに固まっている。
かつて自分自身が壊した過去。
アランとの記憶、すれ違いと赦しの痕。
その延長戦にアリスという存在がいて――
彼女が、その“名”を背負ったことの意味を、レギュラスがどう抱えていたのか。
「お前は悪くないよ」
ようやく絞り出すように言葉にした声には、
どこか、自分自身にすら信じさせようとする響きがあった。
アリスはふっと目を閉じた。
「わかってる。……でも、きっと」
再び目を開けたその瞳には、涙の一粒も見えなかった。
そのかわりに、どこか固く、そして強く結ばれた決意のような影が宿っていた。
「まだ終わらない。あの人は、私を“そういう存在”としてしか見ない。
だったら、これから何を選んでも、私はもう、レギュラスにとって “存在自体が罪” になるのね」
夜風が吹き抜ける。
辺りには戦いが残した土と硝煙の匂い。
その中で、ふたりはただ、立っていた。
名を与えた父と――
存在そのものが敵意を招いた娘。
それでも、ブラックの名のもとに繋がれた揺れ動く絆だけは、
簡単には消えそうにない跡となって刻まれていた。
暗雲の底で、次の戦いの兆しだけが静かに息を潜めていた。
月は雲に包まれ、屋敷の外は妙に静まり返っていた。
その静寂に反するように、レギュラス・ブラックの足音が硬く廊下に響く。
ローブの裾が翻るたびに、空気が鋭く震えていた。
執務室に入ると、彼は躊躇なく杖を机に叩きつけた。金属のように固い音が響き、細波のような魔素が空間に揺れた。
苛立ちが胸に渦巻いていた。
疲労はあった──確かに、あった。
けれどそれは肉体よりもずっと深いところ、感情の底に根を張ったものだった。
今夜、アリス・ブラックを仕留め損ねた。
ただの失敗ではない。
最も確実に対峙できた好機だった。
それを、あの騎士団の増援によって断たれた。
すぐ近くにいた。もう指のひと差しで届くところまでいたはずなのに。
──取り逃がした。
悔しさが喉の奥で錆のように突き刺さる。
火も灯していない執務机の前に、レギュラスは沈み込むように腰を下ろした。
握り拳に力が入りすぎて、微かに震えている。
「……連れて出るな、あんな奴を」
唇の端から、噛み潰すような低い声が漏れた。
あの女は決して一人で戦場に出ない。
いつだって誰かの陰にいる。
いつだって、シリウスが──あの男が、隣にいる。
その姿を見るたびに、皮膚の下に潜む血がざわついた。
あのふたりが並んでいるだけで、頭の奥が刺すように痛む。
それがいかに「実りを持たぬ関係」であると分かっていても。
それでもアリス・ブラックという存在が、“ふたりの延長”にしか見えない自分が、
何より──堪えがたかった。
それが幻想だと分かっていても、なお、その子供を名乗らせたという事実に、どうしても膝を折って従う気にはなれなかった。
「……あの名に、ふさわしくない」
低く唸るような呟きが室内に沈んだ。
名誉でも、正義でもない。
血筋でも、血統でもない。
“アリス・ブラック”は、ただひとつの罪から生まれた結果だと、
彼の心は固く拒んでいた。
外の風が、屋敷の窓を細く震わせる。
レギュラスはその音に、ふと顔を上げた。
机の端には、出がけに運ばれたまま手もつけていないお茶が冷えたままになっていた。
並べられた報告書の上に、アランが書き置いた簡素なメモがあった。
《お疲れのはずです。深く、眠れますように》
そこに広がるのは、自分を縛るものではない――ただの、やさしさだった。
それにすら、今夜のレギュラスは応えられなかった。
アランのぬくもりすら、目の前の苛立ちが霞ませてしまう。
目を伏せ、深く息を吸った。そして吐き出した。
悔しさは冷えを帯び、怒りは形を失いながらも確実に心をかき乱していく。
「……次こそは」
そのひとことだけを、小さく、深く、彼は呟いた。
目を閉じれば、また現れる。
戦場に黒く立ち、愛しいもの全てを踏みにじるかのように存在していた、あの「亡霊」――
アリス・ブラック。
その名を、次こそ必ず沈黙させる。
それが、彼の中でまたひとつ、強い輪郭を持って焼き付けられていた。
朝の光が静かに食卓を包む中、アランは新聞を手に取った。
いつものように整えられた銀の食器が、陽光を反射してきらめいている。
けれど今朝は、その美しい光景も彼女の目には入ってこなかった。
一面に踊る見出しが、すべてを物語っていた。
「騎士団とデスイーター、激しい戦闘」
「アリス・ブラック負傷、命に別状なし」
アランの指が、新聞の縁で小さく震えた。
文字を追う目が、一度、二度と同じ行を辿る。負傷。アリス・ブラック。その名前から、どうしても視線を逸らすことができなかった。
