2章
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窓辺に差し込む初夏の柔らかな光が、孤児院の小さな浅緑色の机を淡く照らしていた。机の上には薄く開かれた魔法書──昨日アランから贈られたものだ。少女はそっと頁をめくりながら、真剣な眼差しで文字と図解を追っている。細い指先に本のページが滑るたびに、小さなため息とともに新たな知識が胸に刻まれていくようだった。
アランは廊下の影からその様子を静かに見つめた。少女の額に浮かぶ汗粒さえ愛おしく感じられる。そっと廊下を歩き、椅子を引いて机の横に腰かけると、少女は驚いたように顔を上げた。
「読んでくれているのね」
アランの声はささやく風のように柔らかく、少女の心をそっと包み込んだ。少女は目を輝かせ、頷く。
「はい……とても面白いです。こんなふうに魔法を学べるなんて」
アランは微笑みを深くして、そっと本を閉じた。
「あなたには、賢い魔女になってほしいの。マグルの血だからと、誰かに蔑まれたり、傷つけられたりしないで済むように──自分を守る力を、ここでしっかり身につけてほしいのよ」
その言葉に、少女の瞳は少し潤んだ。アランはそっと少女の手を取り、机の上にそっと重ねる。
「強さってね、ただ腕力や呪文の威力だけじゃないの。どんなときも恐れず、自分の価値を信じること。優しさを失わずに、同時に自分を守る術を学ぶこと。私は、その道を歩けなかった。だからあなたに託したいの」
少女はうつむき、震える声で答えた。
「私……もっと頑張ります。アランさんみたいに強くなりたい」
アランはそっと頬に手を当て、優しく顎を上げた。
「大丈夫。あなたならできる。私はいつでも、ここにいるから」
風に揺れるレースのカーテン越しに、夏の陽射しが二人を優しく祝福するように降り注いでいた。窓の外では小鳥がさえずり、未来への小さな希望が静かに羽ばたいていく。少女の胸に、新たな決意の火が灯るその瞬間── アランの目には、かつて自分が歩みたかったはずの道が、確かに映し出されていた。
静かな屋敷の廊下をゆっくりと歩きながら、アランは扉を開けて中へ入った。すぐに温かな気配が彼女を包み込み、控えめに近づくクリーチャーの声が静寂を破る。
「奥様、どちらへ行かれていたのですか?」
その問いかけには、ただならぬ心配が滲んでいた。アランは一瞬だけ視線をそらし、まるで見透かされることを恐れるように、そっと微笑みを返す。
「ごめんなさい、少し散歩に出かけていました。」
レギュラスからは常に「外出する時には必ずクリーチャーを連れて行くように」と厳命されていた。だが、その忠実な視線に見張られているような気がして、どうにも息苦しく感じてしまう。だからこそ、こうして人目を避けて隙を見つけ、ひとときの自由を求めて外へ出るのだった。
クリーチャーの瞳は一瞬だけ寂しげに揺れながらも、それ以上は問い詰めることなくそっと身を引いた。屋敷の重く静かな空気のなか、アランの胸にふっと解放感が流れた。しかしその自由も決して大きくはなく、繊細で儚い束の間の息抜きであることを知りつつ、彼女はただ静かに呼吸を整えていった。
薄暗い大広間に、数多の黒衣の影が静かに集っていた。石造りの床に反響する足音が、ここが闇の王の前哨であることを強烈に告げる。天井から吊るされた燭台の揺れる炎が、重苦しい空気を一層不気味に際立たせた。
アランはレギュラスの腕にそっと手を重ね、冷たい石壁を背景にゆるやかに呼吸を整えた。胸の奥は締めつけられるように緊張し、鼓動が耳元で脈打つ。隣で涼やかな面持ちのレギュラスは、彼女の小さな動揺に気づくことなく、背筋を凛と伸ばして闇の一党に歩みを進めている。
最前列に座すヴォルデモート卿が、氷のような青い瞳で二人を見据えた。柔らかく、しかしどこか皮肉めいた声音で、彼は軽く頷きながら言った。
「相変わらず、お前の夫はよき働きをしておるようだな、アラン。」
その言葉は、最たる威圧を孕みながらも、あえてアランに向けられた賛辞だった。夫レギュラスの手腕を褒めることで、彼女の命が保証されているという無言の宣告――この恐ろしい場においては、最上の安堵と同時に、最深の屈辱でもあった。
