2章
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冬の陽光が冷ややかに広がるブラック家の屋敷――
この日、時の流れを超えるほどの豪奢な結婚式が幕を開けていた。
大理石の廊下は花と魔法で彩られ、名高き純血一族の面々が、金と銀の紋章に包まれて息をのむ美しさで会場を埋め尽くす。
オリオンとヴァルブルガの若き日の結婚式をも凌ぐほど、
この日は、贅の限りを尽くした祝祭の頂点となった。
厳かな音楽と満ちる香りの中、すべてがただ静かに、
新たなブラック家の絆の行方を見守っていた。
その中心で、アランは絹のドレスをまとう。
微かな魔法のきらめきがヴェールに踊り、
振り返るたび、会場の人々はその立ち姿にため息を漏らした。
「美しい……」
誰もがそうささやく声が、波紋のように広がっていく。
レギュラスは祭壇に立ち、
まるで時間が止まったかのようにアランを見つめていた。
その熱っぽい視線に、アランはそっと笑いながら、
控えめに口元だけで「見すぎ」と伝える。
声はなくとも、唇のかすかな動きに、ふたりだけの親密な想いが重なる。
胸の奥にかつてないほどの高揚と歓喜が広がっていく。
この世のすべてを手に入れたような、
絶頂にいるような満ち足りた幸福。
幼い頃――
本当は今日この隣に立つのはシリウスなのだと思い知らされた日を、レギュラスはかすかに思い出していた。
悔しさに胸を焦がして泣いた夜が、
いまは過去の影のように遠のいていく。
だけど、今日こうしてアランの隣に立てている。
世界はまるで自分を中心に回っているように感じられた。
この幸福が終わらない魔法であればと、夢見てしまうほど――
会場に拍手が鳴り響き、
ふたりはゆっくりと歩き出す。
豪華絢爛な祝祭のなか、
静かによろこびと誇りと、
そして密やかな誓いを胸に抱き、
レギュラスは愛しい人の手をしっかりと握り続けていた。
白く輝くヴェールの下、
アランは重たいドレスに身を包んで、ゆっくりと礼拝堂の通路を進む。
その重さは布地だけのものではなく、
背中に降りかかる名門の宿命、期待、
そして誰にも見せられない静かな痛みが何層にも重なっていた。
足が絡まってしまいそうなほど、歩みは遅くなる。
ふと視線を上げると、両親の顔が見えた。
母は泣きそうなほどかすかに震えながら、薄く微笑んでいる。
父は誇らしげなまなざしで、この日を見守っている。
そのふたりを見た瞬間、心がきゅっと締めつけられた。
何もかもを手放し、大声で叫びたくなる想いと
絶対に裏切りたくないという意志が、胸の奥でせめぎ合う。
――幼いころ、
ドレスを着てまっすぐ向かうその先には、
いつもシリウスが待っているものだと、どこかで信じていた。
それが夢であり、心の形の一部になっていた。
なのに、今この道の先に静かに待っているのは、レギュラス。
胸の奥でこぼれ落ちそうな涙を、
誰にも見せることなく、指先にも表情にも閉じ込める。
参列者たちはあたたかな賛辞の声で満ち溢れている。
名門の令嬢、完璧な花嫁――
けれど、その賛美はひとつも自分の中心には届かない。
ただ静かに、祭壇の前に立つレギュラスのもとへ。
彼の目を見て、手を取った。
観衆の喝采も、光のきらめきも、
すべて遥か薄い膜の向こう側で鳴り響いている。
アランはただその手を強く握り、
美しい孤独のなか、自分だけの誠実を胸に抱えたまま
ゆっくりと春の日の壇上に立った。
荘厳な礼拝堂を魔法のフラッシュが幾重にも照らし、
拍手と祝辞の渦の中、アランの周囲には参列した名家の血筋が集っていた。
「これでセシール家は、ついにブラック家と肩を並べた」と、
誰かがささやく。
親族たちはその賛美に誇らしげに頷き、
浮かれた空気は祝祭のきらめきとなって会場を包み込む。
咲き誇る花にも劣らぬ純白のドレスに身を包んだアランは、
繰り返し魔法のカメラに様々な角度から写されていく。
