1章
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朝の光がホグワーツの大広間に差し込み、
窓の外ではまだわずかに霧が漂っていた。
静かに一日が始まろうとしている時間。
けれど、アランの心には不思議なざわめきがあった。
レギュラス――彼は今朝、どこかいつもと違っていた。
静かで控えめな彼のはずが、どこか“距離を詰める”ことにためらいがなくなっているように思えた。
朝食の席では、アランの顔にそっとかかった前髪を何気なく掬い、耳にかけてくれた。
その指先の動きは優しく丁寧で、まるで誰かに見せつけるためのものではなかった。
けれど――周囲の視線のなかで、それはあまりにも自然すぎて、
かえって目立っていた。
次第に、ふたりのまわりにわずかな静寂が広がっていくのを、アランは感じていた。
これまでレギュラスのもとへ集っていた女生徒たちは、
その沈黙に気づいたかのように少しずつ距離を取りはじめ、
そしていつしか、近寄る子は誰ひとりいなくなっていた。
それは一種の誇示だったのかもしれない。
朝の渡り廊下では、杖をしまおうとしていたアランの手を、レギュラスがごく自然につないだ。
その手はあたたかく穏やかで、意図の見えないさりげなさを保っていたが――
胸の奥には重くのしかかるものがあった。
なぜ、こんなにも戸惑っているのだろう。
昨夜のキスを経て、レギュラスの中では何かが確かに変わった。
そこに、他意や計算があるようには見えなかった。
ただ、静かに決意をかためた人のような真っ直ぐさが彼にはあった。
きっと“彼女との関係は前に進んだ”――
そう信じて、だからこそ、ふたりの間の距離を縮めようとしてくれているのだろう。
アランは、わかっていた。
こんなにも丁寧に想いを寄せてくれている。
心を向けてくれている。
応えたい、期待を裏切りたくない。
なのに、どうして……心が動いてくれないのだろう。
レギュラスの指先の温もりは、確かに柔らかく、優しい。
けれど、どうしてもアランの胸の奥にある“誰か”の記憶を消し去ることができなかった。
シリウス。
今、隣にいる人ではなく、
“見ていてほしい”と身体の奥でつぶやいてしまう名前。
だからこそ、レギュラスが誰かの前で自分の髪に触れたり、
手を引いたりして歩こうとするたびに、
アランは心からそれを喜べなかった。
“お願い、レギュラス、今はやめて”――
そんな想いを、口では言えなかった。
なぜなら、それを言ってしまえば、
この関係がどれほど曖昧なのかを、言葉にしてしまうことになるから。
自分の手を取ってくれている人に、こんなに申し訳ない。
なのに、想いがどうしても、ひとりの人にしか向かえない。
レギュラスの優しさが、ジャケットの上から伝わる体温が、
いまは余計に切なくて、
アランはただ、微笑むことしかできなかった。
だからこそ、その微笑みは、
花のようにか細くて、美しくて――
そして、どこか涙の匂いのする微笑みだった。
日が昇り、また沈んでいく日々の中で、
レギュラスのふるまいはほんのわずかずつ、けれど明確に変化していった。
朝の食堂で隣に座る時、彼はさりげなくアランの椅子を手で引いてくれるようになった。
小さな仕草だったが、それはどこか「守るように扱う」動作で、
気づけば、その手のひらに込められたささやかな想いをアランは肌で感じるようになっていた。
教科書を共有する場面では、ページをめくる手が自分の指にさっと触れる。
その触れ方は、わざとではないと分かっていながらも、
不思議な温もりだけが、そこに霞のように残る。
廊下を歩くとき、レギュラスは時折アランの背にそっと手を添えることがあった。
階段の前や混みあった通路の出口――
ほんの一瞬、自分の存在を確かめるかのように軽く背に触れる彼の手が、
ひどく優しくて、その分だけ心を締め付けられる。
そして何より変わったのは、言葉がなくてもその手が伸びることだった。
風に煽られてアランの髪が乱れた時には、
誰よりも早くその髪を整えてくれる。
指先はやわらかく、静かな意図があり、
まるで壊れやすい硝子細工に触れるような繊細さで。
書斎の自習机で言葉少なに勉強をしている時、
隣に並ぶ腕が偶然に触れただけで、
彼は何も言わず、それを切り離すことなく受け止める。
その温もりに、沈黙が静かに染みこんでいく。
ある日、ふたりで庭を歩いていた時、
レギュラスはアランの手を取った。
人目があるにもかかわらず、何も言わずに。
その手には力はなかった。
ただ、優しく、確かな意志がにじんでいた。
驚いたアランが思わず彼の顔を見あげると、
レギュラスは静かに、小さく笑った。
何も言わずにただ、その笑みの中で「いいですか」と問われたような気がした。
スキンシップはわずかな、さざ波のようなものだった。
それは強引なものではなく、あくまで静かな流れで、
けれど確実に――距離が、縮められていくのが分かった。
アランの中にある“応えなければ”という意識を刺激するには、
あまりにも優しく、ひたひたと押し寄せる。
自然なふるまいの中に潜む、意志。
アランはその全てを感じとっていた。
優しさに溺れるわけにはいかないと、
罪悪感を感じながらも、
それを払いのける術が見つからなかった。
日々はゆっくりと淡く移り変わる。
そのなかで、レギュラスのスキンシップは、
