2章
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薄明かりの店内で、アランは薬の受け取りのためにカウンターに立ち、ゆっくりと書類に署名していた。手元の筆跡に集中していると、背後から低く懐かしい声が響いた。
「セシールなのかい?」
振り返ると、そこには優しい眼差しを湛え、やわらかな笑みを浮かべたリーマスが立っていた。彼の姿を見つけた瞬間、胸の奥に温かな記憶がゆっくりと広がった。シリウスの隣でいつも一緒に過ごしていた若き日の彼の笑顔を、今もはっきりと思い出せた。
「リーマス……」
口にした名前に、長い時の重みがこもる。
旧姓の「セシール」と呼ばれることも久しくなかったため、その響きがアランの心を柔らかく揺さぶった。
クリーチャーが静かに肩越しに見つめるなか、二人の間には言葉にならない懐かしさと繊細な温もりが満ちていった。過ぎ去った日々の面影が静かに蘇り、澄んだ時間が薬瓶の香りとともにそっと流れていた。
薄明かりの薬屋の一角で、リーマスがふと照れくさそうに微笑んだ。
「シリウスじゃなくてすまないな」と、その静かな声は柔らかさと少しの申し訳なさを帯びていた。
アランの胸の奥に、まるで見透かされたような感覚が走る。
心の奥底をじっと覗き込まれたような、不思議な恥ずかしさと共に、温かな風がそっと吹き抜けていった。
確かに、もしここでシリウスと偶然に出会っていたら――そんな想像が頭をよぎらないわけではなかった。
けれど会えたとしても、どう振る舞えばよいのか、その顔にどんな表情を浮かべればいいのか、きっとわからなかっただろう。
だからこそ、目の前にいるのがリーマスでよかったと、心のどこかでほっとしている自分に気づく。
二人の間に、言葉にならぬ静かな理解が流れ、薬草の香りと共に繊細な時の粒がゆっくりと輝き始めた。
そこには、過ぎ去った日々の温もりと、今も残る大切な絆が確かに息づいていた。
やわらかな午後の陽光が、薬屋の隅にある小さな茶卓をそっと包み込んでいた。
アランはカップを手に取り、静かにリーマスの言葉を待っていた。
「シリウスは、元気にしているよ。」
リーマスの声は、静かな安心と共に柔らかく響いた。
その言葉に、アランの胸はふっと軽くなる。彼がこちらの察してほしいことを理解してくれたのだろうと感じていた。
リーマスは続ける。
「ここ数日は、少し落ち着いている。騎士団の任務も厳しいけれど、彼はいつも前を向いているよ。危険なことも多いけれど、決して弱音は吐かず、仲間たちと支え合いながら戦っている。」
アランの瞳から、知らず知らず涙がにじむ。
遠く離れた場所で、たった一人で思い続けていた彼の無事を知るだけで、言葉にできぬほどの安堵が胸を満たしていく。
「どうか…無事でいてほしい。傷つかないでほしい。」
静かに、心の奥から祈りのような願いが溢れ出る。
その思いを知ってか知らずか、リーマスは穏やかなまなざしをアランに向け、そっと微笑んだ。
ふたりの間に流れる時間は、言葉以上に深く、繊細に、胸の奥の祈りをそっと包み込んでいた。
やわらかな午後の陽射しが差し込む薬屋の隅、静かな時間の中でリーマスは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「君は相変わらず綺麗だから、シリウスもきっと驚くだろうな。」
その言葉は、決して社交界の社交辞令や気の利いたお世辞ではなかった。長年彼を見守り、彼女の本質を知るからこそ、真っ直ぐに伝わってくる優しい言葉だった。アランはその心のこもった言葉に、胸の奥で張り詰めていた何かがゆるみ、こらえきれずに涙がこぼれ落ちた。
それでも、涙と共に自然とこぼれた微笑みは、ゆるぎない強さと哀しみを帯びていて、どこか透明な光を放っていた。リーマスの優しい視線に包まれながら、アランは胸の内で静かに言葉にならぬ感謝を呟いた。
言葉はなくとも、その微笑みだけで、彼女は深い孤独と切なさの中に、確かな繋がりと癒しを見出していた。繊細で美しいその瞬間は、まるで時がそっと止まったかのように静かに、ゆっくりと二人の間を満たしていった。
夕暮れの薄明かりに包まれた街並みを後にして、アランは静かに屋敷へと歩を進めていた。心は、リーマスとの再会で満たされた温かな余韻にゆっくりと浸っていたものの、その足取りはどこか重かった。
「きっとあのクリーチャーが、すべてレギュラスに伝えるのだろう。」
心の片隅にぽつりとつぶやく思いが、ひそかに彼女を締め付ける。どんなに口止めをしたところで、クリーチャーはレギュラスの忠実なしもべ。忠誠の絆は決して揺るがず、秘密は意味をなさなかった。
騎士団の者と会い、話したという事実だけで、レギュラスを苛立たせてしまうのだろうと、薄ら寒い予感が胸をよぎる。話した内容は深くもなく、わずかな言葉で交わされたに過ぎない。ただ、その静かなる事実が、彼への疑念を生み出すのではないかと考えただけで、何とも言えぬやるせなさと焦燥が胸の中にくすぶった。
屋敷へと続く石畳の先に、まだ暖かな灯りがぽつりと揺れている。レギュラスの帰りを待つその時間が、今はひどく重苦しく、息を潜めるように過ぎていくのを感じていた。
誰にも言えぬ心のざわめきを胸に抱えながら、アランは静かに屋敷の扉を開けた。心のどこかで不安と緊張が静かに波打っている。まるで、すれ違いの影が深く伸びはじめているかのように。
重い夕暮れの光が窓の隙間から差し込み、室内に長い影を落としていた。レギュラスはその瞳に冷たく凍てついた怒りを秘めながら、アランの腕をぎゅっと掴んで揺らす。
「なぜ、そんな軽はずみなことを…!」
彼の声は震え、けれど鋭く、まるで壊れそうな感情を押し殺して吐き出すようだった。
アランの心には、先ほどシリウスのことをリーマスから聞いて満たされたばかりの温かな記憶がまだ残っていたのに、その瞬間、零れ落ちる露のように凍りついて消えていった。
身体を揺らされ、圧迫されるような感覚にアランは言葉を失うしかなかった。レギュラスの真剣な眼差しが背中を締め上げる。けれどその厳しさの奥には、不安と怖れ、そして何よりも深い愛ゆえの苦悩が隠れていた。
「僕は…あなたがどこへ行き、誰と会うのか知っておきたいんです」
けれどその言葉は、アランにとっては重く、冷たい氷のように響いた。
凍てついた沈黙が部屋を満たし、アランの内側で揺れる感情もまた砕け散りそうだった。彼女の心は、満たされたはずの優しい時間が壊される痛みに押しつぶされかけていた。
レギュラスの腕に縛られながら、アランはただ静かに目を伏せ、やるせなさと孤独を噛みしめていた。
この言葉にならぬ想いの交錯こそ、ふたりの繊細な絆が揺らぐ瞬間だった。
薄暗い室内に、アランの小さな声が静かに響いた。
「ごめんなさい。」
