3章
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一方、背後のホールでは、落ち着いたソファとティーカップを前に、ヴァルブルガとオリオンが静かに読書をしていた。
ふたりの態度は、終始変わらなかった。
最初の緊急の知らせが伝えられたあの夜、形式だけの声がけがあったきり――
「知らせがあれば呼びなさい」
「産まれたらで充分」
その一言ですべてが終わった。
彼らには“ふたり目”であるということが、特別ではなくなるには十分だった。
長男の誕生には儀式があり、祈りがあった。
だが、今はもう「名を継ぐ準備」は済んでいる。
新たな命のために何かを手にしようとする姿勢は、そこに存在していなかった。
堂々と夜の灯のもとで談笑を交わす姿すら、あまりに静かで、あまりに冷たい。
レギュラスにとって、それはどうしようもなく異様だった。
ただ、この廊下の先、扉の向こうにいるアランを待っているのは――
レギュラスと、アルタイルのふたりだけ。
何時間も抱き続けている息子の体は、時折ふんわりと温かい眠気をまとい、けれど再び目を開けるとそこに、まだ帰ってこない「まま」の不在を感じてしまうのか、小さく鼻をすすった。
レギュラスは、そっと額を寄せた。
「もうすぐ……きっともうすぐだから」
祈りのようなその言葉は、時に自分を保たせる最後の呪文にも聞こえていた。
アラン。
どうか――どうか、無事で。
君の手を、まだ離したくない。
君がいなければ、この子の「世界」は、どれほど小さくなってしまうだろう。
廊下に漂う灯のかすかな揺らめきだけが、父と息子を包んでいた。
まるで、そのひとときごとに、まだ扉の向こうで命をかけるひとの「鼓動」を知ろうとしているかのように。
窓の外にはすでに星の瞬きも消えかけていた。
まだ夜明け前、けれど時間の輪郭が滲み、空の蒼さがわずかに透け始めている時刻。屋敷はすべての気配をひそめ、ただひとつ、廊下の短い灯だけが父と子のふたりを照らしていた。
アルタイルはその灯の下、レギュラスの胸のなかに抱かれていた。
目は開いていた。けれど、もうほとんど眠っているも同然だった。
言葉もなく、まばたきすらゆるやかで、ただその小さな瞳には、ずっと同じ一点――閉ざされた扉が映っていた。
それでも、彼は眠ろうとしなかった。
何度も頭を撫で、「もう少しで朝だ」「ままはきっとがんばってるから」と語りかけられても、アルタイルは頑なに目を閉じようとはしなかった。
体はすでに、とっくに限界をこえている。
それでも、彼は“待つ”という小さな決意にしがみついていたのだ。
母に会いたい。
母が……帰ってくるその瞬間まで、「目を逸らしたくない」と――。
レギュラスは、そんな息子の小さな肩にブランケットをかけながら、胸の奥が締めつけられるように詰まるのを感じていた。
(まだほんの小さな背で、こんなにも……)
堪えなくていいはずの想いを、堪えようとしている。
涙も、言葉も吐かず、ただ抱かれながら母のことだけを想い続けているこの子は、いつからこんなに“強く”なったのか。
そしてその静寂の中、
──ふいに、扉の向こうから、音がした。
最初は聞き間違いではないかと思えた。
ほんのわずかな、空気の震え。
でもそれは確かに、ひとつの産声へと変わっていった。
目を伏せていたレギュラスの全身に、じわりと一斉に血が巡る。
「……!」
息が吸えないほどの一瞬。
そのまま、抱いていたアルタイルを胸にしっかりと抱えたまま、彼は反射的に立ち上がった。
その動きで、ようやくアルタイルの瞳が大きくひらいた。
そして、音の正体がわかったその瞬間、
胸の奥に張りつめていた何かがぷつりとほどけたように、
彼はしゃくりあげそうな声で、震える呼吸の中から、たったひとことだけ口にした。
「……まま……!」
眼差しの先にある、まだ閉ざされた扉。
けれど、その向こうに、確かに母の“生きた声”がある。
父の腕のなかでぐっと身を起こし、ぴたりと止まったように耳を澄ませるアルタイル。
その目には涙はなかった。ただ、眩しそうに――今、息をする誰かを探すように――まっすぐ、未来だけを見つめていた。
レギュラスは、そんな息子を静かに強く抱きしめた。
胸に来るものは、歓びとも、恐れとも、希望ともつかない。
けれどそれらすべてを混ぜ込んだ祈りのような温もりだけが、
確かにいま、この奇跡に触れている父と子を、ぎゅっと包んでいた。
廊下の空気は、まるで何かが祈りきった静寂そのもののようだった。
夜と朝の境はすでに溶け、薄い光がゆっくりと屋敷内を押し広げていく頃。
ようやく、扉の向こうで命は形となり、音となり、この世界に生まれてきた。
そしてその直後だった。
静かに開いた扉の隙間から、ひとりの使用人が現れた。
両腕に、まだ布に包まれたばかりの小さな赤子を抱きしめるようにして――
「……姫様でございます」
低く、けれどどこか晴れやかなその報せの声に、空気がかすかに震えた。
だがレギュラスのまなざしは、すぐに赤子へとは向かわなかった。
アルタイルもまた、父の腕のなかでじっと、誰かを待つように扉の奥を見つめたまま動かない。
―― アラン。
それ以外に、いま確かめたいものは何もなかった。
使用人は、静かな呼吸で続ける。
「奥様も……ご無事です。」
たったそれだけの言葉。
けれど、レギュラスの胸から、張り詰めていた何かが、音を立ててほどけるのがわかった。
まるで深い水底へ沈んでいた体が、ようやく春の空気に触れたような、
喉の奥が焼けつくようで、それなのに温かい、
崩れ落ちそうになるほどの安堵が、静かに、確かに胸から漏れ出した。
「……そう、ですか……」
扉の奥へ視線を送りながら、絞るように吐かれた声は、震えていた。
次の瞬間――
レギュラスの腕の中にいたアルタイルが、ふいに身体をくねらせて抜け出した。
「アルタイル?」
思わず呼んだ声が廊下に響く。
けれど、聞こえていても、届かない。
アルタイルは迷いなく扉のほうへ駆け寄った。
その背は幼くとも、歩幅には迷いがなく、
扉の前で小さく息を吸い、ひとつ杖を引き抜き、掲げた。
「Alohomora」
静かな呪文が淡く響く。杖先に灯った光が鍵の中で柔らかく反応した。
まだ低く、舌足らずな発音。
けれど、その仕草には、いつだったかヴァルブルガと訓練していたあの上下の動きすら正確に宿っていた。
カチリ、と音がして扉が開く。
「待ちなさい、アルタイル」
レギュラスの声が急いで追いかけるが、その背へはもう届かない。
小さな足はすでに、その白い扉の奥へと吸い込まれていった。
室内には薬草の香とともに、あたぼうな濃い香油と汗の気配が混じっていた。
布団の中、アランは上体を少し起こした。
その顔は蒼白で、まぶたの奥に深い疲労を滲ませていたけれど、どこか光のようなものがその瞳には宿っていた。
