3章
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石畳の上に横たわる動かないメイドの姿が、まるで時間そのものを凍らせたようだった。
廊下には死の静寂が降り、ランプの炎さえもがちらつきを止めたかのように見えた。
レギュラス・ブラックは、アリスの杖をまだ手にしたまま、表情ひとつ崩すことなく立っていた。その瞳は氷よりも冷たく、声は墓石に刻まれた文字のように無感情だった。
「アリス」
名前を呼ぶ声に、一片の温もりもなかった。
「呪文は、あなたの杖から出ています」
その言葉が落ちた瞬間、アリスの膝が震えた。
何かを否定しようと口を開こうとするが、声にならない。
涙が頬を伝い、その雫が床に落ちる音だけが、静寂を破っていた。
「メイドを攫い、ポリジュース薬で姿を変えてブラック家に忍び込んだあげく――」
レギュラスの声は、まるで法廷で判決を読み上げる裁判官のように淡々としていた。
「騒ぎ立てたメイドを殺してしまった」
「違う……!」
ようやく搾り出されたアリスの声は、かすれて震えていた。
「私じゃない……私は何も……!」
しかし、床に横たわる動かないメイドの姿が、残酷な現実を物語っていた。
ホグワーツの制服を身に着けたその姿は、まるでアリス自身の罪を証明する証拠のようだった。
「アズカバンまでお連れしましょう」
その宣告に、アリスは崩れ落ちるように泣き声をあげた。
もはや言葉にならない悲鳴が、石の廊下に響く。
まだ幼さの残る少女の絶望が、空気を震わせていた。
アランは、その光景を見つめることができなかった。
膝から力が抜け、壁に手をついてゆっくりと座り込む。
頭を抱えるように俯き、肩が小刻みに震えていた。
(こんなことになるなんて……)
(私が助け舟を出したばかりに……)
自分の判断が招いた結果への後悔と、アリスを守れない無力感が、胸を締め付けていた。
そんな絶望に沈む二人を見下ろしながら、レギュラスは続けた。
「ただし――」
その言葉に、わずかな希望を見出そうとするかのように、アリスが顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、レギュラスを見つめていた。
「父であるシリウスの指示であったと口を割るなら」
冷酷な笑みが、レギュラスの口元に浮かんだ。
「アズカバン行きは、シリウスにして差し上げますよ?」
その提案は、まるで悪魔の囁きのようだった。
愛する養父を売るか、自らが罪を被るか――
究極の選択を、この幼い少女に突きつけていた。
アリスの唇が震えた。
シリウスの優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
毎朝作ってくれた朝食の温もり。
「お帰り」と迎えてくれる声。
それらすべてを裏切ることになるのか。
それとも、自分がアズカバンの冷たい独房で朽ち果てるのか。
「どちらを選ばれますか?」
レギュラスの声が、最後の審判のように響いた。
廊下に流れる時間だけが、残酷にゆっくりと過ぎていく。
アランは座り込んだまま、ただ祈ることしかできなかった。
この悪夢のような現実が、どうか終わってくれることを。
そして、まだ幼いアリスの心が、この選択によって永遠に壊れてしまわないことを――。
月明かりが窓から差し込み、三人の影を長く床に伸ばしていた。
その影は、まるで運命の糸に操られた人形のように、微動だにしなかった。
裁判所の石造りの回廊には、怒気と焦燥が入り混じった足音が響いていた。
シリウス・ブラックの足取りはあまりにも早く、後から続くダンブルドアでさえ追いつこうとしていたほどだった。
長い黒の外套の裾が、空を斬るように躍り、彼の吐く呼吸は明確な怒りの色を帯びていた。
「……テメェ、アリスに何しやがった……!」
重く閉ざされた法廷の扉がひらいた瞬間、その叫びは抑えきれず突き出された。
長髪が乱れ、凍り付いたような灰色の瞳が、まっすぐにレギュラスへ向けられる。
だが、レギュラスは振り返りもしなかった。
彼は静かに、整えられた姿勢のまま立ち尽くした。
法廷の中央にある石台のそば、すでに数人の監視官と魔法省の職員たちが張り詰めた沈黙を保つ中、あくまで淡々とした声音で答えた。
「……忠告はしたはずですよ、シリウス。
“ブラック”の名を背負うとは、どういうことか――」
その声には、怒りも冷笑も、何も乗っていない。
ただ、事実のみを諭す者のような、透徹した静けさだけがあった。
「……そんなもん知らねぇ……!」
シリウスの暴れだしそうなほどの怒気が、空気を震わせる。
銀の瞳には、ただ震えるほどの焦りと怒りが渦巻いていた。
「俺の娘が、アリスが、殺し!? 何をふざけた……!」
その言葉を遮るように、指をすっと……さながら羽根のように上げたのは、傍らにいたダンブルドアだった。
「……レギュラス」
その静かな呼びかけは、雷ではなく雪のように降りた。
「本当に、アリスが……人の命を奪ったというのかね?
私の知るかぎり、あの子ほど“命”に対して真っ直ぐな娘はいない。
……何かの間違いなのでは?」
ダンブルドアのまなざしは、優しさの奥に確かな疑問と責任を宿していた。
レギュラスの言葉を疑いながらも、まだ裁きの中に答えを探そうとしている。
だが、レギュラスは顔色ひとつ動かさず、ただ短く言った。
「……何が“間違い”なのでしょう?」
彼は掌をひるがえし、一枚の魔法証明用紙と記録球を宙に浮かせる。
「アリス・ブラックの使用していた杖。
最終発動呪文、“アヴァダ・ケダヴラ”。
……記録として保存されています。証拠は、揺るぎません」
淡々とした語調。
だが、その言葉ひとつひとつが場に重く沈み、シリウスの顔に戦慄が走る。
「……違う……あの子が……そんなもの、撃つはずない……!」
その声はかすれていた。
怒りが、悲しみに変わる手前。
「そんな子じゃないんだよ、アリスは……!」
傍らで、ダンブルドアはただ深く息を吐き、
魔法記録をじっと見つめていた。
其処に映されたのは確かに、アリスの杖から出た死の呪文。
けれど、そこに至るまでの「物語」は、誰にも記録されていない。
「書面には、真実は映らないものです」
静かに呟いたダンブルドアに、レギュラスは小さく目を伏せるだけだった。
「どこだ……アリスは……どこにいる!? 今すぐ会わせろ!」
シリウスの怒声がふたたび響く。
胸の奥の奥から、吠えるように。
ただ、あの小さな彼女のために。
だがレギュラスは冷静だった。
「それは、今後の公的判断によります」
「私情で動く法はありません。あなたが“父親”としてここへ来たのなら、
その父の背にある“責任”というものも、背負っていただくしかありません」
そして――言葉を滑らせるように重ねる。
「……仮に、アリスが“ブラック家”の名を使い、
その名のもとで罪を犯したのならば……その選択の責も、残る者に落ちるのが筋というものです」
銀灰のまなざしで、シリウスを見据える。
「……“父親”のあなたに――その名を、与えた者として」
法廷の光が、三人のあいだに冷たく滴っていた。
戦う想いと、守ろうとする愛と、貫こうとする誇り。
そのどれもが間違っていないようでいて、そして――
誰もが「間違っていないとは、言い切れない」場所に、今、立っていた。
屋敷の壁は、いつもよりずっと冷たく感じられた。
重厚な天蓋付きの寝室の奥、窓は固く閉じられ、出入り口には結界が張られていた。
アランは静かにその奥に腰を下ろし、胸に手を当てて、呼吸を落ち着けようとしていた。
けれど、落ち着くはずがなかった。
あの夜から――咄嗟に目を背けたくなるほどの記憶が、何度も鮮やかによみがえる。
レギュラスの腕が、迷いなく杖を振り上げ、死の呪文を放った瞬間。
