2章
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魔法省の高天井に響く足音――
報告書を持つレギュラスの表情は冷ややかで、
外套の裾を静かに揺らしながら、大理石の廊下を進んでいた。
新法に対する騒然とした反発の声がしきりに飛び交っている。
だが、レギュラスの心は澄みきった水面のようだった。
すでにすべてを手にしている――
それを疑う余地もなかった。
角を曲がったその時、二つの視線がぶつかる。
そこに立つのは、シリウス。
久しぶりに交わす視線は、かつてと同じようで、けれどどこか違った。
しばし無言のまま、ふたりは互いを睨みつけ、
やがてシリウスが低く呼び止めた。
「……待てよ。」
レギュラスは鼻で笑い、振り返る。
「なんです?」
赤黒い瞳に、怒りと痛みが閃く。
「てめぇは……いつから、ここまで落ちぶれたんだ?」
投げつけられた言葉に、レギュラスの顔には一瞬の影も差さない。
「何のことでしょう?」
声は淡々と、どこまでも静かだ。
かつては、この兄にどうしようもなく押しつぶされる悔しさがあった。
けれど今では、そよ風一つ心を乱すことなどない。
廊下に張り詰める沈黙。
かつて交わった夢も思い出も、
それぞれの信じる道とともに切り捨てられた。
ただ、冷たく、
そして誇らしく。
今の自分の持つものの重みだけを、
レギュラスは胸の奥で強く抱きしめていた。
魔法省の白い大理石の廊下に、張り詰めた空気が静かに震えていた。
シリウスは顔を真っ赤に染め、感情をむき出しにした鋭い声で叫ぶ。
「てめぇみたいなやつのせいで、どれほどの人間が――どれほどの家族が、引き裂かれてると思ってんだ!」
声は重く反響し、通りすがりの魔法使いたちが次々と足をとめる。
中にはブラック兄弟が真正面からぶつかるめったにない光景に、こっそり魔法カメラを向ける者もいた。
だが、レギュラスは微動だにせず、瞳の底まで凍るような冷静さを崩さない。
ほんの一瞬、唇に浮かんだ薄笑いが、シリウスの痛みを正確に見抜く。
「あなたとアランも――同じように“引き裂かれた”と思っているんですか?」
あえて静かな声で、煽るように問いを返す。
その悪意の色をはらんだ言葉に、シリウスの怒りはついに臨界に達し、
彼は無言のまま杖を抜いた。
次の瞬間には、レギュラスもまた、すでに杖をその手に固く握りしめている。
二人の間に走る緊迫した沈黙。
廊下の片隅で興奮と恐れが交錯し、遠巻きに見守る人々もみな息を呑む。
空気を切り裂くような静電気が、
兄弟の間の距離を鋭く絶縁し、
かつて交わしたぬくもりも、記憶のなかの兄弟愛さえも、
今はただ、圧倒的な敵意の下で凍りついていた。
反射的に構え合った杖の先、
そこにはそれぞれが守ろうとしたもの――
世界の全部がすれ違ったまま、静かに火花を散らそうとしていた。
張り詰めた空気の中、
大理石の廊下に凛と響く声が割って入った。
「やめてくれんかね、こんなところで杖を向け合うなんて。」
魔法大臣自身がその場に現れ、厳然とふたりを見やる。
驚きと戸惑いがややあって、シリウスは険しく顔をゆがめながらも、
杖をゆっくりと下ろした。
その仕草には、譲ることのない矜持と、
どうしようもない現実へのやり場のない苛立ちが滲んでいた。
レギュラスもまた、ただ冷静にその様子を見つめ、
静かに杖を元に戻す。
シリウスは吐き捨てるような短い息とともに、
踵を返し、堂々とした背中を見せて去っていく。
通り過ぎる一瞬、
――子どものころ、誰よりも大きく見えた兄の背中。
あの強さに憧れも、悔しさも、すべてを刷り込んできた。
けれど今は――
重い外套の下で、
自分が背負うものが兄の背中よりも
はるかに大きく高いことを、
レギュラスは静かに知っている。
廊下の光のなかで離れていく背中は、不思議と小さく、
音もなく消えていく。
レギュラスの胸には、痛みとともに、
抗いがたい誇りが、ごく小さな炎となって灯っていた。
