3章
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ホグワーツの図書館塔、その静かな一角。
陽が傾きはじめた午後、アリス・ブラックは分厚く装丁された一冊の本を膝に載せて、深く息を吸いこんだ。
その表紙には、つややかな墨で書かれた銀の文字──
「The Noble and Most Ancient House of Black」――ブラック家の家系図
静まり返ったページに広がるのは、枝を伸ばすように描かれた血の系譜。
少し古びた羊皮紙の感触が、指先から静かに心の奥へと染み込んでいく。
ふいに視線が止まった。
── Regulus Arcturus Black
レギュラス・ブラック――シリウスの弟。アラン――その妻。そして、公式にはブラック家の正妻として迎えられた女性名も。
淡いインクの行列のなか、しっかりと刻まれたその名の響きに、アリスの胸がふっと締めつけられるように静かに高鳴った。
まだ忘れられない。
あの日、試合のあとに――
あの冷たい眼差しで、レギュラス・ブラックが自分に言い残した「あなたがブラックの名を軽々しく背負ってよいと思うな」という言葉。
理屈で理解しようとすればするほど遠ざかり、
でも、その影が今もどこかで自分の名の上に冷たく伸びているような気がしていた。
アリスはゆっくりと目を閉じ、息を整えた。
心の中に、思い出すのはシリウスの声だった。
「レギュラス? ……そうだな、弟だった。真面目で、冷静で、俺とは正反対だったよ」
「巻き込んじまった…それでも、最後はアイツも――」
言葉のなかにあったのは、怒りでも軽蔑でもなかった。
ただ、遠い時間を語るひとの目だった。
それ以上に、彼はいつも、アランの話をしていた。
「アランは本当に不思議な奴だった。あんな時代に、あんな場所で、あんなに…人を信じられる人間がいるなんて」
「…あの子がいたから、俺はアリス、お前を受け取ることができたんだ」
その言葉を、アリスは何度も何度も思い出していた。
シリウスが目を細めて語るアランの話はどれも、柔らかくて、けれど胸が熱くなるような強さを秘めていた。
苦しみのなかにいても、誰かの痛みに手を差し出す勇気。
全てを失うかもしれないと分かっていても、命を渡す覚悟。
それが、自分をこの命に繋げてくれた人だった。
家系図の中の、そこに確かに刻まれた名。
「アラン ブラック」——“自分を助けてくれた人”
形式としての名ではなく、命を繋いでくれた灯のような名前だった。
アリスはそっとページに手を重ねる。
「……ありがとう、アランさん」
声にはならないけれど、その言葉は小さく空間に滲んでいった。
名前を通して胸に宿るのは、感謝と敬意と、未来へ続いていく誓い。
もしかしたら、自分という存在がまだあの人に“見られている”とするならば、
恥じぬように。
この名前を、いつか胸から堂々と語れるような自分でいたい。
夕陽が差す窓の向こう、小さな星がそろそろ空に昇りはじめていた。
アリスはそっとページを閉じると、自分の胸元に手をやった。
そこには今も、かつてアランが渡してくれた、シリウスからの銀のペンダント。
それを指先で、そっと撫でた。
過去と未来が静かに重なり合う、小さな祈りの時間だった。
ホグワーツの空がすっかり夕暮れに染まりはじめていた。遠く塔の尖端に西日が差し、校庭も広間もやわらかな金と影の色を纏っていたが――屋敷の来賓として用意された一室の空気だけは、張りつめたように冷たかった。
木製の窓枠から届く光はおぼろげに揺れ、床に敷かれた深緑の絨毯を照らす。
その部屋の中央、アランはひとり静かに腰を下ろしていた。
椅子に深く座るのではなく、どこか膝を折るように小さく己をたたみこむような姿勢で、手を膝の上に揃えている。
目の前には、レギュラス・ブラック――
まるで石彫のように、動かず、崩さず、彼女を見下ろしていた。
その視線は冷ややかだった。怒声を上げるわけでも、手を振り上げるでもない。ただ、沈黙のまま彼女を見つめ、視線が言葉以上の重さで責め立ててくる。
「……ホグワーツの敷地内で、あの女に、そして……兄に、会ったと?」
声は低く、抑えられているのに、酷くよく通った。
その音のひとつひとつが、責めを孕み、室内の空気をひやりと凍らせる。
アランは唇を少しだけ結び、強くも弱くもない声音で言葉を選ぶ。
「偶然だったの。試合を見に来て、あの子……アリスを見た。ただ、それだけ」
焦点をぼかすような声音ではなかった。
小さな音の中に、ほんの一滴、自責の念がかすかに混ざっているのを、レギュラスは見逃さない。
「偶然?」
再び繰り返したその声には、短く切りつけるような棘があった。
「……人目につくホグワーツで、家の名を冠する妻が、正式には勘当されているはずの兄と――その“娘”とされるマグルの女と、笑い合っている姿を“偶然だ”と?」
アランは静かに俯きそうになるのを堪え、目を逸らさずにわずかに睫毛を持ち上げた。
レギュラスの視線はあくまでまっすぐ、彼女よりも高い位置から――下ろされることはない。
沈黙が耳鳴りのように長く続く間、アランはただ座り、その視線を受け止めていた。何度も呼吸を浅くしながら、言葉は言えず、けれど逃げることもできずに。
怒りに満ちた男の姿は、荒々しいのではなく、氷のようだった。
「あまりにも……無謀です、アラン」
吐き出すような声。
「あなたは、後先を考えずに行動をした。あなたひとりの立場で許されることではないのだと、いつになったら理解するんですか。」
静寂のなかで、レギュラスの靴の先がカーペットをかすめた。
彼は一歩も動かないのに、その存在感だけがずしりと圧し掛かる。
「ブラック家の名を、“血を”背負うということが、あなたにはまだ……甘い幻想と混同されているのではないかと、本気で思う」
アランは小さく肩を震わせた。
感情ではなく、抑え込むすべての熱と矛盾が、いまにも胸からこぼれそうだった。
けれど――言わなかった。
謝罪も、言い訳も。今はまだ、それを口に出来る言葉を、アラン自身が見つけられていなかった。
その沈黙のなか。
レギュラスは最後の視線を彼女に落とし、扉の方へ向きかける。
けれど完全に背を向けることはせず、振り返らずにぽつりと一言、淡く、爪先よりも薄い声で残された。
「……次は、ありません。アラン」
その一言が、まるで罰のように部屋を静かに締めつけた。
やがて扉が静かに閉まり、アランの前には、夕暮れの影がゆっくりとその身を広げていった。
あたたかさは残らなかった。
けれど、それでもアランは動かなかった。声も、涙も、出さずに。
ただ静かに、何かを抱きしめるように、自分の膝を両手でぎゅっと包み込んだ。
屋敷の中庭に、木々の葉擦れと噴水の細やかな水音だけが響いていた。
淡く差し込む午后の日差しのもと、アランは中庭の白いベンチに静かに座っていた。
膝の上には読んでいるふりの本が一冊。けれど、頁は風にもめくれず、開かれたままの静止した沈黙だけが、彼女の周りに流れていた。
窓越しにその様子を見ていたレギュラスは、軽い吐息をひとつだけ落とした。
あの日の言葉。
「次はない」と告げたあの夜から、アランの態度は確かにどこか――遠くなっていた。
声に出して咎めることもなく、怒りをぶつけることもない。
だがその代わりに、かつて自然に向けられていた微笑や視線、会話の間の熱――
そうした繊細なぬくもりのすべてが、ほんの数度、わずかにずれていくように静かに離れていった。
それは、いっそ優しさのようにも見えた。
けれどレギュラスにとっては、冷たさよりも残酷な拒まれ方だった。
ベッドを共にしていれば、沈黙の隙間を埋められたかもしれない。
体に手を触れ、どこかで見ていたはずの感情を、ひとつずつ確かめることができたかもしれない。
けれど――
彼女は、いま「妊娠している」。
あの日、静かにその事実を告げられたときのアランの瞳を思い出す。
喜びのなかに、確かににじんでいた、押し殺すような不安。
それを覚えている以上、安易に踏み込むことなどできるはずもなくて。
触れてはいけないもののように、アランの身体にも、心にも、距離ができてしまった。
そして、それを超える言葉も方法も、彼には――なかった。
書斎へと戻ったレギュラスは、無意識に机の上に置かれた便箋用紙を見つめた。
何か書こうとした痕跡のペン先が、乾いたインクの染みに置き去りにされている。
(言葉でさえ、追いつかない)
身体のすぐ横にいるはずの妻が、
何よりも近くにいるはずの人が、今はまるで遠い。
どうすればいい。
