2章
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灰色の朝の光が静かに窓を満たす頃、シリウス・ブラックは分厚い新聞を手にしていた。表紙を飾るのは、ブラック家の若き夫妻――レギュラスとアランが並んで立つ、静かながらも堂々とした姿だった。背後には、沈黙に包まれた村と、そこに戻った平穏の象徴として揺れる煙草色の煙。
その見出しにはこう記されていた――
「ブラック家夫妻、魔法薬と魔力の融合で村の異常事態を解決」
彼は視線をひたと文字に落とし、無言のまま記事を読み進めた。アランの冷静な判断力と魔法薬への豊富な知識、村の特殊な地歴を読み解き、人々を昏睡状態から救ったその対応力に、記者たちはいくつもの称賛の言葉を重ねていた。
シリウスは唇の端をわずかに持ち上げた。
――お前は、やっぱりすごいな。
誇らしい、という気持ちが胸に満ちる。
アランは昔から魔法薬に強くて、呪文よりも薬壺の傍が似合っていた。乱雑なラボの中でも彼女の指先は穏やかで、ひとつひとつの素材に心を注いでいた。そんな彼女が今、人々を救い、魔法界の新聞で讃えられるほどの働きをしている――ただそれだけのことが、胸の奥をじんわりと温めた。
それでも、「レギュラスの隣で」という部分が視界に入るたび、鈍い鋭さで心をかすめた。
誰よりも近くで、あの笑顔を見ているのが、自分ではないという現実。
けれどそれでも、アランが誰かに讃えられているということは、素直に嬉しかった。
彼は静かに新聞をたたむと、もう一つ深く胸を締めつける記憶に想いを馳せた。
――先日、セシール家の墓地で偶然のように再び出会ったあの瞬間。
何年も願い続けた「会いたい」という言葉が、ようやく叶った日だった。
重なる視線、涙に濡れた頬、震える声、戸惑う呼吸――
そして、何もかもが堰を切ったようにあふれ出し、唇が重なったあの一瞬。
あのキスは、まるで何年分もの言葉を吸い込むように、静かで、熱くて、そして涙の味がした。
苦しくて、愛しくて、でも確かにあった、ふたりだけの一瞬。
そしてそっと彼女を抱いたときの、小さな身体の温もり――
想っていたよりもずっと柔らかくて、温かくて、彼女の腹に宿る小さな命の存在まで感じられた。
「無事で産まれて来いよ」――心の奥で、ただそれだけを何度も繰り返した。願いではなく、祈りに近いものだった。
彼女が誰の隣にいても、自分の想いが報われることはなくても。
あの時、抱いた彼女の輪郭だけは、これからもきっと消えない。
シリウスはそっと目を伏せ、指先で新聞の角をなぞった。埃をかぶった机の隅にそっと置きながら、胸の奥で静かに呟いた。
――また、会いたい。たとえ一瞬でも。あの笑顔を、もう一度だけ。
午後のやわらかな陽ざしが、舗道に落ちた木の葉を金と銅に染め上げる。アランはゆっくりと息を吐きながら石畳の小道を歩いていた。臨月を目前に控え、身体は重く、少しの距離を歩くだけでも息が乱れる。けれど今日だけは、どうしても訪れたい場所があった。
——あの子のところへ。
小高い丘のふもとにある、レンガ造りの古びた孤児院。その小さな門を開いた瞬間、かすかな焼き菓子の香りが風に乗って鼻をかすめた。懐かしく優しいその香りは、少しだけアランの緊張を解いた。
中庭には、陽射しを浴びて遊ぶ子どもたちの声が響く。その端に座って、本を読んでいた小さなマグルの少女が、アランを見つけるなりぱっと顔を輝かせた。
「アランお姉さん!」
少女は嬉しそうに駆け寄る。アランは微笑みながら、膨らんだお腹を気遣うようにゆっくりと手を伸ばし、少女の小さな手を握った。
「会いにきてくれたんですね。」
少女ははにかんだ笑顔を浮かべながら、草の上にアランを座らせ、隣にちょこんと座る。
「ね、私……いつかね、魔法使いもマグルも関係なく、誰もが一緒に笑ってられる世界を作りたいの。」
その瞳は澄み切っていて、太陽の光を真っ直ぐに映し返しているようだった。アランの胸に、遠い記憶がふわりと蘇る。
——あの頃、あの人も、そんな夢を語っていた。
シリウス。 無邪気とも言えるほど真っ直ぐに理想を見つめていた、太陽のような少年。口角を上げて語る彼の横顔を見て、何もわからぬ少女だった自分は、ただそばにいたいと強く願った、それだけだった。
アランはそっと胸元のペンダントに触れる。目立たぬ小さな星のかたちをした銀のぬくもりが指先に伝わる。あの日の再会、涙の味がしたキス、そして触れた心の欠片。それらすべてが、この小さな宝石に眠っていた。
「きっと……難しい夢になるわ。」
アランは静かに言った。優しく、けれどどこか苦しげに。
「それを叶えるには、きっとたくさんの犠牲を払うことになる。時には、自分自身の大切なものまで。」
少女はしばらく黙ってアランを見つめた。そしてまるでそれを理解する歳ではないのに、それでもどこかで、その言葉の重みを感じ取ったように、わずかにうなずいた。
アランは目を伏せて、少女の小さな手を包む。その手は温かく、まだ未来そのものだった。
「でもね、その夢を諦めない気持ちは、すばらしいわ。あの頃、私も……誰かのそんな光を追っていた。」
彼女の声は風に溶けて、空へゆっくりと舞い上がっていった。木漏れ日が、アランの頬を静かに照らし、膨らんだお腹の中で、新しい命が小さく動いた。
小さな命と、遠い夢。
ふたつの未来が、静かな午後の光の中でそっと重なっていた。
夕暮れの金色が、ブラック家の重厚な窓硝子を淡く染めていた。扉を開けた瞬間、アランはほんの少し肩をすくめた。レギュラスが、先に応接室に戻っていたことに驚いたからだった。
この時間に屋敷に帰っているなんて、珍しい……。
彼は暖炉の前に立ち、まだ肩にかかるコートの襟を片手で押さえたまま、振り返った。
「どこに行っていたんです?」
その声音は驚くほど柔らかかったが、細い糸に結びついた微かな苛立ちが、確かに滲んでいた。
アランはドアをそっと閉じながら、微笑みをたたえたまま歩み寄る。
「散歩です。体力をつけておかないと、お産に苦労するそうですから。」
罪の意識を悟られぬよう、声に明るさを加える。
きっと上手く切り抜けただろうと、自分では思った。だがレギュラスの目は、ほとんど瞬きをせずにアランを見つめていた。
「……クリーチャーを付けてくださいと、伝えたじゃないですか。」
その言葉には、理屈ではなく感情が宿っていた。ただの心配ではない。彼女の不在が、何よりも彼の胸に影を落としていたという証――逸らす動き一つない真っ直ぐな目が、不安と苛立ちをひた隠しにしている。
アランは思わず吐息を漏らしそうになった。
けれど、それが彼の感情をさらに強く煽ってしまうことを心得ていたから、息を胸の奥に閉じ込めて、ただ微かに喉を鳴らすだけにした。
「ええ、出来る限りそうします。……クリーチャーの手が空いている時は。」
ほんのわずかに言葉の綾を残すことで、自らの自由を守ろうとしたひとつの苦しい防衛だった。
レギュラスは短く間をおき、深くため息をつく代わりに声を落とした。
「何よりも優先させます。」
その言葉は、まるで鋼で包んだ愛情のようだった。
守るという意志を、彼はいつだって歪める形でしか示せない。
けれどアランは、それが彼なりの誠実であることを知っていた。
窓の外では、静かに夕陽が屋敷の尖塔を照らしていた。
重なる沈黙のなかで、互いに言葉を省きながらも、それぞれの中に確かな感情が流れていた。アランが胸元に隠した秘密と、レギュラスが静かに燃やす不安と独占。
いくつもの想いが、ひとつの部屋の中に沈殿していくように、重たく、静かに、夜へと溶けていった。
夕暮れの光が、うっすらとレースのカーテン越しにアランの寝室を染めていた。空は茜と藍が溶け合うような色をしていて、けれどその美しささえ、アランの胸を少しも癒してはくれなかった。
静まり返った室内。広く整えられた寝台、質の良い絨毯、銀細工のランプ――すべては上等で、完璧で、だからこそ息苦しかった。
アランは鏡台の前に腰を下ろし、ふと無意識に指先が胸元へ伸びる。触れたのはいつものペンダント、シリウスがくれた小さな、星のようなかたちをした銀の飾り。
その冷たい感触が、なぜかいちばん近くに感じられた。
「レギュラスの隣にいると、自由って……どこにあるのか、わからなくなるわね……」
呟いた言葉は誰にも届かず、ふわりと空気に溶けていった。
彼が悪いわけではない。きっと、望まれた場所に嫁いだのだから、仕方のないことなのだろう。守られていて、丁寧に扱われていて、それはきっと幸福なことのはず。
けれど、心のどこかが乾いていく。
彼と過ごすほど、自分が密かに大切にしてきた何かが少しずつ失われていくような気がしていた。
きっと、シリウスの隣では――あんな強くて、自由で、まっすぐな人の隣では――こんなふうに、自分を絞られるような窮屈さは感じなかった。
「ここから飛び出す勇気があれば……すべてを捨てて、あなたを選べる強さがあったら……」
ため息とともに、肩がわずかに沈む。今さらそんなことを考えたところで、現実は揺るがない。選べなかった過去。一歩踏み出せなかった覚悟。
でも、もしあのとき少しでも違う選択をしていたら、自分たちはどうなっていただろう。シリウスの名前を新聞で見たとき、あの墓地で再会したとき、彼から贈られたこのペンダントに触れるたび――心はそう問い続けていた。
指先でそっとペンダントを撫でる。その小さな銀の輝きが、今は自分がどこに立っているのかを教えてくれる、唯一の羅針盤のように思えて仕方がなかった。
部屋の奥で、時計の針がわずかに動く音が響く。
誰にも聞こえないほど、静かに。
そしてアランはまたひとつ、小さく息を吐いた。
感情も想いもすべて、音のない溜息に紛れ、夜の静寂に消えていった。
重たく垂れこめた雲が夜の空を覆い、ブラック家の屋敷には静かすぎるほどの沈黙が満ちていた。
寝室のカーテン越しに漏れる月の光が、白く膨らんだ腹の曲線をやわらかく撫でるように照らしている。アランは、ゆっくりとベッドに身体を横たえた。臨月に入り、身ひとつを動かすにも一息が必要なほどの重さを抱えながら、彼女はそっと寝返りを打った――レギュラスとは反対の方向へ。
背を向ける形でレギュラスに向ける言葉はなかった。けれど、その無言の動作が、すでに彼女のすべてを語っていた。膨らんだ腹を両腕でかばうようにして、そのわずかな姿勢に身を委ねる。静かに目を閉じても、眠りは遠く、心の内はわずかに波立っていた。
夫婦の寝室に、ふたり分の静けさが流れている。数週間前まで、ここには情があった。言葉では形にできない、触れ合いの温もりと求め合う夜が、ときにやさしく、ときに痛みを含んで注ぎ込まれていた。けれど臨月を迎えてから、レギュラスは何も言わなくなった。求めてこなくなった。それが、アランには正直――ほっとしたことだった。
そのことへの安堵は、言葉にするのが恐ろしいほどだった。
産まれてくる命の前で、触れ合うことが何かを汚すような気がしてしまう。
そして、心の奥にひそむもう一つの理由――
いまだ消えない、シリウスへの未練。
目を閉じれば、浮かぶのは遠い日の記憶。
柔らかな声、笑顔、まっすぐ過ぎる理想。
