1章
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薄暮が校内に降りはじめる時間帯、廊下には一日の終わりのざわめきが漂っていた。
談笑しながら帰路につく生徒たちの足音と、
時折こぼれる笑い声が、石造りの壁にふわりと反射していく。
二人並んで歩くレギュラスとアランの足元にも、柔らかな影が伸びていた。
スリザリンの紋章が織り込まれた彼のマントと、
淡くゆらめくドレスの裾が、ともに揺れては軽やかな音も立てずに踊るようだった。
そのとき、すぐ背後の曲がり角の向こうから、生徒たちの言葉が耳に届いた。
「今日もアラン・セシールは流石だったな。」
「レギュラスもだ。アレには敵わないよ。」
「いいよな、あんな女と踊れるなんてな……」
他意のない、むしろ讃えるような声。
けれどどこか、あまりに現実的で、
一歩距離を置いて見ているような言葉の並びだった。
レギュラスはふと目を細め、微笑を浮かべた。
その笑みには誇りも、少しの照れも、ごく自然に滲んでいて、
彼の整った横顔に静かな光が宿った。
「……誰もが、あなたと踊る僕を羨んでるようですね。」
静かに、それでいて確かな自負を持った声だった。
決して見せびらかすためではない。
ただ、彼女と踊ったことが――その光景が、
こうして他の誰かの記憶にさえ残っていることが、
レギュラスにとってはひとつの喜びだった。
アランはその言葉に、やわらかく笑んで小さくうなずいた。
そして彼を見上げ、まっすぐに言葉を返した。
「あなたと踊る私も、羨望の眼差しを浴びてるわ。」
それは真実だった。
けれど、それだけではなかった。
その言葉の奥には、アランが今日という時間に、
自分自身をどのように立たせていたのかが、静かに込められていた。
誰かの期待に応えるように、
誰かの誇りになるように。
そうしていくつもの視線のなかで、
精一杯整えた微笑みのその奥に、ひとしずくだけにじませた本心を、
アランはその言葉のなかに、そっと預けていた。
ふたりの影が、ゆるやかに重なっていく。
夕暮れの光が廊下を満たすなか、
ほんの些細なやり取りが、こんなにもかけがえのないものとして
胸に確かに残っていた。
そしてその静かな誇らしさの裏で――
いつかこの均衡が崩れてしまったときの痛みに、
誰もまだ、気づかないふりをしていた。
アランと初めてすべてを重ねたあの夜から、
何かが、確かに変わってしまったのを感じていた。
触れるだけでは足りない。
唇を重ね、腕の中に抱くたび、ただ“好き”という言葉だけでは追いつかない。
それよりももっと奥へ、もっと深く、アランという存在に触れたくなった。
魂の近くに寄り添うような、身体を越えた繋がり。
ふたりのあいだに流れているあの静けさは、
求め合うことによってしか満たせないものだった。
最初の一度きりだと思っていた。
けれどそれは、予想以上に甘く、深く、
出会うたびに惹かれ合い、
目が合うだけで、触れたくて仕方がなくなる瞬間があった。
まるで、互いの存在に溺れていくように。
アランが静かに名前を呼ぶときの声。
指先が背中に触れるときの、その温度。
どれもが短く、けれど永遠のようで、
ひとつひとつが祈りのように美しかった。
ただ、世界のなにもかもが音を失い、
ふたりだけに時間が流れる。
そんな夜が幾度も重ねられるうちに、
それは幸福であると同時に、どこかで怖ささえ含んでいた。
――これ以上、どう愛せば十分なのだろうか?
息を吸う音、肌がふれあう確かさ、
そして終わったあとの静寂。
そのすべてが、離れがたい絆になってアランを内側から縛っていた。
ある夜、ふとジェームズの声を思い出した。
いつだったか、肩を叩きながら軽く笑って言われた言葉――
「……なあ、避妊はちゃんとしろよ、シリウス。そういうの、大事だからな?」
そのときは冗談交じりに笑って返したが、
今となっては、その生々しさが胸に冷たい輪郭を残した。
どこか夢の中にいるような甘さの果てに、
現実の重みも確かにあるということ。
それさえも、何もかも包み込んで愛してしまっているのが、
いまの自分なのだと、息をするように自覚していた。
そう、もう引き返せない。
そのたびに天にも昇るような幸福を感じた。
本当に、世界のすべてを手に入れたかのような――
けれど同時に、もしも失えば、それ以上に深く砕け散るだろうという厳しい予感も、
いつも静かに背中に立っていた。
アランを抱くたび、世界が満ちていく。
けれどそれは、満ちるほどに、こぼれやすくなるものでもあった。
だからこそ、今、この瞬間を大切にしようと願ってやまなかった。
たとえそれが永遠ではなくても。
たとえ言葉にできる形にならなくても。
ふたりの体温が触れ合うところに、確かに
いま、愛が息づいているのだということだけは、
どうしても信じたかった。
夜のとばりが静かに落ちたころ、秘密の部屋には淡い魔法灯の光だけがともっていた。
その柔らかい明かりの下で、アランはシリウスに寄り添うように座っていた。
頬を染め、けれど真っ直ぐな瞳で彼の目を見つめている。
「シリウス……他の人に、こんなことしないで」
その言葉は、囁きのように小さくて、
けれど確かな熱を孕んでいた。
シリウスは、そのあまりにも可愛らしく、無防備な願いに思わず笑みをこぼす。
口元がにやけるのを抑えきれなかった。まるで、とんでもなく繊細で、
とんでもなく真剣で、そして、愛おしい言葉だった。
「……嫉妬するのか?」
目を細め、半ばからかうように問いかける。
けれど声の奥にはくすぐったい嬉しさが滲んでいた。
アランは、ほんの少し唇を噛んでから、ゆっくりと息を吐いた。
真剣なまなざしで、彼を見つめたまま答える。
「……するわ。
あなたの瞳に、他の人が映るだけで、心が苦しいもの」
その声はまるで、
子どものように素直で、まっすぐで、
けれどその響きには、確かに艶めいた温度も混じっていた。
触れれば壊れそうな繊細さと、
抱きしめれば溶けてしまいそうな熱。
ふたりが重ねてきた夜の静けさが染みついた言葉だった。
シリウスはその瞳をまっすぐに受けとめたまま、
笑いそうになる唇を、今度は引き締めて静かに言葉を返した。
