2章
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新聞の紙面には連日、鮮烈な見出しが躍る。
――デスイーターと騎士団の激しい衝突、負傷者の続出、消えた家族の名前。
活字の隙間に刻まれる現実の痛々しさが、アランの心をじわじわと締めつけた。
窓辺で静かに新聞を読みながら、アランは何度も息を詰める。
レギュラスの身を案じて胸が痛むのは当然だった。
けれど本当のところ――
どんなに遠ざけてみても、やはり気になってしまうのは、シリウスのことだった。
今、シリウスはどこで、何をしているのだろう。
闇に包まれつつある世界の中、彼はどこまで前線に立ち、
どこまで自分ごと夢を追い続けているのだろう。
アランの中で、
「もうこの辺であきらめて」と気軽に言えたら、どれほど楽だっただろう。
けれど、彼が選ぶ理想や正義のまぶしさを、
自分はきっと否定できない。
――それでも、
闇の陣営の力が日々増していくこの現実に、
どうかこれ以上、深く傷ついてほしくなかった。
「あの人は、誰かが守るべきものを――
誰の反対にも負けず、ずっと戦い続ける。」
やりきれない祈りが心に溢れる。
彼の夢が世界に届く時が、果たして訪れるのだろうか。
その奇跡のような瞬間を、どこかでずっと待っている自分がいる。
朝の光が長いカーテンを透かして差し込み、
アランはふと、そっと目を閉じた。
命と希望がひとつずつすり減っていくこの時代に、
ただ、愛しい人たちの安らかな明日だけを静かに願う。
どうか、
あの人たちの心が裂けてしまいませんように。
それだけを、息を潜めて、祈り続けていた。
朝の光が淡く差し込む寝室で、レギュラスは黒い外套を丁寧に肩にかけていた。
襟元を整えているその背中に、アランは迷いながら声をかける。
「……最近、危険な仕事が増えているのでしょう?」
レギュラスの手がふと止まる。
振り返ると、その眼差しはどこまでも穏やかだった。
「心配はいりませんよ。」
それは、いつもの答え――何も語らない、深く鍵をかけられた言葉。
家族といえども決して任務の内容を明かそうとしない彼。
どこへ向かい、何をするのか。
もしその先で彼がマグルや混血の命を容赦なく奪うのだとしても、
アランにはそれを知ることも、止めることもできない。
アランはゆっくりと近づき、
彼の外套の端をそっとなぞる。
「きっと、あなたの呪文の腕に敵う人はいないわ……。
でも――」
勇気を出して続ける。
「あなたの心が、裂かれてしまわないか、それが一番心配なの。」
無事に帰ってくれることは、もう疑ってはいない。
けれど――
少しずつ人としてのあたたかさや倫理がこぼれていき、
心がボロボロになってしまうのではないか、不安でたまらなかった。
思い出すのは、幼い日の面影。
優しかったレギュラス。
無邪気に兄の後ろ姿を追いかけ、
本や薬草を大切そうに抱え、
誰よりも誠実で、慈悲深い目をしていたレギュラス。
その彼が――
純血という鎖に絡め取られ、
気高い誇りと引き換えに少しずつ「人間らしさ」を失っていく。
その事実が苦しかった。
レギュラスは静かに微笑んでアランを見つめる。
「あなたがそう言ってくれるのは、ありがたいですね。」
けれど、その奥には決して届かない壁があった。
厚い外套がふたりの間に一枚の夜を落とす。
アランはただ、背中を向けて去っていく彼を
小さな祈りと哀しみで見送るしかなかった。
かつて抱いたあたたかな小さな手、
そのぬくもりが今、すこしずつ遠ざかっていく音がした。
夜の帳が濃く下りたころ、レギュラスは重い外套に身を包み、闇の帝王の召集に応じて大きな館の一室へと呼ばれていた。
床には深紅の絨毯、壁には燭台の影が揺れ、静寂と威圧がひしひしと降り積もっている。
近ごろレギュラスに託される任務は増え続けていた。
それはただの責務を超え、自分自身がブラック家の威光、その未来を背負う存在であるという証明でもあった。
誇りと自負、何もかもを見下ろす倨傲な光が胸の内に宿る。
――闇の帝王は自分を信頼している。
そう信じて疑わなかった。
会合の場で周囲を見渡せば、その空気は一目瞭然だった。
だが、ほんの少し前、マグルの女と駆け落ちを企てたデスイーターが粛清されたばかり。
裏切りや迷いは、最も身近にありえる危険なのだ。
ヴォルデモート卿は疑念を決して見せぬが、その視線の奥には常に揺るぎない警戒があった。
「忠誠心を確たるものとして証明しろ。――おまえの妻、アラン・ブラックを次回の集会へ連れて来い。」
その命令は、何気なく見えて重く、
数多の策の一手だった。
レギュラスは瞬間、胸の奥で何かが固く冷たく凍る音を聞いた。
自分の忠誠心、誇り、それをもってしてもなお、
「兄と自分の血の絆」は断ちきれぬ不安要素と見なされている。
シリウス――
騎士団の顔としてデスイーターたちと正面から命を賭して戦う兄。
自分と正反対の道を、遠ざかる炎の影をひとつ背にしたあの人。
「承知いたしました。」
レギュラスは静かに頭を下げ、
心の奥に細い針のような痛みが沈んでいくのを感じた。
家の名誉と、愛しい妻と、血と誇りと忠誠。
どれひとつ失せてはならないと自分に言い聞かせてきたのに――
この一点だけは、誰にも明け渡せない震えが、
闇の帳の下で静かに膨らんでいった。
アラン――
あの人は、自分の忠誠を証明するただの標になるのだろうか。
それとも、まだ知らぬ何かを守ってくれる最後の希望となるのか。
レギュラスは誰にも見せない顔で瞳を閉ざし、
静けさに溶ける答えのない夜の気配を、ただ深く肺へと吸い込んだ。
冷えた石床に響くヴォルデモート卿の声が静かに広がった瞬間、集会に居並ぶ他のデスイーターたちの背筋が、かすかに震えるのがわかった。
「忠誠の証として、アラン・ブラックを次の集会に連れて来い。」
いかにも何気ない指示のような響きが、場を圧迫していく。
レギュラスはどんな動揺も見せなかった。ただ、完璧なまでに整った横顔で「承知いたしました」とだけ静かに応じる。
その潔さは、ヴォルデモートにとって理想通りの反応であったのだろう。満足げな頷きと鋭い眼差しが、短い時間だけレギュラスの上に留まった。
(どうやってアランに伝えるのだろう?)
