3章
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ある夜、アランが眠った後、レギュラスは彼女の寝顔をそっと見つめていた。
月明かりに照らされた頬は青白く、どこか儚げだった。その美しさが、かえって彼の不安を掻き立てる。
いつか、本当に失ってしまうのではないか。
その恐怖が、愛情をより深く、より激しいものに変えていく。
彼女の髪にそっと指を滑らせながら、レギュラスは小さく息を吐いた。
「……どうしたら、信じてもらえるのでしょうね」
答えのない問いかけが、静寂の中に溶けていく。
愛しているからこそ苦しい。求めているからこそ切ない。そんな矛盾した感情を抱えながら、レギュラス・ブラックは今夜も、妻の隣で静かに目を閉じた。
彼女だけを愛し続けることの重さを、すべて背負いながら。
最近、レギュラスの生活に変化があることを、アランは静かに感じ取っていた。
以前なら週に何度も家を空けていた夜が、今では指で数えるほどしかない。任務を請け負う頻度を意図的に減らしているのか、それとも優先順位を変えたのか――理由は定かでないが、確実に彼は家にいる時間を増やしていた。
そして、ほとんどなかった夫婦としての営みも、明らかに回数が増えていた。
レギュラスが求めてくる夜が多くなった。その手の触れ方も、以前よりも深く、長く、まるで何かを確かめるようだった。
「今夜も、お疲れ様でした」
夕食を終えた後、レギュラスが自然にアランの手を取る。その仕草は優しく、けれど以前よりもずっと積極的だった。
アランは微笑んで頷いたが、胸の奥では複雑な感情が渦巻いていた。
きっと、オリオンもヴァルブルガも気づいているだろう。
夫婦の距離が急激に縮まったことを。レギュラスがアランのそばにいる時間が増えたことを。そして、ふたりの間に以前よりも親密な空気が流れていることを。
廊下ですれ違うとき、食事の席で、サロンでの会話の最中――義父母の視線が、時折ふたりに注がれるのを感じていた。
けれど、それがかえってアランを居たたまれない気持ちにさせた。
距離が縮まった先に、彼らの求める結果はない。
いくらレギュラスが求めても、いくら夫婦として親密になっても、アランの身体が男児を宿すことはもうないだろう。セレナを産んだ後の体調不良は、決して一時的なものではなかった。
それどころか――レギュラスが自分に集中すればするほど、他の女性を受け入れる隙さえなくなってしまう。
オリオンやヴァルブルガが、そんな状況を良しと思うはずがなかった。
ある夜、レギュラスに抱かれながら、アランは天井を見つめていた。
彼の腕の中は温かく、安らかだった。けれど、心の片隅では常に不安が囁いている。
この幸せは、家全体にとって正しいことなのだろうか。
レギュラスの愛情は本物だった。それは疑うべくもない。けれど、その愛情が向けられれば向けられるほど、家の将来は見えなくなっていく。
「レギュラス……」
小さく名前を呼んでみたが、彼はすでに穏やかな寝息を立てていた。その寝顔は満足そうで、どこか幸せそうだった。
アランは静かにため息をついた。
彼の幸せと、家の期待。
自分の安らぎと、義務の重さ。
それらすべてが絡み合って、どうしようもなく複雑な感情を生み出している。
翌朝の食卓で、ヴァルブルガがさりげなく言った。
「レギュラスも、最近はずいぶん家にいる時間が長いのね」
その言葉に込められた微細な問いかけを、アランは敏感に察知した。
「ええ……ありがたいことです」
表面的には感謝の言葉を返したが、その奥で小さな罪悪感が疼いていた。
オリオンもまた、何も言わずに新聞に目を落としていたが、その沈黙にも意味があるような気がした。
家族全員が、何かを察している。
けれど、誰も直接的には何も言わない。
その微妙な空気が、アランの心をより一層重くしていた。
愛されることの喜びと、期待に応えられない苦しみ。その両方を抱えながら、彼女は今日もまた、完璧な妻を演じ続けなければならなかった。
レギュラスの愛情が深まれば深まるほど、その重荷もまた増していくのだった。
深夜の薄明かりが石造りの廊下を静かに照らしていた。
魔法省の地下、デスイーターの集いの余韻が残る作戦室。冷たい空気の中で、その日の任務報告が静かに収束する。
誰の目から見ても、レギュラス・ブラックは隙のない男だった。
背筋はわずかな揺るぎも許さず、声は終始穏やかで、どんな指示にも即座に的確な返答が返る。
任務を淡々と完遂し、闇の帝王自身からも絶大な信頼を集めている。
その姿はまごうかたなき「完全無欠」の純血魔法使い、そのものだった。
セブルス・スネイプもまた、その完璧さに一目置いていた。
ブラック家の矜持を背負い、デスイーターの中でも最も信頼のおける存在。
怒号も焦燥も、レギュラスの周囲には縁遠く、
ただ冷静に、目的のためにのみ動き続ける男――
多くの同胞たちの羨望、敵意、希望、そして畏怖さえも集めていた。
それでも、彼には「明確な弱点」があった。
アラン・セシール――いや、今はアラン・ブラック。
ホグワーツの時代から続く、その女への執着だけは、
冷静なはずの彼の判断を幾度も歪めてきた。
あの女が絡むとき、レギュラスの「正しさ」も「淡々さ」も失われる。
彼は無意識に心の守りを解き放ち、
時に怒り、時に絶望し、ときに幼子のようにその名を呼ぶ。
シリウス・ブラックを憎む気持ちは、セブルスにも痛いほど理解できた。
だから、本能的にレギュラスの肩を持ちたい部分もあった。
なのに、兄弟の間に続く軋轢――
あらゆる対立や、決定的な隔たりの「すべて」が、
辿っていけば必ず一人の女――アランに行き着くことを、
セブルスは苦い現実として受け止めてきた。
最近の「変化」は、周囲にも隠せなくなっていた。
闇の帝王のための夜通しの任務――
以前ならレギュラスは何よりも優先して引き受けていた。
だが最近はどうだろう。
彼は理由をはっきりと述べぬまま、家にいる時間を長くとり、任務の数も確実に減らしている。
ベラトリックス・レストレンジの冷たい瞳にも、その「甘さ」は映っていた。
「家族のため」「妻のため」など、デスイーターには通じるはずもない理屈。
ベラトリックスは明らかに不満を抱え、会議の度ごとに鋭い非難の視線を投げつける。
