1章
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空には夕闇が滲み始めていた。
茜色から群青へと静かに移り変わる空の色に、
アランの心に広がる不安と迷いが、そのまま重なっていくようだった。
レギュラスに会わなければならない――
その事実は朝から頭の奥にあったはずなのに、
ようやく足を前に進める決意ができたのは、日が傾ききった頃だった。
廊下に出ると、壁の灯りがぽつぽつと灯りはじめていて、
そのやわらかな明かりの中をアランは静かに歩いていた。
レギュラスはどこにいるだろう。
探しながら、脳裏には彼の整った横顔と、こちらを案じる瞳が浮かぶ。
きっといつものように、何も言わずに、自分の体調を気遣って、
そっと寄り添うような言葉を探してくれているのだろう。
それが――苦しかった。
自分の今日一日の沈黙が、
彼をどれほど心配させていたかを思うと、喉の奥が締めつけられる。
ただの優しさにも似た行動であっても、
それを踏みにじってしまった自覚が、胸をじわじわと痛めていく。
どうすれば、この気持ちに正直になれるのだろう?
会えば何かが崩れてしまいそうだった。
けれど、会わなければ傷はもっと深まる。
それがわかっているから、逃げることはしなかった。
ただ――
「どんな顔をして、彼を見れば良いのだろうか。」
昨日までの自分でいることもできず、
今の自分は、レギュラスの前で何を話せばいいかすらわからない。
ごめんなさい――きっと最初に口をついて出るのは、その言葉だと思った。
でも、それでは足りないと感じていた。
言葉ひとつで済ませて良いほどに、彼は軽い存在ではない。
考えるほどに、アランの足取りは重くゆっくりになった。
まるで時間の進みも、世界の動きも、自分の気持ちと同じように、
前に進みたがらないかのようだった。
塔階段をひとつ上るたび、
校内のざわめきが遠のいていく。
静けさの中にある罪悪感、確かに重さを持つ愛、
そして、胸の奥にひそむ別の名を呼びかける声――
どれひとつとして無視できなかった。
だからこそ、アランは静かにレギュラスを探す。
遅すぎるかもしれない一歩でも、
その誠実さだけは失いたくないと、強く思っていた。
そして願っていた――
どうか彼の瞳が、責めるより前に、
自分の名前を呼んでくれますようにと。
夕暮れが深まり、校舎の石畳を染める光が少しずつ金から青へと移ろうなか、
レギュラスは、廊下の先に現れた小さな影に、思わず息を呑んだ。
アランだった。
まだ遠くにいたはずのその姿が、ふいに足早になり、次の瞬間には駆け出していた。
長いスカートの裾がふわりとなびき、髪が顔にかかっても気にする様子もなく――
ただまっすぐ、こちらに向かって、息を切らしながら走ってくる。
レギュラスの胸に、張りつめていた何かが、
その一瞬でふっとほどけていくのがわかった。
ああ、無事だ。
ようやく心の底からそう思えた。
手のひらがわずかに湿っていたことに、その時初めて気づいた。
どれだけ心配していたのか、自分が思っている以上だったらしい。
「レギュラス――ごめんなさい……!」
駆け寄ってきたアランは、ほんの少し息を詰まらせて、うつむくように言った。
その声は震え、けれど確かな意志と後悔の色をともなっていた。
その瞬間、レギュラスの顔がわずかに和らぐ。
「謝らなくていい」
「そんな言葉より、今こうして目の前にいることが何よりの答えだ」
口には出さずとも、胸の奥ではそうはっきり感じていた。
その小さな肩が上下するほど走ってきた彼女を前に、
レギュラスの中には、今さらになっていくつもの心配が噴き上がってきた。
「ご飯は食べられてる? ……まだ、どこか具合が悪いんですか?」
声に出してしまえば、きっと煩わしく思われてしまうかもしれない。
でも、どうしても聞かずにはいられなかった。
昨日、姿を見なかった時間のすべてが、
彼にとっては、終わりのない空白だった。
黙って一日を過ごした彼女が、その静かな時間のなかで、
なにを考え、なにを感じていたのか――
想像すればするほど、胸が締めつけられた。
けれど今こうして、目の前にアランがいる。
それだけで、胸を満たす言葉にならない感情が波のように広がっていく。
アランが顔を上げる。
その頬にはまだ少しだけ火照りが残っていて、
息を整えるその唇が、なにか言葉を探していた。
たったこれだけの再会に、どうしてこんなにも救われるのだろう。
レギュラスはただ、静かに頷いた。
優しいまなざしで彼女を包み込むように見つめながら。
「会えてよかったです」――その想いだけが、確かだった。
言葉は少しずつあとからついてくる。
けれど、ふたりの間にはすでに、それ以上の対話が確かに存在していた。
そしてその夕暮れの静けさが、
互いの心に、許しと安堵の余白をそっと灯してくれていた。
その日、アランが姿を現した瞬間――
レギュラスは、胸の奥に言い表せないざわめきを覚えた。
