3章
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大広間に煌びやかな光が満ちていた。
暖炉の炎が天井の金のレリーフを柔らかく照らし、銀器のひとつひとつが揺らめく光を映している。
絹の裾を引く貴婦人たちと、一様に高貴な装いを纏った紳士たちが、ぽつぽつと輪を作り、笑い声が花のように広がっていった。
それは、セレナ・ブラックの誕生を祝う夜だった。
豪奢な晩餐と祝杯、居並ぶ魔法界の名家たち。
形式上は、アルタイルのときと同様に華々しく、何の遜色もない祝賀会。
それでも、会場の光の中には、ひとつ決定的な「不在」が漂っていた。
── アランは、この場に姿を見せなかった。
いや、現せなかったのだ。
産後の深い疲弊は癒えぬまま、今日も彼女は寝台の上、静かに灯りを見つめているのだろう。
その胸に残る痛みと、言葉にできない葛藤を、誰にも見せることなく。
けれど、そんな彼女の慈しみから生まれた娘は、
今、オリオンとヴァルブルガの腕に抱かれて、祝福の中心にいた。
セレナは、まだふにゃふにゃと霞んだ意識のなかで、
花の香と賛辞のざわめきに包まれながら、
ふっと口角をあげて、小さな微笑みを浮かべた。
軽く波打つ黒髪、すでに整った目元のライン。
抱く者の誇りと来賓の関心が、その微笑みに一斉に集まっていた。
「なんとまあ……夫人によく似ている」
「将来は国を揺るがすほどの美貌となるだろう」
「おや、どこの王子が先に手をあげることやら」
浮かぶのは、まだ言葉も話せぬ一人の娘へと向けられた“未来という名の取引”の兆し。
政治と家名の延長上に置かれた、まだ何も知らない小さな命。
レギュラスはその輪から少し離れた位置に、端整な面持ちのまま立っていた。
浮かべる笑みは、控えめに、あまりにも見事に整っていた。
けれどその胸は、冷たい違和のようなもので、ひそやかに疼いていた。
ふと、手元の裾を引かれる。
「……パパ」
見上げるとアルタイルがいた。
正装に身を包み、けれどその表情はどこか翳っていた。
「……どうして、セレナは、産まれたばかりなのに……もう、けっこんの話が出るの?」
小さな声だった。けれど、それは確かな戸惑いと、不安だった。
レギュラスは、言葉を探す。
けれど何を言っても、それはどこか偽りの説明になる気がして、
ただ薄く笑顔を浮かべ、頭に手を乗せた。
「……みんな、ちょっと……話が早いだけですよ」
アルタイルの髪をそっと撫でながら、彼の小さな肩に手を置くと、少年は納得のいかない顔をして、それでも黙ってうつむいた。
レギュラスの視線は、自動的に――
今、階上で休んでいるはずのアランへと向かっていた。
この声が、あの人の耳に届かずにいてよかった。
そう思ったのと同時に、
こんな声が交わされる場所に、彼女は来るべきではなかったとも思った。
この場にいない彼女の不在が、
この場にいる誰よりも、確かに“ふたりの子どもたち”に寄り添っている。
そう感じられてならなかった。
レギュラスはアルタイルの手を握りながら、遠くで微笑むセレナを見つめた。
――あの小さな瞳に映る未来が、決して誰かのための「駒」でなくて済むように、
遠く離れた場所で必死に戦ってくれた名も無い母の声だけは、
この子のなかに、ひと粒、宿りつづけていてほしいと――
そう、静かに願っていた。
大広間に流れていた音楽も笑い声も、遠い記憶のように静まり返っていた。祝賀の幕は降り、屋敷に再び静寂が戻っている。レギュラスはゆるやかな足取りで寝室へと向かった。絨毯を踏む微かな音すら、重たく深く心に響く夜だった。
扉を開けた寝室には、かすかな灯が残されたままだった。
思いがけず、ベッドの上の人影がゆっくりと顔を上げた。
「……起きていましたか」
思わずそう声をかけると、アランは薄く微笑んでレギュラスを見上げた。
「ええ。セレナの寝顔を……少し、見てきましたの」
その声は、まるで月明かりのように静かだった。
レギュラスは扉を背にして部屋の空気へと身を沈ませるように、ベッドの端に腰を下ろした。銀糸の刺繍のほどこされたシーツが音もなく沈む。
「お疲れでしょう」とアランは言ったが、その声にも固さはなかった。
レギュラスは、アランの頬にかかった一筋の髪をそっと払ってから、長くためらうことなく唇を寄せた。
額ではなく、髪でもなく、彼女の口もとに。
温かなキスだった。
だが、ほんのりと赤ワインの香りが混じっていた。
アランは小さく笑って、目を伏せた。
「……ワインの味がします」
レギュラスは少しだけ口元に笑みを浮かべる。
「……ナルシッサが、いいワインを持ってきてくれましてね。
“これは小さな姫君の誕生にふさわしいわ”と、誇らしげでしたよ」
アランは頷きながら、そっと目を伏せたまま言った。
「……そう。美味しかったのでしょう?」
レギュラスは、その言葉の隅にあるわずかな寂しさを、聞き逃すことなどできなかった。けれど、無理に慰めるようなことは言わなかった。ただ、繋がれたままの手に、僅かに力を込める。
「……祝賀会に、あなたがいないのが――物足りなかったです」
アランは、そっと微笑んだ。
「でも、行かなくて……よかったのね、と、思ったの」
「祝いの場に相応しい気持ちが、まだ、戻ってきてくれないから……」
言葉は落ち着いていたけれど、ほんの少し涙のにじむような熱が含まれていた。
レギュラスは何も言わず、それでもはっきりと見つめた。
声をかけるよりも、黙って寄り添うこと。
それが今夜の答えだと、ふたりは痛いほどに知っていた。
アランの背に手を回し、小さく、自分の胸へと寄せた。
頭のてっぺんにキスを落とす。
グラスの底に残る澄んだ赤のような沈黙が、ふたりの間にやさしく満ちていた。
それは、どこにも語られずとも確かに“ともにあれる奇跡”の時間だった。
夜のしじまが都市に降り始め、霧雨に濡れた石畳の路地を轍のように光が滲ませていた。
レギュラス・ブラックは、灰色に沈む空の下で長いマントの裾を曳きながら、地面に残る細い魔法痕の余韻を見下ろしていた。
粛清の対象となったのは、マグルとの混血魔法使い。
純血の若者をひとり、許しがたい呪文で殺めたという容疑がかけられていた。
死の呪文――アヴァダ・ケダヴラ。
その最終呪文の痕跡が、容疑者の杖の芯に微かに記録されていた。
不可逆な魔法の痕。それだけで、すべての疑いは“事実”として立ち上がる。
「冤罪では?」とささやく声もあった。
けれどそのマグルは、ひどく往生際が悪かった。
震える声で必死に否定を繰り返す姿に、
レギュラスは冷ややかに眉をひそめながら、ただ一つだけ思う――
お前には、誇りがない。
生き残ろうとする声は醜く、信念もなく、ただ命にすがるだけの音だ
その姿に息をもらすことすら、彼には不快だった。
静謐に任務を終え、焚き消されるように魔法を収束したそのとき、
そんな緊迫感を打ち消すような軽い声が、すぐ傍から響いた。
「……そういえば、君の奥様、体調が悪いんだって?」
言葉の主は、バーテミウス・クラウチJr.だった。
相変わらずの無遠慮な笑みを浮かべ、一切の空気を読まぬようでいて、妙に人の急所を心得ている話し方だった。
冷たい雨と魔法の残照がまだ身を濡らす中で、その言葉はひどく場違いに聞こえた。
レギュラスは表情を崩さず、ほんのわずかだけ間を置いてから言った。
「……ええ。少し伏せってますね」
できるだけ乾いた調子で返した。
社交的な笑いも誇張も排した一言だった。
それをどう受け取ったか知れないまま、バーテミウスは「そうか」と頷き、鼻で愛想をつくったかと思えば、軽く口元を緩める。
「じゃあ……帰りに寄っていくところがあるんだけど。少し、一緒に――」
「――結構です」
レギュラスの声は、あくまで丁寧に、しかし明確だった。
言葉を遮ったのは反射ではなく、明らかな拒絶の意志だった。
バーテミウスの背がわずかに揺れた。
だが、心に響いたかは定かでない――彼はすぐに何事もなかったように肩をすくめて、「じゃあまた」と呟き、霧雨の向こうへ消えていった。
残されたレギュラスは、一歩も動かずその背を見送った。
娼婦の街。
そういうことだ。
“気晴らし”だの、“疲れをほどく”だの、それらしい言い訳で誘ってくる。
だが、それはただ、なんの価値も誇りもない女たちと、無目的に身体を交わすということに他ならない。
なぜ、生まれも名も知らぬ者と、そこまで容易く交わるのか。
血の重み、家名の誇り、ひとつの命の意味さえ考えずに、
ただ欲望に任せて行く先に、何の責任があるというのか。
それを忌まわしいと思うことは、理屈ではなかった。
理解し得ぬ。それだけだった。
霧雨のなか、マントの裾を払うようにレギュラスは踵を返した。
思い浮かぶのは、上階の静かな部屋に伏すアランの姿。
身体は痩せ、血の気は薄く、それでも黙って、声ひとつ漏らさず娘を育てようとするその気高さ。
その傍にいま自分がいないという事実が、胸にじくじくと染みる。
せめて今からでも、ただ真っ直ぐに帰ろう。
けして清らかな世界ではない。
だが、自分自身とその妻が、その“穢れた命の交錯”に染まらぬよう。
せめて、自らの意思だけは、尊くあろうと――
レギュラスは、霧のなかに静かに歩を進めた。
遠ざかる街の明かりとは対照的に、その眼差しはひたすら誠実な光に向いていた。
屋敷の扉を静かにくぐると、玄関先にふわりと香るのは、やわらかな花の香と、乾いた空気にまじる家の匂いだった。
レギュラスがローブを脱ごうとしたその時――
「おかえりなさい」
その声が、まるで音楽のように廊下から届いた。
そこに立っていたのはアランだった。
やわらかい色味のショールを肩にかけ、髪はゆるくまとめられている。
その姿は、まだ万全とはいえない儚さを滲ませているのに、どこか確かに希望の光を帯びていた。
「アラン……」
その名前を口にするレギュラスの声は、ごく自然に、空気に溶けた。
無事でいてくれた――ただそれだけで、肩の力がすっと抜けた気がした。
けれど、やはり気がかりは拭えない。
「……起きてきて、大丈夫なのですか?」
問う声には、彼自身気づかぬほどの小さな震えが宿っていた。
アランはその問いに微笑むと、優しく頷いた。
「今日は、ほんの少しだけ調子が良いのです」
そう言って、手にした小さな銀のトレイごと、カップをひとつ差し出してきた。
「どうぞ」
カップからは、ふわりと甘く、すこし刺激的な香りが立ちのぼった。
レギュラスは眉をわずかに寄せ、鼻を近づけてみる。
「……ワインの匂い……?果物が……たくさん……これは、いったい」
アランはくすりと笑った。
「ナルシッサにいただいていたワイン、少し残っていたのを、果物と一緒に煮詰めたの。
プラムといちじくをたっぷり入れて。栄養も摂れて、身体も冷やしませんよ」
どこか誇りの滲む口調だった。
薬草と自然素材に通じた彼女らしい、「調合」とも言える仕立て。