アランは微かに唇を噛みしめる。光の届かぬ瞳の奥底に沈む影を、誰にも見せまいと瞬時に背筋を伸ばし、静かに頭を下げた。その仕草は凛とした美しさをたたえながらも、心の内側では重圧に押しつぶされそうな苦しみが蠢いていた。
誰も声を上げず、ただ冷たい視線が張り巡らされた空間。アランはそっとレギュラスの胸元に手を当て、鼓動を確かめる。かすかな温もりが一瞬だけ心を支え、彼女はこの場を生き延びるために、凍りつきそうな胸の奥で小さく、静かに鼓舞した。
薄闝とした城壁沿いの夜道を、レギュラスの腕にそっと手をかけながら歩みを進めようとしたその瞬間、後から軽やかな足音が近づいてきた。振り向くと、淡い月光に銀の髪がきらめくベラトリックスが飄然と現れた。
「ごきげんよう、ベラ。」
アランは声を震わせぬよう、先んじて微笑を浮かべて挨拶した。隣にいるレギュラスも、静かに一礼する。
ベラトリックスは両手をひらりと広げ、まるで優雅な舞台の主役のように顔を傾けた。「今夜、シリウス・ブラックは――死ぬことになるかもしれないわね」その言葉に、アランの胸は凍りついた。冷たい刃で胸をえぐられたように、動揺の色が頬を染める。
「ほぉ、やっぱり気になるんだねぇ?」
ベラトリックスの口元には、好奇と楽しみに満ちた微笑が浮かんでいた。夜気に溶け込むその声は、毒のように甘い。
抑えた呼吸が奥で震え、アランの視線はレギュラスの背後へと吸い寄せられる。心の中には、問いたいことが渦巻いていた。ベラトリックスは何を企んでいるのか、この先――シリウスと対峙させるつもりなのか、どこで戦いを演じようとしているのか。だが、そのすべてを口に出す勇気は、夜の闇に隠されてしまった。
冷たい月影が三人を包む中、ベラトリックスはしばらくじっと二人を見つめ、やがて静かに身体を翻した。黒いローブの裾がふわりと揺れ、そのまま廊下の奥へと消えていく。
残されたのは、凍えるほどに静かな夜と、胸の奥で痛く響く問いの余韻だけだった。アランは小さく唇をかみしめ、震える手をレギュラスの腕にしっかりと絡めて、足早に帰路へと歩みを進めた。彼女の心には、まだ答えを知らぬままの不安が、重く沈んでいた。
夜の静けさを背に、レギュラスはわずかな苛立ちの色を帯びた声で静かに言った。
「ベラトリックスの挑発如きに反応しないでください。」
その言葉は冷静さを保とうとする中にも、必死に押し殺そうとしている焦燥が混ざっていた。ベラトリックスの前で、シリウスへの思いを露わにしてしまったせいで、自分の体裁が崩れたことに対する苛立ちが彼の心を揺らしていた。アランは言葉にならず、ただレギュラスの肩越しにその背中を見つめた。
けれど、胸の奥で消えない不安が静かに波打つ。今夜の出来事がずっと引っかかり、ベラトリックスが何を仕掛けようとしているのか、どうしても考えてしまうのだった。シリウスが簡単に砕かれるなどとは思えないが、ベラトリックスの狡猾さと強さを知る彼女を前に、警戒せずにはいられない。
守りたいという焦りに駆られ、本当はすぐにでもシリウスの元へ駆けつけたい気持ちを必死に押し殺し、アランは静かに息を吐いた。切なく揺れる思いを抱えながら、レギュラスの隣で自身の決意をかみしめる。
夜の闇は深く染まり、二人を包み込むように静かに流れ、音もなく繊細な時間が二人の間を満たしていた。
屋敷の重い扉が静かに閉じられると、廊下の燭台の明かりさえも凍りついたように揺れを止めたアランは一歩、二歩と歩みを進めるたびに、足裏から伝わる夕闇の冷たさを感じていた。背後にいるレギュラスの影は、一言も発さぬまま、まるで重い石柱のようにそこに立ち尽くしている。
いつもならば、彼の気を和らげるために軽やかな言葉を紡ぎ、そっと肩に触れて笑顔を向けるアラン。しかし今は、胸の奥でざわめく不安がその声を塞ぎ、指先の温もりさえ遠く感じられた。ベラトリックスの毒のような挑発が耳の奥で反響し、シリウスへの思いが押し寄せるたびに、心が凍てついてしまいそうになる。
アランは深呼吸をひとつだけして、かすかに伏し目がちに視線を落とした。細やかなドレスの裾をそっと掴み、震える手の甲をぎゅっと握りしめる。言葉をかけたい想いと、問いかけてはいけない焦燥が交錯し、胸の奥が締めつけられる。
