1章
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放課後のホグワーツは、夕陽が塔の尖塔を赤く染め、長い影を校庭に落とし始める頃だった。
柔らかな風が湖面を揺らし、中庭の石造りの通路には、静かな時間が流れている。
その中を、シリウスとアランが駆け抜けていた。
笑い声をこらえながら、重たい肖像画の前をすり抜け、ひび割れた壁の裏に隠された通路をくぐり抜ける。
ホグワーツの誰も知らないであろう秘密の階段や、ぽっかりと空いた天井裏の窓。
どれもシリウスがジェームズたちと探索しつくしてきた、地図にも載らない冒険の抜け道だった。
アランは、まるで子どものように目を輝かせていた。
シリウスの後ろについて、ちょっと小走りになるような足取りでついてくる。
「あれは何の部屋?」「どうしてこんなところに扉が?」と、好奇心たっぷりに尋ねるアランの声。
シリウスは、時に得意げに、時にいたずらっぽく笑いながらひとつひとつ答えていった。
ふたりだけの、静かで楽しい城内の冒険。
突然、低く苔むしたアーチをくぐったとき、アランがふと立ち止まり、くるりと振り向いた。
「ねぇ、シリウス、あなたって……何でも知ってるんだね。」
その声は、驚きとほんの少しの尊敬が混じっていた。
翡翠の瞳が夕陽を映して、きらきらと揺れている。
その瞬間、シリウスの胸にぽんと温かな灯がともる。
彼女が言ってくれる「すごいね」は、誰かの前で見せびらかすためのものでも、
評価や勝ち負けのためのものでもなかった。
ただ、心からそう思ってそう言ってくれた。
だから、まるで少年のように誇らしくなった。
かっと胸を張りたくなるような。
けれど、シリウスはただ柔らかく笑っただけだった――
それ以上の言葉がいらないほど、アランのその一言が嬉しかったから。
「秘密を話すのが好きなのさ。アランには、なんでも教えてあげる。」
彼はそう答えて、軽やかに階段を登りながら手を差し出す。
アランも小さく笑って、その手を取った。
その指先の温もりが、どんな秘密の通路よりも確かな道しるべだった。
ホグワーツという不思議な迷宮で、ふたりだけの時間がゆっくりと織りあげられてゆく。
その光の中でシリウスは思った。
どうかこの冒険の時間が、終わりのない物語になればいい。
彼女の笑顔と、繋いだ手と、夕暮れの光の輝きが、ずっとこのままであれば――と。夜空は深く澄みわたり、いくつもの星が天文台のドームに静かに瞬いていた。
あたりには誰の気配もなく、石の床に響くのはふたりの呼吸と、空をかすめていく風の音だけ。
シリウスとアランは、星の下で肩を並べていた。
まるで自分たちの上にだけ、宇宙が静かに息づいているような、そんな時間だった。
アランが夜空を見上げる横顔を、シリウスはそっと見つめた。
彼女の髪が風に揺れるたび、微かな月光がその輪郭をやさしく縁取っている。
その美しさに一瞬、言葉を飲み込むほど胸がいっぱいになったけれど――
それでも、今日こそはと決めていた。
だから、シリウスはまっすぐにアランの方へ体を向け、小さく息を吸って言った。
「なぁ……結婚しないか、アラン。」
そのひと言に、アランはゆるやかに瞬きをし、目を見開いた。
そのまま、あたかも時が止まってしまったように、動きを止める。
静寂が訪れる。
鼓動が、夜の空気の中でやけに大きく響いている気がした。
やがて――アランが静かに、けれど迷いのない涙をこぼした。
「おい……」とシリウスは慌てて言葉を探す。
「おい、まさか……泣かせるようなこと言ったか、俺……?」
本気だった。
けれど、まさか泣き出させてしまうなんて――
思いがけない反応に、胸の奥がざわめいて、まともに呼吸ができないほどだった。
だがアランは、泣きながらも首を振った。
声を震わせながら、必死にことばを紡ぐ。
「……ううん。違うの。……嬉しいんだよ、シリウス……」
翡翠の瞳に、ありったけの涙をたたえて、それでも微笑むその顔は、
星よりも月よりも、何よりも美しかった。
「わたし……シリウスと、一緒に生きていきたい」
その声はかすかに震えていたけれど、確かに響いていた。
この星空の下で、それは誰にも揺るがせない、純粋な誓いだった。
“どうしたらいいか”“何が必要なのか”――
そんなことはまだ、わからない。
だけど、それでも言葉にできたのは、答えより先に想いがあったから。
この気持ちだけは、本物だと。アランは心から、そう信じていた。
シリウスは、胸の奥でそっと息をつく。
そして優しくアランの涙を指で拭いながら、ただ静かに微笑んだ。
空には二人を包むように星々が瞬き、
世界に言葉はいらないような、満ち足りた沈黙が降りていた。
それは、夜空の下でつむがれる、
とても小さくて、とても確かな“ふたりの物語”の始まりだった。
あの夜、天文台に降る静かな星の下――
シリウスが口にした「結婚しよう」というたったひと言が、アランの心に深く、深く刻まれていた。
それは風にも似た、やわらかい声だった。けれど、信じられないほど確かだった。
これ以上にほしい言葉なんて、この先の人生できっともう二度とない。
そう断言できるほどに、心の奥深くを揺さぶられた。