ふたりの距離は、もう決してかつてのようには戻らない。
けれどその孤独すらも、
今は静かに受け入れられる気がした。
白い大理石に、杖を下ろした影だけが
静かに交差して消えていった。
午後の淡い陽ざしのなか、純血一族の婦人たちが集う優雅なサロンで――
アランの耳に、ふとした拍子にその噂話が届いた。
「先日、魔法省で……」「そう、ブラック兄弟が杖を……」
「シリウス様が、まあ下品にレギュラス様のことを罵って――」
飾り立てられたカップや笑い声の間に、さりげなく差し挟まれる声。
その瞬間、アランの胸の奥に冷たい波が走った。
苦しさがじんわりと、喉元に満ちていく。
――わかっている、シリウスの怒りの理由を。
彼はかつて、どんな境界も差別も越えて
マグルの世界も、マグルの魔法使いも温かく受け入れられる未来を信じていた。
今、レギュラスの隣に立ち、その家と運命に自分を繋いでいるその事が――
シリウスにとっては、きっと同じ「憎むべき同類」になってしまったのだろうか。
でも、私のなかには
シリウスと手を繋いで歩いたあのマグルの街、
朝靄に煙る並木道、
小さなカフェで交わしたささやかな会話……
今もひとつ残らず、宝物のように鮮やかだ。
シリウスをずっと、今でも変わらずに想い続けている自分。
なのに、シリウスの心の中で自分が憎まれ、
遠ざけられていく現実が――悲しくてたまらなかった。
笑顔の奥で、アランの指先は少しだけ震えていた。
唇に浮かぶ微笑は、今にも消えてしまいそうなほど脆かった。
本当は言いたい。
「私は、忘れていない。あなたの見た夢も、信じた優しさも――
私の中にはまだ全部、残っているの。」
届くことのない願いに、
アランはただ静かに眼差しを伏せた。
香り高い紅茶の湯気の向こう、
遠い春の日の陽射しのような幸福だけが、
胸の奥でそっと光りつづけていた。
美しく磨かれたサロンの中、
花々の香りと銀食器の音が静かに重なる午後、
貴婦人たちの間では、レギュラスの名が称賛を浴びていた。
「新しい法律にサインなさったレギュラス様――本当に素晴らしい方ね。」
「魔法界にふさわしい未来を切り拓かれたのですわ。」
「誇り高いご主人を持って、さぞお幸せでしょう、アラン様。」
揺れる紅茶の琥珀色を見つめながら、アランは淀みのない声で礼を述べる。
「夫の行いを多くの方がそう仰ってくださるのは、光栄なことですわ。」
微笑みながら言葉を選び、
背筋を伸ばし、なめらかな所作で応じる。
けれど、胸の奥はまるで波立つ湖のように、見えない涙で満ちていた。
――周りのの肯定の声が、歓喜の空気が、
自分の中にひっそり生きているシリウスを、
あの日の誇りと優しさを、優しい記憶までも
まるごと押し流してしまう気がして、
怖くて、悲しくて、胸がきつく締め付けられる。
周りの誰もが「正しい」と讃える道のなかで、
大切なひとが遠ざかっていく現実だけが
そっと薄い涙の膜を落とした。
微笑みは壊れずにそこにある。
貴婦人たちの称賛にも、丁寧に受けこたえる。
でも、本当は――
いまにも崩れだしそうな自分を、誰にも見破られないよう
ただ祈るように、アランは紅茶をそっと口に運んだ。
ガラス越しの午後の光に、
沈黙の涙だけがかすかに滲んでいた。
夕暮れの穏やかな屋敷。
柔らかなランプのあかりが天井に影を泳がせている。
アランはサロンでの集まりから帰ってきたばかりだった。
リビングで出迎えたレギュラスが、やさしく問いかける。
「今日はどうでした? サロンで集まりがあったでしょう?」
「ええ、ノット夫人やオズワルド家の奥様も見えていました。」
他の純血一族の名を、さも変わったことのない一日だったかのように挙げてみせる。
けれど、微妙な余白に触れたまま、
アランの胸には客間で聞こえてきた“あの噂”――
シリウスとレギュラスの杖をめぐる緊迫が
しんしんと心の奥を冷やしていた。
本当は、あの瞬間にどんなことがあったのか聞きたかった。
でも、口にはしなかった。
問いただしてしまえば、心のどこかにある痛みがこぼれそうで、
