5章
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薄明かりに沈む寝室は、時間そのものが停滞してしまったかのように静まり返っていた。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、白く痩せたアランの頬を淡く照らし出し、その横顔はまるで絵画のように儚く美しかった。
レギュラスはベッド脇の椅子に腰を下ろし、静かな呼吸に揺れる胸の上下をじっと見つめていた。
最近のアランは、魔法麻薬の影響で目覚めている時間がめっきり減ってしまった。
昼と夜の区別すら曖昧なほどに眠り続け、時折覚醒しても、長くはもたない。
先ほど医務魔女から告げられた言葉が耳にこびりついて離れない。
――アリスが帰った直後、アランはすぐに薬を服用した、と。
つまり彼女は、アリスにすべてを語り終えるまではと、自らの痛みと恐怖を耐え切っていたのだ。
レギュラスの胸に、鋭く重い棘のような悔恨が突き刺さった。
思い返せば、アランに強いたものはあまりにも多かった。
若き日に抱いたシリウスへの恋慕を諦めさせ、誇り高きブラック家に縛り付け、古く頑なな思想を共に背負わせた。
夢も、自由も、愛すらも、彼女から奪ってきたのは他ならぬ自分だった。
ただ「妻」という名の檻の中に閉じ込め、子供たちの母として生きることだけを望んだ。
その代償に、彼女の心と身体を削ってきたのではないか。
鼻の奥がつんと焼けるように痛み、こみ上げるものを抑えきれなくなる。
最近は常に酒の助けを借りていたせいか、涙腺も心も脆くなってしまったのだろう。
それでも、あの人の前では泣くまいと誓っていたはずだった。
その時、わずかに布が擦れる音がして、アランの長い睫毛が震え、翡翠の瞳がゆっくりと開いた。
淡く霞んだ視線がこちらを捉えた瞬間、レギュラスの胸に圧倒的な愛しさが弾ける。
痛みに似た感情が喉を締め付けるのに、心の奥からは耐えがたいほどの慈しみが溢れ出す。
彼女の髪を撫でていた手が、無意識に止まった。
薄く乾いた唇が息を吸い、名前を呼ぶよりも先に涙がこぼれそうになる。
「……アラン。愛しています。」
低く、震えを含んだ声が寝室に落ちた。
言葉にした瞬間、胸を抉るような痛みと同時に、溢れんばかりの真実が迸った。
アランは返事をしなかった。
ただ、わずかに口角を上げ、翡翠の瞳に柔らかな光を宿す。
声にはならない代わりに、その笑みが「わかっているわ」と告げているようだった。
レギュラスは喉奥に熱いものを詰まらせながら、その唇の形を目で追った。
伸ばした指先で、乾いた赤みを帯びた唇をそっとなぞる。
触れた瞬間、胸に押し寄せるのは罪と愛情の渦。
彼女はどれほどのものを奪われても、なお自分に微笑みを向けてくれる。
その事実に打ちのめされながらも、レギュラスはただ、アランの存在を確かめるように、震える手でその唇を撫で続けた。
――こんなにも愛しているのに、どうして自分は彼女を幸せにできなかったのだろう。
寝室に沈む静寂は、ふたりの心を絡めながら、永遠に解けない鎖のように深く重く降り積もっていった。
薄暗い寝室には、夜の静けさが濃く満ちていた。
遠くの時計の針が刻む音すらも、ここでは微かにしか届かず、ただ二人だけの世界が静止したように続いていた。
レギュラスの指先が、途切れることなくアランの髪を撫でている。
その動きは驚くほどに優しく、まるで壊れ物を扱うように繊細で、また祈るように必死でもあった。
細く痩せた身体を横たえるアランの意識は、夢と現実の境を揺らめきながら漂っていた。
しかし、その声だけははっきりと耳に届いた。
「……アラン。愛しています。」
低く、それでいて柔らかく響いた声は、胸の奥深くに沁み渡り、痛みをも和らげるようだった。
何度も聞きたかった言葉。
けれど、こんなにも静かな響きで告げられるのは、初めてだった。
――ええ、私もです。
心はすぐにそう応じていた。
けれど声は、喉の奥で震えるだけで、もう言葉にはならなかった。
全身を蝕む倦怠が、音にする力を奪っていた。
そのもどかしさに胸が締め付けられる。
もっと早く、もっと幾度も、この言葉を伝えておくべきだったのだと、幾度も悔いた。
心のどこかで、彼はいまだに自分をシリウスの影と重ねているのではないか――そう思ったことはあった。
かつて、命を賭してまで愛してしまった男。
その存在が、自分の記憶に刻まれていることを、レギュラスは知っているだろう。
けれど、今。
自分の心の大部分を占めているのは、長い歳月を共に生き、憎しみも、苦悩も、誇りも背負い合ってきた、ただ一人の夫――レギュラス・ブラックだった。
思い返せば、彼はずっと変わらぬ想いで自分を愛してくれていた。
その真っ直ぐな愛情を、同じだけ返すことを、自分はあまりにも遅らせてしまった。
傷つける言葉を選んだ日も、冷たく背を向けた夜もあった。