何度も、何度も、頭の中でその言葉が繰り返される。
夜が明け、朝になって、誰とも言葉を交わさずに過ごす廊下の中でも、
教科書を開いていても、授業の声が頭に届かない。
心のどこかでずっと、シリウスの声が鳴り響いていた。
――結婚しよう。
どれだけ胸に響いているだろう。
どれほど望んでしまっているだろう。
あの瞬間、自分は、世界中で一番幸せだった。
ただそう思える。思い返すたび胸が満たされる。
けれど、ふと現実を思えば、その幸せの影には切り捨てなければならないものが、あまりにも多く並んでいた。
父のこと。母のこと。
誇りある「セシール家」の娘として守るべき立場。
理解し信頼を寄せてくれていたはずの親族。
そして――あのとき、自らに想いを告げてくれたレギュラスのことも。
自分が彼の期待に応えようと、触れもせずに懸命に守ろうとしてきたその心も。
もし本当にシリウスとの愛を選べば、
すべてを裏切ることになる。
背を向け、抗い、見放されることを覚悟しなければならない。
障害は、あまりにも多すぎた。
それは、現実という重力がのしかかるような、重くて恐ろしい選択だった。
けれど、それでも――アランは確かに思った。
そんなこと、どうでもいい。
あの夜、天分台で自分をまっすぐに見つめてくれたシリウスの瞳。
ただひとりの人間として、将来を誓うように言葉をくれたあの姿に、
アランの中のすべてが、凍えるような理性を超えて動き出した。
かつて、親や家柄や世間の“正しい道”にどこまでも従って生きてきたアランが、
初めて“自分のために”願った選択肢だった。
それが、どれほどの愛と決意に支えられていたのかを思うと、
胸が痛くなるほど愛おしく、あまりに尊くて――
涙が出そうになる。
あの言葉のためなら、すべてを敵に回しても構わない。
そう思ってしまう。
そう思わせるだけの威力が、あの「結婚しよう」という一言には、込められていた。
光がすこしずつ夜を追いかけるように差し込み、アランは目を閉じた。
その胸の奥ではまだ、あの夜の声が優しく繰り返されていた。
レギュラスが闇の帝王に傾倒していく。
その変化は、アランの心に静かな不安となって募り続けていた。
最近のレギュラスは、どこか遠い場所を見つめていることが増えた。
談話室の夜の光の中、寄せられる純血主義への賛同と、その先にある「マグルの徹底排除」の噂。
彼の言葉の端々に冷たい硬さが滲むたび、アランは胸の奥でそっと痛みを覚える。
アランは知っていた。
マグルの街の輝き――
映画館のざわめき、カフェで交わしたささやかな会話、観覧車の頂上から見た夜景。
シリウスと過ごした一日も、ひとりで歩いたときも、そこにあったのは「特別な魔法」には頼らない人間の優しさや努力、どこまでも温かい日常だった。
魔法がなくても、マグルたちは美しい世界を築き、未来へと繋げている――
そのことに、何度も心を動かされた。
だからこそ――
「マグルを排除する」なんて、大それた思想を到底受け止めることはできなかった。
純血の誇りも、魔法の伝統も、確かに大切かもしれない。
けれど、誰かを見下し、誰かを消そうとする力への熱狂は、アランには恐ろしく感じられた。
レギュラスの肩に触れたくても、声をかける勇気がでない。
彼が正義と信じる道の先が、誰かの悲しみで出来ているのだとしたら、
アランはどうしても、その手を取ることができなかった。
一人、夜の廊下を歩きながら、アランは思う。
「知ってしまったやさしさや美しさは、もうなかったことにはできないのだ」と。
翡翠の瞳に浮かぶ淡い涙が、ランプの光にそっと揺れる。
魔法界の価値観と、マグルの素晴らしさの間で、
アランは静かに、けれど強く自分の心を抱きしめていた。
夜のホグワーツ。彼女の歩みは迷いながらも、確かな決意とともに響いていく。
「アラン、今週末ですが……舞踏会には来ますよね?」
放課後、図書室の奥。静寂の中に、レギュラスの声が静かに響いた。
ページをめくる手を止め、アランはそっと彼の方を見上げる。
その問いに、即答はできなかった。
舞踏会――純血の一族たちが挨拶を交わし、次代を担う者たちとしての「在り方」を誇り合う式典。
両親からも、丁寧な筆致の手紙が届いていた。
「あなたがいるべき場所を忘れないように」と綴られた一文が、胸の奥に静かに突き刺さっている。
あの夜会には、選ばれた者しかいない。
純血の血に誇りを抱き、伝統を受け継ぐべき家を宿命とした者たち。
そこから一歩でも外れれば、足場を失うような居心地の悪さが訪れる。
アランは目を伏せ、まるで言葉を探すように唇をかすかに動かした。
「……ええ、行くわ。」
けれど、かすれたその答えには、どこか魂がこもっていなかった。
レギュラスは何も言わず、ただ静かにうなずいた。
彼の横顔は、日に日に変わっていく。
かつては人の感情の機微によく気づき、控えめながらも優しさを滲ませていた少年。
それが最近では、どこか閉ざされた硝子窓のような静けさを纏っている。
瞳は濁りなく美しいままだが、その奥に映るものが変わっていた。
彼の言葉はしだいに明確な”選別”を帯びてきていた。
「伝統の外にいる者たち」「血が薄まるという危険性」「守るべきものと排するべきもの」。
