3章
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夜の帳がホグワーツの城を包み、塔から塔へ灯るランプの明かりが中空を照らしていた。
その小さな光の下で、アリスはひとり、決闘練習室の片隅に立っていた。
杖を構える手は細いが、震えてはいなかった。
「プロテゴ・マキシマ」
声に芯があり、自身の魔力が肌の内側を流れて跳ねる感覚に、確かな手応えを覚える。
まだ未熟だ、でも届かない場所じゃない。
最終学年。
この一年が終われば、子どもでも保護される存在でもない。
今度は自らが守る側になるのだと、アリスは静かに思っていた。
かつて夢見た未来がある。
――シリウスとアランが、ふたりで穏やかに過ごせる世界。
それは本の中の物語のように遠くて、叶わぬ夢だとわかっていても、
つい心のどこかでその可能性にすがっていた時期もあった。
「一緒に生きることが、愛なのだ」と、ずっとそう信じたかったから。
けれど、今はもう違う。
アリスの中で芽吹いていくものは、もっと現実に根ざし、未来に手を伸ばすための静かな決意だった。
アランが本当に望む世界――
血で憎しみ合うことのない魔法界を
シリウスが語っていた、マグルも魔法使いも、それ以外のあらゆる存在も、
同じ価値を認め合い、背を向けなくても生きていける世界を。
アランの幸せを“個人”に預けるのではなく、
彼女が苦しまなくて済む社会の形を、自ら作ること。
そのためにアリスは、騎士団に入ろうとしていた。
剣のような魔法を振るうためではなく。
語られなくなった優しさを、取り戻すために。
「愛には、いろいろなかたちがあるんだよ」
昔、シリウスが言ってくれた言葉を思い出す。
その夕暮れの横顔には、まだアランへの愛が満ちていて、でも何処かで“諦め”の光も静かに宿っていた。
アランのそばにいられない時間の方が、もはや長くなってしまっても、それでも彼はアランの幸せを願い続けていた。
一緒に生きることが叶わなくても、思いだけは手放さずに。
アリスは、ようやくそれが理解できるようになってきた。
一緒にいることだけが、愛じゃない。
それを教えてくれた二人のことを、
これからは彼女自身の背中に背負って生きていく。
重さではなく、誇りとして。
夜風が廊下の隙間から吹き抜ける。
額にかかった前髪をふわりとかき上げながら、アリスは小さく息を吐いた。
カバンに新しい本をしまい、杖を握る手にそっと力を込めた。
明日もまた、魔法の練習をするだろう。
そしてその先には――誰よりも優しい誰かに、届く願いがひとつ、
光になって残るのだと信じていた。
寮の窓辺に沈む夕暮れが、アリスの影を長く伸ばしていた。
手のひらを静かに重ねて、彼女はぼんやりとホグワーツの中庭を見下ろしていた。
アランが、社交界に姿を見せなくなった――
それは、新聞を熱心に読むまでもなく、周囲の噂という形で耳に届いていた。
なかでも「ブラック家の姫君誕生」の報せ以降、その不在はますます目立つものとなっていた。
けれど、アリスにとっては“噂”などどうでもよかった。
思い出すのは、あの日――
ほんとうに一瞬だけ許された忍び込み。
衰弱しきった面影、消え入るようなほど透きとおった存在感。
まるでかすかな春のひとひらが、指のあいだから零れ落ちてゆくようだった。
あの姿が、心から離れなかった。
アリスは胸の奥に、静かな焦りを感じていた。
自分が思い描く理想――
血に縛られず、誰もが誇りを持って手を取り合える世界。
アランが悲しみや隔たりなく、穏やかでいられる世界。
けれど、その「世界」の実現に、いったいどれだけの時が必要なのか――
アランが、彼女らしく生きているうちに、
“間に合う”未来は本当に訪れるのか。
その問いかけが、日増しに胸を締め付けていった。
もし――もしかしたらこのまま、
アランが静かに、誰にも知られず消えゆくようなことがあったなら。
自分は何もできずに、また大切な人を失うのではないか。
そして、
シリウスもまた――
決して届かぬ祈りを胸でだけ温め続け、
もう二度とアランに触れることさえ出来なくなってしまうのではないか。
考えれば考えるほど、その恐怖が大きく膨れ上がる。
アリスは頭を垂れ、膝の上で手を強く握りしめた。
「お願いだから、早く……」
声にはならなかった。
夜の帳は静かに降りてゆくのに、
世界は、ちっとも進めてくれはしない。
けれど、それでも――
彼女は自分の焦りや恐れに負けたくはなかった。
アランがもう一度、
心から笑ってくれる日を。
その傍らに、シリウスがいなくても、
きっと“新しい幸せ”だと信じられる日を。
どうしても、その日だけはこの手で迎えに行きたかった。
窓の外の夜風が、アリスの髪をそっと撫でて通り過ぎる。
決して届かぬ願いを刻みつけるように。
今は、それでも祈ることしかできなくて――
胸の奥に、細く透き通った一縷の希望だけをほのかに燃やしていた。
アリスの中に重なる不安も焦燥も、
すべては、
“今この瞬間しかない命の大切さ”に繋がっていくのだった。
朝の日差しが、薄くカーテン越しに射し込んでいた。
アランは寝台の上、身体を横たえたまま、新聞に目を落としていた。
その一面には、ホグワーツ最終学年を卒業し、騎士団入りを果たした少女――
「マグル出身のアリス・ブラック、精鋭魔法使いとして躍進」
囲み記事の写真には、屈託なく笑うアリスの姿。杖を構え、凛とした横顔と、
その隣、どこか誇らしげな表情を浮かべる青年シリウスの姿もあった。
ページをなぞる指先が、わずかに震える。
「……本当に、すごい子になったのね」
声はごく小さく、誰にも聞こえないものだったけれど、
胸の奥でゆっくりと波紋のように広がっていった。
記事は彼女を讃えていた。
シリウスのもとで鍛えられ、
純血・マグルの差を越えて多くの人々に希望を与えている。
善き行いそのものが、新しい時代の幕を開く象徴なのだと。
アランは笑みを浮かべた。
眩しいほどの喜びが込み上げ、
同時に、胸の奥がひりつくような懐かしさに満たされていく。
記憶が、静かに蘇る。
――シリウス。
あの人のやわらかな銀灰の目。
困ったように、でも愛しげに自分を呼ぶ声。
心のどこかで何度も自分を救ってくれた、あたたかな手。
あの頃、確かに「愛している」と思えた。
傷つけ合いながらも、それでも「生きてよかった」と思わせてくれるような日々。
随分遠くなってしまったけれど――いまも、
新聞の向こう側でも、
あの人が生きて、光のように誰かを導き、
その希望のバトンがアリスにまで届いていることが――
どうしようもなく、嬉しかった。
「……ふたりとも、わたしの“光”だったのよ」
涙がひとすじ、そっと頬を伝って落ちる。
悲しみではなかった。
出逢えたこと、愛せたこと、その記憶ごと、
いまこの瞬間にも誇りとして昇華されていく幸福だった。
アランの膝の上に残った新聞には、
憧れにも似た視線で語られるアリスの功績と、
彼女の背後にいつも佇む、柔らかな微笑みのシリウスの姿。
どちらも、アランにとってかけがえのない「願い」だった。
「ありがとうね」
そう、誰にも聞こえない声で呟いた。
重くなるまぶたを閉じながら、
アリスとシリウスの笑顔だけを、心の中でそっと灯し続けた。
世界の端で――
その灯は、きっとずっと消えることはないと、信じられた。
屋敷の中庭に降る午後の光は、金糸のように淡くしなやかで、アランは書斎の窓辺にそっと寄りかかってそれを見つめていた。
足元には、いくつもの祝福の贈り物が運び込まれていた。
封蝋の色も、家ごとの紋章もさまざまに彩られた手紙の束、銀の縁どりが施された筆記具、謹製の杖用ポリッシュ、寮色のリボンで飾られたエメラルドのインクボトル。――すべて、アルタイルの入学祝。
