3章
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夜会のホールは、黒曜石に似た艶やかな光をたたえた大理石の床に、シャンデリアの光が幾重にも滴っていた。
流れるワルツ、磨かれすぎて音さえ反射する壁、香のように漂う貴族たちの気配。
その夜、アランはレギュラスと並んで社交の場に姿を現していた。
けれど、彼らの間に会話はなかった。
並ぶ姿が誰よりも絵になっていることを、周囲は疑わなかったが、
アラン自身には、その沈黙が肌の奥にまで忍び寄る寒さのように感じられた。
その手には、ひとり歩き回りたがる息子――アルタイルの小さな手を。
走り出すことをやんわり制しながら、人々の視線を受け流すように歩き続けた。
「相変わらず美しいわね、アラン様」
「まあ、あの伏せていたという噂も、真実味がないわ……でも、お顔色……」
「少し……冴えない気がしますわね……ええ、でもやはり美しい。少しばかり、影のような艶が」
――影のような。
アランの頬に、仄かな熱が灯る。
けれど、それは羞恥ではなく――圧だった。
この日のために、化粧は入念に整えた。
目周りのくすみには明るさを重ね、頬には花びらのような薔薇色を添えて、
まるで熱があるように、冷たさを隠す練り粉を丁寧に刷り込んだ。
笑い方にいたっては、鏡の前で幾度も形を確認した――滲んだ翳を作らぬように。
けれど人々の眼差しには、「何かを隠している」という確信めいた期待すら込められていた。
「まだ体調が芳しくないのかしら」
「それとも家の中で、何か……あったのでは?」
滑らかな声に編まれた“噂”が、ステップの合間にそっと混ざる。
笑わなければ――と思う。
そして、立ち止まってはいけない。
いつだって美しく、戦うように“ふさわしい”姿でなければ。
ブラック家に嫁ぎ、将来の当主・アルタイルを育てる者として、
「一滴の翳りすら取りこぼしてはならないのだ」と何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど。
化粧では覆えぬ“痛みからの回復”が、
身体にも、目にも、心にも――あまりに遅れていた。
舞踏の輪の端、レギュラスは静かに立っていた。
相変わらず端整な彼に向けられる視線は絶えなかったが、
その眼差しもまた、アランの方を振り返ることはなかった。
それが、何より胸に刺さる。
アランは、ただ口元に笑みを描いたまま、
アルタイルの手を軽く引いた。
男の子が少しだけはしゃぎながらも、それに従って歩く。
小さな掌の温もりが、今日という夜を、どうにか支えてくれていた。
けれど耳元をすり抜ける囁きが、また背に爪を立てるたび、
アランの首筋にはゆっくりと、目に見えぬ悲しみの影が落ちていた。
それは決して、化粧では隠せない重さだった。
――けれど、それでも今日のアランは、微笑み続けた。
たとえそれがどれほど脆く、
いつ崩れてしまってもおかしくない表情だったとしても。
彼女は“あらねばならぬ姿”を、今日も静かに演じていた。
その胸の内に、誰にも気づかれないまま。
夜会の騒めきの中、整えられた装飾の影で一際静かな場所に、レギュラス・ブラックは孤立するように立っていた。
仄かなワインの香りが漂うグラスを手にしてはいたが、その中身はほとんど減っていなかった。
指先は止まり、ひとつひとつの囁きに、思考がふと奪われる。
──「あのご夫人、やっぱりまだ本調子ではないのでは?」
──「舞台に戻ってきたにしては、お顔が白すぎるような……」
──「でも、あの化粧の美しさって……かえって気になりますわよね」
飾り立てた世辞と、その裏に潜んだ猜疑が交錯する空気。
そのどれもが、レギュラスの耳を過敏に叩いていた。
アランは、今夜も完璧だった。
姿勢ひとつ崩すことなく、気丈に立ち、微笑み返し、会釈しながらアルタイルの手をゆるやかに引いて歩く。
口元の光。瞳の揺れ。袖口の品。
どこを褒められても申し分ない“完成された美”。
……けれど。
レギュラスだけは知っていた。
その化粧が、目の下の青さを隠すための工夫であること。
光を反射しないように細心に塗られたパウダーが、
どれほどの時間をかけて整えられたものか。
その頬笑みの裏で、ひと言も言葉を発しない沈黙が、
どれほどの痛みに耐えて生まれたものであるかを。
好きだった。美しい化粧姿も、緊張感を纏った立ち居振る舞いも。
でもそれが、何か“見せたくないもの”を隠すための手段になってしまったと気づいた今、
レギュラスの胸には言葉にならない不安が棘のように満ちていた。
どこまで、無理をしているのだろう。
どこまで、自分を壊してまで、この役を演じ続けているのだろう。
何度問いかけようと、喉まで上がってきた言葉はまた戻ってしまう。
「大丈夫ですか?」
「苦しくないですか?」
――そんな何気ない問いひとつが、“その夜”の続きになってしまうから。
あの夜、アランは自分の命を使って、何かを護ろうとした。
自分の「愛」が、彼女をそこまで追い詰めたという現実は、
いまだにレギュラスの中に痛みを置いていた。
離れている時間が増えるたび、自分のなかの想いは剥がれていくはずだった。
そう思っていた。
そうあってほしかった。
距離が癒してくれる感情など、どこにもなかった。
レギュラスのなかで、アランへの執着は、愛と呼ぶにはあまりにも苦しく、
固執と呼ぶにはあまりにも清らかになっていた。
感情が重いのではない。
重さそのものになっていた。
今、彼女の背にかかる視線をすべて振り払ってやりたい。
席を抜けて、そっと背に声をかけたくてたまらない。
けれど、「今さら何を伝えても」それは――
彼女をさらに追い込むだけかもしれなかった。
愛していると、ただそう言いたかった。
でもそれは、ときに最も残酷な言葉になることを、
彼はもう、知ってしまっていた。
冷えたグラスの中で、光がゆれる。
レギュラスの沈黙は、誰にも気づかれぬまま、
今夜も静かに積もりゆく。
彼女の笑顔と、その裏に滲む疲弊を遠くから見つめながら。
彼が望んでいたはずの「夫婦の形」は、
もうどこにも、掬える形ではなくなっていた。
それでも、目は離せなかった。
彼の妻であり、苦しみのなかで今日も立っているひとりの人間――
アランという灯は、ただそこにいた。
それだけで、レギュラスの心はまた明日へ進む凍て道を、
ひとつ、黙って踏み出すしかなかった。
優雅に整えられた晩餐の帳が降りるなか、ホールには穏やかな音楽と、グラスのふれあう涼やかな音が漂っていた。煌びやかな絨毯の交差点で、アランはある名家の当主から恭しくワインのグラスを手渡されていた。
「ご婦人に、祝福を。どうか光栄を分けてください」
その男は、年齢以上に朗らかな笑みを浮かべながら、深紅のワインを満たしたグラスを掲げる。アランは一瞬だけ視線を上げ、控えめに微笑んだ。
「ありがとうございます」
淡いルージュに包まれた唇が礼を述べながら、優雅な手つきでグラスを受け取る。
所作は完璧だった。端麗な微笑、腕の角度、瞳の柔らかさまでも含めて、それは「貴婦人」としての洗練に他ならなかった。
けれど、その瞬間――レギュラス・ブラックの胸を、冷や汗にも似た直感がかすめた。
その夜のアランの化粧は、誰よりも美しかった。
けれど、それが「隠すためのもの」であることを、彼は知っていた。
彼女の身体はまだ癒えきっていない。
そして何より――今、酒などひと口でも入れていい状態ではないことを、誰よりも理解していた。
だから。
何の表情も挟まず、声もなく。
レギュラスはただ静かに――「自然に」彼女のそばに歩み寄っていた。
アランがグラスを掲げようとしたその瞬間、
レギュラスの手が音もなく伸びる。
彼女の指先から、そのグラスをそっと抜き取った。
本当に、ささやかな仕草だった。
けれど一部始終を見ていた数人の周囲の人間の呼吸が、わずかに止まった。
アランも驚いたように夫を見上げる。
だがその瞬間すでに、レギュラスは相手の男に向いたまま、礼儀正しく――けれど明らかな温度で言葉を紡ぎ出していた。
「失礼を。――妻は、今は酒を控えておりまして」
声は柔らかかったが、どこか断絶的で、人を納得させるだけの“距離”を含んでいた。
男はあっさりと笑い、肩を竦めた。
「これは……それは……失礼いたしました、ブラック卿。ご婦人に不調の兆があるとはつゆ知らず」
「お気になさらずに。代わりに、私が」
レギュラスはそのまま、グラスを少し掲げるように傾け、軽く唇に触れる程度の“演技”だけを見せた。それで充分だった。誰もが、改めてその夫婦の美しさと、異様なまでの静謐な結束を感じ取った。
ふたりきりになった数分後、アランはそっと、首をすくめるようにして言った。
「……すみません、レギュラス」
悄げた声音に、いつもよりもわずかに幼さが滲んでいた。
レギュラスはすぐには返さず、彼女の横顔を少しだけ見つめ、ふっと細く息を抜いた。
「……無理して飲む必要など、どこにもありませんよ」
その一言だけが、アランの胸に静かに沁みていった。
咎めても、同情してもいなかった。
ただ、伝えたかった――《君は、無理をしなくていい》。
そう言ってもらえる言葉が、
どれほど救いだったか。
アランは軽く頷いて、視線を落とした。
手の中の何もないグラスの重さが、ふと軽くなるような気がしていた。
そっと差し伸べられた“沈黙の愛情”が、今夜の彼女を一枚、守ってくれたのだった。
高窓のシャンデリアに揺れる光が、薄紅と金のきらめきとなって広間を照らし続けていた。笑い声とワインの香が天井に溜まり、拍手と音楽が何度目かの転調を迎える。夜の社交は、まだなお熱を保ち続けていた。
アランは、静かにその輪の外側にいた。
斜めに座る姿勢、絹のドレスの胸元にかかる呼吸の浅さ、どこか遠くを見ているような眼差し――
隣に佇むレギュラスには、すべてが明らかだった。
彼女の疲労は、もう隠せるものではなかった。
微笑みはよく整っていたが、その綺麗な仮面の下にある陰りは、誰より近くにいる彼にとってはあまりに透けて見えた。
何度か駆け回っていたアルタイルも、いまは使用人の腕の中に抱かれている。
母の疲れを察したのか、あるいは飽きてしまったのかは分からないが、もう子供の手は引かれていなかった。
レギュラスは、アランの手元に目を向け、低く問いかけた。
「……お疲れのようですし、戻りますか」
声は抑えられて静かだった。
“あなたを気遣っています”と、その至近距離だけに置かれた優しさが、羽のようにひらりとアランに触れた。
アランは、少しだけ目を見開き、そしてすぐに細く微笑んだ。
「……いえ。皆さん、まだ盛り上がっている最中ですから」
てっきり、頷くものだと思っていた。
それはある意味で、当然だった。