「お前を超える女なんか、いないさ」
少し笑っていたかもしれない。
自分で言っておいて、わざとらしすぎるとさえ思う。
けれどほんとうだった。
どれほどのからかいも、ふざけた言い回しも、
結局、アランに向ける想いの前では、すべて照れ隠しにしかならない。
彼女の前では強がれない。
嘘も、軽口も、ただの布でしかなかった。
アランは、そんな言葉を静かに聞いて、
少しはにかむように笑った。
その笑顔ひとつに、心の奥まで触れられるように思えて、
シリウスはたまらなくなって、そっと腕をまわした。
ふたりの間に言葉はもうなかったけれど、
瞳と指先と、胸の高鳴りが、
すべてを確かに伝え合ってくれていた。
夜はまだ深く、
ふたりにだけ許された沈黙が、そっと降りていった。
談話室の扉をくぐった瞬間、シリウスはふと立ち止まった。
木の床に足音を立てないよう、慎重な歩幅。
けれど、案の定――そこには予想通りの顔ぶれが待っていた。
暖炉の炎がゆらめく夜のグリフィンドール寮。
赤と金の絨毯の上、ソファに酒でも酌み交わしていたような親友たちが、
ややあきれたような顔で、けれど笑いを隠しもせずに視線を向けてくる。
「――あら、プレイボーイのお帰りかな?」
ジェームズが最初に口を開いた。
その声は、なかば呆れ、なかば誇らしげ。
友人の恋路を祝うような、しかししっかりからかう気持ちは隠そうともしない。
続いたのは、ソファに肘をついてのんびりしていたリーマス。
眼鏡を指先で上げながら、さらりと呟く。
「……妙にスッキリしてて男前だけど、何か良いことでも?」
ピートがそれにくすくすと笑って、言葉を添えた。
「顔が柔らかすぎて逆に怖いんだけど、シリウス。」
完全に予想していた展開だった。
こうなることは分かっていた。
誰よりも鋭く、誰よりもくだらないことでいじってくる、
この信頼と悪意が絶妙に混ざった仲間たちを、
それでも彼は憎めなかった。
シリウスはひと呼吸置いて、額を指でかき上げた。
そして――堪えきれずに、笑みがこぼれてしまう。
にやにやしてはいけないと思いながら、
それでも口元が緩んで、肩が小さく揺れる。
「放っといてくれよ、まったく……」
情けないような、けれどどこか満ち足りた声音で返すと、
リーマスは「おやおや」とため息をつき、
ジェームズは「ま、その顔見ればわかるけどな」と言ってウィンクをする。
誰にも言わない。
何も明かさない。
でも――“表情”は誤魔化しようがないのだ、と彼らは知っている。
暖炉には薪がくべられ、ぱちぱちと木が焼ける音が部屋を満たしていた。
そのぬくもりのなかで、笑い声が少しだけ響き、
四人の友情は、そうして何気なく夜に溶け込んでいった。
そして、その笑みの裏に秘めたものに、
触れてこそからかわず、でも決して見過ごさないこの関係こそが――
シリウスにとって、
恋とはまた別の、かけがえのないものだった。
夜の帳が落ち、ホグワーツの静けさが一層深まる時間。
灯火のゆれる寮の談話室で、アランとレギュラスは並んで座っていた。
本を読むわけでもなく、話し込むわけでもなく、
ただ、言葉の間に漂う静かなひとときを分かち合っていた。
その途中、ふとした瞬間――
レギュラスの指先が、そっとアランの手に重なる。
あまりに自然で、優しい仕草。
けれどそこに、不思議な確かさが宿っていた。
それはこれまでの、ただの手の温もりとは違っていた。
触れる長さ、指の絡め方、その静けさのなかに潜む意志。
少しずつ、彼は“次の段階”へと心を傾けつつある。
アランは、それをはっきりと感じ取った。
彼は何も急かさない。
ただ距離を詰めるように、まなざしを深くしてゆく。
不意に唇を寄せるとき、かすかにためらいながらも確かめるようなその動き。
アランの肌に触れた指先が、ふと長くとどまるようになったのも、最近のこと。
――まるで、心の奥をそっと開いてくれることを、じっと待っているようだった。
けれど。
アランの心には、どうしても乗り越えられない“影”があった。
婚約者である以上、拒む理由なんて、どこにもない。
それどころか、彼は丁寧で、誠実で、優しさを欠かさない人だった。
それでも、
シリウスへの――あの夜の記憶と感情が、
どうしようもなくアランを縛っていた。
手のひら。
抱き寄せたときに香った微かな残り香。
うわべの熱ではない、魂の奥で触れ合ってしまったあの夜。
レギュラスと、同じことはできない。
心が、その準備を拒んでしまう。
無意識の拒絶、それはあまりに正直で、残酷だった。
だから、アランは何も気づいていないふりをした。
レギュラスの穏やかなまなざしに微笑みを返しながら、
彼の指が求める温もりから、さりげなく手を動かす。
あたかも次の話題に気を取られたかのように。
少し寒いですね、と、わざとらしく本を抱き寄せた手で自分の肩を抱く。
――交わし続けることに、罪があるのか。
その問いが、静かに胸の奥に浮かんでは消えていく。
でもそれしかできなかった。
傷つけたくない、でも踏み込めない――その狭間で、アランは静かに揺れていた。
レギュラスは、それでも何も言わなかった。
おそらく気づいていないのか、本当に気づかぬふりをしてくれているのか。
その判断さえ、今のアランにはつけられなかった。
炎の揺れる音だけが響く静かな談話室で、
ふたりの間にある優しい沈黙もまた、あまりにも繊細で美しかった。
まるで、触れれば砕けてしまう硝子のような関係。
アランはその透明な静けさの中に、そっと身をゆだねるしかなかった。
冬休みがはじまり、ホグワーツから一歩離れた世界へ戻った。
セシール家の屋敷は相変わらず凛とした空気に包まれていて、
廊下に差す冬の光さえ、どこか格調高く見える気がした。
アランは暖炉の前に座りながら、膝上に置いた手をそっと組んでいた。
帰省して数日、家の空気はどこか浮き立っていた。
理由はただひとつ。
ブラック家との婚儀に向けて、準備がいよいよ本格化したこと。
「アラン、ドレスはどんなものがいいかしら?」
リボンを整えながら鏡を覗き込んでいた母が、ふとこちらを振り返って微笑む。
「ブラック家に嫁ぐのですもの、最高級のドレスにしなければ」
