3章
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夕食は始まりを告げ、給仕が静かにワインを注いで回る。
穏やかな談笑、社交辞令に満ちた食卓の口調――
だがレギュラスには、それらのすべてが耳障りだった。
この場――
アランが妻として在り、子どもたちが席に連なっているこの神聖な食卓で、
オズワルドの娘がこの家に“迎え入れられている”という事実が、静かに彼の胸を突き刺していた。
父には、きっぱりと告げたはずだった。
「そのようなことは考えていない」と。
それなのに――すべてが、勝手に、動いている。
部屋を覆う雰囲気に耐えきれず、レギュラスはグラスを取り上げた。
赤褐色のワインが透けるガラスに、あまりにも歪んだ宵の光。
彼は迷うことなく、それを一気に飲み干した。
グラスがテーブルに戻された音は、予想よりも重く響いた。
次の瞬間、レギュラスはゆっくりと立ち上がる。
静かに椅子を引き、隣にいたアランの手首に自然に手を触れる。
「……お先に失礼します」
それは咎めではなく、命令でもなかった。
けれど、確固たる意思表明だった。
アランはレギュラスを見上げた。
瞬き一つ。
けれど、何も問わず――彼の手の導くまま、すっと席を離れた。
その仕草は、場にいる全員の呼吸を止めさせるほど、優雅で、そして静かな反旗だった。
セレナはアランが抱き上げ、アルタイルはそれを合図にすぐ立ち上がった。
あどけなさの残る眼差しに迷いはなかった。
父に続いて出てゆくことが、「正しい」のだと本能で知っている子どもの眼だった。
扉が閉まった後、食堂には再び静けさが戻った。
だが、さっきまでの形式に美しく覆われた空気は、もはやそこにはなかった。
食卓の端、ワインの濃い香りだけが、
残りわずかな尊厳のように、沈殿して漂っていた。
シャンデリアの灯が、深夜の屋敷の静けさに淡く滲んでいた。
重ねられた銀器の冷たさとは対照的に、食卓の余韻だけがどこか空虚に残っている。
「アルタイル、セレナを寝かしつけてやってください」
レギュラスの声は、ごく静かに、それでもどこか低く掠れていた。
彼の言葉に、アルタイルは一瞬だけ父を見上げ、何も言わずに頷いた。
もう言葉で示す必要はなかった。父のまなざしに、それ以上の意志が滲んでいたから。
セレナの小さな手を取ると、アルタイルは母へと目を向ける。
アランもただ、微笑むようなごく小さな頷きでそれに応える。
それだけで、兄妹はそっと廊下に姿を消した。
静寂が重く降りるような気がした。
言葉も、呼吸さえも、わずかに遅れを持って続いてゆく。
レギュラスは振り返り、ゆっくりとアランの手に手を重ねる。
アランは抵抗もせず、ただ無言のまま立ち上がった。
その手の軽さが、どこまでも空虚に感じられた。
寝室へ向かうまでの廊下。
絨毯の沈黙に包まれて、ふたりの足音が音にもならず続く。
けれど、言葉はどこにも落ちなかった。
アランは俯いたまま、何も言わない。
目も逸らさないが、見つめもしない。
それが――レギュラスの胸を、何より痛めた。
怒ってほしかった。
涙のひとつでも見せてほしかった。
「私の前で、あのような女を招くなんて」と、嫉妬してくれる自惚れが欲しかった。
だが、アランは何も言わなかった。
痛みも、怒りも、表情に出さない。
沈黙という名の諦めだけが、彼女の裾をひいていた。
レギュラスは、息を静かに吐いた。
寝室の扉を引きながら、かろうじて言葉を選ぶ。
「……不快な思いをさせてしまって、申し訳ないです」
それは紛れもなく本心だった。
けれど、その謝罪は壁に吸い込まれるように、何の反響も返ってこなかった。
しばらく置いたのち、アランはただ、淡い声で言った。
「……オリオン様のご決定には、従います」
その言葉が、鋭くレギュラスの胸を射抜いた。
とめどなく滲む痛み。
彼女は何も言えなくなってしまったのか。
それとも、もう何も感じなくなってしまったのか。
いや――きっと、すべてを“のみこんでいる”のだ。
逃げられない屋敷にとどまりながら、
失う一方の身体で、家に忠義を尽くすただの“存在”に矯正されていく自分を、諦めるしかなくなった人間の静けさ。
レギュラスは拳を握りしめた。
(なぜあなたは――そんなふうに自分を引き留めてくれない?)
そして――
ふと湧き上がった、もっと下劣な感情が喉の奥を焼いた。
(……もしこれが、シリウスだったら……)
アランは、きっと。
冷たく睨みつけたりでもしただろうか。
その場を立ち去ったかもしれない。あるいは言葉にして、あからさまな嫉妬をぶつけたかもしれない。
……それが許されるのだということが、理屈など超えて、胸を引き裂いた。
今となっては、そんな感情をぶつけられることすら、自分には与えられていないのかもしれないという恐れ。
愛してきたのは、間違いなくアランだった。
それは今も、変わっていない。
だからこそ、その沈黙が――すべてを失わせてゆく。
「…… アラン」
そう呼びかけようとして、言葉にならなかった。
目の前には静かに佇む、誰よりも愛おしいはずの妻。
それでも、自分は今、
彼女の心すら抱きとめてやれないまま、
ただ立ち尽くすしかなかった。
痛みと怒りと哀しさと、
それらすべての渦の中で、レギュラスは黙ったまま、隣に座る彼女の肩に手を伸ばした。
けれどその距離さえ――信じられないほど遠かった。
寝室の薄闇に、ランプの光がひとつ、静かに揺れていた。
アランはベッドの端に腰を下ろし、手を膝の上に重ねたまま、どこか遠くを見つめていた。
レギュラスは傍らに立ち、その横顔を見下ろしている。
沈黙が部屋を満たし、時だけがゆっくりと過ぎてゆく。
これには、オリオンの思惑が絡んでいる。
アランには、それがよく理解できた。
ブラック家に正統な男児をもたらすために——彼が考えた策略。
家の繁栄を第一に考える当主として、決して不合理ではない判断。
仕方のないことなのだ。
事前にこのことを打ち明けられた時、アランは意外にも大きな絶望を感じなかった。
むしろ、どこかで肩の荷が降りるような気さえしていた。
自分がもう、妻としての「役目」を果たせないことは分かっていた。
この弱った身体では、レギュラスの求めに応えることも、子を宿すことも叶わない。
ならば、他の誰かがその役を担ってくれるのは——ある意味で救いでもあった。
ただひとつ気がかりだったのは、セシール家の両親のことだった.
