2章
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ブラック邸の重厚な扉が開かれた時、アランの胸にはふたたび強い緊張が走った。
先日の誓いの夜がまだ記憶の奥に生々しく残っている。高鳴る心臓を押し殺しながら、彼女はベラトリックスを邸内へと迎え入れる。
ベラトリックスはレギュラスの従姉妹。闇の帝王に狂信的な忠誠を捧げるこの女は、サディスティックで危険な存在として魔法界でも恐れられていた。
応接間に腰を下ろすと、ベラトリックスはにやりと笑みを浮かべる。
「レギュラスを守りたいんだろう?」
その唐突な問いに、アランは一瞬言葉を失う。
何を言っているのか分からぬまま、相手の顔色をうかがってしまう。
まさか、何か夫に危険が迫っているのか。
心に走る不安が、静かに膨らんでいく。
「夫が心配なのかい? お嬢ちゃん」
ベラトリックスはおちょくるような声音で、アランをからかった。
その言葉の熱と冷たさが入り混じった視線に、アランは背筋を凍らせる。
それでも、アランは一歩も引かなかった。
静かに息を整え、唇にかすかな微笑みを載せて言い返す。
「ベラ、あの人が負けるなんてことはあり得ないもの。だから心配はしていないわ。」
怯えきっているとばかり思っていたベラトリックスは、アランの反応に僅かに顔をしかめ、不快そうに視線を逸らせた。
重く流れる空気のなか、アランの心にはまだ恐怖が残っていたが、
それでも――この家の中だけは、
少しでも強く、気高さを失わずにいようと小さく決意する。
窓から差し込む光が、互いに見せた微笑みの奥底をすくい上げていた。
ベラトリックスの冷たい視線の裏で、アランのまなざしだけが、
一瞬、芯のある静かな光をたたえていた。
重いカーテン越しの午後、ベラトリックスの声が部屋に鋭く響いた。
「シリウスがいる限り、お前の夫は、いつまで経ってもあの方に認めてはもらえないよ。」
その言葉の奥底にひそむ不安と嘲弄。
アランは一瞬、胸の奥に痛みを覚えたが、決して表情を乱さず、ゆっくりとまっすぐベラトリックスの瞳を見返した。
「それならば、彼なりの忠誠を尽くすのみです。」
きっぱりと答えるアランの声は静かに研ぎ澄まされていた。
ベラトリックスの不安を煽るような物言いにも、決して怯むことなく、
芯のある強さを秘めていた。
ベラトリックスは僅かに口元を歪め、面白くなさげに視線を逸らす。
思いどおりの反応が返ってこなかったことに、わずかな苛立ちを滲ませる。
アラン自身の心には恐れと緊張が色濃く残る。
だがそれ以上に、
レギュラスが選んだ道を、どんな形であれ誇りを持って守ろうとする
小さな誓いが、そっと胸の奥に灯るのだった。
外の光が薄曇りになる。
沈黙のなか、それぞれの想いと秘密だけが、
ひっそりと二人の隙間に静かに揺れていた
夜も更け、屋敷には静かな微光だけが差していた。
レギュラスが重い外套を脱いで帰宅すると、アランはゆるやかに微笑み、その外套を丁寧に受け取った。
「今日、ベラトリックスがいらっしゃいました。」
その言葉に、レギュラスは思わず振り返る。
驚きと警戒が交錯する眼差しで、アランを見つめる。
「……何か、言われましたか?」
アランは優しく微笑み、けれど真実を隠さぬ瞳で静かに告げた。
「あなたの闇の帝王への忠誠が、今もなお試されているって。」
その言葉に、レギュラスは小さくため息をついた。
それは悔しさというより、疲れにも似た吐息だった。
そっと一歩近寄り、レギュラスはアランの手を取る。
その指先が、ほんのりと震えているのは、
不安でも迷いでもなく、愛しさから生まれる温度だった。
「……驚かせたでしょう、すみません。」
その低く静かな声には、
守れない世界と守ろうとするやわらかな想いが、まじりあい揺れていた。
アランはただ、そっとその手を握り返す。
互いの掌のぬくもりだけが、夜の闇にかすかに灯をともした。
小さな言葉と、触れあった手のひらのぬくもりが、
まだ壊れずにふたりを繋いでいた。
静まり返ったダイニングルーム。
夜の闇が窓の外に広がり、ロウソクの灯だけがふたりの顔を淡く照らしていた。
重い沈黙のなか、レギュラスはテーブル越しにアランを見つめる。
「アラン、あなたに危害が及ぶことのないようにしますから。」
その言葉は穏やかで決然としているのに、アランの胸には深い違和感が残った。
――本当に、そういうことではないのに。
レギュラスのまなざしはまっすぐなのに、それは何か、どこかズレている。
闇の帝王が、彼の忠誠を疑って人質を求めるほどの事件が、今目の前の現実になっていること。
その恐ろしさを、彼はどこか別の次元のものとして扱っているようにさえ感じられた。
闇の帝王の前で誓わされ、縛りつけられ、
それでもなおレギュラスは、あの人を崇め従い続けている。
そんな彼の思考には、もはやアランの知る「優しいレギュラス」は見出せなくなりそうだった。
この先、何もかも――ふたりの日々や、記憶や、あたたかな胸のうちの情景まで、
すべてを奪われてしまうのではないか。
午前の光のように、消えてなくなってしまうのではと胸が締め付けられる。
アランは小さく微笑むことすらできず、
テーブルの上でじっと手を重ねあわせ、ただ言葉にできぬ不安と恐怖を噛みしめた。
レギュラスの横顔は、決して揺らぎを見せない。
アランがかつて知っていた優しさも迷いも、
どこか遠い場所に隠れてしまったように思えた。
蝋燭の炎がひとたび揺れるたび、
ふたりの影だけが、テーブルの上でそっと、
冷たい闇に溶けていった。
夜の静謐な執務室。
重厚な帳が窓を覆い、草稿と書類の山がひっそりとペンの音を待っている。
レギュラスは一人、報せの紙切れをじっと見つめていた。
――マグルと魔法界のあいだに敷こうとした絶対の壁。
その理想はあっけなく揺らぎ、かつて掲げた「完全な断絶」も、騎士団――シリウスたちの動きによってひっくり返された。
今や、法は幾分か和らぎ、個人的な接触の全面的な禁止は消え去った。
残されたのは、いくつかの名目上の制約――
たとえば純血とマグル間の結婚や恋愛は禁止されたけれど、以前の峻烈とした隔絶の誓いは失われてしまった。
静かに拳を握りしめる。
こんな結末、レギュラスには想定できなかった。
鮮烈な敗北感と、胸の底で繰り返し膨れ上がる怒り。
騎士団の連中、とりわけ兄シリウス――
あの男がまた、自分の世界を、思惑を、喉元で踏みつけにする。
瞼の裏に、幾度となくアランをめぐって行く手を阻まれた過去がよみがえる。
何を始めても、いつもシリウスがいる。
すべてを邪魔し、理想を笑い、壁を打ち壊そうとする存在。
レギュラスはため息をつき、椅子の背にもたれた。
「……兄さん、あなたにはいったい何が見えているんだ?」
誇りと怒り、裏切りと失望と。
静けさを断ち切ることなく、彼の中で複雑な感情がひたひたと色を帯びて広がっていく。
自分ひとりの理想と、守るべきものがまたしても遠ざかる夜。
机上に落ちる灯りの淡い輪郭のなかで、
密やかな孤独とやるせなさが静かに震えていた。
孤独な書斎で、紅葉が揺れる窓辺の影がゆらりと揺れ動く。
忌まわしきシリウスの嘲笑が、頭の中で繰り返しざわめく。
まるで鼻で笑われているかのような、その幻影に、レギュラスの胸は憤りで満ちあふれていた。
何度深く息をついても、苛立ちは霧のように濃くなり、
冷たい闇に凍りつく思考の狭間で、どうにかなりそうだった。
そんなとき、ドアの向こうからノックの音がする。
アランの声が控えめに響いた。
「紅茶を淹れました。」
その声にどこか機嫌を伺うような微妙な響きが混じり、
