1章
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朝のブラック家は、怒号と鋭い声で満ちていた。
ヴァルブルガの甲高い嘲りと、シリウスの荒々しい反抗の声が、屋敷の厚い壁さえも震わせる。重々しい扉越しに伝わるその響きに、家中の空気が一瞬凍りつく。
ついにそのときが来てしまったのだと、レギュラスは静かに悟った。
思えば、遅かれ早かれだった。
シリウスがヴァルブルガとこの家を心底憎んでいることも、母がシリウスを“血を裏切る者”として許していないことも、この家にいる誰もが知っていた。
だから、やがてこの嵐の果てに何が起こるかは予想できていた。
「家を出ていけ!もう二度とこの門をくぐることは許しません!ブラック家の相続権も、我々の名も一切放棄しなさい!」
ヴァルブルガの罵声が廊下に響き、ついにシリウスは、重い上着だけを肩にかけて屋敷を出て行った。
振り返ることもなく、荒れ地に消えていく背中。その頑なな足取りに、止める声は誰からも上がらなかった。
レギュラスは、遠ざかっていく兄の足音をしばらく黙って聞いていた。
その胸には、いくつもの思いが去来したが、結局は静かにその場に立ち尽くすだけだった。
不思議なことに、強い悲しみも、激しい怒りも浮かんでこなかった。
ただ、どこかで小さく安堵している自分に気が付いた。
――これで、もうシリウスがこの家に戻ってアランの隣に立つことは絶対にない。
母がこれほど明確に“ブラック家の名”を断ち切る以上、どんな事情があっても、叔父アルファードの遺産があったとしても、もはや兄は血族としてこの屋敷に戻る権利を完全に失う。
それはアランを守ること、婚姻の既定路線がこの屋敷の秩序に組み込まれていくことを意味していた。
すべての障害が消え、二度とあの無軌道な兄によって壊されることはない。
“そうだ、それでいい。”
自分がつい安堵してしまったこと――
それは倫理でも、兄弟の愛でもない。
ただ、未来が静かに約束されたことへの、本能的な安堵だった。
遠く、荒れ地の向こうに消えていく兄の存在は、確かにこの家との決別そのものだった。
ヴァルブルガはまだ怒りに満ちた言葉を吐いていたが、それさえももうレギュラスには、遠いエコーのようにしか聞こえなかった。
薄い朝の光の下で、屋敷はまた静けさを取り戻し、その静けさの中でレギュラスだけが、淡い安堵とわずかな痛みを心に隠したまま立ち尽くしていた。
兄に吐き捨てるように言われた、あの言葉――
「女も知らないくせに」
その蔑むような声が、何度も頭の中で反響する。
それまで必死に目をつぶってきたこと――
もしかしたら、とどこかで予感していた「何か」が、
シリウスとアランの間にはもう、確実に存在している。
そう、今はもう疑いようがなかった。
胸の奥が、砂利でかき回されるようにざわついている。
兄の言葉がただの挑発ではなく、自分への痛烈な真実であることを思い知らされたとき、
悔しさと腹立たしさが、どうしようもなく心を満たしていった。
自分よりも先に、アランのもっと深いところに立っている兄。
「知らないくせに」と言われた恥辱と、
自分の知らない世界に彼らが分かち合った「秘密」がある、その現実。
惨めさが影のようにつきまとう。
アランの微笑みや、ふとした仕草の中に、かつて感じた柔らかな温度が、
どこか手の届かない透明な壁で隔てられているように感じてしまう。
知りたいけれど、もう二度と取り戻せない。
追い抜かれてしまった現実だけが、冷たい事実として胸に突き刺さる。
兄の勝ち誇った顔、アランの遠いまなざし――
想像するほどに、悔しさと憤りで胸が痛み、
同時に自分の無力さに噛みしめるような、やるせない痛みが重く沈んでいく。
どうにもできなかった。
どうにも届かなかった。
気づきたくなかった真実ばかりが、心の奥で静かに広がっていく。
その夜、レギュラスは息苦しさの中で、
誰にも届かない憤りと悔しさだけを、ただ黙って抱きしめた。
冬の静かな午後、ホグワーツの寮の窓辺には淡い日差しが揺れていた。
アランの元に、小さなフクロウが手紙を運んできた。
封蝋にはブラック家の紋章――だが、手紙の筆致は、親しみのある、だがどこか乾いたレギュラスのものだった。
震える指で封を切り、広げた便箋には、
事務的な言葉で、しかしその裏に複雑な思いの滲む知らせが書かれていた。
兄シリウスは本日をもって、ブラック家から除籍されました。
相続権も家の名も、全て奪われました。
どうか、今後彼についてご心配なさらないように――。
淡々とした行数に、淡々では終わらぬ現実が押し込まれていた。
アランは紙の上で文字がにじんで見えた。
本当に、彼の居場所が失われてしまった。
想像の中では何度も思い描いていたはずなのに、
それが現実になると――胸の奥が絞られるように痛んだ。
あの夜、甘く柔らかな声で、
“いっしょに生きていこう”とささやかれたこと。
誰にも見せない弱音や眩しい笑顔、言葉にならない思い出。
その全てが、もう自分の未来と重なることはないのだと、