感情の揺らぎひとつ表に出さぬまま場を離れたレギュラスの胸の奥に、
小さな波紋が静かに広がっていくことを、誰にも気づかれることはない。
忠誠が揺らがぬ限り、決してアランには危害が及ばないと信じている――
それでも、自身の手許からアランという存在を一時でも遠ざけなければならない現実に、
どうしようもなく心がゆれる。
「“ アランを差し出せ”――まるで人質のようだ……」
心のうちに沸き立つのは、怒りでも恐れでもなく、ただ寂寥に近い切なさ。
アランの前では、この重さをどう伝えればよいのか。
どう言えば彼女を不必要に怯えさせずに済むのか。
考えれば考えるほど言葉を見失う。
ヴォルデモートが去ったあとの集会の空気は、
沈鬱で微かなざわめきに満ちていた。
誰もが——ブラック家が名実ともに闇の帝王の庇護下に置かれる、その裏にある危うさと冷酷な現実を肌で感じていた。
強い忠誠心は誇りだったはずなのに。
“家の威光を背負う”という高揚とは裏腹に、
胸の底で蠢くこの重さと恐れは、
レギュラスが大人になってから知った、
最も冷たく、そしてやるせない感情だった。
目を伏せて帰途につく彼の歩みに、夜の石廊下だけが冷たく寄り添っていた。
暗い石造りの廊下、集会後の重い空気を引きずりながら歩くレギュラスの背に、
急ぎ足で追いついてきた足音が重なる。
「レギュラス、本当に大丈夫なのか。」
低く抑えた声で、ルシウスが問いかける。
その瞳は表情を保ちながら、その奥底に隠しきれぬ恐れの色を垣間見せている。
彼は誰よりも忠実で、誰よりも巧妙に帝王に従いはするが、
決定的な局面ではどうしても、その人間的な弱さを洗い隠せない。
レギュラスは歩みを緩めず、静かに応じる。
「ええ。裏切りなど、私にはあり得ませんから。心配は不要です。」
それは、簡潔で揺るがぬ答え。
だがルシウスは、小さく首を横に振る。
「そういうことではない。」
沈んだ声は、壁に張り付く影のようにしがみつく。
「……闇の帝王は、何をするかわからないぞ。」
その言葉の向こうに、ルシウスの心底の恐れが透けて見える。
絶対的な力の前でさえ、魔法界の誇りと名誉は、時に脆く脅かされる。
帝王の理不尽への底知れぬ怯え――
レギュラスはそれを冷静に観察し、
相手の弱さを理解しながらも、どこかで淡く蔑んでいた。
「大丈夫です、ルシウス。」
その声は穏やかで、どこまでも確かだった。
「私の忠誠が揺るがぬ限り、帝王は――高貴なる純血の血筋に生まれたアランに何かするようなことは決してありませんよ。」
目を伏せ、内心の不安に静かに蓋をする。
自分の信念、誇りゆえに着飾った幻想の安心。
冷たい廊下に消えていく足音。
その奥で、いつか揺らぐかもしれない信仰と不安とが、
ひどく美しく、繊細に響き合っていた。
夜気のなかに、信じるしかないという
若さゆえの危うさが、
静かに、永く尾を引いて立ちのぼった。
夜の帳が静かに邸を包み込む。
レギュラスは重い外套を脱ぎ、
ほの暗い廊下を足早にアランのもとへと向かった。
書斎の明かりは柔らかで、
アランは机の脇で小さな手仕事に指を動かしていた。
その背中にそっと声をかける。
「アラン。……次の集会ですが──」
一度口にしかけ、
息が喉の奥で絡まった。
レギュラスは言葉を失い、しばし沈黙する。
アランは驚いたように振り返る。
滅多に見せぬ光景だった。
「……どうしました?」
その何気ない問いの温かさに、
抑えてきた不安と、守りたい思いが胸の奥で一気に噴き上がる。
レギュラスは、何も答えぬまま歩み寄り、
アランを抱きしめた。
その腕の強さは、これまでにないほど熱く誠実だった。
尖った外界のすべてを、
この身ひとつで遠ざけたいと願う強い祈りがこもる。
誰にも傷つけさせはしない。
君だけは、絶対に。
閉じた瞳の奥、渦巻く葛藤さえも溶けていく。
アランは理由も尋ねず、
ただ静かにそのぬくもりに身を委ねた。
言葉よりも雄弁な抱擁のなかに、
ふたりの間にだけ流れる特別な美しさと不安と希望が、
息をひそめて明かりの揺れる夜を包んでいた。
夜の静謐な屋敷に、雷のような現実が落とされた。
レギュラスが静かに告げたその言葉――
「アラン、闇の帝王の前に……あなたも跪かねばならないけません。」
その一音一音がアランの心と体を鋭く貫いた。
全身がきしむように強張る。
頭の奥底に冷たい恐怖が根付く。
闇の帝王――ただその名を思うだけで、
世界が密やかに色を失う気がした。
けれど、それ以上に胸を蝕んだのは、
レギュラスの忠誠心が疑われているという事実だった。
彼ほど真っ直ぐに、身も心も従って尽くしてきた人ですら、
完全に信じることは許されない世界。
「人質」として連れ出されなければならないという現実。
それでも―― アランの傍らにいるレギュラスは、
どこまでも穏やかな声で「大丈夫」と繰り返す。
「君に危害が及ぶことは決してない。
僕がいる限り、何も恐れることはありませんから」
そのひたむきな声。
けれどそれは、希望の光ではなく、
ますます深い絶望へと沈ませる呪文のように感じられた。
