2章
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古びたブラック家の廊下には、重い静けさが流れていた。
レギュラスはその重みの中を、ゆっくりと歩いていく。
大理石の床に響く自分の足音が、どこか遠く響いていくようで、
幼いころから馴染んだはずのこの屋敷すら、ときに息苦しく感じることがあった。
特に、母ヴァルブルガの冷たい威圧は、血のつながった自分でもしばしば心をすくませたのだ。アランには、それがどれほど厳しく重くのしかかることだろう。
できる限り、アランを気遣いたかった。
そのやさしさこそが、何かを贖い、何かを許してもらえる唯一の手段のように思えた。
ヴァルブルガの目や声に押され、アランが自分まで心を閉ざし、
言葉も想いも奥深くに沈めてしまわないように。
アランはとても強くて、誇り高い人だと思う。
けれど、強さゆえに何もかも静かに抱えこんでしまうのではと怖かった。
屋敷のいくつもの部屋の扉を通るたび、
レギュラスは彼女の心の奥にそっと寄り添える存在でありたいと願うのだった。
夜、レギュラスは屋敷僕クリーチャーのもとに足を運ぶ。
彼の忠実さと誠実さを誰よりも知るからこそ、アランの傍で支えとなる事を改めて頼みたくなった。
「クリーチャー、アランのことは――僕のこと以上に気にかけてあげてください。」
小さな屋敷僕は、真面目な顔で深々と頭を下げる。
その仕草の奥に、屋敷に満ちる冷たい空気は、
少しだけ温もりを帯びるような気がした。
気遣うことでしか守れないものがある。
少しずつでも―― アランの心にやさしい隙間がしっかりと残りますように。
レギュラスは静かな祈りを胸の奥に抱いて、
長い廊下をまたひとりで歩きだした。
アランは広々とした自室の机に向かい、ガラス瓶の中でゆっくりと色が変わっていく魔法薬の反応をじっと見つめていた。シリウスとの記憶や、自分の想いに支えられながら調合を重ねるその姿は、まるで何かひとつの祈りのようでもあった。
この屋敷で与えられた領域――そこは唯一、誰にも邪魔されずにいられる安息の場所。アランは、できる限りの薬を試験的に作り、あの不死鳥の騎士団のメンバーたちがよく利用していると言われる薬屋にそっと卸すつもりでいた。直接会えるはずもないシリウスに、ほんのひとかけらでも役立つ薬が届いてほしい。せめてその願いだけが、ささやかな救いだった。
だが、不意にドアが開き、レギュラスが室内へと入ってくる。
アランの手が瓶の口に蓋をする動きがわずかに止まる。
「やけに真剣に作ってますね。」
彼の視線を浴びるだけで、まるで犯していないはずの罪を着せられそうで落ち着かなかった。たとえ咎められる理由は何一つないと理解していても、レギュラスに自分の行動の裏側を知られてしまえば、きっと彼の誇りを傷つけてしまうだろう。そんな不安が、どうしても消えない。
気を取り直し、用意していた小さな瓶を差し出す。
「簡単な傷薬はもう作ってあるので、任務に出る時は持って行って。」
「ええ、そうします。この前それをバーテミウスに瓶ごとあげてしまいましたから。」
レギュラスの呪文の腕は確かで、その力に傷を負わせうる魔法使いがどれほどいるのか――実際、この薬が本当に必要になることは、ほとんどなかった。それでも、アランの魔法薬調合の行動の真意――もっと別の誰かのために、どこかで役立つことへの淡い願い――は、表には見せずに済んだ。
穏やかなやりとりの薄氷の下で、アランの心は静かに揺れ続けていた。彼女がいま、こうして誰にも知られず想いを繋げられる時間。それは恐れと祈りのあわいに光る、密やかな希望だった。
レギュラスは静かに傷薬の瓶を手に取り、その澄んだ液体を陽に透かして眺めていた。
アランが差し出すこの小さな薬は、きっと何かを覆い隠すための言い訳――
そのことに、レギュラスは気づいている。
詰めが甘い、とも思う。