何より今は、そのすべてに蓋をしてしまいたかった。
「でも……」とアランは、わざと少し明るく続ける。
「あそこの紅茶より、あなたが淹れてくれるもののほうが美味しいの。」
さらりと、話題をすりかえてみせる。
さびしさと温かさが揺れまじる視線で、
カップを差し出す指だけがほんの少し震えていた。
レギュラスは、気づかないようにふるまいながらも
「それは光栄ですね」と静かに微笑み返す。
ふたりのあいだに広がる小さな沈黙――
食卓や応接間の灯りが、今夜もそっと
心の襞をなぞるように美しく揺れていた。
夜霧に包まれた路地裏、任務の緊張感が空気に満ちている。
レギュラスと並んで動くバーテミウスの横顔は、
深刻な局面とは裏腹に、妙に気を抜いた表情を浮かべていた。
「君ってさ……性欲、あるの?」
バーテミウスはまるで昼下がりのティールームで交わされる噂話のように唐突に切り出した。
「いきなりなんですか。」
レギュラスの端正な眉がわずかに揺れる。
杖を構え、足音を殺しながらも、会話の重心は妙に軽い。
「こんな時に……何を言い出すんです。」
「いや、ほら。君って――すべてを持っている男だろ?」
バーテミウスがほくそ笑む。
「だから、俗人が悩むような普通の欲求なんて無縁に見えてさ。」
レギュラスは呆れたように息をついた。
「生理的欲求は、人間ならあたりまえです。」
マントの裾が闇に揺れ、先を行くマグル魔法使いの影を追いながらも、
ふたりの会話は皮肉にも、
どこまでも現実感のない、重さの抜けたものとなる。
火花と呪文の光が交錯するなか、
話す内容だけはどこか滑稽で、逃げる出口もなかった。
深く張り詰めた夜の任務の只中で、
こうした無意味に近い会話だけが、
ほんの一瞬だけ神経の尖りを和らげてくれる。
闇に咲く小さな、くだらないやり取りの中、
レギュラスの胸の奥にも、ふとごくわずかな人間らしさだけが
儚く、消えかける光のようにともっていた。
夜の路地裏、湿った石畳を足早に進む中、バーテミウスは懐から小さなメモ用紙を取り出した。
器用に杖をひとふりし、紙の表面に滑るように文字が浮かぶ。
「レギュラス・ブラックにも性欲あり……」
くすりとした笑みを浮かべながら、なぞるように呟く。
すかさずレギュラスが鋭く杖を振る。
紙片は柔らかな炎に包まれ、あっという間に跡形もなく消え去った。
「集中してください、ほんとに……」
苛立ちを押し殺した声で言う。
バーテミウスはどこ吹く風と肩をすくめる。
「いや、新聞の一面に売ったら、なかなか金になりそうだと思ってさ。」
その飄々とした態度に、レギュラスは目を伏せて小さくため息をつく。
目の前には任務の緊張、
だが隣では、重さも常識も易々と飛び越えてしまう男がいる。
この奇妙な浮遊感――
任務で何度も顔を合わせるたび、
レギュラスの感情は宙に浮いたまま着地しない。
どこか噛み合わない空気。
張り詰めた夜に、意図せず混じり合う軽やかさと苛立ち。
それが、かえって今この場所で
自分が「生きている」という実感を
ふと際立たせてしまうような――
そんな得体のしれない切なさを、レギュラスは胸の奥で静かに覚えていた。
闇のなか、火花のようなやりとりが微かな温度を残し、
ふたりは再び任務へと歩みを進めていった。
夜、その空気は張り詰めていたのに――
バーテミウスの浮世離れした冗談のせいで、
いつもなら心の奥にしまっているはずの記憶が、不意に蘇る。
レギュラスの意識の片隅に、アランの滑らかな肌の感触がほのかに揺らめく。
夜ごとの交わりで、夢中になってその柔らかさに触れ、指先で、舌先で、
全身で味わうように抱き寄せた瞬間が鮮烈に浮かび上がる。
静まった闇のなか、
どうしてこんな時に――と自分でも痛感しながらも、
その生々しい熱だけが、ひたひたと広がり、
今すぐ腕の中にアランを求めてしまいそうになる。
任務という緊張の只中で芽生える、
どうしようもない深い欲求。
それは単なる身体の衝動ではなく、
手に入れた愛しいもの全て――