あの墓地で交わした涙の味のするキス。
そのすべてが、頑なに閉じていた胸の扉を再び軋ませた。
今、レギュラスから受け取る誠実な愛情が、過剰な優しさにさえ思える。
そのひとつひとつが、自分の中の「裏切り」を暴いてくるようで、愛されるたびに罪悪感に縛られていく。
「妻として応えなければ……」
誰かに言われたわけではない。
けれど、その無言の使命感が、アランをじわじわと締めつけていた。
そのときだった。布団の端にかすかな重みが加わり、やさしくシーツが肩にかけられるのを感じた。
レギュラスだった。背後に気配を残したまま、彼はそっと、自分の役目だけを果たすように動いた。
温かな気遣い。繊細な手つき。
彼が、いかに慈しみの心でアランを包もうとしているのか、そのやさしさが痛いほどわかる。
だからこそ――苦しかった。
大切に思っている。誰よりも、彼の誠実さを知っている。
けれど心は、別の人の名をそっと呼ぶ夜がある。
穢れたと思う。
でも、それが胸の奥から消えることは、どうしても叶わなかった。
そっと吐き出した小さな息が、枕に染みていく。
レギュラスの腕が、少しだけ動いた気配。
けれど彼もまた、何も言わなかった。ただ、黙っていた。
静かな夜だった。けれど、それは何よりも苦しい沈黙で満ちていた。
胸の奥が、どうしようもなく――痛かった。
夜の屋敷には、静寂だけが深く積もっていた。火を絞られた寝室のランプが淡く揺らぎ、壁に映る影はゆっくりと、まるで夢のなかのように伸びていた。レギュラスは寝台の隅に腰掛け、立ち上がらぬまま、うっすらと寝息を立てるアランの輪郭を見つめていた。
彼女は、少し身を丸めるようにして横を向いている。両手はそっと膨らんだ腹に添えられ、まるでこれから生まれてくる命を抱き締めるかのような形だった。息を吐くたび、薄い寝巻きの布越しに小さく膨らんだ腹がふわりと動く。
もう、間もなくだ。
「それでいい。元気で生まれてきてくれさえすれば、それだけでいい。」
そう何度も自分に言い聞かせてきた。
そう――本心だった。間違いなく。
けれどその奥に、かすかな葛藤の影が胸を締めつける。
「それだけでいい」と言いながら、心の中で密かに――自分の親たちのために、家のために、いや、きっと自分自身のために――生まれてくる子が男児であってほしいと願っている。
アランの腹のなかにいる命が、どんな顔をして、どんな声で泣くのか。
自分に似るのか、アランに似るのか、それとも……
そんな想像さえ、恐れ多く思えるほどに愛おしかった。
ほんの数週間前までは、夜にふたりの時間があった。
静かで濃密な触れ合い。
けれど今、こうして膨らんだお腹を抱えて眠るアランを見ると、とてもじゃないが、自分の欲を通すべきではないと思った。
この身体に、彼女は命を宿している。眠る姿はとても静かで、けれどどこか痛々しかった。
きっと苦しいのだろう。重たくなった身体、変化する体調、夜中に何度も目を覚ます気配。
あらゆる不安と共に、それでも必死に生きようとしている。
レギュラスはそっと立ち上がり、乱れかけた掛け布を直す。
アランの肩を冷えが襲わないように、丁寧に布をかけるその手には、指を絡めることすら躊躇うほどの繊細な想いが宿っていた。
「あなたが……少しでも穏やかに過ごせるように。」
彼は小さく、呼びかけるように心のなかでその言葉を言っただけで、声には出さなかった。
横顔をそっと見る。光と影の向こう、静かな吐息のなかに宿る、彼女の強さと脆さ。
そして、なによりも大切な存在。
「大丈夫。あなたも、あなたの中の命も……すべて僕が守ります。」
レギュラスはその思いを胸の奥に沈めた。
求めたい気持ち、触れたい欲もあった。
けれど今はただ、一歩引き、静かに寄り添うことがすべてだった。
風の音がほんのわずかに窓を撫でる。
その音さえも、彼にとっては祝福のように感じられた。
愛する人と、宿る命と。
静かな、その夜。
彼はただ、深く祈るようにして隣の椅子に腰を下ろした。
目を閉じ、心のすべてを、目の前に在る小さな命の未来へと捧げるようにして。
屋敷の外では、朝から降り続く大雨が、石畳を叩く重たい音を奏でていた。空は一日中鈍い鉛色に覆われ、時折、雷鳴が遠くから低く響いては、長い歴史を持つブラック家の館を静かに震わせた。
その日、アランは早朝から陣痛に苦しんでいた。
寝室は暖かく整えられていたが、時間が進むにつれ、その静けさは痛みに変わる叫びに染まっていった。助産魔女たちが慎重に声をかけながら支度を進め、落ち着かせようとする。アランの額には汗が滲み、唇には必死の祈りが込められていた。
その扉の外には、レギュラスが身じろぎもせずに立っていた。肩には濡れた黒のローブがかかり、両の拳は固く握られている。横でオリオンとヴァルブルガもまた無言のまま、時折視線を交わしては歩き回る。
心中は、言葉にならぬ祈りでいっぱいだった。
長い時間が過ぎた。大きな時計の針が一度、重く響く。
そして――
扉の奥からいっさいの音が止み、次に響いたのは一つの、切り裂くような産声だった。
雨の音も、足音も、すべてがその瞬間、遠くに霞む。
「――産まれました。男児です。」
助産魔女の一人が、白い毛布に包まれた小さな命を抱えて扉を開けた。
その声は、ただ静かに、けれど確かに館じゅうを照らす光を運んでいた。
レギュラスは息を呑み、ほんのわずか体を揺らした。張り詰めた空気がほどけていく。
オリオンは深く、まるで儀礼のようにうなずき、ヴァルブルガは口元をゆるめて静かに胸元へ手を当てた。
「……男か」
オリオンの低い声には、不意に滲む安堵があった。
ヴァルブルガはわずかに目を伏せながら、そっと言う。
「この家に、ようやく次の血が生まれたのね……」
レギュラスは何も言わなかった。赤子を見つめる瞳は、決して涙など流していない。それでも、押し込めていた感情が胸の奥からゆっくりと満ちていくのを、誰の目にも隠せなかった。
彼の、彼女の、そしてこの家が背負うすべてが、一瞬だけ静かになる。
小さな産声がもう一度、雨音に重なるようにして響いた。
それは新しい命の始まりであり、ただの一人の息子ではなく、長き魔法の家に灯された、新たな希望だった。
レギュラスはそっと目を伏せ、アランの無事を願うように奥の扉を見つめた。その向こう――命をかけて子を産んだ、愛しい人が横たわっている。
窓の外の雨音が、静かに祝福のように流れていた。
大雨がようやく細い霧雨に変わりつつあるなか、ブラック家の屋敷は静かな熱気に包まれていた。重たい空気の中に、どこか凛とした期待と安堵の香りが漂っている。使用人たちが足早に廊下を行き交い、談話室ではオリオンとヴァルブルガが上機嫌に手紙を書き続けていた。
「男の子よ、きっと立派に育つわ。」
ヴァルブルガの声には誇りが満ちていた。筆の先が紙の上を滑り、あちこちの親族への報告の文が次々としたためられていく。
対するオリオンも、久方ぶりに満足げな表情を浮かべていた。
「ブラック家の血が繋がった。ただそれだけで、あとはもう何もいらん。」
部屋の奥では新生児用の銀細工のゆりかごが静かに揺れている。その小さな揺れとは対照的に、レギュラスの心は落ちつきようもなく波打っていた。
彼は廊下の静まり返った一角に立ち、愛しい人のいる寝室の扉をじっと見つめていた。
「アラン……」
思わず名を呼びたい衝動に駆られる。
朝が来るずっと前から陣痛に襲われ、夕暮れが滲むころまで絶え間なく続いたあの痛み。自分はただその外で祈るしかなかった。何もできなかった。ただ、閉ざされた扉の向こうで命と向き合っていた彼女を、想像しながら手を握ることも、励ましの言葉をかけることもできなかった。
――ボロボロになっているだろう。
繊細で、気高く、そして強い彼女が、それでも苦しみのなかで命を生み落としたのだ。どれほどの想いを抱き、どれだけの痛みに耐えたのだろう。
扉のすぐそばまで歩み寄ろうとしたその時、使用人が静かに首を振った。
「申し訳ありません、旦那様。まだ処置が続いております。奥様は深くお休みになられた方が……安全と判断しております。」
柔らかい言い回しだったが、はっきりと「入ってはいけない」と告げられているのも同然だった。
レギュラスはわずかに眉をひそめ、口を結んだ。
部屋の中の温もりに、触れたかった。
手を取り、声をかけたかった。
「よく頑張ってくれましたね」と言ってあげたかった。
しかしそれは叶わない。
いま彼にできるのは、ただこの扉の前で静かに立ち尽くし、彼女が眠って休めていることを祈ること、それだけだった。
彼はそっと壁に寄りかかり、目を閉じる。
静かに、けれど確かに鳴り続ける心臓の鼓動が、部屋の中にいる彼女と、ついさっき生まれたばかりの小さな命へと、静かに届いてほしいと願いながら。
――もうすぐきっと会える。
そう信じて、レギュラスはそっと目を開けた。
扉の向こうからは微かに乳香の香りと新しい命の鼓動の気配が感じられた。雨音の消えた世界で、それはとても尊く、静かに胸を満たしていた。
大雨に濡れた世界が、ようやく静寂を取り戻しはじめた黄昏どき。重たい雲の切れ間から差し込むわずかな光が、カーテン越しに淡く寝室を照らしていた。
アランは汗に濡れた髪を額にはりつかせ、力尽きたように白いシーツの上に横たわっていた。ほとんど意識も記憶も霞んで、今が朝なのか夜なのかさえ、分からない。それでも耳は、静かに扉の向こうの音を拾っていた。
……喜びを隠しきれない声。
オリオンのよくとおる低い声、ヴァルブルガの芯のある優雅な笑み声。
そして、レギュラスの──言葉にはしなくとも、きっとあの静かな横顔と指先に、深く喜びを宿しているに違いない。
「……男児です」
その言葉を聞いたとき、アランの目からは、ぽろりと自然に涙がこぼれた。
ああ、ようやく──
ようやくこの家に、望まれた「答え」を渡せたのだ。
痛みの波に身を預け、果てしない闘いを越えて、それでもなお「責務」として背負ってきたもの。それを、ほんの少しだけ報われたように感じた。
けれど──
赤子の顔を、ほんの一瞬見る間もなく、優しい手が布に包まれたその小さな命を抱え、静かに彼女の傍から離れていった。
「お屋敷の皆さまへ」と。
そう告げられていた。
扉が開いた一瞬、光が差し、そして扉が閉じられるとまた静まり返る。
アランの胸の奥にぽたりと重く沈んだのは、何か大きなものが自分から離れていったような、空洞に似た感覚だった。
「……………」
言葉は、もう出なかった。
張り詰めていた糸が切れたように、身体に残された力も、意志も、ほとんど残っていなかった。やがて指先だけが、静かに胸元へと伸びていく。
触れたのは、小さな星をかたどった、銀のペンダント。
皮膚の上からその冷たさを感じとりながら、目を閉じて、彼の名を想う。
──シリウス。
意識が遠のく中、脳裏に漂うのは若き日のやわらかな笑顔と、太陽のような声。
「自由になりたかったの。あなたとなら」
そう願ったかつての少女の自分が、どこか遠くにいる気がした。
「……私、頑張った……わよ……」
言葉は誰の耳にも届かなかった。けれどそのささやきは、確かに時間の隙間にしみこんで、降り続く雨音よりも穏やかに、そこに在った。