呪文学において自分は誰よりも優れていた。その事実は、他ならぬアランが一番よく知っているはずだった。
自惚れでなく、この身に確かな傷を負わせられるほどの魔法使いなど、闇の帝王くらいしか存在しないのではないか。
それでも、アランの心の底にある繊細な祈りや秘密を、言葉で問い詰めることはしなかった。
渡された薬は形どおりありがたく受け取る。
バーテミウスに渡したときも、彼はセシール嬢直々の薬なら高値で売れるかもしれないな――
そう冗談めかして笑いながら、けれどどこか誇らしげに瓶を受け取っていた。
屋敷の影と静けさのなかで、レギュラスはさらに慎重に考えを巡らせていた。
アランがこの薬を携えてどこかへ出かけることがあれば――
その時は必ずクリーチャーに警護させるように手配した。
「見守れ」と命じれば、アランの行動もまた、静かに把握できる。
目の前の穏やかなやりとりの裏に潜むわずかな齟齬。
互いの胸に宿る秘めたものを、
明かさずに、傷つけずに、そっと包みこみながら
屋敷の空気は静かに夜へと溶けていく。
愛しさと不安と、奇妙な隔たりと――
それら全部を美しい緊張の中で抱きしめれば、
いまはまだ、家の幸福は穏やかに守られているように思えた。
重厚なランプの下、ブラック家の長いダイニングテーブルに静けさが漂う。
銀器の触れ合うわずかな音だけが、広間の空気に溶けていた。
その沈黙を割るように、いつもは寡黙なオリオンが低く口を開く。
「…… アラン、私たちは男児を期待している。」
その言葉は飾り気もなく、真っ直ぐに胸の奥を突き刺してきた。
世継ぎは必ず当主の血を引く“男”でなければならない。
ヴァルブルガがこの家に二人の男児を産んだという事実が、
アランにさらなる冷たさと静かな苦しみを与える。
「期待に添えるよう、いたします。」
アランはゆっくりと返す。声は淡く、
微かな震えが混じるのを抑えながら、静かに下を向いた。
空気が重くなった瞬間、
レギュラスが少しだけ場を和ませるように冗談めいた声で続ける。
「でも―― アラン似の女の子だったら、きっとこの魔法界一の美人でしょうね。
……国が傾くかもしれません。」
その明るさも、やさしさも、
オリオンの言葉の持つ威圧の前では何も響かない。
きっと、レギュラスはアランを守ろうとしてくれているのだろう。
けれど、今夜だけは――
重く繰り返される“家”の期待に、
アランの心は静かに凍てついていた。
食事の席に落ちる影。
誰にも見えない涙の味が、いまはただひとりきりの胸の奥にしみていく。
それでもアランは、静かに背筋を伸ばした。
言葉にならない痛みを、美しい沈黙のなかへとしずかに溶かしていた。
数日前、両親から届いた手紙――
薄い羊皮紙に綴られた穏やかな言葉の裏には、
「早くブラック家の世継ぎを」と、
セシール家の地位をより確かなものにと願う、
時に計算とも取れる重い期待がにじんでいた。
その文章を読み返すたび、胸の奥がえぐられるような苦しさがこみ上げる。
吐き気がするほどの責務。
時は容赦なく進み、もう子供ではいられない。
嫁いだその日から、求められる役割は常に重たくのしかかっている。
けれど、心だけは――どうしても今の場所に留まってはくれなかった。
身体が望まれるままに流されて、
気づけば自分の奥の、壊れやすい部分だけが取り残されているような、
どこにも持ち去ることができない孤独。
ふと、アランは引き出しを開ける。
そこにしまってあったシリウスの写真――
いくつもの思い出の中とびきり眩しい、太陽のような笑顔。
その笑顔を見た途端、
張りつめていたものがすべて崩れるように、涙が頬を伝った。
声もなく、静かに肩を震わせながら、
写真を胸にぎゅっと抱きしめる。
どうか、この涙だけは誰にも見つからずに、
ひとりきりで流してしまいたい――
深い夜、広い自室の隅、
アランは子供のように座り込んだ。
誰にも邪魔されないこの瞬間だけは、
“ アラン”だけの哀しみを許されたいと、
