2章
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重たい静けさが、寝室の中に降りていた。
カーテン越しの淡い陽光はまだ灰色がかっていて、部屋に差し込むというよりは、そっと滲んでいるようだった。
アランは枕元に座っているレギュラスの気配を感じながら、ゆっくりと顔を向けた。
彼の瞳には強い感情は宿っていなかった。ただ、深く染みこむような静かな心配――それは、言葉よりも重く胸に響いた。
「アラン、体の方は……どうですか?」
その問いは、思っていたよりも優しい声音だった。
緊張や責め立てる色はなく、ただ彼女の身を案じる、一人の夫としての、そして何より一人の男としての本心が滲んでいた。
アランはゆるく頷いた。
言葉にしてしまえば崩れそうで、沈黙に身を隠すように。
頷きの動作一つにも、ゆるく残る痛みがあったが、それ以上に心が張り裂けそうだった。
レギュラスの身体が小さく前に傾く。
ベッドの傍まで身を寄せた彼が、まっすぐに覗き込む眼差しは、いつかの彼と同じく、ただひたすらに優しく、けれど深く迷っていた。
「アラン……なぜです?」
声は震えてはいなかったが、それでも押し殺すようだった。
「……聞きたいことが、山ほどあります。」
その言葉に、アランは息を止める。
分かっていた。
いつか必ず向き合わなければならないことだった。
ベッドの上で、アランは膝の上に指を揃えた。
何度もためらいがちに組みなおされた手のひらは、落ち着かない羽のように頼りなかった。
「……ごめんなさい、レギュラス」
たったそれだけしか、最初に口をついて出た言葉はなかった。
言葉にできなかった。
何をどこから話すべきか、どんなふうに真実を形にすればいいのか、自分でもわからなかった。
その罪の告白のような一言に、レギュラスのまぶたが、ゆっくりと伏せられる。
アランは、ひとつ言葉を飲み込み、そして恐る恐る、語り出した。
寒さが静かに染み入るような空気の中、部屋の中の時間はどこか遠のいていた。
アランは薄い膝掛けを胸元で結わえたまま、目を伏せながら、震える声で語った。
言葉を選ぶ余裕などなかった。
けれど、嘘だけはつけなかった。
「……あの子とは、以前……孤児院の近くで出会っていたの。怪我をしていて。ずっと、薄々危うい空気を感じていて……それでも誰にも知られないように、手紙のやりとりだけで……少し、支援をしていたの。」
静かな抵抗のような声だった。
なんの見返りもなく、ただ「あの子が夢を語ったあの午後」の記憶を、裏切りたくなかったのだ。
レギュラスは、それを遮らなかった。
ただ、黙って聞いていた。
けれど。
その沈黙の奥に、アランは敏感に“何か”が崩れていく音を感じていた。
彼の眼差しは優しくも怒りを浮かべるわけでもなく、ただ――深い、ひどく静かな失望を湛えていた。
まるで、言葉そのものよりも、彼女という存在が知らない場所へ遠ざかっていったことに気づいてしまったかのような表情だった。
それが、アランにはどんな言葉よりも、苦しかった。
「……そうだったんですね」
ようやく絞り出したレギュラスの声は、限りなく丁寧で、それゆえに遠かった。
「この家の名を背負っている以上、マグルを支援するというのは……少々、難しい行為です。しかも、ずっと黙っていらした。」
アランは唇を噛んだ。弁解なんて、できるはずがなかった。
「ごめんなさい……」
たったそれだけ。
それ以上、何も言えなかった。
部屋の中の空気が、ゆっくりと凍てついていく。
それは外気のせいではなかった。
その場に漂っていたのは、ブラック家が盾にしてきた純血という名の誇り。レギュラスもまた、その枠組みの中で生きてきた。数えきれない疑念と葛藤が、その理想を“内部から”揺るがそうとしている。
「……マグルの子どもを助けた、別にそれ自体を責めるつもりはありません。あなたの道徳心がそうしたのであれば」
レギュラスの言うとおり、それは真意だったのかもしれない。
けれど──彼の表情は、明らかに何かが崩れていた。
その顔には、どこまでも“シリウス”が浮かんでいた。
「あの子と交流を続けていたのは……あなたが、シリウスの掲げていた理想に共鳴していたからですか?」
静かな問いかけ。
けれど、その言葉は氷のようだった。
アランの心が、悲鳴を上げそうになる。
「違うわ……私は、ただ……」
言おうとした自分の言葉さえ、喉の奥で凍りついてしまった。
――違う、と言って、本当に違うのだろうか。
確かに彼の理想を思い出した。
誰も区別しない世界。マグルと魔法使いが共に生きられる未来。
あの少女の瞳の奥に、確かにシリウスがいた。
否定できなかった。
だからアランは、それ以上、なにも言えなかった。言わなかった。
沈黙がふたりのあいだを引き裂く。
この部屋の壁よりも、遠い距離が生まれていく。
レギュラスはそれ以上責めなかった。それが、かえって苦しかった。
アランの心の中心が、凍っていく。
今、ここにいるのに。
レギュラスの傍にいるはずなのに。
彼の目が、もう自分を見ていないような――そんな気がした。
静かに瞼を閉じた。
ひとつ、細かな涙がこぼれる音もなく頬を伝って、白いシーツに染み込んでいった。
壊したかったのではない。
ただ、守りたかった。
けれど、それでも――壊れていく音が、彼女の胸の奥で微かに響きつづけていた。
薄暗い書斎の隅、レギュラスは一人、冷たく硬い木の椅子に腰を下ろしていた。腹の底には煮えたぎるような怒りが渦巻きながらも、その激流を表に出すことはしなかった。彼の瞳は沈黙の中でゆっくりと光を失いかけ、深く考え続けていた。
思考の先には、あの孤児院で目撃されたアランの姿があった。数人のデスイーターたちが確かに彼女を見ていたこと。その情報がもしベラトリックスの耳に入れば、どんな惨状になるか想像するだけで恐ろしかった。あの冷酷な女がアランに杖を向ける光景を、彼は決して許すわけにはいかなかった。
レギュラスの胸中には、純血一族への忠誠から怒りと失望が噴き出していた。マグルを助けたというだけでも許せない行為だったのに、アランがその少女との交流を続けていた事実は、純血社会の根底を揺るがす裏切りと感じられた。
けれど、最も彼の心を侵食したのは、その背後にあった、アランが今なおシリウスと同じ理想を夢見ているという事実だった。シリウスへの想いを隠さず、その人格に共鳴して行動していることは、どうしようもなく痛いほど嫉妬し、虚しくもあった。レギュラスは、自分が抱く彼女への想いと純血家族としての義務の狭間で、自らの心の深い闇に引き裂かれていた。
何度も深呼吸を繰り返しながら、彼は静かに呟く。
「僕は、あなたを失いたくない。けれど……僕たちの世界は、あまりにも厳しい。」
その視線は冷たくもあり、切なくもあった。胸に秘めた愛情が嫉妬と痛みで渦巻きながら、レギュラスはまだ冷静に、しかし静かな決意をもって次の行動を練り始めた。彼にとって、守るべきものは、ただ一つ―― アランの命と、その未来であった。
孤独な戦いの始まりが、暗い書斎にひっそりと幕を開けていた。
重く立ちこめた朝の霧の中、石畳を打つ靴音が規則正しく響き渡る。
黒々としたローブに身を包んだ数人のデスイーターたちが、城塞の別室に集められていた。灰色の燭台の下、冷たい空気のなかで、誰ひとりとして笑ってはいなかった。
その中心に、レギュラス・ブラックは立っていた。
彼の顔にはあらゆる感情が消され、理知と冷静と、最低限の威厳だけが残っていた。
声を発したのは、沈黙が少し空気を重たくしたあとだった。
「昨日の件について、皆に説明を。」
静かで、だが決して曖昧ではない語調。
その一言にデスイーターたちは微かに姿勢を正す。中にはちらりと視線を交わす者もいた。あの場で、レギュラスの妻がいたことを目撃した者たちだ。
レギュラスは一拍だけ間を置いてから、言葉を繋いだ。
「妻―― アラン・ブラックは、本来私の任務の補佐として、同行する予定でした。元はオブスキュラスの魔力の一部を採取して妻の得意とする魔法薬に活かすつもりだったようですが…」
薄く張りつめた空気をゆっくりと手で断ち切るように、非常に慎重に、丁寧に話していく。
「……しかし体調が優れず、予定より遅れて姿を見せることとなった。その上、現地では想定を超えた状況が発生し、私自身、それに対処するために合流の手段を失った。」