無言の事実を突きつけられた気がした。
私と、シリウスは……
決して、同じ場所に立つことは赦されない。
いずれ選択を――用意された道へ進むとき、
ふたりは、交わらないまま背を向けて歩きだすしかないのだろう。
原因も、仕組まれた運命も、今さら誰にも責めることはできなかった。
ただひとつ、
世界のどこにも、シリウス・ブラックの名で寄り添う場所がもう残されていないことに――
アランはただ深く目を閉じて、そっと息を詰めた。
窓の外には、光の消えかけた冬の空。
この痛みだけが、自分の本当の答えのような気がして、
アランはしばし動けずに、手紙を両手で強く握りしめていた。
冬休みが明け、ホグワーツの城に再び生徒たちの活気が戻る。
長い石造りの廊下には懐かしい空気が流れ、ローブの裾が擦れる音も新学期の始まりを告げている。
アランは、戻って間もなくレギュラスに声をかけられた。
彼の表情はどこか硬く、声音には微かな冷たさが混ざっていた。
「――あの人はもうブラック家の人間ではありません。今後は、付き合い方を考えてくださいね。」
その言葉は、思っていた以上に念を押すような響きがあった。
“あの人”――そう呼ばれた誰か。
今やブラック家から追い出され、この場所で「家族」として認められることすらない、
あの夏、心ごと引き裂かれたような人物。
レギュラスの言葉は淡々としていたが、
彼の目にわずかに宿る影が、アランの胸をざわつかせた。
何かを見透かされていないか、気づかれていないか――
そんな不安が、優雅な制服の奥に小さく震える。
シリウスと自分の間にあったもの――
それは誰にも告げていないし、知られていないはず。
けれど、レギュラスの“忠告”は、その秘密の輪郭をなぞるようで、
ひどく居心地の悪い緊張を残した。
「……分かってるわ」と、平静を装って返すしかなかった。
心の奥底がざわざわと波立つ。
これからの日々、
シリウスの面影をどう自分の中にしまい込んでいけばいいのか――
レギュラスの横顔を見つめながら、
アランはまだ答えの出せない迷いと、別れきれぬ痛みを胸に抱えていた。
春へ向かうホグワーツの冷たい空気と、
張りつめた微かな沈黙だけが、すべてを知っているかのように、静かに流れていた。
最終学年の春の空気は、どこか落ち着かないものだった。
シリウスがもう卒業を控えている――
それは誰にとっても大きな節目であり、
家出の騒ぎも、彼のこれからをいっそう複雑にしているはずだとアランは感じていた。
ふと気がつくと、日々の忙しさのなかで――
大広間の賑わい、笑い声と食器の音が交錯する席の間を縫い、
目が自然にシリウスを捜してしまう。
進路のこと、家のこと、それに――
いま彼がなにを思っているのか、どうしても訊きたい。
けれど、なかなか会えない日々が続いた。
彼の姿をここしばらく見ることはなく、
心だけがそわそわと、答えのない問いを抱えたまま時間だけが流れた。
そのとき――
鋭く、自分を見ている気配に気づいた。
「アラン?」
思わず肩をすくめて振り返ると、
そこにはレギュラスがいた。
控えめに、けれど確実に、何かを勘ぐるような目で。
「どうしたんですか?」
声は穏やかなのに、どこか底に冷たい波がひそんでいる。
ほんのわずか逡巡して、アランは微笑んだ。
「ううん。なんでもないの。」
すぐに何気ないふうを装って前を向いた。
でも――その瞳にはまだ、誰かを探す透明な熱がわずかに残っていた。
レギュラスはしばらく黙って、アランの顔をまっすぐ見ていた。
それでもそれ以上は何も言わず、
礼儀正しい距離を守って隣に座る。
ふたりの間に静かな空気が流れる。
大広間のざわめきのなか、
ひとりだけ遠くを見て、その手をそっと膝の上においている自分がいた。
この透明な焦燥と、抑えきれない想いを、
誰にも見せないままで終わらせられるだろうか。
春の朝の光が窓からさしこみ、ホグワーツの大広間はいつも通りの喧騒で満たされている。
でもアランの胸の奥には、
ひとつだけこぼれた光のかけらが、静かに揺れていた。
春の大広間には、朝の光がやわらかく差し込んでいた。
色とりどりの制服が波のように揺れるなかで、レギュラスは、静かにアランの横顔を見つめていた。
その視線はどこか遠くに向けられ、
探しているのが誰なのか、レギュラスにはもう痛いほど分かっていた。
胸の奥には、微かな苛立ちが熱となって渦巻く。
どうして、いまこの瞬間にさえ、
心のどこかでシリウスの影を追いかけているのだろう――
そんな思いが、静かな痛みになって指先を強張らせた。
やがて、意識を現実へと引き戻すために、
どうしても強めの行動になってしまう自分を、レギュラスはどこかで持て余していた。
「アラン、行きましょう。」
そう言いながら、
ふいに少しだけ強く、アランの手を取る。
思わず小さく目を見開いたアランが、
その温度に気づいて振り返る。
指先にはっきりと伝わるぬくもり。
けれどそのぬくもりの奥に、
取り除けない苛立ちと、焦燥が微かに滲み出る。
廊下へ向かう人波に導くように、
レギュラスはアランの手を離さず歩き出す。
