2章
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静まり返った夜の寝室に、淡く揺れるランプの光がひとつ。カーテン越しの月明かりが、ベッドの縁に銀の縁取りを落としていた。天幕の深い陰影の下、アランは静かにまぶたを伏せたまま、身体を横たえていた。隣には、まだ眠っていないはずのレギュラスの気配がある。
アルタイルの成長は、目に見えてわかるほどに穏やかだった。
夜中を何度も起きては、背中を揺らしたあの連続した夜が、少しずつ過去になっていく。赤子の睡眠は深くなり、ようやく夜の帳が本当の“休息”という名にも値するものになっていった。
その分だけ、ふたりの時間が戻ってきていた。
レギュラスとこうして、同じ部屋で、同じ枕を並べる夜が増えていくのは、本来なら喜ばしいことだった。
けれど―― アランの胸には、言いようのない痛みが残ったままだった。
マグルの少女のことを話してから、いくつもの夜が過ぎた。
レギュラスは何も責めては来なかった。
けれど、たとえば言葉の端に宿る、僅かな間。
アランが目を伏せたとき、それを追わない視線。
ふとした沈黙に、張り詰めるような温度。
そんな小さな“距離”が、アランには何より堪えた。
何を言えばいいのかわからなかった。どこまでを悔い、どこまでを守るべきだったのかも。
彼の信じてきた世界の内側で、それを裏切るような行為を選んだ自分。
レギュラスが、それでも口にしなかった感情が、その分だけ深く彼の中で重なっていると、アランは知っていた。
「……ごめんなさい、と言っても、足りませんよね」
ごく小さく、息とともに漏れた言葉。
レギュラスに届くように発したわけではなかった。けれど、沈黙の空気の中に、確かにそれは染みこんでいった。
その言葉の気配に、レギュラスがほんのわずか身じろぎする。
ベッドがかすかに軋んだ。
「……謝るために一緒にいるわけじゃありません」
静かな声だった。けれど、その声の奥には、かすかに滲む疲労と苦しさがあった。
それはきっと――彼なりの優しさと、諦めと、まだ残る葛藤だった。
アランは、胸の奥がふるえるような心地で、小さく目を閉じる。
償いの言葉が、見つからなかった。
けれどこの沈黙の間に、小さなぬくもりが宿っていることも確かだった。
いつか、この隙間に言葉を置ける日が訪れるのだろうか。
それともただ、言葉にならないまま、指先だけを触れ合わせて歩いていくしかないのだろうか。
夜は静かに、二人の間を繋いだまま流れていった。
星の見えない闇の中、それでもアランはそっとレギュラスの背中へと手を伸ばした。
触れるでもなく、ただ確かめるように。
見えない場所でしか寄り添えない心が、どうかそれでも届きますようにと、静かに願いながら。
部屋には灯りが落とされていた。
深夜の屋敷には静けさが満ち、風の音すら聞こえないほどだった。
ベッドサイドの薄明かりが、ふたりの姿をほのかに照らす。レギュラスが静かに身を起こし、正面からアランを見つめたのは、ほんの一瞬のことだった。
その気配に気づいたアランは、少しだけ驚いて目を上げる。
自然と目を逸らしてやり過ごそうとした視線が、ふいに真っ直ぐな眼差しとぶつかった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吸うようにして声を落とした。
「…… アラン、そんな話より――具合はどうなんですか?」
一瞬、アランの胸がわずかにゆれる。
静かで、やさしい問いかけだった。
けれど、どこか、その柔らかさが歯がゆくさえも思えた。
「……ほとんど、回復してるわ」
できるだけ平坦な声で、それ以上詮索させぬようにと気を張ったまま。
けれど、レギュラスは軽く一度首を横に振る。
「使用人たちから聞いています。まだ――痛み止めを服用している、と。」
その言葉は穏やかだったが、責めでも問い詰めでもなかった。
ただ、どこまでも彼らしい愚直な気遣いだった。
それがアランには、少しだけ――重かった。
出産を経て、母になって。
その身体の奥に、どれだけの変化が起き、どれほどの痛みが刻まれているか――
外からは見えない、許されないほど静かな傷が、生きる日々の中に織り込まれていた。
アランの中には、声にならない反射のような思いが浮かぶ。
ただ、心のどこかでふと感じてしまった――もし、あの痛みが、“あの日”マグルの少女を救うために使った魔力の余波だと気づかれたら、と。
そう思った瞬間、鋼のような意思が胸に降りた。
弱音なんて、吐けない。
“わたしは間違ってなかった”と、どこかで叫びたかったのかもしれない。
だからこそ、痛みはあっても、抱えていた。
アランは、そっと微笑んだ。
そして、その微笑みに、つもる本音を隠して。
「……少し過敏になってるだけ。ただの予防よ。必要そうな時にだけ。あなたが心配するようなほどじゃないわ」
それは、半分本当で、半分は不器用な嘘だった。
けれど、そう言い切る声には、どこか、意地のようなはかなさがにじんでいた。
レギュラスはその言葉にさらに言葉を重ねることなく、じっと見つめたまま沈黙に沈んだ。
なにかを言いたそうで、でも口を閉じていた。
ふたりの間に漂う夜の気配が、ほんの少しだけ静かに深くなる。
違える道の上に積まれたあの選択や、すれ違う信念の先にある痛み。
それでも、共にこうしてここにいるふたりの時間。
微かなランプの明かりが、アランの頬にそっと影を落としていった。
語られなかった本音も、伝えられなかった痛みも、夜の空気にゆっくりと溶けていくようだった。
朝の静けさを引き裂くような陽光が、ブラック家のダイニングルームの重々しいカーテンをすり抜けていた。大理石の床に赤金色の斑模様を落とし、銀食器の表面を鈍くきらめかせている。まだ空気が固く静まり返ったその朝食の席で、アランはひとり椅子に腰掛けていた。
胸元まできちんとローブの合わせを整え、背筋をまっすぐに伸ばしている。髪も丁寧に結い上げられていたが、その張り詰めた整い方には、どこか無理をして形を保ったガラス細工のような脆さがあった。
「早いですね」と、レギュラスが穏やかに声をかけた。
食卓の入り口に立ち止まり、アランの姿をしばし眺めた彼は、思わずそう言っていた。
アランは微笑んだ。
瞳にかすかな光をたたえて、それでもどこか空気を弾かない笑みだった。
「ええ。早く……目が覚めましたから。」
言葉は自然だった。けれどその明るさの裏に隠された、何かを隠すような気配を、レギュラスはすぐに察してしまう。
ほんの少しだが、唇の色が薄かった。指先の動きに、無意識に触れる腹部のしぐさ。何より、微笑の持続がわずか半拍短かった。
「先に……失礼。顔を洗ってきます。」
アランに短く微笑を返し、彼は静かに部屋をあとにした。
グラスの音、ティーカップに湯が注がれる音だけを背に受けながら、廊下を渡り洗面所へと向かう。
扉の前で出迎えようとした使用人が、ふと何かを伝えるような目をした。
「旦那様……奥様が今朝早く、痛み止めを服用されておりました。」
レギュラスは、一瞬だけ動きを止めた。
けれど顔には出さなかった。
「ああ……ありがとう。」
それだけを落として、静かに洗面所の扉を閉める。
冷たい水を手に掬いながら、じわじわと胸の奥に鈍い痛みが宿っていく。
それでも、あの人は“早く目が覚めた”と言った。
爽やかに、何もなかったかのように、笑って。
――痛みを押さえ込みながら、笑顔で朝食の席に座るアランが、たまらなく痛々しかった。
昨晩の沈黙が、頭のなかで蘇る。
医女はもう“問題ない”と言っていた。
ルシウスたち兄夫婦の老練な助言でさえ、そうだった。
そろそろ、夫婦として自然な時間を重ねてもいいはずだと。