シリウスと共に歩める未来を夢見て、叶わなかった過去を悔やんだこともあった。
けれど今は違う。
その全てを抱えた上で、それでもレギュラスを選び、彼の隣で生き抜いてきた自分の人生を、誇らしく思うのだ。
彼と共に過ごした日々こそが、自分の歩んできた人生の意味そのものだった。
――そのことを、伝えたい。
今すぐにでも、彼に。
余すことなく、言葉にして。
けれど声は、もう音にならない。
重たく沈む瞼は、深い灰色の瞳を捉えることさえ許してくれなかった。
再び閉じた闇の奥で、思い浮かぶのは、ひたむきに自分を愛し続けてくれた夫の姿。
その姿を思うと、自然に唇の端が緩み、微笑みが浮かんだ。
もし、この小さな人生をやり直せるなら――。
シリウスを想い続ける少女ではなく、最初からただレギュラスを見つめ、愛を惜しみなく注ぎ、共に支え合って生きていける未来を選びたい。
その未来を、切実に願ってやまなかった。
心の中で、ようやく紡がれる。
静かに、けれど力強く。
――レギュラス。私も、あなたを愛しています。
その言葉は声にならずとも、確かに胸の奥で燃え、彼の撫でる指先へと伝わっていった。
その日、空はあまりにも晴れ渡っていた。
まるで世界が母の死を知らぬふりをして、いつも通りの朝を迎えているようだった。
柔らかな光が屋敷の高窓から降り注ぎ、カーテンの隙間を縫って床の絨毯に模様を描く。
だが、そんな温かな陽射しが差し込んでいるというのに、ブラック家の屋敷は鉛のように重く、息をするたびに胸の奥が鈍く痛んだ。
母が――アランが息を引き取った。
セレナは、その現実を受け入れられずにいた。
泣くことも、叫ぶことも、何もできないまま、ただ立ち尽くしていた。
部屋に充満する沈黙が、やけに耳に痛い。
けれど、彼女の心を最も強く締めつけたのは、死の瞬間そのものではなかった。
それは――あの誇り高く、決して弱みを見せなかった父、レギュラス・ブラックが。
母の亡骸の傍で、深く頭を垂れ、何も言わずに肩を震わせていた光景だった。
かつて魔法界の権化とも呼ばれた男が、静かに膝を折り、ただ妻の頬に手を添えていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが軋み、セレナは息をするのも苦しくなった。
――父は、母にどれほどの愛を捧げていたのだろう。
その愛は、果たしてどこまで母に届いていたのだろうか。
そして、母の心にあった父への想いは、どこまでが愛で、どこからが諦めだったのだろう。
そんなことを考えると、涙が止まらなかった。
けれど、セレナは人前で涙を流すことを何よりも嫌った。
たとえ肉親であっても、弱みを見せるようなことはしたくなかった。
だから彼女は、誰もいない自室へと逃げ込み、静かに扉を閉めた。
そしてようやく――堪えていた涙が溢れ出した。
頬を伝う温かい雫は、次々と床に落ちていく。
肩が震え、嗚咽が漏れた。
この屋敷のどこにも、もうあの柔らかな声は響かない。
どれほど望んでも、優しく抱きしめてくれる腕は、もう存在しない。
母は――この世から、永遠にいなくなってしまった。
その喪失感は、まるで氷の刃のように胸を貫き、ゆっくりと、しかし確実にセレナを蝕んでいった。
兄・アルタイルは既に純血の妻を迎え、もう時期新たな命がこの屋敷に生まれるだろう。
母はそのことを心から喜んでいた。
病の床でさえ、息子の幸せを願って穏やかに微笑んでいた。
その表情を思い出すと、セレナの胸は少しだけ温かくなった――けれど、その温もりは次の瞬間、鋭い痛みに変わった。
母はもう、その幸福な未来を見届けることもできない。
彼女自身の笑顔を、誰も見られないのだ。
セレナ自身もまた、ホグワーツを卒業して間もなく、この国の王子のもとへ嫁ぐことが決まっている。
そして、自らが産む子が、性別を問わずこの国の王位を継ぐ。
それは、ブラック家の血を継ぐ者として、名誉と重責を背負う人生の始まりだった。
母はその知らせを聞いたとき、喜びと同時に「望みすぎてしまったのかもしれない」と小さく呟いていた。
だがセレナは違った。
――私は、誇り高き父と母の娘。
ブラック家の血を継ぐ者として、頂点に立つに相応しい。
与えられるべきものは、すべて受け取る。
それこそが、ブラックの名を背負う者の義務であり、誇りなのだ。
そう思っていた。
そう信じていた。
けれど本当は――母に、自分の生まれた意味を認めてもらいたかっただけなのかもしれない。
母が感じていたかもしれない報われぬ想いや、犠牲の記憶を、少しでも救いたかった。
だからこそ、母に我が子を抱かせたかった。
母が誇りをもって笑ってくれる姿を、この目で見たかった。
だが、その願いももう叶わない。
「……お母様は、幸せだったのかしら。」
声に出すと、胸の奥から何かが崩れ落ちるように感じた。
父に愛され、兄と自分を育て、そしてシリウス・ブラックへの想いを心の奥底に封じたまま――
屋敷に縛られ、どこにも行けぬまま、その生涯を閉じた。