涙のような呼吸が静かに沈み、アランは眠りについた。
深く、ただ深く、すべてから解放されるように。
それは、一つの終わりのようでもあり、
新しい始まりの、ほんの静かな序章のようでもあった。
朝の光がやわらかくカーテン越しに差し込み、寝室を淡い金色に染めていた。夜を越えた空はどこまでも澄んでいて、昨夜の大雨がまるで嘘のように、すべてを洗い流したかのような静けさを帯びている。
アランは寝台の上にゆっくりと起き上がった。まだ身体の奥に疲労の残るその動作に、思わず眉をひそめながら、静かに呼吸を整えた。扉の向こうからは、すでにあわただしい物音が微かに聞こえていた。
そして、乳母が朝の挨拶と共に入ってきた。その腕に抱かれていたのは、昨夜、自らの身を裂いてこの世に生み落とした、小さな命。
「そろそろ……お乳を。」
アランは頷き、小さく腕を差し出す。そして、ふわりと白い布に包まれた赤子が、自身の胸の上に抱かれる。
それが、本当に初めて――
産声を聞いたときには霞んでいた意識で見えなかった、小さなその顔を、ようやくじっくりと見つめることができた。
どこか、輪郭はレギュラスに似ていた。額の形、鼻の高さ、小さく噛みしめた唇――当たり前といえばそうだった。彼の子なのだから。その証が、自分の腕のなかですやすやと眠っている。
けれどその瞬間、ふとその小さな瞼がパチリと開いて、真っすぐに自分の目を見上げた。
その瞳の色。
思わず息を呑む。
深く、澄んだ灰色。
まるで――シリウス。
彼の瞳にそっくりだった。
何も知らないはずの、生まれたばかりのこの子が、自分のすべてを見透かしているような気がした。瞳の奥に、どこか遠い記憶のような光が宿っていて、それを見た瞬間―― アランの頬に、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
止まらなかった。
どうしようもなくあふれてきた。
嗚咽ではない。ただ、静かに、音もなく。
頬をつたって、産着に落ちて、小さな胸元に染みていく。
腕の中のこの命は、何も知らない。けれど、これから何かを知っていく。たくさんの真実を、悲しみも喜びも、迷いや光も。その全部をきっと歩んでいく。
だからこそ祈らずにはいられなかった。
――どうかこの子の歩む道が、
太陽のような光に満ちたものでありますように。
誰にも奪えない、まっすぐな幸福で包まれますように。
過去の誰かの罪や、愛や悔いや欲望に縛られることなく、この子自身の人生を、この澄んだ瞳で見つけていけるように。
アランはそっと頬を寄せ、子どもの柔らかな額に唇をあてた。
静かな心の中で、遠く離れた誰かのことが浮かぶ。
シリウスは、シリウスとしてきっと今も戦っている。
どこかで、自由と正義のために風を巻き起こし、傷つきながらもその理想を手放さずにいるだろう。
そして――
私は、私の場所で生きている。
ここで、この子を守り抜くことが、いまの自分の戦いなのだと。
それぞれの場所で、それぞれの役目を果たしている。
交わることのない運命に、ただ静かに祈りをひとつだけ捧げながら、アランは我が子を優しく抱きしめ、淡い朝の光の中に身を沈めていった。
扉がそっと二度、控えめにノックされた。
夕暮れの光が差し込む窓際、乳児を腕に抱えていたアランは静かに顔を上げた。
「……アラン入ってもいいですか?」
扉の向こうから聞こえる声は、どこか少しだけ緊張を帯びているようだった。
ちょうど授乳を終えたところだった。そばに控えていた乳母に目配せすると、彼女は静かに赤子を受け取り、慎重な足取りで寝室を出て行く。小さな命は、アランの腕から離れたあとも、ほんのりとした温もりを胸元に残していた。
「どうぞ。」
アランがそう告げると、そっと扉が開く。
レギュラスが静かに入ってきた。深い黒のローブに身を包み、彼らしい端正で整った佇まい。けれどその瞳の奥には、言葉にできない喜びと、深く揺れる感情の色が滲んでいた。
アランは、寝台で緩く身を起こしたまま、丁寧に一礼する。
「……おめでとうございます。」
短く、それだけだった。だが、それは彼女なりの誠意と、敬意の込もった言葉だった。
ブラック家に男児が産まれた。次代を担う新たな命の父。それはこの強い家系にとって、何ものにも代えがたい名誉であり、重責でもある。アランは言葉を選び抜き、この一言に想いを込めた。
だがレギュラスは、目を伏せるように少しだけ顔を横に向け、そっと首を振った。
「やめてください、アラン……そんなふうに。」
まるで距離を感じたかのようなその言葉に、アランが目を見開こうとした瞬間、レギュラスはゆっくりと彼女の傍に腰を下ろした。そして何も言わず、彼女の手をそっと両手で包み込む。
温かく、誠実な手だった。
長い指が優しくアランの手を撫でるたびに、その触れ合いが言葉以上の安堵を与えてくれる。
「……なんと言えばいいのか、ずっと考えていて。」
小さく、息を吐くように彼は零す。
深く考え抜いた末で、それでもなお正解の言葉が見つからずにいることが伝わってきた。
きっとレギュラスは、今日という日を、アランの痛みも、勇気も、すべて受け止めようとしていたのだろう。優しい彼のことだから。
「言わなくていいんです。」
アランは微かに笑って囁いた。
その瞳には、もう涙はなかった。ただ満ち足りた静けさだけが、穏やかに宿っている。
この人の期待に、答えられた。それがとても嬉しかった。彼という人のために、自分は意味を持つことができた――その実感が、胸の奥にふわりと灯っていた。
温もりに包まれながら、アランは初めて「幸福」と名づけられる静かな充足を知った。
何も言わず、手をつないだまま二人は夕暮れの光の中に佇んでいた。
小さな命が静かに眠るこの屋敷の中で、ようやく訪れた穏やかな時間が、そっとふたりの心を繋いでいた。
重厚な石のアーチをくぐる屋敷の門から、今日も途切れることなくフクロウと客人がやって来ていた。空高く幾羽もの使い魔が飛び、抱えた包みからは美しいリボンの端や香り高い紙花が覗く。朝から晩まで鳴り止まぬ玄関のノック、そして祝辞の香りに満ちた空間――それが、“ブラック家に男児が誕生した”という事実がもたらした日々の光景だった。
その知らせは魔法界の新聞や雑誌の見出しを賑わせ、写真付きの記事がいくつも刷られた。
『ブラック家に未来の当主たる男児誕生――純血の血は今なお高き誇りを湛えて』
『一族の繁栄、新たな章へ。若きレギュラス卿に祝福の声』
屋敷の執事や使用人たちは忙しく動き回り、廊下には祝いの花束や水晶細工が山のように積み上げられていた。
その日の食卓も、ことさらに華やかだった。
純銀のカトラリーに澄んだ葡萄酒、暖かな肉料理が並ぶ中、オリオンとヴァルブルガはひときわ満ち足りた表情で座していた。
「見事だ、まるでシグナスの若い頃に似ておる。」
オリオンがワインを傾けながら笑う。
その声には迷いも戸惑いもなかった。
まるで、これは期待通りの当然の結果だと言わんばかりに。
アランは、静かだった。心のどこかに霞のように張りついていた過去の言葉が、ふいに胸奥から滲み出てくる。嫁いできて間もないあの日、広間の冷たい床を踏みしめながら告げられたオリオンの言葉——
「我々は男児を望んでいる」
なんの飾りもない、刃のようなその一言。
無邪気に投げられたその願望が、自分の中でどれほど長く「義務」に化けていたかを、彼は知らない。きっと、これから先も知ることはないのだろう。
いま、ヴァルブルガの腕の中で赤子は静かに眠っていた。
白銀の刺繍がほどこされた産着に包まれ、小さな握りこぶしをゆっくりと動かす。その姿を見つめる彼女の顔は、透き通るほど穏やかで、優しかった。
その隣では、オリオンも微笑んでいた。それは夫婦としての眼差しではなく、“一族の存続”という重大な役目を果たした証に注がれる、確信に満ちた安堵の笑みだった。
アランは、静かにフォークを下ろした。
その小さな仕草に誰も気づかない。耳には食器の音、小さな談笑、祝いの魔法音楽が響く。
「よかったわね」──口にはしなかった。誰かに言いたかったわけではない。それは、これまで背負い続けた重さにようやく終止符を打つ独白のようだった。
胸の奥で、小さな命がくれたすべてを慈しもうと思った。
そして、今ここにいる意味を、少しずつ取り戻そうとしていた。
その夜、アランは一人、窓を開けて月を見上げた。
息を吸い、吐くたびに、心がふわりとほどけていく気がした。
完全に自由ではない。けれど、確かに前へと進む風の音が聞こえていた。
微かに震える指が、無意識に胸のペンダント――星をかたどった小さな銀の欠片へと触れる。
「ありがとう」
それもまた、誰に届くでもない、ほとんど祈りのような言葉だった。
黄昏の光が静かに屋敷の廊下を照らし、黄金色の縁飾りを纏った重たいカーテンが、わずかな風に揺れている。
レギュラスは手にした湯気の立つホットハニーを置き、静かに寝室の扉を開けた。部屋の奥にはアランが一人、窓辺の肘掛け椅子に腰かけていた。レース越しの光の中で、彼女の横顔はどこか寂しげで、とても静かに思えた。
その膝には何もなく――息子の姿はなかった。
「……すみません、アラン」
レギュラスは静かに口を開き、扉のすぐ傍で言葉を探すように呼吸を整えた。
「屋敷中が、浮かれていますね。」
アランはその声にわずかに目を伏せ、ゆっくりと振り返った。疲れの滲む瞳で微笑み、その表情は、暖かさと痛みが同時に流れるような、繊細な光を宿していた。
「ええ、当然のことよ」
声は柔らかく、けれどどこか遠い。
「ブラック家の、王子ですから。」
その一言には、誰にも届かない静かな重みがあった。
アルタイル――父オリオンが名付けたその名は、天翔る星の名。
オリオンが見上げる天空に、自らの誇りを重ねたのであろう。
アランが名付けようとしていた淡い希望の名は、静かにかき消されることなど、もう決まり切っていたかのように。
あらがわなかった彼女の沈黙。
受け入れたというよりも、ひとつ、またひとつと大切なものを手放すような、深い静けさ。
そしてそれは、名だけではなかった。
「今日も、母が長く抱えてました」
レギュラスが言うと、アランはふっと曖昧に笑みを浮かべ、小さな溜息をひとつ落とした。
「ええ。“お祖母様”、ですから。あの方の初めての孫なのですもの。」
その言い方に、責める言葉はなかった。ただ、ほんの少し寂しげだった。
授乳のたびにだけ、自分の腕の中に戻ってくるアルタイルの小さな重み。
ほとんどそれ以外の時間は、誰かの腕に抱かれ、誰かの微笑みの中にいる。
愛されている。惜しまれないほどに。
――なのに、どうして、胸にぽっかりと空白があるのだろう。
そんな思いが、アランの背にさりげなく漂う月光に滲んでいた。
レギュラスはそれを感じ取っていた。
アランの心が、静かに遠くへ滲んでいくようで、それがどうしようもなく苦しかった。
「本当は……アルタイルという名も、君が――」
言いかけて、彼は言葉を切った。
アランが静かに首を横に振っていたからだ。
「もう、いいの」
小さな微笑みがあった。それは、涙の代わりに、何もこぼさない人の微笑みだった。