愛を言葉にする代わりに行われているようで、
アランはただ、胸の奥の痛みを抱いたまま、
静かにそのやさしさを受け止めるしかなかった――
それが、どんなに苦しく、優しいことだったとしても。
キスをしたあの日から、
レギュラスの中で、何かが静かに変わっていった。
そしてそれは、確かに――
アランとの間にも、どこかやわらかな変化を生み出していた。
ふとした瞬間に目が合えば、それだけで微笑み合えるようになった。
言葉にせずとも、近くにいるという感覚が、以前よりも心地よく張り詰めていた距離をほのかにほどいてくれている気がしていた。
彼女の隣に腰かけるとき、そっと肩が触れあっても、
アランはもう一歩分だけ身を引いたりはしなくなった。
その事実が、レギュラスにとっては胸が熱くなるほど嬉しかった。
食堂のテーブル、並んで聴いた講義、図書室の机――
ありふれた時間の中に、ほんの少しずつ、あたたかい確かさが編まれていく。
たとえば、アランの手がふと開いたとき、躊躇いを持たずに自分の指先をそこに重ねられる。
風が冷えた時、彼女の手を包むように握っても、そっと握り返してくれる。
誰にも気づかれないように、空間を震わせないように、
ふたりの間にはやわらかく、静かなぬくもりが行き交い始めていた。
そのすべてが、レギュラスにとってなによりの証だった。
「たしかに、僕たちは近づけている。」
それは、焦がれるような高揚でも、夜を焦がすような情熱でもなかった。
けれどだからこそ、他の誰にも真似できない、ふたりだけのかたちなのだと彼は感じていた。
アランの髪にそっと触れること。
横顔を見つめること。
袖が重なる距離で歩くこと。
そんな、ごく自然な「触れ合うこと」が今日の中にあるだけで、
レギュラスの胸の奥には、しんとした幸福が静かに満ちていった。
彼女の心がどこへ向いていようと。
それでも今、自分の隣にいてくれる。
その事実だけが、深く、やさしく、彼を支えていた。
それはまだ、恋の途中。
けれど、ほんの少しでも触れられる関係に手が届いたことを、
レギュラスは何よりも大切に、誇りに思っていた。
夜のスリザリン談話室は、深い静けさに包まれていた。
壁を這う緑と銀の装飾は、かすかな灯りの中でゆらゆらと揺れていた。
暖炉の炎はすでに落ち着き、ただ赤いひかりだけがじんわりと空間を染めている。
その中で、ソファに並んで座るアランとレギュラスのあいだには、
言葉のない、けれど語り尽くせぬぬくもりが降りていた。
ふいに目が合った。
それがきっかけだった。
どちらからともなく――けれどあまりにも自然に、
ふたりはゆっくりと顔を近づけ、唇を重ねた。
初めてのキスとはまるで違っていた。
あのときのような心の準備も、突発的な緊張もない。
肩透かしのように訪れた、不意打ちのような感情でもなく。
今夜のキスは、しっとりと、やわらかく、
互いをただ静かに受け入れるものだった。
触れるだけの口づけ。
けれどその短い時間の中に、
ひとつひとつ積み重ねてきた距離、表せなかった想い、
そして許された安心感が、すべて息をひそめながら滲んでいた。
レギュラスは、指先でアランの髪をそっとなぞった。
そこに視線を送ると、彼女はいつも自然に目を細めてくれる。
言葉じゃ伝わりきらなかった愛情の輪郭が、
今はただこの沈黙の中で、静かにかたちになっていく。
――不思議だった。
あれほど胸の奥を灼かれていた嫉妬が、
今だけは、どこにも顔を出さなかった。
過去、誰かの名が囁かれたかもしれないことに、
痛みを覚えた自分が確かにそこにいたはずなのに。
「シリウスと、彼女のあいだにも、こうした穏やかなキスがあったのだろうか」
そんな考えがふと頭を過ぎっても、
その波はすぐにおだやかに引いていった。
まるで、レギュラスの中を流れるその思いが、
“今、彼女の隣にいるのは自分だ”という事実の前に、
何か大切なものを内側から、痛みの代わりに埋めてくれるようだった。
まるで痛み止め――いや、それ以上に、
癒しそのもののような、やさしい口づけだった。
唇を離す頃、談話室の灯はさらに弱くなっていた。
けれどふたりのあいだに流れていたものは、
誰にも触れられないやすらぎとして、確かにそこに残っていた。
静かな夜。
言葉よりも深く、そっと想いが重なる。
その繊細な温もりだけが、世界のすべてだった。
扉が軋む音とともに、重い壁の一角がひそやかに開いた。
その先に広がっていたのは、誰も知らない秘密の空間――
ホグワーツの無数の迷路の一部でありながら、
それがどんな記録にも残されていない場所だということを、アランはすぐに悟った。
「ここ……こんな部屋があるなんて……!」
驚きと興奮が混ざった声に、アランの瞳が淡く光っていた。
魔法灯をともせば、天井に吊るされた古びたランプがまどろむように部屋を照らす。
壁には時の忘れ物のような肖像画がかすかに揺れ、ガラス棚の中には色褪せた書物や壊れかけた魔法道具が収められている。
まるで時が止まったようなその空間の真ん中で、
アランは無垢な子どもが秘密基地を見つけたように、きらきらと目を輝かせていた。
その横顔を見つめるシリウスの胸には、
言葉にできない誇らしさがあたたかく広がっていた。
この場所を案内できたこと。
自分だけが知る秘密を、彼女と分かち合えたこと。
そしてその秘密が、アランの瞳に「驚き」と「歓び」という輝きとして映っていること。