廊下の向こうで、レギュラスの長いコートの裾がひらりと揺れた。彼の無言は、怒りでも悲しみでもない、何か言葉にはできぬ重さを孕んでいた。アランはその沈黙に抗えず、そっと彼の背に寄り添う。
「――ごめんなさい」
小さく、しかし精一杯の声を紡ぐ。アランの吐息はか細く震え、言い訳にも慰めにもならない。ただ、胸の奥で燃え上がる想いと恐れを受け止めてほしいと、切実に願った。
レギュラスはふいに深いため息をひとつ漏らし、硬く結ばれた唇をゆるめる。だが、その瞳はわずかに揺れるだけで、依然として言葉は訪れず。アランは心臓の音が耳に響くのを感じながら、そっと肩越しに彼の鼓動を確かめた。
二人の間を満たすのは、言葉を失った深い闇と、それでも消えぬ微かな温もり。アランは震える背中に寄り添いながら、もしも今すぐシリウスの無事を確かめられるなら――そんな想いを胸に秘めて、静かに夜の帳が下りる屋敷の奥へと歩みを進めた。
夕闇がしんと静まり返る屋敷の廊下を抜け、アランはそっと自室の扉を閉じた。揺れる蝋燭の灯り照らされた部屋の片隅で、彼女は深く息を吐き、重い心を抱えたまま書き物机の前に沈むように腰を下ろす。
「今夜、シリウスに──何かあったらどうしよう」
胸の奥で鼓動が早鐘のように鳴り、一歩も動けずにいる自分に苛立ちながらも、どうにもならない不安がじわりと広がっていく。病の予感にも似た冷たい恐怖が、理性を締め付け、呼吸さえも乱していく。
思い切って引き出しを引くと、そこには鍵のかかった小箱と並んで、ひとつの写真立てが隠されていた。そっと手に取り、写真を覗き込む。
そこには、陽光のような笑顔で無邪気に笑うシリウスと、その隣で微笑むかつての自分が映っている。少女の頬にかかる髪は風になびき、その瞳はシリウスへの憧れに満ちていた。
あまりにも輝いていて、痛いほどに鮮やかで。
アランは胸の中からこみ上げるものを抑えきれず、指先で額縁の縁をなぞりながら唇を震わせる。
「どれだけ時が経っても……」
言葉はそこまでしか続かず、瞳に熱いものがにじむ。いくら遠く離れていても、いくら世界が引き裂かれようとも、その愛は一瞬も色あせず胸に焼きついている。
「どうすれば、あなたを守れるの……?」
震える声が、静かな部屋の壁に吸い込まれていく。答えのない問いにアランは涙をこらえ、そっと視線を上げた。写真の中の笑顔が揺れ、まるでこう囁くように見えた——
「お前がいる。それだけで、俺は強くなれる」
その幻の声に、アランはそっと目を閉じ、決意を固める。泣きそうなほど愛おしいその面影を胸に抱きしめ、彼女は立ち上がった。今夜、自分にできることを探して──愛する人を守るために動き出す覚悟を胸に。
闇夜に白銀の光が弧を描いた。
アランの杖先から解き放たれたパトローナスは、まばゆい翼をたえた大きな鷲となり、静寂を切り裂くように宙を舞う。羽ばたくたび、淡い蒼白の粒子が夜気に散り、まるで星屑が逆流するかのようだった。
その鷲の瞳には、シリウスと過ごした無垢な日々の輝きが宿っている。ホグワーツの湖畔で夕陽に染まった笑顔、禁じられた森へ飛び込んで息を潜めた夜、マグルの街で手を取り合って駆け抜けた石畳の温もり――胸奥で重なり、溶け合い、今や彼女を支えるただ一つの光となっていた。
パトローナスが空高く舞い上がると、アランは箒を握りしめる。心臓が痛いほど脈打った。けれど飛び立とうと足を踏み出した瞬間、背後から低い声が鋭く響く。
「アラン、どこに行く気です?」
振り返れば、レギュラスが廊下の薄闇に佇んでいた。漆黒のローブの裾が夜風にわずかに揺れ、彼の灰色の瞳が深い悲しみと焦燥を湛えている。
「お願い、レギュラス。行かせて…」
アランはもう言い訳を捨てた。震える声で続ける。
「シリウスが心配で、どうしようもないの。」
レギュラスは一歩前に進む。その瞳は鋼のように硬く、それでも底に揺らめく愛情を隠しきれない。
「無駄です。ベラトリックスの罠です。あなたが向かえば、その瞬間を“裏切り”とされ、闇の帝王へ報告される。あなたとお腹の子、そしてセシール家すべてが危険に晒される――それが彼女の狙いです。」
言葉は鋭いが、震えを帯びていた。アランは唇を噛む。確かにその可能性は否めない。だが、ベラトリックスが告げた「今夜シリウスは死ぬかもしれない」という冷たい宣告が耳の奥で反響し、胸を焼く。