「どんな名前でも、あの子はあの子だわ。私とあなたの命から生まれたことに変わりはない。」
けれどレギュラスは、胸の奥の痛みを拭いきれなかった。
受け入れ続けることで、アランが少しずつ透明になっていくようで。
その静かな気丈さが、美しくあればあるほど、取り返しのつかない何かの喪失がはじまっている気がしてならなかった。
レギュラスはおもむろに椅子の傍に跪き、そっと彼女の手を取った。
その指はまだ細く冷たかった。
「……あなたがいてくれて、本当によかった」
その声は震えていた。
アランは何も言わず、そっとその手を握り返す。
扉の向こうから聞こえる使用人たちの祝宴のざわめきも、やがて遠く、小さくなっていった。
夕陽が沈んでいくなか、ただ二人の輪郭だけが、静かな光にささやかに包まれていた。
白い雲が流れる穏やかな午後、屋敷の中庭にはやわらかい風が吹いていた。花壇に咲くスイートピーがそよぎ、夏の終わりの気配をどこかに孕んでいる。そんな空の下で、アランはゆっくりと回廊を歩いていた。
歩くたび、裾の長い薄手のローブが足元をひらひらと揺らす。その動きは一見自然に見えたが、よく目を凝らせば、その歩みに微かな引きずりがあることに気づく。足を踏み出すたび、ほんの一瞬だけ身体が揺れ、眉がわずかに寄る。それは、静かで、しかし確かな痛みの残滓だった。
レギュラスはその様子にすぐ気づき、歩幅を合わせながらそっと声をかけた。
「……無理してはいけませんよ、アラン。」
彼の声には責める色はなく、むしろどこまでも優しく、胸の奥のどこかをそっと撫でるようだった。
アランは振り返らず、遠く風の音を聴くように顔を上げたまま、静かに笑った。
「だいぶ、良くなったわ。」
ただの返答のように聞こえるその一言の奥に、レギュラスはいつも以上の硬さと、凛としたものを感じ取っていた。
出産から数日が経つ。
赤子は母の腕の中よりも、乳母のそばで静かに育ちつつある。
その母である彼女は、身体の奥にまだ悪露を残し、出産時にできた裂傷が癒えぬまま、日々の動きを重ねていた。それを使用人伝いに聞かされるたびに、レギュラスの胸には小さな棘のような痛みが生まれる。
だが何より気にかかるのは、アランの変化だった。
以前の彼女なら、疲れた時には表情が翳り、無言のままレギュラスの袖に身を預けることもあった。けれど最近は、あらゆる表情が静かに整っている。喜びも、痛みも、誇りも、すべてが均質な微笑に紛れていた。
休みを促すべきか。それとも誇るべきか。
レギュラスには、正直なところ分からなかった。
けれどその強さが、母となった彼女が選んだ姿なのだとしたら、見送るしかないのかもしれない。
そっと彼女の横顔を見る。
風に揺れる髪の向こう、アランの瞳は――どこか遠く、けれど確かに何かを見ていた。過去でも、現在でもなく、もしかするともっと遠い未来を。
膨らんだ腹の重さから解放された代わりに、いま彼女の胸に抱えているものは、きっと言葉にはならないのだろう。
「……ありがとう、レギュラス。」
唐突に口を開き、アランがそう言った。
その声は、どこまでも澄んでいて、風の音にすらにじむようだった。
レギュラスは答えず、ただ静かに頷いた。
差し伸べられることのない手が、ふたりのあいだに穏やかに揺れていた。目に見えない絆を、互いに確かめ合うように。
そしてまた、アランは一歩、ゆっくりと歩き出した。
痛みを秘めてもなお、美しい背筋を守るように。
それこそが、彼女なりの「母となる」という選び方なのだと、レギュラスは胸の奥で、静かに思った。
屋敷の広間には魔法の燭台がひとつひとつ灯され、午後の淡い光と混ざり合いながら、空間全体を穏やかな温もりで包み込んでいた。重厚な絨毯の上をよく磨かれた革靴が静かに行き交い、紅茶と香水の香りがやわらかく交錯している。
今日は、マルフォイ家をはじめとしたいくつかの純血一族の親戚たちが、アルタイルの誕生を祝いにブラック家を訪れていた。
レギュラスは彼らを迎えるため、深みのある墨色のローブを身にまといながらも、目の端では終始アランの方を意識しつづけていた。
その日、アランは淡いセラドン色のドレスを纏っていた。産後の身体にはまだ負担の大きいであろう、腰のラインも袖口も繊細に絞られた細身のドレス。けれど彼女はそれを迷いなく纏い、ゆるやかにまとめた髪を肩に落としながら、客人一人ひとりに丁寧に挨拶を重ねていた。
「無理はしなくていい——寝室で休んでいても誰も咎めたりはしません」
レギュラスは朝、そう言ったのだ。心からの思いで。
けれどアランはそっと微笑み、白い手袋をはめながら静かに返した。
「あなたの妻が、あなたに向けられる祝辞を隣で聞かないだなんて——そんなこと、あってはならないでしょう?」
その声には疲労すら感じさせない静かな誇りが宿っていて、美しかった。
レギュラスは何も言えず、ただ視線を少しだけ逸らした。
彼女の気高さが、時に恐ろしいほどに正しく、美しく、自分のどんな愛よりも鋭い刃のように思える瞬間がある。
長時間立ちっぱなしでいる影響か、ときおりアランは胸元を穏やかに抑えながら微かに息を整えていた。その仕草さえも上品に見える一方で、レギュラスにはそれが心に重たく迫ってくる。
無理を……させている
どうしても、その思いが胸の奥から消えてくれなかった。
煌々と灯された広間は、淡くやわらかな光に包まれていた。天井を彩る重厚なシャンデリアが、祝宴の席にふさわしいきらめきを放ち、笑い声と祝辞の交わされる音が、その一つひとつを静かに照らしていた。
レギュラスのもとには、数えきれないほどの祝いの言葉が途切れることなく届いていた。
「さすがだ、若き当主」
「ブラック家にふさわしい一歩ですね」
「将来が楽しみですね」
微笑みを返しながらも、レギュラスはその言葉のひとつひとつが本当に自分に向けられていることへの違和感を拭えずにいた。アルタイルを生んだのは、自分ではない。命を削るようにして、あの赤子をこの世に送り出したのは――
視線の先。部屋の壁際、ひときわ陽の光が差したように見えるその場所に、アランがいた。
セラドングリーンのドレスを纏い、やわらかに髪を結い上げたその姿は、静謐でありながら凛とした美しさに満ちていた。頬には薄く紅が指され、細い首筋にかかるショールが、その存在の繊細さを際立たせる。
誰よりも痛みに耐え、命と引き換えにアルタイルをこの世に送り出した。
けれど彼女は目立つことなく、祝辞のうしろで静かに微笑んでいた。
――この誉れは、すべて彼女のものだ。
そう思えば思うほど、胸の奥に深い息苦しさが生まれた。
「産後すぐでも君の奥方はあんなに美しいんだね」
隣でグラスを傾けながらバーテミウスが囁く。
言葉の端には賞賛と、幾分かの揶揄が混じっていたが、そこに嘘はなかった。誰の目に映っても、アランは美しかった。
けれどレギュラスにとって、彼女の美しさは――あまりに脆いものに思えた。
砂の彫刻のようで、触れれば崩れてしまうのではないかとすら思う。
無理をさせていないか。
張っている気丈さの裏で、ほんとうは震えていないか。
衣擦れの音ひとつ、コルセットの締めつけひとつにも、苦しさが潜んでいるのではないかと思いはぐれない。
一方で、オリオンとヴァルブルガはといえば、客人に向けてひときわ誇らしげにアルタイルを抱き、見せていた。
「ほら、握りしめてるぞ。この子の掌にはもう……家を継ぐ者の気概がある」
「見てごらんなさい、この子のまつ毛。私たちの誰よりも長いわ」
代わる代わる赤子を腕にあやし、その顔つきを覗き込んでは笑い、祝福し、遠き未来を語る。
“ブラック家の跡取り”という言葉が繰り返されるたび、その小さな身体にどれほどの期待と宿命が注がれているのかを、レギュラスは重く噛みしめていた。
そしてその中心に決して軸のようにいるのは、男性たち、屋敷の者たち、家名の誇りであり――命を産み出したアランの静かな存在は、まるで誰にも見えていないかのように、微かな光の中に静かに立っていた。
けれど、レギュラスの目には、彼女しか映っていなかった。
“ありがとう、アラン。君がこの子を産んでくれた。すべて捧げてくれた。”
そう心の中で言葉にして、彼は祝辞に次の微笑を返す。
誰もその微笑に添えられた切なさには気づかない。
ただ、寄り添いたい。触れたい。守りたい。
その思いだけが彼の胸に満ち、遠く、アランの横顔へとそっと伸びていた。
まるで自分の美しさなど、どうでもいいことのように微笑む彼女。
儚く、そして何より、強いひと。
――今夜は、せめて静かな音楽で、彼女が休まりますように。
レギュラスはグラスを持ち直し、祈るようにそっと長い息を吐いた。
広間に刺す午後の光は、窓辺のステンドグラスを透かして、色彩の淡いプリズムとなって床に広がっていた。祝宴の只中。訪れた客人たちは髪を飾り、手には花束や銀の祝いの小包を携えている。笑い声が響き、シャンパンの音が絶えずどこかで鳴っていた。
アランは、少し離れた場所に佇んでいた。
身体に纏ったのは、久方ぶりの細身のドレス――
淡い緑と灰色に銀糸の刺繍。
けれどその優美な意匠とは裏腹に、纏っていること自体が痛みを伴っていた。
まだ戻りきらぬ産後の身体に、細いコルセットが無理やり形をつけるように締めあげられ、息は自然と浅くなる。脇の下をかすめる刺繍の細い縫い目が擦れ、肌に微かな疼痛を残す。
それでもアランは、何ひとつ表情に出さなかった。ただ、静かに微笑みながら、歓談の中心にいるレギュラスの姿を見つめていた。
彼には次々と祝辞が向けられていた。誇らしげな声、称賛の言葉、美辞麗句。
その言葉のひとつひとつを、アランは遠巻きに聞いていた。
時折、レギュラスがこちらに視線を向けて、微笑む。
それだけで、どれほど心が温まるか分かっていた。
けれどその笑顔の奥に潜む気遣いや痛みすらも、アランには見えてしまっていた。
彼が知らないふりをしてくれているから、アランもまた笑うことができた。
その瞬間、小さな声――マントの布擦れとともに、赤子の馴染みある衣の香りがふと漂った。
アルタイルだった。
広間の一隅、ヴァルブルガの腕の中にいる。
目を閉じたまま、しんと黙して動かぬその表情は、あまりにも静かで、あまりにも整っていた。
「……泣かないのね」
誰に向けたのでもない言葉が、アランの胸の内にだけ落ちた。
泣き出してしまわないか。そればかりを心配していたはずなのに、泣かないことがふと、心を締めつけた。
その物静かさが、これから彼の人生を物語ってやしないだろうか。
何かを口に出すより先に、黙り、空気を読んで、感情を押し殺すことを覚え、期待という名の鎧のなかで育ってはいかないだろうか。
――そんな世界で、どうかこの子が、生きていかなくてもすむ未来であってほしい。
アランの視線は、ふと赤子の手のひらの動きに向けられる。
小さく、ほんのわずかに握ろうとする指先。
その仕草は、心に灯る微かな希望のようだった。
「どうか、この手が、未来を恐れず伸ばされるものでありますように」
胸の奥から、ひとつ、祈りが立ちのぼる。
それと同時に押し寄せる鈍い痛み――けれど、それが体から来るのか、心から来るのか、もはやわからなかった。
