1章
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放課後の廊下を、シリウスは迷いなく歩いていった。
卒業が間近に迫り、胸の奥が焦げ付くような痛みを覚えながら、
どうしてもアランに会いたい――ただ、その一心だった。
授業を終えたばかりのアランの姿を見つけると、心臓が跳ねる。思わず手を伸ばし、誰もいない教室の影へと、半ば攫うように導く。
驚いた表情で振り向く彼女――久しぶりに近くで見るその瞳も頬も、あまりにも綺麗で、
胸いっぱいの『愛している』が、喉の奥まで溢れそうだった。
「シリウス――」
ひとこと、名前を呼ばれた瞬間。
理性も迷いも、何もかも一気に燃え上がる。
考えるよりも先に腕を引き寄せ、唇を重ねる。
それは、積み重なった孤独も焦がれる想いも、やり場のない切なさもすべて吐き出すような、
どうしようもなく激しく、貪るようなキス。
アランの手が震えた。それでも拒むことなく、むしろすがるように抱き返してくれる。
この一瞬だけ、世界がふたりきりのまま止まってほしいと、心の底で願った。
唇の温度に、涙の塩味がまじる。
キスを交わしながら、アランの頬を伝って零れる涙に気づいたとき、シリウスは、どれほど彼女を苦しめてきたか、そしてどれほど深く愛してきたかを強く知る。
「……一緒に生きてほしい。ずっと、一緒にいたい。」
時を巻き戻せるなら、すべてを捨ててでも何度でも伝えたかった。
心が擦り切れるほど願っていたその想いは、あの頃から何ひとつ変わらず、
今もひたすら真っ直ぐに、アランにだけ向かっていた。
けれど、アランもまた、家族も、レギュラスも、背負うすべてのものがあることを、
シリウスは痛いほど分かっている。
どこまで行っても――自分たちは平行線。
交わることのない運命を前にして、それでも惹かれてやまないふたり。
唇を離せば、涙がひとしずく頬に落ちる。
その味は甘さよりも遥かに切なく、
別れの影を静かに照らしていた。
――この一切が、きっと永遠に消えない痛みと美しさとして、心の奥に残っていくのだと、
シリウスはそっと目を閉じて、アランの髪に触れた。
春の冷たい風が残る放課後の廊下で、シリウスはふいに問いかける。
「卒業したら、お前は何するんだ?」
アランなら、どんな道でも歩いていける気がした。
その知性も、気高さも、本当なら世界中に触れて輝くはずだった。
けれど、その未来が許される場所にいるのか――そのことだけが、胸を締めつける。
アランは、少し微笑みながら、静かに答える。
「私は……何をさせてもらえるのかしらね。」
その声音の奥に宿る切なさは、薄氷を踏むような儚さを帯びていた。
ブラック家に嫁ぐという現実。
選択の自由も夢も、閉ざされた檻の中に置き去りにされてしまうのかもしれない。
沈黙のあいだに、シリウスの胸にはざらりとした痛みが満ちていく。
思い切って、聞きたくなった。
「レギュラスとは、どうなんだ?」
――自分で聞いたくせに、その答えが何より怖かった。
かつては「想いだけは全部自分に向いている」と、根拠のない自信を抱いていた日々が思い出され、胸が苦しくなる。
アランがぽつりと答える。
「あの人は、優しいわ。」
ただそれだけだった。
愛している、と返されなかったことが、奇妙に心を救う。
けれど本当は――「自分だけを見ていてほしい」、そう縛りつけるような言葉を投げかけたかった。
口にはできなくて、唇をかすかに震わせた。
沈む夕焼けのなか、ふたりの影が廊下に重なっていく。
言葉にならない切なさと、引き裂かれるような愛しさが、
そっと空気に溶けていった。
ほんとうはずっと、形でも夢でもなく、心のすべてを預けてほしかった――
交わせぬ本音が胸の奥で小さく叫ぶ。
けれど届かぬまま、ただ美しく夜が迫り始めていた。
春の夕暮れが、ゆっくりとホグワーツの輪郭を淡い朱に染めていく。
けれど、アランの心はその美しさすらひとときの夢のようで、
どうしても寮へ戻りたくなかった。
