2章
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静かな夜の帳が屋敷を包み、ブラック家の食卓には淡く揺れる蝋燭の灯が各々の横顔に柔らかな陰影を落としていた。葡萄酒のグラスに映る赤い光が、ほどよく調和した銀食器とともに、今日もまた変わらぬ格式と威厳を示している。
オリオンがナプキンを膝に置きながら、ふとアランへと視線を向けた。
「体調はどうかね、アラン。」
その問いかけは、ごく自然な口調だった。温かな声音にさえ聞こえて、悪意ある意図など何一つ感じさせない。むしろ、誠実な気遣いとさえ思わせるような一言。
アランは姿勢を崩さぬまま、静かに微笑みを浮かべて答えた。
「ええ、おかげ様で……回復してまいりました。」
言葉の調子は落ち着いていた。だがその喉奥には、決して拭えぬ鈍い痛みが棲んでいた。実際、回復などほど遠かった。まだ夜中に痛む下腹部の余韻に目覚めることもある。階段をゆっくりと降りるにも苦労し、傷口は時折うずいた。だが、そうは言えなかった。
ヴァルブルガが薄く微笑んで応じる。
「それはよかったわ。母となるのは、体と心に力が要ることだから。」
やわらかな声だった。厳しさよりも誇りを纏っていて、まっすぐな祝福に聞こえた。アランは黙ってうなずき、ナイフをそっと指先に取った。砕けやすい鍋焼きのパイ生地が、静かに割れて広がる。
そして、何気ない仕草でパンにバターを塗っていたオリオンが、ふと、ひときわ通る声で言った。
「ならば、早々に次の世継ぎのことも考えねばならんな。」
——その瞬間。
アランは手の動きを止めた。
胸が、内側からひとすじの冷気で撃たれたように、強く固まった。
呼吸が浮き、それをひた隠すように姿勢を正そうとしたものの、動かした肩がわずかに震えた。
まだ、あの痛みが体の奥に根を張っている。寝返りのたび、脂汗をかくあの夜を越えたばかりで。まだ、あの子の名を心に馴染ませることさえ終えていないというのに。
たったひとりの命を、やっとの想いでこの世に迎えたばかりだった。命がけで産んだ日から、数えるほどしか経っていない。それでもブラック家には、もうしかるべき「次」を授かることが、当然の課題として掲げられるのだった。
言葉には出せなかった。けれど胸の奥では何かがしずかに、確かに崩れた。
誰もそれに気づかない。食器がカチャ、と鳴り、話題は別の一族の近況や政界の動きへとすぐに移り始めた。
アランは黙ってグラスに手を添えた。微かに汗ばんだ指先。その冷たいガラスの感触に救いを求めるように。
――もう、次の命を望まれている。
細く刻まれた自分の存在。願われるのは人格ではなく、血。役割。生む者としての証。
レギュラスは黙ったまま、彼女の横顔を見た。何も言わずに。その沈黙のなかに、優しさと苦悩と、何もできないだけの無力さが滲んでいた。
アランは微笑んだ。崩れぬように、割れぬように――誰にもそれが見えぬように。
微かな震えとともに、静寂がまた灯火のなかに沈んでいった。
扉を閉じた寝室の内に、アランはしばし静かに立ち尽くしていた。
淡い月光がカーテン越しに差し込み、絨毯の上には長く細い影を落としている。
肩にかかった薄手のショールを指先で直しながら、机の上の銀の燭台に目をやった。
微かに揺れる火が、今にも消えそうで——まるで、自分の内側にあるか細い光のようだった。
その時、扉の向こうから聞きなれた足音。
控えめなノックが響く。
「アラン……父の言葉、あれは……」
レギュラスの声は、低く、ためらいがちに揺れていた。
彼なりの誠実さと配慮、そして戸惑いがにじんだ声だった。
けれど—— アランはその言葉を最後まで聞かせることはしなかった。
肩越しに振り返ることもなく、静かに、それでもはっきりと告げた。
「……大丈夫です。
もう少し、あなたの前に“見せられる体”になるまで……待っていてください。」
それは苦笑のような声音だった。
まるで、自分の抱えているものを冗談のようにして切り抜けようとする、最後の防衛線。
そうでもしなければ、頬が震え、膝が崩れてしまいそうだった。
背後のレギュラスは、何も返さなかった。
返せる言葉が、見つからなかった。
しばらくしてそっと扉の向こうの気配が遠ざかる。
沈黙だけが、部屋の内を静かに満たしていた。
アランは、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、頬に掌を当てて深く息を吐いた。
思考の奥に、静かに、けれど鋭く響くオリオンの声が残っている。
「ならば早々に次の世継ぎのことも考えねばならんな」
この家に嫁いできた以上、それが当然の務めとして与えられていること。
あらがいようもない事実であり、誰もがそれを当然と口にする。
望まれているのは「妻」でも「母」でもなく、「次を産む存在」としての彼女の役割だった。
あの一言に、彼女自身の願いも、意思も、尊厳も――何一つ入り込む余地はなかった。
分かっている。
ずっと分かっていたつもりだった。
この家にいる限り、与えられた役割だけを粛々と果たしていくことが求められるのだと。
でも――それでもなお、胸が張り裂けそうだった。
愛とは違う場所で生きて、覚悟して選んだ人生のはずだった。
それなのに、どうしてこんなにも苦しいのか。
どうして涙がこぼれそうになるのか。
アランはそっと胸元に手を伸ばした。
薄いサテンの中から、小さな星型のペンダントを指先で取り出す。
肌の熱でわずかに温まった銀色の星には、あのひとの名残があった。
────シリウス。
あなたの手を、あの時離さなければ。
もっと強く在れたならば。
あなたを選び切れていたのなら。
そうすれば私は、今のこの自分を、こんなに蔑まずにすんだだろうか。
今ごろどこかで戦っているであろう彼の姿を、目の裏に浮かべる。
強く、正しく、まっすぐで、孤独のなかでも希望を持つ人。
自分とは違った、あるべき未来を貫くことができるひと。
でも自分は、その光から目をそらし、やわらかくて暗い檻の中を選んだ。
その檻は、レギュラスという美しく誠実な人に支えられた、優しい牢だった。
そのことが、今となっては余計に――胸を締めつける。
「……私、弱かったのよね……」
誰にも届かない声が、静かにこぼれ落ちる。
ペンダントの銀が月光を微かに弾いて、儚く、遠いきらめきを放った。
もう一度目を閉じてみても、視界の奥にはシリウスの輪郭が残ったまま。
そして、その影の下で、アランは静かにひとつ、涙のかわりに息を吐いた。
痛むのは、いまも心だった。
けれど、それすらも──もう、誰にも見せることはできないと思っていた。
夜の帳が静かに降りる。ロンドンの裏通りにある、ささやかな隠れ家の一室。開け放たれた窓から、遠くの列車の音がぬるく滲んだ風とともに届いていた。葉擦れの音、魔法灯のかすかな唸り、そして手元の新聞紙をめくる音だけが、部屋の空気を揺らしていた。
シリウス・ブラックは、古びた椅子に深く腰かけ、手にした新聞の見出しをじっと見つめていた。
「ブラック家に男児誕生――輝ける未来の世継ぎ」
タイトルは金箔のような書体で濃く強調され、記事の文章も、まるで伝説でも描くように荘厳だった。純血の家系にまた一人、将来を担う男児が生まれたことを讃え、ブラック家の名が誇り高く継がれてゆくという期待に満ちた言葉が並んでいる。
吐き出すように、紙面を畳んだ。
「……むかむかするな。」
自分の実家が、まるで“王家”のように扱われているそれが、可笑しくて、どこか痛々しくて、正直言って虫唾が走る。
だが――
アランが、無事に出産を終えたという、そのひとつの事実だけが。
唯一、心のどこか深い部分で、静かに光を灯した。
命を懸けて産んだだろう。
あの繊細で、頑なで、気高い彼女が、どれだけの苦しさを飲み込んでこの日を迎えたのか。
想像するたびに、胸がひりついた。
どんな子を産んだのだろう。
顔はアランに似ているだろうか。
それとも、あの弟に……。
そして、瞳の色は――。
父方から受け継ぐ漆黒か、あるいは、間違いであってほしいが、自分と同じ、深い灰色だったりは……
思えば思うほど、ひどく現実味のない夢を見ている自分に胸が詰まる。
いつか、自分がその子を抱く日は来るのだろうか。
そんなこと、叶わないと分かっているはずだった。
わかっている。
でも、ふと思ってしまった。
その日が来たとして、アランはどんな顔をするだろうか。
その子が、自分を見上げる瞬間を迎えたとして――泣くだろうか。笑うのだろうか。
視線を床の影に落としながら、シリウスはひとつ、深く息を放った。
そしてふと頭をよぎる。
今ごろ、親友のジェームズのところにも、もうすぐ新しい命がやってくる。リリーは臨月だと言っていた。
生まれたら、男か女かなんてきっと気にせず、大事に育てるだろう。
ジェームズが子を抱く姿を思い浮かべて、胸のどこかがちくりとした。
親友たちはそれぞれ家庭を持ち、命を繋ぎ、未来へ進んでいく。
――自分だけが、あの時から変わらないまま取り残されている。
それが寂しいなんて、情けないとも思う。でも……正直だった。
アランの隣を歩いていきたかった。
