3章
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曇りの空の下、木々の影が黒々と地面に落ち、風ひとつ吹かぬ静けさが辺りを支配していた。
魔力が濃く漂うその場所に、レギュラスは黒いローブの裾を翻しながら、静かに立っていた。
一歩前を行くのは、ベラトリックス・レストレンジ。
絹のような黒髪が風に揺れるたび、その背には狂気と誇り、そして冷たい獰猛さがまとわりついていた。
「早く済ませましょう、レギュラス」
背を向けながらそう言う声は、いつものように甘やかで刺のある毒を含み、逃げ道を与えぬ圧力となって彼の背筋を凍らせた。
彼女と対で任務にあたるということ――
それは、完璧であることを強いられるということに等しかった。
一瞬の気の緩みも、愚かな逡巡も、彼女の前では醜くさらけ出され、切り捨てられるだけだった。
だからこそ、レギュラスの動きには一切の隙がなかった。
呼吸ひとつにまで神経を尖らせ、まるで自分の胸の鼓動すら足を引っ張るものにも思えるほど。
表情は張り詰め、指先には冷たい緊張が張り付く。
「痕跡なし。侵入経路は東の窓。配置図だと第二階層に追跡符が仕掛けられているはずです」
淡々と、正確に、例外のない振る舞いでベラトリックスに報告する。
彼女は振り返らずに頷いた。
「いい子ね、甥っ子ちゃん」
歪んだ含みをもたせた声。言葉の背後には、笑っていない笑みがはっきりと宿っていた。
レギュラスは表情を崩さなかった。なにひとつ、表には出さず、ただその場に必要な“完璧なデスイーター”として在ることに集中する。
杖を構える手には、自然と力がこもる。
指の節が白くなるほど強く握る。そうでなければ、逃してしまいそうなほど危うい気配が、この任務には確かにあった。
隣を歩く女の魔力は獣めいて鋭く、時折その気配が空気を裂くたびに、背筋にひやりとしたものが走る。
けれど、それでもレギュラスは歩みを緩めなかった。
巻き込まれてなるものかと、胸の奥で誓いながら――確かに彼は、今日も“完璧”であらねばならなかった。
その静けさのなか、杖から微かに滲む魔力が、息づくように空気を撓ませた。
それはまるで彼の緊張そのもののように、縛られ、鋭く、そして黙したまま……深く火を孕んでいた。
満月を隠す雲が、夜空に重くのしかかっていた。
しんと静まり返った森の奥、密かに建てられた仮設の集会所は、まるで世界から切り離された場所のように、周囲との気配を遮っていた。
だが、その薄い静寂は、長くは続かなかった。
魔法の爆音が空気を裂き、木々に鳥が飛び立つ。
ベラトリックス・レストレンジの高笑いが夜を刺すように響き、その足元には幾人かの魔法使いの影が崩れていた。
「騎士団の真似事なんて、ちゃんちゃらおかしいわ。」
彼女は、ピンと伸びた指先で弓なりに光る呪文を放つ。
それを避けきれず、悲鳴ひとつあげる暇もなく崩れ落ちる若者。まだ本を開きたてのような手のひらには、杜撰な、けれど必死の防御魔法の残滓が滲んでいた。
ベラトリックスの手元は美しいほどに無駄がなく、襞つきのローブの袖がひるがえるたびに、命の数がひとつずつ沈んでいく。
その目の奥には、敵意ではなく享楽の色が潜み、獲物をなぶる獣のような冷ややかさがあった。
そのすぐ背後を、レギュラス・ブラックは冷静な足取りで追っていた。
血の匂いと焦げた魔力の塵が、空気に漂う。
ベラトリックスが興奮に口端を引き上げるのとは対照に、レギュラスは表情を崩すことなく、その場を見下ろしていた。
混血の青年がひとり、呪いを喰らって倒れた。
その目は未だ恐怖を映したままで、杖を強く握りすぎた指が白く震えていた。
「……」
レギュラスはその顔に、何も感じなかった。
――なぜ、この程度の力で、彼らはこの“場”に来たのか。
情報を引き出すために、デスイーターに近づこうとしたという。
騎士団でもなく、確かな信条もない。
ただ「そうあろうとした」という短絡的な理想だけで、ここまで足を踏み入れた。
だが、それだけでは…
足りなかった。
魔力も、冷静さも、そして何より――「命を投げる覚悟」も。
「何も持たぬ者が、持つ者に勝てるわけがない。」
それはレギュラスにとって、幼い頃から叩きこまれてきた理のようなものだった。
たとえ心に熱があろうと、意思があろうと――
それだけでは届かない「格」がある。
それを知らぬまま、立ち向かおうとする者が“死ぬべき場所”に迷い込んできたのなら。
そこに、レギュラスは慈悲を差し挟む余地はなかった。
ベラトリックスが再び魔法を放とうとした後ろから、
レギュラスは迷いなく杖を振るう。
彼の動きは静かだった。まるで石を積み上げるような冷ややかさ。
放たれた呪文は的確に標的を捉え、叫びとともに、また一人、塵となって地に沈む。
地面には、数えきれぬ血の濃淡が広がっていた。
その中には、まだ生き残っていた少女がひとりいた。
震える手が、倒れた仲間を支えようと思ったのか、その腰に腕を回そうとしていた。
だが、杖を向けたレギュラスの顔に、感情は浮かばなかった。
「その手はもう、誰も救えない」
その言葉とともに、呪文が疾走した。
その光が彼女を包む直前、小さな声が「逃げたい」と叫んだかもしれない。
けれど、それもまた、風に擦れる枝の音に掻き消された。
すべてが終わったあと――
レギュラスは振り返る。
ベラトリックスは、羽虫を払いのけるように笑っていた。
「薄ら寒い希望なんて、あっけないものよねえ。」
彼は何も応えなかった。
ただ風の中、黙って杖の先についた焦げの灰を、布で静かにぬぐった。
それが、この夜のすべてだった。
強き者が残り、弱き者が去る。
それだけの、冷えた現実が淡々と流れていた。
夜の森は静かだった。
あまりにも静かで、今しがた交わされた魔法の衝撃音や叫びの残響すら、もう闇の奥に吸い込まれていっていた。
その中心――散らばった瓦礫と焦げた枝の間に、ひと組の影が沈んでいた。
若い女だった。
長い髪を乱し、瓦礫に膝をつきながら、倒れた男の身体に縋っていた。
頬には土と涙の跡、爪の間には焦土の塵。
壊れかけた既製の守護魔法のアクセサリが、胸元で光を失ってぶらさがっている。
レギュラスは、杖を構えたまま硬直していた。
立ち尽くしたその視線は、まっすぐ女の横顔を射抜いていた。
泣いていた。
声を殺して、必死にその男の肩に顔を押しつけ、逃げても何も残らなかったことを理解しながら、なおそこにいた。
目立った力はなかった。
光る防御魔法も、練度の高い呪文も武器もない。
ただ――脆弱で、若く、そして、美しかった。
レギュラスは、息をひとつ漏らすようにして視線を逸らした。
周囲の静けさの中、この一瞬だけ時間が狭間に落ちたかのようだった。
彼の指がわずかに震える。
“それでも、命を差し出してまで誰かの傍にいたいと思う”
―― アランなら、そうするかもしれなかった。
いや、そうしてしまったのを、彼は誰より知っていた。
その一抹の記憶と、目の前の女とが一瞬だけ重なってしまった。
けれど――
「……なぜ、そんな場所にまで来たんでしょう」
吐き捨てるように、声には出さず小さく呟いた。
もしこの男の傍にいなければ。
もし、ここまで踏みこまなければ。
そのままどこかで、平凡な日々を愛しながら生きていたかもしれない。
ただそれだけが、どうしても惜しかった。
ひ弱な存在であることに変わりはなくても、彼女の命だけは――。
そのときだった。
レギュラスの背後から、音もなく風が切られる。
すぐに、あの甲高い声がこだまする。
「何してんだい、レギュラス!」
そして現れたのは、風を纏って舞い込むような勢いで呪文を投げた女――
ベラトリックス・レストレンジ。
彼女の杖先から迸った呪文が弧を描き、女の胸を貫く。
その体はひゅうっと音もなく揺れ、男の身体へと崩れるように倒れかかった。
男と女、ふたりの魔法使いはそのまま重なり合い、闇のなかで静止した。
レギュラスは、ひとつまばたきをした。
血の匂いすら、もう鼻が慣れてしまって感じなかった。
だが、胸の内側だけが妙にざわついていた。
痛いわけでもない。ただ、冷えるように……。
そのとき、横からのぞき込む顔。
「へえ?」
ベラトリックスは下卑た笑みを浮かべ、女の倒れた姿に視線をやりながら、
口元を尖らせて言った。
「……なあに、若い女の顔に見とれてたのかい? ふふっ、踊るにはまだ早いじゃないか」
愉快げなのか軽蔑なのか、判断がつかない声。
レギュラスはその言葉に応じなかった。
ただ、倒れ伏したまま動かぬ女の顔へと、再び短く目をやる。
――感情は伏せた。
けれど、指先だけがゆるく杖を握り直した。
背中の奥に、小さな痛みが長く差し込んだ。
それは、とても静かな、冷たい沈黙だった。
夜が静まり返る中、倒れ伏した女の姿が、闇の中に染みこむようにして重なっていった。
レギュラスは動かなかった。
ただ、わずかに顔をそらし、声もなくその場に立ち尽くしていた。
女が最後に見せた、擦り切れた愛情と執着、そして諦め。
そのすべてが、どうしようもなく、アランと重なって見えた。
頬にかかった長い髪。痩せた肩。
誰かのために、抗う術もなく差し出された身体。
ほんの瞬間、脳裏に焼き付いたのは――
──もしも、アランが、自分ではなく、
シリウスのそばでこの女のように力尽きていたとしたら。
その想像だけで、心の中にひゅうと冷たい風が吹き抜けた。
胸の奥に、小さな鉤爪でひっかくような、ざわりとした苦しみがぶわりと広がっていく。
それは怒りにも近かった。嫉妬、かもしれなかった。
けれどそれ以前に、抗いようのない、深い悲しみを孕んでいた。
ふとアランが体を張って守ろうとしたマグルの少女のことを思い出した。
なぜだ――なぜ彼女は、
あの時少女を助けた?
なぜ、命を張るような場に、自分に言葉ひとつ残さず飛びこんだ?