目線はまっすぐ、誰とも合わず、誰も否定できないように。
緻密に。けれど突飛すぎない程度に、不自然とは思わせない淡々とした説明だった。
「彼女は、何も悪くはありません。合流の失敗が、誤解を生んだまでのことです。」
静まりかえった石の部屋。ローブの擦れる音ひとつすら、誰も出そうとしない。
レギュラスの背には、冷たい汗がじわりと忍び寄っていた。
だが、それを顔に出してはならなかった。
わずかでも「辻褄合わせ」に見えれば、ベラトリックスのような者に目をつけられる危険は高まる。
彼の声は淡々としていたが、その瞳の奥はごくわずかに揺れていた。
「……以後、私自身が気をつけるつもりです。」
そう口にした瞬間、誰かが息をつくような音を立てた。
場が沈黙に包まれていくなか、年長の死喰い人が低くうなずいた。
「あの場にいたのは、確かに慌ただしいタイミングだった……誰が何をしていても、混乱はあった。」
それ以上の異論は出なかった。
レギュラスは静かに頷く。
そして、誰にも背を見せぬように、ゆっくりと踵を返した。
部屋を出てもなお、胸の奥に残るのは苦い緊張と、じわじわとした罪悪感。
心のどこかで、自分が嘘をついたことの重さを自覚していた。
けれど、それでも。
守りたかったのだ。
アランの名も、存在も、この冷たい秩序の中から。
彼の中に残っていたのは、ただひとつの思いだけ――
次に標的となる前に、自分が先に隠さなければ。
たとえそれが、裏切りの罪とされても。
その背に、長く差し込む影は、ほとんど泣き出しそうな風に包まれていた。
それでも前へと歩く足取りは、寸分の揺らぎも見せぬまま、石の廊下に深く刻まれていった。
静まり返った夕方の光が、屋敷の窓硝子を淡く染めていた。
柔らかな金と青が混ざるようにして差し込む光の中で、レギュラスは静かに膝を折り、アルタイルのゆりかごに手を伸ばす。
銀糸の刺繍が施された白の毛布に包まれたその小さな身体は、時折ふわりと指先を動かした。短く整った睫毛の下で、まどろみの中にいる彼の顔を、レギュラスはじっと見つめた。
そして、ゆっくりと、確かめるように抱き上げる。
その重みは、不思議と身に馴染んだ。
あまりにも小さく、軽く、けれど確かな命。胸の奥へと近づけた瞬間、赤子の吐息が生地を通してレギュラスの肌に伝わる。
そして——その顔を改めてまじまじと見る。
きりりと通った眉の線、瞼の形、口元の曲線、そのどれもが自分に似ていた。
アランの要素を、どこかに感じようと探してみる。だが、愛おしさとは裏腹に、今のところ見いだせるのは、母の穏やかさよりも、父の色濃い血のかたちばかりだった。
それでも構わなかった。いや、——むしろ良かった。
「……やはり自分の子だ」
そう心のなかで呟く。
確かにアランが産み落とした我が子。
けれどその小さな姿に父である自分の証をはっきりと感じ取れるということが、レギュラスにとってこのうえなく、揺るがない喜びであった。
目を細めて見つめるその瞳の奥には、安堵と共にほとんど哀願にも似た願いが滲んでいた。
「あなたの未来に、曇り一つ通ることなど、あってはならない」
この世は汚れに満ちすぎている。
血も思想も節操も持たぬ、マグルや混血が我が物顔ではびこる世界。
その中で生きていけ、などと我が子に言えるわけがなかった。
レギュラスの腕に抱かれたアルタイルは、ふとこくりと首を傾け、小さなため息のような音を漏らした。それを聞いた瞬間、胸の奥底で何かがきゅうと締めつけられる。
「誰にも触れさせはしない。」
決意は、咆哮ではなく、祈りに近いものだった。
清く、まっすぐで、何者の影にも染まらぬ道を。
アルタイルが他の何者にも弄されず、正しく、誇り高く、この世に生きるために。
そのことだけを、レギュラスは何より願っていた。
愛している。代償を払ってもいい。
誰かのためではない。ただ、アルタイルのために。
彼の歩む未来が、曇りなき純白であるために。
その想いが静かに降り注ぐ窓の光と重なり、父性と決意の静けさを湛えながら、レギュラスの腕の中で、アルタイルはまた、小さな寝息を立てた。
未来よ、どうかこの小さな命の上に、影を落とすことのないように——。
その願いは、声なき誓いとして、そっと胸の奥深くに降りていった。
屋敷の朝はいつもと変わらず静かだった。厚手のカーテン越しに差し込むやわらかな陽光が、ベッドの上掛けに淡い影を落としている。けれど、その穏やかな光とは裏腹に、アランの体の奥には、鈍くじわりと広がる重さと痛みがあった。
目を覚まして体を起こそうとするたびに、傷跡のような倦怠感が背中や腰を這っていく。産後からまだそう多くない時間を経たばかり。そして、その途中で少女を守るために駆け出し、姿くらましに呪文に、ポートキーまで無理に作り上げた。それらが今、確実に代償となって、身を蝕んでいた。
アランはそれを、誰にも見せなかった。
「……自業自得よね」
鏡の前でそっと囁く自分の声音は驚くほど冷静で、どこか、割り切ったように静かだった。罪でも弱さでもない。ただ、自ら背負った責任の重さ──そうやって、アランはすべてを抱きしめるようにして、言い訳の一つもつぶやかないまま朝を迎え続けていた。
けれど、体は正直だった。
産後、本来ならば始まるはずの月経も、ずいぶんと遅れている。薬で整えなければ再び崩れてしまうような予感がしていた。
――それに、次の世継ぎを。
オリオンのあの言葉が、未だに胸の奥で響いていた。レギュラスからのやさしさにも、その言葉は密やかに影を落とし続けていたのだ。
だからアランは、書斎の奥に押し込めてあった古い調合棚にそっと手を伸ばした。
寝静まった深夜に、誰にも知られぬよう灯した小さな燭火の下。いくつかの粉末と、希釈された液体、乾燥させた薬草を慎重に混ぜ合わせる。調合の手は滑らかだった。けれどその目は、どこか遠くを見つめていた。
やがて淡いルビーのような色をした魔法薬が、硝子瓶の中で一度微かに煌めいた。それを見届けたアランは、一言も発さずに小さな匙で静かに口元へ運んだ。
苦味が喉を満たす。胸の奥で微かに揺れる波。
この魔法薬は、月の巡りを無理やり呼び込むもの。
本来ならば身体と相談して慎重に使われるべきものだった。
だが、それでもアランは迷わなかった。
「これでいいの……」
そう呟いた声は、あまりにも静かで。
静寂が、またひとつ深く部屋に降りた。
窓の外では風が緩やかに木々を撫でていた。春と秋のあわい、その境目のような冷たい空気が、アランの肌にふと触れたとき――彼女はそっとローブの襟を正した。
涙はどこにもなかった。
それが優しさのかたちであったとしても、彼女は背筋を伸ばして歩いていく。
家を継ぐ名に、応えなければならないと、痛みごと心に沈めて。
薄明の光が、薬瓶の底に儚く揺れていた。
昼下がりの陽光が、窓辺のカーテン越しに揺れる。淡い金色の光が絨毯に落ちて、柔らかい影の斑模様を作っていた。アランはその中で静かに揺れるロッキングチェアに座り、膝に抱いた小さな命をそっと見つめていた。
アルタイルは、すやすやと穏やかに眠っていた。
産声をあげた日のことが、まるで昨日のように思い出される。
そして今、こうして膝のぬくもりに包まれるこの小さな存在が、日ごとに愛らしく、まるで光を宿していくように丸く、やわらかく育ってくれていることが、アランにとって何よりの救いだった。
「……ほんとうに、よく似ているわ」
アランは囁くように独りごちた。
それはレギュラスの面影ではない。むしろ、もっとずっと昔の記憶からひっぱられてきた面影。
アルタイルの目が、あの灰色にゆれる。ふと瞳を開けるたびに、そこに浮かぶ光が、シリウスの幼い頃を思い出させるのだ。
いつか、とても明るい午後の日。
あの人が無邪気に未来を語っていたその笑顔。
世界がまだ分かたれていないと信じていた時代の、まっすぐな眼差し。
アルタイルの瞳にちらりと宿るその光を見つけるたび、アランはもう少しだけ、この運命と生きていけるような気がするのだった。
それは決して、大きな幸福ではない。
誰に語ることも許されないほど小さい、ささやかな喜び。
それでも、自身の罪や選択に押しつぶされそうになったとき、たった一つだけ心のなかに灯る、ぬくもりの種のようなものだった。
アルタイルは微かにまぶたを動かし、小さな息をくちびるからふうっと漏らした。指先がふにふにと動くたび、アランは思わず胸を押さえたくなるほどの愛しさを感じる。