子どもの名を一緒に考えて、寝不足に文句を言い合いながらも、未来の話をしていたかった。
けれど、そうしたかった未来は、もう ――どこにも存在していないのだ。
床にたたんだ新聞だけが冷たく、その上にはブラック家の輝かしい未来が誇らしげに刻まれている。
もう、アランの未来の中に、シリウスが名前すらない日も来るだろう。
それでも――叶わなかった未来を夢見る気持ちだけは、どうしても消せなかった。
燃やすことも、言い訳に変えることもできない想いが、彼の胸を静かに、しかし確かに焦がしていた。
そしてその想いを仕舞うように、シリウスはペンダントの中に隠された昔の写真を見る。ぼやけたなかにも笑っていた彼女が、瞬きの瞬間にふと、泣きそうな目元に変わった気がして。
「……ごめんな、アラン。」
誰にも聞かれぬほど小さくそう呟き、シリウスは目を閉じた。
もう眠るでもなく、いまをやり過ごすために。
この夜をただ通り過ぎるために、そっと瞼を閉じた。
黒雲が垂れこめた辺境の孤児院。
レギュラスは緊張を胸に秘め、任務のために足を踏み入れた。ここには純血一族にとって望まれざる存在とされた、マグル産まれの子供が隠れている。
その子の魔力がマグルの血筋ゆえに制御仕切れずに暴走しており、皆の安全を脅かしていた。
心の中には、オリオンの言葉が重くのしかかる。あのときアランに「すぐに次の世継ぎを」と命じた言葉だった。レギュラスは、アランのその瞬間の表情を決して忘れない。長年、彼女の様子を見守ってきたからこそ、そのごくわずかな動揺が見破れたのだ。
「気にしなくていい」と何度もアランに告げたが、その思いはきっと届かないのだろう。この家は確かに、純血の血統を繋ぐためにアランという女性を迎え入れた。だが、レギュラスの心は違った。幼い頃、兄シリウスと共に過ごした、アランへの想いと愛が胸の深くにある。彼にとってアランはただの「場のための世継ぎ」ではなく、夫として、ひとりの男として愛する女性だった。
けれどこの純血の家は、アランに対し重くのし掛かる枷や重責ばかりを強いていく。彼女の心が壊れてしまわないか、そればかりを案じながら、レギュラスは任務をこなす足を進める。
孤児院の闇に差し込むわずかな光の中、彼は強く心に誓う。
重圧と愛情の狭間で揺れ動く彼の胸元に、静かに決意の炎が灯っていた。
灰色の霧が湿った空気とともに立ち込める、廃れた孤児院の外庭。石造りの壁はヒビと苔に覆われ、かすかな魔力の気配がひずみのように空間を撓ませていた。レギュラスは黒いローブの裾を揺らしながら、その中央に静かに立っていた。
目の前の扉の向こうにいる――制御の効かぬ魔力を有する子ども。
報告によれば、その魔力は精神の不安定と共鳴する形で、しだいに周囲を破壊し始めている。
異様な閃光、浮遊する灰塵、壁の崩落、空気の震動――
それは明らかに、「オブスキュラス」と呼ばれる、魔力の暴走体に限りなく近い症状だった。
この年若い孤児の出自は、マグルと純血魔法使いの一族との混合。もっとも、ブラック家をはじめとする家系にとっては「穢れ」として分類される存在だ。そして、ここはそうした”望まれざる魔”が投げこまれ、忘れられていく場所。
レギュラスは静かに眼を伏せ、冷たく思考をめぐらせていた。
なるほど。やはりこの幼い命にきざまれているのは、“純血とは異質”な魔力のかたちだ。
それは生まれてはいけない繭のような、言葉にならない不均衡。
マグルという非魔法生物が、恐れ多くも魔力を孕み、傷とも気づかぬ痛みのなかにそれを宿して過ごす。
畏れを知らず、覚悟も持たず、ただ「持ってしまった」という事実だけで、それが火種となって暴走する……。
――それがどれほど異様で、愚かしいことか。
「……つくづく、滑稽だな」
息を吸い込む音さえも湿る空気の中で、レギュラスは口元だけで静かに言葉をつぶやいた。
その声は誰にも向けられたものではない。それでも、言わずにはいられなかった。
内に湧き上がるのは怒りではなく、冷酷に近い嫌悪だった。
マグルの血を引いてこの世界に生まれたものが、力を持ってしまうことの罪。
それを抱えるに値しない存在の身に、魔が宿るという逆転。
この世の理を乱すものに対し、嫌悪感は炎ではなく、氷のように研ぎすまされてゆく。
……その力に、生涯怯えるしかない子ども。
自分の内で暴れるものを、誰も教えず、導かれず、それでも生きようと足掻く哀れさ。
だが悲しみはなかった。
レギュラスのなかには、ただひとつの真理があった。
――力には、流れるべき血がある。持ってはならない者がそれに手を伸ばすことの、報いがある。
その思想が全て間違っているとは、彼にはどうしても思えなかった。
血と誇り、それは彼が生まれた家が植えつけた価値観であり、アランが抱える十字架でもある。
そして今、自分が立ちすくむこの場所こそ――
その信念が、最も正確に形を成してしまった証。
レギュラスは手袋を外し、扉へと伸ばした。
低いうなり音とともに、魔力が応じ始める。
この先にあるのは救済か、粛清か。
彼にとっては、もはや結果ではなかった。ただ、導くべきものを導く責任があるのみだった。
淡々とした瞳の奥には揺るぎなさが宿っていた。
それでも、その奥に――風にささやかに揺れる、なにかじわりと熱い矛盾が、小さく灯っていることを、彼自身まだ気づいてはいなかった。
濃い霧が垂れこめ、昼とも夜ともつかない光が地平を曇らせていた。
古びた孤児院の礼拝室。ステンドグラスはひび割れ、色を失い、祭壇の前では煤けた絵画が古い記憶を手放すように壁から剥がれかけていた。その中央に、たった一人で立っていた小さな影――
まだ七つか八つだろう、痩せた体にぶかぶかの毛布を引きずり、怯えるようにレギュラスを見上げていた。その金色混じりの瞳の奥では、恐怖とわずかな乞いのようなものが瞬いていた。それでも、その瞳の向こうでは、青く燻るような魔力の気配が濃く渦を巻いている。静かな、けれど明確な“異質”の震え。
それは、オブスキュラスの前触れだった。
この子は、もうすぐ自己ごと魔力に呑まれる。
レギュラスは静かに、誰もいない礼拝堂の入り口に立ち、そっと手袋を外した。
「これが……救いになるのだとしたら。」
自分の言葉は、その子の耳にも、きっと届いてはいない。
《今のうちに処置を》――任務ではそう告げられていた。
もう治療はできない。抑える術も、導く大人も、この子にはない。
存在が、すでに呪いになっている。
止めなければ。
この魔力の暴走は、やがて建物ごと吹き飛ばし、周囲に禍を撒く。
純血の一族──無辜の子にでも被害が及ぶようなことになれば、それはもう“事故”として扱われない。
ゆっくりと、レギュラスは杖を引き上げる。
その手は震えていなかった。
ただ、胸の奥で何かがこすれるような、切羽詰まった重さがあった。
彼の心に浮かんでいたのは――脈打つように蘇る、アルタイルの小さな寝息。
寒い夜、火のそばで眠るあの子の、あたたかく丸い背。
アランの腕の中で微かに笑った時の、あの瞳の揺れと手のひらの重み。
自分とアランの命を繋いだ、穏やかで完全な存在。
「……なのに、」
その穏やかさを守るために、目の前のこの子に“終わり”を与えねばならないのか。
一度、視線が揺れた。
小さな影は、ただこちらを見つめていた。
わかっていないのか、それともすでに悟っているのか。
言葉も叫びも何もなく――ただ、そこに“希望のない静けさだけ”があった。
レギュラスは、再び構え直す。
その刹那、目尻になにか熱いものが滲みかけたが、顔はきちんと上げていた。
誰にも見られていないはずの場所で、彼の足元には微かな影が、長く伸びていた。
「赦しを乞う言葉すら、君には届かないのだろうな。」
祈りの言葉も、慈悲も、罪の意識も、もう意味はなかった。
彼が求めるのは“結果”だけ。
それが、運命という名の檻だとしても。
レギュラスの手が、やわらかく空気を割る。
杖先がわずかに煌めいた、その一瞬。
礼拝堂に吹いた風が、途切れていたロウソクの火を、ひとつだけふっと揺らした。
――その刹那にあふれたのは、
一筋の涙だったか、それともただの、仕方のない、静かな別れだったのか。
誰も、知ることはなかった。
昼下がりの窓辺。静かな寝室に落ちるカーテンの影が、ひときわ長く伸びていた。
アランが手にした封筒は、どこにも差出人の名が記されていなかった。けれど、封を切った瞬間に漏れ出た筆跡の震えとにじむインク、それだけで誰からのものかはすぐにわかった。
──あの少女。
遠くの孤児院で出会った、小さなマグルの少女。
そっと二つに折られた便箋は、まるで風に怯える子どもの息遣いのように細かに揺れていた。読み進めるごとに、アランの指先からぬるい血が引いてゆくような心地が広がっていく。
「……怖い人が来たの……」
「男の子が……殺されちゃったの……」
「誰も何も言わない。私も、怖い……」
まっすぐな言葉の裏で、どれだけの恐怖と混乱を必死に押し込めて書いたのだろう。くしゃっと押しつけるような筆圧の痕――最後の行には、ほとんど字にならないような波線だけが残されていた。
アランは息を呑み、指で口元を覆ったまま立ち上がった。喉の奥がひりつくように痛んだ。
まさか――レギュラスの任務と、関係があるのか?
