2章
name設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝の屋敷には、ゆっくりと立ち上がる陽光が届きはじめていた。
薄いカーテン越しに射す光が、化粧鏡の上に置かれた粉の粒子を柔らかく照らし、静かな空間を霞ませている。
アランは鏡の前で、指先に残ったファンデーションをそっと頬へ滑らせていた。月影のようにやわらかく肌へ溶けてゆく粉の感触を、意図的に何度も重ねる。
痛みは、変わらずその奥にあった。
けれど、今日はそれを見せたくなかった。
それと──
「見透かされたく、なかった」のだ。
目元にはいつもより深い影を入れた。
唇はほんの少し、赤みを濃くした。
鏡の中の自分が“いつものアラン”を保っていると確認すると、ようやく、椅子を引いてそっと立ち上がった。
朝の食卓には、既に小さな音がいくつか流れていた。陶器の当たる静かな音、紅茶が注がれる細い流れの音。そしてそれらのさざめきの中に混じって、レギュラスの足音が響く。
彼は、扉の向こうから現れると、すぐにアランへと視線を向けた。
その一瞬の、わずかに目を見開く表情。
アランにはそれで十分わかった。
“気づかれた”。
けれど、すぐに笑みをつくる。
「たまにはこういう気分なの」
窓から差し込む光が頬に当たり、パウダーの粒が不自然に薄く浮いているかもしれない。それを意識しながらも、アランはあくまで淡く、自然に笑って言った。
「ほら、春も近いし。少し明るい顔になれる気がして。」
心では、何もかも逆だった。
けれどそれでも、口に出した言葉は、ただの“気まぐれ”として整えられていた。
レギュラスは、といえば。
彼は何も言わず、そのままふわりとアランを見つめた。
少し長く、まなざしを沈め、感情を込めすぎないようにするひと呼吸の間。けれど、その目は疑ってなどいなかった。
そして、静かに微笑む。
「綺麗ですね、アラン。」
その一言は、飾り気なく、まっすぐだった。
アランの胸が、ふっと揺れた。
疑念がない――少なくとも、いまのところは。
彼の観察力を知っているからこそ、それをごまかせたことに、思わず心の奥で安堵の色が広がる。
――ありがとう、気づかないでくれて。
心の中で、誰に向けるでもなくそう呟く。
本当は、顔色をごまかすために塗ったこの色彩すら、いつもより少しの嘘に見えて、自分自身が悲しかった。
でも今だけは。その「整えられた嘘の顔」が効力を持ち、問いを逸らしたことが、何より救いだった。
朝の光がテーブルを優しく照らし、淡い化粧の上を滑る。
アランはレギュラスの隣に静かに腰を下ろし、微笑みを崩さないまま、静けさの中に身を沈めていった。
ほんの少しだけ、息を吐きながら。
演じる静穏の中で――今日も、またひとつ何かをやりすごした、と。
その日の朝、食卓に運ばれた新聞を開いた瞬間、アランの指先がぴたりと止まった。
一面を鮮やかに飾った見出しと共に、写真がひとつ載っていた。
それは信じがたいほど穏やかで、あたたかさに満ちた光景だった。
『不死鳥の騎士団 シリウス・ブラック、マグルの少女と暮らし始める ──保護から養子縁組へ』
白黒の写真の中、シリウスが静かに笑っていた。
隣には、年の頃10歳ほどの少女。手をつないで、街角のカフェの前に立つふたり。
ほのかに風の吹く中、少女の髪が揺れて、彼女が口元を緩めたタイミングで写真が切り取られている。
鼻筋の通った優しい顔立ち、その目にはきらきらと光が宿っていた。
アランの胸の奥に、ふっ、と何かが灯った音がした。
――アリス。
記憶の中の小さな手が、今はもうこんなにも大きくなり、
「守られる子ども」ではなく、言葉を持ち、夢を持って歩む命として、この世界のどこかで生きている。
アランは、目の前の文字を何度もなぞった。
「養子」「保護」「不死鳥の騎士団の一員と共に新生活」
そのひとつひとつが、遠いようでいて、確かに自分の過去とつながっていた。
そして、あの夜が胸の奥にゆっくりとよみがえる。
雨が降る孤児院、焼け焦げたカーテン、震える少女の肩。
アランの震える手。
「行きなさい」と言った、それがどれほど切なく、守りたかったか。
その先の未来など保証できなかった。それでも、信じたかった。
「彼ならきっと守ってくれる」と送り出した、灯を託したその人の腕の中で、
彼女は今、静かに笑っている。
胸が、満たされるような気がした。
これは、自分では果たせなかった選択。
足を踏み出すことができなかった未来。
それをシリウスと、あの少女が――続けてくれている。
きっとこのふたりは、なにか変える気がする。
同じ志を持ち、決して多くを語らずとも、おそらく自然にお互いの存在が“答え”になるような。
かつて自分が踏みそこねた道を――まっすぐ歩いていくふたり。
アランは、そっと新聞を閉じた。
指先に残るインクの匂いが愛おしかった。
春の陽ざしが窓から差し込み、机の上に淡く揺れる。
心の奥ではまだ疼くものがある。
この家での役目、重圧、削れてゆく自分、それでも守らねばならないアルタイル。
“誇り高い妻”としての役目は、たやすく手放すことは許されない。
だけれど、その不自由な場所でも、
「救いが存在している」ことを、この朝は教えてくれた。
だからこそ、今この瞬間だけは――
アリスの笑顔を、そっと心の灯火のように胸にしまって、
アランは静かに、目元を緩めた。
誰にも気づかれない、ほのかな安堵を込めて。
それは、確かに希望だった。
声に出さずとも、「まだ世界は終わっていない」と小さくささやいてくれるような、一縷の光だった。
春の雨が降り出しそうな、重たい曇り空の下――
ブラック家の屋敷はいつになく静まり返っていた。
使用人たちの足音さえ遠慮がちに響く中、アランは何も言わず、ただそっと静寂のなかに身を置いていた。
隣室から聞こえる激しい物音。
書斎の扉の向こう、誰の目も届かぬその部屋で、レギュラスは荒れ狂うように感情をぶつけていた。
やがて、書棚のなかで崩れる本の音。
ペン立てがひっくり返る高い破裂音。
何かが壁に叩きつけられ、乾いた衝撃音を立てて砕けた。
アランは、そのどれにも顔をしかめなかった。
恐れよりも、ただ深く張りつめた緊張が、胸の奥にじわじわと篭っていく。
きっかけは、今朝の新聞だった。
一面を飾る、その写真。
――シリウス・ブラック、マグル生まれの少女アリスを養子に。
彼女がブラックの姓を名乗り、一緒にその家名を掲げているという事実。
アランにとっては、たしかに安堵であり、満たされる喜びだった。
あの夜、命がけで逃した少女が、大切な人の隣で、未来へと繋がる位置に立っているという事実。
けれど。
それは同時に、ブラック家の名の上にマグルの血が刻まれた瞬間でもあった。
レギュラスにとってそれは――
「家そのものの否定」とも等しかった。
家系図に刻まれる名というものがどれほどの重みを持つのか、アランは十分すぎるほど知っていた。
誇り、血統、系図、清浄。
すべてが正しく継がれてこそ、意味があると教え込まれてきた一族。
シリウス自身はもう“勘当された者”である。
けれど、それでも姓の名残だけは、こうして“マグルの少女の名”とともに、世の目に晒されてしまった。
それは、レギュラス――いいえ、ヴァルブルガやオリオンを含めた一族全体への“冒涜”であると、世間には映るだろう。
だからこそ。
あのとき何も言えなかったアランは、今も、ただ黙っていた。
書斎の前の廊下に立ち尽くし、扉の向こうにぶつけられる怒気を、何も遮らず受け続けていた。
影のように並ぶ肖像画たちの視線が、ひときわ静けさを強調している。
何を言えばいいのか分からなかった。
「ほっとした」とか、「よかった」とか――そんな言葉は、あまりにも彼を逆撫でするだろう。
触れれば裂けるような沈黙。
怒りの在り処を抱えきれず、ただ狂おしさに身を震わせるレギュラスの背中を想像するだけで、アランの喉の奥が細く閉ざされた。
言葉はなかった。
でも、もし一つ差し出せたなら、きっとその言葉は――
「ごめんなさい」でも「どうか落ち着いて」でもなく、
ただ――私は、それでも守りたかっただけだった。
でも、その言葉は飲み込んだまま。
アランは静かに、扉を見つめ続けていた。
何も告げられず、何も許されず、それでも――
最初から“覚悟していた選択”を、静かに胸に抱きながら。
書斎の扉は重く閉ざされたままだった。
カーテンが引かれた部屋の中、陽の光は届かず、ランプの小さな灯だけが静かに揺れている。空気はまるで色を失ったかのように冷えており、積まれた書物の影が床に深く沈んでいた。
机の上に放り出された新聞の一面。
『不死鳥の騎士団・シリウス・ブラック、マグルの少女を養子に――新たなる”家族”のかたち』
その見出しを、レギュラスは何度目かわからないほど読み返していた。
読み返すたび、胸の中心にある何かがじくじくと焼け落ちてゆく。
口元をきつく結び、椅子の背に深く身を沈めては、こみ上げてくる怒りで背筋を起こす。
呼吸が浅くなる。思考がせり上がる。
レギュラスの中で、何かが途方もなく崩れつつあった。
シリウスはもう“ブラック家の人間”ではない。
堂々と燃え盛る炎のなかで家系図から焼き払われ、二度と口に出されることすら拒まれた存在だ。
だが、それは形式上の話だ。
シリウスという存在が、「兄」という位置にあり、
まぎれもなく自分と同じ〈ブラック〉という名を持つ家から生まれ落ちたひとであったという事実は、
誰がどう足掻いても消え去りはしない。
そして、その彼が――
マグルの少女を、家族にした。
「……ブラックの名を、あの少女に?」
その事実にようやく気づいたとき、レギュラスの眉間には深く怒りの皺が刻まれていた。
新聞に映った少女を見て、アランが何かに安堵した表情を浮かべていたのも、はっきりと覚えている。
微かに、嬉しそうにさえ見えた。
まるで“あれで良かった”とでも言うように。
嗚呼、赦せぬ。
――アルタイルが、「姉」を持つことになると?
