2章
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広大な森に囲まれた異国の地で、レギュラスとバーテミウスは共に歩を進めていた。任務の重みを胸に抱きながらも、彼らの間にはどこかしら微かな緊張と期待が漂っている。
「これを片付けたら、ちょっと出かけよう。」
バーテミウスの声は軽やかで、わずかに含んだ微笑みが彼の表情を和らげていた。
レギュラスはその言葉に小さく頷き、疲労と真剣さが入り混じった瞳で答える。
「そんな体力が残されているかどうか、分かりませんけど」
二人はこの国にしか生息しないという珍しい魔法生物を生きたまま持ち帰るため、慎重に細心の注意を払いながら奮闘していた。動物とは言え意思疎通もままならず、無理に取り押さえることもできない。殺すことが許されていれば楽だが、そうではないゆえに、一層の緊張感と体力が削られていく。
バーテミウスはそんなレギュラスの心身の疲れを見て取ったのだろう。
「せっかく国外まで来たんだから、少しは寄り道しないと。」
その言葉に、レギュラスは問い返すことをあえてやめた。どこに寄るのかという答えが興味を惹かないというわけではなく、むしろどうでもよいとさえ思えたからだった。彼の瞳は遠く、重い任務の疲労以上に何か別のものに捕らわれている様子だった。
空気は静かに、しかし確かな連帯感を伴い、二人を包み込む。生き物の息遣いと未知なる景色の間で、繊細な緊張と淡い期待が交差していた。
その一瞬一瞬が、深く、丁寧に刻まれていくかのように。
深い森のざわめきが遠くから届く中、レギュラスとバーテミウスは歩調を合わせていた。任務の疲れが肩にのしかかるような重さを帯びている。
ふとバーテミウスが軽い口ぶりで呟く。
「たまにはイギリス以外の女も楽しまないと、なあ。」
その言葉の響きから、ふと彼が任務後にどこへ寄り道したいのか、レギュラスは想像せずにはいられなかった。ため息が自然と漏れ落ちる。背筋に冷たいものが走るが、口には出さず、視線を遠くの木々に落とす。
振り返りざまに「君だって、セシール嬢は妊娠中だろう?」と悪戯めいた調子で言葉を続けるバーテミウス。
「ドイツやフランスの女で少しくらいハメを外そうってわけさ。」
その底なしの無神経さに、触れどころのない男の軽薄さに、レギュラスは言葉を失いながらも冷静に答えた。
「遠慮しておきます。」
吐き捨てるような一言。だがその声には、疲労と諦めの色が滲む。男の軽口を真正面から受け流すには、今の彼に余裕はなかった。
静かな森の空気が、二人の重い沈黙を包み込み、澄んだ緊張だけが繊細に揺れていた。
深く沈む夜の森、その静けさの中でレギュラスはひとり歩みを止めた。
遠くバーテミウスの陽気な笑い声がこだましている。
「たまには他の女で息抜きを」――
そんな軽やかな誘いに、レギュラスの胸の奥には重い影が横たわった。
決して欲がないわけではない。
だが、発散のために誰かの腕を借りるほど、自分は器用にできていない。
昔から、求めるものはたった一つ、ただアランだけだった。
それが兄のものであったとしても。
どれほど拒まれ、振り向かれなくても。
彼女だけを渇望する心だけが、冷たい夜のなかでひときわ鮮明に震えていた。
至近距離で交わされなかった視線、その寂しさと未練が幾度となく彼の人生をねじ曲げてきた。
もし、アランに固執することなく生きてこられたのなら。
ここまで兄シリウスを憎むことも、
純潔主義の思想にズブズブと自分を埋めることもなかったのかもしれない――
そんな後悔めいた想いがふわりと胸を満たす。
「今さらですね」
自嘲するように、レギュラスは小さく呟いた。
アランを手に入れたいがため、堂々とその隣に居座る理由をひたすら求めた。
いつの間にか、気付けばもう戻れない地点まで来ていた。
バーテミウスの無邪気な軽口さえ、どこか羨ましい。
心の欲望を軽やかに他人で紛らわせることのできる彼は、
もしかしたら本当は、とても幸福な男なのかもしれない。
自分にとっては到底ありえない方法で安らぎを得られるその在り方が、ひどく遠く、眩しかった。
夜気に揺れる森の奥で、レギュラスは静かに立ちつくし、
虚ろな空を見上げる――
たったひとつの望みに執着し続けてしまった己の弱さと切なさを、
誰にも知られることなく、静かに胸に抱いていた。
夜更けの騎士団の拠点。ランプの火だけが仄かに瞬き、古い屋敷の静寂を揺らしている。
シリウスは背の高い椅子に深く腰掛け、手にはリーマスから届いた短い手紙を握りしめていた。薬屋で偶然アランに会った──その一文を何度も、まるで刻印するように目で辿るたび、胸の内側が温かく、そして痛みを伴って脈打つ。
リーマスによると、アランは自分の無事を案じてくれていたという。
その優しい気遣いが、遠い過去を鮮やかに呼び戻す。ホグワーツの石畳を並んで歩いた日々、マグルの街を興味津々で巡った夕暮れ、天文台の上で交わした小さな約束――胸の奥に仕舞い込んだはずの光景が次々と甦り、シリウスは思わず瞼を閉じて嘆息した。
「会いに行けばよかったのかもな……」
ぽつりと零れた独白は、古い暖炉に吸い込まれて消えてゆく。もしもあの場に自分がいたら、何を話せただろう。
空白の年月が長すぎる。今さら交わせる言葉など、まともに見つけられる気がしない。だが、それでも彼女の翡翠の瞳を近くで確かめられたなら――ふいに胸が熱く、切なさが喉元まで込み上げた。
と、そのとき新聞の見出しが脳裏をよぎる。
〈ブラック家懐妊──名門に新たな後継か〉
読み飛ばしたはずの記事が、刺のように蘇った。アランの腹に宿る新しい命。無垢な未来の象徴が、自分とは無関係の場所で脈動している。