「分かってる。でも……でも黙ってはいられないの!」
アランの声は細く割れ、涙が光を帯びて頬を滑る。
「私は、あの人を――シリウスを愛している。放っておくなんてできない!」
その言葉に、レギュラスの肩がかすかに揺れた。長い沈黙。やがて彼は目を閉じ、深く息を吸う。
薄闇に包まれた部屋の中で、レギュラスの瞳が悲しげに揺れた。燃えるような決意と、深い困惑が交錯し、その瞳を見つめることが、アランには苦しくてたまらなかった。彼が示してくれた愛情も、誠実な優しさもすべて感じていたからこそ、その胸の痛みはなおさらだった。
「シリウスを想っている」と、言葉を隠さずに告げてしまった今、自分にはもはやレギュラスの心を救うことができないのだという絶望が、胸を締めつける。罪悪感の重さが膨れ上がる中、突如として腹部に例えようのない鋭い痛みが走った。
その痛みは深く刺し込み、今まで感じたことのない激しさで、アランの身体を震わせる。立ち上がろうと力を込めても、足が思うように動かず、まるで大地に吸い込まれるように膝から崩れ落ちそうになる。
「アラン、アラン!どうしたんです!?」
レギュラスの声は慌てて震え出し、必死に彼女の腕を支えようと手を差し伸べる。焦りと困惑が入り混じったその声には、揺るぎない愛情と守りたいという切実な願いが込められていた。
アランはかすかに目を閉じ、わずかに震える呼吸を整えようと努める。胸の奥で絡みつく痛みと苦しさに抗いながらも、彼女の意識は静かに揺れ動いていた。その表情には、悲しみと迷い、そして何より深い愛情が滲み出ている。
重苦しい時間が静かに流れ、二人の間には言葉にならぬ必死の想いだけが繊細に震えていた。
静謐な室内に押し寄せる重苦しい空気が静かに満ちていた。レギュラスは胸の奥に渦巻く複雑な想いを抱えながらも、その目は揺るぎない覚悟と悲しみで満たされていた。
彼の心の中には、いつの間にか芽生えた尊大にも似た思いがあった。アランの想いが確実に自分へ向いているはずだという――だが、今夜、その幻想は真っ向から否定された。アランの瞳が、祈りにも似た切なさと、シリウスへの深い愛を秘めているのを見抜いた瞬間、彼は己の小ささを痛感する。
腹の中に宿る新しい命は、彼にとってもアランとの絆の証であり、揺るぎない愛のしるしだと思っていた。けれど、非力なその胎動の向こう側で、泣きながらシリウスを救おうとするアランの姿があまりにも強く、真実の愛とは何か、彼はもはやわからなくなってしまった。
そして、その夜。アランの身体は突如として激しい痛みに襲われた。呼吸が乱れ、顔に青ざめが広がり、レギュラスはすぐさま彼女を抱き寄せた。医師の言葉は冷静ながらも厳しく告げられる。
「切迫流産の危険があります。しばらくは絶対安静を――ご本人の安全と新しい命のために。」
動けず、ただ静かに横たわるアランの薄く震える手を握りしめ、レギュラスは心の葛藤を押し隠す。これで、アランが自分に内緒でどこかへ行ってしまう心配はもうない。ただそれだけを、彼は小さな安堵として胸にしまった。
窓の外では夜の帳が静かに降り、外灯が淡い光を放つ。二人の間に流れる時は、ただ静かで繊細だ。言葉にならぬ想いを抱えながら、レギュラスはそっと囁く。
「あなたを守るにはどうしたらいいんでしょう…」
切なさと愛惜が混じり合うその声が、薄明かりの部屋に柔らかく溶けていった。
静かな光が窓から柔らかく差し込み、アランはゆっくりとまどろみから目を覚ました。彼女の傍らには、ずっと寄り添い続けるレギュラスの姿があった。疲れを隠せないその瞳が、静かに彼女を見つめている。
起き上がろうとするアランの動きを、レギュラスは優しくしかし断固として制した。
「絶対安静です、アラン。医師から切迫流産との診断が出ています。」
その言葉に、アランはゆっくりと力を抜き、無理に身体を起こすことを諦めた。沈黙の中、彼女の瞳がレギュラスへと向く。言葉にしなくとも、そのまなざしはひとつの問いを訴えていた──シリウスは無事なのかと。
レギュラスはその瞳の奥にある痛みを理解し、静かに息をついた。言葉は慎重に選びながらも、誠実な想いを込めて答える。
「シリウスは……今のところ無事です。もしもなにか起こったのならすぐに知らせがくるはずですから」