あの少女が「同じ姓」を名乗ることになると?
曇りのない未来を誓い、
選び、護り通してきた我が子に――
マグルの血の名残が、肉親という肩書で付き添うことになる?
それは、この家にとって、ただの混乱ではなかった。
汚点だった。
「血」と「誇り」を頂点に掲げるこの家において、
名こそがすべてであり、
称号こそが家の意思である。
そして、“ブラック”という名前には、
命よりも重たい意味があった。
レギュラスは立ち上がり、机の上のインク壺を払い落とした。
黒いしぶきが飛び散り、白木の床に冷たく跳ねた音がした。
次に、隅に置かれていた椅子がひっくり返され、重い空気のなかを削るように響いた。
何もかもが、耐え難かった。
あの兄が、すべてを踏みにじるように“新しい家族”と笑った顔。
その横でこちらをなじるでもなく、慈しまれるように見上げる少女――あの目が、自分にとっては「贖罪に許された存在」などではなく、
ただ、血の「境界を超えさせてしまった存在」としか映らなかった。
アルタイルは、違うのだ。
あの子にだけは、疑いの余地のない純血の系譜を――
一筋の影も落とさぬまま光のもとを歩かせようと、
どれだけの覚悟で、アランと共にそれを積み上げてきたか。
それなのに。
“姉がマグル”と、誰かに囁かれる程度のことで――
友人を、血筋を、家を選び伝えたこの子の未来に、
この名が呪いになってしまうのならば――
「……シリウス……!」
声にならぬ怒りが、喉の奥で噛み殺される。
燃えるような怒りはすでに言葉という形を超えていて、
ただ目の奥に残されるのは、兄に対するどうしようもない裏切りの記憶だった。
書斎の扉を叩くように閉じ、レギュラスはその場に立ち尽くしたまま、
何も言わず、身じろぎもせず、ただ重く沈んでいく感情の渦にひたすら堪えていた。
そしてその間近で、扉の向こうに立っていたアランは――
何も、言葉を持たなかった。
とても届かないと、分かっていた。
気安い慰めも、理の正しさも、
今この瞬間の彼には、何一つ届きはしない。
だから、沈黙のまま、
ただ深く小さく、レギュラスの怒りを胸の内で受け止めるしかなかったのだった。
書斎の扉は、いつにも増して重く感じられた。
アランはゆっくりとその扉に手をかけ、音を立てぬように、静かに中へと足を踏み入れた。
そこは……言葉も出ないほど、荒れていた。
砕け散ったガラスの破片が床を覆い、書物は頁を開いたまま無残に散らばっている。
机の端は浅くひび割れ、倒れた椅子の脚には魔法の焦げ跡のような黒い爪痕が小さく残っていた。まるで、嵐が通り過ぎたあとのようだった。
アランは何も言わず、ゆっくりと腰を落とすように両手を動かした。
ひとつひとつ、壊れたものを魔法で直していく。
散らばった書物を拾い、積み上げ、落ちた羽根ペンを硝子のインク壺のそばに戻し、
ほこりの立ったカーペットをひと撫でして、元の整った姿に戻した。
音はなかった。ただ彼女の魔法と衣のかすかな動きだけが、部屋の空白を埋めるようにそっと流れていた。
静かな作業のなかで、レギュラスは窓際の椅子から一度も動いていなかった。
腰掛け、うつむき、拳を握ったまま、まるで自分の中に怒りの残り火すべてを閉じ込めてでもいるかのようだった。
やがて、書斎がもとの秩序を取り戻し、
アランはそっとレギュラスのそばへと歩み寄った。
側に立つだけで、彼の張り詰めた気配が肌に触れるように伝わってくる。
まるで硝子のようだった。また割れるのでは、とすら思えた。
そして、彼は沈黙を破った。
「――満足ですか。」
声は低く抑えられ、それでもその先に続いた言葉には、鋭く冷えた棘が含まれていた。
「シリウスに、マグルの子供をあてがって。」
アランの身体がほんのわずか揺れた。
振りかざされたような語調ではなかった。
それでも、それは明確に彼女に向けた刃だった。
静かに、しかし確かに「お前がその手引きをしたのだ」と看做す声だった。
アランは何も答えなかった。
すぐには、答えることができなかった。
ゆっくりと目を伏せる。
怒りを正面から受け止めるには、あまりにもその痛みが深すぎた。
責めを受ける覚悟はあった。
けれど、こうして彼の口から出たその言葉が、自分の胸の奥をこれほどにも締めつけるとは思っていなかった。
数拍の沈黙のあと、アランはやっと顔を上げた。
「……彼女を、見捨てることができなかった。それだけです。」
声は震えてはいなかった。けれど、その中にははっきりと後悔と祈りが滲んでいた。
選びたくて選んだのではない。助けたくて、助けただけ。
そして――そう言えば言うほど、罪になると分かっていた。
けれどレギュラスは、すぐには返事をしなかった。
ただ黙って、遠くどこかを見つめるようにゆっくりと視線をずらした。
アランはその横顔の硬さを見つめながら、きゅっと胸の奥を締めつけられたような思いに駆られた。
彼にとって、「血」とは名前でも、立場でも、記号ではなかった。
それは彼自身であり、誇りであり、未来そのものだった。
そこに――自分が、許してしまった“例外”が入り込んでしまった。
それを傷つけたと思われるのなら、アランは何も言い返せなかった。
ただ、壊れていたものを直したように、いつかふたりのあいだに壊れたものも、少しでも元に戻せる日が来ることを祈るだけだった。
再び部屋に沈黙が降りる。
とても、永い沈黙だった。
けれど、その沈黙のなかでさえ、アランは彼のすぐそばに立ち続けた。
それが、どんなに遠く思えても、
それでもまだ――心を置き去りにしたくなかったから。
書斎の灯はまだ落とされないまま、夕刻をとうに過ぎた静寂の中、薄く燃える炉の残り火が、棚に並んだ書物の背を橙色に染めていた。
レギュラスの背は硬直し、椅子の肘掛にかけた指先には、無意識のほどの力が込められていた。視線は何もない空間をまっすぐに見つめている。けれどその瞳は燃えるようだった。
「アルタイルは……」
声は乾いていた。
それでも吐き出すように、かすかに笑みを混じえて続いた。
「…あの子は、“マグルの女”を『姉』と呼ばねばならないんですよ?」
軽く嗤うようなその口調が部屋の空気を裂く。
笑みの裏には冷えた嫌悪と、ある種の絶望が色濃くにじんでいた。
耐えがたく、情け容赦もない、断絶のことばだった。
アランは、そのことばを正面から受け止めた。
胸が痛んだ。
たしかに、母として、妻として、この家に在って今日まで選び続けてきた選択のすべてに、矛盾がないとは言い切れなかった。
でも――この言葉だけは、どうしても聞き流せなかった。
静かに口を開く。
「レギュラス…」
声は震えていなかった。けれど隠しきれない切実さが、微かに空気を揺らす。
視線を彼の背に預けながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は、アルタイルには……マグルだとか、純血だとか、そんな“生まれ”だけで他人をはかるような人には育ってほしくないの。」
石が落ちるように、言葉は低く、しかし確かに届く温度で部屋に置かれた。
「もっと――それを超えるもの。
心とか、目の前にいる存在そのものを、大切にできるひとに……
私は、そのほうが、アルタイルにとって幸せだと信じてる。」
それは、言い淀みもない本心だった。
偽りのない声。
世間体でも家のためでもない、自らの奥底から引き上げてきた祈りのような言葉だった。
レギュラスは、振り向かなかった。
静かだった。
肩を落とした後ろ姿は、揺れてすらいなかった。
けれど、アランには分かっていた。
彼の沈黙は、聞こえていないせいではない。
理解できないと決めつけたものでもない。
ただ、その価値観を飲み込むには、長い年月と流れた血の重さが、彼の肩の上に存在してしまっているから。
アランの言葉は、刃ではなかった。
罰でも、理想でもなかった。
けれど、いまのレギュラスにとってそれは、「赦しがたい美しさ」だった。
だから彼は何も言わなかった。
その沈黙に押しつぶされそうになりながらも、アランは黙って彼の隣に立ち続ける。
言葉を重ねる代わりに、ただその場に在ることで、彼の心の奥に届く何かが残ることを――ただ、祈るように願っていた。
午後の光が庭の草花をやわらかく照らしていた。風は穏やかにレースのカーテンを揺らし、屋敷の中にも外の季節が微かに香った。そんな静かな空気の中で、アランはサロンの椅子に腰をおろし、窓越しに視線を落としていた。