そして――そこに、アルタイルが現れた。
止まらなかった足が、すんと音もなくアランの枕元へやってきて、
手を伸ばすこともなく、ただ目を見つめた。
「まま……」
その声は泣き声ではなかった。
けれど、あまりにも多くを堪えてきた胸の奥の音が、
そのひとことの中にすべて詰め込まれていた。
アランは、微笑んだ。
力を抜くように、安心を流すように。
そして、空いてる腕を小さくひろげて、
小さな背中を、そっと受け入れて抱き寄せた。
父の目が、扉の奥にたゆたうその光景を、静かに見つめていた。
新たな命と、母のぬくもりにふたたび触れた幼い息子の背を、
もう手放すまいと、レギュラスは胸に誓った。
この夜の、すべての涙と祈りが、ようやく報われたのだと。
屋敷の廊下はまだ夜の深さを帯びていた。
扉の隙間から見えた部屋の内側には、汗と血の滲んだ布がいくつも散らばり、床には幾度も取り替えられた桶が整然と並べられていた。
産声が聞こえたとき、あの光に包まれた瞬間でさえ、レギュラス・ブラックは一歩、部屋の内へ踏み込むことができなかった。
――それは、男が踏み越えてはならない境界なのだと。
幼い頃から刷り込まれてきた、不可視の“礼儀”がそこにあった。
女性の戦場に、男が土足で踏み入るものではない。
血と苦痛に濡れた産室の中は、命を繋ぐ女たちだけの神聖で、秘められた場所。
けれど――
それでも、本当は。
本当は、心のすべてが叫んでいた。
「アランの隣に、今すぐにでも駆け寄りたい」と。
レギュラスは踵を返し、背を伸ばし、ゆっくりと歩き出した。
足取りには一点の揺らぎもなかったが、その胸の奥では、荒波のような感情が音もなくしぶきをあげていた。
報せねばならない。
「うまれた」と。
「無事だった」と。
それがどれほどの瞬間であったか、どれほどの恐れと祈りの果てにある歓びであったか、本当なら叫びたいほどだった。
そして――その感情を分かち合える相手が、誰かただのひとりでもいればよかった。
重いドアを開け、足音を殺して入ったのは、まだ朝の柱の影が届かぬ一室。グリーンの天幕がゆるやかに垂れる空間の中、オリオンとヴァルブルガがそれぞれ別の席に腰掛け、朝刊と書状に目を落としていた。
顔を上げたのは、ヴァルブルガが先だった。
「……生まれました」
「女の子です」
ほんの、それだけ。
力なく、小さな報せだった。
レギュラスは言った後で、自分の声がどれほど丁寧に整えられていたかに気づいた。
本当は声を震わせる寸前だったというのに。
ぱたりと置かれる書状の音だけが、空気を揺らした。
「そう」
ヴァルブルガの返事は簡素だった。
非難でも、嘆きでもなく――ただ、あまりに情のない確認。
レギュラスは一瞬で理解してしまった。
「男ではなかった」ことは、義務を果たすうえでは不要な報せだったのだと。
オリオンは顔を上げなかった。
むしろ、眉間にわずかに寄った皺の気配に、息が滲んだ。
落胆。
あるいは、それに近い何か。
アルタイルのときには、豪奢なワインが抜かれた。
誇りと喜びに包まれた祝辞の声が廊下に響いた。
「立派だ」と言われた。
アランの名さえ、ヴァルブルガの口から賞賛と共に語られた。
けれど今、その名は呼ばれなかった。
ほんの数時間前までその命を賭していた女性を、誰も讃えなかった。
レギュラスは返す言葉すら見失い、
視線だけを床に落とした。
壊れそうだった。
胸の奥に差し込んだ釘が、ゆっくりと回されるような痛み。
いましがた聞いたばかりの産声が胸に沁みていた。
アランが、震える身体で繋いでくれた、この命。
それを「誰も見ようとしない」ということほど、
これほどまでに冷たく、残酷なことがあるだろうか。
静かに頭を下げ、部屋をあとにした。
踏み出す一歩ごとに、胸の内に宿った“感情”という名の重りが深く沈んでいく。
でも、必ずこの心だけは――
「アランと、その娘の誕生を、誰よりも誇りに思う」ことだけは、忘れない。
そう、自分だけは忘れてはならないのだと。
背中を伸ばして廊下を進む足が、静かにそう誓っていた。
屋敷の静けさが深まり、薄く差し込む窓の光が床に柔らかな影を落としていた。
レギュラスの耳には、先ほど告げられた女児の名が繰り返し響いている——
「セレナ・ブラック」。
その響きは、どこか穏やかで、希少な「安らぎ」のようなものを含んでいた。
スペイン語で「晴々とした」や「穏やかな」を意味するその名は、この家の厳しい伝統のなかにあって、小さな希望の光のように感じられた。
だが、同時に、名を聞き届けるアランの姿にレギュラスは胸を締めつけられた。
言葉少なに、しかしいくぶん静かにその名を受け入れる彼女の従順さは、まるで耐え難い影をまとったようで、見ているだけで苦しかった。
その柔らかな影の中に隠された複雑な感情……誇り、よろこび、恐れ、そして、まだ言葉にならない不安。
すべてを飲み込みながらも、じっと静かに寄り添っている様は、まるで“穏やか”であることを強いているかのようだった。
レギュラスはかすかに息を吐き、静かな夜の闇に漂うその響きを胸に刻み込む。
新しい命の名が、この家に秘かに灯った。
けれど、その影の大きさを知る者として、母の苦悩が隣にあることもまた、深く知っていた。
静かな祈りがふたりの間を満たし、やがて穏やかな夜は、またひとつの小さな灯火をしずかに包み込んだ。
産褥の静けさが、部屋をやさしく包んでいた。
厚手のカーテン越しの光はやわらかく滲み、空気に混ざる薬草と乳の香りが、この場にしかない時間の流れをつくっていた。
アランは、腕に抱いた小さな命を静かに見つめていた。
産声もすでに遠く、娘は小さく丸まり、眠るでもなく、目をうっすらと開いている。黒曜石のような瞳のなかに、まだ世界は映っていない。
それでも、すべてを信じきったように、この母の腕のなかを疑いなく受け入れている。
――セレナ。
オリオンが名付けたその名前を、何度か心の中で繰り返した。
ブラック家では伝統的に、子の名前は星や星座にちなんだものが選ばれる。
レギュラスも、アルタイルも。ヴァルブルガが産んだふたりの男児もまた、星の名をいただいた。
だが、「セレナ」は……星ではなかった。
穏やかさを意味するラテン語。
どこか、まるで“象徴”ではない、と示すような響き。
アランの胸が、ふっと締め付けられた。
オリオンは何も言わなかった。けれど、あの静かな横顔の奥にあったのは、どこか淡々とした諦めの色だったように感じられた。
「女児」というだけで価値を計られてしまうこの家で。
名付けに、家の伝統を貫く意思を宿さなかったことが、
彼らにとってどんな意味を持つのか―― アランには、痛いほどに分かってしまった。
(セレナは、期待の外側にいる)
だからこそ、アランは思う。
どうか、この子自身には決して、そのことを悟らせたくない。