何もかも――守るべきもの、守らねばならぬ名誉と誇り。
そのためならどれだけ心や命や愛が削られても、
彼はこの道を選び、とどまり、
そして支持しようとしてしまうのだろうか。
「……大丈夫、大丈夫ですアラン」
レギュラスの必死な祈りのような言葉を、
アランはただ黙って聞き続けるしかなかった。
魂ごと冷たい流れに攫われるような感覚で、
彼の男らしく頼もしい腕のなか、
遙か遠くに置き忘れてきた優しさと幸福の記憶だけが、
薄く儚く、まるでガラス細工のように胸の奥で光っていた。
そしてアランは、
もう自分には決して戻れない夜の底で、
もう誰にも何も救えない絶望だけを、
そっと引き受けるしかなかった。
夜の帳が静かに寝室を包み込んだ。
レギュラスの手がそっとアランの髪を撫で、低く名前を囁く。
その柔らかな声は、かつて感じたはずの温もりとはほど遠く、
アランの胸に深い苦しみと切なさを残した。
身体は美しい曲線を描いてレギュラスに委ねているはずだった。
だが、心はどこか遠く、暗闇の底で折れそうになっていた。
なぜ、こんなことに。
なぜ、自分はここにいるのか。
問いかけることすらできないまま、ただ絶望が静かに広がっていく。
名前を呼ばれるたび胸が締め付けられる。
それは愛しさとは異なる、追い詰められた感情のうねりだった。
繰り返される囁きは、まるでやさしい呪縛のように、
アランの心を震わせ、切り裂いていった。
恐怖と悲しみが混ざり合い、身体中に静かな痛みが走る。
目を閉じても逃れられぬその感覚は、
壊れそうなほど脆く、薄く、けれど確かな存在感を持っていた。
その夜、二人のあいだには愛という名の繋がりとは違う、
言葉にならない闇が静かに横たわった。
アランはただ、深い静寂の中で、
耐え続けることしかできなかった。
重い扉が、静かにわずかな軋みを響かせて開いた。
石造りの広間は、呼吸さえも冷たく吸い込まれる静寂に包まれていた。
レギュラスがアランの手をしっかりと握り、ゆっくりと歩を進めるたび、
大理石の床に二人の足音だけが、細い音となって響いた。
一歩進むごとに、アランの足はすくみ、心臓が痛いほど高鳴った。
身体じゅうの血の気が引いていくのを自覚しながら、
周囲を囲む黒いローブの男たち――
デスイーターたちの鋭い視線が、
息もできないほど強烈に肌を刺していた。
堂々たる玉座の前、
薄暗い奥で待ち構えるのは闇の帝王。
その存在だけで場の空気は凍り、
目を伏せてもなお背筋を貫く圧倒的な恐怖があった。
レギュラスの指は、アランの手をとらえて離さない。
心配するふりの優しさも、
自らの忠誠の証のための力強さも混じったその温もりだった。
アランは怯えを堪え、胸を張って一歩ずつ前に進んだ。
けれど、
ただ息をするだけで痛いほどの、
圧倒的恐怖が全身を支配していく。
紅い瞳が、
その何もかもを見透かし、命のひと雫までも支配している。
震えるほどの気高さと絶望のあいだで、
アランは静かに頭を垂れた。
その背中に、レギュラスの手のぬくもりだけが
かすかに灯り続けていた。
「よく来た、アラン・ブラック。」
玉座の上から降り注ぐ響きは、ひどく静かで、底知れない威圧をもっていた。
アランは膝をつき、震える指先でスカートの布地をぎゅっと握りしめる。
顔など到底上げられない。
闇の帝王の気配だけで、全身が冷え切りそうだった。
「顔を――あげてみせよ。」
ヴォルデモートの命令が低く広がる。
アランは恐る恐る顎を上げ、
初めてその顔を見つめた。
紅い、深い闇のような瞳が真っ直ぐに射抜く。
アランの呼吸が浅くなり、動けなくなってしまう。
「――噂には聞いていたが、ずいぶんと麗しい娘をもらったものだな、レギュラス。」
冷酷な賞賛が闇のなかで静かに響いた。
ヴォルデモートの声は飴色に甘く、けれど容赦なく、
本能的な恐怖と陶酔をアランの背中にまとわせていく。
レギュラスはアランの傍らで僅かに声も表情も崩さず、
帝王のその一言をまるで最大の名誉のように受け止めた。
アランの心臓は、鼓動の一つ一つごとに
この場に自分が「飾り」や「証」として差し出されていることを
明瞭に知る。
赤い眼差しに震え、
そのまなざしの奥に沈んでいくしかなかった。
薄暗い広間に、絶望にも似た静けさが満ちていた。
「アラン、お前に聞こう。
夫、レギュラス・ブラックは……俺様の忠実な僕で間違いないか?」
闇の帝王の言葉は、広間の静寂に澱のように溶けていった。
アランの喉は渇き、微かに震える声をやっと絞り出す。
「……間違い、ございません。」
その返事を聞いたヴォルデモートの唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
「そうか、そうか。それはいい。」
甘やかな声音。その奥に潜む牙を、誰もが感じていた。
「だが――」
その声色が鋭利になる。広間の空気が急速に張り詰めた。
「口ではいくらでも、言えるものだ。」
デスイーターたちの呼吸すら止まる。
アランの唇は小さく震え、レギュラスの横顔は僅かに強張ったまま動かない。
無慈悲な紅い瞳が、