父も、新聞をたたみながら何気なくそう言った。
その声には、誇らしさと責任が滲んでいた。
控えめな言葉だったけれど、
それが重く、深く、アランの胸に沈んでいった。
サロンの奥では裁縫師が呼ばれ、小さな布見本が並べられ始めている。
シルク、レース、魔法を秘めた糸。
象牙色の刺繍に細工された銀糸は、夜空のようにきらめく宝石と合わせる予定だという。
それは一目見ればため息が出るほど美しく、
確かにブラック家の名にふさわしい装いだった。
けれど――胸が、苦しい。
あまりにも整いすぎている。
あまりにも“正しい未来”が、型にそって鋳造されていく。
言いたいことなんて、ないはずだった。
失礼なことではない。間違ったことでもない。
父も母も、自分のためにと心を砕いてくれているのは、
子どものころから誰より知っている事実だった。
けれどその“愛情”が、自分をそっと包んでいたものから、
少しずつ、知らぬ間に背中を押すように変わっていくのを、
アランは肌で感じていた。
まるで自分が「花嫁」として完成するまでの時間を刻む秒針のように、
冬の午後は静かに進んでいく。
「モーブの色も似合うと思うのよ」
「レギュラス様のお好みはたしか、深い緑だったかしら」
母の声は優しく、美しかった。
けれどその言葉のなかに、自分自身の意思や願いが入りこむ余白がどれほどあるのか、
アランにはもうわからなかった。
指先で蓋の開いた宝石箱を撫でる。
高価な石が並ぶその箱のなかに、あの夜、シリウスの瞳に宿っていた炎のような熱はなかった。
あの手に触れられた時の微かな震えや、名前を呼ばれる声の響きも、
この家の空気の中ではただ遠く、まるで物語の中の記憶のようだった。
「わたしは、誰のために“美しく”なろうとしているの?」
心の奥で静かにそんな問いが立ち上がる。
けれどそれを口にすることは、どうしてもできなかった。
アランはただ、微笑みを浮かべたまま、
差し出された絹の布にそっと指をあてた。
その指先は、誰にも届かぬ不安で、かすかに震えていた。
ブラック家の屋敷は、冬の冷気を跳ね返すように重苦しい静けさに包まれていた。
厚いカーテンは外の光を遮り、爛々と灯るランプの光すらどこか鈍く見える。
館内を歩く足音がやけにはっきりと響く。
その響きがあまりにも重々しく、シリウスは無意識に肩を竦めていた。
冬休みの帰省。
屋敷に戻って数日、胸の奥で燻るような苛立ちがらせんを描いている。
――レギュラスとアランの婚儀。
どこにいても、それにまつわる浮ついた話が聞こえてくる。
正餐の席でも、執事と母の会話の隙間にも。
アランの名が居間で出るたび、拳を握るのを我慢する。
その日も、遅めの食事を取りに廊下に出たところだった。
重い扉を引くと、ふと目の前に、
小柄な屋敷僕・クリーチャーが息を切らしながら大きな束を抱えて歩いているのが見えた。
そのすぐ後ろには、母――ヴァルブルガの姿。
「その生地は大広間まで運ばせて。何度も言わなければ分からないの、愚鈍な僕ね」
その声に、思わず舌打ちが漏れる。
「……チッ」
長く垂れた布地が足元まで引きずられていて、
不注意に踏みそうになったシリウスは思わずクリーチャーの腕をすり抜けて、ほとんど蹴るように敷布をよけた。
「……あっぶねーだろうが、クソが……!」
低く唸るような言葉に、背後からぴしゃりと冷えた声が飛んでくる。
「なんという言葉遣いなの、シリウス。まったく、あなたって子はいつまでたっても下品で下劣な口をきいて……」
ヴァルブルガが言葉をぴしゃりと投げつける。
その目は冷たく、鋭い。
似た表情をしている自分の弟を、黒い瞳の奥に浮かべているのが見て取れる。
「タキシード生地くらいで顔をしかめるなんて、やっぱりあなたには“家”の重みなんて理解できるわけがないのよね」
「家? 重み? 染み付きすぎて、皮膚ごと腐ってるようなもんだろ」
シリウスは吐き捨てるように言った。
「俺にとっちゃ、そのタキシードも、エンブレムも、みんな同じさ。
全部、首輪にしか見えねぇ。」
そこにあるだけで息が詰まる――
豪奢で、重苦しくて、名ばかりの誇りにすがる世界。
それが、今まさにレギュラスとアランを覆いつつある。
自分の愛したあの人が、あの静かな目をした少女が、
こんな毒の沁みた世界の“名の下に”嫁がされようとしている。
怒涛のように言葉が喉に迫るのを、
シリウスは奥歯で噛み潰して、目だけを細めた。
「……せいぜい、着飾って、きれいな式を演出するんだな。
泥の上で、宝石を転がすようにな」
そう言い残して、彼は踵を返した。
布が引きずる音。母の低い舌打ち。
クリーチャーのか細い「申し訳ありません、坊ちゃま……」という声。
どれも耳に残ったが、心には届いてこなかった。
これ以上、ここに長居すれば、
なにか取り返しのつかないものが、音を立てて壊れてしまう気がした。
そしてその「崩壊」がどこに向かっているのかを、
シリウスだけが、誰よりも知っていた。
屋敷のなかに満ちる静けさは、冬の冷たい空気に似ていた。
重厚な扉、厚い絨毯の上を滑るような足音、整えられすぎた調度品。
すべてが、息苦しいほど完璧だった。
帰省してからのシリウスは、なるべくレギュラスと顔を合わせないように過ごしていた。
顔を見れば、言葉より先に感情が喉元まで噴き出す。
もし、この身を抑える軋みが一枚でも欠ければ、とても黙っていられない。
――あんな顔、あんな笑い方。
堂々とこの屋敷にいること、静かに振る舞うこと、
それ自体がもう、火に油だった。
だが屋敷では、そう何日も気配を逸らし続けていられるものではない。
最悪の形で、それは訪れた。
シリウスが浴室に向かって廊下を曲がったそのとき、
ちょうど向こうからバスローブ姿のレギュラスが浴室の扉に手をかけようとしていた。
一瞬、時間が止まったようだった。
立ち止まるふたり。静まりかえる廊下。
最悪のタイミングだった。
廊下に差す光さえ、妙に冷たく見えた。
「……てめえは俺の後に入りやがれ。」
シリウスは、振り切るように吐き捨てた。
声は低く、引っかかるように濁っていた。
喧嘩を売っているつもりはない。
だがそれ以上に、冷静でいる努力すら惜しいと思うほどに、
その存在そのものが、神経を逆なでしてくる。