レギュラスの苛立ちはいっそう深く膨らむ。
「またマグルの世界に行き来できるようになったみたいですよ。」
冷たくも含むような声で投げかける。
「あなたが学生だった頃、シリウスと一緒に歩いたマグルの街です」
嫌味のように付け加えてやりたい言葉が幾つもあったが、
アランはただ黙って、静かに紅茶を淹れる。
彼女の動作は丁寧で柔らかく、けれどその瞳の奥には何も語られぬ深い沈黙が宿っていた。
言葉にしないその沈黙が、
レギュラスの心の奥で、さらに重く、冷たく響いた。
音もなく滴る茶の香りが静かに部屋に満ちていく。
二人の間には言葉よりも熱く切ない葛藤が漂い、
秋の夕暮れのように淡く、そして確かに包み込まれていた。
書斎の空気は張り詰め、破れそうなほど脆い静寂がふたりを包み込む。
苛立ちに満ちたレギュラスの語調は、鋭い刃のように室内の空気を裂いていた。
彼の言葉は刺さり、動作は乱れ、アランの存在そのものが怒りの拠り所として翻弄される。
アランは耐えかねるように無言で席を立ち、部屋を出ようとする。
その肩を、レギュラスが強引に引き止めた。
感情に揺れる瞳で彼女を見つめ――
「聞きたいことがあります、アラン。」
彼女は小さく頷き、止まったまま静かに振り向く。
アランの瞳は、どこまでも深く、まるでレギュラスの心の奥底まで見透かすようなまなざしだった。
その無言の強さが、かえってレギュラスの苛立ちを煽る。
乱暴に息を吐き、言葉を押し出す。
「僕は……兄を殺します。」
一瞬、アランのまなざしが揺れたように思えた。
レギュラスはそこから目を逸らせず、問いにすがるような声を重ねる。
「どう思います?」
静寂――
アランの反応を窺うその瞬間、夜の帳のなかで彼自身の弱さや痛み、
すべてが露わになる。
アランの唇がかすかに震え、どこかで世界が音もなくひび割れてゆく。
遠くで雨が降っているような、冷たく静かな時間だけがふたりの間を流れていた。
レギュラスは答えを急ぐようにその表情を見つめて、
それでもなお、凍てつく不安の只中でもがいていた。
重たい静寂が、書斎の空気をさらに圧し沈めていた。
レギュラスの言葉に、アランはふっと目線を落とす。
そして小さな声で、けれど芯のある静けさをたたえて呟いた。
「あなたが自分で決めたのなら、私の言葉なんて、きっと響かないのでしょう?」
その返答は、レギュラスのどこかを冷ややかに震わせた。
思い描いていた答えではなかった。
彼女が泣き崩れ、声にならぬ叫びで引き止めてくる――そんな激情をひそかに期待していた自分に、冷静な諦めと淡い距離が返されることが、なおさら苛立ちを焚きつけた。
「……もっと泣き喚くかと思いましたが。意外と冷静なんですね。」
声ににじむ皮肉と苛立ち。
それでもアランは、静かに視線を上げ、揺らぎを隠そうとする。
泣くだけの弱さにも、取り乱すことにも頼らず、
ただ、深い痛みのなかですべてを小さく飲み込もうとしていた。
レギュラスの胸に、じわじわと怒りが膨らんでいく。
この女は――
彼女はきっと、今も誰よりもシリウスを思っている。
殺すと言い放たれて、心の奥では大きく動揺しているはずなのに。
その本音を白々しく隠し、形ばかりの受け答えで取り繕う。
そんなアランの頑なさと強さが、逆に堪らなく腹立たしく思えた。
テーブルの上に置かれた手が、音もなく小さく震える。
それでも、アランの横顔は静かで、淡い光に浮かび上がる輪郭はどこまでも美しかった。
二人を包むやりきれぬ距離と諦めのなか、
心の奥だけが、なお鋭く痛んだまま夜へと沈んでいく。
炎の小さな揺らぎだけが、冷たい影の長さを静かに測っていた。
アランは静かな夜の自室で、一枚の手紙を書いていた。
シリウスの姿も所在も、今は知る術がない。伝えたいことが山ほどあるのに、その居場所に宛てる言葉も宙に浮いてしまう。
それでも、ただ黙って何も願わずにいることはできなかった。
インク壺に羽根ペンを浸し、アランはそっと宛先に書く。
「ホグワーツ校長 アルバス・ダンブルドア様」
こうすれば、ダンブルドアが必ずシリウスに知らせてくれるはずだ。ホグワーツは希望と信頼の懸け橋だった。
便箋には震えるような筆跡でこう綴る――
シリウスへ
あなたがこれを読んでくれていることを心の底から祈っています。
マグルにまつわる新しい法律が撤回されたこと、本当に素晴らしいことだと思っています。
けれどその一方で、闇の陣営は苛立ち、今まで以上に過激になっていると感じます。
どうか自身の身を案じてください。
あなたの理想は、多くの人を勇気づけ、変えようとしています。
でも、あなたが倒れてしまっては、
どんな未来も、誰にも紡ぐことはできません。
直接伝えられないもどかしさを抱えたまま、アランは筆を止めた。
静かに封をし、ホグワーツのダンブルドア校長宛てに書き添える。
夜の闇の向こうへ放たれる祈り。
すべてのやさしさと切なさが、紙のうえで凛と震えていた。
アランの部屋に、静かなノックの音が響く。
「先ほどはすみません、言い過ぎました。」
扉の向こうでレギュラスの声がかすかに揺れる。
アランは椅子から立ち上がり、投げかけられた言葉を胸に、そのまま扉を開けた。
「いいえ、気になさらないで。」
淡い微笑みを浮かべてそう答える。
けれど本当のところ、心の奥には小さな棘のような痛みが残っていた。
無理もない、とアランは自分に言い聞かせる。
闇の帝王から絶え間なく託される重大な任務――
その重圧に、緩む間もなく気を張り詰めてきたレギュラス。
ようやく築き上げた法すら騎士団の手によって覆され、
積み重ねてきたものすべてが崩れていく絶望と怒り。
彼の中で何かが壊れてしまうのも仕方がないのかもしれない。
しかも今回の騒動――
シリウスの存在が裏切りを想定させ、人質という名の痛みまで強いられている。
家族も信頼も、脆くも糸のようにさえぎれそうな日々。
レギュラスの心が穏やかであるはずもなく、
その波が自分に及ぶのも――
妻として抱きとめるべき宿命だと、アランは静かに思った。
ふいにレギュラスがそっと歩み寄り、
彼女をそっと、けれどしっかりと両腕で抱き寄せた。
その手のぬくもりと、微かな震え――
すべてが言葉以上に、懺悔の想いを訴えかける。
アランは抵抗もせず、静かにその胸に身を預けた。
傷つき、もがき続ける彼の重みが、腕を通して痛いほど伝わる。
「大丈夫よ。」
声に出すことはなく、心のなかでそっと呟く。
この痛みも孤独も、
今だけは二人で分け合えるのだと信じて。
揺れる蝋燭の明かりの下、
言葉にならないぬくもりと切なさが、
永く夜の静けさの中で、ゆるやかに溶け合っていた。
レギュラスはふとアランの横のテーブルに目を留めた。
インク瓶の蓋がわずかに歪み、羽根ペンの先に黒い染みが残っている。
まるですぐそこで何か大切な手紙が書かれていたことを、慎ましく主張していた。
「――手紙を送ったんですか?」
不意にレギュラスが問いかける。
そのやわらかな声音に、アランの心臓がどきりと跳ねた。
「ええ、母に。」
咄嗟に紡いだ嘘。だが、すぐに表情を整えて微笑む。
「セシール夫人はおかわりないですか?」
レギュラスの問いにも、アランは静かに頷いた。
「ええ、母は“孫の顔を”とばかり言ってるわ。」
本当と嘘とを、慎重に混ぜ合わせた。少しでもレギュラスを納得させたくて。
そのとき、レギュラスは少しだけ恐縮したような目をした。
「そのことですが……」
ほんのわずかに申し訳なさげに、彼は目線を落とす。
「本当に無理はしなくていいんです。うちの母や、あなたのご実家からも色々言われて、きっとストレスでしょう?