どうすれば、アランの閉じてしまった心に触れられるのか。
手元のペンを取る代わりに、レギュラスは椅子に深く腰を落とし、ひとつだけ目を閉じた。
彼女がそっと遠ざけたその余白に、何かを乱暴に埋めるようなことは、したくない。
けれど、このまま静かに失っていくのを見ていることも、できなかった。
遠ざけているのは彼女であり――
それを望ませるほどの痛みを与えたのは、自分だということ。
レギュラスはそれを、誰よりも正確に理解していた。
だからこそ、彼は今、戸惑いの中で、何もできずにただ静かに、手を差し出すことすらもできないのだった。
それは、愛しているという言葉では到底届かないかたちの後悔と祈りだった。
午後の陽はゆっくりと傾き、ブラック家の中庭に淡く金色の影を落としていた。芝の上には、子どもの笑い声が弾んでいる。アルタイルが転びそうになりながらも、操る足で風を追いかけていた。
アランは、花壇そばのベンチに腰を下ろしていた。
レギュラスによく似たその小さな背中を、ただ黙って見つめるしかなかった。
額にかかる前髪。
まっすぐな脚線。
時折こちらに向けてくる微笑は、どこかまだ幼いのに、あの人の冷静さを思い起こさせた。
――似ている。
あまりにも、レギュラスに。
それなのにアランは、その“愛しい存在”を見つめるたびに、胸の奥が締めつけられるようだった。不意に湧く感情は、子どもに向けるものではない。けれど、アルタイルの姿は、どこかで“父親の怒りの欠片”を映し返されているような気さえして――
(……もう、どうやって許しを乞えばいいのか、わからないんだわ)
あの日、レギュラスに告げられた言葉。
「次はない」
淡々としたその一言が、魂の奥にまで鋭く刺さっていた。
怒鳴りもせず、絶望という名の武器も持たず――
ただ、冷たく、遠く「線を引かれた」ことが、アランを深く切り裂いていた。
それでも、いつだってアランは、赦されるために身体を差し出すことしか知らなかった。
ただ、触れることで、温もりに縋ることで、必要とされている証を探していた。
けれどいま、腹の中に芽吹いた命が、それを許さなかった。
この身体はもう、自分だけのものではない。
誰かの“赦しのための器”にも、“贖罪のための手段”にも使ってはいけない。
理性では理解できていても、この“己の武器を封じられた”無力さが、アランの心をさらに追い詰めていった。
握った指に力がこもる。
薄い布越しに、まだほとんど存在感を持たない命が宿っていることを意識すると、泣いてなどいられなかった。
アルタイルが「ままー!」と叫びながらこちらへ駆けてくる。
アランは微笑んだ。
それは子に向ける母の顔でありながら、どこか、どこにも属さない孤独な微笑だった。
― この子だけは、
どうか何の咎もなく、何の責任も背負わず、
明るい未来を歩けるように。
その願いだけが、今日のアランを支える唯一の光だった。
ただ静かに吹き抜ける初秋の風のなか、アランは走り続ける息子を見守りながら、痛みのような祈りだけを胸に抱いて、微笑み続けていた。
秋の気配が色付きはじめた風のなかに、ホグワーツの塔が静かにそびえていた。シリウス・ブラックはその一角、淡く射す夕陽を背に、校庭の片隅に佇んでいた。グリフィンドールの勝負は終わり、歓声も遠く過去となって消えていった後だった。
けれど、彼の胸の内にはまだ、その瞬間の余韻だけが、やさしく灯のように残っていた。
――あのとき、アランにアリスを会わせることができた。
それが、どれほどの巡り合わせだったか。
どれほど長く願っていたできごとだったか。
シリウス自身、あの日のすべてを反芻しながら、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。
アランの微笑。
涙を浮かべてアリスを抱きしめたあの姿。
そして――何より、何も言わずとも伝わる想いが、互いの空気をやわらかく満たしていた。
自分にとっても、アランにとっても、アリスという少女はただの“守った命”というだけではない。
夢そのものだった。
願いの種だった。希望の形だった。
「……なあ、アラン……見ただろう?」
ひとりごとのように、そう呟いた。
芝の色、校舎の佇まい、そしてアリスの姿――すべてが昨日のようにはっきりと脳裏にある。
あの子が箒を手に、空を駆けぬけた姿。
まるで、若き日の自分のように。
でも、そこに映っていたのは、“自分の分身”ではなかった。
シリウスが感じ取ったのは、あの子の背に、アランから受け取った光のようなものだった。
名もなく差し出された祈り。
託された命のあたたかさ――
それをずっと背負い続けてきたのはアリスであり、それを育んできたのは、アランとシリウス、ふたりの想いだった。
たとえ “家”という檻が彼らを遠ざけたとしても、
たとえ過去がふたりを別々の道へ追いやったとしても、
アリスという存在がある限り、彼女と自分はきっとどこまでも繋がっている。
この絆には、ことばも、距離も、時すらも必要ない。
「……あの子が笑っていられる限り、オレは生きていけるんだよ、アラン」
そう、心の底から思えた。
アリスは、過去の贖罪じゃない。
誰かが守らねばならない弱い存在でもない。
アランの手で、シリウスの腕に渡され、そして未来へと向かおうとしている、“証”だった。
未来は、きっと、彼女のなかにある。
あたたかく、まっすぐで、美しい未来が。
夕陽が塔の尖端を焦がしていく。
シリウスは立ち上がり、遠くから聞こえるグリフィンドール生の賑やかな声に背を向けながら、空を仰いだ。
「大丈夫だ、アラン。
あの子は、ちゃんと未来を照らしてる」
そしてその光は、きっと――誰よりも、アランの心まで届く。
それだけで、シリウスはもう、十分に満たされていた。
屋敷の高窓に、夜の帳がゆるやかに下りはじめていた。オイルランプの灯りが静かに揺れるなか、レギュラスは上着も脱がぬまま廊下を駆ける様に早歩きしていた。
「奥様が、急に立ちくらみで……安静にされております」
そう報せた使用人の面持ちが穏やかだったにもかかわらず、レギュラスの鼓動はそれとは反比例するように速くなっていた。
淡く開かれた寝室の扉の先、整えられた寝台の上で、アランが上体を横たえていた。肩までかけられたシーツに包まれ、その顔だけが小さく見える。
「…… アラン」
呼び声は思ったよりも低く、震えていた。
駆け寄る足音にアランが目を開け、ゆっくりと身じろぎしながら上体を起こしかけた。
「構わず、そのままで」
レギュラスは思わずその動きを制し、ベッドサイドに膝をつくように腰を落とし、
彼女の額近くに視線を落とした。
「どうあるんです?」
ひどく静かな声音。
冷静に抑えていたが、その言葉の端々には真綿のような心配が編み込まれている。
アランは、少し呼吸を整えながら、微かに頬を緩めて言った。
「……ちょっとした貧血よ。妊娠中には、よくあることなの」
その口ぶりには確かに経験と知識に裏打ちされた自信があった。
けれど、だからといってレギュラスの胸にある不安が曇ることはなかった。
(それでも、“この身体”は、もうあのときのままではない)
ただでさえ痩せて見える肩。
一度も忘れたことのない、無理を重ねた末の痛みに顔を顰めたこと――
それをまた思い出しそうになる。
それでも。
どこか張り詰めていた空気が、ほんの少しだけほどけていくのをレギュラスは感じていた。
アランが拒まなかった。
問いに答えてくれた。
たとえそれが“強がり”だったとしても――
この距離に、素直に身を置こうとしてくれたという事実だけで、かすかな救いだった。
「……水を。飲みます?」
指先で彼女の手に触れながら、そっと尋ねる。
アランは遠慮するように首を横に振り、代わりにレギュラスの手の上にそっと自分の指を重ねた。
それは細く小さな仕草だったけれど、まぎれもなく自分から距離を詰めてくれたという証だった。
言葉には出さずとも、心と心のあいだにかすかに橋がかかったような――
永く、冷たい間合いに一滴の温もりが落とされたような、そんな静かな感覚を、レギュラスはたしかに感じていた。
そのぬくもりを逃すまいと、アランの手にそっと小さな圧を返す。
「あなたに何かあったら……」
それ以上は続けず、落とされた沈黙の中にすべての想いが込められた。
ふたりを包む夜の静けさが、やわらかに息づいていた。
それは傷をすぐに癒すものではないかもしれない。
けれど、折れかけたふたりの間に確かに繋がれた、“はじまりなおす”ための小さな灯だった。
