1章
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舞踏会を終え、真夜中過ぎにセシール家の自宅へと戻ったアランは、
煌びやかなドレスのまま、鏡の前でふと立ち止まった。
メイクは丁寧に仕上げられ、唇には艶のある淡い色。
肌には月の光のような静かな輝きが映っている。髪も丹念に結い上げられ、一糸乱れず美しかった。
まるで、絵画から抜け出してきたようだと、舞踏会でも何度も言われた。
上流の魔法使いたちの視線は彼女に集まり、礼賛の言葉がいくつも贈られた。
レギュラスもまた、その横顔に誇らしげな笑みを浮かべていた。
でも、アランの胸を満たしたのは、誇らしさでも満足でもなかった。
この姿を――
今、ただひとりだけに見てほしかった。
シリウス。
鏡の奥の自分を見つめながら、心の中で彼の名を呼んだ。
誰よりも自由で、誰よりも真っ直ぐだったあの人。
綺麗だと、きっと言ってくれる。
ひと目見ただけで、きっとその瞳が少しだけ丸くなって、笑って、「似合ってる」って言ってくれる。
飾られた言葉でも、礼儀でもなく――ただ、彼自身の素直な言葉で。
あの夜、天文台の下で交わした言葉が、いまも胸に温かく滲んでいる。
「結婚しよう」と言ってくれたあの優しい声は、どれだけドレスを着飾っても、今夜の誰の言葉よりも美しかった。
自分が誰かの”婚約者”として微笑みを貼りつけていたその時間のことなど、
もうどうでもよく思えた。
重たい伝統の布を纏いつづけるより、
シリウスの隣で、ただ無邪気に笑っていたかった。
一輪の花をもらって、素顔のままで美しいと笑ってもらいたかった。
今……会いたい。
静かに息を吸い、ドレスの裾を指でなぞる。
その繊細な生地の感触が、現実との境界線の冷たさのようだった。
気高く磨かれたこの姿を、
どうかあなたにだけ、見てほしいと――
心の奥で願いながら、アランはそっと目を閉じた。
夜は静かに深まり、窓の外には月がまだ高く美しかった。
今夜のアランは、とびきり美しかった。
比喩ではなく、レギュラスはその姿を見た瞬間、ただ立ち尽くすしかなかった。
ドレスの裾が床をすべり、淡い照明の中で輝く髪が波打つ。
完璧な所作と微笑――それでもなお飾り立てを超えて、光そのもののような輝きが、息を呑むほどだった。
レギュラスは、心の奥にそっと刻み込んだ。
これから先、どれほどの季節が流れようとも、きっと思い出すだろうと。
数え指で数えられるほど、ごくわずかにしか訪れない、生涯の頂点と呼べる夜――
アランは、まさにその象徴だった。
そして、そんな美しさを見た瞬間、レギュラスの中でこれまで感じたことのない衝動が生まれた。
それは不意打ちのような、どこか生々しく、恐ろしい欲望だった。
あんなにも清らかで、手を触れるだけで壊れてしまいそうな美しさを、
なぜだろう、自分の手で壊してしまいたいとすら思ったのだ。
「こんなに美しいものが、どうして……」
身勝手で破壊的な感情。
それが欲望であることはわかっていたが、それ以上に自分自身に驚いていた。
アランの翡翠の瞳には、夜ごとに深まる翳りがあった。
それを薄々感じ取っていた。
彼女が純血主義に疑問をもち、ためらい、遠くを見るように目を逸らすことも。
その思想が、決してこの世界の「正解」に見えないことを――彼女自身が分かっているのだということも。
レギュラスは知っていた。
その迷いの向こうに、誰がいるのかも。
シリウス。
彼の名が意識に浮かぶだけで、喉元が苦しくなる。
あの日、アランが行き先を偽って、自分ではなく兄の隣を選んだとき、
すべてが嘘になった気がした。
自分の信じていた秩序も、愛も、想いも――
確かな何かで築いてきたつもりの人生が、あの日を境に音もなく崩れ始めた。
アランを魅了したのは、シリウスだけではない。
それを取り巻く、マグルの街。
無数の光と自由に生きる人々。
魔法に頼らず、努力と創意で世界を紡ぐ彼らの姿。
そういうものすべてが、レギュラスにはどうしても美しいとは思えなかった。
むしろ、憎いと思ってしまった。 それは恐ろしい感情だった。
けれど、どうしても抑えることができなかった。
こんな世界――なければよかったと、心の底から思った。
マグルは魔法族を恐れ、過去には何度も迫害しようとした歴史がある。
それは闇の帝王が騒ぐずっと前から続いていた、習慣のような偏見と暴力だった。
それなのに、アランは。
シリウスは。
そんな世界に希望を見るように、無邪気に憧れ、語り、夢を見る。
――何が美しい? 何が特別だ?
特別であるべきは、自分たちだ。
魔法という祝福を、その血に宿して生まれた者たちこそが、守るべきものだったはずなのに。
感情の矛先が兄へと、世界への憤りへと、そして――
かすかに、アランへと向いてしまうこと。
それが、何よりつらかった。
愛している。
けれど、それだけでは届かないことを思い知らされていく。
ゆるやかにその距離が広がる気配に、レギュラスは微かに気が遠くなるような孤独を覚えた。
美しい夜だった。
この上なく、美しかったはずなのに――
レギュラスの心には、どこか底冷えする狂おしいような虚しさだけが残っていた。
校内新聞の朝、大広間はざわめいていた。
ブラック家で開催された社交界――その華やかさと、アランとレギュラスの婚約を謳う記事が、大きな見出しとともにホグワーツの新聞に載せられたのだ。
記事には、ドレスに身を包んだアランの写真が添えられている。
髪は淡い光を映して滑らかに流れ、深く気品あるドレスが美しく彼女を引き立てていた。
その姿に、多くの男子生徒たちが思わず目を輝かせて記事を回し見ていた。
女生徒たちはその美しさと品の良さに、憧れとため息を漏らしている。
けれど、その中心にいたアランの胸は、ざわついたままだった。
――本当は、あの夜の自分を誰よりも、シリウスに見てほしいと思っていた。
ふたりきりの時間の中で、素顔のままで褒めてほしかった。
けれど現実は、名家の令嬢として、婚約者の隣で、完璧な令嬢としての姿が、大勢の目にさらされている。
その中には、きっと……シリウスも。
新聞の写真が自分のものではなくなっていく感覚。
華やかに装い、誰もが褒めそやす“理想”の自分を、シリウスがどんな思いで見るのだろうかと思うだけで、胸が苦しくなった。
――「綺麗だ」と言ってほしかった。
でも、この写真の先にいるのは、もう“特別なアラン”ではなく、“誰もが憧れる婚約者”なのだ。
シリウスは、どんな顔でこの記事を読むだろう。
悔しがるのか、悲しむのか、それとも笑ってくれるのか――それがどうしても怖かった。
自分の本当の想いは、今こうして全校の前にさらされてしまうことで、より一層シリウスから遠く離れていくような気がした。
アランは指先でそっと新聞をなぞった。
美しく飾った自分と、戸惑いで揺れる今の自分。
どちらも、シリウスだけに知っていてほしいものだった。
明るい声と新聞のざわめきの中で、アランはたったひとり、静かに胸の奥の不安を抱きしめていた。
本当は、私のすべてを――
シリウス、あなただけに見てほしかった。
グリフィンドールの談話室には、夜の灯りが柔らかく降り注いでいた。
シリウス、ジェームズ、リーマス、ピーターの四人組が、暖炉を囲むようにして腰かけている。
談話室には他にも生徒がいるが、彼らの輪の中だけが、どこか違う時間を刻んでいるように感じられた。
