2章
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街角を歩いていると、ふとクィディッチ用品店の前で足が止まった。
ショーウィンドウには磨き上げられた最新型の箒が美しく並び、
その凛とした曲線に、胸がきゅっと締めつけられた。
――あの空を、夢中で見上げた日のことを思い出す。
クィディッチのグラウンドで、シリウスとジェームズが並んで高く舞う姿。
翼のような一体感と、どこまでも広がる空のきらめき。
眩しいほどにかっこよくて、アランは観客席から何度も何度も、無我夢中でふたりを目で追いかけていた。
「懐かしいですね。」
隣で立ち止まったレギュラスが、優しくつぶやいた。
彼もまた、かつてクィディッチの選手だった人。
この箒を見て懐かしく思うのも、きっと自然なこと。
アランは不意に胸のうちを見抜かれてしまいそうな気がして、
咄嗟に話題を変える。
「ええ……そういえばこのお店で、いつかあなたに贈ったクィディッチ用のグローブを選んだのを思い出したわ。」
遠い日の気配と、あのときグローブ選びに迷った幸福な一瞬が、
ささやかな波紋のように胸に広がる。
レギュラスは懐かしそうに、きっぱりとうなずいた。
「覚えてますよ。あのグローブ、今も大切にしています。
いつか子どもがクィディッチをする時が来たら、譲ってあげるんです。」
「子どもに、お古をあげるの?」
少し冗談めかして問いかけると、
レギュラスは真面目な顔で言葉を返す。
「何を言うんですか。手入れして大切に使ってきましたし、両親の思い出のものですから。
きっと、喜んでもらえるはずです。」
窓越しに、箒の銀の羽が午後の光を受けてきらめていた。
その輝きを見つめながら――
アランは、自分の心の奥底に今も色褪せず息づいている、遠い空の記憶をそっと手のひらに包み込んだ。
それぞれの胸のなかに、誰にも言えない想いをしまいながらも、
今ここで微笑み合っていられることの穏やかさが、
苦く、愛おしく、静かに沁みていくのを感じていた。
子どもたちの歓声が、街角の午後を明るく弾ませている。
「ジェームズだ!」「シリウスだ!」
小さな手が杖を振り、笑い声が高く響く。
その様子を見ながら、隣のレギュラスの表情には、わずかな影がさしていた。
「……賑やかですね。」
声にはどこか引っかかる棘があった。
アランはそれを敏感に察して、
ついさっきまで子どもたちに注いでいたまなざしを、
ゆっくりと逸らす。
レギュラスの口元には、皮肉めいた微笑が浮かぶ。
「最近の子どもは、騎士団ごっこなどが好きなんですね。
ああいう派手な英雄譚なら、何も知らなくても良いのでしょう。」
ちくりちくりと続く言葉。
その重さに、アランの心がきゅっと締めつけられる。
うまく返そうと思うのに、
胸がざわついて、言葉が迷子になってしまう。
せっかくの晴れやかな街の光景が、
空気の奥で静かに色を鈍らせていく。
アランはただ、小さく微笑んで黙るしかなかった。
胸のうちに残る余韻も、
レギュラスのまなざしも、
どちらもどうにもできず、
足元に落ちた午後の影だけが、
ふたりの間で静かに揺れていた。
通りを歩くなか、ふいにレギュラスが立ち止まり、
振り向きざま、穏やかな声で言った。
「そういえば、あなたが薬を卸に行っていた薬屋がこの辺ではありませんでした?……挨拶に寄りましょうか。」
その何気ない言葉に、アランの心臓がひとつ小さく跳ねる。
一瞬、呼吸が浅くなるのを感じた。
レギュラスの目には、柔らかさに隠された光が宿っている。
まるで、何かを探るように――
表情も声音も丁寧だが、そこには確かな意図が見え隠れする。
「えっ……ええ、そう、ですね。たしかこの通りだったかしら。」
取り繕うように返しながら、