こぼれる涙にそっと額を埋めていた。
やがて朝が来ても、
このささやかな哀しみだけは、
心の奥で静かに光りつづけていた。
朝の光が淡くテーブルを照らす静かな食卓。アランとレギュラス、二人きりの朝だった。
昨夜の空気をまだ引きずったまま、硬い沈黙が間を埋めている。
レギュラスが静かに切り出した。
「…… アラン、昨日の父の言葉ですが」
その言葉の出端を遮るように、アランは少し強い声で応える。
「大丈夫です。」
張り詰めた糸のような声だった。その虚勢の柔らかな痛みが、レギュラスの心にもじわりと滲む。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
そんな声は聞きたくなかった。
レギュラスは小さく首を振る。
「そんなに張り詰めないでください。」
アランは俯き、細い指で食器をなぞる。
「女の子じゃ、当主にはなれないものね。」
貴族社会において、家督は男系男子が受け継ぐのが絶対という風潮が根強く、アランが言うとおり、女児が「当主」にはなれない現実がそこにはある。
だがレギュラスは、どこか諦めきれぬやさしい声音で言葉を重ねる。
「それはそうですが……女の子が生まれても、きっと誰より愛して育ててあげられると思っています。アランに似て美しい娘なら、どこか外国の貴族に嫁いでもブラック家の力はさらに広がるでしょうし……女児でも、いいじゃないですか。アランに似て美しい娘になりますから。」
そのやわらかさは、本気でアランを包み込めるものだった。
けれど、アランはその優しさにはもう身を寄せられない。
「……オリオン様も、ヴァルブルガ様も、美しい娘ではなくて、ブラックを間違いなく継げる王子をお望みなのよ。」
声の奥にしまったのは、抗いようのない閉塞感――
女では生まれながらにして“後継”になれない世界、その冷たい真理。
レギュラスの包むような優しささえ、今だけは触れることができなかった。
二人の間を曇らせる朝の光だけが、
黙って静かに、ただ美しく時を流していく。
レギュラスはその重みの中を、ゆっくりと歩いていく。
大理石の床に響く自分の足音が、どこか遠く響いていくようで、
幼いころから馴染んだはずのこの屋敷すら、ときに息苦しく感じることがあった。
特に、母ヴァルブルガの冷たい威圧は、血のつながった自分でもしばしば心をすくませたのだ。アランには、それがどれほど厳しく重くのしかかることだろう。
できる限り、アランを気遣いたかった。
そのやさしさこそが、何かを贖い、何かを許してもらえる唯一の手段のように思えた。
ヴァルブルガの目や声に押され、アランが自分まで心を閉ざし、
言葉も想いも奥深くに沈めてしまわないように。
アランはとても強くて、誇り高い人だと思う。
けれど、強さゆえに何もかも静かに抱えこんでしまうのではと怖かった。
屋敷のいくつもの部屋の扉を通るたび、
レギュラスは彼女の心の奥にそっと寄り添える存在でありたいと願うのだった。
夜、レギュラスは屋敷僕クリーチャーのもとに足を運ぶ。
彼の忠実さと誠実さを誰よりも知るからこそ、アランの傍で支えとなる事を改めて頼みたくなった。
「クリーチャー、アランのことは――僕のこと以上に気にかけてあげてください。」
小さな屋敷僕は、真面目な顔で深々と頭を下げる。
その仕草の奥に、屋敷に満ちる冷たい空気は、
少しだけ温もりを帯びるような気がした。
気遣うことでしか守れないものがある。
少しずつでも―― アランの心にやさしい隙間がしっかりと残りますように。
レギュラスは静かな祈りを胸の奥に抱いて、
長い廊下をまたひとりで歩きだした。
アランは広々とした自室の机に向かい、ガラス瓶の中でゆっくりと色が変わっていく魔法薬の反応をじっと見つめていた。シリウスとの記憶や、自分の想いに支えられながら調合を重ねるその姿は、まるで何かひとつの祈りのようでもあった。