幾度も繰り返したその言葉は、言葉としてはあまりにも陳腐で、心の奥の深い後悔や痛みを伝えきれないもどかしさを孕んでいた。
レギュラスはその声を受け止めつつも、慎重に冷静な視線を彼女へ注ぐ。
「もしも誰かの目に止まれば、騎士団のメンバーとの密会と誤解され、裏切りと判断される可能性もあります」
その言葉には重い重責の響きがあり、彼の内に渦巻く不安と緊張が繊細に折り重なっていた。
先日、大切な人質としてアランまでも差し出さねばならなかった記憶が、胸に深く刻まれている。ゆえに、己の行動を抑制し、慎重に繊細に動かなければならないことを痛いほど理解していたのだ。
アランはその言葉の重さに静かに頷き、相手の思いを汲みながらも胸の奥で揺れる感情を押し殺す。
「わかっているわ……」と呟くその声は、柔らかな翳りを帯びて、彼への想いと自らの立場の狭間で揺れる複雑な心情を表していた。
空気は静かに震え、互いの間に言葉にならない想いと覚悟が交錯する。
繊細でありながら深い絆の断片が、まるで夜の闇に溶けていく星屑のように煌めきながら、二人の胸の中に静かに息づいていた。
冷えた空気が室内に満ちる中、レギュラスの怒りは容易に鎮まらず、その目には翳りが濃く沈んでいた。
「あなたの行動は、あまりにも軽率すぎます」
その言葉は静かに告げられながらも、胸に刺さる重さを持っていた。
そんな彼の手に、アランはそっと自分の小さな手を重ねる。
その瞬間、冷たく硬い彼の指先に触れる柔らかさは、言葉を超えたかすかな慈しみの架け橋となった。
レギュラスが抱える葛藤と愛情を知っているからこそ、アランはこの静かなスキンシップで少しでも彼の心を溶かしたいと願った。
彼女の寄り添うその距離に、レギュラスの緊張がわずかに緩み、熱を帯びた吐息が夜の静寂に溶けていく。
「ごめんなさい……」
その言葉は小さく、けれど深く彼の耳元で呟かれ、凍りついていた胸の氷をじわりと解かしていった。
アランの温もりが彼の胸に届くたび、その怒りは少しずつ翳っていく。
けれどそこに漂う切なさは消えず、繊細な想いが静かに静かに、互いの間で震えていた。
愛しさと後悔が交錯するその夜に、二人はただそっと寄り添い合った。
夜の書斎に差し込む薄明かりの中、レギュラスは静かに問いかけた。
「ダンブルドアに出した手紙には、一体何と書いたんです?」
その声は穏やかでありながらも、核心を突く冷たさが混じっていた。アランはその言葉を聞いた瞬間、体がピンと強張り、まるで張り詰めた弦のように緊張が一気に広がっていった。
互いの距離が一瞬で縮まり、レギュラスの深い瞳がじっとアランを見つめる。
「なぜ、そのことを…知っているんですか?」
その問いは、そっとアランの心の奥底まで切り込み、何もかもを曝け出すような鋭さであった。
アランは言葉を探すこともできず、目を伏せたまま静かに押し殺された想いを抱えていた。
「あなたに話せるわけがない……」
胸の中で繰り返すその呟きは、震える声にすらならず、深い孤独と罪の重さだけが残った。
彼女の心にはただ、ダンブルドアならば必ずシリウスを守ってくれるという密かな祈りがあった。
その想いが、この冷えた空間に沈黙の波紋を広げていく。
レギュラスには決して知られてはならない秘密。ゆえに言葉にできぬ、誰にも触れられない痛みの刻印。
儚くも重い沈黙のなかで、二人はただ視線を交わしながら、それぞれの胸に抱えた切なさを押し込めていた。
その刹那の美しさは、どこまでも繊細に、そして深く、静かに夜の闇に溶けていった。
レギュラスの冷たい問いかけが部屋に残響する――
アランの耳にはもう何も入らない。ただ、胸の奥に差し込む現実の痛みが、静かに心を蝕んでいく。
どうしても答えられない。
何もかもが見透かされている。この屋敷で、今のまま生きていくためには、どんな言い訳も通じないのだと、改めて突きつけられた気がした。
心が、ひどく苦しい。
気づけば呼吸が浅くなり、手のひらがひどく冷えていた。
どうかこのまま時間が止まってほしい――そんな切実な願いも空しく、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
「……っ」
アランは小さく呻き、思わず口元に手を当てると、そのまま膝をつき、床にしゃがみ込む。
深いえずきがこみ上げ、息さえも乱れていく。
「アラン、どうしました?」
レギュラスの声が、急に優しく揺れた。
けれどその声音も、温もりも、今は遠く響くだけ。
薄暗い部屋のなか、アランはただ一人、己の苦しさに凍り、
押しつぶされそうな孤独と後悔のなかで静かに震えていた。
その背に淡い影が落ち、夜の静けさが切なさとともに深まっていった。
吐き気はその後しばらく止まらなかった。
胸の奥に湧き上がる苦しさと、どこか浮遊するような現実感のなさに、アランはただベッドに身を横たえるしかなかった。
レギュラスは心配そうに傍らに座り、使用人を呼ぶために立ち上がる。その声は遠く霞み、まるで夢の中の出来事のように彼女の耳を掠めていった。
しばらくして、侍医が来て静かにアランを診る。
部屋に漂う薬草の匂い、冷たい手のひらが額に触れる感触——
世界は薄いベールの向こうでゆっくり動いている気がした。
「奥様は……ご懐妊です。」
低く穏やかな診断が告げられた瞬間、空気が揺れた。
驚きと安堵が、それぞれ違う色をして胸に降りてくる。
レギュラスの目には明るい期待の影が浮かび、アランの指先は淡く震えた。
これで、もう誰も「ブラック家の後継」を責め立てることはないだろう。
義務と期待に押し潰される日々が、ほんの少しだけ遠ざかる気がした。
それに——
ダンブルドアに宛てて書いた手紙の件も、多分これ以上追及はされない。
新しい命の話題は、あらゆる罪も秘密も覆い尽くす大きな波となる。
一石二鳥、そんな風に自分を納得させるのは、どこか苦しく、切なかった。
安堵の隙間から、胸の奥に残る孤独とわずかな罪悪感が静かに零れ落ちる。
それでもアランは、枕元で静かに微笑むレギュラスの手をそっと握った。
やわらかな春の光が、カーテン越しにふたりを包む。
言葉にならない思いだけが、ほんのり新しい命の鼓動とともに、あたたかな静けさのなかに溶けていった。
アランの懐妊の報せは、瞬く間にブラック邸を満たし、オリオンもヴァルブルガも、久方ぶりに心から満足げな表情を浮かべていた。
それも当然のことなのだろう。「我々は男児を希望している」――あの鋭い声と冷ややかな眼差しを、アランはこの屋敷に来て間もない頃から鮮烈に覚えている。
心の奥底がぞくりと冷えて、期待に応えなければという重く苦しい責任感が、長く胸を締めつけてきた。
やがてブラック家の懐妊の噂は、魔法界じゅうを駆け巡った。
純血の名門に新しき命が宿されたとあれば、新聞も報道も「新たな跡取りか、それとも麗しき姫君か」と騒ぎ立て、誰もがこの未来に過剰な熱を注いだ。