そして――
これほどまでに「私情」を優先すれば、
闇の帝王が気づくのも時間の問題でしかない。
その未来は、決して遠くはなかった。
セブルスはある夜、廊下の一角でレギュラスを呼び止めた。
白磁のような静けさで立つその肩に、ごく低い声で言葉を落とす。
「……忠告しておこう、レギュラス」
「闇の帝王は、“情”を弱さとみなす。
おまえが今のままでいることは――必ず、“牙”を向かれる日につながる」
レギュラスは一瞬だけセブルスを見返した。
冷たさの向こうにある、どこか鈍い熱。
その瞳の奥には、守りたいものの重さが、ひとしずく沈んでいた。
「わかっています」
それだけだった。
その背を見送りながら、セブルスは思った――
完璧な魔法使いも、ひとつの愛の前では、
こんなにも不安定な生きものなのかと。
任務と忠誠、信念と私情。
そのはざまで綱渡りのように歩くレギュラス・ブラックの姿は、
誰よりも強く、同時に誰よりも危うい光を帯びていた。
夜の廊下には、未だ消えぬ冷気と若干の香が漂っていた。
遠い先、静かに忍び寄る波乱の気配を誰もが感じている――
そんな張詰めた静けさの夜だった。
夜霧が立ち込める古い屋敷の庭に、馬車の車輪が静かに砂利を踏む音が響いていた。
重厚な鉄の門をくぐり抜け、石畳の道を進んだ先に待つのは――闇の帝王の屋敷。
普段なら足を踏み入れることのない場所に、今夜、アラン・ブラックはただひとり招かれていた。
「レギュラスは連れてくるな」
ベラトリックス・レストレンジからの、そんな忠告とともに。
広間の奥、暖炉の炎が踊る薄暗い空間で、セブルス・スネイプは静かに壁際に立っていた。
手には小さな薬瓶がいくつか。ベラトリックスから「薬品を用意しろ」と命じられ、この場に同席することになった。
彼の黒い瞳は、扉の向こうを見つめている。
やがて現れるであろう女性――アラン・ブラックの姿を待ちながら。
ベラトリックスの性格からして、最近のレギュラスの態度を良しとするはずがない。
任務を減らし、家にいる時間を増やし、明らかに「私情」を優先している弟分。その変化の原因が、間違いなくアランにあることを、誰よりも鋭く見抜いているのがベラトリックスだった。
おそらく今夜は、アランを責めるのだろう。
闇の帝王への不義だと。レギュラスの忠誠を鈍らせた罪だと。
扉が開かれた。
現れたのは、ベラトリックスの忠告通り、ただひとりで訪れたアラン・ブラック。
セブルスは思わず息を呑んだ。
相変わらず、ホグワーツ時代から変わらず麗しい女だった。
月光のように白い肌、絹のような髪、そして深い翡翠の瞳。病気がちだという噂を聞いてはいたが、化粧の技術なのか、それともセブルス自身が女性というものにあまりに縁がなさすぎるからなのか――その儚さは美しさを損なうどころか、かえって神秘的な魅力を醸し出していた。
レギュラス・ブラックでさえ理性を失うほどだと、納得させられるほどに。
だが、セブルスの瞳に映るのは美しさだけではなかった。その奥に宿る、静かな覚悟のようなもの。まるで、今夜何が起ころうとも受け入れる準備ができているかのような、諦念にも似た落ち着きがあった。
「お久しぶりです、ベラ」
アランの声は、水のように透明で、そして冷たかった。
古い知己に対する挨拶としては、あまりにも慎重で、距離を保ったもの。それは彼女なりの、この状況への理解を示していた。
ベラトリックスは椅子から立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべながらアランを見下ろした。
「アラン・ブラック」
その名前を呼ぶ声には、明らかな軽蔑が込められていた。
「よく来たわね。話したいことが、山ほどあるの」
暖炉の炎が、三人の影を壁に長く伸ばしている。
その影は踊るように揺れ、まるで始まろうとする「審判」を予告するかのようだった。
セブルスは黙ったまま、手の中の薬瓶を見つめた。
これから何が起ころうとしているのか――
その一部始終を、彼は静かに見届けることになるのだった。
暖炉の炎が不規則に踊り、広間に長い影を落としていた。
ベラトリックス・レストレンジは椅子にゆったりと腰を下ろし、アラン・ブラックを見据えている。その瞳には、獰猛な猫が獲物を前にするときのような光が宿っていた。
「お前の夫は……何をしている?」
ベラトリックスの声は、ゆっくりと、しかし確実にアランの心臓を狙い撃つように響いた。質問というよりは、すでに答えを知った上での糾弾に近い。
アランは微動だにしなかった。背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ね、まるで完璧に仕立てられた人形のように美しい姿勢を保っている。
「日々、任務を忠実にこなして帰ってきていると存じます」
その答えは、見事なまでに完璧だった。
一分の隙もない、教科書のような模範回答。
セブルス・スネイプは壁際から、この光景を静かに見つめていた。
こんなにも凛として、平然とベラトリックスの威圧に耐えている姿を、彼は知らなかった。
ホグワーツ時代、アランとセブルスが直接言葉を交わす機会はほとんどなかった。彼女はいつも遠くにいて、「レギュラスが熱を上げている女」という程度の認識しかなかった。美しいが、どこか儚げで、守られるべき存在――そんな印象だった。
だが、今この瞬間のアランは違っていた。
ベラトリックスの鋭い視線を正面から受け止め、声ひとつ震わせることなく、氷のような冷静さを保っている。その姿には、貴族の娘として生まれ育った者だけが持つ、生来の気品と強さがあった。
「忠実に?」
ベラトリックスが鼻で笑った。
「最近、夜の任務を断ることが多いと聞いているが?家にいる時間が長くなったと聞いているが?それが『忠実』というものかしら?」
アランの睫毛がわずかに震えた。だが、それ以外に動揺の色は見せない。
「夫の任務の詳細について、妻である私が口を挟むべきではないと思いますが」
再び、完璧な回答。だが、ベラトリックスの笑みはより深く、より残酷になった。
「セブルス」
ベラトリックスが振り返ることなく名を呼んだ。
「持ってきな」