きっとこの写真は、ブラック家の屋敷の壁に、
家の威光を示す肖像として誇らしげに飾られるだろう。
だがアランの胸には、
押しつぶされそうなほどの重さだけが沈んでいる。
大勢の期待や栄光、
背負い込んだものすべてが、
ドレスの陰で精一杯の虚勢と強がりに変わっていく。
どうしても取り繕わずにはいられない。
本当の自分を隠しきれず、
滑稽にすら思えるその姿を、後世へと残すことには耐え難い痛みがあった。
けれど、
これは「レギュラス・ブラックを立てるための式」でもあるのだ。
純血一族の前で、
完璧な妻を迎え、この家と彼の未来に曇りがないことを堂々と誇示するための舞台。
そのために自分はここに立っている。
美しく、なにもかもを覆い隠すように、
ただ静かな微笑みだけを浮かべる。
フラッシュの光に閉ざされた自分の中で、
哀しさも、誇りも、遠い誰かへの想いも、
すべてをひとつにして――
アランは完璧な花嫁としての役割を、
胸を張って最後まで果たそうとしていた。
朝の静けさの中、ブラック家の長い食卓に薄黄金色の光が差し込む。
白いテーブルクロスの上には、その日の魔法界の新聞が何部も広げられていた。
一面には、昨日の豪奢な結婚式を讃える見出しがいくつも踊っている。
「今世紀随一の祝祭――ブラック家とセシール家の祝宴」
「純白のヴェールに包まれた、新しきブラック家の花嫁」
「すべてを手にしたレギュラス・ブラック、その横顔に未来の栄光」
豪勢な装飾、純血の名家にふさわしい礼拝堂の荘厳さ。
満場の賛美のなかでアランがまとうドレスの美しさ。
そして、何よりすべてを手にした若き当主をたたえる声。
どれもが当然のように書き連ねられ、
この結婚が魔法界の新しい時代の印であるかのように、
大げさともいえるほどの歓喜をもって報じられていた。
その記事を淡く光る目で読みながら、
ヴァルブルガは満ち足りた様子で口元に微かな笑みを浮かべる。
家に栄光をもたらす何枚もの写真、
そこに映る美しい花嫁と、
誇り高き息子。
彼女にとって、この晴れやかな達成以外は、もはやどうでもよかった。
しかし、その眩い紙面の奥で、
アランの胸には、静かな痛みがそっと残っていた。
賛美も、栄光も、自分の本当の心には触れないまま、
役割という薄い膜のなかで、今日も微笑んで座っている。
朝の光に包まれ、
ヴァルブルガの満足げな横顔を横目で見つめながら――
アランは新しい現実の始まりを静かに受け入れ、
その胸の中に密やかな切なさをひとつ、そっと増やした。
夜のパブはざわめいていたが、シリウスの心には、新聞の活字の凍るような冷たさがじんわりと残ったままだった。
厚い紙面。そこには、レギュラスとアランの華やかな結婚式――祝祭の写真、賛美の言葉、名家の栄光……
誰もが羨み、魔法界の誰もが注目する出来事。
けれど、記事の隅々にまで滲むその重みは、シリウスの胸にだけ小さな痛みとなって芯に残った。
騎士団の仲間たちは、ひそかにこの記事がシリウスの目に触れないよう気を配っていた。
テーブルの上を片付けたり、話題をそらしたり――
けれど、こんなにも大々的に報じられていれば、目に入れないほうが無理だった。
日々の任務に出ても、酒場の壁にも、新聞売りの少年の声にも、
レギュラスとアランが“魔法界の祝福”として取り上げられている。
それが世界の正しさであり、誰も逆らえない流れであることが、かえって突き刺さる。
ジェームズは、どう声をかけていいかわからず、言葉を探しながらシリウスを見つめた。
「……気にしてねぇよ」
シリウスはそう言い切った。
けれど本心は、気にしないわけがない。それでも、気にしたところでもう何も変わらない――
行き止まりの気持ちを、無理やり笑いで覆い隠す。
「飲むかい?」
ジェームズの声が優しく響く。
「……そうだな、さすがに飲むしかないな」
グラスを掲げて、何も語らずに乾杯をした。苦い火酒が喉を焼く。