アランはうすく笑みを浮かべてみせた。
けれど、自分が見透かされているのではないかという緊張が、
体の奥にじくじくと広がっていく。
レギュラスの並ぶ足取りに合わせながら、
その横顔をちらりと盗み見る。
問いかけの意図、その奥深くにある本心を知るのが、
今は少しだけ怖かった。
外の賑わいとは裏腹に、
ふたりのあいだの空気は静かに冷えていく。
街の喧騒に紛れた、
小さな波紋だけが、アランの胸の奥でそっと広がっていった。
人通りから少し外れた細い石畳の先――
以前、アランが薬を届けに訪れたあの薬屋が、そっと控えめに佇んでいる。
重い扉を押すと、薬草やポーションの独特な香りがふわりと漂い、
小さく澄んだベルの音が店内に鳴り響いた。
レギュラスはさりげなくアランの手を引き、
老店主と目を合わせて微笑んだ。
「これはこれは、ブラック夫人……」
しわがれた声の店主が、あたたかく頭を下げる。
年月に磨かれたその瞳が、少し驚きと誇りをたたえてアランを見る。
アランは緊張を隠して、微笑み返すのがやっとだった。
喉の奥がひりつく。
(本当の理由――この店がシリウスたち騎士団の仲間たちにもよく利用されている場所だということ――どうか、気づかれませんように。)
レギュラスも静かに挨拶を返す。
「お世話になっております、レギュラス・ブラックです。
先日は、わが妻が良い仕事をしたと伺っています。」
その声は、礼儀正しく穏やかでありながらも
どこか探るような、見透かすような響きをふくんでいる。
老店主は頭を下げながら、すこしだけ視線を泳がせる。
「ええ、ブラック夫人には本当に感謝しております。おかげ様で助かりました……。」
アランは胸の奥でじっと息を止める。
ほんの少しでも、この場所の“裏側”に目が向かないように――
控えめな微笑と語尾の柔らかさに、精一杯の思いやりをこめる。
蝋燭の明かりが棚の小瓶を照らし、
小さく揺れる光のなか、
誰にも知られたくない秘密だけが、静かにきらめいていた。
老店主の静かなまなざしと、レギュラスのわずかな探る気配――
その狭間で、アランの心だけが凪のようにひそやかに波立っていた。
薬屋の薄暗い店内は、香草や薬草のほのかな香りに満たされていた。
レギュラスは静かにアランの方を向き、柔らかな誇らしげな微笑みを浮かべる。
「役に立てているようで何よりだ。」
その言葉に、アランはぎこちなく微笑み返した。
その笑みの端には、重なる期待と、不安の影がかすかに揺れていた。
店主がふっと顔を輝かせ、アランの調合した薬を詳しく褒め始める。
「特にこの薬は素晴らしい。効き目が早くて正確、まさに上質ですよ。御婦人の卓越した技術が間違いなく反映されています。」
レギュラスは飾り気なく、しかし確かな興味を込めて質問した。
「どんな魔法使いが買いに来るのですか?」
一歩踏み込んだ質問に、店主は少し目を丸くし、しばらく沈黙した。
一方で、アランは冷や汗が背筋を伝うのを感じていた。
硬く握った掌が、小さく震えているのを自覚しながら、
答えを求める周囲の視線に耐えた。
薬屋の灯りは揺らめき、静けさを装うその闇の中で、
誰もが口にできない秘密が薄く漂っていることを、
アランだけが痛いほど感じていた。
店主は、レギュラスの踏み込んだ問に一瞬たじろいだものの、すぐに穏やかな商人の顔を取り戻し、
「大人から子供まで、たくさんいらっしゃいますよ」と笑顔を向けた。
「たとえばこの薬は少し効能が強いのでお子さんには向きませんが――」
と、小瓶を指先で示しながら、
「こちらなんかは子供のちょっとした風邪にもよく効きましてね、ご家族連れのお客さまにも評判です」と話を続ける。
その言葉に、アランは微かに肩を落とし、安堵のため息をひとつ。
それでも――心の奥にひやりとした不安は完全には消えなかった。