自分だけのものでありたいという、強い独占の想いだった。
この緊張と欲望のあわいに、
レギュラスはひとつ深く息をついた。
しんと静まる夜の寝室。
絹のシーツと薄明かりに包まれて、アランはそっと引き出しから一枚の写真を取り出していた。
そこには若いシリウスと、あの日の自分。
心の奥から湧き上がる懐かしさと、とめどない愛しさ。
屈託のない純粋な笑顔が、今の張り付けたような社交界の微笑みとはまるで違うことに、胸が締めつけられる。
何気ない物音――
廊下の向こうからレギュラスの足音が近づいてくるのを耳にして、
アランは咄嗟に写真を引き出しに戻した。
シャワー明けのレギュラスは、濡れた髪に微かな熱が残る。
ベッドに腰掛けるアランの隣へ、静かに寄り添う。
「アラン、したいです。」
いつになくストレートな言葉。
途端にアランの胸がどぎまぎと波だつ。
普段はそのまますべて“流れる”ように始まる夜。
こんなふうに、真っ直ぐな要求を口にすることはなかった。
戸惑うアランに、レギュラスの眼差しはまっすぐに沈む。
その瞳――
不意に、遠い日のシリウスのものと重なるように見えて、
アランの心は大きく揺れる。
もう戻れない、あの日の無垢で自由な微笑み。
それでも、今この隣にある手のぬくもりは疑いようもなく現実で、
どこにも行き場のない寂しさが胸に滲む。
「……ええ」と、アランは小さな声で応じる。
過ぎ去った想いも、
今この瞬間の現実も、
どちらにも言葉にはできない切なさが
薄闇のなかでそっと絡み合っていった。
夜の帳がふたりを包む。
幸福と、その奥に隠した傷――
どちらも静かに、やさしく、
ひとつの眠りのなかで溶けていく。
朝の光がカーテン越しにやわらかく射しこむ寝室で、
アランはいつものように静かに身支度をしていた。
昨夜の余韻が微かに残る空気のなか、
ふいにレギュラスがいつになく軽やかな声で言う。
「今日は、出かけましょう。―― アラン」と。
思いがけない言葉に、アランは驚きを隠せない。
昨日の夜、いつもとは違う熱のこもったやりとりのあとの唐突な誘い。
心の奥に残った揺れが、またひとつ波紋を広げる。
「え……突然どうしたの?」
そう尋ねるアランに、レギュラスはどこか穏やかな、ややはにかんだような笑みを浮かべた。
「最近は任務で家を空けることも多かったですし……僕、アランとゆっくり過ごせていませんでしたから。」
その声には、静かな誠意と微かな寂しさとが混じっていて、
アランの揺れていた心にも、やわらかく沁みとおっていく。
ひとつ頷いて、小さく微笑む。
「分かったわ。……準備してくる。」
長い廊下を抜けて射し込む朝日。
ふたりを包み込むぬくもりのなかで、
言葉にできない思いも、不意の戸惑いも
少しずつほどけていくような朝だった。
どこか遠くへ出かけること――
それは、数えきれない足枷の中に、ふたりきりの時間をつくる
ほんの短い自由の贈り物になる気がして、
アランは胸の奥に小さな希望の灯を抱きしめた。
朝の静かな支度部屋。
アランはゆっくりと鏡の前に座り、いつもより少しだけ華やかなドレスを選んでいた。
それはレギュラスが好みそうな、深い色合いと繊細な刺繍がほどこされた一着。
指先でそっと生地をなぞりながら、今の自分にできる気遣いを静かに思い描く。
――こういうときこそ、機嫌を取っておこう。
大らかな微笑み、柔らかな声色、ほんのりと控えめな香水。
そんな小さな努力を重ねることで、
レギュラスの心に芽生える過剰な監視心や、
どこか切実な独占欲が、少しでもやわらいでくれたなら。
袖を通し、髪を整えるたびに、
外へ出かける解放感とは裏腹に
心のどこかでは、
自分の役割を丁寧に整えるような静かな緊張があった。
軽いブーツを履き、最後に鏡のなかの自分にそっと微笑んでみる。
仮面のような笑顔。
それでも、この一日が穏やかでありますように――
ひとつ深呼吸をして、廊下へと歩いていく。
ドレスの裾が陽射しのなかでやわらかく揺れた。
その美しさも、優しさも、