ほんのわずか乱暴に――
それでもなお、彼の手は震えるほどに細やかで、頼りなく揺れていた。
いまだけは、
彼女の意識をこの現実に、傍らの自分に、きちんと縫いとめておきたかった。
けれどその願いが、
アランの指先をそっと締めつけ、
心に静かな影を落とすことを、レギュラス自身、薄々気づいていた。
すれ違う生徒たちのざわめきと、
淡い光と、胸に積もる孤独。
すべてを引き連れて、ふたり並んだシルエットが、
今はまだ静かな春の光に長く伸びていった。
夜の帳が静かに降りる談話室。
レギュラスはふと、自分の掌の内にあるアランの手の細さをじっと見つめた。
重ねた唇も、指先をすべらせた肌の温もりも、すべてがすでに二人だけの親密な記憶のはずだった――
けれど、その奥に踏み込めない距離が、ある。
形として与えられた婚約、隣を許された堂々とした特権。
それなのに、ふたりきりの静かな夜にも踏み越えられない一線が、確かに在る。
アランが怖れているのか、それとも自分の優しさが理由を与えているのか――
わかってはいるつもりだった。
けれど、その奥にもっと根深い理由――
もう既に“越えた”誰かの存在がぬぐえない。
ふと思考が暗い波に沈む。
髪を梳いた指先が、自分だけを知らないことへの焦燥感を強く燃やす。
きっと、シリウスとアランは、自分の手の届かないところですべてを知ってしまったのだ。
そう、いまは確信している。
それを証明するものは言葉でも仕草でもなく、
アランの微笑みや優しい沈黙の奥深くに、淡く沈んでいる。
負けたくない――
そんな子供じみた感情が胸をざわつかせる。
けれど、それは単なる独占欲ではなく、
アランという一人のひとに“対等でありたい”と願う、切実な祈りでもあった。
叶わぬ恋のような苦さが、静かに喉を締めつけていく。
彼女が見せる優しさの一滴一滴が、
自分の知らない夜明けの記憶を孕んだものに見えて、
ただ抱き寄せているだけでは足りない、と身体ごと訴えたくなる。
なのに、そっと息を整えて、
「……今日はもう、遅いですね」と、
穏やかな声に自分を閉じ込めてしまう。
胸の奥では、知らぬうちに染みついた劣等感と、
それでも手放せない誇りの狭間で、
揺れるように愛が重なっていく。
触れているだけでは、伝えきれない想いがある。
それでも今夜はただ、そっとその髪に唇を落とし、
心の深いところで、「どうか、まだ僕の手が届くうちに」と願っていた。
大広間のざわめきのなか、レギュラスは一瞬、足を止めた。
シリウスが目の前の席を選び、静かに食事をとる準備をしている。
これからアランがここへやってくる――
その光景を想像するだけで、胸の奥に黒い痛みが広がっていく。
何事もないふりをしたくても、
シリウスとアランが同じ空間で視線を交わす可能性を、レギュラスはどうしても受け入れられなかった。
ほんの一瞬の偶然さえ、今は許容できる自信がなかった。
意識しないふりをしたまま、
テーブルの上からサンドイッチをいくつか丁寧にナプキンに包む。
「今日は寮で静かに食べよう」と、
穏やかな声ですべてを整えた顔をして、
だが内心は焦りと苛立ちがぐらぐらと揺れていた。
アランが来る前に、この場を離れればいい。
そうすれば、アランとシリウスが同じ場所で目を合わせることはない。
それだけのために、不自然なほど急いで整えた包みを持ち上げる。
まるで何でもないことのように扉へ向かう、
その一歩一歩に滲むのは、
誰にも触れられたくない独占の痛みと、
願わくばこの想いが誰にも気づかれずにやり過ごせますように――
というひそやかな切なさだった。
大広間の陽光と喧騒のなか、
誰にも見えぬ場所で、レギュラスの孤独が静かに色を濃くしていった。
静かな寮の一角。
薄明かりのさす窓辺に、レギュラスはそっと小さな包みを差し出した。
「アラン、サンドイッチ持ってきました。」
それがまるで、ただの気まぐれのように――
何の策略もないふうを装いながら、彼は包みをそっとアランの前に置く。
「持ってきてくれたの?ありがとう。」
アランの声は柔らかく、無垢な信頼がこもっていた。
レギュラスを疑うことなど微塵もない、その調子に、
胸の奥がひとひらだけ苦しくなる。
「たまには広間じゃなくて、ここで食べるのもいいですね。」
彼の言葉は丁寧で、穏やかだった。
ふたりきりの空間と、誰にも邪魔されない短い時間。
その温度に、アランは優しく微笑う。
「ええ、静かでゆっくり食べられるわ。」
窓の外に舞う小雪が、落ちる音も聞こえぬほどに静寂な午後。
包みをひらく指先が、ほんのり暖かいパンの感触に嬉しそうに触れる。
ふたりの間には、静かな平和が流れていた。
何も知らないアランが、いつもの通りに微笑んでいる――
それだけで、今はこの場所だけが取り残されたような穏やかさを持ち始める。
レギュラスは、アランの横顔をそっと見つめた。
何気ない仕草のひとつひとつが、小さな幸福の種に思えて、
ただこの時間が静かに続くことを願うしかなかった。
静けさと微笑みの中、サンドイッチの紙包みが、
ふたりのあいだの淡い距離をそっと温めていた。