「あぁ、連れてきてよかった」――自然と、そんな想いが胸に満ちていた。
「あなたたちって本当に、なんでも知ってるのね」
アランがふと振り返って言った。
美しく整った眉が、笑うようにやわらかく上がる。
その視線はただの尊敬や驚きではなく、
深い信頼に似た、やさしい光を帯びていた。
「夜な夜な、城を冒険してただけだよ」
シリウスは肩をすくめて笑った。
「ただのイタズラ好きのガキが見つけただけ。偶然さ」
そう言いながらも、
その“偶然”をアランの隣で語れる奇跡のような時間に、
どこか誇らしさと照れくささが染み込んでいた。
二人だけしか知らない場所。
ふたりだけの秘密。
ふたりだけの時間。
そんなものが世界にあるだけで、
すべてが許されるような錯覚を覚える。
今なら、どこへでも行ける気がした。
誰にも頼らず、誰にも縛られず――
二人だけで生きていけるのではないかと、本気でそう思えるほどに。
アランの笑い声が、古びた空間にふわりと溶ける。
その音は、静かに降る埃すら照らすようにやわらかく、
この瞬間をまるごと、魔法に変えてくれそうだった。
この夜、ホグワーツのどこよりも美しく満たされていたのは、
間違いなく、この誰も知らない小さな部屋だった。
アランと過ごす時間は、どうしてこんなにも短く感じるのだろう――
シリウスは、ふとそんなことを思っていた。
秘密の部屋にある、古びたベッド。
誰も使っていないはずのその寝台は、ところどころに沈みがあり、
身体を少し動かすたび、控えめな軋みを立てる。
けれどそれは、会話の合間に静かに忍び込むリズムのようで、
いつしか心地よい伴奏になっていた。
アランと、ベッドの上で。
向かい合って座ったり、同じ枕を分け合って寝転んだりしながら、
取りとめもない会話をいくつも重ねていく。
主に、シリウスが話す番だった。
ジェームズとのくだらない探検の話、ホグワーツにまつわる秘密の抜け道、
規則破りの綱渡りのような冒険――
そのたびに、アランが目を輝かせて、くすくす笑ってくれる。
「ほんとうに、あなたたちって……想像を超えてくるのね」
その言葉に、思わず得意気に肩をすくめる。
まるであの日の楽しさをもう一度なぞるように、
アランと話せば、すべてがまた、今日の出来事になる。
彼女の笑顔は、どんな魔法よりも強かった。
何も深い話でなくていい。
知識を披露するわけでも、未来を語るわけでもなく、
ただ「今日も楽しかったね」と言えるような――そんな積み重ねが、
この時間を、息を呑むほど大切なものにしていた。
アランが時折、シリウスの話に真剣な顔をして聞き入ると、
ふと視線が合う。
そのたびに、胸の奥がきゅっと高鳴る。
あぁ、もっと話していたいと思った。
彼女の興味を惹きつけ続けたいと、甘く願った。
カーテンの隙間からわずかに降りる光のなか、
ベッドの上にはふたりの影。
揺れる灯火に照らされながら、
肩が触れたり、手の甲が重なったり、ささいなふれあいがじわじわと心に染みていく。
きっとこの時間が永遠ではないことに、
気づいているからこそ、愛おしくてたまらなかった。
アランといるときだけ、シリウスは少しだけ素直になれる気がしていた。
家でもなく、義務でもない、
生まれた場所も、血のしがらみも関係なく、
ただひとりの少年として、笑えている。
話すほどに、笑い合うほどに、
魔法より強く惹かれていくその心を、
止める術など、シリウスにはもうなかった。
夜は静かに、ふたりの言葉を包み込んでいた。
それは、まるで時の歩みすら止まってしまったかのように――美しく、やさしい沈黙だった。
部屋の中は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
外の風が、木々の隙間を通り抜ける音さえ、ふたりの世界から遠ざかっていた。
触れる指先の一つひとつが、
言葉以上に深く伝えてくるものがあった。
この夜、ふたりは初めてのラインを、静かに、けれど確かに超えていった。
キスでも、ハグでもない――
もっと深いところで、お互いを許し、求め、重なり合う。
そんな行為。
それは決して衝動的なものではなく、
でもどこか理屈を越えたものだった。
ずっと重ねてきた気持ちが、溢れて、
もうどこにも止めどころがなくなった結果だった。
――ジェームズに、それとなく聞いていたことがある。
でも実際にその瞬間を迎えて初めて知った。
これは、思っていたよりもずっと――恐ろしく美しいことなのだと。
肌が触れ合うたびに、心が震えるのを感じた。
何度も息を整えようとしたけれど、
波が引いては寄せるように、
感情も、身体も、どこかへ流されていくようだった。
指で髪をすいたときのアランの頬の熱さ。
目が合ったとき、微かに揺れた睫毛。
小さく名を呼ぶ声――
どれもが愛しくてたまらなかった。
優しさだけでこの距離を超えたわけではない。
けれど、この夜のふたりにとって、そのすべてが愛だった。
守りたかった。支えたかった。触れたかった。
その全てを、この夜は赦された気がした。
シーツにくるまれて、世界の音が遠くなっていくなかで、
シリウスはそっとアランの髪に顔を埋めた。
心臓がまだ高鳴っていて、けれどそれは怖さではなかった。
愛おしくて、どうしようもなくて。
幸せで、涙が出そうになるくらいだった。
アランは何も言わなかった。
でもその瞳の奥に、静かに、すべてを委ねた感情が滲んでいた。