アランの心の奥底を覗き込むように揺れる。
その視線に晒されるたび、
自分がいま、ただひとつの忠誠の証として試される小さな歯車でしかないことを思い知らされる。
アランの胸に、冷たい絶望が泡立っていく。
沈黙。
その重さが、広間の誰もの肩にのしかかった。
夜の闇より深い支配と恐怖が、
ひと時たりとも緩むことなく、
全員の魂に纏わりついていた。
「誓いを立てな!」
ベラトリックスの声が、鋭い刃のように暗い広間を突き破った。
場の空気が一層張り詰める中、
ヴォルデモートの声が静かに降りかかる。
「それがいい、アラン。
俺様に誓え――お前の夫は、決して俺様を裏切ることはないと。」
アランは膝をつき、
頭を垂れたまま、消えてしまいそうなか細い声で答えた。
「はい……誓います。」
その瞬間、ベラトリックスが黒曜石のごとき杖を抜き、
アランの腕を強く掴む。
身動きもできず、アランはなされるがままに腕を差し出す。
次に、ヴォルデモートの手がその肌に触れた。
氷のような皮膚――苦しみと支配が染みこんだ指先が、
アランの白い腕をしっかりと包む。
その冷たさが、皮膚から心の奥深くまで
沁み入るように、
アランの心までも凍てつかせていく。
重く、暗く、
魔法の力がこの腕に刻みつけられるような錯覚。
誓いを求められた声と、その手の重みだけが、
世界のすべてとなった。
アランはただ静かに目を閉じて、
全身を支配する恐怖と絶望に息を潜めた。
その場に集うすべての者の前で、
運命の鎖が新たに編まれていく音だけが
静寂のなかに残っていた。
ベラトリックスは唇の端をにやりと吊り上げ、
黒い杖を一閃させた。
その動きは狂気すら帯びており、広間の空気をさらに冷ややかに引き締める。
魔法の言葉が細く鋭く紡がれ、
アランと闇の帝王――ヴォルデモートのあいだを、破られぬ誓いの鎖が静かに絡め取る。
その場に集うデスイーターたちの視線が、一斉にアランの上に降り注いだ。
証人は、逃げ場のない黒衣の人波。
その声なき圧が、アランの全身を容赦なく締めつける。
ベラトリックスが杖を下ろした瞬間、
アランの腕に熱が走り、どこにも逃れられぬ枷が映えた気がした。
全身はまともに冷たく強張り、
心臓だけが速く、深く鼓動する。
(逃げたい、ここではないどこかへ――)
けれど足も、声も、どこまでも世界の闇に縫いとめられて動かない。
赤い瞳の帝王が満足そうに彼女を見下ろし、
ベラトリックスだけが、
この世の喜劇を最後に味わうかのように愉快げに嗤っていた。
広間の静けさのなか、
誰にも見せられぬアランの涙だけが、
心の奥に、静かに、深く滲んでいた。
夜の屋敷は静まり返り、外の闇が窓硝子に溶けていた。
広い応接間にふたりだけ。
アランは両手を組んで膝の上に置き、背筋を伸ばしている。
どれだけ明かりを灯しても、この屋敷がこれほど冷え冷えとした空気に満たされる夜は、かつてなかった。
「アラン、名誉なことですから――」
レギュラスが静かに言った。
その声には、誇りと使命感が滲む。
けれど、アランの中の恐れも痛みも、その言葉では拭うことができなかった。
今夜、感じたあの絶望的な恐怖。
逃げ出したいほどの、心の奥を冷たく縛る絶望。
その感覚を、レギュラスはきっと理解しようとしないのだろう。
いや、できないのかもしれない。
「……ええ、名誉ですね。」
アランはそれだけを静かに返し、
うつむいたまま、細く震える指先を見つめる。
涙はこぼれない。ただ胸の奥で、冷たい水がしずかに波打つだけだった。
こんな世界に、もうこれ以上、レギュラスが巻き込まれるのを見ていられない。
彼さえ、ヴォルデモートという怪物によって
何もかも奪われてしまう予感が拭えなかった。
「……ねえ、どうか、これ以上危険なことに首を突っ込まないで。」
やっとの思いで小さな声をしぼりだしてみる。
けれど、レギュラスのまなざしはどこまでも静かで
その願いは、遠い水面に落ちる雨粒のようにかすかに波紋をひろげるだけ。
その夜、
ふたりの心は同じ屋敷の、同じ部屋にありながら――
どこまでも遠く、冷たく、重なりあうことはなかった。
――デスイーターと騎士団の激しい衝突、負傷者の続出、消えた家族の名前。
活字の隙間に刻まれる現実の痛々しさが、アランの心をじわじわと締めつけた。
窓辺で静かに新聞を読みながら、アランは何度も息を詰める。
レギュラスの身を案じて胸が痛むのは当然だった。
けれど本当のところ――
どんなに遠ざけてみても、やはり気になってしまうのは、シリウスのことだった。
今、シリウスはどこで、何をしているのだろう。
闇に包まれつつある世界の中、彼はどこまで前線に立ち、
どこまで自分ごと夢を追い続けているのだろう。
アランの中で、
「もうこの辺であきらめて」と気軽に言えたら、どれほど楽だっただろう。
けれど、彼が選ぶ理想や正義のまぶしさを、
自分はきっと否定できない。
――それでも、
闇の陣営の力が日々増していくこの現実に、
どうかこれ以上、深く傷ついてほしくなかった。
「あの人は、誰かが守るべきものを――
誰の反対にも負けず、ずっと戦い続ける。」