その光の中で崩れ落ちたメイドの身体。
悲鳴を上げて泣きくずれるアリス。
何も言えずその場に崩れ落ちた、情けない自分。
何よりも、冷たいまま一切顔色も変えずにそれを“遂行した”レギュラスの姿が、目に焼き付いて離れなかった。
アリスにあんな仕打ちを。
まだ幼い、十五にも満たない少女に「殺人」と「アズカバン」を。
冗談でも、脅しですらなく――本気だった。
「……どうして」
喉の奥で、押しつぶされた声が洩れた。
目の奥が乾ききり、思考ばかりが逸れていく。
いまこの瞬間、アリスもシリウスもまだ裁判の場にいる。
レギュラスは、そのすべてに対して“何かを正す正義”のつもりで動いているのかもしれない。
けれど――
あの目は、人を守ろうとしている目ではなかった。
無慈悲で、無機質で、
ただ己の中の「正しさ」だけを見つめていた。
その目が恐ろしかった。
冷たく研がれ、何も映そうとしないような――
一度その眼差しを向けられたら、誰であれ生身で立ってはいられない、
そんな“暴力”にも似た視線だった。
かつて愛した夫。
誓いを交わし、共に命を生み、子どもたちを育てていこうと懸命に手を取り合ってきた人。
アルタイルの父として。
セレナを抱いた腕の温もりに、確かに慈しみを感じたはずだった。
なのに。
「……同じ人間なの?」
声にはならなかった。
でも、胸の中で静かに崩れていくものの音は、耳にこだました。
かつて触れた手の感触までが、もう冷たい鉄のように思えてくる。
信じていた。
レギュラスは“家の顔”として冷たくても、
家庭では守る者、父でいてくれると信じていた。
あの夜までは。
だけど、簡単に命を奪う人に、
裁きと罰を与えることだけに正当性を見出す人に、
今後、自分は一度でも「心を許せる瞬間があるのだろうか」
アランはそれが、恐ろしくてたまらなかった。
人としての大事な何かが、何一つ通じない人に変わってしまったような。
一瞬でも見誤っていたのかと思うと、自分の目さえ信じられなくなる。
(家から、出たい)
(子どもたちを、ここから連れ出したい)
そんな考えさえよぎった。
でも、それすら――許されないことを自らに言い聞かせていた。
結界の張られたこの部屋。
外と遮断され、閉じ込められている事実が何よりそれを物語っていた。
どこまで、彼は進んでしまうのだろう。
どこまで、あの“冷たさ”を貫き続けるのだろう。
振り返る姿をもう一度、信じられる日は来るのだろうか。
アランは、小さく震える手を胸にあてて膝を抱いた。
ただ、震える心臓の輪郭を確かめるように。
呼吸だけが、やっとのことで続いていた。
けれど――
それ以上、何もかもが崩れていってしまいそうで、
その床に、誰にも届かない涙が静かに落ちていった。
屋敷の奥深く、閉じ込められた寝室で、アランは静かに震えていた。
結界に囲まれた天蓋の下、窓は固く閉ざされ、外の音すら届かない。
手にした薄い伝達――それは、シリウスからの便りではなく、アリスが危険な状態にあることを告げる屋敷の使用人からの知らせだった。
アズカバン。
その名前を目にした瞬間、アランの胸は締めつけられるように痛んだ。
アリスが――あんなに幼い、まだ十五にも満たない少女が。
冷たい独房で、光も希望もない場所で、
たったひとりで恐怖に震えているのかもしれない。
涙がひとつ、枯れきったと思っていた瞳から落ちた。
繋がれた三つの命
アリスを、まるでアランと3人で繋いだ命だと言ってくれた
シリウスの言葉が、記憶の奥から蘇る。
あの日、彼が微笑みながら語った言葉。
アリスという存在が、引き裂かれた二人の間に新しい愛の形を築いてくれたのだと。
過去に戻ることはできない。
失われた時間も、叶わなかった未来も、取り戻すことはできない。
でも――アリスという命を通して、私たちは確かに家族になれていた。
あの子の笑顔を見つめているとき、
アランとシリウスは、かつて夢見ていた未来の断片を確かに見ていたはずだった。
アリスの成長を見守ること。
彼女の成功を共に喜ぶこと。
いつか彼女が大人になって、自分の家族を築くときを想像すること。
それは、三人だけの静かな奇跡だった。
失ってはならない光
そんな彼から、もう何も奪わないで欲しい
アランの声は、誰にも届かない祈りのように空気に溶けた。
シリウスは、すでに多くを失ってきた。
家族との絆。
故郷への帰属。
若い日の夢。
そして、愛する人と共に歩む未来。
その彼の人生に、ようやく灯ったひとつの希望の光――それがアリスだった。
アリスが話してくれた事があった。
朝、彼女を起こしてくれるシリウスの優しい声。
夜、宿題を見てくれながら交わす何気ない会話。
ホグワーツから帰ってくる彼女を、まるで本当の父親のように迎えてくれる瞬間。
きっとそれらすべてが、シリウスにとって生きる理由そのものだったのだと思う。
もしアリスを失えば――
もし彼女がアズカバンの冷たい石牢に閉じ込められてしまえば――
シリウスの世界から、最後の温もりさえも奪い去られてしまう。
アランは膝を抱え、小さく身を丸めた。
本当の母親ではないけれど、アリスを我が子のように愛してきた。
あの細い肩を抱きしめたときの温もり。
「アランさん」と慕ってくれた、あの純粋な瞳。
子どもは、大人の都合や政治的思惑に巻き込まれるべきではない。
アリスがしたことは、確かに軽率だったかもしれない。
でも、それは愛から生まれた行動だった。
シリウスを安心させたくて、アランの無事を確かめたくて――
ただそれだけの、純粋な想いから。
そんな幼い心を、冷酷な現実で打ち砕こうとしている。
「シリウスからアリスを奪わないで欲しい」
その言葉と共に、アランの頬を涙が静かに伝った。
涙は止まらなかった。
レギュラスへの恐怖も、自分の未来への不安も、すべてを飲み込んで、
ただ愛する人たちの幸せを願う気持ちだけが溢れ出していた。
かつて愛し合った二人が、今は違う道を歩んでいても。
運命が彼らを引き裂き、それぞれ別の人生を歩むことになったとしても。
アリスという存在だけは、二人を繋ぐ永遠の絆だった。
その絆を断ち切ろうとする現実が、あまりにも残酷だった。
窓の外では夜が深まり、星々が静かに瞬いている。
アランは天井を見上げながら、心の奥で静かに祈り続けた。
どうか、この涙が誰かに届きますように。
どうか、アリスとシリウスの未来に、再び光が差しますように。
そして――
どうか、愛することの美しさが、憎しみに勝ちますように。
閉ざされた部屋の中で、アランの祈りは夜空へと昇っていった。
それは、母としての愛であり、女性としての慈しみであり、
人間として最も純粋な願いだった。
涙は流れ続けた。
けれど、その涙の一滴一滴に、希望という名の光が宿っていた
重たく閉ざされた扉が、鍵の音もなく静かに開いた。
光の塊が細く射し込む。部屋の空気は冷え、長いあいだ人の温もりが留まったまま澱んでいた。
レギュラス・ブラックは、その場に相応しい無言の威厳を纏ったまま、ゆっくりと歩を進めた。
足音は絨毯の上に沈みこみ、音もなくアランの寝台脇にまで届く。
そこにいる彼女は、呼吸さえ頼りなくなるほどに、静かだった。
泣きつかれてそのまま伏していた身体が、
レギュラスの気配に反応して、小さくよろめくように起き上がる。
手が震え、頬は蒼く、目の奥は擦り切れたように疲弊していた。
レギュラスは、腰を屈めず、ただ低く静かな声を落とした。
「……無理をしないでください」
その声は、たしかに「気遣い」のかたちをしていた。
けれど――
アランには、その音色ひとつひとつが、余計に胸を締め付けた。
(この人が……)
この同じ唇で、躊躇なく死の呪文を唱えたのだ。
人を殺すその瞬間さえ、微塵の感情の揺らぎも見せなかった男が――
その唇が、いま、自分を「案じている」と言うのか?