校庭の片隅、ふたりきりですれ違う沈黙のなか、アランはぽつりと口を開く。
「ねえ、今日を……最後にするから、どこか遠くに抜け出したいわ。」
ふだんは慎重で、理性と律しさのなかに生きるアランらしくない突き抜けた提案――
それに、シリウスは一瞬、目を大きく見開いた。
心のどこかで“最後”という言葉が鋭くしみたが、
その痛みごと、どうしようもなく惹きつけられる。
言葉にせずにはいられなかった。
「行こう、アラン。俺が連れて行く。」
ためらいも後悔も、このひとときにはもう意味を持たなかった。
シリウスの手が、迷いなくアランの手を包みこむ。
夕映えと柔らかな風のなか、ふたりの影はそっと伸びて溶けあう。
もうすぐ終わりを知っているからこそ、
どんな遠くまででも、この夜が許す限り、ふたりだけの逃避行を――
そんな淡くて切ない願いが、やわらかな指と指のあいだに静かに結ばれていく。
最後の夜。
ほんとうは言葉にしたくなかった約束。
それでも、ただ一度だけ、
ふたりで心行くまで世界の果てへ走ってみたかった。
そうすることが、いまを後悔にしないたったひとつの魔法だったから。
アランがそっと口にしたのは、
「……やっぱり、マグルの世界がいい」
幾度も幼い日々を遊び、無垢な驚きと好奇心に満ちて、二人が一番自然に笑い合えた思い出の場所。
この先もう二度と戻れないかもしれない“自由”の中で、すべてを胸に焼き付けたかった。
シリウスも微笑んで答える。
「あそこが一番お前らしいよ」
ふたりはホグワーツの門を抜け、夕暮れの空を背に、誰にも見えない世界へと歩き出す。
胸に残るのは、今だけの解放、今だけのわがまま。
最後の「自由」を分かち合うために選んだのは、
子どものような純粋さと、恋人たちだけに許された密やかな現実だった。
そして、たどり着いたマグルの遊園地。
すべてが煌めいていて、魔法よりも眩しい。
その目に焼きつけるもの全てが、永遠の思い出になると知っていたから。
アランとシリウスは、ふたりだけの「さよなら」と「愛してる」を、
この広い世界の中で、確かに深く確かめ合った。
夕暮れのやわらかな光に包まれた遊園地は、どこまでもきらめいていた。
観覧車の窓にオレンジの空が映り、ネオンがひとつまたひとつ灯り始める。
アランとシリウスは、ふたりだけの秘密の場所に迷い込んだように、何もかもに目を輝かせて歩いた。
回転するティーカップも、宙を舞うジェットコースターも、すべてが眩しくて、魔法以上の不思議さに満ちている。
アランは子どものように、きらきらと顔を輝かせて叫んだ。
「ねぇシリウス、これって本当に魔法じゃないの?」
シリウスは隣でおかしそうに笑って、
「ああ、しっかり捕まってろよ」と優しく声をかける。
遊具のバーをぎゅっと握るアランの手に、そっとシリウスの大きな手が重なった。
その手のぬくもりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
嬉しくて――楽しくて、でも、どこか泣きそうだった。
ひとつひとつの景色や声、アランの息遣い、シリウスの横顔。
全部が永遠に続くようで、けれど、どこかで終わりを知っている。
この場所にいられるのは、ほんのひと時だけだと、心の奥深くで理解していた。
この人が好き。
愛している。きっと、これからもずっと愛している。
手を繋いだまま、アランは静かにそう誓った。
マグルの世界のきらめきの中で、
ふたりの影が長く長く伸びていく。
すべてを胸に刻みこむように、そっと涙をこらえながら、
アランはシリウスの肩に、ぽつりと額を預けた。
さよならの予感と、消えない愛しさだけが、春の風のなかで細く光っていた。
夕暮れに包まれた遊園地は、どこを見渡しても人いきれと笑い声であふれていた。
シリウスとアランは、ほかのマグルたちと変わらずチケットを手に、きらびやかな回転木馬や、ぎゅっと胸が上がるジェットコースターに並んだ。
見知らぬ人たちに混ざり、小さな声で肩を寄せ合いながら順番を待つこと、無邪気に笑い合うこと―たったそれだけの“普通”が、ふたりにはひどく特別に思えた。