ジェームズが新聞を覗き込みながら、ふと真剣な目でシリウスに問いかける。
「君はどうしたいんだい?」
火のはぜる音と、遠くで弾む笑い声。「親友の気持ちは応援したいさ」ジェームズは続ける。
「ただ…本気でアラン・セシールを想い、本気で結婚したいと思うなら、それは、たやすい道じゃない。無謀だし、夢を見すぎていると言わざるを得ないんじゃないか」
新聞には、舞踏会で美しく着飾ったアラン・セシールが微笑んでいた。
誰もが振り向く、その清さと静かな気品。
談話室の片隅で彼女の写真に見入る男子たちの姿も目に入る。
「アラン・セシールって少女は、たしかに美しい。…その美しさだけで、恋や愛を語れそうなくらいさ」
ジェームズの声には、どこか遠く夢見るような響きがあった。
「学生時代の思い出に彩を添えてくれる相手としてなら、これ以上ないくらい完璧かもしれない。忘れられない恋――そんなふうにも思える、華やかな存在だ」
けれど、新聞越しのアランの横にあるのは、ブラック家の二男――レギュラス。
「でもさ…名家の娘をレギュラスから奪い取って、一緒に生きていこうなんて考えたら。きっと、並じゃない障害が二人を待ち受けている」
ジェームズの言葉は、親友を思う真剣な重みを帯びていた。
「君は…そこまで考えているのか?」
暖炉の火がゆれる。
新聞の中で微笑み続けるアラン・セシールに目を落としながら、
四人組の空気がほのかに張りつめていく。
誰よりも応援したい気持ちがある。でも、
――それはあまりにも大きな夢で、
現実の重さや、彼女の身の上にある宿命、乗り越えるべきものの多さを前に、
ジェームズの胸には切なさと不安が、じわりと広がっていくのだった。
外では夜風が通り過ぎ、談話室には静かな灯りと、
親友たちを包む揺るぎない絆が、静かにそっと満ちていた。
ジェームズの言葉が静かに談話室の空気に溶けていったあと、
沈黙が落ちた。
暖炉の揺れる炎が、壁に長く影を映す中で、シリウスはじっと新聞に載ったアランの写真を見つめていた。
何も言葉が出てこなかった。
言えなかったのではない。
言葉なんて、うまく整えたところでこの想いの輪郭をなぞることさえできないことを、
彼はとうに理解していたのだ。
難しいことには、わかりきっているくらい、わかっている。
アランは名家の令嬢。
自分は家を捨て、家族を捨て、いまや忌み子同然の存在で――
そんな自分の隣に立つには、あまりにも多くのものを彼女は背負わなければならなくなる。
身に纏う家の誇りも、両親の期待も、未来さえも。
それでも。
それでも、好きだった。
綺麗だからでも、凛としているからでもなくて――
彼女の笑い声を、黙って佇む背中を、時折誰もいないところで涙を堪えるその強さを、
心ごと、全て——愛していた。
「……んなこと、わかってるよ。」
低く、けれど確かにシリウスが口を開いた。
怒りでも諦めでもない、ただ一つの確信を込めた声だった。
「障害が山ほどあるとか、世間が何言うかとか、
……どんな目に遭うかなんて、わかりきってるさ。
でも、好きだって気持ちは止められないんだよ。」
新聞の中のアランは、月の光のように淡く、美しく笑っていた。
けれどシリウスは、その微笑みの奥に潜む翳りを知っていた。
自由を愛しながら、縛りに従うしかない彼女の心の、静かな叫びを。
「……もし、アランが、俺と一緒に生きていくって覚悟してくれたらさ。
そのときは――
俺はどんな逆境も全部引き受けて、あいつを守っていくしかねぇだろ。」
そう言って、シリウスは首元のシャツをやや乱暴に整え、火の方へ顔を向ける。
「……それでもアランが“俺を選ぶ”って言ったらさ。
そんときゃ――もう、突き進むに決まってんだろ。」
その目には強い光が宿っていた。
迷いも恐れも、全て飲み込んだ上で、それでも燃え続ける信念の色だった。
一瞬の沈黙のあと、ジェームズはふっと肩を揺らして笑った。
「……さすがだよ、親友。」
ふざけ半分のようで、それでも本音がにじむ優しい声だった。
「君らしくてさ――安心した。」
シリウスは照れたように視線をそらしながらも、笑った。
互いに肩を並べて炎の揺れる音を聞く。
言葉はもういらなかった。
“信じるもののためなら、全てをかけても惜しくない”
その無鉄砲さを、誰よりも知っていて、誰よりも信じているのが、
隣の、かけがえのない親友だった。
夜風はやさしく、けれど確かに冷たくて、星々は誰にも遠慮なく煌めいていた。
ホグワーツの湖の上空を、ふたり乗りの箒がゆるやかに滑る。
音もなく、ただ空気を切る小さな風と心臓の鼓動だけがふたりを運んでいる。
後ろから回したアランの腕が、静かにシリウスの胸元に寄り添っていた。
長い沈黙のあと、ふとシリウスがぽつりと言った。
「……その、ドレス。綺麗だったな。」
言葉は軽く投げたつもりだったのに、
どこか声がかすれて、ほんとうの気持ちが滲み出てしまった自覚があった。
アランのからだがすこし揺れる。
そして彼女は、急いで言葉を探し始めた。
焦ったように、切実な声で。
「違うの、あれは……違うの……」
その声の震えに、シリウスはすぐに気づいた。
誤解を与えてしまった――そう直感して、慌てて頭をふる。
「ちげーよ、ほんとに。」
風に少しあおられながら、それでも彼はまっすぐに言葉をつむぐ。
「すげぇ綺麗だった。……泣き虫で、ちっせぇ頃から知ってるけどさ、今はほんとに、綺麗なんだ。
……それが言いたかっただけだよ。」
照れ隠しに笑おうとしたけれど、それ以上はもう何も言葉にできなかった。
想いが深くて、あたたかくて、どこか切なくて。
彼女のすべてが、今はただ胸をいっぱいにしていた。
そのとき、後ろから回されたアランの手が、きゅっと強くなる。
ただそこにいるだけじゃ足りないとでも言うように、シリウスの胸に小さなぬくもりが深く重なってくる。
耳もとで、柔らかな声がした。
「……ありがとう。
あなたに見てほしかったの。」
その声は、まるで星に触れるみたいに優しかった。
シリウスの心がふるえる。
空は広く、どこまでも続いているのに、
その瞬間、ふたりの世界だけが静かに浮かんでいた。
夜空に、魔法も言葉もいらないぬくもりが、
ただひとつ――確かに、瞬いていた。
寮の廊下には、夜更けという時間ならではの静寂が満ちていた。
壁に掛けられたランプの明かりは弱く揺れ、古い石造りの床をぼんやりと染めている。
その静けさの中、アランの足音だけが、薄衣のように柔らかく響いた。
ゆるやかな足取りだったが、どこか後ろめたい気配もあった。
規則の中で、決められた枠を守って生きてきた彼女が――
こんな時間に、寮へ戻ってくるなど、まずなかった。
レギュラスは、あらかじめ過ぎる推測を心で抑えつけながら、
思考のどこかで“やはり”と囁いてしまった自分を、止められなかった。
その直感は、あまりにも自然にシリウスの名前を浮かび上がらせた。
アランが角を曲がってきたとき、レギュラスはそこにいた。
壁にもたれ、まだきちんと制服を着たまま、眠った様子など一切なかった。
「……どこに行ってたんです?」
その声を発した瞬間、自分の声の温度に、本人が一番驚いた。
冷えていた。
静かであるはずなのに、まるで追及のような響きだった。
アランは、まさか誰かがここで自分を待っているとは思っていなかったのだろう。
訪れた沈黙に、彼女の表情が一瞬で驚きに染まり、そのあとすぐ――わずかな警戒の揺らぎ。