そして、当然のように届けられた知らせにはもう一つ――
「スリザリンですってね」
訪ねてきた親戚の婦人が微笑んで言った。
アランも微笑み返した。
「ええ。父と私と同じですもの。」
その答えは、嘘ではなかった。
けれど、笑みの奥にはほんのひと筋の、言葉にできない胸の疼きがあった。
アルタイルは、スリザリン生となった。
それが彼にとってふさわしい寮であることも、
生まれ持った家柄や賢さ、誇り高さからして、本来なら誰もが疑わなかったこと。
けれど。
―― アランの胸の中には、言いようのない小さな不安が澱のように残っていた。
「大丈夫かしら……」
小さく呟いた声は、自分に向けて呟いたものだった。
寮分けの儀式からすぐに、アルタイルからの几帳面な筆跡の手紙が届いた。
「母さん、元気にしています」とだけ丁寧に書かれた行儀正しい挨拶。
便箋の端には、セレナのことを気にかける言葉もあった。
けれど――それが、かえって彼の「よくできた子どもぶり」を突きつけるようで、少しだけ胸が痛くなった。
一生懸命に、失敗のないように。
誰にも心配をかけないように。
その姿は、若い日のレギュラスにあまりに酷似していた。
父であるレギュラスもまた、
優しすぎるほどに静かにすべてを背負い込んだ人だった。
兄の影の中、家の重圧の中、
心を剥がすようにして優等生でい続けた彼の姿が、遠い記憶の中のまま褪せることなく焼き付いている。
だからこそアランは願ってしまう。
どうか、この子が、
自分の歩幅で、自分の色で歩いてくれますように。
誰かの求める「正しさ」にあわせて、
笑顔すら作らなくてはならない日々に押しつぶされることのないように。
過保護かもしれない――
けれど、それでも構わなかった。
母として祈らずにいられなかった。
久しぶりに開いたアルバムを指先でなぞる。
幼いアルタイルの写真。
木馬の上で泣きそうになっていた日。
抱きついたまま離れたがらなかった朝。
あの子が、あのままの心をすこしでも持っていてくれたら、それだけでいい。
屋敷にはまた、新しい便箋の香りが届いている。
アランはそのひとつを手にとり、
庭のスラントをわたる鳥の影を目で追いながら、そっと小さく笑った。
どんなふうにあの子がホグワーツで過ごすのか――
知れる日をゆっくり待つこと。
それも、いまの幸福のかたちだった。
屋敷の空気は、初秋の雨上がりのようにひどく湿っていた。
レギュラス・ブラックは、寝室の暖炉脇に立ち、じっと新聞の一面を睨んでいた。
紙面の中央、見出しに踊るその名前――アリス・ブラック。
マグルの血を引きながらも、ホグワーツを首席で卒業。
ダンブルドアの推薦を受け、今期より正式に騎士団の一員として就任。
伴うのは、白々しい表彰の言葉と――
シリウス・ブラックの、あまりにも誇らしげな笑顔。
怒りは、とっくに燃え尽きるかと思っていた。
だが、そうではなかった。むしろ燃え広がっている。
ちょうどその数日前、息子アルタイルがホグワーツへと入学した。
見事に、スリザリンに選ばれた。
それは誇りだった。
名門ブラック家の正統な血が、またひとつ継がれた。
それなのに。
アリス・ブラック――
あのマグルの女の名が、同じタイミングで、
魔法界中の新聞を騒がせていることが――何よりも、腹立たしかった。
可憐ぶって。
心だけ綺麗だとでも言いたげに騎士団入りして。
正義と博愛を掲げて。
シリウスの名の下に、何もかもを浄化した気でいるその態度が――たまらなく、気に入らなかった。
そして、アランの“部屋”でその新聞を見つけたときの感情を、
レギュラスは一生忘れないだろう。
そっと重ねて保管されていた、折り目もつけられず、大切そうにしまわれた記事。
あれが、何だったのか。
その女の“成長”を、ただの“部外者”として見届けていただけなのか。
信じようと思えば、信じられる。
けれど今のレギュラスには、どれだけ冷静に思考を交えても、その行為にはただ“祝意”が見えすぎた。
息子の入学と並ぶように、
アリス・ブラックの卒業を――
アランは、きっと、心のどこかで祝っていた。
怒りが、形を変える。
焼けた鉄が水によって冷やされたときのように、
ひどく、“冷たく”“鋭い”憎しみに変わっていった。
アリス・ブラックは、ダンブルドアの護りの外に出た。
もう、ホグワーツという聖域の中にはいない。
遠慮は、不要だった。
レギュラスは、書斎の椅子に深く沈みながら、
部下たちの名が記された巻物に目を落とす。
「……見かけ次第、殺せ。言葉はいらない」
その指が、極めて静かに指令の文字を書き足してゆく。
配下のデスイーターたちにはすでに伝えてある。
アリス・ブラックの名こそ、命令無用の“討つべき最優先対象”。
彼の言葉に背く者は、家の名ごと切り落とす。
過去の記憶。
魂を砕いたあの夜。
アランとアリス、ふたりの間にある“救済と信頼”という言葉。
あの夜、自分は確かにアランを奪い返したはずだった。
なのに今、まだどこかにその“面影”を抱き続けているかのようなアランの沈黙が、
レギュラスの奥深くに刺さるように残っている。
愛している。なのに、赦せない。
守りたい。なのに、奪ってしまう。
その矛盾までも凍らせるような冷酷さが、
この男の細く張った神経に、静かに絡みついていた。
その名を口にすることさえ、もう忌まわしい。
黒衣の中で、記憶される殺意だけが、研ぎ澄まされ続けていた。
黄昏の光が窓辺を柔らかく染めるころ、屋敷の冬のサロンは静寂に包まれていた。
レギュラスはいつものように重ねられた書簡の束に目を通していたが、
どれひとつとして文字が頭に入ってこなかった。
新聞の余白に書かれた「アリス・ブラック」の名。
――騎士団所属に昇任、名門家の出でありながらマグル出身の希望の星――
それは、読者を誘うかのような美しい文面で飾り立てられ。
まるで彼女が、純血社会に新たな“正義”と“可能性”を持ち込んだかのように筆を滑らせていた。
レギュラスの胸の内では、言葉にならないほどの荒々しい憎悪と冷笑が渦巻いていた。
マグルの女ごときが、ブラック家を名乗る――
それすら吐き気がするほど忌まわしいのに。
その名が、
今やホグワーツの次期期待者として世間から“純粋な希望”として祭り上げられている。
そしてその同じ年、息子アルタイルがブラック家の血筋として初めてホグワーツの門をくぐったのに、
まるで同じ「希望」の座に並び立つように、ふたりの名前が幾度も隣り合って扱われていることが――
レギュラスには、死ぬほど気に入らなかった。
その静けさの中、アランがソファに腰を下ろす。
胸元には、書きかけの便箋をかかえたまま、ほつれる笑みとともに口を開いた。
「アルタイルは……あなたのように、きっと立派に育ってくれるわ」
その声には、何の咎もなく、
ただ息子への確かな信頼が宿っていた。
けれど、それが耳に届いた瞬間、レギュラスの感情は鋭く揺れ動いた。
沈黙のあと、口からこぼれたのは、
愛を纏わぬ、静かすぎる皮肉だった。
「……ええ。マグルの女の“影”に、霞まなければ、ですが」
サラリと落ちた言葉。
けれどその温度のなさが、むしろ深く滲んでいた。
意識せぬふりで紡いだ皮肉は、なにより自分の苛立ちとわだかまりの露呈だった。
“嫌味”というにはあまりにも生々しい。
アランは一瞬、顔を動かしかけたが、
何も言わなかった。
まっすぐには受け取らず、そっと視線を外すように、手の中の便箋を少し整える。
まるで、“それ以上咎めたところで無意味だ”と知っているかのように。
レギュラスは、そんなアランの反応に、
また別の理由で心が冷えた。
(どうして……何も言い返さない?)