確かにカップのなかでは、やわらかく煮込まれた果実がくたりと沈んでいて、ワインの香気に馴染んでいる。まるで冬のポーションのように、心をほどく香り。
「……しかし、これは……お酒では……?」
レギュラスの声には、どこか躊躇いがあった。
アランは、相変わらず穏やかな表情のまま首を傾げる。
「少量のお酒は、むしろ血の巡りを良くするのだそうです。
あくまで“作り物の眠り”ではなく、身体の力を緩めるために使うのなら――ね?」
まるで魔法薬の調合理論を語るような、穏やかな解説。
返す言葉を探しながら、レギュラスはそっとその湯気を吸い込んだ。
あたたかくて、果実の香りがやさしくて、そこにはどこか「アランそのもの」の気配が宿っている気がした。
「……今日は、本当に……調子が良いのですね」
自然に、そう呟いていた。
アランは照れたようにそっと視線を外して、卓の果実に目を落とす。
何も知らない世間では、妻が産後にふさぎ込んでいるだの、病に伏せっているだのと噂が立ち始めているのを思い出す。
けれど目の前のアランは――自らの痛みを抱えたままでも、小さな喜びを手離さず、こうして自分の帰りを待っていてくれた。
レギュラスの中で、張り詰めていたなにかがふわりと解けてゆく。
外の冷たい夜が、もう遠いもののように思えた。
「ありがとう、アラン」
囁くような声に、アランは微かに頷いた。
言葉は多くなくていい。ただ、この静かなやり取りが、ふたりにとって最も深い絆のかたちだった。
レギュラスはカップを持つ親指に、そっと力を込めた。
温もりがじんわりと掌に広がる。
彼女と過ごせるこの時間が「家」というものの本当の意味なのだと、胸のどこかが明るく染まっていくようだった。
静けさの中に、果実のあたたかい香りだけが、永くやさしく漂っていた。
風に揺れる朝の新聞。
騎士団の隠れ家の食卓、ミルクの湯気がまだ立ちのぼる朝のテーブルで、アリスは広げた紙面の一面に、ある見出しを見つけた。
〈ブラック家に第二子誕生 今度は姫君、セレナと命名〉
整った金の活字。
笑顔の賓客たち、揺れるティーグラス、貴族の高らかな賛辞……
だが、そこに並ぶ祝賀の言葉の最後、違和感のように残る文がひとつ。
「産後の回復が芳しくないとの情報もあり、奥方であるアランブラックの社交界復帰時期は未定との見方が強い」
アリスの指がその一文の上で止まった。
自分でも気づかぬうちに、唇を細く噛んでいた。
「……ねえ、シリウス」
新聞を読み終わったばかりの彼も、同じ記事に目を落としていた。
その横顔は、言葉では取り繕っていたが、目の奥は沈んでいた。
不安の色は、アリスにとって手に取るようにわかる。
かつての大事な人。誰よりも強く思っていたその人が、今どこで、どんな顔をして何を抱えているのか――
その想いに触れられないことが、シリウスにとっては何よりも痛みになっているのだ。
「……あいつ、無理させられてないかな」
「……レギュラスの隣で、息をするのもしんどいんじゃないだろうか」
ぽつりとこぼれるその声が、あまりにも静かだったから、アリスはかすかに胸が震えた。
きっと、シリウスは本当は――
“ただ知りたいだけなのだ”
彼女が無事か。
生きているか。
名前を呼んでいい場所に、まだいるのか。
ただそれだけのことが、彼の胸を焦がしている。
「だったら……」
アリスは夜のことを思い返す。
眠りにつく直前、ふと浮かんだアランの優しい顔。
かつての再会のとき、あの腕の中で感じたぬくもりと声。
「だったら、私が……なんとかしてあなたに知らせてあげられたらいいのにって、思うの」
こぼれたその言葉に、シリウスは少し驚いたように彼女を見た。
けれどアリスの瞳はまっすぐだった。
「だって、あなたがあんな顔をしてるのを見るの、もうやだもん」
笑った顔で言いながら、アリスのまつ毛の先にはかすかに湿り気があった。
明るさに隠れた愛情。
子どもらしさに宿した優しさ。
窓辺に差し込む午後の光が、アリスの髪を淡く照らしていた。
軽く風の入る寮の部屋で、アリスはペンを握ったまま手を止めていた。
机の上には広げられた新聞、その端には「ブラック家に姫君誕生」の文字が小さく残っている。もう擦り切れるほど読んだその一面を、彼女は何度目かのため息と共に伏せていた。
──行かなきゃ、伝えなきゃ。
アランさんが……無事であることが。
それだけを、どうしても、シリウスに確かめたい。
もし何かがあったなら。もし苦しんでいるのなら。
けれど。
それほど単純な話ではなかった。
アリスはブラック家の血を引いていない。
マグルの出身。
その名を与えられていても、それが“本物”として通用する場所では、この世界は決してやさしくない。
その名家の敷居を跨ぐということ。
王朝の門を叩くほどの、大義と覚悟が要る。
──わたしなんか、行ったところで門前払いよ。
そう脳裏に浮かんだ声は、誰かのものではなく、いちばん自分自身に近い不安だった。
それでも。
「でも……誰かが知ってなきゃいけない」
語尾が少し震えた。
無事だと、そう言える誰かがいなければ、
心配で足もつかなくなるような人がそばにいる。
それが、今すぐにどうにもならない感情だとしても――
今のシリウスにとって、それがどれほど支えになるのか、考えるまでもなかった。
アリスは立ち上がった。
ホグワーツの制服の胸元を整え、鏡の前で自分の顔を見つめる。
「子ども扱いされないようにしなきゃ」と、口もとをすこし引き締めた。
頭の奥に地図を描くように、方法を探しはじめる。
その血筋であろうと、なかろうと、今この思いが偽りでないかだけが重要だ。
ブラック家に直接告げ口をするようなことはできない。
だが、「たまたま」屋敷の周辺に寄る人の群れのなかに紛れ込めば――
あるいは、使用人の眼に、顔ぐらいは届くかもしれない。
その場では無理でも、名を伝えることはできる。
星のない夜だった。雲が低く垂れ込み、月明かりさえ覆い隠した薄暗さの中に、ブラック家の荘厳な屋敷がひっそりと立っていた。
アリス・ブラックは、その鉄の門を見上げて、しばらく息を呑んでいた。
仄かな魔力が鼓膜の奥にじわりと響く。結界。防護のための呪文が複雑に編み込まれていることは、魔法に心得のある者でなくても肌で感じ取れるほどだった。
それでも、彼女は――進む。
静かに、そっと屋敷の裏手を回る。
その目が捉えたのは、庭園の生垣に沿って地をはくように雑草を処理していた、ひとりの使用人――メイドの姿。
ためらいは、一瞬だった。
「—Stupefy.」
小さな声で、それでも正確に呟いた。
光が走り、音もなく使用人の身体が傾き、地面に倒れ込む。
アリスはすぐさま屈み込み、夫人用に整えられたメイドの後れ毛を一本そっと抜いた。掌に隠し持っていた小瓶に、素早くその髪を落とす。
中から立ちのぼった液体は、濃いグレーのような色をして泡立ち、ゆっくりと色づいていった。
息を呑み、アリスはその薬を一気に喉に流し込む。
痛みよりも、身体がすうっと変化する感覚。
身長がわずかに伸び、指先の肉付きが変わる。肩がひらき、視界の高さが変わる。
――成り済ました。
こんなこと、本当はしたくなかった。
でも。
「……会いたいのよ。どうしても」
それは、誰のためでもない。最初はシリウスのためだった。
だけど今この瞬間、自分の足がこの屋敷の前に立ち、魔法を振るい、ポリジュース薬を飲み込んでまでアランに近づこうとしている。
その想いは、誰のためでもない。自分のためだった。
本当の母を知らない自分にとって、アランはまるでほんとうの母のようだった。
母であり、姉であり、導き手であり――何より、命を賭けて自分を守ってくれたたった一人の人だった。
守られてきた命。
今度は、自分が助けたい。
たとえこの訪問が一瞬だけのものでも、たとえ何もできずに帰ることになったとしても、
その姿を、一目見るだけでいい。
『ブラック家』。
それは名前ではなく、“空気そのもの”だった。
門を抜けて敷居を踏んだ瞬間、アリスの肌に張りつくような圧が覆いかぶさってくる。
屋敷全体が、生きていた。
内側から吐き出されるような魔力。壁に並ぶ絵画の視線。重さを湛えた家具と調度……そのすべてが「血」と「誇り」の驚くほどの密度で組み上げられている。
メイド姿のまま、挨拶するでもなく進み出たが、その歩幅ひとつ、手の添え方ひとつにもマナーが要ることをすぐに悟った。
息をひそめ、ただ歩く。
黒と銀で整えられた天井の高い廊下。絨毯に沈む足音。
冷たさと威厳が満ちた空間は、記憶の中のどこを探しても見つからない――アリスは、心の底から思った。
「こんな屋敷、見たことがなかった――」
一歩ごとに、自分の存在が極めて異質なものに思えるほどだった。
それでも、歩みを止めない。
一瞬でも、その奥にある部屋で喘ぐ誰かに、手が届きそうな気がして。
アリスの手は、ドアノブにかけられた白いリボンに――ほんの一瞬だけ、触れた。
緊張で脈が早まる。
アランは――きっとこの奥にいる。
覚悟と祈りが、そっと胸に満たされていく。
目を伏せたまま、一歩ずつ。ふいに見つけた光の先へ、静かに歩む姿には、幼さも無謀さも、すでになかった。
それは、彼女の成長した命が、一つの約束を果たそうとする物語のはじまりだった。
扉に手をかけたその瞬間だった。
背後からわずかに低く、だが明瞭な声が空気を切った。
「……何をしているんです?」
凍りつくような静けさのなかで、その言葉は、まるで刃を添えたように響いた。
アリスは息を呑み、ぞくりと背筋を強張らせた。
指先から体中にかけて、うすく冷たい感触が這い上がっていく。
ゆっくりと振り向いた先――
そこに立っていたのは、レギュラス・ブラック。
黒のローブを纏い、完璧に整えられた姿勢と無駄のない所作。
けれど、それ以上に、純粋な「威圧」がそこにはあった。
アリスの呼吸が不意に浅くなる。
――覚えている。
あのホグワーツの裏通路で、自分をまっすぐ見据えながら放った言葉。
「あなたがブラックの名を背負うことの意味を……」
あのとき背筋に感じた、氷のような殺意。
そして今、よりにもよって――初めて屋敷に足を踏み入れたばかりのこの瞬間に、真正面でこの男に出会ってしまった。
息をすることさえ怖い。
心臓が胸の奥で跳ねた。足先が凍りついたように動かない。
何かを言おうとするが、喉がうまく働かない。ポリジュース薬で変わった声でどう言い訳すればいいか――頭がまっ白になりかけた、まさにそのときだった。
カチリ。
静かに、だがはっきりと扉の音が鳴る。
木製の重厚なドアが、内側からゆっくりと開いた。
「……レギュラス? 何を話していたんです?」
柔らかく、けれど確信のこもる女性の声。
そこにいたのは、アランだった。
その姿を目にした瞬間、アリスの心はぶわりと震えた。
まるで、遠い夢の奥から姿を現した光景のようだった。
ショールを肩にかけ、細い指先で扉を押さえたまま佇むアラン。