そんな母を思うと、どうしても涙が止まらなかった。
そのとき、扉が軽くノックされた。
「セレナ、入りますよ。」
兄・アルタイルの声だった。
慌てて涙を拭い、深呼吸をして顔を上げる。
兄の前でだけは、弱い姿を見せたくなかった。
「泣いていないか心配でした。」
「お兄様こそ……目が赤いわ。」
そう言うと、アルタイルは静かに笑った。
その目元には、確かに涙の跡があった。
彼は涙を隠そうともしなかった。
その素直さ、真っすぐさが、セレナには少しだけ羨ましかった。
兄はいつだって、母の愛情をたっぷりと受けて育った。
母の手の温もりを知り、優しさに包まれてきた人。
けれど自分は――母が伏せるようになってから生まれた。
母の隣で過ごした幼少期の記憶はほとんどない。
だからかもしれない。
自分のこの強すぎる誇りや、他者を寄せつけない尊大さは、
幼い頃に抱いた「寂しさ」の裏返しなのだと、セレナはふと気づいた。
それでも、今だけは。
涙を隠し、誇りを守り抜く。
母の娘として、ブラック家の姫として。
セレナは静かに背筋を伸ばした。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「お母様……どうか安らかに。」
その言葉と共に、再び一筋の涙が頬を伝い、静かに光を受けて消えた。
アリスの耳に、アラン・ブラックの訃報が届いた。
その知らせは、まるで冬の冷たい風のように、静かに、しかし確実に心の奥まで凍りつかせた。
覚悟はしていた。
この日が、いつか必ず来ることを。
そして、心の奥底で覚悟していたはずなのに、実際にその現実を突きつけられると、胸の奥が鋭く裂けるようだった。
思い返すのは、最後に会ったあの日のこと。
あのときのアランは、かつて魔法法廷のカフェテラスで見た、柔らかく穏やかで、母のように慕ったあの笑顔とは似ても似つかぬ、痩せ細り、弱々しい姿だった。
その小さな身体の奥に潜む、かすかな生命の灯火に触れた瞬間、アリスは心のどこかで、もうすぐ訪れるであろう永遠の別れを、確かに予感していた。
ブラック家の屋敷に、花を送ろうかと考えたこともあった。
だが、手を止めた。
どれほど時が流れたとしても、アリスはあの荘厳な屋敷に、永遠に受け入れられることのない存在なのだという現実が、胸に重くのしかかっていた。
たとえアランがどれほど自分を愛してくれていたとしても。
たとえレギュラス・ブラックの血の誓いが込められたペンダントが胸元で揺れていたとしても。
――母。
呼ぶことすらできなかったその言葉を、胸の中でそっと唱えてみる。
その瞬間、涙が止めどなく溢れた。
どうしようもなく心にぽっかりと穴が空き、空虚さが体中を満たしていく。
痛いほどに、胸が締めつけられた。
「あの人がいたから、生きてこられた」
アリスの心に浮かぶのは、ただそれだけだった。
あの光――シリウスとアラン――二人の存在が、いつだって道標であり、生きる意味であり、希望そのものだった。
あの日、救われた瞬間から、ずっとそうだった。
だが、その二つの光は、もうこの世界に存在しない。
その事実があまりにも重く、胸の奥で何かが崩れ落ちる音が聞こえるようだった。
どこを頼りに生きていけばいいのか、アリスにはわからなかった。
それでも、彼女は思う。
この世界でたった一人の、自分の光であった二人の思いを、絶対に忘れない。
アランの慈愛深く、美しい心を。
シリウスの誇り高く、強く、揺るぎない意志を。
その記憶を胸に、アリスは歩き続ける。
二度と触れることのできない光に背を向けるのではなく、その光を抱き、受け継ぎ、未来へと繋いでいくために。
涙で滲む視界の向こうで、アリスはそっと誓った。
失った悲しみは消えなくとも、二人の残した輝きは、これからも自分を導く道標であり続けると。
そして、その光を、どんな困難の中でも絶やさず抱き続けていくのだと。
アルタイルは、父レギュラス・ブラックと並んで立っていた。
二人の前には、妻イザベラが丁寧に額装したアランの魔法写真が飾られている。
光の加減で、写真の中の母の瞳は今も生き生きと輝き、柔らかな微笑みが印象的だった。
レギュラスはしばらくその写真を見つめていた。
その眼差しには、深い寂しさと共に、過去の愛情の記憶が静かに宿っているようだった。
「いい写真を選んでくれたようですね」
父の声は穏やかで、長い沈黙を破るように柔らかく響いた。
アルタイルは自然と視線を写真に向ける。
「はい、僕が選んだものより、イザベラの選んだものの方が、母さんの美しさが引き立っていました」
少し冗談めかして答えたその言葉に、レギュラスはくすくすと笑う。
アルタイルの胸は、ほんの少し軽くなったように感じられた。
父が長い間、深い悲しみに沈み込み、そこから這い上がれないのではないかという不安が常にあった。
だから、こうして無理のない笑いが父の顔に浮かぶ瞬間が、どれほど安心をもたらすか、言葉にはできないほどだった。