目の前で死んだ女の顔がアランの面影に溶ける今、思わず胸元をかきむしりたくなるような衝動に飲み込まれていた。
アランは、あの日マグルの少女のために、一人で終わりを選ぼうとした。
あのとき、もう少し遅れていたら間に合わなかったかもしれない。
この胸に触れることも、名を呼ぶことも、できなかったかもしれない。
そしてもしも、シリウスのためだったのならば。
もしも、彼のための未来だったならば――。
「自分は、何を守れたのだろう」
レギュラスの手は、杖を握ったままわずかに震えていた。
視界に伸びる女の倒れた輪郭には、もはや命の気配がない。
けれどそこに折重なる妄想のようなアランの影が、何よりも鮮やかに痛ましかった。
ベラトリックスが笑っている。
世界のどこかで勝者の笑みを浮かべている。
だが、レギュラスの中では、何も終わってなどいなかった。
むしろ、たやすく壊れてもおかしくなかったものが、まだこの掌に残っていること。それが、怖かった。
遠ざかる声と、余韻だけ残った焦げた空気の中で――
レギュラスはそっと目を閉じた。
怒りとも、悲しみともつかぬ複雑な疼きが胸に刺さったまま、
静かに、自分の内側と向き合うように。
ただ一歩も動かず、黙してそこに立ち続けた。
明け方の空はまだ薄い紫に滲み、東の地平がようやく光を含みはじめたばかりだった。
屋敷は静まり返り、長い夜の余韻さえも、まだ空気の奥に漂っている。
玄関の扉が、重たく静かに音を立てて開いた。
冷たい外気をわずかに引き込んで、レギュラスがゆっくりと屋敷へ戻った。
黒のローブの裾には土と灰が混ざり、肩には目に見えぬ疲弊が降り積もっていた。
足取りは確かなはずなのに、どこか沈んでいるように見えた。
まるで、身体は戻ってきたものの、心はまだ遠くの戦場に置いてきたかのように──
廊下に入ったその瞬間、階段の上から小さな足音が聞こえた。
上を見やると、ゆっくりとした動きで、アランが階段を降りてきていた。
襟元にショールをかけたまま、端整な白い寝間着姿のまま。
灯りも点けずに、静かに影をなぞるように彼の元まで降りてくる。
レギュラスは驚いたようにわずかに目を見開いた。
まさか起きてくるとは思わなかった。
何も言わず、寝ていてくれるものだと勝手に思っていたから、
その姿は、夜よりも柔らかく、疲弊した心に差し込むように美しかった。
「……起こしましたか?」
低く掠れた声には、滲むような疲れと申し訳なさが混じっていた。
アランは階段の最後の一段を踏みしめるように降り、彼の目の前へと立つ。
そして、息を整えるようにして小さく微笑んだ。
「いいえ。もともとうっすら目が覚めていたの」
その声は穏やかだった。
まるで、「あなたの足音で目覚めたのではなくて、私はあなたを待っていたのだ」と優しく伝えるような響き。
レギュラスは何も言えずに、小さく視線を落とす。
ほんの言葉ひとつ。
でもその言葉の裏にある、静かな気遣いとおそれと――そして、やさしさに、
胸の奥にたまっていた何かが、そっと揺らいだ。
アランの手が、迷いなくそっと彼の袖に触れる。
「おかえりなさい」
それは、よく知る日常の言葉。
けれど、レギュラスは一瞬、息が詰まるような想いが胸の内に押し寄せるのを感じていた。
今夜見た命の光と影。
胸の奥を掻きむしるように残っていた刹那の残像。
それでも――この家には、彼女がいる。
こうして、眠れぬままに、光の前で待っていてくれる人がいる。
「……ただいま」
短くそう返すと、レギュラスはそっとアランの手を取った。
冷たくなった指先に、自分のぬくもりがわずかでも伝わればと願うように。
ふたりの姿を、明けかけた空の淡い光が、静かに包んでいた。
明け方の空はまだ薄い紫に滲み、東の地平がようやく光を含みはじめたばかりだった。
屋敷は静まり返り、長い夜の余韻さえも、まだ空気の奥に漂っている。
玄関の扉が、重たく静かに音を立てて開いた。
冷たい外気をわずかに引き込んで、レギュラスがゆっくりと屋敷へ戻った。
黒のローブの裾には土と灰が混ざり、肩には目に見えぬ疲弊が降り積もっていた。
足取りは確かなはずなのに、どこか沈んでいるように見えた。
まるで、身体は戻ってきたものの、心はまだ遠くの戦場に置いてきたかのように──
屋敷の静けさは、まだ明けきらぬ空を反映するようにひっそりとしていた。
玄関をくぐったばかりのレギュラスは、外気を払おうとローブの裾を整えたまま、食堂へ向かおうとしていた。
アランは、その道を自然に遮るように、廊下の先で待っていた。
「……水を、淹れました。」
差し出された銀縁のグラスには、氷の入っていない、水だけの清澄さがあった。
レギュラスはふと表情を緩めかけ、けれどすぐに警戒するような微笑に戻した。
「……自分でしますよ」
そう言いながらも、彼の瞳はどこか柔らかく、どこか疲れた色を宿していた。
アランの差し出す手を見つめたまま、しばしの沈黙。
アランは何も答えず、そっとグラスを彼の手に預けた。
ふたりの指先が一瞬触れ合う。
心細くも、確かなぬくもりだった。
レギュラスが喉を潤す間、アランはその姿を見つめていた。
この人は、何も語らずに任務を終えて戻ってきた。
その疲労が顔の輪郭に深く刻まれている。
憔悴が、今日の彼を沈黙の中へと押し込んでいた。
だからこそ、アランは悩んでいた。
この一言を、今日。この瞬間に、伝えるべきなのか。
けれど──
言うなら、誰よりも先に。
それは、この家における妻としての責務でもあった。
そして何よりも、彼がこの知らせを「祝福」することを、心のどこかで信じていたから。
それでも。
吐き出す前から、すでに息が上擦っていた。
この発表は、また新たな鎖を自分に巻きつけるものになる。
それでも、この命を隠すことはしない。してはならない。
アランは、すっと一歩近づいた。
静かに、ゆっくりと息を整え、小さな声で言葉を紡ぐ。
「……レギュラス」
彼がグラスを下ろして、わずかに眉をひそめる。
その視線が、彼女の目を真っ直ぐにとらえる。
逃げ道を失った心臓が、耳の内側で音を立てた。
けれど、微笑だけは、崩さなかった。
「……妊娠しました」
たったそれだけだった。
けれど、その一言に込められた重さは、胸の奥にあるすべてだった。
廊下に満ちる朝の光が、いっそう淡く差し込んだ。
光と影が揺れ、ふたりの間にわずかに揺れる空気が沈黙を包みこむ。
レギュラスの瞳が揺れた一瞬を、アランはじっと見ていた。
どうか、喜んでくれますように。
どうか、この身体を、これ以上裏切りと見なさないでくれますように。
何も言わず立ち尽くしていた彼女のその胸には、嬉しさでも悲しみでもない、
ただ“無音の祈り”だけが強く、深く鎮まっていた。
廊下の、大理石の床に朝の光が静かに落ちていた。
屋敷の息遣いはまだ浅く、使用人の足音も聞こえない。
その静けさのなか、レギュラスは、ほんのしばらく言葉を失ってアランを見つめていた。
彼女の唇から語られたその報せ──
「妊娠しました」
顔に浮かんだのは、驚きと、喜びと、何かを噛み締めるような感情。
たった一言に、想定以上の衝撃と意味を込められていたことを、レギュラスはよく知っていた。だからこそ、その沈黙は、歓喜の内側に必死に感情を抑え込むためのものだった。
そして、次の瞬間だった。
彼はふわりと小さく肩を落とし、グラスを脇の小卓へ置いたかと思うと、アランをそっと腕に引き寄せた。
「……よくやりました。アラン。」
その声は、硬く張られた命綱を緩めるような穏やかさで、
それでいて胸から溢れる誇らしさを隠しきれない温度を含んでいた。
抱き寄せられたアランの身体が、ほんの一瞬揺れた。
安堵が、波のように彼女の内側を満たしていく。
レギュラスの腕の温もりの中で、アランはようやく、深く息を吐いた。
微笑はそのまま。しかし心の奥で泣きたくなるような思いが滲み出ていた。
――間に合った。
アルタイルが2歳、3歳をすぎても何の兆しもなかったとき、アランの中では焦りと恐れがせめぎ合っていた。
「まだなのか」とは誰も口には出さなかったが、
オリオンの視線、ヴァルブルガの食卓での沈黙、それらに込められた暗黙の“圧”は、日々彼女の呼吸を細くしていった。
日に日に痩せていく身体、不意に走る痛みの波。
それでも口にできなかった。
“もう産めないのかもしれない”という不安は、アランにとってこの家に対する絶望にも似ていた。
でも今、自分のこの手に確かに命が宿っている。
そして、その報せが、彼のこの腕に、“喜び”として包まれるのだとわかった瞬間――
アランの中の何かが、そっと救われていた。
「……おめでとうございます、レギュラス」
そう言った自分の声が、思いのほか静かで落ち着いていることに気づいて、アランは心の奥でそっと微笑した。
ああ、ちゃんと未来に足を踏み出せている。
レギュラスは、小さく頷いた。
両腕の中に、その“未来”を抱きしめるように、そっと彼女の背をなぞった。
いつもどこかが痛むような毎日。
それでも。
この予感と共に始まる新しい時間が、自分を少しだけ優しく見守ってくれるのではないかと──
アランはほのかに感じていた。
そうして、ふたりの呼吸がゆっくりと重なるなかで、
東から差し込む朝の光が祝福のように静かにふたりの影を包み込んだ。
午後の日差しが柔らかく降り注ぐホグワーツの観客席。アランとレギュラスは、いつもとは違う落ち着きのない胸の高鳴りを覚えながら、コートの襟を整え、クィディッチの試合を見つめていた。
目の前のグラウンドでは、スリザリンの緑と銀のユニフォームに身を包んだ若きマルフォイ家の息子が、高速で空を駆け抜けている。彼の鋭い視線と軽やかな身のこなしは、スリザリンのシーカーとしての誇りと家族の伝統を感じさせた。
しかしアランの視線は、その隣のグリフィンドールのチームに吸い寄せられていた。そこで、のびやかに翼を広げ、風を切るように箒を操る一人の少女の姿を捉える。その顔は見覚えがあった。アランの胸が静かに騒ぐ。あの孤児院で命がけで救ったマグルの少女、アリス・ブラックだったのだ。
シリウスのもとで年を重ねたアリスは、グリフィンドールの誇り高きシーカーとして、大舞台に立っていた。彼女の瞳は強く、決意を帯び、その姿は過去の痛みを超え、未来を切り拓く光だった。