怒ってほしかったわけではない。
否定してくれたら少しは楽になったかもしれなかった。
けれど今、アランはただ静かだった。
その静けさが、自分の言葉をいっそう空虚に響かせた。
彼女の胸のどこかに、
アリスへの愛慕や好意が残っていることなど――痛いほど知っている。
だからこそ、いっそ憎まれた方が良かったのに――。
浅はかな嫉妬と、ぶつけどころのない誇りの傷が、
その場を冷たく凍らせていく。
レギュラスはふっと鼻から息を漏らし、
壁へと視線を移す。
唐突に降りた自身の言葉の毒に、
胸のどこかが静かに軋んでいた。
アランが何も言わなかったことが――
きっと、なによりも痛かった。
秋風が屋敷の長い回廊を吹き抜けていく。
アルタイルがホグワーツへと旅立ってから、ブラック家の大きな館は以前にも増して静寂に包まれていた。
その静けさの中で響くのは、幼いセレナの足音と、彼女を導くヴァルブルガの穏やかな声だった。
「背筋を伸ばして、セレナ。でも力を入れすぎてはいけませんよ」
「お茶を注ぐときは、相手の方を見て。その方が喜んでくださいます」
教育は始まっていた。
けれど、それはかつてアルタイルに課されたような峻厳なものではなかった。
むしろどこか優しく、「ブラック家の名に恥じない、美しい淑女になるように」という程度の、穏やかな導きだった。
アランは廊下の陰から、その光景をそっと見つめていた。
「誰かの隣に立った時、その男性を引き立てられるような女性に」
ヴァルブルガの言葉が、静かに胸に刺さる。
それは確かに、セレナへの愛情から出た教えだった。
けれど同時に、それは現実を物語ってもいた。
ブラック家を背負える男児は、もうこの屋敷にはいない。
アルタイルはまだ幼く、ホグワーツで学ぶ身。
そして自分は――もう、次の世継ぎを望める身体ではない。
その現実が、日を追うごとに重く、アランの肩に圧し掛かってくる。
家族の集まりでも、親戚の訪問でも、アランは感じていた。
言葉には出されない、けれど確実に存在する視線を。
「アラン様はもう……」
「ブラック家の将来は……」
囁かれることのない疑問符が、空気の中に漂っている。
レギュラスは決して責めることはなかった。
むしろ優しく接してくれている。
けれど、それがかえって苦しかった。
家の存続という、血筋に生まれた者として背負うべき重荷を、
自分だけが果たせないでいる。
その事実に、心が少しずつ折れそうになっていく。
「ママ、見て!」
セレナの明るい声が、アランの思考を引き戻した。
振り返ると、娘が小さなカップを上手に持ち、得意げに微笑んでいる。
「とても上手ね、セレナ」
アランは微笑み返したが、その笑顔の奥に静かな痛みが宿っていた。
この子もいずれ、家を出ていく。
他の名門の家に嫁ぎ、そこで新しい血筋を繋いでいく。
そうなったとき、この屋敷には何が残るのだろう。
自分は、レギュラスにとって、家にとって――
いったい何の価値を持つ存在でいられるのだろう。
窓の外で、枯れ葉が舞い散っている。
その様子を見つめながら、アランは小さくため息をついた。
責められないからこそ、つらい。
愛されているからこそ、申し訳ない。
そんな矛盾した感情が、胸の奥で静かに渦巻いていた。
秋は深まり、やがて冬が来る。
その季節の移ろいのように、アランの心にも静かな諦めが降り積もりつつあった。
それでも、セレナの笑顔だけは――
どんなときも、彼女に希望を与えてくれる、小さな灯火だった。
午後の陽光が邸宅のサロンに差し込み、磨き上げられたガラス器や銀のティーセットを優雅に照らしていた。
純血一族の夫人たちが集う茶会は、いつもの華やかさに満ちていたが、今日は珍しくレギュラス・ブラックの姿があった。
アランはソファの端に腰を下ろし、上品にティーカップを手にしながら、穏やかな笑みを湛えていた。
その隣でレギュラスは、普段なら絶対に避けるこうした場に、なぜか今日は参加していた。
会話は最初、アルタイルのホグワーツでの様子や、セレナの成長について和やかに進んでいた。
けれど次第に、男性陣の話題は別の方向へと向かい始める。
「レギュラス様」
ひとりの中年男性が、わざとらしく声を潜めるようにして口を開いた。
「そろそろ……お考えになられてはいかがですか? 妾をお取りになることを」
その言葉に、サロンの空気がわずかに張り詰めた。
別の男性も、それに続くように言葉を重ねる。
「ブラック家の血筋を確実に残すためには……やはり、選択肢を広げておかれた方が」
彼らの視線は、明らかにアランを意識したものだった。
アランの体調不良が社交界で囁かれていることを、皆が知っていた。
そして、それを「好機」と捉える貴族たちが確実に存在することも。
アランは、完璧な微笑みを浮かべたまま動じなかった。
まるで何も聞こえていないかのように、ティーカップに唇を寄せ、上品に一口含む。
その仕草は洗練されており、一片の動揺も見せない。
けれど、レギュラスにはその「完璧さ」が、かえって胸を刺した。
なぜ怒らない。なぜ反論しない。
なぜ、そこまで「良妻」を演じ続ける。
苛立ちが、静かに胸の奥で燃え上がった。
「確かに」
また別の男性が口を挟む。
「セシール家の姫君をお迎えしただけでも十分な幸福かもしれませんが、やはり家の存続となると……」
その瞬間、レギュラスの声が響いた。
「セシール家の姫をいただいただけで、十分すぎるほどの幸福ですから」
声は静かだったが、その奥に宿る冷たさは誰の耳にも届いた。
氷のような眼差しで男性たちを見回しながら、レギュラスは続ける。
「これ以上の幸福など、私には不要です」
その言葉の重みに、サロンは静寂に包まれた。
男性たちは言葉を失い、夫人たちも息を呑むように黙った。
アランだけが、変わらず穏やかな微笑みを浮かべ続けていた。
けれどその横顔を見つめるレギュラスの胸には、複雑な感情が渦巻いていた。
守りたい、と思う。
でも、なぜあなたは何も言わないのか。
そんな矛盾した想いが、彼の心を静かに苦しめていた。
茶会は、その後やや気まずい雰囲気のまま続いたが、
もう誰も、妾の話を口にする者はいなかった。
レギュラスの言葉が、確実に境界線を引いたからだった。
それでも、アランへ向けられた同情と軽蔑の入り混じった視線だけは、
最後まで完全に消えることはなかった。
茶会の帰り道、馬車の中は重い沈黙に包まれていた。
窓の外に流れる景色を見つめながら、アランは胸の奥で静かに息を吐いた。
レギュラスの言葉が、まだ耳に残っている。
「セシール家の姫をいただいただけで、十分すぎるほどの幸福ですから」
その声音には、確固たる意志があった。
誰にも揺るがせない、彼なりの誇りと愛情が込められていた。
けれど―― アランの胸は、なぜか苦しかった。
あの場で、彼女は完璧に「聞こえないふり」をした。
それは、レギュラスへの配慮だった。
きっと彼は、自分に対して申し訳なさを感じているだろうから。
妻の前で、他の女性の話をされることの屈辱を、誰よりも理解してくれているから。
だからアランは、何も聞いていないように微笑み続けた。
彼が答えやすいように、気を遣わせないように。
それなのに――
レギュラスは「不要だ」と断った。
もし彼が、あの提案を受け入れてくれていたなら。
妾でも、第二夫人でも、好きにしてくれて構わなかった。
そうすれば、心の荷が降りるような気持ちになれたのに。