……僕は、あなたを世継ぎのためだけの相手だなんて思っていません。
この屋敷が息苦しいなら、別の場所に住まいを移しても。」
アランはそっと、彼の言葉を遮る。
「いいの、いいの。ある程度は……仕方のないことよ。」
できるだけ明るい声で、少しだけ微笑みを添えて続ける。
「それに、私も――少しは、楽しみに思えてきたから。」
本当は、胸の奥でじくじくと痛みが募っていた。
レギュラスの不器用で、どこかずれている優しさ。
それでも彼は、懸命に自分を思いやろうとしてくれている。
それを、受け止めてあげたかった。
けれど、本当に伝えたいことはこの言葉ではなかった。
机上の冷たいインクのしずくも、宙に消えていく本心も、
どちらも声にできぬまま沈んでいく。
淡いランプの光がそっと二人の影を重ねて、
言葉の隙間にかすかな孤独と哀しみを染み込ませていた。
夜の闇が静かにアランの部屋を包み込み、寝室へ向かうこともなく、そのまま温かな灯りの中で二人は重なり合った。レギュラスの胸には、先ほど口にしてしまった言葉の重さと、周囲からの世継ぎに対する期待の圧に対する申し訳なさが、静かに、しかし確かに渦巻いていた。
彼の中で芽生えたのは、己の欲望ではなく、ただひたすらにアランの悦びを望む深い思いやりだった。指先は優しく愛しみを伝え、何度も何度もアランに絶頂を与えながら、そのひとつひとつの瞬間にどこか小さな罪悪感が影を落とす。その罪は、彼女を傷つけてしまうのではという恐れ、そして自分の身勝手さへの痛み。それでも、アランから溢れる柔らかな吐息や切なげな声が、レギュラスの心を満たしていった。
「愛しているから、傷つけたくない。大切にしたい。」
言葉にせずとも、その感情だけが、静かに、確かに伝わる。彼が注ぐ愛は、肉体の交わりだけに留まらず、繊細な心のひだを包み込む温もりとなって満ちていった。
その夜の行為は、レギュラスにとってもアランにとっても、ただただ尽くし合うやわらかな祈りのようで、それは美しく、切なく、そして柔らかな光を纏いながら、深い愛の証として静かに息づいていた。
夜の静寂のなか、レギュラスの指先がそっと肌を這い、絡みつく舌が優しく触れる。
その温もりは、まるで長い間待ち望んでいた愛の証のように感じられた。
レギュラスの瞳は、あのシリウスと同じ色をしていて、切なさと祈りを秘めていた。
その眼差しに包まれるたび、胸の奥が震えて、涙がこらえきれなくなりそうになる。
けれど、その甘やかな牽引のなかで、ひとつ消しきれぬ罪悪感が静かに揺れ動く。
もうシリウスとの夜の記憶は、朧げに霞み、過ぎ去った日の幻影となった。
それでも、回想を閉ざした心のどこかで、比べてしまう自分がいる。
レギュラスとの重ねた時間は確かに多く、
身体の刻まれた印や吐息が物語るけれど、
それでも完全に愛しきれていない自分に、胸が締めつけられる。
愛情の深さと罪の重さが交錯し、感情は複雑に絡み合っている。
それは決して贅沢な苦悩ではなく、心が真実を求めてもがく繊細な痛みだった。
レギュラスの指がゆっくりと、まるで許しを乞うように触れてくる。
その熱は、優しさと切なさを秘めた甘い囁きのようだった。
「愛しています。」
――その言葉が、静かに闇に溶けていく。
胸の中で震える孤独と迷いを抱えながら、
それでも今、ここにある愛の温度に触れていた。
彼の鼓動が重なるたび、さらなる深みへと落ちていくのを覚えながら。
涙と共に訪れるのは、赦しと希望の入り混じる夜の静けさだった。
夕暮れの柔らかな光が、セシール家の広間を優しく包み込んでいた。
レギュラスは重い任務の終わり、疲れた面持ちを隠しつつ、夫人のもとへと静かに歩み寄る。
夫人は穏やかな微笑みで出迎え、まるで長い間待ちわびていたかのように温かくレギュラスを迎え入れた。
手土産の小箱を差し出しながら、レギュラスは丁寧に尋ねる。
「お体はいかがですか? 久しく訪ねることができませんでしたから。」
夫人の瞳は一瞬曇るものの、すぐに静かな呟きが漏れた。
「そうね、娘からの便りが全くなくて……夫婦仲良く過ごしてくださってるなら問題ないのだけれど……」
その言葉の重みに、レギュラスの胸が締めつけられる。
先日、あのアランが母宛に手紙を書いたと聞いていたはずなのに、夫人の口からは、それが嘘だったことが自然に明かされる。
言葉にはならぬ不信と寂しさを覚えながらも、レギュラスは夫人に適当に応じる。
「ご心配なく。アランにも便りをを返すよう伝えておきますね」
しかし、胸の中では、「誰に宛てて書いたのか——」と問い詰めたい気持ちが小さく波打っていた。
家路を急ぎながら、彼はそっと心を引き締める。
いまは焦らず、真実を見極める時だと。
帰り着いた屋敷の扉を開けるその手に、迷いと覚悟が揺れていた。
重く深い夜の静けさのなか、これから待つ問いが、二人の未来をひそかに揺らし始めていた。
夜の帳が、静かにブラック邸を覆い尽くしていた。
帰宅したレギュラスは、外套も脱がぬまま、迷いなくフクロウ小屋まで足を運んだ。
屋敷の奥にある薄暗い小屋のなか、乾いた藁の匂いと鋭い鳥の気配が満ちている。フクロウの止まり木にしがみつく爪の音がわずかに響き、レギュラスは息をひそめて檻の中を見渡した。
――先日、アランが託したあの手紙。
彼の指先が魔法の記録紙を撫でると、フクロウの飛行経路が薄く光り浮かび上がった。
「……ホグワーツ。ダンブルドア宛て。」
その行き先を確信した瞬間、ぶわりと熱が頭に上がる。次の一呼吸さえ忘れ、全身から血の気が引いていく感覚に襲われた。
“どうして――なぜ、アランが、よりにもよってダンブルドアに宛てて……?”