いつか、いつか、と夢想した平凡な幸せ――指を絡め、指輪を交わし、子どもを抱き上げる。そんな在りふれた未来図を、かつて無邪気に思い描いた。叶わなかった光景ほど眩しく胸を焼くものはない。
シリウスは椅子から立ち上がり、静かに窓辺へ歩み寄る。夜のロンドンの空は雲が重く、星ひとつ見えない。それでも遥かな彼方へ視線を向け、心の中でそっと呟く。
――どうか、幸せでいてくれ。
アランが自分の身を案じてくれたように、自分もまた彼女の無事と安寧を祈り続けている。一日たりとも欠かさずに。
冷えた窓ガラスに指先を当てると、微かな曇りが生まれる。その温もりは儚いが、確かにここに残る想いの証だった。
「おまえが笑っていられるなら、それでいい。……それで、いいんだ。」
言い聞かせるように囁きながらも、チリチリと胸を刺す痛みは消えない。
背中越しに暖炉の炎が揺れ、遠い過去と叶わなかった未来が淡い影絵のように壁を踊らせている。
シリウスは深く息を吸い、煙のように溜息を吐き出した。そして、再び手紙を胸元に当てると、炎の前に立ち尽くした。
燃え残る希望の火種だけは、決して手放すまいと誓いながら。
薄暮に染まる街路を、アランは静かに足を運んでいた。サロンでの華やかな純血一族の祝賀会から離れ、やっとのことで人混みの喧騒から逃れた心地がした。迎えられる祝辞はどれも表面的で、笑顔の裏に隠れた言葉の刃は、彼女の胸にじわじわとのしかかっていた。
「男の子か、それとも女の子か。」
繰り返される問いかけや詮索に、アランの心は押し潰されそうになる。純血の家系としての重責と期待が、ふいに暗く冷たい影となって彼女の腹を覆った。誰も彼女の本当の想いには届かない。皆が望むのはただの「跡継ぎ」であり、彼女自身の感情は脇へと追いやられていた。
歩くたびに感じる体の重みと、遠のく気配をいつまでも隠せない妊娠の事実。姿くらましが使えない今、唯一できるのは、静かに歩き続けること。冷たい夜風が頬を撫で、吐く息が白く揺れた。
それでも、かすかに耳を澄ませば、夜の静寂に混じって自分だけの鼓動が響いている。生きる証が腹の中で確かに脈打つのを感じながら、アランはひとり、折れそうな心を必死に繋ぎとめていた。
灯りが途切れた街角で、彼女はしばし立ち止まり、深く息を吸い込む。やわらかな闇がそっと包み込むように、疲れた身体と心を優しく撫でてくれた。星のきらめきを遠く見つめながら、誰にも見せぬ静かな涙が頬を伝った。夜の闇は、そのすべてをそっと包み込み、また歩みを促した。
薄暮の街角、アランはふと足を止めた。暗がりの片隅に、一人の少女がうずくまっているのが目に入った。揺らぐ街灯の光が、彼女の肩に流れる血を淡く照らし出していた。
「どうしたの、こんなところで……?」
アランの声は震えることなく、やわらかく少女へと向けられた。けれど、その問いかけに返ってきたのは、冷たく背を押しのけるような言葉だった。
「穢れた血だから……。近寄らないで。」
その一言で、アランの胸に重く、しかし鮮烈な衝撃が走った。少女の言葉に込められた拒絶と孤独が、静かに彼女の心を揺らす。マグルの子――この世界に根差す違いと、その深い溝をひしひしと感じ取ったのだ。
アランはゆっくりと膝をつき、視線を同じ高さに合わせる。血に濡れた少女の瞳には、恐れと傷が織り交ざり、けれどどこか純粋な美しさがあった。
言葉はなくとも伝わる痛みと哀しみ。相手を思う慈しみが、静かにアランの胸に満ちていく。冷えた空気のなかで、二人の間に繊細な時の糸がそっと紡がれ、やわらかく、そして切なく交錯した。
薄暗い街角、アランはそっと息を呑んだ。傷ついた少女の傍らで、控えめに震えるクリーチャーが彼女に言葉をかける。
「奥様、こやつめは汚いマグルの子でございます。高貴な血を持つ奥様が、どうかそのお身に触れてはなりません…」
しかし、アランの瞳は揺るがなかった。静かに押し返すようにその言葉を受け止め、やわらかな魔法の手をゆっくりと少女の傷へ差し伸べる。
ふわりと羽ばたくような光の粒が指先から溢れ、傷口を包み込む。少女の目が大きく見開かれ、その表情は驚きと疑念が入り混じる。まるで信じられないことが起きているかのように、アランをじっと見つめる。
刻々と変わる肌の色合い、深くえぐれた傷がみるみるうちに柔らかな薄皮で覆われていく。痛みも滲出も次第に消え、静かな癒しの光景がそこにあった。
クリーチャーはなおも制止せんとするが、アランはまるで揺るがぬ決意のように静かに首を振る。アランにとっては高貴な血の違いなど関係なく、ただ「人」の痛みであった。
やがて、少女の瞳に安堵の光が宿り、小さく震えながらもその傷が消え失せる奇跡の瞬間を受け入れていく。ふたりの間に、一言も交わされぬまま深い信頼と慈しみがそっと育まれてゆく。
夜の冷たい闇をも温めるかのような、静かで繊細な魔法の癒しが、そこに静かに息づいていた。
静かな街角の薄明かりのなか、少女はゆっくりと目を閉じ、不意に小さな声がこぼれた。
「痛くない…」
傷口が塞がり、痛みが和らいだことを知らせる言葉だった。アランはほっと胸を撫でおろし、優しく微笑みかけた。
「そう、よかった。」
少女の瞳はまだ戸惑いに満ちている。どうしてこの魔法使いが自分を助けてくれたのか、その理由が分からず、言葉にならない好奇心がじっとアランを見つめていた。
しばしの静寂のあと、アランはそっと問いかける。
「どこに帰るの?」
少女の返事は切なく紡がれた。
「孤児院…」
その声には、自分の居場所の少なさと、儚い希望が交じっているように感じられた。夜の静けさに染まる街の片隅で、二人の間に静かで繊細な時間が流れた。アランはそっと少女の肩に触れ、その小さな背中に優しい存在を伝えようと願った。
夜の冷たい空気が静かに街角を包み込む中、アランは躊躇いながらも少女に優しく声をかけた。