会話の合間に自分の方へ向けられる、
レギュラスの静かな視線。
それは、優しさと同時にどこか探るようなまなざしでもあった。
アランは微笑みを崩さぬまま、
店主の説明に小さくうなずき、
手すりを握る指先をそっと力いっぱいしめつけた。
棚の瓶に反射した淡い光、店内に漂う薬草の香り。
誰にも気づかれぬまま波立つ不安を抱えながら、
アランはただ静かに、
波紋を落ち着かせるように呼吸を整えていた。
横顔をじっと見つめるレギュラス――
その胸には、やはり何か確かめたいものが宿っているように感じられた。
薬屋の小さな灯りの下、
言葉にならないさざなみが二人の間に静かに広がっていった。
帰り道、夕暮れの光が二人の影を長く伸ばしていた。
人通りの少ない石畳の上を歩きながら、レギュラスはふと静かに微笑む。
その笑顔には、どこか深いものを隠していた。
「アラン、何か僕に伝えておきたいことはありますか?」
柔らかな声。けれど、そこに仕組まれた問いの気配をアランは敏感に感じ取った。
ずっと続いていた探るような視線や言葉、そのひとつひとつが胸に澱のように積もっていく。
呼吸が浅くなり、心の奥が冷たくひりついた。
「いいえ……なにも。」
アランの声は細く、まるで消えてしまいそうだった。
しんとした沈黙が落ちる。
すぐそばで、レギュラスがごく小さく、誰にも聞こえぬほどのため息をこぼした。
しばらく歩いたあと、レギュラスは淡々とした口調で続けた。
「実は、クリーチャーにあの薬屋を調べさせていました。」
アランの背筋が、ぞくりと冷たくなる。
胃の奥がぎり、と苦い痛みに締め付けられる。
――知っていたのだ。
レギュラスは最初から、全てを見抜いていたのだろう。
それでも尚、アラン自身の口から打ち明けさせようと、
静かに、じりじりと追い詰める道を選んだ。
緩やかな石畳を歩くその歩調は変わらないのに、
どこか取り返しのつかない崖に心が追い詰められていくようだった。
空は美しく晴れているのに、
胸の奥には冷たい影だけが、静かに、広がっていった。
アランは言葉を失い、ほんの瞬間、足元が揺らぐような感覚に襲われた。
その様子を見て、レギュラスは静かに言う。
「顔色が悪いですよ、アラン。」
静かな声色の中に、見透かすような優しさと、微かな冷たさが滲む。
アランは胸の奥で必死に言い訳を探し、そのひとつに縋るように口を開いた。
「この街では一番の老舗ということだったので……
そこに置いてもらえるものを作ることで、魔法薬の腕を試してみたかったのです。他に意図はないわ。」
言葉の端々が震えないよう、
無理やりにでも自分を律して、
精一杯落ち着いた声と微笑みとで取り繕う。
視線だけは絶対に逸らさぬように、
レギュラスの眼をまっすぐに見つめて言い切った。
その瞳の奥には、どこか遠い静寂と、
踏み込めない海のような深さがあった。
胸がじん、と痛む。
――この場に漂う、繊細で冷たい緊張だけが
春の終わりの風のように、ふたりのあいだを静かにすり抜けていった。
淡い夕暮れの中、ふたりの影が石畳に長く映る。
レギュラスの脳裏には、先日クリーチャーから手渡された薬屋の来客リストが鮮やかに蘇っていた。
その紙片に記された、数々の名前――。
オーダー・オブ・フェニックス、騎士団の面々。
直接「シリウス・ブラック」という名はなかったものの、それが余計に、静かな裏切りを感じさせた。
アランはきっと知っていたはずだ。
この薬屋を選び、薬を卸した理由は、それ以外には考えられない。
叶わぬ思いの一端でも、どこかでせめて間接的につながっていたい――シリウスへの、アランの消せぬ想い。その可能性が、胸をちくりと刺し続けた。
今の自分は、白々しく遠回しなやりとりでアランを追い詰めている。
けれど本当は、すぐにでも問いただしたかった。