「ありがとう……生まれてきてくれて」
その声は赤子に届いたのかどうか分からない。けれど、伝えたい気持ちは確かにそこにあって、静かに部屋の空気に満ちていった。
窓の外では柔らかな風が木の枝を撫でていた。まるで、失くしたものの記憶さえも、優しく包み込んでくれるかのように。
そしてアランはそっと目を閉じた。
抱いた小さな命の鼓動と、自分のそれがただ静かに重なり合うそのひとときを、
誰にも壊されないようにと、深く胸にしまい込むようにして…。
霧の名残が朝の街角に薄く漂うなか、マグルの少女アリスはひとり、見知らぬ町の石畳を小さな靴で踏みしめながら歩いていた。身に纏う古びたコートは、森から逃れる途中で葉と土にまみれ、裾には小さな裂け目があった。それでも彼女の目はまっすぐに光を宿していた――恐怖ではなく、信じたいという祈りのような光を。
アランから託された小さな銀のペンダントは、布地の下、肌に触れる位置で胸元に温かく寄り添っていた。唯一無二の印。これがあれば、彼が気づいてくれる――そう信じるしかなかった。
「……シリウス・ブラック……」
彼の名を呟くたび、まるでどこか異国の高い場所に手を伸ばすような気持ちになる。会ったこともなければ、話したこともない。けれどアランが自分を命を懸けて守ろうとした。それだけが、今のアリスを歩かせる確かな理由だった。
不死鳥の騎士団。
かすかに聞いたことのある名。たしか新聞で見た言葉。
誰にでも話していいものではないと気づいていた。だから、選ぶようにして言葉の隅に「魔法使いで、人を助ける活動をしている人を探しているんです」と言い換える。
店先で荷下ろしをしていた老人に、服飾店の表で棚を直していた魔女に、それとなく訊ねながら手がかりを辿る。迷子のようにされないために背すじを伸ばし、震える手を隠して、強く自分に言い聞かせながら歩き続ける。
「誰か……彼の居場所を知りませんか。シリウス・ブラック、という人を……」
何人に訊いても、返ってくるのは怪訝な顔か、ごく短い沈黙だった。それでも、彼のことを「ああ……昔反抗して家を飛び出した坊ちゃんよ」と笑う老婆もいれば、「不死鳥のほうなの?危ないよ、気をつけな」と小声で囁く若者もいた。
少しずつ、ほとんど焦らすように、つながりが見えてくる感覚。点と点とが、まるで秘密めいた刺繍のように街の声へと編まれていく。どれが正しく、どれが罠か分からない。けれど、「彼がどこかに本当にいるのかもしれない」という確信だけが、少女の足を止めさせなかった。
陽が傾きはじめると、街の明かりがひとつ、ふたつと灯りはじめた。アリスはふっと小さく息を吐いた。足は重く、目もかすんでくる。けれど、心の奥底にはまだ消えないあたたかい想いがあった。
―― アランが、言った。「彼ならきっと、あなたの力になってくれる」
その言葉を、信じたかった。
だから、今日もまた。傷みかけた地図と、誰かがくれた曖昧な手がかりを握りしめて、アリスはシリウス・ブラックを探す旅を、静かに続けている。
小さな足取りの先で、未来の扉がそっと開くことを、どこかで願いながら――。
隠れ家の古ぼけた木製の扉が一度、控えめにノックされたのは、午後が少し傾きかけた頃だった。 誰も警戒の色をあらわにはしなかったものの、それでも外からの訪問は決して多くない。ほんの数秒の沈黙の後、扉がきぃっと軋みながら開く。
そこに立っていたのは、小柄なひとりの少女だった。
乱れた前髪の奥で、瞳だけが強く、何かを探し求めるように揺れている。腕に抱え込むように胸元を押さえて、足元には森土の名残がまだ乾ききっていない。
「……どうしたんだい?」
先に応対に出たのはジェームズだった。穏やかに腰をかがめ、彼女の顔をのぞきこむ。
少女は何かを言いかけて、口ごもった。でも、胸の奥にしまっていた名前を絞り出すように、慎重に小さな声が落ちた。
「……シリウス・ブラックに、会いたいです。」
その名が出た瞬間、ジェームズは一瞬だけ目を見開き、それから思わず小さく笑った。
驚きと、どこかに照れと茶化しが混ざったような、親しみある表情だった。
「……なんだい、シリウス。君、まさかまた小さなファンでも作ってたのか?」
そう言って、室内に声を投げかける。
「シリウス、君に――お客さんだよ!」
奥の明るい暖炉の影から、乱雑な椅子を直しながら声が返る。
「は? 誰だよ……配給でも持ってきたのか?」
その気怠げな返事に、少女の背筋がぴんと正された。小さな手のひらが無意識に胸元のペンダントに触れる。喉の奥で言葉が揺れて、何も言えない。
ジェームズはその様子に気づいて、小さく眉を寄せ、声をひそめた。
「大丈夫、怖くなんかないさ。あいつ、見た目ほど怖くないし、実際ちょっと抜けてるくらいだから。」
少女は静かに頷き、息を吸った。
その小さな動作には、ただ単に“誰かを訪ねに来た”というそれではない、なにかを託された者の静かな覚悟が漂っていた。
その名を追いかけ、ここまで来た理由。
アランの残した言葉と、ぬくもりと、銀色の星に込められた祈り。
少女の目が奥に向けられたその瞬間、空気がふと変わったように思えた。
そして、扉の向こうで光に包まれるように現れる影――
シリウス・ブラックがそこにいた。
荒々しくまとめられた漆黒の髪と、わずかに煤けた外套。
けれど少女の視線が捉えたのは、その眼差しだった。
疲れと、まだ消しきれぬ情熱と、人を守ろうとする真っ直ぐさをひとつに宿した目。
それを見た瞬間、少女の唇が、ようやくひとつだけ、小さく動いた。
「…… アランさんから……託されて……きました。」
その声は小さく、でも、風のどんな音よりも確かだった。
隠れ家の空気が、少女のひとことを境にぴたりと止まった。
「…… アランさんから託されてきました。」
その名が落ちた瞬間、ジェームズもシリウスもまるで時が止まったかのように黙り込んだ。思考が数秒遅れて追いつくほどに、その言葉は重く、美しく、そして痛々しかった。
シリウスの瞳がゆっくりと、少女の胸元へと向く。
そこには見覚えのある銀のペンダント――まぎれもなく、かつて彼がアランに渡した、小さな星のモチーフが光を受けてかすかに瞬いていた。
少女は、そのペンダントに触れていた。
守るように、すがるように。
あの小さな手が触れる指先には、緊張と不安、そして小さな勇気が宿っていた。
「……それ、本当にアランが?」
シリウスの声は深く、ほとんど聞き取れぬほど低かった。
疑い、いや、信じたいがゆえの確認だった。
少女は首を静かに縦に振った。そして、震えを飲み込むようにして話し始めた。
「……私、マグルの家に生まれました。孤児院で育てられていて……でも、魔力が宿ってしまって、それが周りからは異常だって、ずっと怖がられて……」
「……そんなとき、アランさんと出会って……怪我をしていた私を助けてくれました。そしてあの人は、私を“おかしくない”って、言ってくれたんです。」
一言一言、言葉は丁寧に編まれていた。傷の上に薄紙を重ねるように。
ジェームズが黙って少女の話を聞く傍らで、シリウスの拳が硬く握られていた。
「……私はもう、死ぬって思ってました。孤児院に怖い人たちが来て、他の子は……」
言葉を詰まらせ、小さな唇がわなないた。
「……でも…… アランさんだけが、私を守って、逃してくれました。ここに来なさいって――『シリウスブラックなら、あなたの力になってくれる』って。」
そのとき、ジェームズの頭をよぎったのは、つい最近流れていたニュース記事の見出しだった。
『孤児院での処理作戦、全員処分――純血保全の名のもとに』
その中に魔力が暴走するオブスキュラスの少年がいたこと。そして他の子供たちは全員、マグルの血を引いていたと。あまりにも非道だという声が上がる一方で、「仕方ない」「危険因子だった」と擁護する声もあった。
それがただの大人たちの判断によって決められた命であることが、いかに非情だったかを――いま、この目の前の少女が静かに証明していた。
だからこそ、ジェームズも、シリウスも、言葉がすぐには出なかった。
そして胸の奥が、ひどくきゅうっと痛んだ。
アランが、自分の何かを賭けてこの子を守ったのだ。
その強さと、優しさと、揺るがぬ信念は、昔と変わらぬまま――いや、昔よりもずっと透き通っていた。
けれど、それと同時に、冷たい恐れが胸を満たしていく。
アランは本当に無事なのだろうか?