セブルスは静かに歩み寄り、手にしていた小さな薬瓶をベラトリックスに差し出した。その中身は透明な液体だったが、微かに禍々しい光を放っている。
あまり、身内に使うような薬ではなかった。
真実薬――ベリタセラム。強制的に真実を語らせる魔法薬。通常は尋問や捜査に使われるもので、家族や友人に対して使用することは、魔法界でも極めて非道とされている。
だが、ベラトリックスの命令は、ほぼ闇の帝王自身からの命令と同じだった。逆らうことはできない。
セブルスは薬瓶を手渡しながら、アランの横顔を見つめた。彼女はまだ、その完璧な仮面を崩していなかった。だが、薬瓶を見た瞬間、わずかに唇が震えたのを、彼は見逃さなかった。
それでも、彼女は逃げようとはしなかった。
まるで、この瞬間が来ることを予期していたかのように、静かにベラトリックスを見つめ返している。
その姿に、セブルスは思いがけず敬意を抱いた。美しいだけの女ではない。芯の強い、誇り高い女性がそこにいた。
炎の光が、三人の間に緊張の糸を張り巡らせている。審問は、いよいよ本格的な段階へと入ろうとしていた。
ベラトリックスの指先がつい、と薬瓶を持ち上げる。
丁寧とは言い難い、ぞんざいな手つきだった。
けれど、それでも彼女なりの礼儀として背筋を正したまま、アランの正面の椅子へと向き合った。
「帝王への忠誠に、何かを隠す理由などないだろうね?」
嗜虐の笑みが揺れる。
まるで、言葉そのものが刃となってアランの身体を試し切りしているかのような口ぶりだった。
アランは軽く瞬きをして、真正面からその視線を受け止めた。
張りつめた沈黙が、絹のようにきしむ。
「ありません」
静かだった。
真実はその言葉の端に宿っていたが、それ以上の“何か”を察知したのはセブルスだった。
やや斜め後方から見ている彼の位置からでは、アランの目元の影しか見えない。
だがその影は、どこか痛いほどに、強かった。
「飲みな!」
ベラトリックスが遠慮なく、まるで毒を含んだグラスを差し出すような手つきで、瓶をテーブルに置いた。
その透明な液体——ベリタセラムは、月光を吸い込むように、無色で静かに揺れていた。
アランはしばし、その瓶を見つめていた。
その後、ゆっくりと指を伸ばしてそれを取る。
一切顔を崩すことなく、礼儀正しく、それでいてどこか残酷なほどに毅然と。
ベラトリックスは面白がるように身を乗り出す。
「もし……ここで嘘が出たら?」
「レギュラスに、“それなりの罰”が与えられても構わない、と?」
その暗喩は、直接的でありながら、どこまでも狡猾だった。
だが、アランは微塵も揺れなかった。
ただ、右手に小瓶を納めたまま、言葉もなく、ベラトリックスを見据えた。
そして、まっすぐに蓋を開ける。
その仕草は、貴族の礼法そのものだった。
数秒の沈黙。
その静寂を破ったのは、喉を通るかすかな音。
アランの唇が、瓶口に触れる。
液が流れ落ち、ごくん、と控えめに嚥下する音が空気のなかに滴る。
ベラトリックスがほんのわずかに目を細めた。
「セブルス、用意を」
スネイプは無言で数枚の羊皮紙を差し出し、魔法薬の反応を同時に測定するための呪文を唱えた。
室内の空気が魔力でわずかに震える。
アランの眉も、目も、震えていない。
紅潮もなく、わななきもない。
不気味なほどに、静かな表情がそのまま保たれていた。
「では、始める」
ベラトリックスの声が、低く沈む。
セブルスは膨らんでゆく緊張のなか、
この女が、果たして本当に“無実”であるのか、
疑わしき忠誠の兆しをここで暴かれるのか、
それともただ、能面のように耐え抜くのか――
その全てを見届ける役割を背負い、かすかに喉を鳴らした。
アランの喉を通過したベリタセラムは、すぐに作用を始めた。
副作用のような熱も吐き気も感じさせず、彼女はただ、口をきつく結んだまま息を整えていた。
指先がわずかに、膝上のドレスの布を握る。その沈黙が、逆に何より強い。
セブルスが詠唱した識別の魔法が、空気に淡い震えを生んだ――
呪文が嘘と真実を見抜くための精霊魔法に変じて、目に見えぬ膜のようにアランの身体を包んでいる。
ベラトリックスが唇の端をゆるめ、やや息を詰めながらその口を開いた。
「お前の夫、レギュラス・ブラックは……帝王の命に背いていると思うか?」
問いは、まるで品定めするような声音だった。
刺すように冷たく、それでいて甘味の香を混ぜた、粘度のある声。
アランは悠然と顔を上げて、答えた。
「いいえ」
その一言は、まるで刃が風を裂くようにまっすぐだった。
その瞬間、セブルスの前に置かれた魔法の羊皮紙には、何の揺らぎも示されなかった。
平坦な反応――すなわち、それは「真実」だった。
ベラトリックスの目が細くなる。
「では訊こう」
「お前は、レギュラスを惑わせ、任務から遠ざけたと――心当たりは?」
アランは、ほんのわずかに目を伏せ、そしてまた視線を戻した。
「ありません」
またも、魔力の膜は変化を示さなかった。
その答えさえ、「真実」。
けれどセブルスの位置から見て、女の左手がかすかに震えたのを、彼は見た。
本当に罪を隠していないのか――あるいは、
「自分のせいではない」と、本気で信じこもうとしているのか。
息をのんで見つめていた中で、
ベラトリックスは、さらに顔を近づける。
テーブル越しに、半身だけ前に出して、
その眼差しには、昼の獅子を踏みつける獰猛な猫科の獣のような、飢えと愉悦が混じっていた。
「お前にしか、操れないだろう。あの男を」
「冷たくも、誰より繊細な牙を持つ、あのレギュラスを……夫の名のもとに縛り、弱くしているのはお前」
その嘲りのような言葉にも、アランは笑わなかった。
反論もせず、否定もせず、ただほんの一瞬――まなざしだけを落とす。
言葉のかわりに沈黙が応答する。
それは正直だった。
あまりにも正直すぎる「肯定」だった。
セブルスが手元の結界に目をやると、そこには今までと違う微かな震えが走った。
不安定な記録――明確な「偽り」も「真実」も測れない、
ただ揺れている感情値のみが淡く発光していた。
ベラトリックスがそれに気づき、とたんに細い笑みを深める。
「ふうん……感情だけは、抑えきれないみたいだね。さすがに」
アランは、瞳の奥にかすかな影を宿したまま答えた。
「彼を大切にしています。それが……私のすべてです」