ただ寄り添うように、
ただ確かめるように、
ふたりはまだ名前のない絆の中にいた。
――世界のすべてを忘れていいと思った。
この夜のことは、
誰にも言葉にしないまま、ずっと胸に秘めていくんだろうと、
そんな予感だけが確かにあって。
光も音も届かない、
ただふたりだけの深い深い静けさの中、
シリウスは、これまででいちばん幸福だった。
朝の光がカーテンの隙間からそっと差し込んでいても、アランはベッドの中で目を閉じたままだった。
一晩眠ったはずなのに、身体の奥はまだ熱を帯びていて、
心の深いところで揺れている感覚が、静かに残っていた。
昨日、シリウスとすべてを分かち合ったこと。
それは言葉にすればたった一行で語れてしまうような出来事だったのかもしれない。
けれどアランにとって、それはひとつの生まれ変わりのようだった。
ただ身体を重ねただけではない。
あの夜、自分は確かに“何か”を受け取り、
そして、差し出したような気がしていた。
あの瞬間の自分はどう見えていたのだろう。
無様で、臆病で、それでも揺るぎなく――シリウスを思っていた。
彼の吐息、触れ合うたびに微かに震えた声、
耳元で名前をそっと呼ばれたあの瞬間――すべてが肌に焼きついて離れなかった。
思い出すだけで、
恥ずかしさに頬が勝手に熱を帯びる。
けれど、その熱は嫌なものではなくて、
むしろどこか、幸福に変わろうとする予感すらあった。
自分は、少しだけ大人になったのだろうか。
そんな風に思いたくなるほどに、
あの一夜の感覚は自分に多くのものを教えてくれた。
そして、だからこそ、今日は――レギュラスの顔が見られなかった。
彼の誠実さも、優しさも知っている。
でも、今朝のアランの心は、誰かに触れられるにはあまりにも繊細で、熱すぎた。
今の自分を誰にも触れさせたくない。
誰かに言葉をかけられるだけで、この余韻が壊れてしまいそうだった。
まるで壊れやすい硝子細工を、心の奥の一番静かな場所で抱えているような――そんな気持ち。
そっと胸に手を当ててみる。
振れる鼓動の左隣に、確かにまだ昨夜のシリウスがいる気がした。
言葉はいらなかった。
ただ、このぬくもりを、いまはひとりで守っていたい。
誰にも触れさせたくない。
それは逃げではなく、祝福のような防御だった。
アランはもう一度目を閉じて、
瞼の裏で、彼の指先、髪の香り、肌のあたたかさをゆっくり思い出していく。
やがて、光が少し強くなり、風がカーテンを揺らしても、
彼女はまだしばらく動けずにいた。
それほどまでに、あの時間は――
脆くて、美しくて、
そして、生まれて初めての、愛そのものだった。
その日は、朝から一度も講義に出なかった。
アラン・セシールが、それだけの時間を自らの意思で“欠席”というかたちに費やしたのは、ホグワーツに入って以来はじめてのことだった。
いつもなら、決められた時間通りに教室に向かい、
巻き毛ひとつ乱さず、指定された席に腰を下ろす。
ノートは端正で、答えはいつも正しく。
そうやって「従順な優等生」として、規則の中に自らを置いてきた。
だけど今朝は、目覚ましの音にさえ手を伸ばさなかった。
カーテンを引きもしないまま、
柔らかなベッドに包まれて、ただぼんやりと天井を見つめていた。
今日だけは、大人になった気がした。
誰が決めた道でもない。
誰かに求められた正しさでもない。
自分の衝動、生まれ変わるような幸福のあとに訪れた、静かな余韻。
そのなかに浸っている今の時間は――
どんな優等生の記録にも書かれない、初めての自分の“選択”だった。
けれど、夕方になっても部屋を離れずにいるうちに、
その幸福の余韻の影に、もうひとつのものが忍び込んできた。
「アラン、今日いなかったよね? 体調、平気?」
同じ部屋のチームメイトが、カーテン越しに声をかけてくる。
彼女の声は明るく、けれどどこか心配げで、かすかに遠慮が滲んでいた。
アランはゆっくり上体を起こし、
癖で一度スカートの裾をなでると、自分でも不思議なほど自然に言葉が口をついた。
「……ごめんなさい。少し体調が悪くて。」
ほんの一瞬の迷いすらなかった。
嘘ではないと、自分に言い聞かせながら。
けれど、そのあとに続いたチームメイトの言葉には、
心のどこか深いところがぞわりと冷えた。
「レギュラス様が、アランのこと、すごく心配してたわ。
いつから具合が悪かったのかって訊かれて……何度か探しに行ってたみたい。」
そうだった――レギュラス。
その名前を聞いた途端、朝からすっぽりと抜け落ちていた現実が、
ひとつひとつ雪のように降り積もってくる。
彼が、自分の不在に気づいて、
心配し、問い、探していた姿が、容易に思い浮かんだ。
整った制服姿、真剣なまなざし。
必要以上に騒がず、誰よりも丁寧に、けれど内心では焦燥と心配とを隠しきれず――
そういう彼の姿が、ありありと胸に浮かんできて、
アランはベッドの上で、静かに手を握りしめた。
なにと、どう誤魔化せばいいのだろう。
自ら選んだ初めての“反抗”は、
自由の味を持っていたけれど、
同時に、誰かの想いを切り捨てたという、ひどく鋭い棘ももたらしていた。
レギュラスの誠実さが、優しさが、
彼女の心に無言の重さで傷を残していた。
そしてその痛みこそが――
今日一日、彼女が触れてはいけないと思い、
考えないようにしてきた、いちばん大切な現実だった。