あの子を庇ったことで、責を問われたり、純血の一族のなかで追いつめられたりしてはいないのか。
彼女は今、どこで、どんな顔をしているのだろう。
その微笑みにもう、自由は残されているのだろうか。
少女の話は、まだすべてを語ってはいなかった。
けれどそれでも、もう十分だった。
シリウスはゆっくりと少女の前にしゃがみ込み、沈むように低く声をかける。
「……ありがとう。よく、ここまで来てくれたね。」
その眼差しの奥にあったのは、押さえきれない喜びと、どうしようもない心配と、
そして、深く揺れる、アランへの想いだった。
小さな命が連れてきた真実の欠片が、
隠された祈りをそっと、この場所に運んできた。
隠れ家の暖炉で揺れる炎が、部屋の壁に静かな橙の影を踊らせていた。張りつめていた空気は、アリスの話し終えた声とともにやわらかくほどけ、そこに深く、温かな沈黙が流れていた。
ジェームズは、背もたれに身を預けながら手にしたマグカップを見つめていた。何も言わず、ただ思いを馳せていた。
―― アランが。あの優しく、どこか影のある少女だった彼女が。
きっと体はまだ回復してはいなかったはずだ。産後の身で、それでも、自分の命を削るようにして、この少女を守りぬいた。
シリウスはその事実を全身で受け止めていたようだった。
拳を膝の上で握りしめながら、小さく息を吐く。
「……無理をしたに違いない。きっと、まだ体を起こすのもつらい頃だったはずだ……」
静かにそう呟いた声は、怒りではなく、悲しみと誇りと、深い愛しさが滲んでいた。
ジェームズもそっと頷いた。
誰よりも、アランの選択を知る者として。
誰よりも、シリウスの胸の炎を近くで見てきた親友として。
たとえ今、アランが立っている場所がブラック家の中だったとしても。
たとえ背負っている名が違ったとしても。
――その心の奥に描いている未来は、たしかに自分たちと同じだった。
マグルにも魔法使いにも分け隔てなく、未来を手渡す世界。
優しさが、誰かの命を救い得る世界。
「……繋がってるな」
ジェームズが低く呟いた声に、シリウスは視線を上げ、静かに頷いた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
膝に座っていたアリスが、少し不安げにふたりを見つめていた。
けれどその瞳には、希望の光がある。
小さく震えていた肩を、今はまっすぐに立て、自分の意志でここに来た勇気ある子供だった。
シリウスは立ち上がり、アリスの前で両膝をついて目線を合わせた。
その灰色の瞳が、かつてアランに注いだ無垢なまなざしの余韻を思い起こさせる。
「アリス」
そう呼ぶ声は、どこまでも落ち着いていて、大地のように確かだった。
「ここで一緒に暮らそう。もう、誰にも怖い思いはさせない。」
アリスが目を丸くする。
「……え?」
「勉強も。魔法も。ほうきの乗り方も、解呪呪文の仕組みも。
みんな、俺が教えてやるよ。」
シリウスはほんのすこし、いたずらっぽく笑った。
「だって、不死鳥の騎士団ってのは……そういうもんだからな。笑いながら、ちゃんと戦うんだ。」
アリスの目にふわりと涙が浮かび、その下から灯りが灯るように瞳が輝いた。
「……ほんと? 私、……いていいんですか?」
その問いに、シリウスは息をひとつだけ吸って、言葉を選ばず確かに応えた。
「お前をここまで導いたのは、アランだ。
俺の……一番の、大切な人だ。
……だったら、約束しよう。ここは、お前の家だ。」
その短い言葉に、アリスは何も言えなかった。ただ、小さな唇が何度か開きかけては閉じ、こみあげる何かをどう包んでいいのかわからないまま、目元を指でぬぐった。その指は小さく震えていた。
「……ありがとう」
やっと、声になったのは、それだけだった。けれどその一言には、この数日、彼女が孤独や恐怖の中で言えなかった言葉のすべてが詰まっていた。
シリウスは微笑んだ。
「なあに、俺は人使いが荒いんだ。君もすぐに任務に巻き込まれるぞ。まずは……部屋の掃除からな。」
アリスがくすりと笑った。今度は、純粋な子どもの笑顔だった。
ジェームズがそれを見て「おいおい、いきなり掃除係かよ」と肩をすくめ、やわらかく笑い声が部屋を包んだ。
その笑いの影には、痛みもある。他の子どもは救えなかった。アランの身体は、戻ってきていない。けれど、目の前にあるこの命は、たしかに誰かの手で守られ、その手は確かにあの人のものだった。
「シリウス」
ジェームズがぽつりと声をかける。
シリウスは短く振り向いた。ジェームズは少しだけ声を落とし、それでもはっきりとした声で言った。
「アラン……無事でいてくれると、いいな」
その言葉には、願いと祈りがあった。
そして、失ったものがあるからこそ守りたいものがあるという、不死鳥の騎士団らしい鋭く優しい感情があった。
シリウスは顔を伏せて、それから少女の頭をぽんと軽く撫でた。
「……大丈夫だ。生きてたって、この子が教えてくれたんだ。」
火の揺らめきが影を広げていく。アリスの両手に、大切そうに抱かれたペンダントがぬくもりを宿していた。
遠くにいる誰かと、ここにいる誰かの命が、確かに一本の線でつながっていると――今、そう信じて良いのだと思えた。
隠れ家の窓辺に射し込む柔らかな夕陽が、ほんのりと黄金色のカーテンを透かしていた。長椅子には分厚い教本と羊皮紙がひらかれたまま置かれ、その前ではアリスが一生懸命に羽根ペンを走らせていた。
その姿を少し離れた椅子から眺めながら、シリウスはふと、目を細める。
――まるで、我が子のようだ。
そう思った瞬間、胸の奥にほのかに満ちる感情に、ひとり静かに驚いた。
忙しなく言葉を教え、呪文を教え、時に叱るふりをしてみせながらも、そのすべてが愛しく、時が満ちていくのを感じる時間だった。もしも――もしも自分が、父親と呼ばれる未来があったのだとしたら、こういう日々を思い描いていたのかもしれない。
アリスの勉強の飲み込みは驚くほど速かった。最初に教えた基本の変身魔法はほんの一晩で仕組みを飲み込み、彼女なりに工夫しながら音の出し方を修正してくる。
「アランさんが……命の形には理由があるって、そう言ってくれたんです」
ふいにアリスが、ページから顔を上げてつぶやいた。
「魔力を持ってしまったから、ひとりぼっちになるんじゃなくて、それを使って誰かを照らせるなら、きっと意味があるって……」
その一言が、まるで遠くから届く詩のように、シリウスの胸に落ちた。
アリスは逃げるようにやってきたはずだった。けれど今、彼女は確かに〈ここ〉で根を張って生き直そうとしている。その根っこを支えているのは、あの命を懸けて彼女を送り出したアランという女性の言葉だった。
そして、その言葉を今こうして受け継ぎ、生きている姿を見ることで、シリウスのなかでも救われていくものがあった。アランの声はもう聞こえないとしても、こうして、たしかな痕跡が遺されていたのだ。
ある日、食後のカップに甘さを多めにした熱いココアを注ぎながら、アリスが小さく微笑んで言った。
「私、もしも魔法使いになれたら……子どもたちの学校を作りたいんです」
「学校?」
「うん、マグルでも、魔法がどんなものかをちゃんと知って、恐れたりしないように。魔法を持った子たちも、自分を好きになれるように。そういうところ…… アランさんと話してたんです」
そのとき、シリウスの心に不意に滲んだ温もりは、言葉にできない形をしていた。
――ああ、アラン……。
たったひとつの命が、たった一つの言葉が、誰かの未来を確かに変えていける。
そしてその想いが、今なお優しさとして受け継がれているなら――
彼女が流した涙も、痛みも、それだけでは終わらなかったのだ。
目の前でこくりとココアを飲むアリスの横顔を見ながら、シリウスはただ静かに、深く椅子に身体を預けた。
この手元にあるものは、育まれていく希望だと。
それがアランの手から託された最後の灯だと、確かにそう思えた。
カーテン越しの淡い陽光はまだ灰色がかっていて、部屋に差し込むというよりは、そっと滲んでいるようだった。
アランは枕元に座っているレギュラスの気配を感じながら、ゆっくりと顔を向けた。
彼の瞳には強い感情は宿っていなかった。ただ、深く染みこむような静かな心配――それは、言葉よりも重く胸に響いた。