その理由、その本心、その全部を――。
「そうでしたか。」
レギュラスは、落ち着いた微笑みを崩さずに返す。
「先ほどもあれだけ褒められていましたし、あなたの腕前は疑いようがありませんね。」
一見穏やかなその言葉の底には、じんわりと小さな怒りが芽生えていた。
アランが他意などないと取り繕うこと――
その不器用さすら、今は悲しく腹立たしかった。
空気は静かで、優雅なはずの黄昏が、
小さなさざめきと痛みとで満ちていく。
レギュラスは、ふとアランの横顔を見つめる。
その繊細な美しさの奥に、これまで気づかなかった遠い翳りが確かに宿っていた。
問いかけることのできない疑念と、
飲み込めきれぬ怒りが、優雅な沈黙に染み込んでいく。
ふたりの歩調はぴたりと揃っているのに、
心の距離だけが、音もなく、少しずつ開いていった。
家へと戻る道すがら、沈黙はどこまでも長く伸びた。
空は藍に落ち、街の明かりがひとつ、またひとつ遠ざかる。
アランは小さく息をのみ、
胸の奥に重く渦巻くものをどうすることもできなかった。
やっと屋敷の門が見え始めたとき、
レギュラスがふと足を止める。
小さな声で、けれど否応なく重みのある響きで。
「アラン。」
その名を呼ばれ、アランは立ち止まる。
手のひらににじむ、冷たい汗。
どこかで、このままではすまないことを感じ取っていた。
「……どうか、僕にだけは嘘をつかないでください。」
レギュラスの声は穏やかだが、
微かな震えと、どうしようもない寂しさを孕んでいた。
アランは息を呑み、顔をうまく上げられない。
夜風が優雅なドレスの裾を揺らす。
心の奥まで見透かされているような痛みに、
沈黙のまま、ただ立ち尽くした。
レギュラスはそれ以上何も言わず、
静かに歩き始めた。
アランも、何も返せないまま、その背を追った。
夜空は冷たく澄みきり、
二人の間に広がる暗がりだけが、
何より雄弁にふたりのすれ違いを語っていた。
屋敷の明かりが、遠く滲んで見えた。
ショーウィンドウには磨き上げられた最新型の箒が美しく並び、
その凛とした曲線に、胸がきゅっと締めつけられた。
――あの空を、夢中で見上げた日のことを思い出す。
クィディッチのグラウンドで、シリウスとジェームズが並んで高く舞う姿。
翼のような一体感と、どこまでも広がる空のきらめき。
眩しいほどにかっこよくて、アランは観客席から何度も何度も、無我夢中でふたりを目で追いかけていた。
「懐かしいですね。」
隣で立ち止まったレギュラスが、優しくつぶやいた。
彼もまた、かつてクィディッチの選手だった人。
この箒を見て懐かしく思うのも、きっと自然なこと。
アランは不意に胸のうちを見抜かれてしまいそうな気がして、
咄嗟に話題を変える。
「ええ……そういえばこのお店で、いつかあなたに贈ったクィディッチ用のグローブを選んだのを思い出したわ。」
遠い日の気配と、あのときグローブ選びに迷った幸福な一瞬が、
ささやかな波紋のように胸に広がる。
レギュラスは懐かしそうに、きっぱりとうなずいた。
「覚えてますよ。あのグローブ、今も大切にしています。
いつか子どもがクィディッチをする時が来たら、譲ってあげるんです。」
「子どもに、お古をあげるの?」
少し冗談めかして問いかけると、
レギュラスは真面目な顔で言葉を返す。
「何を言うんですか。手入れして大切に使ってきましたし、両親の思い出のものですから。
きっと、喜んでもらえるはずです。」
窓越しに、箒の銀の羽が午後の光を受けてきらめていた。
その輝きを見つめながら――
アランは、自分の心の奥底に今も色褪せず息づいている、遠い空の記憶をそっと手のひらに包み込んだ。
それぞれの胸のなかに、誰にも言えない想いをしまいながらも、
今ここで微笑み合っていられることの穏やかさが、