夜の廊下は深い静寂に包まれ、石造りの壁すら息をひそめているようだった。
アランはひそやかに、誰にも見咎められぬようローブの裾を揺らし、秘密の約束に導かれるように外へと歩を進める。
心臓が弾けるほど鳴っている。――これから、シリウスに会える。それだけで世界が色を変えていた。
外の空気は凛としていて、指先がかすかに震えるほど冷たい。
けれど、遠くに立つシリウスの背中を見つけた瞬間、すべての感覚は熱に染まった。
シリウス、と声にすることもできず駆け寄れば、彼は振り返り、ふたりの間のすべての距離が一気に消える。
言葉は――いくらでも用意してきたはずだった。
家を出たこと、行く宛てのない暮らしのこと、本当に平気なのか、未来はどこへ向かうのか――
けれど、いざ出会ってしまえば、そのどれもが一瞬にして遠ざかる。
頬にあふれる涙さえ自制できなくて、
ただ「好き」の想いが、抱えきれないほど胸を満たしていく。
たまらず、シリウスの胸元に顔を埋めてしまった。
温かな腕がそっと包むように引き寄せる。
痛いほどに恋しくて、ただ会えた、それだけで十分だったことに気づいてしまう。
星明りのもと、小さな影が一つに重なり、
泣きじゃくる声も、愛しさも、夜の静けさにすべて溶けていった。
尋ねたいことも、伝えたいことも、ただこのぬくもりがある限り今はもうどうでもよかった。
ただ、好きで好きで――どうしようもない。
アランは涙の向こうに微笑みを浮かべ、
この時を一生焼きつけるように、静かにそっと、シリウスの名を胸の奥で繰り返していた。
夜の静けさのなか、アランの問いにシリウスはまっすぐな瞳で応えた。
「俺は――ジェームズと一緒に闇払いを目指す。
マグルも魔法使いも、誰もが安心して暮らしていける、そんな世界にしたいんだ。」
その言葉は、光を秘めていた。
闇のない未来を願う彼のまっさらな決意は、少年の熱意と、どこまでも誠実な優しさに満ちていた。
アランは、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
シリウスならきっと、その理想に手が届く。
誰もが自由に呼吸できる希望の世界を、確かにこの手で切り拓いていくのだろう。
けれど、
ふたりの影を包む夜の蒼さはいつまでも深く、
その未来に自分はもう、隣に立ってはいけないのだという現実だけが、静かに心を支配していく。
レギュラスの隣に立つ――
それは家の、家系の、ひいては伝統の重さそのもの。
シリウスの描く“新しい世界”とは、決して交わらぬ道。
「……シリウスなら、きっと出来るわ。」
小さく、震えを含んだ声でアランは彼を見つめた。
応援の言葉の奥に、どうしても消せない祈りと、切ない願いが滲んでしまう。
そうしているうちにも、ふたりの間にある温もりは少しずつ「距離」に変わっていく。
決して責めることも、求めることもできない淡い隔たり――
それでも、いま触れ合う手と手のぬくもりだけは、最後まで離したくなかった。
夜空には遠く星が瞬いていた。
叶わぬ夢のように、美しく、冷たく。
アランは、愛しさと痛みを胸いっぱいに吸い込んで、
ただそっと、シリウスの背を抱いた。
静けさの中で、その未来が、
どうか彼だけのまぶしさで輝いてくれますようにと――
微笑むかわりに、そっと涙を瞳に溶かしながら。
「アラン、俺はアランと一緒に生きたい。」
──その言葉は、夜の静寂を裂くように、あまりにもまっすぐに響いた。
シリウスの瞳を真正面から受け止めた瞬間、
アランの胸は言葉にならない衝撃に貫かれていた。
涙は止める間もなく零れ落ち、喉元は苦しく、呼吸さえ乱れる。
ずっと、どこかで夢見ていた。
どんな物語よりも欲しかった言葉。
ただ抱きしめられるよりずっと激しく、
あらゆる時と記憶を浸すほどの真実。
「一緒に生きていきたい、離れたくない。」
それはアランの心の奥──
幼い日から密やかに、でも決して消えたことのなかったひとしずくの願いだった。
迷いも、戸惑いも、あの頃から何一つ変わらなかった。
──でも。
現実は、あまりにも遠く、あまりにも冷たかった。
手を伸ばせば、たった指先ひとつで、
すべてが崩れてしまう崖っぷちに立たされているような感覚。
両親、一族、レギュラス、ブラック家……
すべてを捨て去る覚悟が、本当に自分にできるのだろうか。
シリウスのために、ただひとつの明日だけを選ぶ強さが――
いまの自分に、ほんとうにあるのだろうか。
涙に滲む星空の下、
アランは小さく嗚咽しながら、それでもシリウスの手をぎゅっと握りたかった。
想いは溢れているのに、現実の厚い壁があまりにも重い。
「好き」だけでは超えられないものが、
こんなにも残酷にそこに立ち塞がっていた。
シリウスの体温が、手のひらから伝わる。
このぬくもりを離さずに生きていきたい――
それが、どれほど大きな犠牲と向き合わせなのかを、痛いほど理解してしまうから。
愛おしさと痛みが、ふたつながら胸を締めつけて、
ただ静かに、夜の暗闇に吸い込まれていく。
涙の底で、心はひたすら願い続ける。
──せめてこの瞬間だけは、