その瞳がこちらを見つめる。
「……起きてたの? レギュラス」
その声は普段と変わらぬ調子。
けれどレギュラスはそれに応えるように、慌てて言葉を繋いだ。
「アランこそ……眠れないんですか?」
柔らかい、と見せかけたその問いの陰に、
先ほどの冷たさを打ち消そうとする焦りが滲んでいた。
まるで、濁った水面を手で掻きまわして、底に沈んだものを見えなくしようとするように。
本当は、問いただしたかった。
校則違反のこと、その理由、隣に誰がいたのか――
その全てを、声を荒げて聞き出したいくらいだった。
けれど、それをしてしまえば、アランの中から何かが確実に離れていってしまうことも、
どこかでわかっていた。
だから、穏やかなふりをした。
もう少し、今の距離を保っていられるようにと無理に形を整え直す。
アランは、それ以上何も言わなかった。
ただ、「おやすみなさい」と小さな声で告げると、そっと自室の扉へと向かっていった。
レギュラスは一歩も動かず、
廊下に残る彼女の気配だけが静かに尾を引いた。
風もないその空間で、息苦しさだけが、
彼の胸に詳しく、そして確かに沈んでいった。
朝の教室は、いつもより少しだけゆるやかな時間が流れていた。
柔らかい光が石の窓から差し込み、空気を微かに温めている。
魔法薬学の授業前、教科書のページを淡々とめくる音だけが静けさを刻んでいた。
レギュラスは、隣に座るアランをちらりと見やった。
淡い光に照らされた彼女の横顔は、どこか眠たげで、
長い睫毛の影が頬に柔らかく落ちている。
瞼の奥で夢を見ているかのように、ふう、と小さく息を吐いた。
――眠いのだろう。
それは、当然のことだった。昨夜、確かに遅くまで——いや、おそらく夜通し——彼女は寮にいなかったのだから。
そこに、シリウスの名前が腰を据えて浮かんでくる。
何をしていたのだろうか。
何を語り、どこまで触れ合ったのだろうか。
考えまいとしても、想像が止まらなかった。
そのたびに胸の奥がざわめき、暗い熱に引きずられていく。
マグマのような感情が、理性のふちを溶かしていく。
アランが、もうシリウスと”そういう関係”であるのかもしれないという、確かめようのない疑問。
答えのないものほど厄介で、苛烈だとレギュラスは知っていた。
だからこそ、目を閉じても、教科書を開いても、脳裏に焼きつくのは
誰かの名ではなく、アランの背中、シリウスの輪郭、ふたりの重なる影。
それが“自分の知らない世界”であることに、狂おしいほどに胸が軋む。
指先でペンを握る力が強くなる。
その手は、たしかに震えていた。
思い返す――あの夜の舞踏会。
アラン淡く揺れる香りに、首筋の柔らかさに、初めて感じた、輪郭のはっきりとした“欲”。
それは、恋とはまた違う種類の衝動。
でも愛の一部であることも、レギュラスは感じていた。
だから、余計に苦しい。
彼女を子供として見られなくなった今、
ただの幻想ではいられなかった。
彼女が誰かと結ばれる「現実」を、目の前に突きつけられることの重さ。
隣では、アランがそっとページをめくった。
その何気ない仕草すら、なぜか遠く感じられて、
レギュラスは目をそらした。
仮に彼女の心が、触れる相手が、すでに他の誰かのものになっていたとしても――
それを今、受け入れるには残酷すぎた。
目の前にいるのに、届かない。
隣にいながら、遠ざかる。
その静かな絶望が、朝の教室にぼんやりと光る陽の中で、レギュラスの胸を静かに締めつけていた。
寮の廊下には夜の静寂が深く降りていた。
灯りは絞られ、壁にかかるランプがかすかな揺らぎを生み出している。
その薄明かりのなかで、ふいにレギュラスは声を発した。
「アラン……まだ、少し時間、ありませんか」
言葉にするとき、思ったよりも声が掠れていた。
それでもアランは足を止め、どこか驚いたような顔をしながらも、すぐにふわりと頷いて戻ってきた。
遠くへ行ってしまいそうな心を呼び止めて、振り向いてくれたこと――
そのたった一つの行為に、レギュラスは胸の奥で小さく安堵する。
やわらかい足音が近づく。
アランは彼の横に立ち、静かに問いかけた。
「どうしたの、レギュラス?」
その声はいつも通りで、穏やかで、けれどどこか、彼の胸の奥をつくような優しさに満ちていた。
呼び止めたのは自分だった。
何かを伝えるために、言葉を交わしたくてそうしたはずなのに。
いざ目の前に立たれて、視線が触れて、短い沈黙が訪れると、
言葉がひとつも見つからなかった。
レギュラスの手のひらは冷たく張りつめていて、背筋にもわずかに力が入ったままだった。
何かを言おうとして、けれど声にならない。
感情ばかりがかたちも持たずに心のなかで騒いでいる。
――今夜、こんな気持ちのまま眠れるはずがなかった。
休めぬままの心に、満ちていたのはただ一つ――
「触れたい」と願う、自覚した明確な思い。
あの穏やかな瞳に触れたくて、唇に、手に、その存在に触れたくて、
どうしようもない渇きを覚えていた。
けれど、アランはそれを知らずに、こうして隣に立っていてくれる。
何か話があるのだろうと、信じて待ってくれている。
それが、レギュラスには怖かった。
この気持ちのまま口を開けば、
アランを戸惑わせてしまうかもしれないという不安。
それでも、このままじゃ言葉すら届かない。
目の前で、ひとときの温もりを交わすこともできず、
また彼女は静かに「おやすみ」と言ってこの手の届かないところへ戻っていってしまう気がした。
レギュラスは、小さく呼吸を吸いなおし、
ようやくその一言を口にした。
「……少しだけ、あなたと一緒にいたかった。それだけなんです。」
その声は静かで、細く、
けれど彼の心の中にある千の想いをすべて凝縮したような、
たったひとつの真実だった。
アランは、それを聞いてそっと微笑んだ。
その微笑みが、どうかすべての問いの代わりになりますように、と――
レギュラスは胸の奥で切に願った。
深夜の談話室は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
暖炉にはわずかな残り火がくすぶり、壁の深緑のカーテンが夜風にゆるく揺れている。
その静寂のなか、レギュラスとアランは並んでロングソファに座っていた。
誰の声も、誰の視線もないこの場所で、ただふたりだけが、息をひそめるようにそこにいた。
会話も、理由も、目的も曖昧だった。
それでも、レギュラスは引き止めた。
「アラン、少しだけ……一緒にいてほしい」と。
それだけを言って、彼女の足を止めた。
アランは、そんな彼の隣にそっと座り、暫く沈黙の時間が流れたあとに、ぽつりと呟いた。
「……なんだか、変なレギュラス。」
その声はどこかあたたかくて、少し困ったようで、でも決して責める響きではなかった。
レギュラスは、苦笑すらできなかった。ただ、うつむいたまま視線を暖炉の方に投じた。
そう――自身でも自覚している。
いつものように振る舞えていないこと。
彼女に気づかれずに済むような“完璧な婚約者像”から、大きく崩れていることを。
けれどそれでも、引き止めずにはいられなかった。
ただ隣にいてほしいという、その一心。
ほんの少しでも、男女としての距離を縮めたいという、切実な欲求。
抱くようになってしまった“触れたい”という感情を、レギュラス自身どう扱っていいか分からなかった。