娘の誇りが傷つけられたことを知れば、きっとショックを受けるだろう。
それだけが、心の片隅に小さな痛みを残していた。
ただ、それだけだった。
「……あなたは、何も言わないんですね」
レギュラスの声が、静寂を破った。
その声音には、どこか諦めにも似た落胆が滲んでいた。
アランは視線を上げることなく、小さく息を吐く。
何と返せばいいのか、分からなかった。
怒りも、嫉妬も、今の自分には湧いてこない。
ただ疲れと、静かな受容があるだけだった。
そして次に発せられた言葉は、アランを驚かせた。
「もし……シリウスがあなたの夫だったとしたら」
レギュラスの声が、わずかに震える。
「今日のことには、声を荒らげてくれるんですか?」
その瞬間、アランは思わず口元が緩みそうになった。
笑ってしまいそうになるほどに、滑稽な質問だった。
シリウスが夫だったら?
そんなありえもしない仮定。
想像するだけ無駄だと思った。
確かに幼い頃、そんな幻想をよく夢見ていた。
シリウスの手を取り、彼と共に歩む未来を描いたこともあった。
けれど——その時に、愛も何もかもを置いてきたのだ。
シリウスの手を離し、この場所を選んだ。
ブラック家の妻となることを決めた。
その時点で、過去のすべてを諦めた。
何を今更。
アランの心に浮かんだのは、そんな想いだった。
「……」
彼女は静かに首を振った。
答える価値もない質問に思えた。
今ここで、過去の幻影を引き合いに出すことの無意味さを、痛いほど感じていた。
レギュラスの問いかけは、彼自身の苦悩の表れなのだろう。
けれどアランにとって、それは既に色褪せた夢の残骸でしかなかった。
窓の外で風が吹いている。
春の夜風が、静かに部屋を通り抜けてゆく。
その音だけが、ふたりの間に流れる重い沈黙を和らげていた。
アランは膝の上の手を見つめながら、小さくため息をついた。
過去を振り返ることに、もう意味はない。
今ここにある現実だけが、彼女の生きる世界だった。
夜はゆるやかに、そして静かに更けていった。
ブラック家の屋敷はすっかり人影も薄れ、廊下に灯る燭台の明かりが、壁に長い影を落としている。
書斎で独り、足音も響かぬ石床の上を歩くレギュラスは、最初、ほんのわずかな渇きに気づいていた。
喉の奥が、いやに乾く。
試しに水を一杯、食卓の脇で口に含んだ。
一瞬、潤ったかと思えば、すぐまた渇く。
やや汗ばむような熱も、最初は空調のせいかと思った。
だが――その回数が増えるにつれて、違和感は確信へと変わっていった。
何か、おかしい。
手のひらが熱を帯びている。
鼓動だけが妙に速く、皮膚の内側がじわじわと煮立っていくような倦怠感に、レギュラスは眉を寄せた。
座ろうとした矢先。
背後から、衣擦れの音が近づいてきた。
振り向かずとも、誰かが近付いてくるのがわかる。
――彼女だった。オズワルド家の娘。
音もなく姿を現したその女は、やわらかな布地のドレスをからませながら、ふわりと甘い香をまとってレギュラスの懐へと入ってきた。
香水だったのか、それとも肌から立つ体温そのものなのか――その「匂い」の一滴を嗅いだ瞬間、レギュラスの視界がぐらついた。
喉が干上がるようだった。
欲望とは別の、生きた熱が、全身を駆けていく。
(これは……)
理解に至るのに、そう時間はかからなかった。
――あのワインか。
あの場で注がれた、妙に重い香りのルビー色の液体。
(……媚薬――)
媚態を助長する、それは稀少で禁忌に近い分類の魔法薬。
意思よりも感応が先に走る、極めて精錬された“仕掛け”だ。
怒りが、脳裏を穿つ。
何も知らぬ顔で座していた父オリオンの背が思い浮かぶ。
駒としての機能こそが、おまえの価値なのだ――と、無言で語るようなその背中。
そして、今日という夜のために、女が用意されたこと。
薬が仕込まれたこと。
__そのすべてが明確に浮かび上がる。
利用されている。
その現実が、底なしの怒りと羞恥を呼ぶ。
それでも。
それでも、体はその怒りを打ち消すように――
本能の波に呑まれてゆくのだった。
女の肌の白さが、吐息の揺れが、
長らく感じることのなかった“欲”の形になって意識に入り込む。
アランの方が、美しい。
柔らかい。香りが深い。
誰より、自分を理解してくれる。
その手が触れるだけで残響があった。
彼女ではなければ、意味なんてなかった。
……そのはずなのに。
今、目の前に立つ女が――
ぞっとするほど魅力的に見えてしまう。
それが、何よりも情けなかった。
自分の感情と、肉体がここまで乖離するのか。
アランに触れられぬまま日々を過ごし、それでも手放さぬ想いの深さが、
いまこの一夜の薬の前で、くだらぬ欲に飲まれようとしている。
罰したかった。
腕を切り落としたくなる。
視線を潰してしまいたくなる。
けれど、どうにもならなかった。
女がゆっくりと、息を滑らせるようにしてレギュラスの肩へ手を置いた。
息の熱が首筋に触れた刹那、
レギュラスは目を閉じて――そのすぐあと、ほんの一歩、足を引いた。
——踏みとどまるためだった。
ここで沈めば、何かが完全に終わってしまう気がした。
愛と、家と、自分そのものの尊厳。
そして、いつか取り戻したい「信頼」。
(……まだ、終わりにしてはいけない)
そう心のどこかで、はっきり言葉が響いた。
熱に沸き立つ意識のなか、理性の最後の一片を、
レギュラスは必死に、爪の先で掴んでいた。
夜の帳は、もう深く降りていた。
寝室の扉をくぐったレギュラスは、ほんの少しふらついた足取りで、そこに佇むアランの背を捉えた。彼女は衣擦れの音に気づいて振り向き、驚いたような、そしてどこか心配げな顔をして彼を見つめる。