明るいふりをしても、ジェームズも、そして今日に限っては何も言わなかったリリーも、
その苦しさの深さだけは静かに理解していた。
新聞の写真に笑うアラン――
その遠い微笑に、もう「おかえり」と呼ばれることは、きっと永遠にない。
シリウスはグラスを重ねながら、
開き直るしかない今の自分を、ただ静かに受け入れるしかなかった。
騒がしい夜の片隅で、
グラスを落とす音と大きな拍手だけが、痛みを宙に消していった。
ホグワーツ卒業後、
本当はひそかにアランを祝福したかった。
手紙も花も受け取ってはもらえないだろうと分かっていたが、
それでも、せめて遠くからでも笑顔を見られたら――
そんな思いだけで、シリウスはかつて幾度も訪れたセシール家を目指した。
よく世話になった屋敷の扉。懐かしい香り。
かつて家族の一員のように温かく迎え入れてくれた人々。
家を捨てた自分を、誰も厳しく責めたりはしなかった。
ただ――そのやわらかな沈黙の中で
「……もうアランはいません」と静かに伝えられた。
痛みがじわりと胸を締め付ける。
アランはもうブラック家の人間になったのだ、と。
そして、給仕の手から、控えめに茶を注いでくれたアランの母の手から、
彼女を手放した重みと悲しみとが、ひっそり伝わってきた。
ふと、アランの父が切実な声で続ける。
間もなく正式な結婚式がある、
どうか、見守って欲しい――
アランの結婚に、セシール家の未来への希望がすべてこもっているから。
「それが家の願いなのです」と、
誰よりも物静かに告げられた。
きっと、彼らはすべてを知っている。
誰も問わないけれど、シリウスとアランの過去。
幼い頃のふたりを見守ってきたからこそ、
これが新しい現実――たったひとつの“願い”なのだと、
そっと伝えてくれたのだろう。
シリウスは、ただ静かに頷くしかなかった。
祝福も、悔いも、やり直しも。
ただ、受け入れるだけだ。
晴れやかな光が差し込む古いサロンで、
静かにお茶の湯気がのぼる。
セシール家の人々は、静かな誇りと、
透明な痛みを胸に抱き続けていた。
帰り道、シリウスの胸には、
言葉にもならないまま溶けていった祈りのような想いが、
静かに、確かに残っていた。
ジェームズは、シリウスがセシール家まで足を運び、それでもアランに会うことなく帰ってきたことを、すべて知っていた。
長い年月、いつも隣にいて、どんな感情も痛みも、ほとんど無意識のうちに分かち合ってきたつもりだった。
夜のパブの一角、少し俯いた横顔に沈黙が落ちる。
子どもの頃から、兄弟ともども際立つ容姿と、強烈な存在感。
彼なら、アランに執着さえしなければ、どれほど多くの愛を自在に手にすることも難しくなかっただろう。
それでも、きっと「アランでなければ」ならないのだとジェームズは理解していた。
誰よりも自由で、気まぐれで、世界中を手にしているような友人が――
その胸の確かなな位置で、絶対に離したくない唯一の名前を手放せないでいることの、切ないほどの真実。
ふと、心の中で思う。
自分だって、もしリリーがいなかったら――
どれだけ他の女に囲まれても、きっと本当には満たされなかった。
愛する人を選ぶことも、求め続けることも、誰にも譲れない自分自身の核。
静かな夜、シリウスの肩越しに言葉にできない共感と、
伝えることのない友情の祈りとが、
そっとテーブルの上で重なった。
「くだらないよな」と笑う友の背中に、
誰にも見せない優しさで、グラスを静かに掲げた。
それぞれの唯一無二の相手がいるからこそ、
強く生きて、痛みの先にも希望を見出せる。
ジェームズはそんな思いを胸に、
今夜もまた親友の隣で寄り添い続けるのだった。
扉が静かに開き、夜の冷たい空気とともにレギュラスが帰宅した。
ほのかに漂う酒の匂い――
身を包む上着を脱ぎながら、アランはその香りに気づいた。
「……飲んだのですか?」
控えめな問いに、レギュラスは柔らかく微笑む。
「ええ、ルシウスと一緒になりましたから。」