言葉と事実があまりにもかけ離れていて、
アランのなかでは、心と身体がバラバラに振動していた。
綺麗な音だけが、壊れかけた香炉のように空を彷徨っている。
ベッドに凭れかかったまま、アランは唇を動かした。
声にならない聲を、数度繰り返し、ようやく細い音がこぼれた。
「……レギュラス、お願い……」
喉の奥から絞り出すような、掠れた声だった。
声帯ではなく、魂そのものからの乞いだった。
レギュラスはその言葉に、わずかにまつげを伏せる。
けれど、それに何も応えず、淡々とした調子で言葉を返した。
「……無理ですよ」
「裁きを下すのは、あくまで裁判官ですから」
それだけだった。
あの公的で冷たい言葉に、わずかでも躊躇いや痛みの色が含まれているのか――
アランの目では、もう分からなかった。
扉の向こうと、寝台の上。
ほんの数歩しか離れていないはずなのに、
そのあいだに横たわる距離は、世界と世界の差にすら感じられた。
この人はもう、戻ってこないのかもしれない。
レギュラスはそこに立っているのに、
もう触れられないほど、遠くへ行ってしまったような感触だけが、胸に残った。
アランは目を閉じた。
自分の身体がますます冷えていくのが分かった。
ただ一言の願いも、彼には届かない。
その空しさだけが、部屋に残っていた。
ふたりの影が、月明かりのなかで交わることなく、
静かに――それぞれの孤独の中に、沈んでいった。
月の光が石の床に薄く射し込み、寝室の奥を静かに染め上げていた。
その淡い光の中、アランは静かに、けれど確かな意志をもってひとつの行動に出た。
ゆっくりと、ベッドから身を滑らせるように降りる。
ぐらつく脚を無理やり制しながら、そのまま……レギュラスの足元へと、膝をついた。
振るえる吐息。
両手がそっと床につき、石の冷たさに指先が静かにかすめた。
「……お願い、レギュラス」
絞り出されるようなその声には、もう気高さも言葉の矜持もなかった。
ただ、胸の奥から生まれた、願いだけだった。
涙があふれて止まらなかった。
次から次へと底から湧いてきて、頬を打ち、顎を伝って胸元の布を濡らす。
「どうか……どうか、アリスを……シリウスを……これ以上、罰しないで……」
「奪いたくないの。あの人から。あの人の……“太陽”を……」
こぼれた言葉が、床に伝って広がっていく。
傷ついても、間違っても、その人はいつも笑っていた。
豪奢な部屋にも、厳格な血にも染まらない、柔らかく明るい世界を持った――
愛したシリウス。
シリウスがアリスという名の子を慈しむ姿を、アランは何より知っている。
その陽だまりを奪うことが、どれほどの哀しみを呼ぶか。
それに手を添えることなど――自分にはできなかった。
「シリウスが――陰るのが嫌なの……
あの人が、あの人らしくなくなるのが……怖いの……」
指先が、わななく。
滴る涙がその手を濡らし、冷たい床に広がっていく。
静けさのなか、レギュラスはなにも言わなかった。
ただ、その真正面に跪く妻の姿を、目に映していた。
やがて、乾いた声がひとつ、落ちた。
「…… アラン、……やめてください」
言葉に怒りも戒めもこもってはいなかった。
けれどその響きは、あまりにも真っ直ぐで――遠かった。
崩れ落ちたようなアランの姿に、
レギュラスの表情はほとんど変わらなかった。
眉ひとつ動かさず、視線を逸らすことなく、凍ったような瞳のまま立ち尽くしている。
囁くような「やめてください」に、
哀切や迷いはなかった。
むしろ彼にとって、それ以上の懇願を受け止める必要を感じていないようにも、見えた。
は涙に濡れながら、顔を上げることができなかった。
わかっている。
この人には、もう届かないのだ。
それでも、最後の願いの祈りだけが、
指先と床と、こぼれる涙のなかに、確かに残されて――
静寂が全てを呑み込むように、部屋はまた、深い闇に沈んでいった。
部屋には薄い月光が降りていた。
結界が緩められた寝室の窓際から差し込む光が、アランの枕元を白く照らしている。
そこには静かに佇むふたりの影。
交わした言葉の静けさの分だけ、悲しみが深く沁みわたっていた。
「レギュラス、あなたは……いまでも、私を……愛してる?」
その問いは、まるで自分でも気づかない間に零れ落ちたように、静かだった。
審判を下すようでもなく、すがるようでもない。
ただ、確かめたかった。
その奥にある真実が、これからの決断を支えるための灯になるかもしれないと想ったから。
数秒の間が落ちた。
レギュラスは彼女の目を見て、噛みしめるように頷いた。
「ええ。今も、昔も。……これから先もずっと、変わりません」
その言葉に、嘘はなかった。
声はかすかに震えていたが、静かな確信が宿っていた。
それは、あの激しい夜を越えてなお残った“唯一の本音”だった。
アランは静かに目を閉じた。
月の光がまぶたに揺れて、影が頬に落ちる。
「……あなたにとっての私は……
――光に、なれているのかしら」
自信があるわけではなかった。
ただ、心の揺れも、痛みも隠さず、彼女は尋ねた。
それを聞くこと自体が残酷だと分かっているからこそ、
一歩を踏み出す覚悟が必要だった。
それでも知りたかった。
レギュラスの心の最奥に、自分という“存在”がどう残っているのか。
彼はほんの少しだけ目を細めて――囁くように答えた。
「もちろんです」
「……どんな時でも。
アラン、あなたは……僕の“光”です。
あなたがいなければ、生きている意味などなかったでしょう」
その声を聞いたとき、アランは小さく息を吸い込んだ。
胸の奥に湧いたあたたかさが、ひとしずく涙になって目の縁を濡らす。
けれど、そのまま沈黙を長く引きずらぬよう、彼女は静かに立ち上がった。
細い身体に、今にも崩れそうな痛みを宿したまま。
けれど、背筋をただすその姿には、ひとつの凜とした覚悟があった。
そして―― アランは自分の杖を手に取った。
小さな掌で、けれど確かな決意とともに握りしめて。
「……なら、私を愛しているのなら……」
「レギュラス、あなたに最後にお願いしたいことがあるの」
「……シリウスとアリスを、どうか……救ってください」
その言葉は、あまりにも静かだった。
命乞いではなかった。
懇願ではなかった。
祈りだった。
すべての愛と誇りを託して、かつて愛した人物へ、
〈人〉として、最後に願えること――
それがこの一言だった。
レギュラスは、アランのその言葉に何かを感じ取った。
眉がかすかに動き、喉の奥から微かな呼吸が洩れる。
ゆっくりと彼は目を細める。
そのまなざしの中には言葉にできない衝撃と、
理解までの一歩手前をさまよっているような、戸惑いがあった。
そして次の瞬間――
アランは、杖の先を……自分自身の胸元に向けた。
吐息が張り詰めた空気を震わせる。
レギュラスの瞳が大きく見開かれた。
「…… アラン……?」
声がかすれる。
「このままでは……きっと、あなたは誰も赦さない……
アリスも、シリウスも、そして――きっと私自身も」
「だったら……私は――」
その続きを言う前に、唇が震え、押し殺すように目を閉じた。
涙が一筋、頬をなぞって落ちる。
「――私ごと、止めてください。
もし、あなたが、あの子たちへの“裁き”を下すというのなら。
私をその手で……同じように終えてください」
空気がすべて凍りつき、時さえも止まったように静まり返る。
レギュラスの手が、わずかに震えた。
アランの言葉が彼の胸に突き刺さっていた。
例え狂気と思われても、自分の命という最後のすべてを賭けてまでも、誰かを守ろうとする――その決意が。
そして、ただ、ひとつ問いかける想いだけが、2人のあいだに残っていた。
「私は、あなたの“光”なのか」、それとも――
「あなたが信じる“正しさ”の前には滅びるべき存在なのか」
答えは、まだどこにもなかった。
けれど、月光はただ静かに二人を照らし続けていた。
揺るがない覚悟と、変えられぬ想いが交差する、その瞬間の永遠を抱くように。
月の光が寝室の床を白く塗り、跳ね返るように浮かび上がったアランの影は、あまりにも細く儚かった。
その胸元に向けられた杖。
それは誰かに向けられたのではなく、
明確に自分自身を終わらせる意図を帯びた闘志だった。
そして、目の前でそのすべてを目の当たりにしたレギュラス・ブラックは、
生まれて初めてと言っていいほど、目に見える動揺をあらわにしていた。
「アラン……!」
その名前を呼ぶ声は、空気を震わせるほどに掠れていた。
音が裏返っても気にせず、息が浅く、今にも崩れそうな声――
確かに宿っていた。
「……馬鹿げたことを、言うのはやめてください」
言おうとする言葉の輪郭が、喉で崩れ落ちる。
それでも、絞るようにようやく出た否定の言葉だった。
その言葉に込められたのは、怒りや咎めではなかった。
それは恐怖だった。
しなやかな指先を離れ、魔法の軌道を描きながらレギュラスを守ってきた“正しさ”の面が、
今、彼に向けて刃のように跳ね返ってきていた。
(なぜ、あなたが……自らを捧げてまで……)