彼女はいつものように静かで、
落ち着いた所作も、微笑の角度も、たしかに“アラン・セシール”そのものだった。
けれど。その“同じ”のはずのすべての中に、
何かが音もなく変わっているのを、彼はすぐに察した。
それは香りのようでもあり、
色の温度のようでもあり、
あるいは、時間を少しだけ早く進ませるような違和感だった。
端正に結ばれた髪、いつも通りの制服の襟元、
穏やかに目を伏せて会釈するすがた――
どれも以前と変わらぬはずだったが、
そのひとつひとつの奥に、“昨日まではなかった何か”が、
確かに芽吹いていた。
美しさの中に、別の何かが混じっている。
それは気品でも品格でもない。
もっと、生々しい何か――
人に触れ、時を知り、自分自身の輪郭を深くなぞったような、
そういう“変化”だった。
けれどレギュラスは、その正体に蓋をするように視線を逸らした。
心が、少しだけさざなみ立っていた。
小さな風に揺れる水面のように、ざわりと胸に波が広がる。
そしてレギュラスはそれを――無視した。
あるいは、無視した“かった”。
そこに目を向ければ、自分の中にある不確かな何かが
壊れかけた均衡のように震えてしまう気がして。
だから、それが気のせいであれと願った。
あのときの笑顔も、視線の柔らかさも、
長らく積み重ねた信頼と優しさの延長でありますようにと、心の奥で祈った。
けれど、どこかで知っていた。
気づいてしまったものから目を逸らすことは、
いずれもっと大きな痛みに変わって戻ってくるかもしれないことを。
それでも、そのときのアランはあまりにも綺麗だった。
どうか、微笑が今だけのものではありませんように。
その願いを抱えたまま、
レギュラスは彼女と話し、笑い、並んで歩いた。
そして心の片隅にそっと情けなく沈めた“違和感”は、
そのまま小さな翳りとなって、
彼の心に静かに降り積もっていった。
朝の大広間には、いつも通りの温かな光が差し込んでいた。
窓越しの光がテーブルの上の銀器をやわらかに照らし、生徒たちのさざめきが空気を満たしていた。
レギュラスは、そのざわめきのなかで、少し離れた席に座るアランの背中を見つめていた。
翡翠色の髪が肩にすべり落ちる。
姿勢は変わらず、背筋はすっと伸び、所作は優雅だった。
けれどその日、彼女の背中は、どこか見知らぬ色をしていた。
何が変わったのか、言葉では説明できない。
けれど、それは確かだった。
それは空気の密度のようなもの。香りの変化のようなもの。
彼女がまとう空気が、どこか柔らかく、けれど深く、輪郭を変えていた。
気のせいだと思った。
けれど、アランがふと振り向いた瞬間、
その瞳の奥に宿る微かな光――それまで隠していた何かが滲んでいるように見えて、
レギュラスは小さく息を止めた。
笑みは、変わらない。丁寧で、曖昧で、やさしい。
でもその奥に、初めて見る穏やかさと、ほんのわずかな――羞らいが混じっていた。
もう、彼女は向こう側にいる。
そう思った瞬間、胸がひどく締めつけられた。
それは恋人同士にだけ生まれる、ある種の親密さ。
身体に触れることを知った人間だけが持ちうる沈静した気配。
アランの動き一つひとつが、静けさをはらんでいた。
誰の目にも映らぬ彼女の「変化」。
けれど、レギュラスにはわかってしまった。
そうであってほしくないと願う反面、
疑うことすら愚かなほど、確信に近いものだった。
彼女の指先が何気なくマグカップの縁をなぞる仕草。
話すとき、すこしだけ唇の力を抜いた笑い方。
すべてが、誰かを深く信頼し、
その魂の奥に一夜を預けて帰ってきた人の佇まいだった。
かつて、自分に微笑んだあの瞳の色と、今の瞳の深さは違っていた。
たしかに彼女は、あの夜――シリウスと。
断定するわけではない。
けれど、それ以外に説明のつかない気配が、
今の彼女に漂っていた。
何よりも苦しいのは、
彼女がその事実を隠そうとしていないことだった。
逆に申し開きもしないことだった。
自分に対して、何も取り繕おうとしない――
その沈黙が、誠実であると同時に、
取り返しのつかない距離を感じさせた。
レギュラスは静かに目を伏せた。
何かを理解するということは、
ときに残酷な沈黙を受け入れることと同義だと、
初めて知った気がした。
誰にも気づかれないように、
彼の背中にもまた、静かな沈黙が影のように差した。
そして世界は、何も知らないふりをして、
いつも通りの朝を刻み続けていた。
シリウスを受け入れた夜が明けても、世界は淡々とその歩みを続けていた。
ホグワーツの石の廊下はいつも通り冷たく、
天井を渡る魔法仕掛けの空は、季節に拠らぬ均一な明るさを保っていた。
誰も、なにも変わらない――まるで何事もなかったかのように。
変わったのは、アランの内側だった。
身体の深い場所に、記憶のような、熱のようなものを宿したまま、
それでも制服を着て、髪を結い、背筋を伸ばして、
変わらぬ日常のなかに立ち戻った。