その声は少しくだけていて、ふだんより少しだけ距離が近い気がする。
食卓をみやり、レギュラスは続けた。
「少し、一緒に飲み直しませんか?」
夫婦ふたりの夜の食卓――断るのはどこか不自然で、
アランの頭に、結婚式の夜に一緒に開けたシャンパンの泡が静かに蘇った。
思えば、あれから「ふたりでお酒を分け合う」ことは一度もなかった。
「……ええ、すぐに準備します。」
アランは柔らかく返事をし、小さなグラスとボトルを用意しはじめる。
グラスの底にゆれる光、テーブルクロスに映る影。
ささやかな夫婦だけの時間が、久しぶりに静かに満ちていく。
アランは酒瓶のくびれを指でなぞりながら、
新しい生活のなかで見失いがちだった「夫婦」という輪郭を、
そっと確かめ直しているようだった。
グラスを二つ並べれば、無言のうちに
何かが少しずつほぐれていく。
夜の屋敷に満ちる沈黙さえ、
どこか温かい揺らぎに変わっていくようだった。
食卓の上にはシャンパンのほのかな泡が消え残り、夜の屋敷にゆるやかな灯りが広がる。
すでに酒の入っているレギュラスは、普段より無防備で、驚くほど身を寄せてきた。
寝室でならまだしも、両親の目もあるこの場所で、とアランは少し緊張した面持ちでグラスを傾ける。
「ルシウスが言ってました。僕たちの結婚式は、今までで一番豪勢だったと。」
レギュラスの声が、ほろ酔いに弾んでいる。
アランは苦笑を浮かべて応じる。
「ええ、オリオン様もヴァルブルガ様も“盛大にやるべき”だとおっしゃってたものね。」
そのときレギュラスは、懐から何枚かの写真を取り出してテーブルに広げた。
「ルシウスが撮ってくれてたんです。これ、いただきましたよ。」
写真家による完璧な公式写真ではない、友人ならではの飾り気のないカット。
新鮮な視点にアランは思わず微笑む。
けれど同時に、胸の中にそっと影が落ちる。
自分が知らないところで、ふとした瞬間に撮られていく膨大な写真たち。
自分の意思と関係なく世界を巡り、
誰かの話題になったり、誰かの記憶になったりする。
無防備な自分、美しいドレス、
おびえる心、無理に貼りつけた笑顔。
これらの一瞬ですら、
シリウスの目にふれてしまう――
そう思うと胸が痛む。
きっと新聞や写真で、シリウスもレギュラスと自分を見たのだろう。
アランには、どうしても知りたいようで、けれど考えたくもない。
彼の視線の奥、今の自分をどう思ったのか――
静かな切なさが、グラスに移る灯とともに、
静かに胸の奥へ沈んでいく。
幸せを装いながらも、
写真に映し出された自分の表情さえ、
本当の自分ではない気がした。
レギュラスが嬉しげに写真を眺めている横で、
アランは静かに、微かな孤独をグラスに溶かしていた。
夜も更け、屋敷のどこかで遠く風が唸る。
寝室の静けさの中、アランはレギュラスの腕の中にいた。
夫婦となってからというもの、その営みには避妊という選択肢さえ残されていなかった。
ブラック家の新たな当主を産むという、
ひしひしと肌に、心にのしかかる責務――
ひとつひとつの動きが、それを明確に意識させてくる。
今夜は特に、お酒のせいもあったのかもしれない。
レギュラスの身体はいつもより熱く、
どこか切羽詰まったように、
愛撫も求めも、強い意志と独占欲を滲ませていた。
きっと、彼なりの愛情と情熱が重なった行為なのだろう。
けれどアランには、
「求められる妻」という仮面ばかりが内側に迫り、
その重みに呼吸が少しずつ浅くなった。
抱かれながら、
燃えるような彼の愛しさと、求めに応える自分と――
その隙間を埋めるものは、
ひんやりとした孤独と、苦い期待だけだった。
心はどこか遠くに浮かんでいる。
手にしたグラスの酒は、決して酔わせてくれない。
体は熱いはずなのに、心はずっと醒めている。
まるで、酔えない酒を何度も喉に流し込むような、
そんな虚しさだけが胸の奥を灼いていった。
夜の帳が静かに落ちる。
レギュラスの指が髪をなでても、