その言葉の響きは、まるでどこか違う誰かのもののようだった。
アランは思い出す。
レギュラスの指にそっと触れられた夏のひととき、
紅茶を注ぎながら、照れくさそうに微笑んでくれた彼。
その頃の穏やかさが、今はもう遠い過去のように感じられる。
そして真実を知れば知るほど、自身の罪悪感が鋭く胸を刺した。
シリウスと過ごしてきた夜、重ねた言葉、触れた肌――
そこにはたしかに愛があった。けれど、それはレギュラスを裏切ることでもあった。
――けれど、今のレギュラスを、わたしは…どれだけ知っているのだろう。
彼の心は、静かに、けれど確実に闇へと傾いている。
それは誰かに強制されたものではない。
むしろ、自分の居場所を守るために選んだ「信仰」のようだった。
それでも、アランにはその信仰の意味が、どうしても理解できなかった。
マグルの世界のあたたかさ、誰も血の名など問わずに差し出してくれる笑顔、
ただ「人」として繋がれる世界――彼女が知り、愛してしまった世界を、
レギュラスの言葉は凍らせてしまう。
舞踏会の夜。
金と黒の装飾が眩しくきらめく大広間で、アランは果たして彼と踊れるのだろうか。
触れたその手が、どこか知らないものに変わってしまっていたら――
その予感が、心にそっと、氷のように沁みていた。
舞踏会の夜――
ブラック家の屋敷は、魔法の灯火と重厚な装飾に満ちていた。
黒檀の床に反射するシャンデリアの光、豊かな布地で飾られた窓辺、
そして天井から静かに舞い落ちる魔法仕掛けの金の花びらが、まるで夢の中の一夜のように空間を彩っている。
純血一族の若者たちが、礼儀正しくも煌びやかに集い、長い歴史と由緒に敬意を捧げるように佇んでいた。
その中で、レギュラスはひとり、しんと張りつめた気持ちで扉の近くに立っていた。
背筋を正し、手袋の裾を整える指がわずかに震える。
やがて、ゆるやかなざわめきの向こうから彼女が姿を現したとき、その場の光がすべて彼女に向かって収束したかのように感じられた。
アラン・セシール。
深く気品ある色のドレスに身を包み、纖細な刺繍が月の光を反射してきらきらと揺れていた。
凛とした姿に、どこか幼さが消えて、いくつもの冬を経て花開いたような、そんな静かな華やかさがあった。
その美しさは、レギュラスの呼吸すらすぐに奪った。
制服のときとは全く違う空気を纏っている。
彼女は、家の名を継ぐ者として、そして”自分の婚約者”として、ここに立っているのだ。
そう思うと、誇らしさとともに、胸の奥がそっと震えた。
レギュラスは一歩前に出て、何よりも丁寧な所作で手を差し出す。
「……アラン、綺麗です。」
その声には、押し隠せない想いが宿っていた。
言葉にすれば幼く聞こえすぎてしまうかもしれない。
それでも、他のどんな言葉より真心から出たものだった。
アランは一瞬、視線を落として、けれど少し照れたように、静かに微笑んだ。
それだけで、レギュラスの中にある、誰にも触られたくないような繊細な場所が、やさしくほどけていく気がした。
その微笑みに、数年越しの願いが報われたような気すらする。
今夜、この美しいアランと踊る。
純血の家に生まれ、定められた未来の中、それでも選び取ろうとしている誠実な情愛を、
今、この場所で、形にできる。
音楽がそっと鳴り始める。
白手袋越しに感じるアランの手の温もりが、確かにレギュラスの想いに触れていた。
美しい夜だった。
その一歩一歩が、忘れ得ぬ光となって、ふたりの間に降り注いでいた。
ブラック邸の舞踏会は、その夜、まさに絢爛たる社交の極みだった。
会場には、英国魔法界でも名を連ねる名家の魔法使いたちが集まり、
黒と金を基調とした空間には、堅牢と優雅が見事に融合していた。
レギュラスはその中で、アランの手をしっかりと取り、
一族の血の重みと、名誉を背負う者として、各家の魔法使いたちに丁寧に挨拶を重ねていた。
アランは、完璧だった。
静かに頭を下げる角度。翡翠の瞳を自然に合わせるような視線。
そのすべてが見事なまでに訓練された令嬢の所作だったが、
どこかに、確かな品のある柔らかさも残されていた。
「なんと、お美しいお嬢さん……」
「ブラック家の若君には、まさにふさわしき婚約者ですな……」
「セシール家のご令嬢ともあれば、血筋にも非の打ちどころがない」
耳に入るたび、レギュラスの胸は誇りで押し上げられるようだった。
アランが褒められるたび、気づけば自然に胸を張り、姿勢が更にまっすぐになっていく。
――この人が、隣にいる。
それが、たまらなく嬉しかった。
幼い頃から「名家のブラック家」としての在り方を教え込まれてきたレギュラスにとって、
今、この瞬間ほど「正しい在り方」が結晶になって見えるような場面はなかった。
ただ一つ、気づいていた。
アランの瞳の奥に時折浮かぶ、翳りの色。
笑顔を浮かべる表情のすぐ裏に、一瞬だけ見せる寂しげな揺らぎ。
完全な喜びとは異なる、どこか遠くを見つめるような虚ろな光。
けれどレギュラスは、気づかないふりをした。
したかったのかもしれない。
彼女の瞳の奥が何を映しているのか――
それに目を向けてしまえば、
この胸を満たしている幸福が、脆く瓦解してしまうことを、どこかで恐れていた。