まさか、本当に――
恐怖と不安が胸を押しつぶすように込み上げ、視界が白んだ。
「そんな……」
その場に座り込むこともできず、アランは反射的に扉を開けた。
冷たい空気が頬を打ち、灯りが差し込んでいた書斎の奥が一瞬で遠のいてゆくようだった。
規則の厳しいブラック家。屋敷から一人で飛び出すなど、本来あってはならない。けれどそんなことを思い出す余裕もなかった。
机の上に置かれていた、まだ温もりの残る湯茶。窓辺のゆり椅子に掛かるアランのショール。すべてを置き去りにして、彼女はドレスの裾を乱さぬように掴み、廊下を駆け抜けた。
背中で扉が開き、後方から呼び止める声が響いたかもしれない。けれど聞こえなかった。なにも聞きたくなかった。
大理石の階段を、ひと段、またひと段と慌ただしく降りる。
中庭へ続く扉を押し開けた時、午後の光が瞳を眩ませた。
「どうか、無事でいて……」
短く、震える声だけが漏れた。手紙を握る手の中に、小さな少女の笑顔が焼きついている。
あたたかくて、陽だまりのような、マグルの少女。
未来には光があると信じて、夢を語ったあの瞳が、恐怖に曇ったなど――絶対にいてはならない。
草の香り、風の音、すべてが遠く、にじむように揺れていた。
アランはそのまま、何も告げずに、屋敷を後にした。
行かねばならなかった。
どんな罰を受けようとも、誰に何を言われようとも。
命に触れた者の、手のひらの温もりを信じて。
一歩、また一歩、足音が風に消えていった。
アランの心に浮かぶのは、誰よりも罪と矛盾に苦しむレギュラスの瞳。
けれど、今はただ、あの子のために――
アランの意思が、静かに炎を宿していた。
午後の空は灰色を帯び、すでに日は傾き始めていた。
乾いた地面に風が走り、枯葉を巻き上げながらその背を押す。アランは姿くらましの魔法を身に纏い、冷たい空気のなか、かすれた息を吐いた。
息を潜めて渡る草の道。だが――体は正直だった。
慣れぬ強行で、産後の傷は軋むように痛み始め、腹の奥に残る鈍痛がじわりと広がってくる。歩みを止めれば、痛みに屈しそうになる。けれど、足を止めるわけにはいかなかった。
「お願い……間に合って……」
手の中で握られた少女からの手紙が、びっしょりと手汗に湿り、紙の角がくしゃりと折れている。小さな夢と笑顔を語っていたあの子が、命の危機に怯えている。
それだけで、アランに立ち止まる選択肢はなかった。
孤児院の近くの森へ差しかかる頃、不意に空気が変わった。気配が、確かにあった。
──デスイーター。
数人の黒い影が、建物の裏に沈み込むように動くのが見えた。その衣の裾が風にたなびいたとき、胸の奥に冷たい針のような確信が走る。
きっと、あの中にレギュラスがいる。
それは予感ではなかった。
痛いほどに鮮明な、確信。
その瞬間、アランの胸が張り裂けそうになった。
彼は、正義と忠誠の間で苦しむ人だった。
その苦しさを知っていた。
誰よりも穏やかで優しい手を持っていたことも、忘れられない。
だからこそ痛い。
守ろうとしたものを――
心から愛しているはずの人の手によって、壊されるかもしれないという現実。
嗚咽が喉に貼りつきそうになる。けれど、声を出すわけにはいかなかった。
ただ、苦しい。その胸に手を当てる。まるで息をするたびに、冷たい刃が心臓を割っていく感覚だった。
そしてふと――
アルタイルの顔が胸に浮かんだ。
まだ小さな手。羽のように軽い寝息。
抱きしめればかすかに震える体温。
愛おしくて、壊れやすくて、それでも未来を見てほしいと願った命。
けれど思ってしまう。
──もし、いつか未来のどこかで、アルタイルまでもが「求められる正しさ」の中で傷つけられる日が来たのなら。
もしそれが、この純血の世界の名の元に、レギュラスの手によってもたらされる未来だったとしたら。
その時、自分には、彼を守りきる力があるのだろうか。
体は非力なのだと痛感する。
たった今でさえ、まだ傷も癒えていない身で、呼吸も苦しい。
杖を握る手が冷えて震える。
けれど、守りたい。
少女を。アルタイルを。
この胸の奥に宿ったまっすぐなものだけは守りたい。
アランは静かに目を閉じ、かすれた呼吸を整えるように一歩、また一歩と進む。
風が静かに裾を揺らすなか、彼女の心にあったのは、
共に愛し合ったはずの誰かを信じきれない悲しさと――
それでも自分自身が母として選ばなければいけない、ひとつの意志だった。
遠く、孤児院の影が夕光の中に浮かび上がる。
アランの歩みは決して早くはなかったが、
どこまでも、ひたむきに強く、揺るぎなく続いていった。静かな誓いのように。
月は鈍く滲む霧の向こうに隠れ、孤児院の屋根は影に沈んでいた。扉の錆びた蝶番がきしむ音ひとつ立てぬよう、アランは慎重に内部へと滑り込んだ。冷たい石床を撫でる風が、まるで小さな声で何かを訴えてくるかのようで、心が騒ぐ。
中は静まり返っていた。まるで時間が止まってしまったような、異様な沈黙が漂っている。
足音が響かないよう、アランは細心の注意を払って歩みを進めた。
闇に目を凝らしたそのとき――廊下の奥、小さな手が見えた。
紙のように薄く、冷たく、それでも確かに“命”であるはずの子どもたちが、床に倒れている。壁に寄り添うようにして、あるいは腕を交差させ、自らを守るように縮こまっている子たちの姿が、いくつも。
アランの胸がぎゅっと締めつけられる。
こんな小さな――
非力で、無力で、頼るもののない子どもたちが、
どうして、こんな恐ろしさに晒されねばならないのだろう。
彼女の背を走るのは、怒りではなかった。
哀しみと、悔しさと、痛みに似た絶望。
歩を進めるごとに、わずかに震える手を強く握りしめた。
胸の奥にある何かが崩れのように軋んでいた。
そして――
「……いた……!」
葉の擦れるような声が、喉から零れた。
崩れたカーテンの奥、壊れかけた椅子の隅に、あの少女はうずくまっていた。
膝を抱え、顔を伏せ、小さな肩を震わせながら、耐えることしかできなかった命。
アランは迷うことなく駆け寄った。
「……!」
その名を、呼びたかった。
声が、喉の奥に絡まって出なかった。
言葉にすると、涙が崩れてしまいそうだったから。
ただ、ただ、強く――少女を抱きしめた。
震える肩を、細い腕で包み込む。
キツく、かき抱くようにして。
心臓が喧しく打っていた。
彼女の鼓動と、少女の小さく浅い呼吸が、やっと一つに重なった。
「……よかった……」
声にならない声で。だが、その言葉は確かに伝わった。
少女の手が、アランの背中にそっと添えられる。
恐怖で固まった身体の奥に、わずかに力が戻りはじめていた。
もう大丈夫――
そう言えるだけの確信はなかった。
それでもアランは、そう願いながらその子を抱きしめ続けた。
たった一つ、守りたかったものが、ここにあった。
壊したくなかった未来が、震える小さな胸の奥で――まだ息づいていた。
闇がまたひとつ、孤児院の廊下を覆い始めていた。
すぐそこまで迫る気配。ひどく静かで、それゆえに凍てつくような殺気を伴う足音。
アランは、少女の小さな体をまたぐようにして身を屈めた。
――もう、時間がない。
ドアの向こうからは、デスイーターたちの低く擦れる声が聞こえた。
「生き残りがいないか、隅まで探せ」
「子供でも見逃すな」
彼らは必ずここへたどり着く。
見つかるのは時間の問題だった。
アランは少女の肩に手を添え、真っ直ぐにその瞳を覗き込む。
「行きなさい。今すぐここを出て……生きるのよ。」
その言葉に、少女はかすかに首を振った。
震える目が語っていた。
――どこに?