アランは言葉なく、その輝きを見つめる。ホグワーツに入学したことは耳にしていたが、まさかシーカーの座を勝ち取ったとは思いもよらなかった。胸に込み上げる感情は、歓び、誇り、そして胸の奥に深く刻まれた守りたいという強い想いが織りなす複雑なものだった。
レギュラスは隣で静かに微笑み、彼女の胸の動揺に気づきつつも、目の前の試合に集中する。遠い過去の約束や、繋がりを超えた運命の紐帯を感じながら。
クィディッチの歓声と風の音が響く中、アランの瞳には、あの日の守った命が、確かに自由に羽ばたいていることへの深い感慨が映し出されていた。
客席には魔法で編まれた天幕越しの柔らかな午後の光が差し込んでいた。久しぶりに訪れたホグワーツのクィディッチ・スタジアム。
アランはレギュラスの隣に静かに腰を下ろし、重ねた手を膝の上に落ち着かせたまま、視線だけを空に向けていた。
穏やかな微笑みを浮かべ、控えめに拍手を送る。目立つでもなく、興奮を露わにすることもなく、しかしその心は――まるで風をはらんだ帆のように、内側で静かに大きく膨らんでいた。
スリザリンのシーカーとして、華麗に空を駆けるのはマルフォイ家の跡取りだった。
血統と誇りをその身に纏い、狩猟鳥のような勢いでスニッチを追うその姿に、周囲の賓客は誇らしげに歓声を上げている。
レギュラスもそのひとりとして、関係者としての義務を果たすように視線を絶やさず見つめていた。
けれど―― アランの目に映るのは、ただ一人だった。
緋と金のユニフォームを纏い、勇ましく風を裂く少女。
グリフィンドールの空を、恐れを知らぬ翼のように駆け抜けるその姿は、
遠い記憶の中で今も鮮明に輝く、かつてのシリウスそっくりだった。
スニッチをその細い指先で追い、その眼差しに一切の迷いがないあの在り方。
自由で、誇らしくて――命が風のように軽やかに躍動している。
アリス・ブラック。あのとき幼かった少女が、いま、空を生きている。
「……シリウス……」
心の奥でつぶやいた名は、誰にも聞こえない。
だが、確かにアランの中に歓喜と寂しさの波を立てた。
思い出すのだ。あの瞳と、あの笑い方。無鉄砲で、まっすぐで、人の心に道を刻むような存在だったかつてのシリウス。
その面影を、今この空の少女が引き継いでいる。
養子という言葉は、血以上の絆を教えてくれる。
アリスは間違いなく、シリウスに“育てられた子”だった。
思いを注がれ、大切なものを受け継いだ者の力強さが、今こうして目の前にあった。
アランの胸は、高鳴っていた。
けれど、レギュラスの横にいる今、その気配すらも表情にあらわせなかった。
冷静に、慎ましく、ただ淡い誇りを纏ったようにして、その姿を見上げていた。
そして、ふと――
まるで自分も、あの子をシリウスと一緒に育てたような気さえした。
命を助けた、あの夜。
危険を冒して逃がした、その選択。
あれが自分にできたすべてだった。けれど、アリスの跳ねるような飛翔を見た瞬間、アランは確かに「続いていたのだ」と思えた。
幻想かもしれない。けれど、確かに感じた。
あの命が、ここへ辿りついた。
そして、今、誰よりも美しく生きている。
その事実だけが、アランの胸を満たしてやまなかった。
遠く空の上で、ひときわ鋭く飛翔するアリスを見つめながら、
アランはそっと目を細めた。
まるで、自分の手が、いまも空のどこかであの少女の背を押しているかのように。
階段を下りる足取りはいつになく軽やかだった。
長く消えなかった鈍い下腹部の痛みも、この瞬間ばかりは影を潜めていた。
それすらも、このふとした再会に導かれた奇跡かもしれない。
校舎の裏手へと向かう通路。石畳の階段をすり抜け、迷わず辿るように、グリフィンドールのクィディッチ生たちの待機所へ向かった。
懐かしい校内の、ほのかに湿った匂いのする空気。
風に揺れる塔の影。
すべてが、少女時代の感覚を呼び起こす。
やがてその小さな一角に、彼女の姿があった。
乱れた前髪、額の汗。
笑い声に包まれて、仲間に背中を叩かれるその姿。
勝者ではなかった。けれど、疲労の滲む顔には勝者以上の熱と誇りが確かにあった。
アランは、そこに静かに立った。
誰かに見られないような控えめな距離をとり、ただ、そっと名を呼んだ。
「……アリス」
その声音は、あの日あの夜、崩れた孤児院で声にならない想いを託したときと、少しも変わらぬ祈りに近かった。
少女がゆっくりと振り返る。
目が合った。
数秒の沈黙のなかに交わされたのは、言葉ではなかった。
救った命と、選ばれた今が、重なり合った表情だった。
アランの唇がわずかにふるえ、静かに微笑む。
胸の奥が熱を持って波打つように、やさしく、確かに感情がこぼれていく。
言葉はまだ、いらなかった。
けれど――逢えた。
命はこうして、また繋がっていた。
名前も、時間も越えて。
それだけで、心の奥があたたかく光に満たされていた。
その胸元、襟元から覗いた一筋の銀――
アランの視線が本能のようにそこに吸い寄せられた。
それは、間違いなかった。
シリウスから預かり、あの日あの夜にアリスへと託した、小さなペンダント。
星をかたどった繊細な細工。今もアリスの胸に揺れて、陽を受けて微かに光っている。
その瞬間、アランの視界が滲んだ。
何かが、胸の奥から崩れて、波のようにこみ上げてくる。
「……っ」
ひと粒、涙が落ちた。
感情の名をつけることもできないまま。
誇らしさと感謝と、救済のような安堵が、せきを切るように頬を濡らしていく。
アリスは目を大きく見開き、ほんの一瞬その場に立ち尽くしたあと、少女は声を上げた。
「アランさん!!!」
子どものころとまったく同じ、その呼び方。
声が裏返るほどの勢いと、限界まで走ってくるような速さで、アリスはアランに駆け寄ってきた。
アランは、ためらいもしなかった。
ただ両腕を、そっと――けれどしっかりと広げた。
そして次の瞬間、アリスの小さな身体が、その中に飛び込んできた。
「ああ……よかった…」
アランの口から漏れたのは、重ねた日々のどんな記憶よりも真実だった。
「……無事に、大きくなって……」
言いながら、涙が止まらなくなった。
何年も心の底に沈めていた思念が、名前をもって現実の中に形を持った瞬間だった。
もう二度と会えないかもしれないと思った。
どんな時間を生きてきたのか、知ることなんてできないと思っていた。
けれど今、こうしてその小さな命が、
明確に「生きている」と伝えてくれる。
迷うことなく自分の腕に飛び込んでくれた、その心が。
「アリス……ごめんなさい。ありがとう……それしか言えない……」
アリスはアランの裾にすがりながら、首を振った。
「ごめんなさいなんて、言わないで……助けてくれたのは、アランさん……だから私、ここにいるの……!」
ふるえる声が、重なって。
どちらが相手を抱きしめているのかも、わからないほどに、ふたりの心は重なっていった。
胸元で揺れるペンダントが、やさしくきらりと光る。
それは、過去と今を繋ぐしるし。
そして、ふたりの命が再び出会えた、この瞬間の――何より確かな証だった。
通路の奥。
未だ涙の止まらぬアリスを抱きしめたまま、アランは少女に額を寄せていた。温もりが腕の中に残る。それは、あの夜、命を懸けてこの子を逃したときには想像もできなかった未来の重みだった。
胸がいっぱいで、呼吸を整えることすら難しい。
こみ上げる想いが胸いっぱいに膨らみ、これ以上はもう受け止めきれないほどだった。
けれどそのとき――
誰よりも、懐かしい声がした。
「…… アラン」
振り返った。
一瞬、時間が溶けたように思った。
音も光も、すべてが遠のいて、ただその姿だけが、そこにあった。
シリウス・ブラック。
変わらない強さと、どこか無邪気なまなざし。
艶を取り戻した黒髪が風に揺れ、懐かしい空気をまとったその人が、静かに立っていた。
どこかで永遠に失ってしまったと思っていたその姿が、確かにそこにあった。
アランの胸を、何かが音を立てて崩れていく。
止めようとしても感情は溢れ、視界がゆらりと揺れる。
「シリウス……!」
名を呼ぶそれだけで、喉の奥がつまった。刹那のうちに、会いたかった感情が堰を切ったように流れ出す。
「ずっと……会いたかった……」
唇が震え、押し殺しきれない嗚咽が混じる声。
それでも脚が勝手に彼の方へと歩き出す。
腕の中のアリスでさえ、何も言わずそっと手をほどくようにアランから離れ、その背中を押すように彼女を解放してくれた。
次の瞬間には、アランはシリウスの胸の中にいた。
何も言わず、ただ強く、しっかりと抱きしめられる。
懐かしくて、あたたかくて、ひどく安心できる、その腕。
まるで、遠い昔の時間をすべて埋め戻してくれるような安堵。
その懐に涙をこぼしながら、アランは思った。
ああ――この瞬間を待っていたのだ、と。
この声を、触れ合う体温を、笑い合うこの再会を。
そして、その隣、少し距離を置いて見つめるアリス。
シリウスの横顔を見上げ、アランを見つめ、穏やかに笑って。
その姿は、愛の連鎖の真ん中にいた。
守りたかった命が、生きていて、笑っていて、
そして、かつての愛しい人と、ひとつ場所に立っている。
この再会は、孤独で戦った年月を照らす光だった。
それは、永く祈り続けた者にのみ与えられる幸福の、最も静かで美しいかたちだった。
細い光が差し込みはじめた城壁の隙間から、石畳に淡い金の影が落ちていた。クィディッチの試合が終わったあとのホグワーツの片隅、すでに喧騒の消えた通路の一角に、アランとシリウスの姿があった。
あいまいな夢のなかのようだった。
目の前に立つ彼の姿──
過去をともに歩き、そして交わらぬ道を選んだはずの、いまはもう「記憶のなかのひと」。
けれどその気配はいつもと変わらず確かなぬくもりを宿していて、アランの心の奥に、深く、やさしく染み込んでいく。
アランは大きく息を吸い、胸にある言葉のすべてをまっすぐに届けるように、静かに口を開いた。
「あの子を……アリスを、あんなにも立派に育ててくださって、本当に……ありがとう。」
声が震えないようにと努めていたが、あふれる思いは言葉のすぐ下にあった。
口にしてしまえば、崩れてしまいそうだったそれを、それでもどうしても伝えたかった。