レギュラスは目を細め、ほんの一拍、沈黙のあと、
小さく、深くため息をついた。
「……」
それだけだった。
何も言い返さず、傷つけるでもなく、
ただ、無言のまま静かに引くようなその仕草。
だが――その“ため息にさえ”、
シリウスの怒りの芯に火がついた。
何が気だるげに溜め息ひとつだ。何様のつもりだ。
言い返さないことが、逆に見下しているように思えた。
なにも言わず譲る姿勢が、妙に肯定されているような、偽善のような空気を纏っていた。
「……ため息なんかつくな。気に触る。」
自分でも呆れるほどに咄嗟だった。
出てきた言葉に、すでに力がこもっていた。
レギュラスは、それでも怒鳴らず、
目を合わせたまま、ほんの少しだけ目を伏せただけだった。
「……入りなよ。先に使えばいい。」
静かな言葉は、争いを避ける術か。
それともただの諦めか。
どちらにせよ、その無防備に映るやさしさが――いまのシリウスには痛いほど煩わしかった。
レギュラスが立ち去るまでの数秒が、やけに長かった。
残された空気はなぜか重たく、
その背にぶつけられなかった怒りが、シリウスの喉に残ったまま燃えていた。
水音さえしない廊下に、ただ息だけが静かに揺れていた。
その夜の浴室には、血よりも濃い澱のような沈黙が吸い込まれていた。
ブラック家の屋敷は、夜が深くなるほどにその重々しさを増すようだった。
石の壁には暖炉の火の影だけが伸び、
廊下には誰の足音もない。
だからこそ、こうして夜更けに食堂へと降りていくシリウスの足取りは、
自分のものとは思えないほど慎重だった。
食事はあえて時間をずらしていた。
家族の誰とも顔を合わせたくなかった。
レギュラスとも、当然――可能な限り離れていたかった。
けれど、そういう時に限って、世界は容赦なく悪戯をしてくる。
食卓の扉を開けた瞬間、
静かな食堂の奥で、銀の水差しを手にするレギュラスの姿が目に入った。
一人、グラスの縁に唇をあてて、むしろ気配を殺すようにしていた彼の存在が、
シリウスの目に余計に不快に映った。
思わず、音を立てて舌打ちがこぼれる。
「……チッ」
その小さくも鋭い音に、レギュラスが気づかぬはずはない。
コップを置く音がわずかに鈍く響いたあと、
彼はほんのわずかに眉を顰めて、こちらに視線を向けた。
「何です?」
その口調は冷静だったが、
その中にかすかに含まれた苛立ちが、シリウスをさらに逆撫でした。
「何です、じゃねぇーよ」
抑えたようでいて、声にはもうすでに棘が交じっていた。
顔を顰めたいのは、むしろこっちだった。
せっかく時間をずらし、
誰にも邪魔されずに食事を取ろうと降りてきたというのに。
レギュラスは溜息をつくように、小さく首を傾げた。
その仕草に、まるで自分が過敏に怒っているような視線が宿っていて――それがまた癇に障る。
「……自分の屋敷で、自分の好きな時間に水を飲むこともいけませんか?」
淡々と、けれど明らかに反発を含んだその返答に、
シリウスは思わず鼻で笑った。
「うるせーよ。
わざわざ俺の動線に現れんなって言ってんだよ」
言いながらすでに無意味だと分かっていた。
何を言ったところで、この沈黙と不和をどうにかできるわけじゃない。
でも、止められなかった。
喉元に積もった苛立ちが、こうしてしか出せないほど、
シリウスの感情は、今や複雑に絡みついていた。
レギュラスは、返事をしなかった。
ただ、水の入ったグラスを手に、その場にもう少しいるべきか否かを静かに考えるような沈黙を漂わせていた。
その沈黙さえ、気に障る。
シリウスは目をそらし、テーブルの端に乱暴に腰を下ろした。
カトラリーが揺れる音がやたらと大きく響く。
この屋敷の空気は、かつて慣れ親しんだものだったはずなのに、
今ではすべてが歪み、軋む音ばかりを立てていた。
そしてレギュラスの立ち姿ひとつさえ、
何も言わずとも、自分を苛立たせるに足るのだ。
静けさも、冷静さも、賢しらな沈黙も、
すべてが、いまのシリウスには「偽り」に見えた。
ヴァルブルガに衣装を二つ並べられ、「どちらの生地がよろしいかしら?」と聞かれるレギュラスは、ほんのわずかに迷いながらも静かに応じた。
「こちらの方が、アランと並ぶには似合う気がします。」
その返答に、ヴァルブルガは満足げに微笑み、大きく頷いて部屋を出ていった。
しんと広がる静寂の中――
ちょうどそのやりとりがドアの外から聞こえていたシリウスは、歯痒さと苛立ちが頂点に達していた。
息の詰まるような婚儀の準備。
そして何より、兄弟が「当然のように」アランの人生の一部に踏み込んでいるという事実。
黙っていられなかった。
「お前がアランの何を知ってんだよ」
シリウスの声は、低い怒りで震えた。
レギュラスはわずかに振り返ったが、怒りに巻き込まれる様子もなく、静かに、落ち着いた声で答える。
「あなたの知らないアランを、僕は知ってますから。」
その返しに、シリウスは一瞬言葉を失った。
思いもよらぬカウンター。
幼いころから自分の後ろをついて歩いていた弟が、自分の知らない世界を持ち始めていること。
そして何より、「自分の知らないアラン」が存在しうることに、どうしようもない苛立ちが渦巻いた。
思わず、感情が口から噴き出す。
「……女を抱いたこともねぇくせに、知ったような口きいてんじゃねーぞ、クソガキが」
自分でも、言った瞬間にしまったと胸の奥で叫んでいた。
けれど、その勢いを止めることはできなかった。
廊下に、重苦しい沈黙が降りる。
レギュラスはその場に固まることもなく、静かなまなざしでシリウスを見返した。
何か言葉を返すでもなければ、目をそらすこともしない。
ただ、幼い頃から叱責や兄のきつい言葉を聞き慣れた少年らしく、
冷静に、けれど奥底で微かに震えるような光を瞳に宿していた。
その表情が、かえってシリウスの逆上の火に油を注ぐ。
「……何か言えよ」
その声も、投げるようで重い。
けれどレギュラスは何も返さなかった。
ふたりの間に、どうしようもなく決定的な距離が横たわっていた。
選び続けてきた価値観の違い、進もうとする未来、譲れない恋情。
今や、お互いに譲れない“アラン”という存在だけが、
