3章
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雲が低く垂れ込めた午後だった。風はなく、屋敷の中庭にも静かな重さが滲んでいた。
アランはまた体調を崩していた。
産みの途中にある身体はますます繊細に研ぎ澄まされてしまうようで、その日も朝から顔色が優れず、長椅子に横たわるほどしかできなかった。
それでも、アルタイルに「今日は本を読んであげる」と約束していたらしい。微かな記憶が残るような声で、レギュラスにそれを伝えると、彼は静かに首を振った。
「かわりに僕が読みますから、休んでいてください。」
アランは一言も抗うことなく、薄くまぶたを伏せただけだった。
応接室の一角にアルタイルは座っていた。
お気に入りのクッションの山に身体を埋めながらも、表情は浮かない。
抱きしめるように絵本を胸元に抱えたまま、部屋に入ってくるレギュラスをじっと見上げていた。
「今日はね、“ぱぱ”が読んであげますよ」
そう声をかけると、アルタイルはぷいとそっぽを向き、絵本をぎゅっと抱き寄せた。
その仕草は言葉よりも雄弁だった。
「ままがいい」と、そう言いたいのだ。
レギュラスは目を伏せて、しばらく何も言わなかった。
その感情が、痛いほどにわかってしまう自分に、今はむしろ答えの出しようがなかった。
(……寂しいのだ、きっと)
最近のアランは、伏せることが多くなっていた。
無理をしないでと自身が言ったはずなのに、当のアルタイルにとってはそれがどんな理由でも、「いない」という事実だけが心に刻まれてしまうのだろう。
だから、「きょうだいはいや」とあのとき言ったのだ。
ままを取られる気がした。
ここにいようとしている第二の命が、子どもの目には「自分を遠ざけるもの」に見えるのも、無理はなかった。
レギュラスは、膝を折ってアルタイルと同じ目線に座った。
子どものまっすぐな瞳が、まるで胸の奥に小石を落とすような静けさを宿している。
「……気に入らなかったら、途中までにしてもいいです。今日は“まま”のお手伝いで、代わりにひとつお願いされたから。ね?」
アルタイルは少し黙っていたが、やがてそっと絵本を差し出した。
目はまだ少しだけふてくされたままだったけれど、その手は小さく震えていた。
レギュラスは本を受け取ると、なるべくやわらかな声で表紙をなぞった。
「じゃあ、ままに変わって、読むことにしますね」
読み始めるとすぐ、アルタイルは少しずつ身体を寄せてきた。
肩が触れるほど近くなっても、レギュラスは言葉を途切れさせず、淡々と物語を読み上げた。
アルタイルの横顔には、どこか張りつめた影が漂っていた。
愛された記憶が、理由を分からず遠のいていくような不安。
温かさが届かない短い時間が積もって、心に小さなひびが入る。
レギュラスは本の頁をゆっくりとめくりながら、心でふと祈っていた。
どうか──
君のなかの寂しさが、何かに変わっていけるように
ままがいないわけではないと、この子には伝えたいと強く願っていた。
読み終わると、アルタイルはそっとレギュラスの袖をつまんだ。
「つぎは……“いっしょ”がいい」
「“いっしょ”?」
アルタイルは頷いた。
「ままとぱぱと、いっしょで、よんで」
その言葉に、レギュラスの心がひとしずく揺れた。
誰かを失いたくないという独占欲と、愛する者みんなと一緒にいたいという純粋な願いは、まだきちんと区別がつかない年頃。
だが、そのどちらも確かに愛のかたちだった。
「もちろん」
レギュラスはそう答え、そっと頭に手を乗せた。
この手のぬくもりを、ままにも。
そして、まだ姿さえないきょうだいにも――同じように、しっかり伝えてあげられたらと、彼はそっと息をひとつ落とした。
その午後は、少しだけ静かで確かに満たされた時間として、屋敷のやわらかな灯のなかに包まれていった。
夕暮れの薄明かりが屋敷を包み込む中、レギュラスは静かに背筋を伸ばしながら医務魔女の前に立っていた。言葉少なに告げられた問いは、静かな重みをもって彼の胸に落ちた。
万が一の場合、子供とアランのどちらを優先しますかと。
アルタイルの時にはなかった、冷徹な選択を迫る問いに、レギュラスの胸は鋭く痛んだ。目の前の医務魔女は責めるでもなく、厳かにその言葉を発したのだ。
彼の視線は遠く、その喉は詰まる思いで震えていた。
一方、ヴァルブルガは冷ややかに眼光を強めている。
「ブラック家の血筋は絶やしてはなりません」と、いささかの温情もなく告げるその言葉は、家の存続にしか興味がない厳しい現実だった。
オリオンもまた、同じ覚悟と思いをもっている様子で、ふたりの視線は重く組み合っていた。
その二人にとって、セシール家の姫として嫁いできたアランはただ一つ、「ブラック家の跡取りを産むための器」でしかなかったのだ。
しかしレギュラスの心は違った。
アランはただの役割ではない。ひとりの妻であり、愛しい者であり、何よりも彼にとってかけがえのない存在だった。
医務魔女の問いかけに、彼は静かな決意と共に答えた。
「子はまた、望めますから」と。
それに対するヴァルブルガの鋭い問いは冷たかった。
「あなた、その状態で次がありますか?」と、まるで諦めにも似た苛立ちを含んで。
レギュラスは揺れる胸を押さえ、眉根を寄せる。
「分かりません。しかし、アルタイルがいます」とだけ、静かに返した。
その言葉には、揺るがぬ覚悟と、どこか痛みを宿した哀しみがにじんでいた。
まるで世界が彼らを押しつぶすかのような重圧の中で、レギュラスはアランへの愛と家の重み、その二つの間に深く引き裂かれていた。
冷たい指輪のような言葉の輪のなかで、彼の手はアランにそっと触れた。
痛みも悲しみも、覚悟も――すべてを静かに抱えながら、レギュラスは彼女を見つめていた。
夕暮れの長い影がふたりの周りに伸び、静かな部屋の空気に繊細な哀愁が滲みわたっていた。
部屋の空気は静まり返っていた。
濃い幕に包まれた医務室の一角。
魔法薬草のほのかな香りが漂う中、レギュラス・ブラックは静かに立っていた。
時折灯るランプの光が壁に影を揺らし、彼の姿までも淡く揺れる。
その目の前にいるのは、小柄で沈着な医務魔女。
年季の入った声で、彼女はまるで機械のようにまた同じ言葉を繰り返す。
「――どちらを優先されますか? 母体か、お子様か」
言い淀むことのない言葉。躊躇の一切を排した、魔法医としての冷静な確認。
その瞬間、レギュラスの脳裏をいくつもの情景が駆け巡った。
アランが笑っていた日。
名前を呼ばれ、振り返った時の柔らかな声。
痛みにも言葉を出さず、静かにそれを抱えて佇む、その背中に触れた時のぬくもり――
そして、あの日アルタイルを初めて腕に抱いた時の、彼女の震える瞳。
彼女は、「産んだ」のだ。
立派に、静かに、誇り高く――ブラック家の継承を。
アランは、セシール家の姫。
あの由緒正しく、高潔な純血の家に育てられ、宛てがわれ、嫁いできた女性だった。
それは、“妻”である前に、“血統上の駒”として期待された人生だったはずだ。
けれど――彼女は、それ以上だった。
レギュラスにとっては、ただの家の器でも、称号でもなかった。
ひとりの生きた存在として、唯一無二の名前として、「アラン」という人物として――彼女を想っていた。
だからこそ、いま、迷う理由などあり得なかった。
短く、そしてはっきりと。
「アランを、優先してください。」
その言葉が落ちた瞬間、医務魔女はただ静かに頷いた。
けれど背後から小さく漏れた吐息は、まるで心に重石をひとつ落とす音のようだった。
「ああ……」
ヴァルブルガが椅子に腰かけたまま、極めて控えめな、しかし明確なため息をついた。
その横では、オリオンが顔を動かすことなく、ただまぶたに影を落としていた。
言葉にはしなかったが、感情のすべてがその沈黙に込められているのが分かった。
――「血迷った」
――「ブラック家に生まれた男が、何を差し出すべきか忘れたのか」
そんな非難を、あからさまではないながらも確かに滲ませていた。
レギュラスは、視線を彼らに向けることはなかった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、ただ前を見据えていた。
承知している。これが、“正しくない選択”であるということを。
だが、正しさよりも尊いものを、彼は失いたくなかった。
愛する者を守ると決めたこと。
それは、家の名よりも、血の継承よりも、自分の意志だった。
その意志に背いてまで、何を「保った」と言えるのだろうか。
医務魔女が去り、扉の音が閉まる。
部屋には、再び沈黙が落ちた。
頭の奥で、ヴァルブルガのため息の名残がまだ冷たく響いていた。
けれどそれでも、レギュラスは胸の内にひとつだけ確信を抱いていた。
――この命が、たとえ未来に責めを負うとしても。
彼女が生きてくれるなら、それでいいと。
それが、“夫”であるという覚悟のかたちだった。
晩秋の午後、屋敷の空気は張りつめていた。
滅多に訪れることのない二人の来客の姿が、レギュラスの胸に薄い緊張の痛みを呼び起こしていた。
──セシール家の夫妻。アランの生家、名門中の名門。
その気品に満ちた立ち姿は、時を静かに割って現れたようだった。
彼らがブラック家を訪れたことを知ったのは、扉の奥に張り詰めた気配が流れ込んできた時だった。
言うまでもなく、ヴァルブルガが呼んだのだ。
どこまでも周到に、どこまでも“緻密に”。
アランの容体が不安定な今、この両親が屋敷に足を踏み入れる意味など、考えるまでもなかった。
ヴァルブルガは、あの夫婦を「この場」に呼び寄せ、彼女たち自身の口で「その言葉」を言わせたかったのだ。
面会はすぐに行われた。
セシール夫妻は、ひとときも声を荒げず、ただ愛娘の額にそっと手を添え、静かに見舞いの言葉を交わした。
言葉もないほどのやさしさだった。
アランの命を宿したまま戦っている弱々しい姿に、母親の指先はしばらく震えていた。
それでも、泣かなかった。
その直後、夫妻はヴァルブルガとオリオンの前へと進み、深く頭を垂れた。
「――万が一のことがあれば、私たちは、子を優先してくださって構いません。
娘はそれを、誇りと共に受け入れる女として……生まれ、育ててまいりました。」
荘厳なまでに整えられた声だった。
それは、母の嘆きではなかった。
由緒正しい家に生きる者が自らに課す、美しき悲哀――。
そして、その一言が終わったとき。
レギュラスは、目の前の光景が鮮烈に霞んだ。
頭を殴られたような感覚。
理解した。
──これは、すべて計算されていた。
この場所で、この配置で、この言葉を、
最も“形式の重い場所”に落とすために。
彼の愛する人を、この家の「娘」として語らせるために、
ヴァルブルガはセシール家をここへ呼び寄せたのだ。
血が、冷えた。
目の前で、セシール家の主人が膝をつきかけたその瞬間。
レギュラスは反射するように駆け寄り、彼の肩に手を添え、そのままそっと立たせた。
「……やめてください」
その声は静かだったが、明確だった。
礼儀ではない。威儀でもない。
ただ一人の夫としての声。
「どうかご心配なく。……私は、必ずアランを優先いたします。
どうか、もうそれ以上、罪のことばを積まないでください。」