「私には……あの子の人生に寄り添っていくことは出来なかった。でも、そうできてよかった。あなたで、本当によかったの」
シリウスは、静かな笑みを浮かべて立っていた。
その表情は、かつての無邪気で荒っぽい彼ではない。
幾多の時間と責務と思いを抱えて歩いてきた大人のまなざしだった。
「君から……アリスを託されたあのときから、ずっと……言葉にはできない感情があったんだ」
彼の声は穏やかで、どこか遠くから降る雨のように優しく響いた。
「俺は、彼女をひとりの娘として育ててきた。だけどね……アリスを抱きしめるたび、話を聞くたび、思ってしまっていた。アラン ──きみといっしょに育てているような気がしていたんだ」
その一言が、アランのなかに静かに火を灯した。
胸がつまった。鼓動が一際強く鳴る。
目尻に溜まっていた涙が、とうとう音もなくこぼれ落ちた。
「……ありがとう、シリウス……」
息を呑むように言葉が降り、声にならない思いが震えた指先に宿る。
視界の先には、少し離れてこちらを見守るように立っているアリスの姿。
あどけなさと凛とした強さを併せ持つその眼差しに、かつての夢のすべてが宿っている。
叶わなかった未来。
けれど、たしかにここにあった。
この少女の人生を通して、それはかたちを変えて、現実となっていた。
シリウスと共に歩いてきた心が、彼女の成長を支え、導いてきた。
この胸の痛みも、後悔も、優しさもすべて――
遠まわしな形で、彼女の人生に流れ、根を張り、花を咲かせていたのだ。
「アリスは……私の誇りなの。あなたの誇りである様に。私の、心の一部だったもの……それが今もこうして、生きていてくれるの」
アランの声はもう震えていなかった。
クィディッチの歓声も、人々の目も届かぬこの静かな場所で、
二人の過去と未来が、確かにひとつの線で結ばれていた。
淡い風が三人のあいだをそっと撫で、
空は少しずつ、春の色を増していく。
その瞬間、アランは思った。
これはきっと、失われたものではなく――
時を越えてようやく辿りついた、新たな始まりなのだと。
観客席には熱気と喧騒がまだ漂っていた。
試合の余韻も冷めやらぬ中、レギュラスはどこか抜け殻のような静けさで自席に座っていた。グラウンドの青空に歓声と色が渦巻く中、彼の中でだけ、ぴたりと冷たいものが広がっていく。
アランの様子には最初から気づいていた。
向けられるはずだったまなざしが、マルフォイ家の息子ではなく、あの“マグルの女”――アリス・ブラックへ確かに吸い寄せられていたことも。
いかにも、それが自然であるかのように振る舞っているそのしぐさも、レギュラスにとってはもはや滑稽なほど白々しく映った。
そして会場内のざわめきのなか、シリウス・ブラックがこの試合にアリスの保護者として来ている――という知らせが耳に届いた瞬間、
胸に燻っていた疑念が、確信へと鮮烈に変わる。
(アランは奴らと、どこかで必ず交わっている)
怒りが、じわじわと身体の奥から湧き上がってくる。
本来ならば、マルフォイ家のシーカーの活躍を寿ぐためにここに足を運んだはずだった。それなのに、
あのマグルの女がいることで、アランはすべてを忘れたようにそちらへ心を囚われてしまった――。
耐え難い裏切り。
血筋も、家も、自分自身も、何ひとつ見えていないかのようなアランの姿が、何よりも憎らしかった。
レギュラスは静かに、しかし決然と席を立つ。
外套の襟元を整えながら、周囲の鳴りやまぬ歓声をすり抜けて、ゆっくりと歩く。
貴族たちの輪をさっと抜け、マルフォイ家の親族に儀礼的な微笑みを向け、
「お祝い申し上げます、素晴らしい走りでした」と簡素に告げる。
しかし、その声に温もりはない。
ただ、形式と礼儀を守るための絹のような冷たさだった。
マルフォイ家の誰かが何かを言いかけたが、レギュラスは深く頭を下げるだけで足を止めず、そのまま背を向けた。
心は一点、今や探さなければいけないアランのもとへと向かっていた。
廊下の隅々、観客席の影――
レギュラスの足音は静かだったが、その眼差しの奥には怒りと苛立ちが濃く宿っている。
彼の胸の奥の声は誰にも届かない。
けれどその歩幅は、氷の刃のように正確で、獲物を狩る獣のように静かにアランの影を追っていた。
歓声も祝福も溶けて消えていくなかで、レギュラスの心だけが、行き場のない痛みと怒りに染まっていく――
その姿は、祝賀の熱とは裏腹に、どこまでも冷たく孤独な影を伸ばしていた。
薄曇りの空の下、ホグワーツのクィディッチスタジアムの裏手、
グリフィンドール専用の控え室を囲む古い石塀のさらに奥――
もともとスリザリンに属していた者であれば、足を踏み入れる理由すらないような、その場所で。
レギュラス・ブラックは、静かに足を止めた。
靴が石畳を擦る音も冷え切っていて、腕にかけたローブの端からさえ、冷気のような怒気が滲んでいた。
彼の視線の先――そこにいたのは、まぎれもなくアランだった。
やわらかなショールを肩にかけ、優しく穏やかに微笑むその人の傍らに、レギュラスが決して受け入れることのなかった存在が、ふたり。
ひとりはあのマグルの女――アリス・ブラック。
そしてもうひとりは、忌まわしき兄、シリウス・ブラック。
その場は、まるで絵画から切り取られたように静かで、あたたかでさえあった。
彼女が少女の手を取り、言葉を交わし、シリウスがそれを見守っている。
まるで、家族のように。
レギュラスの胸の奥では、何かが鋭く軋む音を立てていた。
この場所がダンブルドアの保護結界の内側でさえなければ――
そう思ったその瞬間に、冷酷な想像が脳裏を過ぎる。
自分のためだけでなく、ブラック家の名のために。
死の呪文を、そのマグルの少女へと投げかけていたかもしれない……
それでも、拳を解いたレギュラスは、精一杯の冷静を装って口を開いた。
「アラン――感心できませんね」
声は硬く、低く、氷のように澄んでいた。
アランが驚いたように振り向く。
彼女の目元に宿るのは、困惑と怯え、そしてどこか、
――どこか後ろめたさのような、読めない揺らぎだった。
「……レギュラス……」
掠れるような声が漏れたが、それ以上の言葉は出なかった。
代わりに一歩、前に出たのはシリウスだった。
彼の動きは速くもなく、強引でもなかった。
けれど確かに、アリスの前へと、守るように身を差し出す。
その眼差しは、かつて兄として笑った日々から遠く離れ、険しさのなかに微かな痛みすら滲んでいた。
「あいかわらずだな、弟。冷たい言葉の裏に、何を隠してる?」
そう言いかけたその声に、レギュラスは表情ひとつ動かさずまっすぐ見返した。
アリスはシリウスの背に隠れるように立っていた。
だけど、怯えては見えなかった。
まっすぐな瞳。
命を守られ、愛されて育った子の、曇りなき光。
それが、何よりレギュラスの怒りを掻き立てた。
だれの許しで、マグルの女がブラックの名を背負い、
アランがその存在に微笑み、目を細め、許してしまっているのか。
その過ちを「心の綻び」と言うには、あまりにも愚かで、あまりにも深すぎる。
風が通り過ぎるたび、レギュラスの外套がかすかに揺れた。
その沈黙は、氷よりも鋭かった。
アランはようやく小さな声で言った。
「……話をしていただけよ。久しぶりだったから。それだけなの……」
レギュラスは短く息をつき、氷のような瞳の奥で何かを刻むように、アランだけを静かに見た。
その視線には、問いも詮索も、罵倒もなかった。
ただ、失望と哀しみによく似た、決壊の手前の沈黙があった。
――もう、戻れないところまで来ている。
そんな予感が、アランの胸をひりつかせていた。
そしてそれは、音もなく三人の空間を裂いていく、見えない境界線のように漂っていた。
風が静かに石畳を撫で、ホグワーツのクィディッチ・スタジアム裏の小径にひとときの沈黙が降りていた。遮るもののない空のもと、冷たい空気だけが、言葉の代わりにその場を支配している。
レギュラス・ブラックは、無言のままアランの手を取り、その場を去ろうとしていた。
その掌には有無を言わせぬ力が込められており、アランは少し戸惑いながらも逆らうことはなかった。
しかし、背中越しに届いた声が、その動きを断ち切った。
「アランさん――また、お目にかかりたいです!」
澄んだ声だった。若さとまっすぐさ。恐れも、作為もない子どものような透明な響き。
レギュラスの足が止まる。
その言葉の余韻が風に溶けて消えるより早く、彼の唇に薄く冷笑が浮かぶ。
――鼻で笑いたくなるとはまさにこのことだった。
どの口で言うのか。
妻に、ブラック家の名を正当に継ぐ女に、あのような言葉をかけるとは――
己の分を知らぬ、哀れな存在。
“何者であるのか”さえ分からぬまま、無邪気に踏み越えてくる無知な足。
レギュラスはゆっくりとアランの手を離し、静かに振り返った。
「……アリス、と言いましたね」
その声は低く、よく磨かれた刃のような静けさを帯びていた。
名を呼ばれた少女――アリス・ブラックは、シリウスの背から一歩だけ前へ出た。
瞳を逸らさず、まっすぐレギュラスを見つめていた。
その目に、怯えはなかった。いや、怯えを知らないのだ、とレギュラスは悟った。
それを「強さ」と錯覚する者もいるかもしれない。
だが、彼にとってそれは、ただの無知でしかなかった。
その眼差しの奥に何があろうと――それは力ではない。
シリウス・ブラックという名の庇護の下で、守られ、育てられ、真実に触れぬまま育った、幼く脆い幻想に過ぎない。
過ちを犯しながら誇りを語り、家の名をかたる者。
そんな存在が、今、自分の目の前で“ブラック”を名乗っている。
虫唾が走るとはこのことだ。
レギュラスは一歩前に出て、アリスにまっすぐ向き直った。
その瞳にはあらゆる感情が閉じ込められていた。ただ、冷たい炎のような光だけが静かに揺れている。
「ひとつ、忠告をしておきましょう」
その声音は、紳士的な仮面を纏いながらも、一言ひとことに鉄の重みを含ませて続く。
「あなたが“ブラック”の名を背負うこと――それは、ただの名前では終わりません」
無知な少女の胸に届くとは限らないと知りながら、それでも刻みつけるように、言葉が滴るように続く。
「その名に染められた血には、誇りと責務、そして歴史があります。
あなたにそのすべてを知る覚悟があるとは、到底、思えません」