母の肖像写真を見つめる父は、目の奥に静かな寂しさを漂わせていた。
その寂しさは、過去の記憶や愛情の残滓から来るものであり、決して言葉にすることのない、深く切ない感情の証だった。
「アルタイル、心配はいりませんよ」
レギュラスの声は優しく、しかし重みがあった。
アルタイルは咄嗟に手を振り、否定する。
「違います、父上、誤解です」
心の奥を読まれたようで、少し恥ずかしさと戸惑いが混ざった感覚が胸に広がった。
「無理はしないでください。それだけ言いたかったんです」
アルタイルは言葉を続け、そっと父に思いを伝える。
レギュラスは静かに頷き、柔らかな笑みを浮かべた。
「本当にお前は母さんの子ですね。僕よりもアランの内面を濃く受け継いでいます」
アルタイルの胸の奥に、小さな温もりが広がった。
母のようだと言われたことはほとんどなかった。
父によく似た容姿をもち、父の背中を追うように生きてきた自分は、いつの間にか母から受け継いだ部分が消え去ってしまったかのような喪失感を抱えていた。
しかし、今、父の口から自分の内面に母の面影が色濃く現れていると告げられたことで、アルタイルははっきりと確信した。
自分の中にも、母は確かに生き続けているのだと。
写真の中で微笑む母を眺め、アルタイルは静かに深呼吸した。
過去の悲しみや喪失感は消えない。だが、その中で母の存在が自分を支えていることを、確かに感じ取れた瞬間だった。
父の灰色の瞳に、少しだけ安心を見つけ、アルタイルはそっと微笑みを返す。
母の記憶と父の眼差しの中で、自分はこれからも生きていける――そう、静かに、しかし確実に心に刻み込んだのだった。
セレナ・ブラックは、ホグワーツを卒業するとすぐに、イングランド国の王子の元へと嫁いだ。
その結婚式は、国を挙げての盛大なものであり、数日にわたる宴が催されるほどの豪華さだった。
魔法界と王室の結びつきが正式に記録される瞬間であり、これから新たに刻まれる歴史の始まりでもあった。
ブラック家の長きにわたる栄華は、この日をもって大きな飛躍を遂げようとしていた。
花嫁は、誰よりも美しかった。
光の差し込む大聖堂の中、王子の隣に堂々と立つセレナの姿は、まさに目を奪われるほどの華やかさで、まるで光を纏っているかのようだった。
アルタイルやレギュラスの目には、かつて同じようにドレスを纏ったアランの姿が重なったが、それを超えるほどの輝きが、今ここにある娘の姿にあった。
群衆からあがる賞賛の声や祝福の声が、空気に華やかさと温かさをもたらす。
セレナはその声に応えるように、優雅に微笑み、手を振る。
その姿を見つめるレギュラスの胸には、満たされるような思いが広がった。
――もしアランが生きていて、この瞬間を見たなら、どんなに誇らしく、嬉しい気持ちで満たされたことだろうか。
その思いを胸に、レギュラスはふと、グラスを手に取り、セレナに向かって静かに言った。
「王妃様に、祝杯を」
セレナはわずかに照れくさそうに、よそよそしくグラスを傾ける。
「やめてください、お父様」
その声には微笑みが混じり、場の華やかさをさらに和らげるようだった。
レギュラスは娘の姿をじっと見つめる。
その姿の中には、母アランの面影よりも、自分の血が色濃く遺伝しているのではないかという確かな感覚があった。
尊大な自尊心、誇りを最も大切にする生き方――全てが、かつて自分が抱き続けてきた信念そのものだった。
生き写しのような娘の存在に、思わずレギュラスは微笑みを抑えきれなかった。
「セレナ、あなたはあまりにも僕に似ています。だから、一つだけアドバイスをしておきましょう」
「なんでしょう、お父様」
娘の頬に、かつて幼いころによく触れたように、そっと手を置く。
結婚式という華やかな場で、もう二度とこの仕草をすることはないのだろうと思うと、どこか切なさが胸をよぎった。
「時に、誇りを貫くよりも大切なものがあります。そのときは、遠慮なく捨てなさい。父も母も、お前の選択を誇りに思いますから」
セレナの瞳が、ほんの一瞬揺れる。
その言葉の意味がまだ腑に落ちなくても、それで構わない。
きっといつの日か、心の奥で自然と理解できる時が来るだろう。
その瞬間まで、頭の片隅にそっと置いておくだけでいい。
レギュラスは心の中で思った。
自分は、アランを愛し、愛し抜いて生きてきた。
純血だとか、ブラック家だとか、名誉や富を天秤にかけても、迷うことなくアランを選んだ自分の生き方を、決して間違いだとは思わない。
むしろ、たった一人の女性を愛し続けた自分の誇りを、胸を張って称えたいほどだった。
だからこそ、この日、セレナにも伝えたい。
人生において、大切なものを選び、守る勇気を持つことの尊さを。
自分たちが示した愛と誇りを、娘にも受け継いでほしいと、静かに、しかし確かに願った。
セレナの華やかなドレスの裾が揺れるたび、レギュラスの心には温かさと誇りが満ちていく。