これだけ長い時間、彼女の体は限界に近いはずで――
それでもアランは、背筋を伸ばし、毅然としていた。
意地なのか。
それとも、「ブラック家の人間として」立ち続けようとする矜持か。
思考がめぐる間、レギュラスはほんの一瞬だけ視線を宙に預けると、すぐに表情を正した。
そして、静かな声で言い直した。
「……言い方を変えますね」
「――そろそろ、帰りましょうか」
アランは少し驚いたように彼を見上げ、そしてすぐに微笑んだ。
その微笑みには、柔らかな敗北と、どこかあたたかな安堵が混ざっていた。
「……分かったわ」
「あなたに従うわ」
そう返したアランの声は掠れていたけれど、どこかようやく“戻ってこれた”人間のような、静けさが宿っていた。
レギュラスは頷かなかった。
けれど、返事はそれだけで十分だと受け取った。
そっとアランの手に触れ、形式的すぎない範囲で指先を重ねる。
そののちふたりは、社交の海を横切るようにして外縁を歩いていく。
レギュラスは要所の貴族たちへ礼儀正しい言葉で別れを告げ、アランも沈むような声音で小さく会釈を繰り返す。
笑顔を交わしながらも、誰もが感じている。
この夫婦は、蒸気の抜けた紅茶のように、どこか静かに立ち去ろうとしていること。
その背に会話はほとんどなかったが、
衣擦れの音、スカートの引く弧、指先同士の距離感のすべてが――
何よりの言葉となっていた。
アランの歩幅は少しずつ狭まり、けれどレギュラスの手は、離れないように在り続けた。
広間の扉がすっと開く。
金と音楽に満ちた宴の空気から離れて、
ふたりはゆっくりと、その夜の外側に歩き出した。
ひとときの仮面を脱ぎ捨てるように。
ひとときの心を、取り戻すために。
その足音は、ただふたりだけの夜への、静かな帰路だった。
屋敷のなかは、宴の余韻を知る者のように、どこか煌びやかさの名残だけをひっそりと漂わせていた。
レギュラスは、寝室のランプにだけ明かりを灯し、脱ぎかけたローブの裾を整える手をゆっくりと止めた。
待っていた。
アランが浴室から戻るのを。
けれど、時間はとうに一刻を過ぎていた。
静けさが過ぎるには、少しだけ不自然だった。
彼女が「先に着替えてくるわ」と言ったあの声の控えめな響きが、頭にこびりついている。
静かな、でもどこか途切れそうな声音。
嫌な予感というほどのものではなかった。
けれど、その静けさには、今夜の彼女の疲れが淡く滲んでいたような気がして――。
レギュラスは寝室を出ると、廊下を音を立てずに歩いた。
奥の一角、アランの自室の扉の前で立ち止まり、呼吸を整えてから静かにノックをする。
しかし返事は、なかった。
もう一度、音を小さく。
やはり……気配はあるのに、何も返ってこない。
灯りがまだ消えていないことに安心しつつも、一抹の不安を拭いきれず、レギュラスはそっと、扉に手をかけた。
開かれたその部屋は、仄かな薬香と乳の香りが混じり合い、寝台のカーテンがふんわりと風に揺れていた。
そして、その中央に――
アランがいた。
淡い月明かりに照らされ、セレナの小さな寝台の横――
そこに、ひとり膝を折り、身体を少し傾けるようにもたれかかり、静かに、深く眠り込んでいた。
ドレスも、化粧も――まだ何も解かれていなかった。
固くまとめた髪は、額のあたりに少しだけ落ちかかっていて、
ひとつ深く息を吐くたびに、肩が小さく上下していた。
まるで、“事切れるように”眠ってしまったようだった。
その指先には、まだセレナの小さな毛布の端が握られている。
赤子は穏やかに眠り、母のそばに、安心しきったように顔を寄せていた。
レギュラスは、無言でその側へ近づいた。
アランの頬は、少しだけ赤みが残り、化粧と涙の跡が混じり合っていた。
寝息は浅く、けれど深い眠りのなかにある、小さな命のように微かだった。
彼はゆっくり膝を折り、目線を合わせる。
「……がんばりすぎた」
誰にでもなく、そう呟いた。
今夜の道中、彼女の笑みがほんの少し揺れていたことを、
幾人もの視線と噂の囁きが、彼女の頬をかすめていたことを――
自分は、ただ見過ごしていたのだと。
この眠りは、静けさではない。
限りなく、限界の果てにある“哀れ”に近い安堵だった。
セレナの小さな寝息を妨げぬように、
レギュラスは静かにアランの肩に、ひとすじ手を添えた。
崩れかけたブローチを外し、片方だけ外れていたイヤリングをそっと手に取る。
彼女の髪を解いてやりたい衝動を、指先に留める。
「……こんな姿になるまで」
そう独りごちた声は、夜の空気にすらすくわれていった。
愛するということは、守ることだったのではないか――
レギュラスはそう問うように、黙ったまま彼女の前髪をそっと撫で、顔の横にずれていた毛布を肩までかけ直した。
母子のあたたかな呼吸が、寝具のなかでゆるやかに重なっている。
そして、レギュラス・ブラックもまた、
灯りを落とさずにそっとその場に腰を下ろした。
朝が来るまで。
彼女が目を覚ますまで。
何も言わず、言葉にならないすべてを、
ただ傍に座って、赦したいと思った。
それがどんなに遅れた悔いであったとしても。
深い夜の静寂が屋敷の中に降りていた。
廊下に敷かれた絨毯に、革靴の足音が静かに沈んでゆく。
任務を終え、いつもより少し遅い時間だった。
レギュラス・ブラックは、コートを脱ぎながら扉を静かに閉じる。
魔法で暖められた屋敷の空気が、じんわりと疲労をほどいてゆくその最中――
ふと耳に届く衣擦れの音。
振り返れば、控えめに灯された灯りの下に、アランが立っていた。
セレナを寝かしつけたあとそのままにしていたであろう、軽いガウン姿。
髪はほつれたまま肩に流れ、目元は少し眠たげだったが、
それでも彼女は確かに、待っていてくれた。
思わず、言葉が零れる。
「……寝ていても、よかったんですよ」
それは安堵と、どこか切なさを含んだ声だった。
彼女の身体がまだ完全ではないことは、レギュラスが一番知っていた。
夜は冷える。無理をせず、あたたかい布団のなかにいてほしかった。
アランは微かに微笑んで、ゆっくり首を振る。
その動きすら、どこか遠慮がちな優しさを孕んでいた。
「……セレナ、ついさっきまで起きていたから……」
「だから、どうせなら一緒に……待っていようと思って」
嘘ではなかった。
けれど、それがすべてでもなかった。
この頃、アランは決めたのだ。
セレナを寝かしつけたあとですら、たまには眠気に抗って──
レギュラスを出迎えるという「時間」を自分の意志で持ちたいと。
それは赦しを乞うためでも、贖いのつもりでもなかった。
ただ、任務に沈む彼の帰る場所――
「家を守る」という役割において、自分もまた傍にいたいという気持ちだった。
会話はそれで終わる。
けれど、レギュラスは彼女の姿を見るだけで、胸のどこかがふっとほどけていくのを感じていた。
よみがえるような疲れが少しだけ軽くなる。
それは、彼女にしか与えられない静かな労りだった。
「おかえりなさい、レギュラス」
アランは小さくそう言った。
それはごくごく平凡な、けれど何よりあたたかい言葉だった。
レギュラスはそれに頷き、近づいて彼女の肩に手をかける。
布越しに伝わる体温が、夜の静けさを微かに満たしてゆく。
ふたりの影が廊下にゆるやかに重なりあう。
凍てついた夜の片隅で、確かに灯された――ひとつの小さな、やわらかな光だった。
隠れ家の暖炉に薪がはぜ、橙色の光がふたりの影を壁に長く伸ばしていた。
外は春の夜風が窓を軽やかに叩き、新緑の匂いが部屋の奥まで漂っている。
シリウス・ブラックは、向かいに座るアリスの横顔を静かに見つめていた。
もうすぐホグワーツを卒業する彼女は、少女の面影を残しながらも、確かに大人の輪郭を見せるようになっていた。
「……本当に、浅はかだったのよ」
アリスは何度目かの詫びを口にした。
膝の上で組んだ手が、わずかに震えている。
「2年前のこと……あの時、私、どうしてあんなことを……」
2年前のブラック家への侵入事件。
それはアリスにとって、いまだに胸の奥で疼く傷だった。
シリウスは小さくため息をついて、暖炉の火を見つめた。
「……俺が、悪かったんだ」
その声は静かで、自分を責めるような響きを含んでいた。
「俺が…… アランのことを、あまりにもたくさん話しすぎた」
「お前の中で、“ アランがここに来れば全てうまくいく”なんて……そんな単純な話になってしまったのかもしれない」
アリスは首を振った。
「違うの、シリウス。あれは私の……私の勝手な思い込みで……」
けれどシリウスの表情は変わらなかった。
彼は知っていた。アリスがどれほど純粋に、自分の語る「過去の光」を信じていたかを。
そして、その光を取り戻そうとする気持ちが、どれほど真っ直ぐだったかを。
むしろ自分に責任がある。
そう感じていた。
でも。
シリウスの胸には、別の感情も宿っていた。
誇らしさ、だった。
「……卒業したら」
アリスが顔を上げて、まっすぐに彼を見つめる。
「私も、シリウスと同じように……騎士団の一員として働きたいの」
その瞳には、迷いがなかった。
2年前の無謀さとは違う、確かな意志の光が宿っている。
シリウスは静かに頷いた。
「……そうか」
もう、手綱を引いてやる必要はない。
卒業すれば、彼女は自分で考え、自分の意志で行動していく。
それは確かに、寂しいことでもあった。
けれど――
アランを救おうと動いたあの無謀なほどの勇気が、きっとこれから先も、アリス自身を強くしていくのだと信じていた。
あの夜、ポリジュース薬を飲んでまで屋敷に忍び込んだ少女。
それは確かに危険で、浅はかな行動だった。
でも、その根底にあったのは――
「誰かを守りたい」という、偽りのない想いだった。
その心を持つ限り、アリスはきっと間違わない。
たとえ道を踏み外しそうになっても、最後には必ず、正しい場所に戻ってこられるはずだ。
暖炉の火が静かに燃え続ける中、ふたりの間に流れる時間は穏やかだった。
父と娘。師と弟子。
そして何より――同じ想いを抱く、戦友同士として。
「……頼もしくなったな」
シリウスが呟くように言った。
アリスは少し照れたように微笑んで、暖炉を見つめる。
夜風が窓を揺らし、炎が小さく踊った。
その光の中で、ふたりの絆は静かに、そして確かに深まっていた。
未来への希望と共に。
午後の陽だまりが書斎の窓辺に落ちていた。
机に向かうアルタイルの背は、この数か月でずいぶんと伸びていた。羽根ペンを握る指先も、以前のような子どもらしい丸みから、少しずつ細くしなやかな線を描くようになっている。
「Transfiguration の基礎理論について、もう一度説明してごらんなさい」
ヴァルブルガの声が、静かに響く。
その教育は日に日に密度を増し、朝から夕方まで隙間なく組まれた学習計画に、アルタイルは黙々と向き合っていた。