幾度か目でそれを問うタイミングもあった。ベッドの上の呼吸や肩の向きで、互いの想いが交わりそうな瞬間が確かにあった。
けれど、やめたのだ。
「具合は大丈夫」と言う言葉を、どうしても信じきれなかったからではない。
彼女がそれを“嘘にしてまで守ろうとしている”と感じたからだ。
痛みの事実を隠し、薬を服用しながら、彼女は微笑んだ。
愛してくれる人の前で、笑顔を崩したくない。ただ、それだけのために。
その姿勢はどこまでも気高く、美しく、それゆえに胸に突き刺さる。
「…… アラン」
心の中でそっと名前を呼ぶ。
手のひらに残った水が指先をすべり落ち、陶器の洗面器の底に音もなく消えた。
鏡越しに見つめた自分の顔は、なぜかひどく曇っていた。
妻の痛みのすべてに触れられず、求めることにすら怯えてしまう自分がいて――
それでもなお、彼女の隣に在り続けたいと切に願う。
その想いと矛盾が渦を巻き、静かにその朝に沁み込んでいく。
いつかまた、何も隠さず、囁きのような微笑で――
「大丈夫よ」と、それが本当に意味を持つ日が来ますようにと。
彼は水を払い、顔を拭いた手を胸元で軽く合わせ、小さな祈りを落とすように朝に戻っていった。
長く丁寧に磨かれた楢の木のテーブルに、朝の日差しが斑に落ちていた。煌々と光るだけでなく、どこか冷たさを含んだその陽光は、ブラック家の食卓を穏やかに照らしていた。
静まり返る朝の空気のなか、パン皿のきめ細かい白磁にスープの湯気がほのかに揺れている。端正に並べられた器の合間に、オリオンの低い声とヴァルブルガの静かな微笑みが行き交うが、それらの気配も少し離れた一角―― アランの前では、どこか距離を持って穏やかに静まっていた。
レギュラスは、ナプキンの折り目のひとつを整えながら、無言でアランの方を見やった。
彼女の手は、ナイフを持ち上げては沈め、皿の淵のパンにわずかに触れているだけだった。唇はにこやかに曲線を描いていたが、食べるそぶりは自然ではない。
――やはり、食が細くなっている。
そう確信したレギュラスは、器を静かに手に取り、自らのスプーンで温かいスープをすくった。
「アラン、しっかり食べてくださいね。体力をつけておかないと。」
声をかける声音はやわらかく、けれど思いの滲んだそれは、周囲の食器の音よりも静かに、だが確実に響いた。アランが驚いたように彼を見つめると、レギュラスは何でもないような仕草で、自分の分からすくい取った料理をアランの取り皿にそっと置いた。
軽やかな音。
それだけの行為に、目の奥がふっと揺れた。
アランは言葉に詰まりかけながら、短く声を落とす。
「……ありがとう、レギュラス。」
その声には、うっすらとした罪悪感と共ににじむ、柔らかな感情があった。
誰にも悟られぬように、笑顔の角度を保ちながら、アランは彼の差し出した器を両手でそっと受け取る。
肩越しにヴァルブルガが一瞥をくれたが、声はかけなかった。
ブラック家の格式高い朝には、時としてこうした淡いやりとりすら音を立てる。
レギュラスはそれを受け流すように、何も言わずに自分の席へと戻った。
だが胸の奥では小さな誓いのように思っていた。
――言葉にならぬ気遣いこそが、いま最も彼女に伝えるべきものなのだ、と。
真鍮のカトラリーがゆっくりと皿に触れ、アランは最初のひと匙を静かに口へと運んだ。
それを見届けるレギュラスの視線は、静かで、どこまでもやさしかった。
朝の日差しが水面のように揺れながら、温かい食卓に静かな余韻を残していった。
決して声高ではない、けれど紛れもない心の通いが、そこにたしかにあった。
昼下がりの光は柔らかく庭を撫でていた。雲ひとつない青空のもと、ブラック家の裏庭は静けさに包まれ、まるで時がゆっくりと流れているようだった。
枝垂れるバラの濃い香りと、夏の余韻を残した芝生の匂い。どこかから聞こえてくる鳥のさえずりさえも、遠く控えめに響いていた。
木陰に置かれた白いアイアンの椅子に、アランは座っていた。
胸には小さな毛布に包まれたアルタイルを抱いている。赤子はおだやかな寝息を立てており、ちいさな手が時折その布の端をぎゅっと握りこんでいた。
アランの瞳もまた、その寝顔にそっと注がれている。
優しさに溶けたまなざしだった。
そっと足音も立てずに現れたレギュラスは、ふたりの姿を見て、ふと息を止めそうになる。
この一瞬を、写真に閉じ込めておきたい。
そう思った。
まるで陽光がふたりのまわりで柔らかな額縁を描いたかのようで、それは言葉などいらぬ、美しい静謐だった。
レギュラスはアランのすぐ隣に腰を下ろす。
石造りのベンチは熱を含んで、ほんのり温かかった。
「……アルタイル、あなたにそっくりだわ」
アランがそう言った声には、くすぐったいような静かな微笑が溶けていた。
レギュラスは彼女の視線の先にある子供の顔を見下ろし、片眉をわずかに持ち上げながら、少し意地悪そうに笑った。
「ええ――僕の子ですからね」
皮肉でも自慢でもない。
それは、心からの実感だった。
我が子として、この世に存在してくれていること。それがどれほど奇跡に近しい事かを、この腕を通して初めて知った。
そして何より、いま、我が子を胸に抱いているアランの姿が、
昼下がりの光に照らされて――本当に、ただ、美しかった。
風がそっと揺れる。
アランの髪が肩からふわりと舞い、レギュラスはそれに手を伸ばしかけたが、途中で思いとどまるように手を引いた。
この静けさを乱すのは、もったいなく思えたのだ。
それほどまでに、目の前の景色は完璧だった。
「……眠ってる?」
「ええ、よく寝てるわ。さっきまでぐずっていたのに、あなたの足音に気づく頃にはすっかり落ち着いて……不思議ね。」
アランは笑った。
くす、と控えめながらも、完全に心を許した人にだけ向けた本当の微笑だった。
まるでその笑みによって、小さな日だまりがもうひとつ、庭に生まれたような気さえした。
その午後、時は特別な音を立てず、ただやわらかに流れていた。
硝子の中の水のように澄んだ、何気ないひととき。
けれどその何気なさこそが、ふたりとひとりにとって何より尊く、
心の深くに刻まれる穏やかでかけがえのない瞬間だった。
夕暮れの陽が西の空にかかり、屋敷の中庭にもやわらかな橙の光が差しこんでいた。空気は静かで、まるで誰かが息をひそめて見守っているような、そんな張りつめた温度が庭に満ちていた。
アランは木陰のソファに静かに腰をおろし、ローブの裾を整えながら何も言わず座っていた。隣の揺りかごからは、アルタイルの静かでやわらかな寝息が微かに聞こえるだけ。小さな胸が規則的に上下していて、それを見ているだけで、少しだけ心が和らぐような穏やかさがあった。
だがその静けさを破る気配は、すぐに足音と共にやってきた。
乾いた芝の上でほとんど音を立てずに歩く、品のある足取り。
「……まあ。気持ちよさそうに眠っているわね。」
その声に、アランは視線を横へ向けた。
レースの襟に淡いグレーのローブを纏ったヴァルブルガが、足を止めて揺りかごをのぞきこんでいる。優雅で隙のない佇まいは、昼でも夜でも変わらない。
その口元に、一瞬だけ、微かな笑みが灯った。
「赤子というのは、こうも静かに眠れるものなのね。あの子たちの眠りには、何か神聖なものがあるわ」
その言葉には、確かに祖母としてのやさしさが含まれていた。けれど、アランの胸中では警鐘が鳴っていた。
ヴァルブルガがただ純粋に、孫の寝顔だけを見にくるような人間でないことを、アランはもう知っている。
揺りかごの揺れが止まると、ヴァルブルガはゆっくりと体を起こし、アランの方へと振り返った。
「アラン」
抑揚のない、けれど柔らかくて冷たい声だった。
アランが息を整えようと胸を開きかけた瞬間――
「最近は、レギュラスと寝ていないようね。」
光の欠片が消えるように、アランの中から体温がすっと引いていくのを感じた。