アランの横顔には、淡く滲む涙がひとつ、
静かに光りながら消えていった。
この日、時の流れを超えるほどの豪奢な結婚式が幕を開けていた。
大理石の廊下は花と魔法で彩られ、名高き純血一族の面々が、金と銀の紋章に包まれて息をのむ美しさで会場を埋め尽くす。
オリオンとヴァルブルガの若き日の結婚式をも凌ぐほど、
この日は、贅の限りを尽くした祝祭の頂点となった。
厳かな音楽と満ちる香りの中、すべてがただ静かに、
新たなブラック家の絆の行方を見守っていた。
その中心で、アランは絹のドレスをまとう。
微かな魔法のきらめきがヴェールに踊り、
振り返るたび、会場の人々はその立ち姿にため息を漏らした。
「美しい……」
誰もがそうささやく声が、波紋のように広がっていく。
レギュラスは祭壇に立ち、
まるで時間が止まったかのようにアランを見つめていた。
その熱っぽい視線に、アランはそっと笑いながら、
控えめに口元だけで「見すぎ」と伝える。
声はなくとも、唇のかすかな動きに、ふたりだけの親密な想いが重なる。
胸の奥にかつてないほどの高揚と歓喜が広がっていく。
この世のすべてを手に入れたような、
絶頂にいるような満ち足りた幸福。
幼い頃――
本当は今日この隣に立つのはシリウスなのだと思い知らされた日を、レギュラスはかすかに思い出していた。
悔しさに胸を焦がして泣いた夜が、
いまは過去の影のように遠のいていく。
だけど、今日こうしてアランの隣に立てている。
世界はまるで自分を中心に回っているように感じられた。
この幸福が終わらない魔法であればと、夢見てしまうほど――
会場に拍手が鳴り響き、
ふたりはゆっくりと歩き出す。
豪華絢爛な祝祭のなか、
静かによろこびと誇りと、
そして密やかな誓いを胸に抱き、
レギュラスは愛しい人の手をしっかりと握り続けていた。
白く輝くヴェールの下、
アランは重たいドレスに身を包んで、ゆっくりと礼拝堂の通路を進む。
その重さは布地だけのものではなく、
背中に降りかかる名門の宿命、期待、
そして誰にも見せられない静かな痛みが何層にも重なっていた。
足が絡まってしまいそうなほど、歩みは遅くなる。
ふと視線を上げると、両親の顔が見えた。
母は泣きそうなほどかすかに震えながら、薄く微笑んでいる。
父は誇らしげなまなざしで、この日を見守っている。
そのふたりを見た瞬間、心がきゅっと締めつけられた。
何もかもを手放し、大声で叫びたくなる想いと
絶対に裏切りたくないという意志が、胸の奥でせめぎ合う。
――幼いころ、
ドレスを着てまっすぐ向かうその先には、
いつもシリウスが待っているものだと、どこかで信じていた。
それが夢であり、心の形の一部になっていた。
なのに、今この道の先に静かに待っているのは、レギュラス。
胸の奥でこぼれ落ちそうな涙を、
誰にも見せることなく、指先にも表情にも閉じ込める。
参列者たちはあたたかな賛辞の声で満ち溢れている。
名門の令嬢、完璧な花嫁――
けれど、その賛美はひとつも自分の中心には届かない。
ただ静かに、祭壇の前に立つレギュラスのもとへ。
彼の目を見て、手を取った。
観衆の喝采も、光のきらめきも、
すべて遥か薄い膜の向こう側で鳴り響いている。
アランはただその手を強く握り、
美しい孤独のなか、自分だけの誠実を胸に抱えたまま
ゆっくりと春の日の壇上に立った。
荘厳な礼拝堂を魔法のフラッシュが幾重にも照らし、
拍手と祝辞の渦の中、アランの周囲には参列した名家の血筋が集っていた。
「これでセシール家は、ついにブラック家と肩を並べた」と、
誰かがささやく。
親族たちはその賛美に誇らしげに頷き、
浮かれた空気は祝祭のきらめきとなって会場を包み込む。
咲き誇る花にも劣らぬ純白のドレスに身を包んだアランは、
繰り返し魔法のカメラに様々な角度から写されていく。
きっとこの写真は、ブラック家の屋敷の壁に、
家の威光を示す肖像として誇らしげに飾られるだろう。