主人の腰が震える。夫人の眼差しが揺れる。
レギュラスは、言葉を探すように息を継いだ。
「アルタイルには……母が必要です。
彼がこれから歩んでいく人生に、どんなに“血”や“継承”が求められるとしても――
母のいない幼子に、何を誇らせろというのでしょうか」
もう、誰に向けた言葉か分からなかった。
けれど、確かに一つ一つ、胸から絞り出すように言葉を紡いだ。
沈黙が落ちた。
ヴァルブルガは何も言わない。
ただ、視線だけが刺すように冷たかった。
それでも、構うものか。
たとえこの選択が誤りだと言われようとも、
たとえブラック家の後継が、今後もう立たないと言われようとも――
彼女の命を、守る。それが、間違いのないことなのだと、ただそう信じていた。
あまりに長く感じられた沈黙のあと。
セシール家の主人が、ふと顔を伏せた。
「……ありがとう、レギュラス様。」
それだけを、かすれた声でつぶやいた。
その声こそ、愛する娘への真の「見送り」であるように。
そしてその言葉こそ――レギュラスにとって、本物の「加護」だった。
部屋の灯は落とされ、わずかに開けたカーテンの隙間から、月明かりが薄く射していた。
しんと静まり返る寝室のなか、レギュラスはベッドの傍らの椅子に腰を下ろしていた。
隣のシーツの上には、アランが静かに横たわっていた。
細く長い指でお腹をそっと撫でるようにしており、その仕草には穏やかでありながら、どこか晴れぬ影があった。
月の光が滲む横顔に、ぬくもりが足りないように見える。
レギュラスはそっと彼女の手を取った。
あたたかくも冷たくもない、体温より少しだけ低い細い掌。
――この手を、もし二度と掴めなくなったら。
そんなことを想像したくもないのに、今日という一日が、それを否応なく意識させる。
セシールの両親が残した言葉。
それに何も言わなかったアランの表情。
すべてが、振り払えない現実だった。
その静けさに、アランが小さく口を開いた。
「ねえ……」
レギュラスは目をしっかりと留めた。
アランは正面を向かず、天井を見つめたまま、言葉を置くように続けた。
「……今日、父と母が屋敷に来たでしょう。わざわざ、こんな日に」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ――「知ってしまっている者の静けさ」だった。
レギュラスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女は、すべてを察している。
誰が何のために、何を彼女の親に言わせたのか。
そして、それを彼の目の前で言わせた“意味”さえも。
アランは、穏やかなほどの沈黙のあとで、ふわりと囁いた。
「もしも……何かあったら。私の両親のことも……アルタイルと一緒に、ほんの少しでいいから……心の片隅で気にかけてあげてくださいね」
その言葉が落ちた瞬間、レギュラスの喉の奥がじりじりと焼けるように熱くなった。
そんなことを、どうして君が言わなきゃいけないんだ。
どうして世界で一番愛している人に、そんな覚悟を語らせなければならない――
胸の奥が、裂けた。
裂ける音がしたようだった。
それでもレギュラスは、顔を歪めることひとつせず、深く息を吸って、返した。
声が震えないよう祈りながら、ただ言葉を口に運んだ。
「―― アラン、あなたは……何を想像しているのかは知りませんが」
端正な言葉だった。
けれど、その実は、引き止めたくてたまらない叫びだった。
「アルタイルの母として……そして、生まれてくる子の母として、あなたにはまだ果たすべき責があるはずです」
凛としているつもりだった。
けれど、それがただの厳しさになってしまったと自覚した瞬間、レギュラスは自分を深く恥じた。
もっとやさしくすればよかった。
もっと彼女の心に寄り添えばよかった。
でも。
泣きそうになる思いを、今ここでこぼしてしまったら――
自分が一番弱いと、彼女に知られてしまう気がした。
だからレギュラスはただ、アランの手を離さないまま、小さくうなだれた。
その手の握りに、アランがわずかに力を込める。
そのぬくもりが、言葉にならない返事のようで、
レギュラスの目の奥には、静かに滲みが広がっていった。
二人のあいだには、もう何も言葉はなかった。
けれど、触れ合う手と手が、どうかこの夜を越えられるようにと、祈るように寄り添っていた。
屋敷の奥、陽の差さぬ回廊に近い小間に、かすかな泣き声が洩れていた。
音としては決して大きくない。けれど、その声の底に宿る痛みに、そこにいた使用人たちは誰ひとり、平静でいられなかった。
アルタイルは、床に敷かれた厚手のラグの上で、小さな身体を丸めて泣いていた。
静かに、けれど止めることのできない嗚咽。
脚を思い切り縮こませ、握られた拳の中で細く震える指。
何を言っても、何を渡しても、今日はもう効かないのだと誰もが知った。
「ままが、いい……」
「まま、くるって……いったのに……」
嗄れた声が、断片のように滴り落ちる。
日にちの感覚などまだ曖昧な年齢のはずなのに、この日々の空白を、アルタイルの心はちゃんと「母と離された日々」として受け止めていたのだ。
「いい子ね」と褒められてきた。
「大人しくてお利口さん」と、周囲の大人たちに言われ続けた。
それはアルタイルの中で、褒められるために守るべき“鎧”だったのだろう。
けれど――
もう、その鎧をかぶっていられないくらい、悲しさが溢れ出してしまった。
レギュラスは、秘書官から報告を受けてすぐ部屋へと向かった。
息子の泣き声など、滅多に聴くことのない彼にとって、それだけで胸に鈍く痛みが走る。
扉をゆっくりと押し開けると、アルタイルはあぐらをかいたまま拳をにぎりしめ、シーツの耳を噛んでいた。
顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
けれど、その泣き顔すらも、どこか周囲に気を使って歪めているようで、胸が苦しかった。
「アルタイル……」
そっと名前を呼ばれると、アルタイルは少しだけ首をもたげて、目を細めた。
レギュラスの足元まで来るわけでもなく、ただその場で涙を止められず、唇を噛んだまま、震えていた。
「……ぼく、いい子にしてたのに……」
「まま、こない……」
小さな囁きだった。けれど、それは無言の責めよりもずっと刺さった。
レギュラスはそれ以上言葉を選ぼうとせず、ただゆっくりと膝を落として、アルタイルのそばへしゃがみ込んだ。
「……ごめんなさい」
その謝罪は、子どもに向けられるような体裁のものではなかった。
それは、父が己の無力さを受け入れたうえで、ただ手を伸ばした姿だった。
そして次の瞬間、アルタイルのほうからレギュラスにしがみついてきた。
勢いよくではなく、どこか崩れるように、
ぎゅっと胸のあたりに頬を押しあてて――
「ままが……いないの、いや……!」
「ちゃんといるって、いってたのに……」
レギュラスは、目を閉じた。
震えるように細い背中を、ゆっくりと抱きとめた。
その中には、母を恋しがる幼さも、
ひとり黙って数日間耐えた重みも含まれていた。
かき抱いたぬくもりに、自分もまた、
アランの瞳を、声を、香りを、必死に思い起こしていた。
言葉で埋められるものではない。
約束で安心できるはずもない。
それでもこの手のぬくもりが、
大きくなる悲しさを少しずつ溶かしてくれることを、レギュラスはただ信じていた。
この日だけは、「いい子じゃなくてもいい」と、
その背中に抱きしめるすべてで伝えようとしていた。
屋敷の廊下は静かだった。
魔法で暖められた空気の中に、夜の気配がゆるりと漂っている。天井のシャンデリアはすでに灯が絞られていて、その淡い光が磨かれた床にうつろな映り込みを落としていた。
アランは、重たくせり出した腹を両手で支えるようにして、ゆっくりと進んでいた。
枕の上で横たわっているべき時間のはずだった。
けれど、どうしても寝つけなかったのだ。
心のどこかが、ずっと落ち着かない。
アルタイルとの約束を、何度、破ってしまっただろう。
「今日こそ一緒にあの本を読もうね」「お庭を少しだけ歩こうね」「おやすみはままがいい?」
どれも彼の首はこっくりと嬉しそうに頷いていた。
けれど身体が思うように動かず、気がつけばまた「明日にしようね」という言い訳だけが増えていった。
(ごめんなさいね――アルタイル)
胸の奥が静かに痛んだ。
その痛みが、足をベッドにとどめることを赦してくれなかった。
重たい身体をゆっくりと運びながら、アランは広間の扉へと向かった。
声はしない。けれど、ふとした気配がそこにある気がして――
扉をそっと開けると、吐息のような静けさがふわりと漏れ出した。
広間の中央、寝台ではない絨毯の上に、
寄り添うようにして眠る二つの影があった。
レギュラスとアルタイルだった。
レギュラスは、ソファの端にうつ伏せに倒れるように座り、
その胸にもたれるようにアルタイルが眠っている。
小さな拳は薄く開かれ、目元には乾ききらない涙の跡。
唇はわずかに開いて、小さな寝息を漏らしている。
その姿だけで、アランの膝がゆっくりと床へと落ちた。
絨毯の端に手をつき、小さく身を折り、ふたりの寝顔を見つめる。
声を殺して、それでも胸の奥では何かが音を立てる。
(こんなにも……寂しい思いをさせてしまったのね)
アルタイルの頬は涙のあとの赤みが残っていて、
レギュラスの口元は、眠っていてもどこか眉根が寄っていた。
小さな子が、泣いて泣いて、
その隣で父親があやしてあやして、それでも泣きやまず、
やがて眠りに落ちるまでただ見守りつづけて――
そうしてふたりとも、限界の果てにいた。
アランは、そっとアルタイルの髪に手を沿わせた。
小さな寝息に触れないよう、羽のように指を揺らしながら。
「ごめんなさい、ね」
その囁きは誰にも聞こえなかった。
けれど、それは誰よりも深く、ふたりへの祈りのように届いていく気がした。
レギュラスの肩に、そっと小さなブランケットを掛けながら、
アランは、あたたかな空気のなかで、しばらくふたりの隣にただ黙って座っていた。
この時間だけは――
言葉も、赦しも、胸の痛みさえも、すべてを抱きしめて、
静かに溶けていってほしかった。
曇天が朝を塞ぐように広がっていた。
うす青く濁った空の下、レギュラス・ブラックは漆黒のローブを纏いながら、屋敷の門を出た。足取りは冷静で、無駄がなかったが、その胸の奥は鈍い重みで満たされていた。
眠っていない。――正確には、眠れなかった。
連日、アルタイルの声に小さく起こされる夜。
泣き止まず、母の名を呼び、痩せた身体をすがるように父へ預けてくるその小さな存在を、抱きしめずに済ませられる夜など、なかった。
あの細い肩の震えに呼び覚まされるのは、
父としての責任と、
夫としての痛みと、
一人の人間としてそろそろ限界だとわかっている疲弊だった。
目的地には、バーテミウス・クラウチが待っていた。
既に現場は片付けられつつあり、ひどく混み合っていた様子はなかった。
混血の魔法使いによる呪文の暴走――それが今回の一件だった。
レギュラスは無言のまま、足元の焦げ跡を見つめていた。
バーテミウスはふと鋭い視線を彼に向け、少し口角を歪めて笑う。