シリウスが守ってくれるはず――そう信じていた。
あの人なら、どんな危険からもアリスを護り抜いてくれると。まるで自分の命よりも大切な何かを守るように、彼女のそばにいてくれると。
それなのに、アリスは傷ついた。
記事には詳細は書かれていない。けれど「負傷」という文字が、アランの胸を静かに締め付けていく。どれほど恐ろしい呪文を浴びせられたのだろう。どれほど怖い思いをしたのだろう。
今すぐにでも、あの子を抱きしめてやりたい。
そんな衝動が、胸の奥で静かに燃えていた。
向かいの席では、レギュラスが無言で紅茶を口にしている。
朝からどことなく機嫌が悪そうで、いつもよりも口数が少なかった。
アランは、新聞を見つめたまま思った。
直感で分かる。レギュラスが、昨夜の戦いに参加していたのだと。
任務から帰ってきたときの様子、今朝の沈黙、そして何より――この記事を見ても何の反応も示さないその態度。
すべてが、彼女の推測を裏付けていた。
きっと彼は、アリスと対峙したのだろう。そして――
「アリスを負傷させるだけで、仕留められなかった」
その事実に、苛立ちを覚えているのだろう。
アランは静かに新聞を畳んだ。
レギュラスの横顔を見つめながら、複雑な感情が胸を駆け巡る。愛する夫。けれど同時に、あの子を傷つけた人でもある。
どちらも、大切な存在。
どちらも、守りたい人。
その矛盾が、アランの心を静かに引き裂いていく。
「今朝の新聞には、興味深い記事がありますね」
そう言って、アランはレギュラスの反応を窺った。けれど彼は、ただ黙って紅茶を飲み続けるだけだった。
その沈黙が、すべてを語っていた。
窓の外では鳥が鳴いている。平和な朝の光景。けれど、この屋敷の中では、誰もが言葉にできない重いものを抱えていた。
アランは手を膝の上で重ね、静かに目を閉じた。
あの子が、無事でいてくれますように。
そして、この複雑な愛憎が、いつか終わりを迎えますように。
そんな祈りを、胸の奥深くに刻み込みながら。
朝の静寂は、ただ重く、長く続いていた。
朝食が終わると、レギュラスは無言で書斎へと向かった。
その背中には、近寄りがたい空気が漂っている。
アランは一瞬躊躇したが、静かに後を追った。
扉の前で立ち止まり、小さくノックをする。返事を待たずに、そっと中に入った。
レギュラスは窓際の椅子に座り、外を見つめていた。振り返ることもしない。
「……アリスを、殺そうとしたのですか?」
アランの声は静かだったが、確信に満ちていた。
その瞬間、レギュラスの肩がわずかに強張った。ゆっくりと振り返った彼の目は細められ、まるでアランに敵意を向けるかのような鋭い光を宿していた。
「レギュラス……お願い」
アランは一歩前に出た。
「アリスを、傷つけないで」
その懇願に、レギュラスの唇が皮肉な笑みを形作った。
「あなたの渾身の願いなら」
椅子からゆっくりと立ち上がり、アランに近づく。
「あの日、聞き入れたはずですが?」
その声には、氷のような冷たさがあった。
「この屋敷に忍び込んで、メイドが死傷した件で」
レギュラスの足音が、静かにアランとの距離を縮めていく。
「アリスとシリウスを、アズカバンに入れてやるつもりでした。けれど――」
彼の目が、アランの顔を見据える。
「あなたが懇願してきたから。僕は全てを赦して、見逃しました」
その口調には、明らかに非難が込められていた。あの時の屈辱は忘れていない――そう告げるように。
「それは……」
アランの声が途切れた。
あの夜のことが、鮮やかに蘇る。
レギュラスの愛情を逆手に取って、「愛しているなら二人を助けて」と懇願した夜。
「助けてくれないのなら、この場で死んでやる」と突きつけた夜。
あの夜、自分は最も卑怯な方法を選んだ。
レギュラスの気持ちを踏みにじり、彼の誇りを傷つけた。愛する人の名において脅迫し、彼を屈服させた。
それがどれほど残酷なことだったか、今なら痛いほど分かる。
だからこそ、あの日以来――
できる限りレギュラスに尽くすようにして生きてきた。
彼の傷ついた心を癒したくて、償いたくて。
「分かっています」
アランは目を伏せた。
「あの時、私は……最低なことをしました」
レギュラスは、アランの目の前で立ち止まった。
その顔には、複雑な感情が入り混じっている。
怒り、悲しみ、そして――愛情。
「それでも」
アランは顔を上げた。
「お願いします。アリスを……」
「まだ言うのですか」
レギュラスの声が、静かに震えた。
「まだ、あの子のために僕に頼むのですか」
その言葉に、アランは息を呑んだ。