その視線が、限界だった。
呼吸が浅くなる。喉の奥が焼け付くように熱く、胸の底で堰き止められてきた何かが音を立てて崩れていく。
「レギュラス、どうしたの――?」
問いかけにも似たその顔に答えを返す前に、レギュラスはアランの肩を掴み、背を支えるようにして、そのまま押し倒した。
唇が重なった瞬間、アランの身体がわずかに強張った。
それはいつもの穏やかな口付けではなかった。
柔らかく触れるのでも、思いを確かめるためでもない。
欲に、烈しく火を灯された、それでいてどこか飢えきった獣のようなキスだった。
「あ……レギュラス――」
アランは揺れる視線の中で、尋ねた。問いかけた。叫ぼうとした。
けれど、何もかもが遅かった。
レギュラスの身体はすでに理性の綱から外れていた。
愛しているからこそ、今まで抑えてきた。
数え切れぬ夜、触れる手も、欲しい熱も、眠るようにしまい込んできた。
だが今――それが限界を超え、まるで堰を切った川のように溢れ出していた。
崩れた欲は、もはや祈りにも似ていた。
彼女を壊すためではなく、ただ確かめたかった。
この身体がまだここにあって、
この心が自分に向いてくれていることを――
どこにも奪われていないことを、今夜だけは、確かめたかった。
アランが「だめ」と言おうとするその声さえ、
レギュラスの耳にはかえって切実な応えのように響いて、刹那、激情の炎が増していく。
何度も唇を重ね、熱を奪い、肌を確かめるように繰り返す。
指先が、触れるたびに彼女の温もりを刻む。
それはただの欲ではなく、飢えていた尊厳の回復だった。
――あまりにも情けなく、浅ましい。
けれどそれでも尚、レギュラスは止められなかった。
今夜、ただ一つ願った。
自分を赦してほしい。
怒ってほしい。拒んでほしい。
どんな形でも、生きた“あなた”をここに返してほしい。
愛している。
その言葉すら届くことのない熱の中で、
レギュラスの叫びは、ただ静かにアランの沈黙に溶けていった。
消えそうな心を、
壊れかけた生き方を、
触れ合う熱だけで繋ぎ止める夜だった。
朝の陽はすでに高く昇り、屋敷の窓越しには柔らかな光が差し込んでいた。
けれど、ブラック家の食卓――いつもなら人々の気配と会話が交わる場には、今朝、ふたりの姿がなかった。
レギュラスとアラン。
連名で語られるべきふたりが、その朝はそろって姿を見せなかった。
レギュラスはまだ寝室の奥、カーテンの隙間から差し込む光を、じっと目で追っていた。
額には微かな汗。
身体が重たかった。理由ははっきりしない。
昨夜の薬物の副作用か、それともただの睡眠不足か。
どちらにせよ、ベッドを出る意欲も言い訳も、朝の光の中では影に沈んでゆく。
隣にいるアランもまた、肩のあたりまで毛布をかけたまま、じっと天井を見ていた。
そのまなざしには、目覚めたばかりとは思えないほどの、疲れが滲んでいた。
体の芯が抜け落ちたように、ベッドの上で静かに横たわっている。
レギュラスは、その横顔をそっと見遣った。
記憶の奥に焼きついた昨夜が、不意に胸を刺す。
アランが目を伏せ、身体を強張らせながらも、彼を拒めなかった夜。
情欲に追い立てられ、愛よりも先に手が出てしまったあの瞬間の、心のざらつきが、今の静けさのなかでひどく白々しく響く。
だから口に出した言葉は、ただ、根元から情けなく震えていた。
「…… アラン……? どこか、……痛みますか?」
ほんの、掠れるような声。
アランはゆっくりと瞬きし、間をおいてから答えた。
「……いいえ。平気です」
それきり、また視線は天井へと戻っていった。
その静けさが、むしろすべてを物語っていた。
“平気”――その言葉の軽さが、レギュラスには逆に苦しかった。
昨夜、彼女の痛みや疲れ、体の冷えや声の震え――何ひとつ汲み取ってやる余裕がなかった。
ただ、自分を押し留める理性の最後の糸が切れて、突き動かされるままに求めた夜。
その申し訳なさが、今になって波のように胸に打ち寄せていた。
こんなふうに今さら気遣いの言葉を口にしていることが、
あまりにも――白々しい。
赦してくれ、などと願ってなどいないのに、
それでも「気づかっているふり」に見えてしまうのが、何よりも自分自身が嫌だった。
さえぎるように、どこか遠くから食器の触れる音が聴こえてくる。
朝食の準備が進んでいるのだろう。
きっと、ヴァルブルガも、オリオンも、
そして……あの、オズワルド家の娘も、すでにこの家の“空気”に気づいている。
レギュラスは一瞬、ファミリーとしての体面、客としての礼節、父の思惑……そういったものが脳裏をかすめた。
だが、それらはすぐに煙のように霧散してゆく。
今はもう、思考すること自体が荒唐無稽に思えた。
アランがいる。
ここに、静かに横たわっているだけの、この身体。
それを見つめながら、
レギュラスは腕を伸ばすことをためらい、
声をかける言葉も選べないまま、ただ布団の上に手のひらを乗せた。
ふれたのは、重たく沈黙した沈む温もりだった。
それでも、そうせずにはいられなかった。
愛していることを、
口にできないままでも、そっと残しておきたかった。
それが、せめて――取り返しのつかなさを、引き受ける証になるようにと。
午後の光がやわらかく降り注ぐ、屋敷の南のサロン。
窓辺には繊細なレースの光が揺れ、葉擦れの音が、遠くで静かに響いていた。
アランは、セレナを穏やかに胸に抱いていた。
小さな娘の身体はすっぽりと布の中に包まれ、浅い眠りのなかでかすかな寝息をたてていた。
頬をすり寄せてくる感触が、まるでやわらかな春の一部のようで、アランはその温もりをただ静かに受けとめていた。