ふたりの重なりをすり抜け、切ない静寂を漂わせている。
兄弟としての絆さえも、
この瞬間だけはどうしようもなく遠かった。
談笑しながら帰路につく生徒たちの足音と、
時折こぼれる笑い声が、石造りの壁にふわりと反射していく。
二人並んで歩くレギュラスとアランの足元にも、柔らかな影が伸びていた。
スリザリンの紋章が織り込まれた彼のマントと、
淡くゆらめくドレスの裾が、ともに揺れては軽やかな音も立てずに踊るようだった。
そのとき、すぐ背後の曲がり角の向こうから、生徒たちの言葉が耳に届いた。
「今日もアラン・セシールは流石だったな。」
「レギュラスもだ。アレには敵わないよ。」
「いいよな、あんな女と踊れるなんてな……」
他意のない、むしろ讃えるような声。
けれどどこか、あまりに現実的で、
一歩距離を置いて見ているような言葉の並びだった。
レギュラスはふと目を細め、微笑を浮かべた。
その笑みには誇りも、少しの照れも、ごく自然に滲んでいて、
彼の整った横顔に静かな光が宿った。
「……誰もが、あなたと踊る僕を羨んでるようですね。」
静かに、それでいて確かな自負を持った声だった。
決して見せびらかすためではない。
ただ、彼女と踊ったことが――その光景が、
こうして他の誰かの記憶にさえ残っていることが、
レギュラスにとってはひとつの喜びだった。
アランはその言葉に、やわらかく笑んで小さくうなずいた。
そして彼を見上げ、まっすぐに言葉を返した。
「あなたと踊る私も、羨望の眼差しを浴びてるわ。」
それは真実だった。
けれど、それだけではなかった。
その言葉の奥には、アランが今日という時間に、
自分自身をどのように立たせていたのかが、静かに込められていた。
誰かの期待に応えるように、
誰かの誇りになるように。
そうしていくつもの視線のなかで、
精一杯整えた微笑みのその奥に、ひとしずくだけにじませた本心を、
アランはその言葉のなかに、そっと預けていた。
ふたりの影が、ゆるやかに重なっていく。
夕暮れの光が廊下を満たすなか、
ほんの些細なやり取りが、こんなにもかけがえのないものとして
胸に確かに残っていた。
そしてその静かな誇らしさの裏で――
いつかこの均衡が崩れてしまったときの痛みに、
誰もまだ、気づかないふりをしていた。
アランと初めてすべてを重ねたあの夜から、
何かが、確かに変わってしまったのを感じていた。
触れるだけでは足りない。
唇を重ね、腕の中に抱くたび、ただ“好き”という言葉だけでは追いつかない。
それよりももっと奥へ、もっと深く、アランという存在に触れたくなった。
魂の近くに寄り添うような、身体を越えた繋がり。
ふたりのあいだに流れているあの静けさは、
求め合うことによってしか満たせないものだった。
最初の一度きりだと思っていた。
けれどそれは、予想以上に甘く、深く、
出会うたびに惹かれ合い、
目が合うだけで、触れたくて仕方がなくなる瞬間があった。
まるで、互いの存在に溺れていくように。
アランが静かに名前を呼ぶときの声。
指先が背中に触れるときの、その温度。
どれもが短く、けれど永遠のようで、
ひとつひとつが祈りのように美しかった。
ただ、世界のなにもかもが音を失い、
ふたりだけに時間が流れる。
そんな夜が幾度も重ねられるうちに、
それは幸福であると同時に、どこかで怖ささえ含んでいた。
――これ以上、どう愛せば十分なのだろうか?
息を吸う音、肌がふれあう確かさ、
そして終わったあとの静寂。
そのすべてが、離れがたい絆になってアランを内側から縛っていた。
ある夜、ふとジェームズの声を思い出した。
いつだったか、肩を叩きながら軽く笑って言われた言葉――
「……なあ、避妊はちゃんとしろよ、シリウス。そういうの、大事だからな?」
そのときは冗談交じりに笑って返したが、
今となっては、その生々しさが胸に冷たい輪郭を残した。
どこか夢の中にいるような甘さの果てに、
現実の重みも確かにあるということ。
それさえも、何もかも包み込んで愛してしまっているのが、
いまの自分なのだと、息をするように自覚していた。
そう、もう引き返せない。
そのたびに天にも昇るような幸福を感じた。
本当に、世界のすべてを手に入れたかのような――
けれど同時に、もしも失えば、それ以上に深く砕け散るだろうという厳しい予感も、
いつも静かに背中に立っていた。
アランを抱くたび、世界が満ちていく。
けれどそれは、満ちるほどに、こぼれやすくなるものでもあった。
だからこそ、今、この瞬間を大切にしようと願ってやまなかった。
たとえそれが永遠ではなくても。
たとえ言葉にできる形にならなくても。
ふたりの体温が触れ合うところに、確かに
いま、愛が息づいているのだということだけは、
どうしても信じたかった。
夜のとばりが静かに落ちたころ、秘密の部屋には淡い魔法灯の光だけがともっていた。
その柔らかい明かりの下で、アランはシリウスに寄り添うように座っていた。
頬を染め、けれど真っ直ぐな瞳で彼の目を見つめている。
「シリウス……他の人に、こんなことしないで」
その言葉は、囁きのように小さくて、
けれど確かな熱を孕んでいた。
シリウスは、そのあまりにも可愛らしく、無防備な願いに思わず笑みをこぼす。
口元がにやけるのを抑えきれなかった。まるで、とんでもなく繊細で、
とんでもなく真剣で、そして、愛おしい言葉だった。
「……嫉妬するのか?」
目を細め、半ばからかうように問いかける。
けれど声の奥にはくすぐったい嬉しさが滲んでいた。
アランは、ほんの少し唇を噛んでから、ゆっくりと息を吐いた。
真剣なまなざしで、彼を見つめたまま答える。
「……するわ。
あなたの瞳に、他の人が映るだけで、心が苦しいもの」
その声はまるで、
子どものように素直で、まっすぐで、
けれどその響きには、確かに艶めいた温度も混じっていた。
触れれば壊れそうな繊細さと、
抱きしめれば溶けてしまいそうな熱。
ふたりが重ねてきた夜の静けさが染みついた言葉だった。
シリウスはその瞳をまっすぐに受けとめたまま、
笑いそうになる唇を、今度は引き締めて静かに言葉を返した。
「お前を超える女なんか、いないさ」
少し笑っていたかもしれない。