「では、そこまで一緒に行きましょう。」
その言葉に、控えめに「奥様」と呼ぶクリーチャーが慌てて止めに入る。
「小さな少女を、こんな暗い時間に一人で歩かせるのは如何なものでしょう。」
だが、アランの決意は揺るがなかった。彼女は少女の小さな手をそっと包み込み、寄り添いながら歩き始める。
歩みを進めるうち、少女はぽつりぽつりと自らの過去を語り始めた。
「私の母は魔法使いで、父はマグルでした……でも、昔、魔法使いによって二人は殺されてしまったの。」
言葉の端々に凍てつく痛みがにじみ、その重みがアランの胸を締めつけた。
「それから、私は孤児院に預けられました。」
静かな夜の街に、少女の傷跡が見え隠れする。その背景には、過酷で歪んだ純血主義の影が潜み、もしもその思想が存在しなければ、彼女の両親はあの悲劇から守られていたかもしれないという思いが、アランの心に深く刺さった。
アランは言葉なく、ただ少女を見つめながら歩みをゆっくりと刻む。
胸の奥で痛む感覚は、純血主義の闇の冷たさと、彼女が守りたいと願う命への切なる想いの重なりであった。
二人の足音だけが静かな夜に溶け込み、繊細で沈黙の時間が優しく流れていた。
薄明かりの孤児院の門前で、アランは小さな少女の肩越しに静かに見守っていた。その細い背中に、これから幾多の過酷な運命が刻まれていくのだと思うと、胸の奥に押しつぶされそうな苦しさが広がる。
少女がふと振り返り、不安げな瞳で問いかける。
「また、会えますか?」
アランは優しく微笑み、柔らかな声で応えた。
「ええ、もちろんよ。」
けれど、ブラック家の運命を背負う身となった今、表立って彼女に手を差し伸べることは叶わない。身を引き裂かれる思いと共に、それでも少しでも気にかけることはできるのかもしれないと、かすかな希望を胸に抱いた。
少女の小さな背中が暗がりの中へ溶けていくのを見届けながら、アランの瞳は静かに潤む。繊細な祈りが、そっと少女を包み込むように、夜風に舞い散っていった。
奥深い夜の闇をまとった回廊を、アランとクリーチャーは並んで歩いていた。足音は絨毯に吸い込まれ、敷は静かに息を潜めている。立ち昇る月光が窓からこぼれ、壁の古い紋章を淡く照らし出す。その下で、クリーチャーは不安げに顔を上げた。
「奥様……このたびの出来事を、レギュラス様にはいかがお伝えすればよろしいのでしょうか?」
皺ばむ声には忠義と戸惑いが滲んでいる。アランは歩みを止め、そっと振り返った。白磁のような横顔にランタンの灯りがやわらかく射し、長い睫毛の影が頬に揺れる。
「報告するのか、しないのか――あなたに任せるわ。」
淡い囁きは夜気に溶け、クリーチャーの尖った耳を撫でた。アランの瞳には曇りのない静かな光が宿っている。逃げも誤魔化しもしない覚悟がそこにあった。
「もしあなたが話すのなら、それで構わないわ。あなたはあなたの務めを果たしただけ。私も……私のしたいことをしただけだから。」
少女の血をぬぐった手先の記憶がまだ温かく残る。小さな命が初めて味わった慈愛の震え。その行為はきっと、ブラック家の秩序の外側にある――しかしアランにとっては否応なくまっすぐな、人としての衝動だった。
クリーチャーは皺深い額をさらに寄せ、細い肩を小さく揺らす。忠義と良心のはざまで揺れる古きしもべは、小さなため息をもらすしかない。
「……奥様のご意志、確かに頂戴いたしました。」
月光が二人を包み、しばしの沈黙が流れる。アランはそっと視線を落とし、心の奥底に柔らかな祈りを灯す。もしクリーチャーが今日のことを胸に留め、口を閉ざしてくれるなら――遠い街角の孤児院にいるあの少女を、離れた場所からでも見守っていきたい。静かでも途切れぬ気遣いは、ひと雫の水が乾いた大地に染み渡るように、いつか彼女の運命を潤すかもしれない。
そして何より、その行為の向こうに見えるのは、シリウスが夢見ていた寛容な世界の微かな輪郭だった。血の純潔よりも心の清らかさを尊ぶ未来。その希望に触れられる気がしたからこそ、アランは短い祈りを唇に乗せる。
「どうか……あの子が無事でありますように。」
ランタンの炎が小さく揺れ、暗い廊下に優しい影を残す。扉の向こうで夜の静寂が深まり、アランはそっと歩みを再開した。クリーチャーは従うように一歩遅れて続く。屋敷の長い闇はなお続くが、二人の足裏には確かな決意の音が、新たに刻まれていた。
翌朝の光が、まだ静かな屋敷の回廊を淡く照らしていた。アランは重ね着のローブの下に小さな包みをばせ、使用人の目を避けるように書斎を抜け出す。誰にも気づかれぬよう足音を消しながら、そっと回廊の陰に身を潜める。
隠し扉のように開いた小窓から、アランは一息に包みを取り出した。そこには、簡易に紐で結んだ古びた魔法書物が数冊――基礎魔法の写本に、応急手当の呪文集、そして護身用の符咒の草稿。すべては、あの少女がいつか自らを守る力を手にできるようにという、切なる願いの結晶だった。
「知識は、きっと君を支えてくれるはず…」
低く囁きながら、アランは包みをそっと解き、中から巻物を取り出す。慎重に折りたたんで、小さな防湿袋に収めると、内側の手紙に小さく文字をしたためた。
『闇夜に怯えぬよう、必要な知恵を贈ります。いつか役立ててください。あなたの未来を、心から願って。』
封を結んだ小袋を、アランは手のひらにそっと乗せる。次に呼び出したのは、フクロウではなく、小型の風を操る幻影獣を模した魔法の使い。指先で軽く触れると、白銀の影がふわりと浮かび上がり、小袋を抱え込む。
「お願い…誰にも見られず、あの子に届けて。」