「アラン、体の方は……どうですか?」
その問いは、思っていたよりも優しい声音だった。
緊張や責め立てる色はなく、ただ彼女の身を案じる、一人の夫としての、そして何より一人の男としての本心が滲んでいた。
アランはゆるく頷いた。
言葉にしてしまえば崩れそうで、沈黙に身を隠すように。
頷きの動作一つにも、ゆるく残る痛みがあったが、それ以上に心が張り裂けそうだった。
レギュラスの身体が小さく前に傾く。
ベッドの傍まで身を寄せた彼が、まっすぐに覗き込む眼差しは、いつかの彼と同じく、ただひたすらに優しく、けれど深く迷っていた。
「アラン……なぜです?」
声は震えてはいなかったが、それでも押し殺すようだった。
「……聞きたいことが、山ほどあります。」
その言葉に、アランは息を止める。
分かっていた。
いつか必ず向き合わなければならないことだった。
ベッドの上で、アランは膝の上に指を揃えた。
何度もためらいがちに組みなおされた手のひらは、落ち着かない羽のように頼りなかった。
「……ごめんなさい、レギュラス」
たったそれだけしか、最初に口をついて出た言葉はなかった。
言葉にできなかった。
何をどこから話すべきか、どんなふうに真実を形にすればいいのか、自分でもわからなかった。
その罪の告白のような一言に、レギュラスのまぶたが、ゆっくりと伏せられる。
アランは、ひとつ言葉を飲み込み、そして恐る恐る、語り出した。
寒さが静かに染み入るような空気の中、部屋の中の時間はどこか遠のいていた。
アランは薄い膝掛けを胸元で結わえたまま、目を伏せながら、震える声で語った。
言葉を選ぶ余裕などなかった。
けれど、嘘だけはつけなかった。
「……あの子とは、以前……孤児院の近くで出会っていたの。怪我をしていて。ずっと、薄々危うい空気を感じていて……それでも誰にも知られないように、手紙のやりとりだけで……少し、支援をしていたの。」
静かな抵抗のような声だった。
なんの見返りもなく、ただ「あの子が夢を語ったあの午後」の記憶を、裏切りたくなかったのだ。
レギュラスは、それを遮らなかった。
ただ、黙って聞いていた。
けれど。
その沈黙の奥に、アランは敏感に“何か”が崩れていく音を感じていた。
彼の眼差しは優しくも怒りを浮かべるわけでもなく、ただ――深い、ひどく静かな失望を湛えていた。
まるで、言葉そのものよりも、彼女という存在が知らない場所へ遠ざかっていったことに気づいてしまったかのような表情だった。
それが、アランにはどんな言葉よりも、苦しかった。
「……そうだったんですね」
ようやく絞り出したレギュラスの声は、限りなく丁寧で、それゆえに遠かった。
「この家の名を背負っている以上、マグルを支援するというのは……少々、難しい行為です。しかも、ずっと黙っていらした。」
アランは唇を噛んだ。弁解なんて、できるはずがなかった。
「ごめんなさい……」
たったそれだけ。
それ以上、何も言えなかった。
部屋の中の空気が、ゆっくりと凍てついていく。
それは外気のせいではなかった。
その場に漂っていたのは、ブラック家が盾にしてきた純血という名の誇り。レギュラスもまた、その枠組みの中で生きてきた。数えきれない疑念と葛藤が、その理想を“内部から”揺るがそうとしている。
「……マグルの子どもを助けた、別にそれ自体を責めるつもりはありません。あなたの道徳心がそうしたのであれば」
レギュラスの言うとおり、それは真意だったのかもしれない。
けれど──彼の表情は、明らかに何かが崩れていた。
その顔には、どこまでも“シリウス”が浮かんでいた。
「あの子と交流を続けていたのは……あなたが、シリウスの掲げていた理想に共鳴していたからですか?」
静かな問いかけ。
けれど、その言葉は氷のようだった。
アランの心が、悲鳴を上げそうになる。
「違うわ……私は、ただ……」
言おうとした自分の言葉さえ、喉の奥で凍りついてしまった。
――違う、と言って、本当に違うのだろうか。
確かに彼の理想を思い出した。
誰も区別しない世界。マグルと魔法使いが共に生きられる未来。
あの少女の瞳の奥に、確かにシリウスがいた。
否定できなかった。
だからアランは、それ以上、なにも言えなかった。言わなかった。
沈黙がふたりのあいだを引き裂く。
この部屋の壁よりも、遠い距離が生まれていく。
レギュラスはそれ以上責めなかった。それが、かえって苦しかった。
アランの心の中心が、凍っていく。
今、ここにいるのに。
レギュラスの傍にいるはずなのに。
彼の目が、もう自分を見ていないような――そんな気がした。
静かに瞼を閉じた。
ひとつ、細かな涙がこぼれる音もなく頬を伝って、白いシーツに染み込んでいった。
壊したかったのではない。
ただ、守りたかった。
けれど、それでも――壊れていく音が、彼女の胸の奥で微かに響きつづけていた。
薄暗い書斎の隅、レギュラスは一人、冷たく硬い木の椅子に腰を下ろしていた。腹の底には煮えたぎるような怒りが渦巻きながらも、その激流を表に出すことはしなかった。彼の瞳は沈黙の中でゆっくりと光を失いかけ、深く考え続けていた。
思考の先には、あの孤児院で目撃されたアランの姿があった。数人のデスイーターたちが確かに彼女を見ていたこと。その情報がもしベラトリックスの耳に入れば、どんな惨状になるか想像するだけで恐ろしかった。あの冷酷な女がアランに杖を向ける光景を、彼は決して許すわけにはいかなかった。
レギュラスの胸中には、純血一族への忠誠から怒りと失望が噴き出していた。マグルを助けたというだけでも許せない行為だったのに、アランがその少女との交流を続けていた事実は、純血社会の根底を揺るがす裏切りと感じられた。
けれど、最も彼の心を侵食したのは、その背後にあった、アランが今なおシリウスと同じ理想を夢見ているという事実だった。シリウスへの想いを隠さず、その人格に共鳴して行動していることは、どうしようもなく痛いほど嫉妬し、虚しくもあった。レギュラスは、自分が抱く彼女への想いと純血家族としての義務の狭間で、自らの心の深い闇に引き裂かれていた。
何度も深呼吸を繰り返しながら、彼は静かに呟く。
「僕は、あなたを失いたくない。けれど……僕たちの世界は、あまりにも厳しい。」
その視線は冷たくもあり、切なくもあった。胸に秘めた愛情が嫉妬と痛みで渦巻きながら、レギュラスはまだ冷静に、しかし静かな決意をもって次の行動を練り始めた。彼にとって、守るべきものは、ただ一つ―― アランの命と、その未来であった。
孤独な戦いの始まりが、暗い書斎にひっそりと幕を開けていた。
重く立ちこめた朝の霧の中、石畳を打つ靴音が規則正しく響き渡る。
黒々としたローブに身を包んだ数人のデスイーターたちが、城塞の別室に集められていた。灰色の燭台の下、冷たい空気のなかで、誰ひとりとして笑ってはいなかった。
その中心に、レギュラス・ブラックは立っていた。
彼の顔にはあらゆる感情が消され、理知と冷静と、最低限の威厳だけが残っていた。
声を発したのは、沈黙が少し空気を重たくしたあとだった。
「昨日の件について、皆に説明を。」
静かで、だが決して曖昧ではない語調。
その一言にデスイーターたちは微かに姿勢を正す。中にはちらりと視線を交わす者もいた。あの場で、レギュラスの妻がいたことを目撃した者たちだ。
レギュラスは一拍だけ間を置いてから、言葉を繋いだ。
「妻―― アラン・ブラックは、本来私の任務の補佐として、同行する予定でした。元はオブスキュラスの魔力の一部を採取して妻の得意とする魔法薬に活かすつもりだったようですが…」
薄く張りつめた空気をゆっくりと手で断ち切るように、非常に慎重に、丁寧に話していく。
「……しかし体調が優れず、予定より遅れて姿を見せることとなった。その上、現地では想定を超えた状況が発生し、私自身、それに対処するために合流の手段を失った。」
目線はまっすぐ、誰とも合わず、誰も否定できないように。
緻密に。けれど突飛すぎない程度に、不自然とは思わせない淡々とした説明だった。
「彼女は、何も悪くはありません。合流の失敗が、誤解を生んだまでのことです。」
静まりかえった石の部屋。ローブの擦れる音ひとつすら、誰も出そうとしない。