けれど、「戻る」というには、すでに遅すぎた。
教室の後ろで何気なく交わされる言葉、
すれ違いざまの視線、それらのなかに、
以前のように無垢な目線を持つことは、もうできなかった。
そして、レギュラスの存在。
彼がくれる穏やかな言葉や、
そっと差し伸べられる手、
そして廊下の隅や石の柱の影で交わされる、ささやかなキス。
それらもアランにとっては、もはや驚きでも、不意打ちでもなかった。
だってもう、自分はすべてを知ってしまったのだから。
受け入れたのだから。
シリウスの、あの夜の体温。
触れるたびに全身を焦がすような、圧倒的な想い。
その深くて、あたたかくて、どこか切ない交わりの記憶が、
アランのからだに、意識に、消えないほどに染みこんでいた。
だから、レギュラスの唇がそっと触れたとき、
まるで長く付き合った誰かを迎えるように、
アランの内側は静かだった。
動揺も、驚きもなかった。
それは冷たさではない。
悲しみでも、罪悪感の色ではなかった。
ただひとつ、あの夜から自分の中にできたもう一つの「確かな場所」が、
どこか、静かに呼吸しているだけだった。
レギュラスが何かを察しないように。
それだけが、アランの気を張る理由だった。
声の調子、まなざしの向け方、
いつものように応える笑顔。
心を隠す術は、誰にも教えられたわけではなかったけれど、
愛する人を、壊さないために自然と身に着いていた。
――ごめんなさい。
それでも、あなたを傷つけたくない。
そう胸の奥で繰り返しながら、
今日もアランは、穏やかな婚約者としてレギュラスの隣に立っていた。
世界は変わらずまわり続けている。
その静かな歯車のひとつになったまま、
アランだけが、音を出さない想いのなかで、
ひとつ深く、静かに息を吸った。
石造りの窓辺から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
魔法薬学の教室は、淡い緊張感と静寂に包まれている。
煮詰まりかけた季節の空気が、それぞれの机の上に開いた教科書のページを微かに揺らしていた。
アランは、レギュラスと並んで座っていた。
それはもう、すっかり身体になじんだ日常の形だった。
二人用の机の狭い隙間で、互いの手がふと触れあっても、もう驚くことはなかった。
ページをめくろうとした彼の指に、自分の指先が重なる——
そんな一瞬すら、今では何の波紋も起こさない。
静かな親密さ。
それが、二人のあいだに流れていた。
「アラン、今回の試験……いかがでした?」
レギュラスは教科書から目を離さず、低く穏やかな声で尋ねた。
アランはそっと微笑む。
「あなたには敵わないわよ。」
その答えに、レギュラスも口元を少し緩めて、僅かに息を吐くように笑った。
二人の間を流れる空気は穏やかで、澄んでいた。
まるで何もかもが順調で、自然で、ごく普通の――日常の一幕のように。
こんなにも何気ない時間を、
何事もないふりで過ごせるようになった。
アランはそのことに、少しだけ驚いていた。
以前なら、彼の少しの動きや視線にどきまぎしていた。
心を揺らすたびに、自分の中の”正しさ”に問いかけるように、背筋がすっと伸びた。
でも今は違う。
あの夜。
あの、世界が一度だけ変わった夜を知っているからこそ、
今の自分は、こうして”変わらない日常”を普通に生きていられる。
ごく自然なふるまいで、
レギュラスと当たり前のように話し、隣にいて、
まるでなにも変わらなかったかのように笑えている。
そんな自分に、アランはふと、遠くから差し込む光のような静かな自覚を持った。
自分は、少しだけ、大人になったのだと。
心の片隅に澱のように沈む感情。
罪悪感も、躊躇いも、やさしさすら含んだ透明な静けさ。
それらを全て抱えたまま、それでも今日を生きている。
変わりゆくものと、変えないもの。
その境界線を、何気ないやり取りの中に折りたたんで、
アランはしずかにその日のページを捲った。
教室の窓の外では、風が静かに秋を連れてきていた。
誰にも知られない小さな決意だけを、
アランは胸の内にそっと隠しながら、今日を丁寧に生きていた。
クィディッチの試合は見事な幕引きだった。
空を切る風の中、緑と銀の旗が高々と振られ、
歓声がスタンドを満たしていく。
スリザリンの勝利。
その中心で、制止することのない声援を浴びているのは、ほかならぬレギュラス・ブラックだった。
試合が終われば、夜には伝統のダンスパーティ。
勝利の栄光を称え、祝杯をあげるひととき。
そう、レギュラスの活躍に華を添える大切な舞台。
そしてアラン・セシールが、当然のごとく隣に立つべき場所。
一緒に踊ろうと誘われた言葉はなかった。
だが、そんな言葉すら必要ないように思われた。
アランも、レギュラスも、その意味を言葉にはせずともわかっていた。
それは約束でも、期待でもなく――「在るべき場所」として、そこにあるべきものだった。