今夜は、すべてが美しい。
賛美の言葉が空に高く積もり、祝福の光がふたりを包み込む。
セシールとブラック、ふたつの名が並ぶことが、
魔法界の未来を象徴すると讃えられるこの瞬間が、
何よりも誇らしく、そして幸福だった。
――だからレギュラスは、隣の微笑みにそっと目を細める。
その奥に潜む翳りを、優しく見逃すように。
この夜だけは、何もかもが完璧であってほしいと、そう願っていた。
煌びやかな音楽と魔法の灯火が舞踏会を華やかに彩るなか、アランはレギュラスに手を引かれ、多くの賓客たちのもとを挨拶して回っていた。
ふわりと流れるドレスの裾、手袋に包まれた指先。身なりは完璧だった。
その完璧さこそが、「セシール家の令嬢」として要求される最低限のものであることは、アラン自身が最もよく理解していた。
「まあ、麗しい……まるでブラック家の未来を象徴するようなお姿ですな」
「才気と気品を兼ね備えたご令嬢、お見かけするたび惚れ惚れいたします」
「まさに血筋の鑑のようなカップルですわ」
言葉という名の飾りが宙を舞い、微笑とともに差し出されてくる。
その一つひとつが、上澄みのように薄っぺらく、ただ上辺だけを撫でるもの。
着飾った外見や家系、婚約者の名前。
褒められているのは自分ではなく――纏うもの全て、だった。
内心、アランはもう飽き飽きしていた。
美辞麗句の渦を、笑顔で切り抜けることにどれほどの意味があるのだろう。
けれど、隣を歩くレギュラスをちらりと見やるたび、気を引き締めた。
その顔には、背負うものに忠実であろうとする誇りと緊張が垣間見えた。
アランが少しでも粗相をすれば、それが彼のために誇るべき夜を台無しにしてしまうかもしれない。
だから、どれだけ心がすり減っても、彼の隣では、微笑まなければならなかった。
ふと、視線の先に両親の姿が見えた。
父も母も、そんな娘の姿を遠くから誇らしげに見つめていた。
それが家の理想であり、あるべき令嬢の姿であると確信しているかのように。
その眼差しが、何より重かった。
アランは知っている。
この場で彼女が見せるすべての言動――挨拶の角度、歩幅、笑みの深さ――そのすべてが、一族の「正しさ」として映る。
一文の台詞よりも、ずっと雄弁な評価として刻まれる。
自分の言葉にはもう自由がなかった。
自分の身振りにも、自分の目線にも。
「セシール家の娘として」「ブラック家の婚約者として」
どれひとつ欠けてもならない。
――この役割を、生きているだけ。
胸の奥で静かにそうつぶやき、紋章入りのグラスに口をつけるふりをした。
眩い光の中で、音楽は鳴り続ける。
けれどアランの心には静かな水音のような沈黙だけが広がっていた。
美しく飾られた檻のなか。
誰にも悟られぬ翡翠の瞳の奥で、アランはただ、ひとり――音もなく息をしていた。
「アラン、疲れたでしょう。」
舞踏会の喧騒の合間、少し人の少ない回廊の影で、レギュラスがそっと言葉をかけてきた。
明かりを抑えた壁燭の柔らかな光が、彼の銀の髪と整った横顔をおだやかに照らしている。
手には、水の入ったグラス。
表情は穏やかで、何も言わずともアランの体調を気遣おうとするその仕草は、レギュラスらしかった。
彼のこういうところに、何度も救われ、何度も温かなぬくもりを感じたことだろう。
ホグワーツでも、同じだった。
食卓で隣に座れば、何も言わずにアランの好物を見つけて皿に盛ってくれる。
廊下で重そうな本を抱えれば、すぐに気づいてそれを受け取る腕を差し出してくれる。
カーテン越しの風の冷たさに肩をすくめれば、さりげなく自分のローブを肩にかけてくれたことさえあった。
レギュラスは、そんなふうにして、どうすれば誰かが心地よくいられるかを、言葉にせずして分かっている人だった。
変わらない、誠実で、気高く優しいままの少年だった。
――なのに。
アランは、差し出されたグラスを受け取りながら、微かな罪悪感と共にそう思っていた。
本質的には何も変わっていない人だと、わかっている。
それなのに、大人になるにつれて、彼が遠くなっていく。
同じ場所にいるはずなのに、ふとした瞬間、まるで知らない誰かのように感じる。
どうしてなのだろう。
重ねてきた時間が無意味なわけではない。
確かにそこには優しさがあり、気遣いがあり、何よりレギュラスの「愛」があったはずだ。
けれど、そのすべてが、どこかもうアランの心の輪郭とは重なっていかない。
――自分たちの間には、決定的に重なり合わないものがある。
彼の中に育っていく“何か”――
それは家名か、血筋か、それとも忠誠か。
最近の彼の眼差しに宿る冷たい確信を、アランはどうしても怖いと思ってしまう。
それはかつての“優しさ”と隣り合っているようで、けれどまったく違う何かにすり替わっている。
彼の変化が、アランだけを追い越していってしまうような。
そんな規模の“隔たり”を、はっきりと感じてしまう。
きっとまだ、もう少しは隣にいられる。
でも――その先に続く道の風景は、もうお互いに見るものが違ってしまったのかもしれなかった。
レギュラスの差し出す水を受け取りながら、アランは微笑んだ。
美しく、何も知らないふりをするように。
そして、ほんの少しだけ目を伏せて、瞳の奥に浮かぶ翳りをそっと隠した。