本当はふたりの距離を少しだけ近づけるための、
小さな祈りだった。
報告書を持つレギュラスの表情は冷ややかで、
外套の裾を静かに揺らしながら、大理石の廊下を進んでいた。
新法に対する騒然とした反発の声がしきりに飛び交っている。
だが、レギュラスの心は澄みきった水面のようだった。
すでにすべてを手にしている――
それを疑う余地もなかった。
角を曲がったその時、二つの視線がぶつかる。
そこに立つのは、シリウス。
久しぶりに交わす視線は、かつてと同じようで、けれどどこか違った。
しばし無言のまま、ふたりは互いを睨みつけ、
やがてシリウスが低く呼び止めた。
「……待てよ。」
レギュラスは鼻で笑い、振り返る。
「なんです?」
赤黒い瞳に、怒りと痛みが閃く。
「てめぇは……いつから、ここまで落ちぶれたんだ?」
投げつけられた言葉に、レギュラスの顔には一瞬の影も差さない。
「何のことでしょう?」
声は淡々と、どこまでも静かだ。
かつては、この兄にどうしようもなく押しつぶされる悔しさがあった。
けれど今では、そよ風一つ心を乱すことなどない。
廊下に張り詰める沈黙。
かつて交わった夢も思い出も、
それぞれの信じる道とともに切り捨てられた。
ただ、冷たく、
そして誇らしく。
今の自分の持つものの重みだけを、
レギュラスは胸の奥で強く抱きしめていた。
魔法省の白い大理石の廊下に、張り詰めた空気が静かに震えていた。
シリウスは顔を真っ赤に染め、感情をむき出しにした鋭い声で叫ぶ。
「てめぇみたいなやつのせいで、どれほどの人間が――どれほどの家族が、引き裂かれてると思ってんだ!」
声は重く反響し、通りすがりの魔法使いたちが次々と足をとめる。
中にはブラック兄弟が真正面からぶつかるめったにない光景に、こっそり魔法カメラを向ける者もいた。
だが、レギュラスは微動だにせず、瞳の底まで凍るような冷静さを崩さない。
ほんの一瞬、唇に浮かんだ薄笑いが、シリウスの痛みを正確に見抜く。
「あなたとアランも――同じように“引き裂かれた”と思っているんですか?」
あえて静かな声で、煽るように問いを返す。
その悪意の色をはらんだ言葉に、シリウスの怒りはついに臨界に達し、
彼は無言のまま杖を抜いた。
次の瞬間には、レギュラスもまた、すでに杖をその手に固く握りしめている。
二人の間に走る緊迫した沈黙。
廊下の片隅で興奮と恐れが交錯し、遠巻きに見守る人々もみな息を呑む。
空気を切り裂くような静電気が、
兄弟の間の距離を鋭く絶縁し、
かつて交わしたぬくもりも、記憶のなかの兄弟愛さえも、
今はただ、圧倒的な敵意の下で凍りついていた。
反射的に構え合った杖の先、
そこにはそれぞれが守ろうとしたもの――
世界の全部がすれ違ったまま、静かに火花を散らそうとしていた。
張り詰めた空気の中、
大理石の廊下に凛と響く声が割って入った。
「やめてくれんかね、こんなところで杖を向け合うなんて。」
魔法大臣自身がその場に現れ、厳然とふたりを見やる。
驚きと戸惑いがややあって、シリウスは険しく顔をゆがめながらも、
杖をゆっくりと下ろした。
その仕草には、譲ることのない矜持と、
どうしようもない現実へのやり場のない苛立ちが滲んでいた。
レギュラスもまた、ただ冷静にその様子を見つめ、
静かに杖を元に戻す。
シリウスは吐き捨てるような短い息とともに、
踵を返し、堂々とした背中を見せて去っていく。
通り過ぎる一瞬、
――子どものころ、誰よりも大きく見えた兄の背中。
あの強さに憧れも、悔しさも、すべてを刷り込んできた。
けれど今は――
重い外套の下で、
自分が背負うものが兄の背中よりも
はるかに大きく高いことを、
レギュラスは静かに知っている。
廊下の光のなかで離れていく背中は、不思議と小さく、
音もなく消えていく。
レギュラスの胸には、痛みとともに、
抗いがたい誇りが、ごく小さな炎となって灯っていた。
ふたりの距離は、もう決してかつてのようには戻らない。
けれどその孤独すらも、