アランは深呼吸をひとつだけしてから、何事もなかったかのようにまた微笑む。
練られた化粧に隠された涙の色を、誰も気づきはしない。
ただ静かに、その場に咲く一輪の花のように。
気高く、美しく、そしてどこまでも孤独に。
その見出しにはこう記されていた――
「ブラック家夫妻、魔法薬と魔力の融合で村の異常事態を解決」
彼は視線をひたと文字に落とし、無言のまま記事を読み進めた。アランの冷静な判断力と魔法薬への豊富な知識、村の特殊な地歴を読み解き、人々を昏睡状態から救ったその対応力に、記者たちはいくつもの称賛の言葉を重ねていた。
シリウスは唇の端をわずかに持ち上げた。
――お前は、やっぱりすごいな。
誇らしい、という気持ちが胸に満ちる。
アランは昔から魔法薬に強くて、呪文よりも薬壺の傍が似合っていた。乱雑なラボの中でも彼女の指先は穏やかで、ひとつひとつの素材に心を注いでいた。そんな彼女が今、人々を救い、魔法界の新聞で讃えられるほどの働きをしている――ただそれだけのことが、胸の奥をじんわりと温めた。
それでも、「レギュラスの隣で」という部分が視界に入るたび、鈍い鋭さで心をかすめた。
誰よりも近くで、あの笑顔を見ているのが、自分ではないという現実。
けれどそれでも、アランが誰かに讃えられているということは、素直に嬉しかった。
彼は静かに新聞をたたむと、もう一つ深く胸を締めつける記憶に想いを馳せた。
――先日、セシール家の墓地で偶然のように再び出会ったあの瞬間。
何年も願い続けた「会いたい」という言葉が、ようやく叶った日だった。
重なる視線、涙に濡れた頬、震える声、戸惑う呼吸――
そして、何もかもが堰を切ったようにあふれ出し、唇が重なったあの一瞬。
あのキスは、まるで何年分もの言葉を吸い込むように、静かで、熱くて、そして涙の味がした。
苦しくて、愛しくて、でも確かにあった、ふたりだけの一瞬。
そしてそっと彼女を抱いたときの、小さな身体の温もり――
想っていたよりもずっと柔らかくて、温かくて、彼女の腹に宿る小さな命の存在まで感じられた。
「無事で産まれて来いよ」――心の奥で、ただそれだけを何度も繰り返した。願いではなく、祈りに近いものだった。
彼女が誰の隣にいても、自分の想いが報われることはなくても。
あの時、抱いた彼女の輪郭だけは、これからもきっと消えない。
シリウスはそっと目を伏せ、指先で新聞の角をなぞった。埃をかぶった机の隅にそっと置きながら、胸の奥で静かに呟いた。
――また、会いたい。たとえ一瞬でも。あの笑顔を、もう一度だけ。
午後のやわらかな陽ざしが、舗道に落ちた木の葉を金と銅に染め上げる。アランはゆっくりと息を吐きながら石畳の小道を歩いていた。臨月を目前に控え、身体は重く、少しの距離を歩くだけでも息が乱れる。けれど今日だけは、どうしても訪れたい場所があった。
——あの子のところへ。
小高い丘のふもとにある、レンガ造りの古びた孤児院。その小さな門を開いた瞬間、かすかな焼き菓子の香りが風に乗って鼻をかすめた。懐かしく優しいその香りは、少しだけアランの緊張を解いた。
中庭には、陽射しを浴びて遊ぶ子どもたちの声が響く。その端に座って、本を読んでいた小さなマグルの少女が、アランを見つけるなりぱっと顔を輝かせた。
「アランお姉さん!」
少女は嬉しそうに駆け寄る。アランは微笑みながら、膨らんだお腹を気遣うようにゆっくりと手を伸ばし、少女の小さな手を握った。
「会いにきてくれたんですね。」
少女ははにかんだ笑顔を浮かべながら、草の上にアランを座らせ、隣にちょこんと座る。
「ね、私……いつかね、魔法使いもマグルも関係なく、誰もが一緒に笑ってられる世界を作りたいの。」
その瞳は澄み切っていて、太陽の光を真っ直ぐに映し返しているようだった。アランの胸に、遠い記憶がふわりと蘇る。
——あの頃、あの人も、そんな夢を語っていた。
シリウス。 無邪気とも言えるほど真っ直ぐに理想を見つめていた、太陽のような少年。口角を上げて語る彼の横顔を見て、何もわからぬ少女だった自分は、ただそばにいたいと強く願った、それだけだった。
アランはそっと胸元のペンダントに触れる。目立たぬ小さな星のかたちをした銀のぬくもりが指先に伝わる。あの日の再会、涙の味がしたキス、そして触れた心の欠片。それらすべてが、この小さな宝石に眠っていた。
「きっと……難しい夢になるわ。」
アランは静かに言った。優しく、けれどどこか苦しげに。
「それを叶えるには、きっとたくさんの犠牲を払うことになる。時には、自分自身の大切なものまで。」
少女はしばらく黙ってアランを見つめた。そしてまるでそれを理解する歳ではないのに、それでもどこかで、その言葉の重みを感じ取ったように、わずかにうなずいた。
アランは目を伏せて、少女の小さな手を包む。その手は温かく、まだ未来そのものだった。
「でもね、その夢を諦めない気持ちは、すばらしいわ。あの頃、私も……誰かのそんな光を追っていた。」
彼女の声は風に溶けて、空へゆっくりと舞い上がっていった。木漏れ日が、アランの頬を静かに照らし、膨らんだお腹の中で、新しい命が小さく動いた。
小さな命と、遠い夢。
ふたつの未来が、静かな午後の光の中でそっと重なっていた。
夕暮れの金色が、ブラック家の重厚な窓硝子を淡く染めていた。扉を開けた瞬間、アランはほんの少し肩をすくめた。レギュラスが、先に応接室に戻っていたことに驚いたからだった。
この時間に屋敷に帰っているなんて、珍しい……。
彼は暖炉の前に立ち、まだ肩にかかるコートの襟を片手で押さえたまま、振り返った。
「どこに行っていたんです?」
その声音は驚くほど柔らかかったが、細い糸に結びついた微かな苛立ちが、確かに滲んでいた。
アランはドアをそっと閉じながら、微笑みをたたえたまま歩み寄る。
「散歩です。体力をつけておかないと、お産に苦労するそうですから。」
罪の意識を悟られぬよう、声に明るさを加える。
きっと上手く切り抜けただろうと、自分では思った。だがレギュラスの目は、ほとんど瞬きをせずにアランを見つめていた。
「……クリーチャーを付けてくださいと、伝えたじゃないですか。」
その言葉には、理屈ではなく感情が宿っていた。ただの心配ではない。彼女の不在が、何よりも彼の胸に影を落としていたという証――逸らす動き一つない真っ直ぐな目が、不安と苛立ちをひた隠しにしている。
アランは思わず吐息を漏らしそうになった。
けれど、それが彼の感情をさらに強く煽ってしまうことを心得ていたから、息を胸の奥に閉じ込めて、ただ微かに喉を鳴らすだけにした。
「ええ、出来る限りそうします。……クリーチャーの手が空いている時は。」
ほんのわずかに言葉の綾を残すことで、自らの自由を守ろうとしたひとつの苦しい防衛だった。
レギュラスは短く間をおき、深くため息をつく代わりに声を落とした。
「何よりも優先させます。」
その言葉は、まるで鋼で包んだ愛情のようだった。
守るという意志を、彼はいつだって歪める形でしか示せない。
けれどアランは、それが彼なりの誠実であることを知っていた。
窓の外では、静かに夕陽が屋敷の尖塔を照らしていた。
重なる沈黙のなかで、互いに言葉を省きながらも、それぞれの中に確かな感情が流れていた。アランが胸元に隠した秘密と、レギュラスが静かに燃やす不安と独占。
いくつもの想いが、ひとつの部屋の中に沈殿していくように、重たく、静かに、夜へと溶けていった。
夕暮れの光が、うっすらとレースのカーテン越しにアランの寝室を染めていた。空は茜と藍が溶け合うような色をしていて、けれどその美しささえ、アランの胸を少しも癒してはくれなかった。
静まり返った室内。広く整えられた寝台、質の良い絨毯、銀細工のランプ――すべては上等で、完璧で、だからこそ息苦しかった。
アランは鏡台の前に腰を下ろし、ふと無意識に指先が胸元へ伸びる。触れたのはいつものペンダント、シリウスがくれた小さな、星のようなかたちをした銀の飾り。
その冷たい感触が、なぜかいちばん近くに感じられた。
「レギュラスの隣にいると、自由って……どこにあるのか、わからなくなるわね……」
呟いた言葉は誰にも届かず、ふわりと空気に溶けていった。
彼が悪いわけではない。きっと、望まれた場所に嫁いだのだから、仕方のないことなのだろう。守られていて、丁寧に扱われていて、それはきっと幸福なことのはず。
けれど、心のどこかが乾いていく。
彼と過ごすほど、自分が密かに大切にしてきた何かが少しずつ失われていくような気がしていた。
きっと、シリウスの隣では――あんな強くて、自由で、まっすぐな人の隣では――こんなふうに、自分を絞られるような窮屈さは感じなかった。
「ここから飛び出す勇気があれば……すべてを捨てて、あなたを選べる強さがあったら……」
ため息とともに、肩がわずかに沈む。今さらそんなことを考えたところで、現実は揺るがない。選べなかった過去。一歩踏み出せなかった覚悟。
でも、もしあのとき少しでも違う選択をしていたら、自分たちはどうなっていただろう。シリウスの名前を新聞で見たとき、あの墓地で再会したとき、彼から贈られたこのペンダントに触れるたび――心はそう問い続けていた。
指先でそっとペンダントを撫でる。その小さな銀の輝きが、今は自分がどこに立っているのかを教えてくれる、唯一の羅針盤のように思えて仕方がなかった。
部屋の奥で、時計の針がわずかに動く音が響く。
誰にも聞こえないほど、静かに。
そしてアランはまたひとつ、小さく息を吐いた。
感情も想いもすべて、音のない溜息に紛れ、夜の静寂に消えていった。
重たく垂れこめた雲が夜の空を覆い、ブラック家の屋敷には静かすぎるほどの沈黙が満ちていた。
寝室のカーテン越しに漏れる月の光が、白く膨らんだ腹の曲線をやわらかく撫でるように照らしている。アランは、ゆっくりとベッドに身体を横たえた。臨月に入り、身ひとつを動かすにも一息が必要なほどの重さを抱えながら、彼女はそっと寝返りを打った――レギュラスとは反対の方向へ。
背を向ける形でレギュラスに向ける言葉はなかった。けれど、その無言の動作が、すでに彼女のすべてを語っていた。膨らんだ腹を両腕でかばうようにして、そのわずかな姿勢に身を委ねる。静かに目を閉じても、眠りは遠く、心の内はわずかに波立っていた。
夫婦の寝室に、ふたり分の静けさが流れている。数週間前まで、ここには情があった。言葉では形にできない、触れ合いの温もりと求め合う夜が、ときにやさしく、ときに痛みを含んで注ぎ込まれていた。けれど臨月を迎えてから、レギュラスは何も言わなくなった。求めてこなくなった。それが、アランには正直――ほっとしたことだった。
そのことへの安堵は、言葉にするのが恐ろしいほどだった。
産まれてくる命の前で、触れ合うことが何かを汚すような気がしてしまう。
そして、心の奥にひそむもう一つの理由――
いまだ消えない、シリウスへの未練。
目を閉じれば、浮かぶのは遠い日の記憶。
柔らかな声、笑顔、まっすぐ過ぎる理想。
あの墓地で交わした涙の味のするキス。
そのすべてが、頑なに閉じていた胸の扉を再び軋ませた。
今、レギュラスから受け取る誠実な愛情が、過剰な優しさにさえ思える。