視線の先――小さな足どりが、よたよたと芝生の上を進んでいく。
アルタイルだった。
青い刺繍の入った小さなローブを着て、陽ざしのなかをゆっくりと歩き回っている。
ときおり、ふらりと転びそうになりながらも、自分の足で立ち上がり、また一歩。
その姿は、まるで人生という名の航海を、一人で始めようとしているようだった。
アランは、思わず両手に力を込めた。
けれど、椅子から立ち上がることはしなかった。
いや、できなかった――正確には。
産後の身体にずっと残る痛みは、時の経過とともにやわらいではきたものの、芯の奥に根を張るような感覚だけがどうしても抜けきれなかった。
少しきつく腰をひねれば、下腹に波のように鈍い痛みが染み出してくる。
足取りが不安定になれば、すぐに脈打つように痛みが走る。
――追えない。
アルタイルの小さな背が、少しずつ遠ざかっていくにつれ、アランの胸の中にそっと冷たい空気が落ちてくる。
あのちいさな手を、かつては抱きしめるだけで、自分の一部のように感じていた。
母であることに満たされ、きらきらとした乳児期の喜びの中で、まだ未熟な自分を許してもらえていた。
けれど今、彼はひとりで立ち、歩きはじめている。
その成長が誇らしいはずなのに、アランの目に映るその歩みが、なんだか悲しくて、寂しかった。
「…こうして、どんどん手が離れていくのね」
囁くように零したが、それは誰に向けたものでもなかった。
ただ、風に紛れてしまいそうなほど小さな独白。
どうか、この歩みが
この小さな背中が
いつか世界に羽ばたく日が来ても――
その先にある道が、
やさしさと希望に満ちたものでありますように。
遠くから「まま」と呼ぶ小さな声が響く。
アランは微笑んだ。
立ち上がれはしなかったが、胸の中にだけは確かに、しっかりと彼の名前を抱きしめていた。
屋敷の深い天井を照らすシャンデリアには、ひとつひとつの灯りがつけられていた。光が重厚なカーテンに滲み、磨かれた床に金色の斑模様を描き出している。
まもなく――アルタイルの一歳を祝う祝賀会が、この屋敷で盛大に催される。
純血の血統を継いだ男児として、そして久々に世に誕生した次代の“ブラック家”を背負う存在として、アルタイルの無事な成長は、一族の名誉の象徴として捉えられていた。
レギュラス、オリオン、ヴァルブルガはどこか誇らしげで、準備にも余念がなかった。
けれど、アランの心は、静かに揺れていた。
暖炉の前、一枚の淡いドレスにそっと指を滑らせる。
絹と銀糸の織り込まれたその衣は、意図せず彼女の繊細な輪郭を際立たせる。
それは屋敷の期待と、客人たちの視線に晒されるための“装い”だった。
ふと鏡越しに映る自分の顔を見る。輪郭はやや細く、大きな瞳の奥には、うすく張り詰めた影が揺れていた。
──もう、どれくらいぶりなのだろう。
こうして人前に“ひとりの女”として立つのは。
華やかな宴、交わされる敬意と評価、漂う競争と監視――
屋敷という檻のなかで、母となり、妻としての役割に沈み続けていた日々のなか、そうした“世界”には遠ざかっていた。
それでも――
アルタイルのための夜。
息子の初めての節目を、きちんと胸を張って見届けたい。
彼の未来に初めて灯る祝福の光に、自分も微笑みたいと願っている。
だからこそ、どこか構えてしまうのだ。
「……きっと大丈夫」
自分に言い聞かせるように、声にならない言葉が、喉の奥でそっとほどけた。
身体の奥底にまだ時折疼く産後の名残も、昨夜の夢に見た心の傷跡も、この場には連れていかない。
ただ、母として、アルタイルの傍らに静かに立とう。
それができれば、それだけでいい。
遠くからグラスの音が響いた。
使用人の笑い声、飾り付けを整えるために動き回る人々の足音。
すべてが、やがて訪れるその「ひととき」へと繋がっていた。
アランは、窓辺をそっと振り返る。
夕暮れが色を溶かしはじめる空の向こうに、小さな星がひとつだけ瞬いていた。
希望ではない。
けれど、たしかに――
それは「光」だった。
祝賀の夜、屋敷は黄金に沈んでいた。
煌びやかな天蓋の下、灯されたシャンデリアの光が、あらゆる装飾の輪郭をやわらかくなぞる。
アルタイルの一歳を祝うこの夜、ブラック家の宴はかつてないほど華やかで――そして、格式の重みに満ちていた。
客人たちが流れるような黒と銀のローブに身を包み、グラスを傾ける中で、レギュラスの目は一人の女性から逸れることがなかった。
アラン。
階段からゆっくりと姿をあらわした時、その場に微かなざわめきが起きたのを、レギュラスは静かに聞いていた。
「まったく変わらない」
「美しい…相変わらずね」
「まるで、時間に傷つけられない方のようだ」
そう囁かれる声が次々とアランを包み、それが今夜の空気にやわらかな香のように漂っている。
レギュラスはその言葉に、どこか誇らしさを覚えていた。
――自分が守ってきた人なのだと。
この夜、その美しさが誰の目にも映ったことが、確かに誇りだった。
けれど、その胸の奥には、もう一つの想いが潜んでいた。
落ちきらぬ影のように、どうしても離れない鈍い不安。
まとったドレスの裾を揺らしながら歩くアランはたしかに美しかった。
首筋を飾る宝石。絹のように撫でられた髪。
微笑みの角度、差し出される手、礼節を忘れぬ立ち居振る舞い……
けれどそのすべてが、時折、レギュラスには――脆くて、危うかった。
細くなった肩。
隠し切れない、瞬間だけ動きの鈍る腰元。
目を伏せるひと瞬きの合間に、わずかににじむ疲労の影。
(本人は隠しているつもりなのだろう。)
そう理解していた。
けれど、レギュラスにはわかるのだ。
微細な変化を読み取ることにかけて、自分以上にアランを見てきた者はいない。
彼女の痛みは、もうただの産後の名残ではなかった。
医者にも何人も見せた。
血液も内臓も、診断において“大きな異常は見当たらない”の一点張り。
けれど……治らない。回復しない。
体に残り続ける疲弊。中から蝕まれているような黒い痛み。
彼女は弱音を吐かない。
けれど、レギュラスにはわかっていた。
だからこそアランが、美しく着飾っている時ほど――壊れるのではないかと、怖くなるのだった。
笑っている背に、ひびが見える。
抱きしめたとき、その体温が、自分の想像よりもずっと薄く感じられることがある。
そして、もう一つの恐れがあった。
もし、このことがヴァルブルガあるいはオリオンの耳に入ったら。
アランは、欠けたものとして見做されるかもしれない。
再び傷が開く女、治癒しない器として、まるで一族に背を向ける者のように語られるかもしれない。
――その屈辱を、彼女には絶対に味わわせたくなかった。
だから、黙っていた。
誰にも話さない。
アランが今も「無垢な美しき妻」として語られるよう、守る。遮る。
そのためなら、どれほどでも苦悩に付き合ってやる、と腹を括っていた。
(あなたさえ、笑って立っていてくれるのなら。)
レギュラスはグラスを持つ指先に力を込める。
その眼差しの先で、アランが遠く客人の輪のなかにいる。
彼女の存在は、幻のように気高く、澄んでいて、そして……ひどく儚かった。
この世でいちばん壊しがたい宝石を、いま自分は預かっているかのようだと、腕の奥が震える。
微笑みの裏に張りつめている彼女の痛みに、いつか名を与えられる日が来てほしい。
――この夜、ただ祈るような想いで、その姿を見つめていた。
祝賀の夜はゆっくりと深まり、天井の高い広間には金のシャンデリアが柔らかな光を放っていた。それらが磨き込まれた床やグラスの表面に反射して、室内全体を淡い星のように照らしている。
賓客はグラスを掲げ、アルタイルのはじめての一歳を祝って、それぞれの輪の中で言葉を交わしていた。
その中心から少し離れた、柱陰のあたり。レギュラスはスムーズに人波をかき分けながら、アランへと歩み寄った。
彼女は装われた一張羅のドレスに身を包み、小さな金の髪飾りを揺らし、まるで何事もないかのように笑っていた。片手には祝賀のグラス。誰かと乾杯した直後だったのか、唇にはかすかに飲み物の赤い跡が残っている。
「体調は、どうですか?」
レギュラスは声量を抑え、彼女にだけわかる静かなトーンで尋ねた。
アランは、まっすぐその視線を受け止めて、少しだけ顎をあげた。
そして、微笑む。
「ええ、ばっちりよ。」
完璧なまでに整った微笑。目元に張る緊張、声の硬さ。
けれど、レギュラスにはもう、それが嘘だということが痛いほどわかった。