(そんなことを思ってしまうほどに、僕の手は……)
アランの全身に宿る覚悟は、花びらのように柔らかいのに、
その意思の固さは、レギュラスの“正義”など脆く踏み砕くほど、ひたむきだった。
そして、彼は思った。
「まさか、自分のこの愛情を――」
そうだ、自分がずっと信じていたもの。
「愛している」と言う、この確かな気持ち。
子をなし、日々を共にし、彼女に届けてきた言葉たち。
まさか、それが“裁き”と“赦し”の天秤にかけられる日が来るとは――
思ってもみなかった。
あまりに、誤算だった。
つかみ所のない正義ではなく、
誰よりも真摯で、命を捧げようとするほどに他人を想う、
この人の「愛のあり方」の方が、はるかに正しかった。
自分が振りかざしてきたものが、一気に足元を崩していく。
頭で理解するより先に、
レギュラスの心は、深く、深く揺れていた。
「…… アラン」
その手を、呼吸を、想いを、取り戻すようにして。
彼はようやく半歩、アランに近づこうとした。
手を差し出すでもなく、ただ、彼女の心に触れようと
震える魂で、言葉を探していた。
静まり返った寝室、重く張り詰めた空気のなかで、レギュラス・ブラックは動けずにいた。
目の前で、自らの胸元に杖を向けたアラン。
涙に濡れながらなお凛と立ち、覚悟のすべてをその身に宿していた。
言葉にならなかった。
「私を愛しているのなら」
その一言が、音になって放たれた瞬間、
レギュラスの背筋には鋭く見えない刃が落ちたようだった。
時が止まったかのような沈黙のなかで、やっとのことで絞り出されたのは――
「…… アラン、やめてください」という、掠れた声ひとつ。
だがその声も、アランの覚悟を撓ませるには、あまりにも脆かった。
そして彼は……気づいたのだ。
──もう、自分が折れるしかない。
その現実を、否応なく突きつけられていた。
想像もしなかった。
まさか、アランが――あのアランが、
自分の命を引き換えにしてでも何かを求めてくるなんて。
その手に今日まで何度も触れてきたというのに。
あの瞬き、あの微笑みに、一度もそんな影を見せたことがなかったというのに。
あの人が本気で、「自分を終わらせてもいい」という顔をするなどと――
考えたことさえ、なかった。
そして同時に、分かってしまった。
あの人の覚悟の前に、自分など敵うはずがないのだと。
彼女の涙ひと粒が、すべてを瓦解させる強さを持っている。
あれほど頑なだった自分の裁きも、正義も、“名”すらも、
今、崩れつつある。
「……わかりました」
その声は、自らの喉元を裂くようにして、ようやく出た。
それは降伏の言葉ではなく、
愛にすがることの異様なまでの、屈辱の宣言だった。
「……あなたがそこまで言うのなら。僕にはもう――」
「……それを呑むしか、選択肢はありませんよ」
足元が崩れ落ちるようだった。
自分はアランを愛していて、手放せるわけがなかった。
その事実が、すでに“檻”になっていた。
身を割っても離せないものを、自らの正義ではねのけられるほど、
彼はもう、冷たくはなかった。
アランに屈するということ。
いや、その表面だけではなかった。
一番の屈辱は――
その「愛情」を、アラン自身に使われてしまったことだった。
「愛しているあなた」ではなく。
「愛するあの人のために、折れてほしい」と――。
血脈に背き、家に背き。
でも守ろうとしてきたものは、アランただひとりだったのに。
そして、その彼女の口から、
「シリウスと、あのマグルの娘を救って」
――そう投げられたのだ。
それは愛情を“逆手に取られた”に等しかった。
心の奥で、誇りが裂けた音がした。
レギュラスはただ立ち尽くしたまま、アランを抱きしめることもできなかった。
目の奥に、熱でも涙でもない――割り切った痛みだけが澱のように残っていた。
こんなに従わされて、よるべなく縛られて。
なのに「愛していたから仕方がなかった」と、
その言葉ですべてを正当化せねばならない。
なんて惨めな愛だろう。
でも、それでも。
――彼は、従うしかなかった。
かつて“正義”と呼んだものは砕け散り、
いま胸の奥に残ったのはただひとつ。
「アランのそばに、これ以上の涙を流させたくない」
その思いだけだった。
部屋を包む沈黙の中で、レギュラスはようやく小さく目を閉じた。
そして、自分のすべて――誇りも信念も“ブラック”の名も、その夜だけは床に置き去った。
夜のブラック家は静かだった。
重厚な廊下も、煌びやかな灯も、その夜だけは息を潜めているかのようだった。
情報筋によってまとめ上げられた報告書は、事のすべてを「偶然が重なった事故」として処理した。
それが“最も穏便で無難”な着地点だった。
そう言われて、誰もそれ以上の追及を望もうとしなかった。
アリスも、シリウスも――何ひとつ罰されなかった。
レギュラス・ブラックは、それを黙って受け入れた。
いや、正確には――「投げ出した」のだった。
「……それで、アランが満足だというのなら」
まるで、自分の中から何か大切な灯火が消えたかのような声音で、彼はそう呟いた。それは答えでも妥協でもなく、諦めの響きを纏った言葉だった。
長い廊下をひとりきり歩く。
誰にも告げず、自室の扉を閉じる。
扉が軋む音さえ、酷く重く感じた。
手袋を外すように、ひとつずつ身に着けていたものを外し、ローブも、上着も、きちんとされた整えも、ただ床へと落とすように脱ぎ捨てた。
そこにはもう、“家”を保つ者としての顔は、一切必要なかった。
窓辺にゆるやかな風が触れ、カーテンが揺れる。
レギュラスは背を壁に預けたまま、ゆっくりと座り込んだ。
絨毯の触感が指先に広がるが、それすら現実味がなく思えた。
空虚だった。
何もかもが。
愛した女性の願いを叶えて、結果として「家族」は守られた。
けれど、守る過程で自分の“信念”の骨は、確かに折れていた。
あれ以上に何も譲るつもりはなかったのに。
あれ以上に誰かに屈することは、もう無いと思っていたのに。
最後に心を折ったのは、“愛”だった。
自らの「好き」という想いが、自分の正義を埋葬した。
その虚しさだけが、胸に冷たく居座り続けた。
ローブの袖に顔を伏せて、目を閉じる。
アランのあの泣き顔。
震える声。
命を捧げてまで、訴えかけたそのまなざし――
その全部が、どうしようもなく愛しく、どうしようもなく残酷だった。
守れたのかもしれない。
でも「自分」はもう、そこに居ないような気がした。
誰の前でもなく、何の証明もなく、
ひとりきりで、ただ、崩れていく心の静けさを受け止め続けた。
風の音ひとつにさえ、傷が沁みるようだった。
それほどまでに、レギュラス・ブラックの夜は、
深く、そして冷たく沈んでいた。
朝の日差しが窓を通り抜け、寝室に薄い光を落としていた。
アランは枕の上で静かに身を起こし、その光の中に佇んでいた。
レギュラスが全てを許してくれた。
アリスもシリウスも、罰を受けることはなかった。
それは確かに――最大の安堵だった。
胸の奥で、ひとつの重石が静かに取り除かれたような感覚。
あの夜、杖を自分に向けた時の絶望が、ようやく遠のいていく。
けれど。
同時に、アランは気づいていた。
夫婦としての――大切な何かが、きっと崩壊してしまったことを。
忘れられなかった。
あの時のレギュラスの顔。
いつも端正で、誇り高く、どこか遠くを見つめているようなあの表情が、
あの夜だけは――悲しいほどに青ざめていた。
絶望に満ちた瞳。
震える唇。
「わかりました」と言った時の、まるで何かが死んだような静けさ。
あれは、彼の中で何かが折れた瞬間だった。
そしてその「何か」を折ったのは、他でもない――自分だった。
「愛しているなら、シリウスとアリスを救って」
そう頼んだ時、アランは確かに勝利を感じていた。
彼の愛情を盾にして、大切な人たちを守れると思った。
だが今になって、その代償の重さが胸に沁みてくる。
レギュラスの誇りを。
彼の信念を。
彼が「正しい」と信じていたものすべてを、踏みにじってしまった。
どのように報いればいいのだろう。
何を差し出せば、受け取ってもらえるのだろう。
アランは手のひらを見つめた。
この手で触れても、もう彼の心には届かないかもしれない。
この唇で愛を語っても、もう響かないかもしれない。
彼が今、何を求めているのか――
それすら、分からなくなってしまった。
謝罪だろうか。
それとも感謝だろうか。
あるいは、もうこれ以上何も求めてはいないのだろうか。
レギュラスはもう、自分を見る時の目が変わっていた。
愛しさと共に、どこか諦めのようなものが宿っている。
まるで「もう何を言っても無駄だ」と悟ったような――
そんな遠い眼差しをしている。
アランは膝を抱えるようにして座り込んだ。
胸の奥が痛かった。
守りたい人を守れた喜びと、
愛する人を傷つけてしまった痛み。
その両方が胸の中で複雑に絡み合って、
どちらが正しかったのか、もう分からなくなっていた。
窓の向こうで鳥が鳴いている。
新しい朝の始まりを告げるように。