それがどれほど繊細で危ういものであるかも、理解はしていた。
けれど、自覚せずにはいられなかった。
恋と、愛と、そして欲が、ゆっくりと心の中で混ざり合って、
どうにも言葉にできない輪郭になって自分を動かしている。
シリウスがアランを見つめるまなざしを。
アランが笑うときにふと誰を思っているかを。
何もかも、自分は見てきた。
けれどこれは――全てが対抗心なんかじゃない。
アランが微かに愛しいと呟いた本の読み癖も、
眠たそうに瞬きをするまぶたの動きも、
誰かの噂話に肩をすくめる仕草も。
触れたい。
抱きしめたい。
彼女を人として、女性として、この手につかまえたい。
その感情が、いつの間にか自分を形づくっていた。
けれどその願いをどう放てばいいのか、わからない。
アランの静けさをこぼさない方法で、
どう伝えればよかったのかさえ。
ひとつ呼吸をしてから、レギュラスは、小さな声で言った。
短くて不器用な、本音の欠片を。
「……変かもしれないけど、あなたとこうしている時間が……ただ、なくなってしまいそうで、怖いんです。」
言葉は震えていた。
けれどそれは、強がりの仮面を脱ぎ捨てた、純粋な弱さだった。
アランは答えなかった。
ただ、視線だけを彼に向け、暖炉の炎の揺らぎと一緒に目を細めていた。
そしてふたりの間には、熱さも寒さもない、
ただ静かな、愛しさの影が落ちていた。
「レギュラス――」
名を呼ぶ声は、まるで静かな泉に小石が落ちたようだった。
夜の談話室、消えかけた暖炉の灯の下で紡がれたその声は、優しくて、少し問いかけるようだった。
けれどそれを聞いた瞬間、レギュラスの中で何かがはっきりと弾けた。
意識よりも先に、身体が動いていた。
アランの手をそっと引き寄せ、自分の方へ向かせる。
不意を突かれた彼女は小さく息を呑んだまま、動けないでいた。
瞬間――唇が重なった。
はじめて触れる誰かの唇。
驚くほどあたたかくて、やわらかくて、
こんなにも静かに、世界の音がどこかへ遠のいていく感覚に、レギュラスは呑みこまれていった。
どくん、どくん、と
心臓だけがやけに強く自己主張し、
まるで一生分の鼓動を、このわずかな数秒に詰め込まれているかのようだった。
アランの瞳が驚きに見開かれているのを、彼は感じていた。
けれど、それを見ることはどうしてもできなかった。
その瞳に映るものが、自分が望む色でなかったときのことを思えば。
だからただ、瞼を強く閉じ、逃げるように、
けれど想いだけはまっすぐに――
その唇に気持ちを重ねた。
言葉より先に、想いがあふれてしまうことがある。
制御できなくて、けれど止めることもできない。
それが、いまの彼だった。
夜の薄明かりの中で、二人の影がそっと重なっていく。
その一瞬の静寂が、
魔法よりも深く、永遠のように――続いてほしいと願ってしまうほどに、
美しく切なかった。
唇を離したあと、レギュラスはほんの少し呼吸を整えてから、
意を決するように、そっと目を開けた。
目の前には、アランがいた。
大きく見開かれた翡翠の瞳が、まるで時間が止まったかのように、彼を見つめ返していた。
名前を呼ぶでもなく、問いかけるでもなく、
ただただ驚きと戸惑いに染まったようなその視線――
「レギュラス……」
小さくこぼれたその声が空気を震わせ、
誰かが初めて言葉を学ぶときのような、無垢な響きをしていた。
その瞬間、レギュラスは、おかしくなるほど息苦しいほどに高鳴っていた鼓動が
なぜかすうっと落ち着きを取り戻していくのを感じた。
ついさっきまで彼を突き動かしていた熱と渇きの正体が、
その瞳ひとつで流れを変えてしまったことが、
不思議で、愛しくて、少しだけ可笑しかった。
目の前の少女は――アランは、
レギュラスが怖れていたほど、大人でもなく、
思い描いていたような恋の高揚に包まれていたわけでもなかった。
ただまっすぐに、子どものような純真さで今起こった出来事を受け止めようとしていた。
あまりに緊張していた心が、
ほんのすこし肩の力を抜いたようにゆるんで、
レギュラスはふと、微笑をこぼした。
「なんて顔してるんです、アラン。」
言葉はそっと落とすように、優しい温度で伝えられた。
思わず吹き出すことのないぎりぎりのところで、
ようやく彼自身にも余裕が戻っていた。
アランは、きょとんとした表情のまま、ぽつりと口を開く。
「……だって、驚いたわ。」
その返事に、ふたりの間にようやく空気が巡った。
ほんのりとした静寂のあとに、どこか緩やかで心地よい時間が流れ始める。
レギュラスは、そっと目を伏せた。
――ずっと、この一歩を踏み出したかった。
けれど、それがこんなにも色気のない、
肩透かしを食らったような展開になるとは、
さすがに想定していなかった。
もっと燃えるように、衝動的に、
ただ想いが感情に追いつかないまま、ふたりの世界が一瞬で変わってしまうのかと、
どこかで思っていたのかもしれない。
でもこうやって、拍子抜けして、
笑い合いながら立ち止まれる関係も――
レギュラスにとっては、
ほんとうに愛おしく、ありがたいひとときだった。
火の消えかけた談話室のなか、
静けさに溶けるようにすこしずつ、ふたりの間にあたたかい光が差し込んでいった。
レギュラスとのキスは、あまりにも不意打ちだった。
夜の談話室の静けさのなか、
名前を呼んだだけのアランに彼はそっと手を伸ばし、その唇を重ねてきた。
予感もなかった。
言葉より先に、理由もなく、ただ突然に落ちてきた触れ合いだった。
一瞬、時が止まったように思えた。
けれど――止まったのは身体だけで、胸ではなかった。
それは、決して心を震わせるような熱情でも、息を奪うような感動でもなかった。
シリウスとのときのように、時空がひしゃげるような強い想いのぶつかり合いでもなかった。
ただ静かで、やわらかくて、
あまりにも唐突すぎて、少しばかり驚いた拍子に、
思わず笑ってしまいそうになるような、
不思議な空気がふたりの間に漂った。
──レギュラス。
彼の頬はこわばり、瞼をきつく閉じたまま、
まるで自分の想いの形を言葉より早く伝えてしまったことに戸惑っているようだった。
気づいてしまう。
彼が、きっとこの一歩がふたりの関係を動かす鍵になると信じていたであろうことを。
だからこそ、何も感じられなかったことが残酷で、
反応しきれなかった自分が申し訳なくて、
アランは胸の奥で静かに罪悪感を積み重ねていった。
わたしがもっと嬉しそうにしていたなら。
驚かずに、笑ってあげられたなら。
彼が少しでも安心できたのかもしれないと、
そう思えば思うほど、瞳の奥にうまく言葉にならないものが滲んでいく。
それでも、その感情に名前を与えることはできなかった。
何も感じなかったわけではない。
ただ――シリウスと交わしたキスで知ってしまった「揺さぶられるような何か」とは明らかに違っていた。
レギュラスの想いに、応えなければと、そう思ってきた。
誠実に、丁寧に、彼の真っ直ぐな眼差しを裏切らないように。
彼の望む未来に自分という名が添えられているのであれば、それを受け入れるつもりでいた。
なのに。
思いがけず訪れたこの沈黙。
自分の笑顔ひとつで彼を救えなかったことに、
アランは今、息苦しいほどの“使命感”に縛られていた。
見上げれば、談話室の窓から、空にはいくつか星が滲んでいた。
その淡い光だけが、ふたりのあいだに流れる時間を静かに照らしていた。