少し痩せた頬。
けれど、瞳は静かで、しっかりと彼女のまっすぐな人格を宿していた。
その姿を見ただけで、アリスの胸に熱が走った。
まるで、切れかけていた絆が、目に見えるかたちで繋がれたように。
しかしその余韻を破るように、レギュラスはごく端正な調子で言った。
「いえ……メイドが、あなたの部屋に入ろうとしていましたので……確認していただけです」
姿こそ乱れていないが、その視線は明らかに研ぎ澄まされていた。
ほんのわずかでも、ただの偶然と片付ける気のない男のまなざし。
アリスの中で全身の思考が乱れ出す。
このまま何か理由を述べなければ、不審を招くだけ――どう言えば、どう繕えばと焦る。
口を開こうとする、その刹那。
アランがすっと、アリス――いや、使用人に化けた“彼女”に目を向けて、やわらかく話しかけた。
「私が呼んだのよ」
その声音は自然で、何の矛盾も感じさせなかった。
「部屋に置いておいたハーブが……ちょっと元気がなくて。
少し手入れの魔法をかけようと思ったの。専門の子が巡回に来る日じゃなかったでしょう?」
アランの声が、まるで糸を通すように空間の緊張をほどいていく。
あまりに自然すぎて、それ以上の詮索を差し込む余地さえなかった。
レギュラスはアランを見つめながら、しばらく何も言わなかった。
そのまなざしが何を読み取ろうとしていたのか、
鋭さは緩まぬままに、けれど最後にはただ静かに、うなずいた。
「……そうですか。お気をつけて」
一言だけを残し、彼はひとつ身を引いて廊下の奥へと消えていった。背中を預けるその姿に、アリスは思わず力が抜けそうになった。
アランが扉を開いたまま佇み、再び小さな一呼吸をした。
「入っていらっしゃい。今なら、誰にも見つからない時間よ」
その囁きが、まるで家路のようにあたたかく響いた。
アリスは深く一度、頭を下げるようにして――静かに、その扉の内側へと足を踏み入れた。
アリスは扉の隙間からそっと歩を引いた。
声をかけることができなかった。
あの瞬間、アランが自分を庇ったのは間違いなかった。
けれど、その表情はどこまでも自然で、彼女にとってはまるで息をするのと同じように「守る」ことが当たり前のようだった。
言葉もなかった。ただひとつの助け舟が、
アリスの胸の奥に、じわじわと温かさを広げていく。
(やっぱり、私は……)
守られてばかりだ。
その現実に、小さく心を震わせながらも、アリスの脚は静かに動き出していた。
どうしても……今、この家のなかの “彼女” を、この目で追いたかった。
少しだけでも会話ができたらと思っていたが、それも叶わず――
ただ、「どんなふうに彼女は歩くのか」「どのように、この日々を越えているのか」を知りたかった。
アランの小さな背は、すぐ先を、胸元を押さえながら歩いていた。
けして堂々とではない、けれど確かに気高く、落ち葉を踏まずに進むような足取り。
アリスはその後を、使用人の姿のまま、自分の影をかすませるようについてゆく。
向かった先は、屋敷の中央に広がる長い食卓だった。
吹き抜けの天井にかかった重厚なシャンデリアの光が、金と藍の交じる調度品を照らしている。
無人の広い部屋ではなかった。
そこには一人――静かにワイングラスを傾ける男の姿があった。
レギュラス・ブラック。
アリスの目が微かに揺れる。
彼が着ているのは漆黒のローブ。金糸の刺繍が静かに光りを孕み、その肩の傾け方ひとつですら、なんの無駄もない貴族の所作だった。
斜めに差し込む光のなか、彼の表情は凍りついたように静かだった。
そこへアランが、音もなく近づき、彼の斜め向かいにそっと腰を下ろした。
その動きが、あまりにも自然で、
その距離感が、息をあわせるかのように当然すぎて――
アリスは、胸の底を何か冷たい水で満たされるような感覚に襲われた。
(アランの隣に、レギュラス・ブラックがいる)
その事実が。
その「ふたりが並んで食卓を囲んでいる」というたったそれだけの情景が、
彼女の心のなかで、なぜかうまく現実として受け止めきれなかった。
シリウスが語る過去の面影。
寄り添っていた人と、引き裂かれた想いの痕。
そして今、目の前にある、
流れた月日のなかで「家族」として在る、このふたりの姿。
レギュラスはちらりとアランに視線を向け、
何かぽつりと短く話したのかもしれなかった。
アリスの位置からでは聞き取れなかったが、
アランの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
あの人が、“笑った”。
胸の奥で何かを感じながらも、アリスの両手は軽く握りしめられていた。
(わたしとは、違う世界だ)
そう思った。
けれど、それを“羨ましい”とも“悲しい”とも言葉にすることは、
この夜の沈黙に、あまりにも似つかわしくなかった。
静かに揺れるランプの灯りの下で、
まるで舞台の遠景のように浮かぶふたりの背中をじっと見つめながら、
アリスは、そこに流れる空気の「重さ」と「距離」を、
ただただ感じていたのだった。
アリスは柱陰に身を寄せたまま、遠目に食卓のふたりを見つめていた。
磨き込まれた長いオーク材のテーブルには桃色のランプシェードが灯り、
アランとレギュラスの手元にだけ、淡い輪郭の光を落としている。
アランは細い指先で陶器のカップを撫で、
レギュラスはワイングラスの脚を静かにまわしながら、
どちらともなく短い言葉を交わした。
囁きに似た声は距離のせいで音にならず、
しかし唇の動きと瞳の緩い笑みだけははっきりと見えた。
胸を刺す過去の残像
けれどアリスの耳に蘇るのは、
ホグワーツの石壁の裏で聞いた男の声――
「あなたが“ブラック”の名を背負うことの意味を…」
冷えきった金の瞳。
アランの腕を乱暴に引き寄せ、
彼女を“家の財産”のように扱ったあの光景だった。
その記憶のなかのレギュラスは、人を屠る闇の盾を纏い、
慈愛などひとかけらも映さなかった。
今、同じ男がアランの隣で穏やかに笑っている。
その矛盾が、胸の奥で鈍い痛みを生む。
シリウスなら──
(シリウスなら絶対にあんな目でアランを見ない)
アリスは自分に言い聞かせるように唇を噛んだ。
シリウスが語る昔日のアランは、
いつも夕陽色の温もりに包まれていた。
ふたりで空を飛び、草の匂いを吸い込み、
互いを従兄妹ではなく友として、ひとりの人として敬い合っていた。
それを壊したのは――この男だ、と。
だからこそ、レギュラスはアリスにとって絶対悪の象徴であり続けていた。
目の前の「今」
なのに、目の前でアランは笑っている。
頬の蒼さや指の痛々しい細さは、
決して順調とは言えない回復の証かもしれない。
それでも彼女の目尻には、確かな安堵のしわが刻まれている。
レギュラスがワイングラスを置き、
カップの位置をアランの前へそっと寄せた。
アランは軽く会釈しながら、その指をグラスではなく
テーブルクロスの縁に置いたまま、
ふと天井に目を向ける。
淡い髪が頬にかかり、レギュラスの指が迷いなくそれを払った。
その仕草に痛みはなく、
冷えた権力者の貌ではなく、
家族を気遣う人間の温度が宿っていた。
アリスの揺らぎ
息を呑む。
(無理して笑っているだけ?
本当は鎖につながれているだけ?)
疑念は波紋のように広がるが、
同時にアリスの胸にもうひとつの感情が芽ばえた。
――もし、この場所で守られている笑みなら。
――もし、あの夜の氷よりも柔らかなものが
彼の中に芽生えているのなら。
それを断罪する資格が、自分にあるのだろうか?
アリスはそっと拳を握りしめた。
レギュラスの罪と向き合うべきはアラン自身だ。
外から来たマグルの少女が裁きの秤を掲げることは、
もしかすると単なる「思い込み」かもしれない。
影から見守る決意
ひとつだけ真実がある。
アランが静かに生きている――
それがシリウスに届けるべき唯一の朗報。
その安堵を胸に、アリスは陰影濃い柱の影をそっと後ずさった。
彼女ができるのは、
この場で剣を振りかざすことではなく、
確かめた光を、確かめた温度を、
そのままシリウスへと手渡すこと。
レギュラスがワインを注ぎ足し、
アランが細く笑ってありがとうと口を動かす。
ランプの光が二人のグラスに映り込んで、
深い紅が淡い琥珀と重なった。
アリスはその柔らかな色合いだけを
胸に掬い取るようにして――
足音を忍ばせ、遥かな廊下の暗がりへと消えていった。
屋敷の廊下は夜の静けさにすっかり包まれていた。
遠くの窓越しに灯る壁のランプが、床に長く儚い陰影を伸ばし、アリスの影を包み込んでいた。
掃除道具置き場へと続く裏通路――
誰の目にも触れないように、音も気配も消すようにして歩いていたはずだった。
でも。
思考だけが、どうしても静かについてこなかった。
レギュラス・ブラックのあの表情。
アランに触れていた、あの手の動き。声の柔らかさ。
——知らなかった。
あんな顔ができる人だったなんて。
ただ冷たく鋭く、何かを断罪する者としての顔しか知らなかった。
けれどその夜、アランとともに灯りの下で静かに言葉を交わしていた彼は、まるで長い年月をともに生きた伴侶のように、
彼女を 知っている という体温をまとうようだった。
見てはならないものに触れてしまった気がした。
いや、むしろ——
見たくなかった現実を、見てしまった。
アランは笑っていた。
誰でもない、「彼」の隣で。
心の奥で、祈るように願っていたことがある。
アランを大切にするのは——
シリウスであってほしい、と。
願望だった。
心の奥底で、ずっとそう思っていたのだと、ようやく気づく。
彼がアランの隣にいてほしいと。
ずっと、大切に、大切にしてきた想いが、
その夜のひとつの光景だけで、音もなく崩れていくのがわかった。
家族がいなかったアリスにとって、
アランは母親のようで、シリウスは父親のようだった。
そうであってくれたから、これまで寂しくなかった。
だからこそ、そのふたりが愛し合わなかったことや、
共に生きなかった時間が、
歪んで届く世界の真ん中に見えて、
今の現実が、どうしても許せなかった。
心が痛んだ。
その痛みが、自分勝手なものだということすら、もう分かっていた。
アリスは、ただ静かにこの屋敷から離れようと思っていた。
何も起こさず、何も残さず、
ひっそりと、借りた時間を返すように。
裏階段を降りて、
掃除道具室に寝かしておいたメイドの元へ戻ろうとしたときだった。
足裏がわずかに滑った。
ほんの少し、背中に背負った疲れが滲んでいたから。
ほんの少し、踏み締めが甘くなっていたから。
重たい音は出なかった——けれど、
——カランッ
床に杖が転がったのは、
小さな鐘が落ちたような、澄んだ音だった。
アリスは、はっとして息を呑んだ。
音が廊下に響いていく。
思いのほか乾いた屋敷の空気に、それはよく通った。
心臓が跳ねた。
冷たいものが頬をなぞった気がする。