騎士団の長、魔法界最大の対立勢力。デスイーターの妻でありながら、その存在に手紙を託すなど、あまりにも大胆な裏切りだった。
レギュラスの胸はぎゅっと締めつけられ、目の前が一瞬暗く霞む。フクロウの羽ばたきが遠い嵐のように響き、心の中で渦巻く苦しさが、奥底まで波紋のようにひろがっていく。
アランがどんな気持ちで手紙を書き、誰の名を頼りに未来を託したのか――
それを考えるたびに、愛しさと痛みが入り混じって、どうしようもなく胸が苦しくなる。
夜風が小屋の隙間から静かに吹き込み、レギュラスの外套を冷たく揺らした。
喉の奥がひりつき、誇りと信頼のはざまで、彼の心はただ静かに沈んでいった。
夕暮れの薄明かりに染まる廊下を、レギュラスは静かに歩いて戻った。
「戻りました。」
控えめな声が部屋に響くと、アランはいつも通りの柔らかな笑みで迎え入れた。
その自然な振る舞いに、一瞬だけ胸が締めつけられるのを感じながらも、レギュラスは深く息を吸い込み、心の昂りを抑え込む。
問い詰めたい衝動が激しく胸を波打つ。
だが、「冷静に」と理性が静かにささやき、必死に感情を押し込めた。
「今日、セシール家に顔を出しました。」
静かな声で言い、その言葉一つひとつをアランの表情に丁寧に重ねていく。
彼女のわずかな反応、瞳の色、その奥に潜むものを見逃すまいと、注意深く観察する。
アランは一瞬だけ視線を落とすが、何事もなかったかのように微笑みを返す。
その隠された揺らぎに、レギュラスの胸はふたたびざわめく。
言葉にされぬ思いが交錯する静かな室内。
ふたりの間に漂う繊細な空気は、言葉よりも雄弁にそれぞれの心の機微を映し出していた。
リビングの光がやわらかな影を落とすなか、アランは静かに尋ねた。
「母の様子は変わりなかったかしら?」
レギュラスは一瞬だけ視線を交わし、穏やかな声で答えた。
「ええ、お元気そうでした。娘からの便りがないと残念がっていましたよ。」
その言葉を告げながらも、レギュラスはわずかにアランの反応を窺うように見つめていた。アランの顔には、一瞬柔らかな陰りが差し込むものの、すぐに微笑みをたたえた。
「先日、手紙を出したのに、届かなかったのかしら…」
それはあたかも自然な疑問のような言葉だった。だが胸の奥で、レギュラスは冷たい何かが胸を刺すような感触を覚えた。ふと目をやると、あのフクロウの記録にはセシール家宛の手紙は一通も存在しなかった。つまり、アランの言葉は、何でもないように思える嘘だったのだ。
その静かな嘘に、レギュラスの心は深く傷つき、確かな裏切りの感覚が胸の奥でじわじわと広がっていく。何度も何度も愛してきた妻が、自分の知らぬところで何をしようとしているのか、その先を思えば思うほど、悲しさだけが増していった。
愛しき人が見せる、すれ違う影に、どうすれば辿りつけるのか。レギュラスはただ静かにその胸の痛みを抱きしめたまま、複雑な思いを秘めて彼女を見つめ続けていた。
「うちのフクロウも、そろそろ歳かもしれませんね。」
その声は穏やかで、けれどどこか翳りがあった。
「歳を取れば、フクロウも目的にたどり着くことすら難しくなるものですし。手紙が宛先に届かないことも、年老いた彼ならありうることだったのかもしれません。」
それはまるで、アランの白々しい嘘に寄り添うかのような優しい言葉だった。
レギュラスの瞳は、抑えきれぬ衝撃の中で必死に折り合いをつけるように、心を守る鎧をまとっていた。
アランは小さく息をつき、「また書きます」と告げた。
その声はか細く、それでいてどこか遠くから響くようで、レギュラスの胸にはもう響かなかった。
裏切りの重みに押しつぶされそうな彼の心は、壊れそうな繊細なガラス細工のようだった。
誰にも見せまいと震えるその内部で、愛と哀しみが交錯し、静かに散っていった。
夜の闇は深く、その沈黙だけが、ふたりの間に冷たく、遠く広がっていった。
夕暮れの柔らかな光がアランの作業机をそっと照らし出す。彼女は静かに魔法薬の調合に向き合い、指先は手慣れた動きで慎重に瓶の中へと液体を注いでいった。完成したいくつかの薬は、透明感のある色彩を放ち、彼女の持つ繊細な技術と情熱が込められているようだった。
控えめな香りが部屋の中に漂い、アランの表情にはどこか穏やかな誇りが浮かぶ。それでも心の奥では、知らずに過ぎていく緊張と秘密を抱えていた。レギュラスがダンブルドア宛ての手紙を読み取ったことを夢にも知らず、彼女は淡い希望とともに、再びあの薬屋へ薬を卸しに行くつもりでいた。
「また、あの場所に……」
小さく呟く声に、決意がこもる。目の前の薬瓶は、ただの調合品以上の意味を持ち、誰にも見せられぬ彼女だけの祈りのように感じられた。繊細な光が薬瓶の縁を透かし、彼女の影を壁に長く伸ばす。
その日、アランは静かに自分の道を歩いていた。何も知らぬレギュラスの背中を遠くに見送りながら、彼女の胸の奥には揺るぎない意志と少しの孤独が宿っていた。夕刻の沈黙がふたりの時間に静かに溶け込んでいった。
薄明かりのダイニングルームで、テーブルを挟んで向かい合う二人。
アランは静かな笑みを浮かべながら、丁寧に瓶詰めされた魔法薬を差し出した。
「今日、いくつか新しく完成させたの。あなたにもどうぞ。」
その声には、夫の無事を願う澄んだ想いが込められていた。任務に赴くレギュラスの体を少しでも支えられたらと、小さな気遣いを忘れない彼女の優しさがにじみ出ている。
レギュラスは黙って受け取り、柔らかく微笑んだ。
「ええ、ありがたく貰っておきますね。」
彼の言葉には感謝と、遠くで支えてくれる妻への深い信頼が滲んでいた。
指先が薬瓶の冷たさを感じながらも、その重みは温かい安心を伴っていた。
食卓の灯りが二人を柔らかく包み込み、静かな夜の時間がゆっくりと流れていく。
言葉は少なくとも、ふたりの間には確かな繋がりと祈りが満ちていた。
夕暮れの屋敷の窓辺、沈みゆく陽の光が柔らかく室内を包み込んでいた。レギュラスはそっとアランの横顔を見つめ、静かな声で尋ねる。
「ところで、またあの薬屋に行くつもりですか?」
言葉には探るような、しかし揺らぎのない瞳が注がれていた。アランはその視線に一瞬だけ心が揺れたものの、何も知らぬふりを強く心に決めて穏やかに答えた。
「ええ、卸したらすぐに帰ります。」
言葉に乗せたのは、嘘でもなく、飾りでもない一種の誠実さだった。ただし、その裏では隠しきれぬ緊張が体の奥にひそむ。レギュラスがすでに薬屋のことをクリーチャーに調べさせ、騎士団の利用を把握しているのは明らかだった。けれど彼の問いに、あくまで町で一番の老舗という納得のいく理由を添えて乗り切ったことを思い出す。
レギュラスは軽く微笑み、小さく頷くと、低い声で言った。
「クリーチャーを連れて行ってくださいね。」
その一言に、互いの胸中に微かな波紋が広がる。気づいてはいるけれど、互いを傷つけまいと繕う強さと切なさが混じり合う、繊細な瞬間だった。
夕暮れの光がふたりの影を長く引き延ばし、静かな覚悟と隠された真実が、そっと優しくその場を包み込んでいた。
先日の誓いの夜がまだ記憶の奥に生々しく残っている。高鳴る心臓を押し殺しながら、彼女はベラトリックスを邸内へと迎え入れる。
ベラトリックスはレギュラスの従姉妹。闇の帝王に狂信的な忠誠を捧げるこの女は、サディスティックで危険な存在として魔法界でも恐れられていた。