ホグワーツ入学まで、もうそれほど時間はない。
「ブラック家の後継者として恥ずかしくない知識を」というヴァルブルガの言葉に、アルタイルは一度も逆らったことがなかった。
かつて「ままと遊びたい」と駄々をこねていた頃の面影は、もうそこにはなかった。
小さな保護者として
「おにいちゃん……」
勉強の合間、セレナの小さな声が扉の向こうから聞こえてくる。
アルタイルは羽根ペンを置き、静かに立ち上がった。
セレナは廊下で、小さな人形を抱きしめながら立っていた。
まだ言葉も覚束ない妹の瞳には、どこか寂しげな色が宿っている。
「どうしました?」
アルタイルは膝を折り、妹の目線に合わせて優しく問いかける。
以前の自分なら、勉強を中断されることを嫌がったかもしれない。
けれど今は違った。
「ままは?」
セレナの問いに、アルタイルの胸がきゅっと締まる。
アランはまた体調を崩し、自室で休んでいた。最近、そんな日が増えている。
「ままは、少し疲れてるんだ。今は休んでもらいましょう」
アルタイルは妹の頭を撫でながら、自分でも驚くほど大人びた声で答えた。
静かな理解
セレナを膝に抱いて絵本を読み聞かせながら、アルタイルは思った。
自分がセレナと同じ頃、母はもっと一緒にいてくれた。
病気になったり、長く床に伏すこともなかった。
「なわとびして」「本を読んで」とわがままを言えば、少し困った顔をしながらも、必ず応えてくれた。
あの頃の自分は、まだ恵まれていたのかもしれない。
セレナが母と過ごせる時間は、自分のときと比べてずっと少ない。
それに気づいたとき、胸の奥で何かが静かに痛んだ。
「……おにいちゃんが、ままの代わりをしてあげますから」
小さくそう呟きながら、アルタイルはセレナを抱きしめた。
妹の柔らかな髪の香りが、鼻をくすぐる。
失われた甘えの時間
窓の外で鳥が鳴いている。
春の風が頬を撫でて、新しい季節の始まりを告げているようだった。
アルタイルは、かつて母にせがんだ無邪気な日々を思い出す。
あの頃は当たり前だと思っていた、母の笑顔と温もり。
一緒に過ごす午後のひととき。
今思うと、それはどれほど貴重な時間だったのだろう。
セレナと比べたら、自分はなんて幸せだったのだろう。
その思いが胸を満たすたび、アルタイルはより一層、この妹を大切にしようと心に誓った。
自分が失いつつあるものを、セレナにも与えてあげたい。
たとえ母の代わりにはなれなくても、せめて寂しさを和らげてあげたい。
勉強机に戻る時間が来ても、アルタイルはもう少しだけセレナを膝に乗せたままでいた。
ヴァルブルガに叱られるかもしれないが、今はこの時間の方が大切に思えた。
妹の寝息が、静かに肩に響いている。
その重みが、アルタイルに新しい責任と愛情を教えてくれていた。
大人になるということは、きっとこういうことなのだろう。
誰かを守りたいと思う気持ちが、自分の心を静かに変えていく。
母のようには優しくなれないかもしれないが、せめて兄として——
セレナの小さな手を、これからもずっと握っていよう。
春の陽だまりの中で、兄と妹は静かに寄り添っていた。
時が流れても変わらない、家族の温もりを確かめ合うように。
部屋の中には午後の金色の光がひっそりと揺れていた。
カーテンの隙間から射し込む陽が、絹の寝具やランプの縁に反射して、ぼんやりとした温もりを部屋に溶かしていた。
アランは静かにベッドに横たわっていた。
体調の良くない日が続いてはいたが、顔色はその光に照らされて、どこか穏やかだった。
レギュラス・ブラックは、ふとした物思いに沈むようにアランのそばへと腰を下ろすと、
ゆっくりと身体を傾けて、窓の外に目を向けた。
春を迎えた庭の木々が、わずかに風に揺れている。
「……驚きました」
言葉は小さくて、でもその微かな射のような感情は真実味を帯びていた。
「アルタイルです。いま、アルタイルの様子を見ていて……あんなにしっかりと、セレナの面倒を見ていて。
たとえば、遊びの途中でセレナが転べば、さっと手を伸ばす。
なにか困っていれば、黙ってでも横に立つ。…あれほど、慎ましくて思いやりのある子供が、うちの息子だと思うと……」
そこで一度言葉を切って、レギュラスは窓の下、花壇の角をふたりの小さな影が走り抜けていくのを見つめた。
「……僕にも、あんな経験はなかった。弟も妹もいなかったから……“誰かを守る”という在り方に、あの歳であそこまで自然になれるものなのかと」
そして静かに、目を細める。
「……でも、あの慈愛は、やはりアラン、あなたから受け継いだのでしょう。
アルタイルは……本当に、優秀です」
少し微笑むようにして言ったその声には、
ただの誇りだけではない、
ゆるやかな驚きと、遠く懐かしさにも似た響きが混じっていた。
アランは寝具の中で、ゆっくりと瞬きをした。
ほんの少しだけ首を横にゆるめ、レギュラスの横顔を見つめた。
「……それなら」
沈んだようで、どこか透明な声で、アランは告げた。
「あなたの息子だからよ」
たった一言だった。
けれど、その言葉のなかには、あたたかな誇りと、
何よりも彼にしかわからない――赦しの気配が含まれていた。
レギュラスはその言葉を、思ったより深く胸に受け止めていた。
どこにも押し付けず、ただそこにある静かな肯定が、
いまの彼には何より沁みた。
窓の外では、アルタイルの笑い声が小さく風に乗って届いてくる。
レギュラスはそっと目を伏せた。
「……ええ。そうですね」
それは長い沈黙の果てにようやく返された、
きわめて静かで、けれどどこか柔らかい、答えだった。
廊下の時計が一つだけ時を刻む。
午後の光が傾く中、ふたりの間に流れる静寂は、穏やかな満ち潮のように、
すべての痛みを包み込みながら照らすようだった。
夜は静かに更けていた。
灯火の落とされた廊下を抜け、レギュラスは寝室の戸を開ける。
室内には蝋燭の残り香と、薬草のかすかな匂いが漂っていた。
ベッドの上ではアランが眠っていた。
もう寝息も深く、長く繰り返される吐息は、まるで身体の奥から何かを押し出すようでもあった。
布団からのぞく彼女の肩は、以前よりもずっと細く痩せて見える。
指先も、首元も、あの夜の命をかけた出産の後から――どこか、生気が薄れてしまった。
レギュラスは静かにベッドの端に腰を下ろした。
眠る彼女を見つめる、沈黙の時間。
目を閉じていても、眉のあたりにはほのかな疲労の陰が見える。
彼女は、もう“完全に戻ってはこない”のではないか――
どこかで、そう感じずにはいられなかった。
セレナが生まれてからの日々は、淡い喜びに満たされながらも、
アランの身体に刻まれていく“終わり”の気配が、ひどく静かに、けれど確かに積もっていった。
夫婦として、体を重ねる回数は目に見えて減った。
最初の頃は、いつか日常が戻れば、元通りになると信じていた。
アランもきっと、時間さえ経てば、また自分の胸に腕を回しながら眠れるのだと思っていた。
けれど――時間は違う方向へと進んだ。
身体の痛みに顔をしかめるアランの微かな呻き、
何度も夜中に水を口にする姿を、黙って見つめるしかない自分。
彼女を抱きたいという衝動は、少しずつ形を変えた。
ただ触れることよりも、
どうか、痛まないでいてほしいと願うことの方が増えていった。
まだ若かった。
身体の奥から湧き上がる欲求を、無理やり抑えて眠るたびに、ふと人間としての限界を感じた夜もあった。
けれどアランが目の前で、日ごと、何かを奪われながら生きているのだと気づくようになってからは――
欲ではなく、「怖れ」が前に立ち始めた。
求めれば、傷つけてしまうのではないか。
口づけの柔らかさにさえ、彼女が怯えてしまうのではないか。
そのすべてを思うと、触れることがほとんど“祈り”に近い行為に変わっていた。
レギュラスはその夜、アランの手の上にそっと手を添えた。
眠っている彼女は微かにそれに反応し、指をきゅっと僅かに丸めた。
その小さな動きに、胸の奥が熱くなる。
呼びかけたくなる名を、レギュラスは喉の奥で呑み込む。
夜は静かに流れていく。
触れられぬ代わりに、ただ見守ることを選ぶようになって久しかった。
けれどそれが――
彼にできる「一番深い触れ方」なのかもしれないと、
いま静かにそう思えていた。
それは、決して失われた関係ではなかった。
ただ形を変え、祈るように、待つように隣にいる――
そういう夫婦の形の、その一夜。
窓辺に遠い星の光が淡く差し、
レギュラスはそっとアランの髪に手を伸ばす。
愛が、壊れていくのではなく――変わっていくことを、信じながら。
午后の光が静かに傾き、屋敷の中は時を止めたような静寂に包まれていた。
アランは自身の寝室のソファに身を寄せ、肩掛けのショールをひとつ巻き直す。浅い呼吸にあわせて、胸の奥で微かな痛みが広がる。
暖かな空間であるはずなのに、どうしようもなく肌寒かった。
体は、日を追うごとに言うことを聞かなくなっていた。
無理をすれば二日、三日と寝込む。
立ち上がるだけで息が切れ、視界が霞むこともあった。
それでも、どうしてもそれを許せなかった。
かつて、レギュラスの愛の言葉を「盾」として差し出し――
シリウスと、アリスを救ってくれるよう懇願した、あの夜。
彼にとってそれが、どれほど苦しみと誇りの境界を引き裂く義務となってしまったか、今ならよくわかる。
だからあの日以来、アランは静かに、ひたむきに、レギュラスの隣にあろうと努めてきた。
贖罪のように。
愛を繋ぎなおすための祈りのように。
けれど、現実は残酷だった。
触れることも、応えることも――
できない。
この弱り続ける身体では、夫の求めにすら寄り添えない。
夜、彼が袖口に残したままの手すら、怖くて握り返せない夜もある。
赦してもらいたい。
でも、日ごとに「差し出せるもの」が少なくなっていく。
愛される価値さえ、もう何ひとつ持てていないのではないか。
ふと窓の外に目をやる。庭の花壇の向こう、長椅子にセレナが寄りかかるようにして本を眺めていた。
その隣には、静かに肩を揺らして座るアルタイル。
その頭に手を乗せることも、いまは叶わない。
かつて、アルタイルは毎朝「まま、あそぼう」と跳ねていた。
その時間が当たり前で、くすぐったいほどの幸せにあふれていた――
けれど、セレナにその時間を与えてやることはできなかった。
アルタイルが妹を気にかける姿は、どこか微笑ましい。
でも、アランは知っている。
それは「与えられた優しさ」ではなく、「課せられた役目」になってしまっている。
母が弱くなった分だけ、
アルタイルは“強くあろうとしてくれている”。
それがどれほど不自然で、無理させていることか――痛いほど分かるのだった。
「……ごめんなさい」
声は自動的に零れた。
誰に向けた言葉かも、もう分からなかった。
レギュラスに?
アルタイルに?