でも、アランの心には――
まだ深い夜が残ったままだった。
彼に許してもらえる日は、本当に来るのだろうか。
そして、夫婦として再び歩めるような、そんな道は――
まだどこかに残されているのだろうか。
朝の光が頬を撫でていくが、その温もりすら、
今は冷たく感じられてならなかった。
月の光が寮の窓辺に落ちていた。
アリスは、机の上に封じられた処分通知の写しをぼんやりと見つめていた。
“全てが許された。”
その一文が、滲むように目に浮かぶ。
レギュラス・ブラックが、“それは事故であった”と魔法法廷で署名したという。
その文字だけが、ほんとうの現実として、胸に沈んだ。
しかも、保釈金まで——彼が支払ったと。
驚きは、なかった。
ただ、信じられなかった。
あの男が、そんなことを誠意で行うわけがない。
あの目を知っている。
あの氷で切るような声音を覚えている。
それでも、現実は動いたのだ。
だから分かった。
―― アランが何かを差し出したのだ。
きっと命を削るような声でお願いしたのだろう。
何を差し出してでも、守ってください――と、そう言ったのだろう。
孤児院を襲撃され、恐怖と混乱のなか泣いていた幼い自分を、
あの人はかつて命がけで逃がしてくれた。
今回もまた、
あの優しくて強い人は、自分を守ってくれた。
何ひとつ告げることもなく、
何ひとつ知らせることもなく。
誰の手柄にもされぬまま、
静かに、すべてを背負って。
アリスは、これまで息を張りつめさせていた心が、
すとんと崩れていく感覚に包まれた。
伝えたかっただけだったのに。
アランが無事だと、シリウスに安心してもらいたかっただけだった。
ほんの少しでいい、話すことができたらと
……それだけを、願っていたはずだった。
些細なことだった。
扉の前で笑ってくれたなら、それだけで。
だけど――それすらも、望みすぎだったのだ。
壊れかけた家庭。
命を削って守り合っている誰か。
積み上げられてきた長い時間の中に、
アリスがほんの指先一歩を踏み込んだだけで、
どれだけ大きな崩れが起きるのか、何も分かっていなかった。
あの屋敷の重さ、
その血に連なってしまった自分の名前の重さも。
今日、ようやく知ったように思えた。
――自分は、なんて無力で、なんて愚かだったのだろう。
窓の外に星がまた瞬いていた。
ただ静かに、澄んだ夜空が広がっている。
でもその空が今夜は、少し遠くに感じた。
アリスはそっと、机の灯火を落とした。
胸の内に広がる静かな痛みだけを抱きしめながら、
目を閉じる。
その奥にいる誰かの祈りに、いつか自分も応えられるように――
そんな思いが、ため息のように部屋に滲んでいった。
廊下には死の静寂が降り、ランプの炎さえもがちらつきを止めたかのように見えた。
レギュラス・ブラックは、アリスの杖をまだ手にしたまま、表情ひとつ崩すことなく立っていた。その瞳は氷よりも冷たく、声は墓石に刻まれた文字のように無感情だった。
「アリス」
名前を呼ぶ声に、一片の温もりもなかった。
「呪文は、あなたの杖から出ています」
その言葉が落ちた瞬間、アリスの膝が震えた。
何かを否定しようと口を開こうとするが、声にならない。
涙が頬を伝い、その雫が床に落ちる音だけが、静寂を破っていた。
「メイドを攫い、ポリジュース薬で姿を変えてブラック家に忍び込んだあげく――」
レギュラスの声は、まるで法廷で判決を読み上げる裁判官のように淡々としていた。
「騒ぎ立てたメイドを殺してしまった」
「違う……!」
ようやく搾り出されたアリスの声は、かすれて震えていた。
「私じゃない……私は何も……!」
しかし、床に横たわる動かないメイドの姿が、残酷な現実を物語っていた。
ホグワーツの制服を身に着けたその姿は、まるでアリス自身の罪を証明する証拠のようだった。
「アズカバンまでお連れしましょう」
その宣告に、アリスは崩れ落ちるように泣き声をあげた。
もはや言葉にならない悲鳴が、石の廊下に響く。
まだ幼さの残る少女の絶望が、空気を震わせていた。
アランは、その光景を見つめることができなかった。
膝から力が抜け、壁に手をついてゆっくりと座り込む。
頭を抱えるように俯き、肩が小刻みに震えていた。
(こんなことになるなんて……)
(私が助け舟を出したばかりに……)
自分の判断が招いた結果への後悔と、アリスを守れない無力感が、胸を締め付けていた。
そんな絶望に沈む二人を見下ろしながら、レギュラスは続けた。
「ただし――」
その言葉に、わずかな希望を見出そうとするかのように、アリスが顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、レギュラスを見つめていた。
「父であるシリウスの指示であったと口を割るなら」
冷酷な笑みが、レギュラスの口元に浮かんだ。
「アズカバン行きは、シリウスにして差し上げますよ?」
その提案は、まるで悪魔の囁きのようだった。
愛する養父を売るか、自らが罪を被るか――
究極の選択を、この幼い少女に突きつけていた。
アリスの唇が震えた。
シリウスの優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
毎朝作ってくれた朝食の温もり。
「お帰り」と迎えてくれる声。
それらすべてを裏切ることになるのか。
それとも、自分がアズカバンの冷たい独房で朽ち果てるのか。
「どちらを選ばれますか?」
レギュラスの声が、最後の審判のように響いた。
廊下に流れる時間だけが、残酷にゆっくりと過ぎていく。
アランは座り込んだまま、ただ祈ることしかできなかった。
この悪夢のような現実が、どうか終わってくれることを。
そして、まだ幼いアリスの心が、この選択によって永遠に壊れてしまわないことを――。
月明かりが窓から差し込み、三人の影を長く床に伸ばしていた。
その影は、まるで運命の糸に操られた人形のように、微動だにしなかった。
裁判所の石造りの回廊には、怒気と焦燥が入り混じった足音が響いていた。
シリウス・ブラックの足取りはあまりにも早く、後から続くダンブルドアでさえ追いつこうとしていたほどだった。
長い黒の外套の裾が、空を斬るように躍り、彼の吐く呼吸は明確な怒りの色を帯びていた。
「……テメェ、アリスに何しやがった……!」
重く閉ざされた法廷の扉がひらいた瞬間、その叫びは抑えきれず突き出された。
長髪が乱れ、凍り付いたような灰色の瞳が、まっすぐにレギュラスへ向けられる。
だが、レギュラスは振り返りもしなかった。
彼は静かに、整えられた姿勢のまま立ち尽くした。
法廷の中央にある石台のそば、すでに数人の監視官と魔法省の職員たちが張り詰めた沈黙を保つ中、あくまで淡々とした声音で答えた。
「……忠告はしたはずですよ、シリウス。
“ブラック”の名を背負うとは、どういうことか――」
その声には、怒りも冷笑も、何も乗っていない。
ただ、事実のみを諭す者のような、透徹した静けさだけがあった。
「……そんなもん知らねぇ……!」
シリウスの暴れだしそうなほどの怒気が、空気を震わせる。
銀の瞳には、ただ震えるほどの焦りと怒りが渦巻いていた。
「俺の娘が、アリスが、殺し!? 何をふざけた……!」
その言葉を遮るように、指をすっと……さながら羽根のように上げたのは、傍らにいたダンブルドアだった。
「……レギュラス」
その静かな呼びかけは、雷ではなく雪のように降りた。
「本当に、アリスが……人の命を奪ったというのかね?
私の知るかぎり、あの子ほど“命”に対して真っ直ぐな娘はいない。
……何かの間違いなのでは?」
ダンブルドアのまなざしは、優しさの奥に確かな疑問と責任を宿していた。
レギュラスの言葉を疑いながらも、まだ裁きの中に答えを探そうとしている。
だが、レギュラスは顔色ひとつ動かさず、ただ短く言った。
「……何が“間違い”なのでしょう?」
彼は掌をひるがえし、一枚の魔法証明用紙と記録球を宙に浮かせる。
「アリス・ブラックの使用していた杖。
最終発動呪文、“アヴァダ・ケダヴラ”。
……記録として保存されています。証拠は、揺るぎません」
淡々とした語調。
だが、その言葉ひとつひとつが場に重く沈み、シリウスの顔に戦慄が走る。
「……違う……あの子が……そんなもの、撃つはずない……!」
その声はかすれていた。
怒りが、悲しみに変わる手前。
「そんな子じゃないんだよ、アリスは……!」
傍らで、ダンブルドアはただ深く息を吐き、
魔法記録をじっと見つめていた。
其処に映されたのは確かに、アリスの杖から出た死の呪文。
けれど、そこに至るまでの「物語」は、誰にも記録されていない。
「書面には、真実は映らないものです」
静かに呟いたダンブルドアに、レギュラスは小さく目を伏せるだけだった。
「どこだ……アリスは……どこにいる!? 今すぐ会わせろ!」
シリウスの怒声がふたたび響く。
胸の奥の奥から、吠えるように。
ただ、あの小さな彼女のために。
だがレギュラスは冷静だった。
「それは、今後の公的判断によります」