自分がシリウスを愛し続けてきたことを、正当化できるような気がしていたのに。
「お互い様」だと思えたのに。
オリオンやヴァルブルガから向けられる、失望の視線にも耐えられるようになったのに。
「私だけが家の期待に応えられない」という重荷から、少しは解放されたのに。
でも、レギュラスは拒んだ。
彼の愛情が、かえってアランを苦しめた。
馬車が屋敷の前で止まる。
レギュラスが先に降り、アランに手を差し伸べる。
その手は温かく、優しかった。
「お疲れ様でした」
彼の声も、いつもと変わらず穏やかだった。
まるで先ほどの茶会での出来事など、何でもないことのように。
アランは微笑んで頷いた。
でも、その笑顔の奥で、小さな罪悪感が渦巻いていた。
自分は、なんて身勝手なのだろう。
愛されていることに感謝すべきなのに。
彼の誠実さを喜ぶべきなのに。
どこかで、「もっと楽になりたい」と思ってしまう自分が、情けなかった。
屋敷の玄関をくぐりながら、アランはそっと目を伏せた。
複雑な感情を、誰にも見せないように。
いつものように、完璧な妻を演じ続けるために。
でも、その演技がいつまで続くのか――
彼女自身にも、もうわからなくなっていた。
午後の光がサロンの窓辺で静かに傾いていた。
いつもなら人の気配が絶えることのない食卓に、今はふたりだけが向かい合って座っている。
朝食でも夕食でもない、中途半端な時間。
それがかえって、この会話の重要性を物語っているようだった。
「アラン、まだ調子がいいようでしたら……少し、話せませんか?」
レギュラスの声は静かだったが、その奥に何か決然とした響きが宿っていた。
アランは胸の奥で、ずきりと何かが構えるのを感じた。
何か重要なことを言われる――その予感が、身体の芯を貫いていく。
「……ええ」
短く答えながら、アランは彼の表情を見つめた。
いつもの穏やかさに加えて、今日は何か違うものがある。
意志の強さ、決意のようなもの。
それが、彼女の不安をさらに掻き立てた。
テーブルには、いつものワインもウイスキーもなかった。
代わりに置かれているのは、上品な磁器のティーセット。
立ち上る湯気と、紅茶の香りだけが、ふたりの間の静寂を満たしている。
酒を交えるでもなく、シラフで話そうとしている。
その事実が、レギュラスの「決心」を何より雄弁に語っていた。
曖昧さを許さない、逃げ道を作らない会話。
すべてを明確にしたいという、彼なりの覚悟の表れだった。
アランはティーカップを手に取りながら、心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
しばらくの沈黙の後、レギュラスは顔を上げた。
その瞳には、迷いがなかった。
「この家に……あなた以外の女性を迎え入れるつもりは、ありません」
真っ直ぐに告げられた言葉は、あまりにも素直だった。
アランは思わず息を呑んだ。
何を言い出すのかと身構えていたのに、出てきたのは予想外にも率直な宣言。
それは愛の告白でもあり、同時に――重い誓いでもあった。
「けれど……オリオン様も、ヴァルブルガ様も――」
アランが言いかけたその瞬間、レギュラスの声が静かに遮った。
「今の当主は、僕ですから」
「最終決定は、僕にあります」
変わらない意志だと、強調された。
その言葉の重みが、アランの胸に深く沈んでいく。
彼の決意は固い。揺るがない。
父の意向も、家の期待も、すべてを押し切ってでも――
自分だけを妻として迎え続けるのだと。
けれど、その強調は――
アランを縛り上げるような威力があった。
アラン以外の女性はこの屋敷に来ない。
ならば、妻としての責務は――
世継ぎを産むという使命も、家を支えるという役割も、
すべて自分ひとりが果たさなければならない。
そう言われているような気がした。
逃げ道はない。
代わりもいない。
彼の愛情の深さが、かえって重い鎖となって、アランの心を締め付けていく。
「レギュラス……」
名前を呼びかけようとして、声が震えた。
感謝すべきなのか、それとも――
この優しい牢獄から解放を願うべきなのか。
ティーカップを持つ手が、わずかに震えている。
その震えを隠すように、アランは静かに紅茶を口に運んだ。
愛されることの重さ。
守られることの息苦しさ。
午後の光の中で、ふたりの影が長く伸びていた。
その影は重なることなく、それぞれの孤独を映し出すように、
静かにテーブルの上に落ちていた。
愛の告白が、なぜこんなにも苦しいのだろう。
アランは胸の奥で、小さく問いかけていた。
答えの見つからない問いを、ただ静かに抱きしめながら。
レギュラスは、自分の中で何かが変わったことを自覚していた。
周囲が他の女を当てがおうとすればするほど、アランへの執着が濃く、深く、まるで血のように体内を巡っていく。それは健全な愛情を超えて、もはや生きるために必要な何かに変質していた。
思い返してみれば――シリウスの影がちらつくたび、彼の中の独占欲は鋭く牙を剥いていた。アランがかつて愛した男の名前が話題に上がるだけで、胸の奥で何かが音を立てて砕けるような感覚に襲われた。
それと同じものが、今度は別の形で現れている。
「世継ぎなど……」
夜更けの書斎で、レギュラスは静かに呟いた。
最終的な着地点に、子を身籠ることがなくたって、別に構わない。
そう思えるようになったのは、いつからだったろう。
愛の行為は、愛の延長線上にあるべきだと思うから。義務や責任のためではなく、ただ互いを求め合う気持ちから生まれるべきだと信じているから。
オリオンも、ヴァルブルガも――きっと血を継いでいくことの誇り、家の正しさの中で生きてきたのだろう。それはそれで美しい生き方だったかもしれない。
けれど、自分のアランに対する想いは、どこまでいってもその理解の外側にあるのだろう。
レギュラスはそう思った。
時間があれば、少しでもアランのそばにいたかった。
任務から戻れば、まずは彼女のいる部屋を訪ねた。夕食の時間を長く取り、できる限り一緒に過ごす夜を作った。何気なく肩に触れる回数を増やし、髪に指を通す時間を長くした。
それは計算ではなく、本能だった。
彼女の存在を、自分の中に刻み込んでおきたかった。
朝の光の中で微笑む横顔も、夜更けに眠る寝息も、すべてを記憶の奥深くに蓄えておきたかった。いつか失ってしまうかもしれない恐怖に駆られて。
だからこそ――
アランが時折見せる、あの静かな諦めのような表情が、胸を引き裂くように痛かった。
「別の女を迎え入れてもいい」
そんな態度を、彼女が見せるたびに、悲しくてたまらなくなる。
こんなにも愛している。この世の何よりも大切に思っている。それなのに、どうして彼女は自分の気持ちを信じてくれないのだろう。
もしかしたら、自分の愛し方が間違っているのかもしれない。重すぎるのかもしれない。彼女を束縛しているのかもしれない。
でも、やめられなかった。
愛することも、求めることも、守ろうとすることも。
その小さな光の下で、アリスはひとり、決闘練習室の片隅に立っていた。
杖を構える手は細いが、震えてはいなかった。
「プロテゴ・マキシマ」
声に芯があり、自身の魔力が肌の内側を流れて跳ねる感覚に、確かな手応えを覚える。
まだ未熟だ、でも届かない場所じゃない。
最終学年。
この一年が終われば、子どもでも保護される存在でもない。