やりきれない祈りが心に溢れる。
彼の夢が世界に届く時が、果たして訪れるのだろうか。
その奇跡のような瞬間を、どこかでずっと待っている自分がいる。
朝の光が長いカーテンを透かして差し込み、
アランはふと、そっと目を閉じた。
命と希望がひとつずつすり減っていくこの時代に、
ただ、愛しい人たちの安らかな明日だけを静かに願う。
どうか、
あの人たちの心が裂けてしまいませんように。
それだけを、息を潜めて、祈り続けていた。
朝の光が淡く差し込む寝室で、レギュラスは黒い外套を丁寧に肩にかけていた。
襟元を整えているその背中に、アランは迷いながら声をかける。
「……最近、危険な仕事が増えているのでしょう?」
レギュラスの手がふと止まる。
振り返ると、その眼差しはどこまでも穏やかだった。
「心配はいりませんよ。」
それは、いつもの答え――何も語らない、深く鍵をかけられた言葉。
家族といえども決して任務の内容を明かそうとしない彼。
どこへ向かい、何をするのか。
もしその先で彼がマグルや混血の命を容赦なく奪うのだとしても、
アランにはそれを知ることも、止めることもできない。
アランはゆっくりと近づき、
彼の外套の端をそっとなぞる。
「きっと、あなたの呪文の腕に敵う人はいないわ……。
でも――」
勇気を出して続ける。
「あなたの心が、裂かれてしまわないか、それが一番心配なの。」
無事に帰ってくれることは、もう疑ってはいない。
けれど――
少しずつ人としてのあたたかさや倫理がこぼれていき、
心がボロボロになってしまうのではないか、不安でたまらなかった。
思い出すのは、幼い日の面影。
優しかったレギュラス。
無邪気に兄の後ろ姿を追いかけ、
本や薬草を大切そうに抱え、
誰よりも誠実で、慈悲深い目をしていたレギュラス。
その彼が――
純血という鎖に絡め取られ、
気高い誇りと引き換えに少しずつ「人間らしさ」を失っていく。
その事実が苦しかった。
レギュラスは静かに微笑んでアランを見つめる。
「あなたがそう言ってくれるのは、ありがたいですね。」
けれど、その奥には決して届かない壁があった。
厚い外套がふたりの間に一枚の夜を落とす。
アランはただ、背中を向けて去っていく彼を
小さな祈りと哀しみで見送るしかなかった。
かつて抱いたあたたかな小さな手、
そのぬくもりが今、すこしずつ遠ざかっていく音がした。
夜の帳が濃く下りたころ、レギュラスは重い外套に身を包み、闇の帝王の召集に応じて大きな館の一室へと呼ばれていた。
床には深紅の絨毯、壁には燭台の影が揺れ、静寂と威圧がひしひしと降り積もっている。
近ごろレギュラスに託される任務は増え続けていた。
それはただの責務を超え、自分自身がブラック家の威光、その未来を背負う存在であるという証明でもあった。
誇りと自負、何もかもを見下ろす倨傲な光が胸の内に宿る。
――闇の帝王は自分を信頼している。
そう信じて疑わなかった。
会合の場で周囲を見渡せば、その空気は一目瞭然だった。
だが、ほんの少し前、マグルの女と駆け落ちを企てたデスイーターが粛清されたばかり。
裏切りや迷いは、最も身近にありえる危険なのだ。
ヴォルデモート卿は疑念を決して見せぬが、その視線の奥には常に揺るぎない警戒があった。
「忠誠心を確たるものとして証明しろ。――おまえの妻、アラン・ブラックを次回の集会へ連れて来い。」
その命令は、何気なく見えて重く、
数多の策の一手だった。
レギュラスは瞬間、胸の奥で何かが固く冷たく凍る音を聞いた。
自分の忠誠心、誇り、それをもってしてもなお、
「兄と自分の血の絆」は断ちきれぬ不安要素と見なされている。
シリウス――
騎士団の顔としてデスイーターたちと正面から命を賭して戦う兄。
自分と正反対の道を、遠ざかる炎の影をひとつ背にしたあの人。
「承知いたしました。」
レギュラスは静かに頭を下げ、
心の奥に細い針のような痛みが沈んでいくのを感じた。
家の名誉と、愛しい妻と、血と誇りと忠誠。
どれひとつ失せてはならないと自分に言い聞かせてきたのに――
この一点だけは、誰にも明け渡せない震えが、
闇の帳の下で静かに膨らんでいった。
アラン――
あの人は、自分の忠誠を証明するただの標になるのだろうか。
それとも、まだ知らぬ何かを守ってくれる最後の希望となるのか。
レギュラスは誰にも見せない顔で瞳を閉ざし、
静けさに溶ける答えのない夜の気配を、ただ深く肺へと吸い込んだ。
冷えた石床に響くヴォルデモート卿の声が静かに広がった瞬間、集会に居並ぶ他のデスイーターたちの背筋が、かすかに震えるのがわかった。
「忠誠の証として、アラン・ブラックを次の集会に連れて来い。」
いかにも何気ない指示のような響きが、場を圧迫していく。
レギュラスはどんな動揺も見せなかった。ただ、完璧なまでに整った横顔で「承知いたしました」とだけ静かに応じる。
その潔さは、ヴォルデモートにとって理想通りの反応であったのだろう。満足げな頷きと鋭い眼差しが、短い時間だけレギュラスの上に留まった。
(どうやってアランに伝えるのだろう?)