応接間に腰を下ろすと、ベラトリックスはにやりと笑みを浮かべる。
「レギュラスを守りたいんだろう?」
その唐突な問いに、アランは一瞬言葉を失う。
何を言っているのか分からぬまま、相手の顔色をうかがってしまう。
まさか、何か夫に危険が迫っているのか。
心に走る不安が、静かに膨らんでいく。
「夫が心配なのかい? お嬢ちゃん」
ベラトリックスはおちょくるような声音で、アランをからかった。
その言葉の熱と冷たさが入り混じった視線に、アランは背筋を凍らせる。
それでも、アランは一歩も引かなかった。
静かに息を整え、唇にかすかな微笑みを載せて言い返す。
「ベラ、あの人が負けるなんてことはあり得ないもの。だから心配はしていないわ。」
怯えきっているとばかり思っていたベラトリックスは、アランの反応に僅かに顔をしかめ、不快そうに視線を逸らせた。
重く流れる空気のなか、アランの心にはまだ恐怖が残っていたが、
それでも――この家の中だけは、
少しでも強く、気高さを失わずにいようと小さく決意する。
窓から差し込む光が、互いに見せた微笑みの奥底をすくい上げていた。
ベラトリックスの冷たい視線の裏で、アランのまなざしだけが、
一瞬、芯のある静かな光をたたえていた。
重いカーテン越しの午後、ベラトリックスの声が部屋に鋭く響いた。
「シリウスがいる限り、お前の夫は、いつまで経ってもあの方に認めてはもらえないよ。」
その言葉の奥底にひそむ不安と嘲弄。
アランは一瞬、胸の奥に痛みを覚えたが、決して表情を乱さず、ゆっくりとまっすぐベラトリックスの瞳を見返した。
「それならば、彼なりの忠誠を尽くすのみです。」
きっぱりと答えるアランの声は静かに研ぎ澄まされていた。
ベラトリックスの不安を煽るような物言いにも、決して怯むことなく、
芯のある強さを秘めていた。
ベラトリックスは僅かに口元を歪め、面白くなさげに視線を逸らす。
思いどおりの反応が返ってこなかったことに、わずかな苛立ちを滲ませる。
アラン自身の心には恐れと緊張が色濃く残る。
だがそれ以上に、
レギュラスが選んだ道を、どんな形であれ誇りを持って守ろうとする
小さな誓いが、そっと胸の奥に灯るのだった。
外の光が薄曇りになる。
沈黙のなか、それぞれの想いと秘密だけが、
ひっそりと二人の隙間に静かに揺れていた
夜も更け、屋敷には静かな微光だけが差していた。
レギュラスが重い外套を脱いで帰宅すると、アランはゆるやかに微笑み、その外套を丁寧に受け取った。
「今日、ベラトリックスがいらっしゃいました。」
その言葉に、レギュラスは思わず振り返る。
驚きと警戒が交錯する眼差しで、アランを見つめる。
「……何か、言われましたか?」
アランは優しく微笑み、けれど真実を隠さぬ瞳で静かに告げた。
「あなたの闇の帝王への忠誠が、今もなお試されているって。」
その言葉に、レギュラスは小さくため息をついた。
それは悔しさというより、疲れにも似た吐息だった。
そっと一歩近寄り、レギュラスはアランの手を取る。
その指先が、ほんのりと震えているのは、
不安でも迷いでもなく、愛しさから生まれる温度だった。
「……驚かせたでしょう、すみません。」
その低く静かな声には、
守れない世界と守ろうとするやわらかな想いが、まじりあい揺れていた。
アランはただ、そっとその手を握り返す。
互いの掌のぬくもりだけが、夜の闇にかすかに灯をともした。
小さな言葉と、触れあった手のひらのぬくもりが、
まだ壊れずにふたりを繋いでいた。
静まり返ったダイニングルーム。
夜の闇が窓の外に広がり、ロウソクの灯だけがふたりの顔を淡く照らしていた。
重い沈黙のなか、レギュラスはテーブル越しにアランを見つめる。
「アラン、あなたに危害が及ぶことのないようにしますから。」
その言葉は穏やかで決然としているのに、アランの胸には深い違和感が残った。
――本当に、そういうことではないのに。
レギュラスのまなざしはまっすぐなのに、それは何か、どこかズレている。
闇の帝王が、彼の忠誠を疑って人質を求めるほどの事件が、今目の前の現実になっていること。
その恐ろしさを、彼はどこか別の次元のものとして扱っているようにさえ感じられた。
闇の帝王の前で誓わされ、縛りつけられ、
それでもなおレギュラスは、あの人を崇め従い続けている。
そんな彼の思考には、もはやアランの知る「優しいレギュラス」は見出せなくなりそうだった。
この先、何もかも――ふたりの日々や、記憶や、あたたかな胸のうちの情景まで、
すべてを奪われてしまうのではないか。
午前の光のように、消えてなくなってしまうのではと胸が締め付けられる。
アランは小さく微笑むことすらできず、
テーブルの上でじっと手を重ねあわせ、ただ言葉にできぬ不安と恐怖を噛みしめた。
レギュラスの横顔は、決して揺らぎを見せない。
アランがかつて知っていた優しさも迷いも、
どこか遠い場所に隠れてしまったように思えた。
蝋燭の炎がひとたび揺れるたび、
ふたりの影だけが、テーブルの上でそっと、
冷たい闇に溶けていった。
夜の静謐な執務室。
重厚な帳が窓を覆い、草稿と書類の山がひっそりとペンの音を待っている。
レギュラスは一人、報せの紙切れをじっと見つめていた。
――マグルと魔法界のあいだに敷こうとした絶対の壁。
その理想はあっけなく揺らぎ、かつて掲げた「完全な断絶」も、騎士団――シリウスたちの動きによってひっくり返された。
今や、法は幾分か和らぎ、個人的な接触の全面的な禁止は消え去った。
残されたのは、いくつかの名目上の制約――
たとえば純血とマグル間の結婚や恋愛は禁止されたけれど、以前の峻烈とした隔絶の誓いは失われてしまった。
静かに拳を握りしめる。
こんな結末、レギュラスには想定できなかった。
鮮烈な敗北感と、胸の底で繰り返し膨れ上がる怒り。
騎士団の連中、とりわけ兄シリウス――
あの男がまた、自分の世界を、思惑を、喉元で踏みつけにする。
瞼の裏に、幾度となくアランをめぐって行く手を阻まれた過去がよみがえる。
何を始めても、いつもシリウスがいる。
すべてを邪魔し、理想を笑い、壁を打ち壊そうとする存在。
レギュラスはため息をつき、椅子の背にもたれた。
「……兄さん、あなたにはいったい何が見えているんだ?」
誇りと怒り、裏切りと失望と。
静けさを断ち切ることなく、彼の中で複雑な感情がひたひたと色を帯びて広がっていく。
自分ひとりの理想と、守るべきものがまたしても遠ざかる夜。
机上に落ちる灯りの淡い輪郭のなかで、
密やかな孤独とやるせなさが静かに震えていた。
孤独な書斎で、紅葉が揺れる窓辺の影がゆらりと揺れ動く。
忌まわしきシリウスの嘲笑が、頭の中で繰り返しざわめく。
まるで鼻で笑われているかのような、その幻影に、レギュラスの胸は憤りで満ちあふれていた。
何度深く息をついても、苛立ちは霧のように濃くなり、
冷たい闇に凍りつく思考の狭間で、どうにかなりそうだった。
そんなとき、ドアの向こうからノックの音がする。
アランの声が控えめに響いた。
「紅茶を淹れました。」
その声にどこか機嫌を伺うような微妙な響きが混じり、
レギュラスの苛立ちはいっそう深く膨らむ。
「またマグルの世界に行き来できるようになったみたいですよ。」
冷たくも含むような声で投げかける。
「あなたが学生だった頃、シリウスと一緒に歩いたマグルの街です」