観覧車のゴンドラが静かに空へ昇り出すと、
アランは遠くで煌めく灯りと、隣で手を繋ぐ彼の温もりを確かめるようにそっと息を吸った。
「私たち、今だけはきっと普通の恋人なのね」
そう囁く声に、シリウスは優しさと切なさをたたえて微笑む。
アイスクリーム屋の行列に並んだことも、くたびれてベンチに腰掛け、手にした軽食を分け合ったことも―
全てが誰にも特別視されない世界だった。
騒がしい音楽や、溢れる光のなかで、ふたりの時間だけが美しく、儚く、切なかった。
けれど、そんな“普通”のひとときが、
どれほどかけがえのない夢なのか、ふたりだけは静かに知っていた。
アランは隣の横顔をそっと見つめ、この人と生きた小さな一日を
胸いっぱいに焼き付ける。
観覧車がゆっくり地上へ戻るとき、夜風がふたりの涙をやさしく乾かしていく――
「さよなら」も「ありがとう」も言わずに、
ただ、普通を生きた記憶だけをふたりは分かち合っていた。
マグルの街の片隅、人目につかない小さなコテージ。
静かな夜の帳がすっかり降りて、街灯の灯りだけが淡く外を照らしていた。
アランとシリウスは、歩き疲れて肩を寄せ合いながら、まるでどちらからともなく引き寄せられるように鍵をかけた扉の陰へ身を滑り込ませた。
星も見えない狭い部屋のなか、言葉はいらなかった。
お互いの体温にすがるように、何度も指先が触れ合い、唇が重なる――好きが溢れすぎて抑えきれなくて、ただそれだけを確かめ合う。
「離れたくない」
そんな声にならない想いが、ふたりの間に火照りとなってこぼれる。
シリウスが初めて教えてくれた恋人同士の秘密。
熱くて、恥ずかしくて、ときに涙が混じるほど爆発的な苦しさと幸福。
羞恥も、痛みも、歓びも、すべてがふたりの身体のなかで溶け合い、
壊れてしまいそうなほど抱きしめ合えば、世界の終わりまで溶けてしまえる気がした。
指が髪を梳き、背中を撫で、静かに名前を呼び――
今だけは、誰にも届かない夜の奥にこの幸福を閉じ込めておきたいと願う。
何度も愛を伝えて、確かめて、強く強く抱いた。
すれ違いと別れの予感が濃く漂う夜だからこそ、
この切なさと幸福を一滴残さず胸に焼き付けるように、
ふたりはただ何度も求め合った。
「大好き」
その言葉さえ涙に変わってしまいそうなほど、
ふたりだけの時間は濃く、やわらかく、
やがて夜の静けさに静かに溶けていった。
小さなコテージの静けさの中、アランはシリウスの腕に全てを委ねた。
深く、深く繋がるたび、心も身体も透明になって境目が消えていく。
お互いの温もりを全身で確かめ合いながら、
今日一日、街の光も、遊園地の笑い声も、思い出のすべてが
幸福の余韻となって部屋いっぱいに満ちていた。
呼吸が重なり合い、静かな夜に二人の名前だけが響く。
切なくて愛おしくて、どんなに強く抱きしめても満たされない渇きと、
でもたしかに、今だけはどこまでも深く、誰にも届かない場所で「一つ」だった。
永遠はきっと訪れない――
その痛みさえも、
繋がり合ったいまだけはやさしい祝福に変わる。
やわらかな汗と涙と吐息に紛れて、
アランはシリウスの胸の奥へと溶けていくような気がした。
ふたりで掴んだ、一瞬だけの“叶わない永遠”。
それは、春の夜が明けても決して胸から消えない、
美しく儚い幸福の灯だった。
夜明け前の冷たい空気の中、アランとシリウスは静かにホグワーツの門へと歩いた。
これまで何度も並んで歩いた道なのに、今夜だけは、ひとつ踏み出すごとに胸が張り裂けそうだった。
ふたりは誰にも見られない場所で、そっと手を繋いだ。
何かを誓うでもなく、ただそのぬくもりだけで最後の夜を確かめていた。
もうすぐ、別々の道を歩き出す。
その現実がどうしようもなく重たくて、指先まで震えてしまう。
小さく深呼吸して、そっと手を解いた瞬間――
心臓がきしむような痛みと共に、
“もう戻れない”という確かな一線がふたりの間に生まれる。
振り返らない、と決める。