そうした騒ぎの中で、アランにとって唯一救いだったのは、レギュラスの穏やかで安堵に満ちた表情だった。
彼の笑みには重たい期待や嫉妬ではなく、どこか優しさと誇りが宿っていて、その眩しさに心がふわりとほどけていく。
凛とした朝の光が差し込む廊下で、そっと彼の指を握り返しながら、アランはようやくほんの少しだけ、未来に光が差し始めた気がしていた。
屋敷の静寂に、新しい命の鼓動だけが、柔らかく、とても繊細に響いていた。
屋敷には連日、祝いの手紙や贈り物が山のように届けられる。
絹のリボンで結ばれた花束や、銀の小箱に入った魔法薬、遠い親戚や友人たちからの祝福の言葉が静かな廊下を彩っていた。アランが重い体調不良に悩まされていないことが、何よりも救いだった。
あの夜、レギュラスは苛立ちと不信に囚われて彼女を責め、苦しげに床へとしゃがみ込んだアランを、どうして自分はあんなにも追い込んでしまったのだろうかと、ふいに悔やんだ。まさか、あの出来事が新しい命の前触れだったとは思いもよらなかった。
いま思えば、これほどの吉報があったのなら、厳しく問い詰めた自分の言葉をひとつ残らず引き取りたくなる。
ダンブルドアへの手紙の件は、まだ胸のどこかに釈然としない影を残している。だが、それでもいい。
アランの懐妊の知らせは、複雑な疑念さえも滲ませてしまうほど、心の底からレギュラスを満たしていた。
男児を――という親族たちの無言の期待は、肌を刺すようにじわじわと感じている。けれど今は、ただ母子ふたりが無事でさえあればそれでいい。
淡い光が差し込む朝、レギュラスは静かにアランの枕元に座り、彼女の小さな手を指先で包んだ。
祝福の声が外から届くなか、命の温もりと、微かな未来の希望だけが、胸でそっと膨らんでいく。
穏やかな幸福と少しの不安が混ざったまま、レギュラスは柔らかく目を閉じた。
――この奇跡が、どうか永く続きますようにと、ただ静かに願いながら。
夜の静けさに包まれた寝室。
レギュラスはアランの隣にそっと寄り添うが、どこか心の内に掻き消せぬ熱を抱えていた。
頭では理解している。医者の言葉、妊娠初期の安静が何よりも大切だということを。
けれど身体の奥に残る熱は、理性だけでは収まらず、胸の中で苦しさとなって揺れていた。
「アラン、不調があればすぐに言ってくださいね。」
彼の声は低く、優しく、それでも少しだけ震えていた。
それに応えてアランは穏やかに頷く。
「ええ、今のところは変わりありません。」
互いの距離は自然と少し空き、ベッドの温もりは遠のく。
それは、もはや抗えぬ制約のように感じられ、やり場のない感情が胸を締めつける。
「耐えなくてよかった日々」が遠い記憶のように霞み、親族や両親からの世継ぎを望む声を一時そっと押し込めてしまえばよかったと、静かな後悔が胸に浸透した。
互いに触れられぬ時間のなかで、それでも愛しい存在が隣にいる幸せだけを噛みしめる。
言葉にせずとも伝わる想いと、切なさが繊細に交錯し、揺れる夜は静かに、しかし長く続いていった。
静かな書斎の窓辺に淡い夕陽が差し込み、アランはそっと封筒を手に取った。深呼吸をひとつしてから、ゆっくりと封を切る指先には、緊張と期待が絡まり合って震えていた。
便箋を広げ、ダンブルドアの筆跡を目にした瞬間、胸の奥に温かな光がじんわりと広がっていくのを感じる。彼の言葉は、遠く離れた場所からも確かな愛情と守護の意志を運んできた。厳しい現実の中でもシリウスを信じ、支え続けるその誠実さに、アランは胸を打たれた。
「親愛なるセシールへ、
あなたの手紙は確かに受け取りました。シリウスの身を案じ、彼の無事を願うあなたの思いは、私にも深く伝わっています。現状は幾分厳しいものの、彼は勇敢な魂を持ち、仲間たちと共に困難を乗り越えています。
私は常に騎士団の一員として、彼と皆の安全を最優先に考えております。どうかあなたもご自身を大切にし、新しい命のために心穏やかに過ごしてください。
いつか直接会える日を信じて、
アルバス・ダンブルドア」
彼のもとにいる限り、きっと大丈夫。
そう強く思いながら、静かに目を閉じて便箋を胸に抱きしめる。
孤独な戦いを続けるシリウスへの祈りと共に、ゆるやかに頬を伝う一筋の涙。温かい気持ちは、決して消えない希望の灯火となり、アランの心を優しく包み込んでいった。夜の静けさの中、書斎には彼女の確かな決意が静かに息づいていた。
夜の闇が静かにブラック邸を包み込むなか、レギュラスは穏やかな表情で告げた。
「数日、任務で国外に出ることになりました」
その言葉は重みと共に響き、アランの胸には複雑な感情が交錯した。
その告知を受け、アランの心の奥底にほのかな安堵が広がる。
ひとりになる時間が訪れること――
まるで束縛の檻を一時的に抜け出したかのような、解放感と自由が心を満たした。
薄明かりの部屋の片隅で、アランは静かに息をつき、窓の外に広がる夜空を見上げる。
星のきらめきがわずかに揺らいで見えた。
目を閉じて、しばしの安らぎを心に宿す。
限られた自由のひとときは、繊細で儚いもの。だが、その小さな隙間が彼女にとっては何よりも貴重な救いだった。
静かに流れる時間のなかで、アランの胸は軽やかに揺れ、明日への一歩をそっと踏み出す力を感じていた。
静まり返った屋敷の廊下に、軽やかな足音が冷たく響く。レギュラスを送り出したばかりのアランは、その音に不意を突かれ、咄嗟に身を引き締めた。扉の向こうからは、あの名高きベラトリックスの気配がじわりと迫ってくる。
彼女の存在は、かつてからアランの心に小さな影を落としていた。どこか鋭く、冷たく、決して好意的でない視線が内心に痛く突き刺さる。屋敷を訪れる彼女の一歩一歩が、胸の奥の緊張を増幅させ、まるで礼賛ではない重苦しい風を運んでくるかのようだ。
扉が静かに開くと、薄闇に浮かぶその姿が見えた。ベラトリックスの氷のように冷たい瞳は、長く静かにアランの内面を見据え、言葉にならぬ警告を放っていた。無言のまま差し出される彼女の存在は、かつての微かな軋轢を呼び覚まし、アランの心を凍らせた。
けれど、アランはゆっくりと深く息を吸い込み、その恐怖を胸の中に静かに封じ込める。強くありたいと願う気持ちが、小さな鼓動となって揺れながらも彼女の全身を包み込んでいた。
その瞬間、屋敷の空気は一変し、繊細で凍てつくような緊張感に満たされながらも、静かな強さと覚悟がほのかに光を放っていた。
薄暗い屋敷の一室に、ベラトリックスの足音が静かに響いた。薄く微笑みながら、彼女はアランの前に立つと、冷ややかな声で告げた。
「祝いの言葉を贈りに来たんだよ。」
その言葉に続いて、使用人がさりげなく箱を差し出し、何かしらの贈り物を預けていったことをほのめかしているのが伝わる。アランは慎み深い微笑みを浮かべ、感謝の言葉を漏らした。