逃げなきゃ。
拾わなきゃ——でも。
足がすくむ。
音の方をゆっくりと振り返ると、
廊下の奥にわずかに揺れる光。
誰の足音も、まだ聴こえなかった。
けれど間違いない。
今ここに いないはずの誰か の気配が、はっきりと——
こちらへ、近づいてきていた。
アリスは、杖を見つめたまま、
声なき悲鳴を胸の奥で噛みしめていた。
石の廊下に魔力の余韻がまだひりつくように残っていた。
アリスは、息を止めていた。
先ほどまで手にしていた杖が、もうこちらにはない。
それは、レギュラス・ブラックの手の中にあった。
――ギリギリ当たらない程度の警告の呪文。
その軌道の見事さに、胸の奥では震えながらも思ってしまった。ただの怒りや攻撃ではない。
彼はちゃんと見ている。すべてを。
そして、確かに――見抜かれていた。
足音はもう、すぐ近くにある。
「おかしいと思ってましたよ……“メイドさん”」
その声は、表面こそ静かに整っているのに、否応なく皮膚を切り裂くような鋭さを孕んでいた。
嘲りでも、怒りでもなく……むしろ冷酷な認識。
「正体が分かった」と、あとはただ手順を踏んで片付けるだけだと、そう言っているかのようだった。
背中には凍るような汗。
言いわけも、逃げ道も、もうどこにもなかった。
ポリジュースで変えた顔はどんどん崩れていく。
でもその時だ。
「……っ、レギュラス!」
アランの声。
走ってきた少し荒い呼吸の音とともに、
踏み込んだ足が一歩、ふたりのあいだを強く揺るがせた。
その顔は、蒼い。
まだ癒えきらぬ身体を引きずるようにして、アランがレギュラスの背に追いついたとき、
その表情には驚きと痛みが入り混じったものが浮かんでいた。
「……どうして……アリスが……」
息がかすれ、言葉にならない思いがその瞳ににじんでいた。
アリスは見つめた。
アランが本当に、そこにいてくれた。
ずっと「一目会いたい」と願っていたあの人が。
自分を守ってくれた、光のような存在が。
目の前にいる。
でも、その人がいま、この冷たい男の名を呼んだ。
それが、身体の内側で何かを崩した。
アランが、レギュラス・ブラックの隣にいる現実。
呼び慣れた声で彼を名で呼び、懸命に追いかけてくるその姿。
(こんなに苦しそうな顔をして……こんな男の隣で……)
いやな感情だった。
嫉妬かもしれない。
怒りかもしれない。
でもそれよりもっと近いのは、「哀しみ」だった。
アリスの唇がわずかに震え、目の奥が急激に熱を帯びていく。
違ってほしかった。
アランは、こんな男に縛られているわけじゃない。
そんな世界じゃなくて。
アランは、母で、そして傍にいてくれる存在で。
シリウスが父であってくれればいい。
ずっと、そうであればよかった。
でも、そんな願望は、現実の音を伴って崩れていく。
レギュラスの手の中にある杖の存在が、
アランのひどく痩せた肩が、
すべてを物語っていた。
涙が、こぼれた。
静かに、何の音もなく。
(ちがう、こんなの、……こんなはずじゃなかった)
自分勝手な夢と幻想にすがっていただけだったと。
彼女たちの生きてきた現実を、ただ受け止めきれていなかったと。
思い知らされる。
背後で杖を掲げ続けるレギュラスの気配さえ、もう遠かった。
目の前にいる、ただアランの姿が――眠るように優しい目元が、
今のアリスには、痛いほどまぶしかった。
アランがポツリと呟いた。
「……アリス……どうして……こんなことを……」
その声には責めても怒ってもいない。
でも、それが余計に苦しかった。
どうすればよかったの、と心の中で叫びたかった。
どうしても会いたかった。
確かめたかった。
あなたが笑っていてくれるかどうかを。
でも、そこにいたのは、自分の知らない世界で生きているアランだった。
そんな彼女を“アリス”と呼んだのは、
多分、名前だけではなく――
“想いの深さ”が滲んでいた、と、アリスは感じてしまっていた。
もう、堪えきれない。
それが、「大人になる」ということなのかもしれなかった。
願っていたものと、現実が違っても、
それでもそこにある愛情は確かで、
涙が止まらないことにも、ちゃんと理由があった。
屋敷の石床に、透明な雫が音を立てて落ちた。
アリスは、ただそれを拭うことさえ忘れて、
静かな嗚咽を胸の奥で噛みしめていた。
廊下に張り詰めた沈黙は、言葉よりも重たく、静かにすべてを締めつけていた。
レギュラスの手には、アリスの杖がまだ握られたままだった。
その長い指先の微動だにしない力に、アリスはもう逃げ道のない現実を悟っていた。ポリジュース薬の効果は完全に終わりを迎えており、姿かたちも全てが元に戻ってしまっていた。
「……随分と、大胆なことをしましたね、アリス」
レギュラスの声は低く、ひどく静かだった。
怒号や嘲笑ではない。むしろそれは、静かに響く氷の音のようだった。
責めるというよりも、ただ「理解不能な行動」に向けられる哀れみに近い色が滲んでいた。
アリスは言葉を失っていた。
目が落とせない。呼吸だけが、自分の存在を証明していた。
そして、その場の空気を切るように――
「……待って、レギュラス」
アランが一歩、震える足でその間に割って入った。
手すりを掴んでいたか細い指が、今は前に差し出されている。
「彼女を……お願い、アリスは……私を見に来ただけ。
本当のことは私が説明するから、ただ、これ以上は……」
その声には明らかな焦燥と、混乱が混じっていた。
体調の悪さを誤魔化しきれない蒼い頬で、それでもアランはアリスの前に立ち、懸命にかばおうとしていた。
けれど――
「……忠告はしたはずですよ、アリス」
レギュラスが目を逸らさず、冷たく言い放つ。
「あなたが“ブラック”の名を背負うならば、
その名は、いずれあなた自身を――灼く、と」
その言葉は、かつてホグワーツで突き立てられたあの峰鋭い忠告と寸分違わず、
けれど今、アリスの胸に突き刺さったのは責めではなく、“現実の重み”だった。
望んだ名だった。
誇りとして受け取った名だった。
でもその名が、いまこうして、知らぬうちにアランを傷つけ、
背負いきれない呪いのように牙をむいている。
再び、レギュラスの声が響く。
「……クリーチャー」
低く呼ばれたその名に、小さな“パチン”と音を立てて、奥の影から姿を現したのは、長年この屋敷に仕える屋敷しもべ妖精だった。
白く濁った目と、年輪の刻まれた顔。
「この屋敷の敷地内のどこかに、“本来の”メイドがいるはずです
……今すぐここへ連れてきてください。可能な限り、丁重に」
「はっ……旦那さま。承知しましたとも……クリーチャー、すぐに連れてまいります……」
奇妙に上下する声を残して、しもべ妖精は瞬時に姿を消す。
アリスの足が一歩、後ずさろうとする。
けれどアランの手が、そっと彼女の手首を掴んだ。
「だめよ、アリス。もう――逃げないで」
声音には涙がにじんでいた。
彼女を庇うというより、自身の願いのように、それは語られていた。
アリスはその手を見つめる。
ふるえて、青白くて、それでもあたたかい。
まるで昔と変わらぬ、あの“寄り添ってくれた人”の手だった。
願望だけで塗り固めた父と母の像が崩れていったとしても。
この手だけは、嘘ではなかった。
静かに、アリスは瞼を下ろした。
ひとしずく、涙が頬をつたって落ちた。
それは叶わぬ幻想をこぼしていく、静かな別れのようだった。
廊下に張り詰めていた空気は、もはや「静けさ」という言葉では言い表せなかった。
硬質で重たく、息を呑むことさえ思いとどまってしまうほどの、
制圧された沈黙。
その中心にいたのは――レギュラスだった。
手にはアリスの杖。
彼の瞳は、まるで冷たい石碑のようだった。
黒曜石に閉じ込められた意志。
その背に宿るのは、ブラック家当主としての誇りでも、怒りでもない。
それは――〈決行者〉の眼だった。
不穏を前にして、遠慮も感情も、すでに切り落としている人の顔。
アランは背筋が凍るのを感じていた。
何か理由があるのだと思った。
だから、扉の外に立っていた“そのメイド”に助け舟を出したのだ。
いつもより口数が少なかったけれど、忙しいのだろうと軽く受け流した。
その判断が命を救う橋になると信じて――
それがまさか。
アリスだったなんて。
瞬間、すべてが崩れ去った。
冷たい床石の上に散らばる現実。
理解が追いつかない。追いつきたい心が崩れていく。
レギュラスの怒りが――“頂点”に達していることだけは、誰よりも明白だった。
その冷え切った沈黙のなか、アリスはもう声も出せず、ただ、
きつく唇を結び、大粒の涙を落としていた。
その涙が――ひどく幼かった。
背丈はもう十分に大人だ。
頬の線も深くなり、少女の面影は少しずつ遠のいてきた。
けれど、その涙はすべてを覆してしまう。
この子の心は、まだ…まだ子どものままなのだ。
子どもなりに、心を込めて、必死に想って、
どうしても「会いたい」ただそれだけで——
屋敷に忍んできたことだった。
――そんな顔を、アランは見てしまった。
秒針が遅く、生々しく響く感覚のなか、
アランはふらりと前に出る。
「レギュラス……どうか…! アリスを、罰しないで……」
その声は決して強くなかった。
けれど全身を振るわせながら、
それでも尚そこに立ち塞がろうとする、その姿に込められた願いは――切実だった。
「お願い、少しだけでいい……話をさせて。アリスは……悪意を持ってここに来たわけじゃない……!」
その懇願の言葉にも、
レギュラスは――まったく、反応しなかった。
視線すら合わせない。
まるで、アランの存在すら、今は脇に置かれているような冷たさ。
彼はただ、本質的な決断を下す“秤”でしかなかった。
そして、ひどく静かに、レギュラスは口を開いた。
「クリーチャー」
「……はい、旦那さま」
再び姿を現した小さな屋敷しもべ妖精が、こともなげな手つきで、
両手にくたくたになった“メイドの本物”を担いで現れる。
その身体が、石畳の床にそっと横たえられたとき。
白い制服。
浅く乱れた髪。
そして、一目でそれと分かる、ホグワーツの制服――おそらくアリスのものと思われるものを上から無造作に着せられていた。
違う、今すぐ弁明しなきゃ、言葉にしなきゃとわかっていたのに。
その瞬間。
「Avada――」
たったその一音を聞いた、その刹那。
アランは、呼吸が止まった。
何も知らない“部外者”を、
この男は、迷いも躊躇もなく消そうとしている。
脳裏が真っ白になった。
息が、できない。
レギュラスの声も、呪文の余韻も、すべてが薄靄の中で遠く響いていた。
「だめ――ッ!!」
誰かの叫び声が、ようやくこの空間を切り裂いた。
それは、アランの背後にいるアリスだった。
少女の甲高い悲鳴。
必死の叫び。
その声が、ほんの一秒でも伸びてくれたなら。
たったその一秒が、
命を繋ぐ最後の抗いとなれるのかどうか。
今、祈りより切実な音が廊下中に響いていた。