苦く、愛おしく、静かに沁みていくのを感じていた。
子どもたちの歓声が、街角の午後を明るく弾ませている。
「ジェームズだ!」「シリウスだ!」
小さな手が杖を振り、笑い声が高く響く。
その様子を見ながら、隣のレギュラスの表情には、わずかな影がさしていた。
「……賑やかですね。」
声にはどこか引っかかる棘があった。
アランはそれを敏感に察して、
ついさっきまで子どもたちに注いでいたまなざしを、
ゆっくりと逸らす。
レギュラスの口元には、皮肉めいた微笑が浮かぶ。
「最近の子どもは、騎士団ごっこなどが好きなんですね。
ああいう派手な英雄譚なら、何も知らなくても良いのでしょう。」
ちくりちくりと続く言葉。
その重さに、アランの心がきゅっと締めつけられる。
うまく返そうと思うのに、
胸がざわついて、言葉が迷子になってしまう。
せっかくの晴れやかな街の光景が、
空気の奥で静かに色を鈍らせていく。
アランはただ、小さく微笑んで黙るしかなかった。
胸のうちに残る余韻も、
レギュラスのまなざしも、
どちらもどうにもできず、
足元に落ちた午後の影だけが、
ふたりの間で静かに揺れていた。
通りを歩くなか、ふいにレギュラスが立ち止まり、
振り向きざま、穏やかな声で言った。
「そういえば、あなたが薬を卸に行っていた薬屋がこの辺ではありませんでした?……挨拶に寄りましょうか。」
その何気ない言葉に、アランの心臓がひとつ小さく跳ねる。
一瞬、呼吸が浅くなるのを感じた。
レギュラスの目には、柔らかさに隠された光が宿っている。
まるで、何かを探るように――
表情も声音も丁寧だが、そこには確かな意図が見え隠れする。
「えっ……ええ、そう、ですね。たしかこの通りだったかしら。」
取り繕うように返しながら、
アランはうすく笑みを浮かべてみせた。
けれど、自分が見透かされているのではないかという緊張が、
体の奥にじくじくと広がっていく。
レギュラスの並ぶ足取りに合わせながら、
その横顔をちらりと盗み見る。
問いかけの意図、その奥深くにある本心を知るのが、
今は少しだけ怖かった。
外の賑わいとは裏腹に、
ふたりのあいだの空気は静かに冷えていく。
街の喧騒に紛れた、
小さな波紋だけが、アランの胸の奥でそっと広がっていった。
人通りから少し外れた細い石畳の先――
以前、アランが薬を届けに訪れたあの薬屋が、そっと控えめに佇んでいる。
重い扉を押すと、薬草やポーションの独特な香りがふわりと漂い、
小さく澄んだベルの音が店内に鳴り響いた。
レギュラスはさりげなくアランの手を引き、
老店主と目を合わせて微笑んだ。
「これはこれは、ブラック夫人……」
しわがれた声の店主が、あたたかく頭を下げる。
年月に磨かれたその瞳が、少し驚きと誇りをたたえてアランを見る。
アランは緊張を隠して、微笑み返すのがやっとだった。
喉の奥がひりつく。
(本当の理由――この店がシリウスたち騎士団の仲間たちにもよく利用されている場所だということ――どうか、気づかれませんように。)
レギュラスも静かに挨拶を返す。
「お世話になっております、レギュラス・ブラックです。
先日は、わが妻が良い仕事をしたと伺っています。」
その声は、礼儀正しく穏やかでありながらも
どこか探るような、見透かすような響きをふくんでいる。
老店主は頭を下げながら、すこしだけ視線を泳がせる。
「ええ、ブラック夫人には本当に感謝しております。おかげ様で助かりました……。」
アランは胸の奥でじっと息を止める。
ほんの少しでも、この場所の“裏側”に目が向かないように――
控えめな微笑と語尾の柔らかさに、精一杯の思いやりをこめる。
蝋燭の明かりが棚の小瓶を照らし、
小さく揺れる光のなか、
誰にも知られたくない秘密だけが、静かにきらめいていた。