「……ずいぶんと、機嫌が悪そうですね」
レギュラスは顔をそらさなかった。
けれど、何の反応も示さなかった。
答える必要も、興味も、返す力すら今はわずかに尽きていた。
喉の奥にはまだ、アルタイルの「ままでないといやだ」と泣いた声が残っていた。
アランの手を引き、一緒に眠る日がどれほど遠く感じるようになったか。
それなのに、任務は無情に続く。
混血が起こした問題の残骸を処理し、
血の濃さと誇りを錆びついた鎧のようにまとう役目。
昔ならば構わなかった。
感情など、顔にも声にも出すことのない仮面で遮ればよかった。
──だが、限界は静かに訪れる。
胸の奥で、何かが少しずつきしむのがわかる。
それでも、レギュラスは黙っていた。
クラウチの言葉にも、揶揄めいた視線にも、声ひとつ返さなかった。
ただ、任務をこなすための足取りで、焦げた大地に屈み込み、
杖をひと閃させながら、目の奥に一切の感情を映さず、淡々と呪文を唱えた。
痛みは、誰にも言語化されないかぎり、「存在しない」と見なされるのだ。
それがこの世界で、彼が生きている現実だった。
レギュラス・ブラックは、黙してその役割に徹し続けることしか、もうできなかった。
日がすっかり落ちた石造りの道を、レギュラス・ブラックは重たい足取りで歩いていた。
帰路というには長すぎる、けれど逃れるには短すぎる時間が、今日という一日を静かに締めくくろうとしていた。
任務は、大したことではなかった。
魔法の痕跡を丁寧に消し、報告をあげ、反論の余地もないように事実を整えただけだ。
それでも、帰り道の途中でふと、あまりに重く首を支える自分に気づく。
(……これしきで、疲れたと思うなんて)
その情けなさに、知らず眉をひそめた。
精神は今も高く張り詰めているはずなのに、肉体の奥から溶け出すように襲ってくる倦怠感。
食事すら忘れていた。休んだ記憶もない。
だが、弱音など言うわけがなかった。
ただ足を運び、門を潜る。それだけでよかった。
ただ――
扉が開けば、それがすべて変わると知っていた。
屋敷のホールに足を踏み入れた瞬間、ぽつりと灯ったランプのあたたかに、心の輪郭がほどけた。
そして、次の瞬間だった。
「パパ! おかえりなさい!」
小さな声が、絨毯越しに飛び込んでくる。
そこには、玄関の奥、マントルの灯りのもとに――
アランがいた。
アランが、立っていた。
たおやかに、けれどしっかりと両手でアルタイルを抱えて。
ほのかに上気した頬、やわらかく明るい瞳。
その腕の中で、息子は嬉しさに満ちた顔をして、父を見上げていた。
「おかえりなさい、レギュラス」
アランの声は、思いのほか澄んでいた。
長く伏せてきたとは思えぬほど、凛として、しっかりこの場所に立っていた。
その一瞬、レギュラスの中に渦巻いていたすべての疲労が――音もなく、消えた。
靴の踵が息を潜めるように床を打つ。
まるで夢に手が触れたようなまなざしで、彼女を見つめた。
「……平気なんですか?」
声は思ったよりも低く、戸惑いを帯びていた。
けれどアランは、微笑を崩さず答えた。
「ええ。今日は、全然。なんだか、とても平気よ」
その言葉の裏に少し無理をしている気配を感じながらも、嘘ではないのだろうと不思議な確かさがあった。
アルタイルは、母の腕のなかでもじもじとしながら、にこにこと笑っている。
レギュラスの帰宅が、嬉しくてたまらないのだ。
ままに抱えられて、ぱぱに迎えられて――
彼にとって、この光景が世界のすべてであってほしかった。
レギュラスはアランの横顔を見つめて、ほんの少しだけ顎を傾けた。
「……じゃあ、少しだけ、僕にも貸してください。息子を」
そう言って、アランの腕の中からアルタイルをやさしく受け取る。
ひと抱きすれば、小さな体が父の胸にぴたりとくっついてくる。
この瞬間にだけ呼吸がぬるく穏やかに変わることを、レギュラスは忘れたことがなかった。
アランも座に腰を下ろし、安堵の頬を緩める。
言葉にならないものが、確かにそこに存在していた。
痛みを重ねて、沈黙を超えたそれぞれの場所――
それでもこうして、今、三人でただ「在る」ために必要だったものは、派手な祝福でも承認でもなかった。
重ねた日々の奥で、こうしてまた「迎え合える」こと。
その奇跡の尊さが、レギュラスの胸の奥であたたかく灯となっていた。
朝の空気がいつもよりわずかに柔らかく感じられたのは、久しぶりに体が軽く感じられたからだろうか。
目を開けた瞬間から、アランには確かにわかっていた――今日は動ける。微かな熱も、重たい倦怠感も、ほんの少しだけ遠い位置にいる。
だから、動かなければ、と彼女は自分に言い聞かせるように身を起こした。
時間は限られている。
日によって波のある体調が、いつまた波打って彼女を床の中へ引き戻すかわからない。今日の「平気」は、今日のうちに。
――アルタイルに、まっすぐ会いたかった。
にこにこと笑うあの顔を。彼女の不在がつくった静かなさびしさを、少しでも拭ってあげたかった。
久しぶりに、食卓を囲んだ。
朝食の膳には、真珠色のバター皿、ほんのり湯気を立てて運ばれてきたスープ、柔らかなパンの香り。普段と何も変わらない品々が並んでいるのに、アランの胸は不思議と震えていた。
「まま、こっち!」
得意げな様子で椅子を引いてくれるアルタイルの表情に、自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとう、アルタイル」
名前を呼ぶ声にもどこか温もりが戻っていた。それを聞いた息子は、照れたように「えへへ」と笑い、パンをちぎりはじめる。
最近では言葉も豊かになり、「今日はね」といった具合に、たどたどしいながら日々のことを話してくれるようになったアルタイル。その声を正面から聞ける、その「席」にアランがようやく戻ってこれたことが、何よりの贈り物のようだった。
ふと、視線を感じる。
――オリオンとヴァルブルガ。
食卓の対角に座る夫妻の眼差し。
アランの呼吸がそっと浅くなる。
その目に宿るのは慈しみでも祝福でもなかった。冷たく測るような、評価の眼。
きっと「出てくるのが遅い」とも、「床で休んでいた方が賢明」とも「重たい身体で無理をするな」とも、どれもが奥底では繰り返されているのだろう。
けれどそれ以上に、彼らにとって「食卓」は、家の形を外へと見せる場でもあった。
傷のない、欠けのない、“完璧な一家像”。
アランはただそこに添えられる、名のついた花瓶のような存在であるべきもの。
けれど今日だけは――その視線から目をそらしてもいいと思った。
自分が見ていたいのは、ただいまそこにいる我が子の笑顔だけ。
「ままも、たべて!」
アルタイルが、小さくちぎったパンをアランの皿に置く。一部が指で少しつぶれてしまっていた。
「ありがとう」
アランはその欠片をそっと指で受け取り、笑みをこぼした。
――こうして座り、手を伸ばし、応える。
それだけのことが、これほどに嬉しさに満ちていると知るまで、アランは時間がかかった。
帰ってきた。その食卓に、自分は今、いる。
お産のことも、身体の痛みも、すべてはまだ続いている。
運動不足も、不安も抜けていない。
それでも今はただ、
「まま」と呼んでくれる声に触れ、この季節の朝にひとときだけでも家族で向き合えるこの時間に、アランは胸の奥でしずかに、
涙に似た安堵をひとつだけ、深く落としたのだった。
冬を告げる風が石造りの高窓をかすかに鳴らしていた。ロンドン郊外の小さな純血会の私室、その奥深くに設けられた重厚なソファの前で、レギュラス・ブラックは指先から煙の立つカップに手をかけていた。
紅茶の香りも、この怒りを和らげはしない。
「――まったくですよ。あの目障りな子娘め」
低く、よく通る声。響きに穏やかさは一欠けらもなかった。
その向かいに座っていたルシウス・マルフォイは、銀に光るカフリンクスを優雅に整えながら、目元に薄い笑みを浮かべる。
「アリス・ブラック。あの少女、なかなか“話題”ですね。世間は彼女をすっかり“若きブラック家の顔”だなどと騒いでいる…滑稽だな」
ルシウスは、むしろ面白がっているようだった。その遊び半分の皮肉にやわらかく笑みを交えるあたり、いかにも彼らしい。
だがレギュラスは、笑えなかった。
「名を継ぐものは皆、優秀ですって――?」 膝に乗せた手がわずかに震え、喉の奥にせり上がる苛立ちを押し殺すように唇を結ぶ。
「……あの女のどこに、“継ぐ価値”が?」
吐き出すような声だった。 育てたのはシリウス。
いまや騎士団の顔として、ブラック家に泥を塗ってなお愛想笑いを浮かべて歩く、忌々しい兄。
アリス・ブラック。 マグル生まれ。
血の一滴もたがわぬ誇りの系譜を持たず、それでいてブラック家の名を背負い――
その“背中”にだけ、未来を重ねる世間の浅薄さ。
「類を見ない箒捌きに、対抗試験での首席。父親譲りの才覚だと。……“父親”とは、まさか義父の話じゃないかと笑ってしまったくらいだ」
ルシウスが紅茶を啜りながら肩を竦める。
レギュラスの影がひときわ濃く揺れた。
「血も、誇りも、言葉も知らぬ。“ブラック”という名にすがった張りぼての空です」
本来的に名は、血で積まれ、言葉と誓いで守られるもの。
その家名を、魂も理由も知らぬ少女が、光に照らされるように背負っている。
それを、まるで新たな象徴のように崇めようとする周囲までもが、腹立たしかった。
「いずれ——崩れますよ、彼女の虚構は」
ルシウスが、静かに言った。
レギュラスは微かに頷いたが、そのまなざしはどこか遠く、冷えていた。
(崩れてほしい。心から)
それがどれほど醜い感情であっても、きれいごとでは語れなかった。
それほどまでに、アリス・ブラックの存在は、
レギュラスにとって――屈辱の象徴になりつつあった。
夜の静けさが立ち込めた書斎。
暖炉の火は落とされ、蝋燭の灯りだけがぼうっと机上をぼかしていた。
レギュラス・ブラックはひとり書き物机の前に腰かけ、目の前に広げられた新聞の切り抜きをただ黙って見つめていた。
見出しは、何の誇張も悪意もない、美詞を重ねた祝辞で埋め尽くされている。
──ホグワーツの星、アリス・ブラック、今春卒業へ──
勇敢なるグリフィンドールのシーカー、未来に光を――
その名を目にするだけで、こめかみの奥がじくじくと熱をもって疼いた。
グラスの中の琥珀色の液体が、手の震えと共にわずかに波打つ。
「……アリス・ブラック…」
ひとつ息を押し殺すようにして、その名を口にした。
忌々しいほど耳馴染みのよい名前。
本来ならば、あのような薄汚れた血に許されるはずのない、高潔な“家名”。
だが――
彼女は、卒業と同時に世に名を知られる存在となりかけていた。
“シリウスの娘”として、
“ホグワーツの誇り”として、
そして、“ブラック家の希望の象徴”として。
レギュラスは、静かに目を伏せる。
(このままでは、いずれ――アルタイルの耳にも届く)
誰かが語るのだ。
「同じ家の名を継ぎ、同じ勇敢さを持った少女がいた」と。
「マグルの血を持ちながら、どれほどの栄誉を築いたのか」と。
まるで業のひとしずくすら創造の源になりうるというような、甘ったるい物語を。
それがどれほど、この家の誇りにとって毒となるのか。