何ひとつ間違っていないはずなのに、
なぜこんなにも、胸が苦しいのだろうとアランは思った。
煌びやかなドレスのまま、鏡の前でふと立ち止まった。
メイクは丁寧に仕上げられ、唇には艶のある淡い色。
肌には月の光のような静かな輝きが映っている。髪も丹念に結い上げられ、一糸乱れず美しかった。
まるで、絵画から抜け出してきたようだと、舞踏会でも何度も言われた。
上流の魔法使いたちの視線は彼女に集まり、礼賛の言葉がいくつも贈られた。
レギュラスもまた、その横顔に誇らしげな笑みを浮かべていた。
でも、アランの胸を満たしたのは、誇らしさでも満足でもなかった。
この姿を――
今、ただひとりだけに見てほしかった。
シリウス。
鏡の奥の自分を見つめながら、心の中で彼の名を呼んだ。
誰よりも自由で、誰よりも真っ直ぐだったあの人。
綺麗だと、きっと言ってくれる。
ひと目見ただけで、きっとその瞳が少しだけ丸くなって、笑って、「似合ってる」って言ってくれる。
飾られた言葉でも、礼儀でもなく――ただ、彼自身の素直な言葉で。
あの夜、天文台の下で交わした言葉が、いまも胸に温かく滲んでいる。
「結婚しよう」と言ってくれたあの優しい声は、どれだけドレスを着飾っても、今夜の誰の言葉よりも美しかった。
自分が誰かの”婚約者”として微笑みを貼りつけていたその時間のことなど、
もうどうでもよく思えた。
重たい伝統の布を纏いつづけるより、
シリウスの隣で、ただ無邪気に笑っていたかった。
一輪の花をもらって、素顔のままで美しいと笑ってもらいたかった。
今……会いたい。
静かに息を吸い、ドレスの裾を指でなぞる。
その繊細な生地の感触が、現実との境界線の冷たさのようだった。
気高く磨かれたこの姿を、
どうかあなたにだけ、見てほしいと――
心の奥で願いながら、アランはそっと目を閉じた。
夜は静かに深まり、窓の外には月がまだ高く美しかった。
今夜のアランは、とびきり美しかった。
比喩ではなく、レギュラスはその姿を見た瞬間、ただ立ち尽くすしかなかった。
ドレスの裾が床をすべり、淡い照明の中で輝く髪が波打つ。
完璧な所作と微笑――それでもなお飾り立てを超えて、光そのもののような輝きが、息を呑むほどだった。
レギュラスは、心の奥にそっと刻み込んだ。
これから先、どれほどの季節が流れようとも、きっと思い出すだろうと。
数え指で数えられるほど、ごくわずかにしか訪れない、生涯の頂点と呼べる夜――
アランは、まさにその象徴だった。
そして、そんな美しさを見た瞬間、レギュラスの中でこれまで感じたことのない衝動が生まれた。
それは不意打ちのような、どこか生々しく、恐ろしい欲望だった。
あんなにも清らかで、手を触れるだけで壊れてしまいそうな美しさを、
なぜだろう、自分の手で壊してしまいたいとすら思ったのだ。
「こんなに美しいものが、どうして……」
身勝手で破壊的な感情。
それが欲望であることはわかっていたが、それ以上に自分自身に驚いていた。
アランの翡翠の瞳には、夜ごとに深まる翳りがあった。
それを薄々感じ取っていた。
彼女が純血主義に疑問をもち、ためらい、遠くを見るように目を逸らすことも。
その思想が、決してこの世界の「正解」に見えないことを――彼女自身が分かっているのだということも。
レギュラスは知っていた。
その迷いの向こうに、誰がいるのかも。
シリウス。
彼の名が意識に浮かぶだけで、喉元が苦しくなる。
あの日、アランが行き先を偽って、自分ではなく兄の隣を選んだとき、
すべてが嘘になった気がした。
自分の信じていた秩序も、愛も、想いも――
確かな何かで築いてきたつもりの人生が、あの日を境に音もなく崩れ始めた。
アランを魅了したのは、シリウスだけではない。
それを取り巻く、マグルの街。
無数の光と自由に生きる人々。
魔法に頼らず、努力と創意で世界を紡ぐ彼らの姿。
そういうものすべてが、レギュラスにはどうしても美しいとは思えなかった。
むしろ、憎いと思ってしまった。 それは恐ろしい感情だった。
けれど、どうしても抑えることができなかった。
こんな世界――なければよかったと、心の底から思った。
マグルは魔法族を恐れ、過去には何度も迫害しようとした歴史がある。
それは闇の帝王が騒ぐずっと前から続いていた、習慣のような偏見と暴力だった。
それなのに、アランは。
シリウスは。
そんな世界に希望を見るように、無邪気に憧れ、語り、夢を見る。
――何が美しい? 何が特別だ?
特別であるべきは、自分たちだ。
魔法という祝福を、その血に宿して生まれた者たちこそが、守るべきものだったはずなのに。
感情の矛先が兄へと、世界への憤りへと、そして――
かすかに、アランへと向いてしまうこと。
それが、何よりつらかった。
愛している。
けれど、それだけでは届かないことを思い知らされていく。
ゆるやかにその距離が広がる気配に、レギュラスは微かに気が遠くなるような孤独を覚えた。
美しい夜だった。
この上なく、美しかったはずなのに――
レギュラスの心には、どこか底冷えする狂おしいような虚しさだけが残っていた。
校内新聞の朝、大広間はざわめいていた。
ブラック家で開催された社交界――その華やかさと、アランとレギュラスの婚約を謳う記事が、大きな見出しとともにホグワーツの新聞に載せられたのだ。
記事には、ドレスに身を包んだアランの写真が添えられている。
髪は淡い光を映して滑らかに流れ、深く気品あるドレスが美しく彼女を引き立てていた。
その姿に、多くの男子生徒たちが思わず目を輝かせて記事を回し見ていた。
女生徒たちはその美しさと品の良さに、憧れとため息を漏らしている。
けれど、その中心にいたアランの胸は、ざわついたままだった。
――本当は、あの夜の自分を誰よりも、シリウスに見てほしいと思っていた。
ふたりきりの時間の中で、素顔のままで褒めてほしかった。
けれど現実は、名家の令嬢として、婚約者の隣で、完璧な令嬢としての姿が、大勢の目にさらされている。
その中には、きっと……シリウスも。
新聞の写真が自分のものではなくなっていく感覚。
華やかに装い、誰もが褒めそやす“理想”の自分を、シリウスがどんな思いで見るのだろうかと思うだけで、胸が苦しくなった。
――「綺麗だ」と言ってほしかった。
でも、この写真の先にいるのは、もう“特別なアラン”ではなく、“誰もが憧れる婚約者”なのだ。
シリウスは、どんな顔でこの記事を読むだろう。
悔しがるのか、悲しむのか、それとも笑ってくれるのか――それがどうしても怖かった。
自分の本当の想いは、今こうして全校の前にさらされてしまうことで、より一層シリウスから遠く離れていくような気がした。
アランは指先でそっと新聞をなぞった。
美しく飾った自分と、戸惑いで揺れる今の自分。
どちらも、シリウスだけに知っていてほしいものだった。
明るい声と新聞のざわめきの中で、アランはたったひとり、静かに胸の奥の不安を抱きしめていた。
本当は、私のすべてを――
シリウス、あなただけに見てほしかった。
グリフィンドールの談話室には、夜の灯りが柔らかく降り注いでいた。
シリウス、ジェームズ、リーマス、ピーターの四人組が、暖炉を囲むようにして腰かけている。
談話室には他にも生徒がいるが、彼らの輪の中だけが、どこか違う時間を刻んでいるように感じられた。
ジェームズが新聞を覗き込みながら、ふと真剣な目でシリウスに問いかける。