柔らかな声は、揺れる心にそっと寄り添いながらも、揺るがぬ決意で満ちあふれていた。アランはそれを受け止め、胸の奥に残る不安を少しだけ押し込めるように静かに頷いた。
アランは廊下の影からその様子を静かに見つめた。少女の額に浮かぶ汗粒さえ愛おしく感じられる。そっと廊下を歩き、椅子を引いて机の横に腰かけると、少女は驚いたように顔を上げた。
「読んでくれているのね」
アランの声はささやく風のように柔らかく、少女の心をそっと包み込んだ。少女は目を輝かせ、頷く。
「はい……とても面白いです。こんなふうに魔法を学べるなんて」
アランは微笑みを深くして、そっと本を閉じた。
「あなたには、賢い魔女になってほしいの。マグルの血だからと、誰かに蔑まれたり、傷つけられたりしないで済むように──自分を守る力を、ここでしっかり身につけてほしいのよ」
その言葉に、少女の瞳は少し潤んだ。アランはそっと少女の手を取り、机の上にそっと重ねる。
「強さってね、ただ腕力や呪文の威力だけじゃないの。どんなときも恐れず、自分の価値を信じること。優しさを失わずに、同時に自分を守る術を学ぶこと。私は、その道を歩けなかった。だからあなたに託したいの」
少女はうつむき、震える声で答えた。
「私……もっと頑張ります。アランさんみたいに強くなりたい」
アランはそっと頬に手を当て、優しく顎を上げた。
「大丈夫。あなたならできる。私はいつでも、ここにいるから」
風に揺れるレースのカーテン越しに、夏の陽射しが二人を優しく祝福するように降り注いでいた。窓の外では小鳥がさえずり、未来への小さな希望が静かに羽ばたいていく。少女の胸に、新たな決意の火が灯るその瞬間── アランの目には、かつて自分が歩みたかったはずの道が、確かに映し出されていた。
静かな屋敷の廊下をゆっくりと歩きながら、アランは扉を開けて中へ入った。すぐに温かな気配が彼女を包み込み、控えめに近づくクリーチャーの声が静寂を破る。
「奥様、どちらへ行かれていたのですか?」
その問いかけには、ただならぬ心配が滲んでいた。アランは一瞬だけ視線をそらし、まるで見透かされることを恐れるように、そっと微笑みを返す。
「ごめんなさい、少し散歩に出かけていました。」
レギュラスからは常に「外出する時には必ずクリーチャーを連れて行くように」と厳命されていた。だが、その忠実な視線に見張られているような気がして、どうにも息苦しく感じてしまう。だからこそ、こうして人目を避けて隙を見つけ、ひとときの自由を求めて外へ出るのだった。
クリーチャーの瞳は一瞬だけ寂しげに揺れながらも、それ以上は問い詰めることなくそっと身を引いた。屋敷の重く静かな空気のなか、アランの胸にふっと解放感が流れた。しかしその自由も決して大きくはなく、繊細で儚い束の間の息抜きであることを知りつつ、彼女はただ静かに呼吸を整えていった。
薄暗い大広間に、数多の黒衣の影が静かに集っていた。石造りの床に反響する足音が、ここが闇の王の前哨であることを強烈に告げる。天井から吊るされた燭台の揺れる炎が、重苦しい空気を一層不気味に際立たせた。
アランはレギュラスの腕にそっと手を重ね、冷たい石壁を背景にゆるやかに呼吸を整えた。胸の奥は締めつけられるように緊張し、鼓動が耳元で脈打つ。隣で涼やかな面持ちのレギュラスは、彼女の小さな動揺に気づくことなく、背筋を凛と伸ばして闇の一党に歩みを進めている。
最前列に座すヴォルデモート卿が、氷のような青い瞳で二人を見据えた。柔らかく、しかしどこか皮肉めいた声音で、彼は軽く頷きながら言った。
「相変わらず、お前の夫はよき働きをしておるようだな、アラン。」
その言葉は、最たる威圧を孕みながらも、あえてアランに向けられた賛辞だった。夫レギュラスの手腕を褒めることで、彼女の命が保証されているという無言の宣告――この恐ろしい場においては、最上の安堵と同時に、最深の屈辱でもあった。
アランは微かに唇を噛みしめる。光の届かぬ瞳の奥底に沈む影を、誰にも見せまいと瞬時に背筋を伸ばし、静かに頭を下げた。その仕草は凛とした美しさをたたえながらも、心の内側では重圧に押しつぶされそうな苦しみが蠢いていた。