「私情で動く法はありません。あなたが“父親”としてここへ来たのなら、
その父の背にある“責任”というものも、背負っていただくしかありません」
そして――言葉を滑らせるように重ねる。
「……仮に、アリスが“ブラック家”の名を使い、
その名のもとで罪を犯したのならば……その選択の責も、残る者に落ちるのが筋というものです」
銀灰のまなざしで、シリウスを見据える。
「……“父親”のあなたに――その名を、与えた者として」
法廷の光が、三人のあいだに冷たく滴っていた。
戦う想いと、守ろうとする愛と、貫こうとする誇り。
そのどれもが間違っていないようでいて、そして――
誰もが「間違っていないとは、言い切れない」場所に、今、立っていた。
屋敷の壁は、いつもよりずっと冷たく感じられた。
重厚な天蓋付きの寝室の奥、窓は固く閉じられ、出入り口には結界が張られていた。
アランは静かにその奥に腰を下ろし、胸に手を当てて、呼吸を落ち着けようとしていた。
けれど、落ち着くはずがなかった。
あの夜から――咄嗟に目を背けたくなるほどの記憶が、何度も鮮やかによみがえる。
レギュラスの腕が、迷いなく杖を振り上げ、死の呪文を放った瞬間。
その光の中で崩れ落ちたメイドの身体。
悲鳴を上げて泣きくずれるアリス。
何も言えずその場に崩れ落ちた、情けない自分。
何よりも、冷たいまま一切顔色も変えずにそれを“遂行した”レギュラスの姿が、目に焼き付いて離れなかった。
アリスにあんな仕打ちを。
まだ幼い、十五にも満たない少女に「殺人」と「アズカバン」を。
冗談でも、脅しですらなく――本気だった。
「……どうして」
喉の奥で、押しつぶされた声が洩れた。
目の奥が乾ききり、思考ばかりが逸れていく。
いまこの瞬間、アリスもシリウスもまだ裁判の場にいる。
レギュラスは、そのすべてに対して“何かを正す正義”のつもりで動いているのかもしれない。
けれど――
あの目は、人を守ろうとしている目ではなかった。
無慈悲で、無機質で、
ただ己の中の「正しさ」だけを見つめていた。
その目が恐ろしかった。
冷たく研がれ、何も映そうとしないような――
一度その眼差しを向けられたら、誰であれ生身で立ってはいられない、
そんな“暴力”にも似た視線だった。
かつて愛した夫。
誓いを交わし、共に命を生み、子どもたちを育てていこうと懸命に手を取り合ってきた人。
アルタイルの父として。
セレナを抱いた腕の温もりに、確かに慈しみを感じたはずだった。
なのに。
「……同じ人間なの?」
声にはならなかった。
でも、胸の中で静かに崩れていくものの音は、耳にこだました。
かつて触れた手の感触までが、もう冷たい鉄のように思えてくる。
信じていた。
レギュラスは“家の顔”として冷たくても、
家庭では守る者、父でいてくれると信じていた。
あの夜までは。
だけど、簡単に命を奪う人に、
裁きと罰を与えることだけに正当性を見出す人に、
今後、自分は一度でも「心を許せる瞬間があるのだろうか」
アランはそれが、恐ろしくてたまらなかった。
人としての大事な何かが、何一つ通じない人に変わってしまったような。
一瞬でも見誤っていたのかと思うと、自分の目さえ信じられなくなる。
(家から、出たい)
(子どもたちを、ここから連れ出したい)
そんな考えさえよぎった。
でも、それすら――許されないことを自らに言い聞かせていた。
結界の張られたこの部屋。
外と遮断され、閉じ込められている事実が何よりそれを物語っていた。
どこまで、彼は進んでしまうのだろう。
どこまで、あの“冷たさ”を貫き続けるのだろう。
振り返る姿をもう一度、信じられる日は来るのだろうか。
アランは、小さく震える手を胸にあてて膝を抱いた。
ただ、震える心臓の輪郭を確かめるように。
呼吸だけが、やっとのことで続いていた。
けれど――
それ以上、何もかもが崩れていってしまいそうで、
その床に、誰にも届かない涙が静かに落ちていった。
屋敷の奥深く、閉じ込められた寝室で、アランは静かに震えていた。
結界に囲まれた天蓋の下、窓は固く閉ざされ、外の音すら届かない。
手にした薄い伝達――それは、シリウスからの便りではなく、アリスが危険な状態にあることを告げる屋敷の使用人からの知らせだった。
アズカバン。
その名前を目にした瞬間、アランの胸は締めつけられるように痛んだ。
アリスが――あんなに幼い、まだ十五にも満たない少女が。
冷たい独房で、光も希望もない場所で、
たったひとりで恐怖に震えているのかもしれない。
涙がひとつ、枯れきったと思っていた瞳から落ちた。
繋がれた三つの命
アリスを、まるでアランと3人で繋いだ命だと言ってくれた
シリウスの言葉が、記憶の奥から蘇る。
あの日、彼が微笑みながら語った言葉。
アリスという存在が、引き裂かれた二人の間に新しい愛の形を築いてくれたのだと。
過去に戻ることはできない。
失われた時間も、叶わなかった未来も、取り戻すことはできない。
でも――アリスという命を通して、私たちは確かに家族になれていた。
あの子の笑顔を見つめているとき、
アランとシリウスは、かつて夢見ていた未来の断片を確かに見ていたはずだった。
アリスの成長を見守ること。
彼女の成功を共に喜ぶこと。
いつか彼女が大人になって、自分の家族を築くときを想像すること。
それは、三人だけの静かな奇跡だった。
失ってはならない光
そんな彼から、もう何も奪わないで欲しい
アランの声は、誰にも届かない祈りのように空気に溶けた。
シリウスは、すでに多くを失ってきた。
家族との絆。
故郷への帰属。
若い日の夢。
そして、愛する人と共に歩む未来。
その彼の人生に、ようやく灯ったひとつの希望の光――それがアリスだった。
アリスが話してくれた事があった。
朝、彼女を起こしてくれるシリウスの優しい声。
夜、宿題を見てくれながら交わす何気ない会話。
ホグワーツから帰ってくる彼女を、まるで本当の父親のように迎えてくれる瞬間。
きっとそれらすべてが、シリウスにとって生きる理由そのものだったのだと思う。
もしアリスを失えば――
もし彼女がアズカバンの冷たい石牢に閉じ込められてしまえば――
シリウスの世界から、最後の温もりさえも奪い去られてしまう。
アランは膝を抱え、小さく身を丸めた。
本当の母親ではないけれど、アリスを我が子のように愛してきた。
あの細い肩を抱きしめたときの温もり。
「アランさん」と慕ってくれた、あの純粋な瞳。
子どもは、大人の都合や政治的思惑に巻き込まれるべきではない。
アリスがしたことは、確かに軽率だったかもしれない。
でも、それは愛から生まれた行動だった。
シリウスを安心させたくて、アランの無事を確かめたくて――
ただそれだけの、純粋な想いから。
そんな幼い心を、冷酷な現実で打ち砕こうとしている。
「シリウスからアリスを奪わないで欲しい」
その言葉と共に、アランの頬を涙が静かに伝った。
涙は止まらなかった。
レギュラスへの恐怖も、自分の未来への不安も、すべてを飲み込んで、
ただ愛する人たちの幸せを願う気持ちだけが溢れ出していた。
かつて愛し合った二人が、今は違う道を歩んでいても。
運命が彼らを引き裂き、それぞれ別の人生を歩むことになったとしても。
アリスという存在だけは、二人を繋ぐ永遠の絆だった。
その絆を断ち切ろうとする現実が、あまりにも残酷だった。
窓の外では夜が深まり、星々が静かに瞬いている。
アランは天井を見上げながら、心の奥で静かに祈り続けた。
どうか、この涙が誰かに届きますように。
どうか、アリスとシリウスの未来に、再び光が差しますように。
そして――
どうか、愛することの美しさが、憎しみに勝ちますように。
閉ざされた部屋の中で、アランの祈りは夜空へと昇っていった。
それは、母としての愛であり、女性としての慈しみであり、
人間として最も純粋な願いだった。
涙は流れ続けた。
けれど、その涙の一滴一滴に、希望という名の光が宿っていた
重たく閉ざされた扉が、鍵の音もなく静かに開いた。
光の塊が細く射し込む。部屋の空気は冷え、長いあいだ人の温もりが留まったまま澱んでいた。
レギュラス・ブラックは、その場に相応しい無言の威厳を纏ったまま、ゆっくりと歩を進めた。
足音は絨毯の上に沈みこみ、音もなくアランの寝台脇にまで届く。
そこにいる彼女は、呼吸さえ頼りなくなるほどに、静かだった。
泣きつかれてそのまま伏していた身体が、
レギュラスの気配に反応して、小さくよろめくように起き上がる。
手が震え、頬は蒼く、目の奥は擦り切れたように疲弊していた。
レギュラスは、腰を屈めず、ただ低く静かな声を落とした。
「……無理をしないでください」
その声は、たしかに「気遣い」のかたちをしていた。
けれど――
アランには、その音色ひとつひとつが、余計に胸を締め付けた。
(この人が……)
この同じ唇で、躊躇なく死の呪文を唱えたのだ。
人を殺すその瞬間さえ、微塵の感情の揺らぎも見せなかった男が――
その唇が、いま、自分を「案じている」と言うのか?