「君はどうしたいんだい?」
火のはぜる音と、遠くで弾む笑い声。「親友の気持ちは応援したいさ」ジェームズは続ける。
「ただ…本気でアラン・セシールを想い、本気で結婚したいと思うなら、それは、たやすい道じゃない。無謀だし、夢を見すぎていると言わざるを得ないんじゃないか」
新聞には、舞踏会で美しく着飾ったアラン・セシールが微笑んでいた。
誰もが振り向く、その清さと静かな気品。
談話室の片隅で彼女の写真に見入る男子たちの姿も目に入る。
「アラン・セシールって少女は、たしかに美しい。…その美しさだけで、恋や愛を語れそうなくらいさ」
ジェームズの声には、どこか遠く夢見るような響きがあった。
「学生時代の思い出に彩を添えてくれる相手としてなら、これ以上ないくらい完璧かもしれない。忘れられない恋――そんなふうにも思える、華やかな存在だ」
けれど、新聞越しのアランの横にあるのは、ブラック家の二男――レギュラス。
「でもさ…名家の娘をレギュラスから奪い取って、一緒に生きていこうなんて考えたら。きっと、並じゃない障害が二人を待ち受けている」
ジェームズの言葉は、親友を思う真剣な重みを帯びていた。
「君は…そこまで考えているのか?」
暖炉の火がゆれる。
新聞の中で微笑み続けるアラン・セシールに目を落としながら、
四人組の空気がほのかに張りつめていく。
誰よりも応援したい気持ちがある。でも、
――それはあまりにも大きな夢で、
現実の重さや、彼女の身の上にある宿命、乗り越えるべきものの多さを前に、
ジェームズの胸には切なさと不安が、じわりと広がっていくのだった。
外では夜風が通り過ぎ、談話室には静かな灯りと、
親友たちを包む揺るぎない絆が、静かにそっと満ちていた。
ジェームズの言葉が静かに談話室の空気に溶けていったあと、
沈黙が落ちた。
暖炉の揺れる炎が、壁に長く影を映す中で、シリウスはじっと新聞に載ったアランの写真を見つめていた。
何も言葉が出てこなかった。
言えなかったのではない。
言葉なんて、うまく整えたところでこの想いの輪郭をなぞることさえできないことを、
彼はとうに理解していたのだ。
難しいことには、わかりきっているくらい、わかっている。
アランは名家の令嬢。
自分は家を捨て、家族を捨て、いまや忌み子同然の存在で――
そんな自分の隣に立つには、あまりにも多くのものを彼女は背負わなければならなくなる。
身に纏う家の誇りも、両親の期待も、未来さえも。
それでも。
それでも、好きだった。
綺麗だからでも、凛としているからでもなくて――
彼女の笑い声を、黙って佇む背中を、時折誰もいないところで涙を堪えるその強さを、
心ごと、全て——愛していた。
「……んなこと、わかってるよ。」
低く、けれど確かにシリウスが口を開いた。
怒りでも諦めでもない、ただ一つの確信を込めた声だった。
「障害が山ほどあるとか、世間が何言うかとか、
……どんな目に遭うかなんて、わかりきってるさ。
でも、好きだって気持ちは止められないんだよ。」
新聞の中のアランは、月の光のように淡く、美しく笑っていた。
けれどシリウスは、その微笑みの奥に潜む翳りを知っていた。
自由を愛しながら、縛りに従うしかない彼女の心の、静かな叫びを。
「……もし、アランが、俺と一緒に生きていくって覚悟してくれたらさ。
そのときは――
俺はどんな逆境も全部引き受けて、あいつを守っていくしかねぇだろ。」
そう言って、シリウスは首元のシャツをやや乱暴に整え、火の方へ顔を向ける。
「……それでもアランが“俺を選ぶ”って言ったらさ。
そんときゃ――もう、突き進むに決まってんだろ。」
その目には強い光が宿っていた。
迷いも恐れも、全て飲み込んだ上で、それでも燃え続ける信念の色だった。
一瞬の沈黙のあと、ジェームズはふっと肩を揺らして笑った。
「……さすがだよ、親友。」
ふざけ半分のようで、それでも本音がにじむ優しい声だった。
「君らしくてさ――安心した。」
シリウスは照れたように視線をそらしながらも、笑った。
互いに肩を並べて炎の揺れる音を聞く。
言葉はもういらなかった。
“信じるもののためなら、全てをかけても惜しくない”
その無鉄砲さを、誰よりも知っていて、誰よりも信じているのが、
隣の、かけがえのない親友だった。
夜風はやさしく、けれど確かに冷たくて、星々は誰にも遠慮なく煌めいていた。
ホグワーツの湖の上空を、ふたり乗りの箒がゆるやかに滑る。
音もなく、ただ空気を切る小さな風と心臓の鼓動だけがふたりを運んでいる。
後ろから回したアランの腕が、静かにシリウスの胸元に寄り添っていた。
長い沈黙のあと、ふとシリウスがぽつりと言った。
「……その、ドレス。綺麗だったな。」
言葉は軽く投げたつもりだったのに、
どこか声がかすれて、ほんとうの気持ちが滲み出てしまった自覚があった。
アランのからだがすこし揺れる。
そして彼女は、急いで言葉を探し始めた。
焦ったように、切実な声で。
「違うの、あれは……違うの……」
その声の震えに、シリウスはすぐに気づいた。
誤解を与えてしまった――そう直感して、慌てて頭をふる。
「ちげーよ、ほんとに。」
風に少しあおられながら、それでも彼はまっすぐに言葉をつむぐ。
「すげぇ綺麗だった。……泣き虫で、ちっせぇ頃から知ってるけどさ、今はほんとに、綺麗なんだ。
……それが言いたかっただけだよ。」
照れ隠しに笑おうとしたけれど、それ以上はもう何も言葉にできなかった。
想いが深くて、あたたかくて、どこか切なくて。
彼女のすべてが、今はただ胸をいっぱいにしていた。
そのとき、後ろから回されたアランの手が、きゅっと強くなる。
ただそこにいるだけじゃ足りないとでも言うように、シリウスの胸に小さなぬくもりが深く重なってくる。
耳もとで、柔らかな声がした。
「……ありがとう。
あなたに見てほしかったの。」
その声は、まるで星に触れるみたいに優しかった。
シリウスの心がふるえる。
空は広く、どこまでも続いているのに、
その瞬間、ふたりの世界だけが静かに浮かんでいた。
夜空に、魔法も言葉もいらないぬくもりが、
ただひとつ――確かに、瞬いていた。
寮の廊下には、夜更けという時間ならではの静寂が満ちていた。
壁に掛けられたランプの明かりは弱く揺れ、古い石造りの床をぼんやりと染めている。
その静けさの中、アランの足音だけが、薄衣のように柔らかく響いた。
ゆるやかな足取りだったが、どこか後ろめたい気配もあった。
規則の中で、決められた枠を守って生きてきた彼女が――
こんな時間に、寮へ戻ってくるなど、まずなかった。
レギュラスは、あらかじめ過ぎる推測を心で抑えつけながら、
思考のどこかで“やはり”と囁いてしまった自分を、止められなかった。
その直感は、あまりにも自然にシリウスの名前を浮かび上がらせた。
アランが角を曲がってきたとき、レギュラスはそこにいた。
壁にもたれ、まだきちんと制服を着たまま、眠った様子など一切なかった。
「……どこに行ってたんです?」
その声を発した瞬間、自分の声の温度に、本人が一番驚いた。
冷えていた。
静かであるはずなのに、まるで追及のような響きだった。
アランは、まさか誰かがここで自分を待っているとは思っていなかったのだろう。
訪れた沈黙に、彼女の表情が一瞬で驚きに染まり、そのあとすぐ――わずかな警戒の揺らぎ。
その瞳がこちらを見つめる。
「……起きてたの? レギュラス」