レギュラスの背には、冷たい汗がじわりと忍び寄っていた。
だが、それを顔に出してはならなかった。
わずかでも「辻褄合わせ」に見えれば、ベラトリックスのような者に目をつけられる危険は高まる。
彼の声は淡々としていたが、その瞳の奥はごくわずかに揺れていた。
「……以後、私自身が気をつけるつもりです。」
そう口にした瞬間、誰かが息をつくような音を立てた。
場が沈黙に包まれていくなか、年長の死喰い人が低くうなずいた。
「あの場にいたのは、確かに慌ただしいタイミングだった……誰が何をしていても、混乱はあった。」
それ以上の異論は出なかった。
レギュラスは静かに頷く。
そして、誰にも背を見せぬように、ゆっくりと踵を返した。
部屋を出てもなお、胸の奥に残るのは苦い緊張と、じわじわとした罪悪感。
心のどこかで、自分が嘘をついたことの重さを自覚していた。
けれど、それでも。
守りたかったのだ。
アランの名も、存在も、この冷たい秩序の中から。
彼の中に残っていたのは、ただひとつの思いだけ――
次に標的となる前に、自分が先に隠さなければ。
たとえそれが、裏切りの罪とされても。
その背に、長く差し込む影は、ほとんど泣き出しそうな風に包まれていた。
それでも前へと歩く足取りは、寸分の揺らぎも見せぬまま、石の廊下に深く刻まれていった。
静まり返った夕方の光が、屋敷の窓硝子を淡く染めていた。
柔らかな金と青が混ざるようにして差し込む光の中で、レギュラスは静かに膝を折り、アルタイルのゆりかごに手を伸ばす。
銀糸の刺繍が施された白の毛布に包まれたその小さな身体は、時折ふわりと指先を動かした。短く整った睫毛の下で、まどろみの中にいる彼の顔を、レギュラスはじっと見つめた。
そして、ゆっくりと、確かめるように抱き上げる。
その重みは、不思議と身に馴染んだ。
あまりにも小さく、軽く、けれど確かな命。胸の奥へと近づけた瞬間、赤子の吐息が生地を通してレギュラスの肌に伝わる。
そして——その顔を改めてまじまじと見る。
きりりと通った眉の線、瞼の形、口元の曲線、そのどれもが自分に似ていた。
アランの要素を、どこかに感じようと探してみる。だが、愛おしさとは裏腹に、今のところ見いだせるのは、母の穏やかさよりも、父の色濃い血のかたちばかりだった。
それでも構わなかった。いや、——むしろ良かった。
「……やはり自分の子だ」
そう心のなかで呟く。
確かにアランが産み落とした我が子。
けれどその小さな姿に父である自分の証をはっきりと感じ取れるということが、レギュラスにとってこのうえなく、揺るがない喜びであった。
目を細めて見つめるその瞳の奥には、安堵と共にほとんど哀願にも似た願いが滲んでいた。
「あなたの未来に、曇り一つ通ることなど、あってはならない」
この世は汚れに満ちすぎている。
血も思想も節操も持たぬ、マグルや混血が我が物顔ではびこる世界。
その中で生きていけ、などと我が子に言えるわけがなかった。
レギュラスの腕に抱かれたアルタイルは、ふとこくりと首を傾け、小さなため息のような音を漏らした。それを聞いた瞬間、胸の奥底で何かがきゅうと締めつけられる。
「誰にも触れさせはしない。」
決意は、咆哮ではなく、祈りに近いものだった。
清く、まっすぐで、何者の影にも染まらぬ道を。
アルタイルが他の何者にも弄されず、正しく、誇り高く、この世に生きるために。
そのことだけを、レギュラスは何より願っていた。
愛している。代償を払ってもいい。
誰かのためではない。ただ、アルタイルのために。
彼の歩む未来が、曇りなき純白であるために。
その想いが静かに降り注ぐ窓の光と重なり、父性と決意の静けさを湛えながら、レギュラスの腕の中で、アルタイルはまた、小さな寝息を立てた。
未来よ、どうかこの小さな命の上に、影を落とすことのないように——。
その願いは、声なき誓いとして、そっと胸の奥深くに降りていった。
屋敷の朝はいつもと変わらず静かだった。厚手のカーテン越しに差し込むやわらかな陽光が、ベッドの上掛けに淡い影を落としている。けれど、その穏やかな光とは裏腹に、アランの体の奥には、鈍くじわりと広がる重さと痛みがあった。
目を覚まして体を起こそうとするたびに、傷跡のような倦怠感が背中や腰を這っていく。産後からまだそう多くない時間を経たばかり。そして、その途中で少女を守るために駆け出し、姿くらましに呪文に、ポートキーまで無理に作り上げた。それらが今、確実に代償となって、身を蝕んでいた。
アランはそれを、誰にも見せなかった。
「……自業自得よね」
鏡の前でそっと囁く自分の声音は驚くほど冷静で、どこか、割り切ったように静かだった。罪でも弱さでもない。ただ、自ら背負った責任の重さ──そうやって、アランはすべてを抱きしめるようにして、言い訳の一つもつぶやかないまま朝を迎え続けていた。
けれど、体は正直だった。
産後、本来ならば始まるはずの月経も、ずいぶんと遅れている。薬で整えなければ再び崩れてしまうような予感がしていた。
――それに、次の世継ぎを。
オリオンのあの言葉が、未だに胸の奥で響いていた。レギュラスからのやさしさにも、その言葉は密やかに影を落とし続けていたのだ。
だからアランは、書斎の奥に押し込めてあった古い調合棚にそっと手を伸ばした。
寝静まった深夜に、誰にも知られぬよう灯した小さな燭火の下。いくつかの粉末と、希釈された液体、乾燥させた薬草を慎重に混ぜ合わせる。調合の手は滑らかだった。けれどその目は、どこか遠くを見つめていた。
やがて淡いルビーのような色をした魔法薬が、硝子瓶の中で一度微かに煌めいた。それを見届けたアランは、一言も発さずに小さな匙で静かに口元へ運んだ。
苦味が喉を満たす。胸の奥で微かに揺れる波。
この魔法薬は、月の巡りを無理やり呼び込むもの。
本来ならば身体と相談して慎重に使われるべきものだった。
だが、それでもアランは迷わなかった。
「これでいいの……」
そう呟いた声は、あまりにも静かで。
静寂が、またひとつ深く部屋に降りた。
窓の外では風が緩やかに木々を撫でていた。春と秋のあわい、その境目のような冷たい空気が、アランの肌にふと触れたとき――彼女はそっとローブの襟を正した。
涙はどこにもなかった。
それが優しさのかたちであったとしても、彼女は背筋を伸ばして歩いていく。
家を継ぐ名に、応えなければならないと、痛みごと心に沈めて。
薄明の光が、薬瓶の底に儚く揺れていた。
昼下がりの陽光が、窓辺のカーテン越しに揺れる。淡い金色の光が絨毯に落ちて、柔らかい影の斑模様を作っていた。アランはその中で静かに揺れるロッキングチェアに座り、膝に抱いた小さな命をそっと見つめていた。
アルタイルは、すやすやと穏やかに眠っていた。
産声をあげた日のことが、まるで昨日のように思い出される。
そして今、こうして膝のぬくもりに包まれるこの小さな存在が、日ごとに愛らしく、まるで光を宿していくように丸く、やわらかく育ってくれていることが、アランにとって何よりの救いだった。
「……ほんとうに、よく似ているわ」
アランは囁くように独りごちた。
それはレギュラスの面影ではない。むしろ、もっとずっと昔の記憶からひっぱられてきた面影。
アルタイルの目が、あの灰色にゆれる。ふと瞳を開けるたびに、そこに浮かぶ光が、シリウスの幼い頃を思い出させるのだ。
いつか、とても明るい午後の日。
あの人が無邪気に未来を語っていたその笑顔。
世界がまだ分かたれていないと信じていた時代の、まっすぐな眼差し。
アルタイルの瞳にちらりと宿るその光を見つけるたび、アランはもう少しだけ、この運命と生きていけるような気がするのだった。
それは決して、大きな幸福ではない。
誰に語ることも許されないほど小さい、ささやかな喜び。
それでも、自身の罪や選択に押しつぶされそうになったとき、たった一つだけ心のなかに灯る、ぬくもりの種のようなものだった。
アルタイルは微かにまぶたを動かし、小さな息をくちびるからふうっと漏らした。指先がふにふにと動くたび、アランは思わず胸を押さえたくなるほどの愛しさを感じる。
「ありがとう……生まれてきてくれて」
その声は赤子に届いたのかどうか分からない。けれど、伝えたい気持ちは確かにそこにあって、静かに部屋の空気に満ちていった。