「ありがとう、ベラ。」
しかし、ベラトリックスの瞳は尋常でなく冷たく、じっとアランを見つめる。蛇のように絡みつくその視線は、無言の圧力を孕み、アランの胸に重くのしかかる。
やがて、囁くように厳しい言葉が放たれた。
「お前の腹の子は、本当にレギュラス・ブラックとの子なのかい?」
アランの表情は一瞬、困惑と戸惑いに染まる。何か悪い予兆を感じ取ったのか、不安が胸の奥でざわめき始めた。彼女の瞳には、憶測が原因で巻き起こる激しい動揺と疑念が揺らめいていた。
静かな緊張が空気に満ちるなか、互いの視線が絡まり、言葉にならぬ重さが二人のあいだにじわりと広がる。アランは心の中で問いかけるしかなかった。なぜそんな憶測が流れたのか、と。不安と覚悟を胸に秘めて、静かにその問いの答えを待っていた。
薄暗い部屋の中、アランは深くゆっくりと息を吐き、心の揺れを必死に押し込めて胸を張った。瞳の奥に微かに動揺が宿っても、それを見透かされまいと強い意志を込める。
「もちろん、彼との子以外にありえないわ。」
その言葉は静かに、しかし揺るぎない確信を帯びて響いた。アランの声は震えず、澄んだ凛とした響きを持ち、彼女の誇りと覚悟が溢れ出していた。
だがその決意に反して、部屋の空気は一瞬凍り付く。すぐにベラトリックスの高らかな、しかしどこか不穏な笑い声が響いた。
その笑いは冷たく、まるで嘲笑を伴い、蛇のように空間を這いまわる。感情の高ぶりをさらけ出すようなその声音には、アランの胸を締めつける不安と恐怖が強く刺さる。
アランはその冷たい笑みに立ち尽くしながらも、深く胸を張り続けた。心の内でこぼれそうになる涙はかろうじて堪えられていたが、鋭い刃に触れられたかのような切なさが彼女の胸を鋭く締めつけていた。
静かな強さと繊細な痛みが交錯する一瞬。二人の間に漂う緊張は、あたたかなはずの部屋の隅々を冷たく染めていくようだった。
冬の夜の暗がりが窓辺を染める中、ベラトリックスの声は冷たく鋭く響いた。
「シリウス・ブラックとお前の噂を聞いたものでね。」
その言葉には、どこか底知れぬ苛立ちと嘲りが滲み、噂の詳細こそ明かさぬままも、ろくでもないことばかりであると察せられた。アランの胸には鋭い刃のようにその言葉が突き刺さる。
しかし、アランは揺らぐことなく、凛とした眼差しで応じた。
「誰が何と言おうと、私はレギュラス・ブラックの妻ですから。」
その声には一片の迷いも恐れもなく、過去の幾度もの決断が重く胸にのしかかっていた。かつてどれほどの覚悟を胸に、シリウスの手を離し、己の道を選んだか――その思いが今、静かに胸を詰まらせる。
かすかに震える唇の奥に、決意と哀しみが同居し、夜の闇はその瞬間だけ静かに時間を止めた。強さと切なさを伴う静謐な声が、部屋に柔らかく溶け込み、アランの揺るぎない心の証となった。
薄暗い廊下に、ベラトリックスの冷たい声が低く響き渡った。
「もしあのお方を裏切るようなことがあれば、その時はすべて奪ってやるから、忘れるんじゃないよ。」
その不敵な笑みは、夜の闇よりも冷たく、牙のように刺さる言葉となってアランの胸を貫いた。
視線が絡み合う刹那、アランは静かに彼女を見返す。言葉にはしなくとも、その瞳には揺れる恐怖と決意が交錯していた。
やがて、ベラトリックスの影が遠ざかり、扉が閉じる音が響くと、抗いきれぬ重圧が一気に押し寄せた。
その場に崩れ落ちるように、アランは膝を抱えてしゃがみ込む。息は浅く、凍りつくような恐怖が胸を締め上げ、震える身体を包み込んだ。
小さな吐息が闇の中で震え、繊細な心は壊れそうなほどに痛みを帯びていた。
その孤独の影がそっと広がり、まるで世界のすべてを飲み込むように静かに彼女を包み込んでいく。
ベラトリックスは、石畳を静かに歩きながら思考を巡らせる。その眼差しは爬虫類めいて鋭く、心の奥底で静かな疑念が蠢いていた。
アランとシリウス――二人の間に今も何かしらの絆が残っているのでは、と、女の直感が強く訴えかけてくる。
思い返せば、幼い頃から彼らは同じブラック家の血族としてよく屋敷に出入りし、いつも寄り添っていた。
ときに親族の口から「またマグルの街へ二人で出かけて行った」と伝え聞いたことさえあった。
ホグワーツ時代には「まるで兄妹以上に親しげだった」と囁かれることが幾度となく耳に届いた。
他のデスイーターからも、何気ない話の端々に二人の親密さを思わせる噂が漏れてくる。
この“感触”は決して無下にはできなかった。
闇の帝王の忠実なしもべを自負するベラトリックスにとって、裏切りの芽は決して見逃すわけにはいかないものだった。
アランはレギュラスの妻としてふるまってはいるが、その心の奥底でどこか――シリウスという名の過去に、繋がり続けているのではないか。
もしや、いつかその絆が闇の陣営を裏切る行為へと繋がりはしないか――
信用しきれず、氷のような猜疑が胸に広がる。
だが、ことレギュラスにこの不安をぶつけたところで無駄だとわかっている。
レギュラスのアランへの盲目的な愛と忠誠――
「そんなことあるものか」と一蹴されるのが目に見えていた。
だからこそ、ベラトリックスは密かにアランの周囲を探ることにした。
冷ややかな微笑みを唇の端に浮かべ、ベラトリックスは廊下の影に身を滑らせる。
彼女の動きは音もなく、鋭い視線だけが空虚に漂った。
誰も気づかぬうちに、家のなかでアランの足跡をたどり、その言動や周囲の反応に目を光らせる――
女の勘は、時に最も厄介な真実を引き寄せるものだった。
灯りが消えかかる廊下で、ベラトリックスはただ静かに思う。
裏切りであれ、忠誠であれ、真実はいずれ必ず露わとなる。
その瞬間のすべてを、決して見逃さない。
蛇のような執念を胸に、ひっそりと闇のなかに溶け込んだ。
静寂な夜の帳が屋敷を包みこむ。
アランは窓辺に静かに佇み、遥かな空をゆっくりと見上げていた。
意識の底でひりひりと疼く危機感――
ベラトリックスの視線は今も背後を離れず、何かを探り出そうと確実にこちらを追っている。女の勘が、ひしひしとその存在を警告していた。
胸の奥に冷たく漂う不安。
もしも、ほんの僅かでも隙を見せれば、襲い来る災厄は自分ひとりに留まらない。
今この身に宿る新たな命を――そして、セシール家すべてを巻き込んでしまうかもしれない。
絶対に、それだけは避けなければならない。
アランは小さく息を吐き、指先をそっとお腹に添える。
脈打つ命の重みに背筋が自然と伸び、凛とした決意が胸の内に芽生えてくる。
ひとつひとつの言動、身のこなし、そのすべてに細心の注意を払おう。
どんな些細なきっかけも、災いの種になりうるのだ。
静けさの中、アランのまなざしは凛として美しかった。
脆くも強い意志を秘め、彼女はそっと自分自身に誓いを立てる。
“この命を、家族を、必ず守る。どれほど孤独でも、恐怖に凍える夜でも。”