“ばっちり”というその言葉が、どれだけの痛みや我慢と一緒に編まれているのか。
それはもう、着慣れた仮面のような装いだった。
彼は、言葉を返さず――ただ静かに、アランの手元に目をやった。
「そのグラスを、お借りしても?」
アランが少しきょとんとする間に、レギュラスはその手の中のグラスをそっと抜き取った。慎重で、しかし抗えない手の動きだった。
グラスの液面にはワインのような琥珀が揺れていた。
「乾杯をして回っているのですよね?」と、自然な声色を保ちながら、近くを通った使用人のひとりを手招きした。
「これを。中身を水に変えてください。」
使用人は静かに頷くとグラスを受け取り、その手順に異を唱える者は誰もいなかった。
アランは、ほんの一瞬驚いたように目を瞬かせたが、やがて声を立てずにふふ、と小さな笑いを漏らした。
「……子供みたいじゃない?」
その声音には、拗ねるでも責めるでもない、ほんの少しの照れと、愛しさが混じっていた。
レギュラスは微かに目を細め、肩を緩やかにすくめる。
「飲み過ぎは、よくありませんから。」
まるで当たり前のように、毅然と、しかし一本の線で繋がったやさしさを持って。
“君の苦しさに、もう向き合えないふりはしない”と告げるように。
アランは黙ってその横顔を見つめた。
その手は温もりで、けれど透明なものに触れようとするように慎重だった。
まるで傷ひとつにまで敬意を払って扱う、大切な壊れ物のように――それでも、彼女という存在を守ろうとしている。
グラスはやがて戻ってきた。中にはただの冷たい水。
アランはその透明の飲み物を受け取り、心の奥でそっと息をひとつ落とす。
それがきっと、いちばん癒される薬になる――と、思えたから。
そして彼女はまた微笑み、グラスを軽く掲げる。
「じゃあ、水で。もう一度、乾杯しましょうか」
その声のなかに、ほんの小さな安堵がにじんでいた。
誰にも気づかれないほどの、ほんの一滴の、やわらかな共鳴だった。
音楽と声が溶け合う、祝賀のざわめきの中――
レギュラスはアランのすぐ隣に立ち、グラス越しに微笑を張りつけながら、心だけはずっと張り詰めていた。
周囲には、顔をほころばせた賓客たちが輪を描くように集まっていた。
笑い、祝福し、語りかけ、そして――面白がるように、興味深く「理想的な夫婦像」に近づいてくる。
「まったく羨ましいわ、こんなに仲睦まじくて」
「レギュラス様、奥方のことをずっと見ていらっしゃるのね」
「ええ、ええ。見て、この目の奥の熱っぽさ」
冗談交じりのその言葉も、特別な悪意があるわけではない。
むしろ社交の場において、ごく自然な、祝宴の“笑顔”だ。
レギュラスは誰よりも役割を理解している。
自分たちが「見せる夫婦」である必要があることも。
この場において、人々の期待を映し返す鏡のように振る舞ってきた。
けれど――
「それで、お次は?」
いつも、必ず、この言葉は落ちてくるのだった。
「そろそろ、弟妹の顔も拝みたいですねえ」
「二人目は? アルタイル様はひとりでは寂しいでしょう」
「お二人のようなお血筋であれば、きっと次のお子も――」
笑顔のままで口にされるその言葉は、
まるで祝辞の仮面をかぶった、剣のようだった。
そして――レギュラスは、気づいた。
アランの背中が、そっと震えたように見えたのだ。
ほんのわずか。胸の奥を固めるように。
表情が強ばりでもなく、微笑と変わらぬように保ったまま、けれど決して気づかれぬように絞られた呼吸。
それが、何より彼をえぐった。
(ダメだ――もう、これ以上)
以前なら、自分も苦い気持ちを隠しながら、うまく場をやり過ごしたかもしれない。
だが今は違う。
“彼女がどう見えるか”ではなかった。
“彼女がどう傷ついているか”だけが、すべてだった。
レギュラスは、やわらかい笑顔のまま、ひとつ前へと身を寄せた。
自然な仕草で軽くアランの肩に手を置きながら、にこやかに語気だけをわずかに強める。
「お祝いのお言葉、恐縮です。ですが今はまず、この子の一年をようやく迎えられたことに――感謝しようと思っています。」
静かで、やさしく、けれど、はっきりと線を引く言葉だった。
笑顔のまま、だがそれ以上を問わせない強さがあった。
周囲の誰かが「あら、お優しい……」と微笑を返し、話題は自然と別の方向へと流れていった。
アランは何も言わなかった。
けれど、目だけがそっと彼を見た。
張りつめた静けさを、ほんの少しだけ緩めるように。
微かに首を垂れるその仕草には、言葉では表せない感謝と痛みがにじんでいた。
このときレギュラスは、ただひとつだけ強く思っていた。
――どうか、誰も、これ以上に彼女を追い詰めたりしないでほしい。
それがどんなに常識的な、礼儀正しい“問い”であっても。
彼の一歩の前に、
彼の腕の中にいるたったひとりの女の心にとっては、
そのどれもが、決して軽いものではないのだから。
音楽がまた遠くから静かに流れはじめた。
レギュラスはそっと肩に添えた手で、アランの体温を確かめながら、
誰よりも静かに、彼女を守るためだけに、そこに立っていた。
夜更け、屋敷のすべての灯が落ちていた。
カーテン越しに差し込む月の光はひどくやわらかく、白いシーツに淡い影を描いていた。
寝室の空気は静謐に満ち、レギュラスはベッドに横たわるアランを腕に抱いていた。
衣擦れの音ひとつも起きないほど、ふたりは静かだった。
は、彼の腕の中にすっぽりと収まりながら、ふいに小さく唇を動かした。
「……しないのですか?」
その問いかけは、どこか陰りの混じる、息のような声だった。
ひどく疲れている彼女が、それでもなお“妻”としての立場を気遣おうとしている。
言葉の意味の奥にあるものを、レギュラスはすぐに読み取った。
答えは沈黙のまま、レギュラスの腕がわずかに強くなることで返された。
抱きしめる――それが彼の返答だった。
“する”でも“しない”でもない。
今夜はただ、抱きしめるために彼はここにいるのだと、そっと伝えるように。
彼の声は、やがて静かに降りた。
「今日は……疲れたでしょう。もう、休んでください。」
それだけだった。
けれど、その言葉には、愛とも赦しとも違う、深い思いやりがあった。
まるで、“あなたがあなたでいてくれるだけでいい”と語りかけているようだった。
アランは何も言わず、ただ目を閉じた。
痩せた背中が、彼の腕にふわりと押し当てられる。
その骨ばった肩甲骨のあたりに、レギュラスはそっと手のひらをすべらせた。
ゆるやかに、何度も。
手のひらで確かめるように、なでるように。
眠りの扉を軽く引いてあげるみたいに、薄い背中の張り詰めた緊張をほどくように。
その痩せた線は、かつてより少し頼りなく感じられたけれど、
それでもこうして、自分の腕の中にいるということが、どれだけ尊いことかを知っていた。
音のない夜の奥で、肌と肌が伝える言葉だけがそっと灯っていた。
誰にも見えず、誰にも聞こえない、それでも真実を包む静かな眠り。
レギュラスは滲むような息をひとつだけ静かに吐いて、額をアランの髪にそっと寄せた。
「おやすみ」とは言わなかった。
言葉にすれば崩れてしまいそうな、静かで優しい時間がただそこに、永く漂っていた。
薄いカーテン越しに射す光が、化粧鏡の上に置かれた粉の粒子を柔らかく照らし、静かな空間を霞ませている。
アランは鏡の前で、指先に残ったファンデーションをそっと頬へ滑らせていた。月影のようにやわらかく肌へ溶けてゆく粉の感触を、意図的に何度も重ねる。
痛みは、変わらずその奥にあった。
けれど、今日はそれを見せたくなかった。
それと──
「見透かされたく、なかった」のだ。
目元にはいつもより深い影を入れた。
唇はほんの少し、赤みを濃くした。
鏡の中の自分が“いつものアラン”を保っていると確認すると、ようやく、椅子を引いてそっと立ち上がった。
朝の食卓には、既に小さな音がいくつか流れていた。陶器の当たる静かな音、紅茶が注がれる細い流れの音。そしてそれらのさざめきの中に混じって、レギュラスの足音が響く。
彼は、扉の向こうから現れると、すぐにアランへと視線を向けた。
その一瞬の、わずかに目を見開く表情。
アランにはそれで十分わかった。
“気づかれた”。
けれど、すぐに笑みをつくる。
「たまにはこういう気分なの」
窓から差し込む光が頬に当たり、パウダーの粒が不自然に薄く浮いているかもしれない。それを意識しながらも、アランはあくまで淡く、自然に笑って言った。
「ほら、春も近いし。少し明るい顔になれる気がして。」