この屋敷で与えられた領域――そこは唯一、誰にも邪魔されずにいられる安息の場所。アランは、できる限りの薬を試験的に作り、あの不死鳥の騎士団のメンバーたちがよく利用していると言われる薬屋にそっと卸すつもりでいた。直接会えるはずもないシリウスに、ほんのひとかけらでも役立つ薬が届いてほしい。せめてその願いだけが、ささやかな救いだった。
だが、不意にドアが開き、レギュラスが室内へと入ってくる。
アランの手が瓶の口に蓋をする動きがわずかに止まる。
「やけに真剣に作ってますね。」
彼の視線を浴びるだけで、まるで犯していないはずの罪を着せられそうで落ち着かなかった。たとえ咎められる理由は何一つないと理解していても、レギュラスに自分の行動の裏側を知られてしまえば、きっと彼の誇りを傷つけてしまうだろう。そんな不安が、どうしても消えない。
気を取り直し、用意していた小さな瓶を差し出す。
「簡単な傷薬はもう作ってあるので、任務に出る時は持って行って。」
「ええ、そうします。この前それをバーテミウスに瓶ごとあげてしまいましたから。」
レギュラスの呪文の腕は確かで、その力に傷を負わせうる魔法使いがどれほどいるのか――実際、この薬が本当に必要になることは、ほとんどなかった。それでも、アランの魔法薬調合の行動の真意――もっと別の誰かのために、どこかで役立つことへの淡い願い――は、表には見せずに済んだ。
穏やかなやりとりの薄氷の下で、アランの心は静かに揺れ続けていた。彼女がいま、こうして誰にも知られず想いを繋げられる時間。それは恐れと祈りのあわいに光る、密やかな希望だった。
レギュラスは静かに傷薬の瓶を手に取り、その澄んだ液体を陽に透かして眺めていた。
アランが差し出すこの小さな薬は、きっと何かを覆い隠すための言い訳――
そのことに、レギュラスは気づいている。
詰めが甘い、とも思う。
呪文学において自分は誰よりも優れていた。その事実は、他ならぬアランが一番よく知っているはずだった。
自惚れでなく、この身に確かな傷を負わせられるほどの魔法使いなど、闇の帝王くらいしか存在しないのではないか。
それでも、アランの心の底にある繊細な祈りや秘密を、言葉で問い詰めることはしなかった。
渡された薬は形どおりありがたく受け取る。
バーテミウスに渡したときも、彼はセシール嬢直々の薬なら高値で売れるかもしれないな――
そう冗談めかして笑いながら、けれどどこか誇らしげに瓶を受け取っていた。
屋敷の影と静けさのなかで、レギュラスはさらに慎重に考えを巡らせていた。
アランがこの薬を携えてどこかへ出かけることがあれば――
その時は必ずクリーチャーに警護させるように手配した。
「見守れ」と命じれば、アランの行動もまた、静かに把握できる。
目の前の穏やかなやりとりの裏に潜むわずかな齟齬。
互いの胸に宿る秘めたものを、
明かさずに、傷つけずに、そっと包みこみながら
屋敷の空気は静かに夜へと溶けていく。
愛しさと不安と、奇妙な隔たりと――
それら全部を美しい緊張の中で抱きしめれば、
いまはまだ、家の幸福は穏やかに守られているように思えた。
重厚なランプの下、ブラック家の長いダイニングテーブルに静けさが漂う。
銀器の触れ合うわずかな音だけが、広間の空気に溶けていた。
その沈黙を割るように、いつもは寡黙なオリオンが低く口を開く。
「…… アラン、私たちは男児を期待している。」
その言葉は飾り気もなく、真っ直ぐに胸の奥を突き刺してきた。
世継ぎは必ず当主の血を引く“男”でなければならない。
ヴァルブルガがこの家に二人の男児を産んだという事実が、
アランにさらなる冷たさと静かな苦しみを与える。
「期待に添えるよう、いたします。」
アランはゆっくりと返す。声は淡く、
微かな震えが混じるのを抑えながら、静かに下を向いた。
空気が重くなった瞬間、
レギュラスが少しだけ場を和ませるように冗談めいた声で続ける。
「でも―― アラン似の女の子だったら、きっとこの魔法界一の美人でしょうね。