どんなに無言の評価が肩にのしかかろうとも、
男児でなかったというだけで、誰にも望まれなかった命のように扱われようとも、
このひときれの命だけは、アランがすべてをかけて護ってゆく。
娘がその小さな手で触れるすべてが、
温かく、安心で、愛に包まれたものであってほしいと、心の奥で静かに祈りを結ぶ。
「ごめんなさいね、こんな家に……生んでしまって」
喉を通らなかった声が、呼吸と重なり、胸の奥で震えた。
ヴァルブルガは、ブラック家に嫁ぎ、ふたりの男児を産んだ。
それはこの名家において「奇跡に等しい」「称賛されるべき偉業」と語られ続けている。
そして、それが無言の“標準”となり、アランの背に、剣のような影を落とす。
繰り返し、あらゆる場でその偉業を引き合いに出されるたび、
アランは黙って笑った。
自分を責めるようにうなずき、何もこぼさず、ただ受け入れてきた。
けれど今、その少女を胸に抱いて、初めてこぼれたのは“誇り”ではなかった。
せつなさと、祈りだけ。
セレナの頬を、アランの頬がそっと掠めた。
やわらかな肌とその温もりだけが、今の彼女の世界のすべてであってほしいと願いながら。
たとえこの娘に与えられる名が、「星の名」でなくとも、
アランの胸に灯ったものは、だれよりも確かな、ひとつの光だった。
それがいつの日か、この娘自身の「空」となって、
どこまでも自由に広がる未来を歩けるように――
彼女はまた、そっと目を閉じた。
娘を抱きしめ、静かに、深く、生き抜いていく決意を、産み終えた身体にもう一度刻むように。
夜もすでに深く、寝室は静けさに包まれていた。
窓の向こうで降り注ぐ月光が、幾筋にもなる白銀の線となって、天蓋のカーテンの隙間から柔らかく差し込んでいる。
レギュラスとアランは、ふたりきりの寝室にいた。
ベッド脇の灯は小さく絞られ、ただ互いの輪郭夜もすでに深く、寝室は静寂に包まれていた。
柔らかな灯がベッドサイドで揺れ、広がる闇の中で、ふたりきりの空間には呼吸の気配だけがゆっくりと在った。
レギュラスとアランは、その日、ようやく並んで同じ寝台についた。
けれど横たわるというより、身を寄せ合うようにして、ひとつの時間をただ静かに過ごしていた。
アランは、胸の奥から語りかけるように、ぽつりと口を開いた。
「……ごめんなさい。レギュラス」
それは掠れるように細い声だった。
けれど、掛け値なく真実を帯びた、心からの詫びだった。
レギュラスの肩に凭れたまま、その言葉を発したアランの横顔は、どこか遠く一点を見つめて揺れていた。
「きっと……落胆させたでしょう?」
その言葉には、あまりにも素直な無力と、自責の念が混ざっていた。
オリオンとヴァルブルガが、娘の誕生に言葉少なであったように。
祝福も、笑顔も――あのときにはなかったものたちが、アランの胸の中に音を立てて沈んでいった。
レギュラスは、黙っていた。
ゆるやかに、深く、腕の中のアランを支えるように抱きしめながら、言葉を探していた。
けれど彼女のその想いが、どれほど強く純粋なものだったかを思い知ったとき、
彼の喉の奥から、ほとんど音にならない返事が漏れた。
「……そんなふうに思わせてしまったことが……いちばん、申し訳ない」
アランが、はっと小さく目を瞬かせる。
「セレナを見たとき、僕が思ったのは……“すごいな”だったんです」
「あんなにも小さな身体で、やっと命に辿り着いたのかって思った」
手のひらに乗った、あの命の重み。
そのすべては、アランが命懸けでここまで運んできたものだった。
誰の賛辞もなくとも、誰の評価が薄らいでも、それは真実だった。
「……セレナは、君の子どもです。
それが、僕にとってどれほどの意味を持つか――わかってほしい」
アランは、ようやくレギュラスの胸で小さく頷いた。
まぶたから一滴だけ、あたたかな涙が零れて、静かに彼の肌に落ちた。
夜はまだ、薄明の前の深い静けさにあった。
けれどそこに穏やかに再び繋がれた鼓動が、ふたりの間にひとつの希望を灯していた。
この娘は、祝福されるために生まれてきた。
その道のすべてを、父と母が手を取り合って拓いていく――ただそれだけが、いまのふたりの真実だった。
寝台に横たわるアランの耳に、春を告げる庭の鳥の声がかすかに届いていた。
けれど、窓の向こうのその光も、風の音も、今の彼女にはどこか遠くの出来事のように思えた。
産後、数日が経っていた。
想像はしていた。アルタイルのときとは違うだろうと。
けれど実際に迎えてみると、「違う」では済まされないものを、静かにアランは感じ取っていた。
身体の奥が、芯から冷えているようだった。
小さく起き上がるだけでも、血のめぐりが急に早まるような眩暈がして、視界の端に薄膜がかかる。
思うように脚に力が入らない。
腕にも、重さが残っている。
これはただの疲れではない。
本能の奥で、アラン自身が知っていた。
――もう、これ以上は耐えられない身体になっている。
もう、これが最後だったのだ、と。
次はない。決して。
それが、どれほど静かな絶望を孕んでいるのか本人もよく知っているはずなのに、いざ真正面からその現実が自分の身体に宿ると、あまりに重たく、静かに胸が沈んでいった。
けれど。
それ以上に、別の悲しみがあった。
それは耳元で跳ねるような声――
「ままー?きょうは、なわとびして!」
廊下の向こうから、アルタイルの声が聞こえたときだった。
乳母の足音が彼を追っていくが、どうせまた「ままのところにいく」と言って避けるに違いない。
信じている。あの子は。
“ままはもう元どおりになる”と。
それが当然だと思っている。
お産が終わったのだから、
いつものアランに戻って、すぐまた自分と遊んでくれると――。
アランの睫毛が揺れる。
扉がふすまのように軋み、その影に立った小さな姿が見えて、ふと笑顔をつくろうとした。
けれど、胸の中央に鋭い痛みが走り、腹に縫われた傷の奥がずきりと訴えた。
「……ああ……」
息を詰めて、身を横たえるのが精一杯。
アルタイルはベッドの脇に駆け寄って、小さな声で言った。
「まま……あそぼ?」
きらきらと目を輝かせて、何も疑わぬ顔で。
アランは、そのまま、片手をそっと持ち上げた。
「……ごめんなさいね。もうすこしだけ、まま、ねてなくちゃいけないの」
その声を出すだけでも、内臓の奥が震えるように痛んだ。
それでも笑んだ。何も悟らせたくなかった。
「なら、ほんだけでも……?」
アルタイルの手のなかには、読み慣れた童話の本があった。
アランは、ほんの一瞬、何か言葉を探すように目を伏せて、
そしてそっと頷いた。
「いいわ……おいで。ここに座ってくれる?」
アルタイルが少し嬉しそうに、けれど心配するようにベッドの端にちょこんと座る。
アランは彼の肩に、細い指を置いた。
痛みを押し殺しながら、小さく声に出して文字を読みはじめた。