「……軽々しく名乗れば、自分の身を灼く日が来る――そのことだけは、覚えておくといい」
アリスは言葉を失ったように立ち尽くしていた。
彼女をかばうように、シリウスがさらに一歩前へ出ようとしたが、レギュラスはその動きさえも見ていないようだった。
振り向くと、アランのほうへと歩みを戻す。
口を挟む余地を誰にも与えなかった。
その背に、誰かの伯父としての情などはなかった。
あるのは、家の名を穢されることを拒む誇りと、不寛容な冷酷さだけ。
アランは何も言えず立ち尽くしていた。
ただ、遠くで風が枝を鳴らしている音だけが、世界に残されていた。
魔力が濃く漂うその場所に、レギュラスは黒いローブの裾を翻しながら、静かに立っていた。
一歩前を行くのは、ベラトリックス・レストレンジ。
絹のような黒髪が風に揺れるたび、その背には狂気と誇り、そして冷たい獰猛さがまとわりついていた。
「早く済ませましょう、レギュラス」
背を向けながらそう言う声は、いつものように甘やかで刺のある毒を含み、逃げ道を与えぬ圧力となって彼の背筋を凍らせた。
彼女と対で任務にあたるということ――
それは、完璧であることを強いられるということに等しかった。
一瞬の気の緩みも、愚かな逡巡も、彼女の前では醜くさらけ出され、切り捨てられるだけだった。
だからこそ、レギュラスの動きには一切の隙がなかった。
呼吸ひとつにまで神経を尖らせ、まるで自分の胸の鼓動すら足を引っ張るものにも思えるほど。
表情は張り詰め、指先には冷たい緊張が張り付く。
「痕跡なし。侵入経路は東の窓。配置図だと第二階層に追跡符が仕掛けられているはずです」
淡々と、正確に、例外のない振る舞いでベラトリックスに報告する。
彼女は振り返らずに頷いた。
「いい子ね、甥っ子ちゃん」
歪んだ含みをもたせた声。言葉の背後には、笑っていない笑みがはっきりと宿っていた。
レギュラスは表情を崩さなかった。なにひとつ、表には出さず、ただその場に必要な“完璧なデスイーター”として在ることに集中する。
杖を構える手には、自然と力がこもる。
指の節が白くなるほど強く握る。そうでなければ、逃してしまいそうなほど危うい気配が、この任務には確かにあった。
隣を歩く女の魔力は獣めいて鋭く、時折その気配が空気を裂くたびに、背筋にひやりとしたものが走る。
けれど、それでもレギュラスは歩みを緩めなかった。
巻き込まれてなるものかと、胸の奥で誓いながら――確かに彼は、今日も“完璧”であらねばならなかった。
その静けさのなか、杖から微かに滲む魔力が、息づくように空気を撓ませた。
それはまるで彼の緊張そのもののように、縛られ、鋭く、そして黙したまま……深く火を孕んでいた。
満月を隠す雲が、夜空に重くのしかかっていた。
しんと静まり返った森の奥、密かに建てられた仮設の集会所は、まるで世界から切り離された場所のように、周囲との気配を遮っていた。
だが、その薄い静寂は、長くは続かなかった。
魔法の爆音が空気を裂き、木々に鳥が飛び立つ。
ベラトリックス・レストレンジの高笑いが夜を刺すように響き、その足元には幾人かの魔法使いの影が崩れていた。
「騎士団の真似事なんて、ちゃんちゃらおかしいわ。」
彼女は、ピンと伸びた指先で弓なりに光る呪文を放つ。
それを避けきれず、悲鳴ひとつあげる暇もなく崩れ落ちる若者。まだ本を開きたてのような手のひらには、杜撰な、けれど必死の防御魔法の残滓が滲んでいた。
ベラトリックスの手元は美しいほどに無駄がなく、襞つきのローブの袖がひるがえるたびに、命の数がひとつずつ沈んでいく。
その目の奥には、敵意ではなく享楽の色が潜み、獲物をなぶる獣のような冷ややかさがあった。
そのすぐ背後を、レギュラス・ブラックは冷静な足取りで追っていた。
血の匂いと焦げた魔力の塵が、空気に漂う。
ベラトリックスが興奮に口端を引き上げるのとは対照に、レギュラスは表情を崩すことなく、その場を見下ろしていた。
混血の青年がひとり、呪いを喰らって倒れた。
その目は未だ恐怖を映したままで、杖を強く握りすぎた指が白く震えていた。
「……」
レギュラスはその顔に、何も感じなかった。
――なぜ、この程度の力で、彼らはこの“場”に来たのか。
情報を引き出すために、デスイーターに近づこうとしたという。
騎士団でもなく、確かな信条もない。
ただ「そうあろうとした」という短絡的な理想だけで、ここまで足を踏み入れた。
だが、それだけでは…
足りなかった。
魔力も、冷静さも、そして何より――「命を投げる覚悟」も。
「何も持たぬ者が、持つ者に勝てるわけがない。」
それはレギュラスにとって、幼い頃から叩きこまれてきた理のようなものだった。
たとえ心に熱があろうと、意思があろうと――
それだけでは届かない「格」がある。
それを知らぬまま、立ち向かおうとする者が“死ぬべき場所”に迷い込んできたのなら。
そこに、レギュラスは慈悲を差し挟む余地はなかった。
ベラトリックスが再び魔法を放とうとした後ろから、
レギュラスは迷いなく杖を振るう。
彼の動きは静かだった。まるで石を積み上げるような冷ややかさ。
放たれた呪文は的確に標的を捉え、叫びとともに、また一人、塵となって地に沈む。
地面には、数えきれぬ血の濃淡が広がっていた。
その中には、まだ生き残っていた少女がひとりいた。
震える手が、倒れた仲間を支えようと思ったのか、その腰に腕を回そうとしていた。
だが、杖を向けたレギュラスの顔に、感情は浮かばなかった。
「その手はもう、誰も救えない」
その言葉とともに、呪文が疾走した。
その光が彼女を包む直前、小さな声が「逃げたい」と叫んだかもしれない。
けれど、それもまた、風に擦れる枝の音に掻き消された。
すべてが終わったあと――
レギュラスは振り返る。
ベラトリックスは、羽虫を払いのけるように笑っていた。
「薄ら寒い希望なんて、あっけないものよねえ。」
彼は何も応えなかった。
ただ風の中、黙って杖の先についた焦げの灰を、布で静かにぬぐった。
それが、この夜のすべてだった。
強き者が残り、弱き者が去る。
それだけの、冷えた現実が淡々と流れていた。
夜の森は静かだった。
あまりにも静かで、今しがた交わされた魔法の衝撃音や叫びの残響すら、もう闇の奥に吸い込まれていっていた。
その中心――散らばった瓦礫と焦げた枝の間に、ひと組の影が沈んでいた。
若い女だった。
長い髪を乱し、瓦礫に膝をつきながら、倒れた男の身体に縋っていた。
頬には土と涙の跡、爪の間には焦土の塵。
壊れかけた既製の守護魔法のアクセサリが、胸元で光を失ってぶらさがっている。
レギュラスは、杖を構えたまま硬直していた。
立ち尽くしたその視線は、まっすぐ女の横顔を射抜いていた。
泣いていた。
声を殺して、必死にその男の肩に顔を押しつけ、逃げても何も残らなかったことを理解しながら、なおそこにいた。
目立った力はなかった。
光る防御魔法も、練度の高い呪文も武器もない。
ただ――脆弱で、若く、そして、美しかった。
レギュラスは、息をひとつ漏らすようにして視線を逸らした。
周囲の静けさの中、この一瞬だけ時間が狭間に落ちたかのようだった。
彼の指がわずかに震える。
“それでも、命を差し出してまで誰かの傍にいたいと思う”
―― アランなら、そうするかもしれなかった。
いや、そうしてしまったのを、彼は誰より知っていた。
その一抹の記憶と、目の前の女とが一瞬だけ重なってしまった。
けれど――
「……なぜ、そんな場所にまで来たんでしょう」
吐き捨てるように、声には出さず小さく呟いた。
もしこの男の傍にいなければ。
もし、ここまで踏みこまなければ。
そのままどこかで、平凡な日々を愛しながら生きていたかもしれない。
ただそれだけが、どうしても惜しかった。
ひ弱な存在であることに変わりはなくても、彼女の命だけは――。
そのときだった。
レギュラスの背後から、音もなく風が切られる。
すぐに、あの甲高い声がこだまする。
「何してんだい、レギュラス!」
そして現れたのは、風を纏って舞い込むような勢いで呪文を投げた女――
ベラトリックス・レストレンジ。
彼女の杖先から迸った呪文が弧を描き、女の胸を貫く。
その体はひゅうっと音もなく揺れ、男の身体へと崩れるように倒れかかった。
男と女、ふたりの魔法使いはそのまま重なり合い、闇のなかで静止した。
レギュラスは、ひとつまばたきをした。
血の匂いすら、もう鼻が慣れてしまって感じなかった。
だが、胸の内側だけが妙にざわついていた。
痛いわけでもない。ただ、冷えるように……。
そのとき、横からのぞき込む顔。
「へえ?」
ベラトリックスは下卑た笑みを浮かべ、女の倒れた姿に視線をやりながら、
口元を尖らせて言った。
「……なあに、若い女の顔に見とれてたのかい? ふふっ、踊るにはまだ早いじゃないか」
愉快げなのか軽蔑なのか、判断がつかない声。
レギュラスはその言葉に応じなかった。
ただ、倒れ伏したまま動かぬ女の顔へと、再び短く目をやる。
――感情は伏せた。
けれど、指先だけがゆるく杖を握り直した。
背中の奥に、小さな痛みが長く差し込んだ。
それは、とても静かな、冷たい沈黙だった。
夜が静まり返る中、倒れ伏した女の姿が、闇の中に染みこむようにして重なっていった。
レギュラスは動かなかった。
ただ、わずかに顔をそらし、声もなくその場に立ち尽くしていた。
女が最後に見せた、擦り切れた愛情と執着、そして諦め。
そのすべてが、どうしようもなく、アランと重なって見えた。
頬にかかった長い髪。痩せた肩。
誰かのために、抗う術もなく差し出された身体。
ほんの瞬間、脳裏に焼き付いたのは――
──もしも、アランが、自分ではなく、
シリウスのそばでこの女のように力尽きていたとしたら。
その想像だけで、心の中にひゅうと冷たい風が吹き抜けた。
胸の奥に、小さな鉤爪でひっかくような、ざわりとした苦しみがぶわりと広がっていく。
それは怒りにも近かった。嫉妬、かもしれなかった。
けれどそれ以前に、抗いようのない、深い悲しみを孕んでいた。
ふとアランが体を張って守ろうとしたマグルの少女のことを思い出した。
なぜだ――なぜ彼女は、
あの時少女を助けた?
なぜ、命を張るような場に、自分に言葉ひとつ残さず飛びこんだ?