ホールの窓から斜めに差し込む秋の日差しが、淡く輝く埃の粒を浮かび上がらせていた。石造の回廊の奥からは、小さな笑い声が跳ねるように響いてくる。
「ぱぱ、こっちー!」
くるりと振り返りながら走るアルタイルの足取りは、まだ不安定ながらもしっかりと地を踏んでいた。艶やかな黒髪が陽を受けて揺れ、上気した頬には幼い熱がほんのりと紅を差している。
それを追うように、レギュラスも歩を早めながら微笑んだ。
「そんなに走って転びませんか。」
叱るでもなく、咎めるでもなく。
それは、どこまでもやわらかな言葉だった。
まるで、その一歩一歩が尊くてたまらないものだと気づいている者だけがそっと囁けるような、深い慈しみの声。
アルタイルは言葉も少しずつ自由になり、自分の欲しいもの、考えていることを簡潔ながら表現しようとするようになっていた。
「ぱぱ、これ、できたよ」
小さな積み木をふたつ重ねて得意げに見せるその表情に、レギュラスは目を細めてうなずいた。
「すごい……これはきっと、ブラック家で百年に一人の天才ですね。」
冗談めかしてそう返すと、アルタイルは「えへへ」と笑いながら胸を張り、さらにもうひとつ積もうと四苦八苦していた。
最近、ヴァルブルガが家庭教師を付けたという知らせを使用人から聞いたとき、レギュラスは驚きもせず、静かにため息をひとつだけついた。
――早すぎる。
それは思ったが、母が何を求めているかなど今さら知らないはずもなかった。
ヴァルブルガが望むのは、「知性」と「品格」、そして「血筋にふさわしい能力」だ。
アルタイルがどれほど無邪気に笑おうと、どれだけ小さなことで世界を大きく感じられる魂を持っていようと、その中で彼は、確実に高い理想へと引き寄せられていくだろう。
だからこそ、レギュラスは思ったのだ。
せめて、自分の前では――
この子が、羽を休められる場所にしたい。
「つぎ、これも、のせる。」
「よし、では手伝いましょうか。」
そう言ってしゃがみ込み、小さな手に自分の手を添える。
バランスを取る指に、多くのことをまだ知らない柔らかさが宿っていた。
その感触を包むように、レギュラス自身も肩の力を抜いて笑う。
かつて戦場でさえ揺るがなかった自身の表情が、今はこうして、幼いひとつの笑い声だけに容易く崩れていくことを――どこか誇らしく思いながら。
「アルタイル、あなたにはね、遠くまで歩いていける足があるんですよ。」
「どこまで?」
「どこまでも、好きなところまで。」
レギュラスの言葉に、アルタイルは目をまあるくして、ふっと顔を輝かせた。
「ぱぱもいっしょ?」
「いつだって一緒です。」
その返事に、アルタイルがふわりとレギュラスの首に抱きつく。
レギュラスは眼を伏せた。
──これほど小さな背に、いつか母の理想が重くのしかかってくる日が来る。
だが今だけは。今だけは。
この掌にすっぽりと収まる温もりの中で、
甘やかして、満たして、愛された記憶だけが確かに残るように。
空に鳴く鳥の声と、風に踊る木の葉の音が、ふたりを優しく包んでいた。
夕餉の灯りが、落ち着いた金の色で食卓をやわらかく照らしていた。
高く磨かれた銀器には空のグラスの影が微かに映り、スープ皿から立ち上る湯気が、その間の空気に小さな揺らぎを与えている。
アランとレギュラスは、ふたりだけで食卓にいた。
静かな時だった。
けれど、どこか満ちている。
それは沈黙に支配されるものではなく、お互いの呼吸が穏やかに染み合うような――ゆるやかな余白だった。
ナプキンをそっと置いたレギュラスが、ふいに言葉を落とす。
「……アルタイルは、随分と話すようになりましたね」
アランはやわらかく笑んだ。
「ええ、最近はもう、おしゃべりが止まらないくらい」
レギュラスは微かに笑みを返しつつ、視線をテーブルの奥に落とした。
今日、庭で自分の名をいちども噛まずに呼んでくれたこと。
食後のミルクの場で、自分の好きな積み木の色を“赤”と即答したこと。
その一つ一つが、思い出のように胸に残っていた。
「……今日一緒に過ごして、思いましたよ。これからもっと、たくさんのことを僕らに話してくれるんだろうなって」
その声音には、期待とやさしい驚きが滲んでいた。
アランはうなずいたまま、胸の奥に少しだけ熱のようなものが立ち上ってくるのを感じた。
「そうね、あの子……本当に、すくすく育ってるわ」
フォークの先をそっと皿の縁に添えながら、レギュラスが続ける。
「積み木も、今日は少しぐらつきながらでしたが、ずいぶんと高くまで積めていました。あれは、なかなかの集中力です」
「ふふ……それはきっと、ヴァルブルガ様が日々教育してくださっているおかげね」
アランはそれを柔らかな声音で言ったが、口調の温度は変わらなかった。
感情を乗せない“正しい返答”として、その言葉はふわりとテーブルの上に浮かんだ。
レギュラスはそこで、短く息を飲んだ。
アランの応えは、あまりにも模範的で――それが、痛かった。
彼女はいつからだろう。
外堀を埋めるように迫ってくる両親の意思に、ほとんど何も逆らわなくなっていた。
あの気丈な瞳が、少しずつ伏せられるように、彼女はすべてを“従順”という名で受け入れてしまっている。
そしてそれが“正しさ”として、冷たい寡黙さになっていく。
反論しない妻は、美しいのかもしれない。
けれど――
押し殺した声は、どこへ行く?
飲み込んだ思いは、どこへ流れていく?
やがてどこにも届かず、ただ彼女ひとりの中で濁り、遠ざかってしまうのではないか――
レギュラスは危うく、ナプキンを強く握りかけた指を、そっとほどいた。
「……それでも、あなたの考えがあるのなら。ちゃんと、言ってくれてかまいませんよ」
アランは、ほんの一瞬だけ目を上げた。
まつ毛の影の奥に、はじめて感情のさざ波がにじむ。
「私は……」
言いかけて、遠慮したように目線を伏せた。
「だって、ヴァルブルガ様は、間違ったことはなさらないもの。きっと、正しいのよ」
その言い方が、静かな悲しみを帯びていた。
レギュラスはそれ以上追わなかった。
けれど、心の奥で誓っていた――
この声なき声を、彼だけは聞き逃さないと。
そして、この翼が折れることがあったなら、誰よりも早く、抱きとめる者でありたいと。
目の前の妻の皿に、まだ温かいスープが残っていた。
ほんの少しだけそっと寄せ、指先でナイフとフォークの位置を整えてやる。
その細やかな行為に、アランがはっとしたように目を上げる。
そして、淡い微笑を浮かべた。
それは――かすかに、距離を埋めるための手のひらだった。
いつかまた、この食卓に、言葉と想いが縒り合っていく日が来るようにと、
ふたりの間には、静かだが確かな温もりがひとつ息をした。
昼下がりの庭には、花の香りを含んだ風が通りすぎていた。
夏の濃さが和らぎはじめた気配が、空の隅々に漂っている。
屋敷の裏庭には陽がやわらかく差し込んでいて、レギュラスはアランと並びながら、小さな手を引いて歩くアルタイルの後ろ姿を見守っていた。
草の上をとことこ進む息子は、赤金の陽に包まれて、まるで一輪の花のようだった。
「ままに、が…できるの、いやなの」
そう言ったのは、ぶつぶつと苺の茎を拾って手遊びをしていたアルタイルが、不意に声を低めたときだった。
レギュラスの足が、ほんのわずか止まった。
アランがゆっくりと、アルタイルの背に視線を落とす。
彼は、それきり手の中の葉っぱをむにむにと潰しながら、さらにぽつりと続けた。
「おとうとでも、いもうとでも。あたらしい子……ぼく、いらないの」
理由を尋ねてもいないのに、アルタイルはふと、少し困ったようにひとつ眉をひそめた。
「だって……まま、とられちゃうから」
その一言に、レギュラスも、アランも、
胃の奥をそっと掴まれたような感覚に襲われた。
あまりにまっすぐで、あまりに幼くて、
けれどどこか鋭く心の核を射抜いてくる、その言葉。
アランは何も言わなかった。ただ唇を結び、レギュラスの袖の内側を小さく握った。
そして横に立つレギュラスは、胸の奥に湧いた感情が、不意に押しとどめられなくなっていた。
「ああ、まったく……」
思わずため息混じりに笑う。
「……本当に君は僕の子だな」
独占欲。執着。誰にも渡したくないという衝動。
愛している人をただ見つめていたい、手元に置いていたいという想い。
その無垢な小さな魂のなかにも、彼とよく似た熱が確かに息づいている。
それが、どうしようもなく――愛おしい。
レギュラスはしゃがみ込み、アルタイルの肩に手を添えた。
「ままにはね、他の誰がいようと……君が一番大事だって、ずっと思ってるんですよ」
アルタイルは少し戸惑ったような目で見上げた。自分の小さな世界のなかで覚えた不安が、本当に解けていくのかまだわからずにいるようだった。