屋敷に入り込む夜風が、柔らかくカーテンを揺らした。
その微かな音のなか、アランはひとり、どこまでも丁寧に気を引き締め、静かに夜の闇へ心を鎮めていった。
「セシールなのかい?」
振り返ると、そこには優しい眼差しを湛え、やわらかな笑みを浮かべたリーマスが立っていた。彼の姿を見つけた瞬間、胸の奥に温かな記憶がゆっくりと広がった。シリウスの隣でいつも一緒に過ごしていた若き日の彼の笑顔を、今もはっきりと思い出せた。
「リーマス……」
口にした名前に、長い時の重みがこもる。
旧姓の「セシール」と呼ばれることも久しくなかったため、その響きがアランの心を柔らかく揺さぶった。
クリーチャーが静かに肩越しに見つめるなか、二人の間には言葉にならない懐かしさと繊細な温もりが満ちていった。過ぎ去った日々の面影が静かに蘇り、澄んだ時間が薬瓶の香りとともにそっと流れていた。
薄明かりの薬屋の一角で、リーマスがふと照れくさそうに微笑んだ。
「シリウスじゃなくてすまないな」と、その静かな声は柔らかさと少しの申し訳なさを帯びていた。
アランの胸の奥に、まるで見透かされたような感覚が走る。
心の奥底をじっと覗き込まれたような、不思議な恥ずかしさと共に、温かな風がそっと吹き抜けていった。
確かに、もしここでシリウスと偶然に出会っていたら――そんな想像が頭をよぎらないわけではなかった。
けれど会えたとしても、どう振る舞えばよいのか、その顔にどんな表情を浮かべればいいのか、きっとわからなかっただろう。
だからこそ、目の前にいるのがリーマスでよかったと、心のどこかでほっとしている自分に気づく。
二人の間に、言葉にならぬ静かな理解が流れ、薬草の香りと共に繊細な時の粒がゆっくりと輝き始めた。
そこには、過ぎ去った日々の温もりと、今も残る大切な絆が確かに息づいていた。
やわらかな午後の陽光が、薬屋の隅にある小さな茶卓をそっと包み込んでいた。
アランはカップを手に取り、静かにリーマスの言葉を待っていた。
「シリウスは、元気にしているよ。」
リーマスの声は、静かな安心と共に柔らかく響いた。
その言葉に、アランの胸はふっと軽くなる。彼がこちらの察してほしいことを理解してくれたのだろうと感じていた。
リーマスは続ける。
「ここ数日は、少し落ち着いている。騎士団の任務も厳しいけれど、彼はいつも前を向いているよ。危険なことも多いけれど、決して弱音は吐かず、仲間たちと支え合いながら戦っている。」
アランの瞳から、知らず知らず涙がにじむ。
遠く離れた場所で、たった一人で思い続けていた彼の無事を知るだけで、言葉にできぬほどの安堵が胸を満たしていく。
「どうか…無事でいてほしい。傷つかないでほしい。」
静かに、心の奥から祈りのような願いが溢れ出る。
その思いを知ってか知らずか、リーマスは穏やかなまなざしをアランに向け、そっと微笑んだ。
ふたりの間に流れる時間は、言葉以上に深く、繊細に、胸の奥の祈りをそっと包み込んでいた。
やわらかな午後の陽射しが差し込む薬屋の隅、静かな時間の中でリーマスは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「君は相変わらず綺麗だから、シリウスもきっと驚くだろうな。」
その言葉は、決して社交界の社交辞令や気の利いたお世辞ではなかった。長年彼を見守り、彼女の本質を知るからこそ、真っ直ぐに伝わってくる優しい言葉だった。アランはその心のこもった言葉に、胸の奥で張り詰めていた何かがゆるみ、こらえきれずに涙がこぼれ落ちた。
それでも、涙と共に自然とこぼれた微笑みは、ゆるぎない強さと哀しみを帯びていて、どこか透明な光を放っていた。リーマスの優しい視線に包まれながら、アランは胸の内で静かに言葉にならぬ感謝を呟いた。
言葉はなくとも、その微笑みだけで、彼女は深い孤独と切なさの中に、確かな繋がりと癒しを見出していた。繊細で美しいその瞬間は、まるで時がそっと止まったかのように静かに、ゆっくりと二人の間を満たしていった。
夕暮れの薄明かりに包まれた街並みを後にして、アランは静かに屋敷へと歩を進めていた。心は、リーマスとの再会で満たされた温かな余韻にゆっくりと浸っていたものの、その足取りはどこか重かった。
「きっとあのクリーチャーが、すべてレギュラスに伝えるのだろう。」
心の片隅にぽつりとつぶやく思いが、ひそかに彼女を締め付ける。どんなに口止めをしたところで、クリーチャーはレギュラスの忠実なしもべ。忠誠の絆は決して揺るがず、秘密は意味をなさなかった。
騎士団の者と会い、話したという事実だけで、レギュラスを苛立たせてしまうのだろうと、薄ら寒い予感が胸をよぎる。話した内容は深くもなく、わずかな言葉で交わされたに過ぎない。ただ、その静かなる事実が、彼への疑念を生み出すのではないかと考えただけで、何とも言えぬやるせなさと焦燥が胸の中にくすぶった。
屋敷へと続く石畳の先に、まだ暖かな灯りがぽつりと揺れている。レギュラスの帰りを待つその時間が、今はひどく重苦しく、息を潜めるように過ぎていくのを感じていた。
誰にも言えぬ心のざわめきを胸に抱えながら、アランは静かに屋敷の扉を開けた。心のどこかで不安と緊張が静かに波打っている。まるで、すれ違いの影が深く伸びはじめているかのように。
重い夕暮れの光が窓の隙間から差し込み、室内に長い影を落としていた。レギュラスはその瞳に冷たく凍てついた怒りを秘めながら、アランの腕をぎゅっと掴んで揺らす。
「なぜ、そんな軽はずみなことを…!」
彼の声は震え、けれど鋭く、まるで壊れそうな感情を押し殺して吐き出すようだった。
アランの心には、先ほどシリウスのことをリーマスから聞いて満たされたばかりの温かな記憶がまだ残っていたのに、その瞬間、零れ落ちる露のように凍りついて消えていった。
身体を揺らされ、圧迫されるような感覚にアランは言葉を失うしかなかった。レギュラスの真剣な眼差しが背中を締め上げる。けれどその厳しさの奥には、不安と怖れ、そして何よりも深い愛ゆえの苦悩が隠れていた。
「僕は…あなたがどこへ行き、誰と会うのか知っておきたいんです」
けれどその言葉は、アランにとっては重く、冷たい氷のように響いた。
凍てついた沈黙が部屋を満たし、アランの内側で揺れる感情もまた砕け散りそうだった。彼女の心は、満たされたはずの優しい時間が壊される痛みに押しつぶされかけていた。
レギュラスの腕に縛られながら、アランはただ静かに目を伏せ、やるせなさと孤独を噛みしめていた。
この言葉にならぬ想いの交錯こそ、ふたりの繊細な絆が揺らぐ瞬間だった。
薄暗い室内に、アランの小さな声が静かに響いた。
「ごめんなさい。」
幾度も繰り返したその言葉は、言葉としてはあまりにも陳腐で、心の奥の深い後悔や痛みを伝えきれないもどかしさを孕んでいた。
レギュラスはその声を受け止めつつも、慎重に冷静な視線を彼女へ注ぐ。