誰しもの視線が、止まった。
時もまた、固く止められる希望を探しているようだった。
暖炉の炎が天井の金のレリーフを柔らかく照らし、銀器のひとつひとつが揺らめく光を映している。
絹の裾を引く貴婦人たちと、一様に高貴な装いを纏った紳士たちが、ぽつぽつと輪を作り、笑い声が花のように広がっていった。
それは、セレナ・ブラックの誕生を祝う夜だった。
豪奢な晩餐と祝杯、居並ぶ魔法界の名家たち。
形式上は、アルタイルのときと同様に華々しく、何の遜色もない祝賀会。
それでも、会場の光の中には、ひとつ決定的な「不在」が漂っていた。
── アランは、この場に姿を見せなかった。
いや、現せなかったのだ。
産後の深い疲弊は癒えぬまま、今日も彼女は寝台の上、静かに灯りを見つめているのだろう。
その胸に残る痛みと、言葉にできない葛藤を、誰にも見せることなく。
けれど、そんな彼女の慈しみから生まれた娘は、
今、オリオンとヴァルブルガの腕に抱かれて、祝福の中心にいた。
セレナは、まだふにゃふにゃと霞んだ意識のなかで、
花の香と賛辞のざわめきに包まれながら、
ふっと口角をあげて、小さな微笑みを浮かべた。
軽く波打つ黒髪、すでに整った目元のライン。
抱く者の誇りと来賓の関心が、その微笑みに一斉に集まっていた。
「なんとまあ……夫人によく似ている」
「将来は国を揺るがすほどの美貌となるだろう」
「おや、どこの王子が先に手をあげることやら」
浮かぶのは、まだ言葉も話せぬ一人の娘へと向けられた“未来という名の取引”の兆し。
政治と家名の延長上に置かれた、まだ何も知らない小さな命。
レギュラスはその輪から少し離れた位置に、端整な面持ちのまま立っていた。
浮かべる笑みは、控えめに、あまりにも見事に整っていた。
けれどその胸は、冷たい違和のようなもので、ひそやかに疼いていた。
ふと、手元の裾を引かれる。
「……パパ」
見上げるとアルタイルがいた。
正装に身を包み、けれどその表情はどこか翳っていた。
「……どうして、セレナは、産まれたばかりなのに……もう、けっこんの話が出るの?」
小さな声だった。けれど、それは確かな戸惑いと、不安だった。
レギュラスは、言葉を探す。
けれど何を言っても、それはどこか偽りの説明になる気がして、
ただ薄く笑顔を浮かべ、頭に手を乗せた。
「……みんな、ちょっと……話が早いだけですよ」
アルタイルの髪をそっと撫でながら、彼の小さな肩に手を置くと、少年は納得のいかない顔をして、それでも黙ってうつむいた。
レギュラスの視線は、自動的に――
今、階上で休んでいるはずのアランへと向かっていた。
この声が、あの人の耳に届かずにいてよかった。
そう思ったのと同時に、
こんな声が交わされる場所に、彼女は来るべきではなかったとも思った。
この場にいない彼女の不在が、
この場にいる誰よりも、確かに“ふたりの子どもたち”に寄り添っている。
そう感じられてならなかった。
レギュラスはアルタイルの手を握りながら、遠くで微笑むセレナを見つめた。
――あの小さな瞳に映る未来が、決して誰かのための「駒」でなくて済むように、
遠く離れた場所で必死に戦ってくれた名も無い母の声だけは、
この子のなかに、ひと粒、宿りつづけていてほしいと――
そう、静かに願っていた。
大広間に流れていた音楽も笑い声も、遠い記憶のように静まり返っていた。祝賀の幕は降り、屋敷に再び静寂が戻っている。レギュラスはゆるやかな足取りで寝室へと向かった。絨毯を踏む微かな音すら、重たく深く心に響く夜だった。
扉を開けた寝室には、かすかな灯が残されたままだった。
思いがけず、ベッドの上の人影がゆっくりと顔を上げた。
「……起きていましたか」
思わずそう声をかけると、アランは薄く微笑んでレギュラスを見上げた。
「ええ。セレナの寝顔を……少し、見てきましたの」
その声は、まるで月明かりのように静かだった。
レギュラスは扉を背にして部屋の空気へと身を沈ませるように、ベッドの端に腰を下ろした。銀糸の刺繍のほどこされたシーツが音もなく沈む。
「お疲れでしょう」とアランは言ったが、その声にも固さはなかった。
レギュラスは、アランの頬にかかった一筋の髪をそっと払ってから、長くためらうことなく唇を寄せた。
額ではなく、髪でもなく、彼女の口もとに。
温かなキスだった。
だが、ほんのりと赤ワインの香りが混じっていた。
アランは小さく笑って、目を伏せた。
「……ワインの味がします」
レギュラスは少しだけ口元に笑みを浮かべる。
「……ナルシッサが、いいワインを持ってきてくれましてね。
“これは小さな姫君の誕生にふさわしいわ”と、誇らしげでしたよ」
アランは頷きながら、そっと目を伏せたまま言った。
「……そう。美味しかったのでしょう?」
レギュラスは、その言葉の隅にあるわずかな寂しさを、聞き逃すことなどできなかった。けれど、無理に慰めるようなことは言わなかった。ただ、繋がれたままの手に、僅かに力を込める。
「……祝賀会に、あなたがいないのが――物足りなかったです」
アランは、そっと微笑んだ。
「でも、行かなくて……よかったのね、と、思ったの」
「祝いの場に相応しい気持ちが、まだ、戻ってきてくれないから……」
言葉は落ち着いていたけれど、ほんの少し涙のにじむような熱が含まれていた。
レギュラスは何も言わず、それでもはっきりと見つめた。
声をかけるよりも、黙って寄り添うこと。
それが今夜の答えだと、ふたりは痛いほどに知っていた。
アランの背に手を回し、小さく、自分の胸へと寄せた。
頭のてっぺんにキスを落とす。
グラスの底に残る澄んだ赤のような沈黙が、ふたりの間にやさしく満ちていた。
それは、どこにも語られずとも確かに“ともにあれる奇跡”の時間だった。
夜のしじまが都市に降り始め、霧雨に濡れた石畳の路地を轍のように光が滲ませていた。
レギュラス・ブラックは、灰色に沈む空の下で長いマントの裾を曳きながら、地面に残る細い魔法痕の余韻を見下ろしていた。
粛清の対象となったのは、マグルとの混血魔法使い。
純血の若者をひとり、許しがたい呪文で殺めたという容疑がかけられていた。
死の呪文――アヴァダ・ケダヴラ。
その最終呪文の痕跡が、容疑者の杖の芯に微かに記録されていた。
不可逆な魔法の痕。それだけで、すべての疑いは“事実”として立ち上がる。
「冤罪では?」とささやく声もあった。
けれどそのマグルは、ひどく往生際が悪かった。
震える声で必死に否定を繰り返す姿に、
レギュラスは冷ややかに眉をひそめながら、ただ一つだけ思う――
お前には、誇りがない。
生き残ろうとする声は醜く、信念もなく、ただ命にすがるだけの音だ
その姿に息をもらすことすら、彼には不快だった。
静謐に任務を終え、焚き消されるように魔法を収束したそのとき、
そんな緊迫感を打ち消すような軽い声が、すぐ傍から響いた。
「……そういえば、君の奥様、体調が悪いんだって?」
言葉の主は、バーテミウス・クラウチJr.だった。
相変わらずの無遠慮な笑みを浮かべ、一切の空気を読まぬようでいて、妙に人の急所を心得ている話し方だった。
冷たい雨と魔法の残照がまだ身を濡らす中で、その言葉はひどく場違いに聞こえた。
レギュラスは表情を崩さず、ほんのわずかだけ間を置いてから言った。
「……ええ。少し伏せってますね」
できるだけ乾いた調子で返した。
社交的な笑いも誇張も排した一言だった。
それをどう受け取ったか知れないまま、バーテミウスは「そうか」と頷き、鼻で愛想をつくったかと思えば、軽く口元を緩める。
「じゃあ……帰りに寄っていくところがあるんだけど。少し、一緒に――」
「――結構です」
レギュラスの声は、あくまで丁寧に、しかし明確だった。
言葉を遮ったのは反射ではなく、明らかな拒絶の意志だった。
バーテミウスの背がわずかに揺れた。
だが、心に響いたかは定かでない――彼はすぐに何事もなかったように肩をすくめて、「じゃあまた」と呟き、霧雨の向こうへ消えていった。
残されたレギュラスは、一歩も動かずその背を見送った。
娼婦の街。
そういうことだ。
“気晴らし”だの、“疲れをほどく”だの、それらしい言い訳で誘ってくる。
だが、それはただ、なんの価値も誇りもない女たちと、無目的に身体を交わすということに他ならない。
なぜ、生まれも名も知らぬ者と、そこまで容易く交わるのか。
血の重み、家名の誇り、ひとつの命の意味さえ考えずに、
ただ欲望に任せて行く先に、何の責任があるというのか。
それを忌まわしいと思うことは、理屈ではなかった。
理解し得ぬ。それだけだった。
霧雨のなか、マントの裾を払うようにレギュラスは踵を返した。
思い浮かぶのは、上階の静かな部屋に伏すアランの姿。
身体は痩せ、血の気は薄く、それでも黙って、声ひとつ漏らさず娘を育てようとするその気高さ。
その傍にいま自分がいないという事実が、胸にじくじくと染みる。
せめて今からでも、ただ真っ直ぐに帰ろう。
けして清らかな世界ではない。
だが、自分自身とその妻が、その“穢れた命の交錯”に染まらぬよう。
せめて、自らの意思だけは、尊くあろうと――
レギュラスは、霧のなかに静かに歩を進めた。
遠ざかる街の明かりとは対照的に、その眼差しはひたすら誠実な光に向いていた。
屋敷の扉を静かにくぐると、玄関先にふわりと香るのは、やわらかな花の香と、乾いた空気にまじる家の匂いだった。
レギュラスがローブを脱ごうとしたその時――
「おかえりなさい」
その声が、まるで音楽のように廊下から届いた。
そこに立っていたのはアランだった。
やわらかい色味のショールを肩にかけ、髪はゆるくまとめられている。
その姿は、まだ万全とはいえない儚さを滲ませているのに、どこか確かに希望の光を帯びていた。
「アラン……」
その名前を口にするレギュラスの声は、ごく自然に、空気に溶けた。
無事でいてくれた――ただそれだけで、肩の力がすっと抜けた気がした。
けれど、やはり気がかりは拭えない。
「……起きてきて、大丈夫なのですか?」
問う声には、彼自身気づかぬほどの小さな震えが宿っていた。
アランはその問いに微笑むと、優しく頷いた。
「今日は、ほんの少しだけ調子が良いのです」
そう言って、手にした小さな銀のトレイごと、カップをひとつ差し出してきた。
「どうぞ」
カップからは、ふわりと甘く、すこし刺激的な香りが立ちのぼった。
レギュラスは眉をわずかに寄せ、鼻を近づけてみる。
「……ワインの匂い……?果物が……たくさん……これは、いったい」
アランはくすりと笑った。
「ナルシッサにいただいていたワイン、少し残っていたのを、果物と一緒に煮詰めたの。
プラムといちじくをたっぷり入れて。栄養も摂れて、身体も冷やしませんよ」
どこか誇りの滲む口調だった。
薬草と自然素材に通じた彼女らしい、「調合」とも言える仕立て。