窓の外では柔らかな風が木の枝を撫でていた。まるで、失くしたものの記憶さえも、優しく包み込んでくれるかのように。
そしてアランはそっと目を閉じた。
抱いた小さな命の鼓動と、自分のそれがただ静かに重なり合うそのひとときを、
誰にも壊されないようにと、深く胸にしまい込むようにして…。
霧の名残が朝の街角に薄く漂うなか、マグルの少女アリスはひとり、見知らぬ町の石畳を小さな靴で踏みしめながら歩いていた。身に纏う古びたコートは、森から逃れる途中で葉と土にまみれ、裾には小さな裂け目があった。それでも彼女の目はまっすぐに光を宿していた――恐怖ではなく、信じたいという祈りのような光を。
アランから託された小さな銀のペンダントは、布地の下、肌に触れる位置で胸元に温かく寄り添っていた。唯一無二の印。これがあれば、彼が気づいてくれる――そう信じるしかなかった。
「……シリウス・ブラック……」
彼の名を呟くたび、まるでどこか異国の高い場所に手を伸ばすような気持ちになる。会ったこともなければ、話したこともない。けれどアランが自分を命を懸けて守ろうとした。それだけが、今のアリスを歩かせる確かな理由だった。
不死鳥の騎士団。
かすかに聞いたことのある名。たしか新聞で見た言葉。
誰にでも話していいものではないと気づいていた。だから、選ぶようにして言葉の隅に「魔法使いで、人を助ける活動をしている人を探しているんです」と言い換える。
店先で荷下ろしをしていた老人に、服飾店の表で棚を直していた魔女に、それとなく訊ねながら手がかりを辿る。迷子のようにされないために背すじを伸ばし、震える手を隠して、強く自分に言い聞かせながら歩き続ける。
「誰か……彼の居場所を知りませんか。シリウス・ブラック、という人を……」
何人に訊いても、返ってくるのは怪訝な顔か、ごく短い沈黙だった。それでも、彼のことを「ああ……昔反抗して家を飛び出した坊ちゃんよ」と笑う老婆もいれば、「不死鳥のほうなの?危ないよ、気をつけな」と小声で囁く若者もいた。
少しずつ、ほとんど焦らすように、つながりが見えてくる感覚。点と点とが、まるで秘密めいた刺繍のように街の声へと編まれていく。どれが正しく、どれが罠か分からない。けれど、「彼がどこかに本当にいるのかもしれない」という確信だけが、少女の足を止めさせなかった。
陽が傾きはじめると、街の明かりがひとつ、ふたつと灯りはじめた。アリスはふっと小さく息を吐いた。足は重く、目もかすんでくる。けれど、心の奥底にはまだ消えないあたたかい想いがあった。
―― アランが、言った。「彼ならきっと、あなたの力になってくれる」
その言葉を、信じたかった。
だから、今日もまた。傷みかけた地図と、誰かがくれた曖昧な手がかりを握りしめて、アリスはシリウス・ブラックを探す旅を、静かに続けている。
小さな足取りの先で、未来の扉がそっと開くことを、どこかで願いながら――。
隠れ家の古ぼけた木製の扉が一度、控えめにノックされたのは、午後が少し傾きかけた頃だった。 誰も警戒の色をあらわにはしなかったものの、それでも外からの訪問は決して多くない。ほんの数秒の沈黙の後、扉がきぃっと軋みながら開く。
そこに立っていたのは、小柄なひとりの少女だった。
乱れた前髪の奥で、瞳だけが強く、何かを探し求めるように揺れている。腕に抱え込むように胸元を押さえて、足元には森土の名残がまだ乾ききっていない。
「……どうしたんだい?」
先に応対に出たのはジェームズだった。穏やかに腰をかがめ、彼女の顔をのぞきこむ。
少女は何かを言いかけて、口ごもった。でも、胸の奥にしまっていた名前を絞り出すように、慎重に小さな声が落ちた。
「……シリウス・ブラックに、会いたいです。」
その名が出た瞬間、ジェームズは一瞬だけ目を見開き、それから思わず小さく笑った。
驚きと、どこかに照れと茶化しが混ざったような、親しみある表情だった。
「……なんだい、シリウス。君、まさかまた小さなファンでも作ってたのか?」
そう言って、室内に声を投げかける。
「シリウス、君に――お客さんだよ!」
奥の明るい暖炉の影から、乱雑な椅子を直しながら声が返る。
「は? 誰だよ……配給でも持ってきたのか?」
その気怠げな返事に、少女の背筋がぴんと正された。小さな手のひらが無意識に胸元のペンダントに触れる。喉の奥で言葉が揺れて、何も言えない。
ジェームズはその様子に気づいて、小さく眉を寄せ、声をひそめた。
「大丈夫、怖くなんかないさ。あいつ、見た目ほど怖くないし、実際ちょっと抜けてるくらいだから。」
少女は静かに頷き、息を吸った。
その小さな動作には、ただ単に“誰かを訪ねに来た”というそれではない、なにかを託された者の静かな覚悟が漂っていた。
その名を追いかけ、ここまで来た理由。
アランの残した言葉と、ぬくもりと、銀色の星に込められた祈り。
少女の目が奥に向けられたその瞬間、空気がふと変わったように思えた。
そして、扉の向こうで光に包まれるように現れる影――
シリウス・ブラックがそこにいた。
荒々しくまとめられた漆黒の髪と、わずかに煤けた外套。
けれど少女の視線が捉えたのは、その眼差しだった。
疲れと、まだ消しきれぬ情熱と、人を守ろうとする真っ直ぐさをひとつに宿した目。
それを見た瞬間、少女の唇が、ようやくひとつだけ、小さく動いた。
「…… アランさんから……託されて……きました。」
その声は小さく、でも、風のどんな音よりも確かだった。
隠れ家の空気が、少女のひとことを境にぴたりと止まった。
「…… アランさんから託されてきました。」
その名が落ちた瞬間、ジェームズもシリウスもまるで時が止まったかのように黙り込んだ。思考が数秒遅れて追いつくほどに、その言葉は重く、美しく、そして痛々しかった。
シリウスの瞳がゆっくりと、少女の胸元へと向く。
そこには見覚えのある銀のペンダント――まぎれもなく、かつて彼がアランに渡した、小さな星のモチーフが光を受けてかすかに瞬いていた。
少女は、そのペンダントに触れていた。
守るように、すがるように。
あの小さな手が触れる指先には、緊張と不安、そして小さな勇気が宿っていた。
「……それ、本当にアランが?」
シリウスの声は深く、ほとんど聞き取れぬほど低かった。
疑い、いや、信じたいがゆえの確認だった。
少女は首を静かに縦に振った。そして、震えを飲み込むようにして話し始めた。
「……私、マグルの家に生まれました。孤児院で育てられていて……でも、魔力が宿ってしまって、それが周りからは異常だって、ずっと怖がられて……」
「……そんなとき、アランさんと出会って……怪我をしていた私を助けてくれました。そしてあの人は、私を“おかしくない”って、言ってくれたんです。」
一言一言、言葉は丁寧に編まれていた。傷の上に薄紙を重ねるように。
ジェームズが黙って少女の話を聞く傍らで、シリウスの拳が硬く握られていた。
「……私はもう、死ぬって思ってました。孤児院に怖い人たちが来て、他の子は……」
言葉を詰まらせ、小さな唇がわなないた。
「……でも…… アランさんだけが、私を守って、逃してくれました。ここに来なさいって――『シリウスブラックなら、あなたの力になってくれる』って。」
そのとき、ジェームズの頭をよぎったのは、つい最近流れていたニュース記事の見出しだった。
『孤児院での処理作戦、全員処分――純血保全の名のもとに』
その中に魔力が暴走するオブスキュラスの少年がいたこと。そして他の子供たちは全員、マグルの血を引いていたと。あまりにも非道だという声が上がる一方で、「仕方ない」「危険因子だった」と擁護する声もあった。
それがただの大人たちの判断によって決められた命であることが、いかに非情だったかを――いま、この目の前の少女が静かに証明していた。
だからこそ、ジェームズも、シリウスも、言葉がすぐには出なかった。
そして胸の奥が、ひどくきゅうっと痛んだ。
アランが、自分の何かを賭けてこの子を守ったのだ。
その強さと、優しさと、揺るがぬ信念は、昔と変わらぬまま――いや、昔よりもずっと透き通っていた。
けれど、それと同時に、冷たい恐れが胸を満たしていく。
アランは本当に無事なのだろうか?