――わたしは誰を頼ればいいの?
親も兄弟も、守るべき魔法省の護りも、この子には存在しない。
これまで生きてこられたのは、ただ奇跡だった。
けれどアランは、強い眼差しのまま、少女の手をぎゅっと握った。
「シリウス・ブラックを訪ねなさい。」
その名を口にする瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
けれど、そこに迷いはなかった。
「彼に伝えて。このペンダントは、アランから託されたものだと。」
そう言って、アランは自分の胸元にあった銀色のペンダントをそっと外し、少女の手のひらに包み込ませる。星のかたちをした、小さな灯。その奥には言葉にできない想いと、ひとつの確かな祈りが宿っていた。
――願わくば、この子が彼の手に守られますように。
ペンダントは、アランとシリウスを繋いだ、過去と秘密の証。
それ以上の意味など、少女には説明する必要もなかった。
奇跡的に、必ず彼ならその意味を理解してくれる。
の手が、壊れかけた机の裏からそっと拾い上げたもの――
それは、ポートキーだった。
木製の古いスプーン。錬成の魔法を即席で施し、わずかな時だけ限定した逃走の鍵。
どこか、手の届かぬほど遠く、静かな森の中へと転送されるよう細工されている。
「恐れず、握って。今すぐよ」
少女は震えたまま、ペンダントとスプーンを胸に抱きしめる。
そして最後にもう一度、目を逸らさず、アランを見つめた。
なにも言葉にはしなかったけれど、確かに言いたいことがあった。
ありがとう――と。
アランは微笑みでそれを返した。
「ごめんなさい……守ってあげたかった」
小さく、かすれた声が漏れた瞬間。
ポートキーが唸るように光った。
鮮やかで、音もなく、ふわりと少女の姿がその場から消える。
ぬるい空気だけが後に残り、静寂が戻ってきた。
遠ざかる魔力の残響。急接近する足音。
アランは、ぽたりと床に落ちた自分の血の混じる息をゆっくり整える。
あの子が無事に、あの人の元へ辿り着けますように。
どうか、この命では届かない願いを、
せめてあのペンダントが伝えてくれますように――。
アランは小さな祈りとともに、光の消えた静かな廊下に立ち尽くしていた。
廊下の闇が、足音とともに濃くなっていく。
石畳を踏む硬く響く革靴の音――まるで時間を切り裂くかのように、冷たく、一定の速さで近づいてくるその響きに、アランは壁にもたれたまま、呼吸を整えようとした。けれど、無理だった。
魔力を振り絞って作り上げたポートキーは、もうすでに遠くへと少女を運び出してくれたはずだ。間に合った――はずだ。
その安堵すら、今やもはや過去の残り香にすぎない。
一歩も動けなかった。
体の奥底に渦巻くような疲労。産後の疲弊。傷の疼き。そして少女を守るために使い果たしたすべての魔力が、今のアランから逃げるという選択肢を奪っていた。
――もう、逃げられない。
重い息が喉を焼き、視界の端が霞む。
そのときだった。
黒いローブの裾が風を裂き、二人のデスイーターが間近まで迫る。彼らの手には杖がすでに構えられ、その先がアランを真っ直ぐに捉えていた。
「生き残りか……」
「撃て」
その言葉が漏れた瞬間――
「アラン‼︎」
空気が震えた。
聞き慣れた声が、切り裂くような鋭さで空間を満たした。
その声だけで、アランは目を見開いた。
頭が傾きかけた身体が思わず反応したのは、彼――レギュラスの声だったから。
数歩先――
霧の向こうから、黒衣を翻して現れたレギュラスの姿は、怒りと恐怖と、かすかな絶望を帯びていた。
彼の瞳は、ただまっすぐにアランを捉えている。他の何者を見ることもなく、他の誰に語りかけることもない、一点だけを見つめる祈りのような視線。
「撃つな――そこにいるのはアラン・ブラックだ!」
屋敷では決して口にされることのなかったその呼び名が、今この薄暗い空間に――彼の叫びに乗って、強く、確かに響いた。
デスイーターたちの動きが、わずかに止まった。
あと数拍遅れていたら、その呪文は確かに彼女の胸を貫いていただろう。
アランの背にひんやりと流れた冷たい汗。意識の淵で揺れながらも、彼女は懸命に目を開き続けた。レギュラスが、自分を見つけ出してくれたのだという確信。それが、今の彼女に残された唯一の支えだった。
足元で転げ落ちた一本の杖が、石の床で乾いた音を立てる。
レギュラスはすでにその前に立ち、外套を翻してアランの身体を覆うようにひざまずいた。
「なぜ……こんな……!」
彼の声が喉の奥で震えていた。
けれどアランは、微かに笑った。
だが、レギュラスの胸に染み入るには、それで十分だった。
彼は黙って、彼女の肩を抱き寄せた。
周囲の空気は、まだ沈黙の中にあった。
けれどその片隅で、何かが確かに変わりはじめていた。
ここで起きた小さな逸脱が、やわらかく大きな波紋になって、やがて世界のどこかを揺らしていくように――静かに、静かに。
朝なのか、それとも夕方なのか──光が薄く、まだ明けきらない空気が、静かに寝室の中を満たしていた。厚いカーテン越しに差し込む淡い光の中で、アランはゆっくりとまぶたを開ける。
目を覚ました瞬間、押し寄せてきたのは、体の重さよりも、胸の奥に張りついていた苦しみだった。まるで心臓に鉛を詰め込まれたような圧迫感。息を吸おうとするたびに、肺よりも先に心が疼いた。
枕元の空気は凪いでいて、まるで時間さえ止まっているかのようだった。けれど、次の瞬間、その静けさを破ったのは、立ち上がる気配に驚いた使用人の衣擦れ。
彼女が目を覚ましたのを見て、使用人は一瞬目を大きく見開き、何も言わずにそのまま駆け足で部屋を出ていった。勢いよく閉じられた扉の音が、この部屋の穏やかな眠りの名残をぴしゃりと断ち切る。
――きっと、誰よりも早く、レギュラスの元へ。
アランは、わずかにシーツの中で体を動かした。
けれど、すぐにその動作も止まってしまう。すべての節々が痛み、特に胸の奥と腹の辺りが深く鈍く軋んでいた。
それらは、少女を逃すため、すべてを振り絞った代償。
けれど、今もっとも痛んでいたのは、どこまでも心だった。
やがて扉が再び開かれるだろう。
そう遠くないうちに、レギュラスがここへやってくる。
案じる言葉と、優しさと、そして──問われるだろう。
「なぜあの場所にいたのか」
その言葉を想像しただけで、喉が苦しくなった。言い訳など、できるはずもない。
あの場には、数人のデスイーターたちがいた。
「偶然」では到底通らない状況。その目撃こそが、何よりも雄弁だった。
嘘をついて、守ることができるのか。
真実を語って、何を壊してしまうのか。
アランの指が、シーツの上で静かに握られた。
温められた布の下、手のひらは冷たく震えている。
彼の問いに、私はなんと答えるのだろう。
少女を助けたかったから…?
命の意味を思い出したから…?
それとも、ただ、あの子があの頃の自分のように見えたから?