幻影獣は柔らかな羽音のようなささやきとともに廊下を滑り、闇と光の境目へと消えていった。アランはその後ろ姿を見つめ、深く息を吐く。レギュラスがフクロウの履歴を追うように、この影の足跡もまた追えないはず。念には念を重ねた慎重さを胸に、彼女は再び屋敷の奥へと静かに歩みを戻した。
朝靄に包まれた古びた屋敷には、誰の気配も残らず、ただ淡い希望を込めた魔法書物を託した小さな奇跡だけが、そっと息づいていた。
夕暮れの柔らかな光が屋敷の窓から忍び込み、長い時間の旅路を終えたレギュラスの姿を優しく照らし出していた。数日ぶりに帰還した彼の背中はわずかに丸まり、瞳には疲労の色が滲んでいる。
「アラン、変わりはありませんか?」
その声は穏やかでありながらも、どこか心配げに響いた。
アランは静かに振り返り、柔らかな微笑みと共に答える。
「あなたこそ、疲れてるみたいだわ」
言葉を交わす間に、自然と紡がれる空気は暖かさに満ちていた。そのままレギュラスはほんの少しのためらいも見せずに、アランをそっと抱きしめる。肩を包み込む彼の強い腕の感触の中に、重く溜まった疲労と安堵が混ざり合い、深いため息が静かに漏れた。
忙しなく動き回っていた使用人たちも、一瞬その二人の姿に気づき、静かに距離を取る。屋敷のざわめきが遠のき、まるで世界が二人のために息をひそめたような瞬間がそこに流れた。
重なり合う鼓動と温もりのなか、言葉はなくとも伝わる互いの想いが繊細に静かに響く。疲れた体を許し、ただそばにいることの意味が、薄明かりの中でやさしく深まっていった。
レギュラスは静かにローブを脱いだ。淡い夕陽が彼の腕や首筋に差し込み、そこには細かな傷が散りばめられていた。魔法の腕に秀でた彼がこれほど傷を負うとは──それだけ幾多の緊迫した戦いの痕跡が刻まれているのだと、アランは胸の奥でそっと思った。
その視線に気づいたレギュラスは、苦笑混じりに言葉を紡いだ。
「魔法生物とやり合いました。生け捕りの命令でしたので、なかなか手こずりましたよ。」
その言葉にアランの心は少しだけ緩み、安心感が広がった。
なるほど、敵は人間ではなく動物相手ならば、優れた魔法使いであっても容易く歯が立たないのだ。未知なる生き物の扱いは、想像以上の困難を伴うのだと理解し、彼の苦労を思いやった。
目の前の人は確かに戦いの痕を負いながらも、穏やかな声で事実を語る。アランはそれを胸に刻み、彼の無事にほんの少しだけ心から安堵した。静かな部屋のなか、ふたりの間に繊細で温かな時間がゆっくりと流れていった。
湯気の立ち込める浴室で、アランは静かにレギュラスの腕や背中にできた複数の傷へと魔法薬を丁寧に塗り広げていた。手際は熟練そのものであり、その一挙手一投足には穏やかな慈しみが滲んでいる。
「あなたが魔法薬の天才で、本当に助かりました」
レギュラスの声は疲れ混じりだが優しく、彼女に寄せる信頼と感謝が溢れていた。アランはその言葉に小さく微笑み返し、傷に塗る手をゆるやかに止めて彼の顔を見つめる。
ふっと胸の奥で安堵の波が広がった。クリーチャーとはきっと既に話をしているはずなのに、あのマグルの少女のことには一切触れてこない――つまり、あの出来事はまだレギュラスの知るところではないのだろう。もし知っていたならば、今このような穏やかな時間は到底訪れなかったに違いない。
その思いに、アランは静かに胸を撫で下ろす。重く暗い秘密を抱えながらも、今だけは二人の間に柔らかな温もりが満ちているのだと。互いの存在が、言葉を超えた安心となって、静かな夜の湯気に溶けていった。
柔らかな湯気が静かに揺れる薄明かりの浴室で、アランはそっとレギュラスの腕の傷に魔法薬を塗り広げていた。指先がゆっくりと滑り、温かなぬくもりがそのまま伝わる。これ以上の深い行為に及ぶことなど、今は到底考えられない。アランが妊娠していることで、二人の距離には自然と限界が生まれていたからだ。
それでも、レギュラスの中にはほんの少しの迷いがあった。バーテミウスに誘われたあの時、素直に彼に従い、気軽に寄り道してみればよかったのかもしれないという。日常から離れ、違う空気に身を任せることで、何かが解放されたのではないかと、心の片隅で思ってしまう自分に気づいてしまう。
けれど今、こうして薬を塗ってもらいながら触れ合うその瞬間だけで、胸いっぱいに満たされる幸福がある。わずかな触れ合いが、深く沁み渡る。言葉にせずとも伝わる愛情の温度が、レギュラスの心をそっと包み込み、焦がれ続けた安らぎを与えてくれた。
肩越しに感じる彼女の息遣いと、指先の柔らかさ。その小さなひとときのぬくもりが、これ以上ない宝物に思えた。過ぎ去った日々も、届かなかった欲望も、今はただ静かに遠ざかり、二人の微かな呼吸だけが繊細に響きわたっていく。
すべてを許し、抱きしめる愛の形。それが今、ゆっくりと心の奥深くで確かに息づいていた。
柔らかな蒸気に包まれた浴室の薄明かりが、ゆらりと揺れる。アランの繊細な指先が最後の一滴の薬を丁寧に伸ばし終えたその瞬間、レギュラスの胸中にふとした熱が静かに波紋のように広がった。自分でも予期しなかったその感覚に、彼の視線はほんの一瞬だけ下腹部へと流れる。
気まずさが胸の奥でざわめき、すぐに悟られてはならぬと、レギュラスは無意識に視線を逸らし、浴室の床を見つめた。手元にあったタオルにさっと手を伸ばし、もう一枚を重ねてその部分を優しく隠す。織り込まれた布の柔らかさが、そして重なった層が、彼の内にくすぶる熱を少しだけ抑えてくれるかのようだった。
アランは背を向けたまま微かに肩をすくめ、唇の端に淡い紅が差す。言葉にはしないが、そのひそやかな呼吸の変化が、互いの気持ちの揺れを静かに告げていた。レギュラスはタオルに寄せた手をそっと握りしめて、自分の昂りを必死に鎮めながら、深く息を吸い込む。