目の前で死んだ女の顔がアランの面影に溶ける今、思わず胸元をかきむしりたくなるような衝動に飲み込まれていた。
アランは、あの日マグルの少女のために、一人で終わりを選ぼうとした。
あのとき、もう少し遅れていたら間に合わなかったかもしれない。
この胸に触れることも、名を呼ぶことも、できなかったかもしれない。
そしてもしも、シリウスのためだったのならば。
もしも、彼のための未来だったならば――。
「自分は、何を守れたのだろう」
レギュラスの手は、杖を握ったままわずかに震えていた。
視界に伸びる女の倒れた輪郭には、もはや命の気配がない。
けれどそこに折重なる妄想のようなアランの影が、何よりも鮮やかに痛ましかった。
ベラトリックスが笑っている。
世界のどこかで勝者の笑みを浮かべている。
だが、レギュラスの中では、何も終わってなどいなかった。
むしろ、たやすく壊れてもおかしくなかったものが、まだこの掌に残っていること。それが、怖かった。
遠ざかる声と、余韻だけ残った焦げた空気の中で――
レギュラスはそっと目を閉じた。
怒りとも、悲しみともつかぬ複雑な疼きが胸に刺さったまま、
静かに、自分の内側と向き合うように。
ただ一歩も動かず、黙してそこに立ち続けた。
明け方の空はまだ薄い紫に滲み、東の地平がようやく光を含みはじめたばかりだった。
屋敷は静まり返り、長い夜の余韻さえも、まだ空気の奥に漂っている。
玄関の扉が、重たく静かに音を立てて開いた。
冷たい外気をわずかに引き込んで、レギュラスがゆっくりと屋敷へ戻った。
黒のローブの裾には土と灰が混ざり、肩には目に見えぬ疲弊が降り積もっていた。
足取りは確かなはずなのに、どこか沈んでいるように見えた。
まるで、身体は戻ってきたものの、心はまだ遠くの戦場に置いてきたかのように──
廊下に入ったその瞬間、階段の上から小さな足音が聞こえた。
上を見やると、ゆっくりとした動きで、アランが階段を降りてきていた。
襟元にショールをかけたまま、端整な白い寝間着姿のまま。
灯りも点けずに、静かに影をなぞるように彼の元まで降りてくる。
レギュラスは驚いたようにわずかに目を見開いた。
まさか起きてくるとは思わなかった。
何も言わず、寝ていてくれるものだと勝手に思っていたから、
その姿は、夜よりも柔らかく、疲弊した心に差し込むように美しかった。
「……起こしましたか?」
低く掠れた声には、滲むような疲れと申し訳なさが混じっていた。
アランは階段の最後の一段を踏みしめるように降り、彼の目の前へと立つ。
そして、息を整えるようにして小さく微笑んだ。
「いいえ。もともとうっすら目が覚めていたの」
その声は穏やかだった。
まるで、「あなたの足音で目覚めたのではなくて、私はあなたを待っていたのだ」と優しく伝えるような響き。
レギュラスは何も言えずに、小さく視線を落とす。
ほんの言葉ひとつ。
でもその言葉の裏にある、静かな気遣いとおそれと――そして、やさしさに、
胸の奥にたまっていた何かが、そっと揺らいだ。
アランの手が、迷いなくそっと彼の袖に触れる。
「おかえりなさい」
それは、よく知る日常の言葉。
けれど、レギュラスは一瞬、息が詰まるような想いが胸の内に押し寄せるのを感じていた。
今夜見た命の光と影。
胸の奥を掻きむしるように残っていた刹那の残像。
それでも――この家には、彼女がいる。
こうして、眠れぬままに、光の前で待っていてくれる人がいる。
「……ただいま」
短くそう返すと、レギュラスはそっとアランの手を取った。
冷たくなった指先に、自分のぬくもりがわずかでも伝わればと願うように。
ふたりの姿を、明けかけた空の淡い光が、静かに包んでいた。
明け方の空はまだ薄い紫に滲み、東の地平がようやく光を含みはじめたばかりだった。
屋敷は静まり返り、長い夜の余韻さえも、まだ空気の奥に漂っている。
玄関の扉が、重たく静かに音を立てて開いた。
冷たい外気をわずかに引き込んで、レギュラスがゆっくりと屋敷へ戻った。
黒のローブの裾には土と灰が混ざり、肩には目に見えぬ疲弊が降り積もっていた。
足取りは確かなはずなのに、どこか沈んでいるように見えた。
まるで、身体は戻ってきたものの、心はまだ遠くの戦場に置いてきたかのように──
屋敷の静けさは、まだ明けきらぬ空を反映するようにひっそりとしていた。
玄関をくぐったばかりのレギュラスは、外気を払おうとローブの裾を整えたまま、食堂へ向かおうとしていた。
アランは、その道を自然に遮るように、廊下の先で待っていた。
「……水を、淹れました。」
差し出された銀縁のグラスには、氷の入っていない、水だけの清澄さがあった。
レギュラスはふと表情を緩めかけ、けれどすぐに警戒するような微笑に戻した。
「……自分でしますよ」
そう言いながらも、彼の瞳はどこか柔らかく、どこか疲れた色を宿していた。
アランの差し出す手を見つめたまま、しばしの沈黙。
アランは何も答えず、そっとグラスを彼の手に預けた。
ふたりの指先が一瞬触れ合う。
心細くも、確かなぬくもりだった。
レギュラスが喉を潤す間、アランはその姿を見つめていた。
この人は、何も語らずに任務を終えて戻ってきた。
その疲労が顔の輪郭に深く刻まれている。
憔悴が、今日の彼を沈黙の中へと押し込んでいた。
だからこそ、アランは悩んでいた。
この一言を、今日。この瞬間に、伝えるべきなのか。
けれど──
言うなら、誰よりも先に。
それは、この家における妻としての責務でもあった。
そして何よりも、彼がこの知らせを「祝福」することを、心のどこかで信じていたから。
それでも。
吐き出す前から、すでに息が上擦っていた。
この発表は、また新たな鎖を自分に巻きつけるものになる。
それでも、この命を隠すことはしない。してはならない。
アランは、すっと一歩近づいた。
静かに、ゆっくりと息を整え、小さな声で言葉を紡ぐ。
「……レギュラス」
彼がグラスを下ろして、わずかに眉をひそめる。
その視線が、彼女の目を真っ直ぐにとらえる。
逃げ道を失った心臓が、耳の内側で音を立てた。
けれど、微笑だけは、崩さなかった。
「……妊娠しました」
たったそれだけだった。
けれど、その一言に込められた重さは、胸の奥にあるすべてだった。
廊下に満ちる朝の光が、いっそう淡く差し込んだ。
光と影が揺れ、ふたりの間にわずかに揺れる空気が沈黙を包みこむ。
レギュラスの瞳が揺れた一瞬を、アランはじっと見ていた。
どうか、喜んでくれますように。
どうか、この身体を、これ以上裏切りと見なさないでくれますように。
何も言わず立ち尽くしていた彼女のその胸には、嬉しさでも悲しみでもない、
ただ“無音の祈り”だけが強く、深く鎮まっていた。
廊下の、大理石の床に朝の光が静かに落ちていた。
屋敷の息遣いはまだ浅く、使用人の足音も聞こえない。
その静けさのなか、レギュラスは、ほんのしばらく言葉を失ってアランを見つめていた。
彼女の唇から語られたその報せ──
「妊娠しました」
顔に浮かんだのは、驚きと、喜びと、何かを噛み締めるような感情。
たった一言に、想定以上の衝撃と意味を込められていたことを、レギュラスはよく知っていた。だからこそ、その沈黙は、歓喜の内側に必死に感情を抑え込むためのものだった。
そして、次の瞬間だった。
彼はふわりと小さく肩を落とし、グラスを脇の小卓へ置いたかと思うと、アランをそっと腕に引き寄せた。
「……よくやりました。アラン。」
その声は、硬く張られた命綱を緩めるような穏やかさで、
それでいて胸から溢れる誇らしさを隠しきれない温度を含んでいた。
抱き寄せられたアランの身体が、ほんの一瞬揺れた。
安堵が、波のように彼女の内側を満たしていく。
レギュラスの腕の温もりの中で、アランはようやく、深く息を吐いた。
微笑はそのまま。しかし心の奥で泣きたくなるような思いが滲み出ていた。
――間に合った。
アルタイルが2歳、3歳をすぎても何の兆しもなかったとき、アランの中では焦りと恐れがせめぎ合っていた。
「まだなのか」とは誰も口には出さなかったが、
オリオンの視線、ヴァルブルガの食卓での沈黙、それらに込められた暗黙の“圧”は、日々彼女の呼吸を細くしていった。
日に日に痩せていく身体、不意に走る痛みの波。
それでも口にできなかった。
“もう産めないのかもしれない”という不安は、アランにとってこの家に対する絶望にも似ていた。
でも今、自分のこの手に確かに命が宿っている。
そして、その報せが、彼のこの腕に、“喜び”として包まれるのだとわかった瞬間――
アランの中の何かが、そっと救われていた。
「……おめでとうございます、レギュラス」
そう言った自分の声が、思いのほか静かで落ち着いていることに気づいて、アランは心の奥でそっと微笑した。
ああ、ちゃんと未来に足を踏み出せている。
レギュラスは、小さく頷いた。
両腕の中に、その“未来”を抱きしめるように、そっと彼女の背をなぞった。
いつもどこかが痛むような毎日。
それでも。
この予感と共に始まる新しい時間が、自分を少しだけ優しく見守ってくれるのではないかと──
アランはほのかに感じていた。
そうして、ふたりの呼吸がゆっくりと重なるなかで、
東から差し込む朝の光が祝福のように静かにふたりの影を包み込んだ。
午後の日差しが柔らかく降り注ぐホグワーツの観客席。アランとレギュラスは、いつもとは違う落ち着きのない胸の高鳴りを覚えながら、コートの襟を整え、クィディッチの試合を見つめていた。
目の前のグラウンドでは、スリザリンの緑と銀のユニフォームに身を包んだ若きマルフォイ家の息子が、高速で空を駆け抜けている。彼の鋭い視線と軽やかな身のこなしは、スリザリンのシーカーとしての誇りと家族の伝統を感じさせた。
しかしアランの視線は、その隣のグリフィンドールのチームに吸い寄せられていた。そこで、のびやかに翼を広げ、風を切るように箒を操る一人の少女の姿を捉える。その顔は見覚えがあった。アランの胸が静かに騒ぐ。あの孤児院で命がけで救ったマグルの少女、アリス・ブラックだったのだ。
シリウスのもとで年を重ねたアリスは、グリフィンドールの誇り高きシーカーとして、大舞台に立っていた。彼女の瞳は強く、決意を帯び、その姿は過去の痛みを超え、未来を切り拓く光だった。
アランは言葉なく、その輝きを見つめる。ホグワーツに入学したことは耳にしていたが、まさかシーカーの座を勝ち取ったとは思いもよらなかった。胸に込み上げる感情は、歓び、誇り、そして胸の奥に深く刻まれた守りたいという強い想いが織りなす複雑なものだった。