「もしも誰かの目に止まれば、騎士団のメンバーとの密会と誤解され、裏切りと判断される可能性もあります」
その言葉には重い重責の響きがあり、彼の内に渦巻く不安と緊張が繊細に折り重なっていた。
先日、大切な人質としてアランまでも差し出さねばならなかった記憶が、胸に深く刻まれている。ゆえに、己の行動を抑制し、慎重に繊細に動かなければならないことを痛いほど理解していたのだ。
アランはその言葉の重さに静かに頷き、相手の思いを汲みながらも胸の奥で揺れる感情を押し殺す。
「わかっているわ……」と呟くその声は、柔らかな翳りを帯びて、彼への想いと自らの立場の狭間で揺れる複雑な心情を表していた。
空気は静かに震え、互いの間に言葉にならない想いと覚悟が交錯する。
繊細でありながら深い絆の断片が、まるで夜の闇に溶けていく星屑のように煌めきながら、二人の胸の中に静かに息づいていた。
冷えた空気が室内に満ちる中、レギュラスの怒りは容易に鎮まらず、その目には翳りが濃く沈んでいた。
「あなたの行動は、あまりにも軽率すぎます」
その言葉は静かに告げられながらも、胸に刺さる重さを持っていた。
そんな彼の手に、アランはそっと自分の小さな手を重ねる。
その瞬間、冷たく硬い彼の指先に触れる柔らかさは、言葉を超えたかすかな慈しみの架け橋となった。
レギュラスが抱える葛藤と愛情を知っているからこそ、アランはこの静かなスキンシップで少しでも彼の心を溶かしたいと願った。
彼女の寄り添うその距離に、レギュラスの緊張がわずかに緩み、熱を帯びた吐息が夜の静寂に溶けていく。
「ごめんなさい……」
その言葉は小さく、けれど深く彼の耳元で呟かれ、凍りついていた胸の氷をじわりと解かしていった。
アランの温もりが彼の胸に届くたび、その怒りは少しずつ翳っていく。
けれどそこに漂う切なさは消えず、繊細な想いが静かに静かに、互いの間で震えていた。
愛しさと後悔が交錯するその夜に、二人はただそっと寄り添い合った。
夜の書斎に差し込む薄明かりの中、レギュラスは静かに問いかけた。
「ダンブルドアに出した手紙には、一体何と書いたんです?」
その声は穏やかでありながらも、核心を突く冷たさが混じっていた。アランはその言葉を聞いた瞬間、体がピンと強張り、まるで張り詰めた弦のように緊張が一気に広がっていった。
互いの距離が一瞬で縮まり、レギュラスの深い瞳がじっとアランを見つめる。
「なぜ、そのことを…知っているんですか?」
その問いは、そっとアランの心の奥底まで切り込み、何もかもを曝け出すような鋭さであった。
アランは言葉を探すこともできず、目を伏せたまま静かに押し殺された想いを抱えていた。
「あなたに話せるわけがない……」
胸の中で繰り返すその呟きは、震える声にすらならず、深い孤独と罪の重さだけが残った。
彼女の心にはただ、ダンブルドアならば必ずシリウスを守ってくれるという密かな祈りがあった。
その想いが、この冷えた空間に沈黙の波紋を広げていく。
レギュラスには決して知られてはならない秘密。ゆえに言葉にできぬ、誰にも触れられない痛みの刻印。
儚くも重い沈黙のなかで、二人はただ視線を交わしながら、それぞれの胸に抱えた切なさを押し込めていた。
その刹那の美しさは、どこまでも繊細に、そして深く、静かに夜の闇に溶けていった。
レギュラスの冷たい問いかけが部屋に残響する――
アランの耳にはもう何も入らない。ただ、胸の奥に差し込む現実の痛みが、静かに心を蝕んでいく。
どうしても答えられない。
何もかもが見透かされている。この屋敷で、今のまま生きていくためには、どんな言い訳も通じないのだと、改めて突きつけられた気がした。
心が、ひどく苦しい。
気づけば呼吸が浅くなり、手のひらがひどく冷えていた。
どうかこのまま時間が止まってほしい――そんな切実な願いも空しく、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
「……っ」
アランは小さく呻き、思わず口元に手を当てると、そのまま膝をつき、床にしゃがみ込む。
深いえずきがこみ上げ、息さえも乱れていく。
「アラン、どうしました?」
レギュラスの声が、急に優しく揺れた。
けれどその声音も、温もりも、今は遠く響くだけ。
薄暗い部屋のなか、アランはただ一人、己の苦しさに凍り、
押しつぶされそうな孤独と後悔のなかで静かに震えていた。
その背に淡い影が落ち、夜の静けさが切なさとともに深まっていった。
吐き気はその後しばらく止まらなかった。
胸の奥に湧き上がる苦しさと、どこか浮遊するような現実感のなさに、アランはただベッドに身を横たえるしかなかった。
レギュラスは心配そうに傍らに座り、使用人を呼ぶために立ち上がる。その声は遠く霞み、まるで夢の中の出来事のように彼女の耳を掠めていった。
しばらくして、侍医が来て静かにアランを診る。
部屋に漂う薬草の匂い、冷たい手のひらが額に触れる感触——
世界は薄いベールの向こうでゆっくり動いている気がした。
「奥様は……ご懐妊です。」
低く穏やかな診断が告げられた瞬間、空気が揺れた。
驚きと安堵が、それぞれ違う色をして胸に降りてくる。
レギュラスの目には明るい期待の影が浮かび、アランの指先は淡く震えた。
これで、もう誰も「ブラック家の後継」を責め立てることはないだろう。
義務と期待に押し潰される日々が、ほんの少しだけ遠ざかる気がした。
それに——
ダンブルドアに宛てて書いた手紙の件も、多分これ以上追及はされない。
新しい命の話題は、あらゆる罪も秘密も覆い尽くす大きな波となる。
一石二鳥、そんな風に自分を納得させるのは、どこか苦しく、切なかった。
安堵の隙間から、胸の奥に残る孤独とわずかな罪悪感が静かに零れ落ちる。
それでもアランは、枕元で静かに微笑むレギュラスの手をそっと握った。
やわらかな春の光が、カーテン越しにふたりを包む。
言葉にならない思いだけが、ほんのり新しい命の鼓動とともに、あたたかな静けさのなかに溶けていった。
アランの懐妊の報せは、瞬く間にブラック邸を満たし、オリオンもヴァルブルガも、久方ぶりに心から満足げな表情を浮かべていた。
それも当然のことなのだろう。「我々は男児を希望している」――あの鋭い声と冷ややかな眼差しを、アランはこの屋敷に来て間もない頃から鮮烈に覚えている。
心の奥底がぞくりと冷えて、期待に応えなければという重く苦しい責任感が、長く胸を締めつけてきた。
やがてブラック家の懐妊の噂は、魔法界じゅうを駆け巡った。
純血の名門に新しき命が宿されたとあれば、新聞も報道も「新たな跡取りか、それとも麗しき姫君か」と騒ぎ立て、誰もがこの未来に過剰な熱を注いだ。
そうした騒ぎの中で、アランにとって唯一救いだったのは、レギュラスの穏やかで安堵に満ちた表情だった。