パーティの前、アランは鏡の前で静かに身支度を整えた。
飾りすぎず、けれど上品に。
身にまとう深いエメラルドはスリザリンの色に静かに寄せた。
レギュラスが選ぶのはきっと、こうした色と、こうした形なのだろうと、自然に選んでいた。
レギュラスの隣に立つ自分が、恥じぬように。
彼の記憶に、今日のこの場面が優雅に刻まれるようにと、
アランは姿形に細やかな配慮を込めていた。
会場に姿を現したアランに、周囲の視線がふっと落ちる。
翡翠のドレスの裾が軽やかに揺れ、
静かに歩を進めていくその姿は、まるで用意された品格の具現のようだった。
レギュラスが踊りのリズムに乗って滑らかに動く横で、
アランは、微笑みを忘れずに、完璧なステップを刻んだ。
目の前の彼の瞳だけを見る、それだけを心におきながら。
けれど――
会場の隅、ふと視線が泳いでしまった瞬間、
グリフィンドールの赤いローブが、目の端に風を鳴らした気がした。
シリウス――
彼は一体、今夜、誰と踊るのだろうか。
心のどこかに、抑え切れずに残る一滴の染み。
感情の名前をつければ、きっとすぐに滲んでしまうほどに、繊細な思いだった。
彼の隣にいるのは誰だろう。
笑っているだろうか。
触れた指先に、胸を高鳴らせているだろうか――
そう思ってしまう自分が、確かにそこにいた。
そのことに、アランは密かに目を伏せた。
今夜の主役であるレギュラスの手のひらの温かさを感じながら、
アランはただ、完璧な舞台の女役を演じ続けた。
静かな音楽が流れるなかで、
胸の足元だけがそっと揺れていた。
靴音は響かず、邪魔もしないはずだったのに、
どうしてか、心の奥では誰かに名を呼ばれるような感覚が消えなかった。
レギュラスの瞳は、満ち足りたもので満たされていた。
それに応えきれる自分でいたいと、アランは笑った。
けれど瞳の奥に、誰にも見えない翳りが、
彼女の美しさとは別のかたちをして、
そっと灯を落としていた。
夜も更け、ダンスパーティの喧騒が少しずつやわらいでいく。
魔法の灯りがやさしくゆらぎ、ホールの空気は静かな余韻に包まれていた。
祝杯の笑い声も遠ざかり、音楽も緩やかな旋律に変わるころ。
人の波がゆっくりとほどけていくその隙間で、ふたりはそっと並んでいた。
アランは一歩、彼に近づいた。
長い一日を労うように、
けれどその声には誠実な敬意が込められていた。
「レギュラス、今日は本当に……素晴らしかったわ」
その言葉は、心からだった。
試合での正確な動きも、彼の腕に支えられて踊った瞬間の優雅さも、
すべてが、彼という人間に備わった静かな才能を余すところなく照らしていた。
レギュラスは一瞬驚いたように目を揺らせ、
けれどすぐに、息を整えるように小さく笑った。
「……あなたにそう言って欲しくて、頑張りました」
声は穏やかだったが、
そのひとことの奥にある誠実な熱――
誰の称賛よりも、アランの一言が何よりも嬉しかったのだという気持ちが、
じんわりと空気に滲んでいく。
アランはその言葉に、胸の奥を静かに衝かれたような感覚を覚えた。
レギュラスの目はまっすぐで、疑いも濁りもなかった。ただ純粋で、
その純粋さこそが、かえって痛かった。
今夜の美しさのすべては、
彼が彼女のために見せてくれたものだった。
勝利の陰でかき集められた努力も、
誘いの言葉さえ省いた沈黙のやさしさも、
すべてが、彼なりの想いのかたちだったのだ。
そのことに、きちんと気づいてしまっているからこそ。
アランは微笑みながら、胸の奥でやわらかく苦しんでいた。
「……ありがとう。そんなふうに思ってくれてたこと、とても嬉しい」
そう言いながら、自分の声が少しだけ震えていないか、ひそかに気を配る。
今はただ、彼の目に映る限りの自分を、
しっかりと美しく保ちたかった。
レギュラスはそれ以上何も問わず、
ただ静かに彼女の手にふれた。
その指先のあたたかさ――
それだけが、この夜の正しさを、そっと確かめるように包んでいた。
茜色から群青へと静かに移り変わる空の色に、
アランの心に広がる不安と迷いが、そのまま重なっていくようだった。
レギュラスに会わなければならない――
その事実は朝から頭の奥にあったはずなのに、
ようやく足を前に進める決意ができたのは、日が傾ききった頃だった。
廊下に出ると、壁の灯りがぽつぽつと灯りはじめていて、
そのやわらかな明かりの中をアランは静かに歩いていた。
レギュラスはどこにいるだろう。
探しながら、脳裏には彼の整った横顔と、こちらを案じる瞳が浮かぶ。
きっといつものように、何も言わずに、自分の体調を気遣って、
そっと寄り添うような言葉を探してくれているのだろう。
それが――苦しかった。
自分の今日一日の沈黙が、
彼をどれほど心配させていたかを思うと、喉の奥が締めつけられる。
ただの優しさにも似た行動であっても、
それを踏みにじってしまった自覚が、胸をじわじわと痛めていく。
どうすれば、この気持ちに正直になれるのだろう?