まるで剣先を羽で撫でるような号令だった。
穏やかだが鋭く、明確な意図を持ちながら、決して強くは言わない。だが、だからこそ圧があった。
言葉には出さなくとも、**次**が望まれている。
オリオンのようにはっきり口にこそ出さないが、それでもなお――この問いは、アランを射抜くに十分すぎた。
「……そう、とても明け透けには言わないのね」と、心の中でひとりごちたアランの胃が、きり、と締めつけられるように痛んだ。
「……ええ。お互い、体調を気遣って、少し……控えているだけです」
アランはそう答えると、何とか平静を装って微笑みをつくったが、それはどこか乾いていて、皮膚の内側だけが微かに冷えていくようだった。
ヴァルブルガはその言葉に応えるでもなく、目を細めて空を仰いだ。
「……ブラック家の血は、古く、誇り高いもの。この子がそれを継いでいるのは、とても喜ばしいわ」
単なる感想のように聞こえるその言葉も、実のところは明確な目的地を持っていた。
もっと必要だ、と。
レギュラスのことは信頼している、と言ったら嘘になる。だが、この家に嫁いだ以上、アランは常にこの「眼差し」――選別するようでいて、背後から突き落とすこともできる視線に耐えなければならなかった。
「……ええ、その通りですね」
アランは、内側に胸を抱きしめるようにして、答えた。
揺りかごの中でアルタイルが、小さく寝返りのような動きをする。
アランの指がそっと赤子の頬に触れたとき、陽の光が葉を越え、やわらかい影を落とした。
強くあらねばならない――と自分に言い聞かせながら、
彼女は、またひとつ静かに痛みを呑み込んでいた。
夜はすっかり深まり、屋敷を包む静けさが、まるで重い布のように寝室の隅々を埋めていた。炉の火はすでに弱く、その橙の灯が揺らぎながら壁に伸びる二人の影を曖昧に溶かしている。
アランは静かに寝台の上に座っていた。
薄いシルクのガウンが揺れ、指先が落ち着きなく膝の上を撫でては止まる。心臓の高鳴りはまるで誰かに聞こえてしまいそうなくらいに早く、喉も乾ききったまま言葉を探していた。
レギュラスは寝巻き姿のまま、卓の上の書類を静かに片付けていた。春先の疲れた光を湛えたような瞳は柔らかく、アランの動作に何かを感じたのか、ふとこちらを振り返った。
「アラン――どうしました?」
優しく、その声は穏やかだった。
あの慈しみを含んだ眼差しに、アランはいつだって救われてきた。遠い痛みをそっと包むような、触れ方だった。それなのに――
いま、欲しいのはそれではなかった。
救いや慰めではない。
優しさでも、慈しみでもない。
もっと――強くて、はっきりとした「証」が欲しかった。
レギュラスと夫婦であるという実感。
この家の未来へ何かを「差し出す者」として、はっきりとその脚を一歩踏み出さない限り、自分の存在意義は明確に切り落とされてしまうかもしれない。
今朝のヴァルブルガの言葉の余韻が、まだ内側に焼きついていた。
“最近はレギュラスと寝ていないようね。”
その一言が、まるで冷たい刃のように今も奥で疼いていた。
やんわりと、しかし確実に告げられた“次”への期待。
この家における澄んだ忠告ほど、時として恐ろしいものはない。
アランはそっと、唇を開いた。
羞恥も矜持も、一つずつ床に落ちていくような感覚だった。
「……あの……」
張りつめた声。掠れてもなお勇気を振り絞った。
レギュラスが眉をひらき、歩み寄る。
その瞳に浮かぶものは――変わらず、ただ彼女を思う優しさ。
けれど、それが苦しい。
その優しさのなかに、彼は決して彼女を「拒まない」けれど、「求めてもこない」ことも、アランには痛いほどわかってしまっていた。
(お願い、気づいて。なぜこのタイミングで口を開いたのか。なぜこんな夜に顔を伏せているのか)
視線を合わせることすら難しかった。けれど、このまま何もしなければ、自分の場所を見失ってしまう気がした。
だから言った。
「……レギュラス、もし……今夜、少し時間があるのなら……」
それは、誘いでも誓いでもなく、ほとんど訴えのような囁き。
レギュラスの瞳がほんの少しだけ揺れた。
その奥で、彼が何かを察したのがわかった。
けれど返されるであろう言葉は、まだアランには聞こえなかった。
彼に抱かれたいのではなく、そうしなければならないと、自分に言い聞かせていた。
その苦しい矛盾を抱えながら、それでもアランは指先をそっとレギュラスの袖へとかすかに伸ばした。
震える手。震える心。
けれど――その触れた指から、確かに何かを伝えずにはいられなかった。
母であること。
妻であること。
そして、女であること。
そのすべてが、いま彼に向けて差し出されていた。
レギュラスの長い指が、迷うようにアランの手を取った。
窓の外、夜の風が庭のレースカーテンをゆるやかになでた。
ふたりの間に流れ込む沈黙が――嵐の前の、最も繊細な呼吸のように、ただ静かに漂っていた。
夜の帳がしんと屋敷を包み込み、部屋の奥には、夜灯だけがほのかに揺れていた。絹のカーテンが音もなく風にのって広がり、月の光がわずかに寝台の端を照らしている。
アランは、薄手のナイトガウンに身を包みながら、シーツの上で静かに身を横たえていた。隣から伸びてきたレギュラスの手に応えるように、そっと目を伏せたその瞬間――胸の奥に、ずしりとした恐れが落ちてくる。
それは、痛みの記憶からくるものだった。
まだ完全に癒えきっていない身体。出産時に生じた傷は、医女の手により細やかに縫合されたと聞いている。だが、それでも、あの裂けるような痛みの記憶が――まるで冷たい霧のように全身をめぐる。
本当に大丈夫なのか。この身体が、本当に、もう愛されるための器として受け入れられるのか。
「まさか……途中でまた、裂けたり、しないかしら……」
そんな恐ろしい想像が、ふと脳裏をよぎる。
そのたび、指先がわずかに震えた。
目を伏せ、吐息を飲み込む。
だけど、下を向いてはいられない。
この交わりは、もはやただの“夫婦の営み”ではなかった。
アランにとって、それは“義務”であり、この家で「必要とされる存在」であり続けるための、最後の位置確認のようなものだった。
レギュラスの手がゆっくりと彼女の頬に触れる。
まるで割れものを触れるように、慎重すぎるくらいの気遣いで。
そして、ほんのわずかに彼が口を開いた。
「……無理、してないですか?」
アランは一瞬、はっとして彼の顔を見た。
その瞳には、ただ純粋に、彼女を思う優しさが宿っていた。あたたかくて、誰よりも純粋で、痛みに手を伸ばすような視線。
けれど、アランは――静かに、首を振った。
嘘だった。
本当は怖かった。
痛かった。
やめたいと、心のどこかで叫んでいた。
それでも、口にはできなかった。
ここで「痛い」と言ってしまえば、きっとレギュラスは、それ以上、決して彼女に触れようとしないだろう。彼の優しさが、彼女の罪悪感をさらに深く、静かに抉ることになるのが分かってしまった。
アランは微かに唇を開き、かすれた声で言った。
「……大丈夫。続けて」
その言葉が、自分の心を欺いているのも分かっていた。けれど、体と心の間の距離を埋めるには、もうそれしかなかった。
レギュラスの手が、さらに彼女の細い腰へと伸びる。
息を潜めながら、その温かさを受け入れようとする。
アランは、必死だった。
優雅に仕える夫人としての余地などなく、ただ女として、妻として、母として――何かを「渡す」ことでしか、この屋敷に自分の立ち位置を守れぬような恐怖。
わずかにこぼれた涙は、感情ではなく、ただ身体が自然に反応した防衛だった。
それでも彼女は漏らさなかった。声も、痛みも。
そうして交わされた夜は、どこまでも静かだった。波もなく、叫びもなく、