その声は普段と変わらぬ調子。
けれどレギュラスはそれに応えるように、慌てて言葉を繋いだ。
「アランこそ……眠れないんですか?」
柔らかい、と見せかけたその問いの陰に、
先ほどの冷たさを打ち消そうとする焦りが滲んでいた。
まるで、濁った水面を手で掻きまわして、底に沈んだものを見えなくしようとするように。
本当は、問いただしたかった。
校則違反のこと、その理由、隣に誰がいたのか――
その全てを、声を荒げて聞き出したいくらいだった。
けれど、それをしてしまえば、アランの中から何かが確実に離れていってしまうことも、
どこかでわかっていた。
だから、穏やかなふりをした。
もう少し、今の距離を保っていられるようにと無理に形を整え直す。
アランは、それ以上何も言わなかった。
ただ、「おやすみなさい」と小さな声で告げると、そっと自室の扉へと向かっていった。
レギュラスは一歩も動かず、
廊下に残る彼女の気配だけが静かに尾を引いた。
風もないその空間で、息苦しさだけが、
彼の胸に詳しく、そして確かに沈んでいった。
朝の教室は、いつもより少しだけゆるやかな時間が流れていた。
柔らかい光が石の窓から差し込み、空気を微かに温めている。
魔法薬学の授業前、教科書のページを淡々とめくる音だけが静けさを刻んでいた。
レギュラスは、隣に座るアランをちらりと見やった。
淡い光に照らされた彼女の横顔は、どこか眠たげで、
長い睫毛の影が頬に柔らかく落ちている。
瞼の奥で夢を見ているかのように、ふう、と小さく息を吐いた。
――眠いのだろう。
それは、当然のことだった。昨夜、確かに遅くまで——いや、おそらく夜通し——彼女は寮にいなかったのだから。
そこに、シリウスの名前が腰を据えて浮かんでくる。
何をしていたのだろうか。
何を語り、どこまで触れ合ったのだろうか。
考えまいとしても、想像が止まらなかった。
そのたびに胸の奥がざわめき、暗い熱に引きずられていく。
マグマのような感情が、理性のふちを溶かしていく。
アランが、もうシリウスと”そういう関係”であるのかもしれないという、確かめようのない疑問。
答えのないものほど厄介で、苛烈だとレギュラスは知っていた。
だからこそ、目を閉じても、教科書を開いても、脳裏に焼きつくのは
誰かの名ではなく、アランの背中、シリウスの輪郭、ふたりの重なる影。
それが“自分の知らない世界”であることに、狂おしいほどに胸が軋む。
指先でペンを握る力が強くなる。
その手は、たしかに震えていた。
思い返す――あの夜の舞踏会。
アラン淡く揺れる香りに、首筋の柔らかさに、初めて感じた、輪郭のはっきりとした“欲”。
それは、恋とはまた違う種類の衝動。
でも愛の一部であることも、レギュラスは感じていた。
だから、余計に苦しい。
彼女を子供として見られなくなった今、
ただの幻想ではいられなかった。
彼女が誰かと結ばれる「現実」を、目の前に突きつけられることの重さ。
隣では、アランがそっとページをめくった。
その何気ない仕草すら、なぜか遠く感じられて、
レギュラスは目をそらした。
仮に彼女の心が、触れる相手が、すでに他の誰かのものになっていたとしても――
それを今、受け入れるには残酷すぎた。
目の前にいるのに、届かない。
隣にいながら、遠ざかる。
その静かな絶望が、朝の教室にぼんやりと光る陽の中で、レギュラスの胸を静かに締めつけていた。
寮の廊下には夜の静寂が深く降りていた。
灯りは絞られ、壁にかかるランプがかすかな揺らぎを生み出している。
その薄明かりのなかで、ふいにレギュラスは声を発した。
「アラン……まだ、少し時間、ありませんか」
言葉にするとき、思ったよりも声が掠れていた。
それでもアランは足を止め、どこか驚いたような顔をしながらも、すぐにふわりと頷いて戻ってきた。
遠くへ行ってしまいそうな心を呼び止めて、振り向いてくれたこと――
そのたった一つの行為に、レギュラスは胸の奥で小さく安堵する。
やわらかい足音が近づく。
アランは彼の横に立ち、静かに問いかけた。
「どうしたの、レギュラス?」
その声はいつも通りで、穏やかで、けれどどこか、彼の胸の奥をつくような優しさに満ちていた。
呼び止めたのは自分だった。
何かを伝えるために、言葉を交わしたくてそうしたはずなのに。
いざ目の前に立たれて、視線が触れて、短い沈黙が訪れると、
言葉がひとつも見つからなかった。
レギュラスの手のひらは冷たく張りつめていて、背筋にもわずかに力が入ったままだった。
何かを言おうとして、けれど声にならない。
感情ばかりがかたちも持たずに心のなかで騒いでいる。
――今夜、こんな気持ちのまま眠れるはずがなかった。
休めぬままの心に、満ちていたのはただ一つ――
「触れたい」と願う、自覚した明確な思い。
あの穏やかな瞳に触れたくて、唇に、手に、その存在に触れたくて、
どうしようもない渇きを覚えていた。
けれど、アランはそれを知らずに、こうして隣に立っていてくれる。
何か話があるのだろうと、信じて待ってくれている。
それが、レギュラスには怖かった。
この気持ちのまま口を開けば、
アランを戸惑わせてしまうかもしれないという不安。
それでも、このままじゃ言葉すら届かない。
目の前で、ひとときの温もりを交わすこともできず、
また彼女は静かに「おやすみ」と言ってこの手の届かないところへ戻っていってしまう気がした。
レギュラスは、小さく呼吸を吸いなおし、
ようやくその一言を口にした。
「……少しだけ、あなたと一緒にいたかった。それだけなんです。」
その声は静かで、細く、
けれど彼の心の中にある千の想いをすべて凝縮したような、
たったひとつの真実だった。
アランは、それを聞いてそっと微笑んだ。
その微笑みが、どうかすべての問いの代わりになりますように、と――
レギュラスは胸の奥で切に願った。
深夜の談話室は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
暖炉にはわずかな残り火がくすぶり、壁の深緑のカーテンが夜風にゆるく揺れている。
その静寂のなか、レギュラスとアランは並んでロングソファに座っていた。
誰の声も、誰の視線もないこの場所で、ただふたりだけが、息をひそめるようにそこにいた。
会話も、理由も、目的も曖昧だった。
それでも、レギュラスは引き止めた。
「アラン、少しだけ……一緒にいてほしい」と。
それだけを言って、彼女の足を止めた。
アランは、そんな彼の隣にそっと座り、暫く沈黙の時間が流れたあとに、ぽつりと呟いた。
「……なんだか、変なレギュラス。」
その声はどこかあたたかくて、少し困ったようで、でも決して責める響きではなかった。
レギュラスは、苦笑すらできなかった。ただ、うつむいたまま視線を暖炉の方に投じた。
そう――自身でも自覚している。
いつものように振る舞えていないこと。
彼女に気づかれずに済むような“完璧な婚約者像”から、大きく崩れていることを。
けれどそれでも、引き止めずにはいられなかった。
ただ隣にいてほしいという、その一心。
ほんの少しでも、男女としての距離を縮めたいという、切実な欲求。
抱くようになってしまった“触れたい”という感情を、レギュラス自身どう扱っていいか分からなかった。
それがどれほど繊細で危ういものであるかも、理解はしていた。
けれど、自覚せずにはいられなかった。