二人の間に流れる時間は、言葉なきままに繊細で、ひそやかな切なさを孕んでいた。淡い蒸気の向こうで、そっと重ねられたタオルがその場の気まずさを染み込ませるように、柔らかな影となって静かに溶けていく。
「これを片付けたら、ちょっと出かけよう。」
バーテミウスの声は軽やかで、わずかに含んだ微笑みが彼の表情を和らげていた。
レギュラスはその言葉に小さく頷き、疲労と真剣さが入り混じった瞳で答える。
「そんな体力が残されているかどうか、分かりませんけど」
二人はこの国にしか生息しないという珍しい魔法生物を生きたまま持ち帰るため、慎重に細心の注意を払いながら奮闘していた。動物とは言え意思疎通もままならず、無理に取り押さえることもできない。殺すことが許されていれば楽だが、そうではないゆえに、一層の緊張感と体力が削られていく。
バーテミウスはそんなレギュラスの心身の疲れを見て取ったのだろう。
「せっかく国外まで来たんだから、少しは寄り道しないと。」
その言葉に、レギュラスは問い返すことをあえてやめた。どこに寄るのかという答えが興味を惹かないというわけではなく、むしろどうでもよいとさえ思えたからだった。彼の瞳は遠く、重い任務の疲労以上に何か別のものに捕らわれている様子だった。
空気は静かに、しかし確かな連帯感を伴い、二人を包み込む。生き物の息遣いと未知なる景色の間で、繊細な緊張と淡い期待が交差していた。
その一瞬一瞬が、深く、丁寧に刻まれていくかのように。
深い森のざわめきが遠くから届く中、レギュラスとバーテミウスは歩調を合わせていた。任務の疲れが肩にのしかかるような重さを帯びている。
ふとバーテミウスが軽い口ぶりで呟く。
「たまにはイギリス以外の女も楽しまないと、なあ。」
その言葉の響きから、ふと彼が任務後にどこへ寄り道したいのか、レギュラスは想像せずにはいられなかった。ため息が自然と漏れ落ちる。背筋に冷たいものが走るが、口には出さず、視線を遠くの木々に落とす。
振り返りざまに「君だって、セシール嬢は妊娠中だろう?」と悪戯めいた調子で言葉を続けるバーテミウス。
「ドイツやフランスの女で少しくらいハメを外そうってわけさ。」
その底なしの無神経さに、触れどころのない男の軽薄さに、レギュラスは言葉を失いながらも冷静に答えた。
「遠慮しておきます。」
吐き捨てるような一言。だがその声には、疲労と諦めの色が滲む。男の軽口を真正面から受け流すには、今の彼に余裕はなかった。
静かな森の空気が、二人の重い沈黙を包み込み、澄んだ緊張だけが繊細に揺れていた。
深く沈む夜の森、その静けさの中でレギュラスはひとり歩みを止めた。
遠くバーテミウスの陽気な笑い声がこだましている。
「たまには他の女で息抜きを」――
そんな軽やかな誘いに、レギュラスの胸の奥には重い影が横たわった。
決して欲がないわけではない。
だが、発散のために誰かの腕を借りるほど、自分は器用にできていない。
昔から、求めるものはたった一つ、ただアランだけだった。
それが兄のものであったとしても。
どれほど拒まれ、振り向かれなくても。
彼女だけを渇望する心だけが、冷たい夜のなかでひときわ鮮明に震えていた。
至近距離で交わされなかった視線、その寂しさと未練が幾度となく彼の人生をねじ曲げてきた。
もし、アランに固執することなく生きてこられたのなら。
ここまで兄シリウスを憎むことも、
純潔主義の思想にズブズブと自分を埋めることもなかったのかもしれない――
そんな後悔めいた想いがふわりと胸を満たす。
「今さらですね」
自嘲するように、レギュラスは小さく呟いた。
アランを手に入れたいがため、堂々とその隣に居座る理由をひたすら求めた。
いつの間にか、気付けばもう戻れない地点まで来ていた。
バーテミウスの無邪気な軽口さえ、どこか羨ましい。
心の欲望を軽やかに他人で紛らわせることのできる彼は、
もしかしたら本当は、とても幸福な男なのかもしれない。
自分にとっては到底ありえない方法で安らぎを得られるその在り方が、ひどく遠く、眩しかった。
夜気に揺れる森の奥で、レギュラスは静かに立ちつくし、
虚ろな空を見上げる――
たったひとつの望みに執着し続けてしまった己の弱さと切なさを、
誰にも知られることなく、静かに胸に抱いていた。
夜更けの騎士団の拠点。ランプの火だけが仄かに瞬き、古い屋敷の静寂を揺らしている。
シリウスは背の高い椅子に深く腰掛け、手にはリーマスから届いた短い手紙を握りしめていた。薬屋で偶然アランに会った──その一文を何度も、まるで刻印するように目で辿るたび、胸の内側が温かく、そして痛みを伴って脈打つ。
リーマスによると、アランは自分の無事を案じてくれていたという。
その優しい気遣いが、遠い過去を鮮やかに呼び戻す。ホグワーツの石畳を並んで歩いた日々、マグルの街を興味津々で巡った夕暮れ、天文台の上で交わした小さな約束――胸の奥に仕舞い込んだはずの光景が次々と甦り、シリウスは思わず瞼を閉じて嘆息した。
「会いに行けばよかったのかもな……」
ぽつりと零れた独白は、古い暖炉に吸い込まれて消えてゆく。もしもあの場に自分がいたら、何を話せただろう。
空白の年月が長すぎる。今さら交わせる言葉など、まともに見つけられる気がしない。だが、それでも彼女の翡翠の瞳を近くで確かめられたなら――ふいに胸が熱く、切なさが喉元まで込み上げた。
と、そのとき新聞の見出しが脳裏をよぎる。
〈ブラック家懐妊──名門に新たな後継か〉
読み飛ばしたはずの記事が、刺のように蘇った。アランの腹に宿る新しい命。無垢な未来の象徴が、自分とは無関係の場所で脈動している。
いつか、いつか、と夢想した平凡な幸せ――指を絡め、指輪を交わし、子どもを抱き上げる。そんな在りふれた未来図を、かつて無邪気に思い描いた。叶わなかった光景ほど眩しく胸を焼くものはない。