声がかすれてもうまく続かなくても、アルタイルはそれで満足していた。
ただ、ままが隣にいて、自分の名前を呼び、本を読んでくれる――その行為だけが、何よりの遊びだったのだ。
アランの目に、ほのかに涙が滲んだ。
もう、跳ねまわって彼の手を引いたり、明日の冒険を約束したりは、できないかもしれない。
けれど、この瞬間だけでも。
この子の胸のなかで、「ままは変わらない」と思えるようにいられたら、
それだけで十分だった。
傷の痛みも、目の奥の霞も、
その時間だけ、優しく霞んでいった。
手の中の温もりを確かめながら、アランは唇をかすかに震わせた。
――ありがとう、アルタイル。
今のあなたが、ままの、何よりの力なの。
部屋には柔らかな灯が、カーテンの隙間からわずかに射し込んでいた。
夜は深く、空は静まり返っているはずなのに、アランの胸には波のような痛みがひたひたと打ち寄せていた。
喉をふさいだ呻き声にも近い吐息とともに目を覚ました頃には、すでに額にはうっすらと汗が浮かび、指先には微かな震えが残っていた。
何度目だろう――
夜毎に訪れ、身体のどこかを深くえぐるこの痛みに、抑えようもなく濡れたまなじり。
横になっているのがやっとで、ほんのわずかにセレナを抱くことすらも、体力が要る。
授乳も、ほとんどできていない。
自分の温もりさえ、娘に与えてやれていない。
昼間ほんの短い時間、腕に彼女を包みこむことでさえ、息が切れるほどの疲労がともなっていた。
隣に眠っていたはずのレギュラスが、いつのまにか目を覚ましていた。
彼は無言のまま、背後に手を伸ばし、優しく背をさすりはじめた。
冷たくなった背中に、ゆっくりと降るような沈黙の温かさがふれる。
アランは眉をひそめながら、横顔で小さく言った。
「……ごめんなさい。起こしてしまったわね…」
レギュラスはすぐには答えなかった。
ただ、さする手の動きだけが、かすかに力を強めた。
やがて、息をひとつ落として、静かに囁いた。
「……いいんです。どうせ眠れていたわけではありませんから」
その声には、どこか過ぎた夜の柔らかさと、苦い温もりが宿っていた。
そして、少し口元を整えるようにして、続けた。
「医務魔女の話では……痛みは徐々に引くはずだと」
かける言葉を何度も探したのだろう。どれも正しくないと知りながら、それでも傍にいるために、選ばれた言葉だった。
アランは何も答えず、天井を見つめた。
瞼に、一滴、涙が滲んでいた。
それを拭う腕の力さえ、もう少しだけ、身体に戻ってはこなかった。
(自分は母親でいるべきなのに)
(それさえも満足に果たせない――)
その悔しさが、夜の静けさに深く沈みこむ。
けれどその隣に、こうしてただ手を添えてくれる人がいる、
そのことが、たとえ言葉にはできずとも、アランの心をほんの少しだけ支えていた。
「……セレナの、髪が……少し、伸びてきたの」
ぽつりと、アランが言った。
「今日、乳母が結ってくれて……前髪が、ふわりと、額に……」
それだけで、また涙が喉元に溜まって、言葉が止まった。
レギュラスは何も言わず、その背にそっと額を寄せた。
肌越しの鼓動が、確かにそこにあった。
「あと、すこしだけ……」
アランの声は細く消えかけていた。
「もうすこしだけ、強くなりたいの……」
その言葉に、レギュラスはただ答えずに、背中をさすりつづけた。
黙って、深く、静かに。
夜はまだ、終わらない。
けれど、この祈るように寄り添う夫婦の時間が、
明けゆく空の光よりも確かに新しい希望を抱いて、
しんしんと、病む身体の奥へ沁み入っていた。
夜は静かに深まり、屋敷の重たい静寂が寝室にまで沁みていた。
ベッドの傍で灯るランプの柔らかな光に、アランの横顔の輪郭があぶり出されている。痩せた頬、閉じたままのまぶた。
肌の色は真珠を通り越して、どこか夕暮れの冷たい灰に近い――そんな錯覚すら覚えるほど、彼女の身体は静かすぎた。
レギュラスは、ただ椅子に腰掛け、アランの指先にそっと手を添えていた。
視線は彼女の胸の上でわずかに上下する呼吸だけを追っている。
目を閉じていても、眠っているわけではないのだと彼には分かる。
身体の奥底で痛みに震えている、その波のような脈をレギュラスの掌が確かに感じていた。
「寝室を……」
アランが声を発したのは、ほとんど風のような響きだった。
「寝室を別にしたほうが……いいかもしれません」
レギュラスは、すぐには言葉を返せなかった。
気づいていた。夜な夜な彼女がうなされ、浅い吐息のたびに小さく背を丸め、
痛みを殺すように歯を噛み締めているのを――
そして、自分の気配に気づくと、いつも申し訳なさそうに笑う。
けれどそのひとことが、まるで距離のはじまりのように響いてしまうのが、何よりも苦しかった。
『別の寝室へ』
それは、彼女から遠ざかるということ――
アランが、手の届かない場所へ少しずつ歩いていってしまっているのかもしれないという、言葉にできない恐れが、レギュラスの胸を確かに突いていた。
「消えないでくれ……」
と、喉の奥で呟きそうになった。
目覚めるたびに、隣にいなかったら。
泣き声がいつの間にか止んでいて、腕が空虚だったら。
手が、冷たくなった頬に触れることができなかったら――
そのすべての想像が、息苦しいほどに現実味を帯びて迫ってくる。
彼女の身体は、もはや「産後の不調」という言葉だけで済まされるものではない。
アルタイルのときとは明らかに違う。
あのときも生と死のあわいだったはずなのに、今ここに横たわるアランは、それ以上に“儚さ”という言葉を背負っていた。
日に日に消えゆくような、透明な存在となっていくような――そんな恐怖。
「……やめてください」
ようやく絞り出した声は、普段と何も変わらない調子で。
けれど、その奥にある何かがひどく脆かった。
「別にしなくていい。そのままがいいんです」
「……声でも、気配でも。それを感じていられるだけで……いいんですから」
アランは言葉の意味を静かに噛み締めるようにまぶたを閉じた。
謝るような微笑にはなにひとつ変わらぬ穏やかさがあったけれど、それが痛みと引き換えに滲んだものだと、レギュラスだけは知っていた。
廊下の向こう、アルタイルの部屋から漏れた硬い寝返りの音が聞こえた。
あの子もわかっているのだ。母が、完全には戻ってこられていないのだと。
妹を迎える歓びと、母と過ごせない時間……
その中で幼い心が感じてしまっている形のない寂しさが、レギュラスの胸にも静かに落ちていく。
アランの手が、熱を失わぬうちに。
消えてしまいそうな影をこの手で繋ぎとめるように、
レギュラスは、何も言わず、そっと彼女の額に口づけた。
言葉では届かない想いが、指から、唇から、祈りとなって。
彼女がまだここにいること。
今、この夜を共に迎えられていること。