大切で美しいまま、二人だけのものとして
世界が止まってくれますようにと。
ヴァルブルガの甲高い嘲りと、シリウスの荒々しい反抗の声が、屋敷の厚い壁さえも震わせる。重々しい扉越しに伝わるその響きに、家中の空気が一瞬凍りつく。
ついにそのときが来てしまったのだと、レギュラスは静かに悟った。
思えば、遅かれ早かれだった。
シリウスがヴァルブルガとこの家を心底憎んでいることも、母がシリウスを“血を裏切る者”として許していないことも、この家にいる誰もが知っていた。
だから、やがてこの嵐の果てに何が起こるかは予想できていた。
「家を出ていけ!もう二度とこの門をくぐることは許しません!ブラック家の相続権も、我々の名も一切放棄しなさい!」
ヴァルブルガの罵声が廊下に響き、ついにシリウスは、重い上着だけを肩にかけて屋敷を出て行った。
振り返ることもなく、荒れ地に消えていく背中。その頑なな足取りに、止める声は誰からも上がらなかった。
レギュラスは、遠ざかっていく兄の足音をしばらく黙って聞いていた。
その胸には、いくつもの思いが去来したが、結局は静かにその場に立ち尽くすだけだった。
不思議なことに、強い悲しみも、激しい怒りも浮かんでこなかった。
ただ、どこかで小さく安堵している自分に気が付いた。
――これで、もうシリウスがこの家に戻ってアランの隣に立つことは絶対にない。
母がこれほど明確に“ブラック家の名”を断ち切る以上、どんな事情があっても、叔父アルファードの遺産があったとしても、もはや兄は血族としてこの屋敷に戻る権利を完全に失う。
それはアランを守ること、婚姻の既定路線がこの屋敷の秩序に組み込まれていくことを意味していた。
すべての障害が消え、二度とあの無軌道な兄によって壊されることはない。
“そうだ、それでいい。”
自分がつい安堵してしまったこと――
それは倫理でも、兄弟の愛でもない。
ただ、未来が静かに約束されたことへの、本能的な安堵だった。
遠く、荒れ地の向こうに消えていく兄の存在は、確かにこの家との決別そのものだった。
ヴァルブルガはまだ怒りに満ちた言葉を吐いていたが、それさえももうレギュラスには、遠いエコーのようにしか聞こえなかった。
薄い朝の光の下で、屋敷はまた静けさを取り戻し、その静けさの中でレギュラスだけが、淡い安堵とわずかな痛みを心に隠したまま立ち尽くしていた。
兄に吐き捨てるように言われた、あの言葉――
「女も知らないくせに」
その蔑むような声が、何度も頭の中で反響する。
それまで必死に目をつぶってきたこと――
もしかしたら、とどこかで予感していた「何か」が、
シリウスとアランの間にはもう、確実に存在している。
そう、今はもう疑いようがなかった。
胸の奥が、砂利でかき回されるようにざわついている。
兄の言葉がただの挑発ではなく、自分への痛烈な真実であることを思い知らされたとき、
悔しさと腹立たしさが、どうしようもなく心を満たしていった。
自分よりも先に、アランのもっと深いところに立っている兄。
「知らないくせに」と言われた恥辱と、
自分の知らない世界に彼らが分かち合った「秘密」がある、その現実。
惨めさが影のようにつきまとう。
アランの微笑みや、ふとした仕草の中に、かつて感じた柔らかな温度が、
どこか手の届かない透明な壁で隔てられているように感じてしまう。
知りたいけれど、もう二度と取り戻せない。
追い抜かれてしまった現実だけが、冷たい事実として胸に突き刺さる。
兄の勝ち誇った顔、アランの遠いまなざし――
想像するほどに、悔しさと憤りで胸が痛み、
同時に自分の無力さに噛みしめるような、やるせない痛みが重く沈んでいく。
どうにもできなかった。
どうにも届かなかった。
気づきたくなかった真実ばかりが、心の奥で静かに広がっていく。
その夜、レギュラスは息苦しさの中で、
誰にも届かない憤りと悔しさだけを、ただ黙って抱きしめた。
冬の静かな午後、ホグワーツの寮の窓辺には淡い日差しが揺れていた。
アランの元に、小さなフクロウが手紙を運んできた。
封蝋にはブラック家の紋章――だが、手紙の筆致は、親しみのある、だがどこか乾いたレギュラスのものだった。
震える指で封を切り、広げた便箋には、
事務的な言葉で、しかしその裏に複雑な思いの滲む知らせが書かれていた。
兄シリウスは本日をもって、ブラック家から除籍されました。
相続権も家の名も、全て奪われました。
どうか、今後彼についてご心配なさらないように――。
淡々とした行数に、淡々では終わらぬ現実が押し込まれていた。
アランは紙の上で文字がにじんで見えた。
本当に、彼の居場所が失われてしまった。
想像の中では何度も思い描いていたはずなのに、
それが現実になると――胸の奥が絞られるように痛んだ。
あの夜、甘く柔らかな声で、
“いっしょに生きていこう”とささやかれたこと。
誰にも見せない弱音や眩しい笑顔、言葉にならない思い出。
その全てが、もう自分の未来と重なることはないのだと、
無言の事実を突きつけられた気がした。
私と、シリウスは……
決して、同じ場所に立つことは赦されない。