老店主の静かなまなざしと、レギュラスのわずかな探る気配――
その狭間で、アランの心だけが凪のようにひそやかに波立っていた。
薬屋の薄暗い店内は、香草や薬草のほのかな香りに満たされていた。
レギュラスは静かにアランの方を向き、柔らかな誇らしげな微笑みを浮かべる。
「役に立てているようで何よりだ。」
その言葉に、アランはぎこちなく微笑み返した。
その笑みの端には、重なる期待と、不安の影がかすかに揺れていた。
店主がふっと顔を輝かせ、アランの調合した薬を詳しく褒め始める。
「特にこの薬は素晴らしい。効き目が早くて正確、まさに上質ですよ。御婦人の卓越した技術が間違いなく反映されています。」
レギュラスは飾り気なく、しかし確かな興味を込めて質問した。
「どんな魔法使いが買いに来るのですか?」
一歩踏み込んだ質問に、店主は少し目を丸くし、しばらく沈黙した。
一方で、アランは冷や汗が背筋を伝うのを感じていた。
硬く握った掌が、小さく震えているのを自覚しながら、
答えを求める周囲の視線に耐えた。
薬屋の灯りは揺らめき、静けさを装うその闇の中で、
誰もが口にできない秘密が薄く漂っていることを、
アランだけが痛いほど感じていた。
店主は、レギュラスの踏み込んだ問に一瞬たじろいだものの、すぐに穏やかな商人の顔を取り戻し、
「大人から子供まで、たくさんいらっしゃいますよ」と笑顔を向けた。
「たとえばこの薬は少し効能が強いのでお子さんには向きませんが――」
と、小瓶を指先で示しながら、
「こちらなんかは子供のちょっとした風邪にもよく効きましてね、ご家族連れのお客さまにも評判です」と話を続ける。
その言葉に、アランは微かに肩を落とし、安堵のため息をひとつ。
それでも――心の奥にひやりとした不安は完全には消えなかった。
会話の合間に自分の方へ向けられる、
レギュラスの静かな視線。
それは、優しさと同時にどこか探るようなまなざしでもあった。
アランは微笑みを崩さぬまま、
店主の説明に小さくうなずき、
手すりを握る指先をそっと力いっぱいしめつけた。
棚の瓶に反射した淡い光、店内に漂う薬草の香り。
誰にも気づかれぬまま波立つ不安を抱えながら、
アランはただ静かに、
波紋を落ち着かせるように呼吸を整えていた。
横顔をじっと見つめるレギュラス――
その胸には、やはり何か確かめたいものが宿っているように感じられた。
薬屋の小さな灯りの下、
言葉にならないさざなみが二人の間に静かに広がっていった。
帰り道、夕暮れの光が二人の影を長く伸ばしていた。
人通りの少ない石畳の上を歩きながら、レギュラスはふと静かに微笑む。
その笑顔には、どこか深いものを隠していた。
「アラン、何か僕に伝えておきたいことはありますか?」
柔らかな声。けれど、そこに仕組まれた問いの気配をアランは敏感に感じ取った。
ずっと続いていた探るような視線や言葉、そのひとつひとつが胸に澱のように積もっていく。
呼吸が浅くなり、心の奥が冷たくひりついた。
「いいえ……なにも。」
アランの声は細く、まるで消えてしまいそうだった。
しんとした沈黙が落ちる。
すぐそばで、レギュラスがごく小さく、誰にも聞こえぬほどのため息をこぼした。
しばらく歩いたあと、レギュラスは淡々とした口調で続けた。
「実は、クリーチャーにあの薬屋を調べさせていました。」
アランの背筋が、ぞくりと冷たくなる。
胃の奥がぎり、と苦い痛みに締め付けられる。
――知っていたのだ。
レギュラスは最初から、全てを見抜いていたのだろう。
それでも尚、アラン自身の口から打ち明けさせようと、
静かに、じりじりと追い詰める道を選んだ。
緩やかな石畳を歩くその歩調は変わらないのに、
どこか取り返しのつかない崖に心が追い詰められていくようだった。
空は美しく晴れているのに、