光がわずかに灯る部屋のなか、
アランは深く、誰にも聞かれないように、小さく息を吐いた。
窓の外ではまだわずかに霧が漂っていた。
静かに一日が始まろうとしている時間。
けれど、アランの心には不思議なざわめきがあった。
レギュラス――彼は今朝、どこかいつもと違っていた。
静かで控えめな彼のはずが、どこか“距離を詰める”ことにためらいがなくなっているように思えた。
朝食の席では、アランの顔にそっとかかった前髪を何気なく掬い、耳にかけてくれた。
その指先の動きは優しく丁寧で、まるで誰かに見せつけるためのものではなかった。
けれど――周囲の視線のなかで、それはあまりにも自然すぎて、
かえって目立っていた。
次第に、ふたりのまわりにわずかな静寂が広がっていくのを、アランは感じていた。
これまでレギュラスのもとへ集っていた女生徒たちは、
その沈黙に気づいたかのように少しずつ距離を取りはじめ、
そしていつしか、近寄る子は誰ひとりいなくなっていた。
それは一種の誇示だったのかもしれない。
朝の渡り廊下では、杖をしまおうとしていたアランの手を、レギュラスがごく自然につないだ。
その手はあたたかく穏やかで、意図の見えないさりげなさを保っていたが――
胸の奥には重くのしかかるものがあった。
なぜ、こんなにも戸惑っているのだろう。
昨夜のキスを経て、レギュラスの中では何かが確かに変わった。
そこに、他意や計算があるようには見えなかった。
ただ、静かに決意をかためた人のような真っ直ぐさが彼にはあった。
きっと“彼女との関係は前に進んだ”――
そう信じて、だからこそ、ふたりの間の距離を縮めようとしてくれているのだろう。
アランは、わかっていた。
こんなにも丁寧に想いを寄せてくれている。
心を向けてくれている。
応えたい、期待を裏切りたくない。
なのに、どうして……心が動いてくれないのだろう。
レギュラスの指先の温もりは、確かに柔らかく、優しい。
けれど、どうしてもアランの胸の奥にある“誰か”の記憶を消し去ることができなかった。
シリウス。
今、隣にいる人ではなく、
“見ていてほしい”と身体の奥でつぶやいてしまう名前。
だからこそ、レギュラスが誰かの前で自分の髪に触れたり、
手を引いたりして歩こうとするたびに、
アランは心からそれを喜べなかった。
“お願い、レギュラス、今はやめて”――
そんな想いを、口では言えなかった。
なぜなら、それを言ってしまえば、
この関係がどれほど曖昧なのかを、言葉にしてしまうことになるから。
自分の手を取ってくれている人に、こんなに申し訳ない。
なのに、想いがどうしても、ひとりの人にしか向かえない。
レギュラスの優しさが、ジャケットの上から伝わる体温が、
いまは余計に切なくて、
アランはただ、微笑むことしかできなかった。
だからこそ、その微笑みは、
花のようにか細くて、美しくて――
そして、どこか涙の匂いのする微笑みだった。
日が昇り、また沈んでいく日々の中で、
レギュラスのふるまいはほんのわずかずつ、けれど明確に変化していった。
朝の食堂で隣に座る時、彼はさりげなくアランの椅子を手で引いてくれるようになった。
小さな仕草だったが、それはどこか「守るように扱う」動作で、
気づけば、その手のひらに込められたささやかな想いをアランは肌で感じるようになっていた。
教科書を共有する場面では、ページをめくる手が自分の指にさっと触れる。
その触れ方は、わざとではないと分かっていながらも、
不思議な温もりだけが、そこに霞のように残る。
廊下を歩くとき、レギュラスは時折アランの背にそっと手を添えることがあった。
階段の前や混みあった通路の出口――
ほんの一瞬、自分の存在を確かめるかのように軽く背に触れる彼の手が、
ひどく優しくて、その分だけ心を締め付けられる。
そして何より変わったのは、言葉がなくてもその手が伸びることだった。
風に煽られてアランの髪が乱れた時には、
誰よりも早くその髪を整えてくれる。
指先はやわらかく、静かな意図があり、
まるで壊れやすい硝子細工に触れるような繊細さで。
書斎の自習机で言葉少なに勉強をしている時、
隣に並ぶ腕が偶然に触れただけで、
彼は何も言わず、それを切り離すことなく受け止める。
その温もりに、沈黙が静かに染みこんでいく。
ある日、ふたりで庭を歩いていた時、
レギュラスはアランの手を取った。
人目があるにもかかわらず、何も言わずに。
その手には力はなかった。
ただ、優しく、確かな意志がにじんでいた。
驚いたアランが思わず彼の顔を見あげると、
レギュラスは静かに、小さく笑った。
何も言わずにただ、その笑みの中で「いいですか」と問われたような気がした。
スキンシップはわずかな、さざ波のようなものだった。
それは強引なものではなく、あくまで静かな流れで、
けれど確実に――距離が、縮められていくのが分かった。
アランの中にある“応えなければ”という意識を刺激するには、
あまりにも優しく、ひたひたと押し寄せる。
自然なふるまいの中に潜む、意志。
アランはその全てを感じとっていた。
優しさに溺れるわけにはいかないと、
罪悪感を感じながらも、
それを払いのける術が見つからなかった。
日々はゆっくりと淡く移り変わる。
そのなかで、レギュラスのスキンシップは、
愛を言葉にする代わりに行われているようで、
アランはただ、胸の奥の痛みを抱いたまま、