どれほど、彼の息子にとって一生にわたる“影”となるのか。
自分の妻にとって、それがどれだけの罪業を呼び起こすのか――
レギュラスは、堪えきれず目を伏せたまま、拳を握りしめた。
彼女がこの世界に存在している限り、
アランの目の奥には、あの日抱きしめた少女の残像が消えることはない。
純血の誇りも、父としての選択も、
誰かの”光”でしかない存在の前では、すべて霞んでしまう。
それは地獄よりも、深い奈落だった。
「……終止符を打たなければならない」
その言葉を、震えない声で、静かに告げる自分がいた。
感情ではなかった。
義務であり、決意だった。
アリス・ブラック。
マグルの血を抱えながら、世に名を馳せるその名を、
レギュラス・ブラックの手によって――
「抹消」する。
それが“けじめ”だと、レギュラスは信じていた。
アルタイルの未来のために。
アランの心を鎮めるために。
そして、ブラック家の名に再び誇りを宿すために。
蝋燭の芯が小さく爆ぜ、その炎が揺れた。
レギュラスの顔には鏡のような冷静さが戻っていた。
その眼は、すでにあの娘の卒業の先を、冷えた闇のなかで見据えていた。
居間の大きな窓には午后の光が滲んでいた。
ヴェルヴェットのカーテンの隙間から射し込む柔らかな陽に、白い羽根ペンの先が小さく揺れている。
テーブルに向かうアルタイルの背は、小さいながらもすっと伸びていた。
手元の羊皮紙の上に、まだ不慣れな筆遣いで並べられていく単語。
「Lumos」「Petrificus Totalus」――
どれも、まだ幼いその年には少し難しすぎるほどの呪文名だった。
けれど、アルタイルは眉をひそめたり、詰まったりすることもなく、
まるで音をなぞるようにスラスラと書き進めていく。
横から覗きこむレギュラスは、目を細めた。
「これは……」
嘆息でも驚愕でもない、どこか淡い敬意が透けたつぶやきだった。
母であるヴァルブルガが早いうちから家庭教師をつけ、
朝夕の生活に隙のない学習課題を組んでいたことは知っている。
時として子どもらしさを犠牲にしているようにも感じられるそれを、どこか冷ややかに眺めていたはずだった。
けれど――
こうしていざ、実際にわが子が自ら運筆し、拙い声で正確な呪文を朗唱しているさまを目の当たりにすると、
批判よりも先に、胸の奥でふっと湧き上がるものがあった。
(ここまで……育てあげたのか)
血脈という言葉を超えて、彼の魂のありようが確かに息づいている。
アルタイルという存在が、どれほどに整えられ、磨かれ、未来を歩くために「形」を与えられているのか。
ヴァルブルガのやり方は、容赦がない。
愛情と支配の境界が曖昧なほどに、重圧をかける。
けれど――その裏には、徹底した創造の意志がある。
“ブラック家の後継として恥じぬ者としてつくる”
その信念が、いま確かに、目の前の息子の姿となって静かに立ち現れていた。
ふと、アルタイルが顔を上げ、誇らしげに自分の筆跡を見せてきた。
「これ、あってる?」
鼻にかかった幼い声が、何より誇らしかった。
レギュラスは静かに頷いて、小さく口元を綻ばせた。
「完璧です」
息をつくように返したその言葉には、誇りと、微かに胸の奥を締めつける何かがにじんでいた。
こんなに立派な未来が、自分の手の中にあって、
どうして、あの穢れた“マグルの女”などに霞むなどあり得ようか。
アリス・ブラック――
あの女が、いくら褒められようと、いくら“未来の象徴”だと囃し立てられようと、
この息子以上のものを持っているとは到底思えなかった。
彼には、「血」がある。純粋なる由緒がある。
そして、何よりも傍にある愛と、厳しさに包まれながら育て上げられてきた“礎”がある。
――アルタイルが、誰かに劣ることなどない。
レギュラスはその想いを、胸の奥で確かに繰り返した。
花鳥が声を潜めた気難しい冬の午後、部屋のなかには静かで透明な誇りが、淡く吹き溜まっていた。
そしてそれは、父と息子ふたりだけの、言葉にならない誓いのように、そっと染みわたっていった。
屋敷の空気は、深夜の静けさにゆるやかに沈んでいた。
満月は雲に半ば隠れ、その影をひそやかに石畳へ落としている。廊下の燭台は魔法で灯が絞られ、光源が揺らぐたびに微かな影が壁を滑っていた。
そして、その静寂のただ中で、アランの陣痛が始まった。
レギュラスがその報せを受けたのは、深夜二時を回ったころだった。
使用人のひとりがそっと耳打ちし、かの人はもう自室に籠られました──と告げる。
わずかな物音さえ立てぬよう配慮された声に、胸がかすかにざわめく。
(また、この扉の奥で、ひとり……)
階段を上がる足音を殺しながら、あの扉の前にたどり着いたときには、もうすでに木戸の向こうにいる彼女の気配が薄く立ちこめていた。
薬草の匂い。消毒の香。長く瞑想に使われるフルール・アミレの香煙まで──あのときと同じ用意が、完璧に整えられている。
けれど、彼女が言うわけがない。
「こわい」とも、「そばにいて」とも。
だから、レギュラスはその扉が閉まりかけたほんの一瞬の隙を逃さず、声を投げかけた。
「…… アラン、待ってますから」
固い意志をにじませた、けれど静かな声音だった。
扉を閉じかけていた医務魔女の手が、一瞬だけ動きを止める。
そして、アランの気配が中でふっと揺れた気がした。
返答はない。だが、それでもよかった。
その一言を、間に合って言えたことだけがすべてだった。
レギュラスは扉の前からすぐには離れられなかった。
使用人が促すも、それに答えず、ただ何歩か後ろに下がり、懐に手を組み、扉を睨むように立ち尽くしていた。
やがて――医務魔女が出てくる。
産のための準備物を取りに戻ったのだろう。
すれ違いざま、レギュラスは彼女の目をまっすぐに捉えた。
その瞳は、焦りも怒りも、ただ切実さだけを宿していた。
「母体を優先してください。……何があっても。
そのためにどんな処置が必要でも、ためらわず行ってください」
医務魔女は、わずかに目を見開いた。
あまりに真剣で、強い言葉だったからだ。
産を見守る者として、幾度も同様のやりとりを経てきた彼女でさえ、この声には触れるものがあった。
「わかっております、ブラック様」
声は穏やかだった。けれど、その背後には年齢を重ねた者の誓いがこもっていた。
「万が一のとき、必ず、母体を優先いたします」
レギュラスは視線を落とさないまま、ひとつ深く頷いた。
(アルタイルは、また“ままがいない朝”を迎えるのだろう)
その朝を、今日は責めないでやってほしい――
夜を越えても、朝がただ通り過ぎてしまうだけでもいい。
この扉の向こうに、ただ、あの人が「いる」ことさえ叶えば。
今日が、美しい奇跡の始まりでありますように。
恐ろしいものの終わりで、ありませんように。
そのすべての祈りと願いを、歯を噛み締めて、レギュラスはただ静かに、廊下の深く冷えた空気の中に佇み続けていた。
廊下には月明かりが射し込むのみで、時間の流れが遠く離れた世界の話のようだった。
壁にかかった古い掛け時計が、まるで誰かの呼吸のように、控えめな音で時を刻んでいる。
レギュラス・ブラックはアランの部屋の前に立っていた。
扉の向こうは、何も聞こえない。
――物音ひとつ、声ひとつ。
まるで時間ごと封じ込められたようなその沈黙が、じわじわと胸の奥を締めつけていた。
アルタイルのときには、痛みに耐えるアランの声が、苦しさも強さも混じったあの震える呼気が、扉越しに伝わってきていたはずだった。
けれど、今夜のアランは――あまりにも静かすぎた。
それは理想的な落ち着きではなかった。
むしろ、“音のなさ”そのものが、恐ろしく感じられた。
「……なぜこんなにも、静かなんだ……」
思わずこぼれた声が、ひどく低く、ひとりきりの祈りに似ていた。
そのとき、とつ、と小さな足音が廊下に現れる気配がした。
振り返ると、まだ眠たい目をこすりながら、アルタイルが青白い室内着のまま立っていた。
「……ままは?」
幼い声。その問いはまるで針のように、レギュラスの心のいちばんやわらかい部分に突き刺さった。
アルタイルは眠気の残る瞳で部屋の扉を見つめ、間もなく小さな足で近づこうとした。
「……アルタイル、いけません」
声には、かすかな硬さがあった。止まらなければならないと理性がわかっていても、そこに詰まる痛みを抑えるのが難しかった。
レギュラスはそっと、その細い身体を抱き上げた。
柔らかく温かいその重みに、遠く以前の記憶がかすかに蘇る。
あのときも、アランは命のやりとりのなかで、黙して時を越えようとしていた。
けれど抱き上げられたアルタイルは、静かにはならなかった。
「ままがいるの、そこでしょ……! まま、いるでしょ……?」
小さな手がレギュラスの胸元をぎゅっと掴み、体をのけぞらせて暴れる。
足の先がレギュラスの腰を小さく蹴って、袖をしがみついてくる。
心細く、必死の叫びだった。
レギュラスは痛みに耐えるように目を伏せ、声を低く柔らかく落とした。
「……ままはね、頑張っています」
「……新しい、あなたのきょうだいのために。大切な誰かをこの世界に迎えるために、命をかけて――頑張ってる」
俯いたアルタイルの髪に、そっと額を寄せる。
「だから、アルタイルも……頑張りましょう」
その声には、押し殺された焦りと、にじむような祈り、そして確かに温かい“父”の想いがあった。
暴れていたアルタイルの小さな身体が、少しずつ、肩を震わせながら沈んでいった。
小さな嗚咽がくぐもった胸の奥から漏れ、レギュラスの心をまた焼くように締めつける。
――あとは、ただ祈るしかない。
どうか、この扉の奥にいる人が、母として、妻として、そして“ アラン”として、この夜を越えて戻ってくれますように。
冷たい廊下に寄り添うように、父は息子を抱きしめ、その身をじっと揺らしていた。
扉の向こうに、灯るのを待ち続けるただひとつの命の光を想いながら。
時間の感覚は、とうに失われていた。
最初は朝陽のまぶしさに目を細めたはずだった。だが気づけば、その光は過ぎ去り、昼の気配も影の中に沈み、屋敷には再び夜が落ちていた。光が移ろった分だけ、レギュラスの胸の痛みも濃く、強く、深くなっていく。
扉の向こうは、まだ開かれなかった。
アランの自室からは、時折だけ、低く抑えられた声が零れていた。だが、それが苦しみなのか、叫びなのか、それすら定かではない。代わりにひっきりなしに出入りしていくのは、医務魔女と数人の助手たち。手に持つ桶の水には、血の滲んだ紅が何度も浮かび、そのたびにレギュラスの指先は、目に見えぬほどに震えた。
(かかりすぎている)
アルタイルのときとは、明らかに違う。
あのときだって不安だった。それでも、ここまでではなかった。
この沈黙。
この長さ。
ただ、それだけが、恐ろしかった。
廊下の長椅子の上、レギュラスは腕にアルタイルを抱いて座っていた。疲れきっているはずの息子の身体は、眠りには程遠く、ぐったりと揺れているのに、どこか意識が冴えている。
「まま……まだ?」
アルタイルの小さな声が、レギュラスの胸の奥を擦る。
「うん。……ままは、まだ頑張ってる。だから、今は……待とう。」
自分自身に言い聞かせるような声だった。
もう何十回、このやり取りを繰り返しただろう。