そのささやかな奇跡を、すべての恐れより先に抱きしめるように、
レギュラスは微かに身を寄せて、ただ彼女の呼吸を数え続けた。
ふたりの態度は、終始変わらなかった。
最初の緊急の知らせが伝えられたあの夜、形式だけの声がけがあったきり――
「知らせがあれば呼びなさい」
「産まれたらで充分」
その一言ですべてが終わった。
彼らには“ふたり目”であるということが、特別ではなくなるには十分だった。
長男の誕生には儀式があり、祈りがあった。
だが、今はもう「名を継ぐ準備」は済んでいる。
新たな命のために何かを手にしようとする姿勢は、そこに存在していなかった。
堂々と夜の灯のもとで談笑を交わす姿すら、あまりに静かで、あまりに冷たい。
レギュラスにとって、それはどうしようもなく異様だった。
ただ、この廊下の先、扉の向こうにいるアランを待っているのは――
レギュラスと、アルタイルのふたりだけ。
何時間も抱き続けている息子の体は、時折ふんわりと温かい眠気をまとい、けれど再び目を開けるとそこに、まだ帰ってこない「まま」の不在を感じてしまうのか、小さく鼻をすすった。
レギュラスは、そっと額を寄せた。
「もうすぐ……きっともうすぐだから」
祈りのようなその言葉は、時に自分を保たせる最後の呪文にも聞こえていた。
アラン。
どうか――どうか、無事で。
君の手を、まだ離したくない。
君がいなければ、この子の「世界」は、どれほど小さくなってしまうだろう。
廊下に漂う灯のかすかな揺らめきだけが、父と息子を包んでいた。
まるで、そのひとときごとに、まだ扉の向こうで命をかけるひとの「鼓動」を知ろうとしているかのように。
窓の外にはすでに星の瞬きも消えかけていた。
まだ夜明け前、けれど時間の輪郭が滲み、空の蒼さがわずかに透け始めている時刻。屋敷はすべての気配をひそめ、ただひとつ、廊下の短い灯だけが父と子のふたりを照らしていた。
アルタイルはその灯の下、レギュラスの胸のなかに抱かれていた。
目は開いていた。けれど、もうほとんど眠っているも同然だった。
言葉もなく、まばたきすらゆるやかで、ただその小さな瞳には、ずっと同じ一点――閉ざされた扉が映っていた。
それでも、彼は眠ろうとしなかった。
何度も頭を撫で、「もう少しで朝だ」「ままはきっとがんばってるから」と語りかけられても、アルタイルは頑なに目を閉じようとはしなかった。
体はすでに、とっくに限界をこえている。
それでも、彼は“待つ”という小さな決意にしがみついていたのだ。
母に会いたい。
母が……帰ってくるその瞬間まで、「目を逸らしたくない」と――。
レギュラスは、そんな息子の小さな肩にブランケットをかけながら、胸の奥が締めつけられるように詰まるのを感じていた。
(まだほんの小さな背で、こんなにも……)
堪えなくていいはずの想いを、堪えようとしている。
涙も、言葉も吐かず、ただ抱かれながら母のことだけを想い続けているこの子は、いつからこんなに“強く”なったのか。
そしてその静寂の中、
──ふいに、扉の向こうから、音がした。
最初は聞き間違いではないかと思えた。
ほんのわずかな、空気の震え。
でもそれは確かに、ひとつの産声へと変わっていった。
目を伏せていたレギュラスの全身に、じわりと一斉に血が巡る。
「……!」
息が吸えないほどの一瞬。
そのまま、抱いていたアルタイルを胸にしっかりと抱えたまま、彼は反射的に立ち上がった。
その動きで、ようやくアルタイルの瞳が大きくひらいた。
そして、音の正体がわかったその瞬間、
胸の奥に張りつめていた何かがぷつりとほどけたように、
彼はしゃくりあげそうな声で、震える呼吸の中から、たったひとことだけ口にした。
「……まま……!」
眼差しの先にある、まだ閉ざされた扉。
けれど、その向こうに、確かに母の“生きた声”がある。
父の腕のなかでぐっと身を起こし、ぴたりと止まったように耳を澄ませるアルタイル。
その目には涙はなかった。ただ、眩しそうに――今、息をする誰かを探すように――まっすぐ、未来だけを見つめていた。
レギュラスは、そんな息子を静かに強く抱きしめた。
胸に来るものは、歓びとも、恐れとも、希望ともつかない。
けれどそれらすべてを混ぜ込んだ祈りのような温もりだけが、
確かにいま、この奇跡に触れている父と子を、ぎゅっと包んでいた。
廊下の空気は、まるで何かが祈りきった静寂そのもののようだった。
夜と朝の境はすでに溶け、薄い光がゆっくりと屋敷内を押し広げていく頃。
ようやく、扉の向こうで命は形となり、音となり、この世界に生まれてきた。
そしてその直後だった。
静かに開いた扉の隙間から、ひとりの使用人が現れた。
両腕に、まだ布に包まれたばかりの小さな赤子を抱きしめるようにして――
「……姫様でございます」
低く、けれどどこか晴れやかなその報せの声に、空気がかすかに震えた。
だがレギュラスのまなざしは、すぐに赤子へとは向かわなかった。
アルタイルもまた、父の腕のなかでじっと、誰かを待つように扉の奥を見つめたまま動かない。
―― アラン。
それ以外に、いま確かめたいものは何もなかった。
使用人は、静かな呼吸で続ける。
「奥様も……ご無事です。」
たったそれだけの言葉。
けれど、レギュラスの胸から、張り詰めていた何かが、音を立ててほどけるのがわかった。
まるで深い水底へ沈んでいた体が、ようやく春の空気に触れたような、
喉の奥が焼けつくようで、それなのに温かい、
崩れ落ちそうになるほどの安堵が、静かに、確かに胸から漏れ出した。
「……そう、ですか……」
扉の奥へ視線を送りながら、絞るように吐かれた声は、震えていた。
次の瞬間――
レギュラスの腕の中にいたアルタイルが、ふいに身体をくねらせて抜け出した。
「アルタイル?」
思わず呼んだ声が廊下に響く。
けれど、聞こえていても、届かない。
アルタイルは迷いなく扉のほうへ駆け寄った。
その背は幼くとも、歩幅には迷いがなく、
扉の前で小さく息を吸い、ひとつ杖を引き抜き、掲げた。
「Alohomora」
静かな呪文が淡く響く。杖先に灯った光が鍵の中で柔らかく反応した。
まだ低く、舌足らずな発音。
けれど、その仕草には、いつだったかヴァルブルガと訓練していたあの上下の動きすら正確に宿っていた。
カチリ、と音がして扉が開く。
「待ちなさい、アルタイル」
レギュラスの声が急いで追いかけるが、その背へはもう届かない。
小さな足はすでに、その白い扉の奥へと吸い込まれていった。
室内には薬草の香とともに、あたぼうな濃い香油と汗の気配が混じっていた。
布団の中、アランは上体を少し起こした。
その顔は蒼白で、まぶたの奥に深い疲労を滲ませていたけれど、どこか光のようなものがその瞳には宿っていた。
そして――そこに、アルタイルが現れた。
止まらなかった足が、すんと音もなくアランの枕元へやってきて、