ただ決意だけが寄せては引くように、ベッドの皺に染み込んでいった。
月光に浮かぶ白い肩。
その輪郭が、何よりも美しく、そして悲しかった。
夜が明け始めた頃、屋敷の中にはまだ深い静けさが残っていた。薄曇りの空から射し込むかすかな朝の光が、カーテン越しに広がり、寝室の天蓋の下に柔らかい灰青の影を落としている。
レギュラスは目を覚ましていた。
けれど、身体は一切動かさずに、隣に眠るアランの姿をじっと見つめていた。
乱れたシーツの中、アランの肩がかすかに上下している。その眠りは深く、隠すことのできない倦怠と安堵が重なりあった静かな呼吸だった。髪は枕元にほどけて流れ、頬にはまだ熱の残る紅がほのかに宿っていた。唇は、夢の記憶を抱いているかのようにわずかに緩く結ばれている。
レギュラスの胸の奥には、まだ昨夜の余韻が深く燃えていた。
―― どこかでずっと、待ち続けていた。
否、求め続けていた。けれど、いつも踏みこめなかったその距離をようやく越えたという安堵と、激しく溢れて止まらなかった想いの奔流。
気遣う理性も、痛みに向けられていた優しさも、途中からは溶け落ちていった。
ただ、「彼女がそこにいること」に全身が夢中になり、胸の奥に抱え込んでいた愛情が、触れるすべての振る舞いの中に流れ込んだ。
愛している――
その言葉を何度、心の中で呟いたことだろう。
口には出さなかった。
けれどそれは、声よりも確かにアランに触れていた気がした。
それだけに、今こうして眠る彼女を起こすことが惜しかった。
レギュラスはゆっくりと身を起こし、ため息をひとつだけ洩らす。シーツの中の体温が名残惜しく、けれどその深い眠りを妨げることの方がよほど憚られた。
「……もう少しだけ、このままで。」
小さくそう呟くと、彼は静かに寝室を出た。
朝食の席では、いつものように銀器の音が早い時間にはじまり、紅茶の香りと共にヴァルブルガの声が空気を支配する。
「アランは?」
低い問いに、オリオンも、わずかに眉を上げた。
レギュラスはパンをちぎりながら、あくまで平然と答えた。
「少し……疲れが残っているようで。昨夜、よく眠れなかったんです。」
その声音には微かな甘さと、何かを含ませた静けさがあった。
問い詰めることを好まないオリオンはひとつ頷いただけ。
ヴァルブルガもまた、それ以上口にしなかったが、何かを感じ取っていたに違いなかった。
だがそれでも、何も言わなかった。
それは一種の、承認。
今朝の沈黙には確かに温度があった。
体ではなく、「意味」を知る者だけが察する、微かで確かな余韻。
レギュラスは紅茶をひとくち口に含み、静かに笑みを滲ませた。
すべてが完成したわけではない。
けれどようやく、ほんのかすかに――
彼女の心に触れた気がした。
朝の霧が静かに地平を包むなか、任務先の古い礼拝堂の裏手にレギュラスは立っていた。黒いローブの裾を風がかすかに揺らし、擦れた石造りの壁の冷たささえ、今日の彼にはどこか穏やかに感じられた。
昨日の夜から続く、身体の奥に残された不思議な熱。
それは激しさの残滓ではなく、静かにじんわりと灯る小さな炎のようだった。
触れた肌の記憶、低く震える声、微かに震える手――
そして、それでも彼を受け入れようとした、誇り高き妻の勇気。
形にしようとすれば、言葉が追いつかず逃げていくような感情だった。
けれどそれは確かに、今の彼の心を満たし、そのまま体にも染み込んでいた。
レギュラスは、歩く足も軽やかに思えている自分に気づき、少しだけ苦笑した。
「……まったく、単純なものだな。」
誰に向けるでもなくつぶやいたとき、背後から声が飛んできた。
「ねぇ、今日もしかして君……機嫌いい?」
振り返れば、バーテミウス・クラウチ・ジュニアがいつもの気怠げな笑みを浮かべて近づいてくる。笑っているのか皮肉を言っているのか分からない、あの曖昧な表情。
レギュラスは瞬きを一度だけして、淡く首を傾げた。
「変わりませんよ。」
それだけ。相変わらず淡々とした受け答えだった。
彼としては十分に真摯な否定のつもりだった。けれど、バーテミウスはニヤリと口角を上げて言う。
「ふうん? その顔で言われても、ちっとも信じられないけど?」
レギュラスは肩をすくめた。
あくまで冷静を崩していないふうを保ちながらも、耳の奥に、今朝のアランの寝顔が不意に浮かぶ。
白いシーツの中、淡く波打つ呼吸。
自分の名を呼ぶこともなく、静かに安堵だけを漂わせたその姿。
あれほど美しい眠りを、自分の隣で見せてくれていたという事実。
それが、まだ自分の心をこんなにも静かに温めている。
だから――少し気持ちが明るく見えても、仕方ないのかもしれない。
そっと息を吐く。
そして、バーテミウスの視線を避けるように、目を石畳の影へと落とした。
「……気のせいですよ。あなたの観察が鋭すぎるだけでしょう。」
その声音はいつもと変わらぬ低さだったが、否定の語尾にはわずかに笑みの気配があった。
バーテミウスがなにか言おうとしたそのとき、部隊の集合口から呼び声がかかった。
レギュラスはその声に軽く頷き、足を向けながら指先で外套の端を整えた。
心の奥に残ったやわらかな余韻と、焦がれるような記憶。
それらを、自分ひとりの中に、そっと仕舞っておくことの温かさに、
いま少しだけ救われていた。
夜はもう深く、屋敷のすべての灯が落ちていた。遠くの渡り廊下では風が重たい石柱に吹きすさび、時おりカーテンの向こうの枝を小さく叩く音が響いていた。
アランは、ベッドの上。シーツの下で目を閉じたまま、ただ、静かに呼吸を整えていた。
この時間が、眠りへと移る前の「ふたりの時間」と名前をつけられてから、もうどれほどが経ったのだろう。
それは、ほんのきっかけだった。あの夜、彼の手に静かに自分を差し出した夜から、レギュラスのなかで何かが外れたように、欲という名の愛情が連夜、彼女に注がれつづけていた。
まるで、それまで失われていた時間を取り戻すかのように。
まるで、夜ごとに確かめ合わなければどこかへ消えてしまいそうなものがあるかのように。
最初は、受け入れることに意味を見出そうとしていた。
“求められている”こと自体に、安心を感じようとしていた。
けれど、回数を重ねるたびに、どこかで何かがひとつずつ落ちていくようだった。
甘い言葉も、そっと撫でる手も、どこか空をすり抜けていくような錯覚。
レギュラスの熱は確かだった。身体ごと愛されていることも。
彼の手は優しく、彼のまなざしはやわらかかった。
だけど、アランの内側では――ひとつずつ、「自分」が溶けていく感覚がやまなかった。
理由のわからない痛みがあった。
あるいはそれは“身体の痛み”と呼ぶべきものではないのかもしれなかった。
産後に残っていた鈍さが、何かに引きずられて、いまも離れない。
傷の塞がった場所が、なぜこれほどまでに重たく疼くのか、もう分からなかった。
けれど。
それでもアランは、拒まなかった。
拒めなかった。
もし、これが――ヴァルブルガの安心材料になっているのなら。
「夫婦はきちんと関係を結んでいる」と、どこかで耳に入っているのなら。
そう思えるだけで、アランはその夜も静かに微笑むことができる。
誰にも見せる必要のない、ガラスの笑顔を。
もちろん、そんなことを直接言われたことは一度もなかった。
けれど、彼女の眼差しも、使用人たちの沈黙も、この家の「歩き方」はいつも何かを強く語っていた。
その圧に応えるように、アランは“今夜も応える妻”を演じた。むしろ、演じる自分を探しながら、この家の輪郭にしがみついていた。
アルタイルさえ、無事でいてくれたら。
その寝息さえ、自分の隣で静かに続いてくれるのなら――。
それだけで、生きていけた。
この家の重たい扉に、心を置き去りにしても、生き抜く術があるなら。
母として、妻として、「ブラック家の女」として正しくあれるのなら――。