そして、父と娘の間にある静かで深い絆が、王宮の輝きと同じように、確かに息づいていることを、彼は心から感じていた。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、白く痩せたアランの頬を淡く照らし出し、その横顔はまるで絵画のように儚く美しかった。
レギュラスはベッド脇の椅子に腰を下ろし、静かな呼吸に揺れる胸の上下をじっと見つめていた。
最近のアランは、魔法麻薬の影響で目覚めている時間がめっきり減ってしまった。
昼と夜の区別すら曖昧なほどに眠り続け、時折覚醒しても、長くはもたない。
先ほど医務魔女から告げられた言葉が耳にこびりついて離れない。
――アリスが帰った直後、アランはすぐに薬を服用した、と。
つまり彼女は、アリスにすべてを語り終えるまではと、自らの痛みと恐怖を耐え切っていたのだ。
レギュラスの胸に、鋭く重い棘のような悔恨が突き刺さった。
思い返せば、アランに強いたものはあまりにも多かった。
若き日に抱いたシリウスへの恋慕を諦めさせ、誇り高きブラック家に縛り付け、古く頑なな思想を共に背負わせた。
夢も、自由も、愛すらも、彼女から奪ってきたのは他ならぬ自分だった。
ただ「妻」という名の檻の中に閉じ込め、子供たちの母として生きることだけを望んだ。
その代償に、彼女の心と身体を削ってきたのではないか。
鼻の奥がつんと焼けるように痛み、こみ上げるものを抑えきれなくなる。
最近は常に酒の助けを借りていたせいか、涙腺も心も脆くなってしまったのだろう。
それでも、あの人の前では泣くまいと誓っていたはずだった。
その時、わずかに布が擦れる音がして、アランの長い睫毛が震え、翡翠の瞳がゆっくりと開いた。
淡く霞んだ視線がこちらを捉えた瞬間、レギュラスの胸に圧倒的な愛しさが弾ける。
痛みに似た感情が喉を締め付けるのに、心の奥からは耐えがたいほどの慈しみが溢れ出す。
彼女の髪を撫でていた手が、無意識に止まった。
薄く乾いた唇が息を吸い、名前を呼ぶよりも先に涙がこぼれそうになる。
「……アラン。愛しています。」
低く、震えを含んだ声が寝室に落ちた。
言葉にした瞬間、胸を抉るような痛みと同時に、溢れんばかりの真実が迸った。
アランは返事をしなかった。
ただ、わずかに口角を上げ、翡翠の瞳に柔らかな光を宿す。
声にはならない代わりに、その笑みが「わかっているわ」と告げているようだった。
レギュラスは喉奥に熱いものを詰まらせながら、その唇の形を目で追った。
伸ばした指先で、乾いた赤みを帯びた唇をそっとなぞる。
触れた瞬間、胸に押し寄せるのは罪と愛情の渦。
彼女はどれほどのものを奪われても、なお自分に微笑みを向けてくれる。
その事実に打ちのめされながらも、レギュラスはただ、アランの存在を確かめるように、震える手でその唇を撫で続けた。
――こんなにも愛しているのに、どうして自分は彼女を幸せにできなかったのだろう。
寝室に沈む静寂は、ふたりの心を絡めながら、永遠に解けない鎖のように深く重く降り積もっていった。
薄暗い寝室には、夜の静けさが濃く満ちていた。
遠くの時計の針が刻む音すらも、ここでは微かにしか届かず、ただ二人だけの世界が静止したように続いていた。
レギュラスの指先が、途切れることなくアランの髪を撫でている。
その動きは驚くほどに優しく、まるで壊れ物を扱うように繊細で、また祈るように必死でもあった。
細く痩せた身体を横たえるアランの意識は、夢と現実の境を揺らめきながら漂っていた。
しかし、その声だけははっきりと耳に届いた。
「……アラン。愛しています。」
低く、それでいて柔らかく響いた声は、胸の奥深くに沁み渡り、痛みをも和らげるようだった。
何度も聞きたかった言葉。
けれど、こんなにも静かな響きで告げられるのは、初めてだった。
――ええ、私もです。
心はすぐにそう応じていた。
けれど声は、喉の奥で震えるだけで、もう言葉にはならなかった。
全身を蝕む倦怠が、音にする力を奪っていた。
そのもどかしさに胸が締め付けられる。
もっと早く、もっと幾度も、この言葉を伝えておくべきだったのだと、幾度も悔いた。
心のどこかで、彼はいまだに自分をシリウスの影と重ねているのではないか――そう思ったことはあった。
かつて、命を賭してまで愛してしまった男。
その存在が、自分の記憶に刻まれていることを、レギュラスは知っているだろう。
けれど、今。
自分の心の大部分を占めているのは、長い歳月を共に生き、憎しみも、苦悩も、誇りも背負い合ってきた、ただ一人の夫――レギュラス・ブラックだった。
思い返せば、彼はずっと変わらぬ想いで自分を愛してくれていた。
その真っ直ぐな愛情を、同じだけ返すことを、自分はあまりにも遅らせてしまった。
傷つける言葉を選んだ日も、冷たく背を向けた夜もあった。
シリウスと共に歩める未来を夢見て、叶わなかった過去を悔やんだこともあった。
けれど今は違う。
その全てを抱えた上で、それでもレギュラスを選び、彼の隣で生き抜いてきた自分の人生を、誇らしく思うのだ。