手を伸ばすこともなく、ただ目を見つめた。
「まま……」
その声は泣き声ではなかった。
けれど、あまりにも多くを堪えてきた胸の奥の音が、
そのひとことの中にすべて詰め込まれていた。
アランは、微笑んだ。
力を抜くように、安心を流すように。
そして、空いてる腕を小さくひろげて、
小さな背中を、そっと受け入れて抱き寄せた。
父の目が、扉の奥にたゆたうその光景を、静かに見つめていた。
新たな命と、母のぬくもりにふたたび触れた幼い息子の背を、
もう手放すまいと、レギュラスは胸に誓った。
この夜の、すべての涙と祈りが、ようやく報われたのだと。
屋敷の廊下はまだ夜の深さを帯びていた。
扉の隙間から見えた部屋の内側には、汗と血の滲んだ布がいくつも散らばり、床には幾度も取り替えられた桶が整然と並べられていた。
産声が聞こえたとき、あの光に包まれた瞬間でさえ、レギュラス・ブラックは一歩、部屋の内へ踏み込むことができなかった。
――それは、男が踏み越えてはならない境界なのだと。
幼い頃から刷り込まれてきた、不可視の“礼儀”がそこにあった。
女性の戦場に、男が土足で踏み入るものではない。
血と苦痛に濡れた産室の中は、命を繋ぐ女たちだけの神聖で、秘められた場所。
けれど――
それでも、本当は。
本当は、心のすべてが叫んでいた。
「アランの隣に、今すぐにでも駆け寄りたい」と。
レギュラスは踵を返し、背を伸ばし、ゆっくりと歩き出した。
足取りには一点の揺らぎもなかったが、その胸の奥では、荒波のような感情が音もなくしぶきをあげていた。
報せねばならない。
「うまれた」と。
「無事だった」と。
それがどれほどの瞬間であったか、どれほどの恐れと祈りの果てにある歓びであったか、本当なら叫びたいほどだった。
そして――その感情を分かち合える相手が、誰かただのひとりでもいればよかった。
重いドアを開け、足音を殺して入ったのは、まだ朝の柱の影が届かぬ一室。グリーンの天幕がゆるやかに垂れる空間の中、オリオンとヴァルブルガがそれぞれ別の席に腰掛け、朝刊と書状に目を落としていた。
顔を上げたのは、ヴァルブルガが先だった。
「……生まれました」
「女の子です」
ほんの、それだけ。
力なく、小さな報せだった。
レギュラスは言った後で、自分の声がどれほど丁寧に整えられていたかに気づいた。
本当は声を震わせる寸前だったというのに。
ぱたりと置かれる書状の音だけが、空気を揺らした。
「そう」
ヴァルブルガの返事は簡素だった。
非難でも、嘆きでもなく――ただ、あまりに情のない確認。
レギュラスは一瞬で理解してしまった。
「男ではなかった」ことは、義務を果たすうえでは不要な報せだったのだと。
オリオンは顔を上げなかった。
むしろ、眉間にわずかに寄った皺の気配に、息が滲んだ。
落胆。
あるいは、それに近い何か。
アルタイルのときには、豪奢なワインが抜かれた。
誇りと喜びに包まれた祝辞の声が廊下に響いた。
「立派だ」と言われた。
アランの名さえ、ヴァルブルガの口から賞賛と共に語られた。
けれど今、その名は呼ばれなかった。
ほんの数時間前までその命を賭していた女性を、誰も讃えなかった。
レギュラスは返す言葉すら見失い、
視線だけを床に落とした。
壊れそうだった。
胸の奥に差し込んだ釘が、ゆっくりと回されるような痛み。
いましがた聞いたばかりの産声が胸に沁みていた。
アランが、震える身体で繋いでくれた、この命。
それを「誰も見ようとしない」ということほど、
これほどまでに冷たく、残酷なことがあるだろうか。
静かに頭を下げ、部屋をあとにした。
踏み出す一歩ごとに、胸の内に宿った“感情”という名の重りが深く沈んでいく。
でも、必ずこの心だけは――
「アランと、その娘の誕生を、誰よりも誇りに思う」ことだけは、忘れない。
そう、自分だけは忘れてはならないのだと。
背中を伸ばして廊下を進む足が、静かにそう誓っていた。
屋敷の静けさが深まり、薄く差し込む窓の光が床に柔らかな影を落としていた。
レギュラスの耳には、先ほど告げられた女児の名が繰り返し響いている——
「セレナ・ブラック」。
その響きは、どこか穏やかで、希少な「安らぎ」のようなものを含んでいた。
スペイン語で「晴々とした」や「穏やかな」を意味するその名は、この家の厳しい伝統のなかにあって、小さな希望の光のように感じられた。
だが、同時に、名を聞き届けるアランの姿にレギュラスは胸を締めつけられた。
言葉少なに、しかしいくぶん静かにその名を受け入れる彼女の従順さは、まるで耐え難い影をまとったようで、見ているだけで苦しかった。
その柔らかな影の中に隠された複雑な感情……誇り、よろこび、恐れ、そして、まだ言葉にならない不安。
すべてを飲み込みながらも、じっと静かに寄り添っている様は、まるで“穏やか”であることを強いているかのようだった。
レギュラスはかすかに息を吐き、静かな夜の闇に漂うその響きを胸に刻み込む。
新しい命の名が、この家に秘かに灯った。
けれど、その影の大きさを知る者として、母の苦悩が隣にあることもまた、深く知っていた。
静かな祈りがふたりの間を満たし、やがて穏やかな夜は、またひとつの小さな灯火をしずかに包み込んだ。
産褥の静けさが、部屋をやさしく包んでいた。
厚手のカーテン越しの光はやわらかく滲み、空気に混ざる薬草と乳の香りが、この場にしかない時間の流れをつくっていた。
アランは、腕に抱いた小さな命を静かに見つめていた。
産声もすでに遠く、娘は小さく丸まり、眠るでもなく、目をうっすらと開いている。黒曜石のような瞳のなかに、まだ世界は映っていない。
それでも、すべてを信じきったように、この母の腕のなかを疑いなく受け入れている。
――セレナ。
オリオンが名付けたその名前を、何度か心の中で繰り返した。
ブラック家では伝統的に、子の名前は星や星座にちなんだものが選ばれる。
レギュラスも、アルタイルも。ヴァルブルガが産んだふたりの男児もまた、星の名をいただいた。
だが、「セレナ」は……星ではなかった。
穏やかさを意味するラテン語。
どこか、まるで“象徴”ではない、と示すような響き。
アランの胸が、ふっと締め付けられた。
オリオンは何も言わなかった。けれど、あの静かな横顔の奥にあったのは、どこか淡々とした諦めの色だったように感じられた。
「女児」というだけで価値を計られてしまうこの家で。
名付けに、家の伝統を貫く意思を宿さなかったことが、
彼らにとってどんな意味を持つのか―― アランには、痛いほどに分かってしまった。
(セレナは、期待の外側にいる)
だからこそ、アランは思う。
どうか、この子自身には決して、そのことを悟らせたくない。
どんなに無言の評価が肩にのしかかろうとも、
男児でなかったというだけで、誰にも望まれなかった命のように扱われようとも、