あの子を庇ったことで、責を問われたり、純血の一族のなかで追いつめられたりしてはいないのか。
彼女は今、どこで、どんな顔をしているのだろう。
その微笑みにもう、自由は残されているのだろうか。
少女の話は、まだすべてを語ってはいなかった。
けれどそれでも、もう十分だった。
シリウスはゆっくりと少女の前にしゃがみ込み、沈むように低く声をかける。
「……ありがとう。よく、ここまで来てくれたね。」
その眼差しの奥にあったのは、押さえきれない喜びと、どうしようもない心配と、
そして、深く揺れる、アランへの想いだった。
小さな命が連れてきた真実の欠片が、
隠された祈りをそっと、この場所に運んできた。
隠れ家の暖炉で揺れる炎が、部屋の壁に静かな橙の影を踊らせていた。張りつめていた空気は、アリスの話し終えた声とともにやわらかくほどけ、そこに深く、温かな沈黙が流れていた。
ジェームズは、背もたれに身を預けながら手にしたマグカップを見つめていた。何も言わず、ただ思いを馳せていた。
―― アランが。あの優しく、どこか影のある少女だった彼女が。
きっと体はまだ回復してはいなかったはずだ。産後の身で、それでも、自分の命を削るようにして、この少女を守りぬいた。
シリウスはその事実を全身で受け止めていたようだった。
拳を膝の上で握りしめながら、小さく息を吐く。
「……無理をしたに違いない。きっと、まだ体を起こすのもつらい頃だったはずだ……」
静かにそう呟いた声は、怒りではなく、悲しみと誇りと、深い愛しさが滲んでいた。
ジェームズもそっと頷いた。
誰よりも、アランの選択を知る者として。
誰よりも、シリウスの胸の炎を近くで見てきた親友として。
たとえ今、アランが立っている場所がブラック家の中だったとしても。
たとえ背負っている名が違ったとしても。
――その心の奥に描いている未来は、たしかに自分たちと同じだった。
マグルにも魔法使いにも分け隔てなく、未来を手渡す世界。
優しさが、誰かの命を救い得る世界。
「……繋がってるな」
ジェームズが低く呟いた声に、シリウスは視線を上げ、静かに頷いた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
膝に座っていたアリスが、少し不安げにふたりを見つめていた。
けれどその瞳には、希望の光がある。
小さく震えていた肩を、今はまっすぐに立て、自分の意志でここに来た勇気ある子供だった。
シリウスは立ち上がり、アリスの前で両膝をついて目線を合わせた。
その灰色の瞳が、かつてアランに注いだ無垢なまなざしの余韻を思い起こさせる。
「アリス」
そう呼ぶ声は、どこまでも落ち着いていて、大地のように確かだった。
「ここで一緒に暮らそう。もう、誰にも怖い思いはさせない。」
アリスが目を丸くする。
「……え?」
「勉強も。魔法も。ほうきの乗り方も、解呪呪文の仕組みも。
みんな、俺が教えてやるよ。」
シリウスはほんのすこし、いたずらっぽく笑った。
「だって、不死鳥の騎士団ってのは……そういうもんだからな。笑いながら、ちゃんと戦うんだ。」
アリスの目にふわりと涙が浮かび、その下から灯りが灯るように瞳が輝いた。
「……ほんと? 私、……いていいんですか?」
その問いに、シリウスは息をひとつだけ吸って、言葉を選ばず確かに応えた。
「お前をここまで導いたのは、アランだ。
俺の……一番の、大切な人だ。
……だったら、約束しよう。ここは、お前の家だ。」
その短い言葉に、アリスは何も言えなかった。ただ、小さな唇が何度か開きかけては閉じ、こみあげる何かをどう包んでいいのかわからないまま、目元を指でぬぐった。その指は小さく震えていた。
「……ありがとう」
やっと、声になったのは、それだけだった。けれどその一言には、この数日、彼女が孤独や恐怖の中で言えなかった言葉のすべてが詰まっていた。
シリウスは微笑んだ。
「なあに、俺は人使いが荒いんだ。君もすぐに任務に巻き込まれるぞ。まずは……部屋の掃除からな。」
アリスがくすりと笑った。今度は、純粋な子どもの笑顔だった。
ジェームズがそれを見て「おいおい、いきなり掃除係かよ」と肩をすくめ、やわらかく笑い声が部屋を包んだ。
その笑いの影には、痛みもある。他の子どもは救えなかった。アランの身体は、戻ってきていない。けれど、目の前にあるこの命は、たしかに誰かの手で守られ、その手は確かにあの人のものだった。
「シリウス」
ジェームズがぽつりと声をかける。
シリウスは短く振り向いた。ジェームズは少しだけ声を落とし、それでもはっきりとした声で言った。
「アラン……無事でいてくれると、いいな」
その言葉には、願いと祈りがあった。
そして、失ったものがあるからこそ守りたいものがあるという、不死鳥の騎士団らしい鋭く優しい感情があった。
シリウスは顔を伏せて、それから少女の頭をぽんと軽く撫でた。
「……大丈夫だ。生きてたって、この子が教えてくれたんだ。」
火の揺らめきが影を広げていく。アリスの両手に、大切そうに抱かれたペンダントがぬくもりを宿していた。
遠くにいる誰かと、ここにいる誰かの命が、確かに一本の線でつながっていると――今、そう信じて良いのだと思えた。
隠れ家の窓辺に射し込む柔らかな夕陽が、ほんのりと黄金色のカーテンを透かしていた。長椅子には分厚い教本と羊皮紙がひらかれたまま置かれ、その前ではアリスが一生懸命に羽根ペンを走らせていた。
その姿を少し離れた椅子から眺めながら、シリウスはふと、目を細める。
――まるで、我が子のようだ。
そう思った瞬間、胸の奥にほのかに満ちる感情に、ひとり静かに驚いた。
忙しなく言葉を教え、呪文を教え、時に叱るふりをしてみせながらも、そのすべてが愛しく、時が満ちていくのを感じる時間だった。もしも――もしも自分が、父親と呼ばれる未来があったのだとしたら、こういう日々を思い描いていたのかもしれない。
アリスの勉強の飲み込みは驚くほど速かった。最初に教えた基本の変身魔法はほんの一晩で仕組みを飲み込み、彼女なりに工夫しながら音の出し方を修正してくる。
「アランさんが……命の形には理由があるって、そう言ってくれたんです」
ふいにアリスが、ページから顔を上げてつぶやいた。
「魔力を持ってしまったから、ひとりぼっちになるんじゃなくて、それを使って誰かを照らせるなら、きっと意味があるって……」
その一言が、まるで遠くから届く詩のように、シリウスの胸に落ちた。
アリスは逃げるようにやってきたはずだった。けれど今、彼女は確かに〈ここ〉で根を張って生き直そうとしている。その根っこを支えているのは、あの命を懸けて彼女を送り出したアランという女性の言葉だった。
そして、その言葉を今こうして受け継ぎ、生きている姿を見ることで、シリウスのなかでも救われていくものがあった。アランの声はもう聞こえないとしても、こうして、たしかな痕跡が遺されていたのだ。
ある日、食後のカップに甘さを多めにした熱いココアを注ぎながら、アリスが小さく微笑んで言った。
「私、もしも魔法使いになれたら……子どもたちの学校を作りたいんです」
「学校?」
「うん、マグルでも、魔法がどんなものかをちゃんと知って、恐れたりしないように。魔法を持った子たちも、自分を好きになれるように。そういうところ…… アランさんと話してたんです」
そのとき、シリウスの心に不意に滲んだ温もりは、言葉にできない形をしていた。
――ああ、アラン……。
たったひとつの命が、たった一つの言葉が、誰かの未来を確かに変えていける。
そしてその想いが、今なお優しさとして受け継がれているなら――
彼女が流した涙も、痛みも、それだけでは終わらなかったのだ。
目の前でこくりとココアを飲むアリスの横顔を見ながら、シリウスはただ静かに、深く椅子に身体を預けた。
この手元にあるものは、育まれていく希望だと。
それがアランの手から託された最後の灯だと、確かにそう思えた。