確かにカップのなかでは、やわらかく煮込まれた果実がくたりと沈んでいて、ワインの香気に馴染んでいる。まるで冬のポーションのように、心をほどく香り。
「……しかし、これは……お酒では……?」
レギュラスの声には、どこか躊躇いがあった。
アランは、相変わらず穏やかな表情のまま首を傾げる。
「少量のお酒は、むしろ血の巡りを良くするのだそうです。
あくまで“作り物の眠り”ではなく、身体の力を緩めるために使うのなら――ね?」
まるで魔法薬の調合理論を語るような、穏やかな解説。
返す言葉を探しながら、レギュラスはそっとその湯気を吸い込んだ。
あたたかくて、果実の香りがやさしくて、そこにはどこか「アランそのもの」の気配が宿っている気がした。
「……今日は、本当に……調子が良いのですね」
自然に、そう呟いていた。
アランは照れたようにそっと視線を外して、卓の果実に目を落とす。
何も知らない世間では、妻が産後にふさぎ込んでいるだの、病に伏せっているだのと噂が立ち始めているのを思い出す。
けれど目の前のアランは――自らの痛みを抱えたままでも、小さな喜びを手離さず、こうして自分の帰りを待っていてくれた。
レギュラスの中で、張り詰めていたなにかがふわりと解けてゆく。
外の冷たい夜が、もう遠いもののように思えた。
「ありがとう、アラン」
囁くような声に、アランは微かに頷いた。
言葉は多くなくていい。ただ、この静かなやり取りが、ふたりにとって最も深い絆のかたちだった。
レギュラスはカップを持つ親指に、そっと力を込めた。
温もりがじんわりと掌に広がる。
彼女と過ごせるこの時間が「家」というものの本当の意味なのだと、胸のどこかが明るく染まっていくようだった。
静けさの中に、果実のあたたかい香りだけが、永くやさしく漂っていた。
風に揺れる朝の新聞。
騎士団の隠れ家の食卓、ミルクの湯気がまだ立ちのぼる朝のテーブルで、アリスは広げた紙面の一面に、ある見出しを見つけた。
〈ブラック家に第二子誕生 今度は姫君、セレナと命名〉
整った金の活字。
笑顔の賓客たち、揺れるティーグラス、貴族の高らかな賛辞……
だが、そこに並ぶ祝賀の言葉の最後、違和感のように残る文がひとつ。
「産後の回復が芳しくないとの情報もあり、奥方であるアランブラックの社交界復帰時期は未定との見方が強い」
アリスの指がその一文の上で止まった。
自分でも気づかぬうちに、唇を細く噛んでいた。
「……ねえ、シリウス」
新聞を読み終わったばかりの彼も、同じ記事に目を落としていた。
その横顔は、言葉では取り繕っていたが、目の奥は沈んでいた。
不安の色は、アリスにとって手に取るようにわかる。
かつての大事な人。誰よりも強く思っていたその人が、今どこで、どんな顔をして何を抱えているのか――
その想いに触れられないことが、シリウスにとっては何よりも痛みになっているのだ。
「……あいつ、無理させられてないかな」
「……レギュラスの隣で、息をするのもしんどいんじゃないだろうか」
ぽつりとこぼれるその声が、あまりにも静かだったから、アリスはかすかに胸が震えた。
きっと、シリウスは本当は――
“ただ知りたいだけなのだ”
彼女が無事か。
生きているか。
名前を呼んでいい場所に、まだいるのか。
ただそれだけのことが、彼の胸を焦がしている。
「だったら……」
アリスは夜のことを思い返す。
眠りにつく直前、ふと浮かんだアランの優しい顔。
かつての再会のとき、あの腕の中で感じたぬくもりと声。
「だったら、私が……なんとかしてあなたに知らせてあげられたらいいのにって、思うの」
こぼれたその言葉に、シリウスは少し驚いたように彼女を見た。
けれどアリスの瞳はまっすぐだった。
「だって、あなたがあんな顔をしてるのを見るの、もうやだもん」
笑った顔で言いながら、アリスのまつ毛の先にはかすかに湿り気があった。
明るさに隠れた愛情。
子どもらしさに宿した優しさ。
窓辺に差し込む午後の光が、アリスの髪を淡く照らしていた。
軽く風の入る寮の部屋で、アリスはペンを握ったまま手を止めていた。
机の上には広げられた新聞、その端には「ブラック家に姫君誕生」の文字が小さく残っている。もう擦り切れるほど読んだその一面を、彼女は何度目かのため息と共に伏せていた。
──行かなきゃ、伝えなきゃ。
アランさんが……無事であることが。
それだけを、どうしても、シリウスに確かめたい。
もし何かがあったなら。もし苦しんでいるのなら。
けれど。
それほど単純な話ではなかった。
アリスはブラック家の血を引いていない。
マグルの出身。
その名を与えられていても、それが“本物”として通用する場所では、この世界は決してやさしくない。
その名家の敷居を跨ぐということ。
王朝の門を叩くほどの、大義と覚悟が要る。
──わたしなんか、行ったところで門前払いよ。
そう脳裏に浮かんだ声は、誰かのものではなく、いちばん自分自身に近い不安だった。
それでも。
「でも……誰かが知ってなきゃいけない」
語尾が少し震えた。
無事だと、そう言える誰かがいなければ、
心配で足もつかなくなるような人がそばにいる。
それが、今すぐにどうにもならない感情だとしても――
今のシリウスにとって、それがどれほど支えになるのか、考えるまでもなかった。
アリスは立ち上がった。
ホグワーツの制服の胸元を整え、鏡の前で自分の顔を見つめる。
「子ども扱いされないようにしなきゃ」と、口もとをすこし引き締めた。
頭の奥に地図を描くように、方法を探しはじめる。
その血筋であろうと、なかろうと、今この思いが偽りでないかだけが重要だ。
ブラック家に直接告げ口をするようなことはできない。
だが、「たまたま」屋敷の周辺に寄る人の群れのなかに紛れ込めば――
あるいは、使用人の眼に、顔ぐらいは届くかもしれない。
その場では無理でも、名を伝えることはできる。
星のない夜だった。雲が低く垂れ込み、月明かりさえ覆い隠した薄暗さの中に、ブラック家の荘厳な屋敷がひっそりと立っていた。
アリス・ブラックは、その鉄の門を見上げて、しばらく息を呑んでいた。
仄かな魔力が鼓膜の奥にじわりと響く。結界。防護のための呪文が複雑に編み込まれていることは、魔法に心得のある者でなくても肌で感じ取れるほどだった。
それでも、彼女は――進む。
静かに、そっと屋敷の裏手を回る。
その目が捉えたのは、庭園の生垣に沿って地をはくように雑草を処理していた、ひとりの使用人――メイドの姿。
ためらいは、一瞬だった。
「—Stupefy.」
小さな声で、それでも正確に呟いた。
光が走り、音もなく使用人の身体が傾き、地面に倒れ込む。
アリスはすぐさま屈み込み、夫人用に整えられたメイドの後れ毛を一本そっと抜いた。掌に隠し持っていた小瓶に、素早くその髪を落とす。
中から立ちのぼった液体は、濃いグレーのような色をして泡立ち、ゆっくりと色づいていった。
息を呑み、アリスはその薬を一気に喉に流し込む。
痛みよりも、身体がすうっと変化する感覚。
身長がわずかに伸び、指先の肉付きが変わる。肩がひらき、視界の高さが変わる。
――成り済ました。
こんなこと、本当はしたくなかった。
でも。
「……会いたいのよ。どうしても」
それは、誰のためでもない。最初はシリウスのためだった。
だけど今この瞬間、自分の足がこの屋敷の前に立ち、魔法を振るい、ポリジュース薬を飲み込んでまでアランに近づこうとしている。
その想いは、誰のためでもない。自分のためだった。
本当の母を知らない自分にとって、アランはまるでほんとうの母のようだった。
母であり、姉であり、導き手であり――何より、命を賭けて自分を守ってくれたたった一人の人だった。
守られてきた命。
今度は、自分が助けたい。
たとえこの訪問が一瞬だけのものでも、たとえ何もできずに帰ることになったとしても、
その姿を、一目見るだけでいい。
『ブラック家』。
それは名前ではなく、“空気そのもの”だった。
門を抜けて敷居を踏んだ瞬間、アリスの肌に張りつくような圧が覆いかぶさってくる。
屋敷全体が、生きていた。
内側から吐き出されるような魔力。壁に並ぶ絵画の視線。重さを湛えた家具と調度……そのすべてが「血」と「誇り」の驚くほどの密度で組み上げられている。
メイド姿のまま、挨拶するでもなく進み出たが、その歩幅ひとつ、手の添え方ひとつにもマナーが要ることをすぐに悟った。
息をひそめ、ただ歩く。
黒と銀で整えられた天井の高い廊下。絨毯に沈む足音。
冷たさと威厳が満ちた空間は、記憶の中のどこを探しても見つからない――アリスは、心の底から思った。
「こんな屋敷、見たことがなかった――」
一歩ごとに、自分の存在が極めて異質なものに思えるほどだった。
それでも、歩みを止めない。
一瞬でも、その奥にある部屋で喘ぐ誰かに、手が届きそうな気がして。
アリスの手は、ドアノブにかけられた白いリボンに――ほんの一瞬だけ、触れた。
緊張で脈が早まる。
アランは――きっとこの奥にいる。
覚悟と祈りが、そっと胸に満たされていく。
目を伏せたまま、一歩ずつ。ふいに見つけた光の先へ、静かに歩む姿には、幼さも無謀さも、すでになかった。
それは、彼女の成長した命が、一つの約束を果たそうとする物語のはじまりだった。
扉に手をかけたその瞬間だった。
背後からわずかに低く、だが明瞭な声が空気を切った。
「……何をしているんです?」
凍りつくような静けさのなかで、その言葉は、まるで刃を添えたように響いた。
アリスは息を呑み、ぞくりと背筋を強張らせた。
指先から体中にかけて、うすく冷たい感触が這い上がっていく。
ゆっくりと振り向いた先――
そこに立っていたのは、レギュラス・ブラック。
黒のローブを纏い、完璧に整えられた姿勢と無駄のない所作。
けれど、それ以上に、純粋な「威圧」がそこにはあった。
アリスの呼吸が不意に浅くなる。
――覚えている。
あのホグワーツの裏通路で、自分をまっすぐ見据えながら放った言葉。
「あなたがブラックの名を背負うことの意味を……」
あのとき背筋に感じた、氷のような殺意。
そして今、よりにもよって――初めて屋敷に足を踏み入れたばかりのこの瞬間に、真正面でこの男に出会ってしまった。
息をすることさえ怖い。
心臓が胸の奥で跳ねた。足先が凍りついたように動かない。
何かを言おうとするが、喉がうまく働かない。ポリジュース薬で変わった声でどう言い訳すればいいか――頭がまっ白になりかけた、まさにそのときだった。
カチリ。
静かに、だがはっきりと扉の音が鳴る。
木製の重厚なドアが、内側からゆっくりと開いた。
「……レギュラス? 何を話していたんです?」
柔らかく、けれど確信のこもる女性の声。
そこにいたのは、アランだった。
その姿を目にした瞬間、アリスの心はぶわりと震えた。
まるで、遠い夢の奥から姿を現した光景のようだった。
ショールを肩にかけ、細い指先で扉を押さえたまま佇むアラン。
少し痩せた頬。
けれど、瞳は静かで、しっかりと彼女のまっすぐな人格を宿していた。