彼と共に過ごした日々こそが、自分の歩んできた人生の意味そのものだった。
――そのことを、伝えたい。
今すぐにでも、彼に。
余すことなく、言葉にして。
けれど声は、もう音にならない。
重たく沈む瞼は、深い灰色の瞳を捉えることさえ許してくれなかった。
再び閉じた闇の奥で、思い浮かぶのは、ひたむきに自分を愛し続けてくれた夫の姿。
その姿を思うと、自然に唇の端が緩み、微笑みが浮かんだ。
もし、この小さな人生をやり直せるなら――。
シリウスを想い続ける少女ではなく、最初からただレギュラスを見つめ、愛を惜しみなく注ぎ、共に支え合って生きていける未来を選びたい。
その未来を、切実に願ってやまなかった。
心の中で、ようやく紡がれる。
静かに、けれど力強く。
――レギュラス。私も、あなたを愛しています。
その言葉は声にならずとも、確かに胸の奥で燃え、彼の撫でる指先へと伝わっていった。
その日、空はあまりにも晴れ渡っていた。
まるで世界が母の死を知らぬふりをして、いつも通りの朝を迎えているようだった。
柔らかな光が屋敷の高窓から降り注ぎ、カーテンの隙間を縫って床の絨毯に模様を描く。
だが、そんな温かな陽射しが差し込んでいるというのに、ブラック家の屋敷は鉛のように重く、息をするたびに胸の奥が鈍く痛んだ。
母が――アランが息を引き取った。
セレナは、その現実を受け入れられずにいた。
泣くことも、叫ぶことも、何もできないまま、ただ立ち尽くしていた。
部屋に充満する沈黙が、やけに耳に痛い。
けれど、彼女の心を最も強く締めつけたのは、死の瞬間そのものではなかった。
それは――あの誇り高く、決して弱みを見せなかった父、レギュラス・ブラックが。
母の亡骸の傍で、深く頭を垂れ、何も言わずに肩を震わせていた光景だった。
かつて魔法界の権化とも呼ばれた男が、静かに膝を折り、ただ妻の頬に手を添えていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが軋み、セレナは息をするのも苦しくなった。
――父は、母にどれほどの愛を捧げていたのだろう。
その愛は、果たしてどこまで母に届いていたのだろうか。
そして、母の心にあった父への想いは、どこまでが愛で、どこからが諦めだったのだろう。
そんなことを考えると、涙が止まらなかった。
けれど、セレナは人前で涙を流すことを何よりも嫌った。
たとえ肉親であっても、弱みを見せるようなことはしたくなかった。
だから彼女は、誰もいない自室へと逃げ込み、静かに扉を閉めた。
そしてようやく――堪えていた涙が溢れ出した。
頬を伝う温かい雫は、次々と床に落ちていく。
肩が震え、嗚咽が漏れた。
この屋敷のどこにも、もうあの柔らかな声は響かない。
どれほど望んでも、優しく抱きしめてくれる腕は、もう存在しない。
母は――この世から、永遠にいなくなってしまった。
その喪失感は、まるで氷の刃のように胸を貫き、ゆっくりと、しかし確実にセレナを蝕んでいった。
兄・アルタイルは既に純血の妻を迎え、もう時期新たな命がこの屋敷に生まれるだろう。
母はそのことを心から喜んでいた。
病の床でさえ、息子の幸せを願って穏やかに微笑んでいた。
その表情を思い出すと、セレナの胸は少しだけ温かくなった――けれど、その温もりは次の瞬間、鋭い痛みに変わった。
母はもう、その幸福な未来を見届けることもできない。
彼女自身の笑顔を、誰も見られないのだ。
セレナ自身もまた、ホグワーツを卒業して間もなく、この国の王子のもとへ嫁ぐことが決まっている。
そして、自らが産む子が、性別を問わずこの国の王位を継ぐ。
それは、ブラック家の血を継ぐ者として、名誉と重責を背負う人生の始まりだった。
母はその知らせを聞いたとき、喜びと同時に「望みすぎてしまったのかもしれない」と小さく呟いていた。
だがセレナは違った。
――私は、誇り高き父と母の娘。
ブラック家の血を継ぐ者として、頂点に立つに相応しい。
与えられるべきものは、すべて受け取る。
それこそが、ブラックの名を背負う者の義務であり、誇りなのだ。
そう思っていた。
そう信じていた。
けれど本当は――母に、自分の生まれた意味を認めてもらいたかっただけなのかもしれない。
母が感じていたかもしれない報われぬ想いや、犠牲の記憶を、少しでも救いたかった。
だからこそ、母に我が子を抱かせたかった。
母が誇りをもって笑ってくれる姿を、この目で見たかった。
だが、その願いももう叶わない。
「……お母様は、幸せだったのかしら。」
声に出すと、胸の奥から何かが崩れ落ちるように感じた。
父に愛され、兄と自分を育て、そしてシリウス・ブラックへの想いを心の奥底に封じたまま――
屋敷に縛られ、どこにも行けぬまま、その生涯を閉じた。
そんな母を思うと、どうしても涙が止まらなかった。
そのとき、扉が軽くノックされた。
「セレナ、入りますよ。」
兄・アルタイルの声だった。