いずれ、このやさしい手を離さなければならないことを――
まだ、言葉にできずにいた。
柔らかな風が湖面を揺らし、中庭の石造りの通路には、静かな時間が流れている。
その中を、シリウスとアランが駆け抜けていた。
笑い声をこらえながら、重たい肖像画の前をすり抜け、ひび割れた壁の裏に隠された通路をくぐり抜ける。
ホグワーツの誰も知らないであろう秘密の階段や、ぽっかりと空いた天井裏の窓。
どれもシリウスがジェームズたちと探索しつくしてきた、地図にも載らない冒険の抜け道だった。
アランは、まるで子どものように目を輝かせていた。
シリウスの後ろについて、ちょっと小走りになるような足取りでついてくる。
「あれは何の部屋?」「どうしてこんなところに扉が?」と、好奇心たっぷりに尋ねるアランの声。
シリウスは、時に得意げに、時にいたずらっぽく笑いながらひとつひとつ答えていった。
ふたりだけの、静かで楽しい城内の冒険。
突然、低く苔むしたアーチをくぐったとき、アランがふと立ち止まり、くるりと振り向いた。
「ねぇ、シリウス、あなたって……何でも知ってるんだね。」
その声は、驚きとほんの少しの尊敬が混じっていた。
翡翠の瞳が夕陽を映して、きらきらと揺れている。
その瞬間、シリウスの胸にぽんと温かな灯がともる。
彼女が言ってくれる「すごいね」は、誰かの前で見せびらかすためのものでも、
評価や勝ち負けのためのものでもなかった。
ただ、心からそう思ってそう言ってくれた。
だから、まるで少年のように誇らしくなった。
かっと胸を張りたくなるような。
けれど、シリウスはただ柔らかく笑っただけだった――
それ以上の言葉がいらないほど、アランのその一言が嬉しかったから。
「秘密を話すのが好きなのさ。アランには、なんでも教えてあげる。」
彼はそう答えて、軽やかに階段を登りながら手を差し出す。
アランも小さく笑って、その手を取った。
その指先の温もりが、どんな秘密の通路よりも確かな道しるべだった。
ホグワーツという不思議な迷宮で、ふたりだけの時間がゆっくりと織りあげられてゆく。
その光の中でシリウスは思った。
どうかこの冒険の時間が、終わりのない物語になればいい。
彼女の笑顔と、繋いだ手と、夕暮れの光の輝きが、ずっとこのままであれば――と。夜空は深く澄みわたり、いくつもの星が天文台のドームに静かに瞬いていた。
あたりには誰の気配もなく、石の床に響くのはふたりの呼吸と、空をかすめていく風の音だけ。
シリウスとアランは、星の下で肩を並べていた。
まるで自分たちの上にだけ、宇宙が静かに息づいているような、そんな時間だった。
アランが夜空を見上げる横顔を、シリウスはそっと見つめた。
彼女の髪が風に揺れるたび、微かな月光がその輪郭をやさしく縁取っている。
その美しさに一瞬、言葉を飲み込むほど胸がいっぱいになったけれど――
それでも、今日こそはと決めていた。
だから、シリウスはまっすぐにアランの方へ体を向け、小さく息を吸って言った。
「なぁ……結婚しないか、アラン。」
そのひと言に、アランはゆるやかに瞬きをし、目を見開いた。
そのまま、あたかも時が止まってしまったように、動きを止める。
静寂が訪れる。
鼓動が、夜の空気の中でやけに大きく響いている気がした。
やがて――アランが静かに、けれど迷いのない涙をこぼした。
「おい……」とシリウスは慌てて言葉を探す。
「おい、まさか……泣かせるようなこと言ったか、俺……?」
本気だった。
けれど、まさか泣き出させてしまうなんて――
思いがけない反応に、胸の奥がざわめいて、まともに呼吸ができないほどだった。
だがアランは、泣きながらも首を振った。
声を震わせながら、必死にことばを紡ぐ。
「……ううん。違うの。……嬉しいんだよ、シリウス……」
翡翠の瞳に、ありったけの涙をたたえて、それでも微笑むその顔は、
星よりも月よりも、何よりも美しかった。
「わたし……シリウスと、一緒に生きていきたい」
その声はかすかに震えていたけれど、確かに響いていた。
この星空の下で、それは誰にも揺るがせない、純粋な誓いだった。
“どうしたらいいか”“何が必要なのか”――
そんなことはまだ、わからない。
だけど、それでも言葉にできたのは、答えより先に想いがあったから。
この気持ちだけは、本物だと。アランは心から、そう信じていた。
シリウスは、胸の奥でそっと息をつく。
そして優しくアランの涙を指で拭いながら、ただ静かに微笑んだ。
空には二人を包むように星々が瞬き、
世界に言葉はいらないような、満ち足りた沈黙が降りていた。
それは、夜空の下でつむがれる、
とても小さくて、とても確かな“ふたりの物語”の始まりだった。
あの夜、天文台に降る静かな星の下――
シリウスが口にした「結婚しよう」というたったひと言が、アランの心に深く、深く刻まれていた。
それは風にも似た、やわらかい声だった。けれど、信じられないほど確かだった。
これ以上にほしい言葉なんて、この先の人生できっともう二度とない。
そう断言できるほどに、心の奥深くを揺さぶられた。
何度も、何度も、頭の中でその言葉が繰り返される。
夜が明け、朝になって、誰とも言葉を交わさずに過ごす廊下の中でも、