そのひとつひとつが、自分の中の「裏切り」を暴いてくるようで、愛されるたびに罪悪感に縛られていく。
「妻として応えなければ……」
誰かに言われたわけではない。
けれど、その無言の使命感が、アランをじわじわと締めつけていた。
そのときだった。布団の端にかすかな重みが加わり、やさしくシーツが肩にかけられるのを感じた。
レギュラスだった。背後に気配を残したまま、彼はそっと、自分の役目だけを果たすように動いた。
温かな気遣い。繊細な手つき。
彼が、いかに慈しみの心でアランを包もうとしているのか、そのやさしさが痛いほどわかる。
だからこそ――苦しかった。
大切に思っている。誰よりも、彼の誠実さを知っている。
けれど心は、別の人の名をそっと呼ぶ夜がある。
穢れたと思う。
でも、それが胸の奥から消えることは、どうしても叶わなかった。
そっと吐き出した小さな息が、枕に染みていく。
レギュラスの腕が、少しだけ動いた気配。
けれど彼もまた、何も言わなかった。ただ、黙っていた。
静かな夜だった。けれど、それは何よりも苦しい沈黙で満ちていた。
胸の奥が、どうしようもなく――痛かった。
夜の屋敷には、静寂だけが深く積もっていた。火を絞られた寝室のランプが淡く揺らぎ、壁に映る影はゆっくりと、まるで夢のなかのように伸びていた。レギュラスは寝台の隅に腰掛け、立ち上がらぬまま、うっすらと寝息を立てるアランの輪郭を見つめていた。
彼女は、少し身を丸めるようにして横を向いている。両手はそっと膨らんだ腹に添えられ、まるでこれから生まれてくる命を抱き締めるかのような形だった。息を吐くたび、薄い寝巻きの布越しに小さく膨らんだ腹がふわりと動く。
もう、間もなくだ。
「それでいい。元気で生まれてきてくれさえすれば、それだけでいい。」
そう何度も自分に言い聞かせてきた。
そう――本心だった。間違いなく。
けれどその奥に、かすかな葛藤の影が胸を締めつける。
「それだけでいい」と言いながら、心の中で密かに――自分の親たちのために、家のために、いや、きっと自分自身のために――生まれてくる子が男児であってほしいと願っている。
アランの腹のなかにいる命が、どんな顔をして、どんな声で泣くのか。
自分に似るのか、アランに似るのか、それとも……
そんな想像さえ、恐れ多く思えるほどに愛おしかった。
ほんの数週間前までは、夜にふたりの時間があった。
静かで濃密な触れ合い。
けれど今、こうして膨らんだお腹を抱えて眠るアランを見ると、とてもじゃないが、自分の欲を通すべきではないと思った。
この身体に、彼女は命を宿している。眠る姿はとても静かで、けれどどこか痛々しかった。
きっと苦しいのだろう。重たくなった身体、変化する体調、夜中に何度も目を覚ます気配。
あらゆる不安と共に、それでも必死に生きようとしている。
レギュラスはそっと立ち上がり、乱れかけた掛け布を直す。
アランの肩を冷えが襲わないように、丁寧に布をかけるその手には、指を絡めることすら躊躇うほどの繊細な想いが宿っていた。
「あなたが……少しでも穏やかに過ごせるように。」
彼は小さく、呼びかけるように心のなかでその言葉を言っただけで、声には出さなかった。
横顔をそっと見る。光と影の向こう、静かな吐息のなかに宿る、彼女の強さと脆さ。
そして、なによりも大切な存在。
「大丈夫。あなたも、あなたの中の命も……すべて僕が守ります。」
レギュラスはその思いを胸の奥に沈めた。
求めたい気持ち、触れたい欲もあった。
けれど今はただ、一歩引き、静かに寄り添うことがすべてだった。
風の音がほんのわずかに窓を撫でる。
その音さえも、彼にとっては祝福のように感じられた。
愛する人と、宿る命と。
静かな、その夜。
彼はただ、深く祈るようにして隣の椅子に腰を下ろした。
目を閉じ、心のすべてを、目の前に在る小さな命の未来へと捧げるようにして。
屋敷の外では、朝から降り続く大雨が、石畳を叩く重たい音を奏でていた。空は一日中鈍い鉛色に覆われ、時折、雷鳴が遠くから低く響いては、長い歴史を持つブラック家の館を静かに震わせた。
その日、アランは早朝から陣痛に苦しんでいた。
寝室は暖かく整えられていたが、時間が進むにつれ、その静けさは痛みに変わる叫びに染まっていった。助産魔女たちが慎重に声をかけながら支度を進め、落ち着かせようとする。アランの額には汗が滲み、唇には必死の祈りが込められていた。
その扉の外には、レギュラスが身じろぎもせずに立っていた。肩には濡れた黒のローブがかかり、両の拳は固く握られている。横でオリオンとヴァルブルガもまた無言のまま、時折視線を交わしては歩き回る。
心中は、言葉にならぬ祈りでいっぱいだった。
長い時間が過ぎた。大きな時計の針が一度、重く響く。
そして――
扉の奥からいっさいの音が止み、次に響いたのは一つの、切り裂くような産声だった。
雨の音も、足音も、すべてがその瞬間、遠くに霞む。
「――産まれました。男児です。」
助産魔女の一人が、白い毛布に包まれた小さな命を抱えて扉を開けた。
その声は、ただ静かに、けれど確かに館じゅうを照らす光を運んでいた。
レギュラスは息を呑み、ほんのわずか体を揺らした。張り詰めた空気がほどけていく。
オリオンは深く、まるで儀礼のようにうなずき、ヴァルブルガは口元をゆるめて静かに胸元へ手を当てた。
「……男か」
オリオンの低い声には、不意に滲む安堵があった。
ヴァルブルガはわずかに目を伏せながら、そっと言う。
「この家に、ようやく次の血が生まれたのね……」
レギュラスは何も言わなかった。赤子を見つめる瞳は、決して涙など流していない。それでも、押し込めていた感情が胸の奥からゆっくりと満ちていくのを、誰の目にも隠せなかった。
彼の、彼女の、そしてこの家が背負うすべてが、一瞬だけ静かになる。
小さな産声がもう一度、雨音に重なるようにして響いた。
それは新しい命の始まりであり、ただの一人の息子ではなく、長き魔法の家に灯された、新たな希望だった。
レギュラスはそっと目を伏せ、アランの無事を願うように奥の扉を見つめた。その向こう――命をかけて子を産んだ、愛しい人が横たわっている。
窓の外の雨音が、静かに祝福のように流れていた。
大雨がようやく細い霧雨に変わりつつあるなか、ブラック家の屋敷は静かな熱気に包まれていた。重たい空気の中に、どこか凛とした期待と安堵の香りが漂っている。使用人たちが足早に廊下を行き交い、談話室ではオリオンとヴァルブルガが上機嫌に手紙を書き続けていた。
「男の子よ、きっと立派に育つわ。」
ヴァルブルガの声には誇りが満ちていた。筆の先が紙の上を滑り、あちこちの親族への報告の文が次々としたためられていく。
対するオリオンも、久方ぶりに満足げな表情を浮かべていた。
「ブラック家の血が繋がった。ただそれだけで、あとはもう何もいらん。」
部屋の奥では新生児用の銀細工のゆりかごが静かに揺れている。その小さな揺れとは対照的に、レギュラスの心は落ちつきようもなく波打っていた。
彼は廊下の静まり返った一角に立ち、愛しい人のいる寝室の扉をじっと見つめていた。
「アラン……」
思わず名を呼びたい衝動に駆られる。
朝が来るずっと前から陣痛に襲われ、夕暮れが滲むころまで絶え間なく続いたあの痛み。自分はただその外で祈るしかなかった。何もできなかった。ただ、閉ざされた扉の向こうで命と向き合っていた彼女を、想像しながら手を握ることも、励ましの言葉をかけることもできなかった。
――ボロボロになっているだろう。
繊細で、気高く、そして強い彼女が、それでも苦しみのなかで命を生み落としたのだ。どれほどの想いを抱き、どれだけの痛みに耐えたのだろう。
扉のすぐそばまで歩み寄ろうとしたその時、使用人が静かに首を振った。
「申し訳ありません、旦那様。まだ処置が続いております。奥様は深くお休みになられた方が……安全と判断しております。」
柔らかい言い回しだったが、はっきりと「入ってはいけない」と告げられているのも同然だった。
レギュラスはわずかに眉をひそめ、口を結んだ。
部屋の中の温もりに、触れたかった。
手を取り、声をかけたかった。
「よく頑張ってくれましたね」と言ってあげたかった。
しかしそれは叶わない。
いま彼にできるのは、ただこの扉の前で静かに立ち尽くし、彼女が眠って休めていることを祈ること、それだけだった。
彼はそっと壁に寄りかかり、目を閉じる。
静かに、けれど確かに鳴り続ける心臓の鼓動が、部屋の中にいる彼女と、ついさっき生まれたばかりの小さな命へと、静かに届いてほしいと願いながら。
――もうすぐきっと会える。
そう信じて、レギュラスはそっと目を開けた。
扉の向こうからは微かに乳香の香りと新しい命の鼓動の気配が感じられた。雨音の消えた世界で、それはとても尊く、静かに胸を満たしていた。
大雨に濡れた世界が、ようやく静寂を取り戻しはじめた黄昏どき。重たい雲の切れ間から差し込むわずかな光が、カーテン越しに淡く寝室を照らしていた。
アランは汗に濡れた髪を額にはりつかせ、力尽きたように白いシーツの上に横たわっていた。ほとんど意識も記憶も霞んで、今が朝なのか夜なのかさえ、分からない。それでも耳は、静かに扉の向こうの音を拾っていた。
……喜びを隠しきれない声。
オリオンのよくとおる低い声、ヴァルブルガの芯のある優雅な笑み声。
そして、レギュラスの──言葉にはしなくとも、きっとあの静かな横顔と指先に、深く喜びを宿しているに違いない。
「……男児です」
その言葉を聞いたとき、アランの目からは、ぽろりと自然に涙がこぼれた。
ああ、ようやく──
ようやくこの家に、望まれた「答え」を渡せたのだ。
痛みの波に身を預け、果てしない闘いを越えて、それでもなお「責務」として背負ってきたもの。それを、ほんの少しだけ報われたように感じた。
けれど──
赤子の顔を、ほんの一瞬見る間もなく、優しい手が布に包まれたその小さな命を抱え、静かに彼女の傍から離れていった。
「お屋敷の皆さまへ」と。
そう告げられていた。
扉が開いた一瞬、光が差し、そして扉が閉じられるとまた静まり返る。
アランの胸の奥にぽたりと重く沈んだのは、何か大きなものが自分から離れていったような、空洞に似た感覚だった。
「……………」
言葉は、もう出なかった。
張り詰めていた糸が切れたように、身体に残された力も、意志も、ほとんど残っていなかった。やがて指先だけが、静かに胸元へと伸びていく。
触れたのは、小さな星をかたどった、銀のペンダント。
皮膚の上からその冷たさを感じとりながら、目を閉じて、彼の名を想う。
──シリウス。
意識が遠のく中、脳裏に漂うのは若き日のやわらかな笑顔と、太陽のような声。
「自由になりたかったの。あなたとなら」
そう願ったかつての少女の自分が、どこか遠くにいる気がした。
「……私、頑張った……わよ……」
言葉は誰の耳にも届かなかった。けれどそのささやきは、確かに時間の隙間にしみこんで、降り続く雨音よりも穏やかに、そこに在った。
涙のような呼吸が静かに沈み、アランは眠りについた。
深く、ただ深く、すべてから解放されるように。
それは、一つの終わりのようでもあり、
新しい始まりの、ほんの静かな序章のようでもあった。