会えば何かが崩れてしまいそうだった。
けれど、会わなければ傷はもっと深まる。
それがわかっているから、逃げることはしなかった。
ただ――
「どんな顔をして、彼を見れば良いのだろうか。」
昨日までの自分でいることもできず、
今の自分は、レギュラスの前で何を話せばいいかすらわからない。
ごめんなさい――きっと最初に口をついて出るのは、その言葉だと思った。
でも、それでは足りないと感じていた。
言葉ひとつで済ませて良いほどに、彼は軽い存在ではない。
考えるほどに、アランの足取りは重くゆっくりになった。
まるで時間の進みも、世界の動きも、自分の気持ちと同じように、
前に進みたがらないかのようだった。
塔階段をひとつ上るたび、
校内のざわめきが遠のいていく。
静けさの中にある罪悪感、確かに重さを持つ愛、
そして、胸の奥にひそむ別の名を呼びかける声――
どれひとつとして無視できなかった。
だからこそ、アランは静かにレギュラスを探す。
遅すぎるかもしれない一歩でも、
その誠実さだけは失いたくないと、強く思っていた。
そして願っていた――
どうか彼の瞳が、責めるより前に、
自分の名前を呼んでくれますようにと。
夕暮れが深まり、校舎の石畳を染める光が少しずつ金から青へと移ろうなか、
レギュラスは、廊下の先に現れた小さな影に、思わず息を呑んだ。
アランだった。
まだ遠くにいたはずのその姿が、ふいに足早になり、次の瞬間には駆け出していた。
長いスカートの裾がふわりとなびき、髪が顔にかかっても気にする様子もなく――
ただまっすぐ、こちらに向かって、息を切らしながら走ってくる。
レギュラスの胸に、張りつめていた何かが、
その一瞬でふっとほどけていくのがわかった。
ああ、無事だ。
ようやく心の底からそう思えた。
手のひらがわずかに湿っていたことに、その時初めて気づいた。
どれだけ心配していたのか、自分が思っている以上だったらしい。
「レギュラス――ごめんなさい……!」
駆け寄ってきたアランは、ほんの少し息を詰まらせて、うつむくように言った。
その声は震え、けれど確かな意志と後悔の色をともなっていた。
その瞬間、レギュラスの顔がわずかに和らぐ。
「謝らなくていい」
「そんな言葉より、今こうして目の前にいることが何よりの答えだ」
口には出さずとも、胸の奥ではそうはっきり感じていた。
その小さな肩が上下するほど走ってきた彼女を前に、
レギュラスの中には、今さらになっていくつもの心配が噴き上がってきた。
「ご飯は食べられてる? ……まだ、どこか具合が悪いんですか?」
声に出してしまえば、きっと煩わしく思われてしまうかもしれない。
でも、どうしても聞かずにはいられなかった。
昨日、姿を見なかった時間のすべてが、
彼にとっては、終わりのない空白だった。
黙って一日を過ごした彼女が、その静かな時間のなかで、
なにを考え、なにを感じていたのか――
想像すればするほど、胸が締めつけられた。
けれど今こうして、目の前にアランがいる。
それだけで、胸を満たす言葉にならない感情が波のように広がっていく。
アランが顔を上げる。
その頬にはまだ少しだけ火照りが残っていて、
息を整えるその唇が、なにか言葉を探していた。
たったこれだけの再会に、どうしてこんなにも救われるのだろう。
レギュラスはただ、静かに頷いた。
優しいまなざしで彼女を包み込むように見つめながら。
「会えてよかったです」――その想いだけが、確かだった。
言葉は少しずつあとからついてくる。
けれど、ふたりの間にはすでに、それ以上の対話が確かに存在していた。
そしてその夕暮れの静けさが、
互いの心に、許しと安堵の余白をそっと灯してくれていた。
その日、アランが姿を現した瞬間――
レギュラスは、胸の奥に言い表せないざわめきを覚えた。
彼女はいつものように静かで、
落ち着いた所作も、微笑の角度も、たしかに“アラン・セシール”そのものだった。
けれど。その“同じ”のはずのすべての中に、
何かが音もなく変わっているのを、彼はすぐに察した。
それは香りのようでもあり、
色の温度のようでもあり、
あるいは、時間を少しだけ早く進ませるような違和感だった。
端正に結ばれた髪、いつも通りの制服の襟元、
穏やかに目を伏せて会釈するすがた――
どれも以前と変わらぬはずだったが、
そのひとつひとつの奥に、“昨日まではなかった何か”が、
確かに芽吹いていた。