今は静かに受け入れられる気がした。
白い大理石に、杖を下ろした影だけが
静かに交差して消えていった。
午後の淡い陽ざしのなか、純血一族の婦人たちが集う優雅なサロンで――
アランの耳に、ふとした拍子にその噂話が届いた。
「先日、魔法省で……」「そう、ブラック兄弟が杖を……」
「シリウス様が、まあ下品にレギュラス様のことを罵って――」
飾り立てられたカップや笑い声の間に、さりげなく差し挟まれる声。
その瞬間、アランの胸の奥に冷たい波が走った。
苦しさがじんわりと、喉元に満ちていく。
――わかっている、シリウスの怒りの理由を。
彼はかつて、どんな境界も差別も越えて
マグルの世界も、マグルの魔法使いも温かく受け入れられる未来を信じていた。
今、レギュラスの隣に立ち、その家と運命に自分を繋いでいるその事が――
シリウスにとっては、きっと同じ「憎むべき同類」になってしまったのだろうか。
でも、私のなかには
シリウスと手を繋いで歩いたあのマグルの街、
朝靄に煙る並木道、
小さなカフェで交わしたささやかな会話……
今もひとつ残らず、宝物のように鮮やかだ。
シリウスをずっと、今でも変わらずに想い続けている自分。
なのに、シリウスの心の中で自分が憎まれ、
遠ざけられていく現実が――悲しくてたまらなかった。
笑顔の奥で、アランの指先は少しだけ震えていた。
唇に浮かぶ微笑は、今にも消えてしまいそうなほど脆かった。
本当は言いたい。
「私は、忘れていない。あなたの見た夢も、信じた優しさも――
私の中にはまだ全部、残っているの。」
届くことのない願いに、
アランはただ静かに眼差しを伏せた。
香り高い紅茶の湯気の向こう、
遠い春の日の陽射しのような幸福だけが、
胸の奥でそっと光りつづけていた。
美しく磨かれたサロンの中、
花々の香りと銀食器の音が静かに重なる午後、
貴婦人たちの間では、レギュラスの名が称賛を浴びていた。
「新しい法律にサインなさったレギュラス様――本当に素晴らしい方ね。」
「魔法界にふさわしい未来を切り拓かれたのですわ。」
「誇り高いご主人を持って、さぞお幸せでしょう、アラン様。」
揺れる紅茶の琥珀色を見つめながら、アランは淀みのない声で礼を述べる。
「夫の行いを多くの方がそう仰ってくださるのは、光栄なことですわ。」
微笑みながら言葉を選び、
背筋を伸ばし、なめらかな所作で応じる。
けれど、胸の奥はまるで波立つ湖のように、見えない涙で満ちていた。
――周りのの肯定の声が、歓喜の空気が、
自分の中にひっそり生きているシリウスを、
あの日の誇りと優しさを、優しい記憶までも
まるごと押し流してしまう気がして、
怖くて、悲しくて、胸がきつく締め付けられる。
周りの誰もが「正しい」と讃える道のなかで、
大切なひとが遠ざかっていく現実だけが
そっと薄い涙の膜を落とした。
微笑みは壊れずにそこにある。
貴婦人たちの称賛にも、丁寧に受けこたえる。
でも、本当は――
いまにも崩れだしそうな自分を、誰にも見破られないよう
ただ祈るように、アランは紅茶をそっと口に運んだ。
ガラス越しの午後の光に、
沈黙の涙だけがかすかに滲んでいた。
夕暮れの穏やかな屋敷。
柔らかなランプのあかりが天井に影を泳がせている。
アランはサロンでの集まりから帰ってきたばかりだった。
リビングで出迎えたレギュラスが、やさしく問いかける。
「今日はどうでした? サロンで集まりがあったでしょう?」
「ええ、ノット夫人やオズワルド家の奥様も見えていました。」
他の純血一族の名を、さも変わったことのない一日だったかのように挙げてみせる。
けれど、微妙な余白に触れたまま、
アランの胸には客間で聞こえてきた“あの噂”――
シリウスとレギュラスの杖をめぐる緊迫が
しんしんと心の奥を冷やしていた。
本当は、あの瞬間にどんなことがあったのか聞きたかった。
でも、口にはしなかった。
問いただしてしまえば、心のどこかにある痛みがこぼれそうで、
何より今は、そのすべてに蓋をしてしまいたかった。