胸の奥には冷たい影だけが、静かに、広がっていった。
アランは言葉を失い、ほんの瞬間、足元が揺らぐような感覚に襲われた。
その様子を見て、レギュラスは静かに言う。
「顔色が悪いですよ、アラン。」
静かな声色の中に、見透かすような優しさと、微かな冷たさが滲む。
アランは胸の奥で必死に言い訳を探し、そのひとつに縋るように口を開いた。
「この街では一番の老舗ということだったので……
そこに置いてもらえるものを作ることで、魔法薬の腕を試してみたかったのです。他に意図はないわ。」
言葉の端々が震えないよう、
無理やりにでも自分を律して、
精一杯落ち着いた声と微笑みとで取り繕う。
視線だけは絶対に逸らさぬように、
レギュラスの眼をまっすぐに見つめて言い切った。
その瞳の奥には、どこか遠い静寂と、
踏み込めない海のような深さがあった。
胸がじん、と痛む。
――この場に漂う、繊細で冷たい緊張だけが
春の終わりの風のように、ふたりのあいだを静かにすり抜けていった。
淡い夕暮れの中、ふたりの影が石畳に長く映る。
レギュラスの脳裏には、先日クリーチャーから手渡された薬屋の来客リストが鮮やかに蘇っていた。
その紙片に記された、数々の名前――。
オーダー・オブ・フェニックス、騎士団の面々。
直接「シリウス・ブラック」という名はなかったものの、それが余計に、静かな裏切りを感じさせた。
アランはきっと知っていたはずだ。
この薬屋を選び、薬を卸した理由は、それ以外には考えられない。
叶わぬ思いの一端でも、どこかでせめて間接的につながっていたい――シリウスへの、アランの消せぬ想い。その可能性が、胸をちくりと刺し続けた。
今の自分は、白々しく遠回しなやりとりでアランを追い詰めている。
けれど本当は、すぐにでも問いただしたかった。
その理由、その本心、その全部を――。
「そうでしたか。」
レギュラスは、落ち着いた微笑みを崩さずに返す。
「先ほどもあれだけ褒められていましたし、あなたの腕前は疑いようがありませんね。」
一見穏やかなその言葉の底には、じんわりと小さな怒りが芽生えていた。
アランが他意などないと取り繕うこと――
その不器用さすら、今は悲しく腹立たしかった。
空気は静かで、優雅なはずの黄昏が、
小さなさざめきと痛みとで満ちていく。
レギュラスは、ふとアランの横顔を見つめる。
その繊細な美しさの奥に、これまで気づかなかった遠い翳りが確かに宿っていた。
問いかけることのできない疑念と、
飲み込めきれぬ怒りが、優雅な沈黙に染み込んでいく。
ふたりの歩調はぴたりと揃っているのに、
心の距離だけが、音もなく、少しずつ開いていった。
家へと戻る道すがら、沈黙はどこまでも長く伸びた。
空は藍に落ち、街の明かりがひとつ、またひとつ遠ざかる。
アランは小さく息をのみ、
胸の奥に重く渦巻くものをどうすることもできなかった。
やっと屋敷の門が見え始めたとき、
レギュラスがふと足を止める。
小さな声で、けれど否応なく重みのある響きで。
「アラン。」
その名を呼ばれ、アランは立ち止まる。
手のひらににじむ、冷たい汗。
どこかで、このままではすまないことを感じ取っていた。
「……どうか、僕にだけは嘘をつかないでください。」
レギュラスの声は穏やかだが、
微かな震えと、どうしようもない寂しさを孕んでいた。
アランは息を呑み、顔をうまく上げられない。
夜風が優雅なドレスの裾を揺らす。
心の奥まで見透かされているような痛みに、
沈黙のまま、ただ立ち尽くした。
レギュラスはそれ以上何も言わず、
静かに歩き始めた。
アランも、何も返せないまま、その背を追った。
夜空は冷たく澄みきり、
二人の間に広がる暗がりだけが、
何より雄弁にふたりのすれ違いを語っていた。
屋敷の明かりが、遠く滲んで見えた。