すぐ傍らでは、アルタイルの声がかすかに重なっていた。
テーブルの向かいは家庭教師の老魔法使い。
整った所作で杖を構えるその前に、真剣な眼差しの少年が座っていた。
「……インペディメンタ、」
慎重に呪文を唱えると、杖の先に淡くほのかな火の気が灯る。
成功率の高さに、教師が小さく頷くと、アルタイルはわかりづらい顔でそっと口元を緩めた。
「母さんが見てると……ちょっと緊張しますね」
そう言って、ちらりと横目でアランを見やった。
アランは驚いたように目を瞬いた。
それは、確かに彼の中で自然に出てきた呼び方だった。
「まま」――
そう甘えるように呼んできた日々はそう遠い過去ではなかった。
おねだりの声、優しく眠る姿、熱を出して泣いた夜。
あのすべての音の中に、「まま」はあったはずだった。
でも今、アルタイルの声はほんの少し低くなっていた。
杖を持つ手に、痩せた意志が宿っていた。
彼の中で、きっと、目に見えぬどこかの境界を越えてしまったのだと気づいていた。
家庭教師に言われたのか。
ヴァルブルガの言葉だったのか。
あるいは、彼自身が「大人にならなければ」と、自然に縛りをかけたのか。
アランは微笑むだけで、何も言わなかった。
それが、今の彼にはどれほど繊細なプライドなのかを壊したくなかった。
「……そう?」
短くそう返した声は、どこまでも静かだった。
「だって……母さん、いつも見てると、言葉じゃ褒めてくれなくても、褒めてるって伝わるから、……変に、照れちゃうんです」
アルタイルがそう言って、はにかむように笑った。
その笑顔は、年相応の幼さがにじんでいて、アランの胸がほんの少しだけ痛くなった。
もう彼に甘えられることはなくなるのかもしれない。
膝の上で泣かれることも、手を強く握られることも、徐々に遠ざかっていくのだと――
この日の午後の光がささやくように伝えてくるのだった。
アランはセレナをそっと抱き直しながら、目を細めた。
「あなたは、立派になったのね、アルタイル」
そう優しく言った声は、眠るセレナの耳元にだけ届いていた。
そして、かつて“まま”と呼ばれた記憶の、その余韻までも包み込むように。
時間は進んでいく。
子どもは成長していく。
それでも、母はただ変わらず――そこにいる。
そんな午後の、静かで確かな一刻だった。
陽の沈みかけたサロンに、長い影がひとつ伸びている。
アランはアーチ型の窓辺に寄りかかりながら、庭を見下ろしていた。
整えられた芝生の向こうでは、アルタイルがセレナと遊ぶ声がかすかに届いてくる。
夕日に染まるその背の線が、ふとある人の面影と重なる。
レギュラス――一緒に過ごしてきた夫の記憶。
「本当に、レギュラスに似てきたわ……」
誰に語るでもなく、アランはそっと呟いていた。
目のかたち、横顔の線、歩き方、笑うときのあの少し控えめな頬の動き、
――そして何より、ふとした時に見せる、黙って感情を飲み込むような静けさ。
そのすべてが、レギュラスの少年時代に重なって見えた。
けれど、それはただの微笑ましさだけではなかった。
心のどこかにひっかかるような、やわらかい痛みがずっと抜けなかった。
夫となったレギュラスは、あらゆるものを自分のなかに押し込んできた。
父の期待、家の名、兄への対抗心、そして――自分が抱き続けていたシリウスへの想いさえも。
アランはよく知っていた。
レギュラスの中にあった、言葉にならない葛藤を。
シリウスと自分の過去が、どれほど長く、彼の陰として背負われていたかを。
あの人の目は、いつも真っすぐだった。
けれど、少し見落とすとその奥に、苦しさまでも隠せるほどの深い静けさがあった。
「何も言わずに、全部飲み込ませてしまった」
そう思うたびに、アランの胸は密かに軋んだ。
だからこそ――
今、アルタイルの中に、その静けさが生まれはじめていることが、怖かった。
年相応に茶目っ気もあり、無邪気に笑う一面もある。
けれど、大人たちの言葉に耳を傾け、叱られる前に考え、
いつの間にか妹の面倒を自然に見ている。
「いい子」という枠を、幼いながら自分に課している気がしてならなかった。
アランは、思った。
アルタイルには、あんな風になってほしくない。
家のために、黙って役目を受け入れて。
誰にも怒鳴らず、誰にも頼らず、
「これが“正しい”僕のかたちだ」と言い聞かせるような少年にだけは――。
「ごめんなさいね、レギュラス」
夕陽に溶けていくように、アランはかすかに笑って言った。
遠くに歩きながら振り向いたアルタイルが、一瞬だけこちらを見上げて会釈をした。
その姿さえ、痛いほどやさしくて。
どうしても重ねてしまう、「父の背中」。
だけど、もう同じ轍は踏ませたくない。
彼には彼の「こたえ」を――
黙って背負うものではなく、安心して言葉にできる居場所を。
たとえ自分の身体がどうあっても、
自分だけは、それを知っている母でありたいと、アランは強く思った。
落ちていく夕陽の色だけが、ふたりの影を温かく包むように長く引いていた。
その光の中で、静かに母の祈りはひとつ深く注がれていた。
穏やかな談笑、社交辞令に満ちた食卓の口調――
だがレギュラスには、それらのすべてが耳障りだった。
この場――
アランが妻として在り、子どもたちが席に連なっているこの神聖な食卓で、
オズワルドの娘がこの家に“迎え入れられている”という事実が、静かに彼の胸を突き刺していた。
父には、きっぱりと告げたはずだった。
「そのようなことは考えていない」と。
それなのに――すべてが、勝手に、動いている。
部屋を覆う雰囲気に耐えきれず、レギュラスはグラスを取り上げた。
赤褐色のワインが透けるガラスに、あまりにも歪んだ宵の光。