自分で言っておいて、わざとらしすぎるとさえ思う。
けれどほんとうだった。
どれほどのからかいも、ふざけた言い回しも、
結局、アランに向ける想いの前では、すべて照れ隠しにしかならない。
彼女の前では強がれない。
嘘も、軽口も、ただの布でしかなかった。
アランは、そんな言葉を静かに聞いて、
少しはにかむように笑った。
その笑顔ひとつに、心の奥まで触れられるように思えて、
シリウスはたまらなくなって、そっと腕をまわした。
ふたりの間に言葉はもうなかったけれど、
瞳と指先と、胸の高鳴りが、
すべてを確かに伝え合ってくれていた。
夜はまだ深く、
ふたりにだけ許された沈黙が、そっと降りていった。
談話室の扉をくぐった瞬間、シリウスはふと立ち止まった。
木の床に足音を立てないよう、慎重な歩幅。
けれど、案の定――そこには予想通りの顔ぶれが待っていた。
暖炉の炎がゆらめく夜のグリフィンドール寮。
赤と金の絨毯の上、ソファに酒でも酌み交わしていたような親友たちが、
ややあきれたような顔で、けれど笑いを隠しもせずに視線を向けてくる。
「――あら、プレイボーイのお帰りかな?」
ジェームズが最初に口を開いた。
その声は、なかば呆れ、なかば誇らしげ。
友人の恋路を祝うような、しかししっかりからかう気持ちは隠そうともしない。
続いたのは、ソファに肘をついてのんびりしていたリーマス。
眼鏡を指先で上げながら、さらりと呟く。
「……妙にスッキリしてて男前だけど、何か良いことでも?」
ピートがそれにくすくすと笑って、言葉を添えた。
「顔が柔らかすぎて逆に怖いんだけど、シリウス。」
完全に予想していた展開だった。
こうなることは分かっていた。
誰よりも鋭く、誰よりもくだらないことでいじってくる、
この信頼と悪意が絶妙に混ざった仲間たちを、
それでも彼は憎めなかった。
シリウスはひと呼吸置いて、額を指でかき上げた。
そして――堪えきれずに、笑みがこぼれてしまう。
にやにやしてはいけないと思いながら、
それでも口元が緩んで、肩が小さく揺れる。
「放っといてくれよ、まったく……」
情けないような、けれどどこか満ち足りた声音で返すと、
リーマスは「おやおや」とため息をつき、
ジェームズは「ま、その顔見ればわかるけどな」と言ってウィンクをする。
誰にも言わない。
何も明かさない。
でも――“表情”は誤魔化しようがないのだ、と彼らは知っている。
暖炉には薪がくべられ、ぱちぱちと木が焼ける音が部屋を満たしていた。
そのぬくもりのなかで、笑い声が少しだけ響き、
四人の友情は、そうして何気なく夜に溶け込んでいった。
そして、その笑みの裏に秘めたものに、
触れてこそからかわず、でも決して見過ごさないこの関係こそが――
シリウスにとって、
恋とはまた別の、かけがえのないものだった。
夜の帳が落ち、ホグワーツの静けさが一層深まる時間。
灯火のゆれる寮の談話室で、アランとレギュラスは並んで座っていた。
本を読むわけでもなく、話し込むわけでもなく、
ただ、言葉の間に漂う静かなひとときを分かち合っていた。
その途中、ふとした瞬間――
レギュラスの指先が、そっとアランの手に重なる。
あまりに自然で、優しい仕草。
けれどそこに、不思議な確かさが宿っていた。
それはこれまでの、ただの手の温もりとは違っていた。
触れる長さ、指の絡め方、その静けさのなかに潜む意志。
少しずつ、彼は“次の段階”へと心を傾けつつある。
アランは、それをはっきりと感じ取った。
彼は何も急かさない。
ただ距離を詰めるように、まなざしを深くしてゆく。
不意に唇を寄せるとき、かすかにためらいながらも確かめるようなその動き。
アランの肌に触れた指先が、ふと長くとどまるようになったのも、最近のこと。
――まるで、心の奥をそっと開いてくれることを、じっと待っているようだった。
けれど。
アランの心には、どうしても乗り越えられない“影”があった。
婚約者である以上、拒む理由なんて、どこにもない。
それどころか、彼は丁寧で、誠実で、優しさを欠かさない人だった。
それでも、
シリウスへの――あの夜の記憶と感情が、
どうしようもなくアランを縛っていた。
手のひら。
抱き寄せたときに香った微かな残り香。
うわべの熱ではない、魂の奥で触れ合ってしまったあの夜。
レギュラスと、同じことはできない。
心が、その準備を拒んでしまう。
無意識の拒絶、それはあまりに正直で、残酷だった。
だから、アランは何も気づいていないふりをした。
レギュラスの穏やかなまなざしに微笑みを返しながら、
彼の指が求める温もりから、さりげなく手を動かす。
あたかも次の話題に気を取られたかのように。
少し寒いですね、と、わざとらしく本を抱き寄せた手で自分の肩を抱く。
――交わし続けることに、罪があるのか。
その問いが、静かに胸の奥に浮かんでは消えていく。
でもそれしかできなかった。
傷つけたくない、でも踏み込めない――その狭間で、アランは静かに揺れていた。
レギュラスは、それでも何も言わなかった。
おそらく気づいていないのか、本当に気づかぬふりをしてくれているのか。
その判断さえ、今のアランにはつけられなかった。
炎の揺れる音だけが響く静かな談話室で、
ふたりの間にある優しい沈黙もまた、あまりにも繊細で美しかった。
まるで、触れれば砕けてしまう硝子のような関係。
アランはその透明な静けさの中に、そっと身をゆだねるしかなかった。
冬休みがはじまり、ホグワーツから一歩離れた世界へ戻った。
セシール家の屋敷は相変わらず凛とした空気に包まれていて、
廊下に差す冬の光さえ、どこか格調高く見える気がした。
アランは暖炉の前に座りながら、膝上に置いた手をそっと組んでいた。
帰省して数日、家の空気はどこか浮き立っていた。
理由はただひとつ。
ブラック家との婚儀に向けて、準備がいよいよ本格化したこと。
「アラン、ドレスはどんなものがいいかしら?」
リボンを整えながら鏡を覗き込んでいた母が、ふとこちらを振り返って微笑む。
「ブラック家に嫁ぐのですもの、最高級のドレスにしなければ」
父も、新聞をたたみながら何気なくそう言った。
その声には、誇らしさと責任が滲んでいた。
控えめな言葉だったけれど、