美しさの中に、別の何かが混じっている。
それは気品でも品格でもない。
もっと、生々しい何か――
人に触れ、時を知り、自分自身の輪郭を深くなぞったような、
そういう“変化”だった。
けれどレギュラスは、その正体に蓋をするように視線を逸らした。
心が、少しだけさざなみ立っていた。
小さな風に揺れる水面のように、ざわりと胸に波が広がる。
そしてレギュラスはそれを――無視した。
あるいは、無視した“かった”。
そこに目を向ければ、自分の中にある不確かな何かが
壊れかけた均衡のように震えてしまう気がして。
だから、それが気のせいであれと願った。
あのときの笑顔も、視線の柔らかさも、
長らく積み重ねた信頼と優しさの延長でありますようにと、心の奥で祈った。
けれど、どこかで知っていた。
気づいてしまったものから目を逸らすことは、
いずれもっと大きな痛みに変わって戻ってくるかもしれないことを。
それでも、そのときのアランはあまりにも綺麗だった。
どうか、微笑が今だけのものではありませんように。
その願いを抱えたまま、
レギュラスは彼女と話し、笑い、並んで歩いた。
そして心の片隅にそっと情けなく沈めた“違和感”は、
そのまま小さな翳りとなって、
彼の心に静かに降り積もっていった。
朝の大広間には、いつも通りの温かな光が差し込んでいた。
窓越しの光がテーブルの上の銀器をやわらかに照らし、生徒たちのさざめきが空気を満たしていた。
レギュラスは、そのざわめきのなかで、少し離れた席に座るアランの背中を見つめていた。
翡翠色の髪が肩にすべり落ちる。
姿勢は変わらず、背筋はすっと伸び、所作は優雅だった。
けれどその日、彼女の背中は、どこか見知らぬ色をしていた。
何が変わったのか、言葉では説明できない。
けれど、それは確かだった。
それは空気の密度のようなもの。香りの変化のようなもの。
彼女がまとう空気が、どこか柔らかく、けれど深く、輪郭を変えていた。
気のせいだと思った。
けれど、アランがふと振り向いた瞬間、
その瞳の奥に宿る微かな光――それまで隠していた何かが滲んでいるように見えて、
レギュラスは小さく息を止めた。
笑みは、変わらない。丁寧で、曖昧で、やさしい。
でもその奥に、初めて見る穏やかさと、ほんのわずかな――羞らいが混じっていた。
もう、彼女は向こう側にいる。
そう思った瞬間、胸がひどく締めつけられた。
それは恋人同士にだけ生まれる、ある種の親密さ。
身体に触れることを知った人間だけが持ちうる沈静した気配。
アランの動き一つひとつが、静けさをはらんでいた。
誰の目にも映らぬ彼女の「変化」。
けれど、レギュラスにはわかってしまった。
そうであってほしくないと願う反面、
疑うことすら愚かなほど、確信に近いものだった。
彼女の指先が何気なくマグカップの縁をなぞる仕草。
話すとき、すこしだけ唇の力を抜いた笑い方。
すべてが、誰かを深く信頼し、
その魂の奥に一夜を預けて帰ってきた人の佇まいだった。
かつて、自分に微笑んだあの瞳の色と、今の瞳の深さは違っていた。
たしかに彼女は、あの夜――シリウスと。
断定するわけではない。
けれど、それ以外に説明のつかない気配が、
今の彼女に漂っていた。
何よりも苦しいのは、
彼女がその事実を隠そうとしていないことだった。
逆に申し開きもしないことだった。
自分に対して、何も取り繕おうとしない――
その沈黙が、誠実であると同時に、
取り返しのつかない距離を感じさせた。
レギュラスは静かに目を伏せた。
何かを理解するということは、
ときに残酷な沈黙を受け入れることと同義だと、
初めて知った気がした。
誰にも気づかれないように、
彼の背中にもまた、静かな沈黙が影のように差した。
そして世界は、何も知らないふりをして、
いつも通りの朝を刻み続けていた。
シリウスを受け入れた夜が明けても、世界は淡々とその歩みを続けていた。
ホグワーツの石の廊下はいつも通り冷たく、
天井を渡る魔法仕掛けの空は、季節に拠らぬ均一な明るさを保っていた。
誰も、なにも変わらない――まるで何事もなかったかのように。
変わったのは、アランの内側だった。
身体の深い場所に、記憶のような、熱のようなものを宿したまま、
それでも制服を着て、髪を結い、背筋を伸ばして、
変わらぬ日常のなかに立ち戻った。
けれど、「戻る」というには、すでに遅すぎた。