心では、何もかも逆だった。
けれどそれでも、口に出した言葉は、ただの“気まぐれ”として整えられていた。
レギュラスは、といえば。
彼は何も言わず、そのままふわりとアランを見つめた。
少し長く、まなざしを沈め、感情を込めすぎないようにするひと呼吸の間。けれど、その目は疑ってなどいなかった。
そして、静かに微笑む。
「綺麗ですね、アラン。」
その一言は、飾り気なく、まっすぐだった。
アランの胸が、ふっと揺れた。
疑念がない――少なくとも、いまのところは。
彼の観察力を知っているからこそ、それをごまかせたことに、思わず心の奥で安堵の色が広がる。
――ありがとう、気づかないでくれて。
心の中で、誰に向けるでもなくそう呟く。
本当は、顔色をごまかすために塗ったこの色彩すら、いつもより少しの嘘に見えて、自分自身が悲しかった。
でも今だけは。その「整えられた嘘の顔」が効力を持ち、問いを逸らしたことが、何より救いだった。
朝の光がテーブルを優しく照らし、淡い化粧の上を滑る。
アランはレギュラスの隣に静かに腰を下ろし、微笑みを崩さないまま、静けさの中に身を沈めていった。
ほんの少しだけ、息を吐きながら。
演じる静穏の中で――今日も、またひとつ何かをやりすごした、と。
その日の朝、食卓に運ばれた新聞を開いた瞬間、アランの指先がぴたりと止まった。
一面を鮮やかに飾った見出しと共に、写真がひとつ載っていた。
それは信じがたいほど穏やかで、あたたかさに満ちた光景だった。
『不死鳥の騎士団 シリウス・ブラック、マグルの少女と暮らし始める ──保護から養子縁組へ』
白黒の写真の中、シリウスが静かに笑っていた。
隣には、年の頃10歳ほどの少女。手をつないで、街角のカフェの前に立つふたり。
ほのかに風の吹く中、少女の髪が揺れて、彼女が口元を緩めたタイミングで写真が切り取られている。
鼻筋の通った優しい顔立ち、その目にはきらきらと光が宿っていた。
アランの胸の奥に、ふっ、と何かが灯った音がした。
――アリス。
記憶の中の小さな手が、今はもうこんなにも大きくなり、
「守られる子ども」ではなく、言葉を持ち、夢を持って歩む命として、この世界のどこかで生きている。
アランは、目の前の文字を何度もなぞった。
「養子」「保護」「不死鳥の騎士団の一員と共に新生活」
そのひとつひとつが、遠いようでいて、確かに自分の過去とつながっていた。
そして、あの夜が胸の奥にゆっくりとよみがえる。
雨が降る孤児院、焼け焦げたカーテン、震える少女の肩。
アランの震える手。
「行きなさい」と言った、それがどれほど切なく、守りたかったか。
その先の未来など保証できなかった。それでも、信じたかった。
「彼ならきっと守ってくれる」と送り出した、灯を託したその人の腕の中で、
彼女は今、静かに笑っている。
胸が、満たされるような気がした。
これは、自分では果たせなかった選択。
足を踏み出すことができなかった未来。
それをシリウスと、あの少女が――続けてくれている。
きっとこのふたりは、なにか変える気がする。
同じ志を持ち、決して多くを語らずとも、おそらく自然にお互いの存在が“答え”になるような。
かつて自分が踏みそこねた道を――まっすぐ歩いていくふたり。
アランは、そっと新聞を閉じた。
指先に残るインクの匂いが愛おしかった。
春の陽ざしが窓から差し込み、机の上に淡く揺れる。
心の奥ではまだ疼くものがある。
この家での役目、重圧、削れてゆく自分、それでも守らねばならないアルタイル。
“誇り高い妻”としての役目は、たやすく手放すことは許されない。
だけれど、その不自由な場所でも、
「救いが存在している」ことを、この朝は教えてくれた。
だからこそ、今この瞬間だけは――
アリスの笑顔を、そっと心の灯火のように胸にしまって、
アランは静かに、目元を緩めた。
誰にも気づかれない、ほのかな安堵を込めて。
それは、確かに希望だった。
声に出さずとも、「まだ世界は終わっていない」と小さくささやいてくれるような、一縷の光だった。
春の雨が降り出しそうな、重たい曇り空の下――
ブラック家の屋敷はいつになく静まり返っていた。
使用人たちの足音さえ遠慮がちに響く中、アランは何も言わず、ただそっと静寂のなかに身を置いていた。
隣室から聞こえる激しい物音。
書斎の扉の向こう、誰の目も届かぬその部屋で、レギュラスは荒れ狂うように感情をぶつけていた。
やがて、書棚のなかで崩れる本の音。
ペン立てがひっくり返る高い破裂音。
何かが壁に叩きつけられ、乾いた衝撃音を立てて砕けた。
アランは、そのどれにも顔をしかめなかった。
恐れよりも、ただ深く張りつめた緊張が、胸の奥にじわじわと篭っていく。
きっかけは、今朝の新聞だった。
一面を飾る、その写真。
――シリウス・ブラック、マグル生まれの少女アリスを養子に。
彼女がブラックの姓を名乗り、一緒にその家名を掲げているという事実。
アランにとっては、たしかに安堵であり、満たされる喜びだった。
あの夜、命がけで逃した少女が、大切な人の隣で、未来へと繋がる位置に立っているという事実。
けれど。
それは同時に、ブラック家の名の上にマグルの血が刻まれた瞬間でもあった。
レギュラスにとってそれは――
「家そのものの否定」とも等しかった。
家系図に刻まれる名というものがどれほどの重みを持つのか、アランは十分すぎるほど知っていた。
誇り、血統、系図、清浄。
すべてが正しく継がれてこそ、意味があると教え込まれてきた一族。
シリウス自身はもう“勘当された者”である。
けれど、それでも姓の名残だけは、こうして“マグルの少女の名”とともに、世の目に晒されてしまった。
それは、レギュラス――いいえ、ヴァルブルガやオリオンを含めた一族全体への“冒涜”であると、世間には映るだろう。
だからこそ。
あのとき何も言えなかったアランは、今も、ただ黙っていた。
書斎の前の廊下に立ち尽くし、扉の向こうにぶつけられる怒気を、何も遮らず受け続けていた。
影のように並ぶ肖像画たちの視線が、ひときわ静けさを強調している。
何を言えばいいのか分からなかった。
「ほっとした」とか、「よかった」とか――そんな言葉は、あまりにも彼を逆撫でするだろう。
触れれば裂けるような沈黙。
怒りの在り処を抱えきれず、ただ狂おしさに身を震わせるレギュラスの背中を想像するだけで、アランの喉の奥が細く閉ざされた。
言葉はなかった。
でも、もし一つ差し出せたなら、きっとその言葉は――
「ごめんなさい」でも「どうか落ち着いて」でもなく、
ただ――私は、それでも守りたかっただけだった。
でも、その言葉は飲み込んだまま。
アランは静かに、扉を見つめ続けていた。
何も告げられず、何も許されず、それでも――
最初から“覚悟していた選択”を、静かに胸に抱きながら。
書斎の扉は重く閉ざされたままだった。
カーテンが引かれた部屋の中、陽の光は届かず、ランプの小さな灯だけが静かに揺れている。空気はまるで色を失ったかのように冷えており、積まれた書物の影が床に深く沈んでいた。
机の上に放り出された新聞の一面。
『不死鳥の騎士団・シリウス・ブラック、マグルの少女を養子に――新たなる”家族”のかたち』
その見出しを、レギュラスは何度目かわからないほど読み返していた。
読み返すたび、胸の中心にある何かがじくじくと焼け落ちてゆく。
口元をきつく結び、椅子の背に深く身を沈めては、こみ上げてくる怒りで背筋を起こす。
呼吸が浅くなる。思考がせり上がる。
レギュラスの中で、何かが途方もなく崩れつつあった。
シリウスはもう“ブラック家の人間”ではない。
堂々と燃え盛る炎のなかで家系図から焼き払われ、二度と口に出されることすら拒まれた存在だ。
だが、それは形式上の話だ。
シリウスという存在が、「兄」という位置にあり、
まぎれもなく自分と同じ〈ブラック〉という名を持つ家から生まれ落ちたひとであったという事実は、
誰がどう足掻いても消え去りはしない。
そして、その彼が――
マグルの少女を、家族にした。
「……ブラックの名を、あの少女に?」
その事実にようやく気づいたとき、レギュラスの眉間には深く怒りの皺が刻まれていた。
新聞に映った少女を見て、アランが何かに安堵した表情を浮かべていたのも、はっきりと覚えている。
微かに、嬉しそうにさえ見えた。
まるで“あれで良かった”とでも言うように。
嗚呼、赦せぬ。
――アルタイルが、「姉」を持つことになると?