いずれ選択を――用意された道へ進むとき、
ふたりは、交わらないまま背を向けて歩きだすしかないのだろう。
原因も、仕組まれた運命も、今さら誰にも責めることはできなかった。
ただひとつ、
世界のどこにも、シリウス・ブラックの名で寄り添う場所がもう残されていないことに――
アランはただ深く目を閉じて、そっと息を詰めた。
窓の外には、光の消えかけた冬の空。
この痛みだけが、自分の本当の答えのような気がして、
アランはしばし動けずに、手紙を両手で強く握りしめていた。
冬休みが明け、ホグワーツの城に再び生徒たちの活気が戻る。
長い石造りの廊下には懐かしい空気が流れ、ローブの裾が擦れる音も新学期の始まりを告げている。
アランは、戻って間もなくレギュラスに声をかけられた。
彼の表情はどこか硬く、声音には微かな冷たさが混ざっていた。
「――あの人はもうブラック家の人間ではありません。今後は、付き合い方を考えてくださいね。」
その言葉は、思っていた以上に念を押すような響きがあった。
“あの人”――そう呼ばれた誰か。
今やブラック家から追い出され、この場所で「家族」として認められることすらない、
あの夏、心ごと引き裂かれたような人物。
レギュラスの言葉は淡々としていたが、
彼の目にわずかに宿る影が、アランの胸をざわつかせた。
何かを見透かされていないか、気づかれていないか――
そんな不安が、優雅な制服の奥に小さく震える。
シリウスと自分の間にあったもの――
それは誰にも告げていないし、知られていないはず。
けれど、レギュラスの“忠告”は、その秘密の輪郭をなぞるようで、
ひどく居心地の悪い緊張を残した。
「……分かってるわ」と、平静を装って返すしかなかった。
心の奥底がざわざわと波立つ。
これからの日々、
シリウスの面影をどう自分の中にしまい込んでいけばいいのか――
レギュラスの横顔を見つめながら、
アランはまだ答えの出せない迷いと、別れきれぬ痛みを胸に抱えていた。
春へ向かうホグワーツの冷たい空気と、
張りつめた微かな沈黙だけが、すべてを知っているかのように、静かに流れていた。
最終学年の春の空気は、どこか落ち着かないものだった。
シリウスがもう卒業を控えている――
それは誰にとっても大きな節目であり、
家出の騒ぎも、彼のこれからをいっそう複雑にしているはずだとアランは感じていた。
ふと気がつくと、日々の忙しさのなかで――
大広間の賑わい、笑い声と食器の音が交錯する席の間を縫い、
目が自然にシリウスを捜してしまう。
進路のこと、家のこと、それに――
いま彼がなにを思っているのか、どうしても訊きたい。
けれど、なかなか会えない日々が続いた。
彼の姿をここしばらく見ることはなく、
心だけがそわそわと、答えのない問いを抱えたまま時間だけが流れた。
そのとき――
鋭く、自分を見ている気配に気づいた。
「アラン?」
思わず肩をすくめて振り返ると、
そこにはレギュラスがいた。
控えめに、けれど確実に、何かを勘ぐるような目で。
「どうしたんですか?」
声は穏やかなのに、どこか底に冷たい波がひそんでいる。
ほんのわずか逡巡して、アランは微笑んだ。
「ううん。なんでもないの。」
すぐに何気ないふうを装って前を向いた。
でも――その瞳にはまだ、誰かを探す透明な熱がわずかに残っていた。
レギュラスはしばらく黙って、アランの顔をまっすぐ見ていた。
それでもそれ以上は何も言わず、
礼儀正しい距離を守って隣に座る。
ふたりの間に静かな空気が流れる。
大広間のざわめきのなか、
ひとりだけ遠くを見て、その手をそっと膝の上においている自分がいた。
この透明な焦燥と、抑えきれない想いを、
誰にも見せないままで終わらせられるだろうか。
春の朝の光が窓からさしこみ、ホグワーツの大広間はいつも通りの喧騒で満たされている。
でもアランの胸の奥には、
ひとつだけこぼれた光のかけらが、静かに揺れていた。
春の大広間には、朝の光がやわらかく差し込んでいた。
色とりどりの制服が波のように揺れるなかで、レギュラスは、静かにアランの横顔を見つめていた。
その視線はどこか遠くに向けられ、
探しているのが誰なのか、レギュラスにはもう痛いほど分かっていた。
胸の奥には、微かな苛立ちが熱となって渦巻く。
どうして、いまこの瞬間にさえ、
心のどこかでシリウスの影を追いかけているのだろう――
そんな思いが、静かな痛みになって指先を強張らせた。
やがて、意識を現実へと引き戻すために、
どうしても強めの行動になってしまう自分を、レギュラスはどこかで持て余していた。
「アラン、行きましょう。」
そう言いながら、
ふいに少しだけ強く、アランの手を取る。
思わず小さく目を見開いたアランが、
その温度に気づいて振り返る。
指先にはっきりと伝わるぬくもり。
けれどそのぬくもりの奥に、
取り除けない苛立ちと、焦燥が微かに滲み出る。
廊下へ向かう人波に導くように、
レギュラスはアランの手を離さず歩き出す。
ほんのわずか乱暴に――
それでもなお、彼の手は震えるほどに細やかで、頼りなく揺れていた。