それが重く、深く、アランの胸に沈んでいった。
サロンの奥では裁縫師が呼ばれ、小さな布見本が並べられ始めている。
シルク、レース、魔法を秘めた糸。
象牙色の刺繍に細工された銀糸は、夜空のようにきらめく宝石と合わせる予定だという。
それは一目見ればため息が出るほど美しく、
確かにブラック家の名にふさわしい装いだった。
けれど――胸が、苦しい。
あまりにも整いすぎている。
あまりにも“正しい未来”が、型にそって鋳造されていく。
言いたいことなんて、ないはずだった。
失礼なことではない。間違ったことでもない。
父も母も、自分のためにと心を砕いてくれているのは、
子どものころから誰より知っている事実だった。
けれどその“愛情”が、自分をそっと包んでいたものから、
少しずつ、知らぬ間に背中を押すように変わっていくのを、
アランは肌で感じていた。
まるで自分が「花嫁」として完成するまでの時間を刻む秒針のように、
冬の午後は静かに進んでいく。
「モーブの色も似合うと思うのよ」
「レギュラス様のお好みはたしか、深い緑だったかしら」
母の声は優しく、美しかった。
けれどその言葉のなかに、自分自身の意思や願いが入りこむ余白がどれほどあるのか、
アランにはもうわからなかった。
指先で蓋の開いた宝石箱を撫でる。
高価な石が並ぶその箱のなかに、あの夜、シリウスの瞳に宿っていた炎のような熱はなかった。
あの手に触れられた時の微かな震えや、名前を呼ばれる声の響きも、
この家の空気の中ではただ遠く、まるで物語の中の記憶のようだった。
「わたしは、誰のために“美しく”なろうとしているの?」
心の奥で静かにそんな問いが立ち上がる。
けれどそれを口にすることは、どうしてもできなかった。
アランはただ、微笑みを浮かべたまま、
差し出された絹の布にそっと指をあてた。
その指先は、誰にも届かぬ不安で、かすかに震えていた。
ブラック家の屋敷は、冬の冷気を跳ね返すように重苦しい静けさに包まれていた。
厚いカーテンは外の光を遮り、爛々と灯るランプの光すらどこか鈍く見える。
館内を歩く足音がやけにはっきりと響く。
その響きがあまりにも重々しく、シリウスは無意識に肩を竦めていた。
冬休みの帰省。
屋敷に戻って数日、胸の奥で燻るような苛立ちがらせんを描いている。
――レギュラスとアランの婚儀。
どこにいても、それにまつわる浮ついた話が聞こえてくる。
正餐の席でも、執事と母の会話の隙間にも。
アランの名が居間で出るたび、拳を握るのを我慢する。
その日も、遅めの食事を取りに廊下に出たところだった。
重い扉を引くと、ふと目の前に、
小柄な屋敷僕・クリーチャーが息を切らしながら大きな束を抱えて歩いているのが見えた。
そのすぐ後ろには、母――ヴァルブルガの姿。
「その生地は大広間まで運ばせて。何度も言わなければ分からないの、愚鈍な僕ね」
その声に、思わず舌打ちが漏れる。
「……チッ」
長く垂れた布地が足元まで引きずられていて、
不注意に踏みそうになったシリウスは思わずクリーチャーの腕をすり抜けて、ほとんど蹴るように敷布をよけた。
「……あっぶねーだろうが、クソが……!」
低く唸るような言葉に、背後からぴしゃりと冷えた声が飛んでくる。
「なんという言葉遣いなの、シリウス。まったく、あなたって子はいつまでたっても下品で下劣な口をきいて……」
ヴァルブルガが言葉をぴしゃりと投げつける。
その目は冷たく、鋭い。
似た表情をしている自分の弟を、黒い瞳の奥に浮かべているのが見て取れる。
「タキシード生地くらいで顔をしかめるなんて、やっぱりあなたには“家”の重みなんて理解できるわけがないのよね」
「家? 重み? 染み付きすぎて、皮膚ごと腐ってるようなもんだろ」
シリウスは吐き捨てるように言った。
「俺にとっちゃ、そのタキシードも、エンブレムも、みんな同じさ。
全部、首輪にしか見えねぇ。」
そこにあるだけで息が詰まる――
豪奢で、重苦しくて、名ばかりの誇りにすがる世界。
それが、今まさにレギュラスとアランを覆いつつある。
自分の愛したあの人が、あの静かな目をした少女が、
こんな毒の沁みた世界の“名の下に”嫁がされようとしている。
怒涛のように言葉が喉に迫るのを、
シリウスは奥歯で噛み潰して、目だけを細めた。
「……せいぜい、着飾って、きれいな式を演出するんだな。
泥の上で、宝石を転がすようにな」
そう言い残して、彼は踵を返した。
布が引きずる音。母の低い舌打ち。
クリーチャーのか細い「申し訳ありません、坊ちゃま……」という声。
どれも耳に残ったが、心には届いてこなかった。
これ以上、ここに長居すれば、
なにか取り返しのつかないものが、音を立てて壊れてしまう気がした。
そしてその「崩壊」がどこに向かっているのかを、
シリウスだけが、誰よりも知っていた。
屋敷のなかに満ちる静けさは、冬の冷たい空気に似ていた。
重厚な扉、厚い絨毯の上を滑るような足音、整えられすぎた調度品。
すべてが、息苦しいほど完璧だった。
帰省してからのシリウスは、なるべくレギュラスと顔を合わせないように過ごしていた。
顔を見れば、言葉より先に感情が喉元まで噴き出す。
もし、この身を抑える軋みが一枚でも欠ければ、とても黙っていられない。
――あんな顔、あんな笑い方。
堂々とこの屋敷にいること、静かに振る舞うこと、
それ自体がもう、火に油だった。
だが屋敷では、そう何日も気配を逸らし続けていられるものではない。
最悪の形で、それは訪れた。
シリウスが浴室に向かって廊下を曲がったそのとき、
ちょうど向こうからバスローブ姿のレギュラスが浴室の扉に手をかけようとしていた。
一瞬、時間が止まったようだった。
立ち止まるふたり。静まりかえる廊下。
最悪のタイミングだった。
廊下に差す光さえ、妙に冷たく見えた。
「……てめえは俺の後に入りやがれ。」
シリウスは、振り切るように吐き捨てた。
声は低く、引っかかるように濁っていた。
喧嘩を売っているつもりはない。
だがそれ以上に、冷静でいる努力すら惜しいと思うほどに、
その存在そのものが、神経を逆なでしてくる。
レギュラスは目を細め、ほんの一拍、沈黙のあと、
小さく、深くため息をついた。