レギュラスは隣で静かに微笑み、彼女の胸の動揺に気づきつつも、目の前の試合に集中する。遠い過去の約束や、繋がりを超えた運命の紐帯を感じながら。
クィディッチの歓声と風の音が響く中、アランの瞳には、あの日の守った命が、確かに自由に羽ばたいていることへの深い感慨が映し出されていた。
客席には魔法で編まれた天幕越しの柔らかな午後の光が差し込んでいた。久しぶりに訪れたホグワーツのクィディッチ・スタジアム。
アランはレギュラスの隣に静かに腰を下ろし、重ねた手を膝の上に落ち着かせたまま、視線だけを空に向けていた。
穏やかな微笑みを浮かべ、控えめに拍手を送る。目立つでもなく、興奮を露わにすることもなく、しかしその心は――まるで風をはらんだ帆のように、内側で静かに大きく膨らんでいた。
スリザリンのシーカーとして、華麗に空を駆けるのはマルフォイ家の跡取りだった。
血統と誇りをその身に纏い、狩猟鳥のような勢いでスニッチを追うその姿に、周囲の賓客は誇らしげに歓声を上げている。
レギュラスもそのひとりとして、関係者としての義務を果たすように視線を絶やさず見つめていた。
けれど―― アランの目に映るのは、ただ一人だった。
緋と金のユニフォームを纏い、勇ましく風を裂く少女。
グリフィンドールの空を、恐れを知らぬ翼のように駆け抜けるその姿は、
遠い記憶の中で今も鮮明に輝く、かつてのシリウスそっくりだった。
スニッチをその細い指先で追い、その眼差しに一切の迷いがないあの在り方。
自由で、誇らしくて――命が風のように軽やかに躍動している。
アリス・ブラック。あのとき幼かった少女が、いま、空を生きている。
「……シリウス……」
心の奥でつぶやいた名は、誰にも聞こえない。
だが、確かにアランの中に歓喜と寂しさの波を立てた。
思い出すのだ。あの瞳と、あの笑い方。無鉄砲で、まっすぐで、人の心に道を刻むような存在だったかつてのシリウス。
その面影を、今この空の少女が引き継いでいる。
養子という言葉は、血以上の絆を教えてくれる。
アリスは間違いなく、シリウスに“育てられた子”だった。
思いを注がれ、大切なものを受け継いだ者の力強さが、今こうして目の前にあった。
アランの胸は、高鳴っていた。
けれど、レギュラスの横にいる今、その気配すらも表情にあらわせなかった。
冷静に、慎ましく、ただ淡い誇りを纏ったようにして、その姿を見上げていた。
そして、ふと――
まるで自分も、あの子をシリウスと一緒に育てたような気さえした。
命を助けた、あの夜。
危険を冒して逃がした、その選択。
あれが自分にできたすべてだった。けれど、アリスの跳ねるような飛翔を見た瞬間、アランは確かに「続いていたのだ」と思えた。
幻想かもしれない。けれど、確かに感じた。
あの命が、ここへ辿りついた。
そして、今、誰よりも美しく生きている。
その事実だけが、アランの胸を満たしてやまなかった。
遠く空の上で、ひときわ鋭く飛翔するアリスを見つめながら、
アランはそっと目を細めた。
まるで、自分の手が、いまも空のどこかであの少女の背を押しているかのように。
階段を下りる足取りはいつになく軽やかだった。
長く消えなかった鈍い下腹部の痛みも、この瞬間ばかりは影を潜めていた。
それすらも、このふとした再会に導かれた奇跡かもしれない。
校舎の裏手へと向かう通路。石畳の階段をすり抜け、迷わず辿るように、グリフィンドールのクィディッチ生たちの待機所へ向かった。
懐かしい校内の、ほのかに湿った匂いのする空気。
風に揺れる塔の影。
すべてが、少女時代の感覚を呼び起こす。
やがてその小さな一角に、彼女の姿があった。
乱れた前髪、額の汗。
笑い声に包まれて、仲間に背中を叩かれるその姿。
勝者ではなかった。けれど、疲労の滲む顔には勝者以上の熱と誇りが確かにあった。
アランは、そこに静かに立った。
誰かに見られないような控えめな距離をとり、ただ、そっと名を呼んだ。
「……アリス」
その声音は、あの日あの夜、崩れた孤児院で声にならない想いを託したときと、少しも変わらぬ祈りに近かった。
少女がゆっくりと振り返る。
目が合った。
数秒の沈黙のなかに交わされたのは、言葉ではなかった。
救った命と、選ばれた今が、重なり合った表情だった。
アランの唇がわずかにふるえ、静かに微笑む。
胸の奥が熱を持って波打つように、やさしく、確かに感情がこぼれていく。
言葉はまだ、いらなかった。
けれど――逢えた。
命はこうして、また繋がっていた。
名前も、時間も越えて。
それだけで、心の奥があたたかく光に満たされていた。
その胸元、襟元から覗いた一筋の銀――
アランの視線が本能のようにそこに吸い寄せられた。
それは、間違いなかった。
シリウスから預かり、あの日あの夜にアリスへと託した、小さなペンダント。
星をかたどった繊細な細工。今もアリスの胸に揺れて、陽を受けて微かに光っている。
その瞬間、アランの視界が滲んだ。
何かが、胸の奥から崩れて、波のようにこみ上げてくる。
「……っ」
ひと粒、涙が落ちた。
感情の名をつけることもできないまま。
誇らしさと感謝と、救済のような安堵が、せきを切るように頬を濡らしていく。
アリスは目を大きく見開き、ほんの一瞬その場に立ち尽くしたあと、少女は声を上げた。
「アランさん!!!」
子どものころとまったく同じ、その呼び方。
声が裏返るほどの勢いと、限界まで走ってくるような速さで、アリスはアランに駆け寄ってきた。
アランは、ためらいもしなかった。
ただ両腕を、そっと――けれどしっかりと広げた。
そして次の瞬間、アリスの小さな身体が、その中に飛び込んできた。
「ああ……よかった…」
アランの口から漏れたのは、重ねた日々のどんな記憶よりも真実だった。
「……無事に、大きくなって……」
言いながら、涙が止まらなくなった。
何年も心の底に沈めていた思念が、名前をもって現実の中に形を持った瞬間だった。
もう二度と会えないかもしれないと思った。
どんな時間を生きてきたのか、知ることなんてできないと思っていた。
けれど今、こうしてその小さな命が、
明確に「生きている」と伝えてくれる。
迷うことなく自分の腕に飛び込んでくれた、その心が。
「アリス……ごめんなさい。ありがとう……それしか言えない……」
アリスはアランの裾にすがりながら、首を振った。
「ごめんなさいなんて、言わないで……助けてくれたのは、アランさん……だから私、ここにいるの……!」
ふるえる声が、重なって。
どちらが相手を抱きしめているのかも、わからないほどに、ふたりの心は重なっていった。
胸元で揺れるペンダントが、やさしくきらりと光る。
それは、過去と今を繋ぐしるし。
そして、ふたりの命が再び出会えた、この瞬間の――何より確かな証だった。
通路の奥。
未だ涙の止まらぬアリスを抱きしめたまま、アランは少女に額を寄せていた。温もりが腕の中に残る。それは、あの夜、命を懸けてこの子を逃したときには想像もできなかった未来の重みだった。
胸がいっぱいで、呼吸を整えることすら難しい。
こみ上げる想いが胸いっぱいに膨らみ、これ以上はもう受け止めきれないほどだった。
けれどそのとき――
誰よりも、懐かしい声がした。
「…… アラン」
振り返った。
一瞬、時間が溶けたように思った。
音も光も、すべてが遠のいて、ただその姿だけが、そこにあった。
シリウス・ブラック。
変わらない強さと、どこか無邪気なまなざし。
艶を取り戻した黒髪が風に揺れ、懐かしい空気をまとったその人が、静かに立っていた。
どこかで永遠に失ってしまったと思っていたその姿が、確かにそこにあった。
アランの胸を、何かが音を立てて崩れていく。
止めようとしても感情は溢れ、視界がゆらりと揺れる。
「シリウス……!」
名を呼ぶそれだけで、喉の奥がつまった。刹那のうちに、会いたかった感情が堰を切ったように流れ出す。
「ずっと……会いたかった……」
唇が震え、押し殺しきれない嗚咽が混じる声。
それでも脚が勝手に彼の方へと歩き出す。
腕の中のアリスでさえ、何も言わずそっと手をほどくようにアランから離れ、その背中を押すように彼女を解放してくれた。
次の瞬間には、アランはシリウスの胸の中にいた。
何も言わず、ただ強く、しっかりと抱きしめられる。
懐かしくて、あたたかくて、ひどく安心できる、その腕。
まるで、遠い昔の時間をすべて埋め戻してくれるような安堵。
その懐に涙をこぼしながら、アランは思った。
ああ――この瞬間を待っていたのだ、と。
この声を、触れ合う体温を、笑い合うこの再会を。
そして、その隣、少し距離を置いて見つめるアリス。
シリウスの横顔を見上げ、アランを見つめ、穏やかに笑って。
その姿は、愛の連鎖の真ん中にいた。
守りたかった命が、生きていて、笑っていて、
そして、かつての愛しい人と、ひとつ場所に立っている。
この再会は、孤独で戦った年月を照らす光だった。
それは、永く祈り続けた者にのみ与えられる幸福の、最も静かで美しいかたちだった。
細い光が差し込みはじめた城壁の隙間から、石畳に淡い金の影が落ちていた。クィディッチの試合が終わったあとのホグワーツの片隅、すでに喧騒の消えた通路の一角に、アランとシリウスの姿があった。
あいまいな夢のなかのようだった。
目の前に立つ彼の姿──
過去をともに歩き、そして交わらぬ道を選んだはずの、いまはもう「記憶のなかのひと」。
けれどその気配はいつもと変わらず確かなぬくもりを宿していて、アランの心の奥に、深く、やさしく染み込んでいく。
アランは大きく息を吸い、胸にある言葉のすべてをまっすぐに届けるように、静かに口を開いた。
「あの子を……アリスを、あんなにも立派に育ててくださって、本当に……ありがとう。」
声が震えないようにと努めていたが、あふれる思いは言葉のすぐ下にあった。
口にしてしまえば、崩れてしまいそうだったそれを、それでもどうしても伝えたかった。
「私には……あの子の人生に寄り添っていくことは出来なかった。でも、そうできてよかった。あなたで、本当によかったの」
シリウスは、静かな笑みを浮かべて立っていた。
その表情は、かつての無邪気で荒っぽい彼ではない。
幾多の時間と責務と思いを抱えて歩いてきた大人のまなざしだった。
「君から……アリスを託されたあのときから、ずっと……言葉にはできない感情があったんだ」
彼の声は穏やかで、どこか遠くから降る雨のように優しく響いた。