今度は自らが守る側になるのだと、アリスは静かに思っていた。
かつて夢見た未来がある。
――シリウスとアランが、ふたりで穏やかに過ごせる世界。
それは本の中の物語のように遠くて、叶わぬ夢だとわかっていても、
つい心のどこかでその可能性にすがっていた時期もあった。
「一緒に生きることが、愛なのだ」と、ずっとそう信じたかったから。
けれど、今はもう違う。
アリスの中で芽吹いていくものは、もっと現実に根ざし、未来に手を伸ばすための静かな決意だった。
アランが本当に望む世界――
血で憎しみ合うことのない魔法界を
シリウスが語っていた、マグルも魔法使いも、それ以外のあらゆる存在も、
同じ価値を認め合い、背を向けなくても生きていける世界を。
アランの幸せを“個人”に預けるのではなく、
彼女が苦しまなくて済む社会の形を、自ら作ること。
そのためにアリスは、騎士団に入ろうとしていた。
剣のような魔法を振るうためではなく。
語られなくなった優しさを、取り戻すために。
「愛には、いろいろなかたちがあるんだよ」
昔、シリウスが言ってくれた言葉を思い出す。
その夕暮れの横顔には、まだアランへの愛が満ちていて、でも何処かで“諦め”の光も静かに宿っていた。
アランのそばにいられない時間の方が、もはや長くなってしまっても、それでも彼はアランの幸せを願い続けていた。
一緒に生きることが叶わなくても、思いだけは手放さずに。
アリスは、ようやくそれが理解できるようになってきた。
一緒にいることだけが、愛じゃない。
それを教えてくれた二人のことを、
これからは彼女自身の背中に背負って生きていく。
重さではなく、誇りとして。
夜風が廊下の隙間から吹き抜ける。
額にかかった前髪をふわりとかき上げながら、アリスは小さく息を吐いた。
カバンに新しい本をしまい、杖を握る手にそっと力を込めた。
明日もまた、魔法の練習をするだろう。
そしてその先には――誰よりも優しい誰かに、届く願いがひとつ、
光になって残るのだと信じていた。
寮の窓辺に沈む夕暮れが、アリスの影を長く伸ばしていた。
手のひらを静かに重ねて、彼女はぼんやりとホグワーツの中庭を見下ろしていた。
アランが、社交界に姿を見せなくなった――
それは、新聞を熱心に読むまでもなく、周囲の噂という形で耳に届いていた。
なかでも「ブラック家の姫君誕生」の報せ以降、その不在はますます目立つものとなっていた。
けれど、アリスにとっては“噂”などどうでもよかった。
思い出すのは、あの日――
ほんとうに一瞬だけ許された忍び込み。
衰弱しきった面影、消え入るようなほど透きとおった存在感。
まるでかすかな春のひとひらが、指のあいだから零れ落ちてゆくようだった。
あの姿が、心から離れなかった。
アリスは胸の奥に、静かな焦りを感じていた。
自分が思い描く理想――
血に縛られず、誰もが誇りを持って手を取り合える世界。
アランが悲しみや隔たりなく、穏やかでいられる世界。
けれど、その「世界」の実現に、いったいどれだけの時が必要なのか――
アランが、彼女らしく生きているうちに、
“間に合う”未来は本当に訪れるのか。
その問いかけが、日増しに胸を締め付けていった。
もし――もしかしたらこのまま、
アランが静かに、誰にも知られず消えゆくようなことがあったなら。
自分は何もできずに、また大切な人を失うのではないか。
そして、
シリウスもまた――
決して届かぬ祈りを胸でだけ温め続け、
もう二度とアランに触れることさえ出来なくなってしまうのではないか。
考えれば考えるほど、その恐怖が大きく膨れ上がる。
アリスは頭を垂れ、膝の上で手を強く握りしめた。
「お願いだから、早く……」
声にはならなかった。
夜の帳は静かに降りてゆくのに、
世界は、ちっとも進めてくれはしない。
けれど、それでも――
彼女は自分の焦りや恐れに負けたくはなかった。
アランがもう一度、
心から笑ってくれる日を。
その傍らに、シリウスがいなくても、
きっと“新しい幸せ”だと信じられる日を。
どうしても、その日だけはこの手で迎えに行きたかった。
窓の外の夜風が、アリスの髪をそっと撫でて通り過ぎる。
決して届かぬ願いを刻みつけるように。
今は、それでも祈ることしかできなくて――
胸の奥に、細く透き通った一縷の希望だけをほのかに燃やしていた。
アリスの中に重なる不安も焦燥も、
すべては、
“今この瞬間しかない命の大切さ”に繋がっていくのだった。
朝の日差しが、薄くカーテン越しに射し込んでいた。
アランは寝台の上、身体を横たえたまま、新聞に目を落としていた。
その一面には、ホグワーツ最終学年を卒業し、騎士団入りを果たした少女――
「マグル出身のアリス・ブラック、精鋭魔法使いとして躍進」
囲み記事の写真には、屈託なく笑うアリスの姿。杖を構え、凛とした横顔と、
その隣、どこか誇らしげな表情を浮かべる青年シリウスの姿もあった。
ページをなぞる指先が、わずかに震える。
「……本当に、すごい子になったのね」
声はごく小さく、誰にも聞こえないものだったけれど、
胸の奥でゆっくりと波紋のように広がっていった。
記事は彼女を讃えていた。
シリウスのもとで鍛えられ、
純血・マグルの差を越えて多くの人々に希望を与えている。
善き行いそのものが、新しい時代の幕を開く象徴なのだと。
アランは笑みを浮かべた。
眩しいほどの喜びが込み上げ、
同時に、胸の奥がひりつくような懐かしさに満たされていく。
記憶が、静かに蘇る。
――シリウス。
あの人のやわらかな銀灰の目。
困ったように、でも愛しげに自分を呼ぶ声。
心のどこかで何度も自分を救ってくれた、あたたかな手。
あの頃、確かに「愛している」と思えた。
傷つけ合いながらも、それでも「生きてよかった」と思わせてくれるような日々。
随分遠くなってしまったけれど――いまも、
新聞の向こう側でも、
あの人が生きて、光のように誰かを導き、
その希望のバトンがアリスにまで届いていることが――
どうしようもなく、嬉しかった。
「……ふたりとも、わたしの“光”だったのよ」
涙がひとすじ、そっと頬を伝って落ちる。
悲しみではなかった。
出逢えたこと、愛せたこと、その記憶ごと、
いまこの瞬間にも誇りとして昇華されていく幸福だった。
アランの膝の上に残った新聞には、
憧れにも似た視線で語られるアリスの功績と、
彼女の背後にいつも佇む、柔らかな微笑みのシリウスの姿。
どちらも、アランにとってかけがえのない「願い」だった。
「ありがとうね」
そう、誰にも聞こえない声で呟いた。
重くなるまぶたを閉じながら、
アリスとシリウスの笑顔だけを、心の中でそっと灯し続けた。
世界の端で――
その灯は、きっとずっと消えることはないと、信じられた。
屋敷の中庭に降る午後の光は、金糸のように淡くしなやかで、アランは書斎の窓辺にそっと寄りかかってそれを見つめていた。
足元には、いくつもの祝福の贈り物が運び込まれていた。
封蝋の色も、家ごとの紋章もさまざまに彩られた手紙の束、銀の縁どりが施された筆記具、謹製の杖用ポリッシュ、寮色のリボンで飾られたエメラルドのインクボトル。――すべて、アルタイルの入学祝。
そして、当然のように届けられた知らせにはもう一つ――
「スリザリンですってね」
訪ねてきた親戚の婦人が微笑んで言った。
アランも微笑み返した。
「ええ。父と私と同じですもの。」
その答えは、嘘ではなかった。