けれど、今はまだ何も答えられなかった。
ただ、もうすぐやってくる気配を胸に覚えたまま、アランは瞼を伏せた。
その細く閉じた瞳の奥に、誰にも話したことのない葛藤が、深く静かに沈んでいた。
オリオンがナプキンを膝に置きながら、ふとアランへと視線を向けた。
「体調はどうかね、アラン。」
その問いかけは、ごく自然な口調だった。温かな声音にさえ聞こえて、悪意ある意図など何一つ感じさせない。むしろ、誠実な気遣いとさえ思わせるような一言。
アランは姿勢を崩さぬまま、静かに微笑みを浮かべて答えた。
「ええ、おかげ様で……回復してまいりました。」
言葉の調子は落ち着いていた。だがその喉奥には、決して拭えぬ鈍い痛みが棲んでいた。実際、回復などほど遠かった。まだ夜中に痛む下腹部の余韻に目覚めることもある。階段をゆっくりと降りるにも苦労し、傷口は時折うずいた。だが、そうは言えなかった。
ヴァルブルガが薄く微笑んで応じる。
「それはよかったわ。母となるのは、体と心に力が要ることだから。」
やわらかな声だった。厳しさよりも誇りを纏っていて、まっすぐな祝福に聞こえた。アランは黙ってうなずき、ナイフをそっと指先に取った。砕けやすい鍋焼きのパイ生地が、静かに割れて広がる。
そして、何気ない仕草でパンにバターを塗っていたオリオンが、ふと、ひときわ通る声で言った。
「ならば、早々に次の世継ぎのことも考えねばならんな。」
——その瞬間。
アランは手の動きを止めた。
胸が、内側からひとすじの冷気で撃たれたように、強く固まった。
呼吸が浮き、それをひた隠すように姿勢を正そうとしたものの、動かした肩がわずかに震えた。
まだ、あの痛みが体の奥に根を張っている。寝返りのたび、脂汗をかくあの夜を越えたばかりで。まだ、あの子の名を心に馴染ませることさえ終えていないというのに。
たったひとりの命を、やっとの想いでこの世に迎えたばかりだった。命がけで産んだ日から、数えるほどしか経っていない。それでもブラック家には、もうしかるべき「次」を授かることが、当然の課題として掲げられるのだった。
言葉には出せなかった。けれど胸の奥では何かがしずかに、確かに崩れた。
誰もそれに気づかない。食器がカチャ、と鳴り、話題は別の一族の近況や政界の動きへとすぐに移り始めた。
アランは黙ってグラスに手を添えた。微かに汗ばんだ指先。その冷たいガラスの感触に救いを求めるように。
――もう、次の命を望まれている。
細く刻まれた自分の存在。願われるのは人格ではなく、血。役割。生む者としての証。
レギュラスは黙ったまま、彼女の横顔を見た。何も言わずに。その沈黙のなかに、優しさと苦悩と、何もできないだけの無力さが滲んでいた。
アランは微笑んだ。崩れぬように、割れぬように――誰にもそれが見えぬように。
微かな震えとともに、静寂がまた灯火のなかに沈んでいった。
扉を閉じた寝室の内に、アランはしばし静かに立ち尽くしていた。
淡い月光がカーテン越しに差し込み、絨毯の上には長く細い影を落としている。
肩にかかった薄手のショールを指先で直しながら、机の上の銀の燭台に目をやった。
微かに揺れる火が、今にも消えそうで——まるで、自分の内側にあるか細い光のようだった。
その時、扉の向こうから聞きなれた足音。
控えめなノックが響く。
「アラン……父の言葉、あれは……」
レギュラスの声は、低く、ためらいがちに揺れていた。
彼なりの誠実さと配慮、そして戸惑いがにじんだ声だった。
けれど—— アランはその言葉を最後まで聞かせることはしなかった。
肩越しに振り返ることもなく、静かに、それでもはっきりと告げた。
「……大丈夫です。
もう少し、あなたの前に“見せられる体”になるまで……待っていてください。」
それは苦笑のような声音だった。
まるで、自分の抱えているものを冗談のようにして切り抜けようとする、最後の防衛線。
そうでもしなければ、頬が震え、膝が崩れてしまいそうだった。
背後のレギュラスは、何も返さなかった。
返せる言葉が、見つからなかった。
しばらくしてそっと扉の向こうの気配が遠ざかる。
沈黙だけが、部屋の内を静かに満たしていた。
アランは、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、頬に掌を当てて深く息を吐いた。
思考の奥に、静かに、けれど鋭く響くオリオンの声が残っている。
「ならば早々に次の世継ぎのことも考えねばならんな」
この家に嫁いできた以上、それが当然の務めとして与えられていること。
あらがいようもない事実であり、誰もがそれを当然と口にする。
望まれているのは「妻」でも「母」でもなく、「次を産む存在」としての彼女の役割だった。
あの一言に、彼女自身の願いも、意思も、尊厳も――何一つ入り込む余地はなかった。
分かっている。
ずっと分かっていたつもりだった。
この家にいる限り、与えられた役割だけを粛々と果たしていくことが求められるのだと。
でも――それでもなお、胸が張り裂けそうだった。
愛とは違う場所で生きて、覚悟して選んだ人生のはずだった。
それなのに、どうしてこんなにも苦しいのか。
どうして涙がこぼれそうになるのか。
アランはそっと胸元に手を伸ばした。
薄いサテンの中から、小さな星型のペンダントを指先で取り出す。
肌の熱でわずかに温まった銀色の星には、あのひとの名残があった。
────シリウス。
あなたの手を、あの時離さなければ。
もっと強く在れたならば。
あなたを選び切れていたのなら。
そうすれば私は、今のこの自分を、こんなに蔑まずにすんだだろうか。
今ごろどこかで戦っているであろう彼の姿を、目の裏に浮かべる。
強く、正しく、まっすぐで、孤独のなかでも希望を持つ人。
自分とは違った、あるべき未来を貫くことができるひと。
でも自分は、その光から目をそらし、やわらかくて暗い檻の中を選んだ。
その檻は、レギュラスという美しく誠実な人に支えられた、優しい牢だった。
そのことが、今となっては余計に――胸を締めつける。
「……私、弱かったのよね……」
誰にも届かない声が、静かにこぼれ落ちる。
ペンダントの銀が月光を微かに弾いて、儚く、遠いきらめきを放った。
もう一度目を閉じてみても、視界の奥にはシリウスの輪郭が残ったまま。
そして、その影の下で、アランは静かにひとつ、涙のかわりに息を吐いた。
痛むのは、いまも心だった。
けれど、それすらも──もう、誰にも見せることはできないと思っていた。
夜の帳が静かに降りる。ロンドンの裏通りにある、ささやかな隠れ家の一室。開け放たれた窓から、遠くの列車の音がぬるく滲んだ風とともに届いていた。葉擦れの音、魔法灯のかすかな唸り、そして手元の新聞紙をめくる音だけが、部屋の空気を揺らしていた。
シリウス・ブラックは、古びた椅子に深く腰かけ、手にした新聞の見出しをじっと見つめていた。
「ブラック家に男児誕生――輝ける未来の世継ぎ」
タイトルは金箔のような書体で濃く強調され、記事の文章も、まるで伝説でも描くように荘厳だった。純血の家系にまた一人、将来を担う男児が生まれたことを讃え、ブラック家の名が誇り高く継がれてゆくという期待に満ちた言葉が並んでいる。
吐き出すように、紙面を畳んだ。
「……むかむかするな。」
自分の実家が、まるで“王家”のように扱われているそれが、可笑しくて、どこか痛々しくて、正直言って虫唾が走る。
だが――
アランが、無事に出産を終えたという、そのひとつの事実だけが。
唯一、心のどこか深い部分で、静かに光を灯した。
命を懸けて産んだだろう。
あの繊細で、頑なで、気高い彼女が、どれだけの苦しさを飲み込んでこの日を迎えたのか。
想像するたびに、胸がひりついた。
どんな子を産んだのだろう。
顔はアランに似ているだろうか。
それとも、あの弟に……。
そして、瞳の色は――。
父方から受け継ぐ漆黒か、あるいは、間違いであってほしいが、自分と同じ、深い灰色だったりは……
思えば思うほど、ひどく現実味のない夢を見ている自分に胸が詰まる。
いつか、自分がその子を抱く日は来るのだろうか。
そんなこと、叶わないと分かっているはずだった。
わかっている。
でも、ふと思ってしまった。
その日が来たとして、アランはどんな顔をするだろうか。
その子が、自分を見上げる瞬間を迎えたとして――泣くだろうか。笑うのだろうか。
視線を床の影に落としながら、シリウスはひとつ、深く息を放った。
そしてふと頭をよぎる。
今ごろ、親友のジェームズのところにも、もうすぐ新しい命がやってくる。リリーは臨月だと言っていた。
生まれたら、男か女かなんてきっと気にせず、大事に育てるだろう。
ジェームズが子を抱く姿を思い浮かべて、胸のどこかがちくりとした。
親友たちはそれぞれ家庭を持ち、命を繋ぎ、未来へ進んでいく。
――自分だけが、あの時から変わらないまま取り残されている。
それが寂しいなんて、情けないとも思う。でも……正直だった。
アランの隣を歩いていきたかった。
子どもの名を一緒に考えて、寝不足に文句を言い合いながらも、未来の話をしていたかった。