「俺は、彼女をひとりの娘として育ててきた。だけどね……アリスを抱きしめるたび、話を聞くたび、思ってしまっていた。アラン ──きみといっしょに育てているような気がしていたんだ」
その一言が、アランのなかに静かに火を灯した。
胸がつまった。鼓動が一際強く鳴る。
目尻に溜まっていた涙が、とうとう音もなくこぼれ落ちた。
「……ありがとう、シリウス……」
息を呑むように言葉が降り、声にならない思いが震えた指先に宿る。
視界の先には、少し離れてこちらを見守るように立っているアリスの姿。
あどけなさと凛とした強さを併せ持つその眼差しに、かつての夢のすべてが宿っている。
叶わなかった未来。
けれど、たしかにここにあった。
この少女の人生を通して、それはかたちを変えて、現実となっていた。
シリウスと共に歩いてきた心が、彼女の成長を支え、導いてきた。
この胸の痛みも、後悔も、優しさもすべて――
遠まわしな形で、彼女の人生に流れ、根を張り、花を咲かせていたのだ。
「アリスは……私の誇りなの。あなたの誇りである様に。私の、心の一部だったもの……それが今もこうして、生きていてくれるの」
アランの声はもう震えていなかった。
クィディッチの歓声も、人々の目も届かぬこの静かな場所で、
二人の過去と未来が、確かにひとつの線で結ばれていた。
淡い風が三人のあいだをそっと撫で、
空は少しずつ、春の色を増していく。
その瞬間、アランは思った。
これはきっと、失われたものではなく――
時を越えてようやく辿りついた、新たな始まりなのだと。
観客席には熱気と喧騒がまだ漂っていた。
試合の余韻も冷めやらぬ中、レギュラスはどこか抜け殻のような静けさで自席に座っていた。グラウンドの青空に歓声と色が渦巻く中、彼の中でだけ、ぴたりと冷たいものが広がっていく。
アランの様子には最初から気づいていた。
向けられるはずだったまなざしが、マルフォイ家の息子ではなく、あの“マグルの女”――アリス・ブラックへ確かに吸い寄せられていたことも。
いかにも、それが自然であるかのように振る舞っているそのしぐさも、レギュラスにとってはもはや滑稽なほど白々しく映った。
そして会場内のざわめきのなか、シリウス・ブラックがこの試合にアリスの保護者として来ている――という知らせが耳に届いた瞬間、
胸に燻っていた疑念が、確信へと鮮烈に変わる。
(アランは奴らと、どこかで必ず交わっている)
怒りが、じわじわと身体の奥から湧き上がってくる。
本来ならば、マルフォイ家のシーカーの活躍を寿ぐためにここに足を運んだはずだった。それなのに、
あのマグルの女がいることで、アランはすべてを忘れたようにそちらへ心を囚われてしまった――。
耐え難い裏切り。
血筋も、家も、自分自身も、何ひとつ見えていないかのようなアランの姿が、何よりも憎らしかった。
レギュラスは静かに、しかし決然と席を立つ。
外套の襟元を整えながら、周囲の鳴りやまぬ歓声をすり抜けて、ゆっくりと歩く。
貴族たちの輪をさっと抜け、マルフォイ家の親族に儀礼的な微笑みを向け、
「お祝い申し上げます、素晴らしい走りでした」と簡素に告げる。
しかし、その声に温もりはない。
ただ、形式と礼儀を守るための絹のような冷たさだった。
マルフォイ家の誰かが何かを言いかけたが、レギュラスは深く頭を下げるだけで足を止めず、そのまま背を向けた。
心は一点、今や探さなければいけないアランのもとへと向かっていた。
廊下の隅々、観客席の影――
レギュラスの足音は静かだったが、その眼差しの奥には怒りと苛立ちが濃く宿っている。
彼の胸の奥の声は誰にも届かない。
けれどその歩幅は、氷の刃のように正確で、獲物を狩る獣のように静かにアランの影を追っていた。
歓声も祝福も溶けて消えていくなかで、レギュラスの心だけが、行き場のない痛みと怒りに染まっていく――
その姿は、祝賀の熱とは裏腹に、どこまでも冷たく孤独な影を伸ばしていた。
薄曇りの空の下、ホグワーツのクィディッチスタジアムの裏手、
グリフィンドール専用の控え室を囲む古い石塀のさらに奥――
もともとスリザリンに属していた者であれば、足を踏み入れる理由すらないような、その場所で。
レギュラス・ブラックは、静かに足を止めた。
靴が石畳を擦る音も冷え切っていて、腕にかけたローブの端からさえ、冷気のような怒気が滲んでいた。
彼の視線の先――そこにいたのは、まぎれもなくアランだった。
やわらかなショールを肩にかけ、優しく穏やかに微笑むその人の傍らに、レギュラスが決して受け入れることのなかった存在が、ふたり。
ひとりはあのマグルの女――アリス・ブラック。
そしてもうひとりは、忌まわしき兄、シリウス・ブラック。
その場は、まるで絵画から切り取られたように静かで、あたたかでさえあった。
彼女が少女の手を取り、言葉を交わし、シリウスがそれを見守っている。
まるで、家族のように。
レギュラスの胸の奥では、何かが鋭く軋む音を立てていた。
この場所がダンブルドアの保護結界の内側でさえなければ――
そう思ったその瞬間に、冷酷な想像が脳裏を過ぎる。
自分のためだけでなく、ブラック家の名のために。
死の呪文を、そのマグルの少女へと投げかけていたかもしれない……
それでも、拳を解いたレギュラスは、精一杯の冷静を装って口を開いた。
「アラン――感心できませんね」
声は硬く、低く、氷のように澄んでいた。
アランが驚いたように振り向く。
彼女の目元に宿るのは、困惑と怯え、そしてどこか、
――どこか後ろめたさのような、読めない揺らぎだった。
「……レギュラス……」
掠れるような声が漏れたが、それ以上の言葉は出なかった。
代わりに一歩、前に出たのはシリウスだった。
彼の動きは速くもなく、強引でもなかった。
けれど確かに、アリスの前へと、守るように身を差し出す。
その眼差しは、かつて兄として笑った日々から遠く離れ、険しさのなかに微かな痛みすら滲んでいた。
「あいかわらずだな、弟。冷たい言葉の裏に、何を隠してる?」
そう言いかけたその声に、レギュラスは表情ひとつ動かさずまっすぐ見返した。
アリスはシリウスの背に隠れるように立っていた。
だけど、怯えては見えなかった。
まっすぐな瞳。
命を守られ、愛されて育った子の、曇りなき光。
それが、何よりレギュラスの怒りを掻き立てた。
だれの許しで、マグルの女がブラックの名を背負い、
アランがその存在に微笑み、目を細め、許してしまっているのか。
その過ちを「心の綻び」と言うには、あまりにも愚かで、あまりにも深すぎる。
風が通り過ぎるたび、レギュラスの外套がかすかに揺れた。
その沈黙は、氷よりも鋭かった。
アランはようやく小さな声で言った。
「……話をしていただけよ。久しぶりだったから。それだけなの……」
レギュラスは短く息をつき、氷のような瞳の奥で何かを刻むように、アランだけを静かに見た。
その視線には、問いも詮索も、罵倒もなかった。
ただ、失望と哀しみによく似た、決壊の手前の沈黙があった。
――もう、戻れないところまで来ている。
そんな予感が、アランの胸をひりつかせていた。
そしてそれは、音もなく三人の空間を裂いていく、見えない境界線のように漂っていた。
風が静かに石畳を撫で、ホグワーツのクィディッチ・スタジアム裏の小径にひとときの沈黙が降りていた。遮るもののない空のもと、冷たい空気だけが、言葉の代わりにその場を支配している。
レギュラス・ブラックは、無言のままアランの手を取り、その場を去ろうとしていた。
その掌には有無を言わせぬ力が込められており、アランは少し戸惑いながらも逆らうことはなかった。
しかし、背中越しに届いた声が、その動きを断ち切った。
「アランさん――また、お目にかかりたいです!」
澄んだ声だった。若さとまっすぐさ。恐れも、作為もない子どものような透明な響き。
レギュラスの足が止まる。
その言葉の余韻が風に溶けて消えるより早く、彼の唇に薄く冷笑が浮かぶ。
――鼻で笑いたくなるとはまさにこのことだった。
どの口で言うのか。
妻に、ブラック家の名を正当に継ぐ女に、あのような言葉をかけるとは――
己の分を知らぬ、哀れな存在。
“何者であるのか”さえ分からぬまま、無邪気に踏み越えてくる無知な足。
レギュラスはゆっくりとアランの手を離し、静かに振り返った。
「……アリス、と言いましたね」
その声は低く、よく磨かれた刃のような静けさを帯びていた。
名を呼ばれた少女――アリス・ブラックは、シリウスの背から一歩だけ前へ出た。
瞳を逸らさず、まっすぐレギュラスを見つめていた。
その目に、怯えはなかった。いや、怯えを知らないのだ、とレギュラスは悟った。
それを「強さ」と錯覚する者もいるかもしれない。
だが、彼にとってそれは、ただの無知でしかなかった。
その眼差しの奥に何があろうと――それは力ではない。
シリウス・ブラックという名の庇護の下で、守られ、育てられ、真実に触れぬまま育った、幼く脆い幻想に過ぎない。
過ちを犯しながら誇りを語り、家の名をかたる者。
そんな存在が、今、自分の目の前で“ブラック”を名乗っている。
虫唾が走るとはこのことだ。
レギュラスは一歩前に出て、アリスにまっすぐ向き直った。
その瞳にはあらゆる感情が閉じ込められていた。ただ、冷たい炎のような光だけが静かに揺れている。
「ひとつ、忠告をしておきましょう」
その声音は、紳士的な仮面を纏いながらも、一言ひとことに鉄の重みを含ませて続く。
「あなたが“ブラック”の名を背負うこと――それは、ただの名前では終わりません」
無知な少女の胸に届くとは限らないと知りながら、それでも刻みつけるように、言葉が滴るように続く。
「その名に染められた血には、誇りと責務、そして歴史があります。
あなたにそのすべてを知る覚悟があるとは、到底、思えません」
「……軽々しく名乗れば、自分の身を灼く日が来る――そのことだけは、覚えておくといい」
アリスは言葉を失ったように立ち尽くしていた。
彼女をかばうように、シリウスがさらに一歩前へ出ようとしたが、レギュラスはその動きさえも見ていないようだった。
振り向くと、アランのほうへと歩みを戻す。
口を挟む余地を誰にも与えなかった。
その背に、誰かの伯父としての情などはなかった。
あるのは、家の名を穢されることを拒む誇りと、不寛容な冷酷さだけ。
アランは何も言えず立ち尽くしていた。
ただ、遠くで風が枝を鳴らしている音だけが、世界に残されていた。