息子の不安を受けとめる振りをしながら、それは同じくらい自分の揺れる心を支える呪文のようでもあった。
アランはまた体調を崩していた。
産みの途中にある身体はますます繊細に研ぎ澄まされてしまうようで、その日も朝から顔色が優れず、長椅子に横たわるほどしかできなかった。
それでも、アルタイルに「今日は本を読んであげる」と約束していたらしい。微かな記憶が残るような声で、レギュラスにそれを伝えると、彼は静かに首を振った。
「かわりに僕が読みますから、休んでいてください。」
アランは一言も抗うことなく、薄くまぶたを伏せただけだった。
応接室の一角にアルタイルは座っていた。
お気に入りのクッションの山に身体を埋めながらも、表情は浮かない。
抱きしめるように絵本を胸元に抱えたまま、部屋に入ってくるレギュラスをじっと見上げていた。
「今日はね、“ぱぱ”が読んであげますよ」
そう声をかけると、アルタイルはぷいとそっぽを向き、絵本をぎゅっと抱き寄せた。
その仕草は言葉よりも雄弁だった。
「ままがいい」と、そう言いたいのだ。
レギュラスは目を伏せて、しばらく何も言わなかった。
その感情が、痛いほどにわかってしまう自分に、今はむしろ答えの出しようがなかった。
(……寂しいのだ、きっと)
最近のアランは、伏せることが多くなっていた。
無理をしないでと自身が言ったはずなのに、当のアルタイルにとってはそれがどんな理由でも、「いない」という事実だけが心に刻まれてしまうのだろう。
だから、「きょうだいはいや」とあのとき言ったのだ。
ままを取られる気がした。
ここにいようとしている第二の命が、子どもの目には「自分を遠ざけるもの」に見えるのも、無理はなかった。
レギュラスは、膝を折ってアルタイルと同じ目線に座った。
子どものまっすぐな瞳が、まるで胸の奥に小石を落とすような静けさを宿している。
「……気に入らなかったら、途中までにしてもいいです。今日は“まま”のお手伝いで、代わりにひとつお願いされたから。ね?」
アルタイルは少し黙っていたが、やがてそっと絵本を差し出した。
目はまだ少しだけふてくされたままだったけれど、その手は小さく震えていた。
レギュラスは本を受け取ると、なるべくやわらかな声で表紙をなぞった。
「じゃあ、ままに変わって、読むことにしますね」
読み始めるとすぐ、アルタイルは少しずつ身体を寄せてきた。
肩が触れるほど近くなっても、レギュラスは言葉を途切れさせず、淡々と物語を読み上げた。
アルタイルの横顔には、どこか張りつめた影が漂っていた。
愛された記憶が、理由を分からず遠のいていくような不安。
温かさが届かない短い時間が積もって、心に小さなひびが入る。
レギュラスは本の頁をゆっくりとめくりながら、心でふと祈っていた。
どうか──
君のなかの寂しさが、何かに変わっていけるように
ままがいないわけではないと、この子には伝えたいと強く願っていた。
読み終わると、アルタイルはそっとレギュラスの袖をつまんだ。
「つぎは……“いっしょ”がいい」
「“いっしょ”?」
アルタイルは頷いた。
「ままとぱぱと、いっしょで、よんで」
その言葉に、レギュラスの心がひとしずく揺れた。
誰かを失いたくないという独占欲と、愛する者みんなと一緒にいたいという純粋な願いは、まだきちんと区別がつかない年頃。
だが、そのどちらも確かに愛のかたちだった。
「もちろん」
レギュラスはそう答え、そっと頭に手を乗せた。
この手のぬくもりを、ままにも。
そして、まだ姿さえないきょうだいにも――同じように、しっかり伝えてあげられたらと、彼はそっと息をひとつ落とした。
その午後は、少しだけ静かで確かに満たされた時間として、屋敷のやわらかな灯のなかに包まれていった。
夕暮れの薄明かりが屋敷を包み込む中、レギュラスは静かに背筋を伸ばしながら医務魔女の前に立っていた。言葉少なに告げられた問いは、静かな重みをもって彼の胸に落ちた。
万が一の場合、子供とアランのどちらを優先しますかと。
アルタイルの時にはなかった、冷徹な選択を迫る問いに、レギュラスの胸は鋭く痛んだ。目の前の医務魔女は責めるでもなく、厳かにその言葉を発したのだ。
彼の視線は遠く、その喉は詰まる思いで震えていた。
一方、ヴァルブルガは冷ややかに眼光を強めている。
「ブラック家の血筋は絶やしてはなりません」と、いささかの温情もなく告げるその言葉は、家の存続にしか興味がない厳しい現実だった。
オリオンもまた、同じ覚悟と思いをもっている様子で、ふたりの視線は重く組み合っていた。
その二人にとって、セシール家の姫として嫁いできたアランはただ一つ、「ブラック家の跡取りを産むための器」でしかなかったのだ。
しかしレギュラスの心は違った。
アランはただの役割ではない。ひとりの妻であり、愛しい者であり、何よりも彼にとってかけがえのない存在だった。
医務魔女の問いかけに、彼は静かな決意と共に答えた。
「子はまた、望めますから」と。
それに対するヴァルブルガの鋭い問いは冷たかった。
「あなた、その状態で次がありますか?」と、まるで諦めにも似た苛立ちを含んで。
レギュラスは揺れる胸を押さえ、眉根を寄せる。
「分かりません。しかし、アルタイルがいます」とだけ、静かに返した。
その言葉には、揺るがぬ覚悟と、どこか痛みを宿した哀しみがにじんでいた。
まるで世界が彼らを押しつぶすかのような重圧の中で、レギュラスはアランへの愛と家の重み、その二つの間に深く引き裂かれていた。
冷たい指輪のような言葉の輪のなかで、彼の手はアランにそっと触れた。
痛みも悲しみも、覚悟も――すべてを静かに抱えながら、レギュラスは彼女を見つめていた。
夕暮れの長い影がふたりの周りに伸び、静かな部屋の空気に繊細な哀愁が滲みわたっていた。
部屋の空気は静まり返っていた。
濃い幕に包まれた医務室の一角。
魔法薬草のほのかな香りが漂う中、レギュラス・ブラックは静かに立っていた。
時折灯るランプの光が壁に影を揺らし、彼の姿までも淡く揺れる。
その目の前にいるのは、小柄で沈着な医務魔女。
年季の入った声で、彼女はまるで機械のようにまた同じ言葉を繰り返す。
「――どちらを優先されますか? 母体か、お子様か」
言い淀むことのない言葉。躊躇の一切を排した、魔法医としての冷静な確認。
その瞬間、レギュラスの脳裏をいくつもの情景が駆け巡った。
アランが笑っていた日。
名前を呼ばれ、振り返った時の柔らかな声。
痛みにも言葉を出さず、静かにそれを抱えて佇む、その背中に触れた時のぬくもり――
そして、あの日アルタイルを初めて腕に抱いた時の、彼女の震える瞳。
彼女は、「産んだ」のだ。
立派に、静かに、誇り高く――ブラック家の継承を。
アランは、セシール家の姫。
あの由緒正しく、高潔な純血の家に育てられ、宛てがわれ、嫁いできた女性だった。
それは、“妻”である前に、“血統上の駒”として期待された人生だったはずだ。
けれど――彼女は、それ以上だった。
レギュラスにとっては、ただの家の器でも、称号でもなかった。
ひとりの生きた存在として、唯一無二の名前として、「アラン」という人物として――彼女を想っていた。
だからこそ、いま、迷う理由などあり得なかった。
短く、そしてはっきりと。
「アランを、優先してください。」
その言葉が落ちた瞬間、医務魔女はただ静かに頷いた。
けれど背後から小さく漏れた吐息は、まるで心に重石をひとつ落とす音のようだった。
「ああ……」
ヴァルブルガが椅子に腰かけたまま、極めて控えめな、しかし明確なため息をついた。
その横では、オリオンが顔を動かすことなく、ただまぶたに影を落としていた。
言葉にはしなかったが、感情のすべてがその沈黙に込められているのが分かった。
――「血迷った」
――「ブラック家に生まれた男が、何を差し出すべきか忘れたのか」
そんな非難を、あからさまではないながらも確かに滲ませていた。
レギュラスは、視線を彼らに向けることはなかった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、ただ前を見据えていた。
承知している。これが、“正しくない選択”であるということを。
だが、正しさよりも尊いものを、彼は失いたくなかった。
愛する者を守ると決めたこと。
それは、家の名よりも、血の継承よりも、自分の意志だった。
その意志に背いてまで、何を「保った」と言えるのだろうか。
医務魔女が去り、扉の音が閉まる。
部屋には、再び沈黙が落ちた。
頭の奥で、ヴァルブルガのため息の名残がまだ冷たく響いていた。
けれどそれでも、レギュラスは胸の内にひとつだけ確信を抱いていた。
――この命が、たとえ未来に責めを負うとしても。
彼女が生きてくれるなら、それでいいと。
それが、“夫”であるという覚悟のかたちだった。
晩秋の午後、屋敷の空気は張りつめていた。
滅多に訪れることのない二人の来客の姿が、レギュラスの胸に薄い緊張の痛みを呼び起こしていた。
──セシール家の夫妻。アランの生家、名門中の名門。
その気品に満ちた立ち姿は、時を静かに割って現れたようだった。
彼らがブラック家を訪れたことを知ったのは、扉の奥に張り詰めた気配が流れ込んできた時だった。
言うまでもなく、ヴァルブルガが呼んだのだ。
どこまでも周到に、どこまでも“緻密に”。
アランの容体が不安定な今、この両親が屋敷に足を踏み入れる意味など、考えるまでもなかった。
ヴァルブルガは、あの夫婦を「この場」に呼び寄せ、彼女たち自身の口で「その言葉」を言わせたかったのだ。
面会はすぐに行われた。
セシール夫妻は、ひとときも声を荒げず、ただ愛娘の額にそっと手を添え、静かに見舞いの言葉を交わした。
言葉もないほどのやさしさだった。
アランの命を宿したまま戦っている弱々しい姿に、母親の指先はしばらく震えていた。
それでも、泣かなかった。
その直後、夫妻はヴァルブルガとオリオンの前へと進み、深く頭を垂れた。
「――万が一のことがあれば、私たちは、子を優先してくださって構いません。
娘はそれを、誇りと共に受け入れる女として……生まれ、育ててまいりました。」
荘厳なまでに整えられた声だった。
それは、母の嘆きではなかった。
由緒正しい家に生きる者が自らに課す、美しき悲哀――。
そして、その一言が終わったとき。
レギュラスは、目の前の光景が鮮烈に霞んだ。
頭を殴られたような感覚。
理解した。
──これは、すべて計算されていた。
この場所で、この配置で、この言葉を、
最も“形式の重い場所”に落とすために。
彼の愛する人を、この家の「娘」として語らせるために、
ヴァルブルガはセシール家をここへ呼び寄せたのだ。
血が、冷えた。
目の前で、セシール家の主人が膝をつきかけたその瞬間。
レギュラスは反射するように駆け寄り、彼の肩に手を添え、そのままそっと立たせた。
「……やめてください」
その声は静かだったが、明確だった。
礼儀ではない。威儀でもない。
ただ一人の夫としての声。
「どうかご心配なく。……私は、必ずアランを優先いたします。
どうか、もうそれ以上、罪のことばを積まないでください。」
主人の腰が震える。夫人の眼差しが揺れる。
レギュラスは、言葉を探すように息を継いだ。