シリウスは椅子から立ち上がり、静かに窓辺へ歩み寄る。夜のロンドンの空は雲が重く、星ひとつ見えない。それでも遥かな彼方へ視線を向け、心の中でそっと呟く。
――どうか、幸せでいてくれ。
アランが自分の身を案じてくれたように、自分もまた彼女の無事と安寧を祈り続けている。一日たりとも欠かさずに。
冷えた窓ガラスに指先を当てると、微かな曇りが生まれる。その温もりは儚いが、確かにここに残る想いの証だった。
「おまえが笑っていられるなら、それでいい。……それで、いいんだ。」
言い聞かせるように囁きながらも、チリチリと胸を刺す痛みは消えない。
背中越しに暖炉の炎が揺れ、遠い過去と叶わなかった未来が淡い影絵のように壁を踊らせている。
シリウスは深く息を吸い、煙のように溜息を吐き出した。そして、再び手紙を胸元に当てると、炎の前に立ち尽くした。
燃え残る希望の火種だけは、決して手放すまいと誓いながら。
薄暮に染まる街路を、アランは静かに足を運んでいた。サロンでの華やかな純血一族の祝賀会から離れ、やっとのことで人混みの喧騒から逃れた心地がした。迎えられる祝辞はどれも表面的で、笑顔の裏に隠れた言葉の刃は、彼女の胸にじわじわとのしかかっていた。
「男の子か、それとも女の子か。」
繰り返される問いかけや詮索に、アランの心は押し潰されそうになる。純血の家系としての重責と期待が、ふいに暗く冷たい影となって彼女の腹を覆った。誰も彼女の本当の想いには届かない。皆が望むのはただの「跡継ぎ」であり、彼女自身の感情は脇へと追いやられていた。
歩くたびに感じる体の重みと、遠のく気配をいつまでも隠せない妊娠の事実。姿くらましが使えない今、唯一できるのは、静かに歩き続けること。冷たい夜風が頬を撫で、吐く息が白く揺れた。
それでも、かすかに耳を澄ませば、夜の静寂に混じって自分だけの鼓動が響いている。生きる証が腹の中で確かに脈打つのを感じながら、アランはひとり、折れそうな心を必死に繋ぎとめていた。
灯りが途切れた街角で、彼女はしばし立ち止まり、深く息を吸い込む。やわらかな闇がそっと包み込むように、疲れた身体と心を優しく撫でてくれた。星のきらめきを遠く見つめながら、誰にも見せぬ静かな涙が頬を伝った。夜の闇は、そのすべてをそっと包み込み、また歩みを促した。
薄暮の街角、アランはふと足を止めた。暗がりの片隅に、一人の少女がうずくまっているのが目に入った。揺らぐ街灯の光が、彼女の肩に流れる血を淡く照らし出していた。
「どうしたの、こんなところで……?」
アランの声は震えることなく、やわらかく少女へと向けられた。けれど、その問いかけに返ってきたのは、冷たく背を押しのけるような言葉だった。
「穢れた血だから……。近寄らないで。」
その一言で、アランの胸に重く、しかし鮮烈な衝撃が走った。少女の言葉に込められた拒絶と孤独が、静かに彼女の心を揺らす。マグルの子――この世界に根差す違いと、その深い溝をひしひしと感じ取ったのだ。
アランはゆっくりと膝をつき、視線を同じ高さに合わせる。血に濡れた少女の瞳には、恐れと傷が織り交ざり、けれどどこか純粋な美しさがあった。
言葉はなくとも伝わる痛みと哀しみ。相手を思う慈しみが、静かにアランの胸に満ちていく。冷えた空気のなかで、二人の間に繊細な時の糸がそっと紡がれ、やわらかく、そして切なく交錯した。
薄暗い街角、アランはそっと息を呑んだ。傷ついた少女の傍らで、控えめに震えるクリーチャーが彼女に言葉をかける。
「奥様、こやつめは汚いマグルの子でございます。高貴な血を持つ奥様が、どうかそのお身に触れてはなりません…」
しかし、アランの瞳は揺るがなかった。静かに押し返すようにその言葉を受け止め、やわらかな魔法の手をゆっくりと少女の傷へ差し伸べる。
ふわりと羽ばたくような光の粒が指先から溢れ、傷口を包み込む。少女の目が大きく見開かれ、その表情は驚きと疑念が入り混じる。まるで信じられないことが起きているかのように、アランをじっと見つめる。
刻々と変わる肌の色合い、深くえぐれた傷がみるみるうちに柔らかな薄皮で覆われていく。痛みも滲出も次第に消え、静かな癒しの光景がそこにあった。
クリーチャーはなおも制止せんとするが、アランはまるで揺るがぬ決意のように静かに首を振る。アランにとっては高貴な血の違いなど関係なく、ただ「人」の痛みであった。
やがて、少女の瞳に安堵の光が宿り、小さく震えながらもその傷が消え失せる奇跡の瞬間を受け入れていく。ふたりの間に、一言も交わされぬまま深い信頼と慈しみがそっと育まれてゆく。
夜の冷たい闇をも温めるかのような、静かで繊細な魔法の癒しが、そこに静かに息づいていた。
静かな街角の薄明かりのなか、少女はゆっくりと目を閉じ、不意に小さな声がこぼれた。
「痛くない…」
傷口が塞がり、痛みが和らいだことを知らせる言葉だった。アランはほっと胸を撫でおろし、優しく微笑みかけた。
「そう、よかった。」
少女の瞳はまだ戸惑いに満ちている。どうしてこの魔法使いが自分を助けてくれたのか、その理由が分からず、言葉にならない好奇心がじっとアランを見つめていた。
しばしの静寂のあと、アランはそっと問いかける。
「どこに帰るの?」
少女の返事は切なく紡がれた。
「孤児院…」
その声には、自分の居場所の少なさと、儚い希望が交じっているように感じられた。夜の静けさに染まる街の片隅で、二人の間に静かで繊細な時間が流れた。アランはそっと少女の肩に触れ、その小さな背中に優しい存在を伝えようと願った。
夜の冷たい空気が静かに街角を包み込む中、アランは躊躇いながらも少女に優しく声をかけた。
「では、そこまで一緒に行きましょう。」
その言葉に、控えめに「奥様」と呼ぶクリーチャーが慌てて止めに入る。