「でも……」とアランは、わざと少し明るく続ける。
「あそこの紅茶より、あなたが淹れてくれるもののほうが美味しいの。」
さらりと、話題をすりかえてみせる。
さびしさと温かさが揺れまじる視線で、
カップを差し出す指だけがほんの少し震えていた。
レギュラスは、気づかないようにふるまいながらも
「それは光栄ですね」と静かに微笑み返す。
ふたりのあいだに広がる小さな沈黙――
食卓や応接間の灯りが、今夜もそっと
心の襞をなぞるように美しく揺れていた。
夜霧に包まれた路地裏、任務の緊張感が空気に満ちている。
レギュラスと並んで動くバーテミウスの横顔は、
深刻な局面とは裏腹に、妙に気を抜いた表情を浮かべていた。
「君ってさ……性欲、あるの?」
バーテミウスはまるで昼下がりのティールームで交わされる噂話のように唐突に切り出した。
「いきなりなんですか。」
レギュラスの端正な眉がわずかに揺れる。
杖を構え、足音を殺しながらも、会話の重心は妙に軽い。
「こんな時に……何を言い出すんです。」
「いや、ほら。君って――すべてを持っている男だろ?」
バーテミウスがほくそ笑む。
「だから、俗人が悩むような普通の欲求なんて無縁に見えてさ。」
レギュラスは呆れたように息をついた。
「生理的欲求は、人間ならあたりまえです。」
マントの裾が闇に揺れ、先を行くマグル魔法使いの影を追いながらも、
ふたりの会話は皮肉にも、
どこまでも現実感のない、重さの抜けたものとなる。
火花と呪文の光が交錯するなか、
話す内容だけはどこか滑稽で、逃げる出口もなかった。
深く張り詰めた夜の任務の只中で、
こうした無意味に近い会話だけが、
ほんの一瞬だけ神経の尖りを和らげてくれる。
闇に咲く小さな、くだらないやり取りの中、
レギュラスの胸の奥にも、ふとごくわずかな人間らしさだけが
儚く、消えかける光のようにともっていた。
夜の路地裏、湿った石畳を足早に進む中、バーテミウスは懐から小さなメモ用紙を取り出した。
器用に杖をひとふりし、紙の表面に滑るように文字が浮かぶ。
「レギュラス・ブラックにも性欲あり……」
くすりとした笑みを浮かべながら、なぞるように呟く。
すかさずレギュラスが鋭く杖を振る。
紙片は柔らかな炎に包まれ、あっという間に跡形もなく消え去った。
「集中してください、ほんとに……」
苛立ちを押し殺した声で言う。
バーテミウスはどこ吹く風と肩をすくめる。
「いや、新聞の一面に売ったら、なかなか金になりそうだと思ってさ。」
その飄々とした態度に、レギュラスは目を伏せて小さくため息をつく。
目の前には任務の緊張、
だが隣では、重さも常識も易々と飛び越えてしまう男がいる。
この奇妙な浮遊感――
任務で何度も顔を合わせるたび、
レギュラスの感情は宙に浮いたまま着地しない。
どこか噛み合わない空気。
張り詰めた夜に、意図せず混じり合う軽やかさと苛立ち。
それが、かえって今この場所で
自分が「生きている」という実感を
ふと際立たせてしまうような――
そんな得体のしれない切なさを、レギュラスは胸の奥で静かに覚えていた。
闇のなか、火花のようなやりとりが微かな温度を残し、
ふたりは再び任務へと歩みを進めていった。
夜、その空気は張り詰めていたのに――
バーテミウスの浮世離れした冗談のせいで、
いつもなら心の奥にしまっているはずの記憶が、不意に蘇る。
レギュラスの意識の片隅に、アランの滑らかな肌の感触がほのかに揺らめく。
夜ごとの交わりで、夢中になってその柔らかさに触れ、指先で、舌先で、
全身で味わうように抱き寄せた瞬間が鮮烈に浮かび上がる。
静まった闇のなか、
どうしてこんな時に――と自分でも痛感しながらも、
その生々しい熱だけが、ひたひたと広がり、
今すぐ腕の中にアランを求めてしまいそうになる。
任務という緊張の只中で芽生える、
どうしようもない深い欲求。
それは単なる身体の衝動ではなく、
手に入れた愛しいもの全て――
自分だけのものでありたいという、強い独占の想いだった。