「アルタイルには……母が必要です。
彼がこれから歩んでいく人生に、どんなに“血”や“継承”が求められるとしても――
母のいない幼子に、何を誇らせろというのでしょうか」
もう、誰に向けた言葉か分からなかった。
けれど、確かに一つ一つ、胸から絞り出すように言葉を紡いだ。
沈黙が落ちた。
ヴァルブルガは何も言わない。
ただ、視線だけが刺すように冷たかった。
それでも、構うものか。
たとえこの選択が誤りだと言われようとも、
たとえブラック家の後継が、今後もう立たないと言われようとも――
彼女の命を、守る。それが、間違いのないことなのだと、ただそう信じていた。
あまりに長く感じられた沈黙のあと。
セシール家の主人が、ふと顔を伏せた。
「……ありがとう、レギュラス様。」
それだけを、かすれた声でつぶやいた。
その声こそ、愛する娘への真の「見送り」であるように。
そしてその言葉こそ――レギュラスにとって、本物の「加護」だった。
部屋の灯は落とされ、わずかに開けたカーテンの隙間から、月明かりが薄く射していた。
しんと静まり返る寝室のなか、レギュラスはベッドの傍らの椅子に腰を下ろしていた。
隣のシーツの上には、アランが静かに横たわっていた。
細く長い指でお腹をそっと撫でるようにしており、その仕草には穏やかでありながら、どこか晴れぬ影があった。
月の光が滲む横顔に、ぬくもりが足りないように見える。
レギュラスはそっと彼女の手を取った。
あたたかくも冷たくもない、体温より少しだけ低い細い掌。
――この手を、もし二度と掴めなくなったら。
そんなことを想像したくもないのに、今日という一日が、それを否応なく意識させる。
セシールの両親が残した言葉。
それに何も言わなかったアランの表情。
すべてが、振り払えない現実だった。
その静けさに、アランが小さく口を開いた。
「ねえ……」
レギュラスは目をしっかりと留めた。
アランは正面を向かず、天井を見つめたまま、言葉を置くように続けた。
「……今日、父と母が屋敷に来たでしょう。わざわざ、こんな日に」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ――「知ってしまっている者の静けさ」だった。
レギュラスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女は、すべてを察している。
誰が何のために、何を彼女の親に言わせたのか。
そして、それを彼の目の前で言わせた“意味”さえも。
アランは、穏やかなほどの沈黙のあとで、ふわりと囁いた。
「もしも……何かあったら。私の両親のことも……アルタイルと一緒に、ほんの少しでいいから……心の片隅で気にかけてあげてくださいね」
その言葉が落ちた瞬間、レギュラスの喉の奥がじりじりと焼けるように熱くなった。
そんなことを、どうして君が言わなきゃいけないんだ。
どうして世界で一番愛している人に、そんな覚悟を語らせなければならない――
胸の奥が、裂けた。
裂ける音がしたようだった。
それでもレギュラスは、顔を歪めることひとつせず、深く息を吸って、返した。
声が震えないよう祈りながら、ただ言葉を口に運んだ。
「―― アラン、あなたは……何を想像しているのかは知りませんが」
端正な言葉だった。
けれど、その実は、引き止めたくてたまらない叫びだった。
「アルタイルの母として……そして、生まれてくる子の母として、あなたにはまだ果たすべき責があるはずです」
凛としているつもりだった。
けれど、それがただの厳しさになってしまったと自覚した瞬間、レギュラスは自分を深く恥じた。
もっとやさしくすればよかった。
もっと彼女の心に寄り添えばよかった。
でも。
泣きそうになる思いを、今ここでこぼしてしまったら――
自分が一番弱いと、彼女に知られてしまう気がした。
だからレギュラスはただ、アランの手を離さないまま、小さくうなだれた。
その手の握りに、アランがわずかに力を込める。
そのぬくもりが、言葉にならない返事のようで、
レギュラスの目の奥には、静かに滲みが広がっていった。
二人のあいだには、もう何も言葉はなかった。
けれど、触れ合う手と手が、どうかこの夜を越えられるようにと、祈るように寄り添っていた。
屋敷の奥、陽の差さぬ回廊に近い小間に、かすかな泣き声が洩れていた。
音としては決して大きくない。けれど、その声の底に宿る痛みに、そこにいた使用人たちは誰ひとり、平静でいられなかった。
アルタイルは、床に敷かれた厚手のラグの上で、小さな身体を丸めて泣いていた。
静かに、けれど止めることのできない嗚咽。
脚を思い切り縮こませ、握られた拳の中で細く震える指。
何を言っても、何を渡しても、今日はもう効かないのだと誰もが知った。
「ままが、いい……」
「まま、くるって……いったのに……」
嗄れた声が、断片のように滴り落ちる。
日にちの感覚などまだ曖昧な年齢のはずなのに、この日々の空白を、アルタイルの心はちゃんと「母と離された日々」として受け止めていたのだ。
「いい子ね」と褒められてきた。
「大人しくてお利口さん」と、周囲の大人たちに言われ続けた。
それはアルタイルの中で、褒められるために守るべき“鎧”だったのだろう。
けれど――
もう、その鎧をかぶっていられないくらい、悲しさが溢れ出してしまった。
レギュラスは、秘書官から報告を受けてすぐ部屋へと向かった。
息子の泣き声など、滅多に聴くことのない彼にとって、それだけで胸に鈍く痛みが走る。
扉をゆっくりと押し開けると、アルタイルはあぐらをかいたまま拳をにぎりしめ、シーツの耳を噛んでいた。
顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
けれど、その泣き顔すらも、どこか周囲に気を使って歪めているようで、胸が苦しかった。
「アルタイル……」
そっと名前を呼ばれると、アルタイルは少しだけ首をもたげて、目を細めた。
レギュラスの足元まで来るわけでもなく、ただその場で涙を止められず、唇を噛んだまま、震えていた。
「……ぼく、いい子にしてたのに……」
「まま、こない……」
小さな囁きだった。けれど、それは無言の責めよりもずっと刺さった。
レギュラスはそれ以上言葉を選ぼうとせず、ただゆっくりと膝を落として、アルタイルのそばへしゃがみ込んだ。
「……ごめんなさい」
その謝罪は、子どもに向けられるような体裁のものではなかった。
それは、父が己の無力さを受け入れたうえで、ただ手を伸ばした姿だった。
そして次の瞬間、アルタイルのほうからレギュラスにしがみついてきた。
勢いよくではなく、どこか崩れるように、
ぎゅっと胸のあたりに頬を押しあてて――
「ままが……いないの、いや……!」
「ちゃんといるって、いってたのに……」
レギュラスは、目を閉じた。
震えるように細い背中を、ゆっくりと抱きとめた。
その中には、母を恋しがる幼さも、
ひとり黙って数日間耐えた重みも含まれていた。
かき抱いたぬくもりに、自分もまた、
アランの瞳を、声を、香りを、必死に思い起こしていた。
言葉で埋められるものではない。
約束で安心できるはずもない。
それでもこの手のぬくもりが、
大きくなる悲しさを少しずつ溶かしてくれることを、レギュラスはただ信じていた。
この日だけは、「いい子じゃなくてもいい」と、
その背中に抱きしめるすべてで伝えようとしていた。
屋敷の廊下は静かだった。
魔法で暖められた空気の中に、夜の気配がゆるりと漂っている。天井のシャンデリアはすでに灯が絞られていて、その淡い光が磨かれた床にうつろな映り込みを落としていた。
アランは、重たくせり出した腹を両手で支えるようにして、ゆっくりと進んでいた。
枕の上で横たわっているべき時間のはずだった。
けれど、どうしても寝つけなかったのだ。
心のどこかが、ずっと落ち着かない。
アルタイルとの約束を、何度、破ってしまっただろう。
「今日こそ一緒にあの本を読もうね」「お庭を少しだけ歩こうね」「おやすみはままがいい?」
どれも彼の首はこっくりと嬉しそうに頷いていた。
けれど身体が思うように動かず、気がつけばまた「明日にしようね」という言い訳だけが増えていった。
(ごめんなさいね――アルタイル)
胸の奥が静かに痛んだ。
その痛みが、足をベッドにとどめることを赦してくれなかった。
重たい身体をゆっくりと運びながら、アランは広間の扉へと向かった。
声はしない。けれど、ふとした気配がそこにある気がして――
扉をそっと開けると、吐息のような静けさがふわりと漏れ出した。
広間の中央、寝台ではない絨毯の上に、
寄り添うようにして眠る二つの影があった。
レギュラスとアルタイルだった。
レギュラスは、ソファの端にうつ伏せに倒れるように座り、
その胸にもたれるようにアルタイルが眠っている。
小さな拳は薄く開かれ、目元には乾ききらない涙の跡。
唇はわずかに開いて、小さな寝息を漏らしている。
その姿だけで、アランの膝がゆっくりと床へと落ちた。
絨毯の端に手をつき、小さく身を折り、ふたりの寝顔を見つめる。
声を殺して、それでも胸の奥では何かが音を立てる。
(こんなにも……寂しい思いをさせてしまったのね)
アルタイルの頬は涙のあとの赤みが残っていて、
レギュラスの口元は、眠っていてもどこか眉根が寄っていた。
小さな子が、泣いて泣いて、
その隣で父親があやしてあやして、それでも泣きやまず、
やがて眠りに落ちるまでただ見守りつづけて――
そうしてふたりとも、限界の果てにいた。
アランは、そっとアルタイルの髪に手を沿わせた。
小さな寝息に触れないよう、羽のように指を揺らしながら。
「ごめんなさい、ね」
その囁きは誰にも聞こえなかった。
けれど、それは誰よりも深く、ふたりへの祈りのように届いていく気がした。
レギュラスの肩に、そっと小さなブランケットを掛けながら、
アランは、あたたかな空気のなかで、しばらくふたりの隣にただ黙って座っていた。
この時間だけは――
言葉も、赦しも、胸の痛みさえも、すべてを抱きしめて、
静かに溶けていってほしかった。
曇天が朝を塞ぐように広がっていた。
うす青く濁った空の下、レギュラス・ブラックは漆黒のローブを纏いながら、屋敷の門を出た。足取りは冷静で、無駄がなかったが、その胸の奥は鈍い重みで満たされていた。
眠っていない。――正確には、眠れなかった。
連日、アルタイルの声に小さく起こされる夜。
泣き止まず、母の名を呼び、痩せた身体をすがるように父へ預けてくるその小さな存在を、抱きしめずに済ませられる夜など、なかった。
あの細い肩の震えに呼び覚まされるのは、
父としての責任と、
夫としての痛みと、
一人の人間としてそろそろ限界だとわかっている疲弊だった。
目的地には、バーテミウス・クラウチが待っていた。
既に現場は片付けられつつあり、ひどく混み合っていた様子はなかった。
混血の魔法使いによる呪文の暴走――それが今回の一件だった。
レギュラスは無言のまま、足元の焦げ跡を見つめていた。
バーテミウスはふと鋭い視線を彼に向け、少し口角を歪めて笑う。
「……ずいぶんと、機嫌が悪そうですね」
レギュラスは顔をそらさなかった。