このひときれの命だけは、アランがすべてをかけて護ってゆく。
娘がその小さな手で触れるすべてが、
温かく、安心で、愛に包まれたものであってほしいと、心の奥で静かに祈りを結ぶ。
「ごめんなさいね、こんな家に……生んでしまって」
喉を通らなかった声が、呼吸と重なり、胸の奥で震えた。
ヴァルブルガは、ブラック家に嫁ぎ、ふたりの男児を産んだ。
それはこの名家において「奇跡に等しい」「称賛されるべき偉業」と語られ続けている。
そして、それが無言の“標準”となり、アランの背に、剣のような影を落とす。
繰り返し、あらゆる場でその偉業を引き合いに出されるたび、
アランは黙って笑った。
自分を責めるようにうなずき、何もこぼさず、ただ受け入れてきた。
けれど今、その少女を胸に抱いて、初めてこぼれたのは“誇り”ではなかった。
せつなさと、祈りだけ。
セレナの頬を、アランの頬がそっと掠めた。
やわらかな肌とその温もりだけが、今の彼女の世界のすべてであってほしいと願いながら。
たとえこの娘に与えられる名が、「星の名」でなくとも、
アランの胸に灯ったものは、だれよりも確かな、ひとつの光だった。
それがいつの日か、この娘自身の「空」となって、
どこまでも自由に広がる未来を歩けるように――
彼女はまた、そっと目を閉じた。
娘を抱きしめ、静かに、深く、生き抜いていく決意を、産み終えた身体にもう一度刻むように。
夜もすでに深く、寝室は静けさに包まれていた。
窓の向こうで降り注ぐ月光が、幾筋にもなる白銀の線となって、天蓋のカーテンの隙間から柔らかく差し込んでいる。
レギュラスとアランは、ふたりきりの寝室にいた。
ベッド脇の灯は小さく絞られ、ただ互いの輪郭夜もすでに深く、寝室は静寂に包まれていた。
柔らかな灯がベッドサイドで揺れ、広がる闇の中で、ふたりきりの空間には呼吸の気配だけがゆっくりと在った。
レギュラスとアランは、その日、ようやく並んで同じ寝台についた。
けれど横たわるというより、身を寄せ合うようにして、ひとつの時間をただ静かに過ごしていた。
アランは、胸の奥から語りかけるように、ぽつりと口を開いた。
「……ごめんなさい。レギュラス」
それは掠れるように細い声だった。
けれど、掛け値なく真実を帯びた、心からの詫びだった。
レギュラスの肩に凭れたまま、その言葉を発したアランの横顔は、どこか遠く一点を見つめて揺れていた。
「きっと……落胆させたでしょう?」
その言葉には、あまりにも素直な無力と、自責の念が混ざっていた。
オリオンとヴァルブルガが、娘の誕生に言葉少なであったように。
祝福も、笑顔も――あのときにはなかったものたちが、アランの胸の中に音を立てて沈んでいった。
レギュラスは、黙っていた。
ゆるやかに、深く、腕の中のアランを支えるように抱きしめながら、言葉を探していた。
けれど彼女のその想いが、どれほど強く純粋なものだったかを思い知ったとき、
彼の喉の奥から、ほとんど音にならない返事が漏れた。
「……そんなふうに思わせてしまったことが……いちばん、申し訳ない」
アランが、はっと小さく目を瞬かせる。
「セレナを見たとき、僕が思ったのは……“すごいな”だったんです」
「あんなにも小さな身体で、やっと命に辿り着いたのかって思った」
手のひらに乗った、あの命の重み。
そのすべては、アランが命懸けでここまで運んできたものだった。
誰の賛辞もなくとも、誰の評価が薄らいでも、それは真実だった。
「……セレナは、君の子どもです。
それが、僕にとってどれほどの意味を持つか――わかってほしい」
アランは、ようやくレギュラスの胸で小さく頷いた。
まぶたから一滴だけ、あたたかな涙が零れて、静かに彼の肌に落ちた。
夜はまだ、薄明の前の深い静けさにあった。
けれどそこに穏やかに再び繋がれた鼓動が、ふたりの間にひとつの希望を灯していた。
この娘は、祝福されるために生まれてきた。
その道のすべてを、父と母が手を取り合って拓いていく――ただそれだけが、いまのふたりの真実だった。
寝台に横たわるアランの耳に、春を告げる庭の鳥の声がかすかに届いていた。
けれど、窓の向こうのその光も、風の音も、今の彼女にはどこか遠くの出来事のように思えた。
産後、数日が経っていた。
想像はしていた。アルタイルのときとは違うだろうと。
けれど実際に迎えてみると、「違う」では済まされないものを、静かにアランは感じ取っていた。
身体の奥が、芯から冷えているようだった。
小さく起き上がるだけでも、血のめぐりが急に早まるような眩暈がして、視界の端に薄膜がかかる。
思うように脚に力が入らない。
腕にも、重さが残っている。
これはただの疲れではない。
本能の奥で、アラン自身が知っていた。
――もう、これ以上は耐えられない身体になっている。
もう、これが最後だったのだ、と。
次はない。決して。
それが、どれほど静かな絶望を孕んでいるのか本人もよく知っているはずなのに、いざ真正面からその現実が自分の身体に宿ると、あまりに重たく、静かに胸が沈んでいった。
けれど。
それ以上に、別の悲しみがあった。
それは耳元で跳ねるような声――
「ままー?きょうは、なわとびして!」
廊下の向こうから、アルタイルの声が聞こえたときだった。
乳母の足音が彼を追っていくが、どうせまた「ままのところにいく」と言って避けるに違いない。
信じている。あの子は。
“ままはもう元どおりになる”と。
それが当然だと思っている。
お産が終わったのだから、
いつものアランに戻って、すぐまた自分と遊んでくれると――。
アランの睫毛が揺れる。
扉がふすまのように軋み、その影に立った小さな姿が見えて、ふと笑顔をつくろうとした。
けれど、胸の中央に鋭い痛みが走り、腹に縫われた傷の奥がずきりと訴えた。
「……ああ……」
息を詰めて、身を横たえるのが精一杯。
アルタイルはベッドの脇に駆け寄って、小さな声で言った。
「まま……あそぼ?」
きらきらと目を輝かせて、何も疑わぬ顔で。
アランは、そのまま、片手をそっと持ち上げた。
「……ごめんなさいね。もうすこしだけ、まま、ねてなくちゃいけないの」
その声を出すだけでも、内臓の奥が震えるように痛んだ。
それでも笑んだ。何も悟らせたくなかった。
「なら、ほんだけでも……?」
アルタイルの手のなかには、読み慣れた童話の本があった。
アランは、ほんの一瞬、何か言葉を探すように目を伏せて、
そしてそっと頷いた。
「いいわ……おいで。ここに座ってくれる?」
アルタイルが少し嬉しそうに、けれど心配するようにベッドの端にちょこんと座る。
アランは彼の肩に、細い指を置いた。
痛みを押し殺しながら、小さく声に出して文字を読みはじめた。
声がかすれてもうまく続かなくても、アルタイルはそれで満足していた。