「小さな少女を、こんな暗い時間に一人で歩かせるのは如何なものでしょう。」
だが、アランの決意は揺るがなかった。彼女は少女の小さな手をそっと包み込み、寄り添いながら歩き始める。
歩みを進めるうち、少女はぽつりぽつりと自らの過去を語り始めた。
「私の母は魔法使いで、父はマグルでした……でも、昔、魔法使いによって二人は殺されてしまったの。」
言葉の端々に凍てつく痛みがにじみ、その重みがアランの胸を締めつけた。
「それから、私は孤児院に預けられました。」
静かな夜の街に、少女の傷跡が見え隠れする。その背景には、過酷で歪んだ純血主義の影が潜み、もしもその思想が存在しなければ、彼女の両親はあの悲劇から守られていたかもしれないという思いが、アランの心に深く刺さった。
アランは言葉なく、ただ少女を見つめながら歩みをゆっくりと刻む。
胸の奥で痛む感覚は、純血主義の闇の冷たさと、彼女が守りたいと願う命への切なる想いの重なりであった。
二人の足音だけが静かな夜に溶け込み、繊細で沈黙の時間が優しく流れていた。
薄明かりの孤児院の門前で、アランは小さな少女の肩越しに静かに見守っていた。その細い背中に、これから幾多の過酷な運命が刻まれていくのだと思うと、胸の奥に押しつぶされそうな苦しさが広がる。
少女がふと振り返り、不安げな瞳で問いかける。
「また、会えますか?」
アランは優しく微笑み、柔らかな声で応えた。
「ええ、もちろんよ。」
けれど、ブラック家の運命を背負う身となった今、表立って彼女に手を差し伸べることは叶わない。身を引き裂かれる思いと共に、それでも少しでも気にかけることはできるのかもしれないと、かすかな希望を胸に抱いた。
少女の小さな背中が暗がりの中へ溶けていくのを見届けながら、アランの瞳は静かに潤む。繊細な祈りが、そっと少女を包み込むように、夜風に舞い散っていった。
奥深い夜の闇をまとった回廊を、アランとクリーチャーは並んで歩いていた。足音は絨毯に吸い込まれ、敷は静かに息を潜めている。立ち昇る月光が窓からこぼれ、壁の古い紋章を淡く照らし出す。その下で、クリーチャーは不安げに顔を上げた。
「奥様……このたびの出来事を、レギュラス様にはいかがお伝えすればよろしいのでしょうか?」
皺ばむ声には忠義と戸惑いが滲んでいる。アランは歩みを止め、そっと振り返った。白磁のような横顔にランタンの灯りがやわらかく射し、長い睫毛の影が頬に揺れる。
「報告するのか、しないのか――あなたに任せるわ。」
淡い囁きは夜気に溶け、クリーチャーの尖った耳を撫でた。アランの瞳には曇りのない静かな光が宿っている。逃げも誤魔化しもしない覚悟がそこにあった。
「もしあなたが話すのなら、それで構わないわ。あなたはあなたの務めを果たしただけ。私も……私のしたいことをしただけだから。」
少女の血をぬぐった手先の記憶がまだ温かく残る。小さな命が初めて味わった慈愛の震え。その行為はきっと、ブラック家の秩序の外側にある――しかしアランにとっては否応なくまっすぐな、人としての衝動だった。
クリーチャーは皺深い額をさらに寄せ、細い肩を小さく揺らす。忠義と良心のはざまで揺れる古きしもべは、小さなため息をもらすしかない。
「……奥様のご意志、確かに頂戴いたしました。」
月光が二人を包み、しばしの沈黙が流れる。アランはそっと視線を落とし、心の奥底に柔らかな祈りを灯す。もしクリーチャーが今日のことを胸に留め、口を閉ざしてくれるなら――遠い街角の孤児院にいるあの少女を、離れた場所からでも見守っていきたい。静かでも途切れぬ気遣いは、ひと雫の水が乾いた大地に染み渡るように、いつか彼女の運命を潤すかもしれない。
そして何より、その行為の向こうに見えるのは、シリウスが夢見ていた寛容な世界の微かな輪郭だった。血の純潔よりも心の清らかさを尊ぶ未来。その希望に触れられる気がしたからこそ、アランは短い祈りを唇に乗せる。
「どうか……あの子が無事でありますように。」
ランタンの炎が小さく揺れ、暗い廊下に優しい影を残す。扉の向こうで夜の静寂が深まり、アランはそっと歩みを再開した。クリーチャーは従うように一歩遅れて続く。屋敷の長い闇はなお続くが、二人の足裏には確かな決意の音が、新たに刻まれていた。
翌朝の光が、まだ静かな屋敷の回廊を淡く照らしていた。アランは重ね着のローブの下に小さな包みをばせ、使用人の目を避けるように書斎を抜け出す。誰にも気づかれぬよう足音を消しながら、そっと回廊の陰に身を潜める。
隠し扉のように開いた小窓から、アランは一息に包みを取り出した。そこには、簡易に紐で結んだ古びた魔法書物が数冊――基礎魔法の写本に、応急手当の呪文集、そして護身用の符咒の草稿。すべては、あの少女がいつか自らを守る力を手にできるようにという、切なる願いの結晶だった。
「知識は、きっと君を支えてくれるはず…」
低く囁きながら、アランは包みをそっと解き、中から巻物を取り出す。慎重に折りたたんで、小さな防湿袋に収めると、内側の手紙に小さく文字をしたためた。
『闇夜に怯えぬよう、必要な知恵を贈ります。いつか役立ててください。あなたの未来を、心から願って。』
封を結んだ小袋を、アランは手のひらにそっと乗せる。次に呼び出したのは、フクロウではなく、小型の風を操る幻影獣を模した魔法の使い。指先で軽く触れると、白銀の影がふわりと浮かび上がり、小袋を抱え込む。
「お願い…誰にも見られず、あの子に届けて。」
幻影獣は柔らかな羽音のようなささやきとともに廊下を滑り、闇と光の境目へと消えていった。アランはその後ろ姿を見つめ、深く息を吐く。レギュラスがフクロウの履歴を追うように、この影の足跡もまた追えないはず。念には念を重ねた慎重さを胸に、彼女は再び屋敷の奥へと静かに歩みを戻した。