恋と、愛と、そして欲が、ゆっくりと心の中で混ざり合って、
どうにも言葉にできない輪郭になって自分を動かしている。
シリウスがアランを見つめるまなざしを。
アランが笑うときにふと誰を思っているかを。
何もかも、自分は見てきた。
けれどこれは――全てが対抗心なんかじゃない。
アランが微かに愛しいと呟いた本の読み癖も、
眠たそうに瞬きをするまぶたの動きも、
誰かの噂話に肩をすくめる仕草も。
触れたい。
抱きしめたい。
彼女を人として、女性として、この手につかまえたい。
その感情が、いつの間にか自分を形づくっていた。
けれどその願いをどう放てばいいのか、わからない。
アランの静けさをこぼさない方法で、
どう伝えればよかったのかさえ。
ひとつ呼吸をしてから、レギュラスは、小さな声で言った。
短くて不器用な、本音の欠片を。
「……変かもしれないけど、あなたとこうしている時間が……ただ、なくなってしまいそうで、怖いんです。」
言葉は震えていた。
けれどそれは、強がりの仮面を脱ぎ捨てた、純粋な弱さだった。
アランは答えなかった。
ただ、視線だけを彼に向け、暖炉の炎の揺らぎと一緒に目を細めていた。
そしてふたりの間には、熱さも寒さもない、
ただ静かな、愛しさの影が落ちていた。
「レギュラス――」
名を呼ぶ声は、まるで静かな泉に小石が落ちたようだった。
夜の談話室、消えかけた暖炉の灯の下で紡がれたその声は、優しくて、少し問いかけるようだった。
けれどそれを聞いた瞬間、レギュラスの中で何かがはっきりと弾けた。
意識よりも先に、身体が動いていた。
アランの手をそっと引き寄せ、自分の方へ向かせる。
不意を突かれた彼女は小さく息を呑んだまま、動けないでいた。
瞬間――唇が重なった。
はじめて触れる誰かの唇。
驚くほどあたたかくて、やわらかくて、
こんなにも静かに、世界の音がどこかへ遠のいていく感覚に、レギュラスは呑みこまれていった。
どくん、どくん、と
心臓だけがやけに強く自己主張し、
まるで一生分の鼓動を、このわずかな数秒に詰め込まれているかのようだった。
アランの瞳が驚きに見開かれているのを、彼は感じていた。
けれど、それを見ることはどうしてもできなかった。
その瞳に映るものが、自分が望む色でなかったときのことを思えば。
だからただ、瞼を強く閉じ、逃げるように、
けれど想いだけはまっすぐに――
その唇に気持ちを重ねた。
言葉より先に、想いがあふれてしまうことがある。
制御できなくて、けれど止めることもできない。
それが、いまの彼だった。
夜の薄明かりの中で、二人の影がそっと重なっていく。
その一瞬の静寂が、
魔法よりも深く、永遠のように――続いてほしいと願ってしまうほどに、
美しく切なかった。
唇を離したあと、レギュラスはほんの少し呼吸を整えてから、
意を決するように、そっと目を開けた。
目の前には、アランがいた。
大きく見開かれた翡翠の瞳が、まるで時間が止まったかのように、彼を見つめ返していた。
名前を呼ぶでもなく、問いかけるでもなく、
ただただ驚きと戸惑いに染まったようなその視線――
「レギュラス……」
小さくこぼれたその声が空気を震わせ、
誰かが初めて言葉を学ぶときのような、無垢な響きをしていた。
その瞬間、レギュラスは、おかしくなるほど息苦しいほどに高鳴っていた鼓動が
なぜかすうっと落ち着きを取り戻していくのを感じた。
ついさっきまで彼を突き動かしていた熱と渇きの正体が、
その瞳ひとつで流れを変えてしまったことが、
不思議で、愛しくて、少しだけ可笑しかった。
目の前の少女は――アランは、
レギュラスが怖れていたほど、大人でもなく、
思い描いていたような恋の高揚に包まれていたわけでもなかった。
ただまっすぐに、子どものような純真さで今起こった出来事を受け止めようとしていた。
あまりに緊張していた心が、
ほんのすこし肩の力を抜いたようにゆるんで、
レギュラスはふと、微笑をこぼした。
「なんて顔してるんです、アラン。」
言葉はそっと落とすように、優しい温度で伝えられた。
思わず吹き出すことのないぎりぎりのところで、
ようやく彼自身にも余裕が戻っていた。
アランは、きょとんとした表情のまま、ぽつりと口を開く。
「……だって、驚いたわ。」
その返事に、ふたりの間にようやく空気が巡った。
ほんのりとした静寂のあとに、どこか緩やかで心地よい時間が流れ始める。
レギュラスは、そっと目を伏せた。
――ずっと、この一歩を踏み出したかった。
けれど、それがこんなにも色気のない、
肩透かしを食らったような展開になるとは、
さすがに想定していなかった。
もっと燃えるように、衝動的に、
ただ想いが感情に追いつかないまま、ふたりの世界が一瞬で変わってしまうのかと、
どこかで思っていたのかもしれない。
でもこうやって、拍子抜けして、
笑い合いながら立ち止まれる関係も――
レギュラスにとっては、
ほんとうに愛おしく、ありがたいひとときだった。
火の消えかけた談話室のなか、
静けさに溶けるようにすこしずつ、ふたりの間にあたたかい光が差し込んでいった。
レギュラスとのキスは、あまりにも不意打ちだった。
夜の談話室の静けさのなか、
名前を呼んだだけのアランに彼はそっと手を伸ばし、その唇を重ねてきた。
予感もなかった。
言葉より先に、理由もなく、ただ突然に落ちてきた触れ合いだった。
一瞬、時が止まったように思えた。
けれど――止まったのは身体だけで、胸ではなかった。
それは、決して心を震わせるような熱情でも、息を奪うような感動でもなかった。
シリウスとのときのように、時空がひしゃげるような強い想いのぶつかり合いでもなかった。
ただ静かで、やわらかくて、
あまりにも唐突すぎて、少しばかり驚いた拍子に、
思わず笑ってしまいそうになるような、
不思議な空気がふたりの間に漂った。
──レギュラス。
彼の頬はこわばり、瞼をきつく閉じたまま、
まるで自分の想いの形を言葉より早く伝えてしまったことに戸惑っているようだった。
気づいてしまう。
彼が、きっとこの一歩がふたりの関係を動かす鍵になると信じていたであろうことを。
だからこそ、何も感じられなかったことが残酷で、
反応しきれなかった自分が申し訳なくて、
アランは胸の奥で静かに罪悪感を積み重ねていった。
わたしがもっと嬉しそうにしていたなら。
驚かずに、笑ってあげられたなら。
彼が少しでも安心できたのかもしれないと、
そう思えば思うほど、瞳の奥にうまく言葉にならないものが滲んでいく。
それでも、その感情に名前を与えることはできなかった。
何も感じなかったわけではない。
ただ――シリウスと交わしたキスで知ってしまった「揺さぶられるような何か」とは明らかに違っていた。
レギュラスの想いに、応えなければと、そう思ってきた。
誠実に、丁寧に、彼の真っ直ぐな眼差しを裏切らないように。
彼の望む未来に自分という名が添えられているのであれば、それを受け入れるつもりでいた。
なのに。
思いがけず訪れたこの沈黙。
自分の笑顔ひとつで彼を救えなかったことに、
アランは今、息苦しいほどの“使命感”に縛られていた。
見上げれば、談話室の窓から、空にはいくつか星が滲んでいた。
その淡い光だけが、ふたりのあいだに流れる時間を静かに照らしていた。
何ひとつ間違っていないはずなのに、
なぜこんなにも、胸が苦しいのだろうとアランは思った。