ただ、ままが隣にいて、自分の名前を呼び、本を読んでくれる――その行為だけが、何よりの遊びだったのだ。
アランの目に、ほのかに涙が滲んだ。
もう、跳ねまわって彼の手を引いたり、明日の冒険を約束したりは、できないかもしれない。
けれど、この瞬間だけでも。
この子の胸のなかで、「ままは変わらない」と思えるようにいられたら、
それだけで十分だった。
傷の痛みも、目の奥の霞も、
その時間だけ、優しく霞んでいった。
手の中の温もりを確かめながら、アランは唇をかすかに震わせた。
――ありがとう、アルタイル。
今のあなたが、ままの、何よりの力なの。
部屋には柔らかな灯が、カーテンの隙間からわずかに射し込んでいた。
夜は深く、空は静まり返っているはずなのに、アランの胸には波のような痛みがひたひたと打ち寄せていた。
喉をふさいだ呻き声にも近い吐息とともに目を覚ました頃には、すでに額にはうっすらと汗が浮かび、指先には微かな震えが残っていた。
何度目だろう――
夜毎に訪れ、身体のどこかを深くえぐるこの痛みに、抑えようもなく濡れたまなじり。
横になっているのがやっとで、ほんのわずかにセレナを抱くことすらも、体力が要る。
授乳も、ほとんどできていない。
自分の温もりさえ、娘に与えてやれていない。
昼間ほんの短い時間、腕に彼女を包みこむことでさえ、息が切れるほどの疲労がともなっていた。
隣に眠っていたはずのレギュラスが、いつのまにか目を覚ましていた。
彼は無言のまま、背後に手を伸ばし、優しく背をさすりはじめた。
冷たくなった背中に、ゆっくりと降るような沈黙の温かさがふれる。
アランは眉をひそめながら、横顔で小さく言った。
「……ごめんなさい。起こしてしまったわね…」
レギュラスはすぐには答えなかった。
ただ、さする手の動きだけが、かすかに力を強めた。
やがて、息をひとつ落として、静かに囁いた。
「……いいんです。どうせ眠れていたわけではありませんから」
その声には、どこか過ぎた夜の柔らかさと、苦い温もりが宿っていた。
そして、少し口元を整えるようにして、続けた。
「医務魔女の話では……痛みは徐々に引くはずだと」
かける言葉を何度も探したのだろう。どれも正しくないと知りながら、それでも傍にいるために、選ばれた言葉だった。
アランは何も答えず、天井を見つめた。
瞼に、一滴、涙が滲んでいた。
それを拭う腕の力さえ、もう少しだけ、身体に戻ってはこなかった。
(自分は母親でいるべきなのに)
(それさえも満足に果たせない――)
その悔しさが、夜の静けさに深く沈みこむ。
けれどその隣に、こうしてただ手を添えてくれる人がいる、
そのことが、たとえ言葉にはできずとも、アランの心をほんの少しだけ支えていた。
「……セレナの、髪が……少し、伸びてきたの」
ぽつりと、アランが言った。
「今日、乳母が結ってくれて……前髪が、ふわりと、額に……」
それだけで、また涙が喉元に溜まって、言葉が止まった。
レギュラスは何も言わず、その背にそっと額を寄せた。
肌越しの鼓動が、確かにそこにあった。
「あと、すこしだけ……」
アランの声は細く消えかけていた。
「もうすこしだけ、強くなりたいの……」
その言葉に、レギュラスはただ答えずに、背中をさすりつづけた。
黙って、深く、静かに。
夜はまだ、終わらない。
けれど、この祈るように寄り添う夫婦の時間が、
明けゆく空の光よりも確かに新しい希望を抱いて、
しんしんと、病む身体の奥へ沁み入っていた。
夜は静かに深まり、屋敷の重たい静寂が寝室にまで沁みていた。
ベッドの傍で灯るランプの柔らかな光に、アランの横顔の輪郭があぶり出されている。痩せた頬、閉じたままのまぶた。
肌の色は真珠を通り越して、どこか夕暮れの冷たい灰に近い――そんな錯覚すら覚えるほど、彼女の身体は静かすぎた。
レギュラスは、ただ椅子に腰掛け、アランの指先にそっと手を添えていた。
視線は彼女の胸の上でわずかに上下する呼吸だけを追っている。
目を閉じていても、眠っているわけではないのだと彼には分かる。
身体の奥底で痛みに震えている、その波のような脈をレギュラスの掌が確かに感じていた。
「寝室を……」
アランが声を発したのは、ほとんど風のような響きだった。
「寝室を別にしたほうが……いいかもしれません」
レギュラスは、すぐには言葉を返せなかった。
気づいていた。夜な夜な彼女がうなされ、浅い吐息のたびに小さく背を丸め、
痛みを殺すように歯を噛み締めているのを――
そして、自分の気配に気づくと、いつも申し訳なさそうに笑う。
けれどそのひとことが、まるで距離のはじまりのように響いてしまうのが、何よりも苦しかった。
『別の寝室へ』
それは、彼女から遠ざかるということ――
アランが、手の届かない場所へ少しずつ歩いていってしまっているのかもしれないという、言葉にできない恐れが、レギュラスの胸を確かに突いていた。
「消えないでくれ……」
と、喉の奥で呟きそうになった。
目覚めるたびに、隣にいなかったら。
泣き声がいつの間にか止んでいて、腕が空虚だったら。
手が、冷たくなった頬に触れることができなかったら――
そのすべての想像が、息苦しいほどに現実味を帯びて迫ってくる。
彼女の身体は、もはや「産後の不調」という言葉だけで済まされるものではない。
アルタイルのときとは明らかに違う。
あのときも生と死のあわいだったはずなのに、今ここに横たわるアランは、それ以上に“儚さ”という言葉を背負っていた。
日に日に消えゆくような、透明な存在となっていくような――そんな恐怖。
「……やめてください」
ようやく絞り出した声は、普段と何も変わらない調子で。
けれど、その奥にある何かがひどく脆かった。
「別にしなくていい。そのままがいいんです」
「……声でも、気配でも。それを感じていられるだけで……いいんですから」
アランは言葉の意味を静かに噛み締めるようにまぶたを閉じた。
謝るような微笑にはなにひとつ変わらぬ穏やかさがあったけれど、それが痛みと引き換えに滲んだものだと、レギュラスだけは知っていた。
廊下の向こう、アルタイルの部屋から漏れた硬い寝返りの音が聞こえた。
あの子もわかっているのだ。母が、完全には戻ってこられていないのだと。
妹を迎える歓びと、母と過ごせない時間……
その中で幼い心が感じてしまっている形のない寂しさが、レギュラスの胸にも静かに落ちていく。
アランの手が、熱を失わぬうちに。
消えてしまいそうな影をこの手で繋ぎとめるように、
レギュラスは、何も言わず、そっと彼女の額に口づけた。
言葉では届かない想いが、指から、唇から、祈りとなって。
彼女がまだここにいること。
今、この夜を共に迎えられていること。
そのささやかな奇跡を、すべての恐れより先に抱きしめるように、
レギュラスは微かに身を寄せて、ただ彼女の呼吸を数え続けた。