その姿を見ただけで、アリスの胸に熱が走った。
まるで、切れかけていた絆が、目に見えるかたちで繋がれたように。
しかしその余韻を破るように、レギュラスはごく端正な調子で言った。
「いえ……メイドが、あなたの部屋に入ろうとしていましたので……確認していただけです」
姿こそ乱れていないが、その視線は明らかに研ぎ澄まされていた。
ほんのわずかでも、ただの偶然と片付ける気のない男のまなざし。
アリスの中で全身の思考が乱れ出す。
このまま何か理由を述べなければ、不審を招くだけ――どう言えば、どう繕えばと焦る。
口を開こうとする、その刹那。
アランがすっと、アリス――いや、使用人に化けた“彼女”に目を向けて、やわらかく話しかけた。
「私が呼んだのよ」
その声音は自然で、何の矛盾も感じさせなかった。
「部屋に置いておいたハーブが……ちょっと元気がなくて。
少し手入れの魔法をかけようと思ったの。専門の子が巡回に来る日じゃなかったでしょう?」
アランの声が、まるで糸を通すように空間の緊張をほどいていく。
あまりに自然すぎて、それ以上の詮索を差し込む余地さえなかった。
レギュラスはアランを見つめながら、しばらく何も言わなかった。
そのまなざしが何を読み取ろうとしていたのか、
鋭さは緩まぬままに、けれど最後にはただ静かに、うなずいた。
「……そうですか。お気をつけて」
一言だけを残し、彼はひとつ身を引いて廊下の奥へと消えていった。背中を預けるその姿に、アリスは思わず力が抜けそうになった。
アランが扉を開いたまま佇み、再び小さな一呼吸をした。
「入っていらっしゃい。今なら、誰にも見つからない時間よ」
その囁きが、まるで家路のようにあたたかく響いた。
アリスは深く一度、頭を下げるようにして――静かに、その扉の内側へと足を踏み入れた。
アリスは扉の隙間からそっと歩を引いた。
声をかけることができなかった。
あの瞬間、アランが自分を庇ったのは間違いなかった。
けれど、その表情はどこまでも自然で、彼女にとってはまるで息をするのと同じように「守る」ことが当たり前のようだった。
言葉もなかった。ただひとつの助け舟が、
アリスの胸の奥に、じわじわと温かさを広げていく。
(やっぱり、私は……)
守られてばかりだ。
その現実に、小さく心を震わせながらも、アリスの脚は静かに動き出していた。
どうしても……今、この家のなかの “彼女” を、この目で追いたかった。
少しだけでも会話ができたらと思っていたが、それも叶わず――
ただ、「どんなふうに彼女は歩くのか」「どのように、この日々を越えているのか」を知りたかった。
アランの小さな背は、すぐ先を、胸元を押さえながら歩いていた。
けして堂々とではない、けれど確かに気高く、落ち葉を踏まずに進むような足取り。
アリスはその後を、使用人の姿のまま、自分の影をかすませるようについてゆく。
向かった先は、屋敷の中央に広がる長い食卓だった。
吹き抜けの天井にかかった重厚なシャンデリアの光が、金と藍の交じる調度品を照らしている。
無人の広い部屋ではなかった。
そこには一人――静かにワイングラスを傾ける男の姿があった。
レギュラス・ブラック。
アリスの目が微かに揺れる。
彼が着ているのは漆黒のローブ。金糸の刺繍が静かに光りを孕み、その肩の傾け方ひとつですら、なんの無駄もない貴族の所作だった。
斜めに差し込む光のなか、彼の表情は凍りついたように静かだった。
そこへアランが、音もなく近づき、彼の斜め向かいにそっと腰を下ろした。
その動きが、あまりにも自然で、
その距離感が、息をあわせるかのように当然すぎて――
アリスは、胸の底を何か冷たい水で満たされるような感覚に襲われた。
(アランの隣に、レギュラス・ブラックがいる)
その事実が。
その「ふたりが並んで食卓を囲んでいる」というたったそれだけの情景が、
彼女の心のなかで、なぜかうまく現実として受け止めきれなかった。
シリウスが語る過去の面影。
寄り添っていた人と、引き裂かれた想いの痕。
そして今、目の前にある、
流れた月日のなかで「家族」として在る、このふたりの姿。
レギュラスはちらりとアランに視線を向け、
何かぽつりと短く話したのかもしれなかった。
アリスの位置からでは聞き取れなかったが、
アランの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
あの人が、“笑った”。
胸の奥で何かを感じながらも、アリスの両手は軽く握りしめられていた。
(わたしとは、違う世界だ)
そう思った。
けれど、それを“羨ましい”とも“悲しい”とも言葉にすることは、
この夜の沈黙に、あまりにも似つかわしくなかった。
静かに揺れるランプの灯りの下で、
まるで舞台の遠景のように浮かぶふたりの背中をじっと見つめながら、
アリスは、そこに流れる空気の「重さ」と「距離」を、
ただただ感じていたのだった。
アリスは柱陰に身を寄せたまま、遠目に食卓のふたりを見つめていた。
磨き込まれた長いオーク材のテーブルには桃色のランプシェードが灯り、
アランとレギュラスの手元にだけ、淡い輪郭の光を落としている。
アランは細い指先で陶器のカップを撫で、
レギュラスはワイングラスの脚を静かにまわしながら、
どちらともなく短い言葉を交わした。
囁きに似た声は距離のせいで音にならず、
しかし唇の動きと瞳の緩い笑みだけははっきりと見えた。
胸を刺す過去の残像
けれどアリスの耳に蘇るのは、
ホグワーツの石壁の裏で聞いた男の声――
「あなたが“ブラック”の名を背負うことの意味を…」
冷えきった金の瞳。
アランの腕を乱暴に引き寄せ、
彼女を“家の財産”のように扱ったあの光景だった。
その記憶のなかのレギュラスは、人を屠る闇の盾を纏い、
慈愛などひとかけらも映さなかった。
今、同じ男がアランの隣で穏やかに笑っている。
その矛盾が、胸の奥で鈍い痛みを生む。
シリウスなら──
(シリウスなら絶対にあんな目でアランを見ない)
アリスは自分に言い聞かせるように唇を噛んだ。
シリウスが語る昔日のアランは、
いつも夕陽色の温もりに包まれていた。
ふたりで空を飛び、草の匂いを吸い込み、
互いを従兄妹ではなく友として、ひとりの人として敬い合っていた。
それを壊したのは――この男だ、と。
だからこそ、レギュラスはアリスにとって絶対悪の象徴であり続けていた。
目の前の「今」
なのに、目の前でアランは笑っている。
頬の蒼さや指の痛々しい細さは、
決して順調とは言えない回復の証かもしれない。
それでも彼女の目尻には、確かな安堵のしわが刻まれている。
レギュラスがワイングラスを置き、
カップの位置をアランの前へそっと寄せた。
アランは軽く会釈しながら、その指をグラスではなく
テーブルクロスの縁に置いたまま、
ふと天井に目を向ける。
淡い髪が頬にかかり、レギュラスの指が迷いなくそれを払った。
その仕草に痛みはなく、
冷えた権力者の貌ではなく、
家族を気遣う人間の温度が宿っていた。
アリスの揺らぎ
息を呑む。
(無理して笑っているだけ?
本当は鎖につながれているだけ?)
疑念は波紋のように広がるが、
同時にアリスの胸にもうひとつの感情が芽ばえた。
――もし、この場所で守られている笑みなら。
――もし、あの夜の氷よりも柔らかなものが
彼の中に芽生えているのなら。
それを断罪する資格が、自分にあるのだろうか?
アリスはそっと拳を握りしめた。
レギュラスの罪と向き合うべきはアラン自身だ。
外から来たマグルの少女が裁きの秤を掲げることは、
もしかすると単なる「思い込み」かもしれない。
影から見守る決意
ひとつだけ真実がある。
アランが静かに生きている――
それがシリウスに届けるべき唯一の朗報。
その安堵を胸に、アリスは陰影濃い柱の影をそっと後ずさった。
彼女ができるのは、
この場で剣を振りかざすことではなく、
確かめた光を、確かめた温度を、
そのままシリウスへと手渡すこと。
レギュラスがワインを注ぎ足し、
アランが細く笑ってありがとうと口を動かす。
ランプの光が二人のグラスに映り込んで、
深い紅が淡い琥珀と重なった。
アリスはその柔らかな色合いだけを
胸に掬い取るようにして――
足音を忍ばせ、遥かな廊下の暗がりへと消えていった。
屋敷の廊下は夜の静けさにすっかり包まれていた。
遠くの窓越しに灯る壁のランプが、床に長く儚い陰影を伸ばし、アリスの影を包み込んでいた。
掃除道具置き場へと続く裏通路――
誰の目にも触れないように、音も気配も消すようにして歩いていたはずだった。
でも。
思考だけが、どうしても静かについてこなかった。
レギュラス・ブラックのあの表情。
アランに触れていた、あの手の動き。声の柔らかさ。
——知らなかった。
あんな顔ができる人だったなんて。
ただ冷たく鋭く、何かを断罪する者としての顔しか知らなかった。
けれどその夜、アランとともに灯りの下で静かに言葉を交わしていた彼は、まるで長い年月をともに生きた伴侶のように、
彼女を 知っている という体温をまとうようだった。
見てはならないものに触れてしまった気がした。
いや、むしろ——
見たくなかった現実を、見てしまった。
アランは笑っていた。
誰でもない、「彼」の隣で。
心の奥で、祈るように願っていたことがある。
アランを大切にするのは——
シリウスであってほしい、と。
願望だった。
心の奥底で、ずっとそう思っていたのだと、ようやく気づく。
彼がアランの隣にいてほしいと。
ずっと、大切に、大切にしてきた想いが、
その夜のひとつの光景だけで、音もなく崩れていくのがわかった。
家族がいなかったアリスにとって、
アランは母親のようで、シリウスは父親のようだった。
そうであってくれたから、これまで寂しくなかった。
だからこそ、そのふたりが愛し合わなかったことや、
共に生きなかった時間が、
歪んで届く世界の真ん中に見えて、
今の現実が、どうしても許せなかった。
心が痛んだ。
その痛みが、自分勝手なものだということすら、もう分かっていた。
アリスは、ただ静かにこの屋敷から離れようと思っていた。
何も起こさず、何も残さず、
ひっそりと、借りた時間を返すように。
裏階段を降りて、
掃除道具室に寝かしておいたメイドの元へ戻ろうとしたときだった。
足裏がわずかに滑った。
ほんの少し、背中に背負った疲れが滲んでいたから。
ほんの少し、踏み締めが甘くなっていたから。
重たい音は出なかった——けれど、
——カランッ
床に杖が転がったのは、
小さな鐘が落ちたような、澄んだ音だった。
アリスは、はっとして息を呑んだ。
音が廊下に響いていく。
思いのほか乾いた屋敷の空気に、それはよく通った。
心臓が跳ねた。
冷たいものが頬をなぞった気がする。
逃げなきゃ。
拾わなきゃ——でも。
足がすくむ。
音の方をゆっくりと振り返ると、