誰も声を上げず、ただ冷たい視線が張り巡らされた空間。アランはそっとレギュラスの胸元に手を当て、鼓動を確かめる。かすかな温もりが一瞬だけ心を支え、彼女はこの場を生き延びるために、凍りつきそうな胸の奥で小さく、静かに鼓舞した。
薄闝とした城壁沿いの夜道を、レギュラスの腕にそっと手をかけながら歩みを進めようとしたその瞬間、後から軽やかな足音が近づいてきた。振り向くと、淡い月光に銀の髪がきらめくベラトリックスが飄然と現れた。
「ごきげんよう、ベラ。」
アランは声を震わせぬよう、先んじて微笑を浮かべて挨拶した。隣にいるレギュラスも、静かに一礼する。
ベラトリックスは両手をひらりと広げ、まるで優雅な舞台の主役のように顔を傾けた。「今夜、シリウス・ブラックは――死ぬことになるかもしれないわね」その言葉に、アランの胸は凍りついた。冷たい刃で胸をえぐられたように、動揺の色が頬を染める。
「ほぉ、やっぱり気になるんだねぇ?」
ベラトリックスの口元には、好奇と楽しみに満ちた微笑が浮かんでいた。夜気に溶け込むその声は、毒のように甘い。
抑えた呼吸が奥で震え、アランの視線はレギュラスの背後へと吸い寄せられる。心の中には、問いたいことが渦巻いていた。ベラトリックスは何を企んでいるのか、この先――シリウスと対峙させるつもりなのか、どこで戦いを演じようとしているのか。だが、そのすべてを口に出す勇気は、夜の闇に隠されてしまった。
冷たい月影が三人を包む中、ベラトリックスはしばらくじっと二人を見つめ、やがて静かに身体を翻した。黒いローブの裾がふわりと揺れ、そのまま廊下の奥へと消えていく。
残されたのは、凍えるほどに静かな夜と、胸の奥で痛く響く問いの余韻だけだった。アランは小さく唇をかみしめ、震える手をレギュラスの腕にしっかりと絡めて、足早に帰路へと歩みを進めた。彼女の心には、まだ答えを知らぬままの不安が、重く沈んでいた。
夜の静けさを背に、レギュラスはわずかな苛立ちの色を帯びた声で静かに言った。
「ベラトリックスの挑発如きに反応しないでください。」
その言葉は冷静さを保とうとする中にも、必死に押し殺そうとしている焦燥が混ざっていた。ベラトリックスの前で、シリウスへの思いを露わにしてしまったせいで、自分の体裁が崩れたことに対する苛立ちが彼の心を揺らしていた。アランは言葉にならず、ただレギュラスの肩越しにその背中を見つめた。
けれど、胸の奥で消えない不安が静かに波打つ。今夜の出来事がずっと引っかかり、ベラトリックスが何を仕掛けようとしているのか、どうしても考えてしまうのだった。シリウスが簡単に砕かれるなどとは思えないが、ベラトリックスの狡猾さと強さを知る彼女を前に、警戒せずにはいられない。
守りたいという焦りに駆られ、本当はすぐにでもシリウスの元へ駆けつけたい気持ちを必死に押し殺し、アランは静かに息を吐いた。切なく揺れる思いを抱えながら、レギュラスの隣で自身の決意をかみしめる。
夜の闇は深く染まり、二人を包み込むように静かに流れ、音もなく繊細な時間が二人の間を満たしていた。
屋敷の重い扉が静かに閉じられると、廊下の燭台の明かりさえも凍りついたように揺れを止めたアランは一歩、二歩と歩みを進めるたびに、足裏から伝わる夕闇の冷たさを感じていた。背後にいるレギュラスの影は、一言も発さぬまま、まるで重い石柱のようにそこに立ち尽くしている。
いつもならば、彼の気を和らげるために軽やかな言葉を紡ぎ、そっと肩に触れて笑顔を向けるアラン。しかし今は、胸の奥でざわめく不安がその声を塞ぎ、指先の温もりさえ遠く感じられた。ベラトリックスの毒のような挑発が耳の奥で反響し、シリウスへの思いが押し寄せるたびに、心が凍てついてしまいそうになる。
アランは深呼吸をひとつだけして、かすかに伏し目がちに視線を落とした。細やかなドレスの裾をそっと掴み、震える手の甲をぎゅっと握りしめる。言葉をかけたい想いと、問いかけてはいけない焦燥が交錯し、胸の奥が締めつけられる。
廊下の向こうで、レギュラスの長いコートの裾がひらりと揺れた。彼の無言は、怒りでも悲しみでもない、何か言葉にはできぬ重さを孕んでいた。アランはその沈黙に抗えず、そっと彼の背に寄り添う。
「――ごめんなさい」