あの少女が「同じ姓」を名乗ることになると?
曇りのない未来を誓い、
選び、護り通してきた我が子に――
マグルの血の名残が、肉親という肩書で付き添うことになる?
それは、この家にとって、ただの混乱ではなかった。
汚点だった。
「血」と「誇り」を頂点に掲げるこの家において、
名こそがすべてであり、
称号こそが家の意思である。
そして、“ブラック”という名前には、
命よりも重たい意味があった。
レギュラスは立ち上がり、机の上のインク壺を払い落とした。
黒いしぶきが飛び散り、白木の床に冷たく跳ねた音がした。
次に、隅に置かれていた椅子がひっくり返され、重い空気のなかを削るように響いた。
何もかもが、耐え難かった。
あの兄が、すべてを踏みにじるように“新しい家族”と笑った顔。
その横でこちらをなじるでもなく、慈しまれるように見上げる少女――あの目が、自分にとっては「贖罪に許された存在」などではなく、
ただ、血の「境界を超えさせてしまった存在」としか映らなかった。
アルタイルは、違うのだ。
あの子にだけは、疑いの余地のない純血の系譜を――
一筋の影も落とさぬまま光のもとを歩かせようと、
どれだけの覚悟で、アランと共にそれを積み上げてきたか。
それなのに。
“姉がマグル”と、誰かに囁かれる程度のことで――
友人を、血筋を、家を選び伝えたこの子の未来に、
この名が呪いになってしまうのならば――
「……シリウス……!」
声にならぬ怒りが、喉の奥で噛み殺される。
燃えるような怒りはすでに言葉という形を超えていて、
ただ目の奥に残されるのは、兄に対するどうしようもない裏切りの記憶だった。
書斎の扉を叩くように閉じ、レギュラスはその場に立ち尽くしたまま、
何も言わず、身じろぎもせず、ただ重く沈んでいく感情の渦にひたすら堪えていた。
そしてその間近で、扉の向こうに立っていたアランは――
何も、言葉を持たなかった。
とても届かないと、分かっていた。
気安い慰めも、理の正しさも、
今この瞬間の彼には、何一つ届きはしない。
だから、沈黙のまま、
ただ深く小さく、レギュラスの怒りを胸の内で受け止めるしかなかったのだった。
書斎の扉は、いつにも増して重く感じられた。
アランはゆっくりとその扉に手をかけ、音を立てぬように、静かに中へと足を踏み入れた。
そこは……言葉も出ないほど、荒れていた。
砕け散ったガラスの破片が床を覆い、書物は頁を開いたまま無残に散らばっている。
机の端は浅くひび割れ、倒れた椅子の脚には魔法の焦げ跡のような黒い爪痕が小さく残っていた。まるで、嵐が通り過ぎたあとのようだった。
アランは何も言わず、ゆっくりと腰を落とすように両手を動かした。
ひとつひとつ、壊れたものを魔法で直していく。
散らばった書物を拾い、積み上げ、落ちた羽根ペンを硝子のインク壺のそばに戻し、
ほこりの立ったカーペットをひと撫でして、元の整った姿に戻した。
音はなかった。ただ彼女の魔法と衣のかすかな動きだけが、部屋の空白を埋めるようにそっと流れていた。
静かな作業のなかで、レギュラスは窓際の椅子から一度も動いていなかった。
腰掛け、うつむき、拳を握ったまま、まるで自分の中に怒りの残り火すべてを閉じ込めてでもいるかのようだった。
やがて、書斎がもとの秩序を取り戻し、
アランはそっとレギュラスのそばへと歩み寄った。
側に立つだけで、彼の張り詰めた気配が肌に触れるように伝わってくる。
まるで硝子のようだった。また割れるのでは、とすら思えた。
そして、彼は沈黙を破った。
「――満足ですか。」
声は低く抑えられ、それでもその先に続いた言葉には、鋭く冷えた棘が含まれていた。
「シリウスに、マグルの子供をあてがって。」
アランの身体がほんのわずか揺れた。
振りかざされたような語調ではなかった。
それでも、それは明確に彼女に向けた刃だった。
静かに、しかし確かに「お前がその手引きをしたのだ」と看做す声だった。
アランは何も答えなかった。
すぐには、答えることができなかった。
ゆっくりと目を伏せる。
怒りを正面から受け止めるには、あまりにもその痛みが深すぎた。
責めを受ける覚悟はあった。
けれど、こうして彼の口から出たその言葉が、自分の胸の奥をこれほどにも締めつけるとは思っていなかった。
数拍の沈黙のあと、アランはやっと顔を上げた。
「……彼女を、見捨てることができなかった。それだけです。」
声は震えてはいなかった。けれど、その中にははっきりと後悔と祈りが滲んでいた。
選びたくて選んだのではない。助けたくて、助けただけ。
そして――そう言えば言うほど、罪になると分かっていた。
けれどレギュラスは、すぐには返事をしなかった。
ただ黙って、遠くどこかを見つめるようにゆっくりと視線をずらした。
アランはその横顔の硬さを見つめながら、きゅっと胸の奥を締めつけられたような思いに駆られた。
彼にとって、「血」とは名前でも、立場でも、記号ではなかった。
それは彼自身であり、誇りであり、未来そのものだった。
そこに――自分が、許してしまった“例外”が入り込んでしまった。
それを傷つけたと思われるのなら、アランは何も言い返せなかった。
ただ、壊れていたものを直したように、いつかふたりのあいだに壊れたものも、少しでも元に戻せる日が来ることを祈るだけだった。
再び部屋に沈黙が降りる。
とても、永い沈黙だった。
けれど、その沈黙のなかでさえ、アランは彼のすぐそばに立ち続けた。
それが、どんなに遠く思えても、
それでもまだ――心を置き去りにしたくなかったから。
書斎の灯はまだ落とされないまま、夕刻をとうに過ぎた静寂の中、薄く燃える炉の残り火が、棚に並んだ書物の背を橙色に染めていた。
レギュラスの背は硬直し、椅子の肘掛にかけた指先には、無意識のほどの力が込められていた。視線は何もない空間をまっすぐに見つめている。けれどその瞳は燃えるようだった。
「アルタイルは……」
声は乾いていた。
それでも吐き出すように、かすかに笑みを混じえて続いた。
「…あの子は、“マグルの女”を『姉』と呼ばねばならないんですよ?」
軽く嗤うようなその口調が部屋の空気を裂く。
笑みの裏には冷えた嫌悪と、ある種の絶望が色濃くにじんでいた。
耐えがたく、情け容赦もない、断絶のことばだった。
アランは、そのことばを正面から受け止めた。
胸が痛んだ。
たしかに、母として、妻として、この家に在って今日まで選び続けてきた選択のすべてに、矛盾がないとは言い切れなかった。
でも――この言葉だけは、どうしても聞き流せなかった。
静かに口を開く。
「レギュラス…」
声は震えていなかった。けれど隠しきれない切実さが、微かに空気を揺らす。
視線を彼の背に預けながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は、アルタイルには……マグルだとか、純血だとか、そんな“生まれ”だけで他人をはかるような人には育ってほしくないの。」
石が落ちるように、言葉は低く、しかし確かに届く温度で部屋に置かれた。
「もっと――それを超えるもの。
心とか、目の前にいる存在そのものを、大切にできるひとに……
私は、そのほうが、アルタイルにとって幸せだと信じてる。」
それは、言い淀みもない本心だった。
偽りのない声。
世間体でも家のためでもない、自らの奥底から引き上げてきた祈りのような言葉だった。
レギュラスは、振り向かなかった。
静かだった。
肩を落とした後ろ姿は、揺れてすらいなかった。
けれど、アランには分かっていた。
彼の沈黙は、聞こえていないせいではない。
理解できないと決めつけたものでもない。
ただ、その価値観を飲み込むには、長い年月と流れた血の重さが、彼の肩の上に存在してしまっているから。
アランの言葉は、刃ではなかった。
罰でも、理想でもなかった。
けれど、いまのレギュラスにとってそれは、「赦しがたい美しさ」だった。
だから彼は何も言わなかった。
その沈黙に押しつぶされそうになりながらも、アランは黙って彼の隣に立ち続ける。