彼は迷うことなく、それを一気に飲み干した。
グラスがテーブルに戻された音は、予想よりも重く響いた。
次の瞬間、レギュラスはゆっくりと立ち上がる。
静かに椅子を引き、隣にいたアランの手首に自然に手を触れる。
「……お先に失礼します」
それは咎めではなく、命令でもなかった。
けれど、確固たる意思表明だった。
アランはレギュラスを見上げた。
瞬き一つ。
けれど、何も問わず――彼の手の導くまま、すっと席を離れた。
その仕草は、場にいる全員の呼吸を止めさせるほど、優雅で、そして静かな反旗だった。
セレナはアランが抱き上げ、アルタイルはそれを合図にすぐ立ち上がった。
あどけなさの残る眼差しに迷いはなかった。
父に続いて出てゆくことが、「正しい」のだと本能で知っている子どもの眼だった。
扉が閉まった後、食堂には再び静けさが戻った。
だが、さっきまでの形式に美しく覆われた空気は、もはやそこにはなかった。
食卓の端、ワインの濃い香りだけが、
残りわずかな尊厳のように、沈殿して漂っていた。
シャンデリアの灯が、深夜の屋敷の静けさに淡く滲んでいた。
重ねられた銀器の冷たさとは対照的に、食卓の余韻だけがどこか空虚に残っている。
「アルタイル、セレナを寝かしつけてやってください」
レギュラスの声は、ごく静かに、それでもどこか低く掠れていた。
彼の言葉に、アルタイルは一瞬だけ父を見上げ、何も言わずに頷いた。
もう言葉で示す必要はなかった。父のまなざしに、それ以上の意志が滲んでいたから。
セレナの小さな手を取ると、アルタイルは母へと目を向ける。
アランもただ、微笑むようなごく小さな頷きでそれに応える。
それだけで、兄妹はそっと廊下に姿を消した。
静寂が重く降りるような気がした。
言葉も、呼吸さえも、わずかに遅れを持って続いてゆく。
レギュラスは振り返り、ゆっくりとアランの手に手を重ねる。
アランは抵抗もせず、ただ無言のまま立ち上がった。
その手の軽さが、どこまでも空虚に感じられた。
寝室へ向かうまでの廊下。
絨毯の沈黙に包まれて、ふたりの足音が音にもならず続く。
けれど、言葉はどこにも落ちなかった。
アランは俯いたまま、何も言わない。
目も逸らさないが、見つめもしない。
それが――レギュラスの胸を、何より痛めた。
怒ってほしかった。
涙のひとつでも見せてほしかった。
「私の前で、あのような女を招くなんて」と、嫉妬してくれる自惚れが欲しかった。
だが、アランは何も言わなかった。
痛みも、怒りも、表情に出さない。
沈黙という名の諦めだけが、彼女の裾をひいていた。
レギュラスは、息を静かに吐いた。
寝室の扉を引きながら、かろうじて言葉を選ぶ。
「……不快な思いをさせてしまって、申し訳ないです」
それは紛れもなく本心だった。
けれど、その謝罪は壁に吸い込まれるように、何の反響も返ってこなかった。
しばらく置いたのち、アランはただ、淡い声で言った。
「……オリオン様のご決定には、従います」
その言葉が、鋭くレギュラスの胸を射抜いた。
とめどなく滲む痛み。
彼女は何も言えなくなってしまったのか。
それとも、もう何も感じなくなってしまったのか。
いや――きっと、すべてを“のみこんでいる”のだ。
逃げられない屋敷にとどまりながら、
失う一方の身体で、家に忠義を尽くすただの“存在”に矯正されていく自分を、諦めるしかなくなった人間の静けさ。
レギュラスは拳を握りしめた。
(なぜあなたは――そんなふうに自分を引き留めてくれない?)
そして――
ふと湧き上がった、もっと下劣な感情が喉の奥を焼いた。
(……もしこれが、シリウスだったら……)
アランは、きっと。
冷たく睨みつけたりでもしただろうか。
その場を立ち去ったかもしれない。あるいは言葉にして、あからさまな嫉妬をぶつけたかもしれない。
……それが許されるのだということが、理屈など超えて、胸を引き裂いた。
今となっては、そんな感情をぶつけられることすら、自分には与えられていないのかもしれないという恐れ。
愛してきたのは、間違いなくアランだった。
それは今も、変わっていない。
だからこそ、その沈黙が――すべてを失わせてゆく。
「…… アラン」
そう呼びかけようとして、言葉にならなかった。
目の前には静かに佇む、誰よりも愛おしいはずの妻。
それでも、自分は今、
彼女の心すら抱きとめてやれないまま、
ただ立ち尽くすしかなかった。
痛みと怒りと哀しさと、
それらすべての渦の中で、レギュラスは黙ったまま、隣に座る彼女の肩に手を伸ばした。
けれどその距離さえ――信じられないほど遠かった。
寝室の薄闇に、ランプの光がひとつ、静かに揺れていた。
アランはベッドの端に腰を下ろし、手を膝の上に重ねたまま、どこか遠くを見つめていた。
レギュラスは傍らに立ち、その横顔を見下ろしている。
沈黙が部屋を満たし、時だけがゆっくりと過ぎてゆく。
これには、オリオンの思惑が絡んでいる。
アランには、それがよく理解できた。
ブラック家に正統な男児をもたらすために——彼が考えた策略。
家の繁栄を第一に考える当主として、決して不合理ではない判断。
仕方のないことなのだ。
事前にこのことを打ち明けられた時、アランは意外にも大きな絶望を感じなかった。
むしろ、どこかで肩の荷が降りるような気さえしていた。
自分がもう、妻としての「役目」を果たせないことは分かっていた。
この弱った身体では、レギュラスの求めに応えることも、子を宿すことも叶わない。
ならば、他の誰かがその役を担ってくれるのは——ある意味で救いでもあった。
ただひとつ気がかりだったのは、セシール家の両親のことだった.