静かにそのやさしさを受け止めるしかなかった――
それが、どんなに苦しく、優しいことだったとしても。
キスをしたあの日から、
レギュラスの中で、何かが静かに変わっていった。
そしてそれは、確かに――
アランとの間にも、どこかやわらかな変化を生み出していた。
ふとした瞬間に目が合えば、それだけで微笑み合えるようになった。
言葉にせずとも、近くにいるという感覚が、以前よりも心地よく張り詰めていた距離をほのかにほどいてくれている気がしていた。
彼女の隣に腰かけるとき、そっと肩が触れあっても、
アランはもう一歩分だけ身を引いたりはしなくなった。
その事実が、レギュラスにとっては胸が熱くなるほど嬉しかった。
食堂のテーブル、並んで聴いた講義、図書室の机――
ありふれた時間の中に、ほんの少しずつ、あたたかい確かさが編まれていく。
たとえば、アランの手がふと開いたとき、躊躇いを持たずに自分の指先をそこに重ねられる。
風が冷えた時、彼女の手を包むように握っても、そっと握り返してくれる。
誰にも気づかれないように、空間を震わせないように、
ふたりの間にはやわらかく、静かなぬくもりが行き交い始めていた。
そのすべてが、レギュラスにとってなによりの証だった。
「たしかに、僕たちは近づけている。」
それは、焦がれるような高揚でも、夜を焦がすような情熱でもなかった。
けれどだからこそ、他の誰にも真似できない、ふたりだけのかたちなのだと彼は感じていた。
アランの髪にそっと触れること。
横顔を見つめること。
袖が重なる距離で歩くこと。
そんな、ごく自然な「触れ合うこと」が今日の中にあるだけで、
レギュラスの胸の奥には、しんとした幸福が静かに満ちていった。
彼女の心がどこへ向いていようと。
それでも今、自分の隣にいてくれる。
その事実だけが、深く、やさしく、彼を支えていた。
それはまだ、恋の途中。
けれど、ほんの少しでも触れられる関係に手が届いたことを、
レギュラスは何よりも大切に、誇りに思っていた。
夜のスリザリン談話室は、深い静けさに包まれていた。
壁を這う緑と銀の装飾は、かすかな灯りの中でゆらゆらと揺れていた。
暖炉の炎はすでに落ち着き、ただ赤いひかりだけがじんわりと空間を染めている。
その中で、ソファに並んで座るアランとレギュラスのあいだには、
言葉のない、けれど語り尽くせぬぬくもりが降りていた。
ふいに目が合った。
それがきっかけだった。
どちらからともなく――けれどあまりにも自然に、
ふたりはゆっくりと顔を近づけ、唇を重ねた。
初めてのキスとはまるで違っていた。
あのときのような心の準備も、突発的な緊張もない。
肩透かしのように訪れた、不意打ちのような感情でもなく。
今夜のキスは、しっとりと、やわらかく、
互いをただ静かに受け入れるものだった。
触れるだけの口づけ。
けれどその短い時間の中に、
ひとつひとつ積み重ねてきた距離、表せなかった想い、
そして許された安心感が、すべて息をひそめながら滲んでいた。
レギュラスは、指先でアランの髪をそっとなぞった。
そこに視線を送ると、彼女はいつも自然に目を細めてくれる。
言葉じゃ伝わりきらなかった愛情の輪郭が、
今はただこの沈黙の中で、静かにかたちになっていく。
――不思議だった。
あれほど胸の奥を灼かれていた嫉妬が、
今だけは、どこにも顔を出さなかった。
過去、誰かの名が囁かれたかもしれないことに、
痛みを覚えた自分が確かにそこにいたはずなのに。
「シリウスと、彼女のあいだにも、こうした穏やかなキスがあったのだろうか」
そんな考えがふと頭を過ぎっても、
その波はすぐにおだやかに引いていった。
まるで、レギュラスの中を流れるその思いが、
“今、彼女の隣にいるのは自分だ”という事実の前に、
何か大切なものを内側から、痛みの代わりに埋めてくれるようだった。
まるで痛み止め――いや、それ以上に、
癒しそのもののような、やさしい口づけだった。
唇を離す頃、談話室の灯はさらに弱くなっていた。
けれどふたりのあいだに流れていたものは、
誰にも触れられないやすらぎとして、確かにそこに残っていた。
静かな夜。
言葉よりも深く、そっと想いが重なる。
その繊細な温もりだけが、世界のすべてだった。
扉が軋む音とともに、重い壁の一角がひそやかに開いた。
その先に広がっていたのは、誰も知らない秘密の空間――
ホグワーツの無数の迷路の一部でありながら、
それがどんな記録にも残されていない場所だということを、アランはすぐに悟った。
「ここ……こんな部屋があるなんて……!」
驚きと興奮が混ざった声に、アランの瞳が淡く光っていた。
魔法灯をともせば、天井に吊るされた古びたランプがまどろむように部屋を照らす。
壁には時の忘れ物のような肖像画がかすかに揺れ、ガラス棚の中には色褪せた書物や壊れかけた魔法道具が収められている。
まるで時が止まったようなその空間の真ん中で、
アランは無垢な子どもが秘密基地を見つけたように、きらきらと目を輝かせていた。
その横顔を見つめるシリウスの胸には、
言葉にできない誇らしさがあたたかく広がっていた。
この場所を案内できたこと。
自分だけが知る秘密を、彼女と分かち合えたこと。
そしてその秘密が、アランの瞳に「驚き」と「歓び」という輝きとして映っていること。
「あぁ、連れてきてよかった」――自然と、そんな想いが胸に満ちていた。