朝の光がやわらかくカーテン越しに差し込み、寝室を淡い金色に染めていた。夜を越えた空はどこまでも澄んでいて、昨夜の大雨がまるで嘘のように、すべてを洗い流したかのような静けさを帯びている。
アランは寝台の上にゆっくりと起き上がった。まだ身体の奥に疲労の残るその動作に、思わず眉をひそめながら、静かに呼吸を整えた。扉の向こうからは、すでにあわただしい物音が微かに聞こえていた。
そして、乳母が朝の挨拶と共に入ってきた。その腕に抱かれていたのは、昨夜、自らの身を裂いてこの世に生み落とした、小さな命。
「そろそろ……お乳を。」
アランは頷き、小さく腕を差し出す。そして、ふわりと白い布に包まれた赤子が、自身の胸の上に抱かれる。
それが、本当に初めて――
産声を聞いたときには霞んでいた意識で見えなかった、小さなその顔を、ようやくじっくりと見つめることができた。
どこか、輪郭はレギュラスに似ていた。額の形、鼻の高さ、小さく噛みしめた唇――当たり前といえばそうだった。彼の子なのだから。その証が、自分の腕のなかですやすやと眠っている。
けれどその瞬間、ふとその小さな瞼がパチリと開いて、真っすぐに自分の目を見上げた。
その瞳の色。
思わず息を呑む。
深く、澄んだ灰色。
まるで――シリウス。
彼の瞳にそっくりだった。
何も知らないはずの、生まれたばかりのこの子が、自分のすべてを見透かしているような気がした。瞳の奥に、どこか遠い記憶のような光が宿っていて、それを見た瞬間―― アランの頬に、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
止まらなかった。
どうしようもなくあふれてきた。
嗚咽ではない。ただ、静かに、音もなく。
頬をつたって、産着に落ちて、小さな胸元に染みていく。
腕の中のこの命は、何も知らない。けれど、これから何かを知っていく。たくさんの真実を、悲しみも喜びも、迷いや光も。その全部をきっと歩んでいく。
だからこそ祈らずにはいられなかった。
――どうかこの子の歩む道が、
太陽のような光に満ちたものでありますように。
誰にも奪えない、まっすぐな幸福で包まれますように。
過去の誰かの罪や、愛や悔いや欲望に縛られることなく、この子自身の人生を、この澄んだ瞳で見つけていけるように。
アランはそっと頬を寄せ、子どもの柔らかな額に唇をあてた。
静かな心の中で、遠く離れた誰かのことが浮かぶ。
シリウスは、シリウスとしてきっと今も戦っている。
どこかで、自由と正義のために風を巻き起こし、傷つきながらもその理想を手放さずにいるだろう。
そして――
私は、私の場所で生きている。
ここで、この子を守り抜くことが、いまの自分の戦いなのだと。
それぞれの場所で、それぞれの役目を果たしている。
交わることのない運命に、ただ静かに祈りをひとつだけ捧げながら、アランは我が子を優しく抱きしめ、淡い朝の光の中に身を沈めていった。
扉がそっと二度、控えめにノックされた。
夕暮れの光が差し込む窓際、乳児を腕に抱えていたアランは静かに顔を上げた。
「……アラン入ってもいいですか?」
扉の向こうから聞こえる声は、どこか少しだけ緊張を帯びているようだった。
ちょうど授乳を終えたところだった。そばに控えていた乳母に目配せすると、彼女は静かに赤子を受け取り、慎重な足取りで寝室を出て行く。小さな命は、アランの腕から離れたあとも、ほんのりとした温もりを胸元に残していた。
「どうぞ。」
アランがそう告げると、そっと扉が開く。
レギュラスが静かに入ってきた。深い黒のローブに身を包み、彼らしい端正で整った佇まい。けれどその瞳の奥には、言葉にできない喜びと、深く揺れる感情の色が滲んでいた。
アランは、寝台で緩く身を起こしたまま、丁寧に一礼する。
「……おめでとうございます。」
短く、それだけだった。だが、それは彼女なりの誠意と、敬意の込もった言葉だった。
ブラック家に男児が産まれた。次代を担う新たな命の父。それはこの強い家系にとって、何ものにも代えがたい名誉であり、重責でもある。アランは言葉を選び抜き、この一言に想いを込めた。
だがレギュラスは、目を伏せるように少しだけ顔を横に向け、そっと首を振った。
「やめてください、アラン……そんなふうに。」
まるで距離を感じたかのようなその言葉に、アランが目を見開こうとした瞬間、レギュラスはゆっくりと彼女の傍に腰を下ろした。そして何も言わず、彼女の手をそっと両手で包み込む。
温かく、誠実な手だった。
長い指が優しくアランの手を撫でるたびに、その触れ合いが言葉以上の安堵を与えてくれる。
「……なんと言えばいいのか、ずっと考えていて。」
小さく、息を吐くように彼は零す。
深く考え抜いた末で、それでもなお正解の言葉が見つからずにいることが伝わってきた。
きっとレギュラスは、今日という日を、アランの痛みも、勇気も、すべて受け止めようとしていたのだろう。優しい彼のことだから。
「言わなくていいんです。」
アランは微かに笑って囁いた。
その瞳には、もう涙はなかった。ただ満ち足りた静けさだけが、穏やかに宿っている。
この人の期待に、答えられた。それがとても嬉しかった。彼という人のために、自分は意味を持つことができた――その実感が、胸の奥にふわりと灯っていた。
温もりに包まれながら、アランは初めて「幸福」と名づけられる静かな充足を知った。
何も言わず、手をつないだまま二人は夕暮れの光の中に佇んでいた。
小さな命が静かに眠るこの屋敷の中で、ようやく訪れた穏やかな時間が、そっとふたりの心を繋いでいた。
重厚な石のアーチをくぐる屋敷の門から、今日も途切れることなくフクロウと客人がやって来ていた。空高く幾羽もの使い魔が飛び、抱えた包みからは美しいリボンの端や香り高い紙花が覗く。朝から晩まで鳴り止まぬ玄関のノック、そして祝辞の香りに満ちた空間――それが、“ブラック家に男児が誕生した”という事実がもたらした日々の光景だった。
その知らせは魔法界の新聞や雑誌の見出しを賑わせ、写真付きの記事がいくつも刷られた。
『ブラック家に未来の当主たる男児誕生――純血の血は今なお高き誇りを湛えて』
『一族の繁栄、新たな章へ。若きレギュラス卿に祝福の声』
屋敷の執事や使用人たちは忙しく動き回り、廊下には祝いの花束や水晶細工が山のように積み上げられていた。
その日の食卓も、ことさらに華やかだった。
純銀のカトラリーに澄んだ葡萄酒、暖かな肉料理が並ぶ中、オリオンとヴァルブルガはひときわ満ち足りた表情で座していた。
「見事だ、まるでシグナスの若い頃に似ておる。」
オリオンがワインを傾けながら笑う。
その声には迷いも戸惑いもなかった。
まるで、これは期待通りの当然の結果だと言わんばかりに。
アランは、静かだった。心のどこかに霞のように張りついていた過去の言葉が、ふいに胸奥から滲み出てくる。嫁いできて間もないあの日、広間の冷たい床を踏みしめながら告げられたオリオンの言葉——
「我々は男児を望んでいる」
なんの飾りもない、刃のようなその一言。
無邪気に投げられたその願望が、自分の中でどれほど長く「義務」に化けていたかを、彼は知らない。きっと、これから先も知ることはないのだろう。
いま、ヴァルブルガの腕の中で赤子は静かに眠っていた。
白銀の刺繍がほどこされた産着に包まれ、小さな握りこぶしをゆっくりと動かす。その姿を見つめる彼女の顔は、透き通るほど穏やかで、優しかった。
その隣では、オリオンも微笑んでいた。それは夫婦としての眼差しではなく、“一族の存続”という重大な役目を果たした証に注がれる、確信に満ちた安堵の笑みだった。
アランは、静かにフォークを下ろした。
その小さな仕草に誰も気づかない。耳には食器の音、小さな談笑、祝いの魔法音楽が響く。
「よかったわね」──口にはしなかった。誰かに言いたかったわけではない。それは、これまで背負い続けた重さにようやく終止符を打つ独白のようだった。
胸の奥で、小さな命がくれたすべてを慈しもうと思った。
そして、今ここにいる意味を、少しずつ取り戻そうとしていた。
その夜、アランは一人、窓を開けて月を見上げた。
息を吸い、吐くたびに、心がふわりとほどけていく気がした。
完全に自由ではない。けれど、確かに前へと進む風の音が聞こえていた。
微かに震える指が、無意識に胸のペンダント――星をかたどった小さな銀の欠片へと触れる。
「ありがとう」
それもまた、誰に届くでもない、ほとんど祈りのような言葉だった。
黄昏の光が静かに屋敷の廊下を照らし、黄金色の縁飾りを纏った重たいカーテンが、わずかな風に揺れている。
レギュラスは手にした湯気の立つホットハニーを置き、静かに寝室の扉を開けた。部屋の奥にはアランが一人、窓辺の肘掛け椅子に腰かけていた。レース越しの光の中で、彼女の横顔はどこか寂しげで、とても静かに思えた。
その膝には何もなく――息子の姿はなかった。
「……すみません、アラン」
レギュラスは静かに口を開き、扉のすぐ傍で言葉を探すように呼吸を整えた。
「屋敷中が、浮かれていますね。」
アランはその声にわずかに目を伏せ、ゆっくりと振り返った。疲れの滲む瞳で微笑み、その表情は、暖かさと痛みが同時に流れるような、繊細な光を宿していた。
「ええ、当然のことよ」
声は柔らかく、けれどどこか遠い。
「ブラック家の、王子ですから。」
その一言には、誰にも届かない静かな重みがあった。
アルタイル――父オリオンが名付けたその名は、天翔る星の名。
オリオンが見上げる天空に、自らの誇りを重ねたのであろう。
アランが名付けようとしていた淡い希望の名は、静かにかき消されることなど、もう決まり切っていたかのように。
あらがわなかった彼女の沈黙。
受け入れたというよりも、ひとつ、またひとつと大切なものを手放すような、深い静けさ。
そしてそれは、名だけではなかった。
「今日も、母が長く抱えてました」
レギュラスが言うと、アランはふっと曖昧に笑みを浮かべ、小さな溜息をひとつ落とした。
「ええ。“お祖母様”、ですから。あの方の初めての孫なのですもの。」
その言い方に、責める言葉はなかった。ただ、ほんの少し寂しげだった。
授乳のたびにだけ、自分の腕の中に戻ってくるアルタイルの小さな重み。
ほとんどそれ以外の時間は、誰かの腕に抱かれ、誰かの微笑みの中にいる。
愛されている。惜しまれないほどに。
――なのに、どうして、胸にぽっかりと空白があるのだろう。
そんな思いが、アランの背にさりげなく漂う月光に滲んでいた。
レギュラスはそれを感じ取っていた。
アランの心が、静かに遠くへ滲んでいくようで、それがどうしようもなく苦しかった。
「本当は……アルタイルという名も、君が――」
言いかけて、彼は言葉を切った。
アランが静かに首を横に振っていたからだ。
「もう、いいの」
小さな微笑みがあった。それは、涙の代わりに、何もこぼさない人の微笑みだった。
「どんな名前でも、あの子はあの子だわ。私とあなたの命から生まれたことに変わりはない。」
けれどレギュラスは、胸の奥の痛みを拭いきれなかった。
受け入れ続けることで、アランが少しずつ透明になっていくようで。