彼の瞳に宿る痛み。それは怒りを超えて、もっと深い場所から湧き上がる苦しみだった。
愛している人から、また同じことを求められる辛さ。
自分の気持ちよりも、他の誰かを優先される悲しみ。
「レギュラス……」
アランの手が、震えながら彼の頬に触れようとした。けれどその手は、空中で止まった。
触れる資格があるのだろうか。
慰める権利があるのだろうか。
傷つけたのは、他でもない自分なのに。
書斎の静寂が、ふたりを包み込んでいた。
愛と罪悪感が絡み合った、重く深い沈黙が。
書斎の静寂が、ふたりの間に重く横たわっていた。
アランの唇が震え、次の言葉を紡ごうとしていた。そして――
「もし、あの子に何かあれば……私、生きていけません」
その声と共に、アランはその場に座り込むように膝をついた。
レギュラスを見上げる瞳には、必死の色があった。
そして、言葉にした瞬間、気づいた。
これは、あの夜と同じだった。
「愛しているのなら、二人を赦してくれ」と懇願したあの夜。
自らの胸に杖を当てて、レギュラスの愛を試したあの夜と――
やり方が、まったく同じだった。
また彼の愛情を利用している。
また彼の心を踏みにじろうとしている。
「アラン……いい加減にしてください」
レギュラスの声は静かだったが、その奥に深い疲労が滲んでいた。
怒りを通り越した、諦めにも似た響き。それがかえってアランの胸を刺した。
「お願い、レギュラス」
膝をついたまま、アランは必死に言葉を重ねた。
「あなたの望むものを、全て差し出すわ」
その声は震えていた。
「もう一度……男児を産んでみせます」
差し出せるものは、なんでもあげられる。
むしろ、むしり取っていってくれたって構わない。
そのくらいの思いだった。
自分の身体が、もう子を宿すことなど不可能に近いと分かっていても。
それでも、彼のためなら――アリスのためなら、何でも約束した。
レギュラスは、膝をつく妻を見下ろしていた。
その表情には、言葉にできない複雑な感情が渦巻いている。
「どこまで……」
彼の声が、かすれた。
「どこまで惨めにさせてくるつもりですか」
それは、アランに向けた言葉でもあり、同時に自分自身への問いでもあった。
愛する女性に、こんな風に頼まれること。
自分の感情よりも、他の誰かを優先されること。
そして、それでも彼女を拒めない自分の弱さ。
すべてが、惨めだった。
「お願い、レギュラス……お願い……」
アランの声が、繰り返し響く。
その必死さが、かえってレギュラスの心を締め付けた。
書斎の空気が、重く沈んでいく。
愛する人から愛を利用される苦しみ。
愛するからこそ、拒むことができない弱さ。
そして、同じことを繰り返してしまう残酷さ。
ふたりの間には、愛という名の深い溝が横たわっていた。
それは、どちらも傷つける鋭い刃のように、静かに光っていた。
レギュラスの手が、わずかに震えている。
アランの頬に涙が、一筋流れ落ちた。
愛しているからこそ、こんなにも苦しい。
その真実だけが、静寂の中に重く沈んでいた。
書斎の扉が、静かに軋む音を立てた。
ふたりの間に重苦しい沈黙が横たわるそのとき――
小さな影が、淡い光の中からそっと顔を覗かせた。
それは、セレナだった。
白いナイティの裾を引きながら、まだ幼さの残る瞳に、戸惑いと不安をたたえて、
彼女は一歩、そしてまた一歩と、躊躇うように書斎へと入ってきた。
セレナの視線が、部屋の奥に注がれる。
そして、瞬間――驚きと混乱が、その小さな顔を覆った。
母が父の前で跪いている。
その光景は、五つになったばかりのセレナにとっても、どこか異常で、見てはならないものに映った。
ふわりと揺れる髪の向こうに見えたのは、震える母の肩。
頬には、まだ拭いきれていない涙の痕。
そしてその前に立つ父、レギュラスの硬い横顔――
セレナは、しばし言葉を失って立ち尽くしていた。
「……セレナ」
アランが、声音をやわらげて呼びかけた。
慌てて頬を袖で拭い、泣き顔など見せてはならぬと、ぎこちない動きで姿勢を整える。
「どうしたの?」
優しく微笑みながら、両手を広げる。
その仕草は、日常のそれと変わらぬものだったけれど、
セレナはその“抱きしめられる空間”にすぐに飛び込めなかった。
けれどやがて、絹の裾に包まれながら、小さな足音を忍ばせるようにして近づいてくる。
アランはそっと彼女を腕に抱き上げ、胸元へ迎え入れた。
セレナは母の肩に顔を伏せながら、父――レギュラスを見上げた。
その瞳は、まだ言葉をつくるには幼すぎたけれど、
それゆえに、感情を濁さずに映し出していた。
非難。疑問。戸惑い。そして、小さな怒り。
“お母さまを、泣かせたの……?”