いまだけは、
彼女の意識をこの現実に、傍らの自分に、きちんと縫いとめておきたかった。
けれどその願いが、
アランの指先をそっと締めつけ、
心に静かな影を落とすことを、レギュラス自身、薄々気づいていた。
すれ違う生徒たちのざわめきと、
淡い光と、胸に積もる孤独。
すべてを引き連れて、ふたり並んだシルエットが、
今はまだ静かな春の光に長く伸びていった。
夜の帳が静かに降りる談話室。
レギュラスはふと、自分の掌の内にあるアランの手の細さをじっと見つめた。
重ねた唇も、指先をすべらせた肌の温もりも、すべてがすでに二人だけの親密な記憶のはずだった――
けれど、その奥に踏み込めない距離が、ある。
形として与えられた婚約、隣を許された堂々とした特権。
それなのに、ふたりきりの静かな夜にも踏み越えられない一線が、確かに在る。
アランが怖れているのか、それとも自分の優しさが理由を与えているのか――
わかってはいるつもりだった。
けれど、その奥にもっと根深い理由――
もう既に“越えた”誰かの存在がぬぐえない。
ふと思考が暗い波に沈む。
髪を梳いた指先が、自分だけを知らないことへの焦燥感を強く燃やす。
きっと、シリウスとアランは、自分の手の届かないところですべてを知ってしまったのだ。
そう、いまは確信している。
それを証明するものは言葉でも仕草でもなく、
アランの微笑みや優しい沈黙の奥深くに、淡く沈んでいる。
負けたくない――
そんな子供じみた感情が胸をざわつかせる。
けれど、それは単なる独占欲ではなく、
アランという一人のひとに“対等でありたい”と願う、切実な祈りでもあった。
叶わぬ恋のような苦さが、静かに喉を締めつけていく。
彼女が見せる優しさの一滴一滴が、
自分の知らない夜明けの記憶を孕んだものに見えて、
ただ抱き寄せているだけでは足りない、と身体ごと訴えたくなる。
なのに、そっと息を整えて、
「……今日はもう、遅いですね」と、
穏やかな声に自分を閉じ込めてしまう。
胸の奥では、知らぬうちに染みついた劣等感と、
それでも手放せない誇りの狭間で、
揺れるように愛が重なっていく。
触れているだけでは、伝えきれない想いがある。
それでも今夜はただ、そっとその髪に唇を落とし、
心の深いところで、「どうか、まだ僕の手が届くうちに」と願っていた。
大広間のざわめきのなか、レギュラスは一瞬、足を止めた。
シリウスが目の前の席を選び、静かに食事をとる準備をしている。
これからアランがここへやってくる――
その光景を想像するだけで、胸の奥に黒い痛みが広がっていく。
何事もないふりをしたくても、
シリウスとアランが同じ空間で視線を交わす可能性を、レギュラスはどうしても受け入れられなかった。
ほんの一瞬の偶然さえ、今は許容できる自信がなかった。
意識しないふりをしたまま、
テーブルの上からサンドイッチをいくつか丁寧にナプキンに包む。
「今日は寮で静かに食べよう」と、
穏やかな声ですべてを整えた顔をして、
だが内心は焦りと苛立ちがぐらぐらと揺れていた。
アランが来る前に、この場を離れればいい。
そうすれば、アランとシリウスが同じ場所で目を合わせることはない。
それだけのために、不自然なほど急いで整えた包みを持ち上げる。
まるで何でもないことのように扉へ向かう、
その一歩一歩に滲むのは、
誰にも触れられたくない独占の痛みと、
願わくばこの想いが誰にも気づかれずにやり過ごせますように――
というひそやかな切なさだった。
大広間の陽光と喧騒のなか、
誰にも見えぬ場所で、レギュラスの孤独が静かに色を濃くしていった。
静かな寮の一角。
薄明かりのさす窓辺に、レギュラスはそっと小さな包みを差し出した。
「アラン、サンドイッチ持ってきました。」
それがまるで、ただの気まぐれのように――
何の策略もないふうを装いながら、彼は包みをそっとアランの前に置く。
「持ってきてくれたの?ありがとう。」
アランの声は柔らかく、無垢な信頼がこもっていた。
レギュラスを疑うことなど微塵もない、その調子に、
胸の奥がひとひらだけ苦しくなる。
「たまには広間じゃなくて、ここで食べるのもいいですね。」
彼の言葉は丁寧で、穏やかだった。
ふたりきりの空間と、誰にも邪魔されない短い時間。
その温度に、アランは優しく微笑う。
「ええ、静かでゆっくり食べられるわ。」
窓の外に舞う小雪が、落ちる音も聞こえぬほどに静寂な午後。
包みをひらく指先が、ほんのり暖かいパンの感触に嬉しそうに触れる。
ふたりの間には、静かな平和が流れていた。
何も知らないアランが、いつもの通りに微笑んでいる――
それだけで、今はこの場所だけが取り残されたような穏やかさを持ち始める。
レギュラスは、アランの横顔をそっと見つめた。
何気ない仕草のひとつひとつが、小さな幸福の種に思えて、
ただこの時間が静かに続くことを願うしかなかった。
静けさと微笑みの中、サンドイッチの紙包みが、
ふたりのあいだの淡い距離をそっと温めていた。
夜の廊下は深い静寂に包まれ、石造りの壁すら息をひそめているようだった。