そう言ったとき、セブルスの心臓がひどく静かな音を立てて脈打った。
その一言は明らかに「真実」。
羊皮紙が微光を灯し、“揺るぎない誠実さ”を告げている。
アラン・ブラック。
壊れかけた身体と心を抱えながら、ただ黙って愛する男の隣に立ち続ける女。
その愛に、理由も理屈もなかった。
けれど、レギュラスが変わったことの原因が“この女ただ一人”であることもまた、
ここにいた誰もが黙して理解していた。
ベラトリックスは背を離した。
「面白いわね、本当に。おまえは……“何もしていない”ことこそが、牙になっている」
その台詞に、アランは初めてうっすらとまぶたを伏せた。
反論も、感情も乗せず、たった一つのまばたきで答えた。
それは、否定ではなかった。
静寂が広間を覆った。
炎の揺れが再びその存在を主張するように、低く薪を弾く音が響く。
その音がなければ、時さえも止まっていたかのようだった。
アランは微かに背筋を正し、目を伏せたまま深く息を吸った。
問い詰められ、試され、糾弾されてなお、彼女の感情の輪郭は崩れていなかった。
流れるようなその姿勢には、痛みの深さではなく――ただ、“慣れ”が滲んでいた。
ベラトリックスは椅子の肘かけに横手を掛け、毒のような笑みを浮かべた。
「……おまえは、“忠誠心の顔をした不忠”ね」
その言葉は、剣のようだった。
ただの非難ではない。
その奥には、嫉妬と嫌悪、そして理解できぬ者への激しい怒りが、渦を巻いていた。
「忠誠とは、女の愛などじゃない。子を成し、家を継ぎ、帝王の血を守り通すこと。おまえの愛など、どこにも届いてない」
アランは顔を上げた。
その瞳は、何かがほんの少しだけ決壊しかけながらも、極限の冷静を取り戻していた。
「……承知しております」
低く、柔らかく、けれど断固としていた。
「私のしてきたことが、この家の正義と反していることも…、
レギュラスにとって、正しさを選ぶ障壁になっているのだとしたら……それも、分かっています」
その言葉に、ベラトリックスの唇が僅かに歪んだ。
セブルスは、そんなふたりのやりとりを黙したまま見つめている。
自分が手渡した薬が、真実を照らし続けていることに、いまや複雑な後悔すらあった。
「けれど」
アランの声がふっと深くなった。
「正義も、忠誠も、正しい名も……あの人が私を選び、愛してくれたという事実の前では、もう判断にはなり得ません。その人が帰る場所を守ることが、私にとっての“すべて”です」
ありえないほど静かな、宣誓のような声だった。
その瞬間、羊皮紙が光を放った。
真実である、と──。
セブルスの胸に、言葉にならない重さが落ちた。
あまりにも冷静に、信念を語る女。
誰より弱く在ることを知りながら、誰より強く一人で立つ女。
レギュラス・ブラックが壊れていくほどに心を捧げたのは、
やはりこの女だったのだとわかってしまう。
ベラトリックスが笑う…しかし、それはかすかに、苦々しい音を帯びていた。
「なら、せいぜい……その“愛”とやらでレギュラスを壊さないようにしな、アラン・ブラック。
彼が立てた誓約の首を、自ら締めないように…気をつけることね」
アランは表情を変えなかった。
ただ、たった一度、目を閉じてから返事をした。
「私のしていることは、自分のための涙を選ばない――それだけです」
セブルスの心に、深い静寂が降りた。
女が、愛を誓いながら自分の幸福を諦める姿。
それは滑稽ではなくて、残酷でもなくて――
ただ、凛として、美しかった。
扉の外には、誰の姿もない。
けれどこの夜が、帝王の耳へと届いたとしたら――
次に揺さぶられるのは、“レギュラス・ブラック”という男に違いなかった。
アランが静かに立ち上がる。
沈黙だけが、彼女の道を照らす光のように、長く、重く、引かれていた。
ベラトリックスは椅子の背にもたれ、静かにアランの姿を見下ろしていた。
その細く吊り上がった瞳には、もはや咎めでも怒りでもない、別種の感情が宿っていた。
理解不能な生き物を前にしたときの、ほとんど――興味。
「いずれ証明されるわ。おまえの今のその誇りが、我らの“正義”を崩す毒になるってことがね」
彼女は立ち上がると、黒曜石のようなローブの裾を払ってゆっくりとアランに近づいた。
肩をすれ違う距離で立ち止まり、吐息がかすかにアランの耳にかかる。
「愛なんて、帝王の御前では塵にすらなれない。
この戦いの最中で、“おまえ”がレギュラスの楔になるのよ。覚悟をしておきな」
暗くささやくようなその警告に、アランはじっと動かなかった。
ただその言葉を――真綿のようにやさしく、首に巻かれる時間の予感として、静かに受け取った。
セブルスは部屋の片隅で、ほとんど呼吸すらできないような圧に身を置きながらすべてを見届けていた。
彼の目には、アランの身体の細さよりむしろ、心の細さ――それでいて壊れない強靭さばかりが焼きついている。
内側から崩れてしまいそうなほど薄い輪郭で、なぜこの女はここまで“抗って”いられるのか。
降伏ではなかった。
反発でもなかった。
――ただ、「在り続ける」という意志。
それこそが、この戦いの最中に最も恐ろしい“反逆”なのではないかと、彼は思った。
「セブルス、この女を外に出しな」
ベラトリックスがアランに背を向けながら、そう命じた。
その声は冷たく、しかしもうそれ以上は追い詰めようとしなかった。
彼女なりに、今日の“脅し”は到達していると判断したのだろう。
静かに、でも確実に、アランを警告の網に縛った手応えを感じていた。
セブルスは表情を変えずにうなずき、アランの方へ歩み寄る。
扉の先へと視線を誘導しながら、囁くように言葉を添えた。
「……気高く在ることは、代償を伴い続けるものです」
まるで忠告とも祈りともつかぬその声に、アランは小さく頭を下げた。
「ええ、存じております」
ふたりは静かに、凍てつくような黒曜の廊下を並んで去っていった。
扉が音もなく閉ざされたあと、ベラトリックスはひとり残って、空の薬瓶を見下ろしていた。
中身など必要なかった。
答えは、最初から知っていたのだから。
あの女は、決して自ら裏切ることのない“正しき愛”に殉じている。
だからこそ恐ろしい――心を捧げられた男を、じわじわと蝕む存在。
「……あの女、いっそ帝王の手で……」