けれど、そうしたかった未来は、もう ――どこにも存在していないのだ。
床にたたんだ新聞だけが冷たく、その上にはブラック家の輝かしい未来が誇らしげに刻まれている。
もう、アランの未来の中に、シリウスが名前すらない日も来るだろう。
それでも――叶わなかった未来を夢見る気持ちだけは、どうしても消せなかった。
燃やすことも、言い訳に変えることもできない想いが、彼の胸を静かに、しかし確かに焦がしていた。
そしてその想いを仕舞うように、シリウスはペンダントの中に隠された昔の写真を見る。ぼやけたなかにも笑っていた彼女が、瞬きの瞬間にふと、泣きそうな目元に変わった気がして。
「……ごめんな、アラン。」
誰にも聞かれぬほど小さくそう呟き、シリウスは目を閉じた。
もう眠るでもなく、いまをやり過ごすために。
この夜をただ通り過ぎるために、そっと瞼を閉じた。
黒雲が垂れこめた辺境の孤児院。
レギュラスは緊張を胸に秘め、任務のために足を踏み入れた。ここには純血一族にとって望まれざる存在とされた、マグル産まれの子供が隠れている。
その子の魔力がマグルの血筋ゆえに制御仕切れずに暴走しており、皆の安全を脅かしていた。
心の中には、オリオンの言葉が重くのしかかる。あのときアランに「すぐに次の世継ぎを」と命じた言葉だった。レギュラスは、アランのその瞬間の表情を決して忘れない。長年、彼女の様子を見守ってきたからこそ、そのごくわずかな動揺が見破れたのだ。
「気にしなくていい」と何度もアランに告げたが、その思いはきっと届かないのだろう。この家は確かに、純血の血統を繋ぐためにアランという女性を迎え入れた。だが、レギュラスの心は違った。幼い頃、兄シリウスと共に過ごした、アランへの想いと愛が胸の深くにある。彼にとってアランはただの「場のための世継ぎ」ではなく、夫として、ひとりの男として愛する女性だった。
けれどこの純血の家は、アランに対し重くのし掛かる枷や重責ばかりを強いていく。彼女の心が壊れてしまわないか、そればかりを案じながら、レギュラスは任務をこなす足を進める。
孤児院の闇に差し込むわずかな光の中、彼は強く心に誓う。
重圧と愛情の狭間で揺れ動く彼の胸元に、静かに決意の炎が灯っていた。
灰色の霧が湿った空気とともに立ち込める、廃れた孤児院の外庭。石造りの壁はヒビと苔に覆われ、かすかな魔力の気配がひずみのように空間を撓ませていた。レギュラスは黒いローブの裾を揺らしながら、その中央に静かに立っていた。
目の前の扉の向こうにいる――制御の効かぬ魔力を有する子ども。
報告によれば、その魔力は精神の不安定と共鳴する形で、しだいに周囲を破壊し始めている。
異様な閃光、浮遊する灰塵、壁の崩落、空気の震動――
それは明らかに、「オブスキュラス」と呼ばれる、魔力の暴走体に限りなく近い症状だった。
この年若い孤児の出自は、マグルと純血魔法使いの一族との混合。もっとも、ブラック家をはじめとする家系にとっては「穢れ」として分類される存在だ。そして、ここはそうした”望まれざる魔”が投げこまれ、忘れられていく場所。
レギュラスは静かに眼を伏せ、冷たく思考をめぐらせていた。
なるほど。やはりこの幼い命にきざまれているのは、“純血とは異質”な魔力のかたちだ。
それは生まれてはいけない繭のような、言葉にならない不均衡。
マグルという非魔法生物が、恐れ多くも魔力を孕み、傷とも気づかぬ痛みのなかにそれを宿して過ごす。
畏れを知らず、覚悟も持たず、ただ「持ってしまった」という事実だけで、それが火種となって暴走する……。
――それがどれほど異様で、愚かしいことか。
「……つくづく、滑稽だな」
息を吸い込む音さえも湿る空気の中で、レギュラスは口元だけで静かに言葉をつぶやいた。
その声は誰にも向けられたものではない。それでも、言わずにはいられなかった。
内に湧き上がるのは怒りではなく、冷酷に近い嫌悪だった。
マグルの血を引いてこの世界に生まれたものが、力を持ってしまうことの罪。
それを抱えるに値しない存在の身に、魔が宿るという逆転。
この世の理を乱すものに対し、嫌悪感は炎ではなく、氷のように研ぎすまされてゆく。
……その力に、生涯怯えるしかない子ども。
自分の内で暴れるものを、誰も教えず、導かれず、それでも生きようと足掻く哀れさ。
だが悲しみはなかった。
レギュラスのなかには、ただひとつの真理があった。
――力には、流れるべき血がある。持ってはならない者がそれに手を伸ばすことの、報いがある。
その思想が全て間違っているとは、彼にはどうしても思えなかった。
血と誇り、それは彼が生まれた家が植えつけた価値観であり、アランが抱える十字架でもある。
そして今、自分が立ちすくむこの場所こそ――
その信念が、最も正確に形を成してしまった証。
レギュラスは手袋を外し、扉へと伸ばした。
低いうなり音とともに、魔力が応じ始める。
この先にあるのは救済か、粛清か。
彼にとっては、もはや結果ではなかった。ただ、導くべきものを導く責任があるのみだった。
淡々とした瞳の奥には揺るぎなさが宿っていた。
それでも、その奥に――風にささやかに揺れる、なにかじわりと熱い矛盾が、小さく灯っていることを、彼自身まだ気づいてはいなかった。
濃い霧が垂れこめ、昼とも夜ともつかない光が地平を曇らせていた。
古びた孤児院の礼拝室。ステンドグラスはひび割れ、色を失い、祭壇の前では煤けた絵画が古い記憶を手放すように壁から剥がれかけていた。その中央に、たった一人で立っていた小さな影――
まだ七つか八つだろう、痩せた体にぶかぶかの毛布を引きずり、怯えるようにレギュラスを見上げていた。その金色混じりの瞳の奥では、恐怖とわずかな乞いのようなものが瞬いていた。それでも、その瞳の向こうでは、青く燻るような魔力の気配が濃く渦を巻いている。静かな、けれど明確な“異質”の震え。
それは、オブスキュラスの前触れだった。
この子は、もうすぐ自己ごと魔力に呑まれる。
レギュラスは静かに、誰もいない礼拝堂の入り口に立ち、そっと手袋を外した。
「これが……救いになるのだとしたら。」
自分の言葉は、その子の耳にも、きっと届いてはいない。
《今のうちに処置を》――任務ではそう告げられていた。
もう治療はできない。抑える術も、導く大人も、この子にはない。
存在が、すでに呪いになっている。
止めなければ。
この魔力の暴走は、やがて建物ごと吹き飛ばし、周囲に禍を撒く。
純血の一族──無辜の子にでも被害が及ぶようなことになれば、それはもう“事故”として扱われない。
ゆっくりと、レギュラスは杖を引き上げる。
その手は震えていなかった。
ただ、胸の奥で何かがこすれるような、切羽詰まった重さがあった。
彼の心に浮かんでいたのは――脈打つように蘇る、アルタイルの小さな寝息。
寒い夜、火のそばで眠るあの子の、あたたかく丸い背。
アランの腕の中で微かに笑った時の、あの瞳の揺れと手のひらの重み。
自分とアランの命を繋いだ、穏やかで完全な存在。
「……なのに、」
その穏やかさを守るために、目の前のこの子に“終わり”を与えねばならないのか。
一度、視線が揺れた。
小さな影は、ただこちらを見つめていた。
わかっていないのか、それともすでに悟っているのか。
言葉も叫びも何もなく――ただ、そこに“希望のない静けさだけ”があった。
レギュラスは、再び構え直す。
その刹那、目尻になにか熱いものが滲みかけたが、顔はきちんと上げていた。
誰にも見られていないはずの場所で、彼の足元には微かな影が、長く伸びていた。
「赦しを乞う言葉すら、君には届かないのだろうな。」
祈りの言葉も、慈悲も、罪の意識も、もう意味はなかった。
彼が求めるのは“結果”だけ。
それが、運命という名の檻だとしても。
レギュラスの手が、やわらかく空気を割る。
杖先がわずかに煌めいた、その一瞬。
礼拝堂に吹いた風が、途切れていたロウソクの火を、ひとつだけふっと揺らした。
――その刹那にあふれたのは、
一筋の涙だったか、それともただの、仕方のない、静かな別れだったのか。
誰も、知ることはなかった。
昼下がりの窓辺。静かな寝室に落ちるカーテンの影が、ひときわ長く伸びていた。
アランが手にした封筒は、どこにも差出人の名が記されていなかった。けれど、封を切った瞬間に漏れ出た筆跡の震えとにじむインク、それだけで誰からのものかはすぐにわかった。
──あの少女。
遠くの孤児院で出会った、小さなマグルの少女。
そっと二つに折られた便箋は、まるで風に怯える子どもの息遣いのように細かに揺れていた。読み進めるごとに、アランの指先からぬるい血が引いてゆくような心地が広がっていく。
「……怖い人が来たの……」
「男の子が……殺されちゃったの……」
「誰も何も言わない。私も、怖い……」
まっすぐな言葉の裏で、どれだけの恐怖と混乱を必死に押し込めて書いたのだろう。くしゃっと押しつけるような筆圧の痕――最後の行には、ほとんど字にならないような波線だけが残されていた。
アランは息を呑み、指で口元を覆ったまま立ち上がった。喉の奥がひりつくように痛んだ。
まさか――レギュラスの任務と、関係があるのか?