娘の誇りが傷つけられたことを知れば、きっとショックを受けるだろう。
それだけが、心の片隅に小さな痛みを残していた。
ただ、それだけだった。
「……あなたは、何も言わないんですね」
レギュラスの声が、静寂を破った。
その声音には、どこか諦めにも似た落胆が滲んでいた。
アランは視線を上げることなく、小さく息を吐く。
何と返せばいいのか、分からなかった。
怒りも、嫉妬も、今の自分には湧いてこない。
ただ疲れと、静かな受容があるだけだった。
そして次に発せられた言葉は、アランを驚かせた。
「もし……シリウスがあなたの夫だったとしたら」
レギュラスの声が、わずかに震える。
「今日のことには、声を荒らげてくれるんですか?」
その瞬間、アランは思わず口元が緩みそうになった。
笑ってしまいそうになるほどに、滑稽な質問だった。
シリウスが夫だったら?
そんなありえもしない仮定。
想像するだけ無駄だと思った。
確かに幼い頃、そんな幻想をよく夢見ていた。
シリウスの手を取り、彼と共に歩む未来を描いたこともあった。
けれど——その時に、愛も何もかもを置いてきたのだ。
シリウスの手を離し、この場所を選んだ。
ブラック家の妻となることを決めた。
その時点で、過去のすべてを諦めた。
何を今更。
アランの心に浮かんだのは、そんな想いだった。
「……」
彼女は静かに首を振った。
答える価値もない質問に思えた。
今ここで、過去の幻影を引き合いに出すことの無意味さを、痛いほど感じていた。
レギュラスの問いかけは、彼自身の苦悩の表れなのだろう。
けれどアランにとって、それは既に色褪せた夢の残骸でしかなかった。
窓の外で風が吹いている。
春の夜風が、静かに部屋を通り抜けてゆく。
その音だけが、ふたりの間に流れる重い沈黙を和らげていた。
アランは膝の上の手を見つめながら、小さくため息をついた。
過去を振り返ることに、もう意味はない。
今ここにある現実だけが、彼女の生きる世界だった。
夜はゆるやかに、そして静かに更けていった。
ブラック家の屋敷はすっかり人影も薄れ、廊下に灯る燭台の明かりが、壁に長い影を落としている。
書斎で独り、足音も響かぬ石床の上を歩くレギュラスは、最初、ほんのわずかな渇きに気づいていた。
喉の奥が、いやに乾く。
試しに水を一杯、食卓の脇で口に含んだ。
一瞬、潤ったかと思えば、すぐまた渇く。
やや汗ばむような熱も、最初は空調のせいかと思った。
だが――その回数が増えるにつれて、違和感は確信へと変わっていった。
何か、おかしい。
手のひらが熱を帯びている。
鼓動だけが妙に速く、皮膚の内側がじわじわと煮立っていくような倦怠感に、レギュラスは眉を寄せた。
座ろうとした矢先。
背後から、衣擦れの音が近づいてきた。
振り向かずとも、誰かが近付いてくるのがわかる。
――彼女だった。オズワルド家の娘。
音もなく姿を現したその女は、やわらかな布地のドレスをからませながら、ふわりと甘い香をまとってレギュラスの懐へと入ってきた。
香水だったのか、それとも肌から立つ体温そのものなのか――その「匂い」の一滴を嗅いだ瞬間、レギュラスの視界がぐらついた。
喉が干上がるようだった。
欲望とは別の、生きた熱が、全身を駆けていく。
(これは……)
理解に至るのに、そう時間はかからなかった。
――あのワインか。
あの場で注がれた、妙に重い香りのルビー色の液体。
(……媚薬――)
媚態を助長する、それは稀少で禁忌に近い分類の魔法薬。
意思よりも感応が先に走る、極めて精錬された“仕掛け”だ。
怒りが、脳裏を穿つ。
何も知らぬ顔で座していた父オリオンの背が思い浮かぶ。
駒としての機能こそが、おまえの価値なのだ――と、無言で語るようなその背中。
そして、今日という夜のために、女が用意されたこと。
薬が仕込まれたこと。
__そのすべてが明確に浮かび上がる。
利用されている。
その現実が、底なしの怒りと羞恥を呼ぶ。
それでも。
それでも、体はその怒りを打ち消すように――
本能の波に呑まれてゆくのだった。
女の肌の白さが、吐息の揺れが、
長らく感じることのなかった“欲”の形になって意識に入り込む。
アランの方が、美しい。
柔らかい。香りが深い。
誰より、自分を理解してくれる。
その手が触れるだけで残響があった。
彼女ではなければ、意味なんてなかった。
……そのはずなのに。
今、目の前に立つ女が――
ぞっとするほど魅力的に見えてしまう。
それが、何よりも情けなかった。
自分の感情と、肉体がここまで乖離するのか。
アランに触れられぬまま日々を過ごし、それでも手放さぬ想いの深さが、
いまこの一夜の薬の前で、くだらぬ欲に飲まれようとしている。
罰したかった。
腕を切り落としたくなる。
視線を潰してしまいたくなる。
けれど、どうにもならなかった。
女がゆっくりと、息を滑らせるようにしてレギュラスの肩へ手を置いた。
息の熱が首筋に触れた刹那、
レギュラスは目を閉じて――そのすぐあと、ほんの一歩、足を引いた。
——踏みとどまるためだった。
ここで沈めば、何かが完全に終わってしまう気がした。
愛と、家と、自分そのものの尊厳。
そして、いつか取り戻したい「信頼」。
(……まだ、終わりにしてはいけない)
そう心のどこかで、はっきり言葉が響いた。
熱に沸き立つ意識のなか、理性の最後の一片を、
レギュラスは必死に、爪の先で掴んでいた。
夜の帳は、もう深く降りていた。