小さく、しかし精一杯の声を紡ぐ。アランの吐息はか細く震え、言い訳にも慰めにもならない。ただ、胸の奥で燃え上がる想いと恐れを受け止めてほしいと、切実に願った。
レギュラスはふいに深いため息をひとつ漏らし、硬く結ばれた唇をゆるめる。だが、その瞳はわずかに揺れるだけで、依然として言葉は訪れず。アランは心臓の音が耳に響くのを感じながら、そっと肩越しに彼の鼓動を確かめた。
二人の間を満たすのは、言葉を失った深い闇と、それでも消えぬ微かな温もり。アランは震える背中に寄り添いながら、もしも今すぐシリウスの無事を確かめられるなら――そんな想いを胸に秘めて、静かに夜の帳が下りる屋敷の奥へと歩みを進めた。
夕闇がしんと静まり返る屋敷の廊下を抜け、アランはそっと自室の扉を閉じた。揺れる蝋燭の灯り照らされた部屋の片隅で、彼女は深く息を吐き、重い心を抱えたまま書き物机の前に沈むように腰を下ろす。
「今夜、シリウスに──何かあったらどうしよう」
胸の奥で鼓動が早鐘のように鳴り、一歩も動けずにいる自分に苛立ちながらも、どうにもならない不安がじわりと広がっていく。病の予感にも似た冷たい恐怖が、理性を締め付け、呼吸さえも乱していく。
思い切って引き出しを引くと、そこには鍵のかかった小箱と並んで、ひとつの写真立てが隠されていた。そっと手に取り、写真を覗き込む。
そこには、陽光のような笑顔で無邪気に笑うシリウスと、その隣で微笑むかつての自分が映っている。少女の頬にかかる髪は風になびき、その瞳はシリウスへの憧れに満ちていた。
あまりにも輝いていて、痛いほどに鮮やかで。
アランは胸の中からこみ上げるものを抑えきれず、指先で額縁の縁をなぞりながら唇を震わせる。
「どれだけ時が経っても……」
言葉はそこまでしか続かず、瞳に熱いものがにじむ。いくら遠く離れていても、いくら世界が引き裂かれようとも、その愛は一瞬も色あせず胸に焼きついている。
「どうすれば、あなたを守れるの……?」
震える声が、静かな部屋の壁に吸い込まれていく。答えのない問いにアランは涙をこらえ、そっと視線を上げた。写真の中の笑顔が揺れ、まるでこう囁くように見えた——
「お前がいる。それだけで、俺は強くなれる」
その幻の声に、アランはそっと目を閉じ、決意を固める。泣きそうなほど愛おしいその面影を胸に抱きしめ、彼女は立ち上がった。今夜、自分にできることを探して──愛する人を守るために動き出す覚悟を胸に。
闇夜に白銀の光が弧を描いた。
アランの杖先から解き放たれたパトローナスは、まばゆい翼をたえた大きな鷲となり、静寂を切り裂くように宙を舞う。羽ばたくたび、淡い蒼白の粒子が夜気に散り、まるで星屑が逆流するかのようだった。
その鷲の瞳には、シリウスと過ごした無垢な日々の輝きが宿っている。ホグワーツの湖畔で夕陽に染まった笑顔、禁じられた森へ飛び込んで息を潜めた夜、マグルの街で手を取り合って駆け抜けた石畳の温もり――胸奥で重なり、溶け合い、今や彼女を支えるただ一つの光となっていた。
パトローナスが空高く舞い上がると、アランは箒を握りしめる。心臓が痛いほど脈打った。けれど飛び立とうと足を踏み出した瞬間、背後から低い声が鋭く響く。
「アラン、どこに行く気です?」
振り返れば、レギュラスが廊下の薄闇に佇んでいた。漆黒のローブの裾が夜風にわずかに揺れ、彼の灰色の瞳が深い悲しみと焦燥を湛えている。
「お願い、レギュラス。行かせて…」
アランはもう言い訳を捨てた。震える声で続ける。
「シリウスが心配で、どうしようもないの。」
レギュラスは一歩前に進む。その瞳は鋼のように硬く、それでも底に揺らめく愛情を隠しきれない。
「無駄です。ベラトリックスの罠です。あなたが向かえば、その瞬間を“裏切り”とされ、闇の帝王へ報告される。あなたとお腹の子、そしてセシール家すべてが危険に晒される――それが彼女の狙いです。」
言葉は鋭いが、震えを帯びていた。アランは唇を噛む。確かにその可能性は否めない。だが、ベラトリックスが告げた「今夜シリウスは死ぬかもしれない」という冷たい宣告が耳の奥で反響し、胸を焼く。
「分かってる。でも……でも黙ってはいられないの!」
アランの声は細く割れ、涙が光を帯びて頬を滑る。
「私は、あの人を――シリウスを愛している。放っておくなんてできない!」