教科書を開いていても、授業の声が頭に届かない。
心のどこかでずっと、シリウスの声が鳴り響いていた。
――結婚しよう。
どれだけ胸に響いているだろう。
どれほど望んでしまっているだろう。
あの瞬間、自分は、世界中で一番幸せだった。
ただそう思える。思い返すたび胸が満たされる。
けれど、ふと現実を思えば、その幸せの影には切り捨てなければならないものが、あまりにも多く並んでいた。
父のこと。母のこと。
誇りある「セシール家」の娘として守るべき立場。
理解し信頼を寄せてくれていたはずの親族。
そして――あのとき、自らに想いを告げてくれたレギュラスのことも。
自分が彼の期待に応えようと、触れもせずに懸命に守ろうとしてきたその心も。
もし本当にシリウスとの愛を選べば、
すべてを裏切ることになる。
背を向け、抗い、見放されることを覚悟しなければならない。
障害は、あまりにも多すぎた。
それは、現実という重力がのしかかるような、重くて恐ろしい選択だった。
けれど、それでも――アランは確かに思った。
そんなこと、どうでもいい。
あの夜、天分台で自分をまっすぐに見つめてくれたシリウスの瞳。
ただひとりの人間として、将来を誓うように言葉をくれたあの姿に、
アランの中のすべてが、凍えるような理性を超えて動き出した。
かつて、親や家柄や世間の“正しい道”にどこまでも従って生きてきたアランが、
初めて“自分のために”願った選択肢だった。
それが、どれほどの愛と決意に支えられていたのかを思うと、
胸が痛くなるほど愛おしく、あまりに尊くて――
涙が出そうになる。
あの言葉のためなら、すべてを敵に回しても構わない。
そう思ってしまう。
そう思わせるだけの威力が、あの「結婚しよう」という一言には、込められていた。
光がすこしずつ夜を追いかけるように差し込み、アランは目を閉じた。
その胸の奥ではまだ、あの夜の声が優しく繰り返されていた。
レギュラスが闇の帝王に傾倒していく。
その変化は、アランの心に静かな不安となって募り続けていた。
最近のレギュラスは、どこか遠い場所を見つめていることが増えた。
談話室の夜の光の中、寄せられる純血主義への賛同と、その先にある「マグルの徹底排除」の噂。
彼の言葉の端々に冷たい硬さが滲むたび、アランは胸の奥でそっと痛みを覚える。
アランは知っていた。
マグルの街の輝き――
映画館のざわめき、カフェで交わしたささやかな会話、観覧車の頂上から見た夜景。
シリウスと過ごした一日も、ひとりで歩いたときも、そこにあったのは「特別な魔法」には頼らない人間の優しさや努力、どこまでも温かい日常だった。
魔法がなくても、マグルたちは美しい世界を築き、未来へと繋げている――
そのことに、何度も心を動かされた。
だからこそ――
「マグルを排除する」なんて、大それた思想を到底受け止めることはできなかった。
純血の誇りも、魔法の伝統も、確かに大切かもしれない。
けれど、誰かを見下し、誰かを消そうとする力への熱狂は、アランには恐ろしく感じられた。
レギュラスの肩に触れたくても、声をかける勇気がでない。
彼が正義と信じる道の先が、誰かの悲しみで出来ているのだとしたら、
アランはどうしても、その手を取ることができなかった。
一人、夜の廊下を歩きながら、アランは思う。
「知ってしまったやさしさや美しさは、もうなかったことにはできないのだ」と。
翡翠の瞳に浮かぶ淡い涙が、ランプの光にそっと揺れる。
魔法界の価値観と、マグルの素晴らしさの間で、
アランは静かに、けれど強く自分の心を抱きしめていた。
夜のホグワーツ。彼女の歩みは迷いながらも、確かな決意とともに響いていく。
「アラン、今週末ですが……舞踏会には来ますよね?」
放課後、図書室の奥。静寂の中に、レギュラスの声が静かに響いた。
ページをめくる手を止め、アランはそっと彼の方を見上げる。
その問いに、即答はできなかった。
舞踏会――純血の一族たちが挨拶を交わし、次代を担う者たちとしての「在り方」を誇り合う式典。
両親からも、丁寧な筆致の手紙が届いていた。
「あなたがいるべき場所を忘れないように」と綴られた一文が、胸の奥に静かに突き刺さっている。
あの夜会には、選ばれた者しかいない。
純血の血に誇りを抱き、伝統を受け継ぐべき家を宿命とした者たち。
そこから一歩でも外れれば、足場を失うような居心地の悪さが訪れる。
アランは目を伏せ、まるで言葉を探すように唇をかすかに動かした。
「……ええ、行くわ。」
けれど、かすれたその答えには、どこか魂がこもっていなかった。
レギュラスは何も言わず、ただ静かにうなずいた。
彼の横顔は、日に日に変わっていく。
かつては人の感情の機微によく気づき、控えめながらも優しさを滲ませていた少年。
それが最近では、どこか閉ざされた硝子窓のような静けさを纏っている。
瞳は濁りなく美しいままだが、その奥に映るものが変わっていた。
彼の言葉はしだいに明確な”選別”を帯びてきていた。
「伝統の外にいる者たち」「血が薄まるという危険性」「守るべきものと排するべきもの」。
その言葉の響きは、まるでどこか違う誰かのもののようだった。
アランは思い出す。