口の奥で微かに囁いた言葉は、薪がはぜる音にかき消されていった。
そして、闇はまた深く、彼女を呑み込むように静まっていった。
月明かりに照らされた頬は青白く、どこか儚げだった。その美しさが、かえって彼の不安を掻き立てる。
いつか、本当に失ってしまうのではないか。
その恐怖が、愛情をより深く、より激しいものに変えていく。
彼女の髪にそっと指を滑らせながら、レギュラスは小さく息を吐いた。
「……どうしたら、信じてもらえるのでしょうね」
答えのない問いかけが、静寂の中に溶けていく。
愛しているからこそ苦しい。求めているからこそ切ない。そんな矛盾した感情を抱えながら、レギュラス・ブラックは今夜も、妻の隣で静かに目を閉じた。
彼女だけを愛し続けることの重さを、すべて背負いながら。
最近、レギュラスの生活に変化があることを、アランは静かに感じ取っていた。
以前なら週に何度も家を空けていた夜が、今では指で数えるほどしかない。任務を請け負う頻度を意図的に減らしているのか、それとも優先順位を変えたのか――理由は定かでないが、確実に彼は家にいる時間を増やしていた。
そして、ほとんどなかった夫婦としての営みも、明らかに回数が増えていた。
レギュラスが求めてくる夜が多くなった。その手の触れ方も、以前よりも深く、長く、まるで何かを確かめるようだった。
「今夜も、お疲れ様でした」
夕食を終えた後、レギュラスが自然にアランの手を取る。その仕草は優しく、けれど以前よりもずっと積極的だった。
アランは微笑んで頷いたが、胸の奥では複雑な感情が渦巻いていた。
きっと、オリオンもヴァルブルガも気づいているだろう。
夫婦の距離が急激に縮まったことを。レギュラスがアランのそばにいる時間が増えたことを。そして、ふたりの間に以前よりも親密な空気が流れていることを。
廊下ですれ違うとき、食事の席で、サロンでの会話の最中――義父母の視線が、時折ふたりに注がれるのを感じていた。
けれど、それがかえってアランを居たたまれない気持ちにさせた。
距離が縮まった先に、彼らの求める結果はない。
いくらレギュラスが求めても、いくら夫婦として親密になっても、アランの身体が男児を宿すことはもうないだろう。セレナを産んだ後の体調不良は、決して一時的なものではなかった。
それどころか――レギュラスが自分に集中すればするほど、他の女性を受け入れる隙さえなくなってしまう。
オリオンやヴァルブルガが、そんな状況を良しと思うはずがなかった。
ある夜、レギュラスに抱かれながら、アランは天井を見つめていた。
彼の腕の中は温かく、安らかだった。けれど、心の片隅では常に不安が囁いている。
この幸せは、家全体にとって正しいことなのだろうか。
レギュラスの愛情は本物だった。それは疑うべくもない。けれど、その愛情が向けられれば向けられるほど、家の将来は見えなくなっていく。
「レギュラス……」
小さく名前を呼んでみたが、彼はすでに穏やかな寝息を立てていた。その寝顔は満足そうで、どこか幸せそうだった。
アランは静かにため息をついた。
彼の幸せと、家の期待。
自分の安らぎと、義務の重さ。
それらすべてが絡み合って、どうしようもなく複雑な感情を生み出している。
翌朝の食卓で、ヴァルブルガがさりげなく言った。
「レギュラスも、最近はずいぶん家にいる時間が長いのね」
その言葉に込められた微細な問いかけを、アランは敏感に察知した。
「ええ……ありがたいことです」
表面的には感謝の言葉を返したが、その奥で小さな罪悪感が疼いていた。
オリオンもまた、何も言わずに新聞に目を落としていたが、その沈黙にも意味があるような気がした。
家族全員が、何かを察している。
けれど、誰も直接的には何も言わない。
その微妙な空気が、アランの心をより一層重くしていた。
愛されることの喜びと、期待に応えられない苦しみ。その両方を抱えながら、彼女は今日もまた、完璧な妻を演じ続けなければならなかった。
レギュラスの愛情が深まれば深まるほど、その重荷もまた増していくのだった。
深夜の薄明かりが石造りの廊下を静かに照らしていた。
魔法省の地下、デスイーターの集いの余韻が残る作戦室。冷たい空気の中で、その日の任務報告が静かに収束する。
誰の目から見ても、レギュラス・ブラックは隙のない男だった。
背筋はわずかな揺るぎも許さず、声は終始穏やかで、どんな指示にも即座に的確な返答が返る。
任務を淡々と完遂し、闇の帝王自身からも絶大な信頼を集めている。
その姿はまごうかたなき「完全無欠」の純血魔法使い、そのものだった。
セブルス・スネイプもまた、その完璧さに一目置いていた。
ブラック家の矜持を背負い、デスイーターの中でも最も信頼のおける存在。
怒号も焦燥も、レギュラスの周囲には縁遠く、
ただ冷静に、目的のためにのみ動き続ける男――
多くの同胞たちの羨望、敵意、希望、そして畏怖さえも集めていた。
それでも、彼には「明確な弱点」があった。
アラン・セシール――いや、今はアラン・ブラック。
ホグワーツの時代から続く、その女への執着だけは、
冷静なはずの彼の判断を幾度も歪めてきた。
あの女が絡むとき、レギュラスの「正しさ」も「淡々さ」も失われる。
彼は無意識に心の守りを解き放ち、
時に怒り、時に絶望し、ときに幼子のようにその名を呼ぶ。
シリウス・ブラックを憎む気持ちは、セブルスにも痛いほど理解できた。
だから、本能的にレギュラスの肩を持ちたい部分もあった。
なのに、兄弟の間に続く軋轢――
あらゆる対立や、決定的な隔たりの「すべて」が、
辿っていけば必ず一人の女――アランに行き着くことを、
セブルスは苦い現実として受け止めてきた。
最近の「変化」は、周囲にも隠せなくなっていた。
闇の帝王のための夜通しの任務――
以前ならレギュラスは何よりも優先して引き受けていた。
だが最近はどうだろう。
彼は理由をはっきりと述べぬまま、家にいる時間を長くとり、任務の数も確実に減らしている。
ベラトリックス・レストレンジの冷たい瞳にも、その「甘さ」は映っていた。
「家族のため」「妻のため」など、デスイーターには通じるはずもない理屈。
ベラトリックスは明らかに不満を抱え、会議の度ごとに鋭い非難の視線を投げつける。
そして――
これほどまでに「私情」を優先すれば、