それとも、何もできないまま、空回りする“今の自分”にだろうか。
時計の針が小さく音を立てる。
この静けさの中で、自分は何一つ「役目」を果たせていない。
家の妻としても、子どもたちの母としても、
愛する人の隣に在る者としても。
「罪を償う」という行為は、もっと形があるものだと思っていた。
けれど現実は、“赦しを乞う声を出す気力すら、この身体から奪っていく”。
そのことこそが、一番恐ろしかった。
アランの掌には、ひとすじの震えが残る。自身の温度が、ほとんど感じられなくなっていた。
けれど、自分を見捨てない人がいる限り――
まだできることがあると、信じたい。
今日もまた、こぼれるような春の光が、彼女の周りに差し込んでいる。
それだけが、唯一の慰めであった。
それすら、謝りたいほどに。
冬の気配がまだ残る屋敷の書斎は、重たい沈黙に満ちていた。
窓には分厚いカーテンが引かれ、あたたかく照らすはずの炉の熱も、今のレギュラスにはどこか遠く、肌に届かない。オリオン・ブラックの背は、書斎奥の書棚に向けられたままだった。
「週末、オズワルド家の娘がこちらへ来るそうだ」
いつもの低く押し殺した声で、父は言う。
レギュラスの心臓が、一度、深く鳴った。
予感はしていた。
久しぶりの「父と二人きり」の招きだった。
良い話などあるはずがない――その確信のとおり、体の底に走った緊張が、冷たい鉛のように腹の奥に沈んでいた。
「……その娘と、過ごしてみる気はあるか?」
レギュラスは返事をしなかった。
けれど、オリオンはそれを想定していたと言わんばかりに、すぐに続ける。
「嫌なら、会わなくていい」
「気が進まないのならば、断ればいい」
言葉だけを見れば譲りがあるように映る。
だが、その口調は決して「選ばせている」ものではなかった。
言葉を積み重ねれば重ねるほど、ただ押さえ込むための論理でしかないと、レギュラスにはわかっていた。
「だが……セシール家の方々も理解はある」
「我々は、一族の“未来の繁栄”を一番に考えねばならないのだ」
その一言が、決定打となった。
レギュラスは、ゆっくりと、だが確かに目を伏せた。
父の言う「未来」とは、明白だった。
アランが、もう以前のように“次の命”を生む身体にはなっていないこと。
そのことを冷徹に見定めた上で、ブラック家の血を存続させる道を、「他の女性との間に子を設けること」に見据えているのだと。
父が考えているのは、「婚姻」ではない。
血筋の続行。利に適う繋ぎ。
仮にその子が生まれれば、形式上アランの子として育ててもよい。
妻の名に、他の女が遺した息子を刻めと言うのだ。
「アランも……すでに理解してくれているようだ」
オリオンは、まるで慰めのつもりでそう言った。
「おまえの決断次第だよ。レギュラス」
まるで背中を押してやっているのだというふうに、
いつもの沈着さで言い切ったその瞬間だった。
レギュラスの視界が、内側から歪んだ。
喉の奥に、焼きつくような眩暈と共に――
吐き気がせり上がった。
息ができない。
掴める場所がない。
心臓だけがひどく早く、荒く、自らを内から打ち砕くように叩いてくる。
(アランが……“理解している”……?)
そんなはずがあるものか。
それは彼女が、もう何も望まないように、誰も責められないように、
静かにすべてを諦めただけではないのか?
受け入れたのではない。“壊された”に等しい。
今にもこの空間から逃げ出したかった。
父の目。この屋敷の石壁。血族の重み。
そのすべてが今、妻と呼ぶはずのあの人を脅かしている。
自分の罪でもあり、父の選択でもある。
唇が震えた。
けれど言葉を出せば、今すぐ感情が噴き出してしまいそうで、声にはならなかった。
まるで、あの日の逆再生のようだった。
アランが命をかけて守ろうとした、たったひとつの願い。
それを自分は叶えたつもりでいて。
けれどいま、父の口から冷酷に語られる“未来”は、そのすべてを上書きする“命乞いの果て”だった。
アランを護れていない。
なにも――なにひとつ、護れていない。
レギュラスは、震える手をジャケットの袖の中でゆっくりと握った。
そしてまだ、何も答えないまま、じっと沈黙していた。
その沈黙が、拒絶であり、渾身の抵抗であることを、父が気づいたかどうかは――
その場では、分からなかった。
書斎の沈黙が長く続いていた。
炉の火が小さく弾ける音だけが、重い空気を時折かき混ぜる。
オリオンは振り返ることなく、ただ「どうだ」と静かに促した。
決断を迫る声に、有無を言わさぬ威圧があった。
レギュラスは深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、あまりにも」
声は静かだったが、その奥に確固たる意志が宿っていた。
「セシール家や、妻本人に対しての侮辱です」
言葉を一つずつ選ぶように、レギュラスは続けた。
「世間からも笑いの的にされるでしょう。ブラック家に並ぶ名門のセシール家に対して、そんな無礼な真似ができるでしょうか」
それは理路整然とした反駁だった。
感情的な拒絶ではなく、社会的な体面を盾にした、計算された抵抗。
オリオンの肩がわずかに動く。
振り返った父の表情は、まったく驚いていなかった。
まるで息子がそう返してくることなど、すべて想定の範囲内だと言わんばかりに、冷ややかな微笑さえ浮かべていた。
「……気が変わったら言うがいい」
短く、そう告げる。
それは譲歩でも妥協でもなく――時間をかけて説得する余裕があるという確信の表れだった。
レギュラスは頷いた。
「今のところは、考えていません」
言い切って、彼は扉に向かった。
この場から一刻も早く離れたかった。
父の視線が背中に刺さるのを感じながらも、足を止めずに歩き続ける。
その時だった。
「覚えておけ、レギュラス」
オリオンの声が、まるで最後の一撃のように響いた。
「お前の母は――息子を二人産んでいる」
その言葉が意味するものは明白だった。
ヴァルブルガは二人の男児を産み、家に貢献した。
それに比べてアランは――
レギュラスの足が、一瞬止まった。
背中に走る怒りと悲しみが、拳を握りしめさせる。
けれど振り返ることはしなかった。
そのまま扉を開け、廊下へと足を向ける。
•
廊下を歩きながら、レギュラスの胸は激しく波打っていた。
今すぐ、アランの元へ行きたい。
彼女がこの話を「理解している」などということがあるものか。
もしそうだとすれば、それは理解ではなく――諦めだ。
絶望に等しい降伏だ。
足音が石の床に響く。
その一歩一歩が、父の言葉を振り払うための祈りのようだった。
アランは独りでいるべきではない。
この家の冷たい思惑に、独りで耐えるべきではない。
レギュラスは足を速めた。
妻の待つ部屋へ、妻の側へ――
今この瞬間、世界で最も大切な場所へと向かいながら。
父の最後の言葉が、まだ耳の奥で響いていた。
それを打ち消すためにも、彼は急いだ。
アランの手を握りたい。
彼女の不安を和らげたい。
そして何より――あなたは独りではないと、伝えたい。
廊下の向こうに、アランの部屋の扉が見えてきた。
レギュラスは静かに、けれど確かな足取りでそこへ向かった。
レギュラスは、ほとんど扉に手をかけた記憶さえ曖昧だった。
ただ、それまでの一歩一歩が押し殺してきた感情を爆ぜる寸前に詰め込んだまま、気がつけばアランの部屋の前に立っていて――ノックの音さえ忘れるほど、焦っていた。
扉が開け放たれるや、ひときわやわらかな陽の香りがした。
午後の光が差し込むソファ。
その上でアランはセレナを膝に乗せ、絵本を手に語りかけていた。
文章の区切りに囁くような声。
どこか遠慮がちに笑うような口元。
そして、膝の上でじっと話を聞いていた小さな娘が、不意に視線をこちらに向けた。
「ぱぱ……!」
セレナの声が小さくはしゃいだ。
けれど――レギュラスの耳には、それが届いていなかった。
アランがこちらを見る。
少し驚いた顔。
絵本を持つ手をそのままに、視線だけが揺れる。
けれどもう、その視線すらも、耐えきれなかった。
レギュラスの身体は、何かに突き動かされるようにして歩み出ていた。
ソファのすぐ前で膝をつき、アランの顔をまっすぐに追い詰め――そのまま、唇を重ねた。
音も呼吸もない深く、熱を帯びたキス。
確かめるように。
何度でも、“そこにいてくれる”という現実を、己の感覚を通して焼きつけるように。
アランは最初、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。
けれど抵抗しなかった。
ただ、手にしていた絵本がスルリと滑り落ちて、絨毯の上に柔らかく伏した。
空気がゆっくりと揺れていた。
娘の前だという意識も、もう彼らのなかにはなかった。
アランの呼吸は少し乱れ、指先がレギュラスの肩に掴むように触れた。
体温だけを、ただ求めてしまう。
•
セレナが目をぱちぱちと瞬かせ、ふたりを見上げていた。
何が起きているのかは理解していなかったが、
父と母の間に流れる空気は、どこかやさしくてあたたかく――彼女は嬉しそうに、また「ぱぱ」と笑っていた。
けれど、レギュラスもアランも、今はその小さな声に応えることはできなかった。
ふたりの間には、嵐のように駆け抜けた感情と、
どうしようもなく確かな――魂の震えだけが、確かに降り積もっていた。
それは、崩れかけた何かを繋ぎとめようとする、
あまりに人間くさい、痛みの先でようやく掴んだ、一瞬の真実だった。
その声は、あまりにも無垢で、優しく部屋の空気を揺らした。
「ぱぱ、セレナもして!」
アランの膝の上で、目をきらきらと輝かせたままセレナが伸ばした細い腕。
大人たちの間で交わされた深いキスの意味など無知なまま、
ただ“自分もほしい”という気持ちだけを、まっすぐに差し出していた。
しばしの沈黙ののち――
レギュラスとアランは、同時にふっと笑った。
お互いの視線が自然と重なり合い、そこには言葉以上の慰めと、愛しさが滲み出るようだった。
レギュラスは静かに動いた。
アランの唇からそっと離れ、背筋を伸ばしながら、娘の小さな前髪をやさしくかきあげた。
額に浮かぶやわらかな産毛の上に、自身の手のひらを添えて――
「……はい、セレナにも」
そう囁くように言いながら、繊細な唇を、球体のように小さな額へと触れさせた。
ほんの一瞬の、軽やかなキス。
本当にそれだけの仕草だったのに、
セレナはぱちくちと瞬きをして、丸い瞳をさらに大きく見開く。
瞬間、顔がふわりと緩み、笑みになっていく。
「あいしてるね、ぱぱ」
その言葉に、レギュラスの指が微かに震えた。
アランは、膝の上の娘を抱きしめるようにして、ただ微笑んでいた。
小さなひとつのキスが、揺れかけていたすべての結び目を、
そっともう一度、やさしく留め直してくれたようだった。
この温もりだけは、どうか永く守っていられたらと、
ふたりは同時に、胸の奥で静かに願っていた。
午後の光が深く傾き始め、ブラック家の食卓には柔らかな夕餉の灯がともっていた。