まさか、本当に――
恐怖と不安が胸を押しつぶすように込み上げ、視界が白んだ。
「そんな……」
その場に座り込むこともできず、アランは反射的に扉を開けた。
冷たい空気が頬を打ち、灯りが差し込んでいた書斎の奥が一瞬で遠のいてゆくようだった。
規則の厳しいブラック家。屋敷から一人で飛び出すなど、本来あってはならない。けれどそんなことを思い出す余裕もなかった。
机の上に置かれていた、まだ温もりの残る湯茶。窓辺のゆり椅子に掛かるアランのショール。すべてを置き去りにして、彼女はドレスの裾を乱さぬように掴み、廊下を駆け抜けた。
背中で扉が開き、後方から呼び止める声が響いたかもしれない。けれど聞こえなかった。なにも聞きたくなかった。
大理石の階段を、ひと段、またひと段と慌ただしく降りる。
中庭へ続く扉を押し開けた時、午後の光が瞳を眩ませた。
「どうか、無事でいて……」
短く、震える声だけが漏れた。手紙を握る手の中に、小さな少女の笑顔が焼きついている。
あたたかくて、陽だまりのような、マグルの少女。
未来には光があると信じて、夢を語ったあの瞳が、恐怖に曇ったなど――絶対にいてはならない。
草の香り、風の音、すべてが遠く、にじむように揺れていた。
アランはそのまま、何も告げずに、屋敷を後にした。
行かねばならなかった。
どんな罰を受けようとも、誰に何を言われようとも。
命に触れた者の、手のひらの温もりを信じて。
一歩、また一歩、足音が風に消えていった。
アランの心に浮かぶのは、誰よりも罪と矛盾に苦しむレギュラスの瞳。
けれど、今はただ、あの子のために――
アランの意思が、静かに炎を宿していた。
午後の空は灰色を帯び、すでに日は傾き始めていた。
乾いた地面に風が走り、枯葉を巻き上げながらその背を押す。アランは姿くらましの魔法を身に纏い、冷たい空気のなか、かすれた息を吐いた。
息を潜めて渡る草の道。だが――体は正直だった。
慣れぬ強行で、産後の傷は軋むように痛み始め、腹の奥に残る鈍痛がじわりと広がってくる。歩みを止めれば、痛みに屈しそうになる。けれど、足を止めるわけにはいかなかった。
「お願い……間に合って……」
手の中で握られた少女からの手紙が、びっしょりと手汗に湿り、紙の角がくしゃりと折れている。小さな夢と笑顔を語っていたあの子が、命の危機に怯えている。
それだけで、アランに立ち止まる選択肢はなかった。
孤児院の近くの森へ差しかかる頃、不意に空気が変わった。気配が、確かにあった。
──デスイーター。
数人の黒い影が、建物の裏に沈み込むように動くのが見えた。その衣の裾が風にたなびいたとき、胸の奥に冷たい針のような確信が走る。
きっと、あの中にレギュラスがいる。
それは予感ではなかった。
痛いほどに鮮明な、確信。
その瞬間、アランの胸が張り裂けそうになった。
彼は、正義と忠誠の間で苦しむ人だった。
その苦しさを知っていた。
誰よりも穏やかで優しい手を持っていたことも、忘れられない。
だからこそ痛い。
守ろうとしたものを――
心から愛しているはずの人の手によって、壊されるかもしれないという現実。
嗚咽が喉に貼りつきそうになる。けれど、声を出すわけにはいかなかった。
ただ、苦しい。その胸に手を当てる。まるで息をするたびに、冷たい刃が心臓を割っていく感覚だった。
そしてふと――
アルタイルの顔が胸に浮かんだ。
まだ小さな手。羽のように軽い寝息。
抱きしめればかすかに震える体温。
愛おしくて、壊れやすくて、それでも未来を見てほしいと願った命。
けれど思ってしまう。
──もし、いつか未来のどこかで、アルタイルまでもが「求められる正しさ」の中で傷つけられる日が来たのなら。
もしそれが、この純血の世界の名の元に、レギュラスの手によってもたらされる未来だったとしたら。
その時、自分には、彼を守りきる力があるのだろうか。
体は非力なのだと痛感する。
たった今でさえ、まだ傷も癒えていない身で、呼吸も苦しい。
杖を握る手が冷えて震える。
けれど、守りたい。
少女を。アルタイルを。
この胸の奥に宿ったまっすぐなものだけは守りたい。
アランは静かに目を閉じ、かすれた呼吸を整えるように一歩、また一歩と進む。
風が静かに裾を揺らすなか、彼女の心にあったのは、
共に愛し合ったはずの誰かを信じきれない悲しさと――
それでも自分自身が母として選ばなければいけない、ひとつの意志だった。
遠く、孤児院の影が夕光の中に浮かび上がる。
アランの歩みは決して早くはなかったが、
どこまでも、ひたむきに強く、揺るぎなく続いていった。静かな誓いのように。
月は鈍く滲む霧の向こうに隠れ、孤児院の屋根は影に沈んでいた。扉の錆びた蝶番がきしむ音ひとつ立てぬよう、アランは慎重に内部へと滑り込んだ。冷たい石床を撫でる風が、まるで小さな声で何かを訴えてくるかのようで、心が騒ぐ。
中は静まり返っていた。まるで時間が止まってしまったような、異様な沈黙が漂っている。
足音が響かないよう、アランは細心の注意を払って歩みを進めた。
闇に目を凝らしたそのとき――廊下の奥、小さな手が見えた。
紙のように薄く、冷たく、それでも確かに“命”であるはずの子どもたちが、床に倒れている。壁に寄り添うようにして、あるいは腕を交差させ、自らを守るように縮こまっている子たちの姿が、いくつも。
アランの胸がぎゅっと締めつけられる。
こんな小さな――
非力で、無力で、頼るもののない子どもたちが、
どうして、こんな恐ろしさに晒されねばならないのだろう。
彼女の背を走るのは、怒りではなかった。
哀しみと、悔しさと、痛みに似た絶望。
歩を進めるごとに、わずかに震える手を強く握りしめた。
胸の奥にある何かが崩れのように軋んでいた。
そして――
「……いた……!」
葉の擦れるような声が、喉から零れた。
崩れたカーテンの奥、壊れかけた椅子の隅に、あの少女はうずくまっていた。
膝を抱え、顔を伏せ、小さな肩を震わせながら、耐えることしかできなかった命。
アランは迷うことなく駆け寄った。
「……!」
その名を、呼びたかった。
声が、喉の奥に絡まって出なかった。
言葉にすると、涙が崩れてしまいそうだったから。
ただ、ただ、強く――少女を抱きしめた。
震える肩を、細い腕で包み込む。
キツく、かき抱くようにして。
心臓が喧しく打っていた。
彼女の鼓動と、少女の小さく浅い呼吸が、やっと一つに重なった。
「……よかった……」
声にならない声で。だが、その言葉は確かに伝わった。
少女の手が、アランの背中にそっと添えられる。
恐怖で固まった身体の奥に、わずかに力が戻りはじめていた。
もう大丈夫――
そう言えるだけの確信はなかった。
それでもアランは、そう願いながらその子を抱きしめ続けた。
たった一つ、守りたかったものが、ここにあった。
壊したくなかった未来が、震える小さな胸の奥で――まだ息づいていた。
闇がまたひとつ、孤児院の廊下を覆い始めていた。
すぐそこまで迫る気配。ひどく静かで、それゆえに凍てつくような殺気を伴う足音。
アランは、少女の小さな体をまたぐようにして身を屈めた。
――もう、時間がない。
ドアの向こうからは、デスイーターたちの低く擦れる声が聞こえた。
「生き残りがいないか、隅まで探せ」
「子供でも見逃すな」
彼らは必ずここへたどり着く。
見つかるのは時間の問題だった。
アランは少女の肩に手を添え、真っ直ぐにその瞳を覗き込む。
「行きなさい。今すぐここを出て……生きるのよ。」
その言葉に、少女はかすかに首を振った。
震える目が語っていた。
――どこに?