けれど、笑みの奥にはほんのひと筋の、言葉にできない胸の疼きがあった。
アルタイルは、スリザリン生となった。
それが彼にとってふさわしい寮であることも、
生まれ持った家柄や賢さ、誇り高さからして、本来なら誰もが疑わなかったこと。
けれど。
―― アランの胸の中には、言いようのない小さな不安が澱のように残っていた。
「大丈夫かしら……」
小さく呟いた声は、自分に向けて呟いたものだった。
寮分けの儀式からすぐに、アルタイルからの几帳面な筆跡の手紙が届いた。
「母さん、元気にしています」とだけ丁寧に書かれた行儀正しい挨拶。
便箋の端には、セレナのことを気にかける言葉もあった。
けれど――それが、かえって彼の「よくできた子どもぶり」を突きつけるようで、少しだけ胸が痛くなった。
一生懸命に、失敗のないように。
誰にも心配をかけないように。
その姿は、若い日のレギュラスにあまりに酷似していた。
父であるレギュラスもまた、
優しすぎるほどに静かにすべてを背負い込んだ人だった。
兄の影の中、家の重圧の中、
心を剥がすようにして優等生でい続けた彼の姿が、遠い記憶の中のまま褪せることなく焼き付いている。
だからこそアランは願ってしまう。
どうか、この子が、
自分の歩幅で、自分の色で歩いてくれますように。
誰かの求める「正しさ」にあわせて、
笑顔すら作らなくてはならない日々に押しつぶされることのないように。
過保護かもしれない――
けれど、それでも構わなかった。
母として祈らずにいられなかった。
久しぶりに開いたアルバムを指先でなぞる。
幼いアルタイルの写真。
木馬の上で泣きそうになっていた日。
抱きついたまま離れたがらなかった朝。
あの子が、あのままの心をすこしでも持っていてくれたら、それだけでいい。
屋敷にはまた、新しい便箋の香りが届いている。
アランはそのひとつを手にとり、
庭のスラントをわたる鳥の影を目で追いながら、そっと小さく笑った。
どんなふうにあの子がホグワーツで過ごすのか――
知れる日をゆっくり待つこと。
それも、いまの幸福のかたちだった。
屋敷の空気は、初秋の雨上がりのようにひどく湿っていた。
レギュラス・ブラックは、寝室の暖炉脇に立ち、じっと新聞の一面を睨んでいた。
紙面の中央、見出しに踊るその名前――アリス・ブラック。
マグルの血を引きながらも、ホグワーツを首席で卒業。
ダンブルドアの推薦を受け、今期より正式に騎士団の一員として就任。
伴うのは、白々しい表彰の言葉と――
シリウス・ブラックの、あまりにも誇らしげな笑顔。
怒りは、とっくに燃え尽きるかと思っていた。
だが、そうではなかった。むしろ燃え広がっている。
ちょうどその数日前、息子アルタイルがホグワーツへと入学した。
見事に、スリザリンに選ばれた。
それは誇りだった。
名門ブラック家の正統な血が、またひとつ継がれた。
それなのに。
アリス・ブラック――
あのマグルの女の名が、同じタイミングで、
魔法界中の新聞を騒がせていることが――何よりも、腹立たしかった。
可憐ぶって。
心だけ綺麗だとでも言いたげに騎士団入りして。
正義と博愛を掲げて。
シリウスの名の下に、何もかもを浄化した気でいるその態度が――たまらなく、気に入らなかった。
そして、アランの“部屋”でその新聞を見つけたときの感情を、
レギュラスは一生忘れないだろう。
そっと重ねて保管されていた、折り目もつけられず、大切そうにしまわれた記事。
あれが、何だったのか。
その女の“成長”を、ただの“部外者”として見届けていただけなのか。
信じようと思えば、信じられる。
けれど今のレギュラスには、どれだけ冷静に思考を交えても、その行為にはただ“祝意”が見えすぎた。
息子の入学と並ぶように、
アリス・ブラックの卒業を――
アランは、きっと、心のどこかで祝っていた。
怒りが、形を変える。
焼けた鉄が水によって冷やされたときのように、
ひどく、“冷たく”“鋭い”憎しみに変わっていった。
アリス・ブラックは、ダンブルドアの護りの外に出た。
もう、ホグワーツという聖域の中にはいない。
遠慮は、不要だった。
レギュラスは、書斎の椅子に深く沈みながら、
部下たちの名が記された巻物に目を落とす。
「……見かけ次第、殺せ。言葉はいらない」
その指が、極めて静かに指令の文字を書き足してゆく。
配下のデスイーターたちにはすでに伝えてある。
アリス・ブラックの名こそ、命令無用の“討つべき最優先対象”。
彼の言葉に背く者は、家の名ごと切り落とす。
過去の記憶。
魂を砕いたあの夜。
アランとアリス、ふたりの間にある“救済と信頼”という言葉。
あの夜、自分は確かにアランを奪い返したはずだった。
なのに今、まだどこかにその“面影”を抱き続けているかのようなアランの沈黙が、
レギュラスの奥深くに刺さるように残っている。
愛している。なのに、赦せない。
守りたい。なのに、奪ってしまう。
その矛盾までも凍らせるような冷酷さが、
この男の細く張った神経に、静かに絡みついていた。
その名を口にすることさえ、もう忌まわしい。
黒衣の中で、記憶される殺意だけが、研ぎ澄まされ続けていた。
黄昏の光が窓辺を柔らかく染めるころ、屋敷の冬のサロンは静寂に包まれていた。
レギュラスはいつものように重ねられた書簡の束に目を通していたが、
どれひとつとして文字が頭に入ってこなかった。
新聞の余白に書かれた「アリス・ブラック」の名。
――騎士団所属に昇任、名門家の出でありながらマグル出身の希望の星――
それは、読者を誘うかのような美しい文面で飾り立てられ。
まるで彼女が、純血社会に新たな“正義”と“可能性”を持ち込んだかのように筆を滑らせていた。
レギュラスの胸の内では、言葉にならないほどの荒々しい憎悪と冷笑が渦巻いていた。
マグルの女ごときが、ブラック家を名乗る――
それすら吐き気がするほど忌まわしいのに。
その名が、
今やホグワーツの次期期待者として世間から“純粋な希望”として祭り上げられている。
そしてその同じ年、息子アルタイルがブラック家の血筋として初めてホグワーツの門をくぐったのに、
まるで同じ「希望」の座に並び立つように、ふたりの名前が幾度も隣り合って扱われていることが――
レギュラスには、死ぬほど気に入らなかった。
その静けさの中、アランがソファに腰を下ろす。
胸元には、書きかけの便箋をかかえたまま、ほつれる笑みとともに口を開いた。
「アルタイルは……あなたのように、きっと立派に育ってくれるわ」
その声には、何の咎もなく、
ただ息子への確かな信頼が宿っていた。
けれど、それが耳に届いた瞬間、レギュラスの感情は鋭く揺れ動いた。
沈黙のあと、口からこぼれたのは、
愛を纏わぬ、静かすぎる皮肉だった。
「……ええ。マグルの女の“影”に、霞まなければ、ですが」
サラリと落ちた言葉。
けれどその温度のなさが、むしろ深く滲んでいた。
意識せぬふりで紡いだ皮肉は、なにより自分の苛立ちとわだかまりの露呈だった。
“嫌味”というにはあまりにも生々しい。
アランは一瞬、顔を動かしかけたが、
何も言わなかった。
まっすぐには受け取らず、そっと視線を外すように、手の中の便箋を少し整える。
まるで、“それ以上咎めたところで無意味だ”と知っているかのように。
レギュラスは、そんなアランの反応に、
また別の理由で心が冷えた。
(どうして……何も言い返さない?)