磨き上げられた銀器と白磁の皿、丁寧に添えられた花の装飾。
格式と威厳を湛えるこの屋敷の、いつもの静かな“儀礼”の時間――
けれど今日、その空気には、目には見えない緊張の糸が一筋張り詰めていた。
オズワルド家の娘。名門の家柄にふさわしい穏やかな物腰と、よく練られた微笑みをたたえて、彼女は順に挨拶をしていく。
「オリオン様、はじめまして」
「ヴァルブルガ夫人、光栄です」
「レギュラス様」
そして、
「アラン様、今晩は」
声は美しく、礼儀に過不足はなかった。ただその整いすぎた挨拶が、余白のない緊張感と冷気のような侮蔑を孕んでいた。
レギュラスの耳には、アランの名前を呼ぶその声音さえ、どこか冷えた鉄のように響いていた。
アランは微笑んで小さく会釈した。
それ以外できることはなかった。
流れるワルツ、磨かれすぎて音さえ反射する壁、香のように漂う貴族たちの気配。
その夜、アランはレギュラスと並んで社交の場に姿を現していた。
けれど、彼らの間に会話はなかった。
並ぶ姿が誰よりも絵になっていることを、周囲は疑わなかったが、
アラン自身には、その沈黙が肌の奥にまで忍び寄る寒さのように感じられた。
その手には、ひとり歩き回りたがる息子――アルタイルの小さな手を。
走り出すことをやんわり制しながら、人々の視線を受け流すように歩き続けた。
「相変わらず美しいわね、アラン様」
「まあ、あの伏せていたという噂も、真実味がないわ……でも、お顔色……」
「少し……冴えない気がしますわね……ええ、でもやはり美しい。少しばかり、影のような艶が」
――影のような。
アランの頬に、仄かな熱が灯る。
けれど、それは羞恥ではなく――圧だった。
この日のために、化粧は入念に整えた。
目周りのくすみには明るさを重ね、頬には花びらのような薔薇色を添えて、
まるで熱があるように、冷たさを隠す練り粉を丁寧に刷り込んだ。
笑い方にいたっては、鏡の前で幾度も形を確認した――滲んだ翳を作らぬように。
けれど人々の眼差しには、「何かを隠している」という確信めいた期待すら込められていた。
「まだ体調が芳しくないのかしら」
「それとも家の中で、何か……あったのでは?」
滑らかな声に編まれた“噂”が、ステップの合間にそっと混ざる。
笑わなければ――と思う。
そして、立ち止まってはいけない。
いつだって美しく、戦うように“ふさわしい”姿でなければ。
ブラック家に嫁ぎ、将来の当主・アルタイルを育てる者として、
「一滴の翳りすら取りこぼしてはならないのだ」と何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど。
化粧では覆えぬ“痛みからの回復”が、
身体にも、目にも、心にも――あまりに遅れていた。
舞踏の輪の端、レギュラスは静かに立っていた。
相変わらず端整な彼に向けられる視線は絶えなかったが、
その眼差しもまた、アランの方を振り返ることはなかった。
それが、何より胸に刺さる。
アランは、ただ口元に笑みを描いたまま、
アルタイルの手を軽く引いた。
男の子が少しだけはしゃぎながらも、それに従って歩く。
小さな掌の温もりが、今日という夜を、どうにか支えてくれていた。
けれど耳元をすり抜ける囁きが、また背に爪を立てるたび、
アランの首筋にはゆっくりと、目に見えぬ悲しみの影が落ちていた。
それは決して、化粧では隠せない重さだった。
――けれど、それでも今日のアランは、微笑み続けた。
たとえそれがどれほど脆く、
いつ崩れてしまってもおかしくない表情だったとしても。
彼女は“あらねばならぬ姿”を、今日も静かに演じていた。
その胸の内に、誰にも気づかれないまま。
夜会の騒めきの中、整えられた装飾の影で一際静かな場所に、レギュラス・ブラックは孤立するように立っていた。
仄かなワインの香りが漂うグラスを手にしてはいたが、その中身はほとんど減っていなかった。
指先は止まり、ひとつひとつの囁きに、思考がふと奪われる。
──「あのご夫人、やっぱりまだ本調子ではないのでは?」
──「舞台に戻ってきたにしては、お顔が白すぎるような……」
──「でも、あの化粧の美しさって……かえって気になりますわよね」
飾り立てた世辞と、その裏に潜んだ猜疑が交錯する空気。
そのどれもが、レギュラスの耳を過敏に叩いていた。
アランは、今夜も完璧だった。
姿勢ひとつ崩すことなく、気丈に立ち、微笑み返し、会釈しながらアルタイルの手をゆるやかに引いて歩く。
口元の光。瞳の揺れ。袖口の品。
どこを褒められても申し分ない“完成された美”。
……けれど。
レギュラスだけは知っていた。
その化粧が、目の下の青さを隠すための工夫であること。
光を反射しないように細心に塗られたパウダーが、
どれほどの時間をかけて整えられたものか。
その頬笑みの裏で、ひと言も言葉を発しない沈黙が、
どれほどの痛みに耐えて生まれたものであるかを。
好きだった。美しい化粧姿も、緊張感を纏った立ち居振る舞いも。
でもそれが、何か“見せたくないもの”を隠すための手段になってしまったと気づいた今、
レギュラスの胸には言葉にならない不安が棘のように満ちていた。
どこまで、無理をしているのだろう。
どこまで、自分を壊してまで、この役を演じ続けているのだろう。
何度問いかけようと、喉まで上がってきた言葉はまた戻ってしまう。
「大丈夫ですか?」
「苦しくないですか?」
――そんな何気ない問いひとつが、“その夜”の続きになってしまうから。
あの夜、アランは自分の命を使って、何かを護ろうとした。
自分の「愛」が、彼女をそこまで追い詰めたという現実は、
いまだにレギュラスの中に痛みを置いていた。
離れている時間が増えるたび、自分のなかの想いは剥がれていくはずだった。
そう思っていた。
そうあってほしかった。
距離が癒してくれる感情など、どこにもなかった。
レギュラスのなかで、アランへの執着は、愛と呼ぶにはあまりにも苦しく、
固執と呼ぶにはあまりにも清らかになっていた。
感情が重いのではない。
重さそのものになっていた。
今、彼女の背にかかる視線をすべて振り払ってやりたい。
席を抜けて、そっと背に声をかけたくてたまらない。
けれど、「今さら何を伝えても」それは――
彼女をさらに追い込むだけかもしれなかった。
愛していると、ただそう言いたかった。
でもそれは、ときに最も残酷な言葉になることを、
彼はもう、知ってしまっていた。
冷えたグラスの中で、光がゆれる。
レギュラスの沈黙は、誰にも気づかれぬまま、
今夜も静かに積もりゆく。
彼女の笑顔と、その裏に滲む疲弊を遠くから見つめながら。
彼が望んでいたはずの「夫婦の形」は、
もうどこにも、掬える形ではなくなっていた。
それでも、目は離せなかった。
彼の妻であり、苦しみのなかで今日も立っているひとりの人間――
アランという灯は、ただそこにいた。
それだけで、レギュラスの心はまた明日へ進む凍て道を、
ひとつ、黙って踏み出すしかなかった。
優雅に整えられた晩餐の帳が降りるなか、ホールには穏やかな音楽と、グラスのふれあう涼やかな音が漂っていた。煌びやかな絨毯の交差点で、アランはある名家の当主から恭しくワインのグラスを手渡されていた。
「ご婦人に、祝福を。どうか光栄を分けてください」
その男は、年齢以上に朗らかな笑みを浮かべながら、深紅のワインを満たしたグラスを掲げる。アランは一瞬だけ視線を上げ、控えめに微笑んだ。
「ありがとうございます」
淡いルージュに包まれた唇が礼を述べながら、優雅な手つきでグラスを受け取る。
所作は完璧だった。端麗な微笑、腕の角度、瞳の柔らかさまでも含めて、それは「貴婦人」としての洗練に他ならなかった。
けれど、その瞬間――レギュラス・ブラックの胸を、冷や汗にも似た直感がかすめた。
その夜のアランの化粧は、誰よりも美しかった。
けれど、それが「隠すためのもの」であることを、彼は知っていた。
彼女の身体はまだ癒えきっていない。
そして何より――今、酒などひと口でも入れていい状態ではないことを、誰よりも理解していた。
だから。
何の表情も挟まず、声もなく。
レギュラスはただ静かに――「自然に」彼女のそばに歩み寄っていた。
アランがグラスを掲げようとしたその瞬間、
レギュラスの手が音もなく伸びる。
彼女の指先から、そのグラスをそっと抜き取った。
本当に、ささやかな仕草だった。
けれど一部始終を見ていた数人の周囲の人間の呼吸が、わずかに止まった。
アランも驚いたように夫を見上げる。
だがその瞬間すでに、レギュラスは相手の男に向いたまま、礼儀正しく――けれど明らかな温度で言葉を紡ぎ出していた。
「失礼を。――妻は、今は酒を控えておりまして」
声は柔らかかったが、どこか断絶的で、人を納得させるだけの“距離”を含んでいた。
男はあっさりと笑い、肩を竦めた。
「これは……それは……失礼いたしました、ブラック卿。ご婦人に不調の兆があるとはつゆ知らず」
「お気になさらずに。代わりに、私が」
レギュラスはそのまま、グラスを少し掲げるように傾け、軽く唇に触れる程度の“演技”だけを見せた。それで充分だった。誰もが、改めてその夫婦の美しさと、異様なまでの静謐な結束を感じ取った。
ふたりきりになった数分後、アランはそっと、首をすくめるようにして言った。
「……すみません、レギュラス」
悄げた声音に、いつもよりもわずかに幼さが滲んでいた。
レギュラスはすぐには返さず、彼女の横顔を少しだけ見つめ、ふっと細く息を抜いた。
「……無理して飲む必要など、どこにもありませんよ」
その一言だけが、アランの胸に静かに沁みていった。
咎めても、同情してもいなかった。
ただ、伝えたかった――《君は、無理をしなくていい》。
そう言ってもらえる言葉が、
どれほど救いだったか。
アランは軽く頷いて、視線を落とした。
手の中の何もないグラスの重さが、ふと軽くなるような気がしていた。
そっと差し伸べられた“沈黙の愛情”が、今夜の彼女を一枚、守ってくれたのだった。
高窓のシャンデリアに揺れる光が、薄紅と金のきらめきとなって広間を照らし続けていた。笑い声とワインの香が天井に溜まり、拍手と音楽が何度目かの転調を迎える。夜の社交は、まだなお熱を保ち続けていた。
アランは、静かにその輪の外側にいた。
斜めに座る姿勢、絹のドレスの胸元にかかる呼吸の浅さ、どこか遠くを見ているような眼差し――
隣に佇むレギュラスには、すべてが明らかだった。
彼女の疲労は、もう隠せるものではなかった。
微笑みはよく整っていたが、その綺麗な仮面の下にある陰りは、誰より近くにいる彼にとってはあまりに透けて見えた。
何度か駆け回っていたアルタイルも、いまは使用人の腕の中に抱かれている。
母の疲れを察したのか、あるいは飽きてしまったのかは分からないが、もう子供の手は引かれていなかった。
レギュラスは、アランの手元に目を向け、低く問いかけた。
「……お疲れのようですし、戻りますか」