レギュラスの指にそっと触れられた夏のひととき、
紅茶を注ぎながら、照れくさそうに微笑んでくれた彼。
その頃の穏やかさが、今はもう遠い過去のように感じられる。
そして真実を知れば知るほど、自身の罪悪感が鋭く胸を刺した。
シリウスと過ごしてきた夜、重ねた言葉、触れた肌――
そこにはたしかに愛があった。けれど、それはレギュラスを裏切ることでもあった。
――けれど、今のレギュラスを、わたしは…どれだけ知っているのだろう。
彼の心は、静かに、けれど確実に闇へと傾いている。
それは誰かに強制されたものではない。
むしろ、自分の居場所を守るために選んだ「信仰」のようだった。
それでも、アランにはその信仰の意味が、どうしても理解できなかった。
マグルの世界のあたたかさ、誰も血の名など問わずに差し出してくれる笑顔、
ただ「人」として繋がれる世界――彼女が知り、愛してしまった世界を、
レギュラスの言葉は凍らせてしまう。
舞踏会の夜。
金と黒の装飾が眩しくきらめく大広間で、アランは果たして彼と踊れるのだろうか。
触れたその手が、どこか知らないものに変わってしまっていたら――
その予感が、心にそっと、氷のように沁みていた。
舞踏会の夜――
ブラック家の屋敷は、魔法の灯火と重厚な装飾に満ちていた。
黒檀の床に反射するシャンデリアの光、豊かな布地で飾られた窓辺、
そして天井から静かに舞い落ちる魔法仕掛けの金の花びらが、まるで夢の中の一夜のように空間を彩っている。
純血一族の若者たちが、礼儀正しくも煌びやかに集い、長い歴史と由緒に敬意を捧げるように佇んでいた。
その中で、レギュラスはひとり、しんと張りつめた気持ちで扉の近くに立っていた。
背筋を正し、手袋の裾を整える指がわずかに震える。
やがて、ゆるやかなざわめきの向こうから彼女が姿を現したとき、その場の光がすべて彼女に向かって収束したかのように感じられた。
アラン・セシール。
深く気品ある色のドレスに身を包み、纖細な刺繍が月の光を反射してきらきらと揺れていた。
凛とした姿に、どこか幼さが消えて、いくつもの冬を経て花開いたような、そんな静かな華やかさがあった。
その美しさは、レギュラスの呼吸すらすぐに奪った。
制服のときとは全く違う空気を纏っている。
彼女は、家の名を継ぐ者として、そして”自分の婚約者”として、ここに立っているのだ。
そう思うと、誇らしさとともに、胸の奥がそっと震えた。
レギュラスは一歩前に出て、何よりも丁寧な所作で手を差し出す。
「……アラン、綺麗です。」
その声には、押し隠せない想いが宿っていた。
言葉にすれば幼く聞こえすぎてしまうかもしれない。
それでも、他のどんな言葉より真心から出たものだった。
アランは一瞬、視線を落として、けれど少し照れたように、静かに微笑んだ。
それだけで、レギュラスの中にある、誰にも触られたくないような繊細な場所が、やさしくほどけていく気がした。
その微笑みに、数年越しの願いが報われたような気すらする。
今夜、この美しいアランと踊る。
純血の家に生まれ、定められた未来の中、それでも選び取ろうとしている誠実な情愛を、
今、この場所で、形にできる。
音楽がそっと鳴り始める。
白手袋越しに感じるアランの手の温もりが、確かにレギュラスの想いに触れていた。
美しい夜だった。
その一歩一歩が、忘れ得ぬ光となって、ふたりの間に降り注いでいた。
ブラック邸の舞踏会は、その夜、まさに絢爛たる社交の極みだった。
会場には、英国魔法界でも名を連ねる名家の魔法使いたちが集まり、
黒と金を基調とした空間には、堅牢と優雅が見事に融合していた。
レギュラスはその中で、アランの手をしっかりと取り、
一族の血の重みと、名誉を背負う者として、各家の魔法使いたちに丁寧に挨拶を重ねていた。
アランは、完璧だった。
静かに頭を下げる角度。翡翠の瞳を自然に合わせるような視線。
そのすべてが見事なまでに訓練された令嬢の所作だったが、
どこかに、確かな品のある柔らかさも残されていた。
「なんと、お美しいお嬢さん……」
「ブラック家の若君には、まさにふさわしき婚約者ですな……」
「セシール家のご令嬢ともあれば、血筋にも非の打ちどころがない」
耳に入るたび、レギュラスの胸は誇りで押し上げられるようだった。
アランが褒められるたび、気づけば自然に胸を張り、姿勢が更にまっすぐになっていく。
――この人が、隣にいる。
それが、たまらなく嬉しかった。
幼い頃から「名家のブラック家」としての在り方を教え込まれてきたレギュラスにとって、
今、この瞬間ほど「正しい在り方」が結晶になって見えるような場面はなかった。
ただ一つ、気づいていた。
アランの瞳の奥に時折浮かぶ、翳りの色。
笑顔を浮かべる表情のすぐ裏に、一瞬だけ見せる寂しげな揺らぎ。
完全な喜びとは異なる、どこか遠くを見つめるような虚ろな光。
けれどレギュラスは、気づかないふりをした。
したかったのかもしれない。
彼女の瞳の奥が何を映しているのか――
それに目を向けてしまえば、
この胸を満たしている幸福が、脆く瓦解してしまうことを、どこかで恐れていた。
今夜は、すべてが美しい。
賛美の言葉が空に高く積もり、祝福の光がふたりを包み込む。