だがアランの胸には、
押しつぶされそうなほどの重さだけが沈んでいる。
大勢の期待や栄光、
背負い込んだものすべてが、
ドレスの陰で精一杯の虚勢と強がりに変わっていく。
どうしても取り繕わずにはいられない。
本当の自分を隠しきれず、
滑稽にすら思えるその姿を、後世へと残すことには耐え難い痛みがあった。
けれど、
これは「レギュラス・ブラックを立てるための式」でもあるのだ。
純血一族の前で、
完璧な妻を迎え、この家と彼の未来に曇りがないことを堂々と誇示するための舞台。
そのために自分はここに立っている。
美しく、なにもかもを覆い隠すように、
ただ静かな微笑みだけを浮かべる。
フラッシュの光に閉ざされた自分の中で、
哀しさも、誇りも、遠い誰かへの想いも、
すべてをひとつにして――
アランは完璧な花嫁としての役割を、
胸を張って最後まで果たそうとしていた。
朝の静けさの中、ブラック家の長い食卓に薄黄金色の光が差し込む。
白いテーブルクロスの上には、その日の魔法界の新聞が何部も広げられていた。
一面には、昨日の豪奢な結婚式を讃える見出しがいくつも踊っている。
「今世紀随一の祝祭――ブラック家とセシール家の祝宴」
「純白のヴェールに包まれた、新しきブラック家の花嫁」
「すべてを手にしたレギュラス・ブラック、その横顔に未来の栄光」
豪勢な装飾、純血の名家にふさわしい礼拝堂の荘厳さ。
満場の賛美のなかでアランがまとうドレスの美しさ。
そして、何よりすべてを手にした若き当主をたたえる声。
どれもが当然のように書き連ねられ、
この結婚が魔法界の新しい時代の印であるかのように、
大げさともいえるほどの歓喜をもって報じられていた。
その記事を淡く光る目で読みながら、
ヴァルブルガは満ち足りた様子で口元に微かな笑みを浮かべる。
家に栄光をもたらす何枚もの写真、
そこに映る美しい花嫁と、
誇り高き息子。
彼女にとって、この晴れやかな達成以外は、もはやどうでもよかった。
しかし、その眩い紙面の奥で、
アランの胸には、静かな痛みがそっと残っていた。
賛美も、栄光も、自分の本当の心には触れないまま、
役割という薄い膜のなかで、今日も微笑んで座っている。
朝の光に包まれ、
ヴァルブルガの満足げな横顔を横目で見つめながら――
アランは新しい現実の始まりを静かに受け入れ、
その胸の中に密やかな切なさをひとつ、そっと増やした。
夜のパブはざわめいていたが、シリウスの心には、新聞の活字の凍るような冷たさがじんわりと残ったままだった。
厚い紙面。そこには、レギュラスとアランの華やかな結婚式――祝祭の写真、賛美の言葉、名家の栄光……
誰もが羨み、魔法界の誰もが注目する出来事。
けれど、記事の隅々にまで滲むその重みは、シリウスの胸にだけ小さな痛みとなって芯に残った。
騎士団の仲間たちは、ひそかにこの記事がシリウスの目に触れないよう気を配っていた。
テーブルの上を片付けたり、話題をそらしたり――
けれど、こんなにも大々的に報じられていれば、目に入れないほうが無理だった。
日々の任務に出ても、酒場の壁にも、新聞売りの少年の声にも、
レギュラスとアランが“魔法界の祝福”として取り上げられている。
それが世界の正しさであり、誰も逆らえない流れであることが、かえって突き刺さる。
ジェームズは、どう声をかけていいかわからず、言葉を探しながらシリウスを見つめた。
「……気にしてねぇよ」
シリウスはそう言い切った。
けれど本心は、気にしないわけがない。それでも、気にしたところでもう何も変わらない――
行き止まりの気持ちを、無理やり笑いで覆い隠す。
「飲むかい?」
ジェームズの声が優しく響く。
「……そうだな、さすがに飲むしかないな」
グラスを掲げて、何も語らずに乾杯をした。苦い火酒が喉を焼く。
明るいふりをしても、ジェームズも、そして今日に限っては何も言わなかったリリーも、
その苦しさの深さだけは静かに理解していた。