だから、言葉の代わりにレギュラスは、そっとその小さな身体を抱き上げた。
ぐんと軽くなった土と風のなかで、息子を抱いてゆっくり立ち上がる。
胸に収まったその小さな温もりが、ぐっとレギュラスの喉をつまらせる。
「君は、世界にひとりの宝物」「ままにも、ぼくにも、大切で、大好きな子だってこと……忘れないでいてほしい」
アルタイルは少し黙っていたが、やがてくるりとアランの方へ目を向けた。
アランは、そっと微笑みながら「そうよ」と頷いた。声には出さなかったけれど、その目にたしかな想いを宿して。
レギュラスの腕の中で、アルタイルはしばらく何も言わなかった。
けれどそのうち、頬をレギュラスの肩にあずけて細く目を閉じた。
まるで、その胸の音を聴こうとするかのように。
その小さな顔に、かすかな安心の色が差していた。
空の雲がゆっくりと流れ、風が少しだけ季節を変えていく。
けれどこの一瞬は、ただ静かで、穏やかで、幸福だった。
父が子を抱き、母がそれを見つめ、
言葉にはできないやさしい絆が、その庭に満ちていた。
ホグワーツの図書館塔、その最も静かな読書席で、アリスは古びた本を閉じる指を、そっと止めたまま動かせずにいた。
窓の外では夕陽が鈍く差し、空が淡い茜と紫を抱き合うように滲んでいる。けれど、アリスの胸に射す光は、少しも温かくなかった。
レギュラス・ブラック。
あの日、冷たい金の瞳で自分を見下ろし、「忠告」と称して突き刺すような言葉を告げた男。
アランの夫。そして、シリウスの弟。
それだけでも、自分にはなかなかに飲みこめぬ事実だった。
けれど──
“彼が、デスイーターだ”
その真実を知った時――
凍るような衝撃が、足の裏から背骨を駆け上がってきた。
本の頁に綴られていた名前。
作戦記録の断片。
目撃証言。
そこに、あの静かでどこか貴族的だった男の名が、確かに存在していた。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王の配下。
“人殺し”。
息が苦しくなった。
目を反らしても、背筋の奥が痛んだ。
アランさん――
あんなにも、あたたかくて、美しくて、やさしい人が。
どうして、彼と共にあろうと決めたのだろう。
その選択を、どう思いながら今の場所にいるのだろう――。
アリスは額を指で押さえた。
心がじわじわと張り裂けるようだった。
あの庭の再会の日。アランは言葉よりも微笑みで自分の存在を赦してくれた。
腕のなかに受け止めてくれたあの静かな包容は、自分にとって光だった。
その光と共にあるはずの人が、影の極みに仕える者だったという現実。
清廉であること、正しさを信じること――
シリウスや、ジェームズ、ルーピン。それらの人々が支えようとしている世界に、自分もいつか加わりたいと願っていた。
アランに、少しでも恩返しがしたかった。
彼女の願った未来を、自分の手でも築きたかった。
……けれど、アランは、そのすべてを知って、
レギュラスの隣に立ち続けているのかもしれなかった。
どうして?
愛されていないはずが、ない。
アリスは知っている。
アランとシリウス。
子供の頃から聞かされていた。ジェームスが笑いながら言っていた。
「本当に仲が良くてさ、ふたりを見るのがちょっと恥ずかしいくらいだった」
「婚約してたんだぜ?ほんのこどもみたいな歳のときに。運命のふたり、って感じだったよ」
──それでも。
ふたりは引き離された。
あの時、どれだけの痛みが胸を裂いたのか。
どんなに悔しく、どれだけ多くを呑み込んだのか。
恋というものをまだよく知らない。
けれど、そのことを思うと、胸がきゅっと鳴るように締めつけられた。
“好き”とか“愛している”という言葉よりずっと深い何かがふたりのなかにあって。
それは過去のものになっているようでいて、どこかでいまも続いているような気がする。
そこに立ち入るつもりなんてない。
ただ――
「どうか、幸せでいてほしい」
自分はその一部になれたらと願っていた。
けれど、アランの幸せがどこにあるのか。
彼女がいま、どのような想いで、あの冷たい男の隣にいるのか。
それを知るには、自分はまだ少しずつしか大人になれない。
だけど、だからこそ、今は歩こう。
アリスは静かに椅子の背に身を預ける。
世界はシンプルではない。
けれど、そこに希望や恩、愛があったと知っている限り……
闇の中に光を届けようとしたあの人のように、
自分もまた、歩いていいのだと信じたかった。
それが、アランへの、
ほんの小さな恩返しの始まり――そんな気がしていた。
午後の陽が斜めに差し込むリビング。
ホグワーツでの日々の興奮もまだ胸の奥に残しながら、アリスはシリウスの家へと帰ってきていた。
広間には柔らかい陽射しと、午後の低い鳥のさえずり。
部屋の隅でシリウスが新聞をめくる音が、静かに響いている。
久しぶりに家に戻った安堵と、どこか物足りなさが混ざる心地。
アリスはソファに腰を沈め、胸に抱えてきた疑問をほんの少し迷いながらも、勇気を出して口にした。
「……ねえ、シリウス。…… アランさんのこと、今でも好き?」
新聞の端から顔を覗かせるシリウス。
不意を突かれたように目を丸くした彼の様子が、可笑しくもあり、少しだけまぶしく見えた。
「……ガキが何言ってんだ、そんな妙な質問して。」
普段よりも軽く茶化すような調子が、逆に図星を突かれた狼狽をごまかそうとしているのだとすぐにわかった。
けれどアリスは、一歩も引かない。
少し首をかしげて、小さな声で続けてみる。
「でも、私くらいの歳だった頃には、アランさんと……お付き合いしてたんでしょう?」
窓の外の木漏れ日が、アリスの横顔に落ちる。
自分と同じくらいの年ごろの友人たちが、互いに手紙を送り合い、甘い言葉を交わし合っているのを思い出していた。
自分にはまだ何も分からない恋の輪郭を、近くの大人、かつて“特別な人”だったふたりの距離で測ろうとしたのだった。
シリウスは一瞬、言葉に詰まり、鼻先でちいさく笑った。
「……まあな。ガキってのはお前の方だろうに……あの頃はまぶしいくらいだった。」
声の端に、ほんの少しだけ懐かしさと切なさが滲む。
いつもは豪快な笑みを張るその男の横顔に、ふと翳が射すのをアリスは逃さなかった。
「そりゃ、好きだったよ。」
ぽつりと投げられたその言葉は、冗談や照れ隠しの一切を纏わぬ、まっすぐな本音だった。
「……あんなに、誰かを信じて、想って……バカみたいだったって笑われたって、俺はあの子のためなら、何だってしてやれた。」
シリウスの低い声が、静かに部屋の空気を温める。
「けどな、そればっかりが人生じゃない。好きだって気持ちは、大事だけど、それで全部がうまくいくわけじゃないんだよ。」
アリスは黙って聞いていた。
理解できるようで、まだ遠い。けれど、その言葉の重みだけはしっかりと心に残った。
「……今でも?」と、もう一度だけ問うてみる。
シリウスはしばらくアリスの顔を見つめ、それから肩をすくめた。
「そうだな――いまは“思い出込みで、最高に好きだった”。……でも今の俺には、お前がいる。これも間違いなく、俺の“いちばん”だ。」
アリスは目を見開いた。
静かに息を吸いなおし、ふいに少しだけ微笑む。
大人の恋、昔の恋、今の愛――まだよくは分からないけれど。
誰かを深く想い、誠実に手放し、目の前の人を守ろうとする気持ちだけは、この胸にもしっかり伝わってきた気がした。
打ち明けられた秘密のひとかけらを、そっと胸にしまい、
アリスはこれからの自分を、少しだけ楽しみに思うのだった。
夜も深まり、アリスが眠りについた静かな室内。シリウスは深いため息をつき、隣室の扉を静かに閉めた後、廊下をゆっくり歩きながらジェームズを呼んだ。
「お前だろう、アリスに色々吹き込んだのは」と、シリウスはくすりと笑いながら話し始めた。彼の声には、わずかに狼狽える様子が含まれていた。あんなに純粋な少女に、いまでもアランを好きかと真面目に尋ねられるとは予想もつかなかったのだ。
「まったく、敵わないやつだ」とシリウスは続ける。子どもだと思っていたアリスに言葉をかけられ、慌てふためく自分に、どこか滑稽さすら感じていた。
それを聞いたジェームズは、にやりと楽しそうな笑みを浮かべた。彼はこの一件を面白がりながら、「そういうお前が結構子どもっぽいところがあるんだよ」とからかい返す。
シリウスは苦笑しつつも、心の中にある誇りと愛情をあらわにしながら、「それでもあの子には、俺たち以上に強く大きな未来がある」と締めくくった。