セシールとブラック、ふたつの名が並ぶことが、
魔法界の未来を象徴すると讃えられるこの瞬間が、
何よりも誇らしく、そして幸福だった。
――だからレギュラスは、隣の微笑みにそっと目を細める。
その奥に潜む翳りを、優しく見逃すように。
この夜だけは、何もかもが完璧であってほしいと、そう願っていた。
煌びやかな音楽と魔法の灯火が舞踏会を華やかに彩るなか、アランはレギュラスに手を引かれ、多くの賓客たちのもとを挨拶して回っていた。
ふわりと流れるドレスの裾、手袋に包まれた指先。身なりは完璧だった。
その完璧さこそが、「セシール家の令嬢」として要求される最低限のものであることは、アラン自身が最もよく理解していた。
「まあ、麗しい……まるでブラック家の未来を象徴するようなお姿ですな」
「才気と気品を兼ね備えたご令嬢、お見かけするたび惚れ惚れいたします」
「まさに血筋の鑑のようなカップルですわ」
言葉という名の飾りが宙を舞い、微笑とともに差し出されてくる。
その一つひとつが、上澄みのように薄っぺらく、ただ上辺だけを撫でるもの。
着飾った外見や家系、婚約者の名前。
褒められているのは自分ではなく――纏うもの全て、だった。
内心、アランはもう飽き飽きしていた。
美辞麗句の渦を、笑顔で切り抜けることにどれほどの意味があるのだろう。
けれど、隣を歩くレギュラスをちらりと見やるたび、気を引き締めた。
その顔には、背負うものに忠実であろうとする誇りと緊張が垣間見えた。
アランが少しでも粗相をすれば、それが彼のために誇るべき夜を台無しにしてしまうかもしれない。
だから、どれだけ心がすり減っても、彼の隣では、微笑まなければならなかった。
ふと、視線の先に両親の姿が見えた。
父も母も、そんな娘の姿を遠くから誇らしげに見つめていた。
それが家の理想であり、あるべき令嬢の姿であると確信しているかのように。
その眼差しが、何より重かった。
アランは知っている。
この場で彼女が見せるすべての言動――挨拶の角度、歩幅、笑みの深さ――そのすべてが、一族の「正しさ」として映る。
一文の台詞よりも、ずっと雄弁な評価として刻まれる。
自分の言葉にはもう自由がなかった。
自分の身振りにも、自分の目線にも。
「セシール家の娘として」「ブラック家の婚約者として」
どれひとつ欠けてもならない。
――この役割を、生きているだけ。
胸の奥で静かにそうつぶやき、紋章入りのグラスに口をつけるふりをした。
眩い光の中で、音楽は鳴り続ける。
けれどアランの心には静かな水音のような沈黙だけが広がっていた。
美しく飾られた檻のなか。
誰にも悟られぬ翡翠の瞳の奥で、アランはただ、ひとり――音もなく息をしていた。
「アラン、疲れたでしょう。」
舞踏会の喧騒の合間、少し人の少ない回廊の影で、レギュラスがそっと言葉をかけてきた。
明かりを抑えた壁燭の柔らかな光が、彼の銀の髪と整った横顔をおだやかに照らしている。
手には、水の入ったグラス。
表情は穏やかで、何も言わずともアランの体調を気遣おうとするその仕草は、レギュラスらしかった。
彼のこういうところに、何度も救われ、何度も温かなぬくもりを感じたことだろう。
ホグワーツでも、同じだった。
食卓で隣に座れば、何も言わずにアランの好物を見つけて皿に盛ってくれる。
廊下で重そうな本を抱えれば、すぐに気づいてそれを受け取る腕を差し出してくれる。
カーテン越しの風の冷たさに肩をすくめれば、さりげなく自分のローブを肩にかけてくれたことさえあった。
レギュラスは、そんなふうにして、どうすれば誰かが心地よくいられるかを、言葉にせずして分かっている人だった。
変わらない、誠実で、気高く優しいままの少年だった。
――なのに。
アランは、差し出されたグラスを受け取りながら、微かな罪悪感と共にそう思っていた。
本質的には何も変わっていない人だと、わかっている。
それなのに、大人になるにつれて、彼が遠くなっていく。
同じ場所にいるはずなのに、ふとした瞬間、まるで知らない誰かのように感じる。
どうしてなのだろう。
重ねてきた時間が無意味なわけではない。
確かにそこには優しさがあり、気遣いがあり、何よりレギュラスの「愛」があったはずだ。
けれど、そのすべてが、どこかもうアランの心の輪郭とは重なっていかない。
――自分たちの間には、決定的に重なり合わないものがある。
彼の中に育っていく“何か”――
それは家名か、血筋か、それとも忠誠か。
最近の彼の眼差しに宿る冷たい確信を、アランはどうしても怖いと思ってしまう。
それはかつての“優しさ”と隣り合っているようで、けれどまったく違う何かにすり替わっている。
彼の変化が、アランだけを追い越していってしまうような。
そんな規模の“隔たり”を、はっきりと感じてしまう。
きっとまだ、もう少しは隣にいられる。
でも――その先に続く道の風景は、もうお互いに見るものが違ってしまったのかもしれなかった。
レギュラスの差し出す水を受け取りながら、アランは微笑んだ。
美しく、何も知らないふりをするように。
そして、ほんの少しだけ目を伏せて、瞳の奥に浮かぶ翳りをそっと隠した。
いずれ、このやさしい手を離さなければならないことを――
まだ、言葉にできずにいた。