新聞の写真に笑うアラン――
その遠い微笑に、もう「おかえり」と呼ばれることは、きっと永遠にない。
シリウスはグラスを重ねながら、
開き直るしかない今の自分を、ただ静かに受け入れるしかなかった。
騒がしい夜の片隅で、
グラスを落とす音と大きな拍手だけが、痛みを宙に消していった。
ホグワーツ卒業後、
本当はひそかにアランを祝福したかった。
手紙も花も受け取ってはもらえないだろうと分かっていたが、
それでも、せめて遠くからでも笑顔を見られたら――
そんな思いだけで、シリウスはかつて幾度も訪れたセシール家を目指した。
よく世話になった屋敷の扉。懐かしい香り。
かつて家族の一員のように温かく迎え入れてくれた人々。
家を捨てた自分を、誰も厳しく責めたりはしなかった。
ただ――そのやわらかな沈黙の中で
「……もうアランはいません」と静かに伝えられた。
痛みがじわりと胸を締め付ける。
アランはもうブラック家の人間になったのだ、と。
そして、給仕の手から、控えめに茶を注いでくれたアランの母の手から、
彼女を手放した重みと悲しみとが、ひっそり伝わってきた。
ふと、アランの父が切実な声で続ける。
間もなく正式な結婚式がある、
どうか、見守って欲しい――
アランの結婚に、セシール家の未来への希望がすべてこもっているから。
「それが家の願いなのです」と、
誰よりも物静かに告げられた。
きっと、彼らはすべてを知っている。
誰も問わないけれど、シリウスとアランの過去。
幼い頃のふたりを見守ってきたからこそ、
これが新しい現実――たったひとつの“願い”なのだと、
そっと伝えてくれたのだろう。
シリウスは、ただ静かに頷くしかなかった。
祝福も、悔いも、やり直しも。
ただ、受け入れるだけだ。
晴れやかな光が差し込む古いサロンで、
静かにお茶の湯気がのぼる。
セシール家の人々は、静かな誇りと、
透明な痛みを胸に抱き続けていた。
帰り道、シリウスの胸には、
言葉にもならないまま溶けていった祈りのような想いが、
静かに、確かに残っていた。
ジェームズは、シリウスがセシール家まで足を運び、それでもアランに会うことなく帰ってきたことを、すべて知っていた。
長い年月、いつも隣にいて、どんな感情も痛みも、ほとんど無意識のうちに分かち合ってきたつもりだった。
夜のパブの一角、少し俯いた横顔に沈黙が落ちる。
子どもの頃から、兄弟ともども際立つ容姿と、強烈な存在感。
彼なら、アランに執着さえしなければ、どれほど多くの愛を自在に手にすることも難しくなかっただろう。
それでも、きっと「アランでなければ」ならないのだとジェームズは理解していた。
誰よりも自由で、気まぐれで、世界中を手にしているような友人が――
その胸の確かなな位置で、絶対に離したくない唯一の名前を手放せないでいることの、切ないほどの真実。
ふと、心の中で思う。
自分だって、もしリリーがいなかったら――
どれだけ他の女に囲まれても、きっと本当には満たされなかった。
愛する人を選ぶことも、求め続けることも、誰にも譲れない自分自身の核。
静かな夜、シリウスの肩越しに言葉にできない共感と、
伝えることのない友情の祈りとが、
そっとテーブルの上で重なった。
「くだらないよな」と笑う友の背中に、
誰にも見せない優しさで、グラスを静かに掲げた。
それぞれの唯一無二の相手がいるからこそ、
強く生きて、痛みの先にも希望を見出せる。
ジェームズはそんな思いを胸に、
今夜もまた親友の隣で寄り添い続けるのだった。
扉が静かに開き、夜の冷たい空気とともにレギュラスが帰宅した。
ほのかに漂う酒の匂い――
身を包む上着を脱ぎながら、アランはその香りに気づいた。
「……飲んだのですか?」
控えめな問いに、レギュラスは柔らかく微笑む。
「ええ、ルシウスと一緒になりましたから。」
その声は少しくだけていて、ふだんより少しだけ距離が近い気がする。
食卓をみやり、レギュラスは続けた。