嫌味のように付け加えてやりたい言葉が幾つもあったが、
アランはただ黙って、静かに紅茶を淹れる。
彼女の動作は丁寧で柔らかく、けれどその瞳の奥には何も語られぬ深い沈黙が宿っていた。
言葉にしないその沈黙が、
レギュラスの心の奥で、さらに重く、冷たく響いた。
音もなく滴る茶の香りが静かに部屋に満ちていく。
二人の間には言葉よりも熱く切ない葛藤が漂い、
秋の夕暮れのように淡く、そして確かに包み込まれていた。
書斎の空気は張り詰め、破れそうなほど脆い静寂がふたりを包み込む。
苛立ちに満ちたレギュラスの語調は、鋭い刃のように室内の空気を裂いていた。
彼の言葉は刺さり、動作は乱れ、アランの存在そのものが怒りの拠り所として翻弄される。
アランは耐えかねるように無言で席を立ち、部屋を出ようとする。
その肩を、レギュラスが強引に引き止めた。
感情に揺れる瞳で彼女を見つめ――
「聞きたいことがあります、アラン。」
彼女は小さく頷き、止まったまま静かに振り向く。
アランの瞳は、どこまでも深く、まるでレギュラスの心の奥底まで見透かすようなまなざしだった。
その無言の強さが、かえってレギュラスの苛立ちを煽る。
乱暴に息を吐き、言葉を押し出す。
「僕は……兄を殺します。」
一瞬、アランのまなざしが揺れたように思えた。
レギュラスはそこから目を逸らせず、問いにすがるような声を重ねる。
「どう思います?」
静寂――
アランの反応を窺うその瞬間、夜の帳のなかで彼自身の弱さや痛み、
すべてが露わになる。
アランの唇がかすかに震え、どこかで世界が音もなくひび割れてゆく。
遠くで雨が降っているような、冷たく静かな時間だけがふたりの間を流れていた。
レギュラスは答えを急ぐようにその表情を見つめて、
それでもなお、凍てつく不安の只中でもがいていた。
重たい静寂が、書斎の空気をさらに圧し沈めていた。
レギュラスの言葉に、アランはふっと目線を落とす。
そして小さな声で、けれど芯のある静けさをたたえて呟いた。
「あなたが自分で決めたのなら、私の言葉なんて、きっと響かないのでしょう?」
その返答は、レギュラスのどこかを冷ややかに震わせた。
思い描いていた答えではなかった。
彼女が泣き崩れ、声にならぬ叫びで引き止めてくる――そんな激情をひそかに期待していた自分に、冷静な諦めと淡い距離が返されることが、なおさら苛立ちを焚きつけた。
「……もっと泣き喚くかと思いましたが。意外と冷静なんですね。」
声ににじむ皮肉と苛立ち。
それでもアランは、静かに視線を上げ、揺らぎを隠そうとする。
泣くだけの弱さにも、取り乱すことにも頼らず、
ただ、深い痛みのなかですべてを小さく飲み込もうとしていた。
レギュラスの胸に、じわじわと怒りが膨らんでいく。
この女は――
彼女はきっと、今も誰よりもシリウスを思っている。
殺すと言い放たれて、心の奥では大きく動揺しているはずなのに。
その本音を白々しく隠し、形ばかりの受け答えで取り繕う。
そんなアランの頑なさと強さが、逆に堪らなく腹立たしく思えた。
テーブルの上に置かれた手が、音もなく小さく震える。
それでも、アランの横顔は静かで、淡い光に浮かび上がる輪郭はどこまでも美しかった。
二人を包むやりきれぬ距離と諦めのなか、
心の奥だけが、なお鋭く痛んだまま夜へと沈んでいく。
炎の小さな揺らぎだけが、冷たい影の長さを静かに測っていた。
アランは静かな夜の自室で、一枚の手紙を書いていた。
シリウスの姿も所在も、今は知る術がない。伝えたいことが山ほどあるのに、その居場所に宛てる言葉も宙に浮いてしまう。
それでも、ただ黙って何も願わずにいることはできなかった。
インク壺に羽根ペンを浸し、アランはそっと宛先に書く。
「ホグワーツ校長 アルバス・ダンブルドア様」
こうすれば、ダンブルドアが必ずシリウスに知らせてくれるはずだ。ホグワーツは希望と信頼の懸け橋だった。
便箋には震えるような筆跡でこう綴る――
シリウスへ
あなたがこれを読んでくれていることを心の底から祈っています。
マグルにまつわる新しい法律が撤回されたこと、本当に素晴らしいことだと思っています。
けれどその一方で、闇の陣営は苛立ち、今まで以上に過激になっていると感じます。
どうか自身の身を案じてください。
あなたの理想は、多くの人を勇気づけ、変えようとしています。
でも、あなたが倒れてしまっては、
どんな未来も、誰にも紡ぐことはできません。
直接伝えられないもどかしさを抱えたまま、アランは筆を止めた。
静かに封をし、ホグワーツのダンブルドア校長宛てに書き添える。
夜の闇の向こうへ放たれる祈り。
すべてのやさしさと切なさが、紙のうえで凛と震えていた。
アランの部屋に、静かなノックの音が響く。
「先ほどはすみません、言い過ぎました。」
扉の向こうでレギュラスの声がかすかに揺れる。
アランは椅子から立ち上がり、投げかけられた言葉を胸に、そのまま扉を開けた。
「いいえ、気になさらないで。」
淡い微笑みを浮かべてそう答える。
けれど本当のところ、心の奥には小さな棘のような痛みが残っていた。
無理もない、とアランは自分に言い聞かせる。
闇の帝王から絶え間なく託される重大な任務――
その重圧に、緩む間もなく気を張り詰めてきたレギュラス。
ようやく築き上げた法すら騎士団の手によって覆され、
積み重ねてきたものすべてが崩れていく絶望と怒り。
彼の中で何かが壊れてしまうのも仕方がないのかもしれない。
しかも今回の騒動――
シリウスの存在が裏切りを想定させ、人質という名の痛みまで強いられている。
家族も信頼も、脆くも糸のようにさえぎれそうな日々。
レギュラスの心が穏やかであるはずもなく、
その波が自分に及ぶのも――
妻として抱きとめるべき宿命だと、アランは静かに思った。
ふいにレギュラスがそっと歩み寄り、
彼女をそっと、けれどしっかりと両腕で抱き寄せた。
その手のぬくもりと、微かな震え――
すべてが言葉以上に、懺悔の想いを訴えかける。
アランは抵抗もせず、静かにその胸に身を預けた。
傷つき、もがき続ける彼の重みが、腕を通して痛いほど伝わる。
「大丈夫よ。」
声に出すことはなく、心のなかでそっと呟く。
この痛みも孤独も、
今だけは二人で分け合えるのだと信じて。
揺れる蝋燭の明かりの下、
言葉にならないぬくもりと切なさが、
永く夜の静けさの中で、ゆるやかに溶け合っていた。
レギュラスはふとアランの横のテーブルに目を留めた。
インク瓶の蓋がわずかに歪み、羽根ペンの先に黒い染みが残っている。
まるですぐそこで何か大切な手紙が書かれていたことを、慎ましく主張していた。
「――手紙を送ったんですか?」
不意にレギュラスが問いかける。
そのやわらかな声音に、アランの心臓がどきりと跳ねた。
「ええ、母に。」
咄嗟に紡いだ嘘。だが、すぐに表情を整えて微笑む。
「セシール夫人はおかわりないですか?」
レギュラスの問いにも、アランは静かに頷いた。
「ええ、母は“孫の顔を”とばかり言ってるわ。」
本当と嘘とを、慎重に混ぜ合わせた。少しでもレギュラスを納得させたくて。
そのとき、レギュラスは少しだけ恐縮したような目をした。
「そのことですが……」
ほんのわずかに申し訳なさげに、彼は目線を落とす。
「本当に無理はしなくていいんです。うちの母や、あなたのご実家からも色々言われて、きっとストレスでしょう?