怒ってほしかったわけではない。
否定してくれたら少しは楽になったかもしれなかった。
けれど今、アランはただ静かだった。
その静けさが、自分の言葉をいっそう空虚に響かせた。
彼女の胸のどこかに、
アリスへの愛慕や好意が残っていることなど――痛いほど知っている。
だからこそ、いっそ憎まれた方が良かったのに――。
浅はかな嫉妬と、ぶつけどころのない誇りの傷が、
その場を冷たく凍らせていく。
レギュラスはふっと鼻から息を漏らし、
壁へと視線を移す。
唐突に降りた自身の言葉の毒に、
胸のどこかが静かに軋んでいた。
アランが何も言わなかったことが――
きっと、なによりも痛かった。
秋風が屋敷の長い回廊を吹き抜けていく。
アルタイルがホグワーツへと旅立ってから、ブラック家の大きな館は以前にも増して静寂に包まれていた。
その静けさの中で響くのは、幼いセレナの足音と、彼女を導くヴァルブルガの穏やかな声だった。
「背筋を伸ばして、セレナ。でも力を入れすぎてはいけませんよ」
「お茶を注ぐときは、相手の方を見て。その方が喜んでくださいます」
教育は始まっていた。
けれど、それはかつてアルタイルに課されたような峻厳なものではなかった。
むしろどこか優しく、「ブラック家の名に恥じない、美しい淑女になるように」という程度の、穏やかな導きだった。
アランは廊下の陰から、その光景をそっと見つめていた。
「誰かの隣に立った時、その男性を引き立てられるような女性に」
ヴァルブルガの言葉が、静かに胸に刺さる。
それは確かに、セレナへの愛情から出た教えだった。
けれど同時に、それは現実を物語ってもいた。
ブラック家を背負える男児は、もうこの屋敷にはいない。
アルタイルはまだ幼く、ホグワーツで学ぶ身。
そして自分は――もう、次の世継ぎを望める身体ではない。
その現実が、日を追うごとに重く、アランの肩に圧し掛かってくる。
家族の集まりでも、親戚の訪問でも、アランは感じていた。
言葉には出されない、けれど確実に存在する視線を。
「アラン様はもう……」
「ブラック家の将来は……」
囁かれることのない疑問符が、空気の中に漂っている。
レギュラスは決して責めることはなかった。
むしろ優しく接してくれている。
けれど、それがかえって苦しかった。
家の存続という、血筋に生まれた者として背負うべき重荷を、
自分だけが果たせないでいる。
その事実に、心が少しずつ折れそうになっていく。
「ママ、見て!」
セレナの明るい声が、アランの思考を引き戻した。
振り返ると、娘が小さなカップを上手に持ち、得意げに微笑んでいる。
「とても上手ね、セレナ」
アランは微笑み返したが、その笑顔の奥に静かな痛みが宿っていた。
この子もいずれ、家を出ていく。
他の名門の家に嫁ぎ、そこで新しい血筋を繋いでいく。
そうなったとき、この屋敷には何が残るのだろう。
自分は、レギュラスにとって、家にとって――
いったい何の価値を持つ存在でいられるのだろう。
窓の外で、枯れ葉が舞い散っている。
その様子を見つめながら、アランは小さくため息をついた。
責められないからこそ、つらい。
愛されているからこそ、申し訳ない。
そんな矛盾した感情が、胸の奥で静かに渦巻いていた。
秋は深まり、やがて冬が来る。
その季節の移ろいのように、アランの心にも静かな諦めが降り積もりつつあった。
それでも、セレナの笑顔だけは――
どんなときも、彼女に希望を与えてくれる、小さな灯火だった。
午後の陽光が邸宅のサロンに差し込み、磨き上げられたガラス器や銀のティーセットを優雅に照らしていた。
純血一族の夫人たちが集う茶会は、いつもの華やかさに満ちていたが、今日は珍しくレギュラス・ブラックの姿があった。
アランはソファの端に腰を下ろし、上品にティーカップを手にしながら、穏やかな笑みを湛えていた。
その隣でレギュラスは、普段なら絶対に避けるこうした場に、なぜか今日は参加していた。
会話は最初、アルタイルのホグワーツでの様子や、セレナの成長について和やかに進んでいた。
けれど次第に、男性陣の話題は別の方向へと向かい始める。
「レギュラス様」
ひとりの中年男性が、わざとらしく声を潜めるようにして口を開いた。
「そろそろ……お考えになられてはいかがですか? 妾をお取りになることを」
その言葉に、サロンの空気がわずかに張り詰めた。
別の男性も、それに続くように言葉を重ねる。
「ブラック家の血筋を確実に残すためには……やはり、選択肢を広げておかれた方が」
彼らの視線は、明らかにアランを意識したものだった。
アランの体調不良が社交界で囁かれていることを、皆が知っていた。
そして、それを「好機」と捉える貴族たちが確実に存在することも。
アランは、完璧な微笑みを浮かべたまま動じなかった。
まるで何も聞こえていないかのように、ティーカップに唇を寄せ、上品に一口含む。
その仕草は洗練されており、一片の動揺も見せない。
けれど、レギュラスにはその「完璧さ」が、かえって胸を刺した。
なぜ怒らない。なぜ反論しない。
なぜ、そこまで「良妻」を演じ続ける。
苛立ちが、静かに胸の奥で燃え上がった。
「確かに」
また別の男性が口を挟む。
「セシール家の姫君をお迎えしただけでも十分な幸福かもしれませんが、やはり家の存続となると……」
その瞬間、レギュラスの声が響いた。
「セシール家の姫をいただいただけで、十分すぎるほどの幸福ですから」
声は静かだったが、その奥に宿る冷たさは誰の耳にも届いた。
氷のような眼差しで男性たちを見回しながら、レギュラスは続ける。
「これ以上の幸福など、私には不要です」
その言葉の重みに、サロンは静寂に包まれた。
男性たちは言葉を失い、夫人たちも息を呑むように黙った。
アランだけが、変わらず穏やかな微笑みを浮かべ続けていた。
けれどその横顔を見つめるレギュラスの胸には、複雑な感情が渦巻いていた。
守りたい、と思う。
でも、なぜあなたは何も言わないのか。
そんな矛盾した想いが、彼の心を静かに苦しめていた。
茶会は、その後やや気まずい雰囲気のまま続いたが、
もう誰も、妾の話を口にする者はいなかった。
レギュラスの言葉が、確実に境界線を引いたからだった。
それでも、アランへ向けられた同情と軽蔑の入り混じった視線だけは、
最後まで完全に消えることはなかった。
茶会の帰り道、馬車の中は重い沈黙に包まれていた。
窓の外に流れる景色を見つめながら、アランは胸の奥で静かに息を吐いた。
レギュラスの言葉が、まだ耳に残っている。
「セシール家の姫をいただいただけで、十分すぎるほどの幸福ですから」
その声音には、確固たる意志があった。
誰にも揺るがせない、彼なりの誇りと愛情が込められていた。
けれど―― アランの胸は、なぜか苦しかった。
あの場で、彼女は完璧に「聞こえないふり」をした。
それは、レギュラスへの配慮だった。
きっと彼は、自分に対して申し訳なさを感じているだろうから。
妻の前で、他の女性の話をされることの屈辱を、誰よりも理解してくれているから。
だからアランは、何も聞いていないように微笑み続けた。
彼が答えやすいように、気を遣わせないように。
それなのに――