彼の笑みには重たい期待や嫉妬ではなく、どこか優しさと誇りが宿っていて、その眩しさに心がふわりとほどけていく。
凛とした朝の光が差し込む廊下で、そっと彼の指を握り返しながら、アランはようやくほんの少しだけ、未来に光が差し始めた気がしていた。
屋敷の静寂に、新しい命の鼓動だけが、柔らかく、とても繊細に響いていた。
屋敷には連日、祝いの手紙や贈り物が山のように届けられる。
絹のリボンで結ばれた花束や、銀の小箱に入った魔法薬、遠い親戚や友人たちからの祝福の言葉が静かな廊下を彩っていた。アランが重い体調不良に悩まされていないことが、何よりも救いだった。
あの夜、レギュラスは苛立ちと不信に囚われて彼女を責め、苦しげに床へとしゃがみ込んだアランを、どうして自分はあんなにも追い込んでしまったのだろうかと、ふいに悔やんだ。まさか、あの出来事が新しい命の前触れだったとは思いもよらなかった。
いま思えば、これほどの吉報があったのなら、厳しく問い詰めた自分の言葉をひとつ残らず引き取りたくなる。
ダンブルドアへの手紙の件は、まだ胸のどこかに釈然としない影を残している。だが、それでもいい。
アランの懐妊の知らせは、複雑な疑念さえも滲ませてしまうほど、心の底からレギュラスを満たしていた。
男児を――という親族たちの無言の期待は、肌を刺すようにじわじわと感じている。けれど今は、ただ母子ふたりが無事でさえあればそれでいい。
淡い光が差し込む朝、レギュラスは静かにアランの枕元に座り、彼女の小さな手を指先で包んだ。
祝福の声が外から届くなか、命の温もりと、微かな未来の希望だけが、胸でそっと膨らんでいく。
穏やかな幸福と少しの不安が混ざったまま、レギュラスは柔らかく目を閉じた。
――この奇跡が、どうか永く続きますようにと、ただ静かに願いながら。
夜の静けさに包まれた寝室。
レギュラスはアランの隣にそっと寄り添うが、どこか心の内に掻き消せぬ熱を抱えていた。
頭では理解している。医者の言葉、妊娠初期の安静が何よりも大切だということを。
けれど身体の奥に残る熱は、理性だけでは収まらず、胸の中で苦しさとなって揺れていた。
「アラン、不調があればすぐに言ってくださいね。」
彼の声は低く、優しく、それでも少しだけ震えていた。
それに応えてアランは穏やかに頷く。
「ええ、今のところは変わりありません。」
互いの距離は自然と少し空き、ベッドの温もりは遠のく。
それは、もはや抗えぬ制約のように感じられ、やり場のない感情が胸を締めつける。
「耐えなくてよかった日々」が遠い記憶のように霞み、親族や両親からの世継ぎを望む声を一時そっと押し込めてしまえばよかったと、静かな後悔が胸に浸透した。
互いに触れられぬ時間のなかで、それでも愛しい存在が隣にいる幸せだけを噛みしめる。
言葉にせずとも伝わる想いと、切なさが繊細に交錯し、揺れる夜は静かに、しかし長く続いていった。
静かな書斎の窓辺に淡い夕陽が差し込み、アランはそっと封筒を手に取った。深呼吸をひとつしてから、ゆっくりと封を切る指先には、緊張と期待が絡まり合って震えていた。
便箋を広げ、ダンブルドアの筆跡を目にした瞬間、胸の奥に温かな光がじんわりと広がっていくのを感じる。彼の言葉は、遠く離れた場所からも確かな愛情と守護の意志を運んできた。厳しい現実の中でもシリウスを信じ、支え続けるその誠実さに、アランは胸を打たれた。
「親愛なるセシールへ、
あなたの手紙は確かに受け取りました。シリウスの身を案じ、彼の無事を願うあなたの思いは、私にも深く伝わっています。現状は幾分厳しいものの、彼は勇敢な魂を持ち、仲間たちと共に困難を乗り越えています。
私は常に騎士団の一員として、彼と皆の安全を最優先に考えております。どうかあなたもご自身を大切にし、新しい命のために心穏やかに過ごしてください。
いつか直接会える日を信じて、
アルバス・ダンブルドア」
彼のもとにいる限り、きっと大丈夫。
そう強く思いながら、静かに目を閉じて便箋を胸に抱きしめる。
孤独な戦いを続けるシリウスへの祈りと共に、ゆるやかに頬を伝う一筋の涙。温かい気持ちは、決して消えない希望の灯火となり、アランの心を優しく包み込んでいった。夜の静けさの中、書斎には彼女の確かな決意が静かに息づいていた。
夜の闇が静かにブラック邸を包み込むなか、レギュラスは穏やかな表情で告げた。
「数日、任務で国外に出ることになりました」
その言葉は重みと共に響き、アランの胸には複雑な感情が交錯した。
その告知を受け、アランの心の奥底にほのかな安堵が広がる。
ひとりになる時間が訪れること――
まるで束縛の檻を一時的に抜け出したかのような、解放感と自由が心を満たした。
薄明かりの部屋の片隅で、アランは静かに息をつき、窓の外に広がる夜空を見上げる。
星のきらめきがわずかに揺らいで見えた。
目を閉じて、しばしの安らぎを心に宿す。
限られた自由のひとときは、繊細で儚いもの。だが、その小さな隙間が彼女にとっては何よりも貴重な救いだった。
静かに流れる時間のなかで、アランの胸は軽やかに揺れ、明日への一歩をそっと踏み出す力を感じていた。
静まり返った屋敷の廊下に、軽やかな足音が冷たく響く。レギュラスを送り出したばかりのアランは、その音に不意を突かれ、咄嗟に身を引き締めた。扉の向こうからは、あの名高きベラトリックスの気配がじわりと迫ってくる。
彼女の存在は、かつてからアランの心に小さな影を落としていた。どこか鋭く、冷たく、決して好意的でない視線が内心に痛く突き刺さる。屋敷を訪れる彼女の一歩一歩が、胸の奥の緊張を増幅させ、まるで礼賛ではない重苦しい風を運んでくるかのようだ。
扉が静かに開くと、薄闇に浮かぶその姿が見えた。ベラトリックスの氷のように冷たい瞳は、長く静かにアランの内面を見据え、言葉にならぬ警告を放っていた。無言のまま差し出される彼女の存在は、かつての微かな軋轢を呼び覚まし、アランの心を凍らせた。
けれど、アランはゆっくりと深く息を吸い込み、その恐怖を胸の中に静かに封じ込める。強くありたいと願う気持ちが、小さな鼓動となって揺れながらも彼女の全身を包み込んでいた。
その瞬間、屋敷の空気は一変し、繊細で凍てつくような緊張感に満たされながらも、静かな強さと覚悟がほのかに光を放っていた。
薄暗い屋敷の一室に、ベラトリックスの足音が静かに響いた。薄く微笑みながら、彼女はアランの前に立つと、冷ややかな声で告げた。
「祝いの言葉を贈りに来たんだよ。」
その言葉に続いて、使用人がさりげなく箱を差し出し、何かしらの贈り物を預けていったことをほのめかしているのが伝わる。アランは慎み深い微笑みを浮かべ、感謝の言葉を漏らした。
「ありがとう、ベラ。」
しかし、ベラトリックスの瞳は尋常でなく冷たく、じっとアランを見つめる。蛇のように絡みつくその視線は、無言の圧力を孕み、アランの胸に重くのしかかる。