アランは今日も、失っていく感覚をどこかで見つめながら、
すべてを「守る」ためにそっと目を閉じた。
その胸に疼き続ける名もなき痛みだけを、静かに抱きしめながら。
アルタイルの成長は、目に見えてわかるほどに穏やかだった。
夜中を何度も起きては、背中を揺らしたあの連続した夜が、少しずつ過去になっていく。赤子の睡眠は深くなり、ようやく夜の帳が本当の“休息”という名にも値するものになっていった。
その分だけ、ふたりの時間が戻ってきていた。
レギュラスとこうして、同じ部屋で、同じ枕を並べる夜が増えていくのは、本来なら喜ばしいことだった。
けれど―― アランの胸には、言いようのない痛みが残ったままだった。
マグルの少女のことを話してから、いくつもの夜が過ぎた。
レギュラスは何も責めては来なかった。
けれど、たとえば言葉の端に宿る、僅かな間。
アランが目を伏せたとき、それを追わない視線。
ふとした沈黙に、張り詰めるような温度。
そんな小さな“距離”が、アランには何より堪えた。
何を言えばいいのかわからなかった。どこまでを悔い、どこまでを守るべきだったのかも。
彼の信じてきた世界の内側で、それを裏切るような行為を選んだ自分。
レギュラスが、それでも口にしなかった感情が、その分だけ深く彼の中で重なっていると、アランは知っていた。
「……ごめんなさい、と言っても、足りませんよね」
ごく小さく、息とともに漏れた言葉。
レギュラスに届くように発したわけではなかった。けれど、沈黙の空気の中に、確かにそれは染みこんでいった。
その言葉の気配に、レギュラスがほんのわずか身じろぎする。
ベッドがかすかに軋んだ。
「……謝るために一緒にいるわけじゃありません」
静かな声だった。けれど、その声の奥には、かすかに滲む疲労と苦しさがあった。
それはきっと――彼なりの優しさと、諦めと、まだ残る葛藤だった。
アランは、胸の奥がふるえるような心地で、小さく目を閉じる。
償いの言葉が、見つからなかった。
けれどこの沈黙の間に、小さなぬくもりが宿っていることも確かだった。
いつか、この隙間に言葉を置ける日が訪れるのだろうか。
それともただ、言葉にならないまま、指先だけを触れ合わせて歩いていくしかないのだろうか。
夜は静かに、二人の間を繋いだまま流れていった。
星の見えない闇の中、それでもアランはそっとレギュラスの背中へと手を伸ばした。
触れるでもなく、ただ確かめるように。
見えない場所でしか寄り添えない心が、どうかそれでも届きますようにと、静かに願いながら。
部屋には灯りが落とされていた。
深夜の屋敷には静けさが満ち、風の音すら聞こえないほどだった。
ベッドサイドの薄明かりが、ふたりの姿をほのかに照らす。レギュラスが静かに身を起こし、正面からアランを見つめたのは、ほんの一瞬のことだった。
その気配に気づいたアランは、少しだけ驚いて目を上げる。
自然と目を逸らしてやり過ごそうとした視線が、ふいに真っ直ぐな眼差しとぶつかった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吸うようにして声を落とした。
「…… アラン、そんな話より――具合はどうなんですか?」
一瞬、アランの胸がわずかにゆれる。
静かで、やさしい問いかけだった。
けれど、どこか、その柔らかさが歯がゆくさえも思えた。
「……ほとんど、回復してるわ」
できるだけ平坦な声で、それ以上詮索させぬようにと気を張ったまま。
けれど、レギュラスは軽く一度首を横に振る。
「使用人たちから聞いています。まだ――痛み止めを服用している、と。」
その言葉は穏やかだったが、責めでも問い詰めでもなかった。
ただ、どこまでも彼らしい愚直な気遣いだった。
それがアランには、少しだけ――重かった。
出産を経て、母になって。
その身体の奥に、どれだけの変化が起き、どれほどの痛みが刻まれているか――
外からは見えない、許されないほど静かな傷が、生きる日々の中に織り込まれていた。
アランの中には、声にならない反射のような思いが浮かぶ。
ただ、心のどこかでふと感じてしまった――もし、あの痛みが、“あの日”マグルの少女を救うために使った魔力の余波だと気づかれたら、と。
そう思った瞬間、鋼のような意思が胸に降りた。
弱音なんて、吐けない。
“わたしは間違ってなかった”と、どこかで叫びたかったのかもしれない。
だからこそ、痛みはあっても、抱えていた。
アランは、そっと微笑んだ。
そして、その微笑みに、つもる本音を隠して。
「……少し過敏になってるだけ。ただの予防よ。必要そうな時にだけ。あなたが心配するようなほどじゃないわ」
それは、半分本当で、半分は不器用な嘘だった。
けれど、そう言い切る声には、どこか、意地のようなはかなさがにじんでいた。
レギュラスはその言葉にさらに言葉を重ねることなく、じっと見つめたまま沈黙に沈んだ。
なにかを言いたそうで、でも口を閉じていた。
ふたりの間に漂う夜の気配が、ほんの少しだけ静かに深くなる。
違える道の上に積まれたあの選択や、すれ違う信念の先にある痛み。
それでも、共にこうしてここにいるふたりの時間。
微かなランプの明かりが、アランの頬にそっと影を落としていった。
語られなかった本音も、伝えられなかった痛みも、夜の空気にゆっくりと溶けていくようだった。
朝の静けさを引き裂くような陽光が、ブラック家のダイニングルームの重々しいカーテンをすり抜けていた。大理石の床に赤金色の斑模様を落とし、銀食器の表面を鈍くきらめかせている。まだ空気が固く静まり返ったその朝食の席で、アランはひとり椅子に腰掛けていた。
胸元まできちんとローブの合わせを整え、背筋をまっすぐに伸ばしている。髪も丁寧に結い上げられていたが、その張り詰めた整い方には、どこか無理をして形を保ったガラス細工のような脆さがあった。
「早いですね」と、レギュラスが穏やかに声をかけた。
食卓の入り口に立ち止まり、アランの姿をしばし眺めた彼は、思わずそう言っていた。
アランは微笑んだ。
瞳にかすかな光をたたえて、それでもどこか空気を弾かない笑みだった。
「ええ。早く……目が覚めましたから。」
言葉は自然だった。けれどその明るさの裏に隠された、何かを隠すような気配を、レギュラスはすぐに察してしまう。
ほんの少しだが、唇の色が薄かった。指先の動きに、無意識に触れる腹部のしぐさ。何より、微笑の持続がわずか半拍短かった。
「先に……失礼。顔を洗ってきます。」
アランに短く微笑を返し、彼は静かに部屋をあとにした。
グラスの音、ティーカップに湯が注がれる音だけを背に受けながら、廊下を渡り洗面所へと向かう。
扉の前で出迎えようとした使用人が、ふと何かを伝えるような目をした。
「旦那様……奥様が今朝早く、痛み止めを服用されておりました。」
レギュラスは、一瞬だけ動きを止めた。
けれど顔には出さなかった。
「ああ……ありがとう。」
それだけを落として、静かに洗面所の扉を閉める。
冷たい水を手に掬いながら、じわじわと胸の奥に鈍い痛みが宿っていく。
それでも、あの人は“早く目が覚めた”と言った。
爽やかに、何もなかったかのように、笑って。
――痛みを押さえ込みながら、笑顔で朝食の席に座るアランが、たまらなく痛々しかった。
昨晩の沈黙が、頭のなかで蘇る。
医女はもう“問題ない”と言っていた。
ルシウスたち兄夫婦の老練な助言でさえ、そうだった。
そろそろ、夫婦として自然な時間を重ねてもいいはずだと。
幾度か目でそれを問うタイミングもあった。ベッドの上の呼吸や肩の向きで、互いの想いが交わりそうな瞬間が確かにあった。
けれど、やめたのだ。
「具合は大丈夫」と言う言葉を、どうしても信じきれなかったからではない。