……国が傾くかもしれません。」
その明るさも、やさしさも、
オリオンの言葉の持つ威圧の前では何も響かない。
きっと、レギュラスはアランを守ろうとしてくれているのだろう。
けれど、今夜だけは――
重く繰り返される“家”の期待に、
アランの心は静かに凍てついていた。
食事の席に落ちる影。
誰にも見えない涙の味が、いまはただひとりきりの胸の奥にしみていく。
それでもアランは、静かに背筋を伸ばした。
言葉にならない痛みを、美しい沈黙のなかへとしずかに溶かしていた。
数日前、両親から届いた手紙――
薄い羊皮紙に綴られた穏やかな言葉の裏には、
「早くブラック家の世継ぎを」と、
セシール家の地位をより確かなものにと願う、
時に計算とも取れる重い期待がにじんでいた。
その文章を読み返すたび、胸の奥がえぐられるような苦しさがこみ上げる。
吐き気がするほどの責務。
時は容赦なく進み、もう子供ではいられない。
嫁いだその日から、求められる役割は常に重たくのしかかっている。
けれど、心だけは――どうしても今の場所に留まってはくれなかった。
身体が望まれるままに流されて、
気づけば自分の奥の、壊れやすい部分だけが取り残されているような、
どこにも持ち去ることができない孤独。
ふと、アランは引き出しを開ける。
そこにしまってあったシリウスの写真――
いくつもの思い出の中とびきり眩しい、太陽のような笑顔。
その笑顔を見た途端、
張りつめていたものがすべて崩れるように、涙が頬を伝った。
声もなく、静かに肩を震わせながら、
写真を胸にぎゅっと抱きしめる。
どうか、この涙だけは誰にも見つからずに、
ひとりきりで流してしまいたい――
深い夜、広い自室の隅、
アランは子供のように座り込んだ。
誰にも邪魔されないこの瞬間だけは、
“ アラン”だけの哀しみを許されたいと、
こぼれる涙にそっと額を埋めていた。
やがて朝が来ても、
このささやかな哀しみだけは、
心の奥で静かに光りつづけていた。
朝の光が淡くテーブルを照らす静かな食卓。アランとレギュラス、二人きりの朝だった。
昨夜の空気をまだ引きずったまま、硬い沈黙が間を埋めている。
レギュラスが静かに切り出した。
「…… アラン、昨日の父の言葉ですが」
その言葉の出端を遮るように、アランは少し強い声で応える。
「大丈夫です。」
張り詰めた糸のような声だった。その虚勢の柔らかな痛みが、レギュラスの心にもじわりと滲む。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
そんな声は聞きたくなかった。
レギュラスは小さく首を振る。
「そんなに張り詰めないでください。」
アランは俯き、細い指で食器をなぞる。
「女の子じゃ、当主にはなれないものね。」
貴族社会において、家督は男系男子が受け継ぐのが絶対という風潮が根強く、アランが言うとおり、女児が「当主」にはなれない現実がそこにはある。
だがレギュラスは、どこか諦めきれぬやさしい声音で言葉を重ねる。
「それはそうですが……女の子が生まれても、きっと誰より愛して育ててあげられると思っています。アランに似て美しい娘なら、どこか外国の貴族に嫁いでもブラック家の力はさらに広がるでしょうし……女児でも、いいじゃないですか。アランに似て美しい娘になりますから。」
そのやわらかさは、本気でアランを包み込めるものだった。
けれど、アランはその優しさにはもう身を寄せられない。
「……オリオン様も、ヴァルブルガ様も、美しい娘ではなくて、ブラックを間違いなく継げる王子をお望みなのよ。」
声の奥にしまったのは、抗いようのない閉塞感――
女では生まれながらにして“後継”になれない世界、その冷たい真理。
レギュラスの包むような優しささえ、今だけは触れることができなかった。
二人の間を曇らせる朝の光だけが、
黙って静かに、ただ美しく時を流していく。