廊下の奥にわずかに揺れる光。
誰の足音も、まだ聴こえなかった。
けれど間違いない。
今ここに いないはずの誰か の気配が、はっきりと——
こちらへ、近づいてきていた。
アリスは、杖を見つめたまま、
声なき悲鳴を胸の奥で噛みしめていた。
石の廊下に魔力の余韻がまだひりつくように残っていた。
アリスは、息を止めていた。
先ほどまで手にしていた杖が、もうこちらにはない。
それは、レギュラス・ブラックの手の中にあった。
――ギリギリ当たらない程度の警告の呪文。
その軌道の見事さに、胸の奥では震えながらも思ってしまった。ただの怒りや攻撃ではない。
彼はちゃんと見ている。すべてを。
そして、確かに――見抜かれていた。
足音はもう、すぐ近くにある。
「おかしいと思ってましたよ……“メイドさん”」
その声は、表面こそ静かに整っているのに、否応なく皮膚を切り裂くような鋭さを孕んでいた。
嘲りでも、怒りでもなく……むしろ冷酷な認識。
「正体が分かった」と、あとはただ手順を踏んで片付けるだけだと、そう言っているかのようだった。
背中には凍るような汗。
言いわけも、逃げ道も、もうどこにもなかった。
ポリジュースで変えた顔はどんどん崩れていく。
でもその時だ。
「……っ、レギュラス!」
アランの声。
走ってきた少し荒い呼吸の音とともに、
踏み込んだ足が一歩、ふたりのあいだを強く揺るがせた。
その顔は、蒼い。
まだ癒えきらぬ身体を引きずるようにして、アランがレギュラスの背に追いついたとき、
その表情には驚きと痛みが入り混じったものが浮かんでいた。
「……どうして……アリスが……」
息がかすれ、言葉にならない思いがその瞳ににじんでいた。
アリスは見つめた。
アランが本当に、そこにいてくれた。
ずっと「一目会いたい」と願っていたあの人が。
自分を守ってくれた、光のような存在が。
目の前にいる。
でも、その人がいま、この冷たい男の名を呼んだ。
それが、身体の内側で何かを崩した。
アランが、レギュラス・ブラックの隣にいる現実。
呼び慣れた声で彼を名で呼び、懸命に追いかけてくるその姿。
(こんなに苦しそうな顔をして……こんな男の隣で……)
いやな感情だった。
嫉妬かもしれない。
怒りかもしれない。
でもそれよりもっと近いのは、「哀しみ」だった。
アリスの唇がわずかに震え、目の奥が急激に熱を帯びていく。
違ってほしかった。
アランは、こんな男に縛られているわけじゃない。
そんな世界じゃなくて。
アランは、母で、そして傍にいてくれる存在で。
シリウスが父であってくれればいい。
ずっと、そうであればよかった。
でも、そんな願望は、現実の音を伴って崩れていく。
レギュラスの手の中にある杖の存在が、
アランのひどく痩せた肩が、
すべてを物語っていた。
涙が、こぼれた。
静かに、何の音もなく。
(ちがう、こんなの、……こんなはずじゃなかった)
自分勝手な夢と幻想にすがっていただけだったと。
彼女たちの生きてきた現実を、ただ受け止めきれていなかったと。
思い知らされる。
背後で杖を掲げ続けるレギュラスの気配さえ、もう遠かった。
目の前にいる、ただアランの姿が――眠るように優しい目元が、
今のアリスには、痛いほどまぶしかった。
アランがポツリと呟いた。
「……アリス……どうして……こんなことを……」
その声には責めても怒ってもいない。
でも、それが余計に苦しかった。
どうすればよかったの、と心の中で叫びたかった。
どうしても会いたかった。
確かめたかった。
あなたが笑っていてくれるかどうかを。
でも、そこにいたのは、自分の知らない世界で生きているアランだった。
そんな彼女を“アリス”と呼んだのは、
多分、名前だけではなく――
“想いの深さ”が滲んでいた、と、アリスは感じてしまっていた。
もう、堪えきれない。
それが、「大人になる」ということなのかもしれなかった。
願っていたものと、現実が違っても、
それでもそこにある愛情は確かで、
涙が止まらないことにも、ちゃんと理由があった。
屋敷の石床に、透明な雫が音を立てて落ちた。
アリスは、ただそれを拭うことさえ忘れて、
静かな嗚咽を胸の奥で噛みしめていた。
廊下に張り詰めた沈黙は、言葉よりも重たく、静かにすべてを締めつけていた。
レギュラスの手には、アリスの杖がまだ握られたままだった。
その長い指先の微動だにしない力に、アリスはもう逃げ道のない現実を悟っていた。ポリジュース薬の効果は完全に終わりを迎えており、姿かたちも全てが元に戻ってしまっていた。
「……随分と、大胆なことをしましたね、アリス」
レギュラスの声は低く、ひどく静かだった。
怒号や嘲笑ではない。むしろそれは、静かに響く氷の音のようだった。
責めるというよりも、ただ「理解不能な行動」に向けられる哀れみに近い色が滲んでいた。
アリスは言葉を失っていた。
目が落とせない。呼吸だけが、自分の存在を証明していた。
そして、その場の空気を切るように――
「……待って、レギュラス」
アランが一歩、震える足でその間に割って入った。
手すりを掴んでいたか細い指が、今は前に差し出されている。
「彼女を……お願い、アリスは……私を見に来ただけ。
本当のことは私が説明するから、ただ、これ以上は……」
その声には明らかな焦燥と、混乱が混じっていた。
体調の悪さを誤魔化しきれない蒼い頬で、それでもアランはアリスの前に立ち、懸命にかばおうとしていた。
けれど――
「……忠告はしたはずですよ、アリス」
レギュラスが目を逸らさず、冷たく言い放つ。
「あなたが“ブラック”の名を背負うならば、
その名は、いずれあなた自身を――灼く、と」
その言葉は、かつてホグワーツで突き立てられたあの峰鋭い忠告と寸分違わず、
けれど今、アリスの胸に突き刺さったのは責めではなく、“現実の重み”だった。
望んだ名だった。
誇りとして受け取った名だった。
でもその名が、いまこうして、知らぬうちにアランを傷つけ、
背負いきれない呪いのように牙をむいている。
再び、レギュラスの声が響く。
「……クリーチャー」
低く呼ばれたその名に、小さな“パチン”と音を立てて、奥の影から姿を現したのは、長年この屋敷に仕える屋敷しもべ妖精だった。
白く濁った目と、年輪の刻まれた顔。
「この屋敷の敷地内のどこかに、“本来の”メイドがいるはずです
……今すぐここへ連れてきてください。可能な限り、丁重に」
「はっ……旦那さま。承知しましたとも……クリーチャー、すぐに連れてまいります……」
奇妙に上下する声を残して、しもべ妖精は瞬時に姿を消す。
アリスの足が一歩、後ずさろうとする。
けれどアランの手が、そっと彼女の手首を掴んだ。
「だめよ、アリス。もう――逃げないで」
声音には涙がにじんでいた。
彼女を庇うというより、自身の願いのように、それは語られていた。
アリスはその手を見つめる。
ふるえて、青白くて、それでもあたたかい。
まるで昔と変わらぬ、あの“寄り添ってくれた人”の手だった。
願望だけで塗り固めた父と母の像が崩れていったとしても。
この手だけは、嘘ではなかった。
静かに、アリスは瞼を下ろした。
ひとしずく、涙が頬をつたって落ちた。
それは叶わぬ幻想をこぼしていく、静かな別れのようだった。
廊下に張り詰めていた空気は、もはや「静けさ」という言葉では言い表せなかった。
硬質で重たく、息を呑むことさえ思いとどまってしまうほどの、
制圧された沈黙。
その中心にいたのは――レギュラスだった。
手にはアリスの杖。
彼の瞳は、まるで冷たい石碑のようだった。
黒曜石に閉じ込められた意志。
その背に宿るのは、ブラック家当主としての誇りでも、怒りでもない。
それは――〈決行者〉の眼だった。
不穏を前にして、遠慮も感情も、すでに切り落としている人の顔。
アランは背筋が凍るのを感じていた。
何か理由があるのだと思った。
だから、扉の外に立っていた“そのメイド”に助け舟を出したのだ。
いつもより口数が少なかったけれど、忙しいのだろうと軽く受け流した。
その判断が命を救う橋になると信じて――
それがまさか。
アリスだったなんて。
瞬間、すべてが崩れ去った。
冷たい床石の上に散らばる現実。
理解が追いつかない。追いつきたい心が崩れていく。
レギュラスの怒りが――“頂点”に達していることだけは、誰よりも明白だった。
その冷え切った沈黙のなか、アリスはもう声も出せず、ただ、
きつく唇を結び、大粒の涙を落としていた。
その涙が――ひどく幼かった。
背丈はもう十分に大人だ。
頬の線も深くなり、少女の面影は少しずつ遠のいてきた。
けれど、その涙はすべてを覆してしまう。
この子の心は、まだ…まだ子どものままなのだ。
子どもなりに、心を込めて、必死に想って、
どうしても「会いたい」ただそれだけで——
屋敷に忍んできたことだった。
――そんな顔を、アランは見てしまった。
秒針が遅く、生々しく響く感覚のなか、
アランはふらりと前に出る。
「レギュラス……どうか…! アリスを、罰しないで……」
その声は決して強くなかった。
けれど全身を振るわせながら、
それでも尚そこに立ち塞がろうとする、その姿に込められた願いは――切実だった。
「お願い、少しだけでいい……話をさせて。アリスは……悪意を持ってここに来たわけじゃない……!」
その懇願の言葉にも、
レギュラスは――まったく、反応しなかった。
視線すら合わせない。
まるで、アランの存在すら、今は脇に置かれているような冷たさ。
彼はただ、本質的な決断を下す“秤”でしかなかった。
そして、ひどく静かに、レギュラスは口を開いた。
「クリーチャー」
「……はい、旦那さま」
再び姿を現した小さな屋敷しもべ妖精が、こともなげな手つきで、
両手にくたくたになった“メイドの本物”を担いで現れる。
その身体が、石畳の床にそっと横たえられたとき。
白い制服。
浅く乱れた髪。
そして、一目でそれと分かる、ホグワーツの制服――おそらくアリスのものと思われるものを上から無造作に着せられていた。
違う、今すぐ弁明しなきゃ、言葉にしなきゃとわかっていたのに。
その瞬間。
「Avada――」
たったその一音を聞いた、その刹那。
アランは、呼吸が止まった。
何も知らない“部外者”を、
この男は、迷いも躊躇もなく消そうとしている。
脳裏が真っ白になった。
息が、できない。
レギュラスの声も、呪文の余韻も、すべてが薄靄の中で遠く響いていた。
「だめ――ッ!!」
誰かの叫び声が、ようやくこの空間を切り裂いた。
それは、アランの背後にいるアリスだった。
少女の甲高い悲鳴。
必死の叫び。
その声が、ほんの一秒でも伸びてくれたなら。
たったその一秒が、
命を繋ぐ最後の抗いとなれるのかどうか。
今、祈りより切実な音が廊下中に響いていた。
誰しもの視線が、止まった。
時もまた、固く止められる希望を探しているようだった。