静かな夜のひとときに、ふたりの友情と温かな絆が静かに息づいていた。
陽が傾きはじめた午後、アリス・ブラックは分厚く装丁された一冊の本を膝に載せて、深く息を吸いこんだ。
その表紙には、つややかな墨で書かれた銀の文字──
「The Noble and Most Ancient House of Black」――ブラック家の家系図
静まり返ったページに広がるのは、枝を伸ばすように描かれた血の系譜。
少し古びた羊皮紙の感触が、指先から静かに心の奥へと染み込んでいく。
ふいに視線が止まった。
── Regulus Arcturus Black
レギュラス・ブラック――シリウスの弟。アラン――その妻。そして、公式にはブラック家の正妻として迎えられた女性名も。
淡いインクの行列のなか、しっかりと刻まれたその名の響きに、アリスの胸がふっと締めつけられるように静かに高鳴った。
まだ忘れられない。
あの日、試合のあとに――
あの冷たい眼差しで、レギュラス・ブラックが自分に言い残した「あなたがブラックの名を軽々しく背負ってよいと思うな」という言葉。
理屈で理解しようとすればするほど遠ざかり、
でも、その影が今もどこかで自分の名の上に冷たく伸びているような気がしていた。
アリスはゆっくりと目を閉じ、息を整えた。
心の中に、思い出すのはシリウスの声だった。
「レギュラス? ……そうだな、弟だった。真面目で、冷静で、俺とは正反対だったよ」
「巻き込んじまった…それでも、最後はアイツも――」
言葉のなかにあったのは、怒りでも軽蔑でもなかった。
ただ、遠い時間を語るひとの目だった。
それ以上に、彼はいつも、アランの話をしていた。
「アランは本当に不思議な奴だった。あんな時代に、あんな場所で、あんなに…人を信じられる人間がいるなんて」
「…あの子がいたから、俺はアリス、お前を受け取ることができたんだ」
その言葉を、アリスは何度も何度も思い出していた。
シリウスが目を細めて語るアランの話はどれも、柔らかくて、けれど胸が熱くなるような強さを秘めていた。
苦しみのなかにいても、誰かの痛みに手を差し出す勇気。
全てを失うかもしれないと分かっていても、命を渡す覚悟。
それが、自分をこの命に繋げてくれた人だった。
家系図の中の、そこに確かに刻まれた名。
「アラン ブラック」——“自分を助けてくれた人”
形式としての名ではなく、命を繋いでくれた灯のような名前だった。
アリスはそっとページに手を重ねる。
「……ありがとう、アランさん」
声にはならないけれど、その言葉は小さく空間に滲んでいった。
名前を通して胸に宿るのは、感謝と敬意と、未来へ続いていく誓い。
もしかしたら、自分という存在がまだあの人に“見られている”とするならば、
恥じぬように。
この名前を、いつか胸から堂々と語れるような自分でいたい。
夕陽が差す窓の向こう、小さな星がそろそろ空に昇りはじめていた。
アリスはそっとページを閉じると、自分の胸元に手をやった。
そこには今も、かつてアランが渡してくれた、シリウスからの銀のペンダント。
それを指先で、そっと撫でた。
過去と未来が静かに重なり合う、小さな祈りの時間だった。
ホグワーツの空がすっかり夕暮れに染まりはじめていた。遠く塔の尖端に西日が差し、校庭も広間もやわらかな金と影の色を纏っていたが――屋敷の来賓として用意された一室の空気だけは、張りつめたように冷たかった。
木製の窓枠から届く光はおぼろげに揺れ、床に敷かれた深緑の絨毯を照らす。
その部屋の中央、アランはひとり静かに腰を下ろしていた。
椅子に深く座るのではなく、どこか膝を折るように小さく己をたたみこむような姿勢で、手を膝の上に揃えている。
目の前には、レギュラス・ブラック――
まるで石彫のように、動かず、崩さず、彼女を見下ろしていた。
その視線は冷ややかだった。怒声を上げるわけでも、手を振り上げるでもない。ただ、沈黙のまま彼女を見つめ、視線が言葉以上の重さで責め立ててくる。
「……ホグワーツの敷地内で、あの女に、そして……兄に、会ったと?」
声は低く、抑えられているのに、酷くよく通った。
その音のひとつひとつが、責めを孕み、室内の空気をひやりと凍らせる。
アランは唇を少しだけ結び、強くも弱くもない声音で言葉を選ぶ。
「偶然だったの。試合を見に来て、あの子……アリスを見た。ただ、それだけ」
焦点をぼかすような声音ではなかった。
小さな音の中に、ほんの一滴、自責の念がかすかに混ざっているのを、レギュラスは見逃さない。
「偶然?」
再び繰り返したその声には、短く切りつけるような棘があった。
「……人目につくホグワーツで、家の名を冠する妻が、正式には勘当されているはずの兄と――その“娘”とされるマグルの女と、笑い合っている姿を“偶然だ”と?」
アランは静かに俯きそうになるのを堪え、目を逸らさずにわずかに睫毛を持ち上げた。
レギュラスの視線はあくまでまっすぐ、彼女よりも高い位置から――下ろされることはない。
沈黙が耳鳴りのように長く続く間、アランはただ座り、その視線を受け止めていた。何度も呼吸を浅くしながら、言葉は言えず、けれど逃げることもできずに。
怒りに満ちた男の姿は、荒々しいのではなく、氷のようだった。
「あまりにも……無謀です、アラン」
吐き出すような声。
「あなたは、後先を考えずに行動をした。あなたひとりの立場で許されることではないのだと、いつになったら理解するんですか。」
静寂のなかで、レギュラスの靴の先がカーペットをかすめた。
彼は一歩も動かないのに、その存在感だけがずしりと圧し掛かる。
「ブラック家の名を、“血を”背負うということが、あなたにはまだ……甘い幻想と混同されているのではないかと、本気で思う」
アランは小さく肩を震わせた。
感情ではなく、抑え込むすべての熱と矛盾が、いまにも胸からこぼれそうだった。
けれど――言わなかった。
謝罪も、言い訳も。今はまだ、それを口に出来る言葉を、アラン自身が見つけられていなかった。
その沈黙のなか。
レギュラスは最後の視線を彼女に落とし、扉の方へ向きかける。
けれど完全に背を向けることはせず、振り返らずにぽつりと一言、淡く、爪先よりも薄い声で残された。
「……次は、ありません。アラン」
その一言が、まるで罰のように部屋を静かに締めつけた。
やがて扉が静かに閉まり、アランの前には、夕暮れの影がゆっくりとその身を広げていった。
あたたかさは残らなかった。
けれど、それでもアランは動かなかった。声も、涙も、出さずに。
ただ静かに、何かを抱きしめるように、自分の膝を両手でぎゅっと包み込んだ。
屋敷の中庭に、木々の葉擦れと噴水の細やかな水音だけが響いていた。
淡く差し込む午后の日差しのもと、アランは中庭の白いベンチに静かに座っていた。
膝の上には読んでいるふりの本が一冊。けれど、頁は風にもめくれず、開かれたままの静止した沈黙だけが、彼女の周りに流れていた。
窓越しにその様子を見ていたレギュラスは、軽い吐息をひとつだけ落とした。
あの日の言葉。
「次はない」と告げたあの夜から、アランの態度は確かにどこか――遠くなっていた。
声に出して咎めることもなく、怒りをぶつけることもない。
だがその代わりに、かつて自然に向けられていた微笑や視線、会話の間の熱――
そうした繊細なぬくもりのすべてが、ほんの数度、わずかにずれていくように静かに離れていった。
それは、いっそ優しさのようにも見えた。
けれどレギュラスにとっては、冷たさよりも残酷な拒まれ方だった。
ベッドを共にしていれば、沈黙の隙間を埋められたかもしれない。
体に手を触れ、どこかで見ていたはずの感情を、ひとつずつ確かめることができたかもしれない。
けれど――
彼女は、いま「妊娠している」。
あの日、静かにその事実を告げられたときのアランの瞳を思い出す。
喜びのなかに、確かににじんでいた、押し殺すような不安。
それを覚えている以上、安易に踏み込むことなどできるはずもなくて。
触れてはいけないもののように、アランの身体にも、心にも、距離ができてしまった。
そして、それを超える言葉も方法も、彼には――なかった。
書斎へと戻ったレギュラスは、無意識に机の上に置かれた便箋用紙を見つめた。
何か書こうとした痕跡のペン先が、乾いたインクの染みに置き去りにされている。
(言葉でさえ、追いつかない)
身体のすぐ横にいるはずの妻が、
何よりも近くにいるはずの人が、今はまるで遠い。
どうすればいい。
どうすれば、アランの閉じてしまった心に触れられるのか。