二度と呼ばなくなる名前。二度と伸ばさない手。
けれど、忘れない。
薄明かりに浮かぶシリウスの横顔も、さよならの瞬間に零れそうになった涙も、
これから先どれほど年月が経っても、何ひとつ薄らいだりしない。
シリウス・ブラック、
この人は――誰の許しもいらない“永遠の恋人”。
ふたりだけの時が終わっても、その想いだけは、
きっと心のいちばん奥で静かに、愛しく息づき続ける。
ホグワーツの大きな扉が、静かに二人を包み込む。
離れた手のぬくもりが消えないうちに、アランは深い夜にそっと瞳を閉じた。
そして涙は落とさず、強く、静かに前を向いた。
秋の光が差し込む朝、ホグワーツの広間は静かな祝祭の名残を纏っていた――
シリウス・ブラックが卒業し、その背中が学び舎を去るのを見届けたあと、世界がひとつ、静かに形を変えたような感覚があった。
同じ日、レギュラスは正式にデスイーターの印を受けた。
銀の蛇が刻印された左腕の痛みが、むしろ誇らしく、生まれた使命と覚悟の重みが心と身体に染み渡る。
家名の誇り、両親の視線、血の誓い。
あるべきものが、ついにあるべき場所へ還ったのだと、レギュラスは密やかな安堵に包まれていた。
シリウス――あの不協和音は、もうこの世界にはいない。
ブラック家の名を穢したあの兄は追放され、もはやアランの前に姿を現すこともないだろう。
そう思うたび、レギュラスの胸には静かな自信が満ちていく。
過去も、揺らぎも、全ての影が遠ざかっていくような、澄み切った清々しさ。
アランの隣に立つ自分を包む空気は、いつになく穏やかで、
彼女を取り巻く世界から、忌むべきシリウス・ブラックという名を完全に排除した安堵と誇りが、じんわりと広がる。
ふたりで歩く廊下、すれ違う生徒たちの視線も、もう揺らぐことはない。
微笑み合うアランの横顔に手を添えながら、レギュラスは思う。
運命は正しい場所に収まったのだ、と。
失うことのない未来を、ついに自分の手につかんだのだと。
遠い窓の外、白い光が静かにふたりの行く道を照らしていた。
全ては正しく、確かにそこに在る――
そう信じられる朝だった。
卒業が間近に迫り、胸の奥が焦げ付くような痛みを覚えながら、
どうしてもアランに会いたい――ただ、その一心だった。
授業を終えたばかりのアランの姿を見つけると、心臓が跳ねる。思わず手を伸ばし、誰もいない教室の影へと、半ば攫うように導く。
驚いた表情で振り向く彼女――久しぶりに近くで見るその瞳も頬も、あまりにも綺麗で、
胸いっぱいの『愛している』が、喉の奥まで溢れそうだった。
「シリウス――」
ひとこと、名前を呼ばれた瞬間。
理性も迷いも、何もかも一気に燃え上がる。
考えるよりも先に腕を引き寄せ、唇を重ねる。
それは、積み重なった孤独も焦がれる想いも、やり場のない切なさもすべて吐き出すような、
どうしようもなく激しく、貪るようなキス。
アランの手が震えた。それでも拒むことなく、むしろすがるように抱き返してくれる。
この一瞬だけ、世界がふたりきりのまま止まってほしいと、心の底で願った。
唇の温度に、涙の塩味がまじる。
キスを交わしながら、アランの頬を伝って零れる涙に気づいたとき、シリウスは、どれほど彼女を苦しめてきたか、そしてどれほど深く愛してきたかを強く知る。
「……一緒に生きてほしい。ずっと、一緒にいたい。」
時を巻き戻せるなら、すべてを捨ててでも何度でも伝えたかった。
心が擦り切れるほど願っていたその想いは、あの頃から何ひとつ変わらず、
今もひたすら真っ直ぐに、アランにだけ向かっていた。
けれど、アランもまた、家族も、レギュラスも、背負うすべてのものがあることを、
シリウスは痛いほど分かっている。
どこまで行っても――自分たちは平行線。
交わることのない運命を前にして、それでも惹かれてやまないふたり。
唇を離せば、涙がひとしずく頬に落ちる。
その味は甘さよりも遥かに切なく、
別れの影を静かに照らしていた。
――この一切が、きっと永遠に消えない痛みと美しさとして、心の奥に残っていくのだと、