言葉を重ねる代わりに、ただその場に在ることで、彼の心の奥に届く何かが残ることを――ただ、祈るように願っていた。
午後の光が庭の草花をやわらかく照らしていた。風は穏やかにレースのカーテンを揺らし、屋敷の中にも外の季節が微かに香った。そんな静かな空気の中で、アランはサロンの椅子に腰をおろし、窓越しに視線を落としていた。
視線の先――小さな足どりが、よたよたと芝生の上を進んでいく。
アルタイルだった。
青い刺繍の入った小さなローブを着て、陽ざしのなかをゆっくりと歩き回っている。
ときおり、ふらりと転びそうになりながらも、自分の足で立ち上がり、また一歩。
その姿は、まるで人生という名の航海を、一人で始めようとしているようだった。
アランは、思わず両手に力を込めた。
けれど、椅子から立ち上がることはしなかった。
いや、できなかった――正確には。
産後の身体にずっと残る痛みは、時の経過とともにやわらいではきたものの、芯の奥に根を張るような感覚だけがどうしても抜けきれなかった。
少しきつく腰をひねれば、下腹に波のように鈍い痛みが染み出してくる。
足取りが不安定になれば、すぐに脈打つように痛みが走る。
――追えない。
アルタイルの小さな背が、少しずつ遠ざかっていくにつれ、アランの胸の中にそっと冷たい空気が落ちてくる。
あのちいさな手を、かつては抱きしめるだけで、自分の一部のように感じていた。
母であることに満たされ、きらきらとした乳児期の喜びの中で、まだ未熟な自分を許してもらえていた。
けれど今、彼はひとりで立ち、歩きはじめている。
その成長が誇らしいはずなのに、アランの目に映るその歩みが、なんだか悲しくて、寂しかった。
「…こうして、どんどん手が離れていくのね」
囁くように零したが、それは誰に向けたものでもなかった。
ただ、風に紛れてしまいそうなほど小さな独白。
どうか、この歩みが
この小さな背中が
いつか世界に羽ばたく日が来ても――
その先にある道が、
やさしさと希望に満ちたものでありますように。
遠くから「まま」と呼ぶ小さな声が響く。
アランは微笑んだ。
立ち上がれはしなかったが、胸の中にだけは確かに、しっかりと彼の名前を抱きしめていた。
屋敷の深い天井を照らすシャンデリアには、ひとつひとつの灯りがつけられていた。光が重厚なカーテンに滲み、磨かれた床に金色の斑模様を描き出している。
まもなく――アルタイルの一歳を祝う祝賀会が、この屋敷で盛大に催される。
純血の血統を継いだ男児として、そして久々に世に誕生した次代の“ブラック家”を背負う存在として、アルタイルの無事な成長は、一族の名誉の象徴として捉えられていた。
レギュラス、オリオン、ヴァルブルガはどこか誇らしげで、準備にも余念がなかった。
けれど、アランの心は、静かに揺れていた。
暖炉の前、一枚の淡いドレスにそっと指を滑らせる。
絹と銀糸の織り込まれたその衣は、意図せず彼女の繊細な輪郭を際立たせる。
それは屋敷の期待と、客人たちの視線に晒されるための“装い”だった。
ふと鏡越しに映る自分の顔を見る。輪郭はやや細く、大きな瞳の奥には、うすく張り詰めた影が揺れていた。
──もう、どれくらいぶりなのだろう。
こうして人前に“ひとりの女”として立つのは。
華やかな宴、交わされる敬意と評価、漂う競争と監視――
屋敷という檻のなかで、母となり、妻としての役割に沈み続けていた日々のなか、そうした“世界”には遠ざかっていた。
それでも――
アルタイルのための夜。
息子の初めての節目を、きちんと胸を張って見届けたい。
彼の未来に初めて灯る祝福の光に、自分も微笑みたいと願っている。
だからこそ、どこか構えてしまうのだ。
「……きっと大丈夫」
自分に言い聞かせるように、声にならない言葉が、喉の奥でそっとほどけた。
身体の奥底にまだ時折疼く産後の名残も、昨夜の夢に見た心の傷跡も、この場には連れていかない。
ただ、母として、アルタイルの傍らに静かに立とう。
それができれば、それだけでいい。
遠くからグラスの音が響いた。
使用人の笑い声、飾り付けを整えるために動き回る人々の足音。
すべてが、やがて訪れるその「ひととき」へと繋がっていた。
アランは、窓辺をそっと振り返る。
夕暮れが色を溶かしはじめる空の向こうに、小さな星がひとつだけ瞬いていた。
希望ではない。
けれど、たしかに――
それは「光」だった。
祝賀の夜、屋敷は黄金に沈んでいた。
煌びやかな天蓋の下、灯されたシャンデリアの光が、あらゆる装飾の輪郭をやわらかくなぞる。
アルタイルの一歳を祝うこの夜、ブラック家の宴はかつてないほど華やかで――そして、格式の重みに満ちていた。
客人たちが流れるような黒と銀のローブに身を包み、グラスを傾ける中で、レギュラスの目は一人の女性から逸れることがなかった。
アラン。
階段からゆっくりと姿をあらわした時、その場に微かなざわめきが起きたのを、レギュラスは静かに聞いていた。
「まったく変わらない」
「美しい…相変わらずね」
「まるで、時間に傷つけられない方のようだ」
そう囁かれる声が次々とアランを包み、それが今夜の空気にやわらかな香のように漂っている。
レギュラスはその言葉に、どこか誇らしさを覚えていた。
――自分が守ってきた人なのだと。
この夜、その美しさが誰の目にも映ったことが、確かに誇りだった。
けれど、その胸の奥には、もう一つの想いが潜んでいた。
落ちきらぬ影のように、どうしても離れない鈍い不安。
まとったドレスの裾を揺らしながら歩くアランはたしかに美しかった。
首筋を飾る宝石。絹のように撫でられた髪。
微笑みの角度、差し出される手、礼節を忘れぬ立ち居振る舞い……
けれどそのすべてが、時折、レギュラスには――脆くて、危うかった。
細くなった肩。
隠し切れない、瞬間だけ動きの鈍る腰元。
目を伏せるひと瞬きの合間に、わずかににじむ疲労の影。
(本人は隠しているつもりなのだろう。)
そう理解していた。
けれど、レギュラスにはわかるのだ。
微細な変化を読み取ることにかけて、自分以上にアランを見てきた者はいない。
彼女の痛みは、もうただの産後の名残ではなかった。
医者にも何人も見せた。
血液も内臓も、診断において“大きな異常は見当たらない”の一点張り。
けれど……治らない。回復しない。
体に残り続ける疲弊。中から蝕まれているような黒い痛み。
彼女は弱音を吐かない。
けれど、レギュラスにはわかっていた。
だからこそアランが、美しく着飾っている時ほど――壊れるのではないかと、怖くなるのだった。
笑っている背に、ひびが見える。
抱きしめたとき、その体温が、自分の想像よりもずっと薄く感じられることがある。
そして、もう一つの恐れがあった。
もし、このことがヴァルブルガあるいはオリオンの耳に入ったら。
アランは、欠けたものとして見做されるかもしれない。
再び傷が開く女、治癒しない器として、まるで一族に背を向ける者のように語られるかもしれない。
――その屈辱を、彼女には絶対に味わわせたくなかった。
だから、黙っていた。
誰にも話さない。
アランが今も「無垢な美しき妻」として語られるよう、守る。遮る。
そのためなら、どれほどでも苦悩に付き合ってやる、と腹を括っていた。
(あなたさえ、笑って立っていてくれるのなら。)
レギュラスはグラスを持つ指先に力を込める。
その眼差しの先で、アランが遠く客人の輪のなかにいる。
彼女の存在は、幻のように気高く、澄んでいて、そして……ひどく儚かった。
この世でいちばん壊しがたい宝石を、いま自分は預かっているかのようだと、腕の奥が震える。
微笑みの裏に張りつめている彼女の痛みに、いつか名を与えられる日が来てほしい。
――この夜、ただ祈るような想いで、その姿を見つめていた。
祝賀の夜はゆっくりと深まり、天井の高い広間には金のシャンデリアが柔らかな光を放っていた。それらが磨き込まれた床やグラスの表面に反射して、室内全体を淡い星のように照らしている。