寝室の扉をくぐったレギュラスは、ほんの少しふらついた足取りで、そこに佇むアランの背を捉えた。彼女は衣擦れの音に気づいて振り向き、驚いたような、そしてどこか心配げな顔をして彼を見つめる。
その視線が、限界だった。
呼吸が浅くなる。喉の奥が焼け付くように熱く、胸の底で堰き止められてきた何かが音を立てて崩れていく。
「レギュラス、どうしたの――?」
問いかけにも似たその顔に答えを返す前に、レギュラスはアランの肩を掴み、背を支えるようにして、そのまま押し倒した。
唇が重なった瞬間、アランの身体がわずかに強張った。
それはいつもの穏やかな口付けではなかった。
柔らかく触れるのでも、思いを確かめるためでもない。
欲に、烈しく火を灯された、それでいてどこか飢えきった獣のようなキスだった。
「あ……レギュラス――」
アランは揺れる視線の中で、尋ねた。問いかけた。叫ぼうとした。
けれど、何もかもが遅かった。
レギュラスの身体はすでに理性の綱から外れていた。
愛しているからこそ、今まで抑えてきた。
数え切れぬ夜、触れる手も、欲しい熱も、眠るようにしまい込んできた。
だが今――それが限界を超え、まるで堰を切った川のように溢れ出していた。
崩れた欲は、もはや祈りにも似ていた。
彼女を壊すためではなく、ただ確かめたかった。
この身体がまだここにあって、
この心が自分に向いてくれていることを――
どこにも奪われていないことを、今夜だけは、確かめたかった。
アランが「だめ」と言おうとするその声さえ、
レギュラスの耳にはかえって切実な応えのように響いて、刹那、激情の炎が増していく。
何度も唇を重ね、熱を奪い、肌を確かめるように繰り返す。
指先が、触れるたびに彼女の温もりを刻む。
それはただの欲ではなく、飢えていた尊厳の回復だった。
――あまりにも情けなく、浅ましい。
けれどそれでも尚、レギュラスは止められなかった。
今夜、ただ一つ願った。
自分を赦してほしい。
怒ってほしい。拒んでほしい。
どんな形でも、生きた“あなた”をここに返してほしい。
愛している。
その言葉すら届くことのない熱の中で、
レギュラスの叫びは、ただ静かにアランの沈黙に溶けていった。
消えそうな心を、
壊れかけた生き方を、
触れ合う熱だけで繋ぎ止める夜だった。
朝の陽はすでに高く昇り、屋敷の窓越しには柔らかな光が差し込んでいた。
けれど、ブラック家の食卓――いつもなら人々の気配と会話が交わる場には、今朝、ふたりの姿がなかった。
レギュラスとアラン。
連名で語られるべきふたりが、その朝はそろって姿を見せなかった。
レギュラスはまだ寝室の奥、カーテンの隙間から差し込む光を、じっと目で追っていた。
額には微かな汗。
身体が重たかった。理由ははっきりしない。
昨夜の薬物の副作用か、それともただの睡眠不足か。
どちらにせよ、ベッドを出る意欲も言い訳も、朝の光の中では影に沈んでゆく。
隣にいるアランもまた、肩のあたりまで毛布をかけたまま、じっと天井を見ていた。
そのまなざしには、目覚めたばかりとは思えないほどの、疲れが滲んでいた。
体の芯が抜け落ちたように、ベッドの上で静かに横たわっている。
レギュラスは、その横顔をそっと見遣った。
記憶の奥に焼きついた昨夜が、不意に胸を刺す。
アランが目を伏せ、身体を強張らせながらも、彼を拒めなかった夜。
情欲に追い立てられ、愛よりも先に手が出てしまったあの瞬間の、心のざらつきが、今の静けさのなかでひどく白々しく響く。
だから口に出した言葉は、ただ、根元から情けなく震えていた。
「…… アラン……? どこか、……痛みますか?」
ほんの、掠れるような声。
アランはゆっくりと瞬きし、間をおいてから答えた。
「……いいえ。平気です」
それきり、また視線は天井へと戻っていった。
その静けさが、むしろすべてを物語っていた。
“平気”――その言葉の軽さが、レギュラスには逆に苦しかった。
昨夜、彼女の痛みや疲れ、体の冷えや声の震え――何ひとつ汲み取ってやる余裕がなかった。
ただ、自分を押し留める理性の最後の糸が切れて、突き動かされるままに求めた夜。
その申し訳なさが、今になって波のように胸に打ち寄せていた。
こんなふうに今さら気遣いの言葉を口にしていることが、
あまりにも――白々しい。
赦してくれ、などと願ってなどいないのに、
それでも「気づかっているふり」に見えてしまうのが、何よりも自分自身が嫌だった。
さえぎるように、どこか遠くから食器の触れる音が聴こえてくる。
朝食の準備が進んでいるのだろう。
きっと、ヴァルブルガも、オリオンも、
そして……あの、オズワルド家の娘も、すでにこの家の“空気”に気づいている。
レギュラスは一瞬、ファミリーとしての体面、客としての礼節、父の思惑……そういったものが脳裏をかすめた。
だが、それらはすぐに煙のように霧散してゆく。
今はもう、思考すること自体が荒唐無稽に思えた。
アランがいる。
ここに、静かに横たわっているだけの、この身体。
それを見つめながら、
レギュラスは腕を伸ばすことをためらい、
声をかける言葉も選べないまま、ただ布団の上に手のひらを乗せた。
ふれたのは、重たく沈黙した沈む温もりだった。
それでも、そうせずにはいられなかった。
愛していることを、
口にできないままでも、そっと残しておきたかった。
それが、せめて――取り返しのつかなさを、引き受ける証になるようにと。
午後の光がやわらかく降り注ぐ、屋敷の南のサロン。