闇の帝王が気づくのも時間の問題でしかない。
その未来は、決して遠くはなかった。
セブルスはある夜、廊下の一角でレギュラスを呼び止めた。
白磁のような静けさで立つその肩に、ごく低い声で言葉を落とす。
「……忠告しておこう、レギュラス」
「闇の帝王は、“情”を弱さとみなす。
おまえが今のままでいることは――必ず、“牙”を向かれる日につながる」
レギュラスは一瞬だけセブルスを見返した。
冷たさの向こうにある、どこか鈍い熱。
その瞳の奥には、守りたいものの重さが、ひとしずく沈んでいた。
「わかっています」
それだけだった。
その背を見送りながら、セブルスは思った――
完璧な魔法使いも、ひとつの愛の前では、
こんなにも不安定な生きものなのかと。
任務と忠誠、信念と私情。
そのはざまで綱渡りのように歩くレギュラス・ブラックの姿は、
誰よりも強く、同時に誰よりも危うい光を帯びていた。
夜の廊下には、未だ消えぬ冷気と若干の香が漂っていた。
遠い先、静かに忍び寄る波乱の気配を誰もが感じている――
そんな張詰めた静けさの夜だった。
夜霧が立ち込める古い屋敷の庭に、馬車の車輪が静かに砂利を踏む音が響いていた。
重厚な鉄の門をくぐり抜け、石畳の道を進んだ先に待つのは――闇の帝王の屋敷。
普段なら足を踏み入れることのない場所に、今夜、アラン・ブラックはただひとり招かれていた。
「レギュラスは連れてくるな」
ベラトリックス・レストレンジからの、そんな忠告とともに。
広間の奥、暖炉の炎が踊る薄暗い空間で、セブルス・スネイプは静かに壁際に立っていた。
手には小さな薬瓶がいくつか。ベラトリックスから「薬品を用意しろ」と命じられ、この場に同席することになった。
彼の黒い瞳は、扉の向こうを見つめている。
やがて現れるであろう女性――アラン・ブラックの姿を待ちながら。
ベラトリックスの性格からして、最近のレギュラスの態度を良しとするはずがない。
任務を減らし、家にいる時間を増やし、明らかに「私情」を優先している弟分。その変化の原因が、間違いなくアランにあることを、誰よりも鋭く見抜いているのがベラトリックスだった。
おそらく今夜は、アランを責めるのだろう。
闇の帝王への不義だと。レギュラスの忠誠を鈍らせた罪だと。
扉が開かれた。
現れたのは、ベラトリックスの忠告通り、ただひとりで訪れたアラン・ブラック。
セブルスは思わず息を呑んだ。
相変わらず、ホグワーツ時代から変わらず麗しい女だった。
月光のように白い肌、絹のような髪、そして深い翡翠の瞳。病気がちだという噂を聞いてはいたが、化粧の技術なのか、それともセブルス自身が女性というものにあまりに縁がなさすぎるからなのか――その儚さは美しさを損なうどころか、かえって神秘的な魅力を醸し出していた。
レギュラス・ブラックでさえ理性を失うほどだと、納得させられるほどに。
だが、セブルスの瞳に映るのは美しさだけではなかった。その奥に宿る、静かな覚悟のようなもの。まるで、今夜何が起ころうとも受け入れる準備ができているかのような、諦念にも似た落ち着きがあった。
「お久しぶりです、ベラ」
アランの声は、水のように透明で、そして冷たかった。
古い知己に対する挨拶としては、あまりにも慎重で、距離を保ったもの。それは彼女なりの、この状況への理解を示していた。
ベラトリックスは椅子から立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべながらアランを見下ろした。
「アラン・ブラック」
その名前を呼ぶ声には、明らかな軽蔑が込められていた。
「よく来たわね。話したいことが、山ほどあるの」
暖炉の炎が、三人の影を壁に長く伸ばしている。
その影は踊るように揺れ、まるで始まろうとする「審判」を予告するかのようだった。
セブルスは黙ったまま、手の中の薬瓶を見つめた。
これから何が起ころうとしているのか――
その一部始終を、彼は静かに見届けることになるのだった。
暖炉の炎が不規則に踊り、広間に長い影を落としていた。
ベラトリックス・レストレンジは椅子にゆったりと腰を下ろし、アラン・ブラックを見据えている。その瞳には、獰猛な猫が獲物を前にするときのような光が宿っていた。
「お前の夫は……何をしている?」
ベラトリックスの声は、ゆっくりと、しかし確実にアランの心臓を狙い撃つように響いた。質問というよりは、すでに答えを知った上での糾弾に近い。
アランは微動だにしなかった。背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ね、まるで完璧に仕立てられた人形のように美しい姿勢を保っている。
「日々、任務を忠実にこなして帰ってきていると存じます」
その答えは、見事なまでに完璧だった。
一分の隙もない、教科書のような模範回答。
セブルス・スネイプは壁際から、この光景を静かに見つめていた。
こんなにも凛として、平然とベラトリックスの威圧に耐えている姿を、彼は知らなかった。
ホグワーツ時代、アランとセブルスが直接言葉を交わす機会はほとんどなかった。彼女はいつも遠くにいて、「レギュラスが熱を上げている女」という程度の認識しかなかった。美しいが、どこか儚げで、守られるべき存在――そんな印象だった。
だが、今この瞬間のアランは違っていた。
ベラトリックスの鋭い視線を正面から受け止め、声ひとつ震わせることなく、氷のような冷静さを保っている。その姿には、貴族の娘として生まれ育った者だけが持つ、生来の気品と強さがあった。
「忠実に?」
ベラトリックスが鼻で笑った。
「最近、夜の任務を断ることが多いと聞いているが?家にいる時間が長くなったと聞いているが?それが『忠実』というものかしら?」
アランの睫毛がわずかに震えた。だが、それ以外に動揺の色は見せない。
「夫の任務の詳細について、妻である私が口を挟むべきではないと思いますが」
再び、完璧な回答。だが、ベラトリックスの笑みはより深く、より残酷になった。
「セブルス」
ベラトリックスが振り返ることなく名を呼んだ。
「持ってきな」
セブルスは静かに歩み寄り、手にしていた小さな薬瓶をベラトリックスに差し出した。その中身は透明な液体だったが、微かに禍々しい光を放っている。