その静かな気丈さが、美しくあればあるほど、取り返しのつかない何かの喪失がはじまっている気がしてならなかった。
レギュラスはおもむろに椅子の傍に跪き、そっと彼女の手を取った。
その指はまだ細く冷たかった。
「……あなたがいてくれて、本当によかった」
その声は震えていた。
アランは何も言わず、そっとその手を握り返す。
扉の向こうから聞こえる使用人たちの祝宴のざわめきも、やがて遠く、小さくなっていった。
夕陽が沈んでいくなか、ただ二人の輪郭だけが、静かな光にささやかに包まれていた。
白い雲が流れる穏やかな午後、屋敷の中庭にはやわらかい風が吹いていた。花壇に咲くスイートピーがそよぎ、夏の終わりの気配をどこかに孕んでいる。そんな空の下で、アランはゆっくりと回廊を歩いていた。
歩くたび、裾の長い薄手のローブが足元をひらひらと揺らす。その動きは一見自然に見えたが、よく目を凝らせば、その歩みに微かな引きずりがあることに気づく。足を踏み出すたび、ほんの一瞬だけ身体が揺れ、眉がわずかに寄る。それは、静かで、しかし確かな痛みの残滓だった。
レギュラスはその様子にすぐ気づき、歩幅を合わせながらそっと声をかけた。
「……無理してはいけませんよ、アラン。」
彼の声には責める色はなく、むしろどこまでも優しく、胸の奥のどこかをそっと撫でるようだった。
アランは振り返らず、遠く風の音を聴くように顔を上げたまま、静かに笑った。
「だいぶ、良くなったわ。」
ただの返答のように聞こえるその一言の奥に、レギュラスはいつも以上の硬さと、凛としたものを感じ取っていた。
出産から数日が経つ。
赤子は母の腕の中よりも、乳母のそばで静かに育ちつつある。
その母である彼女は、身体の奥にまだ悪露を残し、出産時にできた裂傷が癒えぬまま、日々の動きを重ねていた。それを使用人伝いに聞かされるたびに、レギュラスの胸には小さな棘のような痛みが生まれる。
だが何より気にかかるのは、アランの変化だった。
以前の彼女なら、疲れた時には表情が翳り、無言のままレギュラスの袖に身を預けることもあった。けれど最近は、あらゆる表情が静かに整っている。喜びも、痛みも、誇りも、すべてが均質な微笑に紛れていた。
休みを促すべきか。それとも誇るべきか。
レギュラスには、正直なところ分からなかった。
けれどその強さが、母となった彼女が選んだ姿なのだとしたら、見送るしかないのかもしれない。
そっと彼女の横顔を見る。
風に揺れる髪の向こう、アランの瞳は――どこか遠く、けれど確かに何かを見ていた。過去でも、現在でもなく、もしかするともっと遠い未来を。
膨らんだ腹の重さから解放された代わりに、いま彼女の胸に抱えているものは、きっと言葉にはならないのだろう。
「……ありがとう、レギュラス。」
唐突に口を開き、アランがそう言った。
その声は、どこまでも澄んでいて、風の音にすらにじむようだった。
レギュラスは答えず、ただ静かに頷いた。
差し伸べられることのない手が、ふたりのあいだに穏やかに揺れていた。目に見えない絆を、互いに確かめ合うように。
そしてまた、アランは一歩、ゆっくりと歩き出した。
痛みを秘めてもなお、美しい背筋を守るように。
それこそが、彼女なりの「母となる」という選び方なのだと、レギュラスは胸の奥で、静かに思った。
屋敷の広間には魔法の燭台がひとつひとつ灯され、午後の淡い光と混ざり合いながら、空間全体を穏やかな温もりで包み込んでいた。重厚な絨毯の上をよく磨かれた革靴が静かに行き交い、紅茶と香水の香りがやわらかく交錯している。
今日は、マルフォイ家をはじめとしたいくつかの純血一族の親戚たちが、アルタイルの誕生を祝いにブラック家を訪れていた。
レギュラスは彼らを迎えるため、深みのある墨色のローブを身にまといながらも、目の端では終始アランの方を意識しつづけていた。
その日、アランは淡いセラドン色のドレスを纏っていた。産後の身体にはまだ負担の大きいであろう、腰のラインも袖口も繊細に絞られた細身のドレス。けれど彼女はそれを迷いなく纏い、ゆるやかにまとめた髪を肩に落としながら、客人一人ひとりに丁寧に挨拶を重ねていた。
「無理はしなくていい——寝室で休んでいても誰も咎めたりはしません」
レギュラスは朝、そう言ったのだ。心からの思いで。
けれどアランはそっと微笑み、白い手袋をはめながら静かに返した。
「あなたの妻が、あなたに向けられる祝辞を隣で聞かないだなんて——そんなこと、あってはならないでしょう?」
その声には疲労すら感じさせない静かな誇りが宿っていて、美しかった。
レギュラスは何も言えず、ただ視線を少しだけ逸らした。
彼女の気高さが、時に恐ろしいほどに正しく、美しく、自分のどんな愛よりも鋭い刃のように思える瞬間がある。
長時間立ちっぱなしでいる影響か、ときおりアランは胸元を穏やかに抑えながら微かに息を整えていた。その仕草さえも上品に見える一方で、レギュラスにはそれが心に重たく迫ってくる。
無理を……させている
どうしても、その思いが胸の奥から消えてくれなかった。
煌々と灯された広間は、淡くやわらかな光に包まれていた。天井を彩る重厚なシャンデリアが、祝宴の席にふさわしいきらめきを放ち、笑い声と祝辞の交わされる音が、その一つひとつを静かに照らしていた。
レギュラスのもとには、数えきれないほどの祝いの言葉が途切れることなく届いていた。
「さすがだ、若き当主」
「ブラック家にふさわしい一歩ですね」
「将来が楽しみですね」
微笑みを返しながらも、レギュラスはその言葉のひとつひとつが本当に自分に向けられていることへの違和感を拭えずにいた。アルタイルを生んだのは、自分ではない。命を削るようにして、あの赤子をこの世に送り出したのは――
視線の先。部屋の壁際、ひときわ陽の光が差したように見えるその場所に、アランがいた。
セラドングリーンのドレスを纏い、やわらかに髪を結い上げたその姿は、静謐でありながら凛とした美しさに満ちていた。頬には薄く紅が指され、細い首筋にかかるショールが、その存在の繊細さを際立たせる。
誰よりも痛みに耐え、命と引き換えにアルタイルをこの世に送り出した。
けれど彼女は目立つことなく、祝辞のうしろで静かに微笑んでいた。
――この誉れは、すべて彼女のものだ。
そう思えば思うほど、胸の奥に深い息苦しさが生まれた。
「産後すぐでも君の奥方はあんなに美しいんだね」
隣でグラスを傾けながらバーテミウスが囁く。
言葉の端には賞賛と、幾分かの揶揄が混じっていたが、そこに嘘はなかった。誰の目に映っても、アランは美しかった。
けれどレギュラスにとって、彼女の美しさは――あまりに脆いものに思えた。
砂の彫刻のようで、触れれば崩れてしまうのではないかとすら思う。
無理をさせていないか。
張っている気丈さの裏で、ほんとうは震えていないか。
衣擦れの音ひとつ、コルセットの締めつけひとつにも、苦しさが潜んでいるのではないかと思いはぐれない。
一方で、オリオンとヴァルブルガはといえば、客人に向けてひときわ誇らしげにアルタイルを抱き、見せていた。
「ほら、握りしめてるぞ。この子の掌にはもう……家を継ぐ者の気概がある」
「見てごらんなさい、この子のまつ毛。私たちの誰よりも長いわ」
代わる代わる赤子を腕にあやし、その顔つきを覗き込んでは笑い、祝福し、遠き未来を語る。
“ブラック家の跡取り”という言葉が繰り返されるたび、その小さな身体にどれほどの期待と宿命が注がれているのかを、レギュラスは重く噛みしめていた。
そしてその中心に決して軸のようにいるのは、男性たち、屋敷の者たち、家名の誇りであり――命を産み出したアランの静かな存在は、まるで誰にも見えていないかのように、微かな光の中に静かに立っていた。
けれど、レギュラスの目には、彼女しか映っていなかった。
“ありがとう、アラン。君がこの子を産んでくれた。すべて捧げてくれた。”
そう心の中で言葉にして、彼は祝辞に次の微笑を返す。
誰もその微笑に添えられた切なさには気づかない。
ただ、寄り添いたい。触れたい。守りたい。
その思いだけが彼の胸に満ち、遠く、アランの横顔へとそっと伸びていた。
まるで自分の美しさなど、どうでもいいことのように微笑む彼女。
儚く、そして何より、強いひと。
――今夜は、せめて静かな音楽で、彼女が休まりますように。
レギュラスはグラスを持ち直し、祈るようにそっと長い息を吐いた。
広間に刺す午後の光は、窓辺のステンドグラスを透かして、色彩の淡いプリズムとなって床に広がっていた。祝宴の只中。訪れた客人たちは髪を飾り、手には花束や銀の祝いの小包を携えている。笑い声が響き、シャンパンの音が絶えずどこかで鳴っていた。
アランは、少し離れた場所に佇んでいた。
身体に纏ったのは、久方ぶりの細身のドレス――
淡い緑と灰色に銀糸の刺繍。
けれどその優美な意匠とは裏腹に、纏っていること自体が痛みを伴っていた。
まだ戻りきらぬ産後の身体に、細いコルセットが無理やり形をつけるように締めあげられ、息は自然と浅くなる。脇の下をかすめる刺繍の細い縫い目が擦れ、肌に微かな疼痛を残す。
それでもアランは、何ひとつ表情に出さなかった。ただ、静かに微笑みながら、歓談の中心にいるレギュラスの姿を見つめていた。
彼には次々と祝辞が向けられていた。誇らしげな声、称賛の言葉、美辞麗句。
その言葉のひとつひとつを、アランは遠巻きに聞いていた。
時折、レギュラスがこちらに視線を向けて、微笑む。
それだけで、どれほど心が温まるか分かっていた。
けれどその笑顔の奥に潜む気遣いや痛みすらも、アランには見えてしまっていた。
彼が知らないふりをしてくれているから、アランもまた笑うことができた。
その瞬間、小さな声――マントの布擦れとともに、赤子の馴染みある衣の香りがふと漂った。
アルタイルだった。
広間の一隅、ヴァルブルガの腕の中にいる。
目を閉じたまま、しんと黙して動かぬその表情は、あまりにも静かで、あまりにも整っていた。
「……泣かないのね」
誰に向けたのでもない言葉が、アランの胸の内にだけ落ちた。
泣き出してしまわないか。そればかりを心配していたはずなのに、泣かないことがふと、心を締めつけた。
その物静かさが、これから彼の人生を物語ってやしないだろうか。
何かを口に出すより先に、黙り、空気を読んで、感情を押し殺すことを覚え、期待という名の鎧のなかで育ってはいかないだろうか。
――そんな世界で、どうかこの子が、生きていかなくてもすむ未来であってほしい。
アランの視線は、ふと赤子の手のひらの動きに向けられる。
小さく、ほんのわずかに握ろうとする指先。
その仕草は、心に灯る微かな希望のようだった。
「どうか、この手が、未来を恐れず伸ばされるものでありますように」
胸の奥から、ひとつ、祈りが立ちのぼる。
それと同時に押し寄せる鈍い痛み――けれど、それが体から来るのか、心から来るのか、もはやわからなかった。
アランは深呼吸をひとつだけしてから、何事もなかったかのようにまた微笑む。
練られた化粧に隠された涙の色を、誰も気づきはしない。
ただ静かに、その場に咲く一輪の花のように。
気高く、美しく、そしてどこまでも孤独に。