窓辺には繊細なレースの光が揺れ、葉擦れの音が、遠くで静かに響いていた。
アランは、セレナを穏やかに胸に抱いていた。
小さな娘の身体はすっぽりと布の中に包まれ、浅い眠りのなかでかすかな寝息をたてていた。
頬をすり寄せてくる感触が、まるでやわらかな春の一部のようで、アランはその温もりをただ静かに受けとめていた。
すぐ傍らでは、アルタイルの声がかすかに重なっていた。
テーブルの向かいは家庭教師の老魔法使い。
整った所作で杖を構えるその前に、真剣な眼差しの少年が座っていた。
「……インペディメンタ、」
慎重に呪文を唱えると、杖の先に淡くほのかな火の気が灯る。
成功率の高さに、教師が小さく頷くと、アルタイルはわかりづらい顔でそっと口元を緩めた。
「母さんが見てると……ちょっと緊張しますね」
そう言って、ちらりと横目でアランを見やった。
アランは驚いたように目を瞬いた。
それは、確かに彼の中で自然に出てきた呼び方だった。
「まま」――
そう甘えるように呼んできた日々はそう遠い過去ではなかった。
おねだりの声、優しく眠る姿、熱を出して泣いた夜。
あのすべての音の中に、「まま」はあったはずだった。
でも今、アルタイルの声はほんの少し低くなっていた。
杖を持つ手に、痩せた意志が宿っていた。
彼の中で、きっと、目に見えぬどこかの境界を越えてしまったのだと気づいていた。
家庭教師に言われたのか。
ヴァルブルガの言葉だったのか。
あるいは、彼自身が「大人にならなければ」と、自然に縛りをかけたのか。
アランは微笑むだけで、何も言わなかった。
それが、今の彼にはどれほど繊細なプライドなのかを壊したくなかった。
「……そう?」
短くそう返した声は、どこまでも静かだった。
「だって……母さん、いつも見てると、言葉じゃ褒めてくれなくても、褒めてるって伝わるから、……変に、照れちゃうんです」
アルタイルがそう言って、はにかむように笑った。
その笑顔は、年相応の幼さがにじんでいて、アランの胸がほんの少しだけ痛くなった。
もう彼に甘えられることはなくなるのかもしれない。
膝の上で泣かれることも、手を強く握られることも、徐々に遠ざかっていくのだと――
この日の午後の光がささやくように伝えてくるのだった。
アランはセレナをそっと抱き直しながら、目を細めた。
「あなたは、立派になったのね、アルタイル」
そう優しく言った声は、眠るセレナの耳元にだけ届いていた。
そして、かつて“まま”と呼ばれた記憶の、その余韻までも包み込むように。
時間は進んでいく。
子どもは成長していく。
それでも、母はただ変わらず――そこにいる。
そんな午後の、静かで確かな一刻だった。
陽の沈みかけたサロンに、長い影がひとつ伸びている。
アランはアーチ型の窓辺に寄りかかりながら、庭を見下ろしていた。
整えられた芝生の向こうでは、アルタイルがセレナと遊ぶ声がかすかに届いてくる。
夕日に染まるその背の線が、ふとある人の面影と重なる。
レギュラス――一緒に過ごしてきた夫の記憶。
「本当に、レギュラスに似てきたわ……」
誰に語るでもなく、アランはそっと呟いていた。
目のかたち、横顔の線、歩き方、笑うときのあの少し控えめな頬の動き、
――そして何より、ふとした時に見せる、黙って感情を飲み込むような静けさ。
そのすべてが、レギュラスの少年時代に重なって見えた。
けれど、それはただの微笑ましさだけではなかった。
心のどこかにひっかかるような、やわらかい痛みがずっと抜けなかった。
夫となったレギュラスは、あらゆるものを自分のなかに押し込んできた。
父の期待、家の名、兄への対抗心、そして――自分が抱き続けていたシリウスへの想いさえも。
アランはよく知っていた。
レギュラスの中にあった、言葉にならない葛藤を。
シリウスと自分の過去が、どれほど長く、彼の陰として背負われていたかを。
あの人の目は、いつも真っすぐだった。
けれど、少し見落とすとその奥に、苦しさまでも隠せるほどの深い静けさがあった。
「何も言わずに、全部飲み込ませてしまった」
そう思うたびに、アランの胸は密かに軋んだ。
だからこそ――
今、アルタイルの中に、その静けさが生まれはじめていることが、怖かった。
年相応に茶目っ気もあり、無邪気に笑う一面もある。
けれど、大人たちの言葉に耳を傾け、叱られる前に考え、
いつの間にか妹の面倒を自然に見ている。
「いい子」という枠を、幼いながら自分に課している気がしてならなかった。
アランは、思った。
アルタイルには、あんな風になってほしくない。
家のために、黙って役目を受け入れて。
誰にも怒鳴らず、誰にも頼らず、
「これが“正しい”僕のかたちだ」と言い聞かせるような少年にだけは――。
「ごめんなさいね、レギュラス」
夕陽に溶けていくように、アランはかすかに笑って言った。
遠くに歩きながら振り向いたアルタイルが、一瞬だけこちらを見上げて会釈をした。
その姿さえ、痛いほどやさしくて。
どうしても重ねてしまう、「父の背中」。
だけど、もう同じ轍は踏ませたくない。
彼には彼の「こたえ」を――
黙って背負うものではなく、安心して言葉にできる居場所を。
たとえ自分の身体がどうあっても、
自分だけは、それを知っている母でありたいと、アランは強く思った。
落ちていく夕陽の色だけが、ふたりの影を温かく包むように長く引いていた。
その光の中で、静かに母の祈りはひとつ深く注がれていた。