そう言っているかのように、まっすぐに、じっとレギュラスを見つめていた。
アランの腕の中でぬくもりを確かめながら、セレナの小さな身体は、まるで母を庇うように寄り添っていた。
その視線を受けて、レギュラスの胸に、鋭い痛みが走った。
先ほどまでの激しい激情も、氷のような怒りも――
今、この娘の視線の前では、どこかへすり減って消えていくようだった。
愛しているからこそ、守ろうとした言葉。
守りたかったからこそ、ぶつけてしまった言葉。
すべてが、セレナの無言の瞳に、“間違っている”と突きつけられているようだった。
「……すまない」
レギュラスは硬く結ばれた喉の奥から、やっとのことでその言葉を押し出した。
まっすぐに向けられた娘の無垢なまなざしに、
彼はほんのわずか、目を逸らさずにはいられなかった。
繊細な沈黙が、また書斎の空気に広がっていく。
だが、今は――先ほどまでの断絶とは違っていた。
母の腕のぬくもりに包まれて、
父と娘が交わす初めての「あの日の空白」。
その隙間に、小さな光のような赦しが、そっと灯り始めていた。
書斎の扉が音もなく閉まった。
セレナを抱きかかえたアランの後ろ姿が廊下の奥へと消えていったあと、
その静寂を満たすように、レギュラスの吐く息だけが広間に残された。
娘の視線が、胸の奥深くを貫いていた。
——あんな瞳で見られたのは、初めてだった。
小さな非難。小さな傷つき。
それなのに、まるで刺さり込むような重さだった。
あれほど純粋に、まっすぐに向けられた「父としての失望」は、
レギュラスの冷えた理性すらも、ゆっくりと削っていく。
額に手を当てて、目を閉じた。
静かに、ひとつ、深く息を吐き出す。
視界の奥に、さっきのアランの涙と、セレナの大きな瞳が何度も浮かんでは消えていく。
それでも。
今回は——折れるつもりはなかった。
折れることはできなかった。
アリスを生かしておくことが、己の誇り、そして心の安定を蝕んでいた。
それはたぶん、「嫉妬」と呼ぶのだろうと、どこかで理解している。
「憎しみ」に隠された過去の亡霊。「許し」に裏切られた記憶。
愛する者の願いを聞いたはずの自分が、
何重にも縛られて、いまだ解けぬままでいること。
それでも、自分の中で最初に譲ってしまったあの夜の記憶を、
レギュラスは繰り返すことができなかった。
――もう、戻るわけにはいかなかった。
今またアリスを見逃せば、
これまで自分が何を守ってきたのか、見失ってしまう。
怒りだけじゃない。誇りだけでもない。
それは、「愛する」という言葉で濁してきた、
もっと複雑で繊細な、男としての矛盾そのものだった。
レギュラスはゆっくりと椅子に腰を下ろし、
肘を膝に乗せ、額を手に埋めた。
静けさの中で、苦さだけが舌に残っていた。
けれどその苦さが、自分を保つ唯一の輪郭にも思えた。
娘の瞳が、妻の涙が、胸のどこかに残って痛んだとしても——
今回は、それでも踏みとどまるしかなかった。
愛には、折れてはならぬ一線がある。
それは、守るためでなく、自分が壊れてしまわぬための線だった。