「あなたたちって本当に、なんでも知ってるのね」
アランがふと振り返って言った。
美しく整った眉が、笑うようにやわらかく上がる。
その視線はただの尊敬や驚きではなく、
深い信頼に似た、やさしい光を帯びていた。
「夜な夜な、城を冒険してただけだよ」
シリウスは肩をすくめて笑った。
「ただのイタズラ好きのガキが見つけただけ。偶然さ」
そう言いながらも、
その“偶然”をアランの隣で語れる奇跡のような時間に、
どこか誇らしさと照れくささが染み込んでいた。
二人だけしか知らない場所。
ふたりだけの秘密。
ふたりだけの時間。
そんなものが世界にあるだけで、
すべてが許されるような錯覚を覚える。
今なら、どこへでも行ける気がした。
誰にも頼らず、誰にも縛られず――
二人だけで生きていけるのではないかと、本気でそう思えるほどに。
アランの笑い声が、古びた空間にふわりと溶ける。
その音は、静かに降る埃すら照らすようにやわらかく、
この瞬間をまるごと、魔法に変えてくれそうだった。
この夜、ホグワーツのどこよりも美しく満たされていたのは、
間違いなく、この誰も知らない小さな部屋だった。
アランと過ごす時間は、どうしてこんなにも短く感じるのだろう――
シリウスは、ふとそんなことを思っていた。
秘密の部屋にある、古びたベッド。
誰も使っていないはずのその寝台は、ところどころに沈みがあり、
身体を少し動かすたび、控えめな軋みを立てる。
けれどそれは、会話の合間に静かに忍び込むリズムのようで、
いつしか心地よい伴奏になっていた。
アランと、ベッドの上で。
向かい合って座ったり、同じ枕を分け合って寝転んだりしながら、
取りとめもない会話をいくつも重ねていく。
主に、シリウスが話す番だった。
ジェームズとのくだらない探検の話、ホグワーツにまつわる秘密の抜け道、
規則破りの綱渡りのような冒険――
そのたびに、アランが目を輝かせて、くすくす笑ってくれる。
「ほんとうに、あなたたちって……想像を超えてくるのね」
その言葉に、思わず得意気に肩をすくめる。
まるであの日の楽しさをもう一度なぞるように、
アランと話せば、すべてがまた、今日の出来事になる。
彼女の笑顔は、どんな魔法よりも強かった。
何も深い話でなくていい。
知識を披露するわけでも、未来を語るわけでもなく、
ただ「今日も楽しかったね」と言えるような――そんな積み重ねが、
この時間を、息を呑むほど大切なものにしていた。
アランが時折、シリウスの話に真剣な顔をして聞き入ると、
ふと視線が合う。
そのたびに、胸の奥がきゅっと高鳴る。
あぁ、もっと話していたいと思った。
彼女の興味を惹きつけ続けたいと、甘く願った。
カーテンの隙間からわずかに降りる光のなか、
ベッドの上にはふたりの影。
揺れる灯火に照らされながら、
肩が触れたり、手の甲が重なったり、ささいなふれあいがじわじわと心に染みていく。
きっとこの時間が永遠ではないことに、
気づいているからこそ、愛おしくてたまらなかった。
アランといるときだけ、シリウスは少しだけ素直になれる気がしていた。
家でもなく、義務でもない、
生まれた場所も、血のしがらみも関係なく、
ただひとりの少年として、笑えている。
話すほどに、笑い合うほどに、
魔法より強く惹かれていくその心を、
止める術など、シリウスにはもうなかった。
夜は静かに、ふたりの言葉を包み込んでいた。
それは、まるで時の歩みすら止まってしまったかのように――美しく、やさしい沈黙だった。
部屋の中は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
外の風が、木々の隙間を通り抜ける音さえ、ふたりの世界から遠ざかっていた。
触れる指先の一つひとつが、
言葉以上に深く伝えてくるものがあった。
この夜、ふたりは初めてのラインを、静かに、けれど確かに超えていった。
キスでも、ハグでもない――
もっと深いところで、お互いを許し、求め、重なり合う。
そんな行為。
それは決して衝動的なものではなく、
でもどこか理屈を越えたものだった。
ずっと重ねてきた気持ちが、溢れて、
もうどこにも止めどころがなくなった結果だった。
――ジェームズに、それとなく聞いていたことがある。
でも実際にその瞬間を迎えて初めて知った。
これは、思っていたよりもずっと――恐ろしく美しいことなのだと。
肌が触れ合うたびに、心が震えるのを感じた。
何度も息を整えようとしたけれど、
波が引いては寄せるように、
感情も、身体も、どこかへ流されていくようだった。
指で髪をすいたときのアランの頬の熱さ。
目が合ったとき、微かに揺れた睫毛。
小さく名を呼ぶ声――
どれもが愛しくてたまらなかった。
優しさだけでこの距離を超えたわけではない。
けれど、この夜のふたりにとって、そのすべてが愛だった。
守りたかった。支えたかった。触れたかった。
その全てを、この夜は赦された気がした。
シーツにくるまれて、世界の音が遠くなっていくなかで、
シリウスはそっとアランの髪に顔を埋めた。
心臓がまだ高鳴っていて、けれどそれは怖さではなかった。
愛おしくて、どうしようもなくて。
幸せで、涙が出そうになるくらいだった。
アランは何も言わなかった。
でもその瞳の奥に、静かに、すべてを委ねた感情が滲んでいた。
ただ寄り添うように、
ただ確かめるように、