けれど、何の反応も示さなかった。
答える必要も、興味も、返す力すら今はわずかに尽きていた。
喉の奥にはまだ、アルタイルの「ままでないといやだ」と泣いた声が残っていた。
アランの手を引き、一緒に眠る日がどれほど遠く感じるようになったか。
それなのに、任務は無情に続く。
混血が起こした問題の残骸を処理し、
血の濃さと誇りを錆びついた鎧のようにまとう役目。
昔ならば構わなかった。
感情など、顔にも声にも出すことのない仮面で遮ればよかった。
──だが、限界は静かに訪れる。
胸の奥で、何かが少しずつきしむのがわかる。
それでも、レギュラスは黙っていた。
クラウチの言葉にも、揶揄めいた視線にも、声ひとつ返さなかった。
ただ、任務をこなすための足取りで、焦げた大地に屈み込み、
杖をひと閃させながら、目の奥に一切の感情を映さず、淡々と呪文を唱えた。
痛みは、誰にも言語化されないかぎり、「存在しない」と見なされるのだ。
それがこの世界で、彼が生きている現実だった。
レギュラス・ブラックは、黙してその役割に徹し続けることしか、もうできなかった。
日がすっかり落ちた石造りの道を、レギュラス・ブラックは重たい足取りで歩いていた。
帰路というには長すぎる、けれど逃れるには短すぎる時間が、今日という一日を静かに締めくくろうとしていた。
任務は、大したことではなかった。
魔法の痕跡を丁寧に消し、報告をあげ、反論の余地もないように事実を整えただけだ。
それでも、帰り道の途中でふと、あまりに重く首を支える自分に気づく。
(……これしきで、疲れたと思うなんて)
その情けなさに、知らず眉をひそめた。
精神は今も高く張り詰めているはずなのに、肉体の奥から溶け出すように襲ってくる倦怠感。
食事すら忘れていた。休んだ記憶もない。
だが、弱音など言うわけがなかった。
ただ足を運び、門を潜る。それだけでよかった。
ただ――
扉が開けば、それがすべて変わると知っていた。
屋敷のホールに足を踏み入れた瞬間、ぽつりと灯ったランプのあたたかに、心の輪郭がほどけた。
そして、次の瞬間だった。
「パパ! おかえりなさい!」
小さな声が、絨毯越しに飛び込んでくる。
そこには、玄関の奥、マントルの灯りのもとに――
アランがいた。
アランが、立っていた。
たおやかに、けれどしっかりと両手でアルタイルを抱えて。
ほのかに上気した頬、やわらかく明るい瞳。
その腕の中で、息子は嬉しさに満ちた顔をして、父を見上げていた。
「おかえりなさい、レギュラス」
アランの声は、思いのほか澄んでいた。
長く伏せてきたとは思えぬほど、凛として、しっかりこの場所に立っていた。
その一瞬、レギュラスの中に渦巻いていたすべての疲労が――音もなく、消えた。
靴の踵が息を潜めるように床を打つ。
まるで夢に手が触れたようなまなざしで、彼女を見つめた。
「……平気なんですか?」
声は思ったよりも低く、戸惑いを帯びていた。
けれどアランは、微笑を崩さず答えた。
「ええ。今日は、全然。なんだか、とても平気よ」
その言葉の裏に少し無理をしている気配を感じながらも、嘘ではないのだろうと不思議な確かさがあった。
アルタイルは、母の腕のなかでもじもじとしながら、にこにこと笑っている。
レギュラスの帰宅が、嬉しくてたまらないのだ。
ままに抱えられて、ぱぱに迎えられて――
彼にとって、この光景が世界のすべてであってほしかった。
レギュラスはアランの横顔を見つめて、ほんの少しだけ顎を傾けた。
「……じゃあ、少しだけ、僕にも貸してください。息子を」
そう言って、アランの腕の中からアルタイルをやさしく受け取る。
ひと抱きすれば、小さな体が父の胸にぴたりとくっついてくる。
この瞬間にだけ呼吸がぬるく穏やかに変わることを、レギュラスは忘れたことがなかった。
アランも座に腰を下ろし、安堵の頬を緩める。
言葉にならないものが、確かにそこに存在していた。
痛みを重ねて、沈黙を超えたそれぞれの場所――
それでもこうして、今、三人でただ「在る」ために必要だったものは、派手な祝福でも承認でもなかった。
重ねた日々の奥で、こうしてまた「迎え合える」こと。
その奇跡の尊さが、レギュラスの胸の奥であたたかく灯となっていた。
朝の空気がいつもよりわずかに柔らかく感じられたのは、久しぶりに体が軽く感じられたからだろうか。
目を開けた瞬間から、アランには確かにわかっていた――今日は動ける。微かな熱も、重たい倦怠感も、ほんの少しだけ遠い位置にいる。
だから、動かなければ、と彼女は自分に言い聞かせるように身を起こした。
時間は限られている。
日によって波のある体調が、いつまた波打って彼女を床の中へ引き戻すかわからない。今日の「平気」は、今日のうちに。
――アルタイルに、まっすぐ会いたかった。
にこにこと笑うあの顔を。彼女の不在がつくった静かなさびしさを、少しでも拭ってあげたかった。
久しぶりに、食卓を囲んだ。
朝食の膳には、真珠色のバター皿、ほんのり湯気を立てて運ばれてきたスープ、柔らかなパンの香り。普段と何も変わらない品々が並んでいるのに、アランの胸は不思議と震えていた。
「まま、こっち!」
得意げな様子で椅子を引いてくれるアルタイルの表情に、自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとう、アルタイル」
名前を呼ぶ声にもどこか温もりが戻っていた。それを聞いた息子は、照れたように「えへへ」と笑い、パンをちぎりはじめる。
最近では言葉も豊かになり、「今日はね」といった具合に、たどたどしいながら日々のことを話してくれるようになったアルタイル。その声を正面から聞ける、その「席」にアランがようやく戻ってこれたことが、何よりの贈り物のようだった。
ふと、視線を感じる。
――オリオンとヴァルブルガ。
食卓の対角に座る夫妻の眼差し。
アランの呼吸がそっと浅くなる。
その目に宿るのは慈しみでも祝福でもなかった。冷たく測るような、評価の眼。
きっと「出てくるのが遅い」とも、「床で休んでいた方が賢明」とも「重たい身体で無理をするな」とも、どれもが奥底では繰り返されているのだろう。
けれどそれ以上に、彼らにとって「食卓」は、家の形を外へと見せる場でもあった。
傷のない、欠けのない、“完璧な一家像”。
アランはただそこに添えられる、名のついた花瓶のような存在であるべきもの。
けれど今日だけは――その視線から目をそらしてもいいと思った。
自分が見ていたいのは、ただいまそこにいる我が子の笑顔だけ。
「ままも、たべて!」
アルタイルが、小さくちぎったパンをアランの皿に置く。一部が指で少しつぶれてしまっていた。
「ありがとう」
アランはその欠片をそっと指で受け取り、笑みをこぼした。
――こうして座り、手を伸ばし、応える。
それだけのことが、これほどに嬉しさに満ちていると知るまで、アランは時間がかかった。
帰ってきた。その食卓に、自分は今、いる。
お産のことも、身体の痛みも、すべてはまだ続いている。
運動不足も、不安も抜けていない。
それでも今はただ、
「まま」と呼んでくれる声に触れ、この季節の朝にひとときだけでも家族で向き合えるこの時間に、アランは胸の奥でしずかに、
涙に似た安堵をひとつだけ、深く落としたのだった。
冬を告げる風が石造りの高窓をかすかに鳴らしていた。ロンドン郊外の小さな純血会の私室、その奥深くに設けられた重厚なソファの前で、レギュラス・ブラックは指先から煙の立つカップに手をかけていた。
紅茶の香りも、この怒りを和らげはしない。
「――まったくですよ。あの目障りな子娘め」
低く、よく通る声。響きに穏やかさは一欠けらもなかった。
その向かいに座っていたルシウス・マルフォイは、銀に光るカフリンクスを優雅に整えながら、目元に薄い笑みを浮かべる。
「アリス・ブラック。あの少女、なかなか“話題”ですね。世間は彼女をすっかり“若きブラック家の顔”だなどと騒いでいる…滑稽だな」
ルシウスは、むしろ面白がっているようだった。その遊び半分の皮肉にやわらかく笑みを交えるあたり、いかにも彼らしい。
だがレギュラスは、笑えなかった。
「名を継ぐものは皆、優秀ですって――?」 膝に乗せた手がわずかに震え、喉の奥にせり上がる苛立ちを押し殺すように唇を結ぶ。
「……あの女のどこに、“継ぐ価値”が?」
吐き出すような声だった。 育てたのはシリウス。
いまや騎士団の顔として、ブラック家に泥を塗ってなお愛想笑いを浮かべて歩く、忌々しい兄。
アリス・ブラック。 マグル生まれ。
血の一滴もたがわぬ誇りの系譜を持たず、それでいてブラック家の名を背負い――
その“背中”にだけ、未来を重ねる世間の浅薄さ。
「類を見ない箒捌きに、対抗試験での首席。父親譲りの才覚だと。……“父親”とは、まさか義父の話じゃないかと笑ってしまったくらいだ」
ルシウスが紅茶を啜りながら肩を竦める。
レギュラスの影がひときわ濃く揺れた。
「血も、誇りも、言葉も知らぬ。“ブラック”という名にすがった張りぼての空です」
本来的に名は、血で積まれ、言葉と誓いで守られるもの。
その家名を、魂も理由も知らぬ少女が、光に照らされるように背負っている。
それを、まるで新たな象徴のように崇めようとする周囲までもが、腹立たしかった。
「いずれ——崩れますよ、彼女の虚構は」
ルシウスが、静かに言った。
レギュラスは微かに頷いたが、そのまなざしはどこか遠く、冷えていた。
(崩れてほしい。心から)
それがどれほど醜い感情であっても、きれいごとでは語れなかった。
それほどまでに、アリス・ブラックの存在は、
レギュラスにとって――屈辱の象徴になりつつあった。
夜の静けさが立ち込めた書斎。
暖炉の火は落とされ、蝋燭の灯りだけがぼうっと机上をぼかしていた。
レギュラス・ブラックはひとり書き物机の前に腰かけ、目の前に広げられた新聞の切り抜きをただ黙って見つめていた。
見出しは、何の誇張も悪意もない、美詞を重ねた祝辞で埋め尽くされている。
──ホグワーツの星、アリス・ブラック、今春卒業へ──
勇敢なるグリフィンドールのシーカー、未来に光を――
その名を目にするだけで、こめかみの奥がじくじくと熱をもって疼いた。
グラスの中の琥珀色の液体が、手の震えと共にわずかに波打つ。
「……アリス・ブラック…」
ひとつ息を押し殺すようにして、その名を口にした。
忌々しいほど耳馴染みのよい名前。
本来ならば、あのような薄汚れた血に許されるはずのない、高潔な“家名”。
だが――
彼女は、卒業と同時に世に名を知られる存在となりかけていた。
“シリウスの娘”として、
“ホグワーツの誇り”として、
そして、“ブラック家の希望の象徴”として。
レギュラスは、静かに目を伏せる。
(このままでは、いずれ――アルタイルの耳にも届く)
誰かが語るのだ。
「同じ家の名を継ぎ、同じ勇敢さを持った少女がいた」と。
「マグルの血を持ちながら、どれほどの栄誉を築いたのか」と。
まるで業のひとしずくすら創造の源になりうるというような、甘ったるい物語を。
それがどれほど、この家の誇りにとって毒となるのか。
どれほど、彼の息子にとって一生にわたる“影”となるのか。
自分の妻にとって、それがどれだけの罪業を呼び起こすのか――