シリウスはそっと目を閉じて、アランの髪に触れた。
春の冷たい風が残る放課後の廊下で、シリウスはふいに問いかける。
「卒業したら、お前は何するんだ?」
アランなら、どんな道でも歩いていける気がした。
その知性も、気高さも、本当なら世界中に触れて輝くはずだった。
けれど、その未来が許される場所にいるのか――そのことだけが、胸を締めつける。
アランは、少し微笑みながら、静かに答える。
「私は……何をさせてもらえるのかしらね。」
その声音の奥に宿る切なさは、薄氷を踏むような儚さを帯びていた。
ブラック家に嫁ぐという現実。
選択の自由も夢も、閉ざされた檻の中に置き去りにされてしまうのかもしれない。
沈黙のあいだに、シリウスの胸にはざらりとした痛みが満ちていく。
思い切って、聞きたくなった。
「レギュラスとは、どうなんだ?」
――自分で聞いたくせに、その答えが何より怖かった。
かつては「想いだけは全部自分に向いている」と、根拠のない自信を抱いていた日々が思い出され、胸が苦しくなる。
アランがぽつりと答える。
「あの人は、優しいわ。」
ただそれだけだった。
愛している、と返されなかったことが、奇妙に心を救う。
けれど本当は――「自分だけを見ていてほしい」、そう縛りつけるような言葉を投げかけたかった。
口にはできなくて、唇をかすかに震わせた。
沈む夕焼けのなか、ふたりの影が廊下に重なっていく。
言葉にならない切なさと、引き裂かれるような愛しさが、
そっと空気に溶けていった。
ほんとうはずっと、形でも夢でもなく、心のすべてを預けてほしかった――
交わせぬ本音が胸の奥で小さく叫ぶ。
けれど届かぬまま、ただ美しく夜が迫り始めていた。
春の夕暮れが、ゆっくりとホグワーツの輪郭を淡い朱に染めていく。
けれど、アランの心はその美しさすらひとときの夢のようで、
どうしても寮へ戻りたくなかった。
校庭の片隅、ふたりきりですれ違う沈黙のなか、アランはぽつりと口を開く。
「ねえ、今日を……最後にするから、どこか遠くに抜け出したいわ。」
ふだんは慎重で、理性と律しさのなかに生きるアランらしくない突き抜けた提案――
それに、シリウスは一瞬、目を大きく見開いた。
心のどこかで“最後”という言葉が鋭くしみたが、
その痛みごと、どうしようもなく惹きつけられる。
言葉にせずにはいられなかった。
「行こう、アラン。俺が連れて行く。」
ためらいも後悔も、このひとときにはもう意味を持たなかった。
シリウスの手が、迷いなくアランの手を包みこむ。
夕映えと柔らかな風のなか、ふたりの影はそっと伸びて溶けあう。
もうすぐ終わりを知っているからこそ、
どんな遠くまででも、この夜が許す限り、ふたりだけの逃避行を――
そんな淡くて切ない願いが、やわらかな指と指のあいだに静かに結ばれていく。
最後の夜。
ほんとうは言葉にしたくなかった約束。
それでも、ただ一度だけ、
ふたりで心行くまで世界の果てへ走ってみたかった。
そうすることが、いまを後悔にしないたったひとつの魔法だったから。
アランがそっと口にしたのは、
「……やっぱり、マグルの世界がいい」
幾度も幼い日々を遊び、無垢な驚きと好奇心に満ちて、二人が一番自然に笑い合えた思い出の場所。
この先もう二度と戻れないかもしれない“自由”の中で、すべてを胸に焼き付けたかった。
シリウスも微笑んで答える。
「あそこが一番お前らしいよ」
ふたりはホグワーツの門を抜け、夕暮れの空を背に、誰にも見えない世界へと歩き出す。
胸に残るのは、今だけの解放、今だけのわがまま。
最後の「自由」を分かち合うために選んだのは、
子どものような純粋さと、恋人たちだけに許された密やかな現実だった。
そして、たどり着いたマグルの遊園地。
すべてが煌めいていて、魔法よりも眩しい。
その目に焼きつけるもの全てが、永遠の思い出になると知っていたから。
アランとシリウスは、ふたりだけの「さよなら」と「愛してる」を、
この広い世界の中で、確かに深く確かめ合った。