レギュラスは「不要だ」と断った。
もし彼が、あの提案を受け入れてくれていたなら。
妾でも、第二夫人でも、好きにしてくれて構わなかった。
そうすれば、心の荷が降りるような気持ちになれたのに。
自分がシリウスを愛し続けてきたことを、正当化できるような気がしていたのに。
「お互い様」だと思えたのに。
オリオンやヴァルブルガから向けられる、失望の視線にも耐えられるようになったのに。
「私だけが家の期待に応えられない」という重荷から、少しは解放されたのに。
でも、レギュラスは拒んだ。
彼の愛情が、かえってアランを苦しめた。
馬車が屋敷の前で止まる。
レギュラスが先に降り、アランに手を差し伸べる。
その手は温かく、優しかった。
「お疲れ様でした」
彼の声も、いつもと変わらず穏やかだった。
まるで先ほどの茶会での出来事など、何でもないことのように。
アランは微笑んで頷いた。
でも、その笑顔の奥で、小さな罪悪感が渦巻いていた。
自分は、なんて身勝手なのだろう。
愛されていることに感謝すべきなのに。
彼の誠実さを喜ぶべきなのに。
どこかで、「もっと楽になりたい」と思ってしまう自分が、情けなかった。
屋敷の玄関をくぐりながら、アランはそっと目を伏せた。
複雑な感情を、誰にも見せないように。
いつものように、完璧な妻を演じ続けるために。
でも、その演技がいつまで続くのか――
彼女自身にも、もうわからなくなっていた。
午後の光がサロンの窓辺で静かに傾いていた。
いつもなら人の気配が絶えることのない食卓に、今はふたりだけが向かい合って座っている。
朝食でも夕食でもない、中途半端な時間。
それがかえって、この会話の重要性を物語っているようだった。
「アラン、まだ調子がいいようでしたら……少し、話せませんか?」
レギュラスの声は静かだったが、その奥に何か決然とした響きが宿っていた。
アランは胸の奥で、ずきりと何かが構えるのを感じた。
何か重要なことを言われる――その予感が、身体の芯を貫いていく。
「……ええ」
短く答えながら、アランは彼の表情を見つめた。
いつもの穏やかさに加えて、今日は何か違うものがある。
意志の強さ、決意のようなもの。
それが、彼女の不安をさらに掻き立てた。
テーブルには、いつものワインもウイスキーもなかった。
代わりに置かれているのは、上品な磁器のティーセット。
立ち上る湯気と、紅茶の香りだけが、ふたりの間の静寂を満たしている。
酒を交えるでもなく、シラフで話そうとしている。
その事実が、レギュラスの「決心」を何より雄弁に語っていた。
曖昧さを許さない、逃げ道を作らない会話。
すべてを明確にしたいという、彼なりの覚悟の表れだった。
アランはティーカップを手に取りながら、心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
しばらくの沈黙の後、レギュラスは顔を上げた。
その瞳には、迷いがなかった。
「この家に……あなた以外の女性を迎え入れるつもりは、ありません」
真っ直ぐに告げられた言葉は、あまりにも素直だった。
アランは思わず息を呑んだ。
何を言い出すのかと身構えていたのに、出てきたのは予想外にも率直な宣言。
それは愛の告白でもあり、同時に――重い誓いでもあった。
「けれど……オリオン様も、ヴァルブルガ様も――」
アランが言いかけたその瞬間、レギュラスの声が静かに遮った。
「今の当主は、僕ですから」
「最終決定は、僕にあります」
変わらない意志だと、強調された。
その言葉の重みが、アランの胸に深く沈んでいく。
彼の決意は固い。揺るがない。
父の意向も、家の期待も、すべてを押し切ってでも――
自分だけを妻として迎え続けるのだと。
けれど、その強調は――
アランを縛り上げるような威力があった。
アラン以外の女性はこの屋敷に来ない。
ならば、妻としての責務は――
世継ぎを産むという使命も、家を支えるという役割も、
すべて自分ひとりが果たさなければならない。
そう言われているような気がした。
逃げ道はない。
代わりもいない。
彼の愛情の深さが、かえって重い鎖となって、アランの心を締め付けていく。
「レギュラス……」
名前を呼びかけようとして、声が震えた。
感謝すべきなのか、それとも――
この優しい牢獄から解放を願うべきなのか。
ティーカップを持つ手が、わずかに震えている。
その震えを隠すように、アランは静かに紅茶を口に運んだ。
愛されることの重さ。
守られることの息苦しさ。
午後の光の中で、ふたりの影が長く伸びていた。
その影は重なることなく、それぞれの孤独を映し出すように、
静かにテーブルの上に落ちていた。
愛の告白が、なぜこんなにも苦しいのだろう。
アランは胸の奥で、小さく問いかけていた。
答えの見つからない問いを、ただ静かに抱きしめながら。
レギュラスは、自分の中で何かが変わったことを自覚していた。
周囲が他の女を当てがおうとすればするほど、アランへの執着が濃く、深く、まるで血のように体内を巡っていく。それは健全な愛情を超えて、もはや生きるために必要な何かに変質していた。
思い返してみれば――シリウスの影がちらつくたび、彼の中の独占欲は鋭く牙を剥いていた。アランがかつて愛した男の名前が話題に上がるだけで、胸の奥で何かが音を立てて砕けるような感覚に襲われた。
それと同じものが、今度は別の形で現れている。
「世継ぎなど……」
夜更けの書斎で、レギュラスは静かに呟いた。
最終的な着地点に、子を身籠ることがなくたって、別に構わない。
そう思えるようになったのは、いつからだったろう。
愛の行為は、愛の延長線上にあるべきだと思うから。義務や責任のためではなく、ただ互いを求め合う気持ちから生まれるべきだと信じているから。
オリオンも、ヴァルブルガも――きっと血を継いでいくことの誇り、家の正しさの中で生きてきたのだろう。それはそれで美しい生き方だったかもしれない。
けれど、自分のアランに対する想いは、どこまでいってもその理解の外側にあるのだろう。
レギュラスはそう思った。
時間があれば、少しでもアランのそばにいたかった。
任務から戻れば、まずは彼女のいる部屋を訪ねた。夕食の時間を長く取り、できる限り一緒に過ごす夜を作った。何気なく肩に触れる回数を増やし、髪に指を通す時間を長くした。
それは計算ではなく、本能だった。
彼女の存在を、自分の中に刻み込んでおきたかった。
朝の光の中で微笑む横顔も、夜更けに眠る寝息も、すべてを記憶の奥深くに蓄えておきたかった。いつか失ってしまうかもしれない恐怖に駆られて。
だからこそ――
アランが時折見せる、あの静かな諦めのような表情が、胸を引き裂くように痛かった。
「別の女を迎え入れてもいい」
そんな態度を、彼女が見せるたびに、悲しくてたまらなくなる。
こんなにも愛している。この世の何よりも大切に思っている。それなのに、どうして彼女は自分の気持ちを信じてくれないのだろう。
もしかしたら、自分の愛し方が間違っているのかもしれない。重すぎるのかもしれない。彼女を束縛しているのかもしれない。
でも、やめられなかった。
愛することも、求めることも、守ろうとすることも。