教室の後ろで何気なく交わされる言葉、
すれ違いざまの視線、それらのなかに、
以前のように無垢な目線を持つことは、もうできなかった。
そして、レギュラスの存在。
彼がくれる穏やかな言葉や、
そっと差し伸べられる手、
そして廊下の隅や石の柱の影で交わされる、ささやかなキス。
それらもアランにとっては、もはや驚きでも、不意打ちでもなかった。
だってもう、自分はすべてを知ってしまったのだから。
受け入れたのだから。
シリウスの、あの夜の体温。
触れるたびに全身を焦がすような、圧倒的な想い。
その深くて、あたたかくて、どこか切ない交わりの記憶が、
アランのからだに、意識に、消えないほどに染みこんでいた。
だから、レギュラスの唇がそっと触れたとき、
まるで長く付き合った誰かを迎えるように、
アランの内側は静かだった。
動揺も、驚きもなかった。
それは冷たさではない。
悲しみでも、罪悪感の色ではなかった。
ただひとつ、あの夜から自分の中にできたもう一つの「確かな場所」が、
どこか、静かに呼吸しているだけだった。
レギュラスが何かを察しないように。
それだけが、アランの気を張る理由だった。
声の調子、まなざしの向け方、
いつものように応える笑顔。
心を隠す術は、誰にも教えられたわけではなかったけれど、
愛する人を、壊さないために自然と身に着いていた。
――ごめんなさい。
それでも、あなたを傷つけたくない。
そう胸の奥で繰り返しながら、
今日もアランは、穏やかな婚約者としてレギュラスの隣に立っていた。
世界は変わらずまわり続けている。
その静かな歯車のひとつになったまま、
アランだけが、音を出さない想いのなかで、
ひとつ深く、静かに息を吸った。
石造りの窓辺から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
魔法薬学の教室は、淡い緊張感と静寂に包まれている。
煮詰まりかけた季節の空気が、それぞれの机の上に開いた教科書のページを微かに揺らしていた。
アランは、レギュラスと並んで座っていた。
それはもう、すっかり身体になじんだ日常の形だった。
二人用の机の狭い隙間で、互いの手がふと触れあっても、もう驚くことはなかった。
ページをめくろうとした彼の指に、自分の指先が重なる——
そんな一瞬すら、今では何の波紋も起こさない。
静かな親密さ。
それが、二人のあいだに流れていた。
「アラン、今回の試験……いかがでした?」
レギュラスは教科書から目を離さず、低く穏やかな声で尋ねた。
アランはそっと微笑む。
「あなたには敵わないわよ。」
その答えに、レギュラスも口元を少し緩めて、僅かに息を吐くように笑った。
二人の間を流れる空気は穏やかで、澄んでいた。
まるで何もかもが順調で、自然で、ごく普通の――日常の一幕のように。
こんなにも何気ない時間を、
何事もないふりで過ごせるようになった。
アランはそのことに、少しだけ驚いていた。
以前なら、彼の少しの動きや視線にどきまぎしていた。
心を揺らすたびに、自分の中の”正しさ”に問いかけるように、背筋がすっと伸びた。
でも今は違う。
あの夜。
あの、世界が一度だけ変わった夜を知っているからこそ、
今の自分は、こうして”変わらない日常”を普通に生きていられる。
ごく自然なふるまいで、
レギュラスと当たり前のように話し、隣にいて、
まるでなにも変わらなかったかのように笑えている。
そんな自分に、アランはふと、遠くから差し込む光のような静かな自覚を持った。
自分は、少しだけ、大人になったのだと。
心の片隅に澱のように沈む感情。
罪悪感も、躊躇いも、やさしさすら含んだ透明な静けさ。
それらを全て抱えたまま、それでも今日を生きている。
変わりゆくものと、変えないもの。
その境界線を、何気ないやり取りの中に折りたたんで、
アランはしずかにその日のページを捲った。
教室の窓の外では、風が静かに秋を連れてきていた。
誰にも知られない小さな決意だけを、
アランは胸の内にそっと隠しながら、今日を丁寧に生きていた。
クィディッチの試合は見事な幕引きだった。
空を切る風の中、緑と銀の旗が高々と振られ、
歓声がスタンドを満たしていく。
スリザリンの勝利。
その中心で、制止することのない声援を浴びているのは、ほかならぬレギュラス・ブラックだった。
試合が終われば、夜には伝統のダンスパーティ。