ふたりはまだ名前のない絆の中にいた。
――世界のすべてを忘れていいと思った。
この夜のことは、
誰にも言葉にしないまま、ずっと胸に秘めていくんだろうと、
そんな予感だけが確かにあって。
光も音も届かない、
ただふたりだけの深い深い静けさの中、
シリウスは、これまででいちばん幸福だった。
朝の光がカーテンの隙間からそっと差し込んでいても、アランはベッドの中で目を閉じたままだった。
一晩眠ったはずなのに、身体の奥はまだ熱を帯びていて、
心の深いところで揺れている感覚が、静かに残っていた。
昨日、シリウスとすべてを分かち合ったこと。
それは言葉にすればたった一行で語れてしまうような出来事だったのかもしれない。
けれどアランにとって、それはひとつの生まれ変わりのようだった。
ただ身体を重ねただけではない。
あの夜、自分は確かに“何か”を受け取り、
そして、差し出したような気がしていた。
あの瞬間の自分はどう見えていたのだろう。
無様で、臆病で、それでも揺るぎなく――シリウスを思っていた。
彼の吐息、触れ合うたびに微かに震えた声、
耳元で名前をそっと呼ばれたあの瞬間――すべてが肌に焼きついて離れなかった。
思い出すだけで、
恥ずかしさに頬が勝手に熱を帯びる。
けれど、その熱は嫌なものではなくて、
むしろどこか、幸福に変わろうとする予感すらあった。
自分は、少しだけ大人になったのだろうか。
そんな風に思いたくなるほどに、
あの一夜の感覚は自分に多くのものを教えてくれた。
そして、だからこそ、今日は――レギュラスの顔が見られなかった。
彼の誠実さも、優しさも知っている。
でも、今朝のアランの心は、誰かに触れられるにはあまりにも繊細で、熱すぎた。
今の自分を誰にも触れさせたくない。
誰かに言葉をかけられるだけで、この余韻が壊れてしまいそうだった。
まるで壊れやすい硝子細工を、心の奥の一番静かな場所で抱えているような――そんな気持ち。
そっと胸に手を当ててみる。
振れる鼓動の左隣に、確かにまだ昨夜のシリウスがいる気がした。
言葉はいらなかった。
ただ、このぬくもりを、いまはひとりで守っていたい。
誰にも触れさせたくない。
それは逃げではなく、祝福のような防御だった。
アランはもう一度目を閉じて、
瞼の裏で、彼の指先、髪の香り、肌のあたたかさをゆっくり思い出していく。
やがて、光が少し強くなり、風がカーテンを揺らしても、
彼女はまだしばらく動けずにいた。
それほどまでに、あの時間は――
脆くて、美しくて、
そして、生まれて初めての、愛そのものだった。
その日は、朝から一度も講義に出なかった。
アラン・セシールが、それだけの時間を自らの意思で“欠席”というかたちに費やしたのは、ホグワーツに入って以来はじめてのことだった。
いつもなら、決められた時間通りに教室に向かい、
巻き毛ひとつ乱さず、指定された席に腰を下ろす。
ノートは端正で、答えはいつも正しく。
そうやって「従順な優等生」として、規則の中に自らを置いてきた。
だけど今朝は、目覚ましの音にさえ手を伸ばさなかった。
カーテンを引きもしないまま、
柔らかなベッドに包まれて、ただぼんやりと天井を見つめていた。
今日だけは、大人になった気がした。
誰が決めた道でもない。
誰かに求められた正しさでもない。
自分の衝動、生まれ変わるような幸福のあとに訪れた、静かな余韻。
そのなかに浸っている今の時間は――
どんな優等生の記録にも書かれない、初めての自分の“選択”だった。
けれど、夕方になっても部屋を離れずにいるうちに、
その幸福の余韻の影に、もうひとつのものが忍び込んできた。
「アラン、今日いなかったよね? 体調、平気?」
同じ部屋のチームメイトが、カーテン越しに声をかけてくる。
彼女の声は明るく、けれどどこか心配げで、かすかに遠慮が滲んでいた。
アランはゆっくり上体を起こし、
癖で一度スカートの裾をなでると、自分でも不思議なほど自然に言葉が口をついた。
「……ごめんなさい。少し体調が悪くて。」
ほんの一瞬の迷いすらなかった。
嘘ではないと、自分に言い聞かせながら。
けれど、そのあとに続いたチームメイトの言葉には、
心のどこか深いところがぞわりと冷えた。
「レギュラス様が、アランのこと、すごく心配してたわ。
いつから具合が悪かったのかって訊かれて……何度か探しに行ってたみたい。」
そうだった――レギュラス。
その名前を聞いた途端、朝からすっぽりと抜け落ちていた現実が、
ひとつひとつ雪のように降り積もってくる。
彼が、自分の不在に気づいて、
心配し、問い、探していた姿が、容易に思い浮かんだ。
整った制服姿、真剣なまなざし。
必要以上に騒がず、誰よりも丁寧に、けれど内心では焦燥と心配とを隠しきれず――
そういう彼の姿が、ありありと胸に浮かんできて、
アランはベッドの上で、静かに手を握りしめた。
なにと、どう誤魔化せばいいのだろう。
自ら選んだ初めての“反抗”は、
自由の味を持っていたけれど、
同時に、誰かの想いを切り捨てたという、ひどく鋭い棘ももたらしていた。
レギュラスの誠実さが、優しさが、
彼女の心に無言の重さで傷を残していた。
そしてその痛みこそが――
今日一日、彼女が触れてはいけないと思い、
考えないようにしてきた、いちばん大切な現実だった。
光がわずかに灯る部屋のなか、
アランは深く、誰にも聞かれないように、小さく息を吐いた。