夕暮れのやわらかな光に包まれた遊園地は、どこまでもきらめいていた。
観覧車の窓にオレンジの空が映り、ネオンがひとつまたひとつ灯り始める。
アランとシリウスは、ふたりだけの秘密の場所に迷い込んだように、何もかもに目を輝かせて歩いた。
回転するティーカップも、宙を舞うジェットコースターも、すべてが眩しくて、魔法以上の不思議さに満ちている。
アランは子どものように、きらきらと顔を輝かせて叫んだ。
「ねぇシリウス、これって本当に魔法じゃないの?」
シリウスは隣でおかしそうに笑って、
「ああ、しっかり捕まってろよ」と優しく声をかける。
遊具のバーをぎゅっと握るアランの手に、そっとシリウスの大きな手が重なった。
その手のぬくもりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
嬉しくて――楽しくて、でも、どこか泣きそうだった。
ひとつひとつの景色や声、アランの息遣い、シリウスの横顔。
全部が永遠に続くようで、けれど、どこかで終わりを知っている。
この場所にいられるのは、ほんのひと時だけだと、心の奥深くで理解していた。
この人が好き。
愛している。きっと、これからもずっと愛している。
手を繋いだまま、アランは静かにそう誓った。
マグルの世界のきらめきの中で、
ふたりの影が長く長く伸びていく。
すべてを胸に刻みこむように、そっと涙をこらえながら、
アランはシリウスの肩に、ぽつりと額を預けた。
さよならの予感と、消えない愛しさだけが、春の風のなかで細く光っていた。
夕暮れに包まれた遊園地は、どこを見渡しても人いきれと笑い声であふれていた。
シリウスとアランは、ほかのマグルたちと変わらずチケットを手に、きらびやかな回転木馬や、ぎゅっと胸が上がるジェットコースターに並んだ。
見知らぬ人たちに混ざり、小さな声で肩を寄せ合いながら順番を待つこと、無邪気に笑い合うこと―たったそれだけの“普通”が、ふたりにはひどく特別に思えた。
観覧車のゴンドラが静かに空へ昇り出すと、
アランは遠くで煌めく灯りと、隣で手を繋ぐ彼の温もりを確かめるようにそっと息を吸った。
「私たち、今だけはきっと普通の恋人なのね」
そう囁く声に、シリウスは優しさと切なさをたたえて微笑む。
アイスクリーム屋の行列に並んだことも、くたびれてベンチに腰掛け、手にした軽食を分け合ったことも―
全てが誰にも特別視されない世界だった。
騒がしい音楽や、溢れる光のなかで、ふたりの時間だけが美しく、儚く、切なかった。
けれど、そんな“普通”のひとときが、
どれほどかけがえのない夢なのか、ふたりだけは静かに知っていた。
アランは隣の横顔をそっと見つめ、この人と生きた小さな一日を
胸いっぱいに焼き付ける。
観覧車がゆっくり地上へ戻るとき、夜風がふたりの涙をやさしく乾かしていく――
「さよなら」も「ありがとう」も言わずに、
ただ、普通を生きた記憶だけをふたりは分かち合っていた。
マグルの街の片隅、人目につかない小さなコテージ。
静かな夜の帳がすっかり降りて、街灯の灯りだけが淡く外を照らしていた。
アランとシリウスは、歩き疲れて肩を寄せ合いながら、まるでどちらからともなく引き寄せられるように鍵をかけた扉の陰へ身を滑り込ませた。
星も見えない狭い部屋のなか、言葉はいらなかった。
お互いの体温にすがるように、何度も指先が触れ合い、唇が重なる――好きが溢れすぎて抑えきれなくて、ただそれだけを確かめ合う。
「離れたくない」
そんな声にならない想いが、ふたりの間に火照りとなってこぼれる。
シリウスが初めて教えてくれた恋人同士の秘密。
熱くて、恥ずかしくて、ときに涙が混じるほど爆発的な苦しさと幸福。
羞恥も、痛みも、歓びも、すべてがふたりの身体のなかで溶け合い、
壊れてしまいそうなほど抱きしめ合えば、世界の終わりまで溶けてしまえる気がした。
指が髪を梳き、背中を撫で、静かに名前を呼び――
今だけは、誰にも届かない夜の奥にこの幸福を閉じ込めておきたいと願う。