やがて、囁くように厳しい言葉が放たれた。
「お前の腹の子は、本当にレギュラス・ブラックとの子なのかい?」
アランの表情は一瞬、困惑と戸惑いに染まる。何か悪い予兆を感じ取ったのか、不安が胸の奥でざわめき始めた。彼女の瞳には、憶測が原因で巻き起こる激しい動揺と疑念が揺らめいていた。
静かな緊張が空気に満ちるなか、互いの視線が絡まり、言葉にならぬ重さが二人のあいだにじわりと広がる。アランは心の中で問いかけるしかなかった。なぜそんな憶測が流れたのか、と。不安と覚悟を胸に秘めて、静かにその問いの答えを待っていた。
薄暗い部屋の中、アランは深くゆっくりと息を吐き、心の揺れを必死に押し込めて胸を張った。瞳の奥に微かに動揺が宿っても、それを見透かされまいと強い意志を込める。
「もちろん、彼との子以外にありえないわ。」
その言葉は静かに、しかし揺るぎない確信を帯びて響いた。アランの声は震えず、澄んだ凛とした響きを持ち、彼女の誇りと覚悟が溢れ出していた。
だがその決意に反して、部屋の空気は一瞬凍り付く。すぐにベラトリックスの高らかな、しかしどこか不穏な笑い声が響いた。
その笑いは冷たく、まるで嘲笑を伴い、蛇のように空間を這いまわる。感情の高ぶりをさらけ出すようなその声音には、アランの胸を締めつける不安と恐怖が強く刺さる。
アランはその冷たい笑みに立ち尽くしながらも、深く胸を張り続けた。心の内でこぼれそうになる涙はかろうじて堪えられていたが、鋭い刃に触れられたかのような切なさが彼女の胸を鋭く締めつけていた。
静かな強さと繊細な痛みが交錯する一瞬。二人の間に漂う緊張は、あたたかなはずの部屋の隅々を冷たく染めていくようだった。
冬の夜の暗がりが窓辺を染める中、ベラトリックスの声は冷たく鋭く響いた。
「シリウス・ブラックとお前の噂を聞いたものでね。」
その言葉には、どこか底知れぬ苛立ちと嘲りが滲み、噂の詳細こそ明かさぬままも、ろくでもないことばかりであると察せられた。アランの胸には鋭い刃のようにその言葉が突き刺さる。
しかし、アランは揺らぐことなく、凛とした眼差しで応じた。
「誰が何と言おうと、私はレギュラス・ブラックの妻ですから。」
その声には一片の迷いも恐れもなく、過去の幾度もの決断が重く胸にのしかかっていた。かつてどれほどの覚悟を胸に、シリウスの手を離し、己の道を選んだか――その思いが今、静かに胸を詰まらせる。
かすかに震える唇の奥に、決意と哀しみが同居し、夜の闇はその瞬間だけ静かに時間を止めた。強さと切なさを伴う静謐な声が、部屋に柔らかく溶け込み、アランの揺るぎない心の証となった。
薄暗い廊下に、ベラトリックスの冷たい声が低く響き渡った。
「もしあのお方を裏切るようなことがあれば、その時はすべて奪ってやるから、忘れるんじゃないよ。」
その不敵な笑みは、夜の闇よりも冷たく、牙のように刺さる言葉となってアランの胸を貫いた。
視線が絡み合う刹那、アランは静かに彼女を見返す。言葉にはしなくとも、その瞳には揺れる恐怖と決意が交錯していた。
やがて、ベラトリックスの影が遠ざかり、扉が閉じる音が響くと、抗いきれぬ重圧が一気に押し寄せた。
その場に崩れ落ちるように、アランは膝を抱えてしゃがみ込む。息は浅く、凍りつくような恐怖が胸を締め上げ、震える身体を包み込んだ。
小さな吐息が闇の中で震え、繊細な心は壊れそうなほどに痛みを帯びていた。
その孤独の影がそっと広がり、まるで世界のすべてを飲み込むように静かに彼女を包み込んでいく。
ベラトリックスは、石畳を静かに歩きながら思考を巡らせる。その眼差しは爬虫類めいて鋭く、心の奥底で静かな疑念が蠢いていた。
アランとシリウス――二人の間に今も何かしらの絆が残っているのでは、と、女の直感が強く訴えかけてくる。
思い返せば、幼い頃から彼らは同じブラック家の血族としてよく屋敷に出入りし、いつも寄り添っていた。
ときに親族の口から「またマグルの街へ二人で出かけて行った」と伝え聞いたことさえあった。
ホグワーツ時代には「まるで兄妹以上に親しげだった」と囁かれることが幾度となく耳に届いた。
他のデスイーターからも、何気ない話の端々に二人の親密さを思わせる噂が漏れてくる。
この“感触”は決して無下にはできなかった。
闇の帝王の忠実なしもべを自負するベラトリックスにとって、裏切りの芽は決して見逃すわけにはいかないものだった。
アランはレギュラスの妻としてふるまってはいるが、その心の奥底でどこか――シリウスという名の過去に、繋がり続けているのではないか。
もしや、いつかその絆が闇の陣営を裏切る行為へと繋がりはしないか――
信用しきれず、氷のような猜疑が胸に広がる。
だが、ことレギュラスにこの不安をぶつけたところで無駄だとわかっている。
レギュラスのアランへの盲目的な愛と忠誠――
「そんなことあるものか」と一蹴されるのが目に見えていた。
だからこそ、ベラトリックスは密かにアランの周囲を探ることにした。
冷ややかな微笑みを唇の端に浮かべ、ベラトリックスは廊下の影に身を滑らせる。
彼女の動きは音もなく、鋭い視線だけが空虚に漂った。
誰も気づかぬうちに、家のなかでアランの足跡をたどり、その言動や周囲の反応に目を光らせる――
女の勘は、時に最も厄介な真実を引き寄せるものだった。
灯りが消えかかる廊下で、ベラトリックスはただ静かに思う。
裏切りであれ、忠誠であれ、真実はいずれ必ず露わとなる。
その瞬間のすべてを、決して見逃さない。
蛇のような執念を胸に、ひっそりと闇のなかに溶け込んだ。
静寂な夜の帳が屋敷を包みこむ。
アランは窓辺に静かに佇み、遥かな空をゆっくりと見上げていた。
意識の底でひりひりと疼く危機感――
ベラトリックスの視線は今も背後を離れず、何かを探り出そうと確実にこちらを追っている。女の勘が、ひしひしとその存在を警告していた。
胸の奥に冷たく漂う不安。
もしも、ほんの僅かでも隙を見せれば、襲い来る災厄は自分ひとりに留まらない。
今この身に宿る新たな命を――そして、セシール家すべてを巻き込んでしまうかもしれない。
絶対に、それだけは避けなければならない。
アランは小さく息を吐き、指先をそっとお腹に添える。
脈打つ命の重みに背筋が自然と伸び、凛とした決意が胸の内に芽生えてくる。
ひとつひとつの言動、身のこなし、そのすべてに細心の注意を払おう。
どんな些細なきっかけも、災いの種になりうるのだ。
静けさの中、アランのまなざしは凛として美しかった。
脆くも強い意志を秘め、彼女はそっと自分自身に誓いを立てる。
“この命を、家族を、必ず守る。どれほど孤独でも、恐怖に凍える夜でも。”
屋敷に入り込む夜風が、柔らかくカーテンを揺らした。
その微かな音のなか、アランはひとり、どこまでも丁寧に気を引き締め、静かに夜の闇へ心を鎮めていった。