賓客はグラスを掲げ、アルタイルのはじめての一歳を祝って、それぞれの輪の中で言葉を交わしていた。
その中心から少し離れた、柱陰のあたり。レギュラスはスムーズに人波をかき分けながら、アランへと歩み寄った。
彼女は装われた一張羅のドレスに身を包み、小さな金の髪飾りを揺らし、まるで何事もないかのように笑っていた。片手には祝賀のグラス。誰かと乾杯した直後だったのか、唇にはかすかに飲み物の赤い跡が残っている。
「体調は、どうですか?」
レギュラスは声量を抑え、彼女にだけわかる静かなトーンで尋ねた。
アランは、まっすぐその視線を受け止めて、少しだけ顎をあげた。
そして、微笑む。
「ええ、ばっちりよ。」
完璧なまでに整った微笑。目元に張る緊張、声の硬さ。
けれど、レギュラスにはもう、それが嘘だということが痛いほどわかった。
“ばっちり”というその言葉が、どれだけの痛みや我慢と一緒に編まれているのか。
それはもう、着慣れた仮面のような装いだった。
彼は、言葉を返さず――ただ静かに、アランの手元に目をやった。
「そのグラスを、お借りしても?」
アランが少しきょとんとする間に、レギュラスはその手の中のグラスをそっと抜き取った。慎重で、しかし抗えない手の動きだった。
グラスの液面にはワインのような琥珀が揺れていた。
「乾杯をして回っているのですよね?」と、自然な声色を保ちながら、近くを通った使用人のひとりを手招きした。
「これを。中身を水に変えてください。」
使用人は静かに頷くとグラスを受け取り、その手順に異を唱える者は誰もいなかった。
アランは、ほんの一瞬驚いたように目を瞬かせたが、やがて声を立てずにふふ、と小さな笑いを漏らした。
「……子供みたいじゃない?」
その声音には、拗ねるでも責めるでもない、ほんの少しの照れと、愛しさが混じっていた。
レギュラスは微かに目を細め、肩を緩やかにすくめる。
「飲み過ぎは、よくありませんから。」
まるで当たり前のように、毅然と、しかし一本の線で繋がったやさしさを持って。
“君の苦しさに、もう向き合えないふりはしない”と告げるように。
アランは黙ってその横顔を見つめた。
その手は温もりで、けれど透明なものに触れようとするように慎重だった。
まるで傷ひとつにまで敬意を払って扱う、大切な壊れ物のように――それでも、彼女という存在を守ろうとしている。
グラスはやがて戻ってきた。中にはただの冷たい水。
アランはその透明の飲み物を受け取り、心の奥でそっと息をひとつ落とす。
それがきっと、いちばん癒される薬になる――と、思えたから。
そして彼女はまた微笑み、グラスを軽く掲げる。
「じゃあ、水で。もう一度、乾杯しましょうか」
その声のなかに、ほんの小さな安堵がにじんでいた。
誰にも気づかれないほどの、ほんの一滴の、やわらかな共鳴だった。
音楽と声が溶け合う、祝賀のざわめきの中――
レギュラスはアランのすぐ隣に立ち、グラス越しに微笑を張りつけながら、心だけはずっと張り詰めていた。
周囲には、顔をほころばせた賓客たちが輪を描くように集まっていた。
笑い、祝福し、語りかけ、そして――面白がるように、興味深く「理想的な夫婦像」に近づいてくる。
「まったく羨ましいわ、こんなに仲睦まじくて」
「レギュラス様、奥方のことをずっと見ていらっしゃるのね」
「ええ、ええ。見て、この目の奥の熱っぽさ」
冗談交じりのその言葉も、特別な悪意があるわけではない。
むしろ社交の場において、ごく自然な、祝宴の“笑顔”だ。
レギュラスは誰よりも役割を理解している。
自分たちが「見せる夫婦」である必要があることも。
この場において、人々の期待を映し返す鏡のように振る舞ってきた。
けれど――
「それで、お次は?」
いつも、必ず、この言葉は落ちてくるのだった。
「そろそろ、弟妹の顔も拝みたいですねえ」
「二人目は? アルタイル様はひとりでは寂しいでしょう」
「お二人のようなお血筋であれば、きっと次のお子も――」
笑顔のままで口にされるその言葉は、
まるで祝辞の仮面をかぶった、剣のようだった。
そして――レギュラスは、気づいた。
アランの背中が、そっと震えたように見えたのだ。
ほんのわずか。胸の奥を固めるように。
表情が強ばりでもなく、微笑と変わらぬように保ったまま、けれど決して気づかれぬように絞られた呼吸。
それが、何より彼をえぐった。
(ダメだ――もう、これ以上)
以前なら、自分も苦い気持ちを隠しながら、うまく場をやり過ごしたかもしれない。
だが今は違う。
“彼女がどう見えるか”ではなかった。
“彼女がどう傷ついているか”だけが、すべてだった。
レギュラスは、やわらかい笑顔のまま、ひとつ前へと身を寄せた。
自然な仕草で軽くアランの肩に手を置きながら、にこやかに語気だけをわずかに強める。
「お祝いのお言葉、恐縮です。ですが今はまず、この子の一年をようやく迎えられたことに――感謝しようと思っています。」
静かで、やさしく、けれど、はっきりと線を引く言葉だった。
笑顔のまま、だがそれ以上を問わせない強さがあった。
周囲の誰かが「あら、お優しい……」と微笑を返し、話題は自然と別の方向へと流れていった。
アランは何も言わなかった。
けれど、目だけがそっと彼を見た。
張りつめた静けさを、ほんの少しだけ緩めるように。
微かに首を垂れるその仕草には、言葉では表せない感謝と痛みがにじんでいた。
このときレギュラスは、ただひとつだけ強く思っていた。
――どうか、誰も、これ以上に彼女を追い詰めたりしないでほしい。
それがどんなに常識的な、礼儀正しい“問い”であっても。
彼の一歩の前に、
彼の腕の中にいるたったひとりの女の心にとっては、
そのどれもが、決して軽いものではないのだから。
音楽がまた遠くから静かに流れはじめた。
レギュラスはそっと肩に添えた手で、アランの体温を確かめながら、
誰よりも静かに、彼女を守るためだけに、そこに立っていた。
夜更け、屋敷のすべての灯が落ちていた。
カーテン越しに差し込む月の光はひどくやわらかく、白いシーツに淡い影を描いていた。
寝室の空気は静謐に満ち、レギュラスはベッドに横たわるアランを腕に抱いていた。
衣擦れの音ひとつも起きないほど、ふたりは静かだった。
は、彼の腕の中にすっぽりと収まりながら、ふいに小さく唇を動かした。
「……しないのですか?」
その問いかけは、どこか陰りの混じる、息のような声だった。
ひどく疲れている彼女が、それでもなお“妻”としての立場を気遣おうとしている。
言葉の意味の奥にあるものを、レギュラスはすぐに読み取った。
答えは沈黙のまま、レギュラスの腕がわずかに強くなることで返された。
抱きしめる――それが彼の返答だった。
“する”でも“しない”でもない。
今夜はただ、抱きしめるために彼はここにいるのだと、そっと伝えるように。
彼の声は、やがて静かに降りた。
「今日は……疲れたでしょう。もう、休んでください。」
それだけだった。
けれど、その言葉には、愛とも赦しとも違う、深い思いやりがあった。
まるで、“あなたがあなたでいてくれるだけでいい”と語りかけているようだった。
アランは何も言わず、ただ目を閉じた。
痩せた背中が、彼の腕にふわりと押し当てられる。
その骨ばった肩甲骨のあたりに、レギュラスはそっと手のひらをすべらせた。
ゆるやかに、何度も。
手のひらで確かめるように、なでるように。
眠りの扉を軽く引いてあげるみたいに、薄い背中の張り詰めた緊張をほどくように。
その痩せた線は、かつてより少し頼りなく感じられたけれど、
それでもこうして、自分の腕の中にいるということが、どれだけ尊いことかを知っていた。
音のない夜の奥で、肌と肌が伝える言葉だけがそっと灯っていた。
誰にも見えず、誰にも聞こえない、それでも真実を包む静かな眠り。
レギュラスは滲むような息をひとつだけ静かに吐いて、額をアランの髪にそっと寄せた。
「おやすみ」とは言わなかった。
言葉にすれば崩れてしまいそうな、静かで優しい時間がただそこに、永く漂っていた。