レギュラスは、堪えきれず目を伏せたまま、拳を握りしめた。
彼女がこの世界に存在している限り、
アランの目の奥には、あの日抱きしめた少女の残像が消えることはない。
純血の誇りも、父としての選択も、
誰かの”光”でしかない存在の前では、すべて霞んでしまう。
それは地獄よりも、深い奈落だった。
「……終止符を打たなければならない」
その言葉を、震えない声で、静かに告げる自分がいた。
感情ではなかった。
義務であり、決意だった。
アリス・ブラック。
マグルの血を抱えながら、世に名を馳せるその名を、
レギュラス・ブラックの手によって――
「抹消」する。
それが“けじめ”だと、レギュラスは信じていた。
アルタイルの未来のために。
アランの心を鎮めるために。
そして、ブラック家の名に再び誇りを宿すために。
蝋燭の芯が小さく爆ぜ、その炎が揺れた。
レギュラスの顔には鏡のような冷静さが戻っていた。
その眼は、すでにあの娘の卒業の先を、冷えた闇のなかで見据えていた。
居間の大きな窓には午后の光が滲んでいた。
ヴェルヴェットのカーテンの隙間から射し込む柔らかな陽に、白い羽根ペンの先が小さく揺れている。
テーブルに向かうアルタイルの背は、小さいながらもすっと伸びていた。
手元の羊皮紙の上に、まだ不慣れな筆遣いで並べられていく単語。
「Lumos」「Petrificus Totalus」――
どれも、まだ幼いその年には少し難しすぎるほどの呪文名だった。
けれど、アルタイルは眉をひそめたり、詰まったりすることもなく、
まるで音をなぞるようにスラスラと書き進めていく。
横から覗きこむレギュラスは、目を細めた。
「これは……」
嘆息でも驚愕でもない、どこか淡い敬意が透けたつぶやきだった。
母であるヴァルブルガが早いうちから家庭教師をつけ、
朝夕の生活に隙のない学習課題を組んでいたことは知っている。
時として子どもらしさを犠牲にしているようにも感じられるそれを、どこか冷ややかに眺めていたはずだった。
けれど――
こうしていざ、実際にわが子が自ら運筆し、拙い声で正確な呪文を朗唱しているさまを目の当たりにすると、
批判よりも先に、胸の奥でふっと湧き上がるものがあった。
(ここまで……育てあげたのか)
血脈という言葉を超えて、彼の魂のありようが確かに息づいている。
アルタイルという存在が、どれほどに整えられ、磨かれ、未来を歩くために「形」を与えられているのか。
ヴァルブルガのやり方は、容赦がない。
愛情と支配の境界が曖昧なほどに、重圧をかける。
けれど――その裏には、徹底した創造の意志がある。
“ブラック家の後継として恥じぬ者としてつくる”
その信念が、いま確かに、目の前の息子の姿となって静かに立ち現れていた。
ふと、アルタイルが顔を上げ、誇らしげに自分の筆跡を見せてきた。
「これ、あってる?」
鼻にかかった幼い声が、何より誇らしかった。
レギュラスは静かに頷いて、小さく口元を綻ばせた。
「完璧です」
息をつくように返したその言葉には、誇りと、微かに胸の奥を締めつける何かがにじんでいた。
こんなに立派な未来が、自分の手の中にあって、
どうして、あの穢れた“マグルの女”などに霞むなどあり得ようか。
アリス・ブラック――
あの女が、いくら褒められようと、いくら“未来の象徴”だと囃し立てられようと、
この息子以上のものを持っているとは到底思えなかった。
彼には、「血」がある。純粋なる由緒がある。
そして、何よりも傍にある愛と、厳しさに包まれながら育て上げられてきた“礎”がある。
――アルタイルが、誰かに劣ることなどない。
レギュラスはその想いを、胸の奥で確かに繰り返した。
花鳥が声を潜めた気難しい冬の午後、部屋のなかには静かで透明な誇りが、淡く吹き溜まっていた。
そしてそれは、父と息子ふたりだけの、言葉にならない誓いのように、そっと染みわたっていった。
屋敷の空気は、深夜の静けさにゆるやかに沈んでいた。
満月は雲に半ば隠れ、その影をひそやかに石畳へ落としている。廊下の燭台は魔法で灯が絞られ、光源が揺らぐたびに微かな影が壁を滑っていた。
そして、その静寂のただ中で、アランの陣痛が始まった。
レギュラスがその報せを受けたのは、深夜二時を回ったころだった。
使用人のひとりがそっと耳打ちし、かの人はもう自室に籠られました──と告げる。
わずかな物音さえ立てぬよう配慮された声に、胸がかすかにざわめく。
(また、この扉の奥で、ひとり……)
階段を上がる足音を殺しながら、あの扉の前にたどり着いたときには、もうすでに木戸の向こうにいる彼女の気配が薄く立ちこめていた。
薬草の匂い。消毒の香。長く瞑想に使われるフルール・アミレの香煙まで──あのときと同じ用意が、完璧に整えられている。
けれど、彼女が言うわけがない。
「こわい」とも、「そばにいて」とも。
だから、レギュラスはその扉が閉まりかけたほんの一瞬の隙を逃さず、声を投げかけた。
「…… アラン、待ってますから」
固い意志をにじませた、けれど静かな声音だった。
扉を閉じかけていた医務魔女の手が、一瞬だけ動きを止める。
そして、アランの気配が中でふっと揺れた気がした。
返答はない。だが、それでもよかった。
その一言を、間に合って言えたことだけがすべてだった。
レギュラスは扉の前からすぐには離れられなかった。
使用人が促すも、それに答えず、ただ何歩か後ろに下がり、懐に手を組み、扉を睨むように立ち尽くしていた。
やがて――医務魔女が出てくる。
産のための準備物を取りに戻ったのだろう。
すれ違いざま、レギュラスは彼女の目をまっすぐに捉えた。
その瞳は、焦りも怒りも、ただ切実さだけを宿していた。
「母体を優先してください。……何があっても。
そのためにどんな処置が必要でも、ためらわず行ってください」
医務魔女は、わずかに目を見開いた。
あまりに真剣で、強い言葉だったからだ。
産を見守る者として、幾度も同様のやりとりを経てきた彼女でさえ、この声には触れるものがあった。
「わかっております、ブラック様」
声は穏やかだった。けれど、その背後には年齢を重ねた者の誓いがこもっていた。
「万が一のとき、必ず、母体を優先いたします」
レギュラスは視線を落とさないまま、ひとつ深く頷いた。
(アルタイルは、また“ままがいない朝”を迎えるのだろう)
その朝を、今日は責めないでやってほしい――
夜を越えても、朝がただ通り過ぎてしまうだけでもいい。
この扉の向こうに、ただ、あの人が「いる」ことさえ叶えば。
今日が、美しい奇跡の始まりでありますように。
恐ろしいものの終わりで、ありませんように。
そのすべての祈りと願いを、歯を噛み締めて、レギュラスはただ静かに、廊下の深く冷えた空気の中に佇み続けていた。
廊下には月明かりが射し込むのみで、時間の流れが遠く離れた世界の話のようだった。
壁にかかった古い掛け時計が、まるで誰かの呼吸のように、控えめな音で時を刻んでいる。
レギュラス・ブラックはアランの部屋の前に立っていた。
扉の向こうは、何も聞こえない。
――物音ひとつ、声ひとつ。
まるで時間ごと封じ込められたようなその沈黙が、じわじわと胸の奥を締めつけていた。
アルタイルのときには、痛みに耐えるアランの声が、苦しさも強さも混じったあの震える呼気が、扉越しに伝わってきていたはずだった。
けれど、今夜のアランは――あまりにも静かすぎた。
それは理想的な落ち着きではなかった。
むしろ、“音のなさ”そのものが、恐ろしく感じられた。
「……なぜこんなにも、静かなんだ……」
思わずこぼれた声が、ひどく低く、ひとりきりの祈りに似ていた。
そのとき、とつ、と小さな足音が廊下に現れる気配がした。
振り返ると、まだ眠たい目をこすりながら、アルタイルが青白い室内着のまま立っていた。
「……ままは?」
幼い声。その問いはまるで針のように、レギュラスの心のいちばんやわらかい部分に突き刺さった。
アルタイルは眠気の残る瞳で部屋の扉を見つめ、間もなく小さな足で近づこうとした。
「……アルタイル、いけません」
声には、かすかな硬さがあった。止まらなければならないと理性がわかっていても、そこに詰まる痛みを抑えるのが難しかった。
レギュラスはそっと、その細い身体を抱き上げた。
柔らかく温かいその重みに、遠く以前の記憶がかすかに蘇る。
あのときも、アランは命のやりとりのなかで、黙して時を越えようとしていた。
けれど抱き上げられたアルタイルは、静かにはならなかった。
「ままがいるの、そこでしょ……! まま、いるでしょ……?」
小さな手がレギュラスの胸元をぎゅっと掴み、体をのけぞらせて暴れる。
足の先がレギュラスの腰を小さく蹴って、袖をしがみついてくる。
心細く、必死の叫びだった。
レギュラスは痛みに耐えるように目を伏せ、声を低く柔らかく落とした。
「……ままはね、頑張っています」
「……新しい、あなたのきょうだいのために。大切な誰かをこの世界に迎えるために、命をかけて――頑張ってる」
俯いたアルタイルの髪に、そっと額を寄せる。
「だから、アルタイルも……頑張りましょう」
その声には、押し殺された焦りと、にじむような祈り、そして確かに温かい“父”の想いがあった。
暴れていたアルタイルの小さな身体が、少しずつ、肩を震わせながら沈んでいった。
小さな嗚咽がくぐもった胸の奥から漏れ、レギュラスの心をまた焼くように締めつける。
――あとは、ただ祈るしかない。
どうか、この扉の奥にいる人が、母として、妻として、そして“ アラン”として、この夜を越えて戻ってくれますように。
冷たい廊下に寄り添うように、父は息子を抱きしめ、その身をじっと揺らしていた。
扉の向こうに、灯るのを待ち続けるただひとつの命の光を想いながら。
時間の感覚は、とうに失われていた。
最初は朝陽のまぶしさに目を細めたはずだった。だが気づけば、その光は過ぎ去り、昼の気配も影の中に沈み、屋敷には再び夜が落ちていた。光が移ろった分だけ、レギュラスの胸の痛みも濃く、強く、深くなっていく。
扉の向こうは、まだ開かれなかった。
アランの自室からは、時折だけ、低く抑えられた声が零れていた。だが、それが苦しみなのか、叫びなのか、それすら定かではない。代わりにひっきりなしに出入りしていくのは、医務魔女と数人の助手たち。手に持つ桶の水には、血の滲んだ紅が何度も浮かび、そのたびにレギュラスの指先は、目に見えぬほどに震えた。
(かかりすぎている)
アルタイルのときとは、明らかに違う。
あのときだって不安だった。それでも、ここまでではなかった。
この沈黙。
この長さ。
ただ、それだけが、恐ろしかった。
廊下の長椅子の上、レギュラスは腕にアルタイルを抱いて座っていた。疲れきっているはずの息子の身体は、眠りには程遠く、ぐったりと揺れているのに、どこか意識が冴えている。
「まま……まだ?」
アルタイルの小さな声が、レギュラスの胸の奥を擦る。
「うん。……ままは、まだ頑張ってる。だから、今は……待とう。」
自分自身に言い聞かせるような声だった。
もう何十回、このやり取りを繰り返しただろう。
息子の不安を受けとめる振りをしながら、それは同じくらい自分の揺れる心を支える呪文のようでもあった。