その言葉に、レギュラスの肩がかすかに揺れた。長い沈黙。やがて彼は目を閉じ、深く息を吸う。
薄闇に包まれた部屋の中で、レギュラスの瞳が悲しげに揺れた。燃えるような決意と、深い困惑が交錯し、その瞳を見つめることが、アランには苦しくてたまらなかった。彼が示してくれた愛情も、誠実な優しさもすべて感じていたからこそ、その胸の痛みはなおさらだった。
「シリウスを想っている」と、言葉を隠さずに告げてしまった今、自分にはもはやレギュラスの心を救うことができないのだという絶望が、胸を締めつける。罪悪感の重さが膨れ上がる中、突如として腹部に例えようのない鋭い痛みが走った。
その痛みは深く刺し込み、今まで感じたことのない激しさで、アランの身体を震わせる。立ち上がろうと力を込めても、足が思うように動かず、まるで大地に吸い込まれるように膝から崩れ落ちそうになる。
「アラン、アラン!どうしたんです!?」
レギュラスの声は慌てて震え出し、必死に彼女の腕を支えようと手を差し伸べる。焦りと困惑が入り混じったその声には、揺るぎない愛情と守りたいという切実な願いが込められていた。
アランはかすかに目を閉じ、わずかに震える呼吸を整えようと努める。胸の奥で絡みつく痛みと苦しさに抗いながらも、彼女の意識は静かに揺れ動いていた。その表情には、悲しみと迷い、そして何より深い愛情が滲み出ている。
重苦しい時間が静かに流れ、二人の間には言葉にならぬ必死の想いだけが繊細に震えていた。
静謐な室内に押し寄せる重苦しい空気が静かに満ちていた。レギュラスは胸の奥に渦巻く複雑な想いを抱えながらも、その目は揺るぎない覚悟と悲しみで満たされていた。
彼の心の中には、いつの間にか芽生えた尊大にも似た思いがあった。アランの想いが確実に自分へ向いているはずだという――だが、今夜、その幻想は真っ向から否定された。アランの瞳が、祈りにも似た切なさと、シリウスへの深い愛を秘めているのを見抜いた瞬間、彼は己の小ささを痛感する。
腹の中に宿る新しい命は、彼にとってもアランとの絆の証であり、揺るぎない愛のしるしだと思っていた。けれど、非力なその胎動の向こう側で、泣きながらシリウスを救おうとするアランの姿があまりにも強く、真実の愛とは何か、彼はもはやわからなくなってしまった。
そして、その夜。アランの身体は突如として激しい痛みに襲われた。呼吸が乱れ、顔に青ざめが広がり、レギュラスはすぐさま彼女を抱き寄せた。医師の言葉は冷静ながらも厳しく告げられる。
「切迫流産の危険があります。しばらくは絶対安静を――ご本人の安全と新しい命のために。」
動けず、ただ静かに横たわるアランの薄く震える手を握りしめ、レギュラスは心の葛藤を押し隠す。これで、アランが自分に内緒でどこかへ行ってしまう心配はもうない。ただそれだけを、彼は小さな安堵として胸にしまった。
窓の外では夜の帳が静かに降り、外灯が淡い光を放つ。二人の間に流れる時は、ただ静かで繊細だ。言葉にならぬ想いを抱えながら、レギュラスはそっと囁く。
「あなたを守るにはどうしたらいいんでしょう…」
切なさと愛惜が混じり合うその声が、薄明かりの部屋に柔らかく溶けていった。
静かな光が窓から柔らかく差し込み、アランはゆっくりとまどろみから目を覚ました。彼女の傍らには、ずっと寄り添い続けるレギュラスの姿があった。疲れを隠せないその瞳が、静かに彼女を見つめている。
起き上がろうとするアランの動きを、レギュラスは優しくしかし断固として制した。
「絶対安静です、アラン。医師から切迫流産との診断が出ています。」
その言葉に、アランはゆっくりと力を抜き、無理に身体を起こすことを諦めた。沈黙の中、彼女の瞳がレギュラスへと向く。言葉にしなくとも、そのまなざしはひとつの問いを訴えていた──シリウスは無事なのかと。
レギュラスはその瞳の奥にある痛みを理解し、静かに息をついた。言葉は慎重に選びながらも、誠実な想いを込めて答える。
「シリウスは……今のところ無事です。もしもなにか起こったのならすぐに知らせがくるはずですから」
柔らかな声は、揺れる心にそっと寄り添いながらも、揺るがぬ決意で満ちあふれていた。アランはそれを受け止め、胸の奥に残る不安を少しだけ押し込めるように静かに頷いた。