言葉と事実があまりにもかけ離れていて、
アランのなかでは、心と身体がバラバラに振動していた。
綺麗な音だけが、壊れかけた香炉のように空を彷徨っている。
ベッドに凭れかかったまま、アランは唇を動かした。
声にならない聲を、数度繰り返し、ようやく細い音がこぼれた。
「……レギュラス、お願い……」
喉の奥から絞り出すような、掠れた声だった。
声帯ではなく、魂そのものからの乞いだった。
レギュラスはその言葉に、わずかにまつげを伏せる。
けれど、それに何も応えず、淡々とした調子で言葉を返した。
「……無理ですよ」
「裁きを下すのは、あくまで裁判官ですから」
それだけだった。
あの公的で冷たい言葉に、わずかでも躊躇いや痛みの色が含まれているのか――
アランの目では、もう分からなかった。
扉の向こうと、寝台の上。
ほんの数歩しか離れていないはずなのに、
そのあいだに横たわる距離は、世界と世界の差にすら感じられた。
この人はもう、戻ってこないのかもしれない。
レギュラスはそこに立っているのに、
もう触れられないほど、遠くへ行ってしまったような感触だけが、胸に残った。
アランは目を閉じた。
自分の身体がますます冷えていくのが分かった。
ただ一言の願いも、彼には届かない。
その空しさだけが、部屋に残っていた。
ふたりの影が、月明かりのなかで交わることなく、
静かに――それぞれの孤独の中に、沈んでいった。
月の光が石の床に薄く射し込み、寝室の奥を静かに染め上げていた。
その淡い光の中、アランは静かに、けれど確かな意志をもってひとつの行動に出た。
ゆっくりと、ベッドから身を滑らせるように降りる。
ぐらつく脚を無理やり制しながら、そのまま……レギュラスの足元へと、膝をついた。
振るえる吐息。
両手がそっと床につき、石の冷たさに指先が静かにかすめた。
「……お願い、レギュラス」
絞り出されるようなその声には、もう気高さも言葉の矜持もなかった。
ただ、胸の奥から生まれた、願いだけだった。
涙があふれて止まらなかった。
次から次へと底から湧いてきて、頬を打ち、顎を伝って胸元の布を濡らす。
「どうか……どうか、アリスを……シリウスを……これ以上、罰しないで……」
「奪いたくないの。あの人から。あの人の……“太陽”を……」
こぼれた言葉が、床に伝って広がっていく。
傷ついても、間違っても、その人はいつも笑っていた。
豪奢な部屋にも、厳格な血にも染まらない、柔らかく明るい世界を持った――
愛したシリウス。
シリウスがアリスという名の子を慈しむ姿を、アランは何より知っている。
その陽だまりを奪うことが、どれほどの哀しみを呼ぶか。
それに手を添えることなど――自分にはできなかった。
「シリウスが――陰るのが嫌なの……
あの人が、あの人らしくなくなるのが……怖いの……」
指先が、わななく。
滴る涙がその手を濡らし、冷たい床に広がっていく。
静けさのなか、レギュラスはなにも言わなかった。
ただ、その真正面に跪く妻の姿を、目に映していた。
やがて、乾いた声がひとつ、落ちた。
「…… アラン、……やめてください」
言葉に怒りも戒めもこもってはいなかった。
けれどその響きは、あまりにも真っ直ぐで――遠かった。
崩れ落ちたようなアランの姿に、
レギュラスの表情はほとんど変わらなかった。
眉ひとつ動かさず、視線を逸らすことなく、凍ったような瞳のまま立ち尽くしている。
囁くような「やめてください」に、
哀切や迷いはなかった。
むしろ彼にとって、それ以上の懇願を受け止める必要を感じていないようにも、見えた。
は涙に濡れながら、顔を上げることができなかった。
わかっている。
この人には、もう届かないのだ。
それでも、最後の願いの祈りだけが、
指先と床と、こぼれる涙のなかに、確かに残されて――
静寂が全てを呑み込むように、部屋はまた、深い闇に沈んでいった。
部屋には薄い月光が降りていた。
結界が緩められた寝室の窓際から差し込む光が、アランの枕元を白く照らしている。
そこには静かに佇むふたりの影。
交わした言葉の静けさの分だけ、悲しみが深く沁みわたっていた。
「レギュラス、あなたは……いまでも、私を……愛してる?」
その問いは、まるで自分でも気づかない間に零れ落ちたように、静かだった。
審判を下すようでもなく、すがるようでもない。
ただ、確かめたかった。
その奥にある真実が、これからの決断を支えるための灯になるかもしれないと想ったから。
数秒の間が落ちた。
レギュラスは彼女の目を見て、噛みしめるように頷いた。
「ええ。今も、昔も。……これから先もずっと、変わりません」
その言葉に、嘘はなかった。
声はかすかに震えていたが、静かな確信が宿っていた。
それは、あの激しい夜を越えてなお残った“唯一の本音”だった。
アランは静かに目を閉じた。
月の光がまぶたに揺れて、影が頬に落ちる。
「……あなたにとっての私は……
――光に、なれているのかしら」
自信があるわけではなかった。
ただ、心の揺れも、痛みも隠さず、彼女は尋ねた。
それを聞くこと自体が残酷だと分かっているからこそ、
一歩を踏み出す覚悟が必要だった。
それでも知りたかった。
レギュラスの心の最奥に、自分という“存在”がどう残っているのか。
彼はほんの少しだけ目を細めて――囁くように答えた。
「もちろんです」
「……どんな時でも。
アラン、あなたは……僕の“光”です。
あなたがいなければ、生きている意味などなかったでしょう」
その声を聞いたとき、アランは小さく息を吸い込んだ。
胸の奥に湧いたあたたかさが、ひとしずく涙になって目の縁を濡らす。
けれど、そのまま沈黙を長く引きずらぬよう、彼女は静かに立ち上がった。
細い身体に、今にも崩れそうな痛みを宿したまま。
けれど、背筋をただすその姿には、ひとつの凜とした覚悟があった。
そして―― アランは自分の杖を手に取った。
小さな掌で、けれど確かな決意とともに握りしめて。
「……なら、私を愛しているのなら……」
「レギュラス、あなたに最後にお願いしたいことがあるの」
「……シリウスとアリスを、どうか……救ってください」
その言葉は、あまりにも静かだった。
命乞いではなかった。
懇願ではなかった。
祈りだった。
すべての愛と誇りを託して、かつて愛した人物へ、
〈人〉として、最後に願えること――
それがこの一言だった。
レギュラスは、アランのその言葉に何かを感じ取った。
眉がかすかに動き、喉の奥から微かな呼吸が洩れる。
ゆっくりと彼は目を細める。
そのまなざしの中には言葉にできない衝撃と、
理解までの一歩手前をさまよっているような、戸惑いがあった。
そして次の瞬間――
アランは、杖の先を……自分自身の胸元に向けた。
吐息が張り詰めた空気を震わせる。
レギュラスの瞳が大きく見開かれた。
「…… アラン……?」
声がかすれる。
「このままでは……きっと、あなたは誰も赦さない……
アリスも、シリウスも、そして――きっと私自身も」
「だったら……私は――」
その続きを言う前に、唇が震え、押し殺すように目を閉じた。
涙が一筋、頬をなぞって落ちる。
「――私ごと、止めてください。
もし、あなたが、あの子たちへの“裁き”を下すというのなら。
私をその手で……同じように終えてください」
空気がすべて凍りつき、時さえも止まったように静まり返る。
レギュラスの手が、わずかに震えた。
アランの言葉が彼の胸に突き刺さっていた。
例え狂気と思われても、自分の命という最後のすべてを賭けてまでも、誰かを守ろうとする――その決意が。
そして、ただ、ひとつ問いかける想いだけが、2人のあいだに残っていた。
「私は、あなたの“光”なのか」、それとも――
「あなたが信じる“正しさ”の前には滅びるべき存在なのか」
答えは、まだどこにもなかった。
けれど、月光はただ静かに二人を照らし続けていた。
揺るがない覚悟と、変えられぬ想いが交差する、その瞬間の永遠を抱くように。
月の光が寝室の床を白く塗り、跳ね返るように浮かび上がったアランの影は、あまりにも細く儚かった。
その胸元に向けられた杖。
それは誰かに向けられたのではなく、
明確に自分自身を終わらせる意図を帯びた闘志だった。
そして、目の前でそのすべてを目の当たりにしたレギュラス・ブラックは、
生まれて初めてと言っていいほど、目に見える動揺をあらわにしていた。
「アラン……!」
その名前を呼ぶ声は、空気を震わせるほどに掠れていた。
音が裏返っても気にせず、息が浅く、今にも崩れそうな声――
確かに宿っていた。
「……馬鹿げたことを、言うのはやめてください」
言おうとする言葉の輪郭が、喉で崩れ落ちる。
それでも、絞るようにようやく出た否定の言葉だった。
その言葉に込められたのは、怒りや咎めではなかった。
それは恐怖だった。
しなやかな指先を離れ、魔法の軌道を描きながらレギュラスを守ってきた“正しさ”の面が、
今、彼に向けて刃のように跳ね返ってきていた。
(なぜ、あなたが……自らを捧げてまで……)
(そんなことを思ってしまうほどに、僕の手は……)
アランの全身に宿る覚悟は、花びらのように柔らかいのに、
その意思の固さは、レギュラスの“正義”など脆く踏み砕くほど、ひたむきだった。
そして、彼は思った。
「まさか、自分のこの愛情を――」
そうだ、自分がずっと信じていたもの。
「愛している」と言う、この確かな気持ち。
子をなし、日々を共にし、彼女に届けてきた言葉たち。
まさか、それが“裁き”と“赦し”の天秤にかけられる日が来るとは――
思ってもみなかった。
あまりに、誤算だった。
つかみ所のない正義ではなく、
誰よりも真摯で、命を捧げようとするほどに他人を想う、
この人の「愛のあり方」の方が、はるかに正しかった。
自分が振りかざしてきたものが、一気に足元を崩していく。
頭で理解するより先に、
レギュラスの心は、深く、深く揺れていた。
「…… アラン」
その手を、呼吸を、想いを、取り戻すようにして。
彼はようやく半歩、アランに近づこうとした。
手を差し出すでもなく、ただ、彼女の心に触れようと
震える魂で、言葉を探していた。
静まり返った寝室、重く張り詰めた空気のなかで、レギュラス・ブラックは動けずにいた。
目の前で、自らの胸元に杖を向けたアラン。
涙に濡れながらなお凛と立ち、覚悟のすべてをその身に宿していた。