慌てて涙を拭い、深呼吸をして顔を上げる。
兄の前でだけは、弱い姿を見せたくなかった。
「泣いていないか心配でした。」
「お兄様こそ……目が赤いわ。」
そう言うと、アルタイルは静かに笑った。
その目元には、確かに涙の跡があった。
彼は涙を隠そうともしなかった。
その素直さ、真っすぐさが、セレナには少しだけ羨ましかった。
兄はいつだって、母の愛情をたっぷりと受けて育った。
母の手の温もりを知り、優しさに包まれてきた人。
けれど自分は――母が伏せるようになってから生まれた。
母の隣で過ごした幼少期の記憶はほとんどない。
だからかもしれない。
自分のこの強すぎる誇りや、他者を寄せつけない尊大さは、
幼い頃に抱いた「寂しさ」の裏返しなのだと、セレナはふと気づいた。
それでも、今だけは。
涙を隠し、誇りを守り抜く。
母の娘として、ブラック家の姫として。
セレナは静かに背筋を伸ばした。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「お母様……どうか安らかに。」
その言葉と共に、再び一筋の涙が頬を伝い、静かに光を受けて消えた。
アリスの耳に、アラン・ブラックの訃報が届いた。
その知らせは、まるで冬の冷たい風のように、静かに、しかし確実に心の奥まで凍りつかせた。
覚悟はしていた。
この日が、いつか必ず来ることを。
そして、心の奥底で覚悟していたはずなのに、実際にその現実を突きつけられると、胸の奥が鋭く裂けるようだった。
思い返すのは、最後に会ったあの日のこと。
あのときのアランは、かつて魔法法廷のカフェテラスで見た、柔らかく穏やかで、母のように慕ったあの笑顔とは似ても似つかぬ、痩せ細り、弱々しい姿だった。
その小さな身体の奥に潜む、かすかな生命の灯火に触れた瞬間、アリスは心のどこかで、もうすぐ訪れるであろう永遠の別れを、確かに予感していた。
ブラック家の屋敷に、花を送ろうかと考えたこともあった。
だが、手を止めた。
どれほど時が流れたとしても、アリスはあの荘厳な屋敷に、永遠に受け入れられることのない存在なのだという現実が、胸に重くのしかかっていた。
たとえアランがどれほど自分を愛してくれていたとしても。
たとえレギュラス・ブラックの血の誓いが込められたペンダントが胸元で揺れていたとしても。
――母。
呼ぶことすらできなかったその言葉を、胸の中でそっと唱えてみる。
その瞬間、涙が止めどなく溢れた。
どうしようもなく心にぽっかりと穴が空き、空虚さが体中を満たしていく。
痛いほどに、胸が締めつけられた。
「あの人がいたから、生きてこられた」
アリスの心に浮かぶのは、ただそれだけだった。
あの光――シリウスとアラン――二人の存在が、いつだって道標であり、生きる意味であり、希望そのものだった。
あの日、救われた瞬間から、ずっとそうだった。
だが、その二つの光は、もうこの世界に存在しない。
その事実があまりにも重く、胸の奥で何かが崩れ落ちる音が聞こえるようだった。
どこを頼りに生きていけばいいのか、アリスにはわからなかった。
それでも、彼女は思う。
この世界でたった一人の、自分の光であった二人の思いを、絶対に忘れない。
アランの慈愛深く、美しい心を。
シリウスの誇り高く、強く、揺るぎない意志を。
その記憶を胸に、アリスは歩き続ける。
二度と触れることのできない光に背を向けるのではなく、その光を抱き、受け継ぎ、未来へと繋いでいくために。
涙で滲む視界の向こうで、アリスはそっと誓った。
失った悲しみは消えなくとも、二人の残した輝きは、これからも自分を導く道標であり続けると。
そして、その光を、どんな困難の中でも絶やさず抱き続けていくのだと。
アルタイルは、父レギュラス・ブラックと並んで立っていた。
二人の前には、妻イザベラが丁寧に額装したアランの魔法写真が飾られている。
光の加減で、写真の中の母の瞳は今も生き生きと輝き、柔らかな微笑みが印象的だった。
レギュラスはしばらくその写真を見つめていた。
その眼差しには、深い寂しさと共に、過去の愛情の記憶が静かに宿っているようだった。
「いい写真を選んでくれたようですね」
父の声は穏やかで、長い沈黙を破るように柔らかく響いた。
アルタイルは自然と視線を写真に向ける。
「はい、僕が選んだものより、イザベラの選んだものの方が、母さんの美しさが引き立っていました」
少し冗談めかして答えたその言葉に、レギュラスはくすくすと笑う。
アルタイルの胸は、ほんの少し軽くなったように感じられた。
父が長い間、深い悲しみに沈み込み、そこから這い上がれないのではないかという不安が常にあった。
だから、こうして無理のない笑いが父の顔に浮かぶ瞬間が、どれほど安心をもたらすか、言葉にはできないほどだった。
母の肖像写真を見つめる父は、目の奥に静かな寂しさを漂わせていた。
その寂しさは、過去の記憶や愛情の残滓から来るものであり、決して言葉にすることのない、深く切ない感情の証だった。