彼女がそれを“嘘にしてまで守ろうとしている”と感じたからだ。
痛みの事実を隠し、薬を服用しながら、彼女は微笑んだ。
愛してくれる人の前で、笑顔を崩したくない。ただ、それだけのために。
その姿勢はどこまでも気高く、美しく、それゆえに胸に突き刺さる。
「…… アラン」
心の中でそっと名前を呼ぶ。
手のひらに残った水が指先をすべり落ち、陶器の洗面器の底に音もなく消えた。
鏡越しに見つめた自分の顔は、なぜかひどく曇っていた。
妻の痛みのすべてに触れられず、求めることにすら怯えてしまう自分がいて――
それでもなお、彼女の隣に在り続けたいと切に願う。
その想いと矛盾が渦を巻き、静かにその朝に沁み込んでいく。
いつかまた、何も隠さず、囁きのような微笑で――
「大丈夫よ」と、それが本当に意味を持つ日が来ますようにと。
彼は水を払い、顔を拭いた手を胸元で軽く合わせ、小さな祈りを落とすように朝に戻っていった。
長く丁寧に磨かれた楢の木のテーブルに、朝の日差しが斑に落ちていた。煌々と光るだけでなく、どこか冷たさを含んだその陽光は、ブラック家の食卓を穏やかに照らしていた。
静まり返る朝の空気のなか、パン皿のきめ細かい白磁にスープの湯気がほのかに揺れている。端正に並べられた器の合間に、オリオンの低い声とヴァルブルガの静かな微笑みが行き交うが、それらの気配も少し離れた一角―― アランの前では、どこか距離を持って穏やかに静まっていた。
レギュラスは、ナプキンの折り目のひとつを整えながら、無言でアランの方を見やった。
彼女の手は、ナイフを持ち上げては沈め、皿の淵のパンにわずかに触れているだけだった。唇はにこやかに曲線を描いていたが、食べるそぶりは自然ではない。
――やはり、食が細くなっている。
そう確信したレギュラスは、器を静かに手に取り、自らのスプーンで温かいスープをすくった。
「アラン、しっかり食べてくださいね。体力をつけておかないと。」
声をかける声音はやわらかく、けれど思いの滲んだそれは、周囲の食器の音よりも静かに、だが確実に響いた。アランが驚いたように彼を見つめると、レギュラスは何でもないような仕草で、自分の分からすくい取った料理をアランの取り皿にそっと置いた。
軽やかな音。
それだけの行為に、目の奥がふっと揺れた。
アランは言葉に詰まりかけながら、短く声を落とす。
「……ありがとう、レギュラス。」
その声には、うっすらとした罪悪感と共ににじむ、柔らかな感情があった。
誰にも悟られぬように、笑顔の角度を保ちながら、アランは彼の差し出した器を両手でそっと受け取る。
肩越しにヴァルブルガが一瞥をくれたが、声はかけなかった。
ブラック家の格式高い朝には、時としてこうした淡いやりとりすら音を立てる。
レギュラスはそれを受け流すように、何も言わずに自分の席へと戻った。
だが胸の奥では小さな誓いのように思っていた。
――言葉にならぬ気遣いこそが、いま最も彼女に伝えるべきものなのだ、と。
真鍮のカトラリーがゆっくりと皿に触れ、アランは最初のひと匙を静かに口へと運んだ。
それを見届けるレギュラスの視線は、静かで、どこまでもやさしかった。
朝の日差しが水面のように揺れながら、温かい食卓に静かな余韻を残していった。
決して声高ではない、けれど紛れもない心の通いが、そこにたしかにあった。
昼下がりの光は柔らかく庭を撫でていた。雲ひとつない青空のもと、ブラック家の裏庭は静けさに包まれ、まるで時がゆっくりと流れているようだった。
枝垂れるバラの濃い香りと、夏の余韻を残した芝生の匂い。どこかから聞こえてくる鳥のさえずりさえも、遠く控えめに響いていた。
木陰に置かれた白いアイアンの椅子に、アランは座っていた。
胸には小さな毛布に包まれたアルタイルを抱いている。赤子はおだやかな寝息を立てており、ちいさな手が時折その布の端をぎゅっと握りこんでいた。
アランの瞳もまた、その寝顔にそっと注がれている。
優しさに溶けたまなざしだった。
そっと足音も立てずに現れたレギュラスは、ふたりの姿を見て、ふと息を止めそうになる。
この一瞬を、写真に閉じ込めておきたい。
そう思った。
まるで陽光がふたりのまわりで柔らかな額縁を描いたかのようで、それは言葉などいらぬ、美しい静謐だった。
レギュラスはアランのすぐ隣に腰を下ろす。
石造りのベンチは熱を含んで、ほんのり温かかった。
「……アルタイル、あなたにそっくりだわ」
アランがそう言った声には、くすぐったいような静かな微笑が溶けていた。
レギュラスは彼女の視線の先にある子供の顔を見下ろし、片眉をわずかに持ち上げながら、少し意地悪そうに笑った。
「ええ――僕の子ですからね」
皮肉でも自慢でもない。
それは、心からの実感だった。
我が子として、この世に存在してくれていること。それがどれほど奇跡に近しい事かを、この腕を通して初めて知った。
そして何より、いま、我が子を胸に抱いているアランの姿が、
昼下がりの光に照らされて――本当に、ただ、美しかった。
風がそっと揺れる。
アランの髪が肩からふわりと舞い、レギュラスはそれに手を伸ばしかけたが、途中で思いとどまるように手を引いた。
この静けさを乱すのは、もったいなく思えたのだ。
それほどまでに、目の前の景色は完璧だった。
「……眠ってる?」
「ええ、よく寝てるわ。さっきまでぐずっていたのに、あなたの足音に気づく頃にはすっかり落ち着いて……不思議ね。」
アランは笑った。
くす、と控えめながらも、完全に心を許した人にだけ向けた本当の微笑だった。
まるでその笑みによって、小さな日だまりがもうひとつ、庭に生まれたような気さえした。
その午後、時は特別な音を立てず、ただやわらかに流れていた。
硝子の中の水のように澄んだ、何気ないひととき。
けれどその何気なさこそが、ふたりとひとりにとって何より尊く、
心の深くに刻まれる穏やかでかけがえのない瞬間だった。
夕暮れの陽が西の空にかかり、屋敷の中庭にもやわらかな橙の光が差しこんでいた。空気は静かで、まるで誰かが息をひそめて見守っているような、そんな張りつめた温度が庭に満ちていた。
アランは木陰のソファに静かに腰をおろし、ローブの裾を整えながら何も言わず座っていた。隣の揺りかごからは、アルタイルの静かでやわらかな寝息が微かに聞こえるだけ。小さな胸が規則的に上下していて、それを見ているだけで、少しだけ心が和らぐような穏やかさがあった。
だがその静けさを破る気配は、すぐに足音と共にやってきた。
乾いた芝の上でほとんど音を立てずに歩く、品のある足取り。
「……まあ。気持ちよさそうに眠っているわね。」
その声に、アランは視線を横へ向けた。
レースの襟に淡いグレーのローブを纏ったヴァルブルガが、足を止めて揺りかごをのぞきこんでいる。優雅で隙のない佇まいは、昼でも夜でも変わらない。
その口元に、一瞬だけ、微かな笑みが灯った。
「赤子というのは、こうも静かに眠れるものなのね。あの子たちの眠りには、何か神聖なものがあるわ」
その言葉には、確かに祖母としてのやさしさが含まれていた。けれど、アランの胸中では警鐘が鳴っていた。
ヴァルブルガがただ純粋に、孫の寝顔だけを見にくるような人間でないことを、アランはもう知っている。
揺りかごの揺れが止まると、ヴァルブルガはゆっくりと体を起こし、アランの方へと振り返った。
「アラン」
抑揚のない、けれど柔らかくて冷たい声だった。
アランが息を整えようと胸を開きかけた瞬間――
「最近は、レギュラスと寝ていないようね。」
光の欠片が消えるように、アランの中から体温がすっと引いていくのを感じた。
まるで剣先を羽で撫でるような号令だった。
穏やかだが鋭く、明確な意図を持ちながら、決して強くは言わない。だが、だからこそ圧があった。