この緊張と欲望のあわいに、
レギュラスはひとつ深く息をついた。
しんと静まる夜の寝室。
絹のシーツと薄明かりに包まれて、アランはそっと引き出しから一枚の写真を取り出していた。
そこには若いシリウスと、あの日の自分。
心の奥から湧き上がる懐かしさと、とめどない愛しさ。
屈託のない純粋な笑顔が、今の張り付けたような社交界の微笑みとはまるで違うことに、胸が締めつけられる。
何気ない物音――
廊下の向こうからレギュラスの足音が近づいてくるのを耳にして、
アランは咄嗟に写真を引き出しに戻した。
シャワー明けのレギュラスは、濡れた髪に微かな熱が残る。
ベッドに腰掛けるアランの隣へ、静かに寄り添う。
「アラン、したいです。」
いつになくストレートな言葉。
途端にアランの胸がどぎまぎと波だつ。
普段はそのまますべて“流れる”ように始まる夜。
こんなふうに、真っ直ぐな要求を口にすることはなかった。
戸惑うアランに、レギュラスの眼差しはまっすぐに沈む。
その瞳――
不意に、遠い日のシリウスのものと重なるように見えて、
アランの心は大きく揺れる。
もう戻れない、あの日の無垢で自由な微笑み。
それでも、今この隣にある手のぬくもりは疑いようもなく現実で、
どこにも行き場のない寂しさが胸に滲む。
「……ええ」と、アランは小さな声で応じる。
過ぎ去った想いも、
今この瞬間の現実も、
どちらにも言葉にはできない切なさが
薄闇のなかでそっと絡み合っていった。
夜の帳がふたりを包む。
幸福と、その奥に隠した傷――
どちらも静かに、やさしく、
ひとつの眠りのなかで溶けていく。
朝の光がカーテン越しにやわらかく射しこむ寝室で、
アランはいつものように静かに身支度をしていた。
昨夜の余韻が微かに残る空気のなか、
ふいにレギュラスがいつになく軽やかな声で言う。
「今日は、出かけましょう。―― アラン」と。
思いがけない言葉に、アランは驚きを隠せない。
昨日の夜、いつもとは違う熱のこもったやりとりのあとの唐突な誘い。
心の奥に残った揺れが、またひとつ波紋を広げる。
「え……突然どうしたの?」
そう尋ねるアランに、レギュラスはどこか穏やかな、ややはにかんだような笑みを浮かべた。
「最近は任務で家を空けることも多かったですし……僕、アランとゆっくり過ごせていませんでしたから。」
その声には、静かな誠意と微かな寂しさとが混じっていて、
アランの揺れていた心にも、やわらかく沁みとおっていく。
ひとつ頷いて、小さく微笑む。
「分かったわ。……準備してくる。」
長い廊下を抜けて射し込む朝日。
ふたりを包み込むぬくもりのなかで、
言葉にできない思いも、不意の戸惑いも
少しずつほどけていくような朝だった。
どこか遠くへ出かけること――
それは、数えきれない足枷の中に、ふたりきりの時間をつくる
ほんの短い自由の贈り物になる気がして、
アランは胸の奥に小さな希望の灯を抱きしめた。
朝の静かな支度部屋。
アランはゆっくりと鏡の前に座り、いつもより少しだけ華やかなドレスを選んでいた。
それはレギュラスが好みそうな、深い色合いと繊細な刺繍がほどこされた一着。
指先でそっと生地をなぞりながら、今の自分にできる気遣いを静かに思い描く。
――こういうときこそ、機嫌を取っておこう。
大らかな微笑み、柔らかな声色、ほんのりと控えめな香水。
そんな小さな努力を重ねることで、
レギュラスの心に芽生える過剰な監視心や、
どこか切実な独占欲が、少しでもやわらいでくれたなら。
袖を通し、髪を整えるたびに、
外へ出かける解放感とは裏腹に
心のどこかでは、
自分の役割を丁寧に整えるような静かな緊張があった。
軽いブーツを履き、最後に鏡のなかの自分にそっと微笑んでみる。
仮面のような笑顔。
それでも、この一日が穏やかでありますように――
ひとつ深呼吸をして、廊下へと歩いていく。
ドレスの裾が陽射しのなかでやわらかく揺れた。
その美しさも、優しさも、
本当はふたりの距離を少しだけ近づけるための、
小さな祈りだった。