「……」
それだけだった。
何も言い返さず、傷つけるでもなく、
ただ、無言のまま静かに引くようなその仕草。
だが――その“ため息にさえ”、
シリウスの怒りの芯に火がついた。
何が気だるげに溜め息ひとつだ。何様のつもりだ。
言い返さないことが、逆に見下しているように思えた。
なにも言わず譲る姿勢が、妙に肯定されているような、偽善のような空気を纏っていた。
「……ため息なんかつくな。気に触る。」
自分でも呆れるほどに咄嗟だった。
出てきた言葉に、すでに力がこもっていた。
レギュラスは、それでも怒鳴らず、
目を合わせたまま、ほんの少しだけ目を伏せただけだった。
「……入りなよ。先に使えばいい。」
静かな言葉は、争いを避ける術か。
それともただの諦めか。
どちらにせよ、その無防備に映るやさしさが――いまのシリウスには痛いほど煩わしかった。
レギュラスが立ち去るまでの数秒が、やけに長かった。
残された空気はなぜか重たく、
その背にぶつけられなかった怒りが、シリウスの喉に残ったまま燃えていた。
水音さえしない廊下に、ただ息だけが静かに揺れていた。
その夜の浴室には、血よりも濃い澱のような沈黙が吸い込まれていた。
ブラック家の屋敷は、夜が深くなるほどにその重々しさを増すようだった。
石の壁には暖炉の火の影だけが伸び、
廊下には誰の足音もない。
だからこそ、こうして夜更けに食堂へと降りていくシリウスの足取りは、
自分のものとは思えないほど慎重だった。
食事はあえて時間をずらしていた。
家族の誰とも顔を合わせたくなかった。
レギュラスとも、当然――可能な限り離れていたかった。
けれど、そういう時に限って、世界は容赦なく悪戯をしてくる。
食卓の扉を開けた瞬間、
静かな食堂の奥で、銀の水差しを手にするレギュラスの姿が目に入った。
一人、グラスの縁に唇をあてて、むしろ気配を殺すようにしていた彼の存在が、
シリウスの目に余計に不快に映った。
思わず、音を立てて舌打ちがこぼれる。
「……チッ」
その小さくも鋭い音に、レギュラスが気づかぬはずはない。
コップを置く音がわずかに鈍く響いたあと、
彼はほんのわずかに眉を顰めて、こちらに視線を向けた。
「何です?」
その口調は冷静だったが、
その中にかすかに含まれた苛立ちが、シリウスをさらに逆撫でした。
「何です、じゃねぇーよ」
抑えたようでいて、声にはもうすでに棘が交じっていた。
顔を顰めたいのは、むしろこっちだった。
せっかく時間をずらし、
誰にも邪魔されずに食事を取ろうと降りてきたというのに。
レギュラスは溜息をつくように、小さく首を傾げた。
その仕草に、まるで自分が過敏に怒っているような視線が宿っていて――それがまた癇に障る。
「……自分の屋敷で、自分の好きな時間に水を飲むこともいけませんか?」
淡々と、けれど明らかに反発を含んだその返答に、
シリウスは思わず鼻で笑った。
「うるせーよ。
わざわざ俺の動線に現れんなって言ってんだよ」
言いながらすでに無意味だと分かっていた。
何を言ったところで、この沈黙と不和をどうにかできるわけじゃない。
でも、止められなかった。
喉元に積もった苛立ちが、こうしてしか出せないほど、
シリウスの感情は、今や複雑に絡みついていた。
レギュラスは、返事をしなかった。
ただ、水の入ったグラスを手に、その場にもう少しいるべきか否かを静かに考えるような沈黙を漂わせていた。
その沈黙さえ、気に障る。
シリウスは目をそらし、テーブルの端に乱暴に腰を下ろした。
カトラリーが揺れる音がやたらと大きく響く。
この屋敷の空気は、かつて慣れ親しんだものだったはずなのに、
今ではすべてが歪み、軋む音ばかりを立てていた。
そしてレギュラスの立ち姿ひとつさえ、
何も言わずとも、自分を苛立たせるに足るのだ。
静けさも、冷静さも、賢しらな沈黙も、
すべてが、いまのシリウスには「偽り」に見えた。
ヴァルブルガに衣装を二つ並べられ、「どちらの生地がよろしいかしら?」と聞かれるレギュラスは、ほんのわずかに迷いながらも静かに応じた。
「こちらの方が、アランと並ぶには似合う気がします。」
その返答に、ヴァルブルガは満足げに微笑み、大きく頷いて部屋を出ていった。
しんと広がる静寂の中――
ちょうどそのやりとりがドアの外から聞こえていたシリウスは、歯痒さと苛立ちが頂点に達していた。
息の詰まるような婚儀の準備。
そして何より、兄弟が「当然のように」アランの人生の一部に踏み込んでいるという事実。
黙っていられなかった。
「お前がアランの何を知ってんだよ」
シリウスの声は、低い怒りで震えた。
レギュラスはわずかに振り返ったが、怒りに巻き込まれる様子もなく、静かに、落ち着いた声で答える。
「あなたの知らないアランを、僕は知ってますから。」
その返しに、シリウスは一瞬言葉を失った。
思いもよらぬカウンター。
幼いころから自分の後ろをついて歩いていた弟が、自分の知らない世界を持ち始めていること。
そして何より、「自分の知らないアラン」が存在しうることに、どうしようもない苛立ちが渦巻いた。
思わず、感情が口から噴き出す。
「……女を抱いたこともねぇくせに、知ったような口きいてんじゃねーぞ、クソガキが」
自分でも、言った瞬間にしまったと胸の奥で叫んでいた。
けれど、その勢いを止めることはできなかった。
廊下に、重苦しい沈黙が降りる。
レギュラスはその場に固まることもなく、静かなまなざしでシリウスを見返した。
何か言葉を返すでもなければ、目をそらすこともしない。
ただ、幼い頃から叱責や兄のきつい言葉を聞き慣れた少年らしく、
冷静に、けれど奥底で微かに震えるような光を瞳に宿していた。
その表情が、かえってシリウスの逆上の火に油を注ぐ。
「……何か言えよ」
その声も、投げるようで重い。
けれどレギュラスは何も返さなかった。
ふたりの間に、どうしようもなく決定的な距離が横たわっていた。
選び続けてきた価値観の違い、進もうとする未来、譲れない恋情。
今や、お互いに譲れない“アラン”という存在だけが、
ふたりの重なりをすり抜け、切ない静寂を漂わせている。
兄弟としての絆さえも、
この瞬間だけはどうしようもなく遠かった。