――わたしは誰を頼ればいいの?
親も兄弟も、守るべき魔法省の護りも、この子には存在しない。
これまで生きてこられたのは、ただ奇跡だった。
けれどアランは、強い眼差しのまま、少女の手をぎゅっと握った。
「シリウス・ブラックを訪ねなさい。」
その名を口にする瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
けれど、そこに迷いはなかった。
「彼に伝えて。このペンダントは、アランから託されたものだと。」
そう言って、アランは自分の胸元にあった銀色のペンダントをそっと外し、少女の手のひらに包み込ませる。星のかたちをした、小さな灯。その奥には言葉にできない想いと、ひとつの確かな祈りが宿っていた。
――願わくば、この子が彼の手に守られますように。
ペンダントは、アランとシリウスを繋いだ、過去と秘密の証。
それ以上の意味など、少女には説明する必要もなかった。
奇跡的に、必ず彼ならその意味を理解してくれる。
の手が、壊れかけた机の裏からそっと拾い上げたもの――
それは、ポートキーだった。
木製の古いスプーン。錬成の魔法を即席で施し、わずかな時だけ限定した逃走の鍵。
どこか、手の届かぬほど遠く、静かな森の中へと転送されるよう細工されている。
「恐れず、握って。今すぐよ」
少女は震えたまま、ペンダントとスプーンを胸に抱きしめる。
そして最後にもう一度、目を逸らさず、アランを見つめた。
なにも言葉にはしなかったけれど、確かに言いたいことがあった。
ありがとう――と。
アランは微笑みでそれを返した。
「ごめんなさい……守ってあげたかった」
小さく、かすれた声が漏れた瞬間。
ポートキーが唸るように光った。
鮮やかで、音もなく、ふわりと少女の姿がその場から消える。
ぬるい空気だけが後に残り、静寂が戻ってきた。
遠ざかる魔力の残響。急接近する足音。
アランは、ぽたりと床に落ちた自分の血の混じる息をゆっくり整える。
あの子が無事に、あの人の元へ辿り着けますように。
どうか、この命では届かない願いを、
せめてあのペンダントが伝えてくれますように――。
アランは小さな祈りとともに、光の消えた静かな廊下に立ち尽くしていた。
廊下の闇が、足音とともに濃くなっていく。
石畳を踏む硬く響く革靴の音――まるで時間を切り裂くかのように、冷たく、一定の速さで近づいてくるその響きに、アランは壁にもたれたまま、呼吸を整えようとした。けれど、無理だった。
魔力を振り絞って作り上げたポートキーは、もうすでに遠くへと少女を運び出してくれたはずだ。間に合った――はずだ。
その安堵すら、今やもはや過去の残り香にすぎない。
一歩も動けなかった。
体の奥底に渦巻くような疲労。産後の疲弊。傷の疼き。そして少女を守るために使い果たしたすべての魔力が、今のアランから逃げるという選択肢を奪っていた。
――もう、逃げられない。
重い息が喉を焼き、視界の端が霞む。
そのときだった。
黒いローブの裾が風を裂き、二人のデスイーターが間近まで迫る。彼らの手には杖がすでに構えられ、その先がアランを真っ直ぐに捉えていた。
「生き残りか……」
「撃て」
その言葉が漏れた瞬間――
「アラン‼︎」
空気が震えた。
聞き慣れた声が、切り裂くような鋭さで空間を満たした。
その声だけで、アランは目を見開いた。
頭が傾きかけた身体が思わず反応したのは、彼――レギュラスの声だったから。
数歩先――
霧の向こうから、黒衣を翻して現れたレギュラスの姿は、怒りと恐怖と、かすかな絶望を帯びていた。
彼の瞳は、ただまっすぐにアランを捉えている。他の何者を見ることもなく、他の誰に語りかけることもない、一点だけを見つめる祈りのような視線。
「撃つな――そこにいるのはアラン・ブラックだ!」
屋敷では決して口にされることのなかったその呼び名が、今この薄暗い空間に――彼の叫びに乗って、強く、確かに響いた。
デスイーターたちの動きが、わずかに止まった。
あと数拍遅れていたら、その呪文は確かに彼女の胸を貫いていただろう。
アランの背にひんやりと流れた冷たい汗。意識の淵で揺れながらも、彼女は懸命に目を開き続けた。レギュラスが、自分を見つけ出してくれたのだという確信。それが、今の彼女に残された唯一の支えだった。
足元で転げ落ちた一本の杖が、石の床で乾いた音を立てる。
レギュラスはすでにその前に立ち、外套を翻してアランの身体を覆うようにひざまずいた。
「なぜ……こんな……!」
彼の声が喉の奥で震えていた。
けれどアランは、微かに笑った。
だが、レギュラスの胸に染み入るには、それで十分だった。
彼は黙って、彼女の肩を抱き寄せた。
周囲の空気は、まだ沈黙の中にあった。
けれどその片隅で、何かが確かに変わりはじめていた。
ここで起きた小さな逸脱が、やわらかく大きな波紋になって、やがて世界のどこかを揺らしていくように――静かに、静かに。
朝なのか、それとも夕方なのか──光が薄く、まだ明けきらない空気が、静かに寝室の中を満たしていた。厚いカーテン越しに差し込む淡い光の中で、アランはゆっくりとまぶたを開ける。
目を覚ました瞬間、押し寄せてきたのは、体の重さよりも、胸の奥に張りついていた苦しみだった。まるで心臓に鉛を詰め込まれたような圧迫感。息を吸おうとするたびに、肺よりも先に心が疼いた。
枕元の空気は凪いでいて、まるで時間さえ止まっているかのようだった。けれど、次の瞬間、その静けさを破ったのは、立ち上がる気配に驚いた使用人の衣擦れ。
彼女が目を覚ましたのを見て、使用人は一瞬目を大きく見開き、何も言わずにそのまま駆け足で部屋を出ていった。勢いよく閉じられた扉の音が、この部屋の穏やかな眠りの名残をぴしゃりと断ち切る。
――きっと、誰よりも早く、レギュラスの元へ。
アランは、わずかにシーツの中で体を動かした。
けれど、すぐにその動作も止まってしまう。すべての節々が痛み、特に胸の奥と腹の辺りが深く鈍く軋んでいた。
それらは、少女を逃すため、すべてを振り絞った代償。
けれど、今もっとも痛んでいたのは、どこまでも心だった。
やがて扉が再び開かれるだろう。
そう遠くないうちに、レギュラスがここへやってくる。
案じる言葉と、優しさと、そして──問われるだろう。
「なぜあの場所にいたのか」
その言葉を想像しただけで、喉が苦しくなった。言い訳など、できるはずもない。
あの場には、数人のデスイーターたちがいた。
「偶然」では到底通らない状況。その目撃こそが、何よりも雄弁だった。
嘘をついて、守ることができるのか。
真実を語って、何を壊してしまうのか。
アランの指が、シーツの上で静かに握られた。
温められた布の下、手のひらは冷たく震えている。
彼の問いに、私はなんと答えるのだろう。
少女を助けたかったから…?
命の意味を思い出したから…?
それとも、ただ、あの子があの頃の自分のように見えたから?
けれど、今はまだ何も答えられなかった。
ただ、もうすぐやってくる気配を胸に覚えたまま、アランは瞼を伏せた。
その細く閉じた瞳の奥に、誰にも話したことのない葛藤が、深く静かに沈んでいた。