勝利の栄光を称え、祝杯をあげるひととき。
そう、レギュラスの活躍に華を添える大切な舞台。
そしてアラン・セシールが、当然のごとく隣に立つべき場所。
一緒に踊ろうと誘われた言葉はなかった。
だが、そんな言葉すら必要ないように思われた。
アランも、レギュラスも、その意味を言葉にはせずともわかっていた。
それは約束でも、期待でもなく――「在るべき場所」として、そこにあるべきものだった。
パーティの前、アランは鏡の前で静かに身支度を整えた。
飾りすぎず、けれど上品に。
身にまとう深いエメラルドはスリザリンの色に静かに寄せた。
レギュラスが選ぶのはきっと、こうした色と、こうした形なのだろうと、自然に選んでいた。
レギュラスの隣に立つ自分が、恥じぬように。
彼の記憶に、今日のこの場面が優雅に刻まれるようにと、
アランは姿形に細やかな配慮を込めていた。
会場に姿を現したアランに、周囲の視線がふっと落ちる。
翡翠のドレスの裾が軽やかに揺れ、
静かに歩を進めていくその姿は、まるで用意された品格の具現のようだった。
レギュラスが踊りのリズムに乗って滑らかに動く横で、
アランは、微笑みを忘れずに、完璧なステップを刻んだ。
目の前の彼の瞳だけを見る、それだけを心におきながら。
けれど――
会場の隅、ふと視線が泳いでしまった瞬間、
グリフィンドールの赤いローブが、目の端に風を鳴らした気がした。
シリウス――
彼は一体、今夜、誰と踊るのだろうか。
心のどこかに、抑え切れずに残る一滴の染み。
感情の名前をつければ、きっとすぐに滲んでしまうほどに、繊細な思いだった。
彼の隣にいるのは誰だろう。
笑っているだろうか。
触れた指先に、胸を高鳴らせているだろうか――
そう思ってしまう自分が、確かにそこにいた。
そのことに、アランは密かに目を伏せた。
今夜の主役であるレギュラスの手のひらの温かさを感じながら、
アランはただ、完璧な舞台の女役を演じ続けた。
静かな音楽が流れるなかで、
胸の足元だけがそっと揺れていた。
靴音は響かず、邪魔もしないはずだったのに、
どうしてか、心の奥では誰かに名を呼ばれるような感覚が消えなかった。
レギュラスの瞳は、満ち足りたもので満たされていた。
それに応えきれる自分でいたいと、アランは笑った。
けれど瞳の奥に、誰にも見えない翳りが、
彼女の美しさとは別のかたちをして、
そっと灯を落としていた。
夜も更け、ダンスパーティの喧騒が少しずつやわらいでいく。
魔法の灯りがやさしくゆらぎ、ホールの空気は静かな余韻に包まれていた。
祝杯の笑い声も遠ざかり、音楽も緩やかな旋律に変わるころ。
人の波がゆっくりとほどけていくその隙間で、ふたりはそっと並んでいた。
アランは一歩、彼に近づいた。
長い一日を労うように、
けれどその声には誠実な敬意が込められていた。
「レギュラス、今日は本当に……素晴らしかったわ」
その言葉は、心からだった。
試合での正確な動きも、彼の腕に支えられて踊った瞬間の優雅さも、
すべてが、彼という人間に備わった静かな才能を余すところなく照らしていた。
レギュラスは一瞬驚いたように目を揺らせ、
けれどすぐに、息を整えるように小さく笑った。
「……あなたにそう言って欲しくて、頑張りました」
声は穏やかだったが、
そのひとことの奥にある誠実な熱――
誰の称賛よりも、アランの一言が何よりも嬉しかったのだという気持ちが、
じんわりと空気に滲んでいく。
アランはその言葉に、胸の奥を静かに衝かれたような感覚を覚えた。
レギュラスの目はまっすぐで、疑いも濁りもなかった。ただ純粋で、
その純粋さこそが、かえって痛かった。
今夜の美しさのすべては、
彼が彼女のために見せてくれたものだった。
勝利の陰でかき集められた努力も、
誘いの言葉さえ省いた沈黙のやさしさも、
すべてが、彼なりの想いのかたちだったのだ。
そのことに、きちんと気づいてしまっているからこそ。
アランは微笑みながら、胸の奥でやわらかく苦しんでいた。
「……ありがとう。そんなふうに思ってくれてたこと、とても嬉しい」
そう言いながら、自分の声が少しだけ震えていないか、ひそかに気を配る。
今はただ、彼の目に映る限りの自分を、
しっかりと美しく保ちたかった。
レギュラスはそれ以上何も問わず、
ただ静かに彼女の手にふれた。
その指先のあたたかさ――
それだけが、この夜の正しさを、そっと確かめるように包んでいた。