声は抑えられて静かだった。
“あなたを気遣っています”と、その至近距離だけに置かれた優しさが、羽のようにひらりとアランに触れた。
アランは、少しだけ目を見開き、そしてすぐに細く微笑んだ。
「……いえ。皆さん、まだ盛り上がっている最中ですから」
てっきり、頷くものだと思っていた。
それはある意味で、当然だった。
これだけ長い時間、彼女の体は限界に近いはずで――
それでもアランは、背筋を伸ばし、毅然としていた。
意地なのか。
それとも、「ブラック家の人間として」立ち続けようとする矜持か。
思考がめぐる間、レギュラスはほんの一瞬だけ視線を宙に預けると、すぐに表情を正した。
そして、静かな声で言い直した。
「……言い方を変えますね」
「――そろそろ、帰りましょうか」
アランは少し驚いたように彼を見上げ、そしてすぐに微笑んだ。
その微笑みには、柔らかな敗北と、どこかあたたかな安堵が混ざっていた。
「……分かったわ」
「あなたに従うわ」
そう返したアランの声は掠れていたけれど、どこかようやく“戻ってこれた”人間のような、静けさが宿っていた。
レギュラスは頷かなかった。
けれど、返事はそれだけで十分だと受け取った。
そっとアランの手に触れ、形式的すぎない範囲で指先を重ねる。
そののちふたりは、社交の海を横切るようにして外縁を歩いていく。
レギュラスは要所の貴族たちへ礼儀正しい言葉で別れを告げ、アランも沈むような声音で小さく会釈を繰り返す。
笑顔を交わしながらも、誰もが感じている。
この夫婦は、蒸気の抜けた紅茶のように、どこか静かに立ち去ろうとしていること。
その背に会話はほとんどなかったが、
衣擦れの音、スカートの引く弧、指先同士の距離感のすべてが――
何よりの言葉となっていた。
アランの歩幅は少しずつ狭まり、けれどレギュラスの手は、離れないように在り続けた。
広間の扉がすっと開く。
金と音楽に満ちた宴の空気から離れて、
ふたりはゆっくりと、その夜の外側に歩き出した。
ひとときの仮面を脱ぎ捨てるように。
ひとときの心を、取り戻すために。
その足音は、ただふたりだけの夜への、静かな帰路だった。
屋敷のなかは、宴の余韻を知る者のように、どこか煌びやかさの名残だけをひっそりと漂わせていた。
レギュラスは、寝室のランプにだけ明かりを灯し、脱ぎかけたローブの裾を整える手をゆっくりと止めた。
待っていた。
アランが浴室から戻るのを。
けれど、時間はとうに一刻を過ぎていた。
静けさが過ぎるには、少しだけ不自然だった。
彼女が「先に着替えてくるわ」と言ったあの声の控えめな響きが、頭にこびりついている。
静かな、でもどこか途切れそうな声音。
嫌な予感というほどのものではなかった。
けれど、その静けさには、今夜の彼女の疲れが淡く滲んでいたような気がして――。
レギュラスは寝室を出ると、廊下を音を立てずに歩いた。
奥の一角、アランの自室の扉の前で立ち止まり、呼吸を整えてから静かにノックをする。
しかし返事は、なかった。
もう一度、音を小さく。
やはり……気配はあるのに、何も返ってこない。
灯りがまだ消えていないことに安心しつつも、一抹の不安を拭いきれず、レギュラスはそっと、扉に手をかけた。
開かれたその部屋は、仄かな薬香と乳の香りが混じり合い、寝台のカーテンがふんわりと風に揺れていた。
そして、その中央に――
アランがいた。
淡い月明かりに照らされ、セレナの小さな寝台の横――
そこに、ひとり膝を折り、身体を少し傾けるようにもたれかかり、静かに、深く眠り込んでいた。
ドレスも、化粧も――まだ何も解かれていなかった。
固くまとめた髪は、額のあたりに少しだけ落ちかかっていて、
ひとつ深く息を吐くたびに、肩が小さく上下していた。
まるで、“事切れるように”眠ってしまったようだった。
その指先には、まだセレナの小さな毛布の端が握られている。
赤子は穏やかに眠り、母のそばに、安心しきったように顔を寄せていた。
レギュラスは、無言でその側へ近づいた。
アランの頬は、少しだけ赤みが残り、化粧と涙の跡が混じり合っていた。
寝息は浅く、けれど深い眠りのなかにある、小さな命のように微かだった。
彼はゆっくり膝を折り、目線を合わせる。
「……がんばりすぎた」
誰にでもなく、そう呟いた。
今夜の道中、彼女の笑みがほんの少し揺れていたことを、
幾人もの視線と噂の囁きが、彼女の頬をかすめていたことを――
自分は、ただ見過ごしていたのだと。
この眠りは、静けさではない。
限りなく、限界の果てにある“哀れ”に近い安堵だった。
セレナの小さな寝息を妨げぬように、
レギュラスは静かにアランの肩に、ひとすじ手を添えた。
崩れかけたブローチを外し、片方だけ外れていたイヤリングをそっと手に取る。
彼女の髪を解いてやりたい衝動を、指先に留める。
「……こんな姿になるまで」
そう独りごちた声は、夜の空気にすらすくわれていった。
愛するということは、守ることだったのではないか――
レギュラスはそう問うように、黙ったまま彼女の前髪をそっと撫で、顔の横にずれていた毛布を肩までかけ直した。
母子のあたたかな呼吸が、寝具のなかでゆるやかに重なっている。
そして、レギュラス・ブラックもまた、
灯りを落とさずにそっとその場に腰を下ろした。
朝が来るまで。
彼女が目を覚ますまで。
何も言わず、言葉にならないすべてを、
ただ傍に座って、赦したいと思った。
それがどんなに遅れた悔いであったとしても。
深い夜の静寂が屋敷の中に降りていた。
廊下に敷かれた絨毯に、革靴の足音が静かに沈んでゆく。
任務を終え、いつもより少し遅い時間だった。
レギュラス・ブラックは、コートを脱ぎながら扉を静かに閉じる。
魔法で暖められた屋敷の空気が、じんわりと疲労をほどいてゆくその最中――
ふと耳に届く衣擦れの音。
振り返れば、控えめに灯された灯りの下に、アランが立っていた。
セレナを寝かしつけたあとそのままにしていたであろう、軽いガウン姿。
髪はほつれたまま肩に流れ、目元は少し眠たげだったが、
それでも彼女は確かに、待っていてくれた。
思わず、言葉が零れる。
「……寝ていても、よかったんですよ」
それは安堵と、どこか切なさを含んだ声だった。
彼女の身体がまだ完全ではないことは、レギュラスが一番知っていた。
夜は冷える。無理をせず、あたたかい布団のなかにいてほしかった。
アランは微かに微笑んで、ゆっくり首を振る。
その動きすら、どこか遠慮がちな優しさを孕んでいた。
「……セレナ、ついさっきまで起きていたから……」
「だから、どうせなら一緒に……待っていようと思って」
嘘ではなかった。
けれど、それがすべてでもなかった。
この頃、アランは決めたのだ。
セレナを寝かしつけたあとですら、たまには眠気に抗って──
レギュラスを出迎えるという「時間」を自分の意志で持ちたいと。
それは赦しを乞うためでも、贖いのつもりでもなかった。
ただ、任務に沈む彼の帰る場所――
「家を守る」という役割において、自分もまた傍にいたいという気持ちだった。
会話はそれで終わる。
けれど、レギュラスは彼女の姿を見るだけで、胸のどこかがふっとほどけていくのを感じていた。
よみがえるような疲れが少しだけ軽くなる。
それは、彼女にしか与えられない静かな労りだった。
「おかえりなさい、レギュラス」
アランは小さくそう言った。
それはごくごく平凡な、けれど何よりあたたかい言葉だった。
レギュラスはそれに頷き、近づいて彼女の肩に手をかける。
布越しに伝わる体温が、夜の静けさを微かに満たしてゆく。
ふたりの影が廊下にゆるやかに重なりあう。
凍てついた夜の片隅で、確かに灯された――ひとつの小さな、やわらかな光だった。
隠れ家の暖炉に薪がはぜ、橙色の光がふたりの影を壁に長く伸ばしていた。
外は春の夜風が窓を軽やかに叩き、新緑の匂いが部屋の奥まで漂っている。
シリウス・ブラックは、向かいに座るアリスの横顔を静かに見つめていた。
もうすぐホグワーツを卒業する彼女は、少女の面影を残しながらも、確かに大人の輪郭を見せるようになっていた。
「……本当に、浅はかだったのよ」
アリスは何度目かの詫びを口にした。
膝の上で組んだ手が、わずかに震えている。
「2年前のこと……あの時、私、どうしてあんなことを……」
2年前のブラック家への侵入事件。
それはアリスにとって、いまだに胸の奥で疼く傷だった。
シリウスは小さくため息をついて、暖炉の火を見つめた。
「……俺が、悪かったんだ」
その声は静かで、自分を責めるような響きを含んでいた。
「俺が…… アランのことを、あまりにもたくさん話しすぎた」
「お前の中で、“ アランがここに来れば全てうまくいく”なんて……そんな単純な話になってしまったのかもしれない」
アリスは首を振った。
「違うの、シリウス。あれは私の……私の勝手な思い込みで……」
けれどシリウスの表情は変わらなかった。
彼は知っていた。アリスがどれほど純粋に、自分の語る「過去の光」を信じていたかを。
そして、その光を取り戻そうとする気持ちが、どれほど真っ直ぐだったかを。
むしろ自分に責任がある。
そう感じていた。
でも。
シリウスの胸には、別の感情も宿っていた。
誇らしさ、だった。
「……卒業したら」
アリスが顔を上げて、まっすぐに彼を見つめる。
「私も、シリウスと同じように……騎士団の一員として働きたいの」
その瞳には、迷いがなかった。
2年前の無謀さとは違う、確かな意志の光が宿っている。
シリウスは静かに頷いた。
「……そうか」
もう、手綱を引いてやる必要はない。
卒業すれば、彼女は自分で考え、自分の意志で行動していく。
それは確かに、寂しいことでもあった。
けれど――
アランを救おうと動いたあの無謀なほどの勇気が、きっとこれから先も、アリス自身を強くしていくのだと信じていた。
あの夜、ポリジュース薬を飲んでまで屋敷に忍び込んだ少女。
それは確かに危険で、浅はかな行動だった。
でも、その根底にあったのは――
「誰かを守りたい」という、偽りのない想いだった。
その心を持つ限り、アリスはきっと間違わない。
たとえ道を踏み外しそうになっても、最後には必ず、正しい場所に戻ってこられるはずだ。
暖炉の火が静かに燃え続ける中、ふたりの間に流れる時間は穏やかだった。
父と娘。師と弟子。
そして何より――同じ想いを抱く、戦友同士として。
「……頼もしくなったな」
シリウスが呟くように言った。
アリスは少し照れたように微笑んで、暖炉を見つめる。
夜風が窓を揺らし、炎が小さく踊った。
その光の中で、ふたりの絆は静かに、そして確かに深まっていた。
未来への希望と共に。
午後の陽だまりが書斎の窓辺に落ちていた。
机に向かうアルタイルの背は、この数か月でずいぶんと伸びていた。羽根ペンを握る指先も、以前のような子どもらしい丸みから、少しずつ細くしなやかな線を描くようになっている。
「Transfiguration の基礎理論について、もう一度説明してごらんなさい」