「アルタイル、心配はいりませんよ」
レギュラスの声は優しく、しかし重みがあった。
アルタイルは咄嗟に手を振り、否定する。
「違います、父上、誤解です」
心の奥を読まれたようで、少し恥ずかしさと戸惑いが混ざった感覚が胸に広がった。
「無理はしないでください。それだけ言いたかったんです」
アルタイルは言葉を続け、そっと父に思いを伝える。
レギュラスは静かに頷き、柔らかな笑みを浮かべた。
「本当にお前は母さんの子ですね。僕よりもアランの内面を濃く受け継いでいます」
アルタイルの胸の奥に、小さな温もりが広がった。
母のようだと言われたことはほとんどなかった。
父によく似た容姿をもち、父の背中を追うように生きてきた自分は、いつの間にか母から受け継いだ部分が消え去ってしまったかのような喪失感を抱えていた。
しかし、今、父の口から自分の内面に母の面影が色濃く現れていると告げられたことで、アルタイルははっきりと確信した。
自分の中にも、母は確かに生き続けているのだと。
写真の中で微笑む母を眺め、アルタイルは静かに深呼吸した。
過去の悲しみや喪失感は消えない。だが、その中で母の存在が自分を支えていることを、確かに感じ取れた瞬間だった。
父の灰色の瞳に、少しだけ安心を見つけ、アルタイルはそっと微笑みを返す。
母の記憶と父の眼差しの中で、自分はこれからも生きていける――そう、静かに、しかし確実に心に刻み込んだのだった。
セレナ・ブラックは、ホグワーツを卒業するとすぐに、イングランド国の王子の元へと嫁いだ。
その結婚式は、国を挙げての盛大なものであり、数日にわたる宴が催されるほどの豪華さだった。
魔法界と王室の結びつきが正式に記録される瞬間であり、これから新たに刻まれる歴史の始まりでもあった。
ブラック家の長きにわたる栄華は、この日をもって大きな飛躍を遂げようとしていた。
花嫁は、誰よりも美しかった。
光の差し込む大聖堂の中、王子の隣に堂々と立つセレナの姿は、まさに目を奪われるほどの華やかさで、まるで光を纏っているかのようだった。
アルタイルやレギュラスの目には、かつて同じようにドレスを纏ったアランの姿が重なったが、それを超えるほどの輝きが、今ここにある娘の姿にあった。
群衆からあがる賞賛の声や祝福の声が、空気に華やかさと温かさをもたらす。
セレナはその声に応えるように、優雅に微笑み、手を振る。
その姿を見つめるレギュラスの胸には、満たされるような思いが広がった。
――もしアランが生きていて、この瞬間を見たなら、どんなに誇らしく、嬉しい気持ちで満たされたことだろうか。
その思いを胸に、レギュラスはふと、グラスを手に取り、セレナに向かって静かに言った。
「王妃様に、祝杯を」
セレナはわずかに照れくさそうに、よそよそしくグラスを傾ける。
「やめてください、お父様」
その声には微笑みが混じり、場の華やかさをさらに和らげるようだった。
レギュラスは娘の姿をじっと見つめる。
その姿の中には、母アランの面影よりも、自分の血が色濃く遺伝しているのではないかという確かな感覚があった。
尊大な自尊心、誇りを最も大切にする生き方――全てが、かつて自分が抱き続けてきた信念そのものだった。
生き写しのような娘の存在に、思わずレギュラスは微笑みを抑えきれなかった。
「セレナ、あなたはあまりにも僕に似ています。だから、一つだけアドバイスをしておきましょう」
「なんでしょう、お父様」
娘の頬に、かつて幼いころによく触れたように、そっと手を置く。
結婚式という華やかな場で、もう二度とこの仕草をすることはないのだろうと思うと、どこか切なさが胸をよぎった。
「時に、誇りを貫くよりも大切なものがあります。そのときは、遠慮なく捨てなさい。父も母も、お前の選択を誇りに思いますから」
セレナの瞳が、ほんの一瞬揺れる。
その言葉の意味がまだ腑に落ちなくても、それで構わない。
きっといつの日か、心の奥で自然と理解できる時が来るだろう。
その瞬間まで、頭の片隅にそっと置いておくだけでいい。
レギュラスは心の中で思った。
自分は、アランを愛し、愛し抜いて生きてきた。
純血だとか、ブラック家だとか、名誉や富を天秤にかけても、迷うことなくアランを選んだ自分の生き方を、決して間違いだとは思わない。
むしろ、たった一人の女性を愛し続けた自分の誇りを、胸を張って称えたいほどだった。
だからこそ、この日、セレナにも伝えたい。
人生において、大切なものを選び、守る勇気を持つことの尊さを。
自分たちが示した愛と誇りを、娘にも受け継いでほしいと、静かに、しかし確かに願った。
セレナの華やかなドレスの裾が揺れるたび、レギュラスの心には温かさと誇りが満ちていく。
そして、父と娘の間にある静かで深い絆が、王宮の輝きと同じように、確かに息づいていることを、彼は心から感じていた。
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