手元のペンを取る代わりに、レギュラスは椅子に深く腰を落とし、ひとつだけ目を閉じた。
彼女がそっと遠ざけたその余白に、何かを乱暴に埋めるようなことは、したくない。
けれど、このまま静かに失っていくのを見ていることも、できなかった。
遠ざけているのは彼女であり――
それを望ませるほどの痛みを与えたのは、自分だということ。
レギュラスはそれを、誰よりも正確に理解していた。
だからこそ、彼は今、戸惑いの中で、何もできずにただ静かに、手を差し出すことすらもできないのだった。
それは、愛しているという言葉では到底届かないかたちの後悔と祈りだった。
午後の陽はゆっくりと傾き、ブラック家の中庭に淡く金色の影を落としていた。芝の上には、子どもの笑い声が弾んでいる。アルタイルが転びそうになりながらも、操る足で風を追いかけていた。
アランは、花壇そばのベンチに腰を下ろしていた。
レギュラスによく似たその小さな背中を、ただ黙って見つめるしかなかった。
額にかかる前髪。
まっすぐな脚線。
時折こちらに向けてくる微笑は、どこかまだ幼いのに、あの人の冷静さを思い起こさせた。
――似ている。
あまりにも、レギュラスに。
それなのにアランは、その“愛しい存在”を見つめるたびに、胸の奥が締めつけられるようだった。不意に湧く感情は、子どもに向けるものではない。けれど、アルタイルの姿は、どこかで“父親の怒りの欠片”を映し返されているような気さえして――
(……もう、どうやって許しを乞えばいいのか、わからないんだわ)
あの日、レギュラスに告げられた言葉。
「次はない」
淡々としたその一言が、魂の奥にまで鋭く刺さっていた。
怒鳴りもせず、絶望という名の武器も持たず――
ただ、冷たく、遠く「線を引かれた」ことが、アランを深く切り裂いていた。
それでも、いつだってアランは、赦されるために身体を差し出すことしか知らなかった。
ただ、触れることで、温もりに縋ることで、必要とされている証を探していた。
けれどいま、腹の中に芽吹いた命が、それを許さなかった。
この身体はもう、自分だけのものではない。
誰かの“赦しのための器”にも、“贖罪のための手段”にも使ってはいけない。
理性では理解できていても、この“己の武器を封じられた”無力さが、アランの心をさらに追い詰めていった。
握った指に力がこもる。
薄い布越しに、まだほとんど存在感を持たない命が宿っていることを意識すると、泣いてなどいられなかった。
アルタイルが「ままー!」と叫びながらこちらへ駆けてくる。
アランは微笑んだ。
それは子に向ける母の顔でありながら、どこか、どこにも属さない孤独な微笑だった。
― この子だけは、
どうか何の咎もなく、何の責任も背負わず、
明るい未来を歩けるように。
その願いだけが、今日のアランを支える唯一の光だった。
ただ静かに吹き抜ける初秋の風のなか、アランは走り続ける息子を見守りながら、痛みのような祈りだけを胸に抱いて、微笑み続けていた。
秋の気配が色付きはじめた風のなかに、ホグワーツの塔が静かにそびえていた。シリウス・ブラックはその一角、淡く射す夕陽を背に、校庭の片隅に佇んでいた。グリフィンドールの勝負は終わり、歓声も遠く過去となって消えていった後だった。
けれど、彼の胸の内にはまだ、その瞬間の余韻だけが、やさしく灯のように残っていた。
――あのとき、アランにアリスを会わせることができた。
それが、どれほどの巡り合わせだったか。
どれほど長く願っていたできごとだったか。
シリウス自身、あの日のすべてを反芻しながら、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。
アランの微笑。
涙を浮かべてアリスを抱きしめたあの姿。
そして――何より、何も言わずとも伝わる想いが、互いの空気をやわらかく満たしていた。
自分にとっても、アランにとっても、アリスという少女はただの“守った命”というだけではない。
夢そのものだった。
願いの種だった。希望の形だった。
「……なあ、アラン……見ただろう?」
ひとりごとのように、そう呟いた。
芝の色、校舎の佇まい、そしてアリスの姿――すべてが昨日のようにはっきりと脳裏にある。
あの子が箒を手に、空を駆けぬけた姿。
まるで、若き日の自分のように。
でも、そこに映っていたのは、“自分の分身”ではなかった。
シリウスが感じ取ったのは、あの子の背に、アランから受け取った光のようなものだった。
名もなく差し出された祈り。
託された命のあたたかさ――
それをずっと背負い続けてきたのはアリスであり、それを育んできたのは、アランとシリウス、ふたりの想いだった。
たとえ “家”という檻が彼らを遠ざけたとしても、
たとえ過去がふたりを別々の道へ追いやったとしても、
アリスという存在がある限り、彼女と自分はきっとどこまでも繋がっている。
この絆には、ことばも、距離も、時すらも必要ない。
「……あの子が笑っていられる限り、オレは生きていけるんだよ、アラン」
そう、心の底から思えた。
アリスは、過去の贖罪じゃない。
誰かが守らねばならない弱い存在でもない。
アランの手で、シリウスの腕に渡され、そして未来へと向かおうとしている、“証”だった。
未来は、きっと、彼女のなかにある。
あたたかく、まっすぐで、美しい未来が。
夕陽が塔の尖端を焦がしていく。
シリウスは立ち上がり、遠くから聞こえるグリフィンドール生の賑やかな声に背を向けながら、空を仰いだ。
「大丈夫だ、アラン。
あの子は、ちゃんと未来を照らしてる」
そしてその光は、きっと――誰よりも、アランの心まで届く。
それだけで、シリウスはもう、十分に満たされていた。
屋敷の高窓に、夜の帳がゆるやかに下りはじめていた。オイルランプの灯りが静かに揺れるなか、レギュラスは上着も脱がぬまま廊下を駆ける様に早歩きしていた。
「奥様が、急に立ちくらみで……安静にされております」
そう報せた使用人の面持ちが穏やかだったにもかかわらず、レギュラスの鼓動はそれとは反比例するように速くなっていた。
淡く開かれた寝室の扉の先、整えられた寝台の上で、アランが上体を横たえていた。肩までかけられたシーツに包まれ、その顔だけが小さく見える。
「…… アラン」
呼び声は思ったよりも低く、震えていた。
駆け寄る足音にアランが目を開け、ゆっくりと身じろぎしながら上体を起こしかけた。
「構わず、そのままで」
レギュラスは思わずその動きを制し、ベッドサイドに膝をつくように腰を落とし、
彼女の額近くに視線を落とした。
「どうあるんです?」
ひどく静かな声音。
冷静に抑えていたが、その言葉の端々には真綿のような心配が編み込まれている。
アランは、少し呼吸を整えながら、微かに頬を緩めて言った。
「……ちょっとした貧血よ。妊娠中には、よくあることなの」
その口ぶりには確かに経験と知識に裏打ちされた自信があった。
けれど、だからといってレギュラスの胸にある不安が曇ることはなかった。
(それでも、“この身体”は、もうあのときのままではない)
ただでさえ痩せて見える肩。
一度も忘れたことのない、無理を重ねた末の痛みに顔を顰めたこと――
それをまた思い出しそうになる。
それでも。
どこか張り詰めていた空気が、ほんの少しだけほどけていくのをレギュラスは感じていた。
アランが拒まなかった。
問いに答えてくれた。
たとえそれが“強がり”だったとしても――
この距離に、素直に身を置こうとしてくれたという事実だけで、かすかな救いだった。
「……水を。飲みます?」
指先で彼女の手に触れながら、そっと尋ねる。
アランは遠慮するように首を横に振り、代わりにレギュラスの手の上にそっと自分の指を重ねた。
それは細く小さな仕草だったけれど、まぎれもなく自分から距離を詰めてくれたという証だった。
言葉には出さずとも、心と心のあいだにかすかに橋がかかったような――
永く、冷たい間合いに一滴の温もりが落とされたような、そんな静かな感覚を、レギュラスはたしかに感じていた。
そのぬくもりを逃すまいと、アランの手にそっと小さな圧を返す。
「あなたに何かあったら……」
それ以上は続けず、落とされた沈黙の中にすべての想いが込められた。
ふたりを包む夜の静けさが、やわらかに息づいていた。
それは傷をすぐに癒すものではないかもしれない。
けれど、折れかけたふたりの間に確かに繋がれた、“はじまりなおす”ための小さな灯だった。
ホールの窓から斜めに差し込む秋の日差しが、淡く輝く埃の粒を浮かび上がらせていた。石造の回廊の奥からは、小さな笑い声が跳ねるように響いてくる。