感情の揺らぎひとつ表に出さぬまま場を離れたレギュラスの胸の奥に、
小さな波紋が静かに広がっていくことを、誰にも気づかれることはない。
忠誠が揺らがぬ限り、決してアランには危害が及ばないと信じている――
それでも、自身の手許からアランという存在を一時でも遠ざけなければならない現実に、
どうしようもなく心がゆれる。
「“ アランを差し出せ”――まるで人質のようだ……」
心のうちに沸き立つのは、怒りでも恐れでもなく、ただ寂寥に近い切なさ。
アランの前では、この重さをどう伝えればよいのか。
どう言えば彼女を不必要に怯えさせずに済むのか。
考えれば考えるほど言葉を見失う。
ヴォルデモートが去ったあとの集会の空気は、
沈鬱で微かなざわめきに満ちていた。
誰もが——ブラック家が名実ともに闇の帝王の庇護下に置かれる、その裏にある危うさと冷酷な現実を肌で感じていた。
強い忠誠心は誇りだったはずなのに。
“家の威光を背負う”という高揚とは裏腹に、
胸の底で蠢くこの重さと恐れは、
レギュラスが大人になってから知った、
最も冷たく、そしてやるせない感情だった。
目を伏せて帰途につく彼の歩みに、夜の石廊下だけが冷たく寄り添っていた。
暗い石造りの廊下、集会後の重い空気を引きずりながら歩くレギュラスの背に、
急ぎ足で追いついてきた足音が重なる。
「レギュラス、本当に大丈夫なのか。」
低く抑えた声で、ルシウスが問いかける。
その瞳は表情を保ちながら、その奥底に隠しきれぬ恐れの色を垣間見せている。
彼は誰よりも忠実で、誰よりも巧妙に帝王に従いはするが、
決定的な局面ではどうしても、その人間的な弱さを洗い隠せない。
レギュラスは歩みを緩めず、静かに応じる。
「ええ。裏切りなど、私にはあり得ませんから。心配は不要です。」
それは、簡潔で揺るがぬ答え。
だがルシウスは、小さく首を横に振る。
「そういうことではない。」
沈んだ声は、壁に張り付く影のようにしがみつく。
「……闇の帝王は、何をするかわからないぞ。」
その言葉の向こうに、ルシウスの心底の恐れが透けて見える。
絶対的な力の前でさえ、魔法界の誇りと名誉は、時に脆く脅かされる。
帝王の理不尽への底知れぬ怯え――
レギュラスはそれを冷静に観察し、
相手の弱さを理解しながらも、どこかで淡く蔑んでいた。
「大丈夫です、ルシウス。」
その声は穏やかで、どこまでも確かだった。
「私の忠誠が揺るがぬ限り、帝王は――高貴なる純血の血筋に生まれたアランに何かするようなことは決してありませんよ。」
目を伏せ、内心の不安に静かに蓋をする。
自分の信念、誇りゆえに着飾った幻想の安心。
冷たい廊下に消えていく足音。
その奥で、いつか揺らぐかもしれない信仰と不安とが、
ひどく美しく、繊細に響き合っていた。
夜気のなかに、信じるしかないという
若さゆえの危うさが、
静かに、永く尾を引いて立ちのぼった。
夜の帳が静かに邸を包み込む。
レギュラスは重い外套を脱ぎ、
ほの暗い廊下を足早にアランのもとへと向かった。
書斎の明かりは柔らかで、
アランは机の脇で小さな手仕事に指を動かしていた。
その背中にそっと声をかける。
「アラン。……次の集会ですが──」
一度口にしかけ、
息が喉の奥で絡まった。
レギュラスは言葉を失い、しばし沈黙する。
アランは驚いたように振り返る。
滅多に見せぬ光景だった。
「……どうしました?」
その何気ない問いの温かさに、
抑えてきた不安と、守りたい思いが胸の奥で一気に噴き上がる。
レギュラスは、何も答えぬまま歩み寄り、
アランを抱きしめた。
その腕の強さは、これまでにないほど熱く誠実だった。
尖った外界のすべてを、
この身ひとつで遠ざけたいと願う強い祈りがこもる。
誰にも傷つけさせはしない。
君だけは、絶対に。
閉じた瞳の奥、渦巻く葛藤さえも溶けていく。
アランは理由も尋ねず、
ただ静かにそのぬくもりに身を委ねた。
言葉よりも雄弁な抱擁のなかに、
ふたりの間にだけ流れる特別な美しさと不安と希望が、
息をひそめて明かりの揺れる夜を包んでいた。
夜の静謐な屋敷に、雷のような現実が落とされた。
レギュラスが静かに告げたその言葉――
「アラン、闇の帝王の前に……あなたも跪かねばならないけません。」
その一音一音がアランの心と体を鋭く貫いた。
全身がきしむように強張る。
頭の奥底に冷たい恐怖が根付く。
闇の帝王――ただその名を思うだけで、
世界が密やかに色を失う気がした。
けれど、それ以上に胸を蝕んだのは、
レギュラスの忠誠心が疑われているという事実だった。
彼ほど真っ直ぐに、身も心も従って尽くしてきた人ですら、
完全に信じることは許されない世界。
「人質」として連れ出されなければならないという現実。
それでも―― アランの傍らにいるレギュラスは、