あまり、身内に使うような薬ではなかった。
真実薬――ベリタセラム。強制的に真実を語らせる魔法薬。通常は尋問や捜査に使われるもので、家族や友人に対して使用することは、魔法界でも極めて非道とされている。
だが、ベラトリックスの命令は、ほぼ闇の帝王自身からの命令と同じだった。逆らうことはできない。
セブルスは薬瓶を手渡しながら、アランの横顔を見つめた。彼女はまだ、その完璧な仮面を崩していなかった。だが、薬瓶を見た瞬間、わずかに唇が震えたのを、彼は見逃さなかった。
それでも、彼女は逃げようとはしなかった。
まるで、この瞬間が来ることを予期していたかのように、静かにベラトリックスを見つめ返している。
その姿に、セブルスは思いがけず敬意を抱いた。美しいだけの女ではない。芯の強い、誇り高い女性がそこにいた。
炎の光が、三人の間に緊張の糸を張り巡らせている。審問は、いよいよ本格的な段階へと入ろうとしていた。
ベラトリックスの指先がつい、と薬瓶を持ち上げる。
丁寧とは言い難い、ぞんざいな手つきだった。
けれど、それでも彼女なりの礼儀として背筋を正したまま、アランの正面の椅子へと向き合った。
「帝王への忠誠に、何かを隠す理由などないだろうね?」
嗜虐の笑みが揺れる。
まるで、言葉そのものが刃となってアランの身体を試し切りしているかのような口ぶりだった。
アランは軽く瞬きをして、真正面からその視線を受け止めた。
張りつめた沈黙が、絹のようにきしむ。
「ありません」
静かだった。
真実はその言葉の端に宿っていたが、それ以上の“何か”を察知したのはセブルスだった。
やや斜め後方から見ている彼の位置からでは、アランの目元の影しか見えない。
だがその影は、どこか痛いほどに、強かった。
「飲みな!」
ベラトリックスが遠慮なく、まるで毒を含んだグラスを差し出すような手つきで、瓶をテーブルに置いた。
その透明な液体——ベリタセラムは、月光を吸い込むように、無色で静かに揺れていた。
アランはしばし、その瓶を見つめていた。
その後、ゆっくりと指を伸ばしてそれを取る。
一切顔を崩すことなく、礼儀正しく、それでいてどこか残酷なほどに毅然と。
ベラトリックスは面白がるように身を乗り出す。
「もし……ここで嘘が出たら?」
「レギュラスに、“それなりの罰”が与えられても構わない、と?」
その暗喩は、直接的でありながら、どこまでも狡猾だった。
だが、アランは微塵も揺れなかった。
ただ、右手に小瓶を納めたまま、言葉もなく、ベラトリックスを見据えた。
そして、まっすぐに蓋を開ける。
その仕草は、貴族の礼法そのものだった。
数秒の沈黙。
その静寂を破ったのは、喉を通るかすかな音。
アランの唇が、瓶口に触れる。
液が流れ落ち、ごくん、と控えめに嚥下する音が空気のなかに滴る。
ベラトリックスがほんのわずかに目を細めた。
「セブルス、用意を」
スネイプは無言で数枚の羊皮紙を差し出し、魔法薬の反応を同時に測定するための呪文を唱えた。
室内の空気が魔力でわずかに震える。
アランの眉も、目も、震えていない。
紅潮もなく、わななきもない。
不気味なほどに、静かな表情がそのまま保たれていた。
「では、始める」
ベラトリックスの声が、低く沈む。
セブルスは膨らんでゆく緊張のなか、
この女が、果たして本当に“無実”であるのか、
疑わしき忠誠の兆しをここで暴かれるのか、
それともただ、能面のように耐え抜くのか――
その全てを見届ける役割を背負い、かすかに喉を鳴らした。
アランの喉を通過したベリタセラムは、すぐに作用を始めた。
副作用のような熱も吐き気も感じさせず、彼女はただ、口をきつく結んだまま息を整えていた。
指先がわずかに、膝上のドレスの布を握る。その沈黙が、逆に何より強い。
セブルスが詠唱した識別の魔法が、空気に淡い震えを生んだ――
呪文が嘘と真実を見抜くための精霊魔法に変じて、目に見えぬ膜のようにアランの身体を包んでいる。
ベラトリックスが唇の端をゆるめ、やや息を詰めながらその口を開いた。
「お前の夫、レギュラス・ブラックは……帝王の命に背いていると思うか?」
問いは、まるで品定めするような声音だった。
刺すように冷たく、それでいて甘味の香を混ぜた、粘度のある声。
アランは悠然と顔を上げて、答えた。
「いいえ」
その一言は、まるで刃が風を裂くようにまっすぐだった。
その瞬間、セブルスの前に置かれた魔法の羊皮紙には、何の揺らぎも示されなかった。
平坦な反応――すなわち、それは「真実」だった。
ベラトリックスの目が細くなる。
「では訊こう」
「お前は、レギュラスを惑わせ、任務から遠ざけたと――心当たりは?」
アランは、ほんのわずかに目を伏せ、そしてまた視線を戻した。
「ありません」
またも、魔力の膜は変化を示さなかった。
その答えさえ、「真実」。
けれどセブルスの位置から見て、女の左手がかすかに震えたのを、彼は見た。
本当に罪を隠していないのか――あるいは、
「自分のせいではない」と、本気で信じこもうとしているのか。
息をのんで見つめていた中で、
ベラトリックスは、さらに顔を近づける。
テーブル越しに、半身だけ前に出して、
その眼差しには、昼の獅子を踏みつける獰猛な猫科の獣のような、飢えと愉悦が混じっていた。
「お前にしか、操れないだろう。あの男を」
「冷たくも、誰より繊細な牙を持つ、あのレギュラスを……夫の名のもとに縛り、弱くしているのはお前」
その嘲りのような言葉にも、アランは笑わなかった。
反論もせず、否定もせず、ただほんの一瞬――まなざしだけを落とす。
言葉のかわりに沈黙が応答する。
それは正直だった。
あまりにも正直すぎる「肯定」だった。
セブルスが手元の結界に目をやると、そこには今までと違う微かな震えが走った。
不安定な記録――明確な「偽り」も「真実」も測れない、
ただ揺れている感情値のみが淡く発光していた。
ベラトリックスがそれに気づき、とたんに細い笑みを深める。
「ふうん……感情だけは、抑えきれないみたいだね。さすがに」
アランは、瞳の奥にかすかな影を宿したまま答えた。
「彼を大切にしています。それが……私のすべてです」
そう言ったとき、セブルスの心臓がひどく静かな音を立てて脈打った。
その一言は明らかに「真実」。