「ぱぱ、こっちー!」
くるりと振り返りながら走るアルタイルの足取りは、まだ不安定ながらもしっかりと地を踏んでいた。艶やかな黒髪が陽を受けて揺れ、上気した頬には幼い熱がほんのりと紅を差している。
それを追うように、レギュラスも歩を早めながら微笑んだ。
「そんなに走って転びませんか。」
叱るでもなく、咎めるでもなく。
それは、どこまでもやわらかな言葉だった。
まるで、その一歩一歩が尊くてたまらないものだと気づいている者だけがそっと囁けるような、深い慈しみの声。
アルタイルは言葉も少しずつ自由になり、自分の欲しいもの、考えていることを簡潔ながら表現しようとするようになっていた。
「ぱぱ、これ、できたよ」
小さな積み木をふたつ重ねて得意げに見せるその表情に、レギュラスは目を細めてうなずいた。
「すごい……これはきっと、ブラック家で百年に一人の天才ですね。」
冗談めかしてそう返すと、アルタイルは「えへへ」と笑いながら胸を張り、さらにもうひとつ積もうと四苦八苦していた。
最近、ヴァルブルガが家庭教師を付けたという知らせを使用人から聞いたとき、レギュラスは驚きもせず、静かにため息をひとつだけついた。
――早すぎる。
それは思ったが、母が何を求めているかなど今さら知らないはずもなかった。
ヴァルブルガが望むのは、「知性」と「品格」、そして「血筋にふさわしい能力」だ。
アルタイルがどれほど無邪気に笑おうと、どれだけ小さなことで世界を大きく感じられる魂を持っていようと、その中で彼は、確実に高い理想へと引き寄せられていくだろう。
だからこそ、レギュラスは思ったのだ。
せめて、自分の前では――
この子が、羽を休められる場所にしたい。
「つぎ、これも、のせる。」
「よし、では手伝いましょうか。」
そう言ってしゃがみ込み、小さな手に自分の手を添える。
バランスを取る指に、多くのことをまだ知らない柔らかさが宿っていた。
その感触を包むように、レギュラス自身も肩の力を抜いて笑う。
かつて戦場でさえ揺るがなかった自身の表情が、今はこうして、幼いひとつの笑い声だけに容易く崩れていくことを――どこか誇らしく思いながら。
「アルタイル、あなたにはね、遠くまで歩いていける足があるんですよ。」
「どこまで?」
「どこまでも、好きなところまで。」
レギュラスの言葉に、アルタイルは目をまあるくして、ふっと顔を輝かせた。
「ぱぱもいっしょ?」
「いつだって一緒です。」
その返事に、アルタイルがふわりとレギュラスの首に抱きつく。
レギュラスは眼を伏せた。
──これほど小さな背に、いつか母の理想が重くのしかかってくる日が来る。
だが今だけは。今だけは。
この掌にすっぽりと収まる温もりの中で、
甘やかして、満たして、愛された記憶だけが確かに残るように。
空に鳴く鳥の声と、風に踊る木の葉の音が、ふたりを優しく包んでいた。
夕餉の灯りが、落ち着いた金の色で食卓をやわらかく照らしていた。
高く磨かれた銀器には空のグラスの影が微かに映り、スープ皿から立ち上る湯気が、その間の空気に小さな揺らぎを与えている。
アランとレギュラスは、ふたりだけで食卓にいた。
静かな時だった。
けれど、どこか満ちている。
それは沈黙に支配されるものではなく、お互いの呼吸が穏やかに染み合うような――ゆるやかな余白だった。
ナプキンをそっと置いたレギュラスが、ふいに言葉を落とす。
「……アルタイルは、随分と話すようになりましたね」
アランはやわらかく笑んだ。
「ええ、最近はもう、おしゃべりが止まらないくらい」
レギュラスは微かに笑みを返しつつ、視線をテーブルの奥に落とした。
今日、庭で自分の名をいちども噛まずに呼んでくれたこと。
食後のミルクの場で、自分の好きな積み木の色を“赤”と即答したこと。
その一つ一つが、思い出のように胸に残っていた。
「……今日一緒に過ごして、思いましたよ。これからもっと、たくさんのことを僕らに話してくれるんだろうなって」
その声音には、期待とやさしい驚きが滲んでいた。
アランはうなずいたまま、胸の奥に少しだけ熱のようなものが立ち上ってくるのを感じた。
「そうね、あの子……本当に、すくすく育ってるわ」
フォークの先をそっと皿の縁に添えながら、レギュラスが続ける。
「積み木も、今日は少しぐらつきながらでしたが、ずいぶんと高くまで積めていました。あれは、なかなかの集中力です」
「ふふ……それはきっと、ヴァルブルガ様が日々教育してくださっているおかげね」
アランはそれを柔らかな声音で言ったが、口調の温度は変わらなかった。
感情を乗せない“正しい返答”として、その言葉はふわりとテーブルの上に浮かんだ。
レギュラスはそこで、短く息を飲んだ。
アランの応えは、あまりにも模範的で――それが、痛かった。
彼女はいつからだろう。
外堀を埋めるように迫ってくる両親の意思に、ほとんど何も逆らわなくなっていた。
あの気丈な瞳が、少しずつ伏せられるように、彼女はすべてを“従順”という名で受け入れてしまっている。
そしてそれが“正しさ”として、冷たい寡黙さになっていく。
反論しない妻は、美しいのかもしれない。
けれど――
押し殺した声は、どこへ行く?
飲み込んだ思いは、どこへ流れていく?
やがてどこにも届かず、ただ彼女ひとりの中で濁り、遠ざかってしまうのではないか――
レギュラスは危うく、ナプキンを強く握りかけた指を、そっとほどいた。
「……それでも、あなたの考えがあるのなら。ちゃんと、言ってくれてかまいませんよ」
アランは、ほんの一瞬だけ目を上げた。
まつ毛の影の奥に、はじめて感情のさざ波がにじむ。
「私は……」
言いかけて、遠慮したように目線を伏せた。
「だって、ヴァルブルガ様は、間違ったことはなさらないもの。きっと、正しいのよ」
その言い方が、静かな悲しみを帯びていた。
レギュラスはそれ以上追わなかった。
けれど、心の奥で誓っていた――
この声なき声を、彼だけは聞き逃さないと。
そして、この翼が折れることがあったなら、誰よりも早く、抱きとめる者でありたいと。
目の前の妻の皿に、まだ温かいスープが残っていた。
ほんの少しだけそっと寄せ、指先でナイフとフォークの位置を整えてやる。
その細やかな行為に、アランがはっとしたように目を上げる。
そして、淡い微笑を浮かべた。
それは――かすかに、距離を埋めるための手のひらだった。
いつかまた、この食卓に、言葉と想いが縒り合っていく日が来るようにと、
ふたりの間には、静かだが確かな温もりがひとつ息をした。
昼下がりの庭には、花の香りを含んだ風が通りすぎていた。
夏の濃さが和らぎはじめた気配が、空の隅々に漂っている。
屋敷の裏庭には陽がやわらかく差し込んでいて、レギュラスはアランと並びながら、小さな手を引いて歩くアルタイルの後ろ姿を見守っていた。
草の上をとことこ進む息子は、赤金の陽に包まれて、まるで一輪の花のようだった。
「ままに、が…できるの、いやなの」
そう言ったのは、ぶつぶつと苺の茎を拾って手遊びをしていたアルタイルが、不意に声を低めたときだった。
レギュラスの足が、ほんのわずか止まった。
アランがゆっくりと、アルタイルの背に視線を落とす。
彼は、それきり手の中の葉っぱをむにむにと潰しながら、さらにぽつりと続けた。
「おとうとでも、いもうとでも。あたらしい子……ぼく、いらないの」
理由を尋ねてもいないのに、アルタイルはふと、少し困ったようにひとつ眉をひそめた。
「だって……まま、とられちゃうから」
その一言に、レギュラスも、アランも、
胃の奥をそっと掴まれたような感覚に襲われた。
あまりにまっすぐで、あまりに幼くて、
けれどどこか鋭く心の核を射抜いてくる、その言葉。
アランは何も言わなかった。ただ唇を結び、レギュラスの袖の内側を小さく握った。
そして横に立つレギュラスは、胸の奥に湧いた感情が、不意に押しとどめられなくなっていた。
「ああ、まったく……」
思わずため息混じりに笑う。
「……本当に君は僕の子だな」
独占欲。執着。誰にも渡したくないという衝動。
愛している人をただ見つめていたい、手元に置いていたいという想い。
その無垢な小さな魂のなかにも、彼とよく似た熱が確かに息づいている。
それが、どうしようもなく――愛おしい。
レギュラスはしゃがみ込み、アルタイルの肩に手を添えた。
「ままにはね、他の誰がいようと……君が一番大事だって、ずっと思ってるんですよ」
アルタイルは少し戸惑ったような目で見上げた。自分の小さな世界のなかで覚えた不安が、本当に解けていくのかまだわからずにいるようだった。