どこまでも穏やかな声で「大丈夫」と繰り返す。
「君に危害が及ぶことは決してない。
僕がいる限り、何も恐れることはありませんから」
そのひたむきな声。
けれどそれは、希望の光ではなく、
ますます深い絶望へと沈ませる呪文のように感じられた。
何もかも――守るべきもの、守らねばならぬ名誉と誇り。
そのためならどれだけ心や命や愛が削られても、
彼はこの道を選び、とどまり、
そして支持しようとしてしまうのだろうか。
「……大丈夫、大丈夫ですアラン」
レギュラスの必死な祈りのような言葉を、
アランはただ黙って聞き続けるしかなかった。
魂ごと冷たい流れに攫われるような感覚で、
彼の男らしく頼もしい腕のなか、
遙か遠くに置き忘れてきた優しさと幸福の記憶だけが、
薄く儚く、まるでガラス細工のように胸の奥で光っていた。
そしてアランは、
もう自分には決して戻れない夜の底で、
もう誰にも何も救えない絶望だけを、
そっと引き受けるしかなかった。
夜の帳が静かに寝室を包み込んだ。
レギュラスの手がそっとアランの髪を撫で、低く名前を囁く。
その柔らかな声は、かつて感じたはずの温もりとはほど遠く、
アランの胸に深い苦しみと切なさを残した。
身体は美しい曲線を描いてレギュラスに委ねているはずだった。
だが、心はどこか遠く、暗闇の底で折れそうになっていた。
なぜ、こんなことに。
なぜ、自分はここにいるのか。
問いかけることすらできないまま、ただ絶望が静かに広がっていく。
名前を呼ばれるたび胸が締め付けられる。
それは愛しさとは異なる、追い詰められた感情のうねりだった。
繰り返される囁きは、まるでやさしい呪縛のように、
アランの心を震わせ、切り裂いていった。
恐怖と悲しみが混ざり合い、身体中に静かな痛みが走る。
目を閉じても逃れられぬその感覚は、
壊れそうなほど脆く、薄く、けれど確かな存在感を持っていた。
その夜、二人のあいだには愛という名の繋がりとは違う、
言葉にならない闇が静かに横たわった。
アランはただ、深い静寂の中で、
耐え続けることしかできなかった。
重い扉が、静かにわずかな軋みを響かせて開いた。
石造りの広間は、呼吸さえも冷たく吸い込まれる静寂に包まれていた。
レギュラスがアランの手をしっかりと握り、ゆっくりと歩を進めるたび、
大理石の床に二人の足音だけが、細い音となって響いた。
一歩進むごとに、アランの足はすくみ、心臓が痛いほど高鳴った。
身体じゅうの血の気が引いていくのを自覚しながら、
周囲を囲む黒いローブの男たち――
デスイーターたちの鋭い視線が、
息もできないほど強烈に肌を刺していた。
堂々たる玉座の前、
薄暗い奥で待ち構えるのは闇の帝王。
その存在だけで場の空気は凍り、
目を伏せてもなお背筋を貫く圧倒的な恐怖があった。
レギュラスの指は、アランの手をとらえて離さない。
心配するふりの優しさも、
自らの忠誠の証のための力強さも混じったその温もりだった。
アランは怯えを堪え、胸を張って一歩ずつ前に進んだ。
けれど、
ただ息をするだけで痛いほどの、
圧倒的恐怖が全身を支配していく。
紅い瞳が、
その何もかもを見透かし、命のひと雫までも支配している。
震えるほどの気高さと絶望のあいだで、
アランは静かに頭を垂れた。
その背中に、レギュラスの手のぬくもりだけが
かすかに灯り続けていた。
「よく来た、アラン・ブラック。」
玉座の上から降り注ぐ響きは、ひどく静かで、底知れない威圧をもっていた。
アランは膝をつき、震える指先でスカートの布地をぎゅっと握りしめる。
顔など到底上げられない。
闇の帝王の気配だけで、全身が冷え切りそうだった。
「顔を――あげてみせよ。」
ヴォルデモートの命令が低く広がる。
アランは恐る恐る顎を上げ、
初めてその顔を見つめた。
紅い、深い闇のような瞳が真っ直ぐに射抜く。
アランの呼吸が浅くなり、動けなくなってしまう。
「――噂には聞いていたが、ずいぶんと麗しい娘をもらったものだな、レギュラス。」
冷酷な賞賛が闇のなかで静かに響いた。
ヴォルデモートの声は飴色に甘く、けれど容赦なく、
本能的な恐怖と陶酔をアランの背中にまとわせていく。
レギュラスはアランの傍らで僅かに声も表情も崩さず、
帝王のその一言をまるで最大の名誉のように受け止めた。
アランの心臓は、鼓動の一つ一つごとに
この場に自分が「飾り」や「証」として差し出されていることを
明瞭に知る。
赤い眼差しに震え、
そのまなざしの奥に沈んでいくしかなかった。
薄暗い広間に、絶望にも似た静けさが満ちていた。
「アラン、お前に聞こう。
夫、レギュラス・ブラックは……俺様の忠実な僕で間違いないか?」
闇の帝王の言葉は、広間の静寂に澱のように溶けていった。