言葉にならなかった。
「私を愛しているのなら」
その一言が、音になって放たれた瞬間、
レギュラスの背筋には鋭く見えない刃が落ちたようだった。
時が止まったかのような沈黙のなかで、やっとのことで絞り出されたのは――
「…… アラン、やめてください」という、掠れた声ひとつ。
だがその声も、アランの覚悟を撓ませるには、あまりにも脆かった。
そして彼は……気づいたのだ。
──もう、自分が折れるしかない。
その現実を、否応なく突きつけられていた。
想像もしなかった。
まさか、アランが――あのアランが、
自分の命を引き換えにしてでも何かを求めてくるなんて。
その手に今日まで何度も触れてきたというのに。
あの瞬き、あの微笑みに、一度もそんな影を見せたことがなかったというのに。
あの人が本気で、「自分を終わらせてもいい」という顔をするなどと――
考えたことさえ、なかった。
そして同時に、分かってしまった。
あの人の覚悟の前に、自分など敵うはずがないのだと。
彼女の涙ひと粒が、すべてを瓦解させる強さを持っている。
あれほど頑なだった自分の裁きも、正義も、“名”すらも、
今、崩れつつある。
「……わかりました」
その声は、自らの喉元を裂くようにして、ようやく出た。
それは降伏の言葉ではなく、
愛にすがることの異様なまでの、屈辱の宣言だった。
「……あなたがそこまで言うのなら。僕にはもう――」
「……それを呑むしか、選択肢はありませんよ」
足元が崩れ落ちるようだった。
自分はアランを愛していて、手放せるわけがなかった。
その事実が、すでに“檻”になっていた。
身を割っても離せないものを、自らの正義ではねのけられるほど、
彼はもう、冷たくはなかった。
アランに屈するということ。
いや、その表面だけではなかった。
一番の屈辱は――
その「愛情」を、アラン自身に使われてしまったことだった。
「愛しているあなた」ではなく。
「愛するあの人のために、折れてほしい」と――。
血脈に背き、家に背き。
でも守ろうとしてきたものは、アランただひとりだったのに。
そして、その彼女の口から、
「シリウスと、あのマグルの娘を救って」
――そう投げられたのだ。
それは愛情を“逆手に取られた”に等しかった。
心の奥で、誇りが裂けた音がした。
レギュラスはただ立ち尽くしたまま、アランを抱きしめることもできなかった。
目の奥に、熱でも涙でもない――割り切った痛みだけが澱のように残っていた。
こんなに従わされて、よるべなく縛られて。
なのに「愛していたから仕方がなかった」と、
その言葉ですべてを正当化せねばならない。
なんて惨めな愛だろう。
でも、それでも。
――彼は、従うしかなかった。
かつて“正義”と呼んだものは砕け散り、
いま胸の奥に残ったのはただひとつ。
「アランのそばに、これ以上の涙を流させたくない」
その思いだけだった。
部屋を包む沈黙の中で、レギュラスはようやく小さく目を閉じた。
そして、自分のすべて――誇りも信念も“ブラック”の名も、その夜だけは床に置き去った。
夜のブラック家は静かだった。
重厚な廊下も、煌びやかな灯も、その夜だけは息を潜めているかのようだった。
情報筋によってまとめ上げられた報告書は、事のすべてを「偶然が重なった事故」として処理した。
それが“最も穏便で無難”な着地点だった。
そう言われて、誰もそれ以上の追及を望もうとしなかった。
アリスも、シリウスも――何ひとつ罰されなかった。
レギュラス・ブラックは、それを黙って受け入れた。
いや、正確には――「投げ出した」のだった。
「……それで、アランが満足だというのなら」
まるで、自分の中から何か大切な灯火が消えたかのような声音で、彼はそう呟いた。それは答えでも妥協でもなく、諦めの響きを纏った言葉だった。
長い廊下をひとりきり歩く。
誰にも告げず、自室の扉を閉じる。
扉が軋む音さえ、酷く重く感じた。
手袋を外すように、ひとつずつ身に着けていたものを外し、ローブも、上着も、きちんとされた整えも、ただ床へと落とすように脱ぎ捨てた。
そこにはもう、“家”を保つ者としての顔は、一切必要なかった。
窓辺にゆるやかな風が触れ、カーテンが揺れる。
レギュラスは背を壁に預けたまま、ゆっくりと座り込んだ。
絨毯の触感が指先に広がるが、それすら現実味がなく思えた。
空虚だった。
何もかもが。
愛した女性の願いを叶えて、結果として「家族」は守られた。
けれど、守る過程で自分の“信念”の骨は、確かに折れていた。
あれ以上に何も譲るつもりはなかったのに。
あれ以上に誰かに屈することは、もう無いと思っていたのに。
最後に心を折ったのは、“愛”だった。
自らの「好き」という想いが、自分の正義を埋葬した。
その虚しさだけが、胸に冷たく居座り続けた。
ローブの袖に顔を伏せて、目を閉じる。
アランのあの泣き顔。
震える声。
命を捧げてまで、訴えかけたそのまなざし――
その全部が、どうしようもなく愛しく、どうしようもなく残酷だった。
守れたのかもしれない。
でも「自分」はもう、そこに居ないような気がした。
誰の前でもなく、何の証明もなく、
ひとりきりで、ただ、崩れていく心の静けさを受け止め続けた。
風の音ひとつにさえ、傷が沁みるようだった。
それほどまでに、レギュラス・ブラックの夜は、
深く、そして冷たく沈んでいた。
朝の日差しが窓を通り抜け、寝室に薄い光を落としていた。
アランは枕の上で静かに身を起こし、その光の中に佇んでいた。
レギュラスが全てを許してくれた。
アリスもシリウスも、罰を受けることはなかった。
それは確かに――最大の安堵だった。
胸の奥で、ひとつの重石が静かに取り除かれたような感覚。
あの夜、杖を自分に向けた時の絶望が、ようやく遠のいていく。
けれど。
同時に、アランは気づいていた。
夫婦としての――大切な何かが、きっと崩壊してしまったことを。
忘れられなかった。
あの時のレギュラスの顔。
いつも端正で、誇り高く、どこか遠くを見つめているようなあの表情が、
あの夜だけは――悲しいほどに青ざめていた。
絶望に満ちた瞳。
震える唇。
「わかりました」と言った時の、まるで何かが死んだような静けさ。
あれは、彼の中で何かが折れた瞬間だった。
そしてその「何か」を折ったのは、他でもない――自分だった。
「愛しているなら、シリウスとアリスを救って」
そう頼んだ時、アランは確かに勝利を感じていた。
彼の愛情を盾にして、大切な人たちを守れると思った。
だが今になって、その代償の重さが胸に沁みてくる。
レギュラスの誇りを。
彼の信念を。
彼が「正しい」と信じていたものすべてを、踏みにじってしまった。
どのように報いればいいのだろう。
何を差し出せば、受け取ってもらえるのだろう。
アランは手のひらを見つめた。
この手で触れても、もう彼の心には届かないかもしれない。
この唇で愛を語っても、もう響かないかもしれない。
彼が今、何を求めているのか――
それすら、分からなくなってしまった。
謝罪だろうか。
それとも感謝だろうか。
あるいは、もうこれ以上何も求めてはいないのだろうか。
レギュラスはもう、自分を見る時の目が変わっていた。
愛しさと共に、どこか諦めのようなものが宿っている。
まるで「もう何を言っても無駄だ」と悟ったような――
そんな遠い眼差しをしている。
アランは膝を抱えるようにして座り込んだ。
胸の奥が痛かった。
守りたい人を守れた喜びと、
愛する人を傷つけてしまった痛み。
その両方が胸の中で複雑に絡み合って、
どちらが正しかったのか、もう分からなくなっていた。
窓の向こうで鳥が鳴いている。
新しい朝の始まりを告げるように。
でも、アランの心には――
まだ深い夜が残ったままだった。
彼に許してもらえる日は、本当に来るのだろうか。
そして、夫婦として再び歩めるような、そんな道は――
まだどこかに残されているのだろうか。
朝の光が頬を撫でていくが、その温もりすら、
今は冷たく感じられてならなかった。
月の光が寮の窓辺に落ちていた。
アリスは、机の上に封じられた処分通知の写しをぼんやりと見つめていた。
“全てが許された。”
その一文が、滲むように目に浮かぶ。
レギュラス・ブラックが、“それは事故であった”と魔法法廷で署名したという。
その文字だけが、ほんとうの現実として、胸に沈んだ。
しかも、保釈金まで——彼が支払ったと。
驚きは、なかった。
ただ、信じられなかった。
あの男が、そんなことを誠意で行うわけがない。
あの目を知っている。
あの氷で切るような声音を覚えている。
それでも、現実は動いたのだ。
だから分かった。
―― アランが何かを差し出したのだ。
きっと命を削るような声でお願いしたのだろう。
何を差し出してでも、守ってください――と、そう言ったのだろう。
孤児院を襲撃され、恐怖と混乱のなか泣いていた幼い自分を、
あの人はかつて命がけで逃がしてくれた。
今回もまた、
あの優しくて強い人は、自分を守ってくれた。
何ひとつ告げることもなく、
何ひとつ知らせることもなく。
誰の手柄にもされぬまま、
静かに、すべてを背負って。
アリスは、これまで息を張りつめさせていた心が、
すとんと崩れていく感覚に包まれた。
伝えたかっただけだったのに。
アランが無事だと、シリウスに安心してもらいたかっただけだった。
ほんの少しでいい、話すことができたらと
……それだけを、願っていたはずだった。
些細なことだった。
扉の前で笑ってくれたなら、それだけで。
だけど――それすらも、望みすぎだったのだ。
壊れかけた家庭。
命を削って守り合っている誰か。
積み上げられてきた長い時間の中に、
アリスがほんの指先一歩を踏み込んだだけで、
どれだけ大きな崩れが起きるのか、何も分かっていなかった。
あの屋敷の重さ、
その血に連なってしまった自分の名前の重さも。
今日、ようやく知ったように思えた。
――自分は、なんて無力で、なんて愚かだったのだろう。
窓の外に星がまた瞬いていた。
ただ静かに、澄んだ夜空が広がっている。
でもその空が今夜は、少し遠くに感じた。
アリスはそっと、机の灯火を落とした。
胸の内に広がる静かな痛みだけを抱きしめながら、
目を閉じる。
その奥にいる誰かの祈りに、いつか自分も応えられるように――
そんな思いが、ため息のように部屋に滲んでいった。