……僕は、あなたを世継ぎのためだけの相手だなんて思っていません。
この屋敷が息苦しいなら、別の場所に住まいを移しても。」
アランはそっと、彼の言葉を遮る。
「いいの、いいの。ある程度は……仕方のないことよ。」
できるだけ明るい声で、少しだけ微笑みを添えて続ける。
「それに、私も――少しは、楽しみに思えてきたから。」
本当は、胸の奥でじくじくと痛みが募っていた。
レギュラスの不器用で、どこかずれている優しさ。
それでも彼は、懸命に自分を思いやろうとしてくれている。
それを、受け止めてあげたかった。
けれど、本当に伝えたいことはこの言葉ではなかった。
机上の冷たいインクのしずくも、宙に消えていく本心も、
どちらも声にできぬまま沈んでいく。
淡いランプの光がそっと二人の影を重ねて、
言葉の隙間にかすかな孤独と哀しみを染み込ませていた。
夜の闇が静かにアランの部屋を包み込み、寝室へ向かうこともなく、そのまま温かな灯りの中で二人は重なり合った。レギュラスの胸には、先ほど口にしてしまった言葉の重さと、周囲からの世継ぎに対する期待の圧に対する申し訳なさが、静かに、しかし確かに渦巻いていた。
彼の中で芽生えたのは、己の欲望ではなく、ただひたすらにアランの悦びを望む深い思いやりだった。指先は優しく愛しみを伝え、何度も何度もアランに絶頂を与えながら、そのひとつひとつの瞬間にどこか小さな罪悪感が影を落とす。その罪は、彼女を傷つけてしまうのではという恐れ、そして自分の身勝手さへの痛み。それでも、アランから溢れる柔らかな吐息や切なげな声が、レギュラスの心を満たしていった。
「愛しているから、傷つけたくない。大切にしたい。」
言葉にせずとも、その感情だけが、静かに、確かに伝わる。彼が注ぐ愛は、肉体の交わりだけに留まらず、繊細な心のひだを包み込む温もりとなって満ちていった。
その夜の行為は、レギュラスにとってもアランにとっても、ただただ尽くし合うやわらかな祈りのようで、それは美しく、切なく、そして柔らかな光を纏いながら、深い愛の証として静かに息づいていた。
夜の静寂のなか、レギュラスの指先がそっと肌を這い、絡みつく舌が優しく触れる。
その温もりは、まるで長い間待ち望んでいた愛の証のように感じられた。
レギュラスの瞳は、あのシリウスと同じ色をしていて、切なさと祈りを秘めていた。
その眼差しに包まれるたび、胸の奥が震えて、涙がこらえきれなくなりそうになる。
けれど、その甘やかな牽引のなかで、ひとつ消しきれぬ罪悪感が静かに揺れ動く。
もうシリウスとの夜の記憶は、朧げに霞み、過ぎ去った日の幻影となった。
それでも、回想を閉ざした心のどこかで、比べてしまう自分がいる。
レギュラスとの重ねた時間は確かに多く、
身体の刻まれた印や吐息が物語るけれど、
それでも完全に愛しきれていない自分に、胸が締めつけられる。
愛情の深さと罪の重さが交錯し、感情は複雑に絡み合っている。
それは決して贅沢な苦悩ではなく、心が真実を求めてもがく繊細な痛みだった。
レギュラスの指がゆっくりと、まるで許しを乞うように触れてくる。
その熱は、優しさと切なさを秘めた甘い囁きのようだった。
「愛しています。」
――その言葉が、静かに闇に溶けていく。
胸の中で震える孤独と迷いを抱えながら、
それでも今、ここにある愛の温度に触れていた。
彼の鼓動が重なるたび、さらなる深みへと落ちていくのを覚えながら。
涙と共に訪れるのは、赦しと希望の入り混じる夜の静けさだった。
夕暮れの柔らかな光が、セシール家の広間を優しく包み込んでいた。
レギュラスは重い任務の終わり、疲れた面持ちを隠しつつ、夫人のもとへと静かに歩み寄る。
夫人は穏やかな微笑みで出迎え、まるで長い間待ちわびていたかのように温かくレギュラスを迎え入れた。
手土産の小箱を差し出しながら、レギュラスは丁寧に尋ねる。
「お体はいかがですか? 久しく訪ねることができませんでしたから。」
夫人の瞳は一瞬曇るものの、すぐに静かな呟きが漏れた。
「そうね、娘からの便りが全くなくて……夫婦仲良く過ごしてくださってるなら問題ないのだけれど……」
その言葉の重みに、レギュラスの胸が締めつけられる。
先日、あのアランが母宛に手紙を書いたと聞いていたはずなのに、夫人の口からは、それが嘘だったことが自然に明かされる。
言葉にはならぬ不信と寂しさを覚えながらも、レギュラスは夫人に適当に応じる。
「ご心配なく。アランにも便りをを返すよう伝えておきますね」
しかし、胸の中では、「誰に宛てて書いたのか——」と問い詰めたい気持ちが小さく波打っていた。
家路を急ぎながら、彼はそっと心を引き締める。
いまは焦らず、真実を見極める時だと。
帰り着いた屋敷の扉を開けるその手に、迷いと覚悟が揺れていた。
重く深い夜の静けさのなか、これから待つ問いが、二人の未来をひそかに揺らし始めていた。
夜の帳が、静かにブラック邸を覆い尽くしていた。
帰宅したレギュラスは、外套も脱がぬまま、迷いなくフクロウ小屋まで足を運んだ。
屋敷の奥にある薄暗い小屋のなか、乾いた藁の匂いと鋭い鳥の気配が満ちている。フクロウの止まり木にしがみつく爪の音がわずかに響き、レギュラスは息をひそめて檻の中を見渡した。
――先日、アランが託したあの手紙。
彼の指先が魔法の記録紙を撫でると、フクロウの飛行経路が薄く光り浮かび上がった。
「……ホグワーツ。ダンブルドア宛て。」
その行き先を確信した瞬間、ぶわりと熱が頭に上がる。次の一呼吸さえ忘れ、全身から血の気が引いていく感覚に襲われた。
“どうして――なぜ、アランが、よりにもよってダンブルドアに宛てて……?”