アランはひそやかに、誰にも見咎められぬようローブの裾を揺らし、秘密の約束に導かれるように外へと歩を進める。
心臓が弾けるほど鳴っている。――これから、シリウスに会える。それだけで世界が色を変えていた。
外の空気は凛としていて、指先がかすかに震えるほど冷たい。
けれど、遠くに立つシリウスの背中を見つけた瞬間、すべての感覚は熱に染まった。
シリウス、と声にすることもできず駆け寄れば、彼は振り返り、ふたりの間のすべての距離が一気に消える。
言葉は――いくらでも用意してきたはずだった。
家を出たこと、行く宛てのない暮らしのこと、本当に平気なのか、未来はどこへ向かうのか――
けれど、いざ出会ってしまえば、そのどれもが一瞬にして遠ざかる。
頬にあふれる涙さえ自制できなくて、
ただ「好き」の想いが、抱えきれないほど胸を満たしていく。
たまらず、シリウスの胸元に顔を埋めてしまった。
温かな腕がそっと包むように引き寄せる。
痛いほどに恋しくて、ただ会えた、それだけで十分だったことに気づいてしまう。
星明りのもと、小さな影が一つに重なり、
泣きじゃくる声も、愛しさも、夜の静けさにすべて溶けていった。
尋ねたいことも、伝えたいことも、ただこのぬくもりがある限り今はもうどうでもよかった。
ただ、好きで好きで――どうしようもない。
アランは涙の向こうに微笑みを浮かべ、
この時を一生焼きつけるように、静かにそっと、シリウスの名を胸の奥で繰り返していた。
夜の静けさのなか、アランの問いにシリウスはまっすぐな瞳で応えた。
「俺は――ジェームズと一緒に闇払いを目指す。
マグルも魔法使いも、誰もが安心して暮らしていける、そんな世界にしたいんだ。」
その言葉は、光を秘めていた。
闇のない未来を願う彼のまっさらな決意は、少年の熱意と、どこまでも誠実な優しさに満ちていた。
アランは、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
シリウスならきっと、その理想に手が届く。
誰もが自由に呼吸できる希望の世界を、確かにこの手で切り拓いていくのだろう。
けれど、
ふたりの影を包む夜の蒼さはいつまでも深く、
その未来に自分はもう、隣に立ってはいけないのだという現実だけが、静かに心を支配していく。
レギュラスの隣に立つ――
それは家の、家系の、ひいては伝統の重さそのもの。
シリウスの描く“新しい世界”とは、決して交わらぬ道。
「……シリウスなら、きっと出来るわ。」
小さく、震えを含んだ声でアランは彼を見つめた。
応援の言葉の奥に、どうしても消せない祈りと、切ない願いが滲んでしまう。
そうしているうちにも、ふたりの間にある温もりは少しずつ「距離」に変わっていく。
決して責めることも、求めることもできない淡い隔たり――
それでも、いま触れ合う手と手のぬくもりだけは、最後まで離したくなかった。
夜空には遠く星が瞬いていた。
叶わぬ夢のように、美しく、冷たく。
アランは、愛しさと痛みを胸いっぱいに吸い込んで、
ただそっと、シリウスの背を抱いた。
静けさの中で、その未来が、
どうか彼だけのまぶしさで輝いてくれますようにと――
微笑むかわりに、そっと涙を瞳に溶かしながら。
「アラン、俺はアランと一緒に生きたい。」
──その言葉は、夜の静寂を裂くように、あまりにもまっすぐに響いた。
シリウスの瞳を真正面から受け止めた瞬間、
アランの胸は言葉にならない衝撃に貫かれていた。
涙は止める間もなく零れ落ち、喉元は苦しく、呼吸さえ乱れる。
ずっと、どこかで夢見ていた。
どんな物語よりも欲しかった言葉。
ただ抱きしめられるよりずっと激しく、
あらゆる時と記憶を浸すほどの真実。
「一緒に生きていきたい、離れたくない。」
それはアランの心の奥──
幼い日から密やかに、でも決して消えたことのなかったひとしずくの願いだった。
迷いも、戸惑いも、あの頃から何一つ変わらなかった。
──でも。
現実は、あまりにも遠く、あまりにも冷たかった。
手を伸ばせば、たった指先ひとつで、
すべてが崩れてしまう崖っぷちに立たされているような感覚。
両親、一族、レギュラス、ブラック家……
すべてを捨て去る覚悟が、本当に自分にできるのだろうか。
シリウスのために、ただひとつの明日だけを選ぶ強さが――
いまの自分に、ほんとうにあるのだろうか。
涙に滲む星空の下、
アランは小さく嗚咽しながら、それでもシリウスの手をぎゅっと握りたかった。
想いは溢れているのに、現実の厚い壁があまりにも重い。
「好き」だけでは超えられないものが、
こんなにも残酷にそこに立ち塞がっていた。
シリウスの体温が、手のひらから伝わる。
このぬくもりを離さずに生きていきたい――
それが、どれほど大きな犠牲と向き合わせなのかを、痛いほど理解してしまうから。
愛おしさと痛みが、ふたつながら胸を締めつけて、
ただ静かに、夜の暗闇に吸い込まれていく。
涙の底で、心はひたすら願い続ける。
──せめてこの瞬間だけは、
大切で美しいまま、二人だけのものとして
世界が止まってくれますようにと。