羊皮紙が微光を灯し、“揺るぎない誠実さ”を告げている。
アラン・ブラック。
壊れかけた身体と心を抱えながら、ただ黙って愛する男の隣に立ち続ける女。
その愛に、理由も理屈もなかった。
けれど、レギュラスが変わったことの原因が“この女ただ一人”であることもまた、
ここにいた誰もが黙して理解していた。
ベラトリックスは背を離した。
「面白いわね、本当に。おまえは……“何もしていない”ことこそが、牙になっている」
その台詞に、アランは初めてうっすらとまぶたを伏せた。
反論も、感情も乗せず、たった一つのまばたきで答えた。
それは、否定ではなかった。
静寂が広間を覆った。
炎の揺れが再びその存在を主張するように、低く薪を弾く音が響く。
その音がなければ、時さえも止まっていたかのようだった。
アランは微かに背筋を正し、目を伏せたまま深く息を吸った。
問い詰められ、試され、糾弾されてなお、彼女の感情の輪郭は崩れていなかった。
流れるようなその姿勢には、痛みの深さではなく――ただ、“慣れ”が滲んでいた。
ベラトリックスは椅子の肘かけに横手を掛け、毒のような笑みを浮かべた。
「……おまえは、“忠誠心の顔をした不忠”ね」
その言葉は、剣のようだった。
ただの非難ではない。
その奥には、嫉妬と嫌悪、そして理解できぬ者への激しい怒りが、渦を巻いていた。
「忠誠とは、女の愛などじゃない。子を成し、家を継ぎ、帝王の血を守り通すこと。おまえの愛など、どこにも届いてない」
アランは顔を上げた。
その瞳は、何かがほんの少しだけ決壊しかけながらも、極限の冷静を取り戻していた。
「……承知しております」
低く、柔らかく、けれど断固としていた。
「私のしてきたことが、この家の正義と反していることも…、
レギュラスにとって、正しさを選ぶ障壁になっているのだとしたら……それも、分かっています」
その言葉に、ベラトリックスの唇が僅かに歪んだ。
セブルスは、そんなふたりのやりとりを黙したまま見つめている。
自分が手渡した薬が、真実を照らし続けていることに、いまや複雑な後悔すらあった。
「けれど」
アランの声がふっと深くなった。
「正義も、忠誠も、正しい名も……あの人が私を選び、愛してくれたという事実の前では、もう判断にはなり得ません。その人が帰る場所を守ることが、私にとっての“すべて”です」
ありえないほど静かな、宣誓のような声だった。
その瞬間、羊皮紙が光を放った。
真実である、と──。
セブルスの胸に、言葉にならない重さが落ちた。
あまりにも冷静に、信念を語る女。
誰より弱く在ることを知りながら、誰より強く一人で立つ女。
レギュラス・ブラックが壊れていくほどに心を捧げたのは、
やはりこの女だったのだとわかってしまう。
ベラトリックスが笑う…しかし、それはかすかに、苦々しい音を帯びていた。
「なら、せいぜい……その“愛”とやらでレギュラスを壊さないようにしな、アラン・ブラック。
彼が立てた誓約の首を、自ら締めないように…気をつけることね」
アランは表情を変えなかった。
ただ、たった一度、目を閉じてから返事をした。
「私のしていることは、自分のための涙を選ばない――それだけです」
セブルスの心に、深い静寂が降りた。
女が、愛を誓いながら自分の幸福を諦める姿。
それは滑稽ではなくて、残酷でもなくて――
ただ、凛として、美しかった。
扉の外には、誰の姿もない。
けれどこの夜が、帝王の耳へと届いたとしたら――
次に揺さぶられるのは、“レギュラス・ブラック”という男に違いなかった。
アランが静かに立ち上がる。
沈黙だけが、彼女の道を照らす光のように、長く、重く、引かれていた。
ベラトリックスは椅子の背にもたれ、静かにアランの姿を見下ろしていた。
その細く吊り上がった瞳には、もはや咎めでも怒りでもない、別種の感情が宿っていた。
理解不能な生き物を前にしたときの、ほとんど――興味。
「いずれ証明されるわ。おまえの今のその誇りが、我らの“正義”を崩す毒になるってことがね」
彼女は立ち上がると、黒曜石のようなローブの裾を払ってゆっくりとアランに近づいた。
肩をすれ違う距離で立ち止まり、吐息がかすかにアランの耳にかかる。
「愛なんて、帝王の御前では塵にすらなれない。
この戦いの最中で、“おまえ”がレギュラスの楔になるのよ。覚悟をしておきな」
暗くささやくようなその警告に、アランはじっと動かなかった。
ただその言葉を――真綿のようにやさしく、首に巻かれる時間の予感として、静かに受け取った。
セブルスは部屋の片隅で、ほとんど呼吸すらできないような圧に身を置きながらすべてを見届けていた。
彼の目には、アランの身体の細さよりむしろ、心の細さ――それでいて壊れない強靭さばかりが焼きついている。
内側から崩れてしまいそうなほど薄い輪郭で、なぜこの女はここまで“抗って”いられるのか。
降伏ではなかった。
反発でもなかった。
――ただ、「在り続ける」という意志。
それこそが、この戦いの最中に最も恐ろしい“反逆”なのではないかと、彼は思った。
「セブルス、この女を外に出しな」
ベラトリックスがアランに背を向けながら、そう命じた。
その声は冷たく、しかしもうそれ以上は追い詰めようとしなかった。
彼女なりに、今日の“脅し”は到達していると判断したのだろう。
静かに、でも確実に、アランを警告の網に縛った手応えを感じていた。
セブルスは表情を変えずにうなずき、アランの方へ歩み寄る。
扉の先へと視線を誘導しながら、囁くように言葉を添えた。
「……気高く在ることは、代償を伴い続けるものです」
まるで忠告とも祈りともつかぬその声に、アランは小さく頭を下げた。
「ええ、存じております」
ふたりは静かに、凍てつくような黒曜の廊下を並んで去っていった。
扉が音もなく閉ざされたあと、ベラトリックスはひとり残って、空の薬瓶を見下ろしていた。
中身など必要なかった。
答えは、最初から知っていたのだから。
あの女は、決して自ら裏切ることのない“正しき愛”に殉じている。
だからこそ恐ろしい――心を捧げられた男を、じわじわと蝕む存在。
「……あの女、いっそ帝王の手で……」
口の奥で微かに囁いた言葉は、薪がはぜる音にかき消されていった。
そして、闇はまた深く、彼女を呑み込むように静まっていった。