言葉には出さなくとも、**次**が望まれている。
オリオンのようにはっきり口にこそ出さないが、それでもなお――この問いは、アランを射抜くに十分すぎた。
「……そう、とても明け透けには言わないのね」と、心の中でひとりごちたアランの胃が、きり、と締めつけられるように痛んだ。
「……ええ。お互い、体調を気遣って、少し……控えているだけです」
アランはそう答えると、何とか平静を装って微笑みをつくったが、それはどこか乾いていて、皮膚の内側だけが微かに冷えていくようだった。
ヴァルブルガはその言葉に応えるでもなく、目を細めて空を仰いだ。
「……ブラック家の血は、古く、誇り高いもの。この子がそれを継いでいるのは、とても喜ばしいわ」
単なる感想のように聞こえるその言葉も、実のところは明確な目的地を持っていた。
もっと必要だ、と。
レギュラスのことは信頼している、と言ったら嘘になる。だが、この家に嫁いだ以上、アランは常にこの「眼差し」――選別するようでいて、背後から突き落とすこともできる視線に耐えなければならなかった。
「……ええ、その通りですね」
アランは、内側に胸を抱きしめるようにして、答えた。
揺りかごの中でアルタイルが、小さく寝返りのような動きをする。
アランの指がそっと赤子の頬に触れたとき、陽の光が葉を越え、やわらかい影を落とした。
強くあらねばならない――と自分に言い聞かせながら、
彼女は、またひとつ静かに痛みを呑み込んでいた。
夜はすっかり深まり、屋敷を包む静けさが、まるで重い布のように寝室の隅々を埋めていた。炉の火はすでに弱く、その橙の灯が揺らぎながら壁に伸びる二人の影を曖昧に溶かしている。
アランは静かに寝台の上に座っていた。
薄いシルクのガウンが揺れ、指先が落ち着きなく膝の上を撫でては止まる。心臓の高鳴りはまるで誰かに聞こえてしまいそうなくらいに早く、喉も乾ききったまま言葉を探していた。
レギュラスは寝巻き姿のまま、卓の上の書類を静かに片付けていた。春先の疲れた光を湛えたような瞳は柔らかく、アランの動作に何かを感じたのか、ふとこちらを振り返った。
「アラン――どうしました?」
優しく、その声は穏やかだった。
あの慈しみを含んだ眼差しに、アランはいつだって救われてきた。遠い痛みをそっと包むような、触れ方だった。それなのに――
いま、欲しいのはそれではなかった。
救いや慰めではない。
優しさでも、慈しみでもない。
もっと――強くて、はっきりとした「証」が欲しかった。
レギュラスと夫婦であるという実感。
この家の未来へ何かを「差し出す者」として、はっきりとその脚を一歩踏み出さない限り、自分の存在意義は明確に切り落とされてしまうかもしれない。
今朝のヴァルブルガの言葉の余韻が、まだ内側に焼きついていた。
“最近はレギュラスと寝ていないようね。”
その一言が、まるで冷たい刃のように今も奥で疼いていた。
やんわりと、しかし確実に告げられた“次”への期待。
この家における澄んだ忠告ほど、時として恐ろしいものはない。
アランはそっと、唇を開いた。
羞恥も矜持も、一つずつ床に落ちていくような感覚だった。
「……あの……」
張りつめた声。掠れてもなお勇気を振り絞った。
レギュラスが眉をひらき、歩み寄る。
その瞳に浮かぶものは――変わらず、ただ彼女を思う優しさ。
けれど、それが苦しい。
その優しさのなかに、彼は決して彼女を「拒まない」けれど、「求めてもこない」ことも、アランには痛いほどわかってしまっていた。
(お願い、気づいて。なぜこのタイミングで口を開いたのか。なぜこんな夜に顔を伏せているのか)
視線を合わせることすら難しかった。けれど、このまま何もしなければ、自分の場所を見失ってしまう気がした。
だから言った。
「……レギュラス、もし……今夜、少し時間があるのなら……」
それは、誘いでも誓いでもなく、ほとんど訴えのような囁き。
レギュラスの瞳がほんの少しだけ揺れた。
その奥で、彼が何かを察したのがわかった。
けれど返されるであろう言葉は、まだアランには聞こえなかった。
彼に抱かれたいのではなく、そうしなければならないと、自分に言い聞かせていた。
その苦しい矛盾を抱えながら、それでもアランは指先をそっとレギュラスの袖へとかすかに伸ばした。
震える手。震える心。
けれど――その触れた指から、確かに何かを伝えずにはいられなかった。
母であること。
妻であること。
そして、女であること。
そのすべてが、いま彼に向けて差し出されていた。
レギュラスの長い指が、迷うようにアランの手を取った。
窓の外、夜の風が庭のレースカーテンをゆるやかになでた。
ふたりの間に流れ込む沈黙が――嵐の前の、最も繊細な呼吸のように、ただ静かに漂っていた。
夜の帳がしんと屋敷を包み込み、部屋の奥には、夜灯だけがほのかに揺れていた。絹のカーテンが音もなく風にのって広がり、月の光がわずかに寝台の端を照らしている。
アランは、薄手のナイトガウンに身を包みながら、シーツの上で静かに身を横たえていた。隣から伸びてきたレギュラスの手に応えるように、そっと目を伏せたその瞬間――胸の奥に、ずしりとした恐れが落ちてくる。
それは、痛みの記憶からくるものだった。
まだ完全に癒えきっていない身体。出産時に生じた傷は、医女の手により細やかに縫合されたと聞いている。だが、それでも、あの裂けるような痛みの記憶が――まるで冷たい霧のように全身をめぐる。
本当に大丈夫なのか。この身体が、本当に、もう愛されるための器として受け入れられるのか。
「まさか……途中でまた、裂けたり、しないかしら……」
そんな恐ろしい想像が、ふと脳裏をよぎる。
そのたび、指先がわずかに震えた。
目を伏せ、吐息を飲み込む。
だけど、下を向いてはいられない。
この交わりは、もはやただの“夫婦の営み”ではなかった。
アランにとって、それは“義務”であり、この家で「必要とされる存在」であり続けるための、最後の位置確認のようなものだった。
レギュラスの手がゆっくりと彼女の頬に触れる。
まるで割れものを触れるように、慎重すぎるくらいの気遣いで。
そして、ほんのわずかに彼が口を開いた。
「……無理、してないですか?」
アランは一瞬、はっとして彼の顔を見た。
その瞳には、ただ純粋に、彼女を思う優しさが宿っていた。あたたかくて、誰よりも純粋で、痛みに手を伸ばすような視線。
けれど、アランは――静かに、首を振った。
嘘だった。
本当は怖かった。
痛かった。
やめたいと、心のどこかで叫んでいた。
それでも、口にはできなかった。
ここで「痛い」と言ってしまえば、きっとレギュラスは、それ以上、決して彼女に触れようとしないだろう。彼の優しさが、彼女の罪悪感をさらに深く、静かに抉ることになるのが分かってしまった。
アランは微かに唇を開き、かすれた声で言った。
「……大丈夫。続けて」
その言葉が、自分の心を欺いているのも分かっていた。けれど、体と心の間の距離を埋めるには、もうそれしかなかった。
レギュラスの手が、さらに彼女の細い腰へと伸びる。
息を潜めながら、その温かさを受け入れようとする。
アランは、必死だった。
優雅に仕える夫人としての余地などなく、ただ女として、妻として、母として――何かを「渡す」ことでしか、この屋敷に自分の立ち位置を守れぬような恐怖。
わずかにこぼれた涙は、感情ではなく、ただ身体が自然に反応した防衛だった。
それでも彼女は漏らさなかった。声も、痛みも。
そうして交わされた夜は、どこまでも静かだった。波もなく、叫びもなく、
ただ決意だけが寄せては引くように、ベッドの皺に染み込んでいった。
月光に浮かぶ白い肩。
その輪郭が、何よりも美しく、そして悲しかった。