騎士団の長、魔法界最大の対立勢力。デスイーターの妻でありながら、その存在に手紙を託すなど、あまりにも大胆な裏切りだった。
レギュラスの胸はぎゅっと締めつけられ、目の前が一瞬暗く霞む。フクロウの羽ばたきが遠い嵐のように響き、心の中で渦巻く苦しさが、奥底まで波紋のようにひろがっていく。
アランがどんな気持ちで手紙を書き、誰の名を頼りに未来を託したのか――
それを考えるたびに、愛しさと痛みが入り混じって、どうしようもなく胸が苦しくなる。
夜風が小屋の隙間から静かに吹き込み、レギュラスの外套を冷たく揺らした。
喉の奥がひりつき、誇りと信頼のはざまで、彼の心はただ静かに沈んでいった。
夕暮れの薄明かりに染まる廊下を、レギュラスは静かに歩いて戻った。
「戻りました。」
控えめな声が部屋に響くと、アランはいつも通りの柔らかな笑みで迎え入れた。
その自然な振る舞いに、一瞬だけ胸が締めつけられるのを感じながらも、レギュラスは深く息を吸い込み、心の昂りを抑え込む。
問い詰めたい衝動が激しく胸を波打つ。
だが、「冷静に」と理性が静かにささやき、必死に感情を押し込めた。
「今日、セシール家に顔を出しました。」
静かな声で言い、その言葉一つひとつをアランの表情に丁寧に重ねていく。
彼女のわずかな反応、瞳の色、その奥に潜むものを見逃すまいと、注意深く観察する。
アランは一瞬だけ視線を落とすが、何事もなかったかのように微笑みを返す。
その隠された揺らぎに、レギュラスの胸はふたたびざわめく。
言葉にされぬ思いが交錯する静かな室内。
ふたりの間に漂う繊細な空気は、言葉よりも雄弁にそれぞれの心の機微を映し出していた。
リビングの光がやわらかな影を落とすなか、アランは静かに尋ねた。
「母の様子は変わりなかったかしら?」
レギュラスは一瞬だけ視線を交わし、穏やかな声で答えた。
「ええ、お元気そうでした。娘からの便りがないと残念がっていましたよ。」
その言葉を告げながらも、レギュラスはわずかにアランの反応を窺うように見つめていた。アランの顔には、一瞬柔らかな陰りが差し込むものの、すぐに微笑みをたたえた。
「先日、手紙を出したのに、届かなかったのかしら…」
それはあたかも自然な疑問のような言葉だった。だが胸の奥で、レギュラスは冷たい何かが胸を刺すような感触を覚えた。ふと目をやると、あのフクロウの記録にはセシール家宛の手紙は一通も存在しなかった。つまり、アランの言葉は、何でもないように思える嘘だったのだ。
その静かな嘘に、レギュラスの心は深く傷つき、確かな裏切りの感覚が胸の奥でじわじわと広がっていく。何度も何度も愛してきた妻が、自分の知らぬところで何をしようとしているのか、その先を思えば思うほど、悲しさだけが増していった。
愛しき人が見せる、すれ違う影に、どうすれば辿りつけるのか。レギュラスはただ静かにその胸の痛みを抱きしめたまま、複雑な思いを秘めて彼女を見つめ続けていた。
「うちのフクロウも、そろそろ歳かもしれませんね。」
その声は穏やかで、けれどどこか翳りがあった。
「歳を取れば、フクロウも目的にたどり着くことすら難しくなるものですし。手紙が宛先に届かないことも、年老いた彼ならありうることだったのかもしれません。」
それはまるで、アランの白々しい嘘に寄り添うかのような優しい言葉だった。
レギュラスの瞳は、抑えきれぬ衝撃の中で必死に折り合いをつけるように、心を守る鎧をまとっていた。
アランは小さく息をつき、「また書きます」と告げた。
その声はか細く、それでいてどこか遠くから響くようで、レギュラスの胸にはもう響かなかった。
裏切りの重みに押しつぶされそうな彼の心は、壊れそうな繊細なガラス細工のようだった。
誰にも見せまいと震えるその内部で、愛と哀しみが交錯し、静かに散っていった。
夜の闇は深く、その沈黙だけが、ふたりの間に冷たく、遠く広がっていった。
夕暮れの柔らかな光がアランの作業机をそっと照らし出す。彼女は静かに魔法薬の調合に向き合い、指先は手慣れた動きで慎重に瓶の中へと液体を注いでいった。完成したいくつかの薬は、透明感のある色彩を放ち、彼女の持つ繊細な技術と情熱が込められているようだった。
控えめな香りが部屋の中に漂い、アランの表情にはどこか穏やかな誇りが浮かぶ。それでも心の奥では、知らずに過ぎていく緊張と秘密を抱えていた。レギュラスがダンブルドア宛ての手紙を読み取ったことを夢にも知らず、彼女は淡い希望とともに、再びあの薬屋へ薬を卸しに行くつもりでいた。
「また、あの場所に……」
小さく呟く声に、決意がこもる。目の前の薬瓶は、ただの調合品以上の意味を持ち、誰にも見せられぬ彼女だけの祈りのように感じられた。繊細な光が薬瓶の縁を透かし、彼女の影を壁に長く伸ばす。
その日、アランは静かに自分の道を歩いていた。何も知らぬレギュラスの背中を遠くに見送りながら、彼女の胸の奥には揺るぎない意志と少しの孤独が宿っていた。夕刻の沈黙がふたりの時間に静かに溶け込んでいった。
薄明かりのダイニングルームで、テーブルを挟んで向かい合う二人。
アランは静かな笑みを浮かべながら、丁寧に瓶詰めされた魔法薬を差し出した。
「今日、いくつか新しく完成させたの。あなたにもどうぞ。」
その声には、夫の無事を願う澄んだ想いが込められていた。任務に赴くレギュラスの体を少しでも支えられたらと、小さな気遣いを忘れない彼女の優しさがにじみ出ている。
レギュラスは黙って受け取り、柔らかく微笑んだ。
「ええ、ありがたく貰っておきますね。」
彼の言葉には感謝と、遠くで支えてくれる妻への深い信頼が滲んでいた。
指先が薬瓶の冷たさを感じながらも、その重みは温かい安心を伴っていた。
食卓の灯りが二人を柔らかく包み込み、静かな夜の時間がゆっくりと流れていく。
言葉は少なくとも、ふたりの間には確かな繋がりと祈りが満ちていた。
夕暮れの屋敷の窓辺、沈みゆく陽の光が柔らかく室内を包み込んでいた。レギュラスはそっとアランの横顔を見つめ、静かな声で尋ねる。
「ところで、またあの薬屋に行くつもりですか?」
言葉には探るような、しかし揺らぎのない瞳が注がれていた。アランはその視線に一瞬だけ心が揺れたものの、何も知らぬふりを強く心に決めて穏やかに答えた。
「ええ、卸したらすぐに帰ります。」
言葉に乗せたのは、嘘でもなく、飾りでもない一種の誠実さだった。ただし、その裏では隠しきれぬ緊張が体の奥にひそむ。レギュラスがすでに薬屋のことをクリーチャーに調べさせ、騎士団の利用を把握しているのは明らかだった。けれど彼の問いに、あくまで町で一番の老舗という納得のいく理由を添えて乗り切ったことを思い出す。
レギュラスは軽く微笑み、小さく頷くと、低い声で言った。
「クリーチャーを連れて行ってくださいね。」
その一言に、互いの胸中に微かな波紋が広がる。気づいてはいるけれど、互いを傷つけまいと繕う強さと切なさが混じり合う、繊細な瞬間だった。
夕暮れの光がふたりの影を長く引き延ばし、静かな覚悟と隠された真実が、そっと優しくその場を包み込んでいた。