何度も愛を伝えて、確かめて、強く強く抱いた。
すれ違いと別れの予感が濃く漂う夜だからこそ、
この切なさと幸福を一滴残さず胸に焼き付けるように、
ふたりはただ何度も求め合った。
「大好き」
その言葉さえ涙に変わってしまいそうなほど、
ふたりだけの時間は濃く、やわらかく、
やがて夜の静けさに静かに溶けていった。
小さなコテージの静けさの中、アランはシリウスの腕に全てを委ねた。
深く、深く繋がるたび、心も身体も透明になって境目が消えていく。
お互いの温もりを全身で確かめ合いながら、
今日一日、街の光も、遊園地の笑い声も、思い出のすべてが
幸福の余韻となって部屋いっぱいに満ちていた。
呼吸が重なり合い、静かな夜に二人の名前だけが響く。
切なくて愛おしくて、どんなに強く抱きしめても満たされない渇きと、
でもたしかに、今だけはどこまでも深く、誰にも届かない場所で「一つ」だった。
永遠はきっと訪れない――
その痛みさえも、
繋がり合ったいまだけはやさしい祝福に変わる。
やわらかな汗と涙と吐息に紛れて、
アランはシリウスの胸の奥へと溶けていくような気がした。
ふたりで掴んだ、一瞬だけの“叶わない永遠”。
それは、春の夜が明けても決して胸から消えない、
美しく儚い幸福の灯だった。
夜明け前の冷たい空気の中、アランとシリウスは静かにホグワーツの門へと歩いた。
これまで何度も並んで歩いた道なのに、今夜だけは、ひとつ踏み出すごとに胸が張り裂けそうだった。
ふたりは誰にも見られない場所で、そっと手を繋いだ。
何かを誓うでもなく、ただそのぬくもりだけで最後の夜を確かめていた。
もうすぐ、別々の道を歩き出す。
その現実がどうしようもなく重たくて、指先まで震えてしまう。
小さく深呼吸して、そっと手を解いた瞬間――
心臓がきしむような痛みと共に、
“もう戻れない”という確かな一線がふたりの間に生まれる。
振り返らない、と決める。
二度と呼ばなくなる名前。二度と伸ばさない手。
けれど、忘れない。
薄明かりに浮かぶシリウスの横顔も、さよならの瞬間に零れそうになった涙も、
これから先どれほど年月が経っても、何ひとつ薄らいだりしない。
シリウス・ブラック、
この人は――誰の許しもいらない“永遠の恋人”。
ふたりだけの時が終わっても、その想いだけは、
きっと心のいちばん奥で静かに、愛しく息づき続ける。
ホグワーツの大きな扉が、静かに二人を包み込む。
離れた手のぬくもりが消えないうちに、アランは深い夜にそっと瞳を閉じた。
そして涙は落とさず、強く、静かに前を向いた。
秋の光が差し込む朝、ホグワーツの広間は静かな祝祭の名残を纏っていた――
シリウス・ブラックが卒業し、その背中が学び舎を去るのを見届けたあと、世界がひとつ、静かに形を変えたような感覚があった。
同じ日、レギュラスは正式にデスイーターの印を受けた。
銀の蛇が刻印された左腕の痛みが、むしろ誇らしく、生まれた使命と覚悟の重みが心と身体に染み渡る。
家名の誇り、両親の視線、血の誓い。
あるべきものが、ついにあるべき場所へ還ったのだと、レギュラスは密やかな安堵に包まれていた。
シリウス――あの不協和音は、もうこの世界にはいない。
ブラック家の名を穢したあの兄は追放され、もはやアランの前に姿を現すこともないだろう。
そう思うたび、レギュラスの胸には静かな自信が満ちていく。
過去も、揺らぎも、全ての影が遠ざかっていくような、澄み切った清々しさ。
アランの隣に立つ自分を包む空気は、いつになく穏やかで、
彼女を取り巻く世界から、忌むべきシリウス・ブラックという名を完全に排除した安堵と誇りが、じんわりと広がる。
ふたりで歩く廊下、すれ違う生徒たちの視線も、もう揺らぐことはない。
微笑み合うアランの横顔に手を添えながら、レギュラスは思う。
運命は正しい場所に収まったのだ、と。
失うことのない未来を、ついに自分の手につかんだのだと。
遠い窓の外、白い光が静かにふたりの行く道を照らしていた。
全ては正しく、確かにそこに在る――
そう信じられる朝だった。