ヴァルブルガの声が、静かに響く。
その教育は日に日に密度を増し、朝から夕方まで隙間なく組まれた学習計画に、アルタイルは黙々と向き合っていた。
ホグワーツ入学まで、もうそれほど時間はない。
「ブラック家の後継者として恥ずかしくない知識を」というヴァルブルガの言葉に、アルタイルは一度も逆らったことがなかった。
かつて「ままと遊びたい」と駄々をこねていた頃の面影は、もうそこにはなかった。
小さな保護者として
「おにいちゃん……」
勉強の合間、セレナの小さな声が扉の向こうから聞こえてくる。
アルタイルは羽根ペンを置き、静かに立ち上がった。
セレナは廊下で、小さな人形を抱きしめながら立っていた。
まだ言葉も覚束ない妹の瞳には、どこか寂しげな色が宿っている。
「どうしました?」
アルタイルは膝を折り、妹の目線に合わせて優しく問いかける。
以前の自分なら、勉強を中断されることを嫌がったかもしれない。
けれど今は違った。
「ままは?」
セレナの問いに、アルタイルの胸がきゅっと締まる。
アランはまた体調を崩し、自室で休んでいた。最近、そんな日が増えている。
「ままは、少し疲れてるんだ。今は休んでもらいましょう」
アルタイルは妹の頭を撫でながら、自分でも驚くほど大人びた声で答えた。
静かな理解
セレナを膝に抱いて絵本を読み聞かせながら、アルタイルは思った。
自分がセレナと同じ頃、母はもっと一緒にいてくれた。
病気になったり、長く床に伏すこともなかった。
「なわとびして」「本を読んで」とわがままを言えば、少し困った顔をしながらも、必ず応えてくれた。
あの頃の自分は、まだ恵まれていたのかもしれない。
セレナが母と過ごせる時間は、自分のときと比べてずっと少ない。
それに気づいたとき、胸の奥で何かが静かに痛んだ。
「……おにいちゃんが、ままの代わりをしてあげますから」
小さくそう呟きながら、アルタイルはセレナを抱きしめた。
妹の柔らかな髪の香りが、鼻をくすぐる。
失われた甘えの時間
窓の外で鳥が鳴いている。
春の風が頬を撫でて、新しい季節の始まりを告げているようだった。
アルタイルは、かつて母にせがんだ無邪気な日々を思い出す。
あの頃は当たり前だと思っていた、母の笑顔と温もり。
一緒に過ごす午後のひととき。
今思うと、それはどれほど貴重な時間だったのだろう。
セレナと比べたら、自分はなんて幸せだったのだろう。
その思いが胸を満たすたび、アルタイルはより一層、この妹を大切にしようと心に誓った。
自分が失いつつあるものを、セレナにも与えてあげたい。
たとえ母の代わりにはなれなくても、せめて寂しさを和らげてあげたい。
勉強机に戻る時間が来ても、アルタイルはもう少しだけセレナを膝に乗せたままでいた。
ヴァルブルガに叱られるかもしれないが、今はこの時間の方が大切に思えた。
妹の寝息が、静かに肩に響いている。
その重みが、アルタイルに新しい責任と愛情を教えてくれていた。
大人になるということは、きっとこういうことなのだろう。
誰かを守りたいと思う気持ちが、自分の心を静かに変えていく。
母のようには優しくなれないかもしれないが、せめて兄として——
セレナの小さな手を、これからもずっと握っていよう。
春の陽だまりの中で、兄と妹は静かに寄り添っていた。
時が流れても変わらない、家族の温もりを確かめ合うように。
部屋の中には午後の金色の光がひっそりと揺れていた。
カーテンの隙間から射し込む陽が、絹の寝具やランプの縁に反射して、ぼんやりとした温もりを部屋に溶かしていた。
アランは静かにベッドに横たわっていた。
体調の良くない日が続いてはいたが、顔色はその光に照らされて、どこか穏やかだった。
レギュラス・ブラックは、ふとした物思いに沈むようにアランのそばへと腰を下ろすと、
ゆっくりと身体を傾けて、窓の外に目を向けた。
春を迎えた庭の木々が、わずかに風に揺れている。
「……驚きました」
言葉は小さくて、でもその微かな射のような感情は真実味を帯びていた。
「アルタイルです。いま、アルタイルの様子を見ていて……あんなにしっかりと、セレナの面倒を見ていて。
たとえば、遊びの途中でセレナが転べば、さっと手を伸ばす。
なにか困っていれば、黙ってでも横に立つ。…あれほど、慎ましくて思いやりのある子供が、うちの息子だと思うと……」
そこで一度言葉を切って、レギュラスは窓の下、花壇の角をふたりの小さな影が走り抜けていくのを見つめた。
「……僕にも、あんな経験はなかった。弟も妹もいなかったから……“誰かを守る”という在り方に、あの歳であそこまで自然になれるものなのかと」
そして静かに、目を細める。
「……でも、あの慈愛は、やはりアラン、あなたから受け継いだのでしょう。
アルタイルは……本当に、優秀です」
少し微笑むようにして言ったその声には、
ただの誇りだけではない、
ゆるやかな驚きと、遠く懐かしさにも似た響きが混じっていた。
アランは寝具の中で、ゆっくりと瞬きをした。
ほんの少しだけ首を横にゆるめ、レギュラスの横顔を見つめた。
「……それなら」
沈んだようで、どこか透明な声で、アランは告げた。
「あなたの息子だからよ」
たった一言だった。
けれど、その言葉のなかには、あたたかな誇りと、
何よりも彼にしかわからない――赦しの気配が含まれていた。
レギュラスはその言葉を、思ったより深く胸に受け止めていた。
どこにも押し付けず、ただそこにある静かな肯定が、
いまの彼には何より沁みた。
窓の外では、アルタイルの笑い声が小さく風に乗って届いてくる。
レギュラスはそっと目を伏せた。
「……ええ。そうですね」
それは長い沈黙の果てにようやく返された、
きわめて静かで、けれどどこか柔らかい、答えだった。
廊下の時計が一つだけ時を刻む。
午後の光が傾く中、ふたりの間に流れる静寂は、穏やかな満ち潮のように、
すべての痛みを包み込みながら照らすようだった。
夜は静かに更けていた。
灯火の落とされた廊下を抜け、レギュラスは寝室の戸を開ける。
室内には蝋燭の残り香と、薬草のかすかな匂いが漂っていた。
ベッドの上ではアランが眠っていた。
もう寝息も深く、長く繰り返される吐息は、まるで身体の奥から何かを押し出すようでもあった。
布団からのぞく彼女の肩は、以前よりもずっと細く痩せて見える。
指先も、首元も、あの夜の命をかけた出産の後から――どこか、生気が薄れてしまった。
レギュラスは静かにベッドの端に腰を下ろした。
眠る彼女を見つめる、沈黙の時間。
目を閉じていても、眉のあたりにはほのかな疲労の陰が見える。
彼女は、もう“完全に戻ってはこない”のではないか――
どこかで、そう感じずにはいられなかった。
セレナが生まれてからの日々は、淡い喜びに満たされながらも、
アランの身体に刻まれていく“終わり”の気配が、ひどく静かに、けれど確かに積もっていった。
夫婦として、体を重ねる回数は目に見えて減った。
最初の頃は、いつか日常が戻れば、元通りになると信じていた。
アランもきっと、時間さえ経てば、また自分の胸に腕を回しながら眠れるのだと思っていた。
けれど――時間は違う方向へと進んだ。
身体の痛みに顔をしかめるアランの微かな呻き、
何度も夜中に水を口にする姿を、黙って見つめるしかない自分。
彼女を抱きたいという衝動は、少しずつ形を変えた。
ただ触れることよりも、
どうか、痛まないでいてほしいと願うことの方が増えていった。
まだ若かった。
身体の奥から湧き上がる欲求を、無理やり抑えて眠るたびに、ふと人間としての限界を感じた夜もあった。
けれどアランが目の前で、日ごと、何かを奪われながら生きているのだと気づくようになってからは――
欲ではなく、「怖れ」が前に立ち始めた。
求めれば、傷つけてしまうのではないか。
口づけの柔らかさにさえ、彼女が怯えてしまうのではないか。
そのすべてを思うと、触れることがほとんど“祈り”に近い行為に変わっていた。
レギュラスはその夜、アランの手の上にそっと手を添えた。
眠っている彼女は微かにそれに反応し、指をきゅっと僅かに丸めた。
その小さな動きに、胸の奥が熱くなる。
呼びかけたくなる名を、レギュラスは喉の奥で呑み込む。
夜は静かに流れていく。
触れられぬ代わりに、ただ見守ることを選ぶようになって久しかった。
けれどそれが――
彼にできる「一番深い触れ方」なのかもしれないと、
いま静かにそう思えていた。
それは、決して失われた関係ではなかった。
ただ形を変え、祈るように、待つように隣にいる――
そういう夫婦の形の、その一夜。
窓辺に遠い星の光が淡く差し、
レギュラスはそっとアランの髪に手を伸ばす。
愛が、壊れていくのではなく――変わっていくことを、信じながら。
午后の光が静かに傾き、屋敷の中は時を止めたような静寂に包まれていた。
アランは自身の寝室のソファに身を寄せ、肩掛けのショールをひとつ巻き直す。浅い呼吸にあわせて、胸の奥で微かな痛みが広がる。
暖かな空間であるはずなのに、どうしようもなく肌寒かった。
体は、日を追うごとに言うことを聞かなくなっていた。
無理をすれば二日、三日と寝込む。
立ち上がるだけで息が切れ、視界が霞むこともあった。
それでも、どうしてもそれを許せなかった。
かつて、レギュラスの愛の言葉を「盾」として差し出し――
シリウスと、アリスを救ってくれるよう懇願した、あの夜。
彼にとってそれが、どれほど苦しみと誇りの境界を引き裂く義務となってしまったか、今ならよくわかる。
だからあの日以来、アランは静かに、ひたむきに、レギュラスの隣にあろうと努めてきた。
贖罪のように。
愛を繋ぎなおすための祈りのように。
けれど、現実は残酷だった。
触れることも、応えることも――
できない。
この弱り続ける身体では、夫の求めにすら寄り添えない。
夜、彼が袖口に残したままの手すら、怖くて握り返せない夜もある。
赦してもらいたい。
でも、日ごとに「差し出せるもの」が少なくなっていく。
愛される価値さえ、もう何ひとつ持てていないのではないか。
ふと窓の外に目をやる。庭の花壇の向こう、長椅子にセレナが寄りかかるようにして本を眺めていた。
その隣には、静かに肩を揺らして座るアルタイル。
その頭に手を乗せることも、いまは叶わない。
かつて、アルタイルは毎朝「まま、あそぼう」と跳ねていた。
その時間が当たり前で、くすぐったいほどの幸せにあふれていた――
けれど、セレナにその時間を与えてやることはできなかった。
アルタイルが妹を気にかける姿は、どこか微笑ましい。
でも、アランは知っている。
それは「与えられた優しさ」ではなく、「課せられた役目」になってしまっている。
母が弱くなった分だけ、
アルタイルは“強くあろうとしてくれている”。
それがどれほど不自然で、無理させていることか――痛いほど分かるのだった。
「……ごめんなさい」
声は自動的に零れた。
誰に向けた言葉かも、もう分からなかった。
レギュラスに?
アルタイルに?