「少し、一緒に飲み直しませんか?」
夫婦ふたりの夜の食卓――断るのはどこか不自然で、
アランの頭に、結婚式の夜に一緒に開けたシャンパンの泡が静かに蘇った。
思えば、あれから「ふたりでお酒を分け合う」ことは一度もなかった。
「……ええ、すぐに準備します。」
アランは柔らかく返事をし、小さなグラスとボトルを用意しはじめる。
グラスの底にゆれる光、テーブルクロスに映る影。
ささやかな夫婦だけの時間が、久しぶりに静かに満ちていく。
アランは酒瓶のくびれを指でなぞりながら、
新しい生活のなかで見失いがちだった「夫婦」という輪郭を、
そっと確かめ直しているようだった。
グラスを二つ並べれば、無言のうちに
何かが少しずつほぐれていく。
夜の屋敷に満ちる沈黙さえ、
どこか温かい揺らぎに変わっていくようだった。
食卓の上にはシャンパンのほのかな泡が消え残り、夜の屋敷にゆるやかな灯りが広がる。
すでに酒の入っているレギュラスは、普段より無防備で、驚くほど身を寄せてきた。
寝室でならまだしも、両親の目もあるこの場所で、とアランは少し緊張した面持ちでグラスを傾ける。
「ルシウスが言ってました。僕たちの結婚式は、今までで一番豪勢だったと。」
レギュラスの声が、ほろ酔いに弾んでいる。
アランは苦笑を浮かべて応じる。
「ええ、オリオン様もヴァルブルガ様も“盛大にやるべき”だとおっしゃってたものね。」
そのときレギュラスは、懐から何枚かの写真を取り出してテーブルに広げた。
「ルシウスが撮ってくれてたんです。これ、いただきましたよ。」
写真家による完璧な公式写真ではない、友人ならではの飾り気のないカット。
新鮮な視点にアランは思わず微笑む。
けれど同時に、胸の中にそっと影が落ちる。
自分が知らないところで、ふとした瞬間に撮られていく膨大な写真たち。
自分の意思と関係なく世界を巡り、
誰かの話題になったり、誰かの記憶になったりする。
無防備な自分、美しいドレス、
おびえる心、無理に貼りつけた笑顔。
これらの一瞬ですら、
シリウスの目にふれてしまう――
そう思うと胸が痛む。
きっと新聞や写真で、シリウスもレギュラスと自分を見たのだろう。
アランには、どうしても知りたいようで、けれど考えたくもない。
彼の視線の奥、今の自分をどう思ったのか――
静かな切なさが、グラスに移る灯とともに、
静かに胸の奥へ沈んでいく。
幸せを装いながらも、
写真に映し出された自分の表情さえ、
本当の自分ではない気がした。
レギュラスが嬉しげに写真を眺めている横で、
アランは静かに、微かな孤独をグラスに溶かしていた。
夜も更け、屋敷のどこかで遠く風が唸る。
寝室の静けさの中、アランはレギュラスの腕の中にいた。
夫婦となってからというもの、その営みには避妊という選択肢さえ残されていなかった。
ブラック家の新たな当主を産むという、
ひしひしと肌に、心にのしかかる責務――
ひとつひとつの動きが、それを明確に意識させてくる。
今夜は特に、お酒のせいもあったのかもしれない。
レギュラスの身体はいつもより熱く、
どこか切羽詰まったように、
愛撫も求めも、強い意志と独占欲を滲ませていた。
きっと、彼なりの愛情と情熱が重なった行為なのだろう。
けれどアランには、
「求められる妻」という仮面ばかりが内側に迫り、
その重みに呼吸が少しずつ浅くなった。
抱かれながら、
燃えるような彼の愛しさと、求めに応える自分と――
その隙間を埋めるものは、
ひんやりとした孤独と、苦い期待だけだった。
心はどこか遠くに浮かんでいる。
手にしたグラスの酒は、決して酔わせてくれない。
体は熱いはずなのに、心はずっと醒めている。
まるで、酔えない酒を何度も喉に流し込むような、
そんな虚しさだけが胸の奥を灼いていった。
夜の帳が静かに落ちる。
レギュラスの指が髪をなでても、
アランの横顔には、淡く滲む涙がひとつ、
静かに光りながら消えていった。