アランの喉は渇き、微かに震える声をやっと絞り出す。
「……間違い、ございません。」
その返事を聞いたヴォルデモートの唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
「そうか、そうか。それはいい。」
甘やかな声音。その奥に潜む牙を、誰もが感じていた。
「だが――」
その声色が鋭利になる。広間の空気が急速に張り詰めた。
「口ではいくらでも、言えるものだ。」
デスイーターたちの呼吸すら止まる。
アランの唇は小さく震え、レギュラスの横顔は僅かに強張ったまま動かない。
無慈悲な紅い瞳が、
アランの心の奥底を覗き込むように揺れる。
その視線に晒されるたび、
自分がいま、ただひとつの忠誠の証として試される小さな歯車でしかないことを思い知らされる。
アランの胸に、冷たい絶望が泡立っていく。
沈黙。
その重さが、広間の誰もの肩にのしかかった。
夜の闇より深い支配と恐怖が、
ひと時たりとも緩むことなく、
全員の魂に纏わりついていた。
「誓いを立てな!」
ベラトリックスの声が、鋭い刃のように暗い広間を突き破った。
場の空気が一層張り詰める中、
ヴォルデモートの声が静かに降りかかる。
「それがいい、アラン。
俺様に誓え――お前の夫は、決して俺様を裏切ることはないと。」
アランは膝をつき、
頭を垂れたまま、消えてしまいそうなか細い声で答えた。
「はい……誓います。」
その瞬間、ベラトリックスが黒曜石のごとき杖を抜き、
アランの腕を強く掴む。
身動きもできず、アランはなされるがままに腕を差し出す。
次に、ヴォルデモートの手がその肌に触れた。
氷のような皮膚――苦しみと支配が染みこんだ指先が、
アランの白い腕をしっかりと包む。
その冷たさが、皮膚から心の奥深くまで
沁み入るように、
アランの心までも凍てつかせていく。
重く、暗く、
魔法の力がこの腕に刻みつけられるような錯覚。
誓いを求められた声と、その手の重みだけが、
世界のすべてとなった。
アランはただ静かに目を閉じて、
全身を支配する恐怖と絶望に息を潜めた。
その場に集うすべての者の前で、
運命の鎖が新たに編まれていく音だけが
静寂のなかに残っていた。
ベラトリックスは唇の端をにやりと吊り上げ、
黒い杖を一閃させた。
その動きは狂気すら帯びており、広間の空気をさらに冷ややかに引き締める。
魔法の言葉が細く鋭く紡がれ、
アランと闇の帝王――ヴォルデモートのあいだを、破られぬ誓いの鎖が静かに絡め取る。
その場に集うデスイーターたちの視線が、一斉にアランの上に降り注いだ。
証人は、逃げ場のない黒衣の人波。
その声なき圧が、アランの全身を容赦なく締めつける。
ベラトリックスが杖を下ろした瞬間、
アランの腕に熱が走り、どこにも逃れられぬ枷が映えた気がした。
全身はまともに冷たく強張り、
心臓だけが速く、深く鼓動する。
(逃げたい、ここではないどこかへ――)
けれど足も、声も、どこまでも世界の闇に縫いとめられて動かない。
赤い瞳の帝王が満足そうに彼女を見下ろし、
ベラトリックスだけが、
この世の喜劇を最後に味わうかのように愉快げに嗤っていた。
広間の静けさのなか、
誰にも見せられぬアランの涙だけが、
心の奥に、静かに、深く滲んでいた。
夜の屋敷は静まり返り、外の闇が窓硝子に溶けていた。
広い応接間にふたりだけ。
アランは両手を組んで膝の上に置き、背筋を伸ばしている。
どれだけ明かりを灯しても、この屋敷がこれほど冷え冷えとした空気に満たされる夜は、かつてなかった。
「アラン、名誉なことですから――」
レギュラスが静かに言った。
その声には、誇りと使命感が滲む。
けれど、アランの中の恐れも痛みも、その言葉では拭うことができなかった。
今夜、感じたあの絶望的な恐怖。
逃げ出したいほどの、心の奥を冷たく縛る絶望。
その感覚を、レギュラスはきっと理解しようとしないのだろう。
いや、できないのかもしれない。
「……ええ、名誉ですね。」
アランはそれだけを静かに返し、
うつむいたまま、細く震える指先を見つめる。
涙はこぼれない。ただ胸の奥で、冷たい水がしずかに波打つだけだった。
こんな世界に、もうこれ以上、レギュラスが巻き込まれるのを見ていられない。
彼さえ、ヴォルデモートという怪物によって
何もかも奪われてしまう予感が拭えなかった。
「……ねえ、どうか、これ以上危険なことに首を突っ込まないで。」
やっとの思いで小さな声をしぼりだしてみる。
けれど、レギュラスのまなざしはどこまでも静かで
その願いは、遠い水面に落ちる雨粒のようにかすかに波紋をひろげるだけ。
その夜、
ふたりの心は同じ屋敷の、同じ部屋にありながら――
どこまでも遠く、冷たく、重なりあうことはなかった。