それとも、何もできないまま、空回りする“今の自分”にだろうか。
時計の針が小さく音を立てる。
この静けさの中で、自分は何一つ「役目」を果たせていない。
家の妻としても、子どもたちの母としても、
愛する人の隣に在る者としても。
「罪を償う」という行為は、もっと形があるものだと思っていた。
けれど現実は、“赦しを乞う声を出す気力すら、この身体から奪っていく”。
そのことこそが、一番恐ろしかった。
アランの掌には、ひとすじの震えが残る。自身の温度が、ほとんど感じられなくなっていた。
けれど、自分を見捨てない人がいる限り――
まだできることがあると、信じたい。
今日もまた、こぼれるような春の光が、彼女の周りに差し込んでいる。
それだけが、唯一の慰めであった。
それすら、謝りたいほどに。
冬の気配がまだ残る屋敷の書斎は、重たい沈黙に満ちていた。
窓には分厚いカーテンが引かれ、あたたかく照らすはずの炉の熱も、今のレギュラスにはどこか遠く、肌に届かない。オリオン・ブラックの背は、書斎奥の書棚に向けられたままだった。
「週末、オズワルド家の娘がこちらへ来るそうだ」
いつもの低く押し殺した声で、父は言う。
レギュラスの心臓が、一度、深く鳴った。
予感はしていた。
久しぶりの「父と二人きり」の招きだった。
良い話などあるはずがない――その確信のとおり、体の底に走った緊張が、冷たい鉛のように腹の奥に沈んでいた。
「……その娘と、過ごしてみる気はあるか?」
レギュラスは返事をしなかった。
けれど、オリオンはそれを想定していたと言わんばかりに、すぐに続ける。
「嫌なら、会わなくていい」
「気が進まないのならば、断ればいい」
言葉だけを見れば譲りがあるように映る。
だが、その口調は決して「選ばせている」ものではなかった。
言葉を積み重ねれば重ねるほど、ただ押さえ込むための論理でしかないと、レギュラスにはわかっていた。
「だが……セシール家の方々も理解はある」
「我々は、一族の“未来の繁栄”を一番に考えねばならないのだ」
その一言が、決定打となった。
レギュラスは、ゆっくりと、だが確かに目を伏せた。
父の言う「未来」とは、明白だった。
アランが、もう以前のように“次の命”を生む身体にはなっていないこと。
そのことを冷徹に見定めた上で、ブラック家の血を存続させる道を、「他の女性との間に子を設けること」に見据えているのだと。
父が考えているのは、「婚姻」ではない。
血筋の続行。利に適う繋ぎ。
仮にその子が生まれれば、形式上アランの子として育ててもよい。
妻の名に、他の女が遺した息子を刻めと言うのだ。
「アランも……すでに理解してくれているようだ」
オリオンは、まるで慰めのつもりでそう言った。
「おまえの決断次第だよ。レギュラス」
まるで背中を押してやっているのだというふうに、
いつもの沈着さで言い切ったその瞬間だった。
レギュラスの視界が、内側から歪んだ。
喉の奥に、焼きつくような眩暈と共に――
吐き気がせり上がった。
息ができない。
掴める場所がない。
心臓だけがひどく早く、荒く、自らを内から打ち砕くように叩いてくる。
(アランが……“理解している”……?)
そんなはずがあるものか。
それは彼女が、もう何も望まないように、誰も責められないように、
静かにすべてを諦めただけではないのか?
受け入れたのではない。“壊された”に等しい。
今にもこの空間から逃げ出したかった。
父の目。この屋敷の石壁。血族の重み。
そのすべてが今、妻と呼ぶはずのあの人を脅かしている。
自分の罪でもあり、父の選択でもある。
唇が震えた。
けれど言葉を出せば、今すぐ感情が噴き出してしまいそうで、声にはならなかった。
まるで、あの日の逆再生のようだった。
アランが命をかけて守ろうとした、たったひとつの願い。
それを自分は叶えたつもりでいて。
けれどいま、父の口から冷酷に語られる“未来”は、そのすべてを上書きする“命乞いの果て”だった。
アランを護れていない。
なにも――なにひとつ、護れていない。
レギュラスは、震える手をジャケットの袖の中でゆっくりと握った。
そしてまだ、何も答えないまま、じっと沈黙していた。
その沈黙が、拒絶であり、渾身の抵抗であることを、父が気づいたかどうかは――
その場では、分からなかった。
書斎の沈黙が長く続いていた。
炉の火が小さく弾ける音だけが、重い空気を時折かき混ぜる。
オリオンは振り返ることなく、ただ「どうだ」と静かに促した。
決断を迫る声に、有無を言わさぬ威圧があった。
レギュラスは深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、あまりにも」
声は静かだったが、その奥に確固たる意志が宿っていた。
「セシール家や、妻本人に対しての侮辱です」
言葉を一つずつ選ぶように、レギュラスは続けた。
「世間からも笑いの的にされるでしょう。ブラック家に並ぶ名門のセシール家に対して、そんな無礼な真似ができるでしょうか」
それは理路整然とした反駁だった。
感情的な拒絶ではなく、社会的な体面を盾にした、計算された抵抗。
オリオンの肩がわずかに動く。
振り返った父の表情は、まったく驚いていなかった。
まるで息子がそう返してくることなど、すべて想定の範囲内だと言わんばかりに、冷ややかな微笑さえ浮かべていた。
「……気が変わったら言うがいい」
短く、そう告げる。
それは譲歩でも妥協でもなく――時間をかけて説得する余裕があるという確信の表れだった。
レギュラスは頷いた。
「今のところは、考えていません」
言い切って、彼は扉に向かった。
この場から一刻も早く離れたかった。
父の視線が背中に刺さるのを感じながらも、足を止めずに歩き続ける。
その時だった。
「覚えておけ、レギュラス」
オリオンの声が、まるで最後の一撃のように響いた。
「お前の母は――息子を二人産んでいる」
その言葉が意味するものは明白だった。
ヴァルブルガは二人の男児を産み、家に貢献した。
それに比べてアランは――
レギュラスの足が、一瞬止まった。
背中に走る怒りと悲しみが、拳を握りしめさせる。
けれど振り返ることはしなかった。
そのまま扉を開け、廊下へと足を向ける。
•
廊下を歩きながら、レギュラスの胸は激しく波打っていた。
今すぐ、アランの元へ行きたい。
彼女がこの話を「理解している」などということがあるものか。
もしそうだとすれば、それは理解ではなく――諦めだ。
絶望に等しい降伏だ。
足音が石の床に響く。
その一歩一歩が、父の言葉を振り払うための祈りのようだった。
アランは独りでいるべきではない。
この家の冷たい思惑に、独りで耐えるべきではない。
レギュラスは足を速めた。
妻の待つ部屋へ、妻の側へ――
今この瞬間、世界で最も大切な場所へと向かいながら。
父の最後の言葉が、まだ耳の奥で響いていた。
それを打ち消すためにも、彼は急いだ。
アランの手を握りたい。
彼女の不安を和らげたい。
そして何より――あなたは独りではないと、伝えたい。
廊下の向こうに、アランの部屋の扉が見えてきた。
レギュラスは静かに、けれど確かな足取りでそこへ向かった。
レギュラスは、ほとんど扉に手をかけた記憶さえ曖昧だった。
ただ、それまでの一歩一歩が押し殺してきた感情を爆ぜる寸前に詰め込んだまま、気がつけばアランの部屋の前に立っていて――ノックの音さえ忘れるほど、焦っていた。
扉が開け放たれるや、ひときわやわらかな陽の香りがした。
午後の光が差し込むソファ。
その上でアランはセレナを膝に乗せ、絵本を手に語りかけていた。
文章の区切りに囁くような声。
どこか遠慮がちに笑うような口元。
そして、膝の上でじっと話を聞いていた小さな娘が、不意に視線をこちらに向けた。
「ぱぱ……!」
セレナの声が小さくはしゃいだ。
けれど――レギュラスの耳には、それが届いていなかった。
アランがこちらを見る。
少し驚いた顔。
絵本を持つ手をそのままに、視線だけが揺れる。
けれどもう、その視線すらも、耐えきれなかった。
レギュラスの身体は、何かに突き動かされるようにして歩み出ていた。
ソファのすぐ前で膝をつき、アランの顔をまっすぐに追い詰め――そのまま、唇を重ねた。
音も呼吸もない深く、熱を帯びたキス。
確かめるように。
何度でも、“そこにいてくれる”という現実を、己の感覚を通して焼きつけるように。
アランは最初、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。
けれど抵抗しなかった。
ただ、手にしていた絵本がスルリと滑り落ちて、絨毯の上に柔らかく伏した。
空気がゆっくりと揺れていた。
娘の前だという意識も、もう彼らのなかにはなかった。
アランの呼吸は少し乱れ、指先がレギュラスの肩に掴むように触れた。
体温だけを、ただ求めてしまう。
•
セレナが目をぱちぱちと瞬かせ、ふたりを見上げていた。
何が起きているのかは理解していなかったが、
父と母の間に流れる空気は、どこかやさしくてあたたかく――彼女は嬉しそうに、また「ぱぱ」と笑っていた。
けれど、レギュラスもアランも、今はその小さな声に応えることはできなかった。
ふたりの間には、嵐のように駆け抜けた感情と、
どうしようもなく確かな――魂の震えだけが、確かに降り積もっていた。
それは、崩れかけた何かを繋ぎとめようとする、
あまりに人間くさい、痛みの先でようやく掴んだ、一瞬の真実だった。
その声は、あまりにも無垢で、優しく部屋の空気を揺らした。
「ぱぱ、セレナもして!」
アランの膝の上で、目をきらきらと輝かせたままセレナが伸ばした細い腕。
大人たちの間で交わされた深いキスの意味など無知なまま、
ただ“自分もほしい”という気持ちだけを、まっすぐに差し出していた。
しばしの沈黙ののち――
レギュラスとアランは、同時にふっと笑った。
お互いの視線が自然と重なり合い、そこには言葉以上の慰めと、愛しさが滲み出るようだった。
レギュラスは静かに動いた。
アランの唇からそっと離れ、背筋を伸ばしながら、娘の小さな前髪をやさしくかきあげた。
額に浮かぶやわらかな産毛の上に、自身の手のひらを添えて――
「……はい、セレナにも」
そう囁くように言いながら、繊細な唇を、球体のように小さな額へと触れさせた。
ほんの一瞬の、軽やかなキス。
本当にそれだけの仕草だったのに、
セレナはぱちくちと瞬きをして、丸い瞳をさらに大きく見開く。
瞬間、顔がふわりと緩み、笑みになっていく。
「あいしてるね、ぱぱ」
その言葉に、レギュラスの指が微かに震えた。
アランは、膝の上の娘を抱きしめるようにして、ただ微笑んでいた。
小さなひとつのキスが、揺れかけていたすべての結び目を、
そっともう一度、やさしく留め直してくれたようだった。
この温もりだけは、どうか永く守っていられたらと、
ふたりは同時に、胸の奥で静かに願っていた。
午後の光が深く傾き始め、ブラック家の食卓には柔らかな夕餉の灯がともっていた。
磨き上げられた銀器と白磁の皿、丁寧に添えられた花の装飾。
格式と威厳を湛えるこの屋敷の、いつもの静かな“儀礼”の時間――
けれど今日、その空気には、目には見えない緊張の糸が一筋張り詰めていた。
オズワルド家の娘。名門の家柄にふさわしい穏やかな物腰と、よく練られた微笑みをたたえて、彼女は順に挨拶をしていく。
「オリオン様、はじめまして」
「ヴァルブルガ夫人、光栄です」
「レギュラス様」
そして、
「アラン様、今晩は」
声は美しく、礼儀に過不足はなかった。ただその整いすぎた挨拶が、余白のない緊張感と冷気のような侮蔑を孕んでいた。
レギュラスの耳には、アランの名前を呼ぶその声音さえ、どこか冷えた鉄のように響いていた。
アランは微笑んで小さく会釈した。
それ以外できることはなかった。