夜が明け始めた頃、屋敷の中にはまだ深い静けさが残っていた。薄曇りの空から射し込むかすかな朝の光が、カーテン越しに広がり、寝室の天蓋の下に柔らかい灰青の影を落としている。
レギュラスは目を覚ましていた。
けれど、身体は一切動かさずに、隣に眠るアランの姿をじっと見つめていた。
乱れたシーツの中、アランの肩がかすかに上下している。その眠りは深く、隠すことのできない倦怠と安堵が重なりあった静かな呼吸だった。髪は枕元にほどけて流れ、頬にはまだ熱の残る紅がほのかに宿っていた。唇は、夢の記憶を抱いているかのようにわずかに緩く結ばれている。
レギュラスの胸の奥には、まだ昨夜の余韻が深く燃えていた。
―― どこかでずっと、待ち続けていた。
否、求め続けていた。けれど、いつも踏みこめなかったその距離をようやく越えたという安堵と、激しく溢れて止まらなかった想いの奔流。
気遣う理性も、痛みに向けられていた優しさも、途中からは溶け落ちていった。
ただ、「彼女がそこにいること」に全身が夢中になり、胸の奥に抱え込んでいた愛情が、触れるすべての振る舞いの中に流れ込んだ。
愛している――
その言葉を何度、心の中で呟いたことだろう。
口には出さなかった。
けれどそれは、声よりも確かにアランに触れていた気がした。
それだけに、今こうして眠る彼女を起こすことが惜しかった。
レギュラスはゆっくりと身を起こし、ため息をひとつだけ洩らす。シーツの中の体温が名残惜しく、けれどその深い眠りを妨げることの方がよほど憚られた。
「……もう少しだけ、このままで。」
小さくそう呟くと、彼は静かに寝室を出た。
朝食の席では、いつものように銀器の音が早い時間にはじまり、紅茶の香りと共にヴァルブルガの声が空気を支配する。
「アランは?」
低い問いに、オリオンも、わずかに眉を上げた。
レギュラスはパンをちぎりながら、あくまで平然と答えた。
「少し……疲れが残っているようで。昨夜、よく眠れなかったんです。」
その声音には微かな甘さと、何かを含ませた静けさがあった。
問い詰めることを好まないオリオンはひとつ頷いただけ。
ヴァルブルガもまた、それ以上口にしなかったが、何かを感じ取っていたに違いなかった。
だがそれでも、何も言わなかった。
それは一種の、承認。
今朝の沈黙には確かに温度があった。
体ではなく、「意味」を知る者だけが察する、微かで確かな余韻。
レギュラスは紅茶をひとくち口に含み、静かに笑みを滲ませた。
すべてが完成したわけではない。
けれどようやく、ほんのかすかに――
彼女の心に触れた気がした。
朝の霧が静かに地平を包むなか、任務先の古い礼拝堂の裏手にレギュラスは立っていた。黒いローブの裾を風がかすかに揺らし、擦れた石造りの壁の冷たささえ、今日の彼にはどこか穏やかに感じられた。
昨日の夜から続く、身体の奥に残された不思議な熱。
それは激しさの残滓ではなく、静かにじんわりと灯る小さな炎のようだった。
触れた肌の記憶、低く震える声、微かに震える手――
そして、それでも彼を受け入れようとした、誇り高き妻の勇気。
形にしようとすれば、言葉が追いつかず逃げていくような感情だった。
けれどそれは確かに、今の彼の心を満たし、そのまま体にも染み込んでいた。
レギュラスは、歩く足も軽やかに思えている自分に気づき、少しだけ苦笑した。
「……まったく、単純なものだな。」
誰に向けるでもなくつぶやいたとき、背後から声が飛んできた。
「ねぇ、今日もしかして君……機嫌いい?」
振り返れば、バーテミウス・クラウチ・ジュニアがいつもの気怠げな笑みを浮かべて近づいてくる。笑っているのか皮肉を言っているのか分からない、あの曖昧な表情。
レギュラスは瞬きを一度だけして、淡く首を傾げた。
「変わりませんよ。」
それだけ。相変わらず淡々とした受け答えだった。
彼としては十分に真摯な否定のつもりだった。けれど、バーテミウスはニヤリと口角を上げて言う。
「ふうん? その顔で言われても、ちっとも信じられないけど?」
レギュラスは肩をすくめた。
あくまで冷静を崩していないふうを保ちながらも、耳の奥に、今朝のアランの寝顔が不意に浮かぶ。
白いシーツの中、淡く波打つ呼吸。
自分の名を呼ぶこともなく、静かに安堵だけを漂わせたその姿。
あれほど美しい眠りを、自分の隣で見せてくれていたという事実。
それが、まだ自分の心をこんなにも静かに温めている。
だから――少し気持ちが明るく見えても、仕方ないのかもしれない。
そっと息を吐く。
そして、バーテミウスの視線を避けるように、目を石畳の影へと落とした。
「……気のせいですよ。あなたの観察が鋭すぎるだけでしょう。」
その声音はいつもと変わらぬ低さだったが、否定の語尾にはわずかに笑みの気配があった。
バーテミウスがなにか言おうとしたそのとき、部隊の集合口から呼び声がかかった。
レギュラスはその声に軽く頷き、足を向けながら指先で外套の端を整えた。
心の奥に残ったやわらかな余韻と、焦がれるような記憶。
それらを、自分ひとりの中に、そっと仕舞っておくことの温かさに、
いま少しだけ救われていた。
夜はもう深く、屋敷のすべての灯が落ちていた。遠くの渡り廊下では風が重たい石柱に吹きすさび、時おりカーテンの向こうの枝を小さく叩く音が響いていた。
アランは、ベッドの上。シーツの下で目を閉じたまま、ただ、静かに呼吸を整えていた。
この時間が、眠りへと移る前の「ふたりの時間」と名前をつけられてから、もうどれほどが経ったのだろう。
それは、ほんのきっかけだった。あの夜、彼の手に静かに自分を差し出した夜から、レギュラスのなかで何かが外れたように、欲という名の愛情が連夜、彼女に注がれつづけていた。
まるで、それまで失われていた時間を取り戻すかのように。
まるで、夜ごとに確かめ合わなければどこかへ消えてしまいそうなものがあるかのように。
最初は、受け入れることに意味を見出そうとしていた。
“求められている”こと自体に、安心を感じようとしていた。
けれど、回数を重ねるたびに、どこかで何かがひとつずつ落ちていくようだった。
甘い言葉も、そっと撫でる手も、どこか空をすり抜けていくような錯覚。
レギュラスの熱は確かだった。身体ごと愛されていることも。
彼の手は優しく、彼のまなざしはやわらかかった。
だけど、アランの内側では――ひとつずつ、「自分」が溶けていく感覚がやまなかった。
理由のわからない痛みがあった。
あるいはそれは“身体の痛み”と呼ぶべきものではないのかもしれなかった。
産後に残っていた鈍さが、何かに引きずられて、いまも離れない。
傷の塞がった場所が、なぜこれほどまでに重たく疼くのか、もう分からなかった。
けれど。
それでもアランは、拒まなかった。
拒めなかった。
もし、これが――ヴァルブルガの安心材料になっているのなら。
「夫婦はきちんと関係を結んでいる」と、どこかで耳に入っているのなら。
そう思えるだけで、アランはその夜も静かに微笑むことができる。
誰にも見せる必要のない、ガラスの笑顔を。
もちろん、そんなことを直接言われたことは一度もなかった。
けれど、彼女の眼差しも、使用人たちの沈黙も、この家の「歩き方」はいつも何かを強く語っていた。
その圧に応えるように、アランは“今夜も応える妻”を演じた。むしろ、演じる自分を探しながら、この家の輪郭にしがみついていた。
アルタイルさえ、無事でいてくれたら。
その寝息さえ、自分の隣で静かに続いてくれるのなら――。
それだけで、生きていけた。
この家の重たい扉に、心を置き去りにしても、生き抜く術があるなら。
母として、妻として、「ブラック家の女」として正しくあれるのなら――。
アランは今日も、失っていく感覚をどこかで見つめながら、
すべてを「守る」ためにそっと目を閉じた。
その胸に疼き続ける名もなき痛みだけを、静かに抱きしめながら。