朝靄に包まれた古びた屋敷には、誰の気配も残らず、ただ淡い希望を込めた魔法書物を託した小さな奇跡だけが、そっと息づいていた。
夕暮れの柔らかな光が屋敷の窓から忍び込み、長い時間の旅路を終えたレギュラスの姿を優しく照らし出していた。数日ぶりに帰還した彼の背中はわずかに丸まり、瞳には疲労の色が滲んでいる。
「アラン、変わりはありませんか?」
その声は穏やかでありながらも、どこか心配げに響いた。
アランは静かに振り返り、柔らかな微笑みと共に答える。
「あなたこそ、疲れてるみたいだわ」
言葉を交わす間に、自然と紡がれる空気は暖かさに満ちていた。そのままレギュラスはほんの少しのためらいも見せずに、アランをそっと抱きしめる。肩を包み込む彼の強い腕の感触の中に、重く溜まった疲労と安堵が混ざり合い、深いため息が静かに漏れた。
忙しなく動き回っていた使用人たちも、一瞬その二人の姿に気づき、静かに距離を取る。屋敷のざわめきが遠のき、まるで世界が二人のために息をひそめたような瞬間がそこに流れた。
重なり合う鼓動と温もりのなか、言葉はなくとも伝わる互いの想いが繊細に静かに響く。疲れた体を許し、ただそばにいることの意味が、薄明かりの中でやさしく深まっていった。
レギュラスは静かにローブを脱いだ。淡い夕陽が彼の腕や首筋に差し込み、そこには細かな傷が散りばめられていた。魔法の腕に秀でた彼がこれほど傷を負うとは──それだけ幾多の緊迫した戦いの痕跡が刻まれているのだと、アランは胸の奥でそっと思った。
その視線に気づいたレギュラスは、苦笑混じりに言葉を紡いだ。
「魔法生物とやり合いました。生け捕りの命令でしたので、なかなか手こずりましたよ。」
その言葉にアランの心は少しだけ緩み、安心感が広がった。
なるほど、敵は人間ではなく動物相手ならば、優れた魔法使いであっても容易く歯が立たないのだ。未知なる生き物の扱いは、想像以上の困難を伴うのだと理解し、彼の苦労を思いやった。
目の前の人は確かに戦いの痕を負いながらも、穏やかな声で事実を語る。アランはそれを胸に刻み、彼の無事にほんの少しだけ心から安堵した。静かな部屋のなか、ふたりの間に繊細で温かな時間がゆっくりと流れていった。
湯気の立ち込める浴室で、アランは静かにレギュラスの腕や背中にできた複数の傷へと魔法薬を丁寧に塗り広げていた。手際は熟練そのものであり、その一挙手一投足には穏やかな慈しみが滲んでいる。
「あなたが魔法薬の天才で、本当に助かりました」
レギュラスの声は疲れ混じりだが優しく、彼女に寄せる信頼と感謝が溢れていた。アランはその言葉に小さく微笑み返し、傷に塗る手をゆるやかに止めて彼の顔を見つめる。
ふっと胸の奥で安堵の波が広がった。クリーチャーとはきっと既に話をしているはずなのに、あのマグルの少女のことには一切触れてこない――つまり、あの出来事はまだレギュラスの知るところではないのだろう。もし知っていたならば、今このような穏やかな時間は到底訪れなかったに違いない。
その思いに、アランは静かに胸を撫で下ろす。重く暗い秘密を抱えながらも、今だけは二人の間に柔らかな温もりが満ちているのだと。互いの存在が、言葉を超えた安心となって、静かな夜の湯気に溶けていった。
柔らかな湯気が静かに揺れる薄明かりの浴室で、アランはそっとレギュラスの腕の傷に魔法薬を塗り広げていた。指先がゆっくりと滑り、温かなぬくもりがそのまま伝わる。これ以上の深い行為に及ぶことなど、今は到底考えられない。アランが妊娠していることで、二人の距離には自然と限界が生まれていたからだ。
それでも、レギュラスの中にはほんの少しの迷いがあった。バーテミウスに誘われたあの時、素直に彼に従い、気軽に寄り道してみればよかったのかもしれないという。日常から離れ、違う空気に身を任せることで、何かが解放されたのではないかと、心の片隅で思ってしまう自分に気づいてしまう。
けれど今、こうして薬を塗ってもらいながら触れ合うその瞬間だけで、胸いっぱいに満たされる幸福がある。わずかな触れ合いが、深く沁み渡る。言葉にせずとも伝わる愛情の温度が、レギュラスの心をそっと包み込み、焦がれ続けた安らぎを与えてくれた。
肩越しに感じる彼女の息遣いと、指先の柔らかさ。その小さなひとときのぬくもりが、これ以上ない宝物に思えた。過ぎ去った日々も、届かなかった欲望も、今はただ静かに遠ざかり、二人の微かな呼吸だけが繊細に響きわたっていく。
すべてを許し、抱きしめる愛の形。それが今、ゆっくりと心の奥深くで確かに息づいていた。
柔らかな蒸気に包まれた浴室の薄明かりが、ゆらりと揺れる。アランの繊細な指先が最後の一滴の薬を丁寧に伸ばし終えたその瞬間、レギュラスの胸中にふとした熱が静かに波紋のように広がった。自分でも予期しなかったその感覚に、彼の視線はほんの一瞬だけ下腹部へと流れる。
気まずさが胸の奥でざわめき、すぐに悟られてはならぬと、レギュラスは無意識に視線を逸らし、浴室の床を見つめた。手元にあったタオルにさっと手を伸ばし、もう一枚を重ねてその部分を優しく隠す。織り込まれた布の柔らかさが、そして重なった層が、彼の内にくすぶる熱を少しだけ抑えてくれるかのようだった。
アランは背を向けたまま微かに肩をすくめ、唇の端に淡い紅が差す。言葉にはしないが、そのひそやかな呼吸の変化が、互いの気持ちの揺れを静かに告げていた。レギュラスはタオルに寄せた手をそっと握りしめて、自分の昂りを必死に鎮めながら、深く息を吸い込む。
二人の間に流れる時間は、言葉なきままに繊細で、ひそやかな切なさを孕んでいた。淡い蒸気の向こうで、そっと重ねられたタオルがその場の気まずさを染み込ませるように、柔らかな影となって静かに溶けていく。