だから、言葉の代わりにレギュラスは、そっとその小さな身体を抱き上げた。
ぐんと軽くなった土と風のなかで、息子を抱いてゆっくり立ち上がる。
胸に収まったその小さな温もりが、ぐっとレギュラスの喉をつまらせる。
「君は、世界にひとりの宝物」「ままにも、ぼくにも、大切で、大好きな子だってこと……忘れないでいてほしい」
アルタイルは少し黙っていたが、やがてくるりとアランの方へ目を向けた。
アランは、そっと微笑みながら「そうよ」と頷いた。声には出さなかったけれど、その目にたしかな想いを宿して。
レギュラスの腕の中で、アルタイルはしばらく何も言わなかった。
けれどそのうち、頬をレギュラスの肩にあずけて細く目を閉じた。
まるで、その胸の音を聴こうとするかのように。
その小さな顔に、かすかな安心の色が差していた。
空の雲がゆっくりと流れ、風が少しだけ季節を変えていく。
けれどこの一瞬は、ただ静かで、穏やかで、幸福だった。
父が子を抱き、母がそれを見つめ、
言葉にはできないやさしい絆が、その庭に満ちていた。
ホグワーツの図書館塔、その最も静かな読書席で、アリスは古びた本を閉じる指を、そっと止めたまま動かせずにいた。
窓の外では夕陽が鈍く差し、空が淡い茜と紫を抱き合うように滲んでいる。けれど、アリスの胸に射す光は、少しも温かくなかった。
レギュラス・ブラック。
あの日、冷たい金の瞳で自分を見下ろし、「忠告」と称して突き刺すような言葉を告げた男。
アランの夫。そして、シリウスの弟。
それだけでも、自分にはなかなかに飲みこめぬ事実だった。
けれど──
“彼が、デスイーターだ”
その真実を知った時――
凍るような衝撃が、足の裏から背骨を駆け上がってきた。
本の頁に綴られていた名前。
作戦記録の断片。
目撃証言。
そこに、あの静かでどこか貴族的だった男の名が、確かに存在していた。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王の配下。
“人殺し”。
息が苦しくなった。
目を反らしても、背筋の奥が痛んだ。
アランさん――
あんなにも、あたたかくて、美しくて、やさしい人が。
どうして、彼と共にあろうと決めたのだろう。
その選択を、どう思いながら今の場所にいるのだろう――。
アリスは額を指で押さえた。
心がじわじわと張り裂けるようだった。
あの庭の再会の日。アランは言葉よりも微笑みで自分の存在を赦してくれた。
腕のなかに受け止めてくれたあの静かな包容は、自分にとって光だった。
その光と共にあるはずの人が、影の極みに仕える者だったという現実。
清廉であること、正しさを信じること――
シリウスや、ジェームズ、ルーピン。それらの人々が支えようとしている世界に、自分もいつか加わりたいと願っていた。
アランに、少しでも恩返しがしたかった。
彼女の願った未来を、自分の手でも築きたかった。
……けれど、アランは、そのすべてを知って、
レギュラスの隣に立ち続けているのかもしれなかった。
どうして?
愛されていないはずが、ない。
アリスは知っている。
アランとシリウス。
子供の頃から聞かされていた。ジェームスが笑いながら言っていた。
「本当に仲が良くてさ、ふたりを見るのがちょっと恥ずかしいくらいだった」
「婚約してたんだぜ?ほんのこどもみたいな歳のときに。運命のふたり、って感じだったよ」
──それでも。
ふたりは引き離された。
あの時、どれだけの痛みが胸を裂いたのか。
どんなに悔しく、どれだけ多くを呑み込んだのか。
恋というものをまだよく知らない。
けれど、そのことを思うと、胸がきゅっと鳴るように締めつけられた。
“好き”とか“愛している”という言葉よりずっと深い何かがふたりのなかにあって。
それは過去のものになっているようでいて、どこかでいまも続いているような気がする。
そこに立ち入るつもりなんてない。
ただ――
「どうか、幸せでいてほしい」
自分はその一部になれたらと願っていた。
けれど、アランの幸せがどこにあるのか。
彼女がいま、どのような想いで、あの冷たい男の隣にいるのか。
それを知るには、自分はまだ少しずつしか大人になれない。
だけど、だからこそ、今は歩こう。
アリスは静かに椅子の背に身を預ける。
世界はシンプルではない。
けれど、そこに希望や恩、愛があったと知っている限り……
闇の中に光を届けようとしたあの人のように、
自分もまた、歩いていいのだと信じたかった。
それが、アランへの、
ほんの小さな恩返しの始まり――そんな気がしていた。
午後の陽が斜めに差し込むリビング。
ホグワーツでの日々の興奮もまだ胸の奥に残しながら、アリスはシリウスの家へと帰ってきていた。
広間には柔らかい陽射しと、午後の低い鳥のさえずり。
部屋の隅でシリウスが新聞をめくる音が、静かに響いている。
久しぶりに家に戻った安堵と、どこか物足りなさが混ざる心地。
アリスはソファに腰を沈め、胸に抱えてきた疑問をほんの少し迷いながらも、勇気を出して口にした。
「……ねえ、シリウス。…… アランさんのこと、今でも好き?」
新聞の端から顔を覗かせるシリウス。
不意を突かれたように目を丸くした彼の様子が、可笑しくもあり、少しだけまぶしく見えた。
「……ガキが何言ってんだ、そんな妙な質問して。」
普段よりも軽く茶化すような調子が、逆に図星を突かれた狼狽をごまかそうとしているのだとすぐにわかった。
けれどアリスは、一歩も引かない。
少し首をかしげて、小さな声で続けてみる。
「でも、私くらいの歳だった頃には、アランさんと……お付き合いしてたんでしょう?」
窓の外の木漏れ日が、アリスの横顔に落ちる。
自分と同じくらいの年ごろの友人たちが、互いに手紙を送り合い、甘い言葉を交わし合っているのを思い出していた。
自分にはまだ何も分からない恋の輪郭を、近くの大人、かつて“特別な人”だったふたりの距離で測ろうとしたのだった。
シリウスは一瞬、言葉に詰まり、鼻先でちいさく笑った。
「……まあな。ガキってのはお前の方だろうに……あの頃はまぶしいくらいだった。」
声の端に、ほんの少しだけ懐かしさと切なさが滲む。
いつもは豪快な笑みを張るその男の横顔に、ふと翳が射すのをアリスは逃さなかった。
「そりゃ、好きだったよ。」
ぽつりと投げられたその言葉は、冗談や照れ隠しの一切を纏わぬ、まっすぐな本音だった。
「……あんなに、誰かを信じて、想って……バカみたいだったって笑われたって、俺はあの子のためなら、何だってしてやれた。」
シリウスの低い声が、静かに部屋の空気を温める。
「けどな、そればっかりが人生じゃない。好きだって気持ちは、大事だけど、それで全部がうまくいくわけじゃないんだよ。」
アリスは黙って聞いていた。
理解できるようで、まだ遠い。けれど、その言葉の重みだけはしっかりと心に残った。
「……今でも?」と、もう一度だけ問うてみる。
シリウスはしばらくアリスの顔を見つめ、それから肩をすくめた。
「そうだな――いまは“思い出込みで、最高に好きだった”。……でも今の俺には、お前がいる。これも間違いなく、俺の“いちばん”だ。」
アリスは目を見開いた。
静かに息を吸いなおし、ふいに少しだけ微笑む。
大人の恋、昔の恋、今の愛――まだよくは分からないけれど。
誰かを深く想い、誠実に手放し、目の前の人を守ろうとする気持ちだけは、この胸にもしっかり伝わってきた気がした。
打ち明けられた秘密のひとかけらを、そっと胸にしまい、
アリスはこれからの自分を、少しだけ楽しみに思うのだった。
夜も深まり、アリスが眠りについた静かな室内。シリウスは深いため息をつき、隣室の扉を静かに閉めた後、廊下をゆっくり歩きながらジェームズを呼んだ。
「お前だろう、アリスに色々吹き込んだのは」と、シリウスはくすりと笑いながら話し始めた。彼の声には、わずかに狼狽える様子が含まれていた。あんなに純粋な少女に、いまでもアランを好きかと真面目に尋ねられるとは予想もつかなかったのだ。
「まったく、敵わないやつだ」とシリウスは続ける。子どもだと思っていたアリスに言葉をかけられ、慌てふためく自分に、どこか滑稽さすら感じていた。
それを聞いたジェームズは、にやりと楽しそうな笑みを浮かべた。彼はこの一件を面白がりながら、「そういうお前が結構子どもっぽいところがあるんだよ」とからかい返す。
シリウスは苦笑しつつも、心の中にある誇りと愛情をあらわにしながら、「それでもあの子には、俺たち以上に強く大きな未来がある」と締めくくった。
静かな夜のひとときに、ふたりの友情と温かな絆が静かに息づいていた。
